ACT 4
リビングの明かりは消えている。
真っ暗な中で、走士はブラインドを降ろした窓の側にソファーを置いて座っていた。
眠っているわけではない。外を静かに眺めているのである。
外は小雪がちらつく程度。音もなく風もない。
厚い雲に覆われてか星も月もない。ただの闇夜であった。
「ねぇ、ソウシ…どうしてすぐにニイガタに行かないの?」
床に座り込んでいるシバは見上げるようにして訊ねた。落ち着かないそぶりで体を揺すっている。
「日の出前に出発するさ。まだ二、三時間はあるから、少し眠っておきなよ」
「ううん。急いだほうがいいと思うけど。お父様はあたしが起こしてくるから。出よう」
「どうしたんだい?妙に落ち着かないね。…休める時には休んで置かないと後がきついよ」
「ソウシは?」
「僕は不寝番。今は起きて外を見張っているのが仕事さ」
「眠くならないの?」
「明日になったら眠るかな。運転は夏子さんがしてくれるからね」
「ナツコ…さん?姉弟じゃないの?」
「彼女は上司なんだ。全くの他人だよ」
「ふーん。つまりなにもかも芝居だったってわけね?」
「…」走士は無言で頷いた。
「なんだかなあ…」
バサバサと髪を掻き乱しながら「あたしって馬鹿みたい」と吐露する。
「ねぇ、あの時、もしあたしが声をかけなかったどうなってた?」
走士は窓からシバへと視線を移しながら「僕から声をかけてたさ。本当はそうする予定だったんだもの。だから、リフトで声をかけられた時は心底驚いたんだ」と答える。
「クスクスクス。あの時はホントにびっくりしてたものね?で、うまくいったと思う?」
「と言うと?」
「あたしをナンパ出来たかって訊いているのよ」
走士は何を聞くんだとばかりに苦笑しながら再び窓の外へ目を向けた。
「多分、うまくいったと思う」
「そう?自信あるんだ。てっきり弱気君だと思ったんだけど」
「そう見えるように振る舞っていたからね」
「騙されたわ…お陰でとっても不愉快」
シバは走士を睨み上げた。だが走士はそっけなく答える。
「ふーん。そう?」
「ふーんって、何よ。他には一言もないの?」
「別に…何かあった?」
「何かあった?ですって…冗談じゃないわよ!あなた、随分なことをしたのよ。人を道具みたいに利用しておいて、何とも感じてないの?」
「…」走士は肩を竦めるばかりであった。
「なによそれ、わからないの?…あたしは怒っているのよ!」
「シッ!」
走士は顔を上げて窓の外の一点を注視した。
複数のライトが近づいて来るところだった。
オペレーションβ
たくさん
階段を駆け上がってファラハを叩き起こす。
国王は、マシュリク語でなにやら怒った様子でブツブツ言っていたが、走士そんなことに全く耳を貸さず、ベットから引き落とす要領でファラハの目を覚まさせた。
階段を駆け下りると、シバがソウシの前に立ちふさがってにらみつける。
「謝りなさいよ」
「知らん。そんなことより早く着替えろ!陛下にも着替えろと言えよ。外に出るから厚着だぞ!」
「いやよ!ソウシが謝るまでここを動かないから」
「だったらそこにいろ。僕の任務は国王を助けることで、君を助ける事じゃない」
シバのことはもう無視することにする。さっさと背を向けると走士は暗視装置を装着した銃で、窓の外を調べはじめた。
シバは呆然としてしまった。走士の一言で自分がまるで無価値な存在になったようにも感じた。こんな屈辱は産まれて初めてであった。
「普通車が2、ワゴン車が1」
