赤 塚 城 跡 辺り                           十条駐屯地(現赤羽自然観察公園)辺り



浮 間 橋 の 碑

後のページ(浮間に架かる橋)でとりあげ重複するのですが、浮間というものが集約され、美談といっても過言ではないのでは。

(銘そのまま)

今 近 本 里 憂 此 曩 西 北 効
日 衛 町 民 慮 地 離 南 方 外
橋 工 請 威 萬 如 北 挟 隔 浮
梁 兵 軍 應 一 孤 足 清 水 間
成 来 衙 分 事 島 立 流 路 里
如 施 以 醵 頻 交 新 望 對 桜
長 工 實 出 希 通 併 志 横 草
蛇 盡 情 金 架 常 合 村 曽 鮮
横 力 開 六 橋 乗 岩 翠 根 有
川 研 陳 千 便 船 淵 煙 邊 名

日九十二月四年三和昭
間浮字大町淵岩於建
書併文撰義通柳小


読み下し

                         郊外ナル浮間ノ里ハ桜草鮮ニシテ有名ナリ
                         北方ヲ水路デ隔テ横曽根辺ト対ス
                         西南ニ清流ヲ挟ンデ志村ノ翠煙ヲ望ム
                         曩ニ北足立ヲ離レ新ニ岩淵ニ併合サル
                         此地孤島ノ如ク交通ハ常ニ船ニ乗ル
                         萬一ノ事ヲ憂慮シ頻ニ架橋ノ便ヲ希フ
                         里民ノ威ハ分ニ応ジテ金六千ヲ醵出ス
                         本町ノ軍衙ニ請フコト実情ヲ以テ開陳ス
                         近衛工兵来リテ施工力研ヲ盡ス
                         今日橋梁成リ長蛇ノ如ク川ニ横タワル

                 

(拙い意訳)

                 郊外にある浮間の里は桜草が鮮やかで有名である。

                 北は水路で隔てられて、横曽根村が接している。

                 西、南そして東の志村から青々とした川の流れが続いている。

                 以前は北足立郡に属していたが、今新たに岩渕町と併合される。

                 このように浮間は、孤島のように船で行き来しなければならず、

                 万が一、水害や病人などがでたときを思うと橋があったら助かるのになあと思うのであった。

                 浮間の有志が橋を造るための資金をもちより、その額は六千円になった。

                 そして、岩淵にあった近衛工兵大隊に、横曽根、飯塚村との久しい付き合いを余儀なくされたことや、
                 四方を川に囲まれた不便さを訴え、橋の建設を願ったのです。

                 願いが通じたのか、近衛工兵によって浮間橋の着工が始まったのである。

                 そして今、川に橋が架かり、その様はまこと蛇が横たわっているようだ。


浮間橋より下流にある中ノ橋、木製だったころの浮間橋を偲べればと思い掲載しました。
この橋は昭和8年、工兵隊が演習場である荒川の河川敷へ行くために架けられたもので、通称「工兵橋」と呼ばれています。
浮間橋はここの川幅より15mほどひろい新河岸川に架かっています。

(この漢詩を詠んだ小柳通義氏は三原さんのホームページ《http://www2s.biglobe.ne.jp/~miharas/sugaya.html》
にも顔をだしているので 調べていただいたのですが儒学者ということでその他は不明です。)



追 記

「赤羽ゴルフリンクス」というゴルフ場が岩淵水門から二、三町下った所にあったという。
現在の足立区新田にある「東京都民ゴルフ場」の前身であったと思われます。
そこは桜草で有名な野新田(やしんでん)なのです。


荒川上流河川事務所に横曽根の渡しについて(くだらぬ質問と半分あきらめていたのですが)仔細に調べていただき感謝するとともに恐縮してます。

「荒川の水運」埼玉県教育委員会発行より
『横曽根の渡しは、明治・大正時代にかけて行われた荒川改修工事後に設けられた渡しで、浮間新川の渡しともいわれた。荒川改修のため、足立郡横曽根村(現川口市)と浮間村(現東京都北区)との間が遮断されてしまった。 そこで昭和3年に両村共有の村営渡しが開始された(『北区渡船考』)。渡船料は大人2銭、小人1銭、自転車1銭とされたが、両村民は無料とした。しかし昭和8年にこの渡しも短い役割を終えた。』

