『柊武譚』
ひ い ら ぎ ぶ た ん
たくさん 作
この作品は平成7年に制作されたものに手を加えたものです。
前章【モームとクラインと『その世界』のこと】
街が、燃えている。
城が、燃えている。
天を焦がす炎熱が、人々を追い回し、空から雪のごとく降り落ちる火の粉が、逃げまどう人々を焼く。
我が子の衣服に燃え移った炎を消そうと、必死の形相の母親も、その体が炎に包まれている。
煙に追われて逃げる。
火矢が、雨のように群衆の頭上に降り注ぎ、撃ち放たれた巨石が、堅牢な石造りの建物を、轟音とともに倒壊させる。
瓦礫の下敷きとなった者を助けようとする者はなく。
倒れた者を助け起こそうとする者もない。
泣き叫ぶ子供は、怒濤のような人の群に巻き込まれ踏みつぶされた。
人々は、ただ炎から逃れようとして無闇に走り回るだけであった。
それは阿鼻叫喚の地獄絵図であった。
「クソッ!」
飛来する矢を避けるために城壁に身を隠した男は、城市を包囲する王国軍を鋸壁の隙間からのぞき見た。
漆黒の肌、隆起した筋肉に被われたたくましい肉体。その挙動はしなやかで、見る者に猫科の肉食獣を連想させる。体にぴったりとした革鎧は肌の色に合わせた黒で、彼自身の肉体の一部のようですらあった。獰猛な視線は、獲物を狙うかのように、王国軍の陣地を注視して動かない。
「黒豹っ!黒豹隊長!」
兵士が、身を屈めながら駆け寄って来た。
「どうだった?」
息を切らせた兵士は、へなへなと座り込み首を振った。
「み、みんな、奴らに殺されやした。東門には死体の山が…隊長、あんたの言ったとおり、罠だったんだ!わざと東門を手薄にして、逃げようとしたところを…」
黒豹は瞑目する。無防備な女子供が矢を浴びて倒れていく姿が、目に見えるようであった。
身体が震えた。
彼の警告を無視した指導者達と、連中を止めることを出来なかった、己の不甲斐なさに、怒りと憎しみがあふれてくる。
「どうしやす?このままだと、ここにも火が回って来ますぜ」
「ああ…」
黒豹は、しばし考え込んだ。
このままここに留まれば、遅かれ早かれ全滅を免れない。敵と戦って倒れるのならばまだしも、火や煙に巻かれて死ぬのは、プライドが許さない。
だが闇雲に討って出ても、手ぐすねひいて待ちかまえる王国軍を喜ばせるだけだ。
なにか工夫が必要だった。
「よし。生き残っている連中を大至急ここに集めろ!いそげよ」
生き残った部下達は、弾かれたように城壁を駆け下りていった。
「ゲルニック!」
野太い声に名前を呼ばれ、黒豹は振り向いた。
見ると山のような巨体が、ドスドスと足音を鳴り響かせながら駆け寄ってくる。後には生き残りの兵士達が続いていた。
「おおっ!ビット。無事だったか?」
黒豹ことゲルニック=オンブレは、戦友のビット=フンバウを、諸手をあげて出迎えた。
「なんとか生きとる!どうだ…敵さんはまだ来ないか?」
ビットは、黒豹の傍らにドスッと腰を下ろそうとした。だが、その大きすぎる身体は鋸壁に隠しきれなかった。どうしても身体の一部が、はみ出てしまう。
「今のところ、遠巻きに取り囲んで、火矢と焼け石を撃ち込んで来るだけだな」
「はははははは。奴ら、何度も痛い目に遭わされてるからな、びびっとるわい」
ビットは豪快に笑った。だが黒豹は、わずかに頬をひきつらせただけである。
黒豹にはわかっていた。敵はそんなに甘くない。
王国軍は自分たちを包囲して、自壊を誘っているのである。わざと手薄に見せた東門はその呼び水だった。黒豹が散々警告したにも関わらず皆、地獄への門を活路と思ってくぐってしまった。その結果がこれである。
「いっ!痛っ…」
「どうした!」
黒豹はビットの背中を見やった。肩に、矢が突き立っている。
ビットの巨体は傷だらけだった。
これまでも何本か矢を受けたらしい。まだ鏃(やじり)が残っている傷もあって、血が流れている。
「おいおい、大丈夫か?」
「大丈夫かだと?ワシを誰だと思ってる。王国兵のへろへろな矢が、この筋肉を突き破れるはずがないだろう?こんなの唾つけとけば治るわい」
「そうだな、お前は『大熊』だった」
「そうよ。だがな、部下達は違うぞ。矢を喰らえば死んじまうわさ」
ビットは黒豹に何とかしろと言っている。
「ああ、なんとかする」
黒豹は、軽く頷いて周囲の王国軍を見た。
王国軍の将兵は整然と列を組んだままで、近づいてくる様子がない。
弓箭兵がこちらに向けて矢を一斉に撃ち放つのが遠目で見えた。
王国軍の弓は、反乱軍の矢が届かないような距離からでも悠々と届いてくる。イチイの木材で作った長弓は、命中精度ではボウガンに劣るが、その射程距離は凄まじい。城壁を越して街の中にまでも火矢が降りそそいだ。
「ビット。あれか見えるか?」
黒豹は、王国軍陣地の一角を指し示した。
「他の部隊は整然としているのに、ここだけは指揮官らしい男が、妙に右往左往しているんだ。俺は、ここを狙うつもりだが…どう思う?」
「おいおい、こっち側の敵は一番陣容が厚いぞ」
「だからさ。包囲が厚いからこそ、油断もある。そこにつけ込んでやろう。…部下は何人残っている?」
土壇場に来てこの男、生き生きとしていやがる。大熊は、黒豹の説明を聞きながら苦笑いした。
「ざっと、120と言ったところだな」
うめき声があがって近くに兵士が倒れた。バラバラと、降ってきた矢を受けたのだ。
「ちっ、119人になった」
「こっちは200くらいだ。…よし、全員で一点に襲いかかれば突破できる」
黒豹が剣を抜いた。双剣の使い手のようで左右それぞれに剣を持つ。
ビットは「おいおい!」と言いたげな顔をしたが、黒豹が本気であることを見ると力強く肯いた。
「おし、ヌシに任せた。…いっちょやったるか!」
ビットも背負った巨剣を抜く。並の兵士の身長ほどもある刀身が、ギラリと輝いた。
黒豹は、部下達に振り返り叫んだ。
「いいかっ!俺達はこれより、あそこを突撃をする。遅れず続け。仲間が倒れても立ち止まるな。後ろを振り向かずに敵陣を駆け抜けろ。俺が倒れたら大熊に続け。最後の独りになっても奴隷制度がある限り戦うんだ。いいな!」
兵士達は息を飲む。だが黒豹の並々ならない様子に覚悟を決めた。声一つなく、鞘から剣を抜く音だけが鳴り響く。
