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長野県の県民性    (編集中)

  
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 勤勉,議論好きで頑固で,実学を尊ぶ気風が強い

近世国名・藩名:信濃(しなの)  

 2012年10月1日現在の推定人口は2,133,255人 (0-14歳人口 1,255,944人,15-64歳人口583,937人,65歳以上人口 315,510人)。 世帯数804,920世帯。


「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして…」で始まる県歌『信濃の国』の歌詞は,長野県の地理的多様性を反映し,その地域性の特性をみごとに表現したものである。長野,上田,佐久,松本,伊那と六つの盆地それぞれが生活・文化・経済圏を形成している。大化の改新以前は科野国(しなののくに),律令制の信濃の国は10郡,幕末は松本,諏訪,上田,など11藩と,盆地単位でそれぞれ異質な地域社会が構成されていたものを,廃藩置県で一つの県にまとめたという経緯,さらにはそれは,日本の東西文化の接触地であり,流域や盆地ごとに独自の地域的・文化的特徴が存在することから,「長野県は信州合衆国だ」と言い切る県民もいるほどである。
  南信(長野県の南部地域)は、県庁所在地の長野市がある県北とよりも、名古屋圏との交流の方が活発である。

 近世の信濃国は,幕領を中心にして,譜代の旗本知行所(ちぎょうしょ)・私領(大名領)が錯綜した地域であった。江戸時代は,中山道(木曽街道)六十九次,北国街道,甲州街道など国内東西南北を結ぶ交通の交差点に位置した。

 なお,長野県の県域は新潟県・群馬県・埼玉県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県・富山県の8県と接し,「日本一多くの他の県域と接する県」でもある。


 

   県民性

  

県民性は,勤勉,議論好きで頑固で,実学を尊ぶ気風が強いという県民性を持つ。また,人材育成に大変熱心で全国的にも「教育県」といわれてきた。また,江戸時代,寺子屋教育がさかんであった。その後も私立学校が数多く設立され,いまも教育熱心な県と評価されている。「日本教育史資料」によると,江戸時代の寺子屋数は長野県,山口県,次いで岡山県が第3(1,031)であった。
 なお,南北に長い県ということから,北信と南信では気候風土が異なり,地域性にも差異が見られる。中北信は積雪も多く,冬の寒さは厳しいのに対して,南信は気候も温暖であるとことから,話す速さも語調も穏やかで,温和でのんびりしている人が多いという。北に行くほど内向的,県南は情緒的な人が多いとも。

●縁とゆかり 
 鹿児島県-椋鳩十(むくはとじゅう 

 児童文学者 椋鳩十(むくはとじゅう)本名久保田彦穂は,1905(明治38)年下伊那郡喬木村阿島に生まれた。飯田中学,法政大学を卒業後,鹿児島県立図書館館長や鹿児島女子短期大学学長をつとめる。「片耳の大鹿」「孤島の野犬」などの作品を発表。「母と子の二十分読書運動」を展開,喬木村でも講演活動を行う。1986年喬木村名誉村民。
 鹿児島県加治木町に約20年間在住したことから「椋文学発祥の地」として,90(平成2)年に文学記念館が開館されている。
 椋鳩十記念館・記念図書館 下伊那郡喬木村 1459-2

・山形県鶴岡市

 城下町・鶴岡は,作家藤原周平をはじめ,文学や絵画,映画など,様々な分野の才能を生んだ街である。庄内・鶴岡の街を歩いていて感じるのは,浮わついたところのない,しっかりと地に足の着いたような落ち着いた雰囲気だ。それは,1622(元和8)年に信州松代から酒井忠勝が封じられ,以来,大政奉還までの約250年にわたって,酒井家が治める城下町であったことと無縁ではなかろう。   

●お国ことば言葉--長野県の方言  

『ずくがない』⇒やる気がない。
『ずくなし』⇒面倒臭さがり屋の人。
『しょうしい』⇒恥ずかしい。
『家がたたる』⇒家が建つこと。

●長野の小京都&桜の名所

飯山市(雪国の小京都): 城下町,寺社,飯山市美術館,寺めぐり遊歩道。
飯田市(信州の小京都): 碁盤目状の町並,寺社,りんご並木,飯田市美術博物館,椋鳩十記念館。

桜の名所
・小諸城址 懐古園
 場所:小諸市丁311
 見ごろ時期:年4月中旬~4月下旬

・高遠城址公園
 場所:上伊那郡高遠町東高遠
 見ごろ時期:4月中旬

●諏訪大社 
 古事記にも記される,諏訪大社は日本最古の神社のひとつ。全国1万以上の末社をもつ諏訪神社の総本社である。上社・下社でひとつの社とする。上社が大国主と命の第2子建御名方之命(たけみなかたのみこ),下社がその妃・八坂刀売命(やさかとめのみこと)を祀る。諏訪大社で7年に一度,寅(とら)年と申(さる)年ごとに行われる御柱祭(おんばしら・式年造営御柱大祭)は,1200年の歴史を持つ。
 とくに,山から切り出したモミの巨木を滑り落とす「木落とし」は,その荒々しさから日本三大奇祭の一つとされ,下社御柱祭で最大の見せ場となっている。



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『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』 海道龍一朗著 集英社刊

 「花は散りゆけど、その香は残る」

  たとえ敗北に終わろうとも、自分の生き様のすべてを絞り出せる場所を得た者が、どれほど幸せであるか・・・・・。乱世にあって人生の華を咲かせた稀代の知将・真田幸村の生き様を見事に活写。

 名高き戦国武将・真田幸村は、その智謀と勇猛さを讃えられながらも関ヶ原の豊臣方の敗北以来、十四年にわたり九度山での蟄居生活を余儀なくされていた…。だが乾坤一擲、武士として命の華を咲かせる場を得た! いざ赴こう大坂の陣へ 。

◆稀代の智将・幸村の姿を熱く描き切る歴史巨編!

