『柊武譚』
ひ い ら ぎ ぶ た ん
−2−
たくさん 作
この作品は平成7年に制作されたものに手を加えたものです。
第一章【柊】
雨期も終わりにさしかかった頃。
滝のような豪雨が、樹海の葉を叩いていた。
太さが数十メートルもあるような巨木が、それこそ無数に生い茂る大樹海。
幹の太さに従って数メートルの径を持つ枝を見ると、人間が、虫にでもなったような気分になる。昆虫の見る森とは、まさにこのようなものかと思える。
枝の上だと言うのに、あたかも大地であるかのように苔がはえて草が生い茂り、水がたまり、別の木がそこに根をおろして天空へと向かっている。木々はまた枝葉を広げ、さらに別の木々の大地となっている。下界を見下ろせば闇が広がり底を見ることも出来ない。そもそも大地と言う物がこの樹海にあるのか疑わしくなってくる。天は緑の葉に完全に覆われ、空の青さも雲の白さも見ることが出来ない。ただ、木の葉の間からこぼれ落ちてくる大量の水で、外界では雨が降っているらしいと判る。
「ギャー!」
断末魔の叫びと共に、一人の男が暗闇の底へと落ちて行った。
後には、一人の青年が残っていた。
血を吸ったばかりの剣を、雨に曝しながら下段に構えなおし、そのまま目前の大男へと静かに正対する。肩で息をしながらも堂々たる構えである。
大男は、かつて『大熊』とあだ名された戦士、ビット=フンバウ。
ビットは、巨剣を片手で扱いながらも、目前の青年にどう身構えたものかと、困惑していた。
ビットは、彼の常識では考えも及ばないような出来事に遭遇していた。
彼の率いた部下は皆、激しい戦いを生き残った優秀な戦士達である。
その戦士11人が、たった一人の青年によって全滅させられてしまったのである。その光景を、その目で確かに見たにも関わらず、事実として受け入れることは出来なかった。とりあえず巨剣を頭上に構えたのも、戦士としての本能に従ったに過ぎない。
青年は、ビット達から比べるとはるかに白い肌をしていた。
髪も瞳も黒。
体躯は、しなやかそうではあるが、お世辞でもたくましいとは言えない。しかも裸の上半身には傷一つなく、上品な育ちをしてきたことがわかる。その挙動は、ゆったりとしていて柔らかく、動作は落ち着いて優雅さすら感じさせる。
下半身には、ビットの見たこともない異国の衣装をまとっていた。
我々は、ひざの抜けたそれを、『ジーンズ』と呼ぶことを知っている。さらに青年が構えている武器が、日本刀と呼ばれることも。
血に濡れた刀身は妖しく輝き、さらなる犠牲者を欲して血の涎を垂らしている。もちろんビットは日本刀など見たことがない。ただ、その異様な輝きを見せる片刃の剣を珍しいと思うだけである。そして、その凄まじいまでの切れ味には警戒心を抱かずにはいられない。部下の一人などは、頭から股までを切り下ろされ身体を二つに裂かれてしまったほどなのだ。
全身ずぶ濡れとなりながらも、青年は少しずつビットとの間合いを狭めた。
ビットは、つられるようにして巨剣を頭上に掲げ上げた。
それは渾身の力を込めて相手の頭に叩きつける備えであり、凄まじいまでの腕力で防御ごと相手を両断しようと言う乾坤一擲(けんこんいってき)の構えである。これまで無敵を誇ってきた、彼の必殺の戦法であった。
青年は、地に着きそうなまで下げた剣先をゆったりと揺らしながら、一歩、また一歩とビットに歩み寄った。
一歩、踏み込めば相手に剣が届く距離。この間合いを『死圏』と呼ぶ。
青年は、ビットの死圏の寸前にまで進んでいた。この間合いは別に『魔遭い』とも呼ばれている。ここで迷うことはまさしく死を招くことになるからだ。
ビットは今か今かと、剣を振り下ろしたくなる衝動に耐えていた。
青年は、それまでの無造作さとは打って変わって、この距離を保ちつづけようとする。神経が焼き切れそうな焦燥感の中で、ビットはあとすこし青年が踏み込むのを待っていた。
突然、青年が変化を見せる。
下段に降ろしていた刀を、すうっと頭上にまで掲げ上げ大上段に構えなおす。