さすがに夏子は早い。すでに白いスキーウェアをまとって外を監視していた。
「満載で18人ね。警察?」
「まさか。M16を構えた警察なんていませんでしょう…」
「と、なるとハキム派しかないわね。どうやってここを見つけたのかしら。尾行されたとは思えないし」
「詮索はあとにしましょう」
夏子の暗視装置付きの双眼鏡に人影が蠢く。
「特殊部隊かしら。かなり練度の高い敵よ。展開もとても早いわ。それに暗視装置を使っているみたい。装備も充実してるわね。どうやって持ち込んだのかしら?」
「@在日米軍から。A船で密輸。B大使館経由。C国内で生産」
「AとCはないわね。手間がかりすぎるもの」
「すると@かBですか?」
「@だけは考えたくないわね。…走士君。囲まれる前に先制して!」
走士は大きなバックから、丸太棒のようにものを取り出して肩にかついだ。
巨大なシャープペンとも言うべき形状で、緩やかに尖った先端から棒が突き出ている。
使い捨ての110ミリロケット対戦車榴弾。通称パンツァーファウストV。厚さ700ミリの鉄板(700ミリもあるようなものを鉄板と呼ぶかどうかは別として…)をも貫く強力な火器で、乗用車相手には、もったいないくらいの破壊力がある。
それを窓の外のワゴン車に向ける。
「後方の安全確認」
「よし!」
「安全装置、よし。発射!」
走士は引き金を引いた。
ズドンとはじかれるような音がすると弾頭が飛んでいった。同時に、背後にあった戸棚がメチャメチャに吹き飛んだ。
目標となったワゴン車は一瞬にして弾け飛ぶ。この閃光で敵のスターライトスコープは使えなくなっているはずである。炎が上がり周囲を赤々と照らした。あたりに散開して敵の影がまばらに見えた。
射撃戦が始まった。
走士は武器をH&K・MP5に持ち替えると周囲に向けて乱射する。
当てるつもりは毛頭ない。敵を牽制できればいいのである。
猛烈な銃撃を受けた山荘の窓ガラスは割れ、壁には穴が開いていく。
階段をファラハとシバ、そして秘書が慌てふためいて降りてきた。動転しているのか、慌てて着込んだせいか、秘書は前もとめていないし、着膨れてみっともない姿であった。
「いったい何事かね?」
「ハキムの兵士です」
「なんだと!」
反撃は走士に任せ、夏子は室内に灯油をまく。
バックから対人散弾地雷を取り出して室内に設置。C4火薬を部屋の真ん中に置いた。ナイフで梱包を切り裂き、信管を突き立てる。
「行くわよ」
バックパックの一つを走士の足下に置くと、夏子は下がった。
パックを背負いつつ壁から下がる走士。裏手にはまだ回り込まれていないはずと、夏子を先頭に、秘書、国王、シバ、そして走士の順で窓から外に出た。だが、さすがに敵も速く、建物を回り込んで来て、走士達は銃撃を受ける。秘書が呻き声も上げられずバタと倒れた。こう言うときに振り向くのは愚か者のすることである。走士はわき目もふらずに走った。
「走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ!」
膝まで埋まる雪原で、走士はシバやファラハを追い立てるように走る。シバは何度も足を雪に取られて転んだ。その度に、走士は襟首を掴み上げるようにしてシバを立ち上がらせる。
「あ、足!…靴を履き忘れたわ!」
「気にするな!そのまま走れ!」
「だって、雪なのよ。冷たいのよ!」
「裸で外に出たろ、裸足ぐらい気にするな!」
ドン!
