『柊武譚』
ひ い ら ぎ ぶ た ん
−3−
たくさん 作
この作品は平成7年に制作されたものに手を加えたものです。
第二章【妖刀】
樹海の中。巨剣が突き立っている。
無惨にも切り落とされた両腕が、切り口も露に柄をしっかりと握って離れない。
その肉は既に腐り始めている様子で、蛆や虫が大量にへばりついていた。それを、男達が取り囲んだ。
「こいつぁ…ビットの剣だぜ」
「そうだな」
「ってこたぁ…この腕はビットのか」
「言うな!」
「だってよう。あのビットが、大熊ビットがまさか…」
「黙れっ!」
遮ったのは黒豹ことゲルニックだった。
さらに何か言おうとする配下の兵士を、射るような視線で黙らせると、ビットの冥福を祈る為、静かに瞑目した。
「信じられないかも知れんがこれは事実だ。事実はしっかりと受け止めろ。さもないと先に進めなくなる」
黒豹は周囲を捜索させて手がかりになるような物が残っていないか確かめさせた。
ひとしきり探した後男達は首を振った。
「無いぜ。何も残ってない」
「大熊ビットを含めて、十二人が全滅かよっ」
「だが変だな。飛び道具の痕跡がない。矢も鏃も残ってないなんて、ただの斬り合いで負けるような連中じゃない」
黒豹はビットの腕を見つめた。
その場にいた一番背の高い部下に、剣を抜くように指図して目の前に立つ。
「どうすんです?」
「ビットのように構えて見てくれ」
「こうですか?」
部下の男は、黒豹の言うままに剣を掲げ上げた。
黒豹は側から小枝を一本手折ると、振り回しやすい長さに整える。
「その剣を俺目がけて、振り下ろして見ろ」
「えっ」
このまま振り下ろせば黒豹に当たってしまうではないか。そう思って聞き返した。
「いいから、振り下ろせ」
再度言われて、兵士は構えなおした。「ふんっ!」と、黒豹の頭めがけて振り下ろす。
黒豹は素早く身をかわして、下から兵士の二の腕を小枝で切り上げた。
「痛てて!」
部下は焼けるような痛さに思わず剣を取り落とす。
「うーむ。…違うな。もう一度だ」
実験台にされた部下は腕にみみず腫れが出来た。だが黒豹に逆らうことも出来ず、手でさすりながらも、もう一度剣を掲げた。
部下も今度は気を張った。先ほどの構えからは伺うことも出来なかった迫力があふれ出る。この男も黒豹の部下として各地を転戦した歴戦の戦士である。経験も腕前も、尋常ではないのだ。剣をしっかりと掲げ、黒豹の支度が出来るのを待つ。
今度は小枝を上段に構える黒豹。
「よし、いいぞ」
部下は渾身の力を込めて剣を振り下ろした。黒豹の頭を叩き割らんほどの斬撃である。
黒豹はサイドステップで剣の下から身を逸らした。そして、部下の腕を狙って小枝を振り下ろす。だが、空振りしてしまった。
「うーむ。…これは相当な手練れだな」
黒豹はうなった。
部下達は黒豹のつぶやきを聞いて戦慄する。黒豹がそれだけの評価を下すのを初めて耳にしたのである。それほどの人間が自分たちの敵にいる。もしかしたらその敵と出会うかも知れないと思うと身震いを押さえることが出来なかった。
「ともかく、ビットは倒された。そう言うことだ…カサンドラ伯の娘を誘拐するには、もっと別の手だてを考える必要があるな」
そう言うとビットの腕に背を向ける。
「よし、引き上げだ」
副官格の部下が仲間に命令した。
たちまち男達は樹海の暗がりに消えていった。
* *
病床のクラインを警護隊長のエウロパが見舞っていた。クラインが床についてすでに七日になる。熱がなかなか下がらないのである。
エウロパはこのカーレおよび、カサンドラ伯爵家の領内における治安の責任者である。まだ若いが目先が利き、かなり腕も立つので伯爵に抜擢されて今の地位を任されていた。
「クライン様、お加減の程は…」
「まあエウロパ様、ようこそおいでになられました。ささ、どうぞ腰掛けて下さい」
サクラーが大きなクッションをクラインの側に据えた。