《浮間新川渡》東京都教育委員会発行「北区渡船考」より
『浮間の北側に新荒川を開削したので、浮間は埼玉県横曽根との間を遮断されてしまった。そこで新しい川に長さ七十五間、両者共有の渡し船を設けて交通の便を図った。両地の住民は無料であった。この渡しは 昭和三年から八年まで続いた。』

 もっと私的な「渡し」と想像していたのに考えが甘かったのか。げに資料にも残るまいに。荒川の通水が大正13年から、浮間橋ができたのが昭和3年、浮間橋ができてから「渡し」が始まった?
 人の弱みにつけこんでとは思いたくはないが、予想以上に「渡し」を利用する人が多かったので、村がのりだし取り仕切るようになったのでは。
 その後、昭和9年、昭和15年と立てつづけに浮間橋が架け替えられていることからもわかるように、行政、交通の推移により利用する人が少なくなったのでしょう。

朝六時ごろコーラスの練習をやっている方々の真向かいの浮間。
まわりからみると不自然な川岸とおもわれていた方も多いはず。船着場と見ようと思えば見えなくはないのでは。


補足 《子安地蔵に線香を供えられた人に心動かされて》

 線香を供えられた方は、おそらく直感していたのでしょう。直感した内容は柳田国男の『赤子塚の話』の「境の神に子を祷る風習」に相通ずるものがあるので叱られるのを覚悟で 一部掲載します。

 幸(さいはひ)いに斯(かう)して御一緒に徐(しづか)に考へて居(ゐ)る内に、児捨馬場(こすてのばゞ)が児拾馬場(こひろいのばゞ)であつた如く、 又子

売(こうり)地蔵がやはり子買(こかひ)であった如く、死んだ児の行く処とのみ認められた賽河原が、子無き者子を求め、弱い子を丈夫な子と 引換へ、或

は世に出やうとして尚彷徨(なほさまよ)ふ者に、安々と産声を揚げしめる為(ため)に、数百千年の間凡人の父母が、来ては祷(いの)つた道祖神(さへの

かみ)の 祭場と、根原一つであることが、略(ほゞ)明白になつた。つまり我々は皆、形を母の胎(たい)に仮(か)ると同時に、魂を里の境の淋しい石原か

ら得たのである。 そう云ふ風に曾(かつ)て信じて居たのである。どうして又そう信ずるやうになつたかと云へば、我々の昔の埋葬の風が元であつた。永

らく使ひ古した魂には、 若干の休養を与へねばならぬ。又少々づゝは汚れても居た。之(これ)に反して清く新しくして急に不用になつた所謂(いはゆる)

水子の霊は、遠からず之を再(ふたゝび) 世に出す為に、大人に比べると遥(はるか)に手軽の方法を以(もつ)て、之を始末して置いたものらしい。娑婆

(しゃば)の浮世で散々に泣いたり笑ったりした人魂(ひとだま)は、 仏教以外の宗教でも罪ある者としてをり、之を済(すく)うてやる回向の方法が無かつ

ただけに、一層畏(おそろ)しいものとして境の外へ駆逐した。 虫送疫神(むしおくりやくじん)送雨風送(おくりあめかぜおくり)の類、さては盆正月の精

霊送(しやうりやうおくり)なども、本(もと)の意は皆是(これ)であつた。 赤子の分は比較的危害も尠(すくな)いものと見て、単に是を境の神の管理に

委ねて置いたので、形の上から申せば、ごくざつとした方法で、斯云(かうい)ふ一定の場所に、 片付けるのが常であつたかと思ふ。そこで後世石地蔵で

も立てやうと云う場所は、多くは再又用ゐられてもよい清い人魂の集合所であるが為に、爰(こゝ)に我々の祖先は 無邪気なる色々の不思議を見、例へ

ば、新に縁に附いた婦人などが通行して、始めて身重の徴(しるし)などを自覚してから、祷れば子が得られるやうな信仰を強くしたことも あつただろ

う。処が境と云うものゝ変化には、絶えず政治又は経済の理由があつた。道路なども追々移つた。それから最惜(いとをし)い者を斯(こん)な荒野良に独

(ひとり)送ることも、 次第に忍び難くなつた。赤子の霊と云う記憶だけが後に遺(のこ)るとすると、僧侶や神主の心有つての潤色を待たずとも、月日に

つれて話は雪達磨(ゆきだるま)の如く成長し、末には或 偉人の生立(おいたち)の記ともなるのである。一方には又生活は常に不安である。輪廻転生(り

んねてんしやう)の理(ことはり)を信ずるのが、無聊(あぢきな)い人の世には責めてもの慰め であつた。又終(つひ)の力でもあつた。南無や地蔵大菩

薩。斯(かく)の如くして久しく我々が親を救はせたまふ。





参考資料「武蔵國郡村誌」

   浮 間 村

本村古時平柳領に属す(横曽根村は古時戸田領に属す)
風土記を接するに浮間村は江戸より行程三里半に及べり 民家五十余 東西十四町 南北十町許 荒川に添えし地なれば水溢の患いあり 皆畑 の村なり昔より御料所にして今に替わらず 又川を隔て茅野あり 御用地と唱へり野銭《採草場(萱など)に賦課された租税》を上納すとのす

