浮間側土手近くの民家、この先の五台道が横曽根村に通じていた。
手前が浮間公園内水性植物園(伊子溝の跡)、建物は赤羽ゴルフ倶楽部。この高さの水塚がこの先の氷川神社へと続いている。
この周辺の屋敷林であるケヤキが「五社の木」(風土記に記載された浮間の小名)と呼ばれていたのではないでしょうか。
これも浮間公園内、通称「ケヤキ林」にある今まで気付かなかった何かの痕跡。階段を上がったすぐ脇にある。
駅にある男子トイレなどと無粋な推測もしなければならない。しかし、この辺りにトイレがあった記憶はない。
仮にあったとしてもこのような物を残しておくまい。
浮間の小名に「五台」があります。どうもこの辺りのような気がしてならない。浮間とすぐ近くの飯塚村にも
川口と川堀で境とした辺りに、字地で「七台」や「七台道」、「七台地蔵」などの名称があったからなんらか
の関連があるかと思います。
向かいは荒川をはさんで舟渡との境、荒川の上流からやってくる増水した水と立ち向かう場所でもある。庚申
塔、あるいは地蔵が建てられていたと考えてもおかしくはないと思う。
下の写真も些細なことですが、氷川神社から北向き地蔵に通じる道。なだらかな傾斜がある。
この辺りが土橋(つちはし)と呼ばれていた。
浮間清水家の典型的な水塚。軒下には水害予備船が確保されていた。
実際浮間渡船跡近くの伊藤家の軒下にぶら下げられたのを不思議な想いで小さい頃見たことがあります。
浮間の土手がまだ低い頃(奥は荒川大橋方面)。景色としては壮観。川口には高層の建物がなく風景写真としてはノッペリとした感じになる。
冗談はさておき、これだけの水量を旧荒川一本で担っていたという事実を想像しなければならない。それが歴史を知ることだと思う。
繰り返すようだが、川口側には熊谷堤の一環として大囲堤があった。浮間は地理上の都合によるが置いてけぼりをくっていたのだ。
北区発行の洪水ハザードマップによると浮間は水没、赤羽台の公共施設に避難しなければならない。
水が引くまでの消極的対処を取るしかないのですが、昔は浮間の総戸数四十五戸に対して水害予備船
を三十五艘保有していたというから積極的対処といってもいいでしょう。建物が高層化されたといっ
ても、ライフラインの確保、たよりないゴムボートがどれだけ役に立つか心配になります。