エウロパはクラインに頭を下げて置いてクッションに胡座をかいた。これが、ここでの一般的な座り方で別に礼儀にはずれたものではない。
「この度は、手を煩わせてしまったようですね」
「いいえ。これも役目なれば…領内の治安を預かる我らが至らぬばかりにお嬢様を危険なめに遭わせてしまいました。なにとぞお許し下さい」
クラインは無言のまま頷いた。
「しかし、あの者達は何だったのでしょうか」
「さあ、おそらくは野盗の一味ではないかと…。先年の反乱以降、その残党と思われる盗賊が王国の各地で、交易船、あるいは貴族、商人の館を襲撃していると聞き及びます。貴人を拐かして身代金を要求すると言うことも頻発しているとか。よくあることのようです」
「なんてことでしょう」
サクラーは怖がって見せた。
「実はこのカーレでも、治安の低下が著しく、最近では強盗、窃盗などの事件が多発しております。特に、ここ連日、商人宅でその家の主が妻子をはじめとして、使用人から奴隷まで全員を斬殺すると言う痛ましい事件が連続しておりまして…」
「恐い話ね」
「はい。温厚な性格の主人が、ある日突然、発狂でもしたかのように、家の者に斬りかかるのです。まるで何かに取り付かれているようだったと、かろうじて生き残って者が証言しております」
「発狂ですか?」
「はい」
「何を話しておるか」
バリトンの声に一同振り向いた。
戸口に立っていたのはカサンドラ伯爵その人であった。
「お父様」
そう言って起きあがろうとする娘を父は「まま、寝ておれ」と言って遮った。
サクラーはもう一つ、クッションをクラインの側に据えた。だが伯爵はそれに腰を下ろそうとせず、立ったままに娘を見下ろす。
「体の具合はどうか?」
「はい。もう少しで起きあがれるかと」
「うむ。養生して早くなおせ。お前がおらぬと損をしっぱなしだからの」
そう優しく言っておいて、今度は部下のエウロパを見る。
「お前は何をしておるのだ」
「はっ、クライン様のお見舞いに…」
「見舞いに来て脅かす馬鹿がいるか。治安の低下はお前の責任ではないか!」
「申し訳ありません。お嬢様に、これからは護衛無しでの外出を控えて頂きたいと申し上げるつもりでありました」
エウロパはそう言って平身低頭した。だがカサンドラ伯爵はさらに言葉を上乗せする。
「発狂事件の捜査はどうなっておる?」
「はっ、それぞれの商家の主人が発狂した原因ですが、今のところ毒と呪いの双方で取り調べているところです。ただ、当の本人が皆、死んでしまっておりますので思うようにはかどらず」
「そうか。早く原因を突き止めろ。商人らは次は自分かと怯えておる。最近は商談ではなくて原因は判ったかと聴きに来る者もあるくらいだ。急げ!」
「はっ。判りました」
エウロパはさっと立ち上がると伯爵とクラインに一礼をして去って行った。
伯爵はそれを見送ると初めて腰を下ろした。
娘の顔をのぞき込むようにしてその手を取った。
「こうして見るとお前、ますます母親に似てきたな」
「そうですか?」
「ああ。お前は母親そっくりだ。こうして病床にいるお前を見ると、思い出されて泣けてくる」
クラインは父の手の感触を味わいながらも目を閉じ、母の手を握る父の姿を感じた。
彼女の母親は、彼女を産んですぐに亡くなった。だからクラインには母親の記憶が無い。だが、父が語ってくれる母の話にその存在を感じ取ることが出来た。また『父の記憶』から、母の姿を思い浮べることも出来るのである。
「実は、宝石の相場の事だが」
「はあ…」
クラインは、チラリとサクラーを見るてから思案顔で天井を見上げた。
「伯爵様、お嬢様はまだお熱が…」
サクラーがクラインの額のタオルを代えながら言った。
「おお。そうだったな。そうだサクラー、一つ頼まれてくれんか?」
「何でございましょう」
「この間だな、モンドワール大使のグルマリール卿からモンドフェの磚茶(たんちゃ)を頂いてな。クラインに入れてやってくれぬか?蜂蜜とレモンをたっぷりと効かせてな」
