「何事も起きなければ事件にならない。起きなかったことは歴史に記されない。だから、『起きなかったこと』のために、どれだけの血と努力が費やされたかを、多くの人は知らないでいる」
【第二章 脱出】
ACT 3
夕闇に浮かび上がるホテルレトロパシフィカ。
最上階スイートルームにシバはいた。最高級、最上級の調度品に囲まれた優雅さは、さすがに王族と言える。
それまでとは服装もガラリと変えて、民族衣装の黒いへジャブを頭からすっぽりとかぶっている。地域によってこれはベールとか呼ばれているが、だいたいにして同じものである。宗教上の理由でマシュリクの女性は皆、これを身につけることがたしなみとされていて、シバとしては動きやすいジーンズとトレーナーを着ていたいのだが、父親といるのでは仕方ないと、この姿となっている。
今、シバが自由に動けるのは、このホテルの中だけであった。いや、このスイートルームから出ることも難しい。よほどの理由がないと…例えば食事とか必需品の買い物とか、そう言う理由がない限り、部屋を出ようとしてもSPやら侍従やらが、警備の都合を楯に立ちはだかってやんわりと首を横に振るのである。
それで、もう三日。
半場、軟禁されているような待遇に、いい加減退屈していた。
来客が来るわけでもない。来たとしても、シバの客ではなくて、マシュリク国王に面会に来た客である。話題といえば、政治か、経済か、あるいは商談である。マシュリクでは、そういった席に、女性を相席させる習慣がないから、来客の度にシバは寝室に引き下がらなくてはならなかった。
ベットに横になると天井を見上げる。そうして時間を過ごす。
国ではこういうのんびりとした時間を「ラーハ」と言って大切にする。くつろぎと訳するべきか。だが、日本で刺激に溢れる生活を三年もしたら、ただの退屈になってしまった。
これから国に帰れば、ずうっとこういう生活を送らなくてはならないのである。
もちろんホテルの中ではなくて宮殿の中でだが、この場合広い狭いはあまり関係ない。精神的な問題なのである。
傍らには侍女のヤスミーンが控えていた。
侍女と言っても40過ぎの気のいいおばさんである。シバの身辺に関する一切の世話を焼いてくれるが、気質としては古いタイプのマシュリク女だから、シバと話が合うような存在ではなかった。
「お客様がお帰りになられました」
ヤスミーンの声に、シバはベットから跳ね起きた。
起きあがり方があまりにも乱暴だった為に、ヘジャブの裾が乱れて素足が出てしまう。
「いけません。そのようなお姿で…」
ヤスミーンはシバを引き留めると、衣装の裾を整えた。
「これまでも申し上げておりましたが、是非、身だしなみには気をつけて下さいませ。国に帰れば何かと人目もございます。この国に滞在している時のような振る舞いはお控え下さいまし。さあ、このブローチを差し上げますから…」
そう言って銀色のブローチで裾が乱れないようにしてくれた。
「動きにくい」
「我慢なさい。男衆の中にいる間のことですから」
リビングに出ると、父王がスーツ姿の秘書や侍従達と打ち合わせをしているところであった。
講義を終えた直後のような、雑然とした解放感の中で、随員達はそれなりにリラックスしている様子であった。書類をとりまとめる者。荷物を出したり運んだりをしている者。それぞれ分担されている仕事について打ち合わせしている。
ファラハ国王は来日するに当たって、秘書、侍従、経済通商担当の文官、護衛、そして通訳と20人の随員を連れて来ていた。そこにマシュリクの駐日大使と、大使館の文武の官僚が加わるから、その規模は倍の40人にもなる。さらに、日本側の役人や警察のSPが、入れ替わり立ち替わりするで、その身辺には実に50人近い人数が出入りしている計算となる。これではシバには落ち着き所がない。
「おっ、シバか。こちらに来なさい」
「はい、お父様」
シバは、バドゥ(ベドウィンの現地呼称)の民族衣装をまとった国王の前に進み出た。
「今日の来客はこれでしまいだ。身辺が落ち着かずにすまないことをしたな」
国王は侍従の差し出したコーヒーカップを口に運んだ。
シバの前にも、コーヒーカップが差し出される。だが、シバはコーヒーがあまり好きではなくて、どちらかといえば紅茶党である。
そう言えば、ソウシは頼まなくても紅茶を入れてくれたなと、思い出した。
シバにとってソウシは、何十人かの内の一人に過ぎないのだが、最後だったからか、それとももっと別の何かがあるのか、不思議と思い出される存在となっていた。
「陛下。時間です」
その声を合図に国王、随員達が一斉に西に向かった。
サラートル・マグリブ。日没の祈りである。
シバにとって、それは父王と再会してから復活した習慣であった。
オペレーションβ
たくさん
当番の侍従を残し、随員達はそれぞれに割り当てられた部屋へと引き下がった。