この変化をビットは隙と見た。半歩ばかり余計に進んで、巨剣に全ての力を乗せて、叩きつけんばかりの勢いで振り下ろそうとした。
それに対して、青年の動きは見た目でも判るほど、ゆっくりだった。
全ては『刹那』に決した。
ビットの巨剣は空を斬り、青年の刀はビットの二の腕に舞い降りる。
呆気ないほどに呆気なく、勝負はついていた。
半歩、身をそらした青年の右側を通り過ぎて、ビットの巨剣が大地を割る。
青年の刀は、ビットの両腕を切断。巨剣が、それを握る両腕と共に地に落ちた。
「……」
構えを解いた青年は。切っ先を下に向け刀から血を払い鞘に戻した。
鞘の口金とハバキのかち合う音が、鈴を鳴らしたように、チンッと響く。そして、腕を失って呆然と立ちつくすビットにたいして、無造作に背を向ける。
「手が…」
ビットのつぶやきに青年の足が止まる。
「ワシの手がああああ!」
叫びあげながら柊に向かって突進するビット。だが、青年がその場に伏せると、足を取られてそのまま中空へと飛び出してしまった。
「わああああああ」
叫びと共に巨体が樹海の闇へと消えていく。それを見送った青年は、再び幹の方向に向けて歩き始めていた。
枝の付け根では、幹にしがみつくようにして女性が身を震わせていた。
「もう、大丈夫ですよ」
片膝をついて、顔をのぞき込む。
白い衣装は雨に濡れ、褐色の肌が透けて見えた。そこへ濡れた黒髪がまとわりついて、すこしばかり扇情的である。
女性は、青年に向けて震える手をゆっくりと延ばした。歯がかみ合わないらしく、声は出ても言葉にならない様子。
青年は、差し出された手を両手で優しく包んだ。そして人の良さそうな笑みで語りかける。
「もう安心ですよ。怪我はないですか?」
女性は肯くと、恐怖から解放された安堵感からかそのまま気を失って倒れてしまった。青年は倒れ行く体を、あわてて支えた。
軽い。その体は見た目でも細かったが、抱いてみると思った以上に軽い。
それでいて、柔らかそうな曲線を描いている。
肘も肩には擦過傷(すりきず)や切り傷がある。逃げる際にあちこちとぶつけ、あるいは転んだのだろう。だが、服が裂けていたり乱れている様子はなくて、乱暴はされてはいないようすだった。
「ここがどこか聞きたかったんだけどな。…ま、いっか。とりあえず歩こう」
青年は刀の下緒を肩に回して背負うと、女性の体を抱き上げた。
程なくして雨は上がった。
だが、高い湿度と木の葉から落ちる滴が体を濡らす。
さらに肌にまとわりつくような、ねっとりと湿った空気が漂い。濡れた体はいっこうに乾く気配がなかった。裾がぼろぼろとなって臑が剥き出しになっているブルージーンズも、足にまとわりついて歩きにくい。腰に巻いてあるかつてTシャツであったぼろ切れで、濡れた髪だの顔だのを何度となく拭いたが、やがて意味がないと気づいて止めた。
ため息をひとつついた。
「腹が減っていると体力が続かないよなあ」
いくら軽くても人一人を抱えて歩くのは、楽ではない。
気絶してしまうのも、案外楽で良いなと思う。少なくとも苦痛を味合わなくても良いのだから死ぬならさっさと死ねる。運良く誰かに助けられたとしても気が付くのは助かってからだ。
そう思って女性を見る。
女は楽で良いなと思った。別に女性蔑視のつもりはなかったが、そう思った。
よく見ると綺麗な顔立ちをしていた。
黒髪も綺麗で長いし肌は太陽で長期にわたって焼き上げた見事な褐色。スタイルも好みだ。そんな娘が前後不覚で横たわっている。空腹と疲労に困憊している状況でなければ、青年は男としてさぞ迷っただろう。だが、心身ともに疲れ果てている今、それがどれほど美人で艶めかしくとも、ただの重たいお荷物でしかなかった。捨てておくわけには行かないと思うから連れているに過ぎないのである。
この女性がどんな事情で賊徒に追われていたのかは知らない。
そもそも、ここがどこで、いったい何と呼ばれる場所なのかも知らない。
リアルな夢のようであり、また、嘘のような現実でもある。