磚茶とはいわゆる茶の事である。ただし、茶葉が煉瓦のような固まりになっている。それを削り、湯に溶かして飲む。
「まあ!嬉しいですわ。お父様」
「かしこまりました。では早速に…」
サクラーは頷いて腰を上げた。
裾を乱さないように立つと部屋を後にする。それを見送った伯爵にクラインは静かに口を開いた。
「ブラックオパールの値は上がりましたか?」
「ああ上がった、ここ数日で数倍になっておるぞ。セザン公国の、オパールの採掘現場で大規模な落盤があってな、しばらくは品薄が続くそうだ…その代わりルビーは下がった」
クラインはそれを聞いて小さく微笑んだ。
「ま、差し引きで全体の利益は四割と言ったところだ…その様子だとルビーの件、わざとか?」
「はい」
「お前の母親にもよく訊ねたものだが、人に見えぬ物が見え、人に聞こえぬ声が聞こえると言うのはどういう気分だ?」
「別に…」
「儂のような俗物は直ぐさま金儲けと繋げてしまうのだがな」
「人の幸せはお金だけではないと思います。全くなくても困りますが、必要なだけあれば良いのではないでしょうか」
「だが、儂としてはできるだけの物をお前に残してやりたいのだ。ジルコ殿下との婚姻の際に持参できる物が少なくては肩身が狭かろうからのう」
「お父様のお心遣いはありがたく存じます。でも、お父様はわたくしにどこに出ても恥ずかしくないだけの躾と、知識と教養を授けて下さりました。お母様はわたくしにこの体と、ほんの少しだけ人とは違った力を授けて下さいました。これ以上欲しいと思う物はありません。ですからあまりご無理を…なさらないでください」
「よいよい。こんな事、無理の内に入らぬ。お前を妻に迎えたいと言うジルコ殿下の言葉を、儂はどうしても断れなかった。その罪滅ぼしだよ」
「罪滅ぼしだなんて。娘が父の命に従うのは当然の事です。わたくしが心配しているのは、先年のような反乱がこれからも起きないとも限らないということなのです」
「…それはそなたの霊感が告げておるのか?」
「…残念な事ですが」
「そうか。だが、王国はもはや奴隷無くしてなりたたぬ。国や人々の生活の成り立ちが既にそのように固まってしまっておるのだ。そなたや、儂が止めようと言っても誰かが代わるだけで何一つ変わったりはせぬのだ」
「お父様…」
「もう言ってくれるな。奴隷の売り買いにそなたが心を痛めておることは判る。普通以上に感じやすい娘だからの、お前は。だが、これがカサンドラ家の生業であり、王国において課された役目だ。止めるわけにはいかぬ」
クラインには、もう、父に向かって返す言葉がなかった。ここまで自分の言葉に耳を傾けてくれることそのものが、父の寛容さを表しているのである。普通なら「娘が父のやることに口を出すな」と言われておしまいである。
白無地の天井に視線を上げ、ため息を一つくと話題を変える。
「エウロパの言っておりました事件の事ですか…」
「ああ。お前が気にするような事ではない。心配ない。あやつもお前を心配して脅かすようなことを言ったのだろう。だが、この街の治安は言うほどに低下してはおらぬぞ。まだまだ、女一人が出歩ける街だ、ここは」
「そうではありません。商家の主人が家の者を斬殺したと言う事件の事です」
「ん?」
「主が発狂したと言うことですが、その者達に何か共通する事はありませんでしょうか?『何か』が残されていませんでしたか?」
カサンドラ伯爵は、自分の娘がこういう事を興味本位で訊くような性格ではないことを知っている。直ちに真顔になった。
「早速、エウロパに調べさせよう」
「人の手に渡らぬ内に、出来るだけ早く」
「うむ」
「失礼致します」
サクラーが、湯気を立てているポットとカップをトレイに載せて運んできた。
戸が開くと紅茶の香りが室内に広がる。
「おお…良い香りだ。だが少しばかり濃すぎるのではないか?」
「薄いより濃い方がわたくしは好きですわ」
娘の言葉に伯爵は微笑むと腰を上げた。