敵陣を、突破しなければ死。反乱奴隷達は今、死兵となった。
* *
反乱軍の立て籠もる城市マッキナーを包囲する王国軍。
「放て!」
投石機が跳ね上がると、空気を切り裂く音と共に巨石が青空に吸い込まれて行く。
「次の発射用意!急げ、急げ!」
兵士達が投石機に群がる。
指揮官の号令に従い投石機のアームを引き戻すと、積み上げた石の一つを六人がかりで運んで据え付けた。
「用意!…放て!」
轟音と共に再び巨石が青空に吸い込まれて行った。
手入れの行き届いた甲冑と、鋭い穂先が輝く長槍を立てて整然と列を作る兵士達。その列の合間を伝令兵が、武具のふれあう金属音を高らかに鳴らし駆け抜けて行く。
城市マッキナーの南側、王国軍の陣営の中心に、本営の存在を示す徽章と様々な色合いの指揮旗がたなびいている。中央にはためく指揮旗は全軍に攻撃を命ずる赤であった。
軍幹部達はこの場所で次々と寄せられて来る報告に対して指示を下している。
「街の北側でも火がついたようです。黒煙が上がりました」
「よし、次は風上の東側に狙いを集めろ!」
「第二軍団の弓兵隊から矢が尽きるとの報告です!」
「うむ。ただちに補給を送らせよう」
伝令兵が息を切らせて飛び込んできた。
「報告します!東門から脱出を試みた反乱軍は全滅しました」
「おおっ!」
「やったか!」
幕僚達はどよめきながら一斉に振り向いた。
「よし。そのまま監視を続けろ」
老将は満足げに頷いた。敵の主力を殲滅したことにより勝利は確定した。
将棋で言えば既に詰めの段階である。後は取りこぼしの無いように事を丁寧に運べばいい。
「将軍!全軍に突入をお命じください!」
本営に勤務する若い幕僚の一人が勇みきって立ちあがった。だが、老将は首を振って、机上の配置図に目をおろす。
「トザ将軍!」
老将は目で青年参謀を一瞥すると言った。
「司令官閣下のご命令は包囲である。突入ではない」
「しかし、今突撃を開始すればマッキナーはすぐにでも陥落します!」
青年の焦った様子に、老将は優しく諭す。
「若いの。焦る気持ちは判るが、急いては事をし損じると言うぞ。ここは司令官閣下のご命令に従い、敵が自ら滅んでいくのを遠巻きに見ていれば良いのだ。ここで無理に攻め込めば少ないにしても被害は出るでな」
「被害を気にしていて戦争はできません」
「ほう、そうか?死ぬのはそなたではないからなあ」
老将はそうつぶやくと、もう青年を相手にするのをやめた。近くの幕僚に声をかけ、矢の補給を急ぐように命じる。
その様子を見て、青年は苦々しい表情をしながらも座った。それ以外に彼に出来ることは何一つない。
「中隊規模の敵が西門を開いて突出!ワイド隊に向かって行きます」
「なに?」
駆け込んできた伝令の報告に青年は勇んで立ち上がった。
老将も感心したように「ほう?」とつぶやく。
一番包囲が厚い筈の西側を狙って来るとは、どうやら敵にも戦術を知っている人間がいるようである。敵を囲むときはどこかに逃げ道を開けておくと言うのが兵法の原則である。敵を死にものぐるいにさせない為である。敵はわざと開けた逃げ道に助かりたい一心で殺到し、こちらがあらかじめ用意して置いた伏兵によって倒れていくことになる。逆に一番包囲の堅い場所を狙って出てくる敵は、死にものぐるいであり、かなり手強いと思って良い。
「伝令!ワイドに伝えよ。今の場所を決して動くな、とな。ただちに増援を送る」
「はっ!」
伝令は一礼して再び駆け出した。
「騎兵大隊に出動を命じよ!」
「その必要はありません」
青年将校が、また口を挟んだ。
「所詮は悪あがきです。ワイドならばあれしきの敵、ただちに撃退して見せましょう。その余勢を駆って西門から突入することもできます」
老将軍はそれを聞くとあきれたように首を振った。
「司令官閣下のご意思は、水も漏らさぬ包囲によって敵を一人たりとも逃さぬことだ。マッキナーに突入することではない」
「しかし、籠城する敵に隙があれば一気呵成に突入してこれを奪う。それが兵法ではありませんか?ただ遠巻きにして石を投げ込む程度なら、子供にだってできます」
「ノース。お前達が戦功を焦る気持ちも判らないではない。しかし今度の司令官は儂と違って殊の外軍規にやかましい方だ。悪くすればミルンやエイゼル、サイラーの二の舞となるぞ」
「成功して見せればよろしいのでありましょう?さすればいかに司令官閣下と言えども文句はありますまい!」
老将は深々とため息をついた。
「ミルンやエイゼル、サイラーらも同様の言葉を儂に向けて言った」
「勝敗は時の運です!彼らは運が無かったにすぎません。話を蒸し返すわけではありませんが私は彼らの処刑には反対でした!」
トザは、これが若いと言うことなのだろうかと自問した。
いや、同じ二〇才であっても、自分の時はもう少し分別があった。勝敗は時の運など口にして恥じるところが無いのは愚か者の証拠なのだ。こういうのを匹夫と言う。さらに司令官の決断に対して後になってうだうだと言うのは卑怯者である。もちろん戦争は運の要素が大きい。経験を積めば積むほど勝敗が運に左右されることが判ってくる。しかし、少なくとも本営にあって、作戦や軍令を取り扱う者が口にして良いセリフではないのだ。作戦に携わる者は、万全の態勢で勝利できる指揮を執らなくてはならないのである。そうでなくて、どうして部下に『進め』と命令できるだろう。
「第一騎兵大隊をワイド隊の支援に出動させよ」
老将は命令を下す。だが駆け込んできた兵士の報告がそれを無駄にさせた。
「ワイド隊が持ち場を離れ、敵に向けて前進しています!」
王国兵達は、滅んでいく彼等を蒼然(そうぜん)とした表情で見つめていた。
反乱に加わった奴隷、およそ一〇万余。
一〇万人の老若男女が、炎に焼かれていく様は正視に耐えるものでは無かった。その叫びには耳を塞ぎたくなる。子供の泣き声が聞こえれば胸が引き裂かれそうになった。
彼等とて、一度(ひとたび)敵地に侵攻すれば、略奪と陵辱に暇(いとま)のない兵士達である。他人をとやかく言う資格はない。だが、彼等がそうするのは暴力と流血に酩酊(めいてい)しているからであり、死と隣り合わせの興奮に我を忘れているからである。今の彼等は素面(しらふ)であり故郷に妻や子供、あるいは恋人の待つ、良き父、良き夫であり、純朴(じゅんぼく)な青年でしかなかった。
