ジンギスカンを出した日本初の料理店

 日本橋濱町の京蘇菜館の濱の家が昭和4年に雑誌「食道楽」、翌年「文芸春秋」に取り上げられ、時事新報に連載された久保田万太郎の短編「じんぎすかん料理」に登場しました。その後「北京正陽楼の豪快味を写す帝都唯一の店」と、ジンギスカン料理でめきめき売り出したことは、以前の講義で話しました。
 私の講義内容は全部、秘書兼資料収集担当というか御用人が「現場主義のジンパ学」というホームページに仕立てておることは皆さんも知ってますね。見てない人もいるかも知れんがね。そのウェブが濱の家主人富山栄太郎氏の孫に当たる方の知るところとなり、私に祖父の資料が残っていると連絡があったのです。平成19年の秋です。
 「羊と山羊」を書いた小谷武治さんの経歴調べで、北大一般教養部時代に私と同級だった小谷さんの孫娘、例によってA子さんとしておきますが、私の知らないお祖父さんのことを、昔の同級生から聞かされるのは實に不思議な気持ちがするとね。電話でそう話してました。私より14も若い富山さんのお孫さんも「久保田万太郎の作品には目を通しておりましたが、このような形(尽波注=ジンパ学)で取り上げられ、祖父栄太郎の名前を三人称で読むこと、得がたい経験でした」とメールに書いておられましたが、想像できますよね。
 私の祖先なんか馬の骨クラスでね、父方の祖父母は父親が二人の名前を合わせて俳号にしていたので、辛うじて覚えていますが、小樽にいた母方は忘れました。私が北大を受けられたのは、祖母が元気なうちに満洲帰りの孫を見せようという母親の配慮によるものでした。こたつで林檎ばかり食っている勉強ぶりでは望みなしと思っていたらしいが、それはおっかさんの読み違いでしたな、はっはっは。まあ、名前しか知らないジイサンはこういう仕事をした人だったなんて、それも第三者が書いたり聞かせたりするのですから、とても妙な気分になるに違いありません。
 ともあれ、東京で富山氏のお孫さん、冨山隆さんにお目にかかることができました。新渡戸さんとのつながりで取り上げたことのある札幌農学校1期生渡瀬寅次郎は、茨城県立水戸中や同じく県立師範学校の校長などを務めました。そして明治28年から8年も東京中学院の初代院長を務め、自ら起こした東京興農園の仕事が忙しくなったため退任しましたが、冨山さんはこの東京中学院につながる横濱の名門、関東学院中学校高等学校の校長先生だったのです。
 いろいろ知っておられる栄太郎さんのことなどを伺い、ジンパ学にとって貴重な資料である写真や色紙類をコピーさせていただきました。いいですか、富山のウ冠がワ冠に変わっている点に注意ね。これは第二次大戦の米軍空襲で戸籍書類がすっかり焼けてしまい、復元する際に戸籍係が点のない冨山としてしまった。それ以来富山でなく冨山になったということです。ちょっと変わった形の戦災だと思いますよ。
 祖父栄太郎さんは戦時中、病気になったこともあり、店を閉めて千葉県内に引退されたそうです。それで冨山さんの父親は濱の家を継ぐことなく医師への道を選んだ。だから濱の家は栄太郎さん1代で終わったのです。ああ、それから栄太郎という名前は、酒飲みではなく甘党になるようと、栄太郎さんのお祖父さんが日本橋の老舗、お菓子の榮太楼にちなんで付けられたと話しておられたそうです。
 そうした縁が、平成まで続いていたとしか思えないのですが、榮太楼総本舗の7代目社長だった細田治さんと冨山さんは同じ高校のOBとしてお付き合いがあった。たまたま、その細田さんがこのジンパ学の講義録を見付けてね、濱の家のことが書いてあるから連絡してみたらと、冨山さんに勧めてくださったそうなのです。
 それで私は文献探しだけでは絶対に見付からない貴重な写真などを皆さんに見せられるようになったのです。求めよ、されば与えられんと前にもいいましたけれど、本当に縁が与えられたのです。研究者としてこんなうれしいことはありませんよ。
 わずか80年ほど前ではあるけれど、あの戦争、戦災を経ているので、こういう資料は残っているとは思いもしなかった。日本初のジンギスカンの本を書くなんてことより、正しいジンギスカンの歴史を探るべく、私はインターネットで講義録を次々公開して、北大生以外の読者の反応を待った甲斐があったのです。それを読み、資料提供を思い立たれた冨山さんのご厚意なくしては出来なかった講義なんですよ。そんじょそこらのジンギスカン解説ではあり得ないことですからね。いいですか、なかに想像を遙かに超えた事実を裏付ける写真もあるので、居眠りせずによく見て下さい。
 まず、資料を配りますが、写真や色紙が盛りだくさん。いいですか、後ろまで行き渡りましたか。日本橋濱町にあった濱の家を電車通りから見た写真から紹介しますが、その前にその前身で同名の旅館「濱のや」の広告を見て下さい。
 これは東京人事興信所が明治43年に出した「我輩は何処に泊らう?」という本にある広告です。真ん中の「濱のや」という字の上にアスタリスク付きのBがあります。この本は「*Aハ優等、Bハ高等若クハ中流旅舎ノ一等、Cハ普通ノ上、Dハ普通ノ並、(1)」という評価基準を示しているので「濱のや」はBに*が付いていますから優等に近い高等旅舎ということでしょう。客間が26もある大きな旅館で、経営者北川ふじさんの北川家と冨山家は親類関係にあるそうです。それもあって中華料理らしくない「濱のや」の商号を継いだらしいのです。
 ちょっと脱線すると、この本に載っている札幌の宿屋は、山形屋、丸惣、旭館、山口屋の4軒。皆いまありませんが、私は山形屋が一番懐かしいなあ。お花の教場が1時期あそこだった。女性群の中の黒1点、おまけに北大生、流行歌じゃないが、後はいえーない、ね。濱の家の資料紹介に戻します。
 以前の講義でも説明したが、私の講義で「濱のや」の「や」は全部「家」で通しています。これは久保田万太郎が「じんぎすかん料理」でそう書いたのを引用したことから始まり、両方書いて別々の店と勘違いするのを防ぐためで、正しくは「や」なんですよ。

資料その1

(1)
    
(2)
   
        (冨山隆氏所蔵)

 下の写真は道路側から見た濱の家の遠景です。駐車している車2台の間、マツの下に門柱があり、人が何人か立っています。広告で「館前ニ電車『濱町』停留場アリ」と読めますね。「大信本店」の看板の上の空間に2つ点が見えますね。これが電車の架線を絶縁している卵形の碍子でありまして、下に電車の軌道が通っていると察してください。この道路をどんどん左側へ進むと濱町河岸、隅田川に出ることになるという位置関係です。
 この日は皇族だか高貴な方々が、北京の味を写したというジンギスカンとはいかようなものであるかななんてね、車を列ねてわざわざ濱の家においでになった。この光栄を孫子の代まで伝えたいと、道路の反対側まで離れてその送迎光景を撮った1枚なのです。
 これはJPGの圧縮がきついのでわかりませんが、頂いたガラス乾板から焼いた写真で見ると、旗の下でモーニング姿の男性2人、右側の車の直ぐ後ろに男女4人がお辞儀をしており、右側の車が微かにぶれているので、お帰りになるところですね。撮影日時の記録はないのですが、人通りが少なく隣の大信本店も日の丸の旗を立てているようなので、何かの祝日であり、自動車の型式から昭和何年かわかるかも知れません。
 さて、門を入ると、いかにも和風旅館らしい玄関がありました。敷石の道とヤツデなどの植え込みね。資料その2の右側の多分ヤマカと読む屋号入りの小田原提灯は、街灯がなかった明治時代、泊まり客のために玄関先に吊したりしたものでしょうね。
 資料その2の左側の写真は昭和4年の「食道楽」7月号に取り上げられた濱の家の玄関の写真です。1ページで2軒ずつ紹介しており「上は京都の河原町通りに開店した北京料理の洛陽一品香。瀟洒な構へと気分が好いので売出したが、本場の支那味はまた格別。今に京洛を征服するとの好評判。下は東京日本橋濱町の濱のや。京蘇料理の一風変つた味があつて、構へよし、気分よし、味よしの評判あり。(2)」という写真説明がありますから、京都と東京の新しい支那料理店の代表ということで紹介されたと思われます。
 以前の講義で「食道楽」に濱の家の写真があるけれど「肉眼で見ても殆ど真っ黒。」といったのは、昭和10年の写真と見比べるクイズまがいをやりたくて、嘘をついたではありませんよ。それは記事と同じく黒白コピーで複写したからでした。この雑誌を所蔵する日本大学国際関係学部の図書館にあるコピー機は、ちゃんと写真モードもあったを思い出したのです。それで、もう一度、複写のやり直しに静岡県の三島へ行き、コピーさせてもらいました。だから、どこが変わったか、わかる写真を見せられるのです。現場主義を通すのはなかなか辛いものですよ。

資料その2

(1)
     
(2)
           
            (冨山隆氏所蔵)

 さて、資料その3に移ります。上は昭和10年の「食道楽」2月号のグラビアページに掲載された玄関の写真です。玄関の戸の作りとそのわきの植木鉢が違いますね。つまり昭和4年の方は開店後1年そこそこの写真であり、北川さん経営の旅館のときのままだったのでしょう。漢詩の看板はいいけど、支那料理店に2間開きの格子戸はそぐわないと、栄太郎さんが両側半間ずつ角窓付きの壁にして、1間の開き戸に作り替え、狛犬を据え付けたことが窺えます。
 こういうところで「清朝宮中の秘料理」を公開するといい、左側には「じんぎすかん料理」「北京の田舎料理」とあるのですから、ピンとキリが食べられるのかも知れない。物見高い江戸っ子ならずとも興味津々となりますよね。
 下の写真は冨山さんが保存していた写真。門からもう少し中に入っていった位置だとわかりますね。浴衣姿の女の子の足許になにか半円形の模様が見えますね。虫眼鏡で見ると長短12本の光芒のある太陽らしい半円をTHE ASAHI GRAPHというアルファべットで囲んだ押し印だとわかります。アサヒグラフのカメラマンが食べに来たか取材に来て写したものと思われます。漢詩の看板と狛犬のある玄関がよくわかりますね。

資料その3
(1)
     

(2)
     
       (冨山隆氏所蔵)

 親類経営の旅館だった濱の家を富山栄太郎さんが引き継いで、京蘇料理を売り物とする支那料理店として、昭和3年2月15日に開業しました。「食道楽」昭和4年6月号に「濱町の濱の屋は宿屋だつたが去年二月から支那料理も京蘇料理の濱の屋となつて、(3)」と書いてあると話したはずですが、この記事の開業年月の裏付けが見つかったのです。
 それは試験代わりに皆さんに課しているレポートにね、Aさんとしておきますが、ある学生がレポートに開業日がわかったと書いたのです。Aさんは「食道楽」の記事の話から、逆算して昭和3年の1月ごろからの新聞広告を調べたら、料理人とか女中の募集広告が載っているんじゃないかと考えた。女性らしい、いい着眼点でした。
 そして朝日新聞の縮刷版を調べ、昭和3年2月23日の11面に「二月十五日より開業仕候(4)」という広告を発見した。3月分も調べたけれども、濱の家の広告は掲載されていなかったと、レポートをまとめたのです。短めでしたが、発想がよろしい。もっともジンギスカンを書いた料理の本は、あまりありませんから、コピペしたら、すぐわかる。Aさんのジンパ学研究への貢献を認め、その年度の最高点をつけたのは、いうまでもありません。
 でもAさんよ、天晴れ、でかした、で終わっては、ジンパ学研究者としての私は落第です。朝日に出ていたら、東京日日にもあるんじゃないかと、すぐ捜しました。ここが学生と私の違いです。私は常にジンパ学の先頭ランナーであらねばならんのです。何か得られるかも知れないと思ったらどんどん捜す。やるしかないんですなあ。
 Aさんはレポートに書く材料が見つかれば、それで足りた。もし朝日になかったら、ライバル東京日日も見たかな、どうでしょう。両方調べたけれども、広告は載ってなかったというレポートだったとしも、私は目の付け所とその努力を、見つけたのと同様に評価しましたね。
 ところで、東京日日には2回広告を載せていたのです。資料その4は、その東京日日の2つの広告です。開業日がよく見えるよう(1)を大きくしていますが、どちらも高さは1段で、同一拡大率で(1)の幅が3に対して下の(2)は2と小さいのです。

資料その4
(1)
       
(2)
          

 資料その4の上の広告(1)は2月28日に載ったもので、壺形の右に「二月十五日より開業仕候」とあるのが読めますね。朝日に載った広告も同じこれです。それから大きな字の「濱のや」の下にある「元旅館」も読めますね。下の(2)は3月8日の広告です。上の濱のやの隣りの「クラブ隣」は何のクラブかと問い合わせ電話が何回か掛かってきたんでしょう。3月に出した下の広告は字こそ小さいが、ちゃんと「日本橋クラブ隣」と変えたのがわかりますね。
 日本橋倶楽部とは明治23年、商工業振興を目的として創設された団体で、この頃は関東大震災立て直した木造二階建ての瀟洒な洋館と庭園を持っていました。昭和に入るや会員は1000人を超えていた(5)そうで、いまは室町1丁目のビル内に移っています。ともあれ濱の家は有名倶楽部を目印に借用したのですね。ああ、それから下の(2)の広告は3月15日の都新聞朝刊9面にもあります。
 このように濱の家は昭和3年2月開店とわかったと冨山さんにお知らせしたところ、昭和3年は私の父親が出入りの魚屋「魚寅」に預けられていたころで、両親(尽波注=栄太郎夫妻)ともに開業に忙しかったのだと思うとの返事を頂きました。魚寅は明治座のそばで、いまは飲食店となっているそうですが、そうした冨山一家に語り伝えられた歴史とも相応するとは思いも寄らぬことでした。ということで、この辺の出典説明は勘弁してもらいましょう。
 広告に話を戻しますが、2つとも「女中心付一切申受ません」と入れています。料理を運んでくる女中さん、いまならウエートレス、チップは全く頂戴しないと宣言しています。でも、このノーチップ制は人件費高騰のせいか何年後かに止めて、飲食代の1割だけ頂くように変わった。昭和10年の「大東京うまいもの食べある記」第10版で、濱の家は「チツプ一割制度も簡便でいゝと思ひます。(6)」と書かれているからです。この本の初版は昭和8年ですから、初版のままなら、8年にはもう1割制にしていたということですね。
 ああ、それからもう一つ。広告にジンギスカン料理をうたっていないのは、開業時はやっていなかった料理だからです。ジンギスカンをメニューに加えたのは、久保田万太郎たちが鍋を持ち込んで由比ヶ浜で試食会を開いた後で、開業3年目の昭和6年秋からで、私の調べては日本国内では初めでした。
 私は、読売新聞も調べました。昭和7年の春秋園事件の調査で、読売には支那料理店の広告が非常に少なかったことを覚えていたので、ないだろうと思いつつ、2月、3月と2月分を調べましたが、やっぱりありませんでした。読売は夕刊が毎日発行でなく、広告のスペースが、東京日日、朝日と比べると、かなり狭いので、栄太郎さんが申し込まなかったことも考えられます。
  

