「他人を道具とする者は、自らも道具とされる運命にある」
【第一章 シバ=ファル】
ACT 1
男は言った。
「人の数が増えてきました。ホテルに引き揚げませんか」と。
見たところ30才なかば。白いセーターに盛り上がった筋肉がくっきりと浮かび上がっていて、さながら熊のようである。
娘は窓の外を眺めたまま、つぶやくように言った。
「今、来たばかりよ」と。
スキーヤーがゲレンデを滑降していく光景が見える。
まだ、それほど荒らされていないゲレンデは、できあがったばかりのパウダーケーキのようであった。
巻き上げられる新雪が、白日の太陽にキラキラと輝いて美しい。
「これ以上、人が増えますと警護に差し支えますが」
「別にいいわ」
「よくありません、痛い思いをなさるのはあなたなのですよ。さあ、お部屋に戻りましょう」
「ミスター建軍(けんぐん)…あたしに指図しないで!」
娘は言い放つと、正面へと顔を向けた。
細い指先でミラーコーティングされたサングラスの縁を摘んでずらし下ろす。黒い瞳が輝くような視線を放った。
流暢な日本語。癖のない艶やかな黒髪。
一見すると、どこにでもいる普通の娘である。だが、肌は雪焼けにしてはムラなく色濃く焼けているし、顔立ちはコーカソイド系のものであった。おそらくは中近東…アラブ出身と思われる。
年の頃は高校生か、大学生になったばかりだろうか。
尖った顎。痩身でありなからメリハリのあるスタイル。スキー場では、その外見は五割増しと言うが、それを差し引いたとしても充分に美形の範疇に入る。
背丈はおそらく普通。もしかするとやや小柄かもしれない。目測の際、比較対象となる建軍が、えらく巨漢なので判別がつきにくい。
二人はテーブルを挟んでにらみ合っていた。
その光景を例えるに、リスが熊を睨んでいる図、とでも言えるだろう。
ちなみに、このにらみ合いで負けるのはいつも熊…つまり建軍であった。
暫く無言のままに視線をぶつけているが、やがて「おやおや、仕方ないお嬢さんだ」と言った感じのため息をついて視線を逸らす。そしてコーヒーの入った紙コップを口に運びながら周囲を見渡すのである。
早朝のゲレンデ食堂。
客の数はまだ、まばらであった。
出入り口は、建軍の正面方向に一カ所のみ。隣の席にはカップル。その向こう側は、大学生とおぼしきグループ数人が、わいわいがやがやと朝の食事をしている。二人の席は入り口から見ると一番奥に位置しているから、不用意に近づいて来る者がいても対処するだけの時間はある。すでに、避難路は確認済みだった。
ゲレンデに面している大きな窓が気がかりだが、眼下に広がるのは急斜面で、視界も広い。注意を怠らなければとりあえず問題はないだろう。ひとまず安心できる態勢と言えた。これ以上の安全を求めるならば、彼女の横、窓側に座ると言う方法がある。だが、それは無理なようであった。
娘が許さないからである。
別に邪な考えを持っているわけではないと何度も説明した。純粋に、職業的な必要から隣に座りたいのである、と。しかし娘は首を縦に振らない。仕方なく、三人掛けシートの通路側ギリギリに座って、いつでも席を立てるようにしているのである。
これもまた、いざとなれば身を挺してこの娘を守るためであった。
「ご理解いただけませんかね?あなたの安全を守るのが本官の任務なんです」
娘はそっぽを向いたまま口を開いた。
「それはニポン警察の都合だわ。あたしには関係のないことよ」
「しかし、怖い思いをなさったばかりとうかがっていますよ」
「世界一、治安のいいはずのニポンでね。警察は何をしていたのかしら」
「それなりに仕事をしておりました。あの件については、遺憾(いかん)なことだと思いますがね」
「遺憾?…どこかの政治家みたいな口振りね…下は上に倣(なら)うといういい見本だわ。確か、大使が申し入れた抗議に対する返答も『遺憾』だったとおもうけど」
「それは恐縮です」
「別にほめてなんかいないわ。あれは本当に怖かったのよ。仲間が助けに来てくれるのがもう少し遅れていたら、どうなってたか」
「ま、どの国にもああいった連中はいますからね。今後は、ご身分に相応しい方々とおつきあいなされればよろしいのです。そうすればグループ間の抗争に巻き込まれて危ない思いをしたり、人質にされたりしないですみますよ」