突然西門が開いた。城内から敵の一群が西の陣営に向けて進んでいく。その数は三〇〇前後に見えた。
「持ち場から離れるな」「動くな」が命令であったから、彼らはその場所から一歩たりとも動くことは無かった。立てた槍を強く握るだけである。
しかし不動を決めていたはずの王国軍の陣営の一角が突如乱れた。西門の正面を包囲する千人隊長のワイドが指揮下の部隊を率いると、西門から突出を始めた反乱軍に向けて前進を始めたのである。ワイド指揮下の戦力はその名が示すようにおよそ一〇〇〇人。敵の三倍以上の戦力であり正面からぶつかれば、反乱軍は一瞬にして粉砕される。王国兵はそう思って眺めていた。
「何をしているか、あの馬鹿者め!」
突如、凛とした声が響いた。
兵士達は背後からの声に振り向く。
鋭い視線で戦場を見据える馬上の人に兵士達は唖然とした。これまで遠目でしか見たことのない、本営にあるはずの姿が自分たちの背後間近にあった。
紅蓮の炎のような鮮やかな紅髪。ルビーのような深紅の瞳。褐色の肌に小柄な体躯。白銀の胸甲をつけた姿は少年のようにも見える。だが、細いながらもプロポーションは女性のそれである。凛とした声は耳に心地よく、整った顔立ちは中性的で美しい。惜しげもなくさらす手足が兵士らには眩しかった。
「そこの兵士!」
突然に呼ばれた為、誰のことを言っているのか判らない。だから反射的に三人ほどの兵士が馬上の女性に駆け寄った。
「一人で良い。ただちに本営のトザに注進せよ。ワイド隊が持ち場を離れたとな!」
兵士の一人が脱兎のごとく駆け出した。
「馬鹿は死んでも治らぬと言うが…なんとも情けない話よ。あやつらは僚友の死を教訓とすることもできないのか?」
彼女はそうつぶやくと馬の首を巡らせた。
ワイドは焦っていた。
「このまま戦争が終結してしまったら、何のために殿下にお骨折り頂いたかわからない」
その呟きが彼の切羽詰まった心境を物語っている。
彼の後援者は、彼がこの戦いで戦功を上げることを期待しているのである。まだ若いにも関わらず千人隊長と言う地位につけられたのもその為であった。ここで誰もが認めるような戦功をあげれば、彼の地位はさらに高くなるだろう。それによって彼の権限と指揮下の戦力が増すことが、後援者の最も期待するところである。
「全軍前進!」
司令官の命令は承知していた。命令に違反した僚友の末路もその目で見た。しかし、それでもあえて出撃を命じた。副官と主席百人隊長が反対の意見を口にしたが「ではお前達は直属の指揮官たる俺の命に従わぬのか?」と問うと二人とも黙らざるを得ない。
「前進せよ!」
千人隊長であるワイドの指揮下には千人の部下がある。千の兵士が槍を並べて三〇〇足らずの敵に向けて進むのである、勝利は容易なものであると思われた。
一気に敵を粉砕して、その余勢を駆って西門から城市に突入する。それがワイドの作戦である。敵の立て籠もる城に一番乗り、それはかなり上位につけられる軍功であった。さらに反乱の首魁ルンバーニを捕らえることができれば、今回の戦役における軍功一番となることは間違いないだろう。さすれば軍団長を飛び越して将軍位も夢ではない。
反乱軍とワイド隊は真正面からぶつかり合うかと思われた。しかし、反乱軍は突如振り返ると城門に向けて全速力で退き始める。ワイド隊はそれに釣られるようにして西門へと向った。
これが、我が軍をおびき寄せようとする敵の何らかの策であることはワイドにも判っている。だが、罠を承知で力づくで敵をねじ伏せる。もし敵が自分たちを城内に誘い込むつもりなら、このままもつれ合うようにして一緒に城に突入する。ワイドはそう目論んでいた。しかし元来重装備の王国軍に対して反乱軍は軽装である。まともに追って追いつけるものではなかった。自然、隊列は乱れ、後方に長く延びてしまう。だが城に突入することばかり考えていたワイドはそのことには全く気がつかない。
「そろそろどうだ?ワシは疲れたわい」
黒豹は「まだだ」と首を振った。
西門が目前に迫る。
「どうだ?」
「まだまだ」
反乱軍がほとんど城門の目前に来た瞬間である。「よし!振り返えれ!」と声を上げながら黒豹は振り向いた。
たちまち隊列を整える反乱軍。対する王国軍の将兵は隊列を立て直すこともできない。
「今だ!突撃!」
黒豹の号令一過、反乱軍は王国軍に襲いかかった。死にものぐるいの死兵である。反乱軍三〇〇人に対して王国軍は一〇〇〇人、ただし細く長く延びきっている。
竹を割るように王国軍は切り裂かれて行った。鋭い鉈のような反乱軍によってワイド配下の王国軍は一瞬の内に粉砕された。
大熊ビットの大剣は王国軍の兵士を楯ごと吹き飛ばし、黒豹ゲルニックの暫撃は敵の兜をスイカのごとく打ち砕く。立ちはだかる者にとってそれは災厄でしかない。しかもそれに続く反乱軍の兵達は、死を覚悟した死兵、鬼のような形相で迫ってくる。王国軍の兵士達は敵の鋭鋒を避けると目前を行く反乱軍に手を出さず見送った。
「戦え!戦え!」
あくまでも戦えと命じるワイドの声がむなしく響く。
敵に背を向けた兵士を捕まえては反乱軍に向けて進めと叫んだ。だが全体の流れを変えることはできそうもない。もともと兵士達もこんな男の命令に従って死にたくはないと思っている。そうこうしている内に反乱軍の一団が目前に迫った。ワイドはうろたえつつも剣を構えた。だが構えた瞬間には大地に倒れ伏していた。黒い影の一団が通り過ぎたと思ったとたん、その顔面は割れたザクロのようになっていた。
「今のなんだ?」
大熊ビットは血に染まった大剣を肩に担ぐようして黒豹に訊ねた。
「さあ、なにかいたような気がしたな」
黒豹はまるで何事もなかったかのようにうそぶいた。
「ワイド隊は崩壊!千人隊長のワイドは討ち取られた様子です!」
伝令の報告を聞くとトザは、傍らで呆然と立ちつくす青年将校ノースを見た。
「戦死か…愚か者にふさわしい末路だな。しかし配下の兵士達は罪もないのに巻き添えになる。何か意見はあるか?対策は?」
「い、…いえ。ありません」