参考文献
上記(1)と資料その1(1)の出典は東京人事興信所編「吾輩は何処に泊らう?」1ページ、明治43年2月、日韓旅館要録編纂所=近デジ本、 (2)と資料その2(1)は食道楽社「食道楽」3年7号ページ番号なし、グラビア「料亭百趣(四)」、昭和4年7月、食道楽社=原本、 資料その2(2)は冨山隆氏所蔵品、尽波撮影、 資料その3(1)は食道楽社編「食道楽」9年2号ページ番号なし、昭和10年2月、食道楽社=原本、 同(2)の濱の家玄関に立つ少女写真は冨山隆氏所蔵品、 (3)は食道楽社編「食道楽」3年6号116ページ、昭和4年6月、食道楽社=東京都立中央図書館特別文献室加賀文庫マイクロフィルム、 (4)は朝日新聞社編「朝日新聞縮刷版」104号23−15ページ、昭和3年2月23日朝刊11面、昭和3年3月、朝日新聞社=原本、 資料その3(1)は昭和3年2月28日付毎日新聞*面=マイクロフィルム、 同(2)は同年3月8日付毎日新聞*面、同、 (5)は日本橋倶楽部のホームページ「沿革」より、 https://nihonbashiclub.
or.jp/free/about-2 (6)は安井笛二編「大東京うまいもの食べある記」昭和10年版122ページ、昭和10年5月、丸之内出版社=原本、

 玄関で靴を脱いで濱の家の中に入ったら、多分、資料その5の写真のような待合室に通されたでしょう。正面の床の間や右手の襖はいかにも和室丸出しでミスマッチですがね、当時のお客にすれば、どんな料理が食べられるかわくわくしてて待ち、部屋の構造なんか全く気にしなかったかも知れません。左の手前と奥のドアは、座卓や椅子の雰囲気に合わせた直線を基調とする中国風の組子細工が施されているのがわかります。
 テーブルには陶器の茶托に茶碗が乗っており、中央の盆には5つ小皿が見えます。「北京正陽楼の豪快味」にこだわった濱の家ですから、煎った西瓜の種なんかを出したかも知れません。またこの写真は雑誌「主婦之友」社直営の主婦之友写真館が出張撮影したもので、写真の左下にマークとSHUFUNOTOMO SHASHINKANという押し印があり、台紙の右下にもローマ字と漢字で名前が印刷してあります。

資料その5

  
       (冨山隆氏所蔵)

 人数に応じた部屋に入り、丸テーブルに座ると、女中さんが資料その6(1)にあるような菜單、メニューを渡して、注文を受けたのでしょう。これも冨山さんが保存しておられるもので、ジンギスカンがないので、昭和6年以前の京蘇料理専門だったころ使われた菜單でしょう。縦16センチ、横11.5センチで、中国語の原名では、日本語では使わない漢字があるせいだと思われますが、手書きの原稿を写真に撮って製版してあります。上が表紙と裏表紙です。裏表紙に小さく「昭和三年二月開業」と入っています。開業広告と同じでしょう。
 その下の同(2)は裏表紙の裏とその見開きになっているページです。内容はその下に示した通りで、破線はページの変わり目を示します。書き出してある175種類もの注文が毎日、万遍なく注文されなかったと思いますが、一流店としてこれぐらいの料理はわけなく作りますという気持ちが感じられます。でも片仮名と平仮名とが入り交じっており、更にソップ、スープなど料理の名前が不統一で変ですね。原案は中国人のコックが書いたもので、そのメニューに富山さんが何度か上書きして直しているうちに、こんな菜單になっちゃったのでしょう。
 中華料理通はこれを見れば、どれが北京料理で、どれが江蘇料理なのかわかるのでしょうが、私はそこまではできません。食べ物随筆をたくさん書いた作家の小島政二郎でさえ「戦争前、日本橋の浜町で京蘇料理を看板に、うまい料理を食べさせてくれた浜の家の『京』は『南京』の京か『北京』の京か私は無学で分らないが、『蘇』は江蘇省か蘇州の『蘇』だろう。そうすると、ちゃんと上海料理という一派があるのかも知れない。そうなると、京蘇料理は確かにうまいと前説を翻さなければならない。(7)」と書いているのですから、ほとんどのお客は気にしていなかったと思います。
 食べたことのない料理を味見しようとする客は、一品ずつの値段が書いていないから、菜単を持ってきた女中さんにいちいち聞きがら、懐と相談で食べるものを決めたのでしょう。ジンギスカンが加わってからの菜単は、特別注文の1例だけ残っているのですが、一般向けのはありません。明朗会計で1品ずつ値段を示すように変えていたかも知れません。

資料その6
(1)
     
(2)
     
     (いずれも冨山隆氏所蔵)
(3)
   生粋
    京蘇料理菜単

      濱町 濱のや
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 燕窩(燕ノ巣)
一  清湯燕窩 燕巣ソップ煮
二  桂花燕窩 燕巣ト玉子ノ黄味煮
三  芙蓉燕窩 燕巣ノ玉子煮
四  鶏粥燕窩 燕巣ソップ鶏ノタゝキ煮
五  鶏片燕窩 燕巣ト鶏肉ノソップ煮
六  一品燕窩 燕巣トハムソップ煮
七  鶉蛋燕窩 燕巣ト鶏ノソツプ
八  蝦仁燕窩 燕巣ト蝦ノソップ

 銀耳(四川省ノ白茸)
九  清湯銀耳 白茸ノソップ煮
一○ 桂花銀耳 白茸ノ玉子黄味煮
一一 芙蓉銀耳 白茸ノ玉子煮
一二 鶏粥銀耳 白茸ノソップ  鶏ノコマカイ
               粥煮
一三 鶏絲銀耳 白茸ト鶏肉ソップ煮
一四 桜桃銀耳 白茸ト桜桃ノ実ソップ煮
一五 鶉蛋銀耳 白茸ト鶉ノ蛋ソップ
 魚翅(鱶ノヒレ)
一六 白汁扒翅 鱶ノヒレ素形ソップ煮
一七 紅焼扒翅 鱶ノヒレ素形醤油煮
一八 鶏粥扒翅 鱶ノヒレ鶏ノソップ煮粥
一九 蝦仁扒翅 鱶ノヒレ蝦ノソップ煮
二○ 紅焼魚翅 鱶ノヒレ醤油煮
二一 揚州魚翅 鱶ノヒレト五目スープ
二二 三絲魚翅 鱶ノヒレト鶏ノ醤油煮
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二三 芙蓉魚翅 鱶ノヒレト玉子煮
二四 桂花魚翅 鱶ノヒレト玉子ノ炒煮
二五 蟹粉魚翅 鱶ノヒレト蟹の醤油煮

 鴨
二六 掛炉全鴨 鴨ノ丸焼ヲ切リ味噌ヲツケテ召上ルモノ
二七 清燉全鴨 鴨ノ吸物
二八 紅焼全鴨 丸鴨ノ醤油煮
二九 八宝全鴨 丸鴨ハム野菜諸詰
三○ 荷花全鴨 鴨トハム煮
三一 紅焼塊鴨 鴨肉ノ骨付醤油煮
三二 冬桝S鴨 鴨ト椎茸煮

 鶏
三三 清燉全鶏 丸鶏ノすいもの
三四 掛炉全鶏 鶏ノ丸焼ヲ味噌ヲ付テ召上ルモノ
三五 紅焼全鶏 丸鶏ノ醤油煮
三六 八宝全鶏 丸鶏ニハム野菜ノ詰煮
三七 熘鶏丁  鶏肉ノ酢入煮
三八 炒鶏片  鶏肉ノ油いため煮
三九 紅焼塊鶏 鶏肉骨付煮モノ
四○ 炒鶏絲  細イ鶏肉ノ油いため煮
四一 鶏片湯  鶏肉ノすいもの
四二 吉力子鶏 鶏ノ股肉抜煮
四三 芙蓉鶏  鶏ト玉子煮
四四 炒鶏巻  五もく鶏肉デ巻キ煮
四五 茄莉鶏  鶏肉ノカレー煮
四六 炸八塊鶏 鶏肉ノ揚ゲモノ
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四七 熘鶏洛  鶏肉玉子黄味ト酢デ色々煮タモノ
四八 川鶏球  鶏肉タゝキトスープ
四九 炸鶏球  鶏肉ノ丸クシテ揚ゲタモノ
五○ 鐵扒鶏  鶏ヲパン粉ヲツケテ揚ゲタモノ

 猪肉(豚)
五一 東坡肉  豚肉皮付極軟煮
五二 掛炉全猪 丸豚ノ蒸焼
五三 焼拷方肉 豚肉ノ皮付蒸焼
五四 水晶蹄  腿肉ノスープ
五五 古滷肉  肉ノ酢入煮(スブタ)
五六 炒肉片  肉ノ油いため煮
五七 炒絲肉  細イ肉ノ油いため煮
五八 紅焼肉圓 肉ノ大団子
五九 炒桂花肉 肉ノ玉子煮
六○ 折焼   やきぶた

 蝦
六一 清炒蝦仁 蝦ト肉油いため煮
六二 青荳蝦仁 蝦ト青豆油いため煮
六三 翡翠蝦仁 蝦ト空豆油いため煮
六四 鶏粥蝦仁 蝦ト鶏ノスープ
六五 十景蝦仁 蝦ト野菜煮
六六 松菌蝦仁 蝦ト松茸煮
六七 施司蝦仁 蝦ヲパンニツケ揚ゲモノ
六八 炸蝦球  蝦ノ球揚煮
六九 煎蝦餅  蝦ノ餅形揚煮
七○ 荷苞餅  蝦トハム煮
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一二三 老蚌生珠 蛤ノ料理
一二四 紅焼水鶏 蛙ノ料理
一二五 炸鶏肚 鶏ノキモ揚モノ
一二六 炒鶏肚 鶏ノキモ煮
一二七 全家福 十種類ノ煮もの
一二八 蝦子荳腐 蝦ノ粉入豆腐
一二九 鍋焼白菜 白菜椎茸ノ煮モノ
一三〇 蘇白菜 白菜ノ油煮
一三一 炒松茸 松茸ノ煮もの
一三二 煎冬姑 茸ノ油いため煮
一三三 鑲冬姑 蝦と椎茸煮
一三四 鑲菜心 蝦ト野菜醤油煮
一三五 蝦仁菜心 蝦ト野菜白ク煮
一三六 支那ノ腸詰
一三七 四川竹蓀湯 四川省竹蓀ノすいもの
一三八 清燉魚肚 魚ノ浮袋料理
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 冷色
一三九 滷冬姑 椎茸ノ冷シタモノ
一四〇 拌焼鴨 黄瓜鴨すのもの
一四一 水晶鶏 くずかけ鳥
一四二 拌海哲皮 クラゲと黄瓜と鴨すのもの
一四三 拌鶏絲 鶏ノ細クシタモノ
一四四 泳凍鶏 鶏ノ煮モノ冷シタモノ
一四五 冷鮑魚 鮑ノスープ煮冷シタモノ
一四六 拌蝦仁 蝦ト木瓜トクラケすのもの
一四七 黄瓜拌蟹 黄瓜ト蟹ノスノモノ
一四八 松花彩蛋 黒い玉子
一四九 干切腿同 ハムノ足
一五〇 滷肫干 鳥ノキモ揚
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 点心ノ部(御菓子類)
一五一 八宝飯 餅米ノ菓子
一五二 荳炒饅頭 あん饅頭
一五三 百菓饅頭 果物入饅頭
一五四 水晶饅頭 油砂糖饅頭
一五五 豚肉饅頭 豚ノ肉饅頭
一五六 鶏肉饅頭 鶏ノ饅頭
一五七 蝦仁饅頭 蝦ノ饅頭
一五八 三鮮饅頭 蟹蝦饅頭
一五九 蟹粉饅頭 蟹ノ饅頭
一六○ ■<米の下が木という字>泥饅頭 ナツメ饅頭
一六一 十景饅頭 五もく饅頭
一六二 豚肉焼売 豚ノ焼売
一六三 鶏肉焼売 鶏ノ焼売
一六四 三鮮焼売 ハム、玉子焼売
一六五 蟹粉焼売 蟹ノ焼売
一六六 豚肉餃子 豚肉ノ餃子
一六七 海棠餃子 ハム野菜餃子
一六八 鳳尾餃子 鳥ノ形餃子
一六九 四喜餃子 椎茸ハム
         青豆玉子餃子
一七○ 木六餃子 木魚形餃子
一七一 水餃子  餃子の吸物
一七二 千層餅  肉ヲ包ミシモノ
一七三 百合酥  餅百合饅頭
一七四 伴府麺  ウドン類各種
一七五 蓮子糕  蓮実カステーフ
素菜料理(精進料理)お好みにより調理仕候
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 御献立は季節むきに
  常に調理法の進歩を
 心がけて居ります
 尚一層の御応援と御指導を
 御願申上ます

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御定食     雪  三円五十銭
(御一人前)  月  五円
        花  八円五十銭
        梅  十円
                  南北支那酒各種
正卓  四十円以上
(七人様より十人様位)

 出張料理 如何様にも御仕度致します
 出前 多少不拘御用承ります
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日本橋区浜町(日本橋倶楽部側)
 支那料理   濱のや
         電話 浪花十一番

       昭和三年二月開業

 何度見てもジンギスカン料理は、このメニューにはありませんよ。これは開店当時かごく初期のもので、濱の家は勿論、まだ東京でジンギスカンを食べさせる店が1軒もなかったのです。濱の家はこれらの料理を真面目に作り、サービスに努めた。やがて、うまい支那料理を食べさせる店と評判になり、常連ができた。久保田万太郎は短編「じんぎすかん料理」に「毎月十六日に、日本橋濱町の京蘇料理濱の家にあつまる十二三人の仲間をわれ/\はもつてゐる。(8)」と書いているくらい贔屓が増えたのですね。
 栄太郎さんは商売熱心な人で、鎌倉に避暑に来る人々をターゲットに昭和5年から鎌倉由比ヶ浜に夏の間だけ支店を出して営業したのです。資料その7はその鎌倉店開設の挨拶状です。御座敷やカウンターに積んでおけば、常連か来店したお客しか見られませんから、恐らく接待で濱の家を利用する会社などにも郵送したと思われます。
 また資料その4の絵は壺ですが、展覧会用の大型花器か甕の絵の中にMの家と書き入れた縦長広告は目下行方不明、そのうち出てきたら追加します。
 この鎌倉店があったことから、久保田たちは由比ヶ浜で初めてジンギスカンを食べることになり、濱の家はその鍋を借りて我が国で初めてジンギスカンを売り出し、ついには北京正陽楼の味を伝えるに至るという、まったく思いがけない展開になったのです。その意味で貴重な資料です。

資料その7

   
       (冨山隆氏所蔵)

濱町の『京蘇菜館 濱のや』は
  海風涼しい、 鎌倉へ進出しました。

お暑くなりました。盛夏の候になりましても支那料理は
依然として美味いものです。
この夏七八両月を鎌倉へ支店を開設致しました。
所は由井ケ濱電車停留所すぐ前で、海に近く、山に近く
手狭では御座いますがお立寄りをお待申上ます。
衛生に注意し、材料は精選致しまして毎日東京より。
御避暑地の御浴衣がけ気分にて貴様の御意に叶ふ御値段
に致しました。
鎌倉御在住の方々のお屋敷へは、お出前に、出張料理に
何れもお手軽に御用仰せ付下さいませ。