「そうか。では、ゆっくりと養生するのだぞ」
「はい」
* *
カーレの奴隷商人エルパソはすこぶるご機嫌であった。奴隷商人と言ってもこの時分の商人は売り買いできる物はなんでも扱う。それこそ羊皮紙から人間までである。領主カサンドラ伯爵の令嬢が宝石を買い付けたと言う情報をいち早く察知した彼は、方々に手を回してルビー、オパール、サファイヤなどの数種類の宝石をまとめて買い占めることに成功した。そしてそれらの市場価格が高騰したのは買い付けを済ませた直後の事であった。ルビーの下落は惜しかったが、それでも莫大な利益を出した。今日はその精算日なのである。
屋敷に運ばれてくる金銀貨にエルパソは笑いを押さえることが出来なかった。
「旦那様…。ロードメール様がご面会したいとおいでですが」
番頭がやってきたのは、金蔵に銀貨の搬入作業中の事であった。
「なんだと。今忙しいんだ…だいたいロードメールは、この間、発狂して一族郎党を斬り殺したあげく、警備兵に殺されたはずだ」
「はい。おいでの方は財産の相続人と申されております。なにやら旦那様に相談致したいことがあると申されておれまして」
「そうか」
エルパソはしばらくいらついたように考えていたが、なにやら美味い話の様な気がして会ってみようと思った。
「わかった。お前代われ」
「はい」
番頭に後を任せるとエルパソは応接に向かった。
戸口の前で、身なりを整え直し、静かに声をかけた。
「私がエルパソです」
「初めまして」
応接間の座っていたのは若い青年であった。見たところ人の良さそうな純朴そうな青年だ。狡賢(こうかつ)なロードメールの血族とは思えない。
「叔父が、エルパソさんは頼りになる御仁だと話しておりましたのを思いまして…突然お伺いした訳なのですが…迷惑でありませんでしたか?」
あいつ、いったい何を話したんだとエルパソは思った。
あの男が商売敵の自分をそんな風に言うはずが無い。だが、この青年の表情を見ていると皮肉や嘘を言っているとは思えなかった。と、なると案外あいつは、表面で憎まれ口を叩きながらも、自分のことを高く評価していてくれたのかもしれない。「そう思えば商売敵だったが、個人的には悪い奴では無かったしな。ケチで陰湿でいかさま師だったのも商売上のこと。商人であるからにはそれらは美徳だ」エルパソは、今更ながらそう思った。
「ああ。ロードメール氏の甥子さんですか?これはこれは、ようこそおいで下さいました。この度のご不幸はなんと申し上げてよいやら」
沈痛な面もちをしてみせるのも重要な社交術の一つである。その時のエルパソの表情は心底故人を悼んでいるように見えた。
「実は叔父の資産の整理をしているのですか…」
「ほほう。貴方も若くしてかなりの財産家となられるのですね。ご商売は何を?」
「地方で小さな農園の経営をしております。バウルの栽培を主に」
「バウル農園ですか?これはまた堅実な…」
「叔父にお前は商売に向かないと言われまして」
エルパソも同じ意見である。この青年には商売は向かないだろう。
「本日ご相談に伺った理由はこれなのです」
若いロードメールが傍らにおいてあった長い棒状の包みを前に押し出した。
朱色の布を開くと中から、剣が出てくる。
何か黒い樹脂を塗った艶のある鞘と、紐を編んだ柄。そして鍔(つば)の彫刻もまた見事だ。鍔元には金を使っている様子。商売の関係で宝剣が持ち込まれることも多いのだが、それらは皆、金銀宝石を纏わせた豪奢なものである。これはそれに比べたらはるかに地味であった。それ自体に価値がありげなのは鍔の彫刻くらい。だが、なんとも心惹かれる一品であった。時々、化粧っけが全くないにも関わらず、どうにも目を引く美しい女性と出会うことがある。そして一旦そう言う女性と出会ってしまうと宝石で身を飾り、おしろいと紅を塗りたくった女性が鼻についてしまうようになる。この剣は、化粧気の無い女性に似た魅力があった。