この瞬間、トザはノースを見限った。作戦は運頼み。挙げ句の果てに一局面の敗北に心を捕られてしまい、指揮を放棄してしまう。これでは人を指図するだけの器量がないと判断されてもやむを得ない。このような男には、それにふさわしい役割がある。
「ノース…司令官閣下がお戻りになられるからお食事の支度をせよ。それが済んだら、陣払いされるだろう。閣下のお荷物はそなたが采配して王都に移送せよ、いいな。それと、もうここには顔を出さなくてよいぞ」
「は、はあ」
うなだれながら去っていく背中も見ず、トザは伝令兵を呼びつけて後の処理を続けた。幕僚達もそれぞれに忙しく、ノースの事などに気をかけている暇がないのである。
ノースが去ったあと入れ違いに入ってきたのは紅髪の女性であった。出て行った者とは対照的な颯爽(さっそう)とした気配に周囲の者も一瞬気を奪われた。そしてその鮮やかな美しさに目が釘付けになる。
「爺っ!中隊規模の敵が西の包囲を突破したぞ」
トザは笑顔で応じた。
「姫。既に麾下の騎兵隊に追撃を命じました」
「うむ、そうか…だが樹海に逃げ込まれるな。敵の根絶はこれで難しくなった」
従卒が運んできた椅子をトザの隣に置かせて腰掛ける。
「大丈夫でありましょう。逃げた敵は僅(わず)かです。もはや反乱を続ける力はありますまい」
「いや。あたしはそうは思わない。確かに逃げたのはたかだか二〇〇かそこらだ。追撃によりさらに半分に減らすこともできよう。だが、反乱勢力は樹海に逃げこんでしまった。たった一人でも生きていれば、いずれ一〇人になり、やがて百人、千人となる。しかもあやつらの指揮官、並ではないぞ。将来に禍根を残すことになる…残念だ」
「姫のお言葉通りで」
「爺。姫ではないだろう?」
「ははは、これは申し訳ありません司令官閣下。しかしそう言うことでありましたら私も『爺』ではなく、せめてトザと呼んでいただきたいもので」
トザの言葉にモームは笑った。そし周囲を見渡す。
「さてと…何かし残したことはあるか?…無いな。では、あたしは一足先に王都へと帰る!後の処理は副将トザに一任するぞ!」
モームはそう言うと、立ち上がった。
幕僚達は恭しく敬礼する。それは自分たちに勝利をもたらした司令官に対する敬意のこもった礼であった。
スプリッツアー王国王女モーム=ロ=ワイヤル。この時、十八才であった。
* *
スプリッツアー王国、王都キール。
小高い丘の頂に王宮、その周囲を貴族、廷臣らの屋敷が取り囲む。さらに官僚、商人らの邸宅が丘のすそ野に続いている。麓には市民一般の住宅街や市場、あるいは公共の建物などがあり、それらを含めた街全体を城壁が取り囲む城塞都市である。
その王都に、飛行船グロッグ号が近づいていた。
別に珍しい光景ではない。この国の首都キールには毎日数十隻の飛行船が入港し、あるいは出航していく。ここしばらくは内乱が続いたせいで、数こそ減ったが船の入港が途絶えるようなことは決して無かった。
上空から王都を見下ろすと緑の海にぼっかりと浮かぶ島のように見える。石造りの城壁。白い街並み。美しい邸宅、そして頂上には壮麗な王宮が周囲を睥睨(へいげい)している。街全体が一個の王城のようにも見えた。
「速度を半速に落とせ!」
船長の命令が伝わり、甲板の下で響く木槌の鈍い音がテンポを落とした。
舷側の両側に据えられたプロペラが回転の速度を落とし、それにつれて船足も遅くなる。
入港の支度に甲板上はにわかに活気づいた。甲板長の叱咤が響き、乗員達は忙しく駆け回る。だがこれらの入港作業も見慣れてしまえば退屈でしかない。モーム王女は船首の甲板から次第に近づいてくる王都をぼんやりと見下ろしていた。
その姿は凛々しい戦支度から、街娘のような軽装へと変わっていた。華やかな衣装をまとう立ち姿と傍らに立てかけている剣との取り合わせが奇妙でもある。
相変わらずに大きな都市だ。
その久しぶりの光景には感慨にも似た気分がある。
そこは彼女が生まれ育った街であった。幼かった頃は、よく侍女の目を盗んでは王宮を抜け出して、活気にあふれた市場の喧噪に紛れ込んだものである。何が面白いと言うわけではないが、街の喧噪に浸るのが好きだったのだ。知り合った悪童達を引き連れて悪事も随分と働いた。店に並んだ果物をかっぱらって女主人に叩かれたこともあった。でもそのおかけで庶民の生活のなんたるかも知ることが出来たし、散々尻を叩きながらも結局、果物を与えてくれる庶民の寛容さには、幼心に感動したものである。
「美味いかい?」
そう言って微笑んだ女主人に、モームはなんとも言えない優しさを感じたものである。
そんな彼ら庶民の生活を守る。彼女が戦陣に身を投じるようになったのもその一心からなのである。
一五歳での初陣以来、五度の戦争に従軍。内、四度の戦いで指揮杖を任された。もちろん実力などではなく、王女と言う身分故と心得ている。だがそれらの全てを大過無く勤めたとなれば自分を褒めても良いのではないかと思う。もちろん百戦百勝とは言わない。自分は華麗な戦術を考案する知将でもなく、また将兵らの先頭に立って敵をなぎ倒して行くような猛将でもない。ただ、部下の進言に耳を傾け、是を是、否を否として命じるだけ。だから戦場での采配が上手く行かずに惨めな敗走も味わったこともある。それでも意気のくじけた兵士を励ましては劣勢を挽回し、最終的な勝利をつかんで来た。それが指揮官としてのモームの在りようであった。
改めて王都を見下ろす。
いつもならこの光景に充実感を感じるはずである。だが、今回ばかりはそれが無い。ひんやりとした空の風も、蒼い空もくすんで見えるだけであった。
勝利に飽きたのだろうか。否、それほど傲慢になってないと思う。
では、戦いが楽だったからだろうか。
確かに今回の戦争は楽であった。
侵略戦争につきものの後ろめたさもない。防衛戦争の怒りと憤りもない。惨めな敗走もなければ、血沸き肉踊る大会戦もない。ただ、反乱軍を追い立て、追い込んで包囲すると言う、淡々とした作業の繰り返しでしかなかった。身勝手に振る舞う若手の将校三人を処刑したのも軍規に照らして処罰したに過ぎず、良心が疼くという事もない。いや、かえって厭戦気分に浸っていた兵士は士気を取り戻し、部隊が采配通りに動くようになった事を思えば良かったことと思える。
