「農家の友」とジンギスカンの古い関係

 前回は「緬羊と其飼ひ方」には、糧友會の最初のメニューに入っていない揚げ物では、羊肉葱間揚と脳の味噌漬けがあるといましたが、きょうはその検討を済ませたら、ジンギスカン料理という名前はわが北大の先輩、駒井徳三さんが命名したという伝説の発生過程について話しますからエスケープせずに聞いてもらいたい。
 この伝説は「北海道農家の友」という雑誌が主な舞台となって昭和36年、北大の先輩のホラ話から生まれ、それから25年後にリバイバルさせたのが、やはり北大の先輩だったという因縁話なのです。ジョークといえども本当らしさが閾値を超えると、実話と信じられてしまうという教訓でもあるのです。
 はい、その2つの揚げ物料理の作り方について山田喜平さんとある別な人が書いたものを比較してみたのが、資料のトップのその1です。いま配りますから見比べて下さい。

資料その1

山田さんの作り方
○羊肉葱間揚げ(五人分)
材料 羊肉百匁、葱三本、澱粉十匁、胡麻油少量、醤油二勺。
方法 羊肉を繊維と直角になるやうに幅二分長さ一寸五分位に切り之に醤油をかけ置き後同様に切つた葱と一緒にして之に澱粉をつけ熱した胡麻油にて揚げる。
注意 葱は外側に肉は内側になる様にするがよい。

Aさんの作り方
○葱間揚げ
材料 羊肉百匁、葱三本、澱粉十匁、胡麻油、醤油二勺。
方法 羊肉を繊維と直角になるやうに幅二分、長さ一寸五分位に切り、之れに醤油をかけ置き、後ち同様に切つた葱と一緒にして、之れに澱粉をつけ熱した胡麻油にて揚げる。
注意 葱は外側に、肉は内側になる様にするがよい。


 脳の味噌漬け

山田さんの作り方
○脳の味噌漬
材料 羊の脳一個、味噌百匁、醤油一勺.生姜一個、葱一本、白胡麻五勺、砂糖五匁。
方法 脳は塩水にてよく洗い薄い膜を取り去りたる後生姜と葱と一緒に熱湯の中にて十分間煮る次に之を取り出して味噌の中に入れ醤油をかけて約半日おき金網の上に載せて両面を焼く、之に白胡麻を摺り白砂糖を手にて揉合せたものを撒りかけて食べる。
注意 脳にはレシチンが多く含有されて居るから発育盛りの子供、腺病質の人、恢復期の病人等に最も宜しい。

Bさんの作り方
○脳の味噌漬
材料 羊の脳一箇分、味噌百匁、醤油一勺、生姜一個、葱一本、白胡麻五勺、砂糖五匁。
方法 脳は塩水にてよく洗い、薄い膜を取り去った後ち、生姜と葱と共に熱湯中にて十分間煮る。次に之れを取り出して味噌の中に入れ、醤油をかけて約半日置き、網の上に載せて両面を焼く、之れに白胡麻を摺つて白砂糖を手にてもみ合せたものを撒布して食す。
注意 新鮮な臓物にはそれ/\゛利用の道も広いから、一〜二代表的なものを挙げる。肝臓を食せば肝油と同様の養分が得られる。但し寄生虫のあるものは避けるがよい。
 脳には「レツチン」(レシチンのこと)が多く含有されてあるので、発育盛りの子供、腺病質の人、恢復期の病人等には最もよい。

  

参考文献
上記資料その1の山田分の出典は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版340ページ、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、A分とB分は北村百年史編纂委員会編「北村百年史」474ページ、平成16年3月、北村=原本


 どこが違うか、脳の味噌漬の注意書き以外は、一度読んだぐらいではわからないでしょう。送り仮名の有無のほかは、丸写しみたいにそっくりですね。このAさんもBさんも、実は同一の人物といってよいと思うのですが、空知の北村にあった北村緬羊畜産組合が大正13年2月に作成したパンフレット「羊肉料理法」に収められていた14種類の料理の中から抜き出したものなのです。
 平成16年3月に発刊された「北村百年史」には、このパンフレットの全文が掲載されています。それでは分量の数字が算用数字になっていますが、その「北村百年史」編集に当たられた札幌の太田幸雄さんのご好意で頂いた原本のコピーを私は持っています。で、それに従えば漢数字なので、資料その1のAさんとBさんのレシピは材料の分量は元の漢数字に戻して山田さんと比べやすくしましたが、読点とレシチンの注釈は百年史に従っています。「北村百年史」の474ページには5つ折りの「羊肉料理法」を折り、表紙と3面から並ぶ羊肉の鍋焼、羊肉の網焼、羊肉のすき焼の説明が見える小さな写真が掲載されていてね、虫眼鏡を使えば何とか読めますよ。
 北村のこの羊肉料理法の手本とみられる農商務省が頒布したレシピ、そのまた手本というか土台とみられるレシピがあってね、それらを見つけておるのでいずれ講義しますが、それにしても羊肉は臭いとか何とかいって皆が敬遠していた大正時代に脳みそまで食べられると勧めたその積極性には感心しますね。
 山田さんが「緬羊と其飼ひ方」を書く7年も前に、空知の小さな村、北村雄治という人が開村に尽力したので、北村とその名の残る北村で、ですよ。羊肉料理普及のためにこうした積極果敢なるパンフレットが作られていた―ということは驚くべきことにです。また後の講義で北村をして緬羊飼育の先進地たらしめた北村黽(きたむらびん)という先覚者の存在を取り上げますが、北村黽は北村雄治の弟で、大正10年に村民に呼びかけて北村緬羊畜産組合を設立しました。そして羊の増殖を始め、早くからホームスパン生産でも知られていました。当然、毛の伸びが悪くなった老齢の羊を食べることも研究したのです。
 そういう羊との長い付き合いというか歴史があるせいでありましょう。「北村百年史」より40年前の昭和35年に村史編纂委員会がまとめた「北村村史」の「北村誕生」という一章の中に「成吉思汗鍋」と「緬羊」という「一口メモ」が掲載されています。末尾にそれぞれ(北海道絵本)とあるだけなので、私は何かそういう郷土史系の副読本みたいなものから「村民ならこれぐらいは常識だよ」という軽い感じで抜粋したのだろうと思っていました。ところが調べてみると「北海道絵本」は北海道を代表するような詩人、更科源蔵さんが書いた一連の本の書名で、その中の羊関連の2つの短文をそっくり引用したらしいとわかりました。転載というべきなのかも知れませんが、とにかく更科さんのジンギスカンについてのガクのあるところを見せた文章となれば、ジンパ学としては避けて通られません。どんな内容か検討してみる必要がありますね。「緬羊」はさておいても「成吉思汗鍋」は歴史にまつわる話か、食べた感想か、皆さんも知りたいでしょう。
 資料その5がそれなんです。私は「北海道絵本」の原本も当たっていますが、配った資料のその2は「北村村史」からの転載したものです。しつこいようですが、この「一口メモ」にある「北海道絵本」からの転載ではありませんよ。なぜならば、ですよ。更科さんが昭和24年と25年と2回、出版社を変えて出した「北海道絵本」という題名の本には「成吉思汗鍋」は載っておらず、それからの転載はできないからです。