 優れた智謀と武勇を持つ幸村。しかし彼は、完璧超人ではなかった。自己の才知が通用するのかという恐れ。因縁の深い家康への怒り。息子や若者を死地に置くことへの迷い…。さまざまな感情を抱きながら、己の信じた道を歩む幸村の人間臭い魅力が、彼のかかわる歴史まで輝かせるのである。

 徳川家康に疎まれ、九度山での蟄居(ちっきょ)生活を送る事を余儀なくされた真田幸村。だが、ひそかに来訪した明石全登から、豊臣方に味方するよう望まれたことで、幸村の人生は甦る。家康との戦いに決着を付けるべく、大坂城に入城。雑多な豊臣方との折衝や、スパイのあぶり出しをしながら、真田丸と呼ばれる出丸を築き、徳川方との合戦に備える。そしてついに、戦いの火蓋(ひぶた)が切って落とされる。

 大坂冬の陣で華々しい活躍をした幸村は、続く夏の陣で乾坤一擲の戦いを仕掛けながらも、ついには戦塵(せんじん)の中に散る。

 作者は、その幸村の生き方を、丹念にたどっていく。真田十勇士を独自の解釈で描いた筧(かけひ)十兵衛に霧隠鹿右衛門、あるいは幸村を慕う佐吉という若者など、フィクションとしてのてらいも当然ある。だが個々のエピソードには、奇をてらうことはない。非常にオーソドックスな戦国小説である。

 優れた智謀と武勇を持つ幸村。しかし彼は、完璧超人ではなかった。自己の才知が通用するのかという恐れ。因縁の深い家康への怒り。肉親や若者を死地に置くことへの葛藤…。さまざまな感情を抱きながら、己の信じた道を歩む幸村の人間臭い魅力が、読む者の胸を打つ。
 たとえ敗北に終わろうと、自分のすべてを絞り出せる場所を得た者が、どれほど幸せであるのかを。この瞬間に「花は散りゆけど、その香は残る」という冒頭の一行を,思い起こさせてくれる。(集英社・1890円




   地域特性

●地勢・気候

 【自然条件】・総面積は1,558k㎡で県全体の11.9%を占め,そのうち森林面積が1,006k㎡と全体の64.6%を,耕地面積は182k㎡で全体の11.7%を占めている・中央部は千曲川の流域に開けた平坦な善光寺平地域と,その周辺を囲む山間部地域に大別され,北東部には上信越国立公園,南西部には聖山高原県立公園の豊かな自然が広がっている。・気候は多様であり,北部の豪雪地帯から南部の少雨地帯まで,地域内で大きく異なる気候条件となっている。

気候
1 長野県は海岸から遠く離れた内陸に位置していることから,全県的に内陸特有の気候が明瞭である。
  一日のうちで最も高い気温と,最も低い気温との差(日較差),一年のうちで最も高い月の平均気温と,最も低い月の平均気温との差(年較差)ともに海岸地 方に比べて大きく,湿度が低い。また,一年に降る降水量も少なく,特に長野盆地から上田・佐久盆地にかけては,北海道東部についで雨の少ない地域である。
2 長野県は,冬に積もる雪の深さに気候の違いがはっきりと現れている。
 県北部は季節風の影響で雪の日が多く,中部や南部の平地は季節風が山脈を越えてくるため,空気が乾燥し,晴れの日が多い。
3 標高の高い地域では,山地自体の高さに伴う気温の低下によって山岳地帯特有の気候を作り出している。
 気候の特徴は,平地に比べて気温,気圧,湿度が低く,太陽からの日射のエネルギ-量も多くなります。風も平地に比べて強くい。
4 盆地特有の気候が現れる。
 盆地は夜間に低温となるため,昼と夜の気温の差が大きい。

降水量
 日本は世界でも有数な雨の多い国であるが,長野県の北部や中部の盆地では東日本の太平洋側,北海道および瀬戸内海と並ぶ年間1,500mm以下の雨の少ない地域となっている。
 これは,海から遠く離れており周囲を山脈に囲まれているため,台風,低気圧,前線などの影響を比較的受けにくいという内陸気候にようためである。



●長野県の主な産業


【商業】・県下最大規模の商圏人口を有する長野市を中心に小売業が集積している。・近年は,郊外型大型店との競合に加え商店主の高齢化,後継者不足などにより,都市中心部の商業地は停滞傾向にある。

 【農林業】・善光寺平や北東部を中心に果樹栽培が盛んで高い生産性を誇っている。また,きのこ,水稲などの栽培も盛んであるが,総合生産額は減少している。・管内の総面積の6割以上を占める森林面積のうち3割以上は民有林であり,適切な管理が必要になっている。・高齢化や担い手の減少により農家戸数は減少しており,遊休農地や手入れを必要としている山林が増加している。

 リンゴ・ブドウ・ナシ・モモ,そして,ウメ・プル-ン・カキ・アンズ・ブルーベリー・プラム・クルミなど,実にさまざまな種類の果樹が県内で栽培されている。信州が「果実の宝庫」となりえた最大の要因は,本州中央部の高原地帯という気候風土にある。果樹の成長する時期に雨が少なく,日照時間が長いため,余分な樹の成長が抑えられて,果実は十分な日光を浴びながら,ジックリと育つことができる。 そして,日本の屋根とも呼ばれる高い山に囲まれた内陸盆地であり,昼夜の気温差が大きいことも,果実の栽培には適する。
 中野市はブドウの巨峰生産,エノキダケの生産が3万8千トンで,全国の3割を占め,全国一である。

 明治維新を契機として貿易が始まると,長野県はいち早く器械製糸を取り入れ,養蚕や蚕種業の技術開発や改良に力を入れたことで,「蚕糸王国」となった。長野県の近代のあゆみは養蚕や製糸業の盛衰と深いかかわりがあり,長野県のあゆみそのものともいえる。
   丸子町の養蚕・製糸業
 

