【第三章 雪中行軍】
ACT 5
警察官がホテルのフロアにたむろしていた。
玄関前にはパトカーが何台も溜まり、ゲレンデから引き上げてきたナイター客や宿泊客が、何が起きたのかと興味本位な野次馬となって集まっている。黄色と黒のロープが張られ、鑑識が写真をとったり指紋を採ったりしている光景はテレビの刑事物ドラマそっくりだった。
トイレからタンカに載せられた何かが運び出されていく。白い布で覆われたそれが何であるかは容易に推測が出来た。死体だ。
「身元を証明するようなものは何にも持ってなかったんだな?」
「…はい」
鑑識の報告に捜査主任の山口は舌打ちした。
「あちこちで人死にを出しやがって…」
ここをどこだと思ってやがる。日本だぞ。平和な国、日本だ。戦争なら自分の国でやってくれ。山口はそう怒鳴りたかった。
「頭部を一発で撃ち抜かれています。冷静な犯行…これもきっと、プロなんでしょうね」
地元捜査員の言葉には、わずかながらも怯えの響きがある。無理からぬ話だ。
警察官になった時、過激派ややくざを相手にする覚悟は決めた。だが、機関銃やバズーカ砲を使い、しかもこれだけ冷静に人を撃ち殺せる人間を相手にすることなど、考えてみたこともないのが普通なのだから。
「山口主任!泊まり客の何人かは、十人近い人数の外人が、タクシーを追いかけるのを目撃したそうです。そのタクシーは、逃げ切ったようですが…乗客は、壮年の男と若い女の一組だけだったようです」
「何だ、一組だけか?するってぇと、王様は娘と二人だけで逃げてるってことか?」
「それが、別にもう一組…若いカップルが、その外人連中に追いかけられてたっちゅう話もありまして、こっちにいた女が、お姫さんみたいなんです」
「すると…ここで二組にわかれたって言うわけだな」
黙って聴いていた健軍は、頭の中で組み合わせを想像した。
若いカップルというのは、多分、走士とシバだろう。と、なればタクシーで逃げたのはファラハと夏子に違いない。だが、そのことを言うわけには行かなかった。言えば何故知っている?ということになる。ガードの仕事をほったらかして、夏子と一夜を過ごしていたなどと言えるはずがない。しかもその女が国王と王女の逃走に関わっているとなれば問題はさらにややこしくなってしまう。
「とにかく、タクシーに乗った方の一組がどこで降りたのか洗ってくれ。それと若いほうの一組はどこへ行った?」
「ゲレンデのゴンドラに乗ったようです。やはり係員が証言しています。後を追った外人連中も十人ばかり、続いて乗り込んだそうです」
「何だとっ!馬鹿野郎っ、それを早く言え!」
山口は、ホテルの玄関に走った。
すでに外は暗闇に包まれていた。
ゲレンデの照明も消されていて、山は真っ暗だった。ホテルの明かりが届く範囲はなんとか雪が白く輝いている。だが雪が風に乗って横殴りに降りつけていて、山頂方向は全く見えない。
「なんてこった」
建軍は、山を見上げて呻いた。
オペレーションβ
たくさん
「はあ、はあ、はあ」
吐く息が、凍り付く。
吸う息に、肺が凍り付く。
暗やみに包まれ、周囲は白い雪が覆い尽くしている。四方八方から雪が降り、自分がまっすぐ立っているかどうかすら見失いそうになる。登っているのか、それとも下っているのか、わからない。もう、寒さも感じない。もう、空腹も感じない。
すでに意識は半分飛んでいる。重くなった足を上げて雪を踏む、何回となく繰り返した作業を、惰性で続けていた。
「馬鹿!立ち止まるな!」
足が止まりそうになると罵声が浴びせられる。