では、いったいなぜなのか。
本来、トザのものである勝利を後から来て横取りしたと言う罪悪感からだろうか。
そう、確かにそう言う部分はある。当初、反乱討伐軍の司令官はトザだったのだから。しかし、自分が出陣したのはトザの要請によるものであった。
モームの傅役であり軍学の師でもあるトザは、彼女が幼かった頃、口癖のように言っていた。『戦場における最大の敵は味方の顔をしている』と。今回はそれを証明するような戦争だった。本来の部下から切り離され、押しつけられた兵士は寄せ集めの混成部隊。中級指揮官は経験の浅い青年将校。しかも出自や後援者の存在につけあがって好き勝手のしたい放題である。こんな部下を率いらなくてはならないとすれば、たとえ名将であっても苦戦せざるをえない。トザにとっては自分の部下こそが最大の敵だったのだ。
階級社会の軍隊であっても部下達の多くは皆貴族出身。平民出身一兵卒上がりのトザの指揮を快く思わない将校も多く、軍規違反だからと言って処罰を強行すれば部下に反感が広まり軍全体が動かなくおそれがあった。結局、トザは自らの誇りや外聞などを二の次にして王国の勝利を優先させることとした。そしてそれは最高の効果をもたらすこととなる。
王女モームの命令となれば出自を誇る貴族らも有無を言えない。冷厳な処罰によって弛緩した軍規は緊張を取り戻し、部隊はさながら機械のごとく自在に動くようになった。トザの考案による作戦は全て上手く行き結果としては大勝利である。指揮官にあるまじき振る舞いではあるが、モームは戦場から早々と引き上げると言うことでトザが手柄を上げる余地を残した。残敵の掃討戦でトザも褒章を受けることになり手柄の横取りと言う気分もこれでかなり鎮まるはずだ。…なのに鬱々として楽しめない。
結局モームは自らの気分の低調の原因にを見つけだすことは出来なかった。
女子供も含めた一〇万人余を殺戮したと言う事実、如何に反乱奴隷と言えども殺戮者となったと言う事実が彼女の心の中に静かに、そして重たくのし掛かっていたのである。
「高度下げ!」
船長の号令が耳元で響き、突然我に返った。
船の天空を覆う風船から、ガスが排出される。ゆっくりとした降下が始まり、落下の気分の悪さを感じはじめた。高度が下がることで冷たい風が次第に温もってきて、港の桟橋が次第に大きくなっていく。
「姫様…入港いたします」
いつの間にか側に立っていた船長から報告を受けると、モームは小さく頷いた。
「ああ、ご苦労。実に快適な旅であった…また機会があればまたそなたの船を利用させて貰いたい」
王女からの過分とも言える、ねぎらいの言葉に船長は素直に感動した。
「ありがとうこざいます。次回のお忍びの折りも是非お声をおかけ下さい。例え世界の果てにおりましてもこのグロッグ号、直ちに馳せ参じてまいります」
「そうか、その時は頼む」
モームはそう応えると下船の支度をするために船長の前から離れた。
王都は勝利の知らせに沸いていた。
人々は勝利を喜び、口々にモームを讃える。まだ陽も高いというのに酒場では乾杯の声があがる。楽器がかき鳴らされ、市場は久しぶりに活気で満ちあふれていた。
「乾杯!」
ここでも王国軍の勝利を祝って喜びに満ちた声が上がった。
丘の中腹にある屋敷の一室でのそれは、ささやかな祝宴であった。二つのグラスが甲高い音を小さく立てる。
「でもお嬢様、喜んでばかりはいられませんわ。…これで婚礼の儀の先延ばしも難しくなってまいります」
「ええ」
お嬢様と呼ばれた女性はうつむき加減に言った。
それは線の細い儚げな美女であった。
細くて長い黒髪は絹のような輝きに満ちていて、細くも太くもないスタイルは天与の黄金律を描いている。褐色の肌はなめらかであり、その片手の小さなグラスの中で真紅の果実酒が揺れていた。
「でもね、サクラー。わたくしはまだ婚礼の儀を先に延ばす方法があるのではないかと思うのです」
「どのような?」
サクラーと呼ばれた侍女が首を傾げた。見たところ歳の頃三〇前後。その表情からは意思の強さと知性とを感じる。抜きんでている程ではないにしても魅力に溢れた女性である。「我が国は、つい今し方平和を取り戻したばかりです。街の外を見れば畑は荒れはて、人々はその日の暮らしにさえ事欠いています。街を見れば商店からは品物が無くなり、さらに長い戦いと相次ぐ敗北で、国庫も尽きかけておりましょう。王都が、いいえ王国が、かつての繁栄を取り戻すためには、しなくてはならないことが山積しているのです。少なくとも市民の暮らしが旧に復するまでは、婚礼の儀は延期するべきです…この言い方ではどう?」
サクラーは頷いた。
「さすがお嬢様…それほどにしっかりとしたお考えであれば、お父上も国王陛下も、重臣の方々も皆、納得なされるでしょう」
「ありがとう、サクラー」
「ですが…」
「どうしたの?」
「問題はジルコ王子。果たして、あの王子様が承諾されるでしょうか?」
「無理だな」
突然の声に二人は振り向いた。
「モー…」
サクラーは最後までその名を呼び切ることが出来なかった。
なんと声の主が窓枠に腰掛けていたのだ。どうやって二階まで壁をよじ登ってきたのか…その唐突さと予測の出来ない振る舞いには、その性格を熟知していたとしても唖然とさせられる。
「帰ってきたぞクライン」
「モーム様…お帰りなさいませ。いつお帰りですか?」
クラインは親しみを込めてモーム王女を迎えた。
「たった今だ。商船を使ったから、煩わしい出迎えもはぐらかすことが出来た」
「戦勝おめでとうございます。これで四度目ですね。凱旋式が楽しみですわ」
「ああ、そうか…四回にもなるか」
落ち込んだ気分を引きずっているのか興味が無いかのように頷くと、窓枠から室内にぴょんと飛び降りた。
「何事も無かったか?」
「はい。お陰様をもちまして王都の安全は保たれております。モーム司令官閣下もご健勝そうで何より」
「他人行儀な物言いは止せ。背筋が寒くなる」
剣を壁に立てかけると、巨大なクッションに身を沈ませせるようにして座った。
「サクラー、何か飲み物をくれぬか?」
サクラーは名を呼ばれてやっと我に返った。「た、ただいまお持ちいたします」と言って小走りに部屋を出ていく。