日本の輸出に占める蚕糸類のすう勢 
 年 次  輸出品総価格  蚕糸類輸出額 対輸出比率
明治元(1868
 1千555万3

 1千036万4

 66.6%
10(1877)  2千334万9  1千066万9  45.7%
20(1887)  5千240万8  2千190  41.8%
21(1888)  6千570万6  2千878万3  43.8%
22(1889)  7千006万1  2千925  37.5%
23(1890)  5千660万4  1千673万7  29.6%
24(1891)  7千952万7  3千217万5  40.5%
25(1892)  9千110万3  3千991万4  43.8%
26(1893)  8千971万3  3千159万1  31.9%

               単位:千円

       出典:「近代日本産業史11:繊維上」 梶尾光速著交詢社刊

                      

 ・日本最初の蚕業学校の設立 
  蚕業の学理と実地 (技術教育) をはかる機関として,日本最初の蚕業学校として小県郡立(ちいさがたぐんりつ)蚕業学校(上田東高等学校) が,1892(明治25)年5月開校した。科目としては,蚕体解剖と生理病理のほかに,動物学大意,植物学大意,化学大意,理学大意を,実地では顕微鏡的蚕種検査法と蚕体解剖術実地演習,養蚕家の視察(同所教則)を行った。



   地域区分


北信:長野,戸隠,小布施,飯山
東信:軽井沢,佐久,小諸,上田
中信:諏訪,蓼科,八ヶ岳
  :松本,上高地,塩尻
  :白馬,安曇野,大町,
南信:高遠,駒ヶ根,木曾,伊那
 

・千曲川

  全長33㌔,途中で犀川と合流し,新潟県に入り信濃川と名前を変えて流れを合わせると日本一の長河となる千曲川。その源流は,県の東南端に位置する川上村にある。川上とは文字通り,千曲「川上」だ。かつて陸の孤島といわれた村はいま,長河を生んだ清涼な自然環境を生かし,レタろハクサイ,キャベツと,日本有数の高原野菜の産地に生まれ変わった。

 『日本教育史資料』-文部科学省,『藩校と寺子屋』-石川松太郎著・教育社出版サービスによると,長野県の江戸時代の私塾を含む寺子屋数は,1488と全国第2位,ちなみに1位は1554で熊本県,3位が1371で山口県である。


 


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   長野県の人口   <1年間で1万人減少>


 長野県の人口は,22013年3月末時点で約216万4800人と2012年に比べて約1万人減。減少率は全国平均の0.21%の2.5倍で,人口の減少が大きく進んでいる。

 総務省発表の住民基本台帳に基づく人口調査によると,長野県の日本人の人口はことし3月末の時点で213万4866人と、1年前に比べて1万1096人、率で0.52%減少した。
 また,死亡数から出生数を引いた「自然減」は8668人と全国4番目に多く、少子高齢化が早いペースで進んでいることを示している。ちなみに,自然減の多いのは1番目北海道(△2万364人)で、2番目新潟県(△1万836人)、そして3番目が福島県(△9,752人)である。
 転出数から転入数を引いた「社会減」は、東日本大震災以降、被災地から県内に避難する人がいたことから、縮小していたが、ことしは、2428人と再び拡大した。
 県内77市町村のうち、人口が増加したのは,軽井沢町、南箕輪村、御代田町、山形村、それに安曇野市の5市町村である。

   長野県の市町村


●県庁所在地-長野市

 長野市の381,114人・総世帯146,935世帯(08/04現在)。善光寺を中心に発展した門前町。古戦場で知られる川中島や真田十万石の城下町・松代もある。
 総務省の「家計調査からみた品目別支出金額及び購入数量の県庁所在市別ランキング」によると,全国平均は2万1205円,7372グラム。〝2冠〃が,和歌山市。 金額3位の津市は消費量では16位と,量より質。消費量5位の山口市では消費金額16位と,量重視の傾向が。意外なのは,長野市が金額46位で消費量は最下位。県内では信州牛なども生産しているはずだが・・・。

 1966年長野市,篠ノ井市,埴科郡松代町,上高井郡若穂町,更級郡川中島町,更北村,上水内郡七二会村,更級郡信更村が合併。
 2005年 大岡村,豊野町,戸隠村及び鬼無里村が合併により長野市へ編入する。2005年1月1日 大岡村,豊野町,戸隠村及び鬼無里村が合併により長野市へ編入した。

・善光寺

 「牛に引かれて善光寺参り」で有名な名刹は,宗派を定めないことから昔から多くの人々に信仰されてきた。威風堂々の山門をくぐり本堂へ。床下の真っ暗闇の通路を手探りで歩き,極楽浄土への錠前に触れる「お戒壇(かいだん)巡り」を体験できる。
 

・全国に広がった善光寺信仰

 一光三尊阿弥陀如来様(善光寺仏)をお祀りする善光寺は,約1400年を経て今日に伝えられている。 その中で,宗派を超えて全国の庶民に広まった善光寺信仰の深さを伝える証左のひとつが,日本国中に建立された各地の「善光寺」および,寺号は異なっても「善光寺仏」や「善光寺縁起」などを有する寺院の存在である。善光寺の調査によると,全国には443の善光寺仏があり,「善光寺」を正式な寺名とする寺院は119ヵ寺あるという。

 
 善光寺は08年4月,長野市開催される北京五輪の聖火リレーの出発地を辞退した。その理由は,「チベットの宗教指導者が立ち上がり,それに対し弾圧しているので,仏教の寺として考えた」とし,文化財や一般信者の安全上の問題に加え,チベット問題がであることを明らかにした。

              善光寺-公式サイト   

●アルプスの城下町- 松本市

 松本市は,本州及び長野県のほぼ中央に位置する。
平安時代には信濃国府がこの地に置かれ,中世には信濃守護の館の所在地として,また,江戸時代には,松本藩の城下町として栄えた。明治40年5月1日に市制を施行し,その後,近隣の村との合併を経て現在の市域が形成され,平成19年には市制施行100周年を迎えた。
 明治時代から,製糸業を中心とした近代産業が勃興し,大正3年には日本銀行松本支店が開業されるなど,長野県下における経済金融の中心地となった。近代工業化は第二次世界大戦中の工場疎開に端を発し,さらに昭和39年の内陸唯一の新産業都市の指定が契機となって,電気・機械・食料品等の業種を中心に発展し,最近ではソフトウェア産業の振興が図られている。
 商業は中南信の商圏の中心として大きな商業集積を形成している。

