中央横長の建物が新河岸川(旧荒川)に架かる埼京線北赤羽駅、その後ろ奥が雪印乳業跡地に建てられたマンション。
川口の荒川運動公園にある池、この周辺が浮間ヶ原であったと思われます。
手前の河は荒川放水路。その土手の向こうに今は新河岸川と呼ばれているが旧荒川。
桜草で有名になった「浮間ヶ原」が現在のどこに当たるかの考察。
三つほどの根拠があるのですが、その一つはこの川口にあるゴルフ場の名が「浮間ヶ原」から由来していること。
次は「武蔵國郡村誌」に浮間の原野に「中原」と称するところがある。その解説は「民有に属し、村の東端、荒川に
沿う。樹木なくただ萱、葦を生す。」村の東、荒川に沿ったところはこの辺りになる。桜草の育成条件にもかなっている。
次は川崎房五郎氏の「渡し舟の想い出」にある記述。 「北区渡船考」より。
『浮間の渡しも、桜草のシーズンは混みあいますが、あとは訪れる人も少なくなります。その向こう岸についた時の美しさ
は思わずアッと声を出すほどのすばらしさでした。原一面に咲きほこる桜草の見物ができなくなったのは残念です。』
ここにある「浮間の渡し」がどこからだったのかも気になる。浮間渡船跡はここからは小豆沢近くにあり、だいぶ離れている。
しかし、桜草のシーズンには臨時の「渡し」が設けられたという記述もある。赤羽からの交通の便から、現在の浮間橋あたり
から渡し船が出たと考えるのも不自然ではないのでしょうか。