北大図書館にある「糧友」の昭和3年から5年までの分を見ますと、羊肉料理講習会の記事が結構出てきます。「糧友」は前にもいいましたが、糧友會の機関誌でした。糧友會は昭和14年から慶応大医学部食養研究会が出していた月刊誌「食養」を「食養研究」と改題して引き継ぎ発行、毎号「糧友」はじめ糧友會の出版物の広告を掲載しています。
その糧友會の事務所は東京・深川にあった陸軍糧秣本廠の中にありました。この陸軍糧秣本廠は、広島県の宇品にあって牛肉缶詰を作っていた宇品支廠などと対になっての名称で、トータルとしては陸軍糧秣廠というのが明治35年からの正式名称でした。主な任務は陸軍の食糧の製造と補給、より優れた軍隊用食糧の開発(1)でした。この糧秣の糧は人間様の食べ物ですが、もうひとつの秣の字が示すように軍馬に食べさせるまぐさ、飼料も扱いました。明治41年から札幌に糧秣廠の派出所が開設され、昭和15年に支廠に昇格、道内から燕麦を集荷して前線へ送る仕事をしていました。苗穂にある陸上自衛隊北部方面隊北海道地区補給処苗穂支処はその跡地にできたものです。
いっときますが、オートミールは燕麦から作るのです。知ってましたか。当時は需要が少なくてオートミール製造は商売にならなかったけれども、イザとなれば馬から取り上げて人間に食わせられる飼料です。第一次世界大戦では「畜産飼料として相当なものは皆人糧となり平常馬が喰つた事もないものが馬糧になつた」国もあるように、われわれも「戦時に於ける飼料転換の研究は相当出来てゐる」(2)と糧秣本廠関係者が書いたものがあります。道内の燕麦買い付けは、そういう狙いも秘めていたのですね。
えーと、軍隊の食事を「兵食」といいましたが、食糧の製造だけ取り上げてみても、非常に範囲が広いし、食材を仕入れる量にしても膨大なものです。たとえば兵士に1回ご飯を食べさせるとして、朝昼晩それぞれ米何グラムにするか、ぴかぴかの銀シャリから玄米までの搗きの程度はどうするのか、押し麦を入れた麦飯にするのか、燃料はどうするのか。おかずはだれが決めるのか。学校給食を考えたらわかるでしょう。
全国一律は無理としてもだいたい同じ飯を食べさせるだけでも大変です。いまでこそ家庭では電気釜で炊くので、失敗なく炊けますが、薪や石炭で焚くとなると毎回美味く炊けるとは限りません。めっこ飯だったり焦げたりね。軍隊だと、炊事当番が元板前とか飯炊き経験者とは限りません。海軍は明治時代から炊事兵としてそうした炊事経験者を採用していましたが、陸軍がそうした経験者を炊事班に回すようにしたのは昭和4年になってからでした。
はい、きょうの資料を配ります。1部取ったら、後ろへ回して。こうした兵食の事情をわかりやすくまとめた記事を資料その1にしてあります。これは昭和12年11月の朝日新聞に「兵食の話」として7回続けた連載記事の2回目で、組み方を変えて読みやすくしてありますが、原文通りです。筆者は1回目の末尾に【陸軍糧友會にて】とあるだけで、それ以上のことはわかりません。毎回吉田貫三郎という人が描いた挿絵が付いています。2回目には「矢鱈にブンなぐって打ち殺し…」と、へっぴり腰の兵隊が長い棒で、まるまる太った豚をたたいている漫画です。
吉田貫三郎で検索しますと、絵を描いた本の題名など200件ほど出てきます。中に清水崑は吉田に勧められて新漫画派集団に入ったと書いてあるページがありますので、本職は漫画家だったのですね。ラーメン党の林家喜久蔵が若いとき清水の書生をしていて、その紹介で落語家になるという噺に出てきますよ。おっとっとっ。
ちゃんと「糧友會にて」と書いてあるからには、糧友會が提供した原稿ではありえない。糧友會役員を兼任する糧秣本廠の主計将校のだれかの話をまとめ、できた記事に目を通してもらい、OKを得てから漫画家に読ませて絵を付けたと考えられます。「戦争は兵士に取つても非常に過激の労働であり、兵食研究会によれば在営当時に比し、戦時は約一割七分づつの摂取栄養量を増して行かなければ十分な健康が保てないという程である。(3)」なんて、部外秘に近そうな記述もあるから、用心したはずです。私が知る限りでは、一番要領よく面白くまとめた兵食史であり、まあ、陸軍糧友會という書き方が、図らずも糧友會と陸軍の関係をすばり示してくれましたね。
資料その1
無頓着に過ぎた昔
日露戦争後の著しい改革
昔の武人は食事について非常に無頓着であつたが、明治の初年陸軍創設時代など各藩から召集された兵隊は、みな武士ばかりで、ために兵食など全く無視され、従つて兵食の調理は却て請負賄であつた。それから軍医総監石黒忠悳子の主張で兵隊自炊の制度が採用されが、どうも食事軽視は日本人古来の通弊であるため、炊事勤務員には素質の良くない者を当てる、殊に償勤兵と云つて、軍隊の監獄に居たもので只飯さへよく炊ければ良いと云ふのでこんな兵を炊事勤務に当らせてゐた。
この日本の兵食の欠点がよく現れたのは北清事変から日露戦争後に至る間とされてゐる。
出先の各国陸軍を見るに兵食の調理が非常に発達して、牛など兵士が自ら屠殺し、皮を剥ぎ、分解してスープなどを作つて見せた。日本兵も御馳走になつて舌鼓を打つといつた次第で、外国兵の料理上手は全く専門的な程度で、水にしてもこの当時既に濾過器を使用してゐた程である。これに引きかへ当時の日本兵は、牛や豚を偶捕へても、先づ足を縛つて転がし、別に屠殺道具があるでなし、矢鱈ぶんなぐつて殺し、そして只単に臀肉のやうな部分だけを抉り取つて、これを用ゐると云ふだけで、骨や内臓は捨てゝ顧みなかつた。
それを内臓の調理に明るい露人や支那人が買ひ求めて素晴しい料理を作る始末。
肉ばかりでなく日本の兵隊は干瓢、椎茸にしても、これを茹出した栄養分のある美味しい汁を棄てゝ滓だけを刻んで料理するため少しも味がない。兵食ときまつた半搗米など炊き方が不完全である云つた有様。
此頃から急に陸軍では炊事方法の改善が叫ばれ、陸軍経理学校で調理教育を施し、師団では炊事講習を行ひ更に近くは食糧について世界的に困迫した世界大戦の貴い経験や、兵食の調理教育には古くから非常に熱心な研究と設備とを有する英米の方法をも参考として、栄養学や食品研究の結果を打つて一丸とし、特有な日本食による現在の優秀な兵食調理方法が完成されたのである。
このように兵食の改善が遅れたのは、炊事方法の問題というよりも、陸軍内部には「梅干主義」といわれる精神主義のような考え方が根強く伝わっていたからでした。梅干主義というのは、日清日露戦争など日本陸軍の過去の勝利は、すべて梅干しの入った握り飯を食べて戦ったからである。だから兵食の栄養価だとか美味いまずいなんかにこだわるず、何でも腹一杯食べればよいという考え方(4)を指すのです。ですから、兵食を専門に作る兵隊は置かなくてもよいとして、炊事経験の有無を問わず当番制で飯炊きをさせたのです。そうなれば当然のことながら、材料を生かした献立になっていない、味付けがまずい、切り方が不揃いだといったことが、それこそ日常茶飯事になります。糧秣本廠の仕事には、そうした炊事担当兵に対する献立の立て方、栄養価計算のやり方、軍隊調理法といったテキストに従った料理の作り方を含む給食指導も後に加わったのです。
陸軍の兵食改善について糧秣本廠は大正9年に調理指導班を編成して改善指導に手を付けました。糧秣本廠の職員、これから配る資料に料理の講師として出てくる満田百二さん、この人は嘱託でしたが、満田さんなどが国内と海外の駐屯部隊を巡回して団体炊事の指導をしたのです。さらにですよ、大正14年には外郭団体として糧友會を設立して、その糧友會の発行する機関誌「糧友」を通じて団体調理季節献立かと季節向患者食軟菜といったモデルを示したりしていたのです。吉田豊さんは「日本の軍隊」という本で、いまいった梅干主義に触れていますが、それを批判して兵食改善に尽くした丸本彰造という軍人を「パン食の導入を推進したことで知られるユニークな経理将校」(5)と紹介しています。
この丸本さんは、被服と並んで兵食研究に取り組み、後の講義で触れますが、自分の経験から満洲のような寒い所では国内と同じ和食を食べていると体を壊す。支那人と同じように脂っこい食事を取るべきだと、給食に適した支那料理を陸軍の兵食に導入させた人(6)なのです。
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参考文献
上記(1)の出展は広島市郷土資料館編「近代の『兵食』と宇品陸軍糧秣支廠」22ページ、「陸軍における糧秣調達・補給機関―陸軍糧秣廠―」、平成15年10月、広島市郷土資料館=原本、(2)は糧友會編「糧友」5巻1号30ページ、江川恒雄「馬糧と人糧」、昭和5年1月、糧友會=原本、(3)は昭和12年11月9日付朝日新聞6面、家庭「兵食の話」(1)=マイクロフィルム、資料その1は同年11月10日付同、同(2)、同、(4)は吉田豊著「日本の軍隊」108ページ、平成14年12月、岩波書店=原本、(5)も同49ページ=原本、(6)は丸本彰造著「支那料理の研究 その料理法の研究と随園食単」3ページ、昭和13年月、糧友會=原本
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とまでいえば、勘のいい人は、ピンと来ましたね。ではジンギスカン鍋とも何か関係があるんだなと。その通りなんです。ジンパ学としても研究すべきターゲットの一人なのです。「糧友」にも、しばしば執筆していますし、ラジオや講演も積極的に引き受け「空襲と食糧」といった本まで書いています。多分、靖国神社にある偕行社文庫に全巻そろっている「陸軍主計団記事」を捜せば、もっと論文がわかると思いますが、そうした兵食改革を唱える人物が糧秣本廠にいたのですから、機関誌「糧友」が影響を受けないわけがありません。ですから「糧友」の内容は、一般市民や家庭の主婦向けというより、全国陸海軍の経理担当、炊事兵はもちろん、女学校の料理の先生、工員寄宿舎や病院の炊事担当者など団体給食関係者に適した記事にウエートが置かれました。
一方、これまで見てきたように農林省は国産でできるだけ多くの羊毛を確保するために緬羊百万頭計画を立てたものの、増え方がはかばかしくない。農家にすれば羊毛だけでは利益が少ないとみて二の足を踏んでいる。家庭で羊肉をたくさん食べるようになれば、つぶした羊の肉も売れるようになり、緬羊飼育での利益が増える。そうなれば農家は、本気で頭数をできるだけ増やそうとするだろう。軍隊で食べている牛肉の代わりに羊肉を食べさせるのが、羊肉の消費拡大の早道だという意見もあったくらいです。
札幌農学校OBで評論家として知られた志賀重昂は昭和2年、大阪毎日新聞に「日本及日本人が頼って以て活くべき方針」を書いています。それにはね「日本は牛肉、豚肉、鶏肉の三者共に高価なること世界第一で、殊に羊肉の如きは濠洲、ニウージーランド将た南米諸国にては恰も日本にていわしを目にするが如きものなるに、私の如きは日本内地にてその生肉を食べたことはこの六十五年間に三回、即ち二十余年目に一回に過ぎぬ。かくのごとく牧畜業の日本に発達せざるは、種々の原因あれども帰するところは陸の少きに座するのである。かくのごとき国柄において陸より完全なる食料を多量に得んとするなどとは嘘である。(7) 」と書いている。そして志賀は「海洋の開拓」と「工業立国」に日本の生きる道があると説いたのです。
私はこれを読んでね、志賀は滅多に口に入らぬ羊肉より、ふんだんに採れるイワシなど魚を食べようという意見だと誤解してました。はい。ところが、よーく読むとね、彼は生肉を食べたのは3回だけと書いている。煮たり焼いたりした羊肉料理とは書いていないんですなあ。まあ、緬羊そのものが少なかったのに、生肉を3回も食べたとは大変なことです。
いまならススキノでは気になるなら焙って食べてと、羊肉の刺身を出す店がありますね。薄切りの刺身かターターステーキかわかりませんが、志賀は皆が臭いと敬遠した羊肉を生で食べたとは、さすが大先輩。いやいや、これは半分冗談、ふっふっふ。冷蔵輸入の羊肉ではなくて、国産の羊肉という意味でしょう。彼は明治19年のニュージーランドをはじめ各国を旅行して、何度となく羊肉を賞味したはずですからね。