「抜いて見ても宜しいですか?」
「どうぞ」
エルパソはロードメールから剣を受け取ると柄を握って引き抜こうとした。だが、容易には抜けない。少し力を込めて引く。するとスッと抜けた。途端エルパソの背筋に冷たいものが走った。ゆっくりと鞘から現れたのは妖しく輝く刀身であった。
ほんのわずかに反りのある片刃。結構、重量感がある。
何よりも目を奪われたのは、刀身の刃紋がのたれてうねってる姿だ。宝剣の無機な輝きに比べたらなんとも素晴らしい。
「珍しい剣ですね」
「はい。叔父の財産の中でこれだけが、どうにも価値が判らなかったのです。只の剣にも見えるのですが、なんとも珍しいし…それでエルパソさんに鑑定をして頂き、出来れば処分したいと思いまして」
「処分?」
「ええ。農園では、そんな異国の珍しい剣なんかよりグラディウスの方が使えます…いかがなもんですか?値打ち物でしょうか?」
刀身を眺めながら、エルパソは静かに答えた。
「いやあ、それほどのものではありませんね」
言いながら危なっかしい手つきで剣を鞘に戻す。
「地味だし、宝石の類の装飾が全くと言ってない。刀身にしたって造りが雑で変な模様が出来ているんですから…まあ、ロードメール氏とのつき合いも浅くはありませんでしたから、ここではそうですね、一〇シンクほどの値でお引き取りしましょうか」
ロードメールは全く疑う気配も見せずに頷く。
「やはりそうでしたか…わかりました。では一〇シンクでお願いいたします。でも、叔父もいったいどういうつもりでこんな剣を買ったのでしょうね」
「ま、価値はともかく、珍しいものですからね。目端の利く商人と言うのは珍しい物はとりあえず手元に置くのです」
「こんな一〇シンク程度のものもですか?」
「ロードメールさん。貴方の叔父が貴方に農場経営を勧めた理由はおそらくそれですよ。誰が見ても価値があるように見える物を扱うのは誰にでも出来ます。本当の商人と言う者は、価値あるモノではなく、こうしたガラクタを高く売るものなのです」
「そうでしたか。…大変貴重な教えを頂きました」
青年はそう言うと立ち上がった。
「これから農園に戻られるのですか?故人のご商売は誰が継がれるのですか?」
「誰も…私には農園のほうが性格にあっているようですから」
ロードメールはそう言って帰って行った。
エルパソはその後ろ姿を見てほくそ笑む。
ロードメール、お前の甥は本当に商人には向かないよ。物の価値がわからないと来ているのだから。だが、お前に免じて一〇シンクの値をつけてやった。それでも普通の市民が一月働いて手に出来る金だ。普通の商人だったらこうはいかない。精々安く買いたたかれて三シンクになるかならないかだったろう。
エルパソはそう思って自分の人の良さを笑った。おそらく、どこへ出しても五〇〇シンクで売れるであろう剣を撫でながら…。
その夜。
エルパソは、眠れなかった。
昼間見た剣の輝きが目について離れないのである。
燭台を灯して、部屋の隅の我が物となった剣を手に取った。ずしりとした重さがまた心地良い。柄は手にすっぽりと収まりなじむ。鞘を握って力を調節しながらゆっくりと刀を抜いた。
燭台の明かりに刀身をかざす。
うっすらとした明かりに剣は妖しく輝いていた。
いかにも斬れそうな刃である。どんな物でも触れた瞬間に斬ってしまうだろう。
手で触れてみたい。だが、触れた瞬間に自分の手がポトリと落ちそうで怖かった。
ふと、部屋を見渡す。調度良く燭台の蝋燭(ロウソク)が見えた。
エルパソは不器用な手つきながらひょいと剣を振ってみた。すると刃先がスッと蝋燭を通過する。まったく手応えを感じない。空振りしたのかと思って改めて構えるとふと蝋燭が倒れた。
あっけにとられる。なんと言う切れ味か…。その切れ味の快感にさらに何かを斬ってみたく周囲を見渡した。
枕。カーテン。果物。なんにでも剣を向けてみた。それらは全て、いとも簡単に両断されてしまう。
「人を斬ってみたい」