「もしかしてそれは皮肉?」
「はい、そうです。それ以外に聞こえました?」
そのあっけらかんとした物言いには娘も驚いた。あいた口がふさがらないとばかりに建軍の顔を見つめる。
「何しろ逮捕者6名、補導14名の大事件でしたからね。あなたも外交官特権をお持ちでなければ、お友達もろとも今頃は、鑑別所の中なんですよ」
「あなたみたいに礼儀を知らない人は初めて。ねぇ、本当にSPなの?本当は警護にかこつけてあたしのことを監視しているんでしょう?」
「おや、監視されていると困ることがおありですか?」
理由があってか、それともなくてか、建軍のニヤリとした表情に娘は続ける言葉を失ってしまった。
「例えば、外交官特権を利用して禁制品を持ち込んだり、治外法権を良いことに大使館の中でカジノ賭博をしたり…ですか?」
娘は、震える手でポケットからたばこを取り出して唇に挟んだ。
「おや、お国では禁じられてませんか?」
「ここはニポンよ」と言いながら火をつける。
「実は日本でも高校生のたばこは禁じられているんです。三年も暮らしておられるのに、ご存じないとでも?」
建軍は娘のたばこを取り上げ、そのまま指先で火をつまみつぶした。ジュッと煙があがる。
「ふん。さすがね、警察官の鏡だわ」
「今度は、おほめいただいたと考えてよろしいですか?」
「ええ。よくってよ」
娘は慇懃(いんぎん)に頷くと頬をぷうと膨らませる。
「あ〜あ。明日にはお父様が来ちゃうって言うのに、残り少ない一日を、こーんな野暮のかたまりみたいな男に四六時中見張られてなきゃなんないなんて、不幸もいいところ…」
建軍は肩をすくめて見せた。「日本ではそれを自業自得と言います」
そのその空々しい態度に、娘は「ふんっ」と首を振ると、スキーウェアを手にとって席を立った。
「殿下!どちらに?」
娘は真剣に怒った表情をすると、建軍に顔を寄せた。
「殿下と呼ばないでと言ったはずよ」
「わかりましたミス、シバ。で、どちらに?」
「ゲレンデに決まっているでしょう。こうなったら徹底的に遊び倒してやるんだから!」
「こちらとしては、ホテルでおとなしくしていただけると都合がいいのですがね」
「あなたの都合なんて知らないわっ!」
シバはそう言い放つと、つかつかと行ってしまう。
「やれやれ」
建軍はコーヒーを飲み干してから、後を追った。
オペレーションβ
たくさん
外は、全てが空の青と雪の白の二色に塗り分けられていた。
風は冷たかったが、ウェアのファスナーを上げてしまえばなんてことはない。
雪に突き立てて置いたスキーを、放り出すようにして並べ、ガチャガチャと踏みつけて滑り出した。
建軍の声が聞こえたが、完全に無視することにする。
ついて来るなら、ついて来るだろうし、見失ってくれたらありがたい。
あの日本人離れした、大きな体がどこに行ってもついて来るので、シバはとっても閉口していたのである。
「これじゃあ、誰も近寄ってこれないじゃない!」
彼女に声をかけようとした男は、これまで何人もいた。
シバも密かに期待している。いい男が声をかけてくることを。
だが、建軍が側に立っているのを見つけると、みんなそそくさとその場から立ち去ってしまうのである。
度胸がないと言うか、男気がないと言うか…つくつぐ日本の男は軟弱だと思う。
しかし、ここで嘆いてみても仕方ない。自分から声をかけることにすると、リフト乗り場の人混みに飛び込んで、ずんずん前へと進んだ。建軍を、この人混みで振り切るつもりがあった。
実際、半分も進むと人数がしぼられて列が出来る。こうなると友人同士でも一緒のリフトに座るのは難しいことが多い。いくら建軍でも、まさかこの人混みをなぎ倒してくるわけにはいかないのだから、遙か後方で順番を待っていることだろう。
と、なれば出来ればいい男の隣りになりたいな、と思う。
どうせ遊ぶのなら、見栄えの良い男がいい。男なら誰でもいいと言うわけではないのである。
いよいよリフトが迫ってくると、右隣はカップルだった。