最初は、言われるたびに奮起していたが、だんだんと、どうでも良くなった。
背後から殺し屋達が追ってきているのはわかる。だが、どうでも良いやと思う。怖いとも思わない。
ふと、走士が伏せた。だがすぐに立ち上がる。
「こっちだ」
走士がシバの腕を引っ張った。
行き先は、走士に任せている。どこへ行くつもりなのだろう。ふと、そう思った。だが考えたところでわからない。わかるはずがない。どの方角に歩いているのかも、わからないのだから。
唯一確かなモノ、それは走士の手だった。
走士の手がシバの手首をがっしりとつかんで放さない。
力強く、シバをぐいぐいと引っ張っていく。時折、雪に伏せる。地面に伏せてみるとわずかながら、遠くの地形が透けて見えると言うのだ。それを繰り返して走士は進む方角を決めている。だが、それが頻繁になった。吹雪が強くなり、方角を見失いやすくなったのだろう。
「も、もう、いいよ」
睡魔と疲労で歩くのが辛くなったシバは、そう言った。
「良くないっ!ガンバレッ」
走士が怒鳴った。だが、怒鳴り声は雪と風にかき消されて聞き取りにくい。
「もういいってば。……疲れたし、眠い」
シバはそう言うと、膝をついた。雪に下半身が埋まる。
走士はシバの手を引き上げて強引に立たせる。だが、シバはだらっとぶら下がるだけだった。
「あたしなんて、どうでもいいんでしょ?ソウシの仕事はお父様を助けることなんだから…だから置いていって」
走士は、背後を振り返った。敵の姿は見えないが、ここに留まっていれば確実に追いつかれてしまう。
「ここにいたら殺されるぞ」
だが、シバの中には恐怖感すら沸き上がらなくなっていた。「それで楽になれるんなら、死ぬのも悪くないなァ…」などとつぶやく。
「捕まったらひどい目に遭うぞ。徹底的に輪姦される」
それを聴いてシバは、力無く苦笑した。「そんなのもう、経験済みだよ…」そう言って、目を閉じてしまう。「開き直っちゃえば…気持ちいいヨォ」
生への執着を失って、冷たい雪ですら柔らかな羽布団のように感じているのだ。もう何を言っても意味をなさないのだろう。
この女は、死ぬ。すでに死の方向へと進んでいる。だが、そうはさせない。
「忘れているかも知れないけど…僕は、君を逃がして上げると約束したんだ」
走士は、そう言い放つとシバを背負った。
一方…新潟県の某海岸線。
夏子はファラハと供に、冬の海を眺めていた。
ここでも雪が降っている。夜の日本海は荒れていた。
「……いったい、いつまでこんなところに立っているのかね?」
「もう少しです」
「寒くてかなわん」
砂漠の国から来たファラハ国王は、冷たい風を受けて歯をがちがちと鳴らしていた。
「もう少しです」
夏子は繰り返した。
スキー場からタクシーでJRの駅に乗り付けると、そのまま電車を使って新潟まで真っ直ぐにやってきたのである。幸い、追跡者の姿はなかった。多分、走士とシバが引き受けてくれているのだ。お陰で楽になったが、走士達のことを思うと暗澹たる気持ちになる。
しばらくすると、暗い海の向こうから何かの音がした。
ゴオーという音にファラハは「何かね?」と声を上げた。だが、答えるまでもなかった。LCAC(エルキャック/ホバークラフト型揚陸艇)が海岸に乗り上げてきたのだ。
LCACが、停止すると完全武装で身を固めた兵士(自衛官)達が、ダッと駆け下りてきて周辺に警戒の銃口を向けた。
指揮官が、夏子とファラハに敬礼した。
「陛下、お迎えにあがりました」
「ほう?ニポンは、航空母艦を持っていたのかね?」