それまでが雑然としていたからか、妙に閑散とした雰囲気である。だが、これでやっと落ち着けると、シバはホッと息をついた。
「ニポン警察の方々にも、振る舞って差し上げなさい。呼ぶまでは隣室で控えているように」
国王の命令で、侍従が大きな盆にカップを並べてドアの向こうに消えて行った。
シバは、久しぶりに父親と二人きりになったが、妙に気まずかった。父王が何か、お小言を言おうとしているのがわかるからだ。身に覚えもある。
「母様方はお元気でらっしゃいますか?」と先んじて言葉を並べたが、父王は無言でこれをかわし、おもむろに切り出した。
「報告は聞いておる。儂の目が届かないことを良いことに、ずいぶんと気ままに振る舞ったそうだな」
シバはコーヒーカップを危うく取り落とすところだった。
「ヤスミーンですか?あの者は嘘を言ってます!」
「ほう、ヤスミーンが嘘をな?ならば、あの者の舌を切らなくてはならぬかな」
「いえ!」
話が合わない。口うるさいと言っても、日本に滞在中、ずっと身辺の世話をしてくれた侍女である。そんな目に遭わすわけにはいかなかった。
「う、嘘とは申しません。ただ、ヤスミーンは重大な誤解をしているだけなのです。そう。ニポンの文化についての誤解ですわ」
「ふむ。儂としてもお前の言うことを信じたい。だが、ニポン警察からも苦情が来ておってな。外交官特権を使っての禁制品の密輸入。治外法権を良いことに大使館内での賭博、若い悪党共を引き連れてて、繁華街での不良行為…等々。儂は恥ずかしくて国に帰りたくなったぞ」
シバは首を振った。
「な、何かの間違いですわ」
「ペルソナノングラータ(好ましからざる人物)の烙印を押されて国に追い返されることになるぞ」
「しかし…」
「もうよい。どうせ国に帰るのだからな。…お前は、何事も無かった顔をして国に帰り、カシムと結婚するのだ」
「いやです。その話はお断り下さい」
「まだ、わからぬのか?これはマシュリクの安定の為なのだ」
「お父様に都合が良いだけのことではありませんか。あたしとカシムが結婚すれば、その子は次の王。そうなれば、何かとうるさい先王派を黙らせることが出来る」
「その通りだ」
「わたくしには相手を選ぶ自由はないのですか?」
「カシムはお前の従兄だからな。お前が他の男と結婚したいと望んでも、カシムが承諾しまい?」
「因習です。それこそ改められるべき習慣です。このニポンでは、いえ、ほとんどの国では、男と女は望んだ相手と結婚することが出来ます」
「マシュリクでは違う。お前はマシュリクの女なのだから、マシュリクの習慣に従うのだ。何のために、この三年間の好き勝手に目をつぶってきたと思っている?」
こうも言われてしまうと、シバには逆らいようがなかった。
しばし続く沈黙。シバは、まだ何かを言おうと思って考えていた。しかしトントンとドアを叩く音がして、国王が「入りなさい」と答えると、もう、この話を蒸し返す機会はなかった。「陛下。大変でございます」と秘書と随員が駆け込んできたからだ。
「反乱です。国で反乱が起きました!」
「なんだと?」
正確とは言い難い報告を秘書が冷静な口調で補足した。
「今、先王派の将校が、武装蜂起したという知らせが入りました。宮殿、政庁、軍司令部、空港などはすでに制圧されたそうです。味方の抵抗は微弱で、全土が制圧されるのも時間の問題かと…」
「なんだと!アブドゥラーはどうした?情報部は何をしていたのだ!」
「その、アブドゥラー将軍が、反乱軍の指揮を執っているそうです」
「何!あの男が?」
国王は立ち上がりかけた腰を、力無く椅子に下ろした。
アブドゥラーとは国王が最も信頼する優秀な軍人であった。それも前半部に関しては、すでに過去形の話である。そしてまだ健全に機能している優秀さが、敵に回ったとなれば、劣勢を挽回する余地はない。首都は数時間で制圧されるだろう。
ファラハ元国王は、深々とため息をついて肩を落とした。
どれほど時間がたったろう。実際は数秒のことかも知れない。だが数時間とも思えるため息であった。
ふと見上げると秘書や随員達がうちそろって国王の裁決を待っていた。だが妙に人数が少ない。
「ムハマドはどうした?」
随員一人が答えた。
「大使館の者は皆、引き上げました」
マシュリクでは体制が変わっても外交の要員が入れ替えられることは少ない。
外交関係とは、つまるところ人間関係であって、何か不都合があったから新しい要員を派遣して即機能させると言うわけにはいかないからである。従って、大使館の職員の立場からすれば、おとなしくして新政府に帰順の意志を示してさえいれば、身分や地位を保ちつづることができるのである。
「他の者は?」
随員の一人が首を振った。
すでに、かなりの人数がファラハを見限って行ったというのである。
国に帰ってもファラハの側近だったと言うだけで、命に危険がある。このまま国王の側に踏みとどまるよりは、日本の人混みに紛れていたほうが、まだ生きていけると判断したのだろう。その意味では、日本は安全な国である。