資料その2

成吉思汗鍋

 今ではラーメンと共に、北海道名物におさまっているジンギスカン鍋は、昭和四年に陸軍省の丸木章造大佐がもたらしたとか、ジンギスカン焼きといったのは満鉄の職員で、後に満州国長官になった北大出身の駒井徳三であるとか、いわれているが、ジンギスカン鍋としたのは、随筆家吉田博氏の厳父であると吉田氏が書いている。そして吉田氏によれば昭和六年に刊行された「緬羊と其の飼い方」というパンフレットの中に、すでにジンギスカン料理について、次のように書いているという。
 「羊肉は一分位の厚さに切り醤油、酒、砂糖、七色唐辛子、生姜、葱、胡麻油小量を合わせて中に約三十分浸しておく。焦げつかぬよう金網に胡麻油を塗って強火の七輪にかけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる」
 味付は多少ちがっているが、今日のものを想像することができる。
 緬羊を輸入した明治のはじめ、食肉種を多く入れて、北海道畜産の父といわれたエドウィン・ダンを怒らしたほどだから、はじめから羊肉料理は、月寒の農林省種羊場を中心に行われていたことは、さきの資料によっても知ることができる。
 そこに満洲の方から、草原の蒼い狼といわれた、元の大祖テムジンの成吉思汗も焚火の上に兜をかぶせて、羊の肉を焼いて食べたという話が入って来て、こうした名がついたようである。
 戦争中衣料の不足から緬羊の飼育頭数も上向きかけていたが、戦後忽ちのうちにジンギスカンの煙の中に消え、この頃はもっばらオーストラリアやニュージーランドの冷凍肉にたよっている始末で、さるやんごとない方が来道の節、一日知事公宅の庭でこの野戦料理を差上げたところ、すっかりお気に召されて、ついに九重の雲深きあたりにも、この鍋が持ち込まれるようになったという。(北海道絵本)

  

参考文献
上記資料その2は北村々史編纂委員会編「北村村史」(非売品)383ページ掲載の「一口メモ 成吉思汗鍋」、昭和35年10月、北海道空知郡北村役場=原本


 これまでの私の講義を真面目に聞いた諸君なら、更科さんの間違いをすぐ3つぐらい指摘できるでしょう。更科さんは後年、こんなふうに「北村村史」に引用されるなんて思わず、気楽に書いたのでしょうが、更科さんが郷土史と全く無縁の純粋の詩人だったというなら、少しぐらい違っていても許しましょう。しかしながら昭和53年に出した「続々北海道絵本」の著者略歴によるとですよ、更科さんは古里弟子屈町、摩周湖と屈斜路湖のある町の「弟子屈町史」、その近くの「斜里町史」、いまは札幌市内になっている「琴似町史」、空港の「千歳市史」など6冊も書いている。れっきとした郷土史家であり、名をなした方でした。だからこそ、傍証として「北村村史」の編集者が村の畜産史のところに「成吉思汗鍋」と「緬羊」を引用したのでしょう。暫く「北村村史」を離れてですよ、少しく郷土史家更科さんのこれをまともな歴史考察とみてよいのかどうか検討しましょう。
 私は、まず「ジンギスカン鍋としたのは、随筆家吉田博氏の厳父であると吉田氏が書いている」という個所がおかしいと思います。吉田松陰だとか吉田茂と、ちゃんと姓名を書くべきでしょう。吉田さんの自分史としても、これでは無意味でありますし、更科さんの郷土史家としての立場からみても、ただ「厳父」では、いくら随想であっても手を抜いているといわれても仕方がないでしょう。吉田さんがうんと昔の人で、尋ねようがないというなら別ですよ。
 検索すると、吉田博氏は昭和55年にHTB豆本「砂糖だいこん」、57年に新書版の「ビート糖物語」を書いていますから、更科さんがジンギスカンを書いた昭和51年には、生きていて質問できたはずです。ましてや「随筆家吉田博氏」と知っていたのに「ジンギスカン焼き」を「ジンギスカン鍋」と言い換えたぐらいの些細なことだし、原稿の締め切り直前だったので「厳父」で間に合わせた、もしくは気楽な「絵本」なんだから、なくても構わんだろうと調べなかったのではないか。それからですよ、吉田博氏が書いたという本か雑誌の書名も、これでは不明です。市史や町史じゃないからいいんだ―では済まないのではないでしょうか。
 ジンギスカン関係では吉田氏が昭和51年「北海道農家の友」に書いた「成吉思汗物語り」が、あちこちに引用されたので特に知られています。これは以前の講義で取り上げましたね。それではないかと読み直してみると、私の父親が「ジンギスカン鍋とした」というような字句は全くなくて「この名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏」と明記しています。どこから「吉田博氏の厳父」説が出てきたのか。
 私は「随筆家吉田博氏の厳父であると吉田氏が書いている。そして吉田氏によれば昭和六年に刊行された『緬羊と其の飼い方』」うんぬんというところの「そして」でつないだ書き方に注目するのです。吉田さんが書いたものは、自分のオヤジ命名説と山田喜平さんのレシピーが続けて書いてあるらしいということです。となれば「成吉思汗物語り」は「金網に胡麻油を塗って七輪にかけ焼いて食べた。炭火のなかに生松の枝を混ぜて燻し気味に焼くと一層風味がよいことの注意も記されている」と、肉の切り方や漬け汁にはノータッチですから、その部分は昭和52年に出た毎日新聞北海道支社から出た「北の食物誌」から抜き出してミックスした可能性があります。もう一度「北の食物誌」と「成吉思汗物語り」の2つの関係部分をまとめたのが資料その3です。

資料その3

◎北の食物誌  北海道で一番最初に羊肉の普及、奨励に乗り出したのは、羊による畜産振興をもくろんだお役所であった。農林省月寒種羊場(現在の農林省北海道農業試験場)は大正年代から羊肉料理をいろいろと試作し、来訪者に食べさせたという。さらに昭和に入ると、種羊場の飼育主任、山田喜平技師は昭和六年版の『緬羊と其飼い方』の中で、焼物九種類、揚物六種類、煮物十二種類、内臓料理五種類……と、至れり尽くせりのメニューを発表している。そのひとつ、ジンギスカンなべと思われる調理法の解説―。
「羊肉は一分ぐらいの厚さに切り、しょうゆ、酒、砂糖、七色トウガラシ、ショウガ、ネギ、ゴマ油少量を合わせた中に約三十分浸しておく。焦げつかぬよう金網にゴマ油を塗って、強火の七輪にかけ、つけ汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる」
 そのあとに、生松の枝を炭火にまぜて、いぶすように焼くと一層風味がよい、と粋な注意書までついている。