ファラハ国王は、『おおすみ』を見るなり言った。
確かに、ちょっと見ただけでは航空母艦に見えなくもない。船首から船尾までの甲板は真っ平らで、中央にあるべき艦橋が右側に寄せてある。飛行機が発着するスペースがあるように見えて、なるほど航空母艦だ。だが、実際のところは輸送艦である。ただし最新鋭の。
LCACは『おおすみ』の後方に回ると、そのまま、艦内のデッキへと一気に乗り上げた。内部には、もう一台LCACが搭載されている。
狭い通路を進み、階段を登り、いくつかのハッチをくぐって艦橋へと入った。
「ようこそ『おおすみ』へ、陛下。台湾沖まで、お送りいたします」
出迎えた海上自衛隊幹部達が敬礼する。艦長が先頭にいた。
夏子とファラハは、水平線の向こうに見えなくなっていく新潟へと振り返った。夜の海岸に、街の灯が見えている。
「ナツコ君。シバは、大丈夫だろうか?」
「はい。大丈夫です」
平静を装い、躊躇なく言いきってしまう。その態度にファラハ安心したように頷いた。
「あの少年は、そんなに優秀なのかね」
「はい。信頼できます。最後の最期まで当てに出来ます」
保証なんてない。だが、そうとしか言いようがないではないか。
「彼を信じているのだね」
夏子は小さく頷くのだった。
心臓はまだ動いている。
まだ、息もしている。
背中にかかる重みはシバ。眠ってしまったようだが、その体は、まだ柔らかくて暖かい。彼女を自分の背中に張り付かせ、その上から防寒服を着込んでいるので、直接体温が伝わる。だから凍死したりはしない。させない。
走士は、白魔の中を喘ぐように歩き進んでいた。
二人分の体重を支える足は腿まで雪に埋まる。アキオ(ソリ)の用意もない。スキーの用意もない。かんじきもない。歩きにくいことこの上なかった。
だが、走士は進んだ。
自動機械のように、訓練されたたき込まれたことを、身体が繰り返すのだ。ただそれだけだった。死ぬ瞬間まであえぎ続ける。それが任務だった。兵士は、許可なく死ぬことは許されない。
「もういいじゃないか。お前は、充分にがんばったよ。いいさ、もうやめても」
朦朧として行く意識の中で何かが囁く。だが、その瞬間、条件反射的に刷り込まれた声が脳内で爆発した。
「レンジャーっ行け!」
瞬間的に意識がよみがえった。
果てしなく、厳しく、絶望的なレンジャー訓練。その間、助教(訓練教官)から、浴びせられつづけた罵倒、罵声。「ほら立てっ、クズ野郎。児童施設出身の孤児です…なんて言えば同情してもらえると思ったかっ!」「お前は、全く無価値な存在だ。生きていると言う以外に全く意味がない!国の税金でここまで養ってもらってきた上に、自衛隊に来て、また養って貰うつもりか!」
最初の頃はその言葉だけで発憤していた。
怒りで立ち上がった。
だが、だんだん立ち上がれなくなっていった。
「お前みたいなゆがんだ根性のガキが、精鋭中の精鋭を鍛えるレンジャーだと?甘えるんじゃない!」「お前の両親が、お前を捨てた理由がとっても理解できるぜ。それはな、お前が出来損ないだからだ」「やめちゃえ、やめちゃえよ。こんな訓練なんて…きついだろう?毎日のんびりとゲームでもして暮らせばいいじゃねぇか?」
「…」
その通りだと思い始め、怒ることも発憤することも出来なくなったのである。
「そうさ、俺はどうせ生きていく価値のないでくの坊さ。だから親にも捨てられた。良いよ、もういい。もうやめる。やめさせてくれ。やめてやる」
だが、そう思った時、教官が静かに語った。