切ることの快楽に酔っているエルパソは、突然ひらめいた考えをどうしても否定することが出来なかった。人間の首がストッと落ちるところを見てみたくなった。
部屋を出て廊下へと出る。
まるで彷徨うかの様に小間使いの奴隷の居る部屋へと向かった。
夜半の事である。
カサンドラ伯爵の邸内はけたたましい喧噪に包まれていた。負傷した兵士のわめき声が夜の街に響き、別の者が医師を呼びに走る。
クラインは、突然駆け込んできた父の声に起こされた。
「どうしたのですか?」
「また、斬殺事件だ。今度は奴隷商人のエルパソだ。奴隷を始め、その夜家に居合わせた一族、家族を全員斬り殺して最後には警護隊の兵士に斬りかかって殺された」
「なんと言うことでしょう」
クラインは衝撃的な知らせに身を震わせた。
「剣が残されていた」
「剣?」
「そうだ。お前の言っていた『何か』だ」
クラインはそれを聞くと床から跳ね起きた。まだ体調が万全ではなくて頭が重い。
それでもサクラーに手伝わせて素早く身支度を整えた。
「下におるからな、すぐに来てくれ」
そう言って部屋を出ていく父の背中にクラインは言う。
「決してその剣に手を触れないで下さい。どうなるか判りませんので…」
だが、伯爵は振り返ると残念そうな表情をした。
「もう遅い。警護隊の一人がその剣を手にした途端、仲間に斬りかかったよ…今、箱に入れて運ばせたところだ」
クラインが身支度を終えて玄関を出ると血の臭いが鼻についた。
中庭で薪が煌々とたかれ、医師が負傷した兵士の手当をしている。苦痛に呻く声が周囲からも聞こえる。かなりの人数が倒れている様子である。
「どれほどの人数が…」
クラインは父の傍らまで行くと訊ねた。
「負傷者は一五人だ…エルパソを取り押さえるのに五人、突然発狂した兵士を取り押さえるのには一〇人だ。死者も出ておる」
「それで、その剣は…」
「いま、エウロパが運んでくる」
暗い闇の向こうから何人かの兵士を指揮してエウロパが木箱を運んできた。
箱が伯爵とクラインの前に置かれる。
見るとエウロパをはじめとした兵士達は、みな返り血を浴びて蒼然とした表情をしていた。
「どうしたのだ。いったい何があった」
「はい。セザヌが金鎚で剣を叩き折ろうとしまして…」
「誰がそんなまねをせよと言った」
「我々も止めたのですが、セザヌは弟の仇だと言って…」
「発狂したのはノイルだったのです」
「で…」
「手元を謝って金床を叩いてしまって、剣が跳ね上がってセザヌの胸に突き刺さり…」
伯爵は天を仰いだ。
なんとおぞましい剣であろうか。へし折ろうとすればその者に牙を剥くとは…。これでは始末のしようがない。
兵士達は仲間を失ったことを悲しみ、涙を流している。
だが、クラインは箱の中の血刀に見入っていた。
クラインにはその剣に見覚えがあったのである。
夢。そう、これはクラインが賊徒達に襲われた時、突然現れて助けてくれた異国の青年の剣であった。それが現実に存在するとなれば、あの夢は夢ではないと言うことになる。
クラインはそれを確かめるために、刀身に軽く触れた。
クラインは、警護隊長のエウロパを睨みつける。
「この剣の持ち主はどうしました」
静かだが、かなり厳しい口調である。
「エルパソは死にました」
「違います。この剣の本当の持ち主です」
エウロパはクラインが最初何を言っているのか判らなかった。
「樹海でわたくしを救って下さった方です。知らないとは言わせませんよ」
クラインの切れ長の目がきっとエウロパを睨んだ。
エウロパはクラインが何を言っているのか突然悟ると、後ずさりした。もうすこし明るければエウロパの血相が変わっていることが誰にでも判ったに違いない。
エウロパは今になってようやく思い出していた。いや、どこかで見たことのある剣だとは思っていた。しかし事件の大きさや被害の多さに動転して、今まで思い出せなかったのである。処分したはずの剣がなんでここにあるのか?