自分が人を殺(あや)めたと言う事実も、なんだが現実では無いような気がする。ただ、どう否定してみたところで、今、自分が経験していることは見たことも聞いたこともないような深い森の中にいると言うことなのである。これだけは認めざるを得なかった。
天を仰ぐ姿勢で雨を全身で浴びる。
顔にかかる水の感触は温く肌にまとわりつく。髪から眉、目を伝わって鼻へと落ちていく水滴。どれもこれもリアルであった。
次第に呼吸が整い、体から疲れが抜けて行く。
再び気力が蘇り、動こうかなと言う気になってくる。このまま座していても何も変わらないのだから体力の尽きる前に、体力の続く限り歩くしかない。
青年は立ち上がった。
そして女性を抱き上げようとした時、周辺を取り囲まれていることに気づいた。
迂闊であった。だが、今更周囲に気を配ることをしていなかった自分を責めても仕方ない。二十、二十一…二十三人ほどの気配がある。右も左も、上にも下にも、前にも後ろにもである。
皆、手に短弓を構えていて青年に矢先を向けていた。
女性を追っていた賊徒の仲間かと一瞬身構える。だが、一瞥しただけで違うと判った。武装が違うのである。磨き上げられた鎧と楯。古代ローマか、ギリシャ軍の兵士を思わせる装備は、裸同然の賊徒のそれとはっきりと違っていた。
「クライン様をおろせ」
兵士の間から、指揮官らしい男が進み出て来た。たくましい肉体を象った鎧、剣も装備も他とは異なっていて立派である。なによりも群青色のケープが鮮やかだ。
「誰?」
青年はとりあえず問いかけた。
「我々は、カサンドラ家の家臣だ。言って置くが、周囲は完全に包囲している。逃げ道は無いと思え」
確かに、逃げ道はなさそうだ。だが、カサンドラ家がどんな立場なのか青年は知らない。
「あなたたちは、この女性に対してどういう立場?敵か、味方か?」
「我々は、クライン様に仕える身だぞ。だからこそ救出に来ている」
「では、味方と言うわけか」
信じたわけでは無いが疑う理由もない。まして抵抗できる立場でもなく青年は女性を降ろした。
「よし。ゆっくりとクライン様から離れろ。下手な真似をすれば矢を放つぞ」
その警告は冗談とは思えなかった。兵士達が弓をさらに引き絞ったから。
「言っておくけど、僕は味方だぞ」
「ふんっ。嘘も休み休み言えよ。我々に包囲されてから『味方』なんて言っても、誰が信じるか。剣を置いてゆっくりと下がれっ、早くっ!」
背負った刀を降ろすしかない。青年はゆっくりと後ずさった。
女性との間に充分な距離が開くと兵士達が駆け寄ってきて、青年を羽交い締めにして拘束した。たちまち縄をかけられて、腕を後ろ回しに縛られてしまう。
「ちょっと、待てって!」
どうやら、賊徒の仲間にされてしまったようである。「僕は違う」といくら叫んでも兵士達は手をゆるめたりはしなかった。
指揮官が、青年の前に立ちはだかった。
「随分と手こずらせてくれたな。このお礼はさせて貰うぞ」
言いながら剣先を喉元に突きつけてくる。
「だから違うって言ってるだろう?なんで僕がこんな目にあわないといけないんだ!そうだ、その娘に聴いてみろ。そうすれば誰が助けたのかはっきりする」
青年は、倒れている娘に活路を求めた。
「そうか?…では訊ねてみることにしよう。クライン様、この男がこう言っておりますが、いかがですか?」
指揮官はそう言って振り向く。だが女性は、気を失って横たわっている。当然答など得られるはずがない。
「何も、おっしゃられないが」
「あ、当たり前だろ?気を失ってるんだから」
すると指揮官はニヤリと嫌らしく微笑んで、青年の抗議を無視した。
「連れていけ」
「そんな!馬鹿な!」
青年の抗議はむなしく樹海の闇に吸い込まれていった。
樹海を進むと突然、開けた場所に出る。
そこには巨大な建造物があった。
建築中のビルのようなそれは、外壁が無く中の様子が見える。
問題はそこから見える人間のサイズだ。芥子粒ほどにしか見えないところから、その建物の巨大さを伺い知ることが出来る。
こんな巨大な建物は、東京にだって無い。
