譜面のモーツァルトU

哀願しながら、神のみもとに魂を運んでいく。

しかしながらこの悲嘆は甘美である。

引き締まった、確かな手法で、彼は地獄を描いてみせた。


「 なべてなき黒きほむらの苦しみは夜の思ひの報いなるべし 」

「 塵灰にくだけ果てなばさてもあらでよみがへらする言の葉ぞ憂き 」

「 見るも憂し いかにかすべき我心 かゝる報いの罪やありける 」

西 行 「地獄繪を見て」という連作から


御子から父へと愛に満ちあふれた永遠の光の源として、聖霊を讃えているのだ。

その取り乱れた対位法は奇異な感じさえあたえ、・・・一方は四角ばかり、

他方は曲がりくねっている。

低音部で弦のユニゾンにより執拗に繰り返される断定は、

管楽器が中断し、ファンファーレで飾り上げる

精霊の愛撫に、意識もとろけてしまうようである。

表現の驚くべき的確さをだれが否定できようか?

降誕したキリストのさしのべる恩寵の翼にのって、高まる魂の陶酔を表現している。

聴き手がまちこがれ、諦めかけたところで現れるピアノは、・・・小声で始まる。

この上なく感動的な慰めを高く歌い上げている。

非常に小さい音である。人間が慰められる音と言おうか。

第一楽句、妻の登場−伯爵夫人。

第二楽句、夫の哀願−伯爵。

第三楽句、赦し−伯爵夫人。これらの音符はあまりにも重みをもっているので、作品の重心が移動したかのようである。

最も美しい旋律のなかに加えれる感動的なラルゲット

全く翼に乗ったような出だし

主題は重苦しくなり、大地に接近する。と突然、親しみやすい素晴らしいロンドがそれを中断する。

やがて快いエピソードがそれを軽やかにする。

それはすでに来世の微光がさし込んだ死の歌である。音楽的な克己主義の好例である。

それは一種の諦めの夢想のなかにゆったりと入ってゆく。

暗雲からメランコリックな慰めの歌がもれる。

もしひとことで表現するなら、吐息の合奏と言おうか。飛躍する冒頭を少し引用しよう。

(同上 第一バイオリン 3小節目 断片)


        「 人のこれを聞きてあはれと思ふときに、いたく心のはるゝ物也。是又自然の事也。たとへば今人せちに思ひて、

        心のうちにこめ忍びがたき事あらむに、其事をひとり言につぶつぶといひつゞけても、心のはれぬ物ならば、それ

        を人に語りて聞かすれば、やゝ心のはるゝ物也。さればすべて心にふかく感ずる事は、人にいひきかせではやみが

        たき物也。あるひはめづらかなる事、おそろしきこと、おかしき事なども、見聞きて心に感ずる時は、必ず人にも

        いひきかせまほしくて、心にこめがたし。さていひきかせたりとても、人にも我にも何の益もあらねども、いはで

        はやみがたきは自然の事にして、歌も此心ばへある物なれば、人に聞かする所もつとも歌の本義にして、仮令の事

        にあらず。」   本居宣長著、石上私淑言上巻から      

叫びは歌となる。

影は深まる。

確信に満ちた結び。

荷造りしながら創った作品なのだ。

左の不安定な楽句を記憶されているだろうか。

四音符でひかえ目にはじまり、

『平均律クラヴィア』のフーガの入りに似ている。

鹹湖(かんこ)のアルジェリア草原でオアシスにめぐり逢ったようである。

極度の貧しさは真の豊かさに通ずるのである。私は意志的に裸形になった者のことを言っているのだ。


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