女の方はサングラスをかけていて顔がよく見えない。男の方は年の頃、見た目16〜17才で、まあまあの容姿をしていた。年下も悪くないが、女がいては仕方ない。つくづくついてないなあと、ため息をつきながら左隣を見ると、さらにガッカリすることがあった。
「離れないようにして頂きたいですね」
いつの間にか建軍が立っていたのだ。
シバは不機嫌さを抑えられず、憮然としたままクワッド(四人乗り)リフトに座った。
その不機嫌さが思わず態度に出て、振るまいが粗暴になってしまう。風よけの覆いが降りてくる時に、ストックを束ねるが、隣の男にそのさきっぽをひっかけてしまった。
「アースィファ!」
反射的に母国語で謝ったが隣の男はきょとんとした顔をしていた。
すぐに「ごめんなさい」と言い直すと、隣の男はニコッと微笑んでくれる。これが何とも胸のくすぐられような笑みで、シバは一瞬で気に入ってしまった。
何か話してみようと思ったが、男はすぐに向こう側に顔を向けてしまう。どうにも間が悪く、がっかりである。
リフトに座って、することも、話す相手もいない。
風景を眺めながらぼんやりとしていると、なにげに隣の会話が耳に入った。
「だから、もっと前に体重をかけなきゃだめよ…つま先をこうやって」
「やってるって」
「あのへっぴり腰でぇ?」
「ねーちゃんはうっさい」
どうやら二人は姉弟らしい。
サングラスをはずした姉はずいぶんと大人っぽくて20代後半から30才くらいのようだ。なかなかの美人である。しかし、姉弟ならば全く問題はない…。失いかけた希望をもう一度取り戻して、シバは改めて隣を盗み見た。
顔立ちもいい。声もいい。スタイルもよし。
何よりも気が弱そうなのが良かった。なまじ気の強い男が相手だと、思った通りになってくれない。
そうやって男を値踏みしていると、突然、姉の方がこちらに笑みを向けて手を振った。
しまった、露骨に視線を向けすぎたかとも思ったが、どうやら違う。視線を追って、振り返ってみると建軍が頬を赤くしていた。あの美人は、建軍に向けて手を振っていたようだ。
「ミスター建軍は、ああいうタイプが好み?」
「いえ。別に…」
相変わらず野暮な物言いである。しかし表情は、言葉を裏切っていた。
案外にたわいもない男なのだなと思いつつ「顔が赤いわよ」と茶化す。
「寒いですから」
ごまかすように顔を擦るところなど照れ隠しとしか思えない。
「声をかけてみたら」
「いえ、勤務中ですので」
「ふーん…でも、あたしは勤務中じゃないから」と、そのまま振り返ると、隣の男へと声をかけた。
「ねぇ、どこから来たの?」
「へっ?」
その時の男のリアクションは、本当に「びっくりした」としか言い表しようのないものであった。凍り付いたように、こちらを見ている。
シバは大きく息を吸うと勢いに任せて話しはじめた。
「突然話しかけてごめんなさい。あたしはシバ=ファル」
一方的に自己紹介するシバに、男はどう応えていいかわからないらしく目を白黒させていた。
「ねぇ、あたしは名乗ったのよ。名前ぐらい教えてくれてもいいと思うけど」
男はおずおずと言った感じで口を開いた。
「僕は…出雲。出雲 走士…」
「ふーん。『ソウシ』…かあ?」
こうして「獲物」は、網にかかった。
シバは、出雲 走士と仲良くなった。
持ち前の大胆さと、明るい人なつっこさで走士につきまとったからである。
美人に言い寄られて嫌がる男は少ない。走士も、まんざらでもないようで、気が付くと雪玉を投げつけあったり、じゃれたりが出来る間柄になっていた。
「わっ、わっ、わわわっ!」
シバに後ろから思いっきり突き飛ばされた走士は、頭から雪につっこんだ。
走士はスキーがへたくそなのである。
だから一旦滑り出すと止まることが出来ない。ターンも出来ない。その為、ゲレンデ脇に落ち込んでしまった。立ち木にぶつからなかっただけマシで、気が付くと頭から上半身がすっぽり雪に埋まっていた。
その様子に爆笑をこらえきれなかったシバだが、走士がすぐに起きあがらないのを見てふと、心配になった。
「あはははは、は、は…あれ、大丈夫?」
「な、なんとか生きてる」と雪の中からくぐもった答えが帰ってくる。見ていると、藻掻く度に雪に埋もれていく様子であった。「た、助けてくれぇ」
「しょうがないなあ」