こうしている間にも随員は一人去り、二人去り、と次々と姿を消していく。代わりに、日本警察から派遣されているSP達が、どうしたものかと言う表情で、ファラハの部屋におずおずと入って来た。
彼らは日本国政府から派遣されている。日本政府の命令がない限り離れない。その意味では彼らの方が信頼できた。逆に信用できないのが側近と言う皮肉な状況に陥っているのである。逃げ出す際、行きがけの駄賃にと、国王の金品を抱えて持ち出すからである。それが大規模な略奪にならないのも、日本警察の目があるからである。
「どういたしましょう?」
ファラハは、秘書に決断を迫られたが上手い回答は見つからなかった。
とにかく情報が欲しい。それと考える時間だ。
ファラハは、シバにテレビをつけさせるとニュース番組を探させた。
「お父様、この時間に放送しているのはドラマくらいですわ」
「国営放送もか?けしからん!いや…我が国の災事も、この国にとっては対岸の火事と言うことか…こんな事ならもっと親密な関係を結んで置くべきだった。…そうだ、大使館には何か情報は入っておらぬか?問い合わせて見ろ。ムハマドも、何が起きているかぐらいのことは教えてくれるだろう?」
言われた秘書は、あわてふためいて携帯電話を取り出した。
「ニポン政府はどうかな?」
一同に注目されてもSP達は、困った顔しか出来ない。
「上からは何も言ってきませんが…」
「早急に問い合わせてもらえぬか?マシュリクで何が起きているか知りたいのだ」
「はっ、すぐに」
SPの一人が携帯電話を手にした。
ホテルレトロパシフィカの屋上。
夜空に浮かぶコンクリート製の稜線。そこに黒い人影が蠢いていた。
黒い服。黒い靴に、黒い手袋。艶消し加工が施された黒いヘルメット。目だけが出るマスク。そして黒い小銃。
身につけた金具類には、全て黒いビニルテープが巻かれて音もない。サササと言う衣擦れの音が、僅かに耳に入る程度だ。
腰につけた雑嚢からザイルの端を取り出して固定する。
体に巻いたハーネスと8の字環をつなぐとビルの外壁に腰を下ろした。銃の担い紐が体にかかっているかを確認する。カートキャッチャー(排出される薬莢を受け止める袋)を装着しなおす。ヘッドカムのマイクを口元に引き寄せて囁いた。
「こちら猫さん。待機よし」
『ザザッ…二五(フタゴー)より、各員へ。そのまま待機!』
「現地領事館から外務省に入った報告では、すでに戦闘は沈静化しているとのことですが…」
通訳が逃げ出してしまったので、通訳はシバがしている。そのSPの報告に、ファラハはさもあらんと頷いた。
「さもあらん。アブドゥラーが荷担しておるとすれば、そうだろう」
大使館に問い合わせをしていた秘書が携帯電話をたたんだ。
「大使館によりますと宮殿はすでに占拠され、ハキム殿下が新国王として即位するという宣言がなされたそうです。またニポン国政府には陛下を…」
途中で報告を停めた秘書を、ファラハはじろっと睨み上げる。秘書はうろたえながら言葉を続けた。
「…ニポン国政府に、陛下を引き渡すように言ってきているそうです。さもなくば原油の輸出を停めると…」
随員達はどよめきながら顔を見合わせる。ついSPの視線が集まる。
「で、ニポン政府はどうするつもりなのかね?」
「それについては、我々にはわかりかねます」
長い沈黙の後に「そうか」とだけ頷いた。国王は全員に退席するように命じた。「暫く考えたいことがあるので下がっていてくれ」
SP達は顔を見合わせたが、部屋から下がっていく。
部屋に残ったのはファラハ、秘書、そして随員たち。侍女のヤスミーン、そしてシバだけであった。
「お前達も下がっていてくれぬか?」
随員達も下がった。そしてその内の何人かは、そのままホテルから立ち去っていく。
国王の側には秘書とシバだけが残った。
「ハキムは、ニポン政府に儂を引き渡すように要求しているそうだが…」
秘書が答えた。
「ご安心を、ヤーバーニ(日本人)は陛下を引き渡したりなどしません」
「どうしてわかる」
「ヤーバーニは極端なまでに他国の評判を気にします。処刑されることが明らかなのに陛下をハキムに引き渡したりすれば、諸外国から非難されましょう。それはこの国の政府に耐えられることではありません」
「では、ハキムはなぜ引き渡しなど求めた?」
「それは陛下が、ニポンを出ることを恐れたからでありましょう。ニポン政府に陛下の引き渡しを求めればこの国は、陛下の身の安全を守ることに汲々としましょうから」
「そうか。要するに儂をこの国に閉じこめておきたいのだな?」
「はい。いくらアブトゥラー将軍が指揮していると言っても、制圧出来るのは首都の一部でしかありません。マシュリクの本質は首都ではなく砂漠ですから。ハキムが恐れるのは陛下の帰国でございます。だからこそニポン政府に引き渡しを求め、陛下の動きを封じておきたいのです。そして、その間に陛下に忠誠を誓う諸部族に服従を迫る。そう言うことでありましょう」
