ACT 2
カタン。ドアの閉じる音は意外なほど大きく響いた。
走士は体を起こして見せるとドアへと目を向ける。女が一糸まとわぬ姿で立っていた。
「ごめんなさい。起こしちゃった?」
窓の外はまだ暗い。目を擦りながら腕時計を見ると午前六時だった。
冬の午前六時は、まだ夜の内に入るんじゃないだろうか。寝入ったのが二時頃だと思うから、おそらく四時間程度しか寝ていない計算になる。
「ずいぶん朝が早いんだね。昨日は遅かったのに」
あくびしている走士に、女は、はにかんだ笑顔を見せるとベットに駆け寄った。
毛布に潜り込むと、走士の温もりを感じようとして身を寄せてくる。走士も、その冷え切った体を包むようにして抱き寄せる。すると女が唇を重ねて来る。ほのかにアニスの香りが漂っていた。
「ダーフィ」
「なに?」
「『暖かい』って言ったのよ。クスクス」
「…シバはすっごく冷たい」
走士はブルブルとふるえて見せた。「こんなに冷たくなるまで何してたの?」
「ちょっとね」
「ちょっとって、なに?」
「外を見てきたのよ。ユキが降ってたわ。すっごく降ってて、つもってて、さわるとふわふわだったわ」
走士はなにかしっくりこないものを感じながらも「ふうん」とうなづいた。
シバは、走士から少しでも体温を奪おうと、その肌をぴったりとくっつけてくる。
なまめかしい肌の感触に、ふと思い当たった。
「もしかして、その格好で外に出たとか?」
「ナァム(うん)」
「もしかして、君の国では雪が降ると肌で外に出るとか言う習慣があるとか?」
「まさか!ただ、一度やってみたかっただけ。雪の中を裸で歩くのってどんな気分だろうって…それが、どんな馬鹿なことでもやってみたいって思うことない?」
「そりゃあ、ないこともないけど。人に見られたらどうすんの?」
「大丈夫よ。ここには走士とあたしとふたりっきりでしょ?それに、まだ暗いし…うん、見られてないわ」
「なんだかなぁ」
「だってぇ、こんなことニポンにいる間しかできないもの」
走士は、シバの手をほどくとベットから降り立った。
肌を切るような寒さを、走士は苦と感じないのか、少しも身を縮ませない。堂々と冷たい空気の籠もった部屋を横切って、エアコンのスイッチを入れた。
チチチチチと火花の散る音がしたかと思うと、ボッと着火音が籠もる。すると生暖かな空気が、排出口から溢れてくる。
「今日は、どうする?どこか遊びにいこうか?」
走士の問いにシバは、ベットの中でぼそぼそっと答えた。
「あたしは帰るつもりだけど」
「えっ?」
「今日中に帰らないといけないの」
「どうして?」
シバは、きっぱりと「今夜、迎えが来るの」と答えた。今夜の飛行機で来日するという。
「黙っててごめんなさいね。ソウシのことはきっと忘れないわ」
シバは「サヨナラ、もう二度と会わない」と同義のセリフを走士に突きつけた。
「そ、そう、あっけらかんと言われると、何と答えていいかわからないな。もしかして最初からそのつもりだったとか?」
シバは、頷かずに言葉を続けた。
「ごめんね。でもあたしだって、帰りたいわけじゃないのよ。だって、あたしの国って戒律が厳しくて、この国みたいにいろいろな事が自由じゃないんだもん。アレもダメ。これもダメ。ねぇ知ってる?男女が並んで歩くのもダメなのよ。これからそんな国に帰ると思うと、ぞっとしちゃうわ」
「だったら、ずうっと日本にいればいいじゃないか」
「あたしだってそうしたいわ。でも、そうも行かなくて」
「どうして?」
「迎えに来るのが、とても怖い人だからよ」
「だったら逃げるとか」
「ソウシが匿ってくれるってわけ?」
走士がうなづくとシバは表情を輝かせた。
「ファラフ!(嬉しい)でも、カズーブ(大嘘つき)。ソウシもいざとなったら逃げ出すと思うな」
「そんなことしないよ。シバが行きたいところに、きっと逃がして上げる」
「ホントウかしら?」とシバは軽く笑った。
「うん。約束する」
走士はためらうこともなく誓った。
あまりにも簡単に答が帰ってきたので、シバは走士の答えを暫くの間、理解できないようだった。「えっ?」とばかりに走士を見直す。
シバは、走士の言葉を振り払うようにして言った。
「ば、馬鹿なこと言わないでよ…」
「これでも真剣に言ってるつもりだよ」
シバは、一呼吸置くと一気に言い放った。
「もしかしたら、あたしの恋人にでもなったつもりとか?だったらやめてよね。一晩遊んだくらいで本気になられたら、体がいくつあっても足りないもの。この程度のつきあい相手なら、何十人もいるのよ。それに言っておきますけど、怖い人って言うのはミスター建軍じゃないわ。お父様なの」
「お父…さま?」
「そ。マシュリク国王のファル=ファラハ。一国の王女を拐かして無事で済むと思っている?」
走士は、それを聞いて黙り込んだ。
シバはそんな走士を見て嘆息する。それは「ほら、みなさい」とも「ああ、やっぱり」とも、とれるような複雑なため息である。シバは走士を哀れむように言った。
「これで、わかった?お願いだから笑顔で見送ってね」