シバはスキーをはずすと、斜面を駆け下りた。
そこはゲレンデと違って雪は柔らかく、腰まで埋まってしまうほどの深さがあった。
雪をかき分けかき分け近づくと、逆さまに埋まっている走士が見える。
シバはその腰に抱きつくようにして、引き起こそうとしてみた。
「うーん。重いいい」
「わはっ、変なところさわらないでくれ!」
と、笑い苦しむ走士。彼はシバが思っていたよりも、がっちりとした体格をしていて、持ち上げるには重すぎるのである。
「ミス、シバ?手を貸しましょうか?」
ゲレンデ上から建軍の声がした。
「いいわ。そこで待ってて」
「今、行きます」
ちょっとよけいなことしないでよ!と言おうとした。だが、あっという間に建軍は降りて来て、走士を雪から引っこ抜いてしまう。もう少し走士とじゃれていたかったシバは理不尽に建軍を恨む気持ちになった。
顔と頭を真っ白にした走士は、肩で息をしながら礼を言った。もちろん建軍にである。
建軍は走士をひと睨みすると「ふん」と背中を向けてゲレンデへと上がっていった。
「ねぇ、あたしにお礼は?一生懸命、助けようとしたのよ」
「突き飛ばしたのもシバだろう?」
「あら。ばれてた?」
ちっとも悪びれない様子に、走士は苦笑した。
とりあえず「ありがとう」と言い、シバは「アフワン」と答えた。
「それって何語?」
「マシュリクの言葉…日本語だと『どういたしまして』かな?」
「ふーん」
二人は、ザクザクと雪をかき分けてゲレンデに上った。
急斜面なのでシバは「ソウシぃ」と、手を伸ばして引っ張ってもらう。本当は一人ででも上れるのだが、それはそれである。
「シバ…建軍さんって目つきが怖いね。なんなのアレ?」
「ああ、気にしないで。無愛想なのよ、あの人」
「ふーん。無愛想ねぇ」
ようやく登りきった。
上では、先に上がっていた建軍が、夏子と何やら楽しげに話をしていた。
シバ達を見て口をつぐんだが、和やかな雰囲気と言うのは跡に残るもので、シバはそんな雰囲気を敏感に感じ取ることが出来た。
「へぇ…ミスター建軍も隅に置けないのねぇ」
からかわれて心外に思ったのか建軍は謹直な表情に戻る。
「ミス、シバ。そろそろホテルに戻りましょう」
「えー!まだいいじゃない」
「でも、そろそろ日も傾いてきましたし、寒くなってきましたよ」
見ると陽が落ちようとしていた。風も冷たさを増している。シバは一寸ばかり考えて、建軍に従うことにした。
「もう行くのかい?」
「うん」
別れを惜しむようにシバは走士の腕を抱いて胸を押しつける。
「これでお別れなんて寂しいなぁ…もっと、ちゃんとつき合いたい」
「じゃあ、アドレスを交換しよう」
走士の提案にシバは首を振った。
「そんなことより…どこに泊まっているか教えて?」
「ん?それほど遠くないところに姉貴の会社が保養所を持ってて…そこにいるけど」
「ふーん。じゃあ近いのね?」
「そうだ…けど」
「だったら、今夜、夕食を一緒にしない?」
「え?」
「招待するわ。言っておくけど遠慮はだめよ。来てくれないと泣いちゃうから」
シバは、最上級の笑顔で誘ったつもりだった。だが走士は「でも…姉貴がいるし」と反応が良くない。せっかく人が誘っているのに断るなよなぁ。こいつ、シスコンか?と思いつつも、気を取り直して、さらに積極的に迫る。
「もちろんナツコも一緒によ。ねっ?」
走士は困ったように夏子を振り返った。すると夏子はOKサインを出す。
「折角のご招待なんだから受けましょう…ただし、割り勘が条件だけど」
「ほら、ナツコも、ああ言っているわ」
シバは「さあ、どうする」と言わんばかりに走士に詰め寄った。そして走士が返事を渋っているのを見ると「じゃあ八時に北方台ホテルのレストラン。きっと来てね」と決めてしまい。さっさと背中を向けた。
「あっ、ちょっと。シバ!」
走士が呼び止めて来たが、これは無視する。
「さあて、ホテルに戻って、シャワーでも浴びて」と聞く耳がないとばかりに、独り言を高らかに言いながら斜面を滑りはじめた。
北方台スキー場に隣接するホテルは、鉄道系資本により作られたチェーンホテルの一つである。