●第2の都市-松本市

 江戸時代,10を超える小藩に分かれていた長野県は,それぞれが独自の風土をはぐくんできた。大別するとそれは北と南に分かれるのだが,南の代表・松本エリアの,長野エリア(北信の中心地)への対抗意識の強さは並大抵ではない。

 明治維新後の廃藩置県で「長野県」が設けられたとき,どちらに県庁を置くかで猛烈な争いが繰り広げられたことがある。結局,長野市に決まったのだが,松本市の人たちには,そのときの恨みというか悔しさが今なお根強く残っているといわれる。


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●真田氏ゆかりの地 上田市
 上田市は、平成18年3月6日に上田市、丸子町、真田町、武石村が新設合併して誕生した、人口16万を擁する長野県東部の中核都市である。

人口 2013(平成25)年3月1日現在 

世帯数 人口総数 男性 女性
61,600 158,076 76,923 81,153


  真田氏の祖は東信農の古くからの豪族海野氏であったといわれている。1400(応永7)年の大塔(おうとう)合戦で、信濃守護の小笠原氏に対抗して、戦った東北信の連合諸将の中に、実田(さねだ・さなだ)氏の名がみえることから、室町時代中期頃には後の真田氏に通じる土豪がいたと思われる。現在の上田市真田町地域を本拠地として、中世から勢力を広げていた土豪である。

 江戸時代に書かれた歴史書『真武内伝』によれば、1541(天文10)年の武田・村上・諏訪三氏の連合軍と、東信の名族海野(うんの)氏との対戦の時、海野勢にあったのが真田幸隆(幸綱とも)とされる。遅くとも1549(天文18)年頃までには武田信玄に仕えることとなり、「信州先方(さきがた)衆」として武田勢の先兵または参謀として活躍した。
 幸隆の長男・信綱(のぶつな)、次男・昌輝(まさてる)は長篠の戦いで共に討死にした。そのため、三男・昌幸(まさゆき)が真田家を継ぎ、その子信之、信繁(幸村)らと共に、武田・上杉・北条・豊臣・徳川ら強豪の中で、時には従い、時には対峙し、遂には上田城を築いて東信濃随一の武将に成長した。

 昌幸と信繁(幸村)の父子は築城したばかりの上田城で、徳川方の大軍を2度にわたって撃退し、武門真田の名を天下に知らしめした。しかし、関ヶ原の戦いは徳川方の勝利に終わり、昌幸・信繁は高野山に幽閉させられます。昌幸はここで没し、信繁(幸村 1567~1615)は豊臣方に味方して大坂城に入り、1615(慶長20)年5月7日、大坂夏の陣にて討死した。なお,幸村という名は『難波戦記』など、後世の軍記物や講談本のみに書かれているもので、信繁死後の架空の名であろう。

 *江戸時代に作成された『真田家系図』によれば、真田氏は清和源氏の発祥で、信濃国小県郡(現在の長野県東御市)の海野棟綱あるいは真田頼昌の子という真田幸綱(幸隆)が小県郡真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとある。
                参考:「真田家の歴史」 http://www.sanadahoumotsukan.com/sanada/index.php
    
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 『給食で死ぬ!!―いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』は,給食の内容を変えることにより、いじめ、暴力の絶えなかった学校が2年でいじめゼロに変貌した長野県・上田市真田町にある中学校の奇跡の物語である。
 元中学校長の大塚責氏が「子供たちをよみがえらせる」という考えから、給食の内容を徹底的に研究。「非行、犯罪が絶えなかった学校」から約2年で「いじめ・校内暴力・不登校がゼロ」になり子供たちの学習意欲も高まり的5年で県内有数の進学校に変貌した。現在でもこの町ではここ10年、万引を含めて非行がゼロという。  食と「現代の病」にはどのような関係があるのか、「子供たちをよみがえらせた給食の秘密」を明らかにし、家庭でも実践できる、子供の脳を活性化させる献立も公開している。
   なお,上田市真田(旧真田村)は,真田幸村で知られる真田家発祥の地である。



 ┏━┓                          
 ┃┃ 忘れ難き偉人 山極勝三郎 
 ┗━╋…──────────────────────────────



世界初の人工がんの発生に成功し,幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎(やまぎわかつさぶろう)(1863~1930年)は下級武士の三男として、長野県上田市に生まれた。
 大正14年、15年と2年続け、ノーベル医学・生理学賞にノミネートされたが,受賞には至らなかった。昭和3年にもノミネートされる。しかし、またも受賞はできず、世界で2番目に人工がんを発生させた人物として5年3月2日、67歳で生涯を閉じる。
 昭和41年10月23日、東京で開かれた「世界ガン学会」の冒頭、会長が「世界のがん研究は山極博士によって開発されたのです」と述べ、幻のノーベル賞受賞者、山極勝三郎の功績をたたえた。

 世界初の人工がんの発生に成功し,幻のノーベル賞受賞者といわれる山極勝三郎(やまぎわかつさぶろう)(1863~1930年)は下級武士の三男として,長野県上田市に生まれた。
 大正14年,15年と2年続け,ノーベル医学・生理学賞にノミネートされたが,受賞には至らなかった。昭和3年にもノミネートされる。しかし,またも受賞はできず,世界で2番目に人工がんを発生させた人物として5年3月2日,67歳で生涯を閉じる。
 昭和41年10月23日,東京で開かれた「世界ガン学会」の冒頭,会長が「世界のがん研究は山極博士によって開発されたのです」と述べ,幻のノーベル賞受賞者,山極勝三郎の功績をたたえた。