◎成吉思汗物語り  「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は物に名前をつけることが大好きで、ジンギスカン鍋とつけたのでしよう」と、満州野さんは「父とジンギスカン鍋」という一文を草している。
 農林省では月寒、滝川の試験場に、羊肉普及の目的でジンギスカン料理を取り入れた。月寒では大正六年ころから始めているが普及の効果はほとんどなかった。
 昭和初期のジンギスカン焼というのは、金網に胡麻油を塗って七輪にかけ焼いて食べた。炭火のなかに生松の枝を混ぜて燻し気味に焼くと一層風味がよいことの注意も記されている。
 このころになると、焼き物、揚げ物、煮物、内臓料理にいたるまで三十余種類の料理法が、農林省月寒種羊場の山田喜平技師(後の滝川種羊場長)によって詳細に紹介されている(緬羊と其の飼い方)羊肉料理の貴重なテキストブックであった。

  

参考文献
上記資料その3の「北の食物誌」の出典は毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」115ページ、昭和52年8月、毎日新聞社=原本、「成吉思汗物語り」は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、北海道農業改良普及員協会=原本


 私はですよ、更科さんは「成吉思汗物語り」の中の藤蔭満洲野さんが書いたことにしてあるところの「父」を早飲み込みしたか、誤読したと推理するのです。更科さんには名付け親は丸木章造でも駒井徳三でもないはずだという先入観があった。だから駒井命名説はふふんと飛ばし読みした。駒井さんが長女に満洲野と名付けたと書いてあるけれども、藤蔭という芸名、ペンネームは書いていません。それで満洲野さんが書いているように吉田さんが創作した「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は物に名前をつけることが大好きで、ジンギスカン鍋とつけたのでしよう」というくだりに飛びついた。「満洲野さんは」を「満洲では」ぐらいに読み飛ばし、これで納得、吉田博の「父」が成吉思汗鍋と命名したのかい、合点、厳父でいけると思い込んだのでしょう。しかし、ですよ。更科さんがいかに郷土史の権威であっても、この「吉田博の厳父命名説」は、私がここで指摘するまでもなく、証明が足りないので、どなたも受け入れなかった。その証拠に、ジンギスカンの権威として道新の探偵団に尋ねられた道立中央農試の高石啓一さんは更科説はノータッチ、ジンギスカンの命名者は駒井徳三さんでしょうと明言しましたよね。思い出して下さい。
 それから「『緬羊と其の飼い方』というパンフレットの中」とありますが、これは山田喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」であり、初版で600ページ、第5版では647ページにもなったれっきとした単行本でありまして、それをパンフレットというのは、分厚い本を沢山書いたことのあるベテラン、更科さんぐらいでしょう。吉田さんは「テキストブック」と書いたのであって「パンフレット」ではありません。私はそのテキストブックという言い方と「北の食物誌」における「昭和六年版」という表現で、ただで配る程度の印刷物というイメージが更科さんの頭の中にできたと思うのです。書名の誤記「其の飼い方」からみれば、これは「成吉思汗物語り」に従ったらしいということは、資料その3でわかりますね。
 決め手は漬け汁の作り方です。「北の食物誌」は「…生姜、葱、胡麻油少量を合わせて中に約三十分浸しておく」と書いています。山田さんは「…七味唐辛子其他を合せて」であって、漬け汁に胡麻油少量は入れていません。胡麻油を入れてしまったのは「北の食物誌」であることは、これまた資料その3の違いで理解できますね。
 「北村村史」は「一口メモ」の出所は、単にカッコして北海道絵本としか書いていません。ところが「北海道絵本」は続きがあって全部で「続」と「続々」と3冊、シリーズで出た本なのです。まず昭和24年に「北海道絵本」の日本交通公社札幌支社から出た。翌25年に札幌のさろるん書房から同じ書名の「北海道絵本」を出しています。それからずーっと飛んで昭和51年に「続北海道絵本」、53年4月に「続々北海道絵本」が出てますが、札幌市立図書館には「限定本」とか「正」とか、どういう経緯があったのかわかりませんが、9冊も所蔵されています。「緬羊」は「続北海道絵本」ですが「成吉思汗鍋」は、その最後の「続々北海道絵本」に載っています。
 私は更科さんは「成吉思汗物語り」を参考に書いてみたものの、いまひとつ、初期の料理法がはっきりしない。参考書はないかと捜していたら、いいタイミング、52年の7月「北の食物誌」が現れたので、さっそくそれを取り込んで原稿を仕上げ、翌年4月発刊にこぎつけた、とにらむのです。漬け汁の作り方がそっくりなのは、それを裏付けるものと思いませんか。それから「元の大祖テムジンの成吉思汗」とありますが、これは「太祖」の誤植でしょう。辞書を見ればわかりますが、太祖は国とか事業を興した人、元祖のことなんですが、大祖では曾祖父さん、祖父母の父とまったく違ってしまい、訳がわからなくなります。
 ちょっと脱線だが、東京の古書店主の中山信如という人が「日本古書通信」に書いた「九島興行資料の来し方行く末」によると、更科さんがまとめた「北海道活動写真小史」の九島興行の記事は疑問がいっぱいというんですなあ。中山氏が扱った「明治43年札幌狸小路に開設された遊楽館(九島興行)の活動写真資料。書簡類等明治大正期を中心とした北海道映画史の草創期を知る上での好資料、一千数百点」という段ボール3箱の資料を整理するのに「活動写真小史」を手かがりにしたところ、例えば狸小路の遊楽館新築費が見積、請負、残金請求書のどれとも合致しないし、社史的記述も資料を活用したという形跡がほとんどないそうだ。
 「著者更科はいったいなにを根拠にこの金額を書きとめたのだろう。残金請求書の前にはそれまでの分の請求書もあったにちがいないが、それだけは採録され使われたのち、なんらかの理由で元に戻されることなく行方知れずとなってしまったのだろうか?」というんです。この九島資料は、早稲田の坪内博士記念演劇博物館がお買い上げになった
(1)そうだが、この話が気になる人は自動化書庫にある「日本古書通信」の平成22年9月号からのバックナンバーを引き出して見なさい。ふっふっふ。
 この機会に、吉田さんの「成吉思汗物語り」を掲載した「北海道農家の友」も考察しておきましょう。この雑誌は昭和24年9月に創刊されています。その12月号には、戦後牛馬などは減ったのに「緬羊だけすこしもへらず、すごい勢でふえる一方で、本年二月一日現在の農林統計によると十四万頭をこえ、また最近札幌地方経済調査庁の調査によると、三十万にちかい頭数が本道に飼われているのではないかといわれている」(2)と書いてあるくらい、緬羊が重宝されていた時代でした。発行所は北海道農務部農業改良課の外郭団体である北海道農業改良普及員協会、後に北海道農業改良普及協会の名前が変わっています。「むずかしくてかたい、机に向かってでなければ読む気のしない雑誌がおおい。ほんとうに農家の皆さんが楽しくよめる雑誌が皆無といつてよい。私達はのらで一ぷくするとき、あるいは夕餉後の一とき、気がるに読める雑誌をと思い『北海道農家の友』を発刊することにいたしました」(3)と創刊号の「あとがき」にあるように、誕生して間もない道農業改良普及課が意欲に燃えて作り出したものでした。
 道立図書館にはそっくり保存されているので、そのうち創刊号から5年分を見たのですが、更科さんも吉田博さんも、古くからこの雑誌に書いていたんですね。更科さんは創刊号に随筆を書き、吉田さんは創刊号から数えて5冊目の第2巻1月号の時事解説「新しい窓」に「日本農業のうごき」、3月号に「電源の開発」を書いています。
 更科さんはこの雑誌にドラマを書いていますが、短編小説「北海道を築いた人 エドウィン・ダン」も書いています。その中でダンが御雇い教師ケプロンに「何故毛をとるべき羊を入れないで、食肉用の羊だけを入れるのであるか」と詰問する。ケプロンが君は私の命令通りにやればいいのだと官僚的に威張って答えたので、ダンが怒ってテーブルを叩いて立上がるシーンを描いています。(4)ここで、もう一度「成吉思汗鍋」を見て下さい。ここではそうした対立話は持ち出さず、さらりと北海道には初めから肉用羊を輸入して「ダンを怒らしたほどだから」道内で羊肉料理が行われていたのは当然。それは「さきの資料によっても知ることができる」と、あっさり証明済みにしていいのでしょうか。
 ここまでに挙げられた本は「吉田氏が書いている」ものと、山田さんの「緬羊と其飼ひ方」しかありません。更科さんは、月寒など道内では、以前から羊の焼き肉が食べられていた。これという名前がなかったところへテムジンの伝説が伝わってきて「随筆家吉田博氏の厳父」がジンギスカン鍋と命名したと「吉田氏が書いている」のだから間違いない。月寒にいた山田さんが昭和6年に書いた「パンフレット」に作り方が書いてあるではないか。つまり、更科さんの示す「さきの資料」とは、吉田随筆と山田パンフレットであり、2冊もあれば皆もわかるはずだ。ジンギスカンは北海道が発祥地なんだぞということですね。これまでの私の講義を聴いていれば、そんな簡単な話でないことはよくわかるはずです。郷土史家が書いているからと頭から信用できないという一例でしょう。
 更科さんは昭和17年から北海道農業会に務めたのですが、北海道牛羊畜産組合連合会に移って北海道畜産発達史を書いていました(5)。その畜産史の原稿は昭和22年に農業会で起きたボヤのため水浸しになり、さらに編集中止になって日の目を見なかったらしいのですが、そうした蓄積があったからダンのことや「続北海道絵本」に短い「緬羊」のことを書くぐらい朝飯前だったと思います。
 吉田さんの3度目の登場は昭和30年の7月号、そのころは「7月の窓」とタイトルが変わっていますが、そこに道農務部農政課長として「戦後十年の北海道農業を顧みる」を書いています。私は、農務部関係者だとは思っていましたが、ここでやっと吉田さんの前歴を知ったのですよ。
 さて、ジンパ学を研究する私が、ジンギスカンがこの雑誌にどう現れたのか、調べないわけがありません。えへん、単語としてのトップは第2巻、昭和25年11月号の「編集室日記」に出てきます。「農業改良普及課創立二周年の祝賀会は、月寒の種羊場でジンギスカンなべをかこみながら盛大にひらかれたが」(6)が最初でありました。食べる方では、昭和27年10月号に道農業改良専門技術員だった伊藤安さん、この人は後に帯広畜産大の教授になるのですが、その伊藤さんが「羊肉を上手に利用するには」と題して書いたのが「北海道農家の友」では初めてでした。伊藤さんは家庭でできるものとして焼き物は(1)網焼(2)八幡巻、揚げ物は(1)竜顔揚、煮物は(1)シチユー、和え物は(1)酢味噌和え、の5種(7)を取り上げています。あれ、ジンギスカンがないと思うでしょうが、網焼きがそれで、資料その3が、伊藤さんが示した作り方なんです。

