柳田國男著「山の人生」から


若狭の八百比丘尼は本国小浜の或神社の中に、玉椿の花をてにもつた木像を安置して居るのみでは無い。北国は申

すに及ばず、*注1東は関東の各地から、西は中国四国の方々の田舎に、比尼が巡遊したと伝ふる故跡は数多く、大抵は樹

を栽ゑ神を祭り、時としては塚を築き石を立てゝ居る。それが単なる偶合で無かつたと思ふことは、どうして其の様に

長命をしたかの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈絡がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、曾て巡国を

して来たことはあつたので、其特色は驚くべき高齢を称しつゝ、しかも顔色の若々しかつた点にあつたのである。人

は随分と白髪の皺だらけの顔をして居ても、八百と謂へば嘘だと思はぬ者は無いであろうに、兎に角に之を信ぜしめ

るだけの、術だか力だかは持つて居たのである。それが一人かはた幾人もあつたのかは別として、京都の地へも文安

から宝徳の頃に、長寿の尼が若狭から遣って来て、毎日多くの市民に拝まれたことは、*注2臥雲日件録にも書いてあれば、

又康冨記などにもちやんと日記として載せてあるから、それを疑ふことはできないのである。尤も此の時代は七百歳の

車僧のやうに、長生を評判にする風は流行であつた。然らば何か我々の想像し得ない方法が、之を証明して居たのか

も知れぬが、何にしても平家物語や義経記の非常な普及が、始めて普通人に年代の智識と、回顧趣味とを鼓吹したの

は此の時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴の為に、大なる武器であつたことゝ思ふ。たゞ自分たちの想像では、単

なる作り事では是迄に人は欺き得ない。或は尼自身も特殊の心理から、自分が其様な古い嫗であることを信じ、まの

あたり義経弁慶一行の北国通過を、見て居たやうにも感じて居た故に、其の言ふことが強い印象と為つたのでは無か

ろうか。越中立山の口碑では、結界を破つて霊峰に登ろうとした女性の名を、若狭の登宇呂の姥と呼んで居る。若し

此類の山で修行した巫女が自身にさういふ長命を信じて居る習ひであつたら、後に説かうとする日向小菅獄の山女が、

山に入つて数百年を経たと人に語つたといふのも、必ずしも作り話では無いことになるのである。やたらに人の不誠

実を疑ふにも及ばぬのである。


*注1
大宮市櫛引の観音堂の前に槻(欅)の木が二本あった。「神願木」と呼ばれ、むかし八百比丘尼の植ゑたものといふ。
母乳の乏しい女が祈祷すれば霊験ありといはれた。

*注2
「臥雲日件録」文安六年七月二十六日
「最近、八百歳の老尼が若狭からやってきた。都の者は争って見ようとするが、堅く門戸を閉ざしてたやすく見せようとしない。
金持は百銭、貧乏人は十銭出さなければ、門から入れてくれないようだ」


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