わからないということ


「わからないところはどんどん質問しなさい」といった言葉を教師はよく口にするけれども、「ここがわからない」「これができない」と言えるというのは実はかなりわかっているということで、本当にわからない子はそう言われてもどこを質問していいか途方にくれるだけである。
 聞きたいところがどこなのかがわかっている場合でも、「こんなことを聞いたらはずかしい」「笑われるかもしれない」という気持ちもあってなかなか聞けなかったりということもある。だから質問がなければ、子どもがわからないところを聞いてこなければ、それでみんながわかっていると思い込んでしまうのはとてもあぶない。
 その子のつまづいているところがはじめはちょっとしたことであっても、授業はどんどん先に進んでいくわけで明日の授業は今日の授業の上に積み重なって行われるものだから、そのつまづきはどんどん大きくなっていくことになる。
 子どもにとってそういう状態で机に座っているというのは、苦痛以外の何ものでもないだろうし、これぐらいつまらないこともないだろう。
 今の授業形態は生徒がまわりに座っていて真ん中に自分がいて、説明しながら一人一人の反応を見ることができるし問題をやっているときもノートに書いている最中にあれこれ言うこともできる。 また丸付けをしながらこちらから聞いていって、どこからつまづいたのかどこがわかっていないかを探っていくことがかなりできる状態だとは思う。
 それでも。
 答はあっていたとしても単にやり方を覚えただけで本当にわかっているわけではないという場合もある。
 前の回にできていて「おおー、よくできたねー。やったあ」と喜んだところが今日はまるっきりというようなこともある。
 ひとつの単元の次にはまた次の単元がどんどん出てくるし、時間は限られている。(ひとつの教科は週に1回90分)
 毎日悪戦苦闘しながらやっているのである。
(それにしてはずいぶんのんびり教えているように見えるのはなぜだろう)
 しかしたいへんだたいへんだといってもこじま塾は多い時でもひとクラス5、6人。これを中学校の先生は30人40人を相手にやっておられるのかと思うとこれは本当にたいへんなことだと思う。部活の顧問や他の様々な問題もあるわけだし。
 と、言っている間にも週休5日制が完全実施される日は近づいていて(今は第2第4土曜日休み)、そうなるとますますカリキュラムはきつくなるんだろうなあ。

次へ

はじめのページにもどる