左の地図は大正14年(1925)に発行された地図。浮間が岩渕町(東京府)に併合される一年前。
(枠の付いた写真は別窓で拡大されます。)
江戸時代は浮間村と呼ばれ、武蔵国足立郡に属し、明治元年、武蔵県知事に属す、
明治二十二年、埼玉県北足立郡横曽根村大字浮間村となる(飯塚村、浮間村、横曽根村が合併 北区では浮間以外は豊島郡に属していた)。
左の写真は浮間公園内の水生植物園にある測量点のようなコンクリートの杭。
本題はこの水生にある四つの杭なのだが、現在の地図上の板橋と北区の区界は浮間ヶ池の
真中にあり北にゴルフ場を横切って埼玉県と接している。
詳細は別窓で。
川口市にある横曽根神社に行く手前にある案内板。
案内板の右端を注目してください。《妙仙寺浮間通り》と書かれています。
《川口市浮間ゴルフ場》荒川の改修のとき浮間ヶ原の一部が荒川で分断されたので浮間の名が残されたのでは。
「武蔵國群村誌」の川口町には『源内池』村の南方荒川堤外にあり、とある。その池がこの釣堀と化した池なのかは不明。
荒川の開削により現在の場所に移された北向き地蔵。
その真向かいにあるのが、横曽根の渡し(川口市浮間ゴルフ場近辺 右の写真)。大正13年、荒川方水路の通水により横曽根村との地続きが分断されてからこの渡しを利用するようになったのか。
両方とも川口市飯原町の土手のすぐそばの写真。
右の写真、謂れなど見あたらず不明。残念。大きさは浮間の北向き地蔵の半分ほどで、年代を感じさせる。
右の写真の庚申塔(右の石像)右側面に刻まれた文字。武州足立郡戸田領 横曽根村 講中三拾人。
左の裏の写真 浮間の水塚 右裏 庚申塔側面
『嬰児(みどりご)の平安を祈る大な岩が有つて、其(それ)は単に岩神(いはがみ)とのみ呼ばれて居た。生れた子を岩の前へ連れて来て拝ませると、
必(かならず)長寿堅固なるべしと信ぜられ、近郷から詣(まゐ)る者が多かつた。或(あるひ)は子無き者、此(この)石に祷(いの)れば子を得(う)ると云(い)ふ説もあつた。
即(すなわち)天然の石其物(そのもの)を拝したので、岩にして神なるが故に岩神とは云つたのであるが、子安(こやす)と称する古来の信仰は正に是(これ)であつた。』
『且(かつは)人の親の心の闇が、時代にも文明にも破られないものなることを示す』
柳田国男著 筑摩書房 「子安神の変遷」より
左 川口の善光寺近くの土手に、墓石などが散在した中にある子安地蔵。縁もゆかりも無い台座にのせられ、村境があった荒川に向けられているは、自然なる人の所為からか。
右 浮間の子育(こそだて)地蔵(左下に見えるのは廻国塔です。キリーク、銘文などから浮間渡にある廻国塔と同じ造立者でしょう。元の造立地は不明。)
下中央の写真 新荒川大橋からすぐ下流の場所
写真奥 岩淵水門
正面、奥から先はなにも遮るものがなくそのまま空なのだ。
周りは木々に囲まれ、小さな丘とはとても想像もつかない。正面から中程の阿弥陀堂があったと思われる処を右に迂回し、
二、三メートル登ると頂上にでる。荒川の鉄橋が見えるから意外と高い。
正面右の地蔵には、武州豊嶋郡岩淵領袋村とある(銘そのまま)。
赤羽台地から一つぽつんと引き離された様からか、水溢から免れるのを祈ってか、ここには八百比丘尼伝説が残されているという。
ここから荒川を越えたむこうに善光寺がある。昔は阿弥陀堂と呼ばれていたという。あながちここの阿弥陀堂と関係がないとはいいきれない。
『赤羽北の守倉(ごくら)稲荷のものには近隣十数ヶ村の名主とその結衆名があり、念仏講の指導層として名主の存在を示している。』
その十数ヶ村とは、袋村、本宿村(岩淵)、赤羽村、稲付村、神谷村、中(?後刻か)村、落合村、蓮沼村、根葉村(のち上蓮沼と根葉は併合して蓮根となる)、志村、<銘欠落>。
『大衆が多数一ヵ所に集まって念仏を斉唱するためには、どうしてもその念仏に節付けが必要となり、・・・北区浮間等にかつてあった観音講が、