  昭和五年夏     日本橋区濱町
       京蘇菜館  濱のや
               電話浪花 十一番
                    二百六番
 御定食 壱圓五拾銭
  卓料理       由井ケ濱電停前
   御選食       鎌倉店
               電話鎌倉 一三〇七番

 昭和6年春、東京本郷1丁目で東京料理学校が開校しました。冨山さんが保存されているこの学校の要覧を見ますと、祖父の栄太郎さんとともに、日々料理に腕を揮った当時濱の家の料理長馮阿洪さんもこの新しい料理学校の支那料理講師を勤めたことがわかります。職員一覧と顔写真も付いていますので、資料その8(2)として紹介しましょう。
 講師は多士済々といえる顔触れですね。この道一筋の料理人は当然として、糧友会とも深い関係にあった一戸食物研究所長一戸伊勢子もいれば、変わったところで作家の円地文子、料理評論家の本山荻舟、「美味求眞」を書いた食通で、由比ヶ浜でのジンギスカン試食会では松葉燻しをやるよう濱の家に命じた木下謙次郎も名を連ねています。
 それどころか木下は教壇に立ち「『…西洋は料理の事をクツキングといつて……』若葉の初夏、開校したばかりの本郷の東京料理学校で前関東長官、前代議士木下謙次郎老はいゝ気持ちで初講義を続けてゐる、さきの長官も白い割ぽう服で先生振り満点、女生徒一同『この先生、感心ね』(9)」などと朝日新聞が冷やかしています。
 講師の顔写真は一部だけですが、3段組みの2段目、2人いる左が栄太郎さん、3段目の左から2人目が馮料理長です。プロの馮料理長がいたのに、初ジンギスカン決行では知恵を借りたような記述がない。この人が蘇州料理系の人で、北京のカオヤンローは詳しくないと知識も手を出さなかったと考えます。それで栄太郎さんは前もって木下謙次郎に作り方を教わりにいき、松葉燻しを命じられたのですね。
 支那通で聞こえた中野江漢は昭和6年春、濱の家に招かれ「富山君と二人て対酌した」とき、話がジンギスカンに及び始めるよう勧めたら榮太郎さん乗り気になった。「そりや面白いですなア、しかし場所がちよつと困る……」「原則としては野天でやらねばならぬが、三坪も空地があればよい。それが出来ねば部屋の中で、鋤焼代りにやればよい」といったような話をして別れた(10)と書いています。
 榮太郎さんは丸い眼鏡を掛けているから覚えやすい。北京正陽楼で本場のカオヤンローを食べている写真では、主人公としても出てきますよ。

資料その8

(1)
「東京料理学校要覧」

職員
一、学校長                 岡本正次郎
一、日本料理講師              赤堀旺宏
一、日本料理講師              宇多繁野
一、日本料理講師              宮澤ひさの
一、日本料理講師  元濱町常盤料理長    高橋寅松
一、日本料理講師  日本料理研究會師範   増成兵藏
一、茶懐石ニ関スル一切講師 千家裏流正教授 鈴木宗保
一、支那料理講師              赤堀旺宏
一、支那料理講師  横濱博雅亭主人     鮑博公
一、支那料理講師  濱町濱のや主人     富山榮太郎
一、支那料理講師  同料理長        馮阿洪
一、西洋料理講師  工學博士        櫻井省三
一、西洋料理講師  日本女大出身      上島岩子
一、西洋料理講師  コロンビヤ大学出身   田村光子
一、西洋料理講師  日本司厨士協同会々長
          銀座風月堂料理長    紫田十太郎
一、佛蘭西語科講師 工学博士        櫻井省三
一、生花科講師   松東流家元       江夏理榮
一、特別講義講師  前関東長官       木下謙次郎
一、特別講義講師  医学博士        田代信徳
一、特別講義講師  慶大医学部附属食養研究所長
          慶大教授医学博士    大森憲太
一、特別講義講師  帝大教授医学博士    二木謙三
一、特別講義講師  医学博士        小泉親彦
一、特別講義講師  東京美術学校教授    小林萬吾
一、特別講義講師              吉川淡水
一、特別講義講師              圓地文子
一、特別講義講師  コロンビヤ大學出身   ミス・アルフレダ・ケーリ
一、特別講義講師              本山荻舟
一、特別講演講師              一戸伊勢子
一、特別講義講師  明治神宮体育会総務
          帝大教授 医学博士   河本禎助
一、理事      法学士         山本敬衛
                        以上

(2)
   
        (いずれも冨山隆氏所蔵)

参考文献
上記の(7)の出典は小島政二郎著「小島政二郎全集」5巻207ページ、平成14年2月、日本図書センター=原本、 (8)は久保田万太郎著「久保田万太郎全集」11巻210ページ、「じんぎすかん料理」、昭和50年12月、中央公論社=原本、 (9)は昭和6年5月13日付朝日新聞11面=マイクロフィルム、(10)は食道楽社編「食道楽」5年10号2ページ、昭和6年10月、食道楽社=原本

 こうして昭和6年の夏になり、久保田たちは濱の家の鎌倉店のある由比ヶ浜にきて、借り物の鍋を掛け、松葉燻しをして、念願のジンギスカン料理を食べたのです。満腹、満足して鍋の繪などを残しました。このとき使った鍋は画家の中川三造が名古屋から持ってきた鍋であり、名古屋のだれかが中国から買ってきたものだったらしいのです。その鍋より先に中国からカオヤンローの鍋を国内に持ち込まれた例は、ごく僅かながらあったらしいのです。陸軍主計将校の丸本彰造は、大正年間に中国から鍋を買ってきて、主計担当者会議で味見をさせたと後年回顧しています。濱の家より後ですが、春秋園事件で知られる大井の春秋園の鍋一式も、広告の繪から推定して、やはり中国製とみられるのです。
 由比ヶ浜で使った鍋は、正陽楼からの鍋と形がかなり違うことを、資料その9とした4枚の色紙で、まず示します。これらの色紙は皆、冨山さんがお祖父さんの形見として保存しているものです。資料その9(1)と同(2)は作家の久米正雄が繪を描き、里見クが賛を書いたものです。その下の同(3)と同(4)は別の人が書いたもの。描き手によって違う鍋のような印象を受けますが、モデルは同じ鍋なのです。
 同(1)の鍋の向こうの人は眼鏡に鬚をはやしているから久米自身でしょう。墨が滲んでいますが「雪に食ふ 烤羊肉に 虫も声」と読めます。雪がちらつくころに食べるカオヤンローを、こんな暑い夜、食べる物好きがいるのに虫たちも驚きの声を上げているよと私は解釈しますが、俳人諸氏から違うとメールがきても、そこはそれ、虫の声とムシしますからね。はっはっは。
 ところで久保田万太郎の「じんぎすかん料理」に久米は登場しますが、里見は出てこないのです。里見の名前は4回出てくるけれども、そこに居たとは書かれていません。「もう一つ、里見さんからの知識によると、」と書いたところがありますが、里見が居合わせたら、こうこう講釈したがと書くでしょう。やはり久保田たちの1回目の試食会に里見は出ておらず、その後で久米と一緒に食べる機会があり、そのときに書いた色紙でしょう。
 いや、研究熱心な栄太郎さんが、正陽楼で食べたことのある里見を招いて批評を仰ごうとしたら、独りじゃ嫌だなんて我が儘をいい、久米と一緒に食べたことが考えられます。「成吉斯汗鍋満喫図」と「由比海濱 濱之屋にて 正雄写」は読めますが、右上が難問。里見の賛は「舌上貰天上之美」らしいが、前記の色紙の字からみると、縦長になっているので、天上と2字ではなく1字で昼かも知れない。崩し字用例辞典に似た字があります。道文書館の専門家に尋ねたら、もっとたくさん字を見ないと答えられないといわれましたが、昼が正解だとすると、昼飯時に呼ばれた可能性も考えられます。いずれにしても、久米は鍋しか描かず説明も「成吉扞鍋図」と成吉斯汗の斯が抜け、汗でなくて扞を書いたのは、高粱酒で酔って、汗と書いたつもりの誤字かも知れん。成吉汗なら沢山例があるからね。
 それからね、これは以前、スライドで見せた「文芸春秋」に濱の家が出した絵はがきみたいな広告の絵の部分だ。栄太郎さんが昭和6年11月15日に北京から文芸春秋社御中と出した手紙を宣伝文に仕立てて「2人で濱の家で飲んだときにでも頼まれて書いた色紙があったので、それを広告にはめ込んだのではないかと見たいですね。」と講義録に残っています。私の見立てが当たった証拠でもあります。

資料その9
(1)
         
(2)
         
(3)
         
(4)
         
          (いずれも冨山隆氏所蔵)

 資料その9(3)は「食道楽」の松崎天民に招待者の人選を依頼して開いたときの色紙です。「火食して 浜に出てたる すゝしさよ」の下に署名があるから本山荻舟の句でしょう。この「出」という字を「ど」かと思ってね、読めなかったのですが、札幌歴史懇話会のベテラン森勇二さんの講演会場にコピーを持って行って教えて頂きました。腹一杯「火 食して」鍋と焜炉から離れて浜辺に立つと、そよ風が涼しくて心地よいということですね。
 署名は右から本山、市来政直、水島爾保布、片桐千春、小針正治、安東鼎、永見徳太郎、松崎天民の8人ですね。「昭和六年七夕宵 鎌倉濱のや成吉思汗料理試食満腹」は署名から「食楽天民」の署名の書風から、松崎が書いたと見られます。以前の講義で松崎が「八月二十日の晩には、我社の肝入に依り」試食会を開いたと書いた資料を配りましたが、この日は旧暦の七夕でしたから、ここに七夕宵と書いたのです。
 鍋の絵は、右下と同じタッチであり、焼き面に残る肉片の散らばり描写なんか、とても素人とは思えないので、明治41年東京美術学校日本画科卒の水島爾保布が描いたものでしょう。となると、久米正雄の繪が下手で、焜炉がうまく描けていないとしても、違いすぎます。それで久米たちのときは初めての経験であり、木下謙次郎から松葉燻しを命じられていたので、濱の家では生松葉をどんどん炭火の上に乗せやすいように、周りががら空きの五徳のような台で鍋を持ち上げることにして、鍋みたいな焜炉は使わなかったと考えます。
 松崎のときは、何度目かで要領がわかっていますから、私が満蒙型と呼ぶ焼き面と鉄鍋そのものみたいな焜炉を使った。本来は乾燥した牛か羊の糞を燃やす鉄鍋そのものみたいな焜炉に炭火を起こし、最初ちょっと燻す程度に留めて焼かせたと思うのです。北京じゃ半焼けの炭なのでもうもうと煙が出るのですが、日本じゃそんな炭はありませんから備長にしましたなんてね、栄太郎さんが説明したかも知れません。久米の絵にしても、五徳のサイズが鍋とぴったりなので、五徳型と鍋型の2種類の焜炉が付いている鍋だったことも考えられますが、とにかく濱の家では正陽楼の鍋を買ってくるまで、この鍋によるジンギスカン料理を売り物にしたのです。
 後に濱の家の栄太郎さんは、初めてのジンギスカン料理の思い出などを「支那料理探味」と題して雑誌に書いたのです。その抜粋及び医師で食通の樫田十次郎と日本料理研究会を創設した新聞記者三宅孤軒の2人が由比ヶ浜試食会を書いたものが見付かったので、資料その10にまとめました。三宅の書いた中に「ミヂンに打つた『にんにく』が」とありますが、日本料理の方では切ることを打つというそうで、ここは微塵切りにしたということですね。
 三宅は全国同盟料理新聞社長で昭和5年、いまも続く日本料理研究会を創立した人です。その三宅とともに招かれた渋谷師範とは新発田市出身の日本料理の名匠で明治35年に東京料理職組合理事長になり、大正4年の大正天皇即位大典には宮内省大膳寮に招かれて祝賀料理を仕切りました。和製ケチャップ、モミジしょうゆ、卵のもとなどの調味料を発明者としして和食界では有名でした。橋本はよくわかりません。

資料その10

(1) 支那料理探味
      東京料理學校講師
      濱のや主人      富山榮太郎

   じんぎすかん料理

<略> 尤もこのじんぎすかん(・・・・・・)料理に就ては滑稽な話がございます。それは丁度今から四年前、昭和六年の夏でございました。支那にじんぎすかん(・・・・・・)料理と云ふ美味いものがあるから、何んとかしてあれを食はうぢやないかと云ふやうな話が出まして、丁度その當時羊の肉の料理で非常に御造詣の深い木下謙次郎先生や、和田三造先生、それから久米正雄先生、久保田万太郎先生、水上瀧太郎先生、岡田三郎助先生、寺木先生さう云ふやうな方々が何んとかしてやらう、鍋は俺の所にあると云ふやうなことで、和田さんの鍋を拝借して、鎌倉の由井ケ濱の手前共の店で豪快な氣分を大いにやらうぢやないかと云ふことになり、準備を整へてやりましたが、如何せん半燃えの薪がないので、その時は堅炭を使ひまして、その上に煙を出す爲に生松の葉をくべてやりました。すると煙は確かに出たのでありますが、風下に居つた久保田先生等は蚊いぶしに遭つたやうな形で、とても驚いたことがございました。そこで本場のじんぎすかん(・・・・・・)料理を知らないではと云ふので、その年の十一月丁度満洲事変の眞最中に北京の正陽楼へじんぎすかん(・・・・・・)料理を見に出かけました。その當時自分としては全く命がけでありました。何しろ十一月八日に北京に入りますと、直ぐ天津事変が起りましたので、これは料理研究も命がけとなつたものだと思つたのでございます。料理屋として料理を研究する上には、即ち金儲けばかりでなく、多少趣味を有つて、その時期を失はないやうにするには、相當の犠牲が要るのでございます。<略>

(2) 明治大正昭和食べある記 六
                樫田十次郎

<略>日本の御精進料理にも寒天などでお刺身に似せた物を造つたものがある様に、支那料理の御精進にも本物に似せたものがある。
 濱町に濱の家と云ふ支那料理屋がある。此處でも御精進のお料理を拵へて呉れるのに、或る時にはお芋で鯉の姿を持へて來た、あの支那料理に出す鯉のお料理そつくりな物を出された事がある。この濱の家では成吉斯汗料理と云ふのをやつておる。特別な室で、立つて片足を掛けて、羊の肉を鐵の鍋で焼く、鍋と云ふのが撃劒のお面の様な間のすいてる大きな鍋を裏返へしにした様な物の中に炭を焚き、肉を焼きながら食べる。炭のかはりに馬糞の乾いたのを使つたりする事が支那ではあるのだそうだ。寒い時には結構だ。
 夏、鎌倉の海岸で濱の家が店を開いてゐる時、成吉斯汗料理を御馳走するから來て呉れと云ふ事で、招待に応じて行つた。初めは浴衣と着換へて庭の眞中で食べたが、何しろ火がガン/\焚いてある囲で食べるのだから、とても暑くて終には素裸になつて食べた。まるで印度人が獲物をして來たのを酋長の所で御馳走になつた様な氣分がした。
 それにもつて來て蕃椒を卸した、朱と云はうか、生き血と云はうか、毒々しい様な赤い藥味を付けて食べる大蒜を微塵に切つたのを肉に付けて焼くそれを食べる。外からは火氣中からは高粱酒、汗だくで、大きな團扇を片手に食べた事がある。小さな肉を焼いても銀座の焼烏屋の匂でも分かる様に、それが大袈裟に、肉を庭で焼いて素裸で食べてるのだから、夕涼みに出た避暑客は濛々と揚る煙と匂で、嫌でも応でも其の近くを通る人はこつちを向く。そんな見られた事も知らないで其の日は東京に帰つたが、家へ帰ると大蒜の匂で臭い/\と嫌らはれるし、三日間程はさうしたのです。アセチリンの様な匂がしますよとやられる。一月位経つてもこの間は鎌倉で仲々勇敢にやつてましたねと批評された事がある。

