「平和とは、民衆が戦闘による損害を、まだ気にしていない状態のことである」
【序章】
彼女はライフルを構えた。
スコープのクロスゲージと、少年の眉間を重ねる。
一旦合わされた照準は、少年がどれほど動き回っても逸れることなく追い続けた。
その男のことなら何でも知っているからだ。歩き出す時、立ち止まる時、何気なく時計を見たり後ろ髪を掻いたりする。これらの動作のクセ、全てを記憶している。
ピンクに艶めく唇をわずかに開いて、軽く息を吐く。
呼吸を止めても心拍のわずかな動きすら銃口に伝わって小さく振れる。だが、まさか心臓を止めるわけにもいかない。彼女は、人体の不自由さを疎ましく思いつつ、静かに、ゆっくりと、引き金をしぼった。
カチン。撃鉄の音。
弾が装填されていれば、少年は死んでしまっただろう。
彼女は、丸い息を吐いてから、そっとささやいた。
「『猫さん』こちらK。…今、位置に着いたわ」
『ザザッ…こちら猫さん、了解』
デジタル信号から変換された音声は妙にざらついていた。
彼女はスコープから目を離し、あたりの風景を見渡した。
少年までの距離は、直線にしておよそ200メートル。
このビルの屋上からだと、蟻の群のような人混みを見下ろすことが出来る。
夜の渋谷を行く人の流れは、まるで川のようで尽きることがない。クリスマス商戦華やかな街は、色とりどりのネオンや照明で飾り立てられ、明るく賑わっていた。
そんな人混みの中で、かつて御殿場 壮士と名乗っていた少年は、出雲 走士(いずも そうし)として、新しい任務に就いている。
その『猫さん』というコードネームは、彼女がつけたものだ。
走士は「そういうコードネームは勘弁してほしい」と言ったが、彼女は、それが妙に気に入っていて、必ず『猫さん』と呼んだ。そしてそれが、いつの間にかコードネームとして定着してしまい、公式に用いられるようになったのである。
だから走士は仕方なく『猫さん』と呼ばれて返事をする。「こちら『猫さん』…」
その時の情けないような、それでいてはにかんだような苦笑を見る度に、彼女はなんとも言いようのつかない、胸の奥をくすぐられる気分になる。これが楽しいのである。
7.62ミリ弾10発を装填した弾倉を、ライフルにカチンと挿し込んで構える。槓桿(レバー)を押し込んで、送弾、装填、閉鎖…これで何時でも撃発(発砲)できる状態となる。
冷たく重たいライフル銃の表面は、妙にすべすべとした感触だった。
銃床を右肩…と言うよりは脇の上、右乳房の付け根に柔らかく引き寄せると、頬を押しつけるでもなく、軽く乗せる。ぼったりとした頬の柔らかさで顔が歪んだ。
口は閉じずに、ぼうっとしている時のように軽く開いておく。
銃口を少しばかり振って、スコープの中に走士の姿を映し出した。
「ひたいに照準を合わせてる」
『ザッ…お願いだから引き金を引かないでくださいよ』
「…寒さで指がかじかむの。引き金を引いてしまいそう」
するとスコープの中の走士がニコッと微笑んだ。
口とは裏腹に、まるで「撃ってもいいよ」と言っているかのようであった。
見るからに16〜17才。まだ男になりきれない、それでいて子供でもない。繊細そうで、優しげな笑顔である。
走士は、彼女が自分を殺したがっていることを知っている。しかし、今ここで彼女が引き金を引いたりしないこともまた、知っていた。
彼女の役割は、走士の『命綱』であった。こうして走士を見守り、身辺に近づく者を監視してそれを知らせる。そして危険があればそれを排除する。四六時中…だ。
過酷で、忍耐を必要として、それでいて報われることは少ない。それだけに信頼できない人間には、とても任せることの出来ない重要な役割でもある。それを走士は、かつては敵対して命の取り合いまでした彼女に任せ、平然とした面もちで任務についていた。