 上京しドイツ語学校に入学,さらに東京大学医学部に入学。世界初の人工がんの発生に成功するまでの長き医学の道を歩み始めることになる。勝三郎は24年,念願のドイツ留学を果たす。 帰国後,医学部教授となった勝三郎が担当した病理学教室で解剖した多くが胃がんだった。なぜがんが発生するのか。遺伝説や環境刺激説など諸説あり,どれも明確な説明はできなかった。その中で,勝三郎は38年,「胃癌(がん)発生論」を出版。「胃がんはがんが発生しやすいような環境によって生じるものである」と主張したが,多くの疑問が呈された。

 実証する近道はがんを人工的に発生させることだった。コールタールを扱う労働者に皮膚がんが多いことは分かっていた。勝三郎は実験動物にコールタールを塗り,発がんさせる実験にのめり込む。(
 

 ┏━┓                          
 ┃┃ 高宮崎駿 「風立ちぬ」公開  <長野県軽井沢の追分が舞台>
 ┗━╋…──────────────────────────────

 宮崎駿監督の5年ぶりの新作アニメーション映画「風立ちぬ」が公開中。この作品は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)の設計者の半生を基にしたフィクション。7月20日に公開され配給元の東宝によると、公開から37日間で640万人を動員、興行収入は80億円を超えた。

 零戦の設計で知られる飛行機の設計技師・堀越二郎をモデルに、文学者・堀辰雄のエッセンスを取り入れ、災害や不況、戦争という困難な時代に、一途に生きた人々を描いている。過去に材をとりながら「同時代を描くことになった」と宮崎駿監督は語る。

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――もう一人のモデル、堀辰雄については。 

 堀辰雄は戦時中、長野県軽井沢の追分で過ごしていた。あの寒い追分の冬を過ごすとは、体のためという以上になんらかの覚悟があったのではないか。しかも戦争のせの字も一切書かず、干上がるのを覚悟して『大和路・信濃路』を書いた。そういうことがだんだん分かってきて、この人は線が細そうに見えて、ものすごく骨太で強い人だなと思った。この時代の人で1番自分に身近に感じられたのが堀越二郎と堀辰雄だった。堀越二郎の内面はおのずと堀辰雄になっていった。


軽井沢・追分と追分馬子唄
 軽井沢の西部、中山道と北国街道の分岐点の宿場町として栄えた軽井沢の追分。追分宿は、明治26(1893)年の信越本線の開通によって、さびれていきます。そこで、追分からは当時の中心地であった岩村田(現・佐久市岩村田)へ集団で移り、遊郭を始めたといいます。全国で唄われる追分馬子唄は、しなの追分宿で生まれ、全国に広がっていったと言われています。

*ハイーハイ
小諸出てみろエ *ハイ
浅間のエ *ハイ
山に *ハイーハイ
今朝も煙がエ *ハイ
エー 三筋立つ *ハイーハイ

黒馬(あお)よ鳴くなよ もう家(うち)ゃ近い
森の中から 火が見える

浅間根越(ねごし)の 焼け野の中に
あやめ咲くとは しおらしや

浅間山さん なぜ焼けしゃんす
裾に三宿(さんしゅく) 持ちながら
*三宿=軽井沢、沓掛(くつかけ)、追分(おいわけ)
 または、「三四九」で、16才娘の意

浅間山から 出てくる水は
雨も降らぬに 笹濁り

小諸出ぬけて 四谷の清水
飲んで追分 一駆けに

西は追分 東は関所
せめて峠の 茶屋までも

ここはどこだと 馬子衆に問えば
ここは信州 中山道
  出典:「小諸馬子唄は追分民謡の原点である。」   http://matsusakaki.com/?p=179


 ┏━┓                          
 ┃┃ 高島城 諏訪湖に四方を囲まれた別名「諏訪の浮城」 
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 諏訪信仰の中心「諏訪大社」の上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)の中間に位置し、諏訪湖を眼下に臨む場所に高島城はある。
 高島城は、豊臣秀吉の小田原攻め後に、この地を与えられた秀吉家臣、日根野高書(ひねの・たかよし)が、7年の歳月をかけ慶長3(1598)年に完成させる。
 高島城の縄張は、簡素ながら独立式望楼型3層5階の天守と、櫓8基、門6棟を擁し、本丸、二ノ丸、三ノ丸、衣之渡郭(きぬのわたしくるわ)、南郭と連なる連郭式平城となっていた。
 江戸時代の諏訪湖は、よりも広く、高島城は四方を湖に囲まれた城(水城)であったため、別名「諏訪の浮城」と呼ばれていた。また、「諏訪の殿様よい城持ちゃるうしろ松山前は海」と歌われた名城でもある。
 関ケ原の合戦後は、徳川方(東軍)に属した諏訪頼水(よりみず)が入城する。
 諏訪氏といえば、諏訪大社の最高職である大祝(おおほうり)で、武田信玄が信州(長野県)に侵攻するまでは、古代から諏訪地方に君臨していた家柄であった。
 高島城は先祖の旧領を新たに統治するシンボルとして、幕末まで諏訪氏の居城となる。
 現在、城跡は本丸のみが残され、高島公園として整備されでいる。特に春の桜が美しく、多くの人々が訪れる。
 明治8(1875)年に解体された天守は、明治初期に撮影された写真をもとに、昭和45(1970)年に復元された。ただ、細部は異なっており、厳密な意味での復元ではない。同時に、冠木門、角樽も復元された。
 高島公園西側にある門は、藩主の屋敷だった旧三ノ丸御殿の裏門を移築したもので、高島場の施設では数少ない江戸時代の遺構である。
 諏訪といえば、毎年8月のお盆の時期に開催される「諏訪湖の花火大会」も有名だ。1日の打ち上げ数が、約4万発という日本最大の規模の信州の夏の風物詩となっている。




●「近未来の縮図」 佐久 小海町


 小海町は,長野県の東部,南佐久地域のほぼ中央に位置し,東は北相木村,西は八ヶ岳連峰を境に茅野市,南は南牧村・南相木村,北は佐久穂町(旧八千穂村)にそれぞれ接している。
 東西21キロ,南北16キロほどの小さな町の中央を南北に流れる千曲川に沿って帯状の平坦地が形成され,ここを国道141号,JR小海線が走り,町の主要な交通路となっている。