「うむ。となれば儂はすぐにでもこの国を出るべきだな。いずこへまいろうか?」
「はい、フランスがよろしいかと。そこからならば、サウジアラビアをはじめとした近隣諸国に救援を求めることが出来ましょうし、国内の諸部族に抵抗を呼びかけることも出来ます。それにスイスにも近いですから」
「うむ」と、ファラハは重い腰を上げた。フランスには諸部族有力者の子弟が留学しているし、政府にも知り合いが多い。また亡命する場合でも法律も整備されていて対応もしっかりしているのである。そしてスイスに近いとは、この場合スイス銀行に近いことを指している。「フランスへ向かう。急ぎ支度するがよい…」
秘書は残った随員を呼び集めた。三人しか残っていなかった。
「これより出立してフランスへ向かう」
随員達は直ちに支度を始めた。秘書は、携帯電話をとって飛行機の手配を始める。来日した時に専用機で来たので、支度さえ整えばいつでも動けるのである。
「不要な荷物など置いていけ、必要なものだけを支度なさい!」
ファラハ一行が、慌てふためいて出発の支度を始めたことに、SP達は驚いた。
「いったい、どうされました?」
だが、誰も日本語がわからない。SPは、唯一言葉の通じるシバを探した。シバは奥の寝室でヤスミーンとトランクに荷物を詰め込んでいた。
「シバ殿下?いったい何があったのですか?」
シバは一度振り返っただけで、手を休ませずに答えた。
「フランスに行きます」
「え?フランス?」
「はい。すぐにでも発つそうです」
「そりゃ困る!」
SPはびっくりしたようにシバに詰め寄った。だがそうこうしている内にも支度が整いファラハ国王の身辺に荷物を持った随員達が集まった。
シバもSPを無視してファラハの元に駆け寄る。
「全員準備はいいかな?」
さあ、部屋を出ようとする。しかし出口をSP達がふさいだ。
「そこをあけなさい」
国王の言葉をシバが通訳する。しかしSPはそこから立ち退こうとしなかった。
「陛下の安全を確保しろと、命ぜられております」
「それはご苦労。しかし君たちの役割は終わった。これより陛下は出国される」
今度は秘書の言葉だ。シバは忙しく双方の言葉を通訳した。
「今後のことにつきましては日本政府が現在検討中であります。それまでは陛下の安全のために、ここからお出しするわけにはいきません」
要するにホテルから出るなと言うことであった。ハキムの狙った通りの動きである。
日本政府は「ファラハの身柄を引き渡せ、さもなくば原油の輸出を差し止める」と言われたことに過剰反応して、国王の安全=身柄を確保することにしか頭が回らなくなってしまったのである。この場合の安全確保とはファラハにとって軟禁と同義である。
随員達は、押し通ろうと考えたのか国王の指示を待たずに懐中に手を入れた。それがSPの素早い動きを誘う。抜き出そうとした銃を取り上げられ、随員達は取り押さえられてしまった。
「武器の不法所持と言うことで、一応逮捕させていただきます」
六人ものSPに取り囲まれては抵抗の余地がない。随員達は連行されてしまった。
「この件は、厳重に抗議させてもらうからな!」
「どうぞ」
秘書の言葉にSPの一人はそう答えると、ドアの外へと出た。
「隣室に控えておりますので、ご用がありましたらお声をおかけ下さい」
そう言ってドアを閉じる。
静かに閉まるドアの音は、鉄格子のそれにも似た重さをだった。
『フタゴーから各位。状況始め!』
走士は、その合図にはじかれたように屋上から飛び出した。
ロープに身を預けての飛び降りは、バンジージャンプよりきつい衝撃が体に加わる。ガクンと停止したかと思うと、壁にたたき付けられないように足を使ってクッションを効かせた。
室内。窓ガラスの向こうに、ヘジャブ姿のシバを見つけた。
黒いレース製のヘジャブは、その目的に反して体の線が透けて見えてしまう。
側には、ファラハ国王と秘書がいた。がっくりとした様子である。
侍女とおぼしき女性が、盆を抱えて部屋から出ていった。ドアが開いた瞬間、数人の男の姿が見えた。どうやらSP達は部屋の外にいるようである。
走士は『スティックのり』のような物を取り出すと、ぶ厚い窓ガラス一杯に丸を書いた。そして素早く火をつける。こうしたガラスは衝撃に強いが熱には弱い。黄色い線が、フラッシュのような輝きを放って燃え上がると、窓ガラスは室内にゴトと落ちていた。
走士は音もなく室内に入ったが、ふと振り返ったシバと目が合った。
「だ、誰?」
走士は再会の挨拶にと「やあ」と手を挙げたが、考えてみるとマスクをしているのだから、誰だかわかろうはずもない。走士は銃口を四方八方にめぐらせて、室内にシバと国王と秘書しかいないのを確認してから言った。
「マサーァル ヘイル(こんばんは)」