太鼓を鳴らして経文を読んだなど、この大念仏の影響とも考えられる。』
芦田正次郎 著 『仏教信仰の研究と課題』より
ムラさんのページ石仏ネットワーク《http://www2q.biglobe.ne.jp/~nakamura/ukima.htm"》に浮間の庚申塔
を取り上げられ、写真(ムラさんのページから転載させていただきました。)の四文字を問われていたので浮間の住民としては見逃すわけにはいかず紹介したいとおもいます。
まずは、芦田正次郎氏 担当執筆「石仏研究の基礎知識」(『石仏研究ハンドブック』より)から引用『異体字の読み方 ほとんど記号化されるまでに字画を省略したもの(「カ」から「ノ」をとってくずしたような文字を「事」と
表しているものや、「ホ」をくずしたようなもので「等」を表しているものなど)。前後の関係で判読する。 造立者銘は、「施主」「願主」「世話人」等と記され、個人銘と集団銘がある。』
右の行はムラさんが指摘されていたように「施主」でいいとおもいます。「主」の上の文字は「施」の「也」をくずしたか(へんにあたるところ)、「世」をくずして(つくりにあたるところ)同じ発音の「セ」として両方あわせたか、判断はむずかしいですね。
関連がわからなくなるほどくずしてはいないことがわかるとおもいます。では何故わざわざこのような文字を彫ったのか、芦田正次郎氏も指摘されているように弘法大師の書写した仏典の中にみられる、「ササ菩薩」の影響がつよくおもわれてしかたがないのですが。
つぎの二文字は、地元の人ならこの像を「笠屋庚申」と承知していますから、ピンとくるはずです。
ムラさんのページには浮間の渡し跡の石仏も詳しく紹介されています。
左の写真 20階建ての都民住宅と土手に挟まれた道路。話題は駐車違反防止用のブロック溝?ではなく、この道路の不自然な起伏です。浮間全体のどの道路をみても平坦です。
水塚の跡とも考えられるのですが、集落からかけ離れているので考えにくい。推理する糸口はこのあたりに川口まで通じていた川堀があったということ。(詳細は《手書きによる地図》を参照してください。)土盛の向こう側に川堀があったのか、こちら側にあったのか、それとも
土盛を挟むように二つの川堀があったのか、いずれにせよ増水したときの備えのために盛られたと思われます。
ふたたび「ムラさんのページ」(ムラさんをだしにして申し訳ありません)浮間渡船跡の青面金剛に刻まれた石工名の疑問《蓮沼村 石工 清八 この後の 小石川 久五□(□は漏のサンズイをとったもの)が不明とのこと》右の写真からヒントを。武蔵野台地を侵食した川に見えて。要点だけを。
右は、袋村と小豆沢村との境にある青面金剛(しょうめんこんごう)。浮間渡しの対岸 路傍
二つともいわゆる「村ざかい」にあるのですが、(現在では神社の境内、寺院の門前、縁のある方の一隅などに集められていることが多い)
村ざかいに限らず、その造立された村内の辻、丁字路、三つ又、四つ辻、境内には村人が集まり、遠方の来訪者が休み、市などが開催される所でもあった。
像容や「三尸(さんし)」の説など興味ある方は別窓の拡大版へ。
荒川放水路が浮間の手前までせまり、横曽根、飯塚村と浮間が分断される様子がわかります。
荒川放水路(現荒川)ができたため、大正十五年、東京府北豊島郡岩渕町大字浮間となった。
かつて、低湿地とはいえ川口と地続きだったことを思うと、興味深い。
この杭は赤羽ゴルフ倶楽部に向かって二個と土手に向かって二個、合計四個ある。
左の写真は野球場裏にある。方位標と書かれているがどうも意味がよく分からない。
手元に昔の地図がある。昔といっても1995年に発行された地図だからそう古くはないが
現在の行政区分上の区界と県境とは違っている。この四つの杭もそれに関係しているようだ。
この通りは妙仙寺がある、川口6から飯塚3まで一直線に下り、浮間の北東部に続いていたと想像できます。
妙仙寺と浮間をつないでいたので、この名が付けられたのでは?