それはともかく、志賀のように日本は土地が狭いからと、ハナから緬羊は諦めて魚と満蒙へ雄飛しようと叫ばれても農林省は困りますよね。緬羊を増やせば、羊毛増産が本命でも羊肉も得られる。国家としてみれば新しい食糧の増産になります。臭い、硬いといわずに、なんとか羊肉を食べてもらいたい。そのために、まずは羊肉料理を普及させねばならんとなれば、団体給食の改善を専門とする糧友會にぴったりのお仕事ですよね。
そこで農林省に後押しをしてもらって糧友会は羊肉食の普及活動を始めるのです。その辺はいずれ詳しく話しますが、昭和2年の「糧友」11月号に掲載された「羊肉食宣伝の趣旨」は画期的な内容を含んでいます。今風にいえば糧友會は決意表明をしたわけです。日本の羊肉食の歴史でみれば、明治天皇が普段は牛と羊を食べるとおっしゃられたのに次ぐぐらいの大きな動きだったと私は評価しているのです。ジンギスカンの普及はここから始まっていったとみるべきなのです。はい、資料その2を見る。
資料その2
羊肉食宣傳の趣旨
食糧問題の解決・國産資源涵養の目的を以て、将來発達せしむべき食糧産業助長と、隠れたる食糧資源の一般化を企圖する爲、本會は國家的立場に於て普及宣傳の實行運動を爲す。
糧友會
羊毛は國民生活上並に、軍事上必要缺く可からざる原料品であるに拘らず、これまで我國に於ては、其の需要の全部を輸入に俟つの状況であつて、今試みに大正十四年度に於ける羊毛の輸入額を見るも、實に一億二千餘萬圓の巨額に達して居り、尚これに毛糸、毛織物類の輸入額を加ふる時は、二億三千餘萬圓からになつて居る。これを同年の輸入總額二十五億餘萬圓に對比すれば、正に其の一割に當つて居るのである、これは國家經濟の上から深く考ふる處がなければならぬ問題である。
更に若し一朝、これが輸入の杜絶を見るが如きことあらば、如何の結果を招致するであらうか。
實に羊毛の國内産額の増加は、啻に經濟上のみならず、軍事上に於ても一日も忽にすべからざる國家重大問題の一たるを失はぬのである。 茲に於てか當局に於ても見る處あつて、これの經濟的、技術的の調査研究を遂げ、平時並に戦時に於ける徹底的考察の結果として、所謂百萬頭増殖計畫なるものを樹立し、少くとも陸海軍人、警察官及交通機關に從事する者の被服料は、全部之を自給するやうにせんとして、これが為めに或は緬羊奨勵機關を設置し、緬羊の蕃殖、育成、配府及び飼養の奨勵に努め、或は種緬羊を輸入して之れを無償にて貸付け、或は全國を一定の管區に分ち、技術者をしてこれが監督及び指導奨勵に當らしめ、優良なる緬羊に對しては賞與を給し、或は之れが研究を適當なる機關に託し、又特に研究生を海外に派遣し、或は産毛奨勵金の交付、或は羊肉商の補助、優良種緬羊の買上等あらゆる手段を盡して、此の目的の達成に向つて努力しつあるのである。
斯の如き當局の努力の結果として、其の飼育頭数は長足の増加を示して、大正六年末に於ける、本邦内地飼育總頭敷が僅かに約三千三百頭に過ぎなかつたものが、大正十四年末に至つては、約一萬七千五百頭に達し、八ケ年間に五倍以上に増加したのである。
然し前述の百萬頭計畫に對しては、其の進歩未だ遅々たるものと云はなければならぬ。 これはそも、何に原因するのであらうか、それは決して技術上に於て拙劣であるのではない、又我國の風土に不適當と云ふのでもない。これ全く經濟的の關係から來て居る。
元來羊毛のみを目的とする緬羊の飼養は、假令これを農家の副業として、其の糞尿に大なる肥料價値ありとするも、それだけでは到底今日經濟的に成り立たないのである。
これを經濟的に成り立たせるには、是非とも羊肉の利用價値の増進と併せ行はねばならのである。
このことは、歐米の如き羊肉を尊重して居る國に於てすら、より多く飼養敷の増殖を圖らんとして毛、肉併用の必要を強調して、より多く羊肉食の奨勵をなし、緬羊飼育の經濟價値を高めるに努めて居る状況である。
然るに我國に於ては、未だ羊肉の美昧にして且つ榮養價値の大なるを知るもの少く、中にはその臭味を云為する等、所謂食はず嫌ひの弊に陥る者多きは甚だ遺憾とする處にして只に緬羊飼育の經濟價値を低下せしむるのみならず、延ては緬羊増殖上の支障ともなるべきを以て、この點大に一般人士の覚醒を切望する所以である。
それ故、此の羊肉が我國民全般に嗜好せらるゝに至り、その利用價値が十分に発揮せらるに至らば、現在の如き周到なる政府の指導奨勵や、多額の補助金が無くとも、自ら其の飼養頭敷の増加を見る事が出來るのであつて、當局の樹てたる緬羊増殖計畫第一期の百萬頭に達することも亦難しとせざる所であらう。
この見地からして、羊肉の美味なること、榮養價値の大なることを一般に知らしめ、口から、頭から、此の羊肉に關する知識を普及し、國民的嗜好を開拓し、廣く一般に羊肉を食用するに至るやう、羊肉の利用を宣傳することは、實に、我國の必需品たる羊毛資源を涵養し増産方策を徹底せしめる所以であり、又一面質から觀た我國の食糧問題解決の一端ともなり、且つは農村振興の一助ともなることであつて、これ亦正に我國をば、經濟上に於て、軍事上に於て、将た榮養上に於て、安固なる基礎の上に置く所以のものである。
以上は本會の羊肉食普及宣傳をするに至りし趣旨にして偶々農林省當局からの委託もあつて、茲に本會は羊肉講演、羊肉試食會、羊肉料理講習會、羊肉廉賣會等を開催して羊肉知識の普及と榮養經濟美味羊肉料理の一般化を圖り、以て劃時代的に羊肉利用價値の増進を圖り、依つて食糧問題解決の一端に資し、且つ經濟上、國防上重要なる被服原料の増産政策の徹底を期する次第である。
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参考文献
上記(7)の出典は神戸大学新聞記事文庫、日本(21−025) http://www.lib.kobe-
u.ac.jp/das/jsp/ja/Content ViewM.jsp?METAID=00484414& TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_M
ETAID=00484414、資料その1は糧友會編「糧友」2巻11号2ページ、昭和2年11月、糧友會=原本
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どうですか、ちょっと見慣れない漢字がたくさん入っているでしょう。手間は掛かるのですが、できるだけ原文の旧字体を再現したかったからです。昭和の初めはこんな”感じで漢字”を使っていたのです、はっはっは。
さて、最初の2行に狙いが込められているのがわかりますね。中の食糧という2字を羊肉に置き換えてみると「羊肉問題の解決・國産資源涵養の目的を以て、将來発達せしむべき羊肉産業助長と、隠れたる羊肉資源の一般化を企圖する爲、本會は國家的立場に於て普及宣傳の實行運動を爲す」となります。味見もしないで羊肉は臭いという偏見を解消し、国内の食肉資源をじっくり増やすことを目的とし、羊肉を牛豚鶏肉と同じように好んで食べれば、緬羊の飼育頭数も増えて国家的には大助かりなので、糧友會は一生懸命に羊肉食の普及宣伝をすることにしたと宣言した。緬羊を飼う農家が増えることは、一般家庭だけなく、兵士向けの食肉資源にもなるのですから糧友會の大スポンサーである陸軍糧秣本廠も助かるわけです。
その次は、羊肉食問題の根幹である羊毛自給の必要性、そのために緬羊増殖計画を立てて手厚い保護をして、8年間で5倍以上増えはしたものの、100万頭という目標から見れば100分の1強に過ぎない。その遅れは羊毛販売だけを目的として緬羊を飼ったのでは農家の副業として成り立たないという点にある。どうしても羊肉もどんどん売れて、毛と肉の両方から収入を得られるようにしなければならない。だから「國民的嗜好を開拓し、廣く一般に羊肉を食用するに至るやう、羊肉の利用を宣傳すること」が大事なのだと説いています。まるで農林省畜産局が用意した議会答弁のような感じですね。
とにかく有言実行とばかり、その11月号に「羊肉食奨励ポスター・漫画・小説」の懸賞募集の記事を載せました。「ポスターたると、小説・漫画たるとを問わず、糧友十一月号紙上発表『羊肉宣傳の趣旨』を最もよく民衆に知らしむるもの」ということで、12月15日までに糧友會会に送るよう呼びかけています。賞金総額は100円で、8000字以内の小説は1等だけで30円1名、ポスターまたは漫画は1等30円で1名、2等10円で2名、3等は5円で4名(8)と公表しています。月刊誌ですから、11月号が10月中に出ていたにしてもせいぜい2カ月で、しかもほとんど知られていない羊肉のうまさをわからせるような小説を書くのは容易ではないでしょう。キリンビールのホームページによりますと、昭和5年に大瓶が38銭となっています。いま321円でだいたい1000倍とみて小説1等で10万円ですか、たいした賞金ではないですね。
果たせるかな、応募者は少なかったようで翌年、昭和3年2月号の懸賞当選発表を見ますと、身内ばかりのようなのです。「農林省畜産局、中央畜産会、糧友會にて審査の結果左の如し」ともったいを付けていますが、ポスターは1等が川島四郎、2等が池本信己、川島四郎、高橋数馬の3人、選外佳作は椙本卓示、笠原民三、笠原民三の3人となっています。小説は1、2、3等当選者はなく選外佳作に川島四郎、加藤鐵矢の2人(9)としています。漫画の発表がありませんから、糧友會事務局のメンバーだけでは手が回りかねたのでしょう。
ポスターと小説と奮闘したこの川島四郎は、陸軍の主計将校なのに東大に入り、栄養学を学び、陸軍で栄養食を研究したという経歴は、糧秣本廠で疲労の研究に従事した西川勢津子さんが書いた「勢津子おばさんの青春物語」などで知っていましたし、こんなに応募したのは糧秣本廠員だからだろうと昭和2年1月1日現在の「職員録」を見たら川島一之助はいるけど、四郎はいない。おまけに昭和5年1月1日現在の「職員録」まで一之助(10)、7年1月1日現在の「職員録」から四郎(11)だから、この間の改名を疑いましたよ。
でも「日本陸海軍総合事典」にある四郎の経歴と「職員録」の調べ直しで、一之助と四郎は別人で、一緒にいた時期もあるとわかりました。そのとき「職員録」の目次から師団はすぐ引けるけど、例えば「三等主計・歩12連隊付」の12連隊は何師団にあるのか探すのに時間がかかる。インターネットで旧陸軍の師団ごとの連隊一覧表を探したが、なかったので私が作りました。これはジンパ学と無関係なので、スライドで皆さんに見せて講義録に収めておけば、だれかが私と同じように聯隊の所属師団調べをしようとインターネットで検索したら、これが出て助かるでしょう。はい、その関係表を見せましょう。
旧帝国陸軍の師団と歩兵聯隊配置表
《内閣印刷局編「職員録」(昭和10年7月1日現在)による》
近衛師団(東京)
近衛1、近衛2、近衛3、近衛4聯隊
第1師団(東京)
歩1、49、3、57聯隊
第2師団(仙台)
歩4、29、16、30聯隊
第3師団(名古屋)
歩6、68、18、34聯隊
第4師団(大阪)
歩8、70、37、61聯隊
第5師団(広島)
歩11、41、21、42聯隊
第6師団(熊本)
歩13、47、23、45聯隊
第7師団(旭川)
歩25、26、27、28聯隊
第8師団(弘前)
歩5、31、17、32聯隊
第9師団(金沢)
歩7、35、19、36聯隊
第10師団(姫路)
歩39、40、10、63聯隊
第11師団(香川)
歩12、22、43、44聯隊
第12師団(久留米)
歩14、24、46、48聯隊
第14師団(栃木)
歩2、59、15、50聯隊
第16師団(京都)
歩9、20、33、38聯隊
第19師団(羅南)
歩73、74、75、76聯隊
第20師団(京城)
歩77、78、79、80聯隊
朝鮮軍(京城)
台湾軍(台北)
台湾歩1、2聯隊
関東軍(旅順)
支那駐屯軍(天津)
川島は大正7年に陸軍経理学校を出てから香川の12聯隊、弘前の8師団、関東軍の旅順に勤務し、経理学校の上級課程に進学し、大正14年以来東京にいた。懸賞募集のときは員外派遣学生として東大農学部で勉強していたのですがね、本廠に出入りして懸賞の応募者増やしに手を貸したとみられます。
