正面中ほどから。そのすぐ向こうは急斜面。それこそ小さな山みたいなものである。
八幡神社から星美学園にかけて古代の遺跡が発見されてますが、ここの斜面にも奈良、平安時代の横穴墓郡がある。


『昔この比丘尼の父、山中にして異人に逢ひ、招かれて隠れ里に到る。人魚の肉を饗せられて敢えて食はず、之を
袖にして還り来るを、其女食ひて長寿なりと謂つて居る』柳田國男著「雪国の春」から
「朱の色をした魚の肉、ニンカン、人羹、仁羹、感人羹」いずれも人魚の肉の名として紹介している。
「八百比丘尼伝説」は諸所に変形粉飾され残っているようだ。ここ堂山も昔東京湾に面していたからだろうか。

柳田國男氏には「八百比丘尼」を取り上げた考察があるので興味のある方はそちらへ。「自信か他信か」へ。
(要約しようとしたのですが、氏独特の語り口を省いては理解しがたいところがあるので長文になる。)

『 庚申は要するに夜話の晩であった。終夜寝ないで話をする為に、村の人の集まる晩なのである。即ち人魚を
食つたといふ長命の女の奇蹟を、発揮し宣伝するには最も適したのが、庚申講の夜であつたのである。其の話を
さも事新しく、成るべく知つた人の多く居らぬ土地へ、斯うして持つて来ようといふ考えの者が、昔もあつたこ
とだけは想像せられる。』  これも同じく「雪国の春」から。


阿弥陀堂があったと云われる堂の土台。


手前の建物は満蔵院、少し行った先には真頂院。そして鉄橋の向こうに善光寺が連なっている。
風土記に記された阿弥陀堂(善光寺)を一読するのも無駄なことではないでしょう。風土記の筆者も戸惑っている様子が伺える。

        『竪四十間 横三十間 面積千二百十二坪 町の西南にあり*建久三年再建す 中興開山を定尊沙門と云ふ 善光寺平等山阿弥陀院と号す
         堂領十石の御朱印を賜ふ 此堂の*濫觴は僧定尊なるもの信濃国善光寺に安置する*弥陀の告により建久六年五月十五日三尊の弥陀
         を模鋳す後当所に来り此堂宇を建立して善光寺に模し模像の弥陀を安すと云 されば定尊を開山とせり此僧は尾張国熱田の佳人南
         條左京亮経郷の三男にして幼名を大治丸と号す六才の時出家し承元四年七月十六日八十五才にして示寂す其後は横曽根村吉祥院
         豊島群真頂院より僧一人づつを置て此堂を守りしか何の頃か各一寺を開きて別当と定む今の*東明院西善院の二ヶ寺是なりと云又
         或説に古は川口寺といひしを何の頃か信濃国善光寺にまかふべしとて善光寺とは改めしといへり当寺中興開山を一容と云元文二年
         閏十一月二十八日寂せり もしくは此一容が時善光寺と改めて附会せしにやされと証なければ姑く疑を存す 本尊一光三尊の弥陀則
         定尊の作なり又別に同像を作りて其前に安す其中尊の胎中に弘法大師の作なる弥陀を納む其余堂中に定尊の像空也上人本田善光善
         亮弥生前等の像を置又三尊の弥陀を安すこれ一容か作と云』

          *は意味などの注
          建久       ・・・土御門天皇朝の年号。(1190.4.11〜1199.4.27)
          濫觴(らんしょう)・・・物事の起源。
          弥陀       ・・・阿弥陀の略。
          東明院西善院   ・・・東明院 新義真言宗西京御室仁和寺の末派 西善院 新義真言宗横曽根村吉祥院の末派 両寺とも現存していないと思われる。


「建久三年再建す」とあるが *「吉祥院」も幾度となく荒川の氾濫に会い現在の場所に落ち着いたことを考えると、
この寺も荒川に近いから被害に会い、再建したと考えても良いだろう。それが怪しげな説が起こった一因ではなかろうか。

*「吉祥院」・・・村の南方にあり新義真言宗川口町錫杖寺の末派なり文明ニ年(1471年 室町中期)再建す。
ここにも「再建す」という表現が使われている。現在の場所に移った経緯などは「吉祥院」のHPに詳しい。
吉祥院には浮間から寺子屋として通ったということから考えると今の場所からだいぶ南に下ったところに在ったと想像される。
その吉祥院のHPの「すでに荒川(旧入間川)の清域に堂宇が建立されて」いたという言葉も気になる。
旧入間川の流れの様子を伝えているのではないかと。

ひとつ気になったのが「川口 吉祥院」で検索(google)して本来一位にあるべき吉祥院のHPが一位でないのはこれまたいかに。
内容、実力の伴わない流行歌手がもてはやされることもままある、それが時代というものならそれもいいだろう。

「定尊」が亡くなったのが1211年、「一容」が亡くなったのが1738年、存命百年としても「一容」が再建、
あるいは開山するまで四百年余の時を経ていたのである。その間、荒川の氾濫の被害に会い再建を繰り返したと考え
てもいいのではないだろうか。下世話な話だが再建費用が気になるところ。相当な後楯が必要だったのではなかろうか。
何度か改宗しているようであるが、そこらあたりに原因がありそうな気がしているのだが、なんともいえない。




建て替えられる前に荒川大橋下から撮ったもの。今は土手の向こう側、一段と高い所に建てられている。
善光寺前の一帯の川は荒川放水路を通すために川幅を広げられたが旧荒川。



「江戸名所図絵」の善光寺、以外にも有名だったことがわかる。
今でこそ交通が便利になり距離感が変わってしまったが、江戸の郊外であったことも考えねばならない。

「浮間2」で紹介した小豆沢の庚申塔の側面に中仙道から迂回する「ぜんかふじ道」と刻まれたのも納得できる。
中央白い部分は荒川かもしれない。その上の道、武蔵野台地を削ったような道は「ぜんかふじ道」だろうか。
だとしたら右手に低く広がるのは浮間なのだが。

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