突如別荘が爆発した。
翌朝。
夜半から降り始めた小雪は、すでに本降りとなっていた。
風も強くなってきて、吹雪きになりそうな気配である。
山荘があった場所は焼け跡となってぃた。
炎上した時の熱のすごさを物語るように、周囲の雪は全て溶けて地面が露出している。まだ煙が上がり、あたりにはくすぶった煙や、ツンとする刺激臭が漂っている。火薬の臭いである。
走士が埋めたワゴン車もむき出しになっていた。その側にツートーンカラーのパトカーや、鑑識のワゴン車が所狭しとひしめき合い、ここで何がおこったかを徹底的に調べようとしている。焼け跡を調べる者。落ちている物を拾い集める者。写真を撮る者。作業は手際よく行われていた。
「いったいここで何があった?」
建軍は焼け跡を調べている鑑識の側にしゃがんだ。
「見て下さい…」
白い手袋の上に乗っていたのは薬莢であった。見ると無数に落ちている。
「5.56ミリ弾ってやつです。周囲の立木とか見ました?すごい銃撃戦があったみたいですよ」
建軍は建物の周囲を見渡した。
シャーシしか残っていない、かつてワゴン車だったとおもわれる物体がころがる。周辺にはシートを被せられた何かが数個ばかりある。
おおよそ、それが何であるか予想はついたが、建軍はシートの一枚をめくった。
黒こげになった死体であった。顔をしかめてシートをかけ直す。
「こいつを、こんなにしたのはなんだ?」
「ロケット弾でしょう。バズーカ砲ですよ」
「バズーカ砲?…戦争かなにかと間違ってるんじゃないのか?こうなると俺達の仕事じゃないよなあ…ホトケはこれだけかい?」
「裏手に行くとたくさん転がってますよ」
言われて裏へ向かう。すると人間が数人、倒れていた。体には厚く雪が積もり、すでに体温が失われて久しいことがわかる。
周囲では写真がとられている。すでに運び出されたものもあるようで、雪にくっきりと人の形が残っている場所もあった。
捜査主任が立っていた。
「山口さん」
「おう健軍。…見ろよ」
捜査主任の山口が指し示した死体はファラハ国王の秘書であった。
「この人は確か秘書の…」
「そうだ。背中から撃たれている。王様がここにいたのは間違いないな。そして、その後を追ってきたこいつらと撃ち合いになった」
「こいつらはいったい何者なんですか?」
「さあな…もしかしたら、国際的な陰謀組織ってやつかもしれんぞ」
「まさか、映画じゃあるまいし」
「だがよ、ここでこうして死体になってる連中は、エキストラじゃねぇぞ。ついでに言えば王様の国で起きている反乱だって、現実の話しだ。俺達には、実感がないだけだ」
「じゃあ国王と、お姫さんは……」
捜査主任が指を指した方向に多数の足跡が続いていた。
「どうやらあっちに逃げたらしい。複数人の足跡も続いている。ところでお前さん、機関銃やらロケット弾とか装備した連中がおそってきたら、王様を護れたと思うかい?」
建軍は首を振った。建軍達SPも、相手が重武装している場合を想定して十分に訓練している。しかし今回の相手は、規模も、装備の内容も、訓練の想定からかけ離れていた。
特殊繊維の防弾チョッキなど、爆弾や機関銃相手には、なんの役にも立たないのである。
「ここがホテルでなくて幸いでした」
ホテルで襲撃されていたら、どんなことになっただろう…。
「まあな。関係ない市民が巻き込まれずに済んだことについては幸いだったと言えるな。その件に関してはソウシとか言う奴に感謝しなきゃならん…」
建軍は、いかにも軟弱そうな走士と、女性である夏子にどれほどのことが出来るかと心配になった。
「王様達、無事だといいですが」
「とにかく後を追おう。今、県警からヘリを出してもらえるように頼んでいる」
「しかしこの天気で飛びますか?」
二人はますます風の強くなる空を見上げた。
「はあ、はあ、はあ」
「ぜい、ぜい、ぜい」
走士はファラハ国王とシバを引き連れて、徒歩での山越えに入っていた。警察は避けなくてはならない。追っ手からは逃れなくてはならないと言う中での窮余の策である。先頭は夏子。間にファラハとシバを挟んで最後尾に走士という隊列であった。
