土手が低かった頃
左 1981年頃の浮間公園 右 現在の浮間公園
ほぼ同じアングルで撮った写真ですが、
手前の木や土手の高さが違います。
この写真の大きさでは分かりずらいのですが、
水鳥の数がだいぶ少なくなったのが分かります。
左 1981.4月頃の写真 右 現在の浮間公園
ほぼ同じアングル
外周が埋め立てられ一回り小さくなった。
のんびり釣りをする人たち
両方とも1980年6月頃の写真
水塚(みずか)
水害に備えるため、土台を高くしその上に家屋を建てた。
その家屋を含めて水塚(みずか)と呼ばれています。
水塚は、浮間のほかに神谷、堀船などに見られます。
荒川(現 新河岸川)の氾濫により川の蛇行が直線に切れて、島状になり、浮島と
呼ばれたのがなまって
浮間となったのだろうと、言われているように水害が多かった。
現在の土手の高さ。
右の写真は、新河岸川の堤防
水害はほとんどなくなったけど
こんなに高くする必要あるのかな?
最悪の事態に備えてのことでしょう。
対岸は道路に段差がつけられ圧迫感が
ないよう工夫されています。
浮間に架かる橋
浮間橋と北赤羽駅 この周辺が浮間ケ原と呼ばれていた 浮間橋の碑 漢詩 文頭 郊外浮間里有名桜草鮮 北赤羽駅ができる前の浮間橋(裏の写真)
新河岸大橋 平成橋 新河岸橋 架けかえ工事中 工兵橋(中ノ橋) 木製だった頃
浮間渡跡
荒川の改修により孤島のようになり、浮間橋ができるまで、この渡しが都内への唯一の交通手段だった。
人通りの少ないひっそりとしたところにある。対岸は板橋区小豆沢
『浮間の渡しも、桜草のシーズンは混みあいますが、あとは訪れる人も少なくなります。その向こう岸についた時の美しさは思わずアッと
声を出すほどのすばらしさでした。原一面に咲きほこる桜草の見物ができなくなったのは残念です。』
「渡し舟の想い出」川崎房五郎氏 「北区渡船考」より
桜草のシーズンは臨時の渡し舟が通されたとありますから、赤羽あたりからの交通の便をはかって、ここではなく今の浮間橋あたりに渡し舟が設けられたと思われます。
袋村の水神宮
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