疆 域(キョウイキ 田地の境)
東は飯塚村と堤脚及悪水《飲料に適さない不要な水》を界し 豊島郡袋村南も袋村 小豆沢村 志村 西は蓮沼村と荒川を隔てて相対し 北は本郡下戸田 横曽根二村と悪水或いは 野逕を境とす

幅 員(フクイン はばの広さ)
東西十六町四十間 南北十四町五間

管轄沿革
天正の末徳川氏関東を領せしより代官の所轄たり
日損場 高四十九石五斗八升八合外 永《銭の異称》十八貫百四十文 野銭(田園簿)
以後変遷なし明治元年戊辰 百石六升六合 武蔵知県事に隷し 二年巳巳大宮県に転じ後浦和県と改称し四年辛未埼玉県 の轄する所となる

里 程
《太政官第四百十三號 明治六年十二月二十日 里程取調ノ方法 一 壹里ハ三拾六町 壹町ハ六拾間 壹間ハ曲尺六尺ト相定可申事 一 測器ハ分間用麻繩或ハ鎖ヲ可用事 但麻繩ハ極テ伸縮セサルモノヲ可用事》
埼玉県庁より南方二里二十四町四十四間一尺一寸
四隣横曽根村へ廿六町十五間 袋村へ廿一町二十間三尺 飯塚村へ十九町四十七間 志村へ十五町三十八間 小豆沢村へ十五町三十三間 蓮沼村へ拾八町十三間 下戸田村へ三十二町十八間
近傍宿町 川口町へ廿五町五十四間 蕨宿へ一里七町三間 豊島郡下板橋宿へ一里 字後原《浮間の中央部》を元標と定む

地 勢
平夷堤外に位し《荒川と横曽根村の大囲堤【おおがこい】にはさまれる》東西南の三面に荒川を帯ぶ 運漕便利 薪炭乏し

地 味《土地が肥えているかどうか、作物がそだつかどうかの程度》
薄赤真土にて稲麦蔬菜《青物》に宣し 水利不便により井水を以て田に漑く 時々水旱《ひでり》に苦しむ
《横曽根村の地味 半ば黒土 半ば粘土 或灰白なる真土雑れり 質宜しからず 浮間は洪水による恩恵を受けたのか》

税 地
十七町四畆廿九歩 畑 百九町十六歩 山野 十一町一反二畆歩  総計 百三十七町一反七畆十五歩

飛 地《村と村の間にある公有地になんらかの事情、人口の増加などによって開墾したもの》
本村の東方元郷領家両村の間 山野 五反歩

字 地
土橋 つちはし  村の西北端ににあり 東西四百五十間 南北三百八十間
西野 にしの   土橋の南に連なる 東西三百十間 南北百七十間
後原 うしろはら 以上二字の東に連なる即ち中央 東西百七十間 南北六百七間
東原 ひがしはら 後原及土橋の東南に連なる 東西四百七十五間 南北六百二十五間
下影 したかげ  東原の東南に連なる 東西百四十五間 南北五百三十七間
下野 したの   西野の南に連なる 東西三百五十五間 南北三百四十五間
川島 かはしま  下野の西方荒川向にあり 東西百四十五間 南北百五十八間
小名《コナ 村を小分けした名》 東(ひがし)、西(にし)、五臺(ごだい 台の旧字)、五社ノ木(ごしゃのき) 『風土記』

《臺、台は水塚のことでは。五臺、五つの水塚。五台道(村の北方横曽根村との界から南方荒川岸に至る)からもわかるように今の赤羽ゴルフクラブあたりの水塚をさしていたのでは。 そして、それは荒川の曲がりくねる突端(荒川と伊子溝が合流したところ)に作られ堤防の役目もはたしていたのでは。荒川の堤防はといえばここから北の横曽根村では一丈(約3m)ほどの高さだったとか》

