右隅に書かれてあるのは馬頭観世音菩薩の真言。
「 おんあみりどうど ばんばうんはった 」
この言葉を三唱せよと書かれてある。
本来の真言は「おん あみりと どはんば うん はった」
覚えやすく、口ずさみやすく転じたのかもしれない。
「どうどう」と、ばんばが言いはったとこじつけて覚えたのかもしれない。
馬を制する掛け声である「どうどう」がどのようにして発生したものだろうか。
この三尸の説がわが国々に伝わって庚申待の行事が行われるようになったのは平安朝時代のことで、醍醐天皇の延喜年間
(十世紀初)には貴族達の間でこれが盛んに行われたことが『菅家文草』や西宮記などに見えている。それも最初のうちは
ただ庚申の夜を眠らずに語り明かす程度であったが、後には酒宴を催して眠気をさますというようなことになって、宮中で
はこれを庚申待の御遊などと称された。
これがついに民間にも伝わり、室町末期から江戸時代にかけては、一村内または縁故を同じくする者が庚申の夜一所に集ま
り、画像(掛軸など)を中心に庚申待をするようになり、これを庚申講と称した。
その講中から出資して石塔を立てたのが庚申待供養塔であって、今も諸所にそれが残っている。この夜に三尸の毒を防ぐ歌
というのがいろいろに変形されて伝えられているが、その一つを挙げると、
しし虫はいねや去りねや我が床を
ねぬれどねぬぞねねどねたるぞ
というようなものである。
庚申待には元来特に礼拝すべき神仏というものがなかった。室町時代には阿弥陀如来や、申の縁から日吉山王二十一社権現
を拝したこともあるが、江戸時代に至ってはじめて青面(しょうめん)金剛童子を本地とする説が出来上がってくるのであ
る。喜多村信節の『嬉遊笑覧』(文政)巻七に『寂照堂谷響集』を引用して、「庚申を守ることは仏法になきよしをいひて、
また間を設けて云ふ、庚申の本尊を青面金剛とす。青面金剛は『陀羅尼集経』第十巻『大青面金剛呪法』二曰フ、呪二曰ク
云々。又壇法及画像の法を説く。その内、片言も庚申猴等の団縁なし。只利を好むもの強ひて付会して庚申の本尊とするも
のなりといへり」と書いているが、この『大青面金剛呪法』には、若シ骨蒸仇連伝尸気病ヲ患フ者ハ、呪ヲ誦スルコト千遍
スレバ其病即チ癒ユ」とあるところから、この伝尸の病を三尸に持込み、金剛呪法によって三尸を除くことが出来ると巧み
に庚申と関係づけたものである。(伝尸の病とは結核などの感染症か。「舟渡の板碑」には、はしかに霊験あると。)
この青面金剛は三面六臂、または四臂で、憤怒の形相をもって邪鬼に跨っており、『陀羅尼集経』には、眼ハ赤ク血ノ如ク
ニシテ三眼有り、頂ニ髑髏ヲ戴ク。頭髪ハ聳エテ堅ク火焔色ノ如シ。頂ニ二大赤蛇ヲ纏テ。両脚ト腕上ニモ亦大赤蛇ヲ纏フ」
こうして三尸の説や庚申待の信仰を巧みに自家伝道に利用して青面金剛本地説を造り上げたのではないかと思われる。さら
に、見ざる・言わざる・開かざるの三猿を庚申と結びつけたのはその少し前のことであろうか。この三猿については『孔子
家語』に見える三緘の故事を採って、不言・不聞・不見の教を庚申の申(猿)の姿を用いて表現し、庚申の三尸にも因縁を
持たせたものであるが、一説には、天台大師の三大部の中、止観の空・仮・中の三諦をたとえたものともいわれる。関東で
は庚申は帝釈天と結びつき、さらに猿田彦と習合している。
『難波天王寺庚申待縁起』によると、「そもそも庚申を待つに、男女の愛念を絶ち、精進にして五辛を禁じ、垢離抓清浄の
上、棚に供具をそなへ、申の時より南方に向ひて待ちゐるとなり。信をぬきんづるともがらは、其の願成就せずといふこと
なし」とあるが、この庚申の夜は「男女愛念を絶ち」ということが一つの慎しみとされていた。そしてこの夜に交接して生
まれた子は盗人となるという俗信があって、浅井了意の『東海道名所記』(万治)には、「庚申の夜に孕みたる子は遊離の
卦に当る故に、成長(ひととな)りてぬすみをするなりといへり」とあり、また『女庭訓大倭嚢』にも、「庚申の日、男女
さいあいを致し候へば二人ながら大毒にて、年をよらせ命短くなし、病者にたり候。其夜子種定り候へば、その子一生の間
病者に候か、盗人か大悪人かに候。むかしより例(ためし)ちがひ申さぬ禍に候まま、よくよく御つつしみあるべく候」川
柳はこの好材料をねらって、
寝て用のないで庚申夜をふかし
新世帯今日休みかのえさる
今日庚申だと姑いらぬ世話
ゆふべ庚申かへと嫁変な顔
下は蓮根馬頭観音。通称「田の観音」と呼ばれていると説明板には書いてある。
観音様にしては形相が不気味なのだ。「地天」の塔に似たようなのを見たことがあるが。
合掌型の二手青面に見えなくもない。馬頭観音の典型は上の写真の左の絵馬、石造ではそのディテールの表現は無理なのかもしれない。