そしておもむろにマスクをはずして見せる。
「ソーシィ!」
その顔を見た途端、シバはその名を叫んでいた。
「どうしてここに?その姿は?」
「説明している暇はない。三分で脱出するから、貴重品だけを身につけて!」
走士はそう答えるとドアノブを針金を使って繋ぎとめた。
テーブルをドアの前に寄せて、荷物をその上に積む。この間二分。ファラハ国王と秘書は、突然侵入してきた男が何をしているのか理解できずただ見ているだけであった。シバの知り合いらしいから賊徒の類ではないとわかるが…とりあえずシバに通訳されたように、先祖伝来の指輪や、カード、小切手等の貴重品を身につけた。
走士はシバが使っていた寝室へ行くと、壁にゴムホースのようなものを張りつけた。ヒト一人通り抜けられるくらいの輪を壁にかけた感じである。これに三〇秒。
寝室から出てきてドアを閉じる。
ドスン!
鈍く低く、それでいて腹にずしりと来る衝撃音がした。寝室のドアを開けると壁に丸い穴があいていた。
「陛下!何がありました」
けたたましくドアを叩く音が響く。ドアを開けようとガチャガチャノブを回す音もする。しかしノブ同士針金で繋がれ、重たいテーブルが重石となっている。簡単に開くものではない。
「シバ!いくぞ。急げ急げ急げ!」
「でも、ヤスミーンが」
「侍女は大丈夫だから。置いて行け!」
シバは、ソウシに急かされて、穴をくぐった。
ファラハも秘書も。走士に急かされるままに、シバが行くからついて行く、と言う感じで後に続いていった。
シバは、なんだかよくわからなかった。
ただ走士に急かされて穴をくぐってみると、隣の部屋に出る。すると隣の部屋には走士と同じ格好をした兵士が待ちかまえていた。
マスクをしているから表情はよくわからない。体型の線細さからすると女性らしいと思う。見られただけで切れてしまいそうな、鋭い視線が印象的だった。小銃を手にしているが、妙なことにリアリティーは感じない。どこかテレビドラマか映画を見ているような気分だった。
女性兵士の誘導でシバは廊下に出た。人影はない。廊下の突き当たり、スイートルームからはドンドンとドアをこじ開けようとする音と声が響いている。バキ、メキと言う音からしてドアを破ろうとしている様子である。
廊下に出ると、エレベーターがドアを開けて待ちかまえていて、シバ達は素早くそれに乗り込んだ。ファラハも秘書も素早く続いた。走士が乗り込むと女性兵士は、ドアの隙間に差し込んでいたナイフを抜き、ドアはスッと閉まりだす。
ドアが閉まろうとした瞬間、ヤスミーンはSPに押し出されるようにして廊下に姿を現した。シバと目が合う。
「殿下!」と声を上げたために、SP達も気づいたようだった。
ドアが閉じてエレベーターは階下へと向かう。地下三階のボタンが点いていた。
「ソウシ……ねぇッ!」
「シッ。黙って…詮索は後!」とシバを黙らせると、走士は女兵士と顔を見合わせた。
シバは何か無視されたようで気分は良くないが、この場合は仕方ないと黙った。
「離脱を気づかれたわ。スケジュールがきつくなるわね」と女兵士。
ポーン。地下三階に到着する。
女兵士は銃の安全装置をはずして腰だめに構えた。
走士は、国王とシバ、そして秘書をドア脇に隠れさせた。
ドアが開いた途端、女兵士は走りだす。そして10メートルほど駆け抜けてから、周囲に目配りした。右、左、上…人の姿はない。地下駐車場は静かであった。
「OK。まだ手が回ってない」
駐車していた工務店のワゴン車が突然エレベーター前に出てきて急停車。女兵士はそのドアを開ける。
ソウシはシバとファラハ国王、そして秘書を連れてワゴン車へと走った。
女兵士に押し込まれるようにしててシバ達は車に乗り込む。走士も助手席に座る。そして乗ったか乗らないか、確かめもしない内に車は急発進し、シバと国王は後部座席でミキサーにかけられたように転げてしまった。
「ら、乱暴な!」
「あの人、乗ってないわ」
シバが言ったのは女兵士のことである。
「いいのよ。彼女は別口で脱出するから」
運転席の女が振り返るとシバは再び言葉を失った。
「ナ、ナツコ!」
車は、ホテルを出ると夜の国道の車列へと紛れ込んでいた。
「そ、そろそろ説明を聞かせてくれる?」
シバは夏子に問う。
だが夏子は答えないで運転に専念している。
走士も答えない。ただ、バックを後ろの三人に差し出した。
「陛下。このような場所で申し訳ありませんが、こちらにお召し替え下さい」
夏子にマシュリク語で言われたファラハはバックを受け取ると中身を開き見た。
中はジーンズやセーターといった普段着である。
「どうしてかね?」
「陛下のお姿は、日本では大変目立ちますから」
「あたし達を、これからどうするつもりなの?」
シバの問いに走士は振り返ると答えた。
「行きたいところへ逃がして上げるって約束したろ?それを果たすのさ」
長野県、北方台の某所。山荘。