彼女は、そんな走士を見ていると、なんとも憎らしく思えた。自分に、こんな辛い役割を振っておいて平然としているのを見ると、腹が立ってくる。すぐにでも殺してやりたくなるほどだ。それでいて…それでいて、なぜか嬉しいとも感じてしまう。
それは不思議なことである。
常に走士の側にいて、走士を見守ってる。走士の命は今、自分の手の中にある。そう思うだけで、何か充実している気持ちになれる。腹は立ってくるけど、しょうがないなあと思ってしまうのである。
彼女の名は留萌 慧子(るもい けいこ)。
もちろん偽名だ。かつては名寄 佳子の名を持っていた。これまでにも二度ばかり名前を変えている。そして、この任務が終われば今の名前も変えることになる。留萌の名は結構気に入っていたから、少し残念である。
『慧子さん。今夜、何食べたい?』
突然、何を言いだすのだろうねと思いつつも、気が付くと答えている自分がいた。
「そうね、クリームシチューなんかどうかしら?時間をかけてグツグツホトホト。ゆっくりと煮込んで、ふわっと湯気の揚がるクリームシチュー…」
そんな話をしていると、突然別の声が割って入って来た。
『こちら二五(フタゴー)……二人とも、いちゃついてないでまじめにやりなさい。交信規則はどうしたの?予定の時間まで、あと〇二(マルフタ)(二分)なのよ』
十条 夏子 一等陸尉の声であった。
彼女は、陸上自衛隊中央調査隊情報小隊に所属する走士と慧子の上司である。
走士は、ペロッと舌を出すと、素知らぬ顔で答えて見せた。
『フタゴーへ。こちら猫さん、了解。…では、今夜はクリームシチューと言うことで』
思わず笑いそうになりながら、慧子も「了解。楽しみにしてるわ」と返事する。今夜の料理は走士の当番である。
夏子のあきれたようなため息が、イヤホンから漏れ聞こえた。
オペレーションβ
たくさん
秒針がゆっくりと二周する。
息を凝らして待ったが何も起きない。その間、真冬の凍えた風が、慧子の体から容赦なく体温を奪っていった。
吹きさらしの屋上には、風を防いでくれるものもない。寒さは狙撃者にとって重大な支障も引き起こしてしまう。
「そういえばセーターを用意してあったっけ」と思った。
「…どうしようかな?」
ビュウと風が吹き抜けた瞬間、思わず叫びたくなるのを唇を噛んでこらえる。体の芯から震えが出そうだった。
セーターは、ほんの10秒もあれば着れる。
『状況』はすでに始まっている。だが、数秒なら、なんとかなるだろう。慧子はそう考えライフルを置くと、素早く荷物を引き寄せた。
『ザッ…来たわよ』
セーターに首を通している最中に、夏子の声が入った。慧子は焦りながら、なんとか袖を通すとライフルを構えなおす。安全装置を押し上げ単発発射に合わせながら、走士の姿を探した。
背筋がゾッとする。全身に鳥肌が浮き上がり血の気が退いた。
走士の姿が先ほどの場所にないのだ。
今使っている狙撃用スコープの倍率だと、その視野は約〇.四ミル。(一ミルは、一〇〇〇メートル先で一メートルの幅をとる視角の単位)二〇〇メートルのこの距離では二メートルあるかどうか。人混みの中で、走士を探し出すのは、砂場に落とした芥子粒を見つけるような作業となってしまう。
慧子は銃口を右に左に振りながら、走士の姿を懸命に探した。
走士に「今どこにいるの?」と叫びたい気持ちを必死に押さえつける。『状況中』の走士に答えられるはずもないからだ。焦った慧子は半狂乱になった。1秒が、10分にも感じられた。
走士の姿を見つけた時には、思わず涙が出てきたほどである。別に、それほど危険な任務でもないし、見失ったと言ってもたかだか30秒程度のこと。しかし、例えわずかな時間であっても、走士を見失うことは慧子にとって、恐怖以外のなにものでもなかった。