資料その4

(一)網焼(五人分)
肩又は股肉 約百五十匁
醤油 五匁
食塩 少量
酒 二勺
酒し葱 盃一杯
七味唐辛子 少量
胡麻油

準備 丼のなかに醤油、七味唐辛子および葉葱(小口切りにして布巾に包んでよく揉み、そのまま水で晒らし、さらにその水を絞つたもの)を入れて薬味を作り、そのなかにスキ焼肉のように薄く切つた羊肉をしばらく浸しておきます。
方法 肉を浸している間に一方では七輪に炭火をおこして食卓にのせ、火が落ちついてきたら金網をあげて肉が焦げつかぬようにその上に胡麻油を塗つて箸で肉を拡げながら金網にのせ、肉の縁辺の色があせてきたら裏を返えし、肉の上に汁がふいてきたらそのまま熱いうちに喰べます。
注意 焼き肉を何度も裏返しすると味の好い汁がおちて不味くなります。附け焼きのように度々汁をかけることも禁物です。浸け汁が甘いようなら食塩で加減します。また浸け汁のなかに味醂や砂糖をいれるとかえつて味がくどくなるので使わない方が上策です。
 この料理法は本式には烤羊肉(カオヤンロー)、日本では成吉思汗(ジンギスカン)鍋と呼ばれるもので、炭火に生枝または青松葉などをさし入れて燻すと一段と風味を増します。

  

参考文献
上記(1)の出典は日本古書通信社編「日本古書通信」974号6ページ、中山信如「九島興行資料の来し方行く末(二)」より、平成22年9月、日本古書通信社=原本、 (2)は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和24年12月号8ページ、二瓶直治「羊毛加工はこんなふうにして」、北海道農業改良普及員協会=原本、 (3)は同昭和24年9月号40ページ、「あとがき」、同、 (4)は同昭和26年9月号100ページ、更科源蔵、八木保次画「北海道を築いた人 エドウィン・ダン」、同、 (5)は北方農業研究会編「北方農業」618号54ページ、吉田十四雄「十年前」、昭和26年5月、農業委員会北海道連合会=原本、 (6)は同昭和25年11月号64ページ、「編集室日記」、同、 (7)と資料その4は同昭和27年10月号14ページ、伊藤安「羊肉を上手に利用するには」、同