(3)  成吉思汗料理
             三宅孤軒

 和田三造先生から道具を貰ひ西洋から羊の肉を取寄せ、木下謙次郎先生指揮の下に料理を作り、後藤朝太郎先生指定の箸をもつて、成吉思汗料理を差し上げたいと思ふから、八月十五日午後六時、鎌倉由比ヶ濱の支店までお越し下さい――と云ふ手紙を受取つた、差出人は濱町の京蘇料理濱の家の主人だ。
 濱の家氏は御承知の旅館から支那料理に転業した人で、支那料理店としては日が浅いが、若い熱心な人で、上海に出かけられ文人その他にも知己が多く夫れ等の意見をも容れて、著々業績を挙げてゐる小生辱知の一人。
 だが、一人では淋しいと思つてゐる矢先、渋谷師範と橋本会計が他の用事で來合せたので、無理にさそつて、由比ヶ濱の停留所際、濱の家支店で落ち合ふ事とした。この日は小生等の外に、濱の家氏の知己が三四人同席された。
 一と拘へ半もあらう鍋形の火鉢に炭火を澤山入れ、撃劔道具の『面』よりもモウ少し目に狭くして、丸くコンモリ高い鐵弓をのせたのが、この『成吉思汗』の唯一の道具で、それを庭のまん中へ据て、その廻りに椅子に腰をかけ、後藤先生指定と云ふ竹の二尺以上もあらう長い丸箸で、てんでんに渡された、羊の肉を焼きながら喰い、且つ飲み、たまには生葱をかぢるのだつた。羊の肉は満洲のゴマ油と、エビの油とで漬け込み、その上にミヂンに打つた『にんにく』がまぶしてあつた。
 焼くと妙な匂ひがする、喰ふと一寸ひりと舌をさすものがあつた。
 澁谷先生は肉をあがらぬので只見てゐられた、橋本君は『にんにく』が嫌なので余り箸を動かさなかつた。その光景と所感とをモツト詳しく述べるとよいのだが、幸、友人久保田万太郎君も此の料理を振舞はれ一人だと見えて、報知新聞紙上に例の麗筆で書てゐられるから、次号の本誌上に転載して、くわしくそして面白く世にも珍しい此の料理をお傳へしやう。

 資料その10にあるように三宅孤軒が報知新聞に連載された久保田万太郎の「じんぎすかん料理」を、どう料理して「日本料理研究会報」に掲載したのか知りたいところですが、いくら検索してもこの会報の1巻9号が見付からないので、それを紹介できませんが、商売熱心な榮太郎さんは、こうした大物板前や日本料理系のジャーナリストにもそつなく付き合いを求めたのですね。
 また栄太郎さんが昭和6年10月に支那に渡り、本場に負けない味にするため、北京の正陽楼を訪れて、名物のカオヤンローを食べ、什器などを買ってきたことは、前の講義で話しましたね。いうなれば、資料その11は、正陽楼で食べた証拠写真だ。「食道楽」に掲載されたこの写真の説明は「正陽楼の主人(左端)と成吉思汗を会食してゐる富山氏(中央)(11)」となっていますから、正面が栄太郎さんね。支那通として知られた中野江漢は昭和6年に「私は現主の孫晋卿君と懇意にして居るが(12)」と書いているので、左のお椀帽のおじさんが、その孫という経営者でしょう。右側の若い人はわかりません。栄太郎さんは大陸浪人だったそうですから、中国語は少しは話せたと思うのですが、正陽楼の鍋などをぜひ譲ってくれという難しそうな交渉のために雇った通訳かも知れません。
 私は正陽楼で食べた経験談は結構読んでいますが、こうして正陽楼の中庭で実際に焼いて食べている現場写真は、これが初めてでした。繪は里見クが書いた「満支一見」の正陽楼で初めて食べた話に付けた正宗得三郎の例の挿絵と、もう1枚スケッチを知っていますがね。
 正陽楼は昭和17年ごろ閉店していますから、日本に残る唯一の写真だろうと思っていたのですが、その後の調べや仲間のお力添えもあり、少し見付かりましたので、正陽楼の講義の方で見てもらいましょう。それらの写真が正陽楼だろうと推定する根拠は、この写真の背景になっている窓枠や壁の飾り木組みが、それらの写真に認められるからです。その意味で栄太郎さんのこの写真は、とても重要なのです。

資料その11

 
    (冨山隆氏も同じ写真を持っている)

 中野は「炉は圓形の火鉢の如く、其の上に撃剣の御面の形をした頑丈なる鐵網が冠せてある。これを『火叉子<ホオチヤーヅ>』といふ(13)」と書いていますが、これをみると、剣道の面ほど面高ではない。つまり面積は広いが、日本のジンギスカン鍋ほど中央が盛り上がっておらず、なだらかですね。お面の形とは、鉄網の縦横の鉄棒の組み方を指し、中心の縦棒1本に対して、それと直角に横棒がたくさん並ぶんですね。鉄網と洗面器のような炉との間隔がかなり離れていて、網は4本か5本の柱で支えているようです。
 この写真はJPGで圧縮されているため見えないけれど、原画ではカメラの真正面の鍋の縁に楕円形の金属製の輪があることがわかります。多分反対側にもあって、この2つの輪をつかんで鍋を持ち上げたと思われます。それと、簀の子みたいに鉄棒を並べる構造によって脂落としの隙間が直線になり、カメラに対して直角方向に並んでいることが認められます。
 また、焼いたり食べるのに各自、菜箸より長そうな箸を使っていますね。栄太郎さんのは見えないが、孫さんは左足、若い人は右足を踏み台に上げている。正宗さんの繪もそのように片足上げでで描いてます。中野は「臺の周囲には、長い木製の椅子を置き、これに片足をかけて食ふのが本式だと通人は言つて居る。それは式といふよりも寧しろ便利であるから斯く伝へられて居るのであらうと思ふ。(14)」と解説していますが、この国宝的写真からも右足とは限らないことがわかりますよね。
 なにしろ、正陽楼では半分炭化した薪で焼くのです。中野によると、柏の木の半焼け炭で「黒煙を巻いて盛んに燻る。この上に羊の油を時々掛ける。(15)」というから、食べるお客も相当燻されそう。その煙から逃げやすいから立ち食いは便利であり、皆そうするようになると、座る椅子は邪魔だから、店が引っ込めてしまったのでしょう。
 それからね、火叉子は民具の本や古い支那風俗の本を探しても載ってません。私が知る限りでは中野江漢の「成吉思汗料理の話」のほかに、火叉子の説明があるのは中村幸平著「日本料理語源集」だけです。吉田誠一は問題外。資料その12(1)は「日本料理語源集」のその箇所。これだと現物がありそうなので「1p程の金の棒を並べた型」の盛り上がりを拝見させてもらうことを思い付いた。
 というのは、この本の「編集後記」を書いた中村氏の孫に当たる原臣司氏で「祖父が他界してから早くも三年になりますが、念願であった『日本料理語源集』を、ようやく出版することができることとなりました。(16)」とあったからです。検索で原さんは中部地方のある大学の先生とわかったので、現物の有無をメールでお尋ねした。結論からいいますと、本を出版してから10年もたっていて手遅れだった。残念ながら中村さんが経営していた愛知県半田市の大きな料亭は、区画整理で取り壊された。道具類は親類が引き取って保存しているかも知れない。見つかったらお知らせする(17)旨の返事を頂いたけど、もはや忘却の彼方です。
 中村さんは火又子と書いているけど、火叉子が正しいらしい。資料その12(2)左上のフォークを見なさい。叉子にニクサシと振り仮名があります。これは明治14年に出た「洋食独案内」という本にある西洋料理の食器の説明なんです。福沢諭吉の「華英通語」など明治初期には、このように中国語の本の中身を借用して日本人向けに書き換えた本がある。だから日本語なら匙のはずなのに羮匙だし、茶碗は茶鍾。図では見えないが、皿は碟子、スープを運ぶ深皿は湯兜という具合ね。もう一言付け加えると、図ではForkにフオルクと振り仮名付きの4つに割れた叉子だけど、本文では三股を使い、ニクサシと仮名を振っています(18)
 明治19年に秋本房次郎が出した「西洋手軽絵入料理指南」も4つ又のニクサシの絵(19)が付いています。いつごろから3つ又のニクサシになったのかねえ。因みに「華英通語」のフォークは刀釵にミツマタ(20)と振り仮名で、やはり叉が入ってます。
 ちょっと脱線だが、この本の獣肉料理では綿羊に「らしやめん」と振り仮名を付けている。それから@芝某所に於ての献立A横浜東海鎮守府に於ての献立B延遼館に於ての献立―と西洋料理のメニュー3種も入っているが、どうみても秋山徳蔵のメニューカードコレクションにありそうな宮中献立だ。これを調べたレポートを歓迎します。
 はい、本題に戻してと、正陽楼独特と思われる火叉子と呼び名は、うんと昔こうしたフォークみたいな鉄串で羊肉を刺して焼かせていた名残ではないか。店が繁盛するに及んで、客の廻転を早めるために肉片を並べさえすれば、次々焼いて食べられるお面型鉄網を取り入れたけれど、名前はそのまま残った。あ、これは私の仮説であって、中国の本にそう書いてあるなんてオーソライズされたもんじゃありませんからね。

資料その12

(1)ジンギスカンなべ(成吉思汗鍋)

 この料理は成吉思汗が陣中で羊を屠し、軍刀で切り火に祭って焼いて食べたのに始まったといわれこの名があります。然し鍋というより焼くというのが適当かも知れません。私は、蒙古から送っていただいた火又子があり、彼地での味付、焼き方などこまごまと教わっております。鍋は身と蓋と二枚になっており、下の方がすこし大きく底に小さな穴が三ヶ所あけてあります。穴の小さいのは火力が強くならないためです。先方ではこれに桐の炭をおこし、牛糞をのせて火のたつのを押え、その上に蓋をのせますが、この蓋になるものは山形に1p程の金の棒を並べた型になっております。この上で焼くわけです。<料理法略>

(2)
  

参考文献
 上記の資料その10(1)の出典は日本栄養連盟会編「栄養の日本」4巻10号70ページ、昭和10年10月、日本栄養連盟会=原本、 同(2)は星岡窯研究所編「星岡」85号33ページ、昭和12年12月、星岡窯研究所=原本、 同(3)は日本料理研究会編「日本料理研究会報」1巻8号30ページ、昭和5年8月、日本料理研究会=原本、 (11)と資料その11は食道楽社編「食道楽」6年1号ページ番号なし、昭和7年1月、食道楽社=原本、 (12)、(13)、(14)、(15)は同5年10号2ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」、昭和6年10月、食道楽社=原本、 資料その12(1)は中村幸平著「日本料理語源集」343ページ、平成2年7月、光琳社出版=原本、 (16)は同「編集後記」806ページ、同、 (17)は平成18年2月16日受信の原臣司氏のメールによる、 同(2)はリュシー・スチーブン述、篠野乙次郎編「洋食独案内」ページ番号なし、明治19年11月、金玉堂=館内限定近デジ本、 (18)は同ページ番号なし、同、 (19)秋本房次郎編「西洋手軽絵入料理指南」口絵、2ページ、明治19年8月、秩山堂出版=国会図書館インターネット本、 (20)は福沢諭吉著「福沢全集」巻一70ページ、「華英通語」より、明治19年11月、時事新報社=近デジ本

 資料その11に使った写真は冨山家に残る本物で「食道楽」の写真ではわからなかった写真館のサインが右下にあった。「A.Yamamoto./Peking,China./山本照像館」と3行ね。早稲田大写真データベースに「北京山本讃七郎写真館製」の第10代粛親王の写真(21)がありますから、同じ写真館の撮影でしょう。夜撮った写真であり、ストロボなんかありませんでしたから、マグネシウムの粉をボッと焚いてね、肉の煙よりすごい煙が立ったはずです。
 余談ですが、この山本写真館は大同石仏なども撮影しており、大正9年に木下杢太郎がその写真を買ったと書いています。それから昭和5年に斎藤茂吉が写真を買いに行き、館主の讃七郎氏に聞いた話らしいのですが「明治三十年此處に来て開業したさうであるから、日清戦争間もなくであつた。その頃は支那人の写眞館が無かつたので支那の大官等は皆此處に來て撮影したさうであるが、今は支那人の写眞館が出來、日本人よりも手まめに勉強するので圧倒されがちになり、特に近頃は排日思想がかういふ照像館などにも影響するやうになつたので、近々日本に帰られるさうである。機械も何も片付けてしまつてがらんとしてゐた。(22)」というのです。でも、こうして翌6年の写真があるのですから、考え直して営業を続けたのでしょう。はい、資料その13の写真に移ります。
 「文芸春秋」昭和7年1月号に、栄太郎さんが「私は<略>雷名天下に轟く正陽楼から愛用中の什器を譲うけ、北京の本場と同じ成吉思汗鍋の情緒を『濱のや』に写し、お歴々の御高覧に供えたいと<略>海路日本へ積出すことにしました。(23)」という広告を出しています。それで私は什器とご本人がいっているのだし、いくら正陽楼が老舗でもスペアの鍋をいくつもないからと断られ、皿や鉢の類だけ買ってきて、鍋は由比ヶ浜以来のもので営業していたと考えていたのですが、資料その13にした冨山さん提供の写真を見てね、私はホチャツもかーと仰天した。本当だよ。
 栄太郎さんは正真正銘の正陽楼の鍋と焜炉一式を買ってきていたのです。どう口説いて、いかほど払ったは全く不明ですが、元は取れる、商売になるという確乎たる信念があったと思います。資料その11の鍋と見比べなさい。夜、ストロボを使わずシャッターを切ったら、こう写るだろうという形であることは間違いない。加えて付け汁の味を覚えてきて再現を図ったのですから「北京正陽楼 じんぎすかん料理」の濱の家という宣伝に偽りなしと胸を張っていえたでしょう。

資料その13

   
          (冨山隆氏所蔵)

 資料その13は富山一家が椅子に座って鍋を賞味しているところで、左端が栄太郎さんで、正陽楼の写真と比べるとかなりでっぷりしています。正面が富山夫人だそうです。左下隅に何か写っているので、虫眼鏡でよくみたら半円の旭日マークを囲んで「THE ASAHI GRAPH」とありました。どうやら、資料その2に浴衣姿の女の子の写真と同時に撮影されたもののようです。こうなれば昭和8年前後の「アサヒグラフ」を全冊調べると「北京の味を伝える濱の家のジンギスカン料理」というような組み写真と記事がありそうだ。だれか探索レポートを書く人はいないかな、歓迎かつ評価します。
 それからですね、この写真は鍋とカメラが近く、右端の人の箸がカメラに対して直角かつ水平に近いので、原画におけるこの箸の長さが5センチあるので、実物は長さ30センチと仮定して諸元を推測すると、鍋の直径は9センチはあるので54センチ前後、底から鍋の縁までの高さは6センチなので36センチ前後、炉の縁と鍋との間隔は2センチなので12センチ前後となります。
 もし正陽楼の火叉子を日本に持ってきても、家庭にある七輪では縁が完全にはみ出しますね。鍋のどこでも肉が焼けるようにするためには、鍋のサイズに合った焜炉がいります。本場と同じジンギスカン料理を味わうには、やはり本場と同じ鍋と焜炉で焼かねばならんと考えた榮太郎さんは勇敢にも実行し、濱の家の定番料理に育て上げたのです。
 この本場物の鍋を観察した料理通の野間五造は昭和11年、日本料理研究会に招かれ「料理形式の種別」と題する講演の中で資料その14のような話をしました。網で捕まえる鴨猟の鴨の焼き肉は正陽楼と同じように立って食べるという話が面白いので、少し長めに引用しました。