慧子は瞬きすら惜しんで、走士と、走士の近くにある全ての物を監視下に置いた。
『おい、時間だぜ』
出雲 走士に声をかけたのは走士と同年代の若者達であった。
こういう男達をなんと呼称するのか慧子は知らない。一般的な言い方ではチンピラ、あるいはチーマー、もしかしてヤンキー、古い言い方をすれば不良共だが…要するに街にたむろして好き放題をしている、慧子とはまったく無縁な存在であった。ちなみに慧子はこういう存在を「餓鬼」という単語で総括してしまう癖がある。
『なんだよ。たったこれだけ?』
走士は集まった人数を見ると落胆の言葉を吐いた。15〜20人は集まると聞いていたのである。
『期末試験の時期だからな』
『ハンパな連中は最初からいないほうがいいんだ』
慧子は集まった男達を確認した。
全部で8人。みんな若く、中には中学生としか思えないような少年もまざっている。
1人1人の顔立ちを確かめてみたが、慧子の気に入りそうなタイプは一人もいなかった。いたらどうすると言うわけではないが…こればかりは女としての本能である。
『もっと集まるって聞いたけど』
待ち合わせ場所にいた1人が言った。
『なら、帰れば?その代わりバイト料はなしだぜ』
答えたのはリーダー格らしい男の声だった。
『別に行かないとは言ってないだろう。俺は人数が少ないって言ってるんだ。この数じゃあ勝負にならないだろう?もっと集めて来いよ』
『大丈夫だよ。10人、20人なんて目じゃねぇよ』
リーダー格は長いコートの裾を開いて、隠し持っていた何かをチラと見せた。
どうやら、それぞれに木刀やらチェーンで武装しているようであった。走士も、それで納得したのか、男達の前に歩み出る。
『そのトカレフ、本物なの?』
『当たり前だろう?喧嘩におもちゃ持っていってどうすんだよ』
トカレフ!
慧子の心拍数が少しばかり上がった。
このことを予測したからこそ慧子が出てきている。だが撃たずに済めばそのほうが良いのである。しかしこれでは発砲しなくてはならなくなる。
『ザザッ…大麻、覚醒剤の密売に拳銃の不法所持、婦女暴行及び拉致監禁。挙げ句の果てに助っ人をやとって対抗しているグループへなぐり込み…今時の高校生ってヤクザとかわらないのねぇ』
今年、30才の夏子のつぶやきがヘッドホンから漏れ聞こえた。
慧子もそれには同感であったが「じゃあ、こうしてライフルを構えている私はなんなのかしら」とも思う。今では陸上自衛隊の隊員と言う答えを持ってはいるが、ついこの間まで、高校三年生をしていたのだ。そしてテロリストでもあった。
男達は連れだって4〜50メートルも歩くと、とあるビルの階段を下った。
走士も一緒に降りていく。
こうなると、慧子からは走士達の姿は見えない。電波も微弱になって、音声が聞き取りにくくなる。出来ることと言えば地下への入り口に、照準を合わせてじっと待つだけ。走士を見失ったときと同種の不安が慧子の体を駆けめぐり始めた。
右手に「はー」と息を吹きかけ、寒さにこわばった指をほぐす。走士の様子が少しでもわかるようにとイヤホンの音量を上げる。すると雑音に混じって走士達の激しいやりとりが聞こえて来た。
『…女を出…!シバ…、助…に来たぞ!」
『なん…テメ…ら!』
会話らしい会話はなく、いきなりドタンバタンと激突が始まった。
『馬鹿…ろう!』
『てめ…』
『わー!』
『きゃー』
怒鳴り声、女の悲鳴が響きわたり、ガラスの割れる音や、テーブルのひっくり返る音などが続いた。
『こちらフタゴー。30秒経過。予定通り警察に通報するわね』
走士からの返事はない。だが聞こえているはずである。
程なくしてビルから走士達が駆け出してきた。
続いて十数人の男達が追ってくる。見るといかにもチンピラ風で…どちらがどちらとも見分けがつかない。中には外国人風の男まで混ざっていた。