レジャーホテルとしては一流にランクされていて、それに相応しい部屋とサービスがある。無論、料金も一流の水準にあって、そこに宿泊していることそのものが、一つのステータスとなっている。クリスマスはここに泊まりたいと恋人にせがまれ、せっせと宿泊費を貯めている男も少なくない。
フロントで、シバ=ファルの名を告げると、フロントマンは「出雲様ですね?」と確かめた上で一通の封筒を差し出した。開いてみるとシバからの手紙で「最上階にあるレストランで待っている」と記されていた。
「最上階です」
夏子に手紙の内容を告げ、走士は夏子と共にエレベーターへと向かった。
ポーンと、ドアが閉じて閉鎖された空間になる。
二人は一瞬視線を合わせたが言葉を交わすことしない。すでに摺り合わせは充分にしてあるからだ。今更話し合うべき事は、なにもない。
言葉の代わりに夏子は走士にウインクを送り、走士は力強く頷いた。
ドアが開き、レストランのギャルソンが走士達を出迎えた。
「いらっしゃいませ。ご予約を承っておりますでしょうか?」
「えっと、シバ=ファルの名前で…」
そう告げると「出雲様でらっしゃいますね?お連れ様がお待ちになっておられます」と教えてくれた。
レストランの中は控えめな照明の中で落ち着いた雰囲気だった。
窓からは月と雪山、そして美しくライトアップされたゲレンデが一望できると言う最高のロケーションである。「こんなところで食事したら一ヶ月分の給料が飛んじゃうわね」と夏子がつぶやくと、走士は「自分なら二ヶ月分です」と言い返す。「これって割り勘でしたよね」
「け、経費で落ちるから大丈夫よ…きっと」
そう言いつつも、夏子のひたいに汗が一滴、落ちるのを走士は見逃さなかった。
「割り勘なんて言わなければ良かったですね」
「…後悔してるわ」
テーブルではシバが待っていた。
シバが「ソウシ!」と抱きつくようにして駆け寄ってくる。
「来てくれて、すごく嬉しい」
「こんなところで抱きつくなよ」走士はシバの両手を引きし剥がすようにして離れたが、建軍は苦虫をかみつぶしたような表情で、それを見つめていた。
「どうされましたか?」
夏子に心配されて建軍は苦笑いを浮かべた。シバはからかうように言う。
「ミスター建軍は、あたしがソウシと仲良くするのが気に入らないのよ。さっきなんか、二人を夕食に招待したって話をしたら『勝手なことするな』って、すごい剣幕で怒られちゃったんだから。後でお仕置きだって」
建軍は慌てて取り繕った。
「そ、そんなことは申しておりません!」
「だったらもう少し愛想をよくしたら?折角、夏子が来てくれたのに。嫌われるわよ」
建軍は憮然とした表情のまま腰を下ろした。
走士はシバの正面、夏子は建軍の正面の席に着く。
「建軍さんとシバって、どういう関係なの?」
シバは建軍を振り返った。言葉を選んでいるのか考え込んでいる。
「あたしの父が、彼の勤め先と取引をしているのよ」
「商社関係?」
「えっ、まあそれに似たようなものね。すっごい重要な関係なの。もし取引停止なんてことになったら、彼の勤め先は干上がっちゃうでしょうね。それであたしがニポンに滞在している間、お目付役兼、ボディーガードをつけてくれているわけ」
「へえ。シバってお嬢様なんだね。なるほど、それで建軍さんは僕みたいな馬の骨が近づくのが、気に入らないわけか」
「ふん、そうさ。それがわかるのなら礼儀をわきまえてくれよ。こっちは生活がかかってるんだ。ミス、シバがどうしても君と食事を一緒にしたいと言うから、仕方なく許可しているんだからな」
建軍は走士にそう言って釘を刺した。走士は「はい」と答えたが、もちろんその通りにするつもりはない。
「私の弟を『馬の骨』とは酷いですわね」
夏子の言葉に建軍は肩をすくめた。「私は馬の骨なんて言ってません」と言い訳している。
「そっか、建軍さんはガードマンなんだ?」
夏子は納得したとばかりに頷いた。「まあ、そうでしたか。でも大変なご職業なのでしょう?」
「えっ、まあ、それほどでもないです。実際に危険なことは滅多なことでは起きませんから。やっぱりテレビや映画とは違いますよ」
「それでも、やはり危険に立ち向かうご職業でらっしゃるのでしょう?ご立派だと思いますわ」
夏子の熱い視線を受け、建軍ははにかみの笑みを浮かべた。