 あれ、漬け汁の作り方が山田さんと大分違うぞと、すぐわかった人は、この講義をよく聴いてきた人です。この伊藤さんの作り方の原形は、昭和6年、この年は未年でした。その年の「糧友」1月号に糧友會嘱託の満田百二さんが書いた「羊肉網焼」にたどり着きます。満田さんの作り方は、また昭和6年の話をするときに取り上げるので、いまは伊藤さんと満田さんの違いをスライドで示すだけにします。伊藤さんの作り方は、醤油の分量の「勺」を「匁」、晒し葱の「晒」の字を「酒」と誤植されていますが、これは正しく書かれていたと見なし、材料の書き方も空白の入れ方が異なるのですが、分量は同じなので字句が違わない限り、同一と見なしてあります。例によって字の色を変え、下敷きになった満田さんの文は黒い字、伊藤さんが削った個所がオリーブ色、追加した個所は下線付きの黒い字にしてあります。はい。

、羊肉網焼(成吉斯汗鍋)材料五人分)
羊肉(肩又は股肉約百五十匁
醤油 五勺
食塩 少量
酒 二勺
洒し葱 盃一杯
七味唐辛子 少量
胡麻油

準備 丼のなかに醤油、酒七味唐辛子および葉葱小口切りにして布巾に包んでよく揉み、そのま水で洒して更、さらの水を絞つたものを入れて薬味を作り、そなか鋤きスキ焼肉のうに薄く切つた羊肉をしばらく浸しておきます。
方法 肉を浸してる間に一方では七輪に炭火をおこして食卓にのせ火が落ちついてましたら金網をあげて肉が焦げつかぬようにの上に胡麻油を塗つて箸で肉をつゝながら金網にせ、肉の周囲辺の色がせて來ましたら裏返し上に肉の上に汁がいてきましたらのま熱いところを召し上りうちに喰べます。
注意 焼き肉を裏返して焼きま切角美味し味のよい汁が火の中に落ちてが底下しくなります附け焼きのように度々浸け汁をかけることも禁物です浸け汁が甘ようでしたら食塩で加減いたします。
 また浸け汁のなかに味や砂糖をますかえつて味がくどくなるのでりますから羊肉のお料理には砂糖を用ひ使わない方が上策です。これはの料理法は一名成吉斯汗鍋(式には烤羊肉 (カオヤンロー)、日本では成吉思汗鍋(ジンギスカン)称して有名な北京料理でありますが、少し凝て参りますと、專用の金網を用ひ呼ばれるもので、炭火の中柳の生枝または青松葉などを時々さし入れて其の煙で肉をしますと一段の風味を添へ増します、又胡麻油の代りに小蟹の油を塗りますと本來の料理となる訳ですが以上申しあげた方法で羊肉の本味に変りはありません、師走の寒空の夕餉に一家団欒のお料理として趣味の上からも榮養の上からも誠に結構です。

  

参考文献
上記スライドの伊藤さんの作り方は資料その3と同じ、満田さんの作り方は糧友會編「糧友」第6巻1号110ページ、満田百二「羊肉料理」、昭和6年1月、糧友會=原本

 ほとんど同文、作り方のところは漢字を平仮名に書き換えたぐらいの違いであり、注意だけは半分カットして簡単にしたことがわかりますね。伊藤さんの次に「北海道農家の友」にジンギスカンを書いたのは道農業改良課専門技術員の七戸理三郎さんという人で昭和30年12月号の「老廃緬羊の利用」の中でした。内臓のつくだ煮、いまはルーといっているカレーの素、羊肉の塩漬けと味噌漬けも書いていますが、資料その5にジンギスカンだけを抜き出してみました。

 資料その5

ジンギスカン焼
 羊肉料理の第一はジンギスカンと言われている程の流行ツ児で、色々と方法があります が、ここでは道立種羊場式のものを述べますと、まず五人分の材料として、脂肪や腱を除 いて、繊維に直角に大きく切つた羊肉五百匁と、いずれも中等大のりんご五コ、みかん四 コ、玉ねぎ三コと親指大のしようが一コをおろし金ですりおろし、これを木綿布でこして、この中に切つた羊肉と百匁の長ねぎを一寸くらいに切つたものをまぜ、約二時間漬けておきます。
 一方小鍋に醤油二合、酒五勺、砂糖十五匁を入れ煮え立つたら、これを冷却し、さらにこしよう、唐がらし、味の素若干を加えてその三分の二を羊肉を漬けた果汁の中に入れ、今一回羊肉を混和しますが、この後三〇分くらいが一番美味しい時です。
 これを七輪などにかけたジンギスカン鍋(なければふつうの金あみでも結構です)に掛け、七分通り焼けたら裏返して焼き、先にのこしたタレの中に大根、しようが、ニンニクなどをおろして混ぜ、これに焼けた肉をつけて食べます。若い人なら二百匁くらいの肉を楽に食べます。

  

参考文献
上記資料その5の出典は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和30年12月号52ページ、七戸理三郎「老廃緬羊の利用」、北海道農業改良普及員協会=原本