向かうはひたすら北。北である。
「話とだいぶ違う…こんなことになるくらいなら、ホテルで軟禁されていたほうがマシだった」
ファラハ国王が、ブツブツと繰り言を並べ立てる。シバは叫ぶように言った。
「ナツコ!も、もう歩けない!足の感覚がないのよ」
「もう少しがんばって。あの稜線を越えてしまわないと追っ手に見つかるわ」
「本当にダメなの。お願い!」
シバはそう言うと座り込んだ。走士は無理にでもシバを立たせようとしたが、夏子にやめるよう合図されて、ここはこらえることにする。
「五分、休憩します」
夏子の言葉に国王とシバはへたり込んだ。二時間近く休まずに走っていたのだから仕方ない話である。
「あ、あ、足の感覚がないの!」
ナツコと走士はシバに駆け寄った。
「靴を履き忘れるなんて。なにをやってたのよ!」
「仕方ないでしょう?急だったんで慌てたのよ!」
「ちっ、馬鹿野郎」
走士は、罵倒するとシバの靴下を脱がしにかかった。靴下はシャーベット状の雪がこびりついている。凍り付いているところもある。
「何が馬鹿野郎よ!」
シバは走士にくってかかったが、全く無視されてしまった。シバは、無視されるのは悪口を百万回言われるよりも頭に来ることをこの時、初めて理解した。
足は膝のあたりまで血の気を失っていた。
走士は雪を手に取るとつま先から膝までを丹念に擦り始める。凍傷はいきなり暖めてはよくないからである。水分をよくふき取ってからシバの足を自分の懐に入れた。
「あっ!」
シバは驚いたようだったが、そのままに走士に任せる。
次第に、足首のあたりからじわっとしびれたような感触が蘇ってくる。
「あっ、くっ」
やがて長時間の正座の後のようなしびれと、強烈な痒さを感じ始めた。
シャツを引き裂いた布で足を巻いて、さらにその上をビニール袋を被せて濡れないようにする。だが、これで歩けるようになったわけでもない。
「困ったわね。このままじゃあ歩けないだろうし」
娘の様子を心配げに見ていたファラハが言う。
「警察に助けを求められないのかね?」
「それは、出来ません」
「いいかね。儂らとしては警察に保護されてもいっこうにかまわないのだ。困るのはニポン政府だからな。もし、こんなことが続くのであれば儂は警察に投降する」
ファラハ国王が言い放った途端、周囲にパッパッと雪が舞い上がった。
少し遅れてタタタターンと小銃の発射音がする。
「追っ手だ!」
走士はシバを背負い上げると、腰溜めにした銃を追っ手に向けた。
タタタタと言う連射音が響くと、追っ手がバタバタと倒れた。
「やった?」
「まさか。あんなのが当たるかよ。伏せただけだよ」
走士の言葉を証明するように追っ手は再び立ち上がると、迫り寄せてくる。
「陛下、荷物を!」
「…」
ファラハはキョトンとした表情で夏子の顔を見た。
「このままでは警察の保護を受ける前にハキム派に捕まりますよ。私たちとしては陛下がハキム派に殺されたと発表できるほうが楽なんです!」
「そ、そう言うことならば仕方あるまい」
ファラハ国王はそう言うと、走士の荷物を背負い上げた。
四人の歩く速度は急激に下がった。折しも天候は悪く、視界も効かない。
雪が舞い上がり視界が遮られると、今自分が斜面を登っているのか、それとも下っているのかわからなくなる。風が強く、突風に煽られると、稜線を転がりおちそうになった。それを踏みとどまって必死に堪えると、風の冷たさが肌を切るように吹き付け容赦なく体温と体力を奪っていくのである。特に走士はシバを背負っているから余裕がない。
四人は疲労困憊しながらも林を見つけ、そこで風を避けことにした。
「ここで休憩」
「…」無言でそれぞれに荷物を降ろす。
「…こんなところで、八甲田山をやることになるとはね」
夏子のつぶやくような冗談は、とても笑えるものではなかった。