 白菜やレタスなど高原野菜の産地として知られるこの町の人口は,2010(平成22)年の国勢調査では65歳以上が1833人。15~64歳は2794人。0~14歳にいたっては553人である。,約5200人の人口の5人に2人が65歳以上の高齢者,1年間に生まれる子供は20~30人というこの数字から,専門家は「50年後の日本の人口構成に近い町」と指摘する。 。


 「30年前は家族連れでにぎやかだった」という商店街も,今は空き店舗が目立つ。日中も人通りはほとんどない。中心部には,デイサービスが受けられる介護支援施設などが6施設。その一つ,社会福祉センター「やすらぎ園」には,1人暮らしの高齢者が格安の家賃で暮らせる集合住宅が整備されている。
 認知症予防のため,定期的にお年寄りを集めて子供との交流会などを行うななど,高齢化に伴い,町は高齢者が生活しやすいよう整備が進んでいる。

 町の平成23年度予算の歳出35億9500万円のうち,社会保障費にあたる民生費と衛生費は全体の3割を占める計約10億5400万円。勤労世帯に投資して町を活性化したいが町財政には余力がないため,現実には高齢者の生活を守ることで精いっぱいだという。

2012-koumimat-map

 出典:小海町HP http://www.koumi-town.jp/office/archives/townprofile/koumi-town-gaiyou.html


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 ┃┃ 縮小の時代にあって活気ある山村 「南箕輪村」
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   長野県上伊那郡南箕輪村南箕輪村(みなみみのわむら)の人口が、9月30日に1万5000人を超え、人口1万50005人と,1万5000人の大台を初めて超えた。村では15,000人の到達予想を2014年3月としていたが、それを6か月ほど上回った。
 2010年の国勢調査に基づく人口増加率は軽井沢町に次いで県内2番目、昨年1年の自然増減数(出生数から死亡数を引いた数)は県内1位である。厚生労働省発表の人口推計では南箕輪村は長野県内77市町村で唯一、2040年の人口が2010より増えるとされている。
 
  人口増に伴い,若い世代が増え、南箕輪村では5保育園のうち3園が定員を超過。村は、この3園は定員を40人増やす方針。また、村内の将来の園児数を推計 し、必要な園では園舎増築も検討する考えだが,宅地化が進む同村で、周りを住宅や道路で囲まれている園もあり、安全性を確保しながら敷地面積を増やすの難 問である。
 村は行政サービスを維持するため、一般職の職員定数を10人増やす条例案を村議会9月定例会に提出、可決された。


 南箕輪村(みなみみのわむら)は、長野県南部に位置する。東西に大きく2つの飛び地になっている。日本の村で唯一、国立大学信州大学農学部のキャンパスがある村である。。
 伊那ハイテクバレーの一角にあり,農林業を基盤とし,信州大学農学部やハイテク産業、沿道立地型商業の誘致、住宅地開発、大芝高原の観光・レクリエーション開発、中央自動車道伊那インターチェンジ周辺の開発などにより,長野県下の村で唯一、人口増加を続ける。

⇒⇒ source  南箕輪村第4次総合計画

⇒⇒ source ⇒ 南箕輪・人口増加の陰で(1) 定員超過の保育園


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 ┃┃ 縮小の時代にあって活気ある山村 「下條村」
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 長野県南部,天竜川の畔に広がる下條村。いつしか、人口減に苦しむ自治体関係者などが下條村を「奇跡の村」と呼ぶようになった小さな山村である。
 下條村は出生率を向上させ,その高い出生率を維持し続けていることで知られる。2011年の合計特殊出生率は,全国平均が1.39人なのに対し、下條村は1.92人(村試算)である。2007年には出生率は2.12を記録している。
 
  2011年度決算での経常収支比率は全国ベスト6位の64.7%で、実質公債費比率もマイナス3.5%で全国ベスト4位。12年度決算見込みでの借金残高 は11億3726万円で、交付税措置分を差し引いた村の実質的な借金残高は8859万円にとどまる。一方、村の基金(貯金)残高は55億6974万円と, 健全堅実財政を貫いている


 人口約4000人の長野県下伊那郡下條(しもじょう)村は,人口対策が実を結び一躍注目を浴びた。アイデアマンでもある伊藤喜平(きへい)村長がリーダーシップの発揮のもとに打ち出した施策は多様多彩である。

①役所職員の意識改革 
 助役以下,村役場全職員をホームセンターに1週間の研修に出した。結果,一人何役もこなす職員に生まれ変わった。おかげで退職不補充が可能になり,職員数・人件費とも半減した。
②住民の意識改革
  道路は役所が作るのが普通であるが。ここ下條村では村民が道路をつくる。借金もなく道路がつくれ,皆で力を合わせることで村民の意識連帯感も深まる。村の 財政健全化にも取り組み,県の薦める大規模下水道工事を断り,簡易な 浄化槽方式により多額の借金もせずに安価に下水道を完成させた。住民自らが整備・補 修した村道や水路などは1442ヵ所(2011年度末現在)に上る。累計総事業費は約2億8063万円。今では村内のそこかしこに住民施工の道路や水路な どが生まれている。
 これら創意・節約でつくり出した財源を,子育て支援や教育,福祉の維持にまわすことができた。
③村内オール合併浄化槽
 こうして下條村は管を張り巡らす公共下水などではなく、村全体を合併浄化槽1本でいくことを決断した。合併浄化槽の場合、設置する各世帯に負担金と管理責任(水質検査や保守点検、清掃など)が生じるため、村は独自の補助制度を新設して支援することにした。
  下條村の村内オール合併浄化槽の判断は奏功した。現在(2011年度末)、928基が設置されたが、総事業費は8億6851万円で、しかも村の実質的な負 担は約2億5089万円にすぎない。後年度負担もなく、ランニングコストも軽微である。国が推進する施策を安易に採用せずに、身の丈に合った事業を展開さ せたことによるものである。
④村民増加計画
 村内各所に建設の若者定住促進住宅は現在、178戸に達し、元気な下條村の土台となっている。なお,2012年度からは新増改築への補助制度なども新設した。
⑤子供の医療費の無料化
 村では子育て支援として子どもの医療費無料化を段階的に拡充,04年度からは 中学生まで広げた。村営保育園の保育料を20%値下げしている。2010年度からは高校卒業まで無料に拡充している。
 さらに子供向けの書籍を中心に68千冊の蔵書がある村営図書館を整備している。