「いいか?産まれながらにして価値のある人間など、この世には一人としていない。存在価値とか意味とかは、自分でつかみ取るものだ。お前達の値打ちを決めるのは、お前達自身なんだぞ。おい、ソウシ!お前は、どの程度だ?」
後のことはよく覚えていない。
だが、最後の最期に自分を突き動かしたのは、怒りではなかったと思う。自分を捨てた両親への恨みでもなかった。
それは、なんだったのだろう。…わからない。
覚えているのは、いつの間にか最終訓練を終えていたことだけだ。
ラッパ手が伝統だからと言って。ロッキーのテーマを吹き鳴らしていたっけ。
今の今まで罵声を浴びせていたはずの教官達が、皆、賞賛してくれた。
レンジャー徽章を与えられたとき…一個数百円でしかないバッチが、自分を至高の存在であることを示していた。この世に存在するあらゆる物質の中で最高の硬度を示すダイヤモンド、そして栄光を示す月桂樹をかたどったレンジャー徽章。
もう声高に叫ぶ必要はない。それはもう『絶対』だった。
突っ張ってみせる必要はない。にらみ返す必要もない。どれだけ譲ってもいい。
自衛隊に限らない。米軍だろうと、どの国の軍人だろうと、この徽章をつけている人間には敬意を示す。学歴も階級も人種も、両親が居るか居ないかも関係ない。兵士ならば知っているのだ。その価値を。その価値は、実力と実績によって証明され、何人たりとも…神ですらおとしめることは不可能なのだ。
それがレンジャーであり、ソウシなのだ。
猛吹雪が全身を洗った。
その瞬間、我に返る。
身体に雪が積もっている。いつの間にか立ち止まっていた。
大きく息を吐く。
背負ったシバを確かめる。
まだ息はある。心拍もある。体温も下がっていない。手足が若干冷たいが、まだ大丈夫。
「…べつにシバのせいじゃないぞ。約束を果たしてみせることが、俺の誇りなんだ…俺は俺のために進む」
返事をしないシバ。だが走士にしがみつく手に、ふと、力が入った。
「よしっ。行けっ、レンジャー」
自らに命令し、走士は再び歩き始めた。
太陽が昇り始めると雪がやみ、風がやんだ。
吸い込まれそうな青空が、白い雪国を彩る。
警察のヘリが、アイドリングをしながら離陸の時を待っている。
捜査員の一人が地図を手にしながらパイロットと打ち合わせしている。その脇を通って建軍が乗り込んだ。山口は、建軍になにか指図していた。
シバと同伴している少年(走士)、そして、それを追って山に入った外国人十数名を建軍が空から捜索することとなったのである。
「いいか、建軍!…お姫様を見つけたからってすぐに何かしようとするなよ。相手は機関銃だのミサイルだのぶっ放す連中だ。こっちにも、そういう手荒事を専門にする連中がいるんだから任せるんだ。わかったな?」
山口の言葉に建軍は肯いてみせた。
だが山口は、建軍が本当に、わかっているのかどうか不安だった。
「おい、いい加減に話したらどうだ」
建軍は「?」と、山口の真意を伺うように見つめた。
「おいら、この仕事してもう25年になる。お前さんが、何か隠しているなんてことは、顔を見るだけでわかるんだよ」
建軍は、背中にどっと汗が流れるのを感じた。
「べ、別に…何も隠してませんが」
「そうかい?ならいいんだけどな。…ま、くれぐれも無理だけはするな」
山口はそれだけ言うと、ローター(ヘリの回転する羽のこと)の下から出ていった。
パイロットは「では出発します」と告げると、機体を空中へと持ち上げた。
日が昇り視界が開けた途端、敵は攻撃をかけてきた。
タタタタタ!
タンタンタンタン!