絵描き志望だったそうで、糧友には漫画をつけたりして硬軟いろいろ埋め草を書き、後に主計少将まで昇進します。それで「立川で終戦を迎えられた閣下は、戦争に大いに力を尽したということで、B級戦犯に擬せられての日々を送り、それからは公職追放令というのにかかり、いっさいの公職にはつけない生活が昭和二十七年までつづきました。(12)」が「桜美林大学教授,食糧産業研究所長(13)」となり、現場主義でアフリカなどの食生活を調べたりして30冊以上本を書きました。
また川島は駒井徳三さんと同窓、京都二中の後輩ということからの顔見知りだったようで、前に挙げた「麦秋駒井徳三」に「非凡大人物の腹の中」を寄稿しています。そもそも羊肉食宣伝の懸賞募集をしたといっても「糧友」の定期購読者が対象であり、普通の新聞や雑誌を使って呼びかけたわけでもありませんから、応募者皆無に近く、事務局員が何点かずつ作ることで格好をつけ、多分お手盛りで当選者を決めちゃった可能性大です。
事実はそうであっても、選外佳作でも何でも応募した小説があった証拠を示さなければなりません。昭和3年3月号に懸賞応募羊肉宣伝小説「美代子の家出」が掲載されています。加藤鐵矢作、小寺成春画と挿絵も付いています。粗筋をいいますと、主人公は、勝手知ったる糧秣廠の職工で野田正夫という独身男性です。下宿から糧秣廠に通っているのですが、なにか研究しているらしく、ときどき変な内臓を煮て食べたりしているのです。その下宿にはおばさんがいて、一人娘で「子羊のやうな容姿」の山岸美代子がいるのです。美代子は江知勝という料理屋の通い女中、いまでいえばウエートレスですな。それをして、朝10時半から夜11時まで働いている。美代子は正夫が好きらしいけれど、おばさんは美代子に税務署勤めの敬吉なる男との結婚を勧めるのです。正夫が風邪を引いて休んだ日に、おばさんが美代子に敬吉との結婚を勧めている話をたまたま聞いてしまうのです。とくに、正夫について「馬か犬の腸なんかを食い、馬鈴薯酒を飲む素寒貧はだめだ。下宿賃はたまっているし、火鉢の炭なんかうちの炭をくすねているかも知れないような男だから」と悪口をいうのです。それでカチンと来た正夫は、たまっていた2カ月分の下宿料と「炭代」金一封を置いて、突然下宿を出たのです。
それから場面が変わって銀座の羊肉専門のレストラン「ヒツジ軒」の話になるのです。1品10銭と安いので気楽に理研酒で一杯やれるし、定食は70銭で一等は濠洲、二等は支那、三等は東北地方の無料旅行券が当たるというくじ付きで売っているので、押すな押すの繁昌ぶりだというのです。そこへ羊肉カレーを食べにきた糧秣本廠勤めらしい数人の男たちがうわさ話をしているのです。昔、糧秣本廠に務めていた男で、やめて古里の山形へ帰り、払い下げになった軍馬育成所を買って羊を飼って成功、いまは5000頭以上飼っているそうだ。その男がいた下宿の娘が失恋して家出したので、そのおっかさんは頭がおかしくなったそうだというのです。それをレジで聞いていたレストランの主人が聞き、がっくりした表情になった。その主人こそ正夫であった(14)―というストーリーなんです。ちょっと記憶違いもあるかも知れませんが、主人公の羊のモツ煮試食らしい行為、羊肉レストランのアイデア、理研酒という合成酒が飲めるなど、糧友會の面々が常日ごろ話し合ったり計画している羊関係の仕事を反映させたと思われる内容なんです。まあ、文豪が書いたわけでもなし、羊肉食が気楽に食べられるレストランを取り上げたあたり関係者が苦心したことを認めましょう。
それからね、糧友会は「糧友」の記事として何も書かず、いきなりみたいな形で、羊肉料理講習会も開きました。だから「糧友」愛読者はですよ、11月号の「羊肉食宣傳の趣旨」で、いずれ講演会か講習会でもやる気だなと感じたにせよ、昭和2年11月24日に糧秣本廠で第1回講習会を開いたことは翌3年1月号を読んで知ったのです。11月末にやると書いたところで12月1日発行の「糧友」12月号では、終わった行事の予告になり、みっともないからですね。
代わりに新聞を通じて知らせるという手を使ったのですが、どうも講習会が迫ってから新聞社に知らせたらしく、皆、といっても3紙だけですが、当日の朝刊にお知らせを掲載してます。1月号の記事からすると、関係者とその家族で100人を超える見通しになったので、本気で一般市民を集める気はなかったんじゃないかなあ。
初の羊肉料理講習会の模様は「糧友」昭和3年1月号に掲載されてます。これは鍋羊肉と書いてカオヤンローと読むと説明しながら、糧友會がジンギスカン料理の実演を初めて公開した記録で重要でありますから、資料その4として少しく長目に引用しました。
また、この講習会を開くというお知らせを載せた読売、都、国民の3新聞を見ると、読売は朝刊3面に「羊肉料理講習会」という1段見出しで「本日午前十時より深川越中島陸軍糧秣本廠に於て羊肉料理講習会を開く講習試食共無料参会随意」(15)と極めて簡単。都も同じ見出しで「二十四日午前十時より深川越中島陸軍糧秣本廠に於て羊肉料理講習会を開き、試食共無料にて歓迎すると(16)」と載せています。まんず、普通のかあちゃんは行かないんでないかい、頼まれたから書いてやるかといった感じだし、取材してこんな講習会だったという記事もありません。
ところが、国民新聞は違うんですね。女性向けのお知らせを載せる「婦人界だより」という欄に「◇羊肉料理講習会 深川中島の陸軍糧秣本廠内糧友会では十一月二十四日午前十時より午後三時まで同廠内で一戸伊勢子、満田百二、秋穂英太郎氏を講師として羊肉料理の宣伝講習会を開きます。會費無料(17)」と細かく書いていました。
その上、国民新聞は講習会の取材はしなかったけれども、糧友会で提唱する羊肉料理という見出しで3品のレシピを載せたのです。講習会から4日後だから羊肉料理講習会でどんな料理を教えたのかと気にしていた読者は当然、これらは講習会で実演した料理と受け取ったと思うんですが、どうも同じではないんですねえ。その考察は後でやります。
糧友会自体は「糧友」12月号でね、資料その3にした写真2枚と短い記事で初の講習会開催を速報しました。華々しく書き立てたいのは山々なれど、この号は年末号だからここは写真主体で軽く流し、正月号にまとめてドーンと載せようと編集部内で決めたらしいが、詳しいことは正月号で読んでとも書いておらず、素人くさい愛想のない中身です。
写真は「十一月二十四日陸軍糧秣本廠内に於て開かれた糧友會主催羊肉料理講習會の盛況」と説明文が付いています。上の写真はカメラのすぐ前の男性の輝くおつむがミラーボールみたいに光線を散乱させたようで、奥までよく見えませんが、前方の演壇上に白衣の男性2人と、一戸さんと思われる割烹着を着た女性1人が見えます。
下の写真は演壇側から撮ったものですな。最前列の中央に婦人3人が並び、すぐ前のテーブルには皿、ボウル、バット、瓶などが置かれています。奥の幅広の白い布は映画のスクリーン用につるしたものでしょう。
資料その3
(1) 羊肉料理講習會
去る十一月二十四日午前十時より本會主催羊肉料理講習會を陸軍糧秣本廠内に於て開いた。
佐藤理事、丸本委員の講演に続いて一戸伊勢子女史、満田百二氏の羊肉料理の實施指導があつた。
出席者百名に達し盛會であつた。特筆すべきは、同會に於て出來上る羊肉料理の試食をなしたが、その滋味に、一同舌鼓を打つて賞味したことであつて、羊肉食普及の上にカ強い或るものを感じたことである。
議習終へて後、農林省の御好意による「羊礼讃」の映画二巻を映写して散會したのは午後四時過ぎであつた。
(2)
そうなると注目されるが「糧友」1月号の報道ぶりです。第1回羊肉料理講習会のメインイベントは、なんといってもまったく珍しい支那料理、鍋羊肉ことジンギスカン料理の実演です。それでね、本邦初公開、鍋羊肉のデビューとなったこの講習会はジンパ学上、いや日本羊肉食普及活動史上からも極めて重要な行事だったと評価し直し、資料その4として今年度から記事全文を引用して皆さんに伝えることにしました。
また糧友会はそれまでに完成した羊肉料理のレシピも同じ1月号で発表しました。資料その4(2)の「羊肉料理法」がそれです。同(1)の(別項にあり略す)という別項がこれで10ページも割いています。
「羊肉料理法」の執筆者は糧友会として、個人名を伏せていますが「御座います」を繰り返し「其の臭がいけないと申されますが、」といった言い回しは、かなり古風な奥様を想像させます。となれば、当時、糧友會に出入りしていた料理研究家の一戸伊勢子さん以外にこれだけ書ける人はいないといってきましたが、その後の研究で自信を持って一戸さんだと断定しました。材料の説明で味醂ではなくて、味淋と書き、しばしば使うのも一戸さんの料理の特徴ですからね。
それから記事の本文にはないけれど、開会挨拶で佐藤評議員がきょうは農林省指定の羊肉店の松井平五郎氏がここに来て羊肉の安売りをしているから買って食べてほしいといい、農林省の岸技師も松井肉店を通じて羊肉を広めようとしていると述べてますよね。この講習会の9年後に高円寺で開店した成吉思荘というジンギスカン料理店は、平五郎さんの息子の初太郎さんが経営しましたが、元々は平五郎さんの別荘だった建物でした。
資料その4
(1)
本會は国産資源の涵養と、食料産業の助長の為めに、農林省畜産局の後援を得て、羊肉に關する知識の普及を圖り、國民的嗜好を開拓して以つて羊肉の需要を喚起し、従つて自然に羊毛資源を涵養して國家經濟の増進、食糧間題解決の一端にもと、羊肉宣傳を開始した事は既報の通りである。先づ其の實行の第一歩として十一月廿四日第一回羊肉料理講習會を糧秣本廠に於て開催した。
当日は午前十時前より来会者多く農林省畜産局より局長代理岸技師、山田技手、本會評議員佐藤慶太郎氏、同土岐子爵夫人令嬢、栂野理学士、陸軍経理学校、陸軍砲兵工廠等の陸軍関係部隊団体炊事研究會員、本會會員の令室令嬢及糧秣本廠員糧友會役員を加へて百五十名に達した。
先ず十一時に至つて丸本委員開会を宣し
一、開會之辞 佐藤金治氏
糧株本廠佐藤主計監は例の温容を輝やかして先ず本會理事として來會者に挨拶をされ、本會が羊肉宣傳に至りし経過と其趣旨(二巻十一號掲載に就き略す)を述べ
一口にいふと我國は平時の國民生活上にも、戦時に於ても非常に羊毛を必要とする、處が我國に羊は極めて少ない、其の原因は羊を飼つても經濟上引き合ぬ、それは毛のみならず肉をも喰ふ様になれば、自然肉價が出て經濟上引は合ふに至らう、そこで本會はその宣傳と料理の研究の必要を感じ、羊肉講習會を來年四月頃迄に数回開き、更に今日は農林省指定羊肉商松井平五郎氏に依頼して廉賣をして貰ふ事にした、何卒この趣旨を御諒解下さいまして、御家庭に羊肉を御使用になる爲めに、料理のコツをお覚え下さいます様お願ひする次第である。
と緬羊の増殖は國家國防の立場からの必要を力説し、従つて羊肉の家庭化を高潮された、次で畜産局長代理岸技師の講演に遷つた。
二、講演
本邦の緬羊飼育について 岸良一氏
別項所載の如き講演あり。
羊肉知識 丸本彰造氏
例によつてその豊富な食糧知識を以つて趣味と諧謔を混へて述べられる。
三、試食
斯くて十二時を過ぎたので、來賓及講習員來會者一同に羊肉にトマト入りのアイリシユ・スチウを供して試食して戴いた、一同はこれが臭いといはれる羊肉ですかと驚いて居られた、中には食通を以て任ずる方は、どうもこれでは折角の羊肉もその香がしませんのでといふ方すらあつた、満田講師は『實はもう少し羊肉の香をさせるのが羊肉料理としての立て前ですが、初めての方が多いと思つて香のない様に料理しました』と説明される。
四、料理實演
満田百二氏
一戸伊勢子氏
先づ満田氏立つて羊肉料理の料理上の注意、即ちコツを細々と述べられ、(別項にあり略す)次で一戸先生が實演にとりかゝられる。
1、羊肉すき燒 一戸講師
2、鍋羊肉 満田講師
3、羊肉おろし和 一戸講師
4、炒羊肉 満田講師