「川口市浮間ゴルフ場」からその名前の由来を教えていただきました。もともとは『浮間ヶ原ゴルフ場』があった場所に「マツダゴルフ」が戦中戦後はゴルフどころではなかったのでしょう。
田畑に開墾された痕に「浮間ゴルフリンクス」というゴルフ場を造り、昭和58年に川口市が経営形態を改め現在に至ったとのことです。名前の由来は『浮間ヶ原』から。それは名前の珍しさだけからではないでしょう。
桜草の群生地であった浮間ヶ原、とりわけ有名だったという浮間橋周辺の桜草が川口周辺にまで広がっていたとならば明治から昭和初期まで行楽地として賑わったというのも納得できる。
左の写真は川口市浮間ゴルフ場先の荒川運動公園にある池から浮間方面を撮影。
中央の木の下にある祠が右の写真。
「浮」と弁財天の「辨」の間にある文字をどう読んだらいいものか、「富」のような「守」のようにも見える。
意味上「浮間辨才天」が妥当なのですが、「間」が納得いかず「くずし字解読辞典 東京堂出版 児玉幸多 編」
を購入する破目に。(写真の合成部分も)
この近辺が「浮間ヶ原」と呼ばれていたのでその名が弁財天に付けられたのではないでしょうか。
それ以前は、北へ100mの場所にあったという。100mというと土手を川口よりに下りた辺り。
その近辺を北の入り口、横曽根村と浮間村の村境と考えていいのだろうか。
ちなみに、浮間の北西部に水塚を利用した住宅が集中しています。旧荒川の流れから判るように北西部が比較的高台のため浮間の中心であったのでは。
いや、通水以前も荒川の氾濫により直線的に流れたときも利用していたのでは。
戸田橋が明治8年にできたとはいえ、川口市飯原町まで戸田橋経由だと徒歩往復一時間半ほどかかります。
通水から二年後、大正15年、岩淵と併合される。
昭和3年、浮間橋ができるまで孤島状態が続き、当時の方々の苦労が偲ばれます。
ブロック塀の下部(色の変わったところ)まで土盛がしてあり、水塚とおもわれます。浮間ほど高くは土盛りされていないことに注意して欲しい。
納屋の周りには竹林があり、水害のとき家財道具
の流出を防いだものと思われます。
もしかしたら、上の写真の近辺にあったのが、荒川の改修などのために現在の場所に移されたのでは。
別窓あり
旧荒川の流れからかここだけ埼玉県内
対岸の橋のすぐ上流には川口渡、善光寺渡があった。
某寺の墓地裏には江戸時代刑場があったというから作り話でもできそうな 正光寺 聖観音菩薩
昔から少しも変わってない風景。
墓地だからといってしまえばそれまでの話。
残り二百年の間は、このままの風景だろう。
川口の善光寺など詳細は別窓で。
雄山閣 刊 同氏共著「石仏研究ハンドブック」の一節
四文字のちょっとしたこと
「屋」の上の「M」のようなものは文字ではなく「笠」のマークです。上の「千日念仏塔」の写真をみれば理解してもらえると思うのですが。
また代参講などの旗に(バスガイドさんが持っているような旗)このマーク「笠印」が上部対称に染められていたように記憶しています。
道路のちょっとしたこと
地形からみてデコボコ(侵食などによる)にはなりにくいと思うのですが、人口的に土が盛られたとしたらなんのために土を盛ったのでしょう。
私の推測では、二つの川堀が近接して通され増水などで合流するのを防いだのではないかと思うのですが。(水が出た時は大囲堤【おおがこい】と荒川に挟まれ如何ともしがたく、水害予備船《次ページ「武蔵國郡村史」舟 車を参照》を35艘保有していたということから、浮間の住民は水害のプロだったと共に、自治体としての結束力の強さを、うかがい知ることができる。)
両方とも道路ではなく浮間公園内の道です。右の写真は雨による小規模な侵食とでもいうのでしょうか。それにひきかえ左の写真は誰かのいたずらではないかと疑ったのですが、雨の日に歩いてみて納得しました。
右の写真の下側は桜草圃場で水はけのよい土壌なのか雨の時この道に流れ出て、水が行き場を失いこの道に溜ってしまうので、釣り人が棒で溝を作って水を池に逃がしているのを見かけました。これが効果てきめん。
四丁目の観音寺や扶桑動熱工業株式会社内から弥生土器などが発見されたことは既知のことですが、東京都のホームページに浮間三〜五丁目に「溝」が(消滅遺跡として 時代は中 中世の意か)発掘されたことを紹介されています。
上出の《手書きによる地図》には新河岸橋あたりに通じた川堀は書かれていません。「溝」の本来の役割が池に水を逃がしてやるようなものであったなら、後世下水道として造られた川堀にその役割を譲ったのでしょうか。
東京では河岸名も刻まれることが多い。小石川とは地名ではなく川の名(別名 谷端川 谷中から田端を流れていたのでこの名が呼ばれたか)。霊岸島銀町(現 中央区新川 石の問屋街があった)から神田川、小石川を経てその後陸路で石を運んだのか。久五?は石の問屋名か。細工人名か。(当時の水運の貴重な資料であることは間違いない。隅田、新河岸川と通したと穿
った意見あれど谷中あたり寺院多くあることを合わせ考えよ)
左の写真は、横曽根村と下戸田村との境にある馬頭観音。
浮間から直線距離にして1km強でしょうか。路傍に位置
(公園などという概念もなかったから、子供たちの遊び場でもあったであろう。新幹線高架下沿いにあるブロンズ像にいまひとつ親近感がわかないのは私だけだろうか。)