走士は「それ、冗談になってませんよ」とだけ言うと、よっこらしょとシバを降ろした。
「ねぇ、ここに罠をはるとか落とし穴掘るとかして追っ手を片づけたら。そうしたらもう少しゆっくり出来るんじゃない?」
シバの提案に走士は深々とため息をついた。
「それって映画の見すぎだよ。穴を掘るのにどのくらいの手間と時間と体力を消費すると思う?」
「じゃあブービートラップ(罠)とかは?」
「そういうことに使える余分な爆薬は持ってないんだ。それに、追っ手がかからずにそのままになっちやったら、後で民間人がひっかかるかも知れないだろ?」
走士は小さな包みをシバに渡した。ファラハ国王にもわたす。
「なにこれ?」
「特製乾燥肉。食べたことない?」
「こんなもの、食べたことないわ。他にはないの?」
走士はパックから食料の袋を取り出した。
「缶食(注…不味い)。乾燥米。フリーズドライ食品各種…ここにあるのは調理が必要なものばかり。そのまま食えるのは乾パンとチョコレートくらいかな?」
「他にないの?じゃあ、チョコレートを頂戴」
「ダメ」
走士は、林の外を観察しながら、肉を口で千切り、銃のレバーを退いて動作部が凍り付いていないことを確認してから、新しい弾倉に交換すると言う作業を、同時に行った。
「どうして、そう意地悪なの?」
「…」またまた走士は無視する。
「知らなかったわ。ソウシってすっごく性格悪いのね。工作員なんかやってると思いやりとか、いたわりとか、優しさのないただの冷血漢になるのかしら。…ねぇ、話を聞いてる?ちょっとお。無視してないで人の話を聞きなさいよ!」
しかし、走士は黙ったままである。
シバはおそるおそる乾燥肉の封を切ってみた。
「何よ、これ」
そのニンニクと香辛料の香りは、食欲こそそそるが、シバには遠慮したいものだった。
「しかも、脂身ばっかりじゃない」
普通のビーフジャーキーと違って脂身の部分が異常に多い。
(ふん、こんなもの)と、シバは口にせず袋をポイと捨てた。
「ナツコ君。ハッコウダサン、とは何かね?」
叫き散らしている娘を尻目に、国王は夏子に訊ねた。
夏子は「昔。日本がロシアと戦争をする前、陸軍の一個大隊が、冬山で行軍の訓練をして全滅したことがあるのです。その山を八甲田山と言い、八甲田山と言えばその事件のことを指します」
「まさか…我々は遭難しているのではないだろうね」
「ご安心下さい。当時とは装備が異なりますから。それにGPSがありますので方位や、居場所を見失うこともありません」
「そうか。…でどうするのかね?」
「このまま北へ向かいます。少し先にスキー場がありますから」
長野県警察本部の会議室を占領した建軍達は、北方台周辺に広げた捜索隊の報告を待っていた。
「雪がやまないとヘリは飛ばない?それを飛ばさせろって言ってるだろう…無理?無理は承知だ」
山口は電話をたたき付けるようにして切るとパイプ椅子を蹴飛ばす。
「しゅ、主任!」
建軍はその巨体を仰け反らすようにして上司の振るまいから身を退いた。
「あ、すまん。ったく、出来ません。やれません。無理です…言い訳ばかり言いやがる」
「本庁からの話ですが、マスコミがホテルでの事を嗅ぎつけたらしいです」
若い刑事が、電話を置きながら報告した。
「で、上はなんて言ってる?」
「記者会見で、ファラハ国王が行方を眩ませたことは発表せざるをえないそうです」
「なんだって?」
「マシュリクの新政権から、ファラハ国王を引き渡せと言う要求が来ていますからね。いない者は引き渡せないとはっきり言うことになったんだそうです」
山口、建軍、そして捜査員達はそれぞれに力を抜いた。
「事が表沙汰になれば、減俸もあり得るなあ」
SPから参加している捜査員がつぶやく。護衛の対象に逃げられるなど、大失態であることは間違いないからだ。
たばこの煙が天井にに漂い、室内はうっすらと霞がかかったようになっていた。
若い捜査員が訊ねるようにつぶやいた。
「国王達は新潟に、何しに行くのでしょう」