貢 租《コウソ 田地に課せられる租税》
地租《土地に対して課せられる収益税》 米五十石七斗六升四合 金百七十円三銭九厘  賦金《返済金》 金二円二十六銭
総計 米五十石七斗六升四合 金百七十二円廿九銭九厘

戸 数
本籍五十四戸 平民 社四戸 村社一坐 平社三坐 寺一戸 新義真言宗

人 口
男百八十口 女百九十八口 総計三百七十八口 《人口 男は丁 女は口》

牛 馬
牡馬四頭

舟 車
渡船二艘 人渡一 馬渡一 似舟帯《ひらたぶね》二艘 小伝馬船一艘 漁船五艘 水害予備船三拾五艘 総計四十五艘 《横曽根村の水害予備船は十三艘》

川 堀
荒川  二等川に属す 深二尺より一丈二尺 巾五十間より百間 緩流薄濁 舟筏(いかだ)通す 村の北方下戸田村より来たり東西南境を流れ東方飯塚村に入る其間三十二間
    荒川郡界を流れ船渡しあり これは農民耕作往来に備えしのみなりされど此事あるを以て近き宿駅へ助《川口宿などの常備の伝馬、人足の補充》の人馬を出すことを許
    さるゝと云(風土記)

浮間渡  村道に属し村の東方荒川の中程にあり渡船二艘私渡
中悪水  深三尺 巾三尺 村の中央字土橋より北方下戸田村に入る 其間五丁四十四間 田の悪水を潟下す
伊子溝  深八尺 巾四間 村の北方横曽根村より来たり西北端荒川に合す 其間五丁四間 (伊子溝 参考資料へ)
大田溝  深三尺 巾三尺 村の中央字後原より起こり北方横曽根村に入る 其間七町二十五間 田の悪水を潟下す
新堀溝  深七尺 巾二間 村の東北端横曽根村より来たり東方荒川に合す 其間八丁五十八間
新堀橋  村道に属し村の東北新堀溝の下流に架す長九尺 巾六尺
東原溝  深三尺 巾一間 村の東方字東原中原の間より東方荒川に合す 其間四丁五十間 田の悪水を潟下す
前芝原溝 深五尺 巾一間 村の西方字前原より起こり東南荒川に合す 其間七丁五十間 田の悪水を潟下す
供養塚溝 深三尺 巾三尺 村の中央字西野後原の境より起こり東南前芝溝に合す 其間四丁三十一間 田の悪水を潟下す
間堀溝  深五尺 巾一間 村の中央字西野より起こり南方荒川に合す 其間九丁四間 田の悪水を潟下す
下野堀溝 深三尺 巾一間 村の中央字土橋より起こり西北間堀溝に合す 其間五丁二間 田の悪水を潟下す

森 林
 官有に属し東西七間八分 南北二十五間八分 反別《田畑の地積》六畝《せ 一段(たん 991.7u)の十分の一》廿一歩 村の北方にあり小杉を生す

原 野
中原 民有に属し村の東端荒川に沿う 樹木なく唯萱葦《かや あし》を生す《浮間ヶ原か 原とは広く平らなところをいう 海原 葦原など

道 路(参考資料へ)
五台道 村の北方横曽根村界より 南方荒川岸に至る 長十七町十九間 巾二間
中道  村の東北横曽根村界より 南方五台道に合す 長十四町 巾二間
東道  村の東北飯塚村界より 東方中道に合す 長十三町四十五間 巾二間

掲示場 村の中央字後原にあり

神 社
氷川社 村社 社地竪廿二間横十間面積二百二十坪村の北方にあり 素盞鳴尊すさのおのみことを祭る 祭日九月二十三日
御嶽社 平社 社地竪十三間横十二間五分面積百六十二坪村の西方にあり 日本武尊やまとたけるのみことを祭る 祭日三月八日
稲荷社 平社 社地竪十三間横九間面積百廿一坪村の西南にあり 倉稲魂命うかのみたまのみこと (食 うか)稲、五穀を司る神を祭る 祭日二月初午
稲荷社 平社 社地竪八間横三間面積二十四坪村の北方にあり 倉稲魂命うかのみたまのみことを祭る 祭日二月初午

   十月 鎮守祭 (日待)  昼 もち
      夷 講 (二十日) 夜 そば切り 《えびすこう》
      荒神祭 (三十一日)夜 だんご  《三宝荒神 かまどの神》 「横曽根村郷土誌」より