オペレーションβ
たくさん
「サバーハルヘイル、ヤスミーン!アナ、シバ!ハル サッライタ サラータ スブフ?(おはよう、ヤスミン。あたしよ、シバ。朝のお祈りはした?)」
シバは、携帯電話にマシュリクの言葉で話し始めた。
なにやらしきりと言い訳をしているらしいことは声の調子を聞いていてわかる。アースィファ(ごめんなさい)とか、ナァム(うん)ラァー(ちがうわ)とかをしきりに繰り返していた。
その間、走士はふてくされた表情をしながら、紅茶を入れている。
ポットに茶葉をスプーンで三杯入れて、ティーカップ二杯と半分の量の湯を注ぐ。ティコゼーを被せて、ジャンピングさせている間に給湯器とテレビのスイッチを入れる。電話をしているシバのために音量は下げておく。
シバの電話が終わったのは、カップに紅茶を注いでいる時だった。
「ふう」とため息をついてティカップを手にするシバ。
走士は無言のまま、表情で「どうだった?」と訊ねた。
「危ないところだったわ。警察からの連絡が先だったら、あなた賞金首になっていたわよ。幸いニポン警察から、問い合わせとかはなかったようだけど…」
「し、賞金首?」
「そ。マシュリクの王女、シバ=ファルを拐かした犯人、イズモ=ソウシ。この者の首を持ってきた者には金10万ドル与える云々ってヤツ…昔、イバラギの大学で、教授が暗殺されたのは知っている?」
「ゾッとする話だね」
「マシュリクってそういうことアリの国なのよ。20年くらい前の話だけど、外交官の息子と駆け落ちした国王の娘が斬首刑になったって話もあるわ」
走士は、切り落とされることになるかも知れない首を、そっと撫でた。
「賞金首になってまで、あたしと逃げようとは思わないでしょ?」
そう言いながらシバは走士の反応をうかがった。
「……」
走士は是とも非とも答えない。
「ねぇ、わかって。これ以上あたしに関わらないのが、ソウシの為なのよ」と言って紅茶を飲み干した。
「わかったよ。じゃあ、せめて送らせてくれないか?」という走士の申し出を、シバは「いらないわ。ミスター建軍に迎えにくるよう連絡して貰ったから」とにべもなく断る。
「迎え?」
「そ。彼のことだからすぐに来るわ」
実際、建軍がやってきたのは、それから30分もしないうちだった。
アイドリング中の車に荷物を積み込む。建軍はフロントガラスに積もっていた雪を払い落とし、ボンネット上の雪をかきおろした。
玄関前では走士とシバが向かい合っていた。建軍は「忘れ物はありませんね?」と、せかすように言う。
「ないわ。先に乗ってて…」
シバは走士に振り返ると「…短かったけど楽しかった。お互いにいい思い出にしましょうね」と言った。だが返事はない。走士は黙ったままだった。
走士の複雑な心境はわかるつもりである。だが、悪いことをしたとは感じなかった。
所詮は旅先の遊びである。後腐れなく別れるのが当然、と思う。
「また来なさいよ」と言ったのは夏子だった。
そう言えば、夏子は昨日の夜をどうすごしたのだろう。
建軍と一緒だった…とすればたいしたモノである。建軍も隅に置けない男だ。
考えてみれば、走士とシバが連れだって姿を消したのなら、この山荘が潜伏先だとすぐにわかるはずである。それなのに探しにもこない。電話もかかってこなかった。
要するに、建軍は職務を放棄していたわけだ。そしてその間に何をしていたかを想像するのも難しくない。
そこで聞いてみる「ナツコ。ミスター建軍はどうだった?」と。すると夏子はシバに耳打ちした。
「素敵だったわよ…そっちは?」
返事代わりに苦笑するシバ。
再度「また来なさいよ」と夏子が言ったので、「インシャッラー(神様が、そうお望みになれば…と言う意味)」と応じた。
「そうね。でもそう遠い話でもないと思うけど」
夏子のつぶやきにシバは、何も答えないままに車に乗り込んだ。シートベルトをするのも待たず、建軍はアクセルを踏み込んだ。
「バイバイ!」
「フィー リャーヤティッ ラー(神様のご加護がありますように)」
走士の声である。驚いたシバが振り返ったが、車はすでに走りだしていた。
その姿は後方へと小さくなっていく。
「聞いた!マシュリクの言葉よ」
「そうですか?」
「驚いた。ソウシがマシュリクの言葉を知ってるなんて思わなかったわ。ヤーバーニ(日本人)がマシュリクの言葉を使うなんて…」
「きっと、夏子さんが教えたんでしょう。彼女は英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、中国語…数カ国語を自由に使いこなすそうですから。アラビア語の挨拶くらい知っててもおかしくありませんよ」
「ふーん。随分とナツコのことに詳しくなったのね?」
「おかげさまで、話しをする時間だけはたくさんありましたから」
「どこでお話してたのやら。もしかして…ベットで?」
「さあ?」
しらばっくれる建軍の頬は、僅かばかり赤くなっていた。
−つづく−
この作品はフィクションであり、現実に存在する政府機関、国家、宗教とはまったく関係がありません。