宮沢賢治「春と修羅」@
わたくしといふ現象は
序
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
これは映画「銀河鉄道の夜」の中でもつかわれている宮沢賢治の詩集「春と修羅」の序文、そのはじめの部分である。
この詩の「わたくしといふ現象は」という部分は「わたくしといふ存在は」と書いたものをわざわざ賢治自身が線を引いて直したものである。
宮沢賢治の童話や詩には何度も何度も書き直したり順番をいれかえたりしているものが多い。
銀河鉄道にしても一般に知られている最終形の前に初期形のそれも第一稿、第二稿、第三稿がある。
どれが好きというのはともかく、その過程をたどっていくことは賢治の心の動きを知る上での大きな手がかりになるだろうし、そういった過程を含めての「銀河鉄道の夜」をあらためて読んでみるということもできるだろう。
この「春と修羅」の序文での書きかえもそうした見方をしていくととても大きな意味があるように思える。と、いうよりもこの「存在」という言葉を「現象」に書き直していることがこの詩のテーマそのものといってもよいだろう。
(わざとはじめに「存在」と書いて直したのか?)
「存在」と「現象」。広辞苑でひいてみると以下のような意味が出ている。
存在(being)
一般に「ある」ということ、および「あるもの」。「ある」の種々な意味に従ってさまざまな意味がある。有(ゆう)ともいう。
@意識から独立に外界に客観的に実在するもの。客観的実在。外界・自然・物質とほぼ同義。
A形而上学的意味としては、現象の転変の根底にある実在。本体。本質。
B現象として経験に与えられているもの。
C最広義では、単に思考の中にある観念的なものをも指す。
D判断の主語と客語とをつなぐ連語としての「ある」。
現象(phenomenon)
@観察されうるあらゆる事実。「自然−」
A自らをあらわに現しているかぎりにおいての事実。(その背後に本体とか本質とかを考えない)
B本質との相関的な概念として、本質の外面的な現れ。(⇔本質)
Cカントの用法では、時間・空間や範疇的諸関係に規定されて現れているもの。これは主観の構成したものであって、その背後の本体たる物自体は認識されえないとした。事体。(⇔物自体)
つづく
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