「でかいなあ」
青年は立ち止まって、つぶやいた。
「ほらっ、さっさと歩け!」
兵士の一人に突き飛ばされて青年は渋々歩いた。
近づくに連れて、その巨大な構築物が木造であることがわかってくる。樹海の巨木をそのまま、柱に、梁に用いているのだ。そして、その階層構造の一層ごとに建物があり、街がある。そう、これは建物などと言うレベルではなく、巨大な、立体的な街なのである。
やがて、しっかりとした作りの吊り橋が見えてきた。
人の手によって作られたそれは、目前の立体構造の街へと向かっている。
指揮官の男を先頭に、兵士達は隊伍を組んで渡った。
街の中は、複雑な構造とそこかしこに開けられた天窓のせいで下の階でも不思議と暗くない。人々のにぎわいは街のそれであり、喧噪と活気に満ちた雰囲気に、そこが見知らぬ場所であっても人里に帰って来たのだと言う安心感を感じた。
それまでの尖った気分と緊張が和らいで、助かったのだと言う気持ちに嬉しくなる。
誰も居ない森の中を彷徨って三日間。その昼と夜、何が起きるか何が襲ってくるかと言う不安と恐怖、そして空腹に生きた心地もしなかったのである。ここの人間が居る、と言う気配は、そんな緊張をさっぱりと解きほぐしてくれた。
青年は、階段を昇り、あるいは原始的な手動リフトで持ち上げられて、最上階へと上がった。
これより上には空しかない。
青い空。白い雲。樹海の湿った空気とは違う、乾いた風が体を包み、久しぶりにすっきりとした気分に浸る。見ると、空には飛行船が浮かんでいた。
街の最上階には、何隻もの飛行船が係留されていて、荷物の積み卸し作業がなされている様子が見えた。
よく見ると、どこに積まれていたのか沢山の人間が飛行船から下りて来ている。その様子はどこか、都心駅のラッシュアワーに似ていた。
「おいっ、お前はこっちだ」
兵士に、引っ張られる。
クラインと呼ばれた女性が兵士らによって丁重に運ばれて行くのを見送ると、かなり立派な屋敷があった。彼女は、そこに運ばれるのだろう。
青年はと言うと、指揮官に命じられるままに別の小屋へと連れ込まれる。そこは、むせ返るような血臭と、腐臭に満ちていた。
青年は両脇を兵士達に抱えられて、小屋の奥に置かれた丸椅子へと座らされる。
その容易ならない雰囲気を感じて鳥肌がたった。
「さてと、まず名前から聞こうか?」
指揮官の有無を言わせない問いに、青年は答えた。
「傀儡…傀儡 柊」
「クグツ ヒイラギ?…妙な名だな」
「同感だね」
確かに妙な名前だつた。
なんだか複雑ないわれのある先祖があるらしいが、そんなことは関心がなかった。この名前のせいで随分と損をして来た。だが、それと同じだけ得もして来たと思う。田中、佐藤はどこにでもいるが、傀儡と言う名は滅多にない。滅多にないと言うことはそれだけ覚えて貰いやすい。差し引きで帳尻は合っている。
「あんたは、誰?」
青年の問いに指揮官は苦笑した。
「俺か?俺はカサンドラ家の警護隊長のエウロパだ…さて、ヒイラギとやら。お前、お嬢様をどこへ連れていくつもりだった?」
柊は、ぶんぶんっと首を振った。
「めっそうもない。僕は、命がけで彼女を助け出したんだ」
「ほう。では、どうやって助けた?賊徒は、かなりの人数がいたはずだ」
「もちろん、やっつけたに決まってる」
「ほほう。するとお前は、10人以上の敵をたった一人で倒したことになるなあ」
そう言って指揮官エウロパは手近な兵士に振り向いた。
兵士達は苦笑で答える。かなり出来の良い冗談と思われているようだった。
「お前の言っている事が本当なら、お前は随分と腕の立つ戦士と言うことになる」
「敵は全部で12人。その程度なら、なんとかなる。僕は、これでも道場の家に生まれて、小さい頃から武術をやっていたんだ」
「ブジュツ?」
「荒蕪流」
エウロパは迷ったように周囲を見渡した。並べられた名詞を理解出来ないのである。
「コウブリュ?」
「剣法だよ。ま、マイナーすぎて知られてないけどね」
「それはいったいなんだ」