 9回目の講義で取り上げた釣谷猛さんの「月寒十五年」に出てきた月寒流のタレの作り方をスライドで見せて、比較してもらいたいところですが、時間を節約するために私がまとめましょう。昭和7年までは同じ国立の種羊場だったが、道立は山田マサ流が伝わっているはずでから、七戸さんのいう「道立種羊場式」は釣谷さんと少し違うことが考えられるのですがね。
 共通項を探すと(1)五人前で羊肉五百匁(2)醤油と砂糖を別の鍋で一度煮立ててから冷やし、それとリンゴ、葱または玉葱、蜜柑または柚子、生姜の搾り汁を合わせる(3)その汁の3分の2〜半分を漬け汁にする(4)羊肉を漬ける(5)残りの汁をたれにして、焼けた肉に付けて食べる―と5つもある。どうやら山田流のタレは広まらず、滝川も月寒もほとんど同じ作りになっていたのですね。分量は作る人によって多少変わるでしょうから、肉以外は厳密でなくていいでしょう。
 その前の伊藤さんの作り方、本当はその20年前の満田さんの作り方なんですが、それと道立種羊場式のレシピーを比べると、いい味のたれにしようと、リンゴなど材料の品数が増え、醤油を煮立ててから使うなど合わせ方も板前風に洗練されていることが、料理経験に乏しい男子諸君でもわかりますね。
 それから大きな変化として指摘したいのは、金網に胡麻油を塗るのをやめたことと、松葉燻しが消えたことです。これはジンギスカン鍋、いや昭和30年はちょっと早いかな、そのころの鍋事情をいま調べているのですが、一時すき焼き鍋を使ったという説もありますし、鍋で焼くのが当たり前になったせいと考えられます。松葉の煙が鍋で遮られて、肉に直接当たらなくは無意味ですからね。それと、もう小細工をしなくても、食べる人が羊肉の臭味に慣れてきたということもありましょう。いま皆さんはジンギスカン用の漬け込み羊肉を焼くか、パック入りの肉を既製品のたれで食べるので、たれの自作はしたことかがないと思いますが、かつては、このように「我が家秘伝のたれ」作りにお袋さん、奥さんたちは知恵を絞ったんですよ。
 さて、作り方はこれぐらいにして、ジンギスカン料理と名付けた命名者と「北海道農家の友」の関係を取り上げます。道内の農家向けに作られたこの雑誌はですよ、吉田博さんの「成吉思汗物語り」より25年も前に、ぬかりなくジンギスカンの歴史についても書かせていたのですよ。わがジンパ学講座が開設される40年以上前なんですからね。農家向けの読み物だったにせよ、編集者のサービス精神は立派なものです。
 執筆したのは全日本司厨士協会北海道本部相談役兼研究部顧問という長い肩書きの持ち主、日吉良一さんでした。いいですか、ホームページやブログで、いかにも自分で調べたような顔をして、ジンギスカン料理の歴史を書いたものがあります。それらを読むと、たいてい駒井徳三という人が命名したといわれるとか、命名したというと書いておるが、それらの出所は、みんな日吉さんが昭和36年に発表した新説なのです。これはウィキぺディアにも書いていない事実だから、駒井命名説を書いていてもそのページの作者は日吉という料理研究家の名前なんか全然知らないでしょうね。
 そもそも孫引きとは―と検索してみたことがありますか。Aという人が書いたことをBという人が引用する。そのBの書いた中のAの書いた部分をCという人が、Aはこう書いたと引用する場合をいいます。CはBから引用しないで、Aが書いた部分はAの本を調べてから引用するのが、正しい引用なのですがね。学者じゃないからなんてBの本を気安く丸写しすると、Cで3代目になりますから孫引用、これを孫引きというのですな。そういう数え方でいえば、駒井説は皆日吉説の孫引きの孫引きぐらい、もっとかな、わからないぐらい代を重ねた末裔引きなのです。
 日吉さんはジンギスカン料理と命名したのは駒井だと唱えますが、間もなく駒井説を打ち消します。もっと後には「だれいうとなく」と特定の命名者はいないと変えたのです。これからその変遷を説明しますが、提唱者が自説を撤回したのに、駒井命名説を載せているのは、いまも地動説を信じているようなものですよ。でなきゃ駒井命名説が本当だという何か証拠があるのでしょうから、ぜひ拝見したいですなあ。
 日吉さんはいろいろな食べ物、料理を調べては研究雑誌に書いていました。当然ジンギスカン料理も調べたのですが、命名者は知りませんでした。その証拠に昭和34年に日吉さんが書いたものを紹介しましょう。資料その5がそれです。

資料その6

北海道では中国等の「煖羊肉」をジンギスカン鍋と改名して名物料理と大いに宣伝してその異国趣味を売り物にしているが、それ以外の料理法は業者も客も知らないようである。中国名業譜に輯録している。北京の清真又一順の羊肉料理,「他糸密」「桂花羊肉」「東波羊肉」「生扮羊肉」「手抓羊肉」「羊肝排盆」などはあまり手数のかゝるものでもないし,日本人向きでもあるのだから,これだけ羊肉が出廻って来た今日業者は今一歩踏み込んで勉強して見たらどんなものであろうか。人まねの成吉斯汗鍋だけしか出来ないのではあまりに芸がなさすぎるというものである。羊肉は牛肉や豚肉よりも一種変った滋味があり肉も大変軟らかいので老人にも小供にも喜ばれる。然も今の処大変安値であるから家庭向きのお惣菜にも経済的である。緬羊独特の臭味は生姜と玉葱,ニンニクで充分消すことが出来るが,網焼などはその必要もない程である。

 これは全日本司厨士協会が発行していた会誌「L’art Culinaire Moderne<ラート・キュリネール・モデルヌ>」昭和34年6月号に日吉さんが書いた「成吉斯汗鍋」の一節です。誤植と思われる字がいくつかありますが、日吉さんがいわんとすることはわかりますね。それから今後会誌は「キュリネール」と略しますからね。
 「烤羊肉をジンギスカン鍋と改名して」と書いていますが、そう呼び始めたのは満洲に移住した日本人たちだとも書いていません。もし日吉さんが駒井命名説を知っていたら、駒井という満鉄マンがこう呼び始めたと一言付け加えたに違いないと思いませんか。しいて読めば「北海道では」とあるから、道内の料理店、料理関係者がジンギスカン鍋と呼び替えて宣伝しているように取れます。本州では、そうは呼ばないみたいな感じですよね。
 日吉さんは、そのころ司厨士協会のこの月刊誌に「蝦夷だより」を連載していたのです。資料その6は、その4回目の一部で全文約2260字、ジンギスカン鍋、成吉斯汗鍋という名詞は3回現れます。資料その6に到るまでに926字を費やしています。「都ぞ弥生」の「羊群声なく」の引用から始まり「この月寒にある種羊場の風景はまことにエキゾチックなもので若い観光客は感激するのであるが,又一方食気の方の連中はここのジンギスカン鍋に舌鼓をうって豪快な野性味にたんのうするのである。(8)」と紹介して1回ね。
 北海道に導入した緬羊が増えて「昭和10年頃には札幌市中にも2,3手紡手織の業者が出来,筆者などもホームスパンの背広をいち早くあつらえて大いに道産愛用の先駆者を持って任じたものであったがまだ肉はたまに珍味として入手出来る位であった。(9)」と続きます。珍味の羊肉をジンギスカン鍋にしたのかどうか書き残していて欲しかったところですが、もし昭和10年に食べたとしても鍋はなかったはずだから、糧友会指導の金網焼きの鍋羊肉か洋食店で食べたぐらいではないかな。羊肉の匂いは気にならない。「網焼などはその必要もない程である。」といえたのは、戦後たくさん食べた経験からでしょう。
 そして、資料その6のジンギスカン鍋が2回出る382字になります。ジンギスカン以外の「料理法は業者も客も知らないようである。」というけれど、洋食なら明治から知られていた。さっきいった北村緬羊畜産組合は大正13年、糧友会は昭和3年、その流れをくむ山田喜平さんは昭和6年から羊肉料理を広めていることを、日吉さんこそ「知らないようである。」なんだな。
 中国名業譜は「中国名菜譜」の誤りらしいけど、いまこの書名で知られる中山時子さん訳の最初の「北方編」が出たのは、もっと後、昭和47年ですから、日吉さんは昭和32年から発行された原書を見て、こういう料理もあると書いたのでしょう。
 ここまでで57%、6割ですね。この後4割が苦しい。「成吉斯汗の伝記映画などで彼等の饗宴の場などがあると,必ず野火をたいて羊の丸焼をしている場面が出て来る。それ程に蒙古民族と緬羊は密着しているのである。(10)」というくだりがあります。だから緬羊の丸焼きをジンギスカン焼きというならわかりますよ。そうではない。ジンギスカンが生きていた時代は丸焼きで食べていたとしても、鍋と丸焼きはどう関係になるのか説明していません。鍋で焼くのは中国料理に取り込まれてからのことなのでしょうか。
 さらに自分が兵隊で蒙古北部にいたとき、羊群を連れた蒙古人が寒い夜「羊群の中え割込んでねているのをよく見掛けたものだった。いかに彼等がその家畜と相互に信愛感が深いものかと感じさせられたのであった。」と、ジンギスカン鍋の話から脱線する。日本人は食用獣に対する知識に欠け、主婦の料理は不経済な肉の使い方をしている。だから「今日西洋料理を職とする者はもっともっと家庭人に対し此事をデモンストレーションする義務があると考えるのである。(11)」と、説教調で終わってます。
 後で示しますが、日吉さんは大正7年に瀋陽でカオヤンローを食べたが、そのころはジンギスカン料理と呼んでいなかった(12)と別の雑誌に書いたのに、これでは改名してと深入りを避けている。これは北海道に於ける緬羊のあれこれを書こうとしたからだと私は推察します。ところが半分しか埋まらなかった。丸焼きなど蒙古の話も加えてやっと約束の行数にはなったけれど、ぴったりの題名が思い浮かばない。仕事が忙しくて時間がない。ええい、面倒だ、半ば投げやりに「成吉斯汗鍋」と付けたと私は見ますね。
 最初から鍋に話を絞っておれば、ジンギスカン鍋という名前の考察だけでも結構埋められたでしょう。もし駒井命名説を知っていれば、彼は卒論に満洲大豆論を書いたとか、満鉄に入ってから個人として大連の土地売買でたんまりもうけた(13)とか、駒井の著書を見て行数稼ぎができたはずです。また自分が初めて食べた瀋陽ではもっと大きな鍋だったとか、肉の切り方、つけ汁のこととか、いろいろ書きようがあったでしょう。月寒の次に映画の丸焼き話を持ってきて、これがどうして鍋で焼くように変わったのかとかね、何も蒙古民族と緬羊は密着ぶりまで脱線しなくてもよかったと思いますね。そういう細工が一切ないので、これを書いた昭和34年の時点で日吉さんは駒井命名説は知らなかったといえるでしょう。
  