雪山に銃声が轟く。
天候は快晴。青空と白い雪。絶好のスキー日よりだ。
「なのに、くそっ」…走士とシバはゴロンゴロンと雪玉が転がるように斜面を転げ落ちた。その方が走るより速い。走士の背中で、充分に休息をとったシバの身のこなしは早く、走士の方が遅れ気味になる。
「腹減った!」
走士がぼやく。
「…ラマダン(断食月)にはまだ早いのに」
シバが、軽口を叩いた。
冗談が出てくるのは良い傾向だ。気力が戻っているのだろう。走士は、雪煙をまき散らしながら、シバの手を引いて木の幹に回り込んで隠れる。
「はあはあ、ぜいぜい」
シバに、薄平らな包みを押し付ける。
「何これ?」
チョコレートだった。手を着けないで取って置いたものだ。
「それ一枚しかないからな大切に食えよ。乾燥肉はまだ持ってる?」
シバは首をちょっと傾げると、すぐに申し訳なさそうな表情になった。
「ごめん。捨てちゃった」
走士は「ちっ」と舌打ちすると自分のポケットにあった、乾燥肉のかたまりを半分にちぎってシバに押し付けた。唐辛子とニンニクの香りが凄い。
シバはためらいもなく、自分の板チョコを半分に割って走士に突きだす。
「ありがとう」
走士はガリカリと瞬く間にチョコを噛み砕き飲み込んだ。強い糖度によって疲れた体が一時的にしろ蘇る。
シバも、チョコをポリポリと囓る。ふと、雪を握ると口に運ぼうしたい。
「ダメッ」
走士は烈火のごとく怒って、シバの手を叩く。
「体が冷える!体力が落ちる!」
「でも、のどが渇いた」
走士は雪を口に頬張るとシャクシャクと数度噛み砕き、いきなりシバにキスをした。
口移しで雪解け水を飲ませようということである。雪をそのまま食べるよりは、はるかにいい。
「これで、我慢しろ」
「でもこんなことしたら、ソウシの方が、力つきちゃう!」
「大丈夫。俺は、訓練を受けているからな」
力強い言葉に、シバは反論を封じられてしまった。だが、大丈夫なはずはない。何しろ一晩…いや、東京のホテルを脱出してから二晩も不眠不休で逃げている。しかも、半分以上の行程をシバを背負って歩いたのだ。
「…」
かけるべき言葉が思い浮かばない。シバは黙って走士の袖を握った。
「走れるか?」
シバは「なんとか」と応える。すると走士は、シバの手を取ると斜面を下り始めた。
タタタタタと銃声がして、さっきまで隠れていた立木が、穴だらけになった。木の破片が周囲に飛び散り、たちまちボロボロになる。
「うひゃっ!」
ドドドと雪を巻き上げて走る。疲れると立ち止まって「はあはあ」と息を整える。再び走り出す。二人はこれをひたすら繰り返した。
「カシムの兵隊は、超人なのかしら?」
疲れることなど知らないかのように、シバと走士を追いかけてくる。確実に距離を縮めてくる。シバは、背後の敵の底知れない力に恐怖を感じていた。
「違う。俺と同じで、訓練を受けているだけだ」
「でも、あたし達はこんなにきつい思いをしてるのに。あいつらは平気で追ってくるわ」
「こちらが苦しい時は、相手も同じく苦しい思いをしている。自分に不利な材料を並べて悲観的になるのはよせ」
走士はシバの手をつかむと、ゆっくりとだが、歩き始める。
「とにかく、逃げるぞ。こいっ!」
「は、はい…」
こいつも超人だわ…。
そう思いながらシバは、走士に引っ張られるままに進んだ。
森を抜け、斜面を登り、稜線にさしかかった時である。
ふと、走士が足を止めた。
「……」
シバは無言でその場に座り込むと、ぜいぜいと息を吐く。
走士は、目を凝らしたように前方を見て、空を見て、背後を見て、斜面の下を見た。
そして最期にシバを見る。
もう、これ以上はシバの体力が保たない。限界だった。いくら休憩しても、体力が回復しなくなっているのだ。そして自分の体力も限界に近い。もうシバを背負っての逃避行は無理だった。
拳銃を引き抜いて弾倉を確認する。弾は10発入っていた。鞄には、手榴弾が一個入っている。手榴弾を取り出して懐に押し込む。