「うーん、まあ簡単に言えば戦いの技術かな」
「ああ、要するに格闘技か…つまり、お前はそのブジュツとやらで賊徒を倒したと言うんだな?」
言いたいことをわかってもらえたようだ。柊は、安心したように肯いた。
だが兵士達は声を上げて笑った。エウロパも笑う。
しばらくの間、腹を抱えて笑う。そして、それに飽きたように突然真顔になった。
「吊せ。少し痛めつけてやる」
「えっ!ちょっと、ちょっと!」
いくら腕がたつと言っても、縛られていては抵抗することも出来ない。
柊は兵士達に鎖でつり上げられてしまった。
ヒュンと言う風を切る音と共に背中に熱い激痛が走った。
バシ!と言う肉が裂ける音が、後に続いた。
息が止まる。それが強烈な激痛であることにあとになって気づくほど。
全身を身悶えさせて、柊は叫んだ。
「何をするんだっ!痛いじゃないか」
「そうか痛いか?大抵の人間はこうするとお喋りになるんだ。だが、もとからお喋りなお前はどうなるのかな?」
エウロパは、そう言いながら柊の体を乱打した。
その棒はよくしなう竹のようなもので、柊の肌が瞬く間に裂ける。
足、胴、胸、腹、腕、叩かれないところは無いと言って良かった。皮膚が裂け、血が飛び散る。柊は叩かれる度に泣き叫び喚いた。
「さてと、もう一度訊こうかな?仲間はどこにいる?アジトはどこだ?」
柊は泣きながら首を振った。
「知らない!知らない!」
「誰に頼まれてクライン様を誘拐しようとした?何が目的だ?」
「知らないっ!判りませんっ!何のことだかさっぱり理解できませんっ!」
知らないと答える度に乱打される。
何かを知っているのに拷問に耐えて答えないと言うのであれば、その精神力と忍耐力は褒めるに値する。だが、柊の場合は違った。答えようにも、何も知らないのである。この苦痛から逃れるためであれば、柊は知っていることはなんでも答えたに違いない。わずかでも材料があれば、嘘を作ってでも答えただろう。しかし、全く何も知らない状況では、知らないと言う以外に、何とも答えようがない。
柊の忍耐力とは関係なく、拷問は果てしなく続くこととなった。
* *
その日、クラインは街に出かけていた。
街と言っても家の領地カーレである。
幼い頃からよく知っていると言う気安さもあって、クラインは侍女のサクラーを一人伴っているだけだった。
買い物くらいは小間使いでも用が足りる。だが、たまたま、知り合いの商人に宝石購入の仲介を依頼するというついでもあったので自分で出かけることにしたのである。
宝石の購入と言っても、自分を装うための物ではない。クラインはそう言った装身具類については貴族の令嬢には珍しくいたって無欲であった。もちろん公式な行事などでの儀礼上身につけるのに必要なだけは持っているのだが、日常において、宝石で身を飾ることには極端なほど無頓着だった。父アブドゥークなどは、娘の無欲さにかえって心配になるほどであり、つい見かねて宝石商を呼んだりする。するとクラインは大抵地味で安価な宝石類を二、三を選んで済ませてしまう。クラインとはそう言う娘であった。
クラインのしようとしている宝石の購入とは、領地収入よりも交易を主な収入源とするカサンドラ伯爵家においては重要な事業であった。
この世界では、金銀貨の価値は基本的に安定している。資産として目減りする心配もなく、火災などの災害にあっても、その価値を損なうことは無い。だから流通、蓄財における基本的な通貨となっていた。しかし、いかんせん嵩張りやすく重たいと言う欠点がある。出来ることならば少しでも積み荷を減らしたい飛行船での交易には、敬遠されるのである。その為、金銀貨の代わりに宝石類が用いられるのが一般的であった。まだ、為替や手形と言うものが信用を持つには至っておらず、そのものに一定の価値を有しているダイヤモンドを初め、ルビー、オパール、サファイヤ、エメラルドと言った宝石類の原石が国際通貨となっているのである。問題は、これらが金銀貨と違って価値が安定しておらず、相場が上がったり下がったりすることにある。それだけにいつ、何を、どれだけ買うか、が重要だった。時に、相場が突然急落することもあり、下手を打てば一夜にして家財資産が半減すると言うこともある。