参考文献
上記資料その6と(8)〜(11)の出典は全日本司厨士協会編「L’art Culinaire Moderne」昭和34年6月号26ページ、日吉良一「蝦夷だより(4) 成吉斯汗鍋(ジンギスカン鍋)」、昭和34年6月、全日本司厨士協会=原本、 (12)は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」創刊号12ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本、 (13)は駒井徳三著「大陸への悲願」87ページ、昭和27年11月、講談社=同


 それから2年後、日吉さんは西洋料理史を調べているうちに、とんでもない特ダネを聞き込んだんですな。なにしろ全日本司厨士協会北海道本部の研究部顧問ですからね。あちこちへ出かけて調べるわけです。間もなくNHKからお呼びが掛かり、日吉さんはその特ダネをラジオで語り、自分が毎月寄稿していた全日本司厨士協会の「キュリネール」へ記事を送ったのです。それからもう一度、道民向けに手を入れて、やはり連載を受け持っていた「農家の友」12月号用として記事を送ったと思われます。記録から具体的にこれらの動きを示しましょう。
 多分道庁の中と思うのですが、満洲から引き揚げて道開拓部に務めていた塩谷正作という人物に日吉さんは出会ったのです。塩谷さんは我が農学部畜産学科を昭和9年に出た北大OBでした。学生のころから大言壮語するホラ吹き型で、後に生臭坊主という綽名(14)を奉られたそうです。
 昭和17年8月に出た雑誌「北方農業」に「吾等拓士本来の面目を発揚せんことを期す」「北方農業確立に熱血の息吹き」という見出しで、満洲国立開拓農業傳習場が開場したというニュースが載っています。その「初代場長塩谷正作氏は人も知る熱血、実行の人である。以前より北海道農業研究会員として本道農法を身を以つて体得し、農業経営に造詣深い達見の士である。今之の場長を得て充分にその手腕を発揮せしむるとき国立開拓農業傳習場の満洲開拓農業に対する役割は、期して大なるを待つべきである。(15)」と期待された人だったのです。
 戦後引き揚げてきて道立十勝拓殖実習場の第6代場長として昭和25年1月から33年10月(16)まで務めました。このころの北海道総務部人事課編「北海道職員録」は、毎年発行ではなく、また年によって書く職種の範囲が異なるので連続してしていませんが、塩谷さんは昭和34年は農地開拓部開拓経営課開拓経営課(17)36年は農地開拓部開拓経営課機械隊(1817)37年は農地開拓部開拓課課付(19)38年は農地開拓部開拓課課付(20)39年は農地開拓部開拓調整課調整係(21)に在籍し、40年度版では記載がありません。定年退職され昭和59年には栃木県(22)におられましたが、その後で亡くなられた(23)とのことです。
 料理の話を聞くのが大好きな日吉さんを捕まえて、塩谷さんはジンギスカン料理という名前の由来を得々とぶったと思われます。満洲帰りの北大OBが向こうで聞いてきた話だというし、確かに満州国の初代総務長官は、元満鉄社員の駒井徳三だったし、部下の松島鑑,香村岱二という名前も北大農学部の同窓会名簿にあり、駒井と同じ満鉄地方部に在籍したことも間違いない。駒井が満鉄から中国視察に派遣されるとき、北大同窓会が激励会を開いたことも札幌同窓会報告に載っている。
 こうして裏付けられるからには、日吉さんは塩谷さんの話は本当だと信じたのですなあ。どこかで顔見知りのNHKの記者と出会ったとき、ジンギスカン鍋と呼ばれるようになった経緯はこうだと聞かせたのでしょう。さっそくNHKラジオの朝早い農村向け番組で話すよう頼まれた。グリコは1粒で2度おいしいというキャッチフレーズを使ったが、ジンギスカンの由来も2度おいしいと日吉さんは「キュリネール」編集部員の北大OBの太田兵三さんも登場する記事「成吉斯汗鍋の名付け親」を「キュリネール」の連載に加えたのです。
 「成吉斯汗鍋の名付け親」の前書きには「昨日(9月4日)」NHK札幌放送局からジンギスカン料理の北海道における歴史と将来の見通しを話すよう頼まれた。その録音は「今朝6時15分から,『村の広場』という農村向け番組で,15分間の放送を終ったが,(24)」という記述からみて、放送日の昭和36年9月5日に書き上げ、直ぐ投稿したと考えられるのです。
 日吉さんはその2カ月後「農家の友」に「成吉思汗料理事始」という題で同じく駒井命名説を書いたのですが、両者の内容を比べると「キュリネール」では塩谷技師に触れず、自分が北海道の料理史を調べているうちに見付けたとし、命名時期を大正末から昭和の初めと絞った点が異なります。資料その7に「キュリネール」の関係部分を引用させてもらいました。
 こうして私が司厨士協会のいまの会誌「西洋料理」の前身である「キュリネール」に掲載された日吉さんの記事をだ、引用した資料を配ることができるのは、洋食とは縁遠いジンパ学研究の重要性を理解された全日本司厨士協会のある方のお力添えがあったからなのです。古い「キュリネール」は大学図書館では女子栄養大と日本女子大にしかなく、それも全号そろっていない。栄養大は所蔵冊数が少なく、女子大は学外者が閲覧するのは難しい図書館ですから、なおのこと、私は大いに感謝しておるのです。
 研究仲間も150冊で4万円という「キュリネール」のバックナンバーが某古書店にあると連絡をくれましたよ。もし、協会のその方の助けがなかったら、それを買うしかなかったし、買ったところで日吉論文がちゃんと入っていたかどうか怪しいでしょう。研究を続ける上で、志を共にする人とは連絡を密にして大事にしなきゃいけませんよ。情けは人の為ならず、私も頼まれごとがきたときは、出来るだけ尽くすのです。ただし、諸君からのレポートの提出期限と採点は例外ね、はっはっは。
 資料その7(1)から日吉さんがよく書いていたことがわかりますね。(2)は「名付け親・駒井徳三」の前後の章が見出しだけでは、資料として不親切だろうと思いまして、日吉さんの原文を圧縮して【】内に示しました。