想い出という項目にしまいこんだはずの風景…その室内を見るとシバは複雑な心境になった。まさか再びここへ来ることになろうとは思っても見なかったのだ。
ファラハは秘書と共に居間で、夏子から状況説明を受けていた。いろいろと資料や書類やらファイルを示されてうなっていた。
「つまり、ニポン政府は我が国で反乱がおこることを、事前に察知していたということなのだな?」
「はい。ラングレー(CIA)から情報提供を受けておりましたから」
「なんと言うことだ…。どうして教えてくれなんだ?」
ファラハは、狡猾そうな笑みを浮かべた内閣総理大臣の顔を思い出した。どの国でも、代表と言うのは一筋縄ではいかないものだ。
「正直に申し上げて我々は、ラングレーがどんな意図でこの情報を提供をしてきたのか、わからないのです。何か裏があるのか、ないのか?いずれにしても我々の選択肢は対応するのみでした」
ファラハは唇を噛んだ。夏子の、そして日本の立場が理解できたからだ。この件を、CIAが知っていたとなると、裏でCIAがどのような動きをしているかわかったものではない。もしかすると反乱そのものがCIAの謀略、と言う可能性もありうる。
「そうだな。わかった…それで今後どうするのかな?」
「はい。これより新潟に向かいます。海上自衛隊の護衛艦が待っておりますのでそれで台湾近海へ。そこからは漁船に乗り換えて台湾に入り、そこからフランスへと向かっていただきます。こちらが台湾からフランスまでのチケットです。それとパスポートも用意させていただきました」
「どうしてまっすぐナリタか、オオサカへ向かわないのですか?このように逃げ隠れする理由は?」
ファラハの秘書がパスポートとチケットを確認しながら訊ねた。
「陛下のお命を狙う者が国内に潜伏していると言う情報があります。それに国際空港は警察によっておさえられていますから」
「ハキムの息がかかった者がこの国にいると言うのか?」
ファラハ国王に、夏子は頷いた。
「ならば用心に越したことはないな。しかし、警察の話はわからん。同じニポン政府であろう?」
「いいえ。今回の私どもの対応は完全に非公式なものです。政府もこの件を知る者はわずかです。従って陛下には独力でフランスへ渡っていただかなくてはなりません」
それを聞いたファラハ国王は「ふははははは」と笑った。
「要するにこう言うことか。ニポン政府はハキムに儂の身柄を要求される。原油を停められてはかなわないが、儂を引き渡すのも国際世論の目が怖い。そこでニポン政府は儂が行方不明になった。勝手に逃げたのだから知らん、と発表するわけだな?」
「はい、その通りです」
「姑息だな」
「はい、全くその通りです」
それを聞いていたシバは半分あきれた。
なんと大仰なことだろうかと思う。そしてこんなことの為に、ソウシが自分に近づいてきたのかと思うと妙に腹がたつのである。なにか馬鹿にされているような気分だった。
原油を止められようと、どうなろうと、ハキムの恫喝にラーなら、ラー(NO)と答えて先進国の矜持をを示せばいいのである。それが出来ないと言うなら自分たちを引き渡せばいい。それをしないでソウシやナツコを差し向けて来るとは、小賢しい以外の何者でもない。要するに問題から逃げているだけなのだ。今更ながらヤーバーニとはいったい何を考えているのかと思ってしまう。まあ、他人の国のことだから、自分が心配するほどのことではない。しかし、自分と言う存在は、なんだったのだろうと思ってしまう。
要するに利用されたと言うことになる。
ソウシは自分のことを好きだったわけではないのだ。ただの任務だったのだ。そして別れ際に見せた、あの未練がましい態度も、芝居だったと言うことになる。
それは確かに、自分は遊びのつもりだった。
ソウシが、本気になっているように見えて、いい気にもなっていた。
人を非難できる立場ではないのは重々承知している。だが、これではまるでピエロではないかと思う。
それが悔しくて仕方ない。いらいらして不愉快なのである。
ふと窓を見ると、ソウシが歩いていた。白いスキーウェアに着替え、スコップを肩にかついで、どこへ行こうと言うのだろうか?だいたい、だいたい今は深夜である。こんな時間に何をしようと言うのだろう。
見ていると、車に雪を被せ始めた。ホテルからの脱出に使った、工務店の名前と電話番号が入っている、あのワゴン車である。
そこは2メートル近く積もっている雪を掻き出して、道脇を切り開くようにして作った駐車スペースである。脇から雪を被せていけば、車は簡単に埋まるが、それにしたって重労働だろうにと、思う。
そう言えば、走士はここに来てから一言もシバに話しかけようとしないのも腹が立つ。
まるで無視されているような気になる。
忙しいから、だろうか。こうして夜中だと言うのに作業をしなくてはならないのだから、それなりに忙しくはあるのだろうけど。しかし一言もかけられないほどなのだろうか?