仔細な説明を加へ乍ら實演された、殊に鍋羊肉は松葉に燻べながら焼くのに鍋羊肉と鍋の字があるのは如何といふ質問が出たに對して、丸本委員は立つてこれは成吉思汗(ジンギスカン)鍋ともいひ今でも北京の郊外でこの方法をしてゐることなど歴史と實地踏査の両方面から述べられたりした、出來上つた料理は一々來會者に供したので一同は試食して羊肉の臭ひとかいふ事などの批難のいはれない事を泌々感じられた事であつた、炒羊肉が終つた時は既に午後四時であつた。
五、活動写真
さらに農林省畜産局より提供された米国農務省撮影『羊牧の状況』を映写して、あの温順でやさしそうな羊の群れが、緑の野に、渓水ゆるやかな谿澗に、或は廣々とした平原に、或は大規模な牧場で、静かに群れ遊び、時には隊形を整へて長い列をつくるなど、見る私共に素直さとやはらかさを感じさせた。
本邦の緬羊に就て 農林技師 岸良一
<講演の(一)と(二)は略>
(三)
前に述べた様に緬羊飼育に依る収入中肉羊に依る収入は少なからぬ部分を占めて居る、而して羊毛は其の販路に困る事なく、蕃殖緬羊は頗る多いから之等の将來に対しては特に心配することもないが、肉羊は將來緬羊が殖えて來ると其の販路に付今より準備をして行かねばならない。
然るに羊肉に対しては喰はず嫌ひの批評家許り多いので是非其の妄を去つて置き此の滋養ある食品を利用して戴き度いのである。此の点に於て糧友会今回の催は誠に結構な次第で大に感謝して居る所である。講習會に御出席の皆様にも此の機会に羊肉の如何なるものなるかを充分御理解下さつて充分御宣伝を願ひ度い、羊肉の供給に付ては大正十三年頃より東京赤坂の松井肉店を指定して之を売り拡め、肉羊の供給に就ては本省自ら色々斡旋に努めて居る、現在でも羊肉は豚よりも安く供給しても居るが將來肉羊の肥育が進んで來るから一層良質の羊肉を出し得ることゝ思つて居る。
(2)
羊肉料理法 糧友會
一、羊肉料理上の注意
凡て獣肉には夫れ/\゛固有の臭が御座います。羊肉にも
羊肉特有の臭があります。欧米人は此の臭と其の高尚な味
と、而して軟かい肉を殊更に賞美いたしまして、毎日の御
惣菜としてはもとより、正餐の場合にも色々の料理をして
珍重して居りますが、我が國では、未だ羊肉の歴史も浅く
従つて、其の使用も一部の人々に限られて、一般的にな
つてゐない関係上、食はず嫌ひの人が澤山あるやうで御座
います。又假令一二度召し上つた方がありましても、其の
料理の方法が合理的でないのと親しみの薄い関係上羊肉
はおいしいが其の臭がいけないと申されますが、其の固有
の臭も料理法によつて簡単に取り除く事が出來るので御座
います。
今その方法について、特に注意すべき事を申しますれば、
一、成るべく外部の皮下筋や脂肪を取り除くこと
羊肉の臭は主として、外部の皮下筋や脂肪に多いので
御座います。又料理いたしましても、羊肉の脂肪は、
(蝋質)が澤山ありますから、一寸冷めますと直に固ま
り易いからであります。
二、短時間の中に高熱で調理すること
高熱と申しますと、煑物にする場合は摂氏百度でご座
いますが、油でいためますと、それよりもつと高く百
八九十度の高熱となり、むし焼きにして二百二十度、
直火で焙りますと、三四百度迄も上るので御座います
から、いま羊肉料理として一番適當しておりますのが
焼物で次に「むし焼」、それから油でいためると云ふや
うになるのでござゐます。それですから、たとひ煑物
にいたします場合でも、最初ザツト焙るか油でいため
てから煑るので御座います。
三、使用する油は羊肉脂肪はもとより動物性のヘツトや、
ラードよりも、植物性の胡麻油や落花生油等が適當し
て居ります。
四、「取り合せ」といたします野菜特有の香りで、羊肉の
臭を消す方法で御座います。例へて見ますと牛蒡、獨
活、葱等の臭ひある野菜を配合して汁物や、煑もの、
和へもの等を仕上げるので御座います。此の外料理に
よつて同じ目的の爲に香辛料、例へば粉山椒、七色唐
辛子、胡椒、月桂樹の葉等を用ひます。
先づ以上の點に就て注意して頂けば結構です。尚料理法
も和漢洋と其の方法も異なり、材料の撰択も異つて参りま
すから一般の惣菜料理として歓迎されて居ります各種のも
のに付て申上げます。
二、羊肉料理
◎焼物
一、羊肉素焼(五人分)
材料
羊肉(ロース又は股肉) 百匁
大根 七十匁
醤油 三勺
準備
羊肉は其の織維に直角に薄くへぎ切り、大根はすりお
ろしてザツト水気を絞りとつて醤油をまぜておきます
調理
すき焼鍋を強火に架け、十分熱したるとき胡麻油(又
はヘツト)を鍋一面に薄く敷きて煙立つ中に前の羊肉
を一枚づゝ壓しつけるやうにして列べ、肉の縁が色褪
せた時に裏返して、両面とも薄く焦げ色のつくを度と
して、大根をつけて焼きながら食べます。
二、羊肉の鍋焼(五人分)
材料
羊肉(ロース又は股肉) 百匁
味淋 一勺五才
醤油 二勺
胡麻油 一勺
小麦粉 十匁
準備
羊肉は厚さ一分位に切つて味淋醤油の中に約三十分間
浸して取り出し、両面に小麦粉をまぶしておきます。
調理
フライ鍋を火に架けて十分熱したるとき胡麻油を薄
くまんべんなく敷きて、煙立つ中に前の羊肉を壓しつ
けるようにして列べ、その上に胡麻油を少しづゝ落と
しておきます。肉の縁が色褪せて来た時に裏返して、
他の面も同様に仕上げます。
三、羊肉のすき焼(五人分)
材料
羊肉(ロース、肩ロース、又は股肉) 百匁
葱 二本
芹又は三葉 一把
胡麻油 少量
醤油 一勺
味淋 一勺
準備
羊肉は薄く切りて味淋をかけてまぜ合はしておき、芹
又は三葉はよく洗ひて一寸位に切り、葱は斜切りにし
ておきます。
調理
すき焼鍋を強火に架て熱し、胡麻油を入れて煙立つ中
に羊肉を、鍋の底に張りつけるようにして列べ、両面
を焼き野菜を入れて共にいため、味淋(又は砂糖)醤
油で味をつけます。
備考
羊肉は煑汁より煑立てる牛鍋式よりも、前のすき焼式
が適當してをります。
四、鍋羊肉(支那料理の焼肉)(五人分)
材料
羊肉(肩又は股肉) 百二十匁
醤油 五勺
酒 二勺
砂糖 十匁
七色唐辛子 少量
胡麻油 少量
準備
羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七色唐
辛子を合せた中に約三十分浸しておきます。(漬け汁は
とつて置きます。)
調理
焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪に
かけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。
注意
炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多少
燻し氣味に焼きますと一層風味がよくなります。
五、羊肉味噌漬焼(五人分)
材料
羊肉(肩又は股肉) 百匁
味噌 三十匁
酒 三勺
砂糖 五匁
醤油 二勺
七色唐幸子 少量
準備
豚肉は薄く五切として味噌、醤油、酒、砂糖を合せた<原文のまま>
中に半日位漬けておきます。
調理
味噌の中より羊肉を取り出し、味噌をよく拭き取り、
串に刺して焼くか、又は金網にかけて焼き、嗜好によ
つて七味唐辛子を少し振りかけ、野菜類を添へ合せと
して盛り合せます。
六、むしやき羊肉(ローストマトン)(五人分)
材料
羊肉(股肉)百二十匁
玉葱 十五匁
食塩 二匁
月桂樹の葉 五六枚
胡椒 少量
小麦粉 五匁
味の素 少量
胡麻油 少量
準備
イ、羊肉は丸のまゝ成るべく脂肪を去つておきます。
ロ、玉葱は天地を切り落として薄皮を去つて薄く小口
切りとしておきます。
ハ、小麦粉は約三勺の水で溶いておきます。
調理
フライ鍋に胡麻油を入れて強火に架け、煙立つ中に羊
肉を入れてまんべんなく狐色になる迄炒りて、別の鍋
に移し湯一合を入れ食塩胡麻を撒りかけ葱及び月桂樹
の葉も共に入れて再び文火に架け蓋を密閉して約四十
分(時々肉をかへします)沸して取出し、其の汁に水
溶きしたる小麦粉を流し込んで水篩で濾し、食塩及び
味の素で調味して「かけ汁」を作つておきます。
前の羊肉を薄く小口より切つて皿に盛り、其の上にか
け汁をかけます。
備考
盛り合せとして、つぶし馬鈴薯か粉吹馬鈴薯を添へま
す。
◎揚物
一、羊肉龍眼揚 (五人分)
材料
羊肉(頸肉又は脛肉)百匁
玉葱 十匁
醤油 一勺
味淋 五才
澱粉 二匁
胡麻油
準備
羊肉は小さく切つて玉葱と共に肉挽器にかけるか、又
は俎に載せて庖刀の刃にて葱と共に充分叩いて、醤
油と味淋を入れて味をつけ、約十五個に丸め、澱粉を
まぶしておきます。
調理
鍋に胡麻油を入れて熱した時に入れ、少し氣永に表面
が乾く迄揚げ、大根おろしを添へ合せます。
二、炒羊肉(五人前)
材料
羊肉(股又は肩肉)百匁
根生姜 十匁
醤油 二勺
食塩 少量
澱粉 五匁
胡麻油
準備
羊肉は薄く平に切り食塩、醤油を加へてよく混ぜ、十
分間其のまゝとなし、澱粉を撒り入れてよく混ぜてお
きます。
調理
鍋に胡麻油を入れ、煙立つ迄熱し、肉を一枚づゝに離
して入れ、狐色になる迄揚げて皿に盛り、暖い中に
食べます。
◎煮物
一、アイリシツユ スチウ{トマト入り羊肉煮込汁}
(五人分)
材料
羊肉(頸、バラ肉又は骨付き肉)百三十匁
玉葱 八十匁
人参 三十匁
馬鈴薯 百匁
小蕪青(又は獨活) 四十匁
青豌豆 十五匁
トマトー汁 一合
小麦粉 十匁
食塩 四匁
味の素 二分
胡椒 少量
胡麻油 少量
準備
イ、羊肉は五六分角に切つておきます。(骨つきの肉な
れば骨と共に七八分角に叩き切る)
ロ、王葱、人参、馬鈴薯、小蕪青(又は独活)は皮を
去り五六分角に切り、青豌豆は罐より出して水洗
ひしておきます。
ハ、小麦粉は水溶きにしておきます。
調理
鍋に胡麻油を熱し。煙立つ中に羊肉を入れて、炒り上
げ(炒つて鍋を火より卸ろして冷ましておきますと尚
結構です。充分浸す丈けの煮湯を注ぎ入れて煮立て、
上面の泡を掬ひ去り、先づ人参を入れ次に馬鈴薯、蕪
青、葱の順序に入れ、材料を被る程の沸湯とトマトウ
汁とを入れ、一通り火の通りたる時に食塩を入れて煮
込み、水溶きした小麦粉を流し込んで、緩く混ぜ合は
し更に食塩と味の素にて調味し、皿に盛つて青豌豆を
撒りかけます。
二、羊肉酢の物
材料
羊肉(肩肉)百匁
玉菜 二百匁
食酢 一勺
味淋 一勺
月桂樹の葉四五枚
砂糖 少量
味の素 少量
食塩 少量
根生姜一個
準備
イ、羊肉は繊維に直角に一寸位の大切りとしておきます。
ロ、玉菜は細く千切として水(塩酸一、二滴落す)に
浸し、暫くさらして、水を切つておき、生姜は皮を
コソゲ落して千切にしておきます。
食酢、味淋、砂糖、食塩、味の素を合はして三杯
酢を作つて置きます。
調理
鍋に羊肉と月桂樹の葉を入れ焦げつかぬ丈けの沸湯
を入れて火に架け、蓋を密閉して二十五分許りむして
とり出し、繊維に添ふて糸のやうに裂き、前の玉菜と
共に三杯酢をかけて生姜を撒りかけます。
三、羊肉のおろし和へ (五人分)
材料
羊肉(肩又は腿肉)百匁
葉葱 三十匁
大根 百五十匁
味淋 二勺
食酢(又は柚酢)二勺
砂糖 三匁
食塩 少量
味の素 少量
準備
イ、羊肉は繊維に直角に一寸位に切りて鍋に入れて茹
で火よりおろして蓋をして暫らく蒸してとり出し、
「塩酢」に浸して冷めたくなる迄おきます。
ロ、大根は摺りおろして置きます。
ハ、葱は薄皮をとつて斜切りとしてザツトゆで、その
まゝ水氣を切つておきます。
調理
酢漬けにした肉を繊維に添うて糸の如く裂き、大根お
ろしの水をザツと絞つて酢、味淋、食塩、砂糖、味の
素を入れて混ぜ合せ、前の肉及葱を入れて和へます
四、羊肉のみどり和へ(五人分)
材料
羊肉(肩又は腿肉)百匁
葉葱の青い部分 二十本
味淋 一勺
砂糖 三匁
食酢 三勺
塩 少量
準備
羊肉は繊維に直角に約一寸位に切つて鍋に入れて
ゆで、一通り火の通つた時蓋をして火よりおろし
暫く蒸しておきまして塩酢の中に浸けておきま
す。
葱はよく洗つて熱湯に塩少量を入れて、ゆで、そ
のまゝ笊に拡げて冷まし、水を絞り、細さく小口
切りとなし、摺り鉢に入れて摺り潰ぶして裏漉し
にかけ食酢、味淋、砂糖、食塩、味の素を入れて
おきます。
調理
葉葱の摺り身を衣として羊肉を和へます。