資料その14

<略>次に『成吉斯汗料理』でございますが、濱町の濱の屋に行きますと、此料理があります。恰度鳥籠のやうになつて居る鐵網の上に肉をのせて焼くのですが、あれで焼いて居ると脂が火中に落ちて、それが燃えて臭いのです。實を言へば鳥籠のやうなものでなしに、金の鍋でやれば宜さゝうに思ふのですが、これに就て一つ面白い話があります。元来に於て支那には鋼鉄材料が乏しいのです。往く所最下級の鍋鉄しかない。所が鍋鉄でやつたのでは肉の身が鍋の底にくつ附いてしまひます。それで仕方がないので成吉斯汗料理のやうに金網にしたのでございます。金網にすれば肉がくつ附かないで焼ける。少くとも附く場面が少くてすむ、所が若し肉がくつ附かないで焼けるならば、何もあんな金網にして焼く必要はない訳です。例證は手近にある即ち鴨池の料理を見れば直ぐ判る鴨猟の野立鍋を見るが宜しい。御承知の通り其鍋の形は恰度私共の穿いて居る草履位の大きさのものですが、それを火に掛け、その上で鴨肉を焼いて食べるのですが、これは如何なる公貴の方も立つたまゝ野立で召上がるので有ります。毎年二三度宛は鴨池猟で大使公使等を招く鴨料理があると聞いて居ります。私も嘗て深川の洲崎にあつた前田侯の鴨池には参つたことがありますが、其時の鍋は草履型の鐵の板を火の上に掛けて、鴨の切身の肉に醤油をつけて、さうして火のやうになつた鉄即ち鴨鍋の板の上に載せてじゆん/\と焼きながら食ふのです。これは公貴の方でも召上るので昔時徳川時代には鴨池へ将軍の御成が屡あり如何なる公方様でも矢張り野天に立つて、火のやうになつた鐵鍋に鴨の生肉をのせて、じゆん/\と焼きなから食ふのです。鴨池の時には如何な公貴な方も御自分で焼いて自分で食べるのです。<略>(昭和十一年十一月廿五日於濱町醍醐例會)

 濱の家によく通った支那通の後藤朝太郎は著書「支那民俗の展望」の「鎮江の酔蟹」で、生きた蟹を熱湯に放り込んで茹でるので残酷さを感じるが「これに比べると北平正陽楼外のカオヤンロウ(烤羊肉)日本人のいふ成吉斯汗料理などの料理は何でもない可愛相といふ氣持ちは少しも伴はない。野趣は漲つてゐるが、日本人には食べ易い。日本では東京濱のやの楼上に設けられたものがある。濱のやのそれは北平の本場そのまゝの道具がすべて一切將來されてゐる。居ながらにして誰れ人も成吉斯汗に接せらるゝ處が懐かしい。(24)」と脱線して、濱の家をヨイショしてますよ。後藤は110冊に及ぶ中国の紹介書を出版、中国人民に同情し、軍部への反発を貫いた。昭和20年終戦直前、右翼に暗殺された(25)と「20世紀日本人名事典」にあります。
 一方、中野は北京にいたときから、東京のしかるべき経営者にジンギスカン料理店の開業を勧めていたといい「支那に於ける原始的料理として著名なる所謂『成吉思汗料理』を最初に日本に伝へた、濱のや主人富山栄太郎君は、この点に於て支那料理界に一つの功績を遺したわけである。(26)」と褒めちぎりました。
 資料その15は書家としても知られた外務省職員、清水董三が描いた色紙です。「野趣雅致闘志/東?於濱家」で、手前の男の箸がわかるよう鍋と焜炉のを白く残したり、踏み台に上げた足の曲げようなど、てっきり落款の東翠は画家とみて検索したのですが、わかりませんでした。
 それから14年たった今、コロナ大流行で止むなく籠もって犬棒の最中に、これを思い出した。画家でなく書家ならどうかと検索したら大当たり。ヤクオフなどに清水東翠の掛け軸や絵が出ており、読めなかった1字は、清水の癖か東の字の倍も長い翠でした。
 清水は昭和22年4月の極東軍事裁判所に証人として呼ばれ、昭和11年の川越大使と蒋介石会談、昭和14年6月に命令で帰国して平沼首相、板垣陸相ら諸大臣と汪精衛との中華民国の新政府樹立会談の通訳をしたときの会談内容を証言(27)しました。
 清水は新政府問題の通訳を務めた後、南京にあった日本大使館に戻り、敗戦まで書記官として勤務(28)しました。だから濱の家で食べたのは、この帰国のときであり、即席で描いたか、裏を返したかわかりませんが、昭和14年の作品ですね。

資料その15

    

          (冨山隆氏所蔵)

 それから濱の家がジンギスカンをメニューに取り入れてから、つまり昭和6年以降、注文によってはジンギスカンと京蘇料理を組み合わせた席を設けたようです。スライドで1例を見せますが、こうした葉書大の菜単が残されているからいえるのですが、熊掌、冬虫夏草などという珍品を取り込んだ豪華メニューですね。
 抜絲平果の抜という字は原本と1画違いますが、中華料理に詳しい研究者によれば、これでいいそうです。揚げたてのリンゴにですよ、さわると火傷するぐらい熱い飴がからまっていて、箸で持ち上げると糸を引くので抜糸。それを氷水に潜らせ、冷やして食べる。中は熱くて、表面は飴が固まってカリッとね。飴は焦げやすいけど熱くないと糸を引かないので難しく、そこが料理人の腕の見せ所なんだそうです。
 初めは木下家の注文で組んだ菜単なのですが、支那料理通らしい木下家とは、案外「美味求眞」の筆者木下謙次郎一家だったかも知れません。栄太郎さんは、これを保存して置き、うまくて珍しいものといった注文があったときの切り札献立にしていたんじゃないかなあ。
 左側に政友会鈴木総裁用とあるのは、昭和7年から同12年まで立憲政友会総裁だった鈴木喜三郎でしょう。秘書からでも申込みを受けたとき、この菜単を参考にして相談に応じたことがあったのでしょう。



          (冨山隆氏所蔵)

菜單

 冷葷
 (じんぎすかん料理)
  紅焼扒翅
  龍鳳腿
  熊掌
  釀魚肚
  山葯泥
  冬虫夏草
  紅焼鹿筋
  掛炉鴨子
  醋熘鯉魚
  抜絲平果
  三鮮冬瓜種

昭和八年二月十日
    木下家 御晩餐

      濱町
     京蘇菜館 濱のや謹択
         電話浪花一〇番
             一一番

参考文献
 上記(21)の出典はhttp://
database.littera.waseda.ac.jp/
shashin/index.html?PHPSESS
ID=6da88a39c17a049996c0c
27974638ac9、 (22)は斎藤茂吉著「齋藤茂吉全集」11巻516ページ、昭和28年7月、岩波書店=原本、 (23)は文芸春秋社編「文芸春秋」10巻1号319ページ、昭和7年1月、文芸春秋社=原本、 資料その13は冨山隆氏所蔵写真、推定「アサヒグラフ」カメラマン撮影、撮影年月不明、 資料その14は日本料理研究会編「日本料理研究会報」7巻1号6ページ、昭和12年1月、日本料理研究会=原本、 (243)は後藤朝太郎著「支那民俗の展望」88ページ、昭和14年9月、冨山房=国会図書館インターネット本、 (254)は内外アソシエーツ編「20世紀日本人名事典 あ〜せ」1022ページ、平成16年7月、内外アソシエーツ=原本、 (265)は食道楽社編「食道楽」5年10号2ページ、中野江漢「成吉思汗料理の話」、昭和6年10月、食道楽社=原本、 (27)は清水董三述「極東国際軍事裁判所・法廷証第2585号 宣誓供述書」2ページ、昭和22年4月=国会図書館インターネット本、 (28)内閣印刷局編「職員録 昭和17年7月1日現在」24ページ、昭和17年9月、内閣印刷局発行課=同上、 資料その15は清水董三画「色紙」、制作年月不明、冨山隆氏所蔵、

 濱の家の回転テーブル導入時期は、松崎天民が昭和6年に書いた「東京食べある記」に「上の圓形の卓をグル/\廻せば、食品を入れた器が、順々に自席の前に来るやうな仕掛が、便利であり面白かつた。(29)」などと書いていることを根拠に、昭和6年11月開業の目黒雅叙園より早いだろうと、以前の講義で話しました。今回冨山さんから提供された写真の中に、この濱の家の回転テーブルがよくわかる1枚があったのは、この変わった形のテープルが生まれた時期を考える上で幸運でした。
 それからもう1人、料理研究家の本山荻舟が、雑誌「味の味」を出していた寺下辰夫との対談で「グルグル廻る卓は日本で発明した。これを用いたのは浜町の支那料理屋の富山なにがし(栄太郎?)で、昭和六年か七年のことです。」と語っています。これに対して寺下は「それが日本から満洲へ逆輸入された。」(30)と応じたことが「味の遍歴」という本に載ってますよ。
 現在では、昭和7年に東京の目黒雅叙園がこの回転テーブル第1号を作り、使い始めたというのが定説になっています。その根拠は長い間、雅叙園側の宣伝資料のほかに知られていませんでしたが、平成16年、武蔵大学の西沢治彦教授が「中国料理店の回転テーブル 目黒雅叙園に残る第一号回転テーブルについて」と題する調査報告を発表されています。残念ながら私が講義録のこうした公開を始めて間もないころであり、濱の家の講義は間に合わなかったようで残念。
 西沢さんがこの調査に当たり、参考にした当時のグルメ本は白木正光編「大東京うまいもの食べ歩る記・昭和八年版」だけです。でも白木本は「更に近頃は、芝浦、目黒の雅叙園、下谷(根津近く)の緑風莊、大井の春秋園等の大規模な支那料理店が時代の寵児になつて盛んに話題に上つているが、これはむしろ宴会場として相応しく、割合安く宴会も出来る。(31)」と雅叙園は名前だけ、自慢の回転テーブル紹介もあらばこそ、無視です。この本はジンギスカンで売った濱の家も取り上げていることは以前話しましたが、もう回転テーブルは珍しくなかったのか、何も書いていません。その改訂版で昭和10年に出た安井笛二編「大東京うまいもの食べある記」も同様です。
 西沢報告によると、雅叙園の螺鈿細工が施された第1号テーブルのサイズは直径1.8メートルあり10人は楽に座れる。畳から円卓までの高さは65センチ、円卓から回転テーブルの表面までは15センチ。「回転する金軸を製作したのが、当時出入りしていた金物商の原安太郎氏」で「パイプを組み合わせた座軸を試作して細川氏に提出し、その方式が採用されたという。(32)」とあります。
 西沢さんが、宝物になっているその第1号回転テーブルで、実際に食事をしてみると予想以上に回転テーブルの位置が高く、自分で回して取り分けるには、腰を浮かせながら取ることになり、不便なことがわかったそうです。
 西沢さんの疑問に対して雅叙園側は、昔から同園では仲居さんの数が多く、中国料理は基本的に仲居さんが取り分けサービスをしていた。仲居とは、いまのウエートレスね。その仲居さんが運んできた料理を下座から回転テーブルに乗せ、回しながら客に見せてから小皿に取り分けた。だから回転テーブルは客の目線に近い位置にあるのだと説明した(33)そうです。
 となると「テーブルの大皿料理を他人同士で取り分ける際、互いに気遣い、腰を上げたり、席を立ったりしなければならなかったお客様の様子を見た創業者細川力蔵は、『人が動くのではなく、料理(テーブル)が動いたら?』と考え」「昭和7年に製作されたものが回転テーブルの第1号(34)」という説明が怪しくなることを認めながらも、西沢さんは従業員の負担軽減も考えて「時代によって使われ方が変化した可能性もある。(35)」と、高さの説明を受けて入れています。
 問題は雅叙園がいつ製作したか―です。西沢さんは雅叙園提供の資料とテレビ関係者の取材をまとめた「回転テーブル考案の経緯と第一号」という章で、製作年月は「開業間もない昭和七年、建物の建築を任せていた棟梁の酒井久五郎氏に依頼して制作させたのが第一号である(芝浦雅叙園時代に考案し、目黒雅叙園の開業にあわせて制作した、との話もある)。(36)」という書き方をしているのです。
 そういいながらも「實は綿密な考証がなされてきた訳ではないようである。一方で、昭和六〜八年当時、日比谷の中国料理店『山水楼』でも円卓と回転テーブルが使われていたという証言もある。(37)」と雅叙園より早い使用例をほのめかしています。西沢さんは自著「中国食事文化の研究 食をめぐる家族と社会の歴史人類学」でも、この証言を繰り返していますが、誰のいつごろの話と明記していません。
 それでね、差し出がましくも私が昭和8年の「婦人倶楽部」の附録「簡単に出来る家庭向支那料理三百種」で見つけた写真を資料その16で見せましょう。これはその中の「支那食卓作法」という写真ページでね、山水楼主人の宮田武義氏が頂き方を指導しています。
 32枚まで普通のテーブルで椅子に座って食べている写真だが、33枚目だけ和室で回転テーブルを囲み、宮田氏らしい中年男性が3人の婦人に何か説明しています。スキャナーでコピーしたら、なぜかこんな色になっちゃったが、元々は青色で印刷されています。(1)がその48ページ全体、下の(2)が回転テーブルの足のクローズアップね。

資料その16
(1)
          
(2)
     

 男性の右手が上のテーブルの端にかかっているから、案外、こう風に回してと説明しているとこだったりしてね。黒いテーブルは濱の家のようにテーブルクロスは掛けておらず、男性の右手の下に、テーブルの回転軸を支える3本ないしは4本の足の端と思われる台車みたいな物が見えるでしょ。濱の家より導入が早かったか遅かったかはわかりませんが、山水楼にも回転テーブルがあったという証拠です。ここまでやると、しつこかったかなあ。はっはっは。
 西沢報告からいえることは、だれか関係者の話の通り目黒雅叙園開業に合わせて製作させたのなら昭和6年11月、開業間もない昭和7年製作と2つの製作年月があることになります。
 現物の写真を見たい人は「雅叙園」で検索し「目黒雅叙園を知る」を開いて見なさい。いずれサイトは書き換えられると思うが、雅叙園が「中国料理店の回転テーブルは、目黒雅叙園創業者の発案によるもの」で「昭和7年に製作されたものが回転テーブルの第1号(38)」だと誇りにしている限り、画像は残り公開されると思いますね。
  