見ていると車のあった場所には小さな雪山が出来た。誰もその下に車が埋まっているとは思わないだろう。
よし、ソウシが戻ってきたら、いろいろと聞きただしてやろう。シバはそう心に決めた。
傍らで地図や書類をまとめる気配がする。どうやら話は終わったようだった。
「…明日、日の出前にはここを出ますので、今夜はお休み下さい」
「うむ、わかった」
ファラハは頷くとソファーから腰を上げた。
「お部屋は二階に用意してございます。手狭ですがご勘弁下さい」
「かまわないでくれ。その昔、儂もテント一つ、ラクダ一頭で砂漠を駆けめぐった。今でも奢侈(しゃし)に溺れてはおらぬつもりだ」
ファラハはそう言うと秘書と共に狭い階段を上がっていく。だが、暫くすると「…済まないが、部屋はどこかね?」と降りて来た。
「物置があるばかりでどこだかわからん」と言うのである。
夏子が申し訳なさそうに「それは物置でなくて…お部屋です」と答えると、ファラハは実に情けない顔をして「そうか。いや、そうだとは思ったのだが…確認しただけだ」とつぶやいた。
走士は乗ってきた車を、雪に埋めてカモフラージュすると今度はガレージ前の雪かきを始めた。日の出前に出発する予定だから、今の内に雪をどけておかなくてはならない。
今の天候は小雪がちらつく程度。それほど積もることもないとは思うが、朝になっていざ出発と言う時に、車が出ませんでは困る。
「うー。暑い、暑い」
雪かき作業は重労働である。極寒の中にあっても、暑くて仕方なかった。
防寒のための重装備で熱が籠もるのも原因で、汗びっしょりであった。こうなると、休憩のつもりで動くのを止めると汗が凍り付いたように冷たくなってしまう。だから、汗を拭いながらもせっせとスコップを動かすのである。
カラカラと窓が開く音がした。
「走士君!そろそろ、私は休むわね」
夏子であった。走士は「お休みなさい」とだけ答えて作業に戻った。
人が働いているのに、いい気なもんだ…とか思わない。これが分担なのである。
一時間ほどで雪かき作業を終え、中に入ると明かりはすでに消されていた。
体についた雪を落としてジャンパーを脱ぐ。長靴は乾燥室に置いて軍手とスコップを立てかけた。
ふと人の気配がする。リビングに誰がいるようである。
走士は静かに入ると明かりをつけた。
「きゃ!」
悲鳴を上げたのはシバだった。受話器を片手に床に座り込んでいる。
「何やってるんだ!」
走士は素早く受話器のコードを力任せに引っこ抜いた。「誰に電話していた?」
その乱暴な振る舞いにシバは怯えたように身を縮ませたが、すぐに怒り出す。
「何するのよ!いきなり」
「誰に電話してたって聞いてる!」
シバはむっとしたまま言い放った。
「まだしてないわ。これから電話しようとしてたところよ!」
「本当か?」
「本当よっ!」
「で…誰に電話しようとしてた?」
「ヤスミーンよ。一人で放り出してきたから、きっと途方に暮れてると思って…」
「ヤスミーン?侍女だね」
「そうよ!怒鳴らないでくれる。夜遅いんだから、みんな起きちゃうでしょ?」
その、何もわかっていない様子に、走士は頭を抱えた。
「シバ。頼むから勝手なことしないでくれ」
「なによ!電話しちゃいけなかったとでも言うの。ヤスミーンを一人この国に残して行くわけにはいかないでしょう?」
「いいかい、よく聞くんだ。彼女は監視されているんだぜ。全ての行動は尾行され、郵便物は開封され、電話は盗聴されている。そこへ君がノコノコと電話をかけたら私たちはここにいますって知らせているようなものじゃないか」
「え」
シバの顔は蒼白となった。
「電話はダメなんだ。いいね」
シバは「わ、わかったわよ!」と言うだけであった。
『で、これからどちらにおいでになるのですか?』
『ニイガタよ。後で合流できるように話してみるわね…キャ!』
『なにやってるんだ!…プツ』
ベットホンをしていた通訳が叫くように言った。
「主任。切れました」
「そうか。逆探の結果は?」