「決まっているだろ。国外に出るとすれば空港か港だからな。そのまま船を使っても良いし、西へ向かえば大阪国際空港へ出られる」
走士達は、そのころ眼下に奥北方スキー場を見下ろしていた。
カラフルなスキーウェアをまとったスキーヤー達が滑り降りていく光景が、遠目に見える。風に混ざって小さいながらも、人の声が聞こえるようであった。
「なんとか、たどり着いたな」
ファラハ国王が感慨深げにつぶやいた。時刻は、すでに夕刻となっている。
「陽が落ちる前にスキー場に紛れ込みましょう」
「車を手に入れることも出来るわね」
シバの言葉に走士は再びため息をついた。
「おいおい、人の車を勝手に使うのは犯罪だぜ」
「だって映画とかドラマだと…」
「盗難車だと、非常線を通り抜ける時に失敗する可能性があるわ。公共の乗り物の方が安心よ…」
夏子の補足を聞けばシバも納得する。
国王は日本語のやりとりはわからないから、きょとんとしている。
「何を話していたのかね?」
「人の物を盗んではいけないという話をしておりました」
「ふむ。その通りだな」
夏子の解説に国王は頷くだけであった。
走士達はスキー客でごった返すゲレンデハウスに入ると、ようやく休息をとることが出来た。ファラハ国王は、まさかこれほどの多人数を巻き添えに攻撃をしかけて来ないだろうと緊張を解いたようである。夏子や走士はそれほど楽観視してはいなかったが、余計なことを言って過度の緊張を強いるのも消耗を早めるだけなので、ファラハやシバがリラックスするのに任せることにする。
食堂で腹ごしらえをして、シャワー室を使う。
売店で新しい下着や靴下を整えて、ついでにシバの靴も買った。
診療所に行くと、幸いなことにシバの足は凍傷も軽度とのことで、強烈な痒みと腫れが出る程度で済むと言う。痒みさえ我慢出来れば、歩くことに支障はない。
「どうせならどこかで手足を伸ばして休みたい」
真っ赤に晴れ上がったつま先に薬を塗りながら、シバはそう主張した。
走士に言わせれば人の背中で楽していた癖に、となるのだがシバは、昨夜から一睡もせず、心休まる間もなかったのだから休みたいと言うのである。休ませてくれなければ動かない、動けないと駄々こねる。
とにかく新潟に出て護衛艦に乗ってしまうまでは、気を緩めることは出来ない。いつ警察に捕まるかもしれない。ハキムの兵士達も追ってきている。もしかするとここで出会ってしまうかも知れない。夏子に、そう脅かされると、シバも不承不承ながら従うしかなかった。
「新潟に直行のがあったわ」と夏子の、報告で高速バスを使うことになる。
ゲレンデハウスの玄関脇には、タクシー乗り場や、高速バスの駐停車場があって、帰りの客でごった返していた。バスのドアが開くと我先に乗り込む行列。トランクに荷物を入れる順番待ちをする列。逆に今到着して荷物を降ろすのを待っている人々と、その混雑ぶりは通勤時間の駅のごとしである。
バスの時間までには三〇分ほど余裕があった。新潟行きバス停車標識の前に荷物を移すと、走士は夏子に後を頼み、用足しにそこから離れた。そしてトイレから戻ると、標識前には夏子とファラハしかいないのに気づく。
「一尉。シバは?」
「あれ?走士君と一緒じゃなかった。あなたについて行ったわよ」
「しまった」
走士は、周囲を見渡した。だが人混みの中にシバの姿を見つけるのは難しい。
「あの馬鹿!」
走士はそう吐き捨てると、シバ探して人混みへと飛び込んだ。
シバはゲレンデハウスで、電話の順番待ちをしていた。
レンタルスキーの受付の脇に公衆電話はあったが、たった一台しか設置されてないせいもあって順番待ちの列が出来ていた。すでに10分ほど待っているのだが、前の客が長電話なのもあって、なかなか順番が回ってこない。
シバは時計が気になっていた。
ホンの一寸で済ませられると思っていたからだ。しかしこれほど時間がかかると走士あたりに「何処へ行っていた」などと怒られかねない。走士に怒鳴られるのは屈辱だから、前の客に「いつまで電話してるんだ、バカ!」と怒鳴りたくもなるのだが、目の前にいるのはいかにも体格の大きな男なので気が引ける。仕方なく、いらいらしながら待っていると言う状態なのである。そしてそのせいか、周囲に気を配ることを忘れていた。