参考文献
 上記の(29)の出典は近藤裕子編「グルメ案内記」49ページ、松崎天民「東京食べある記」、平成17年11月、ゆにま書房=原本、 (30)は寺下辰夫・本山荻舟著「美味の遍歴」37ページ、昭和34年5月、鋼書房=館内限定近デジ本、 (31)は白木正光編「大東京うまいもの食べ歩る記・昭和八年版」351ページ、昭和8年4月、丸之内出版社=原本、 (32)、(33)、(35)、(36)と(37)は味の素文化センチー編「Vesta」56号60ページ、西沢治彦「中国料理店の回転テーブル 目黒雅叙園に残る第一号回転テーブルについて」、平成16年10月、味の素食の文化センター=原本、 (34)と(38)はhttp://www.meguro
gajoen.co.jp/introduction
/about.html 回転テーブル「玉城の間」解説、 資料その16(1)、同(2)とも大日本雄弁会講談社編「婦人倶楽部」14巻11号附録「簡単に出来る家庭向支那料理三百種」48ページ、昭和8年11月、大日本雄弁会講談社=原本、


 では濱の家のテーブルを紹介しましょう。昭和6年1月に出た松崎の「食べある記」に、濱の家の回転テーブルが書かれているし「食道楽」昭和6年4月号の「本誌広告辞典」にある濱の家の項で「殊に圓テーブルの回転式はこの店独特の新工夫で、断然モダンである。(3936)」と書いてあるので、濱の家が雅叙園より先に使っていたことは確かです。
 なにかと「文芸春秋」をお手本にしていた「食道楽」は、やはり料理店などを借りて座談会を開き、その速記内容を毎号載せてました。その座談会で濱の家の一室が使われ、回転テーブルが写っている1例が昭和4年10月号の「長寿延命若返り」。それが資料その17(1)です。左端の黒いサングラスを掛けた人物が「食道楽」編集長で司会の松崎天民です。テーブルの手前に生け花らしいものが邪魔になって、黒い回転テーブルの輪郭がはっきり見えませんが、濱の家ではもう昭和4年に使っていたと考えられます。
 昭和5年1月号の「漫画人は語る」では、同じような写真のほか、漫画家らしい色紙が付いているので同(2)としました。円卓にはテーブルクロスを掛け、鯉にしては幅がありすぎるが、唐揚げの皿を置いた下の円卓と、その上で回転する円卓と2つに描かれているでしょう。「東海第一京蘇美味」という賛がありますが、榮太郎さんはこの褒め言葉が気に入ったようで、この賛をもじって「東海随一京蘇美味」とした広告を何度か「食道楽」に出稿しています。

資料その17

(1)
  
(2)
      

 資料その17みたいな座談会の写真と色紙では、サイズがまるでわかりません。その点、次の資料その18(1)で見られる冨山さん提供の写真は、主婦之友写真館のスタッフが待合室などと同じ日に撮影したようで、鮮明であり撮影角度もよろしい。ただしレンズがかなりの広角らしく、テーブルクロスの皺からすると、回転部は真ん中ではなく、少し奥に引っ込んでいるように見えますね。テーブルも手前が広くて最大幅の位置に線を引いたとすると、回転部の前縁と重なりそうです。
 こういうきついゆがみを念頭に置いて検討すると、部屋の正面はカメラと正対した床の間で、2間幅は明かだから12尺、30.3×12イコール363センチ、テーブルと壁の間は座布団1枚ぐらいだから、大判60センチ四方として両側で120センチ、その後ろを通れるよう20センチあけるとすれば両側で180センチね。これを363から引けば183センチ。尺貫法では6尺1寸だから、切りのよい6尺、テーブルの最大直径は180センチと推定しました。また回転部は固定卓の半分ぐらいに見えるので、直径は3尺、90センチと仮定すると、下のテーブルでは端から45センチになります。
 雅叙園のホームページの写真を拡大してテーブルの最大幅を物差しで計ると下24センチ、上13センチにあります。この数値はモニターのサイズなどで異なるでしょうが、比率は変わらない。西沢さんの実測図では下180センチ、上100センチだから、同比率で下を24センチとすると上は13.3センチとなり、写真からの推定値としては悪くないと私は考えます。
 同じように濱の家は下180センチ、上90センチという比率を仮定します。そして写真を計ると下が8.5センチあるので、上を計算すると4.25センチとなり、実際に4センチありますから、そう狂いはない。つまり回転テーブルの直径は濱の家の方が10センチぐらい小さかったらしいのですね。
 でも、床から下のテーブル表面までの高さが違うのです。雅叙園の下のテーブルは厚み5センチもあるため70センチとなるのに対して、濱の家はテーブルクロスが掛かっていてよくわからないけれど、せいぜい50センチぐらいでしょう。

資料その18

(1)
 

(2)
   
          (冨山隆氏所蔵)

 西沢報告には「清方の間に置かれた円卓と回転テーブル」と「昭和十四年当時の宴会場に置かれた円卓と回転テーブル」という2枚の写真が添付されていますが、どちらも第1号とは形が違うように見えます。「清方の間」の方は、オークションに出品される絵葉書を見ると、回転テーブルの位置がかなり高く、しかも回転軸は真ん中でなくて、端に寄っているように見えます。また「宴会場」の方は絵葉書ではないようですが、下のテーブルがかなり低く、畳との隙間は座布団2枚ぐらいに見えるくらい低いのです。
 それで私は第1号は回転テーブルの高さと、座布団を敷いて座るとちょうどよい高さを知るための試作品だったという仮説を考えたのです。だから回転テーブルの高さを変る装置を隠す意味もあり、足がなくて箱に乗せた形をしているのだろう。第1号を使って最適の高さを求め、それに基づいて宴会場用の回転テーブルを揃えたので、第1号は形が異なると説明が付きます。
 ウィキペディアによれば、大正6年の「バニティフェア」というアメリカの雑誌に「回転サーバー又はレージースーザン」という広告があるそうですが、何月号掲載で、これだとその広告を示してはいません。仮に濱の家主人がその広告を見たとすれば、濱の家の開店は昭和3年なのですから、似たテーブルを作らせる時間は十分あります。
 私としては濱の家が極早い時期、少なくとも雅叙園より先に回転テーブルを使っていたと自信をもっていえますが、それは富山栄太郎が考案したからだとは言い切れない。「バニティフェア」の広告を確かめるなど、今後の課題とするしかありません。
 それからね「食道楽」で濱の家の回転テーブルの写真を見るたびに、テーブルクロスの作りが、どうなっているのか不思議だった。真ん中まで下のテーブルの半径と同じ長さの切れ目のある丸い特製テーブルクロスか、回転テーブルの軸を通すため真ん中に穴を開けた布で、上のテーブルを外して取り替えていたと考えていたのですがね。回転テーブルの写真を拡大して見て、やっと謎が解けたのです。
 回転テーブルは、丸い大型テーブルに普通のテーブルクロスを敷き、その上に乗せる構造だったのです。コロンブスの卵、私の考えすぎだった。これなら、いつでも丸テーブルを回転テーブルに変えられるし、その逆もあっさり簡単。濱の家はこの着脱可能の回転部をたくさん用意しておけば、それが出払うまで、はいお客様、どうぞこちらへと、回転テーブルのある部屋へ案内できたのです。
 資料その18(1)の部分を拡大した同(2)でわかるように、回転テーブルの下に十文字と思われる足があり、その足の交差部に軸受けがあり、金属製と思うのですが、上の小さいテーブルに乗せられた料理などの全重量を支える軸が嵌っていたのでしょう。足は回転テーブルの端からはみ出しかねないくらい長く、恐らく半径と同じく1尺5寸、45センチ近いようで、回転テーブルに手でも着かない限り、厚くて艶々した天板が傾くことはなかったでしょう。
 濱の家の料理を乗せた回転テーブルを見下ろしたのに近いと思われる写真がありますからスライドで見せましょう。これは昭和8年の「主婦之友」の附録「お客料理の作方」にあった着色カラー写真ですが、右下に「家庭向支那料理の客膳/濱のや主人 富山栄太郎」と見えるでしょう。
 下のテーブルの端まで見えないので、銀色容器を真ん中にして斜めに回転板の幅が4センチずつになるように定規を当てると、下のテーブルの幅が2センチになるので、回転と固定の2つのテーブルの直径の比率は2対3ぐらいだったようです。醋溜鯉魚という鯉の丸揚げの大皿が重そうですが、反対側にある料理がカウンターバランスになり、そうぐらつくことはないのでしょう。


  

 もう一つ、雅叙園第1号説は怪しいという証拠を示しましょう。「大石式和式洋式開化食卓」という商品が昭和6年の夏、少なくとも銀座の松坂屋で売られていたことを示す広告があるのです。私は雑誌「imago」の平成7年7月号に副島博彦氏が書いた「モダン日本の食ジャーナリズム 『食道楽』と松崎天民」で「食道楽」の広告例として掲載されたので知りましたね。それで濱の家の玄関写真のコピー撮り直しに日大国際関係学部図書館に行ったとき合わせて「食道楽」の昭和6年8月号の原本からコピーさせてもらいました。合本になっていたので、ガラス面に密着させられず、きれいに写りませんでしたが、開化食卓が回転テーブルを備えていたことはわかるでしょう。
 そのページと広告文及び松崎天民の推薦の言葉を資料その19にしました。(1)は広告ページ全体で(2)は開化食卓の写真のところだけ抜き出したものです。洋式は回転テーブルの位置が下のテーブルとすれすれのぐらいに低く見えます。和式はその点、座って手を伸ばすことから、両テーブルの間隔は広いように見えますね。(3)は広告文ですが、見出しの右書きや2行組みなどはしていないので、写真のページとはいささか形が異なっています。

資料その19
(1)
      

(2)
   


(3)
大石式 和式 開化食卓(實新)
    洋式     (既願)

<広告ページ左上にある写真説明>
本品は最新の発明に係る、便利重宝此の上もないテーブルで、和洋何れも五個の扇形テーブルと、一個の丸テーブルを以て一組として、その配置の工夫に依つて、種々様々の形のテーブルが出来、而も折畳が自由ですから、必要に応じて即座に思ひのまゝのテーブルを作ることが出来ます。
<同右中段にある写真説明>
更に本品の特徴としては、丸テーブルは廻転自由ですから、食卓に御使用の場合、向ふ側にある物を、テーブルを廻して自分の前に持つて来る事が出来ますから、支那料理なぞには理想的であります。各料亭用として、又御家庭用として是非おそなへ下さい。

 便利な食卓
       松崎天民
 中心の円卓がグル/\廻つて、のせてある食味の容器が、自分の前近くに来るし、周囲の卓子が五つに分解されて、何うにでも好きな恰好に組立てられるし、凡そこれほど便利な食卓は今日まで見たことがない。洋風の腰掛式と、和風の座席式と四五人乃至七八人の会食用として、面白く清新な気分に出来て居るので、料理屋用としても、家庭用としても真に開化食卓の名に背かない。私も小型の座席式を備へて、日常の食事用に供したいと思つて居る。

定価
 セン    二〇円
 シヨージ  二八円
 洋シヨージ 五五円
(各漆塗)
■<松坂屋マーク> 松坂屋各店

 これは松坂屋の広告ですが、昭和6年11月の中外商業新報でこのテーブルの紹介記事を見付けたんですよ。次の資料その20が記事とそれに添えられた組み合わせ説明図を見せるためにコピーした紙面の一部です。L型に図が配置されているが、下の右から第1図から4図、縦が第5図から7図で曲がり目が8図です。だからこの真っ黒写真は5角形になっているから第5図の組み立てですな。
 喜太八を検索したら「東京(浅草)で1928年に初代大石辰吾郎が創業。それ以来、変わらぬ味を守り続けています。(40)」という「とんかつ喜太八」が大阪にあるので、現物は残っていないかと問い合わせたら、私のメールで食卓のことを初めて知ったという返事を頂いたから推して知るべし。諸事情により浅草の「とんかつ喜太八」は平成22年に閉店したそうです。ま、開化食卓の考案者が大石辰吾郎という料理人の特許関係を調べれば出願時期がはっきりするでしょう。
 マイクロフィルムからのコピーなので写真は真っ黒ですが、資料その19の写真と同じはずです。それから松坂屋の広告では材料の木はショージとあるが、記事は塩地と違うので調べたら、家具などによく使われる道内には生えていない木とわかりました。「食道楽」の広告ではセンの食卓もありますが、この記事ではないから、すぐセンのテーブルは止め、塩地も値下げしたと見られます。
 松崎が昭和6年に出した「東京食べある記」に出てくるトンカツは銀座の煉瓦亭のトンカツで、浅草の喜太八は出てきません。この時期の松崎の「食道楽」に、喜太八の客席では亭主が発明したこんなテーブルを使っていると書いてあったら面白いんだがねえ。それは今後調べねばならんが、松坂屋の広告の方は、宣伝部が松崎が濱の家の回転テーブル褒めているのを知り、開化食卓の宣伝文を書いてくれるなら「食道楽」へ広告を出そうと持ちかけたかも知れません。

資料その20

組立自在
 開化食卓
  和室洋室向の新案家具

大変に便利な組立の食卓です、トンカツ料理で有名な浅草の喜太八のお主人大石氏の考案されたもの題して開化食卓と申します、廻転式の小さい円テーブル一個と、扇形の五ツの食卓とかになり、これをその室の形や廣さによつて、色色に組立て使用出来るのです、例 へば円テーブルと扇形二個(一図)或は三個(二図)で組立てれ二ば三人で鍋ものなどをかこむによく、又は扇形丈けで四図、五図の如く組立てれば、二人切りで御取膳で食ベるにふさはしい、更に三図の様に列べれば五人まで座れますが、その一角をはづして凹みへ、給仕人がはいつて面白く、七図の如く組合せて真中へ給仕人を入れるのも好いと思ひます、八図の如く細長くも列べられ、一つ/\離して会席膳代りにも使へ不要の折は子供の勉強机にもなりませう、木地は塩地と呼ぶ木材を使ひ、漆塗のものと、真黒にふちを黒く取つたものと二いろ、和室用は一組廿円、テーブル式の脚のついたのが椅子共四十円です(松坂屋調べ)


 回転テーブルは濱の家だけでしか使われていなかったかも知れないが、松坂屋デパートが大石式開化食卓を売り出したことによって、回転テーブルという新しい食卓は、うんと広く知られたといえるでしょう。電動工具なんかなかったころです。大工は何でも自作するのが当たり前、だから実物を一目見れば、既存の丸テーブルを回転テーブルに改造するぐらい簡単なこと。ましてや濱の家式の乗せるだけの上の回転テーブルなら、腕のよい大工なら、木の棒を回転軸にして、見る間に純木製の回転テーブルを仕上げたでしょう。
 ましてや壮麗な雅叙園建築を手がける酒井棟梁です。細川さんが松坂屋に天板が回転する大石式という二重テーブルを売っているから、それを見てきて、うちらしい豪華な回転テーブルを開業まで揃えてくれよと一言言えば、ようがすと二つ返事で引き受け、弟子を指揮して数種類作るぐらい朝飯前だったと思いますよ。
 ちょっと脱線ですが、通販で買った雅叙園の絵葉書をスライドで見せましょう。(1)は西沢報告では写真3として使われている写真と同じ絵葉書で「鏑木清方画伯揮毫の清方荘」という説明が付いています。奥のテーブルを拡大したものが(2)です。回転テーブルの回転軸がテーブルの真ん中に立っているようには見えない。かなり手前の端にあるとしか思えません。畳の上に影があるのに、回転テーブルは影がないし、回転軸が長くて下のテーブルと同じぐらい高い位置に見えるなんて、画像修正のミスらしいが、第1号とは別物であるることは確かです。
 また「竹林之間」と説明のある絵葉書の写真のテーブルを拡大したのが(3)です。下のテーブルの足の短さは(2)に近いが、足の取付位置が違いますね。テーブルの端に付いているといっていいくらい外寄り。こうみてくると、ある時期、雅叙園では、少なくとも3種類の回転テーブルが使われたらしい。