五、芙蓉羊肉(支那料理の羊肉卵とじ) 五人分
材料
羊肉(肩肉又は腿肉)百匁
豆素麺(春雨) 一匁
卵 五個
葱 一本
醤油 一勺
食塩 少量
砂糖 少量
味の素 二分
胡麻油
準備
イ、羊肉は幅一分、長さ一寸位に切り、醤油を混ぜ合
はし、フライパンに胡麻油を引いて強火にかけ、煙
立つ中に前の羊肉を入れて空炒し、鉢にとりて冷
まし、フライパンはよく拭つて置きます。
葱は細かく切り、豆素麺(春雨)は胡麻油を熱し
て、カラツと揚げ、短く揉み潰しておきます。
調理
卵を割つて撹きまぜ、前の羊肉、葱を加へ醤油、砂糖
食塩、味の素にて調味し、フライ鍋に胡麻油少量を入
れ熱した時、卵を掬ひ垂らし、裏返して両面より焼き
あげて豆素麺を下敷きとして盛ります。
六、包羊肉(肉饅頭) (五人分)
材料
羊肉(肩又は頸肉)百匁
小麦粉 八十匁
葱 五十匁
椎茸 三匁
もやし 三十匁
生姜 二匁
胡椒、食塩、醤油、少量
胡麻油
準備
イ、羊肉は挽き潰すか又は俎の上に載せ、庖丁の刃の
方にてよく叩き潰しておきます。
ロ、小麦粉は水四勺位を入れ、耳たぼより少し硬い
位に捏ねておきます。
ハ、椎茸は水に浸して石附を取り、微塵切りとして
おき、もやしはよく洗つて笊にとり、葱、生姜は
共に細かく刻んでおきます。
調理
鍋に胡麻油を少し入れ、強火に架け、羊肉を空炒りし
て之れに葱、生姜、椎茸、もやしを加へ食塩、醤油、
胡麻にて調味しておきます。
捏ねておきました小麦粉を麺棒で薄く紙状に伸ばし、
幅二寸長さ三寸位に切り、其の中に前の肉を入れ、巻
き口に水(又は片栗粉)を塗りてよく包み、熱した胡
麻油の中で狐色になる迄揚げます。
七、羊肉骨スープ
材料
羊骨三斤(脛又は大きな骨を可とす)
清水 一升
玉葱 一個
人参 半本
食塩 少量
準備
イ、羊骨をよく洗つて砕き、玉葱、人参は小口切りと
しておきます。
調理
アルミ又は琺瑯引きの鍋に清水と共に、羊肉、葱、人
参及食塩少量を入れて文火にて約一時間半煮沸して
時々浮き上る泡を掬ひとつて最後に煮汁を布濾しにい
たします。
◎内臓料理
羊の内臓は主として肝臓、腎臓、心臓、脾臓等を用ひま
す。腸は色々の肉類を腸詰にいたします。
八、羊もつ焼(焼鳥式) 五人分
材料
羊肉内臓 百匁
胡麻油 一勺
醤油 八勺
砂糖 十匁
生姜 五匁
蕃椒 少量
準備
イ、内臓は切目をつけて水に浸し血抜をしてザツト
ゆでゝ適宜の大さに切つておきます。
ロ、生姜は微塵切としておきます。
調理
鍋に胡麻油を入れて熱し、煙立つ時内臓及び生姜を入
れて炒り、砂糖、醤油を入れ、一通り醤油の浸み込み
たる時ときあげて其の汁を煮詰め、更に前の内臓、蕃
椒を入れて煎りあげる。
注意
其の外内臓料理として、つけ焼、よせもの等がありますが、
何れも香辛料として月桂樹の葉に山椒、生姜、胡椒等を用
ひます。
|
参考文献
上記(8)は糧友會編「糧友」2巻11号28ページ、昭和2年11月、糧友會=原本、
(9)は同3巻1号37ページ、昭和3年1月、同、
(10)は内閣印刷局編「職員録」(昭和5年1月1日現在)52ページ、昭和6年10月、内閣印刷局=近デジ本、
(11)は同(昭和7年1月1日現在)51ページ。昭和7年3月、同、
(12)は西川勢津子著「勢津子おばさんの青春物語」199ページ、平成元年7月、主婦の友社=原本、
(13)は秦郁彦編「日本陸海軍総合事典」2版50ぺージ、平成12年8月、東京大学出版会=原本、
(14)は糧友會編「糧友」3巻3号129ページ、昭和3年3月、「美代子の家出」より、糧友會=原本、
(15)は昭和2年11月24日付読売新聞朝刊3面=マイクロフィルム、
(16)は同日付都新聞朝刊4面、同、
(17)は同日付国民新聞朝刊4面、同、
資料その3(1)は糧友會編「糧友」2巻12号123ページ、昭和2年12月号、糧友會=原本、
同(2)は同ページ番号なし、口絵、同、
資料その4(1)は同3巻1号122ページ、昭和3年1月、糧友會=原本、同(2)は同79ページ、同
|
はい、資料その4(1)を読みましたね。どうです、遂に出ました、鍋羊肉のQ&A。炭に松葉を入れて燻しながら焼くのに鍋とはこれいかに―。いやー、率直な質問が出ましたね。実演した糧友会嘱託の満田講師が答えずに、糧秣本廠の軍人である丸本彰造委員が答弁したところに、微妙な雰囲気がうかがえます。丸本さんは大正11年に北京に出張して支那料理を勉強してきたので自信満々、鍋を使わないのに鍋の字が入っても、本官が北京で調べてきたから間違いないと押し切ったんでしょう。いや、ジンギスカンらしく煙に巻いたというべきかな。
さらに注目すべき点は「これは成吉思汗鍋ともいひ」と、北京ではとっくの昔からそう呼んでいるように説明していることです。これはとても中国語の料理名とは思えません。北京の日本人たちが丸本さんにそう教えたのでしょうか。仮に駒井満鉄調査部長が命名したとすれば大正8年ごろでしょうから、それから7年はたっていますから、北京まで伝わっていたかも知れません。それとも逆に、北京でそう呼び始めて、満洲へ伝わったのでしょうか。はっはっは。
なぜ鍋羊肉と書くのか。その根拠の詳しい説明書でも見つからない限り、このなぞは解けないかも知れません。私としては、金網で焼いて松葉で燻す「本邦一般家庭の調理法」に変えた以上、カオヤンローという読み方は残しても、火扁に考の烤という字にこだわらなくてもいいのではないか―と関係者は考えた。元々は金網とも鍋ともつかぬ金属盤の上で羊肉を焼く料理だったのだから、日本ではごく稀にしか使われない漢字の代わりに、よく使われる鍋の字を当て、支那では鍋羊肉というと、覚えやすく書き替えて普及を図ることにしたのではないではないかというのが私の推理です。
日本人の読み書きで烤という字を使うことは本当に稀、まずないといっていい。私が知る限りではね、支那料理の参考書以外で明治21年に出た「禹域通纂」という本だけです。この本は井上陳政という人が6年間清国に留学した見聞録で、その「風俗概略」の中の食品の項に「清国民食品ハ北部(直隷山東河南山西陜西甘粛)ハ麦麺蜀黍ヲ首トシ麦ハ粉トナシ搗キテ餅トナシ油ヲ塗リ烤焼シテ食ニ供ス」と「一ハ焼烤肉、小豬ヲ取リ烤ス」(18)と2例書いてあります。中国文学の専門家ならもっと知っているかも知れませんが、滅多にお目に掛からない字であることは確かですな。
料理解説の中なら、例えば中野江漢が「支那事変戦線の栞」に書いた「支那の風習」で「烤 炙り焼く。日本で流行のジンギスカン料理は、羊を焼く「烤羊肉」のこと。(19)」と解説しているように、大抵取り上げています。この本は栞というだけあって縦13センチ、横10センチと小さくてね、それでいて300ページを超える非売品の本です。
稀にしか使われない字は、印刷するときに、ちょっとした問題が生じるのです。新聞社でもそうでしたが、鉛の活字では、活字ケースに存在しない字が必要なときは、活字を半分に削り、2本くっつけて字を作って間に合わせていました。バランスは悪いし、字を作る余計な手間が掛かります。烤は火扁の字、たとえば炊とか炒の字の火扁を残して削り、それに拷問の拷の手扁か、栲、ヌルデという名前の木ですがね、その木扁を削り取ったものを合わせて作ることが考えられます。今ならユニコードにあるので、70E4を16進換算して烤と半角で書いてエクスプロラーにまかせるか、印刷するだけならウインドウズの外字エディターで簡単に作字できますが、鉛活字のときは、ちょいちょいこうした細工をしていたそうですよ。
糧友会がきょうの資料に示した「羊肉食宣傳」に乗り出そうと決めたとき、丸本さんあたりが言い出して、いずれ羊肉の新しい食べ方としてジンギスカンを宣伝することになる。日本的に魚を焼くように金網で焼き松葉燻しをする場合、紙面上でカオヤンローという呼び方、振り仮名はいいとしても、字だけは火扁に考の烤羊肉は使わずに鍋羊肉と書き換えようではないか。
日本人は中国語で濁音のところを清音にしてしまうくせがある。煙突付きの鍋を使う支那風寄せ鍋は火鍋子と書いて、ネィチブならフォグォズと発音するのに、ホーコーズと濁らずに読んだり書いたりする。烤羊肉はカォヤンローだが、鍋をコーというのだから烤を鍋に変えた鍋羊肉はコーヤンローと読めるはずだ。どうせ日本人の読み書きなんだからコーにこだわらずカオヤンローのままでいいだろう。鍋羊肉でなければジンギスカン鍋またはジンギスカン料理と呼ぶようにすると意思統一したと想像できなくもありません。これは「本邦一般家庭の調理法」に直した以上、支那料理丸出しで植字に手間の掛かる字は使うなよ、この字の処理は印刷工場の迷惑になるから使わず鍋羊肉一本で行こうと申し合わせでもしたのではないでしょうか。
しかし、だんだん中国で食べてきた人々が増え、北京では烤羊肉と書いているものを鍋羊肉と書くのはおかしいと指摘されるようになったとか、糧秣本廠の異動でこうした間に合わせの名前を考え出した当時のメンバーが去ったりした結果だと思うのですが、第1回羊肉料理講習会でこれぞ鍋羊肉だと実演してみせた嘱託の満田百二も烤羊肉という正しい名称を使うようになったみられます。その証拠の1つに昭和11年に糧友会が農村食生活指導パンフレット・シリーズの第14輯として出版した「緬羊の飼方及び羊肉調理法」があります。その中で満田は料理名を「成吉思汗鍋(烤羊肉)(20)」とし、更に注意の項で「これは、一名成吉思汗鍋(本名烤羊肉)と称して、有名な北京料理であります。(21)」と付け加えていますからね。
講習会の記事の最初の方に出てくる「農林省からの山田技手」は、農林省畜産局の「家畜衛生思想ノ普及奨励ニ関スル事務ニ従事スル臨時職員」技手と「商工省商務局」技手を兼務(22)していた山田喜平であり、講習会の資料一式をもらったと思われます。山田喜平さんの本「緬羊と其飼ひ方」に記載されている「鍋羊肉又は成吉思汗料理」の手本は、この第1回羊肉料理講習会とそれを紹介した「糧友」の昭和3年1月号の「羊肉料理法」だったことは間違いありません。なにしろ料理の名前の補足説明である「支那料理の焼肉」が「成吉思汗料理」に置き換えられただけみたいなもので、材料、分量、焼き方が同じなんですからね。
この「糧友」1月号しか存在しなければ、私のこの講義は、この第1回講習会では一戸さんと満田さんが「羊肉料理法」の中の4品を作って見せた。それでねと、すいすい話を進められたのですが、いまさっきいった国民新聞が糧友会お勧めと載せたちょっと違うレシピがあるとわかった以上、ジンパ学としては、ジンギスカンが入ってなくても「羊肉料理法」とそれのつながりを検証しておかねばならん。資料その5が国民新聞が講習会の4日後に載せた記事です。
資料その5
糧友会で提唱する
羊肉料理
◇ここに献立三つ
羊肉のすき焼 材料 羊肉百匁、
葱二本、芹又は野蜀葵一把、胡麻
油少々、醤油一勺、塩小匙一、味
淋一勺、調理 羊肉は二分位の厚
さに切り味淋を少量かけて置く。
芹又は野蜀葵は一寸位の厚さに、
葱は斜に薄く切つておく。鍋に少
量の胡麻油を入れ熱した時羊肉並
芹、葱等を入れて手早くいため、
後ち味淋塩醤油を加えて味をつけ
火からおろす。火加減は強火にて
なるべく短時間に煮るのが好い。
羊肉の蛋白質が凝固さへすればよ
いので之によつて可溶成分の浸出
を防ぎ肉味の損せぬようにするの
です。
羊肉フライ 材料 羊肉百匁、塩
胡椒少々、胡麻油、片栗粉五匁、
調理 羊肉を適富の大さに切つて
之に塩及び胡椒をふりかけ五六分
間おいて後片栗粉を撒布して熱し
た胡麻油の中で揚げる。添合せに
はボイルドポテト又はフレンチポ
テツトにてもよく或はマツシユト
ポテトでもよろしい。
羊肉スチウ 材料 羊肉百匁、胡
蘿蔔五本(西洋)蕪菁十個キヤべー
ジ十枚位、ジヤガ芋三個、バター
大匙一杯(胡麻油一勺にても好し)
塩、月桂樹の葉五枚、胡椒メリケ
ン粉大匙一杯半、玉葱十個、調理
羊肉は五六分の角に切り之をフラ
イパンにバタを溶かして此中で手
早くいためて置く、玉葱及小蕪菁
はまるのまゝにていため、胡蘿蔔
及ジヤガ芋は適当の大さに切つて
之もいため野菜類を深鍋に移し入
