写真は 1947 8/11 終戦から翌々年 国土地理院《mapbrowse.gsi.go.jp/airphoto/index.html》から転載させていただきました。
赤線でなぞった道は五台道とおもわれます。(あくまでも私の推測で、これより古い地図などあればもっと正確にわかるとおもいます)
「村の北方 横曽根村界より 南方 荒川岸に至る 長十七町十九間 巾二間」(長さ 1889m 幅 3.6m)
今の浮間2の土手からおりた桜並木道から浮間の渡し跡辺りまで続いていたと思われます。
桜草の品種「五台紅」はこの五台から名づけられたのでは。
青線でなぞった道は中道とおもわれます。わかりずらいと思いますので別窓で。
「村の東北 横曽根村界より 南方 五台道に合す 長十四町 巾二間」
黄色でなぞった道は東道とおもわれます。
「村の東北 飯塚村より 東方 中道に合す 長十三町 巾二間」
左は手書きによる地図です。描かれたのはそう古くはなく、明治四十五年(大正元年)記述すると書かれています。
画面中央に書かれているのは今の荒川ではなく土手(大囲堤 おおがこい)です。
村を縦横に走っているのは道路ではなく、川堀です。道路より優先されて書かれたのは仕事上(農業)からか、戦略上の名残りでしょう。
画面左下の荒川に挟まれた島は、中洲島と書かれています。これも桜草の品種名にあったようにおもいます。
小学生の頃まだここは広大な砂場で、よく野球をやったことを覚えています。そこがかつて荒川だったとは知る由もなかったのですが。
画面左、戸田村との界を流れているのは今の緑川とおもわれます。下にくだり荒川と接したところは、浮間公園内の水性植物園あたりでしょう。
黄色の○で囲んだところが現在の荒川の痕です。(下の写真)
舟渡水辺公園 新日鉄辺り