(1)
     

(2)
    

(3)
    

 昭和6年夏の松坂屋の広告に大石式は見当たりませんでしたがね、濱の家が使い始めてから5年ほどたった昭和11年、雅叙園以外の支那料理店に回転テーブルが広まっていた証拠をスライドで見せましょう。はい、これです。東京日日新聞で見つけたのですが、支那料理など使うあれは大きいから家庭向きに小さくした回転台という書き方から、少なくとも東京ではそれなりに普及していたことが察せられます。
 見出しは「ご家庭用に新考案/早変り廻転食卓/取りはづし自由自在」。写真のわきの記事はですね、こうです。「好きな物を自由に取りたいが、手を伸ばすには遠すぎる、取つてもらふのも何となく気の毒だといふ時、支那料理などに使ふ廻転台はとても便利ですが、あれは型も大きく一般向きでありません、そこで出來たのが普通チヤブ台用の補助回転台、そのまゝ乗つけると即座に二重廻転食卓に早変りします、小さな食卓には補助廻転台だけでも使へます、松材漆塗五円五十銭(41)」。
 スライドの写真では、どうも台の足が十文字か円盤かわかりませんがね、回転台を円卓に乗せる使い方、濱の家型が家庭用に広まったともいえるでしょう。多分客を招いたときなんかに便利だと認められたと思いますね。

       

  

参考文献
 上記(39)の出典は食道楽社編「食道楽」7巻4号*ページ、昭和6年4月、食道楽社=原本、 資料その17(1)は食道楽社編「食道楽」3年10月号58ページ、昭和4年10月、食道楽社=原本、同(2)は同4年1号54ページ、同5年1月、同 スライドの写真は主婦之友社編「主婦之友」17巻9号12ページ、昭和8年8月、主婦之友社=原本、 資料その18(1)は冨山隆氏所蔵の写真、濱の家の客室、同(2)はそのテーブル上の廻転部のクローズアップ。撮影年月不明、 資料その19(1)と(2)と(3)は食道楽社編「食道楽」7巻8号ページ番号なし、昭和6年8月、食道楽社=原本、 (40)はhttp://kitahachi-umeda.
jimdo.com/、令和4年現在では不明、 資料その20は昭和6年11月7日付中外商業新報朝刊5面、=マイクロフィルム、 (41)は昭和11年7月10日付東京日日新聞朝刊10面=マイクロフィルム、


 さて、栄太郎さんが、回転テーブルを独自に考案したのかどうかわかりませんが、顔が広かったので、だれかの話からヒントを得たかも知れません。資料その21から栄太郎さんが付き合っていた人々が察せられます。
 その(1)にジェームス・ダン夫妻という名前がありますね。このジェームスは、何を隠そう真駒内に子羊を肩にした銅像のエドゥイン・ダンの長男なのです。羊との縁ですかねえ。音楽家で奥さんもダン道子といってやはり知られた音楽家でね。エドウィンのことを「明治の牧柵」という本に書いていて、資料に使ったような気がするけど、どうだったかなあ。
 まあ、鉢巻の岡田の常連同士ということあったと思いますが、ジェームスは「ペン」という雑誌でね「<略>支那料理も、店に入つてプンと鼻をつかれると、もういやになるが、その點濱町の濱のやは、味も恐らく第一だろうし、此の匂ひのないのも日本一だ。ジンギスカン料理も、第一だ。<略>(42)」 と、ばっちり持ち上げていますよ。はっはっは。
 濱の家の建物は元旅館で、部屋を拡げる大きな改築をしていなければ、資料その1の広告にあるように、部屋は26あるはずだから、匂いの抜けた部屋に案内するぐらい何でもなかったと思いますね。ジェームスはまた「シンガポールの夜、屋台店で羊肉を焼いて赤い味噌の様な物をまぶして食べたのも、うまくて忘れられない。(43)」と書いているから、羊肉は好きだったんでしょう。

資料その21

(1) ゴシツプ
 
<略> 銀座の、江戸前料理で知られた鉢巻の岡田
は、あれで、不思議に根強いフワンを持つて
ゐて、文士の久保田万太郎、里見ク噸、中戸川
吉二、音楽家のジエームス・ダン夫妻放送局
の矢部謙次郎、濱のやの富山榮太郎、等々と
云つた諸家など、岡田会を毎月一回催して、
大変な熱の入れ方。我も/\と関西割烹に走
る世の中に、江戸前の名残に執着を持つて飽
く迄岡田を後援してゐる人達の心情はあはれ
床しき限りであるが、鉢巻岡田なるもの、此
の恩寵に感奮して、もつと研究精進すべきで
ある。江戸前の魚河岸料理だから、料理の技
巧などは望まぬとしても、お椀の味位、も少
しどうにかならぬものか。
     <略>

(2) 十二日会の記  ― 立聴き座談会 ―

知る人ぞ知る東京は鶯渓の志保原の十二日会といふ集り、謂はゞ板前の竹内さんの氣を入れた庖丁ぶりを樂しもうといふ会に過ぎないが、何がさて発起人が、久保田万太郎、伊東深水、大塲白水郎、鴨下晃湖、伊藤鴎二、前田雀郎などといふ、書壇、文壇、俳壇、柳壇のお歴々だけに、会員もまた各方面の粋様をあつめてゐるので、月並の遊食会とはことかはり、その話題の面白いこと、或時は俳詣座談会となり、或時は芝居合評会となり、さては風俗時評の会から旅の漫談会、時にに坐り直して藝術の討論会となれば、急にくだけて色つぼいお噂になるなぞ、口の他にもまた耳のお正月と、女将の商売氣を離れた取りなしと共に皆さん御満足、会毎にいよ/\御繁昌とはめでたし。さて當る霜月十一月の例会に、幹事雀郎先生の肝煎りで「ゲテモノ」といふ趣向。どんなお献立が出來るかといふ樂しみの上に、更に當夜のお話がどういふことになるのかと、聞かぬ先から氣になつて、その面白さが思はれて堪らす、遠く聞耳立てゝ開會を待つ。

<略>伊藤 仁左術門の富樫はどうです。
伊東 まだね……。
伊藤 左團次の富樫もひどい。あれはどうしたんです。
富山 山伏を呼び止めて酒になるあの二度目の出、あすこなどセカ/\と出て來るので、どうも小さく見える。
鴨下 そりや富樫は三宅君の方がいゝ。
三宅 左團次は富樫をやりたくないんです。富樫をやると病氣になるからいやだと云つてゐる。かう貝桶に腰を卸してから、ジツとしてなければならない。その間、唄うたひの方では、いゝ氣持で勝手な唄をうたつてゐる。それを身じろぎもせず待つてゐる間がつらいと云つてゐた。
伊藤 富樫は羽左衛門ですね。
伊東 羽左衛門の義経はどうです。
鴨下 天一坊といふ評判だが。
三宅 辨慶が勧進帳を読み上げる間、そつと笠をあげて見てゐる。それを伊原さんが評していゝことを云つた。良くもあり、悪くもあり、まつたく良くもあり悪くもありだ。
伊藤 しかし羽左衛門といふ役者は大したものですね。我々はあの人を見てゐたことを幸福とする時か來るかも知れない。
前田 まアあゝいふ役者はもう出來ないでせう。勘彌が近頃遠見の羽左衛門にされてゐるが、後継者ぢやない。
富山 私も羽左衛門は好きだ、兎に角見てゐて氣持がいゝ。ところがかういふことを云ふ人がある。羽左衛門は何役をやつても羽左衛門で、その人になりきれない。さういふ点で左團次の方が役者が上だといふんですが、いろ/\見方もあるものです。
伊藤 左團次も今度の「南部坂」の大石のやうなものをやらせて置くと立派だが、近頃どうも熟がないやうぢやありませんか。<略>


(3)
   

(4)
  

(5)
    

(6)
    

          (いずれも冨山隆氏所蔵)

 資料その20の(3)から(6)までは、濱の家で鱈腹食べ、飲んで満足したお客が書き残した色紙です。(3)はコラム「目・耳・口」で親しくなったと見られる文芸春秋社のご一行様ですね。右下に御大菊池寛、左上に逆さで久保田万太郎、右上逆さで牧野信一、永井龍男の署名がありますね。佐佐木茂索、池谷信三郎、菅忠雄といった有名人ぞろいです。
 菊池寛は独りでも濱の家に現れており「贔屓の食物屋」に「<略>支那料理は、浜町の『浜の家』虎の門の『晩翠軒』へよく行く。<略>僕は、六、七年前、銀座のある店へ初て行った所、そこにい合せた酔漢にからみつかれて、たいへん不愉快であったので、その後馴染のない店へは、行かないことにしている。(44) 」と書いています。
 (4)は上に右書きしている通り第二十七回新派遊食会の際の色紙ですね。右上の会印の右が俳優ならぬ料理ジャーナリスト三宅孤軒なのは、三宅の紹介で濱の家を選んだということでしょうか。続いて森赫子、小堀誠、花柳章太郎の名がありますね。読めるところでは伊志井寛、柳永二郎、村田正雄、瀬戸英一、英太郎、藤村秀夫、河合武雄、喜多村緑郎、大矢市次郎、武村新。右下隅は菊波正之助でしょうか。
 日本料理の研究仲間から「日本料理研究会報」に英太郎が書いた「じんぎすかん料理」が載っているよと資料を頂きました。肉という字がなぜか皿と誤植され、皿を焼いてかじるみたいなことになっているのですよ。ちょっとさわりだけ読みましょう、前半を略して、こうです。
 「支那には悪食(いかもの)が多いと申しましたが、蒙古の陣中料理であるジンギスカン料理程豪壮でうまい料理はちよつとないでせう。これは私は濱町の濱のやの御主人から初めて紹介され味つたのですが、マンホール位の大きさの金網に三四寸位の長方形に切つた皿をのせて、長い箸でとつてツケ焼にしてたべるんですが、あかあかと焔のもえる傍で立ちながら喰べる原始的なまことに好ましく思ひました。濱のやさんのこれに使ふ炭は何でもわざわざ支那から取りよせるのだと聞いて居ります。(45)」とね。いま読み直して気が付いたのだが、皿を付け焼きするようでおかしいね。会報を探して確かめます。
 (5)は水魚会とあり、釣った魚が水面から顔を出したような繪が描いてありますから、釣りグループでしょうか。署名は画家鴨下晁湖と山川秀峰、噺家三遊亭三代目円遊、俳人伊藤鴎二、杵屋金太郎、杵屋佐吉ぐらいまでしか私は読めません。
 (6)は松竹蒲田撮影所の面々による「食べよう会」で読めない署名ばかりみたいなものです。飯田蝶子、東栄子、清水一郎はいいとして残り3人はわかりません。よしのぶと平仮名は無理にそれらしい名前を探すと監督の池田義信がいました。目玉の繪に「淳」は新井淳という俳優でしょうか。その下の片仮名横書きは「ナカ.ジャウ」みたいですが、岡譲治かも知れません。右側の三から続く2字は三輪満かと思いましたが、そういう俳優はいなかったようで、わかりません。
 色紙ではありませんが、文芸評論家の三宅正太郎は濱の家で初めてジンギスカン料理を知った一人です。「村松梢風が朝、毎、読の三紙に次々と連載長編を書いていたころ、私は小説の担当者ではなかったが学藝部員だったので、度々梢風大人に招かれ御馳走になった。日本橋の浜の家で成吉思汗料理というものをはじめて味わったのもそのころだが、十一年夏、学芸部一同で梢風と一しょに大洗海岸へ行った。(46)」と「作家の裏窓」に書いているから、昭和10年前後の話でしょう。
 さて、帰る前には勘定です。資料その21(1)とした用紙に金額を書き込み、お盆に乗せて、にっこりと女中さんがその席の主人なり会計幹事に差し出したと思いますね。ちゃんと一割は給仕手当として頂戴するとありますから、惜しみなくサービスに努めたことでしょう。どうぞお持ち下さいと、その下のようなラベルのサービスマッチも渡されたかも知れません。
 女中さんで思い出した。たまたま昭和12年の東京日日新聞で見つけた濱の家の募集広告があるんですよ。せっかくメモを持ってきたんだから読みます。えーと、座敷女中 十七歳位より二十五歳まで、住込面談午前中、日本橋濱町一の二、電話茅場三番四番、支那料理、濱のや、となっていてね、3月7日と12日のどちらも朝刊でした。

資料その22

(1)
    
       (冨山隆氏所蔵)

(2)
    

 資料その22(2)はマッチ箱に張ってあったラベルですよ。黒く丸い盛り上がりは蒙古兵の兜でもなければ、ジンギスカン鍋の絵でもない。大鉄傘を誇った旧国技館、戦後日大講堂にもなった建物のシルエットなんです。その左の橋は昭和7年まであった旧両国橋。濱町から見える隅田川と向こう岸の景色ですね。昔は独自のデザインのマッチが沢山あったので、コレクターもたくさんいました。これは研究仲間の収集品のコピーで、もらいものですが、川面を渡って櫓太鼓が聞こえて来そうないい感じでしょう。
 電話番号が浪花十一番しか書いていないから、昭和3年の開業間もないころに出したマッチですね。資料その6の菜単の電話番号と同じでしょ。まだ京蘇料理専門のころです。ジンギスカンを売り出したのは昭和6年ですから、そのうちに帝都唯一、北京正陽楼の味をうたったラベルも見付かるでしょう。積極果敢に本場の鍋も買い込んだ榮太郎さんです。マッチのラベルに入れないわけがない。私の講義録を読んで、コレクションを見直して、ジンギスカン料理のラベルがあるよと教えてもらえると私は信じているのですよ。
 その後ですがね、ある方からジンギスカン料理と入った大阪のビアホールのマッチの画像を頂いたことがあります。
 栄太郎さんは昭和8年になると「食道楽」の広告のスタイルを変え、大きな字で読者を濱の家に誘う1ページの広告に切り替えます。資料その23が、そうした一連の広告文です。
 ここらで講義録を読んでいる人のために一言言わせてもらおうかね。マッチのラベルが「濱のや」と平仮名なのに、講義録は濱の家と「や」が漢字なのはおかしいと思う人がいるでしょう。これは久保田万太郎が時事新報に「じんぎすかん料理」を連載したとき「東京の日本橋濱町にある京蘇料理の濱の家」と書き、何度か繰り返したので、私はそのまま濱の家と漢字書きで通すことにしたというだけのことです。別に商標登録されていたわけではないからね、ウィキあたりに書き込むなら「や」は平仮名書きが正しいと注をつければよろしい。はっはっは。

資料その23
(1)
 恭賀新春
  併而、本年も相変らずの御愛顧を御願申上ます
    一九三二年の食味界に、断然頭角を現し
    た、弊館の成吉思汗料理は、北京正陽楼
    の本格味として、その滋味を賞讃されま
    した。元気溌剌の新春、この珍味につ
    て、何卒無尽の精力をお蓄へ下さい。