れ材料を覆ふ位熱湯をつぎ入れ火
にかけて煮る。此際火加減は文火
で長く煮る方が可。野菜類の柔く
なつた時に塩を加へ此中に羊肉を
入れて強火で短時間に沸騰させメ
リケン粉を水とさして加へ入れ手<原文のまま>
早くかうはんして胡椒で味をつけ<同>
火からおろす。この煮方は羊肉の
上等の場合で羊肉の硬い時には野
菜と同時に入れて初め高温で沸騰
させ後低温で長く煮る方がよい。
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参考文献
上記の(18)の出典は井上陳政著「禹域通纂」下巻766ページ、明治21年11月、大蔵省=近デジ本、(19)は陸軍画報社編「支那事変戦線の栞」4巻317ページ、中野江漢「支那の風習」、昭和17年3月、陸軍恤兵部(非売品)=原本、
(20)は糧友会編「緬羊の飼方及び羊肉調理法」27ページ、昭和11年7月、糧友会=館内限定近デジ本、
(21)は同28ページ、同、
資料その5は昭和2年11月28日付国民新聞朝刊6面=マイクロフィルム
(22)は昭和2年7月1日現在「職員録」279ページと293ページ、昭和2年9月、内閣印刷局=近デジ本
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すぐわかることだが講習会の「羊肉料理法」に入っているのは羊肉のすき焼きだけで、羊肉フライと羊肉シチューは入ってない。でも国民新聞が記事を載せたということは、国民新聞の記者が講習会の次の日にでも糧友会を訪ねて、だれかから聞いたから書けたということです。
でも、すき焼きの場合、国民新聞のレシピでは小匙1杯も塩を入れるんですから、味淋で甘くする「羊肉料理法」のすき焼きとは、いささか違った味になるでしょう。それに肉の焼き方。「羊肉並芹、葱等を入れて手早くいため、」「なるべく短時間に煮る」は、掲載に当たり「鍋の底に張りつけるようにして列べ、両面を焼き野菜を入れて共にいため、」というくだりを縮めたとしても、後者は肉に充分火を通してから煮るだから基本が違います。
また国民新聞は羊肉スチウと称し「羊肉料理法」はアイリッシュスチウと名前が違うように、月桂樹の葉はともかくトマト汁は使わない。私はこうした点から国民新聞のレシピは「羊肉料理法」の筆者とみる一戸さんではない別人によるものと考えたのです。
あれこれレシピを探したら、少なくともすき焼きは一戸さんだった。大正11年の「裁縫雑誌」に書いた一戸さんの羊肉のすき焼のレシピと一致したからです。資料その6は、2つのレシピを小間切れにして上下に並べたものですから、よく一致するところを見てください。上が国民新聞、下が一戸です。
資料その6
羊肉のすき焼 材料 羊肉百匁、葱二本、芹又は野蜀葵一把、
羊肉のすき焼 材料 羊肉百匁、葱二本、芹又は野蜀葵一把、
胡麻油少々、醤油一勺、塩小匙一、味淋一勺、
胡麻油少々、醤油一勺、塩小匙一、味淋一勺。
調理 羊肉は二分位の厚さに切り味淋を少量かけて置く。
方法 羊肉は二分位の厚さに切りて味淋少量かけ置く。
芹又は野蜀葵は一寸位の厚さに、葱は斜に薄く切つておく。
芹又は野蜀葵は一寸位の長さに切る。葱は斜に薄く切つておく、
鍋に少量の胡麻油を入れ熱した時羊肉並芹、葱等を入れて手早くいため、
鍋に少量の胡麻油を入れ熱せし時羊肉竝芹、葱等を入れて手早くいため、
後ち味淋塩醤油を加えて味をつけ火からおろす、
後ち味淋、塩及醤油を加へて味をつけ火からおろす。
火加減は強火にてなるべく短時間に煮るのが好い。
注意 火加減は強火にてなるべく短時間に煮るをよしとす。
羊肉の蛋白質が凝固さへすればよいので之によつて可溶成分の浸出
羊肉の蛋白質が凝固さへすればよいので、之れによつて可溶成分の浸出
を防ぎ肉味の損せぬようにするのです。
を防ぎ、肉味の損せぬ様になすのである。
<以下は国民新聞にはない説明>
以上の料理には脂肪の少ないところがよろしい之れを薄く切つて用ゐるのである肉を切る時には繊維と直角になる様に切らぬと肉が硬くなつて不味い。
一戸さんの「羊肉に就て」には羊肉フライと羊肉スチウがありません。それで私はまたあれこれ検索してね、この2品が北海道畜産協会が昭和2年6月に出した「畜産雑誌」に載ったレシピがそっくりだということを発見しました。つまり、羊肉料理講習会よりもっと前から、そういう別のレシピがどこかに存在していたということですね。面白いでしょう。
「畜産雑誌」のそれは田楽、ツクダ煮、吸物、付け焼、軽揚げ、ぬた、うま煮、味噌あえ、味付蒸揚、味噌煮、珠揚、すき焼、おろしあえ、白茹刺身、肝臓の芥子酢又は芥子醤油、スチウ、フライと17種で、珠揚というのは、脂肪の多い肉を3ミリ角ぐらいに切り、みじん切りの生姜と片栗粉を混ぜて固めて揚げる料理で、焼き肉は皆無。すき焼は「肉のよき處を切り、野菜と共にすき焼になす。(23)」と超簡単です。
まあ、すき焼きならだれでも作れるからなあという感じですね。
畜産雑誌のそれは、焼けた肉にケシの種を振り掛ける付け焼であり、ジンギスカンが入っていないので放ったらかしていたけど、捨てなくてよかったと思いましたね。資料その7で3者が似ていることを示しました。(1)のスチウは上の行が畜産雑誌、下が国民新聞です。
もっと面白いのは、この羊肉フライがマツトン、フライとして山田喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」に取り入れられていることです。山田さんの初版は昭和6年ですから、料理講習会からそれまでの4年間に山田さんは「畜産雑誌」を読んだか、国民新聞の記者に聞いたかして羊肉フライのレシピを手に入れ「羊肉料理法」丸写しでないことを示そうとしたんじゃないかな。
資料その7(2)のフライは上の2行に合わせて山田さんの説明を一番下に置きました。喜平さんのレシピは材料にはない胡椒を肉に振り掛けることになっているのですが、このミスを気にしなかったのか昭和16年に出した8版までそのまんま、ご愛嬌です。
資料その7
(1)
一、スチユウ 羊肉(百匁) 人参(五本) 蕪菁(十個)
羊肉スチウ 材料 羊肉百匁、胡蘿蔔五本(西洋)蕪菁十個
キヤベージ(十枚位) ジヤガ芋(三個) バター(大匙一杯)
キヤべージ十枚位、ジャガ芋三個、バター大匙一杯(胡麻油一勺にても好し)
塩、胡椒、 メリケン粉(大匙一杯半) 玉葱(十個)
塩、月桂樹の葉五枚、胡椒メリケン粉大匙一杯半、玉葱十個、
羊肉を五六分角に切り、之をフライパンにバターを溶かして、此
調理 羊肉は五六分の角に切り之をフライパンにバタを溶かして此
の中にて手早くいためて置く。胡麻油にてもよし。玉葱及小蕪菁
中で手早くいためて置く、玉葱及小蕪菁
は、丸のまゝにて矢張いため、人参及ジヤガ芋は適宜の大さに切
はまるのまゝにていため、胡蘿蔔及ジヤガ芋は適当の大さに切
つて之もいため、野菜類を深鍋に移し入れ、材料をおほふ位熱湯
つて之もいため野菜類を深鍋に移し入れ材料を覆ふ位熱湯
をつぎ入れ、火にかけて煮る。此の際火加減は、文火で長く煮る
をつぎ入れ火にかけて煮る。此際火加減は文火で長く煮る
方よし。野菜類の柔くなりたる時に塩を加へ、此中に羊肉を入れ
方が可。野菜類の柔くなつた時に塩を加へ此中に羊肉を入れて
強火で短時間に沸騰させ、メリケン粉と水をさして加へ入れ、手
強火で短時間に沸騰させメリケン粉を水とさして加へ入れ手
早く攪拌して胡椒にて味をつけ、火よリおろす。
早くかうはんして胡椒で味をつけ火からおろす。
注意。右の煮方は、羊肉の上等の場合で、羊肉の硬い部分の時には、
この煮方は羊肉の上等の場合で羊肉の硬い時には
野菜と同時に入れて、初め高温にて沸騰させ、後低温で長く煮る方よし。
野菜と同時に入れて初め高温で沸騰さ後低温で長く煮る方がよい。
<下記3行は畜産雑誌だけで国民新聞にはない>
さすれば、肉の繊維組織が多少溶けて出るので、肉は柔くなる。野菜類
の取り合せで、羊肉は一層美味となる。
又胡麻油は、よく羊肉の香りを消す。胡椒は後に入れると其の味最可。
(2)
一、フライ 羊肉(百匁) 塩胡椒(少々) 胡麻油、片粟粉(五匁)
羊肉フライ 材料 羊肉百匁、塩 胡椒少々、胡麻油、片栗粉五匁、
マツトン、フライ 材料 羊肉百匁、食塩少量、 胡麻油少量、澱粉五匁、
羊肉を適宜の大さに切つて、これに塩胡椒をふリかけ、五六分間
調理 羊肉を適當の大さに切つて之に塩及び胡椒をふりかけ五六分間
方法 羊肉を適當の大さに切つて之に塩及び胡椒をふりかけ五、六分間
おきて後、片栗粉を撒布して、熱した胡麻油の中で揚げる。
おいて後片栗粉を撒布して熱した胡麻油の中で揚げる。
おきて後澱粉を撒布して熱した胡麻油の中で揚げる。
添合せには、ボイルドポテト、又はフレンチポテトにても可、或
添合せにはボイルドポテト又はフレンチホテツトにてもよく或
添合せにはボイルドポテト又はフレンチポテト或
はマツシユトポテトでもよろしい。
はマツシユトポテトでもよろしい。
はマツシユトポテトにてもよろしい。
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参考文献
上記の資料その6と資料その7(1)の国民新聞分は昭和2年11月28日付国民新聞朝刊6面=マイクロフィルム、
資料その6の一戸分は渡辺滋編「裁縫雑誌」21巻12号81ページ、大正11年12月、東京裁縫女学校出版部=館内限定近デジ本、
(23)と資料その7(1)の畜産雑誌分は北海道畜産協会編「畜産雑誌」25年6号45ページ、昭和2年6月、北海道畜産協会=原本
同(2)の山田分は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」初版344ページ、昭和6年11月、子安農園出版部
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「羊肉料理法」のすき焼きは、塩がなくなり、焼き方もあっさりなのは、満田さんあたりの意見をいれて一戸案を修正したからでしょう。羊肉のフライは山田喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」の8版までマツトン、フライとして残りましたが、トマト汁抜きの羊肉のシチューは「羊肉料理法」になく、9年後に糧友会が農村食生活指導パンフレットとして出した「緬羊の飼方及び羊肉調理法」にも入っていません。
それでトマト汁抜きシチューは昭和2年の畜産雑誌と国民新聞で紹介されただけで消えたかと思ったら、どっこい、元月寒種羊場長の岡本正行さんが昭和12年に出した「理論実際 緬羊飼育精説」の羊肉料理と「糧食研究」6月号の「羊肉料理」に入っていたのです。ハイカラ過ぎたかキャベツとローリエは使わないけれども、より詳しい注意付きでした。はい、資料その8を見て。上の行が国民新聞、真ん中が岡本、下が糧食研究です。
資料その8
羊肉スチウ 材料 羊肉百匁、胡蘿蔔五本(西洋) 蕪菁十個
マツトン、スチウ 〈材料〉 羊肉百匁、胡蘿蔔五本、(西洋)蕪菁十個、
マトンスチウ 材料 腿肉又はスネ肉五十匁、人参五本(西洋)、蕪菁十個、
キヤべージ十枚位、ジヤガ芋三個、バター大匙一杯(胡麻油一勺にても好し)
馬鈴薯三個、 バター大匙一杯(胡麻油一杯にても可)
キヤーべージ十枚位、馬鈴薯三個、バター大匙一杯(胡麻油一勺でも可)
塩、月桂樹の葉五枚、胡椒メリケン粉大匙一杯半、玉葱十個、
塩、 胡椒、メリケン粉大匙一杯半、玉葱十個。
塩、 胡椒メリケン粉大匙一杯半、玉葱十個。(五人前)
調理 羊肉を五六分の角に切り之をフライパンにバタを溶かして此
〈方法〉 羊肉を五六分の角に切り之をフライパンにバターを溶かして此
方法 肉を五六方角に切つて之をフライパンにバターを溶かして此
中で手早くいためて置く、玉葱及小蕪菁
中にて手早くいためるか又胡麻油にていためておく。玉葱及小蕪菁
中で手早くいためるか又胡麻油でいためておく。玉葱及小蕪菁
はまるのまゝにていため、胡蘿蔔及ジヤガ芋は適当の大さに切
は丸のまゝにて矢張いため胡蘿蔔及馬鈴薯は適當の大さに切
