「 塵灰にくだけ果てなばさてもあらでよみがへらする言の葉ぞ憂き 」
「 見るも憂し いかにかすべき我心 かゝる報いの罪やありける 」
西 行 「地獄繪を見て」という連作から
その取り乱れた対位法は奇異な感じさえあたえ、・・・一方は四角ばかり、
降誕したキリストのさしのべる恩寵の翼にのって、高まる魂の陶酔を表現している。
聴き手がまちこがれ、諦めかけたところで現れるピアノは、・・・小声で始まる。
第三楽句、赦し−伯爵夫人。これらの音符はあまりにも重みをもっているので、作品の重心が移動したかのようである。
主題は重苦しくなり、大地に接近する。と突然、親しみやすい素晴らしいロンドがそれを中断する。
それはすでに来世の微光がさし込んだ死の歌である。音楽的な克己主義の好例である。
もしひとことで表現するなら、吐息の合奏と言おうか。飛躍する冒頭を少し引用しよう。
心のうちにこめ忍びがたき事あらむに、其事をひとり言につぶつぶといひつゞけても、心のはれぬ物ならば、それ
を人に語りて聞かすれば、やゝ心のはるゝ物也。さればすべて心にふかく感ずる事は、人にいひきかせではやみが
たき物也。あるひはめづらかなる事、おそろしきこと、おかしき事なども、見聞きて心に感ずる時は、必ず人にも
いひきかせまほしくて、心にこめがたし。さていひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらねども、いはで
はやみがたきは自然の事にして、歌も此心ばへある物なれば、人に聞かする所もつとも歌の本義にして、仮令の事
にあらず。」 本居宣長著、石上私淑言上巻から
鹹湖(かんこ)のアルジェリア草原でオアシスにめぐり逢ったようである。
極度の貧しさは真の豊かさに通ずるのである。私は意志的に裸形になった者のことを言っているのだ。