ある理由があって、クラインは父からこの相場に関わる部分の殆どを任されていた。当人としては、あまり気が進まないのだが、家の勃興にも関わる事でもあり、不承不承ながら引き受けている。
「お嬢様…ルビーの相場はここの所下がり気味ですが」
商人が、おそるおそると言った態度で現在の相場状況を解説した。
「ええ。存じております」
「今、お買い求めになるのはあまりお勧め出来ませんが」
少し太り気味の商人はクラインの表情を伺った。
クラインは目の前に並べられたルビーの原石サンプルを鑑定しながら答える。
傷もなく色も澄んでいて綺麗だ。大きさも良い。特級品として評価して良いだろう。
「そうね。でも、これから値が上がらないとも限らないし…ブラックオパールとサファイヤ…そしてルビー、それぞれ特級品を三カートンずつ。これならば、大きく損をすると言うことも無いでしょう…それでお願いします。決済はいつものようにして下さいますか?」
購入する品目をいくつかに分散させることでリスクを減らすのは相場を扱う者にとって当たり前の対応である。だが、商人はクラインがルビーにこだわった事に気づいた。
「承知いたしました。しかし、お噂通り見事な相場師ぶりですな。堅実なようでいて実は大胆。お嬢様を貴族にしておくのはもったいのうございます」
「まあ、お褒め頂いたと思って宜しいのですか?」
「もちろんでございます」
「でも生憎と、相場を生業(なりわい)として行くにはわたくし、臆病でして」
「クライン様とあろうお方がご冗談を…我々商人の間では、既にお嬢様の名声は噂を越えて、すでに伝説の域に達しているほどで」
「まあ、なんと言われてますの?」
「そう。例えば、損をされたことがないとか、未来を予測されるとか…一部の口のわるい者は、お嬢様を魔女ではないかと」
「人の噂って怖いですわね」
クラインは商人の言葉に、愛想笑いで応対すると席を立った。
宝石商は直々にクラインを門前まで送る。
「今後とも、ご贔屓を賜りますように」
「よろしくお願いしますね」
クラインが立ち去るのを恭しく見送ると、宝石商は血相を変えて走った。
「ルビーだ!…ルビーを買い占めろ!ついでにオパールとサファィヤも!出物はみんな買いだ!」
クラインがそれらを買い付けたと言う情報はカーレの商人の間にたちまち広まった。
彼女が選んだ品目は必ずと言って良いほど相場が上がる。商人達はクラインがどんな商品に関心を向けるかに、常に気を配っているほどである。今で言えばインサイダー取引なのだろうが、これで巨万の富を築いた商人は多い。クラインも良くしたもので、仲介業者を一人と決めることはせず、まんべんなく街の商人の所を回るので、大抵の商人はクラインの恩恵を預かっている。クラインが、次はどの商人の門を叩くか賭の対象になっている程だ。
「お嬢様?ルビーが上がるのですか?」
サクラーが不思議そうな表情をした。
「今度上がるのはオパールね」
クラインはしてやったりと言う表情で微笑んだ。
「魔女だなんて評判がひろまったら困るもの…」
そうつぶやくクラインを見てサクラーはつられるように笑った。
宝石商との交渉を済ませたクラインは商店街に立ち並ぶ品物を見て歩いた。
こうしたそぞろ歩きは、実はクラインにとっての楽しみの一つである。出来ることなら毎日でもこうして出かけたいのだが、なにがしかの理由がないとクラインが屋敷を出ることに執事メローネや警護隊長のエウロパが口をそろえて反対し、時にはいかめしい護衛をつけたがるので思ったとおりにならない。
しかし今日は宝石取引にかこつけての外出である。久しぶりの開放感に肩の力が抜ける。
街は行き交う人でにぎわっていて、活気に溢れている。店先に並べられる商品には遠国の珍しい品物もあって、それを見て歩くことに熱中していた。だから、短剣を突きつけられるまで後を付けてきている者がいることに気づけなかった。