は丸のまゝで矢張いため人参及び馬鈴薯は適當の大さに切
つて之もいため野菜類を深鍋に移し入れ材料を覆ふ位熱湯
りて之もいため野菜類を深鍋に移し入れ材料を覆ふ位熱湯
り之をいため野菜類を深鍋に移し入れ材料を覆ふ位熱湯
をつぎ入れ火にかけて煮る。此際火加減は文火で長く煮る
をつぎ入れ火にかけて煮る。此際火加減は文火で長く煮る
をつぎ入れ火にかけて煮る。此際火加減は弱火で長く煮る
方が可。野菜類の柔くなつた時に塩を加へ此中に羊肉を入れて
方可。野菜類の柔くなつた時に塩を加へ此中に羊肉を入れて
方がよろしい。野菜類の柔くなつた時に塩を加へ此中に羊肉を入れて
強火で短時間に沸騰させメリケン粉を水とさして加へ入れ手
強火で短時間に沸騰させメリケン粉を水に溶かして加へ入れ、手
強火で短時間に沸騰させメリケン粉を水に溶かして加へ入れて手
早くかうはんして胡椒で味をつけ火からおろす。
早く攪拌して胡椒にて味をつけ火よリ下す。
早く攪拌し塩胡椒で味をつけて火から下す。
この煮方は羊肉の上等の場合で羊肉の硬い時には
〈注意〉 右の煮方は羊肉の上等の場合の煮方で羊肉の硬い部分の時には
<以下の記述は「糧食研究」にない>−−−−−
野菜と同時に入れて初め高温で沸騰させ後低温で長く煮る方がよい。
野菜と同時に入れて初め高温にて沸騰させ後低温で長く煮る方可。
<同>−−−−−
<以下の記述は国民新聞にない>−−−−−
さすれば、肉の結締組織が多少溶けて居るので肉は柔くなる野菜類
<同>−−−−−
<同>−−−−−
の取合せで羊肉特有の臭も失せて美味となる
<同>−−−−−
<同>−−−−−
<下記は岡本本だけで国民新聞にも「糧食研究」にもない>−−−−−
又胡麻油もよく羊肉臭を消す胡椒は後に入れると其味が最可。之にトマ
トソースを入れると尚よろしい。
レシピの小間切れを並べて心理学の一対比較法みたいなことをしてきましたが、それらを整理して「羊肉料理法」に至った変遷を資料その9で推理しましょう。左側の書誌に入ったレシピに○を付けたが、畜産雑誌のすき焼きはどっちだか不明なので、塩入りと塩抜きの両方に△を付けました。書誌は出現順ではなく、親近度というか料理の組み合わせの似たものを私の判断で並べました。
資料その9
塩入り 塩抜き トマト汁入り トマト汁抜き
すき焼き すき焼き フライ スチウ スチウ
裁縫雑誌 ○
畜産雑誌 △ △ ○ ○
国民新聞 ○ ○ ○
岡本本 ○ ○ ○
糧食研究 ○
-------------------------------------------------------
山田本 ○ ○ ○
-------------------------------------------------------
料理法 ○ ○
パンフ ○ ○
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参考文献
上記の資料その8の岡本分は岡本正行著「理論実際 緬羊飼育精説」643ページ、昭和12年8月、朝倉書店=館内限定近デジ本、
国民新聞分は昭和2年11月28日付国民新聞朝刊6面=マイクロフィルム
糧食研究会編「糧食研究」131号49ページ、昭和12年6月、糧食研究会=館内限定近デジ本
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私は第1次案は畜産雑誌と国民新聞だと考えます。これは塩入りすき焼きとフライとトマト汁抜きシチューの組み合わせです。畜産雑誌は塩入りだったのに、すき焼きにするといえばだれでもわかると説明を略したのでしょう。「羊肉料理法」ではすき焼きが塩抜きになるが、ヘルシーな減塩食なんて気にしていなかった當時ですから、多分糧秣本廠側がしょっぱ過ぎると主張して食塩抜きに変わったと私はみますね。これで岡本本に見られる組み合わせになった。
それを第2次案とすると、第3次案ではシチューが変わった。岡本本にある「トマトソースを入れると尚よろしい」ではなく、基本としてトマト汁を入れる方がよいということになり、以後シチューはトマト汁入りと決まったと思いますね。また炒羊肉があるから、それと似た羊肉フライはいらないとカットされた。炒羊肉は材料に根生姜が入っているけど、なくてもよいように使い方は書いていない。資料その3(2)を見なさい。塩と胡椒の味付けなら、塩と醤油の方が日本人向きと判断したのでしょう。
塩抜きすき焼きとトマト汁入りシチューと組み合わせが第3次案となり、糧友会はこれを「羊肉料理法」として発表し、農村食生活指導パンフレツトもそれを踏襲してます。山田本は、第2次案と第3次案のミックスなので、資料その8では点線で挟んで中間に置きました。ただし、これは尽波試案だ。新しい資料が見付かればどんどん修正しますからね、諸君がこの書き換えを迫るレポートを書いてくれることを期待してますよ。
さて、第1回講習会に出席した山田技手がその3年後に書いた「緬羊と其飼ひ方」には、糧友會が発表した鍋羊肉はもちろん「羊肉料理法」の16品は全部取り込まれています。以前、喜平さんと奥さんのマサさんのジンギスカン料理の作り方を添削する形で見比べたのと同じ方法でね、山田さんと糧友會の鍋羊肉と比べてみました。はい、スライドで示しましょう。
例えば糧友會の鍋羊肉の記事を山田さんが工夫の結果を加味して添削したと仮定して、書き足した部分を下線付き、削除した分をオリーブ色の字に変えてあります。注目すべきは鍋羊肉に「又は成吉思汗料理」という呼び方が加わっている点です。資料その2を見てもらえばわかると思うけれど、材料の書き方は糧友會が材料で品名とその量の間に1字空白があるのに対して、山田さんは品物と量の間に空白はなく、品別に句読点を打って列記していました。それでは相違点を比べにくいので、私が糧友會の記事の形に合わせ、品別との間に1字空白を入れ、句読点は削って書き直しました。「緬羊と其飼ひ方」からの記事で変えたのはそれだけです。
鍋羊肉(支那料理の焼肉)又は成吉思汗料理(五人分)
材料
羊肉(肩肉又は股腿肉) 百二十匁
醤油 五勺
酒 二勺
砂糖 十匁
七色唐辛子 少量
胡麻油 少量
準備方法
羊肉は一分位の厚さに切つてり醤油、酒、砂糖、七色唐辛子を合せたて中に約三十分浸しておきます。く、(漬け汁はとつておきます。)くべし)
調理
焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪にかけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。いて食べる。
注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多少燻し気味に焼くと一層風味がよくなります。よい。
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参考文献
上記スライドは山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」初版340ページ、昭和6年11月、子安農園出版部=原本
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これではっきり示されるのは、山田さんの鍋羊肉の材料と作り方は糧友會のそれと、まったく同じだということです。ただ3年後に出した第2版からは、大発見といういうべきか、ちょっとした工夫というか、生姜と葱を調味料に加えているところが違ってきますが、初版は糧友会レシピの丸写しです。しかしだね、山田さんは糧友会の鍋羊肉を丸写ししたんじゃない、別のレシピを紹介したのだと高石啓一氏は論文「緬羊と山田喜平と成吉思汗と」に書いておられる。尽波と名指しはされてはいませんが、私以外にそんな見間違いをしでかす御仁がいると思えませんからなあ。資料その10にご指摘のあたりを引用して検討してみましょう。資料その4(1)の講習会の記事にある通り山田技手の出席に注目すべきだというのです。
資料その10
<略> ここで,注目すべきは山田技手である。つまり山田喜平が出席していることだ。また,昭和4年3月に東京上野公園で開催した「食糧展覧会」の記録内容をまとめた「現代食糧大観」が昭和4年12月に刊行しているが,この中では鍋羊肉(支那料理の焼肉)として羊肉料理法紹介している。これは,「成吉斯汗」なのである。
この料理法は昭和6年の山田喜平著書に掲載された「鍋羊肉又は成吉思汗料理」のレシピーと同じ内容のものである。他の料理法も農林省で委託した一戸女史の羊肉料理法を掲載したものといえる。
山田喜平著書の成吉思汗料理は糧友会の「鍋羊肉」を書き示したことから糧友会からの写しかと思う方がいるかもしれないが,大正13年の農林省種羊場で作成した「羊肉料理法」の中の「羊肉の網焼」という作り方を紹介したものなのだ。
では,初めてジンギスカンを紹介した文献としてはどうであろうか。東京では確かに陸軍糧秣本廠が農林省の委託を受けて羊肉食の宣伝に乗り出した。
最初は鍋羊肉(支那料理の焼肉)としている。その後, 中国の北京での烤羊肉(カオヤンロー)という字は用いず,名称を成吉斯汗(ジンギスカン)となっている。
東京の陸軍関係を皮切りに近郊で羊肉料理講習会を開催している。しかし,一般にはその名称は浸透しなかった。例え里見クの満支一見や久保田万太郎の小説があったにしてもそれは食べたということに過ぎない。山田著本は羊肉料理法の中で「鍋羊肉又は成吉思汗料理」と調理方法を含め行政や学識者や緬羊に関わる人々向けに広く公表したのであるから,名を知らしめた文献といえるだろう。
(筆者注:成吉斯汗(ジンギスカン)は,陸軍・糧友会でこの当て字を用いて普及宣伝をした)<略>
私は山田さんの「鍋羊肉又は成吉思汗料理」が糧友会の鍋羊肉と同じ料理であり、山田さんが考案したレシピではない、喜平オリジナルではないという意味でいったのですよ。高石氏も「大正13年の農林省種羊場で作成した『羊肉料理法』の中の『羊肉の網焼』という作り方を紹介したものなのだ。」というのだから、山田さん以外のだれかが作ったレシピという見方は正しいんですね。
では山田さんの「鍋羊肉又は成吉思汗料理」は「大正13年の農林省種羊場で作成した『羊肉料理法』の中の『羊肉の網焼』」の作り方を紹介したものだと「緬羊と其飼ひ方」のどこかに書いてあるのか。ないんだなあ。どうやら山田喜平をあがめ奉る高石氏にすれば、尽波ごとき後発研究者に「鍋羊肉又は成吉思汗料理」は糧友会の丸写しと言わせっぱなしにしておけないということなんでしょう。
敬愛する山田さんは糧友会のレシピをもらって、そっくり自分の本に転載するようなダボハゼ技手ではない。勉強家の山田さんは鍋羊肉のよってきたるレシピはだね、羊肉の網焼きであることを突き止め、そっちを紹介したのだ。だから名前が「鍋羊肉又は成吉思汗料理」と糧友会と同じではないのだということですかね。
資料その10の高石論文の通りだとすると、山田さんのレシピ32種は資料その4(2)のレシピ16種のうち「鍋羊肉又は支那料理の焼肉」を除く15種を取り込んだ。そして「鍋羊肉(支那料理の焼肉)」だけは取り除いて、大正13年に農林省種羊場、13年はまだ農商務省なんですが、まあよろし。農林省なんとか種羊場が作成した「羊肉の網焼」の作り方を「鍋羊肉又は成吉思汗料理」という料理名に変えて紹介したということになる。山田さんがわざわざそんな面倒な置換をした理由は何なのか。それを知るのは高石氏だけと思うのですが、何も説明がない。
もしそのように遡って紹介したいのなら、農林省種羊場の「羊肉料理法」のもう1つ前の農商務省畜産局バージョンの「羊肉の網焼」が同じなのだから、そっちがよかったと思いますよ。高石氏のいい方を借りれば「『糧友』の『鍋羊肉』は大正13年の農林省種羊場で作成した『羊肉料理法』の中の『羊肉の網焼』を書き示したことから農林省からの写しかと思う方がいるかもしれないが,大正11年に一戸伊勢子が発表した『羊肉に就て』の中の『羊肉の網焼』という作り方を紹介したものなのだ。」となりますか。まあ、これは一戸伊勢子の講義で詳しく取り上げますがね。ふっふっふ。