突然、両脇に男が立った。挟むように立たれてなんだろうと顔を上げたとたん言われた。
「静かにしろ」
それがマシュリク語であることに気づいた時は全身から血の気が退いた。
スキーウェア越しに何かを突きつけられている。それが、銃に類するものであることは、シバでもわかる。
「さて、王女様。ここは人目が多いのでこちらにお越し願えませんか?」
銃を突きつけられては従うしかなくて、引っ張られるように歩く。
「王女を捕まえた。ロビーだ」
男の一人は無線機とおぼしきものに、そう話しかけた。
『いま行く。王女からファラハの居所を聞き出せ』
背筋がぞっとする。間違いない、ハキムの兵士だ。
「なにするつもり?周りにはたくさんの人がいるのよ。あたしが一言でも『助けて』と騒げば、みんなの注目を集めることになるわ」
一人が、スキーウェアのファスナーを降ろすと、懐に手榴弾を持っていることを示した。
もう一人は、サブマシンガンを持っているのを見せる。
「たくさんの死人が出ますよ」
「可愛そうに、ニポン人がたくさん巻き添えになる」
シバは二の句を告げることが出来なかった。
「マシュリクの人間は、人殺しの人でなしって思われるわ。それでもいいの?後で困るのはハキムなのよ!」
男達は顔を見合わせて冷笑する。
「…ハキム陛下の都合はこのさい置いておきましょう」
シバはその場に座り込んでいまいたいような脱力感に覆われたが、男達は強靱な力でシバの両脇を抱えると引きずるようにして進んだ。
男は、トイレの個室にシバを放り込むと、ナイフを喉元に突きつけた。
「まず言っておく。静かにしないと殺すぞ」
震えが止まらない中で、シバは男とナイフを見つめた。
「静かにしていれば、すぐには殺さない。それとも今死ぬか?」
ナイフの冷たい刃がシバの喉に食い込んできた。ツツツと暖かい血が垂れていく。
シバは首を振った。静かにするしかない。
「ファラハはどこだ?」
男はシバの口から手をそっと放した。
「し、知らないわ」
男は再びシバの口をふさいだ。
ナイフの先は、シバの鼻に向けられた。
「鼻を削がれた顔を見たことがあるかい?とても醜くてふためと見られない姿になる。正直に言えば鼻を削いだりはしないが…」
あまりの恐ろしさに息も満足に出来なかった。涙が溢れて悲鳴を上げたくなる。
「ファラハ国王は、どこだ?」
男が手を離す。
「…」
「何処だ!」
「ば…バス乗り場よ。そこにいるわ」
シバは悲鳴のような声で叫いた。
「バス乗り場だそうです」
兵士は無線機に話しかける。すると『よし、殺せ』と言う声が聞こえた。シバはそれを聞いて逃げ出さなければと思った。しかし、腰が抜けて足が立たなくなっている。ズリズリと床に座り込んでしまった。
「すぐに殺そうか…それとも楽しんでから殺そうか」
男はナイフの先でシバの頬を撫でた。ツツツと頬が切られて血が落ちる。ナイフの先がシバの口の中に押し込まれた。怯えたシバは舌を傷つけないようにと必死に口を開く。
「お願い、殺さないで」
舌を上手く動かせない中で、そう願った。
「ナイフをのどの奥までくわえるのと、別のものをくわえるのとどっちがいい?」
男が何を要求しているか、シバにはすぐに判った。だが、ナイフ以外のモノなら、痛くなければ、死ななければ何でも良かった。
「そうか、素直でいい」
男は、シバの口からナイフを抜いた。
その途端、兵士はクンッと後ろに引き込まれた。
素早く受け身をとって立ち上がったが、シバとの間に日本人が立ちはだかるように立っていた。手には拳銃を持っている。
「ソウシ!」
拳銃が火を噴く。それが兵士の見た最後の光景であった。
走士がホテルのロビーに向かってから、夏子は背筋がゾッとするのを感じていた。鳥肌が立つ。そして全身の体毛と言う体毛がピリピリとした、しびれにも似た気配を感じているのである。