「相変わらずのお転婆ぶりね」
「もちろんさ。あたしは幾つになっても変わらないぞ」
二人はお互いの顔を見合わせて笑った。これでも二人は同い年なのである。
しばらく微笑み合った後、モームは表情を引き締めて訊ねた。
「兄様の件だが…このままでは、どうにもならなくなるぞ」
クラインは目を伏せるとモームの隣に腰を下ろした。
「良きにつけ悪きにつけ、戦争は終わった。兄様にとっては、クラインとの婚礼を延ばす理由はこれで無くなったことになる。民の窮乏も国庫の状況も、気にするような性格ではない」
クラインは俯いた。
「悪いことは言わぬ。逃げるのなら今の内だぞ」
モームもクラインの本心は知っていた。
「我が兄ではあるが、正直言ってあの男の妻となったら不幸になるのは目に見えている。野心ばかり強くて、身の程もわきまえずに玉座すら狙っておる。側近、取り巻き連中は馬鹿ばかりで、諫めようともせずに煽るだけだから何につけても自分が一番だと思い上がっている始末だ。このままだといずれ暴走して身を滅ぼすだろう…」
そう言いながら大きく延びをするとクッションに倒れ込むようにして横になった。
「ああ。ジルコ兄にも困ったものだ…なあクライン。何か良い方法は無いものか?そなたの霊感は何も告げぬのか?」
クラインは首を振ると、グラスに残った果実酒を飲み干した。
ドアの向こうでサクラーの叫ぶような声がして、クラインとモームは顔を見合わせた。
「お待ち下さい。ちょっと殿下!…クライン様!ジルコ殿下がお見えです」
サクラーの声にモームは顔色を変えた。
「やばい!」
逃げだそう身を起こして、壁に立てかけた剣を掴んだがもう遅かった。
ドアを開けるのももどかしく、突き破らんばかりの勢いで巨漢が飛び込んできたのである。クラインはビックリして立ち上がった。
「王子様!ご婦人の部屋に許しもなく入るなど失礼ですわ」
サクラーがクラインの代わりに抗議した。
「まあ、まあ、いいではないか。どうせ、すぐに我が妻となられるのだから。着替えならば手伝うぞ、外出するのであれば供をしようか」
そう言ってクラインの元に駆け寄った。
男は背丈がクラインの倍もあるような巨体であった。もちろん実際に測って倍なわけではなくそれほどに見えると言う意味である。その腕は女性の腰回りほどもあり、山のような筋肉が全身を覆っている。
「我が妻よ…既に聴いているだろうが、モームより戦勝の報告が届いた。これで延び延びとなっていた我らの婚礼の儀もあげられよう。兄孝行の妹だ」
「実は、お話があります」
小さい声ではあったがクラインは毅然として言った。
「おおっ!式の日取りのことか?招待の客のことならば直ちに侍従長を呼ぶぞ」
クラインは首を振る。
「婚礼の儀をもう少し延ばしていただきたいのです」
「何故だ!」
その大声にクラインは目をつぶった。心臓が縮み上がり鼓動が一瞬停止する。
「王子様…もう少し穏やかに」
サクラーの忠告にさすがのジルコも申し訳なさそうに口を閉じる。
クラインはサクラーにしたような説明を目前の男に繰り返した。
「殿下。今は婚礼の式典に費やす費用があるならば少しでも民の負担を和らげるべきなのです」
「なるほど…貴女の考えは判った。で、我らはいかほど待つべきなのかな?」
クラインはサクラーの顔をチラリと見た。
「少なくとも二年」
「長い!精々三ヶ月で良い」
「しかし、それでは短すぎます…復興に一年、収穫に一年。どうしても二年が必要です」
「クライン殿。そなたの愛国心には俺も嬉しく思う。だが、たかが婚礼の儀くらいでこの国がどうかなってしまうとお思いか?」
「既に屋台骨は傾いておるぞ」
横からの声で、ジルコは初めてモームの姿に気づいた。
「おうおう、救国の英雄がなんでここにおるのだ?いつ帰った?どうして王宮に戻らぬ」
「モーム様はつい今し方到着されたところなのです」
クラインがかばう。
「兄様…ここはクラインの言葉に従うのが筋だぞ。国土の荒廃と民の困窮を省みずに婚礼の儀を強行して果たして市民はなんと思おうか?」
「市民がなんと思うかだと?支配者たる王族が何故民の感情を気にかけねばならぬのか?」
「兄様は気にせずともクラインは気にしておる」
ジルコはクラインを振り返った。
「よいかクライン殿。そなたはいずれこの国の女王となるのだぞ。いちいち些末な事に気をかけずとも良い」
「まだそのような世迷い言を!」
「うるさい!」
「次の国王はギビュー兄と決まっておろう」
「モーム様の言うとおりです。王太子殿下をさしおいてそのような事が許されるはずありません」
「いいや、誰がなんと言おうと次の国王はこの俺だ。ギビューが王となればこの国は長くは保たない」
「しかし、国王陛下は…」
「親父だって俺の実力を知れば考え直すに決まっておる」
「実力?拳闘のか?確かに兄様は強いな、確か四一勝だったか?」
「四二勝だ!…違う!俺が言っているのはそのことではない。政治、軍事、宮廷内における人望の事だ。クライン殿の父上だって俺が次期国王となることに賛成してくれている」
「ち、父が?」
ジルコは笑みを浮かべた。
「そうだ。そなたの父だけではないぞ、イグリス男爵、ソルボ男爵、ベルイト子爵ら有力貴族達。軍部ではミルン、エイゼル、サイラー、ワイドらをはじめとした若手将校が支持してくれている。あやつらは今度の戦勝で出世するから俺の権勢は益々膨らむだろう。今や宮廷の半数が俺の支持者よ。なあモームよ、あとはお前の口添えさえあれば事は決するのだぞ」
「ははは。あたしの支持が欲しいのか?」
「そうよ。口惜しいが将軍連中は皆お前を信奉している。市民の人気もある。そのお前が次の国王は俺こそがふさわしいと言えばたちまちこの問題は解決するだろう」
「あたしはこの件に関しては無関心だ。ギビュー兄もジルコ兄も血を分けた兄妹だからな。あたしは中立する」
「ふん。賢(さか)しいやつ」
「それにだ、名前だけは並べたてたが兄様の支持者は皆、中級以下だな。公侯爵の者はおらぬのか?だいたい、ミルンらはもうこの世にはおらぬのだぞ」
ジルコはその言葉の意味が一瞬、理解できなかった。
「なんだと」