それから資料その10の記事にあるように「現代食糧大観」では料理の実演項目の1品として「鍋羊肉」を挙げているけど(支那料理の焼肉)という注は付いていません。「成吉斯汗料理(丸本彰造氏談)」という題名の北京・正陽楼での焼き方などの談話の後に「調理法」と見出しを入れ「鍋羊肉(支那料理の焼肉)」に該当するレシピしか載っていないのですから「これは,『成吉斯汗』なのである。」と力まなくても、読んだ人は鍋羊肉とは思わず、成吉思汗料理の作り方として素直に受け取りますよ。
となると、高石氏の言いたいことは何かとなるが、要するに「緬羊と其飼ひ方」は「行政や学識者や緬羊に関わる人々向けに」調理法を含めて「鍋羊肉又は成吉思汗料理」という「名を知らしめた文献といえるだろう。」ですね。山田さんに先立つこと5年前、山田は同じでも、大正15年から山田政平著「素人に出来る支那料理」の「原始的な成吉汗斯鍋」に大まかな紹介があり「名を知らしめた文献」というなら「内容は昭和初期から、終戦まで引き続いて、日本の中国料理書の教科書的な立場にあった本(24)」と食物史研究家の田中静一が評価したくらいですから、私としては「緬羊と其飼ひ方」より「素人に出来る支那料理」の方が効いたと思いますがねえ。
また「成吉斯汗(ジンギスカン)は,陸軍・糧友会でこの当て字を用いて普及宣伝をした」といいますが、資料その4の初の羊肉料理講習會の記事からして「丸本委員は立つてこれは成吉思汗(ジンギスカン)鍋ともいひ今でも北京の郊外で…」と書いていますし、昭和10年に100号までの「糧友」継続購読者に鍋を贈呈したときの鍋の説明では「成吉思汗鍋は、彼の蒙古の英雄成吉思汗(成吉斯汗とも書く)が大軍を率いて…(25)」と書いているなど、陸軍と糧友会は何が何でも成吉斯汗と書いてはいませんよ。はっはっは。
それから、山田レシピで違うのは、羊肉みどり和えの酢3勺がゼロ、羊肉骨スープの羊肉骨3斤、480匁が300匁に減らされていることが挙げられます。包羊肉で材料では正しく胡椒としてるのに、方法の中で胡麻と誤植したため、胡麻が突然調味に使われる格好になっていることと、羊肉骨スープ、羊肉薩摩汁、羊肉の佃煮、腎臓のてり焼、脳の味噌漬、心筋の天ぷらの6種には(五人前)という断り書きがないことぐらいですかね。山田さんが「緬羊と其飼ひ方」に書いた32種類の羊肉料理は、検討していきますと、昭和6年初頭ぐらいまでに公表された料理法と奥さんのマサさんとで考え出した独自の料理をまとめたものと思われるのです。鍋羊肉ではなく成吉思汗料理としたマサさんのジンギスカンというか、私が滝川バージョンといった作り方は、それより後に発表されたものですから、別ですよ。
さらに「緬羊と其飼ひ方」にある「羊肉の特長」という項目の中の説明と糧友會のそれを対比してみましょうか。はい、資料その11を見なさい。2行になっていますが、上が糧友會、下が山田さんの文章です。上なり下に似た字句のないところはマイナス記号3つで示しています。糧友會がノータッチなのは「甚しきは食はずして其の臭気を云為する者ある状態にして我國緬羊飼育奨励上最も重要なる影響を有する肉羊の販路開拓上遺憾なる次第なり」という山田さんの飼育技術者としての怒りと「政府は大正七年当時東京女子師範学校講師一戸伊勢子女史に対し羊肉料理法の研究を委託し、また昭和二年陸軍糧秣本廠満田百二氏を委嘱して羊肉料理法の講習等を開催し之が研究をなし全国的に羊肉食の普及をなしつつあるが」という、料理研究と普及活動の説明だけですね。新規なのはこれだけといってもいいでしょう。似過ぎていますが、私が作ったんじゃありませんよ。嘘だと思う人は以前の講義「四つもルーツがあるとは変だ」で配った資料で確かめて下さい。インチキしていないことがわかるはずです。
資料その11
一、羊肉料理上の注意
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凡て獣肉には夫れ/\゛固有の臭が御座います。
総て獣肉には夫々固有の臭氣あるものなるが
羊肉にも羊肉特有の臭があります。
羊肉には羊肉内特有の臭あり
欧米人は此の臭と其の高尚な味と、
欧米人はこの臭と一種高尚にして淡泊なる風味と
而して軟かい肉を殊更に賞美いたしまして、
而して軟き滋養ある肉を賞美愛好し牛豚以上の高價にして珍重せられ
毎日の御総菜としてはもとより、
平素の惣菜としては勿論
正餐の場合にも色々の料理をして珍重して居りますが、
正餐(儀式祝儀等)の場合に於て恰も我国に於ける鯛の如くに用ひられ料理せられて食肉の王King of Meatsと称せられるるものなり、
我が國では、未だ羊肉の歴史も浅く従つて、其の使用も一部の人々に限られて、
然れども我国に於ては未だ羊肉食用歴史浅く其の使用も一部の人士に限られ
一般的になつてゐない関係上、食はず嫌ひの人が澤山あるやうで御座います。
一般的ならざる関係上所謂食はず嫌ひの人多く
又假令一二度召し上つた方がありましても、
又
其の料理の方法が合理的でないのと親しみの薄い関係上
其の料理法の合理的ならざる為めと親しみ薄き関係上
羊肉はおいしいが其の臭がいけないと申されますが、
羊肉は美昧なれども臭気悪しとの批評をなす者あり、
−−−
甚しきは食はずして其の臭気を云為する者ある状態にして我國緬羊飼育奨励上最も重要なる影響を有する肉羊の販路開拓上遺憾なる次第なり。
−−−
政府は大正七年当時東京女子師範学校講師一戸伊勢子女史に対し羊肉料理法の研究を委託し、また昭和二年陸軍糧秣本廠満田百二氏を委嘱して羊肉料理法の講習等を開催し之が研究をなし全国的に羊肉食の普及をなしつつあるが
其の固有の臭も料理法によつて簡単に取り除く事が出來るので御座います。
羊肉の臭氣も料理法によりては簡単に除去することを得るのである。
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参考文献
上記の資料その10の出典は養賢堂編「畜産の研究」64巻5号568ページ、高石啓一「緬羊と山田喜平と成吉思汗と」より、平成11年5月、養賢堂=原本、
(24)は田中静一著「一衣帯水 中国料理伝来史」208ページ、昭和62年10月、柴田書店、同、
(25)は糧友会編「糧友」10巻5号77ページ、「成吉思汗鍋の使用法」より、昭和10年5月、糧友会、同、
資料その11の山田分は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版335ページ、昭和10年11月、子安農園出版部、糧友會分は糧友会編「糧友」昭和3年1月号122ページ、糧友會=原本
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もう少し下まで比べてみますか。それは資料その12にしましたから読みなさい。山田さん側に「料理上の注意」に当たる見出しがないことと、出だしで山田さんが海外出張の経験者らしくガクのあるところをみせた点が違いますが「今その方法に」というところから後の箇条書きのところは、ぴったしカンカン。羊肉の扱いで注意すべき点は同じようになるにしても、ちょっと似過ぎていると思いますね。
資料その12
甲、料理上の注意
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−−−
羊肉は食通に言はしむれば羊肉の持ち味は牛豚其他の獣肉の有せざる柔か味と甘味を有し洋食のラムチヨツプ又はマトンチヨツプ、アイリツシュスチウ、支那料理の鍋羊肉(一名成吉思汗料理)炒羊肉等は人口に膾炙するところである、其の固有の臭氣も料理法によりて簡単に除去することを得るものにして
今その方法について、特に注意すべき事を申しますれば、
今其の方法に付き注意すべき諸点を列挙すれば次の如し。
一、成るべく外部の皮下筋や脂肪を取り除くこと
1、成可く外部の皮下筋及皮下脂肪を取り除くこと。
羊肉の臭は主として、外部の皮下筋や脂肪に多いので御座います。
即ち羊肉の臭は主として外部の皮下筋及び脂肪に多く
又料理いたしましても、
料理に際しても
羊肉の脂肪は、(蝋質)が澤山ありますから、
羊肉の脂肪にはステアリン(蝋質)の含有量が多く
一寸冷めますと直に固まり易いからであります。
直ちに凝固し易い為めなり。
二、短時間の中に高熱で調理すること
2、短時間の内に高熱にて調理すること。
高熱と申しますと、煮物にする場合は摂氏百度でご座いますが、
普通の煮物は摂氏百度にして、
油でいためますと、
油を以ていたむれば
百八、九十度の高熱となり蒸焼にして二百二十度、
それよりもつと高く百八九十度の高熱となり、むし焼きにして二百二十度、
直火で焙りますと、三四百度迄も上るので御座いますから、
直火に焙るときは三、四百度に上るものとす。
羊肉に最も適するは焼物にして
いま羊肉料理として一番適當しておりますのが焼物で
次に「むし焼」、それから油でいためると云ふやうになるのでござゐます。
次は蒸焼更に油にていたむることとなる。
それですから、たとひ煮物にいたします場合も、
故に假令煮物とする場合にも
最初ザツト焙るか油でいためてから煮るので御座います。
予め簡単に焙るか油にていためたる後煮るを良しとす。
三、使用する油は羊肉脂肪はもとより
3、使用する油は羊肉脂肪は固より
動物性のヘツトや、ラードよりも、
動物性の「ヘツト」及「ラード」よりも
植物性の胡麻油や落花生油等が適當して居ります。
植物性の胡麻油、落花生油等適当なり。
四、「取り合せ」といたします野菜特有の香りで、羊肉の臭を消す方法で御座います。
4、取り合せとする野菜固有の香りにて羊肉の臭気を消す方法もあり。
例へて見ますと牛蒡、獨活、葱等の臭ひある野菜を配合して
例へば牛蒡、独活、葱等を配合して
汁物や、煮もの、和へもの等を等を仕上げるので御座います。
汁物、煮物、和へ物等を仕上ぐるなり、
此の外料理によつて同じ目的の爲に香辛料、
この外料理によりて同じ目的の為めに、香辛料
例へば粉山椒、七色唐辛子、胡椒、月桂樹の葉等を用ひます。
例へば粉山椒、七色唐辛子、胡椒、月桂樹の葉等を用ふ。
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参考文献
上記の資料その12の山田分は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版336ページ、昭和10年11月、子安農園出版部、糧友會分は糧友会編「糧友」昭和3年1月号122ページ、糧友會=原本
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こうした類似点から「緬羊と其飼ひ方」の焼羊肉はもちろん、羊肉料理の組み立ては、きれいにいえば糧友會直伝、悪くいえばほぼ転載といえましょう。なにしろ山田さんは若き技手として糧友會の第1回羊肉料理講習会に出席して金網で焼くところを見たのだし、農林省で「糧友」や「糧食研究」などを読んで勉強したはずですから当然でしょう。そのほかに例えば、この糧友會のメニューに入っていない揚げ物では、羊肉葱間揚げが山田さんの本にあります。それから内臓料理では脳の味噌漬けがあります。糧友會のメニューになかったこうした料理が、山田さんとマサさんのオリジナルであるのかどうか。次回の講義では、空知の北村で試みられていた羊肉料理との比較などを取り上げます。質問、何かありますか。
あっ、忘れるところだった。この講義録の方の副見出しは「鍋羊肉は昭和2年生まれか」と疑問形だが、イェース、ほとんどイエスだね。だいたい鍋羊肉という名前でレシピを書いた人が少ない。それも昭和2年以降の本でしかお目に掛かれない。鍋羊肉、昭和は遠くなりにけり―ね。はい、終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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