   京蘇菜館  濱のや

           富山栄太郎
           東京市・日本橋区・濱町一丁目
           電話浪花一〇番一一番二〇六番
(「食道楽」昭和8年1月号)

(2)
味はへば味はふ程=ヂンギスカン料理の味=
  帝都の支那料理界に、断然頭角を現した、弊館の成吉
  思汗料理は、北京正陽楼の本格味として、その滋味を
  賞讃されつゝあります。元気溌剌の新春、この珍味に
  よつて、何卒無尽の精力をお蓄へ下さい。

   京蘇菜館  濱のや

           富山栄太郎
           東京市・日本橋区・濱町一丁目
           電話浪花一〇番一一番二〇六番
(「食道楽」昭和8年2月号、3月号、4月号、5月号)

(3)
爽快の初夏!! 貴下の精力は
        先づ支那料理から
 貴下のエネルギツシユな御活躍は全く
 支那料理御嗜好の結果と確信致します
 而して弊館の料理御愛顧の結果益々支
 那料理に対する御嗜好を増進致されま
 すならば光栄此の上も御座いません

   京蘇菜館  濱のや

           富山栄太郎
           東京市・日本橋区・濱町一丁目
           電話浪花一〇番一一番二〇六番
(「食道楽」昭和8年6月号)

(4)
新秋爽涼=いでやヂンギスカン料理の味
  帝都の支那料理界に、断然頭角を現した、弊館の成吉
  思汗料理は、北京正陽楼の本格味として、その滋味を
  賞讃されつゝあります。新涼食欲旺盛の秋、この珍味
  によつて、何卒無尽の精力をお養ひ下さい。

 京蘇菜館  濱のや

           富山栄太郎
           東京市・日本橋区・濱町一丁目
           電話浪花一〇番一一番二〇六番
(「食道楽」昭和8年9月号、10月号)

 お仕舞いに、濱の家が真面目にうまい京蘇料理作りに努めたかを知る一文を資料その24として付けておきました。濱の家を褒めすぎる気がしないでもないのですが、大先輩の晩翠軒では2度とも感心しなかったのに対して、濱の家は2度とも満足したと特筆しているのですから、繁昌したはずです。それから資料に抜粋した栄太郎さんが書いたもの、濱の家が文中に出てくる講演速記などは、講義録のここをクリックすると読めるようにして置きましたから、興味のある人は読んで下さい。昭和初期の雰囲気がわかると思います。

資料その24
   三寸の青龍刀
            古秦潤

 A店の食道樂會へ行つたらうまかつかとか、Bが電話を掛けて置いてくれたからあの様なうまいものを食はしてくれたとか云ふ事は其店の全部の評価にはならないと思ふ。その様なハンデキヤツプなしに何時行つてもうまいと安心出來る店はそんなに澤山はあるものでない。
 食道樂誌の寄稿家殊に東京に在住して居る人には所謂顔でうまいものを出してくれもするが、我々の如きポツト出の田舎者が地図を片手に飛び込んでも、興津庵や星ケ岡では断はられる、他の家でもなか/\両方がぴつたりと來ない。
 自然自分の思ふものの食へる花長とか小まつとかへ行つてしまうが、合計五日程滞京したので少し他の食物で食道楽誌上評判の所を食ひ廻つて見た腹具合を少し述べさして貰ひ度い。
「支那料理」名古屋の「でも」支那料理斗りを食つて喜んで居る小供等を昨年東京見物につれて來た時、昔の旅館が支那料理の濱のやに変つた事を始めて知ると共に、小供等は東京の支那料理のうまさに歓声をあげて喜んだ。
 あまりうまかつたので東京の支那料理は何處もこの様にうまいものかと思つて其翌日もう一度他の店をとホテルの事務員にさがして貰つたら、まづ晩翠軒でせうと云ふた。
 尤もそれ迄に食道楽誌上晩翠軒主人の談などを読んで居るのでうまいだらうと楽みながら晩翠軒に出掛けた所が頓と感心しなかつた。そして小供等の正直な所を聞いて見ると此方は七十点位だと学生らしく点をつけた。
 此時には松岡全権と往年支那へ旅行を共にしたと云ふ友人と共に濱のやへ行つた。ジンギスカン料理もやつては居たが其友人はとても北京の様には食へまいから一層普通の料理が食ひ度いと云ふので別段前振れもなく濱のやへ飛ぴ込んだ所ピンから切り迄其友人を喜ばしたのみならず私も濱のや未だ衰えずと感心した。
 その時は友人が同じ様な顔振れであつた爲又濱のやでもあるまい今度は他へ行こうではないかと終に又白羽が晩翠軒へ當つた。
 所がこんどこそはと思つた期待は再び裏切られた。
 女中は無愛想なり、味、材料、調理方器等何れも濱のやに劣り、隣室の騒々しい客が馬鹿に大切にもてなされて居るに反し、食味一方のこちらの部屋は冷遇されたのは、濱のやで女将が一々客席で気をくばつて居るのに比し雲泥の差であつた。
 せめて味丈けでもよかつたらと残念に思つた。<略>

 こんなに褒められた濱の家のジンギスカンですが、これは嫌だと頑張り、濱の家に来ていながら、わざわざ出前をとって食べた御仁がいたというから驚きます。誰あろう、あの島崎藤村なんですよ。子供のころから肉嫌いというならまだ許せるのですが、藤村はフランスで3年も過ごした人ですからねえ。まず資料その25(1)を読みなさい。ルウソオとは思想家のルソーね。焼き肉嫌いがこう書けると思いますか。
 それから(2)を読む。

資料その25
(1)
   焼肉さん、お休み

 さあ、仏蘭西の小父さんで、父さんの好きたルウソオといふ人の子供の時の話をしませう。<略>
 あの仏蘭西の小父さんは、まだ子供の時分に、ある人の家へ居候をして居ました。丁度そこの家にお客さまのある晩のことでした。大変、御馳走が出ました。
『さあ、子供は自分の部屋へ行つてお休み。』
とそこの家の人が小父さんに言ひました。御主人に寝ろと言はれては、寝ないわけに行かなかつたのですが、御馳走のにほひが小父さんの鼻について、おいしさうで堪りませんでした。小父さんは自分の部屋の方へすご/\と引退らうとした時、子供ごゝろにも何とか言つて見なければ気が済まなかつたのです。御馳走に出て居る焼肉の方を横目で見まして、
『焼肉さん、お休み。』
と挨拶しました。
この挨拶には、御主人も、お客さまも、樂しさうに笑ひました。
『お前は大変うまいことを言つた、さういふ子供には御馳走をしてやるぞ。』と、皆なから褒められて、とう/\小父さんはお客さまと一緒にその御馳走になりました。<略>

(2)
 <略>藤村はどっちかといえば都会人であった。藤村の生活に山家風の何ものかを残した直接的関係といえば、小諸時代の生活経験だけであった。それにしても藤村を山家風のげてもの趣味の文人と考えるくらい大きな誤解はないのである。まだ成吉思汗鍋というものが東洋主義的イデオロギイを帯びなかった頃、或る会合で日本橋浜町の「浜の家」のその料理に藤村を迎えたことがあった。ところがその時、肝心の藤村はそういう野性的食べものには頑として一箸もつけず、わざわざ別に懐石料理を取りよせさせた。一座の誰もが藤村が如何にじょうてものの趣味の人であるかを、あとで痛感したのであった。<略>

 「じょうてもの」とは、陶芸用語だそうですが、この場合は凝った食べ物という意味でしょう。藤村は北大路魯山人の星岡茶寮が好きだったというのも、そういう好みからだったんですね。焼き肉さんお休みという優しい話を書いた人とはとても思えない頑固ぶりには、濱の家の栄太郎さんもたまげて、笑うしかなかったでしょうね。
 これを書いたのは勝本清一郎という文芸評論家だが「東洋主義的イデオロギイを帯びなかった頃」とはいつごろを指すのか、よくわかりませんが、その後の成吉思汗鍋は当然「東洋主義的イデオロギイを帯びた」のでしょうね。全く思いもよらぬ時代の区切り方でして、いまのジンギスカンはどんなイデオロギーを帯びているのか、知りたいものですなあ。
 小田吉郎という人が「嗜好から見た島崎藤村」という題で、藤村から聞いた子供のころからの飲食物の話を「料理の友」に書いてます。それを読むと藤村は肉なら小鳥、魚は川魚が好き、どうして食い慣れた物がこんなにうまいのだろうといっとる。藤村は都会人どころか、やっぱり信州信濃に固執した「山家風のげてもの趣味の文人」であり、ジンギスカンなんか食わず嫌いしたわけだ。ではどんな小鳥が好きなのか、よくわからなかったが「糧友」に書いてありました。雀は目じゃなかったらしい。脱線序でにそれを資料その26(1)と(2)で見てもらいましょう。

資料その26

(1)
<略> 近年の藤村氏の食卓は次の話で解る。
「芹のやうな香氣のある野菜も、自分としては好きです。栗の皮をむきまして、シブをあつさり取つて、塩うでにしたものなどもよく家で作ります。春先をすぎて五月頃まで残つた萎びた林檎の味といふものもなか/\捨てたものではないと思ひますね。肉の中では、何と言つても私は小鳥類がうまいかと思ひます。魚では、川魚が好きです。鮎にしましても、岩魚、タナビラ、赤魚、そのほか川魚はみがしまつてゐまして、味も細かいやうに思ひますね。一たい私は野菜が好きですし、それに乾物穎では、湯葉なぞ好きですから、さう言ふものを取り合せまして、惣菜をつくつて、それで食事をすませることが多いのです。何がなくとも、柚子、わさび、それから春先の木の芽などの香味をすこしでも添へるものがあれば、食事は楽しいと思ひます」

(2)
 林は深く谷は深い私の郷里の木曽地方に小鳥の類が多くて、高原地の佐久地方にそれの少いのは不思議でもないかも知れない。つぐみ、あとり、みやま、ひわ、その他の豊富な木曽地方では、雀は殆んど食用の小鳥の部には入つて居ない。小諸へ行つて見ると雀を焼いて味ふ人のあるのを見た。上田の町はづれに鴉の田楽といふものを焼いて売る家すらもあつたと聞いた。一体に、佐久から小縣(ちひさがた)の地方へかけては、それほど小鳥の類は少い。

 「昭和人名辞典」の第1巻に「富山榮太郎 濱のや 支那料理業 (綜)一五〇〇 日本橋区濱町一ノ二 電茅場町三(4743)」と載っています。(綜)は綜合所得税の年額で、底本は昭和17年発行なので、昭和15年あたりの税額と思われますが、濱の家を追いかけるように2番目にジンギスカン料理を始めた京橋の北京料理店、盛京亭主人の篠原呂市さんのそれを見ると570円(484)とあります。榮太郎さんは京蘇料理より帝都初のジンギスカン料理の店として名を売り、4年先に開業した盛京亭をあっさり追い越し、3倍も稼いだのですなあ。参考までだが、この本によると成吉思荘を開いていた赤坂の松井初太郎さんの税額は1620円(4945)だ。松井さんは羊肉問屋も兼ね、宮内省御用達も務めていた精肉店主ですから、本業の収入が大きかったのでしょう。
 はい、太平洋戦争が始まり、栄太郎さんは病を得たこともあり濱の家を閉めて千葉県市川市に転居し、昭和19年亡くなりました。冨山隆さんによると命日は4月25日だそうです。宗匠久保田万太郎は、富山家と連絡を取っていたようで、廃業を惜む句と弔いの句を残しています。最後の資料がそれです。
 なぜ八つ手の花か。資料その3の下の写真で見えるように濱の家の玄関にはヤツデがありました。この句の前後は冬の句ばかりだから、戦時体制という制約もあり、濱の家のヤツデも白い花を咲かせる初冬、帝都唯一とジンギスカンで一時代を築いたあの富山君の店が消えたのは實に惜しいなあということでしょう。
 市川は葛飾区ではないのですが、市川に葛飾八幡宮というお宮があるくらい距離的に近いし、帝釈天の方向というぐらいの意味で、葛飾としたんじゃないかな。もしかすると栄太郎さんがその八幡宮の近くに住んでいたのかも知れません。

資料その27

(1) 京蘇料理濱の家廃業

  一 ト 時代八つ手の花に了りけり

(2) もと濱の家主人、富山榮太郎君、市川の隠棲にて逝く

  葛飾の春ゆくことの迅きかな

 ジンパ学は育ち盛りの学問であり、情報への到達径路も大事な情報なので説明しておきますが、死去の方は去年の受講レポートからです。久保田は作家というより俳句で知られているからと「久保田万太郎全集」14巻を見たら、葛飾の句があったと書いてきたのです。もちろん優をあげて、私が徹底的に見直して廃業の句も見付けたのです。それで冨山隆さんにお知らせしたら、冨山さんも探したことがあったそうで、刊行された句集には、この2句しか掲載されていなかったとのことでした。
 久保田の羊肉料理の句としては、昭和31年中国を再訪して北京・東來順で食べたしゃぶしゃぶもあります。「短日や涮羊肉(ツワンヤンロウ)の湯のたぎり」というのですよ。しゅんしゅんとたぎる湯を潜らせて、うまそうですなあ。要は発想を膨らませて根気よく探すこと、ですね。では、きょうはここまでにします。
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参考文献
上記資料その21(1)の出典は食道楽社編「食道楽」9年12号65ページ、昭和8年12月、食道楽社=原本、 同(2)は住田増蔵編「樽」1号4ページ、昭和13年12月、「樽」吟社=原本、 (43)は三笠書房編「ペン」2巻2号46ページ、ジェームス・ダン「食べものの記」より、昭和12年2月、三笠書房=館内限定近デジ本、 (44)は菊池寛著「菊池寛全集」8巻411ページ、贔屓の食物屋、昭和35年10月、文芸春秋社=原本、 (45)は日本料理研究会編「日本料理研究会報」9巻5号25ページ、昭和14年5月、日本料理研究会=原本、 (46)は三宅正太郎著「作家の裏窓」164ページ、昭和30年4月、北辰社=原本、 資料その22は冨山隆氏所蔵の濱の家で使われていた領収書、使用期間など不明、 資料その23の記事4件の出典は()内に記載の通り、 資料その24は食道楽社編「食道楽」8年5・6合併号44ページ、昭和9年6月、食道楽社=原本、 資料その25(1)は島崎藤村著「藤村全集」10巻294ページ、「幼きものに」、大正11年11月、藤村全集刊行会=近デジ本、同(2)は勝本清一郎著「近代文学ノート 2」228ページ、昭和54年11月、みすず書房=原本、底本は「自由婦人」昭和23年5月号掲載の勝本清一郎「島崎藤村」、 資料その26(1)は大日本料理研究会編「料理の友」19巻11号4ページ、小田吉郎「嗜好から見た島崎藤村(下)」より、昭和6年11月、料理の友社=館内限定近デジ本、同(2)は糧友会編「糧友」9巻8号74ページ、島崎藤村「食膳の上(山家のおもひで)」より、昭和9年8月、糧友会、同、 (47)は日本図書センター編「昭和人名辞典 第一巻」677ページ、昭和62年10月、日本図書センター、底本は谷元二編「第十四版大衆人事録 東京篇」、昭和17年10月、帝国秘密探偵社、 (48)は同483ページ、同、 (49)は同913ページ、同、 資料その27(1)は久保田万太郎著「久保田万太郎全集」14巻70ページ、昭和51年3月、中央公論社=原本、同(2)は同74ページ、同