「ちょっと待って下さい…連絡待ちです」
建軍は警視庁内の会議室にしつらえられた捜査本部をコーヒーカップ片手に数歩歩いた。
異例なことであるが、今回はファラハ国王の護衛を担当したSP達が、捜査班に編入されている。その日常に張り付いていたせいで、国内のどこで、誰と会ってどういう行動をしたか詳しいからである。
「まさか。あの二人がなあ…」
建軍は、夏子と走士の顔を思い出した。
ホテルからファラハ国王やシバを連れ出した手際の良さからすると、この件は明らかにプロの仕業で、しかも前もって周到に計画されていたものだと思われる。もし、これをやったのがあの二人だとすると、あの時(スキー場で出会った時)から、ファラハ国王の救出(建軍の立場からすれば拉致)は、計画されていたと言うことになるのである。
「まさか夏子さんが」
思わずつぶやかずにいられない。まさかと言う気持ちが強かった。あの、夏子と過ごした一夜は、建軍にとってはこれまでに経験したことがないような最高の夜だった。出来ればまた会いたい。出来れば交際を願いたいとすら思っていたほどなのだ。清楚な顔で奔放に振る舞う夏子を思い出すと今でもゾクゾクとしてくる。なんとか夏子を自分のモノにしたかった。
しかし今回のことが最初から計画されてたとなると、あの出会いに始まる全てが、しつらえられたもの、と言うことになる。だが、夏子に気に入ってもらえたと信じていたから、そういう風には考えたくはない。
「出雲 走士と一緒、と言ったんだな?」
通訳はメモ紙から聞き取った話の該当部分を指し示した。
「はい。間違いなく『ソウシと一緒にいる』と言っています。侍女は、それだけで場所がわかったようですが…あれ?出雲なんて名字、言いましたっけ?」
「ああ、すまん。俺の記憶違いだろう」
「テープをリピートします?」
「いや、いい。どうせマシュリクの言葉なんかわからないから」
あわてて取り繕うと建軍は頭を抱えた。
ガツンと後頭部を叩かれたような頭痛は心理的なものである。
実は、シバのSPについていた時、一晩シバが行方不明になっていたことは報告していなかったのである。もし報告していればその間、建軍は何をしていたか?と言うことになる。まさか仕事ほったらかしにして女と一緒にいたとは言えない。だから、夏子のことも走士のことも、全く報告書に載のせてない。そういうわけでファラハ国王をホテルから連れ出したのが誰か、を知っているのは建軍だけなのである。
「逆探出ました。住所です」
メモに書かれた住所は建軍が予想したのと同じ物であった。
捜査主任が怒鳴るように言った。
「よし、至急長野県警に連絡して身柄を抑えさせてくれ。それと周辺の県警にも連絡して北方台から新潟へ向かう国道、県道を封鎖させるんだ。電話の切れ方からすると盗聴に気づいたかもしれん。新潟、静岡、山梨、群馬と岐阜…ちっ、なんて広いんだあそこは…とにかく各県警にも動いて貰え。!ボヤボヤするな!俺達は長野に行くぞ」
数十人の捜査員達が一斉に動き出す。旧SPの数人だけが仕事がない。
「ここって、あの姫様がスキーに行ったところに近いな。おい、建軍!お前、姫様担当だったよな。一緒に来い」
建軍は「あ、はい!」と慌ててコーヒーを飲み干し、ジャンパーに手を伸ばした。すると奥から初老の男が顔を出した。
「おーい山口!どこへ行く?」
呼び止められて捜査主任は足を止める。その後ろの建軍も足を止める。
「あ、部長。俺ら、これから長野に行きます」
「長野?」
「はい。姫様から侍女のところへ電話がありました。長電話だったんで逆探できました」
「そうか、よし。県警には話を通して置くから、出来るだけ早く国王達を保護してくれよ」
捜査主任の山口は振り返ると建軍達に言った。「行くぞ!」
−つづく−
この作品は、フィクション以外の何者でもありません。
すべて私の空想の産物であり、いかに類似した事件、国家、団体、宗教、言語などがあろうとも、全く関係がありません。