「ミルン、エイゼル、サイラーの三人は命令違反、独断専行などの罪状で刑死。ワイドは三倍もの戦力差を持ちながら数の少ない敵に正面からぶつかって敗死した。ようするに、皆、馬鹿者ぞろいだったのだ。…なんだ公報を読んでおらぬのか?」
「おい、モーム。あやつらを処刑したのか?」
「そうだ」
「俺に断りもなく?」
「当たり前だろう?まずかったか?」
「俺はあやつらを出征させる前に重ね重ね、トザに申し伝えておいた。あの者共は俺が後見しているからよろしく頼む、とな。にも関わらず処刑したと?」
「処刑したのはあたしだ。命令違反と独断専行、しかも指揮下の軍団は全滅している。軍律に照らしても照らさなくても死罪は当然であろう?」
「つまり俺より軍律を優先させたのだな?」
今にもつかみかかりそうな勢いであった。
「当たり前だ!あたしが出ていくまでの王国軍は連戦連敗。軍規は乱れ士気は下がりきっていた。それらは全てあやつらの独断と命令無視が原因だったのだ!あやつらは兄様の威光を笠に着てしたい放題。これではいくらトザでも勝てるはずがない。事のつまり王国を未曾有の危機に陥れたのは、兄様なのだ!わかっておるか?兄様が原因なのだぞ!」
「俺が原因だと?敗戦を俺の責任にするつもりか?」
「ふん。あたしは知らん。だが、こう言う論法はギビュー兄の好むところであったな。さすればクラインとの婚礼どころではないぞ。兄様の野望も露と消えることになろう」
「う…」
ジルコは長兄ギビューの青白い神経質そうな顔を思い浮かべた。
ギビューはジルコと違って学者肌であり、幼年の頃から哲学者、法学者、科学者について学び、論争術も心得ている。腕力勝負ならいざ知らず、論戦となったらあの男に勝てる者はまず居ない。あの男にかかったら無罪の者も有罪となり有罪の者も無罪となってしまうだろう。今、あの男に付け入る隙を見せるわけには行かなかった。
「兄様…悪いことは言わぬから自重してもらえぬか?今、クラインが言ったようなことを兄様が自分から申し出て婚儀を延期したとなれば、重臣どもも兄様のことを高く評価するであろう。さすればギビュー兄もわざわざ兄様を困らせるようなことをしようと思うまい。な、このとおりだ」
そう言ってモームは頭を下げて見せた。さすがにジルコもモームに頭を下げられるとそれ以上の事は言えない。
「…わかった。婚礼の件、クライン殿の言うとおり延期することとしよう。だがサイラーらの始末の件、決して忘れぬからな」
「ああ、わかったわかった。良いようにしてくれ」
ジルコは忌々しげにわざと足音をならしながら部屋を出ていった。床が壊れてしまうのではないかと思うほどのの音である。クラインは怯えて目をつぶり首をすくめた。
ルンバーニの反乱討伐に出撃していた王国軍が、副将トザに率いられて帰還を果たしたのはモームの帰還より一週間後の事である。モームが予見したように黒豹ら数百名の反乱勢を取り逃すことになったが、もはやその勢力は一軍を構えことが出来るほどでもなく、既に地方レベルの問題となっている。
国王キール四世は、王女モームの戦功に対して凱旋式の挙行権、そして離宮と荘園六カ所を与えた。それでも戦勝に対する報償としては少なすぎるとの声が元老院内であがったが、王族の一員であるモームに爵位など意味はない。となれば領地、離宮など物で賞する以外に方法が無かったのである。そして実際に手元を見て見れば分け与えられる物など長引いた戦乱で既に失われており、精一杯の賛辞を付け加えることでしか、モームの労苦に報いる術(すべ)が無かった。
将軍トザは国王から勲章と男爵位を賜り、貴族に列せられることとなる。
その他、従軍した多くの将兵らが報償を受け、またその功績に応じて昇進した。しかし処罰あるいは降格された者も少なくない。サイラーなど軍規違反の刑死組のみならずワイドなどの戦死者も命令違反などで容赦なく降格処分された。信賞必罰はモームのよって立つところ。ノースをはじめとする生き残りのジルコ派将校らにも地方への転属、降格などの処置が及ぶこととなったが、これについてはジルコ王子の口添えがあって見送られる事となる。
このような時局であったから、モームの凱旋式は質素を念頭に執り行われた。しかし、近隣の諸侯、大使らを招いての凱旋式が華美華麗にならないはずもなく、以前と比較して質素という程度でしかない。
磨き上げられた軍装をまとい、胸を張って行進する将兵の列を都の市民らは歓呼の声をもって迎えた。特に四頭の白馬に引かせた戦車に乗り、月桂樹を象った黄金の冠と白いケープをたなびかせながら行くモームの姿は華やかで、その姿を一目見ようと王都の市民達は沿道に並んだ。花が舞い、群衆の熱い視線と歓呼がモームに手向けられた。
国王キール四世を初め、王太子ギビュー、第二王子ジルコ、そして王家の親族が立ち並ぶテラスの目前に戦車をつけたモームは、颯爽と降り立ち、市民に向けて手を振った。
その時の地鳴りのような歓声には王都全体が身震いした程である。
テラスへの階段を駆け上がってくるモームの姿に、ジルコは嫉妬の思いが強くなっていくのを感じた。これほどに市民に愛されている。そして部下と兵士らに尊敬され、戦に出ればあたかも勝利の女神が乗り移ったかのような働きで王国に勝利をもたらす。どうして、それが自分では無いのかと思い悔しくてたまらない。闘技場における四二連勝、無敗の帝王、チャンピオンの称号も救国の英雄、凱旋将軍たる妹を前にしてはかすんでしまう。ふと、傍らのギビューの表情を伺った。唇を噛み、その手をかすかに振るわせながらモームを注視する姿を見ると、この男もやはり嫉妬を感じているのかと思っておかしくなった。妹の手柄と名誉を喜べずに何が王太子だと、自分のことを棚にあげる。そして、いささか屈折した感情から、上がってきたモームを過剰なほどの態度で歓迎してしまうのである。
「モーム!俺はお前のような妹を持つことが出来た事を名誉に思うぞ」
両手を広げて抱きつかんばかりの勢いのジルコにモームはいささか面食らった。
「いや、ど、どうも」
王太子ギビューも負けじと賛辞の惜しまない。
「私が国王となっても、この国の勝利の女神であり続けて欲しい」
二人の兄の笑顔を前にモームは思わず後ずさりしてしまった。