「し、知りません」
エウロパはとりあえず答えた。しかしクラインはエウロパの表情を見て確信する。間違いない、この男はクラインの命の恩人から手柄を横取りしたあげくに、害したのだ。
カサンドラ伯爵をはじめとして、周囲の兵士達はクラインとエウロパが何の話をしているのかは判らない。
「クライン!何の話をしているか!」
さすがにこの場で話すべき事ではないと思ったのか、クラインはエウロパを一睨みすると屋敷内に箱ごと運び込むように命じた。
「大丈夫なのか?」
「とりあえず鍵のかかる所に収めましょう」
クラインの言葉に頷いた伯爵は早速兵士達に命じて箱を運ばせた。エウロパはその場に凍り付いたように動かなかった。
クラインは玄関をくぐるとすぐに箱を置かせた。
「後は、わたくしと父がおこないます。あなた達は負傷した者の手当を」
その命令に兵士達は躊躇ったが、クラインの毅然とした表情にとりあえず従った。
後に残された伯爵はクラインを見る。
「どうするのだ。蔵へ運ばぬのか?」
「この剣はどこかに隠しても、何かのきっかけで現れてやがて災いとなりましょう」
「では、やはり打ち砕いてしまうしか…」
「セザヌのようになるでしょう」
「樹海に捨ててしまえ」
クラインは首を振った。
「ではどうすればいいのだ」
「この剣は剣として、生きることを望んでいます」
「剣が剣として生きるととはどういう意味だ」
「恐ろしい事ですが…人を斬り、血を吸うことです…」
「では、なおさら捨ててしまうべきではないか!」
「いいえ、この剣は野獣と同じです。害意を持つ者を決して許しませんわ」
「ではどうしたらいい?」
「おそらく、正当な持ち主の元に返す事です。それ以外の方法でこの剣を宥めることは難しいでしょう。正当な持ち主はこの剣を飼い慣らしていたはずですから」
「正当な持ち主とはいったい誰なのだ」
「エウロパが存じているはずです」
「何?」
クラインはとりあえず夢の話をした。そしてこの剣がまさしくクラインを救った青年の持ち物であることを報告した。
「エウロパの奴が、その男の手柄を横取りしたと言うのか?なんと見下げ果てた真似を」
「直ちにその方を探させます。その方が見つかるまで、この剣はわたくしがお預かりしますわ」
「馬鹿を言うな!呪われた剣だぞ」
「お父様…わたくしは、お母様の娘ですよ?」
「…」
伯爵は妖異なる出来事について、クライン以上に詳しい人間を知らない。
「ご主人の居所が判るまでは、わたくしが貴方をお預かりしますからね」
クラインは剣にそう語りかけながら手に取った。
「だ、大丈夫なのか?」
「大丈夫ですわ。剣も喜んでいます、だってわたくしはあの方を知っているんですもの。剣もわたくしを害するような真似はしません」
「本当に大丈夫なのだな?」
「はい。ところでお父様、鍛冶職人をお呼び下さいませ。この剣が手入れをして欲しいと言っております」
クラインはそう言うと、血に濡れた剣をかざす。
伯爵は剣を持つクラインの姿を見て、ぞっとするような艶香を感じた。一瞬、クラインが我が娘であることを忘れてしまった程である。