「黙ってついてくれば、怪我をさせない」
背後の男はそう言う。
どうやら相手は複数であり、側に立つサクラーも別の男に刃物を突きつけられている様子である。クラインは仕方なく相手の言うなりに歩いた。
「これだから護衛をと申し上げたでしょう」
虜になったという実感が乏しいのか緊張感に欠ける。執事メローネの口振りがつい思い出された。
改めて周囲を見ると、完全に囲まれていて自分はとても逃げ出せそうになかった。だが、サクラーだけは逃げて欲しいと思って目配せをした。すると、サクラーは相手の隙を見て突然身をひるがえし、あっと言う間に雑踏の中に消えてしまった。その見事な早業には、賊徒達は呆然と立ちつくしていた程である。
一人だけ逃げた。クラインはそうは考えなかった。すぐに屋敷から兵士をつれて来てくれるだろうと思ったのである。サクラーはそう言う性格である。どうやら賊徒達もそう思ったようで、クラインを急かすようにして街から出た。
人気のないところに出てようやく賊徒達の人数を数えることが出来た。12人いる。
ジルコ王子を思わせるような巨漢がリーダーのようで、男達になにやら指図をしていた。聞き耳を立てると、クラインをこの場でどうこうしようと言うのではなく、どこか別のところへと連れていくつもりらしい。
自分を、カサンドラ家のクラインと知ってのことならば身代金目当ての誘拐だろう。だが、女であれば誰でも良かったのかも知れない。中にはクラインに好色そうな視線を向ける男もいて身の危険を感じないでもない。
なんとなしにこれから自分はどうなるのだろうと考えた。すると何故か脚が震え始めた。どうやら身体は恐怖感を感じているようであるが、頭の方は妙にはっきりとしていて冷静なのが不思議であった。
クラインが隙を見て逃げ出したのは半日ほど樹海を歩かされてからである。
突然、雨が降り始めて男達の注意がわずかにゆるんだ。またクラインの身を縛るでもなく自由にしておいたのも油断だった。クラインは前に立つ男を突き飛ばすと、必死で駆け出した。
賊徒達はクラインを諦めなかった。また、落ちそうになっている仲間を助けるために獲物を追うのを後に回すような間抜けでもなかった。まるで猟犬のように確実にクラインの後を追って来たのである。
しばらく走って息が切れたので休もうとすると、背後から追ってくる気配がする。休んでいる間もなく喘ぐようにして走ったが、その距離はどんどんと詰まっていくのを感じた。次第に足がもつれて、息が切れてどうにも走れなくなる。クラインはもう駄目かと思った。絶望のあまり、辱めをうけるくらいなら樹海の深淵に身を投げようかとも思った。
彼が、あられたのは賊徒達がクラインの前にまで迫った時である。
見たところ異国の人のようだ。クラインは青年の肌の色を見てそう思った。
その青年は、クラインと賊徒の間に割って入った。
「女の子を、集団で追いかけるとは、物騒なことだね」
「邪魔をするなっ!」
賊徒の一人が答える。
「そう言われてもな…どう見ても、鬼ごっこをしていたようには見えないぞ」
濡れた髪を掻き上げながらクラインを振り返る姿は、あまりにも飄々としていた。
危機感を忘れてしまうほどの場違いな態度である。
その青年の血相が変わったのは賊徒が剣を抜いた時である。まさか命までは奪うまいと思っていたようだ。だが、相手が本気だと見たのか青年は態度を変えた。
笑みを浮かべていた表情は冷たく凍り付き。軽口を叩いていた口はきつく閉じられて裂帛の気合いが叫ばれた。
「ひゅっ!」
殺気のぶつかりあいは、瞬く間に殺戮へと変貌した。
賊徒達は瞬く間に青年によって倒されていた。クラインはその光景をまるで芝居でも見るかのように眺めていた。雨の中、血しぶきが飛び、断末魔の叫びが樹海に響く。喉笛を斬られた賊徒の呼気が笛のように高鳴る。閃光のような斬撃がきらめく度に賊徒達は体の一部を失って倒れる。そして最後はリーダーの巨漢だけとなった。