 伊藤喜平村長は、「全国の自治体が強固になれば、日本は強固になる。その自治体の体質を強くできるのは、住民であり、住民の責任でもある。住民が自治に是々非々の姿勢で積極的に関わり、住民の力で自治体の力を引き出していかないといけない」と、語っている。
                                      source: 人里離れた山奥に「奇跡の村」が出現するまで

◆下條村は,俳優 峰竜太氏の出身地でもある。

⇒⇒  下條村自立(律)宣言
⇒⇒ 2008年度 イエローリボン賞:伊藤喜平
⇒⇒ 健全財政で少子化知らず!下條村の驚くべき“村民力” 


   長野県ゆかりの本





◆『「信濃の国」殺人事件』内田康夫著
  『「信濃の国」殺人事件』内田康夫著(光文社文庫・660円) かつて長野県議会で実現一歩手前まで進んだ分県騒動は,県歌「信濃の国」の大合唱で沈静化したという。伝説の歌に着想を得た推理小説で,舞台は長野県全域にわたる。単行本が刊行されたのは昭和60年のことで,今回で3回目の文庫化。



▼あらすじ
信州毎朝新聞・牧田の絞殺死体が水内ダムで発見され,部下の中島が疑われた。だが恵那山トンネル,長楽寺,寝覚の床でも次々と絞殺死体が発見され,それが長野県歌「信濃の国」に歌われる名勝であることに,中島の妻・洋子は気が付いたが…。信濃のコロンボ,こと竹村警部登場の長編傑作旅情ミステリー。

⇒⇒youtube 「信濃の国」 http://youtu.be/torIjweSqrU


◆『長野殺人事件』内田康夫著
  品川区役所で働く直子は、税金の督促で訪ねた男から、彼女が長野県出身者なのを理由に書類を渡される。一カ月後、その男・岡根は長野県内で遺体で発見された。周囲に怪しい男も出現し、不安に怯えた直子は夫の友人・浅見光彦に相談する。一方、長野で岡根殺人事件を担当するのは「信濃のコロンボ」竹村警部だった。不正支出金と知事選を巡る巨悪に二人が挑む。長編推理小説。
【楽天ブック「信濃の国」殺人事件 [ 内田康夫 ] 【楽天ブック】長野殺人事件 [ 内田康夫 ]






◆県歌「信濃の国」について    http://www.pref.nagano.jp/soumu/koho/kenka/kenka.htm
 「信濃の国」は,明治32年浅井洌により作詞,明治33年に北村季晴により作曲され,当時の長野県師範学校の行事に際し歌われていました。教師として県下各地の学校に赴任した生徒は,唱歌の教材として「信濃の国」を児童生徒に教え,さらに,親から子へ,子から孫へと言う形で,事実上の県歌として歌い継がれてきました。            

 昭和41年に県章やシンボルを決定した際,「信濃の国」を県民意識の高揚のために県歌に制定してはどうかという気運が盛り上がり,昭和43年5月20日に「信濃の国」が県歌として制定されました。こうして「長野県民のほとんどが歌える」と言われる県歌が誕生したのです

【高齢化の状況】・管内の高齢化率は23.9%となっており,県平均(24.7%)よりも低くなっているが,郡部では29.6%と,県平均を上回っている。 特に信州新町,小川村,中条村の西山地区の3町村では,40%を超え,県下でも高齢化率が高位の町村となっており,平均でも42.9%となっている。




   中山道



徳川の参勤交代時代のことであろう,信州路の宿場に,次のような戯れ歌が残っていたという。
 「人の悪いのは鍋島,薩摩 日暮れ六ツ泊りの七ツ立ち」

 午後6時に泊まり,翌朝午前4時の早出発,鍋島藩のミミッチさを歌ったものである。 (出典:長野県観光連盟編 信州歴史の旅 令文社刊)


                出典:『探訪日本の歴史街道』三修社刊  p87

 中山道は江戸日本橋を起点に、板橋を最初の宿場として、東海道と重複する草津、大津の二宿を加えて、京都三条に至る肝に全部で69宿あり、旅程は135里34町八間(約533.9キロ) であった。                                
 古代七道の一つとして生まれた中山道は、もとは東山道と呼ばれた。『続日本紀』に和銅6年(713)、美濃(岐阜県)と信濃(長野県) の国境の難所をさけるために木曾路が開かれたとある。中山道は戦国時代まで東山道と呼ばれ、江戸幕府が制定した宿駅の多くは、戦国末期にすでに成立していた。
 中山道の近世の宿駅制は慶長六年(1601)に、大久保長安が木曾路の集落に伝馬掟状(でんまおきてじょう)を出したことにはじまった。その道が整うにしたがい、一部ルートの変更がなされ、新たな宿場も誕生した。
  当初は下諏訪から三沢峠、小野峠、があったが、慶長19年(1614)牛首峠を越えて、木曾の賛川に出ていた。この間に小野宿にこの道は廃され、塩尻峠越えに変更となり、塩尻、洗馬(せば),本山の三宿ができた。
 また江戸から十一番目の宿場である新町は、享保9年(1724) にできた最も新しい宿場だった。これも本庄宿と倉賀野宿の間のルート変更があり、当初は落合新宿と笛木新宿に伝馬役が命じられた。その二つの宿場が合併し、中山道は六十九宿となった。
「木曾にかけはし、太田に渡し、碓氷峠がなくばよい」と俗謡に歌われるように、中山道の難所は、碓氷峠に代表される、その峠の多さと、木曾川の流れがつくり出した深い山谷の苦労に尽きる。