「なんだろうか?」と思いつつも、周囲を見渡す。
そこはスキー客が行ったり来たりしているだけであった。
暫くすると、無秩序で雑多な人の動きの中で、秩序だった動きをしているいくつかの人影があることに気づいた。
「陛下。行きます」
夏子はそう言うと背中を向ける。ファラハは何を言われているのかと思いつつも、夏子に従って歩き始めた。
「何処へ行こうと言うのかね?」
「シッ。ハキム派の兵士達です」
目前にはタクシー乗り場がある。
順番待ちの列があるが、夏子はファラハの手を引いてそれに近づいた。
タクシーが滑り込んで来てドアが開く。夏子は乗り込もうとした人を押しのけるとファラハをタクシーに押し込んだ。
「何するのよ!」
順番待ちの客が怒鳴る。
「お客さん。困りますよ」
運転手も苦情を言った。
ハキムの兵士達はダダと駆け寄って来た。手には銃を持っているのが車内からも見えた。
「やくざに追われているの。お願いっ!」
夏子の声の響きに切迫したものを感じ取ったのか、運転手は車を発進させた。男達が駆け寄ってくると言う、ただならぬ気配を感じたせいもある。こうしてタクシーは、男達を振り切って走り出していた。
「勝手に行動するなよな。ったく」
お小言を言いながら、走士はシバの手を引いてバス乗り場に出た。
さすがのシバも、助けて貰った後では、言われるに任せて置くことしか出来なかった。頬や首の傷はハンカチで抑えているけれど、なかなか血が止まらないし、涙と震えもまだ収まらない。挙げ句の果てに手を握って貰ってやっと歩けると言う状態では、言い返したくても言葉も思いつかない。
走士は、そんなシバの手を引きながら、夏子がファラハをタクシーに押し込んでいる場面を見つけた。
10人近い数の外人が一斉にタクシーを追っかけると言う光景はなんとも異様なもので、観衆の視線を集める。
「あっ…」
走士はきびすを返して、シバにゆっくりホテルに戻るように言った。
しかし「どうしたのよ?」とシバは訝しげだった。動転していて周囲のことに気がつかないのだ。
「黙って言うことをきけよ」と走士は怒鳴りだしたいのを堪える。
男達はしばらくタクシーを追っていた。だが走って追いつく物ではないし、まさか、これだけの数の人間が見ている中で銃を発砲するわけにもいかない。急ぎ後を追うにも次のタクシーは来ていないときている。となると別の方法を考えるしかない。肩で息をしながらも走るのを諦めた彼らは、とにかくバス乗り場から離れようと振り返る。
「まずい!」
走士一人であれば、なんとか雑踏の中ににじむことが出来ただろう。しかしシバはそうはいかなかった。恐怖の体験をしたばかりで、ハキムの兵士の姿を見た瞬間、反射的に駆け出していた。
男達も目前で逃げるように走り出す女を見て、シバだと確信する。
再び男達は一斉に走り出した。
「ラータダァーハ、ダズハブ!(女を行かせるな!)」
走士はシバの手を引くとホテルのロビーを駆け抜けてとゲレンデへと向かう。すでに陽が落ちていて、ゲレンデにいるのはナイトスキーの客ぐらいでかずも少ない。その中に紛れ込むと言うのは、難しそうであった。
走るのに必死の形相のシバ。
頬や喉を抑えるハンカチには血がにじんでいた。走り続けるのも苦しそうである。
走士は舌打ちすると高速リフトへと向かった。
係員が制止するのもかまわず、シバもろともゴンドラに乗り込んだ。男達の視線がこちらを凝視している。
シバは、床に座り込むようにしてあえいでいた。
恐怖に全身をふるわせて、泣いている。
「どうしてあたしがこんな目にあわなきゃなんないのよ!」
「王女だからだろ」
振り返ると、男達も後ろのゴンドラに乗り込むのが見える。
走士は懐から拳銃を取り出すと、弾倉の確認をした。
−つづく−
この作品は、空想の産物でありすべてフィクションです。
類似した事件や国家、宗教、政府機関がありましても、全く関係がありません。