尊敬されて嬉しいのである。苦労が大きい割に、報われることの少ない日陰仕事なだけに、それが人にわかってもらえるのはなんとも嬉しかった。それが夏子のような美人であれば、なおさらであろう。
夏子は、建軍がいわゆる古風な日本女性が好みであることをとっくの昔に見抜いていた。 そこで姿勢と態度をしっとりとさせ、そして潤んだ瞳で建軍をほれぼれと見つめるのである。控えめで、けなげな印象を放ちながら。
建軍は夏子の視線に貫かれると、セクシャルな期待感に息を飲んだ。
走士は、夏子が建軍の魂を丁寧に抜いていくのを見て、感嘆のため息をついた。
夏子は男の理想とするタイプを見抜き、それを完全に演じきることが出来る。
そして、どれほどに深くつき合っても決して底を見せることはない。常に新鮮な魅力を放ち続けるのである。
例えば、しっかりしているように見えて、暫くつき合っていると、とんでもなくドジであることがわかってくる。そしてそれは、夏子の魅力を損なうものではないのである。それまでの夏子がしっかりしすぎて、息が詰まりがちに思えてきたところに、ドジなところが見えてくるので、かえって魅力が増すと言うわけだ。
他の例だと、大人っぽい落ち着いた女性だなと思ってつき合っていると、子供っぽい部分が見えてくる。清楚で上品だなと思うと、時としてとてつもなく蓮っ葉だったりする。
インテリのお堅い人だなと思っていると、とんでもなく遊び人だったりする。こうした新発見が適度な間隔で続くので全く飽きが来ないのである。そしてどんな堅物男も、夏子にかかると骨抜きにされてしまう。やがて男は心身共に夏子なしでいられなくなり、最後は彼女の思うがままの存在となるわけだ。
その実力は内外で「魔女」と称されている。
CIAが「魔女とはどこの誰か?」と真剣に問い合わせてきたことからもわかるだろう。少なくとも、失敗例は報告されていない。
その手練手管によって籠絡された男は、夏子を失うとえらく落ち込む。つき合った期間が長ければ長いほど、惚れ込めば惚れ込むほど、ダメージは酷くなるのである。
走士は、心理戦の訓練過程で、夏子に徹底的に弄ばれた時のことを、ふと思い出した。
夏子からすればホンの小手調べ程度のことだったのだが、若いソウシは身も心も完全に溺れてしまい、立ち直るのに精神分析医の治療が必要になったほどなのだ。
今となっては甘美な思い出である。同時に苦痛でもあったが…今、標的にされている建軍にはこの後どうなるだろうか…。走士は自分の時のことを思い出して深く同情した。
ふと臑を誰かに蹴られ、我に返る。
シバらしい…。
「隙を見て、抜け出さない?」
建軍に気づかれないように素早く耳打ちしたシバは、微笑みを浮かべていた。
走士はシバを助手席に乗せ月夜の雪原をひた走った。
ジムニーの軽快な走りは、軽自動車とは思わせないほどである。板バネサスペンションは、雪を踏みしめるときゴリゴリという振動がシートに響く。しかし、だからこそ俺は雪道を走っているんだぞ、と言う、説得力もある。
「ソウシが免許を持ってるなんて思わなかった」
「夏休みにとったんだよ…以来、姉貴の運転手をさせられてる」
走士はミッションを上げながら、アクセルを踏みこんで加速した。
ホテルが見えなくなるとシバは「やっと解放されたって感じがする」と言って背筋を「うん」とのばす。それは実に晴れ晴れとした表情で、見ていることらも気持ち良くなるほどだった。
「建軍さん。今頃探してるだろうね」
「やだ。思い出させないでよ」
走士は、建軍が夏子に気をとられている隙に、トイレでもいくように見せかけてシバと席を立ち、そのままホテルを出てきてしまった。今頃はシバがいないことは、知れているだろうが、ここまで来てしまえば大丈夫である。走士はそう説明したが、シバは怯えるように何度か後ろを振り返った。
「どうしたの?」
「ミスター建軍が追ってきてるような気がして」
「まさか」
「ソウシ。ミスター建軍は、そのまさかの人なのよ。あたしがどこに逃げても、どんな風にしても、必ず見つけだして、気が付くと傍らで腕を組んで立っているのよ」
「大丈夫だよ」
「でも、さっきからずうっと付いてくる車がいるわ」
ふん?