◆ 馬籠宿

 本陣の息子に生まれた作家島崎藤村
                                             
〔戦国の世をしのぎ庄屋となった先祖〕「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたひに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いてゐた」  
 これは、島崎藤村の小説『夜明け前』の冒頭である。

 この自伝的作品によって自由主義文学の代表として世に知られる藤村は、明治五年(一八七二)に馬籠宿(長野県山口村)の本陣の家に生まれた。馬龍は「是より北 木曾路 藤村老人」の碑が美濃との国境に建つことでも明らかのように、江戸から来ると、馬籠宿は木曾十一宿の最後の宿場である。

 島崎氏は相模三浦氏の出とされ、永正十年(一五一三)に監物垂綱が木曾に来て、木曾氏に仕え、やがて妻龍に居住した。重綱は武田信玄に属した木曾氏の尖兵となって妻籠の番所を守備し、さらに敵地に近い馬籠へ出て、防備を厳重にした。
 天正二年(一五七二)に木曾義昌の命を受けて、織田信長方の美濃の明照城(岐阜県中津川市)を攻めて、この功績で馬籠坂下の内に五貰文の地をもらった。ここに島崎家の馬龍の歴史ははじまる。
 島崎家はやがて木曾氏が武田氏を裏切り、信長に味方、その木曾氏も木曾の地を豊臣秀吉に追い出される時代の変革を味わい、やがて帰農して、尾張徳川藩のもとで庄屋を営み、本陣となった。

馬籠有志の思いでできた藤村記念館
 藤村は十歳で上京したのち、本陣は大火で隠居所のみを残して類焼し、昭和22年(1947)に馬龍の有志たちが労力奉仕して、藤村記念館が誕生した。          
 黒板塀に囲まれた冠木門かぷきもんを入る。いま本陣の面影はどこにもない。だが藤村の精神を具現した館内に、木曾路馬籠宿は生きている。
「血につながる ふるさと/心につながる ふるさと/言葉につながる ふるさと」、藤村の言葉が印象的だ。
   「まだあげ初めし前髪の……」と 『若菜集』 に歌われる初恋の人の家は、酒造りを営み、金貸しもした地主で、年寄役の隣家「大黒屋」 の娘ゆふだという。
            
 その馬籠宿を関ケ原合戦に遅参した徳川秀忠の軍が重い足取りで走り抜け、皇女和宮の華麗な花嫁行列が通過していった。旅人の情報、また飛脚から聞いた情報によって、深い山中にあったが、馬籠はいつも最先端の情報を知っていた。ペルーの来航も官軍の江戸進軍もである。
                      出典:「探訪日本の歴史街道」p102~p103   楠戸義昭著

◆狐塚ほたるの里
  2013年のほたる鑑賞会は6月21日(金曜日)から6月30日(日曜日)までです。
 周辺は住宅地で公設の駐車場はありませんが,鑑賞会期間中は、まるこ福祉会きらりの駐車場が開放されています。

 ほたるの発生状況
・2013年6月20日(木曜日) 約150匹
・     6月19日(水曜日) 約120匹
・     6月18日(火曜日) 約70匹
 ・     6月17日(月曜日) 約50匹
 ・     6月16日(日曜日) 約20匹
 ・     6月15日(土曜日)(雨天により)
 ・     6月14日(金曜日) 13匹
 ・     6月13日(木曜日) 下流5匹
 ・     6月12日(水曜日) 下流3匹 初見
見頃予想 6月22日ごろから多く舞い始め、6月25、26日あたりピークをむかえる予想です。
(注)2012年は、6月27日あたりにピークをむかえました。


狐塚沢では、ほたるが周りを囲む木々に沿うように7~8メートルちかくまで高く舞い上がり、その光跡はプラネタリウムのようで神秘的です。狐塚沢特有の幻想的な光景が堪能いただけます。

ホタルが生育できる環境づくり




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正月料理にはどのような地域差があるか

 正月料理には、餅と魚がしばしば登場する。大晦日の夕食の膳にのぼる「年取り魚」について長野県の場合を見ると、海から山国へ魚が運ばれる経路が塩がもたらされた道と重なる。東・北信地方では、塩鮭が新潟方面から北信へ、そして千曲川沿いに東信へと運ばれ、年取り魚とされる。これに対して、中・南信地方では、塩鰤が糸魚川、富山方面から安曇平を経て南部へともたらされ、年取りの膳にのぼる。全国的に見ても、東日本では鮭が、西日本では鰤が用いられることが多い。



長野県の大学

 ・信州大学: (長野市・松本市・上田市)
 ・長野県看護大学:(駒ヶ根市赤穂)
 ・長野県短期大学 :(長野市三輪)
 

県短大4年制化設立へ準備委 - 05月07日 

  県が準備を進めている県短期大学の4年制化について、学部やカリキュラムを決める設立準備委員会の初会合が、県庁で開かれた。県では、去年7月の外部の有識者委員会の提言を受けて、長野市の県短期大学の4年制化にむけた準備を進めている。。
 5月7日は、大学の学部やカリキュラムを決める設立準備委員会の初会合が県庁で開かれ、委員13人のほか、阿部知事も出席した。委員会では、県の担当者から、新たな4年制大学について、海外に通用する人材と地域の課題を解決する人材の両方の人材育成を目指すことや、学部や学科は社会科学系とし、企業経営に関する分野を専門とするなどのイメージが示された。
 これに対して、委員からは「目標とする人材育成には英語圏の考え方を学ぶ教育が必要だ」とか「少子化の中、ほかにはない学部や学科などのブランド作りが求められる」などの意見が出された。委員会は今後4回開かれ、学部やカリキュラムなど大学の基本構想をことし11月をメドに決めることにしている。

  



  長野県フェア--信州を食べよう!!
      信州味噌/ご当地調味料/信州の水/信州ワイン/蜂の子/他





ブログ-諏訪圏工業メッセ視察記



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