とりあえずこの場を逃れる為もあって、国王キールの前に進むと膝をつき、軍人としての礼節を示す。
「この度の戦勝、これ全て国王陛下のご威徳のたまものでございます。我、ここに全軍の指揮杖を奉還し反乱の討伐が終了致しましたことをご報告申し上げるものでございます」 格式張った口調に舌を何度か噛みそうになり参列者から苦笑が漏れたが、どうにかセリフの全てを言い終わってモームは立ち上がった。
「くくく。モームよ、これで四度目のはずだのに、まだ慣れぬか?」
「はあ。こういう儀式張った事は苦手で…」
そう言って頭を掻くモームには最早、威厳もへったくれもない。父親の前に立った、ただの小娘である。
「まあ、よいわ。堅苦しいのは余も苦手だからの」
国王キールは相好を崩しながら玉座から立つと、モームの肩を抱いて群衆の前に立った。その親娘の姿に市民達は歓呼の声をいっそう強くする。
背後に立つ二人の王子に聞こえないように国王はつぶやいた。
「お前、玉座が欲しくないか?」
一瞬何を言っているのかと思って父親の顔を見上げる。
「お前が女王となると言えば貴族、廷臣らも有無を言うまい。王国は盤石となり一層繁栄するであろう」
「しかし、女は国王にはなれません」
「誰かが定めたことでは無い。ただいつの間にかそうなって来ただけだ」
「しかし、王太子はギビュー兄で…」
「いささか、敵が多いようだの。細かすぎるのだ」
「では、ジルコ兄が」
「ふむ。近隣諸国には怖れられような。しかし、平和を乱すだけであろう」
「わらわは、…あたしは、そんな…」
「ふむ。その気がないか?」
「はい。父上の折角のお言葉ですが」
「では、どこか外国の王室に嫁ぐか?だが、そう言うわけには行くまい。今更そなたを他国の王家に嫁に出すなどど言っても市民が認めまいからの」
「はあ」
「ふむ、埒のない話をした、忘れてくれ」
「…はい」
「だが安穏にはしておられる期間はそう長くはないぞ、後ろの二人の為に王国は割れるであろうからな…」
国王キール四世は最後のセリフだけは口に出さずにおいた。そして、つくづくモームが男であったらと嘆くのである。
凱旋式の余韻がまだ残る中、モームは褒美として与えられた離宮へ向かうことにした。王宮に残っていると王族の一員として祝賀に訪れる隣国の大使や貴族、商人など賓客の応対をしなくてはならないからである。
離宮は王都から北に進んで船で半日行程のところにある荘園に付属する小さな城である。小さな湖に隣接する風光明媚な場所であり、先々代の国王が愛妾を囲うために建設したらしい。
「クライン、必ず遊びに来いよ」
「はい、必ず」
見送りのクラインも返事はしたものの、これから父親の待つカーレへと向かわなくてはならなかった。戦争が終わり、いよいよ忙しくなる父を手伝うためである。
カサンドラ伯爵家の領地は、王都キールより真南に下って飛行船で四日程の樹海の中にある。樹海を切り開いた樹海都市はそう珍しいものではないが、カーレはその場所、その役割からも特殊な存在であった。
カーレからさらに南方に八日ほど船で進むと、蛮地と呼ばれる地域に入る。
領地として一応王国の版図に含まれているものの、治める者もないままに放って置かれている。実際、蛮地がどの程度の広さなのか、奥行きを持っているか、そしてどの程度の人口なのか、調べる者も無いために誰も知らない。ただ判っていることは、住民達が小さな部族に別れ、抗争と略奪にあけくれた生活をしており、それを治める事はまず不可能だと言う事である。また金銭と言う概念もないために租税を集めることも出来ず、ここを治めようと考える者は無かった。
『カーレ』の領主カサンドラ伯爵は、この蛮地で大規模な奴隷狩りを行っては王国に運び、巨万の富を築いていた。
この世界での奴隷売買は当たり前のことである。
その需要は農園、鉱山をはじめとして一般の家庭に至るまで非常に幅が広い。どんなに貧しい家庭でも奴隷の一人は大抵置いている。実際奴隷と言っても様々でありその扱いは、それぞれの主人次第であった。
知識や特技のある奴隷は主人に愛され、時には主人の子弟の教師として教育を任せられるなど、かなり良い待遇を受けている。金銭で自由を買い戻すこともできるから、奴隷達はそれぞれに職務に励んで褒美を求めた。そして自由を得て一定以上の資産を蓄えると市民権すら手にすることも出来るのである。
だが、農園や鉱山で働く奴隷達は、粗末な食事だけで過酷な労働を強いられている。その扱いには天と地程の差が見られた。最も過酷と言われているのは漕役奴隷である。船の動力として毎日毎夜、狭い空間に押し込められ、体力が尽きて死ぬまでの間、極わずかな食料と水だけで船を漕ぎ続けるのである。そして船が墜ちる時も焼ける時も、鎖で繋がれたまま船と運命を共にする。
国内における奴隷売買の一切を任されているカサンドラ伯爵は、樹海都市『カーレ』を国内唯一の奴隷市場としていた。蛮地から駆り集められた者、戦争での捕虜、そう言った者も一旦はカーレに集められ、ここで氏名を登録され、その証の鉄輪を足首にはめられ、奴隷として売買されるのである。
大規模な奴隷の反乱が発生した事により国内の奴隷は不足気味であった。農園や鉱山はいくらでも奴隷を欲しがっている。故に、カサンドラ伯爵は、商人相手の商談に忙しく、クラインが父に代わってその家政を采配しなくてはならない。時には、商人を相手に商談をこなさなくてはならないこともあった。
「クライン様…冷えて参りました。どうぞお部屋に」
高度を上げて行く船の後部甲板から、次第に小さくなっていく王都を眺めていると、侍女のサクラーが声をかけて来た。
サクラーはかつては奴隷であった。クラインに仕えている内に、自分を買い戻すだけの金を貯め、自由を買い戻したのである。だが、クラインをどこかで妹のように思っているところがあって、今日まで離れずに来ている。クラインにとっても幼い頃より長年仕えてくれているサクラーは唯一気の許せる存在であった。
クラインは、サクラーに誘われるままに船室へと降りて行く。
漕役奴隷達の櫂を引くリズムを統率する木槌の音が、鈍く船倉から響いていた。
なま暖かいねっとりとした風が雨期の到来を告げていた。