「シバ…お前の国は雪が降るか?」
シバは、言葉で答えることが出来なかった。ただ、首を横に振る。
「よし…」
走士は、シバに言った。
「お前、ここで隠れていろ…」そう言って、荷物を全部、そこに置いた。「何があっても、どんなことがあってもこの線より、上にいろよ」
「?」
シバは、待ってよ、と手を伸ばそうとした。だが「ぜいぜい」と声が出ない。
走士が拳銃片手に、斜面の下を見下ろしているだけで何をしようとしているか一目瞭然だった。
「約束だから?」と、泣きそうな顔でそう問うのが、やっとだった。
「違うさ。シバとエッチしたいからだよ」とシバのスキーウェアの下に手を入れて乳房を鷲掴みにする。「ここを無事に切り抜けたら、徹底的にやろうな」
こんな時に…馬鹿。と、言いたかったが声が出ない。
走士は、斜面を転げるように下っていった。
一人残されたシバは、心細そうにあたりを見渡した。
強い陽射しが雪に反射してまぶしいほどだ。シバが、浅黒い肌のマシュリク人でなければ雪焼けを気にしていたかも知れない。
スキーをするには難易度が高そうな急斜面が目前に広がっている。その斜面には新雪が積もり、その表面には大きな亀裂が入っていた。砂漠の国に育ったシバには、それが何を意味するのか、全く理解できなかった。
斜面の下まで転げ落ちる。
走士は、喘ぐように立ち上がると、斜面の下を横切った。
そして、その真ん中に立ち止まると、膝をついて森に顔を向けた。そこから敵が出てくるはずだ。
拳銃を引き抜くと、両手で慎重に構え狙いを定める。
森の中から、ガサガサと人が出てくる。手に武器を持ち、獲物を追う猟犬たちだ。
引き金を引いた。
ターン!
先頭にいた男が倒れた。直ちに、男達は走士を見つけ銃口を向ける。たちまち走士の周辺に銃弾が降り注ぐ。走士は、反射的に雪に伏せた。
幸いなことに新雪は、伏せただけで走士の体を飲み込んでしまう。
走士は、顔だけ上げて一発、一発と狙いを定めて引き金を引いた。だが、当たらない。
敵は少しずつ、走士との距離を縮めて来た。
「ご、ろく、なな…全部で八人か」
応射しながら、少しずつ後ずさる走士。迫り寄せる敵。
走士は、タンタンタンと拳銃に残っていた弾を乱射した。そして遂に弾が尽きた。
引き金を引いても、カシャカシャカシャとむなしい音がするだけ。
敵は、走士の弾が尽きたことに気づいたようで余裕の笑みを見せた。
走士は拳銃を放り捨てると、背中を向けて逃げ出した。
敵は、小銃を構えると走士の背中を慎重に狙う。
ッターン!
走士の肩に鈍痛が走る。背中から突き飛ばされるようにその場にどっと倒れた。
敵は安心したように、構えを解くとゆっくりと走士に歩み寄る。
やがて、十メートルほどの距離に近づいた時…走士は突然手にしていたモノを投げた。
「にっ…さんっ!」
手榴弾である。
手榴弾は中空で爆発する。だが敵にも油断はなかった。その場に伏せて、これをやり過ごしてしまった。
「ったく、古典的な罠だね」
敵が、日本人だったらそう言ったかも知れない。マシュリクの言葉で何か言っていたが、多分、同じような意味に違いなかった。そして、その余裕が命取りとなった。
マシュリク人達が伏せている間に走士は一目散に走っていた。マシュリク人達が気づいて顔を上げたときには、もう遅かったと言える。斜面の上方から雪崩が押し寄せてきていたのである。
視界が真っ白になり。気づいたときには埋まっている。それが雪崩である。
ハキムの兵士達は、一瞬にして雪の下に飲み込まれてしまった。
−つづく−
この作品は小説です。物語です。従ってフィクションであり、現実の事件や政府機関、国家、宗教とは全く関係がありません。いかな類似した出来事がありましてもそれらはすべて偶然の産物以外の何者でもありません。
調度、折り返し地点です。
ここから先は実はまだ書いておりません。しばらくお待ち下さい。
−たくさん−