複雑適応系    98/10/14

   私達が現在直面している、もっとも困難でかつ長期的な諸問題ーー通商問題、地球環境問題、エイズ、遺伝子病、 心の健康、コンピュータ・ウィルスなどーーの多くは、「非常に複雑ではあるが、ある種の共通性をもったシステムに 集中している」と、ジョン・ヘンリ・ホランドは指摘している。

 日本でいえば円高(安)やバブルの崩壊、住専問題などさまざまな問題が露呈した経済のシステム。地球環境で その保全が課題になっている生態系、エイズと免疫システム、臓器移植に伴う拒絶反応、身近なところでは 花粉症やアトピー性皮膚炎など。これらの切実な問題の解決は、このシステムの科学的解明如何にかかっている。

 これらのシステムは、各システムから生まれる問題の多様さと同様に、一見多様で別々なものと思われ勝ちだ。 しかし、こうした見かけの多様さにもかかわらず、それらのシステムがいくつかの重要な特質を共有していることに、 ホランドは着目する。
 そこで、ホランドとサンタフェ研究所それらのシステムをただひとつのクラスに分類し、「複雑適応系 complex adaptive system 」(CAS)と命名した。

   ジョン・ヘンリ・ホランドは、アメリカで最初にコンピュータ科学の博士号をとった人物である。1940年代 後半、MIT在学中から、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスの影響下で生物界と人工的な計算の間の 共通性に興味を抱き、ニューロンを模した人工的な神経回路のプログラミングに熱中した。
 コンピュータはまるで、実験動物のように電子回路が作る迷路について何事かを「学習していく」かのように みえた。機械も動物のように、訓練によって周りの環境に適応していく、それを実行するには、仮想的なランダム状態 に簡単な規則を入れるだけでよい。あとは機械がボトムアップ式に勝手にその歩み始める。そう。自然界の生き物と 同じようにーーこれが、ホランドの原体験である。

 その後、彼は統計学と集団遺伝学の巨人R・A・フィッシャーの名著「自然淘汰における遺伝理論」と出会い、 進化に於ける環境への適応をコンピュータの中で再現できるのではないかという発想を得「遺伝的アリゴリズム genetic algorithm 」(GA)の発明者となった。

 ホランドは複雑適応系の特性を、以下のように要約している。

 【平衡状態のないシステム】

 複雑適応系はまず第1に、並列に働く数多くの「エージェント」ーー要素的な機能単位ーーのネットワークである。 そこではシステムの制御は高度に分散化されている。

 第2に、複雑適応系は数多くの組織化のレベルをもち、ひとつのレベルでの各エージェントは、上位のレベルの エージェントにとって「積み木」のような役割を担っている。システムはこれらの「積み木」の配列をつねに訂正し 再調整している。この訂正や再調整が「適応」という現象の基本的メカニズムであり、その意味では「学習」も 「進化」も「適応」と同様の過程と見なせる。

 第3に、すべての複雑適応系は未来を先読みする。すなわち、外界に関する無数の内的モデルに基づいた予測を 立てて行動する。この過程は、コンピュータのプログラミングや生物の遺伝子のようにあらかじめ設定された 見取り図に従う受動的なものではなく、システム自体の「経験」から得られる能動的なものである。

 最後に、複雑適応系は開かれたシステムであり、新しい可能性がつねにシステムそのものから自発的に生み出される。 だから、複雑適応系にとっては、閉じたシステムでア・プリオリに決定されるような「平衡状態」という概念は 何の意味ももたない。システムはつねに展開中で、推移の途上にある。平衡状態とはシステムの死にほかならない。

 このことはまた、システムの各エージェントが適応度や有益度のようなパラメータによっては決して「最適化」ーー もっとも効率の良い状態に落ち着くことーーされないことを意味している。選択の可能性はあまりに大きく、最適解を 見出す実際的な方法を、各エージェントはもたない。各エージェントがなし得ることは、手近にある他のエージェントの ふるまいと関係しながら、自らを変化させ、改良していくことである。ひとことで言えば、複雑適応系は「永遠の新しさ」 によって特徴づけられるということだ。

 むろん、すべてのシステムが以上のような特性を持った複雑適応系になるのではない。では、どのような場合に 複雑適応系が出現するのか。それに答えるのが『カオスの縁』という概念(別稿参照)である。