その体格差。クラインの見るところ青年の不利は明らかだった。しかし青年はその巨漢をも見事に倒す。しかも、何事もなかったかのように穏和な表情に戻るとクラインに向かって微笑んだ。
「もう、大丈夫ですよ」
その声にクラインは安心した。
気が付いて身を起こす。
「まあ、クライン様お気づきになられましたか…でもまだお休みになっていて下さい。熱が下がってないのですから」
サクラーの声がする。見渡すと、そこは自分の部屋だった。
巨大なクッションに身を埋め、体には毛布がかけられている。
もともとこの世界には椅子とかベットの類はない。床に絨毯を敷いて、ベットにもなるような巨大な円形クッションを椅子として、あるいはベットとして使うのである。
額に濡れた布が乗せられていた。
「わたくしは…どうしてここに」
「はい。エウロパ様が、お嬢様を助け出したのですよ。雨に打たれたせいか熱を出されて三日も眠っておられました」
現実の記憶と夢の記憶とがごっちゃになって何がなんだかよく判らない。どこからどこまでが夢でどこからどこまでが現実だったのだろう。
「誰が助けて下さったの?」
「はい。警護隊長のエウロパ様です」
サクラーは笑顔で答えた。
クラインはその言葉の意味をかみしめる。
「本当にエウロパでしたか…」
「はい。それはもう大変な戦いだったと言うことですよ。でも、誰一人欠けることなく帰ってきて、お屋敷の者もみなエウロパ様のご活躍を褒め称えております」
「それは申し訳ない事をしました。折角エウロパが助けてくれたと言うのに、わたくしは夢を見ていたのです」
「そうですか。どんな夢です?」
「異国の殿方が、わたくしを助けて下さったのです。たった一人で賊徒の男達と勇敢に戦い、わたくしに手をさしのべて下さいました」
「まあ。もしかして、その殿方は白馬に跨った王子様ではありませんか?」
サクラーはおどけた口調で言うとクラインの額のタオルを洗って絞った。ひんやりとしたタオルを額に乗せられクラインは目を閉じる。
「あの方ではありません」
サクラーにもクラインの言う『あの方』が、ジルコ王子を意味しているのが判った。
サクラーの言う白馬の王子様とは、一つのイメージに過ぎなかった。
少女的な、理想の男性の到来願望を揶揄した言い方なのである。だが、クラインのような貴族に家に生まれた娘には、それは生々しい実体であり、特に、ジルコ王子との婚礼という現実が控えているとなると、白馬の王子様などと言う冗談も、冗談に受け取れない。しかもそれが望んでの結婚ならまだしも、そうでないのなら寂しい限りである。せめて夢の話ぐらい現実からかけ離れてもいいではないか。
「申し訳ありません。で、お嬢様の夢に現れたのはどのような殿方でしたか?」
「凛々しくて、勇敢で、山のように大きな男を相手にしても少しもひるむことなく戦っておいででした。優しい笑顔がとても印象的な方でした」
「まあ、それはまるで冒険物語に出てきそうな殿方ですね」
「そうね」
クラインはそう言いながら再び眠りについた。
この作品は、フィクションです。
琥珀のコメント
はうっ!!柊さんだ、柊さんだぁ〜〜☆☆
めちゃカッコイイです!
そして、なぜかおしゃべりです。
きましたよ、これは。
私のツボにぐさぐさぁっと。
今回は、クラインさんの出番が多かったです。
むむむ、この話はクラインさんがこれから柊さんに好意をよせていくという伏線なのかな?
ネタバレになってしまったらごめんなさい。
吊るされてごーもんを受けている柊さん。
イタイ、イタイっす(泣)
警護隊長のエウロパさん・・・・・・
よくも柊さんを〜〜〜(怒)
次回は、エウロパさんをせっかんするモームさんを希望(核爆)
モーム 「クラインの命の恩人に、なんという無礼を!!こいつめ、こいつめ!」
エウロパ 「お許しください、モーム様ぁ〜〜(泣)」
といった具合に・・・・・・・・・(超真星核爆)←イミフメイ
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