佛 寺
観音寺 竪廿一間横十六間一分五厘面積三百九十九坪村の西北にあり 新義真言宗川口町錫杖寺の末派なり
    開山を秀盛と呼べり寛永七年五月九日寂せり《死する 僧侶にたいして用いる》(風土記)

役 場
村事務所 村の北方戸長宅舎を仮用す 本村及び飯塚村の事務を管す

物 産
百羽 鶏卵 二千個 鶩あひる 十五羽 鶩卵 二百四十個 米 百五十三石四斗 大麦 六百六十二石 四斗 内百十七石一斗売品 小麦 二十石八斗 大豆 十石四斗
小豆 二石 蚕豆そらまめ 十一石 輸出 里芋 八千二百八十貫目 菜種 十四石一斗輸出 芥子 六石四斗輸出 萱かや 三万五千束輸出 小倉男帯地小倉織りの男帯地 七百筋 (キン)細長いものをかぞえる 輸出

民 業 男女耕耘こううんを専とす

学 校 吉祥院(新義真言宗川口町錫杖寺の末派) 浮間村には明治三十年四月 分教室が設けられる 観音寺の住職が代用教員として記録が残っているので観音寺が学校として使われたのでは  犯罪 賭博(二件) 「横曽根村郷土誌」より



 撮影地 緑川


「 浮 間 (うきま)」名前の由来メモ
「浮島(うきしま)」の「し」が省略され縮まって「うきま」と呼ばれたという説が有力だと考えられています。
では「浮島」というのはどのようなことをあらわしているのでしょうか。
 湖や沼などに浮いているように見える「島」をそう呼んでいる例が多く、「あおい」島なら「青島」、「おおきい」島なら「大島」などのように、みえたがままを呼んだと考えられます。 たとえが幼稚になってしまったのですが、母親が子供に物を教える時どうしているでしょう。「ほらワンワンねーと」子供の視線を犬に向けて話すはず。
「犬」という言葉を正しく使うことと、「犬」という生物を正しく知ることをあたりまえのことのように繰り返して育ってきたと思います。

しかし、母親と子供が見た自明な「犬」が言葉として書かれたら、寝ている犬なのかあるいは立って尻尾を振っている犬なのか、わからなくなる。
裏を返せば、どのようにも具体化できるということでしょうか。このあたりに地名だけには限らず言葉の難しさ、あるいは面白さがあるように思います。

 仮に「うきしま」から「うきま」に転訛したとして考えてみましょう。さてどのような漢字を書いたものでしょう。
 「浮島」と書いて「うきま」とよませるのが一般的ではないでしょうか。「浮間」とそのまま書いたとしたら、もとの意が失われてしまうでしょう。私には「島」から「間」に転訛したとは考えにくいのです。
「間」を辞書で引くと、二つのものに挟まれた部分とあります。「うき」を広辞苑で引くと泥の異体字で、「泥の深い地」「低湿地」とあります。二つをあわせると荒川にはさまれた低湿地と意味合いにはしっくりくるのですが、 「浮」をどうしたものか。以上の意味合いで「うきま」と呼んだとしたらずいぶん粋な呼びかたではないでしょうか。
「浮」を「どろ」という意味合いの用例が広辞苑に載っています。
「うきぬま」<浮沼>・・・ 泥深い沼。どろぬま。うきぬ。
「うきね」 <浮根>・・・ 泥中に生える草の根。
 近頃は道が舗装され土の道をみかけることがなくなってしまいましたが、雨が降ったときなど浮間公園の土の道では、泥が浮き上がって大変歩きにくいものです。そのような状態をさして使われたのではないでしょうか。「なずむ 泥む」
 (「浮島」参考資料へ)


       『ウキはドヴ(土腐)の意、さらにマにはアイヌ語の湖沼の義がある。したがって
        旧入間川の乱流時代の沼地が開発されてその遺名をとどめたもののようである。』 埼玉県地名誌 名義の研究 韮塚一三郎 著 北辰図書

        (承認しがたいところがあるのですが、「浮島」からの発想でないことに賛同したい。)

まあ「浮間」という地名の語義を『しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。』といったところなのである。
しいて云うなら、云うに云われぬ味わいのある名前なのである。

 その他興味をもった語句メモ 「ひじ(ぢ) 泥土」  【泥 ディ 漢音】【ni(一声)】 (参考資料 古事記に「ウキ」を探してへ)

 


Top へ | つぎへ