走士はホテルからついて来ているライトを、バックミラーに見つけた。
「大丈夫大丈夫。気の回しすぎだって」
「でも…」
「まあ見ててごらん」
走士は車の速度をゆっくりと落とした。そして合図を出さずに交差点を右折する。そして道の脇に寄せて車を止めた。
後方にいた車はそのまままっすぐに通り過ぎてしまった。特に慌てる様子もなく闇の中に消えていく。
「ほら。違っただろ。ただ行く方向が同じだっただけさ」
シバも安心したのか、ホッと小さくはない胸をなで下ろした。
走士は、車をバックさせると元の道に戻る。
「神経質なんだね」
「だって、あんな人に三日間も張り付かれてたのよ。誰だっておかしくなるわ」
「三日間も?」
「そお。晩から朝まで、毎日毎日…」
「でも、ボディーガードなんだし仕方ないんじゃない?」
「ボディガードなんて嘘。本当はあの人、警察なの。ボディーガードにかこつけてあたしのことを監視してたのよ」
「なんでまた!もしかして悪いことでもしたとか?」
「ちょっとねぇ…」
シバは言葉を濁すと外へ目を向けた。そのことについて、話をするつもりはないようである。もちろん走士もしつこくたずねようとはしない。
「あたしのこと、根ほり葉ほり聞きたいでしょ?」
「もちろん」
「聞かないって約束してくれないかな?そうすればこのままソウシと一緒にいられるから」
「なんだか意味深だね。聞いたらどうなるの?」
「残念だけど。サヨナラしないといけなくなるわ」
シバの表情は真剣そのものであった。だから走士もまじめに答える。
「わかった。君が自分から話してくれるまで聞かないことにする。それでいいのかい」
「いいわ。じゃあ、今夜は楽しみましょう」
シバは微笑むと走士の肩にひたいをのせた。
『なんだか意味深だね。聞いたらどうなるの?』
『残念だけど。サヨナラしないといけなくなるわ』
『わかった。君が自分から話してくれるまで聞かないことにする。それでいいのかい』
『いいわ。じゃあ、今夜は楽しみましょう』
…
「何を楽しむつもりだかっ!」
慧子は、そう叫ぶと道路脇に車を寄せてライトを消した。
キーも抜いて体を横に倒す。
窓を半分ほど開けて冷たい外気を入れ、窓が曇るのを防ぐ。こうして車から完全に人の気配を消し去る。
無線からは走士とシバの声が漏れ聞こえていた。
慧子はいらいらとする気分を抑えて息を潜めた。
「これって嫉妬なの?」
急に車内が明るくなった。後方から来た車のヘッドライトだ。その車は、やがて通り過ぎて行く。
後には静けさが残った。
「はっ」
凍るほどに冷たい空気に、慧子の息が丸く浮かぶ。
窓を閉める。
キーをひねってエンジンをかけ、急いで暖房のスイッチを入れた。
ゆっくりと車を発進させて走士達の後を追った。
−つづく−
「マシュリク」というのは、アラビア語で東方の国という意味だそうです。 この作品はフィクションであり、マシュリクとは想像上の架空の国であります。現実の国家、宗教とは全く関係ないことをここに明言いたします。