慧子は走士達のグループに女の子が加わっているのを確認した。金のかかった服装をしているがエキゾチックな顔立ちで、明らかに日本人ではないことがわかる。
「こちらK。目標を確認したわ」
『ザッ…フタゴー。こちらも確認した…目標の奪取に成功ね』
だが追っ手は多人数であった。そして女は足手まといになる。
走士達8人は、追いすがってくる男達十数人に取り囲まれてしまった。
『馬鹿ねぇ。目的を達成したら逃げればいいのに』
なまじ武装していて数の劣勢を挽回できるから始末に負えない。「逃げる」と言う単語が頭に入っていないのだ。その場から逃げようとしているのは、走士だけで、他では乱闘が始まっていた。木刀で殴りかかる。隙を見てつかみかかる。派手に殴られてアスファルトの地面に倒れ込む男がいると思うと、どこで習ったと、聞きたくなるような派手な跳び蹴りに失敗して自爆する者がいる。
その滑稽な様に慧子は思わず苦笑してしまった。だが、男の一人が懐から拳銃を取り出すのが見えると苦笑も凍り付く。
走士の仲間ではない。つまり敵だ。
「我が持っているなら敵も持っていると思え」と言うことであろう。慧子は反射的に銃を持つ男の頭に照準を合わせた。だが『撃つな!』の声に寸前のところで指を止める。声は走士であった。
走士には慧子が何を考え、何をしようとしているのかがわかるのだろうか。
「撃ちます」
この時のために慧子はここにいる。切迫した慧子は夏子に発砲の許可を求めた。だが夏子よりもはやく、走士は『殺すな!』と叫ぶ。
ターン
夜の繁華街に銃声が響いた。かなりの人間がその音を耳にしたはずである。しかし平和な国の日本人にとって、銃声はあまりにも真実味のない出来事であり、「おや?」と思っても、きっと自動車のバックファイヤだろう、ぐらいにしか思わなかった。
排出された薬莢がチリリリンとコンクリートの床面に転がる。
スコープの中では慧子に拳銃をはじかれた男が、走士に蹴られてうずくまっていた。
一瞬の事で心配だったが、どうやら間に合ったようだ。慧子は走士の無事を確認するとホッと胸をなで下ろした。
サイレン音が街に響きわたり、前もって配置されていたらしいパトカーが、現場周辺をたちまち取り囲む。
点滅するライトが街を赤く染め、人々は騒ぎを遠巻きに取り巻いた。乱闘をしていた男達は、蜘蛛の子のように逃げ散る。それを追う制服警官達。
『フタゴーから各位。状況終了…各個に現場より離脱せよ』
「こちらK、了解」
慧子は走士が現場から離脱したのを確かめてから撤収の支度を始めた。
転がった薬莢を拾い上げでポケットにしまう。ライフルは弾を抜いて分解し、バイオリンケースに詰め込んだ。
毛糸の帽子をかぶって、ピンク色のマフラーと手袋を身につける。すると、この街で、どこにでもいる女の子の姿になった。緊張のせいか、それとも寒さのせいか、きつくこわばっていた顔を二〜三回擦って笑顔の練習をする。ニコッ。こうして見てくれを、どこにでもいると言うにはちょっと語弊がある、綺麗な顔立ちをした18才の女の子に戻した。
「Kよりフタゴーへ。撤収します。猫さんへ。夕食はクリームシチュー、よろしい?」
『ザザサッ…こちら猫さん、了解』
慧子は荷物を抱えると屋上の扉をバタンと閉めた。
中に入ると、突然においが鼻につく。冷たい風にさらされていた時には全く気にならなかったが、ツンと刺激のある独特の香りだった。
手をクンクンと嗅いでみる。
「…やだ。火薬のにおいだ」
その手を何度も服にこすりつける。だが、火薬の臭いが消えることは無かった。
−つづく−
『オペレーションβ』です。
『α』の続きとして書いたもので、数年間、お蔵入りしておりました。現在ストーリーは、半分で止まっておりますが、続きを書こうかなと思っております。