資料その7

(1)
昭和36〜38年に掲載された日吉原稿の題名

昭和36年4月号 アイヌ歌曲 飲食採取に捧げる歌
昭和36年5月号 北海道西洋料理系譜
昭和36年6月号 北海道西洋料理系譜 箱館の巻(1)
昭和36年7月号 北海道食用動物紳士録(第1回)
昭和36年8月号 北海道食用動物紳士録(第2回)
昭和36年9月号 北海道食用動物紳士録(第3回)
昭和36年10月号 成吉斯汗料理の名付け親
昭和37年3月号 「西洋料理渡来百年祭の提唱」
昭和38年1月号 「郷土料理を考える(1)」
昭和38年2月号 「郷土料理を考える(2)」
昭和38年4月号 「飲食物名義抄」
昭和38年6月号 「天皇の井戸 札幌のうまい水を尋ねて」

(2)
成吉斯汗料理の名付け親
         北海道本部相談役  日吉良一

   ◎(見出しのない前書き)【道内の緬羊が急減し、ジンギスカン料理を売り物にしてる業者は困っている。きのう(9月4日)私はNHK札幌放送局から北海道に於けるジンギスカン料理の歴史と将来の見通しを放送した。その概要と判明した成吉斯汗料理の名付け親もここに書く】

   ◎名付け親・駒井徳三
 旧満州国総務長官駒井徳三と言っても,若い方には,ピンと来ないかれ知れぬが,軍閥花やかなりし頃,陸軍による大東亜共栄圏樹立の土台となった満州帝国建設が,当時の南満洲鉄道株式会社という国策会社の中で,着々と進められていた時,調査部の人々は,情報網を支那大陸全土に張りめぐらせて、時を待っていた。その主脳の一人が駒井徳三であった。彼は,北海道帝国大学農学部の出身で,本誌現編集部の太田兵三氏の先輩である。
 その駒井徳三が,部下の調査部員や,いわゆる,満州浪人たちの諜報活動をねぎらうために愛用したのが,羊肉料理であり,白乾児酒(パイカルチユウ)であった。農学部出身の彼は,つとに,満蒙における緬羊が日本においても,衣,食ともに必須(ひっす)のものと考えていたので,その普及のために,また,日本人が大陸において活動する場合の重要な食糧となすべしとして,呼びやすい日本名をつけることを発案して,「成吉斯汗は義経なり」という伝説も考慮に入れ,且つ,花々しい成吉斯汗の覇業(はぎょう)をあこがれて,羊肉料理を成吉斯汗料理と名づけ,その名の普及宣伝を部下の松島鑑,香村岱二(共に北大農学部出身で,満蒙の緬羊の改良に尽力した功労者)等に行わせた,大正末期から昭和初頭の事である。

   ◎日本で最初の調理者【昭和4年、陸軍は糧秣本廠の外郭団体、糧友会の名前で東京で開かれた食糧展覧会を開いた。その全貌を伝える「現代食糧大観」に成吉斯汗料理を指導した同展理事丸本彰造の談話などが掲載されている(注=最初の調理者は丸本だとは書いていない)】

   ◎成吉斯汗鍋の普及【食糧展覧会などにより緬羊肉料理が普及し、昭和8年ごろには東京のレストラン10店ぐらいが羊肉料理を提供した。昭和21年札幌の精養軒で田中知事の主唱で会員制でジンギスカン鍋を何回か食べたのが、北海道ジンギスカンの最初だ。次いで月寒学園の栗林理事長が昭和27年ごろ羊ヶ丘で野外料理をやって羊肉熱をあおったので、次第にジンギスカン料理は郷土名物になった】

   ◎ケプロンとダンの喧嘩【ケプロンは日本人の体質改善に肉食を勧めようとして、食用に改良されたサウスダウン種を主に輸入した。だが、エドウィン・ダンがケプロンの方針は間違っていると変更を建言した。併し刈り取った羊毛を東京千住の陸軍製絨所に送ると、買い上げ価格より運賃が高くなるので飼育者は激減した。昭和になって毛肉両用種コリデールを増やしたが、その毛は現代衣料向けには太すぎるし、自由貿易になって濠洲からの安い羊肉に押され、道内農家が緬羊飼育をやめたため急に羊肉が不足するようになった】

  

参考文献
上記(14)の出典は吉田稔著「牧柵の夢」115ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本、(23)は同117ページ、同、 (15)は北海道農会編「北方農業」500号272ページ、昭和17年8月、北海道農会=原本、 (16)は新・大樹町史編さん委員会編「新・大樹町史」147ページ、平成7年3月、大樹町役場=原本、 (17)北海道総務部人事課編「北海道職員録」昭和34年11月30日現在版51ページ、昭和34年11月、北海道総務部人事課=原本、 (18)同36年10月1日現在版240ページ、同36年10月、同、 (19)同37年9月30日現在版280ページ、同37年9月、同、 (20)38年10月1日現在版290ページ、同38年10月、同、 (21)39年版295ページ、同39年*月、同、 (22)は札幌同窓会編「札幌同窓会員名簿」昭和51年8月現在版280ページ、昭和51年10月、札幌同窓会、同、 (24)と資料その7(2)は全日本司厨士協会編「L’art Culinaire Moderne」昭和36年10月号29ページ、日吉良一「蝦夷だより 成吉斯汗料理の名附け親」、昭和36年10月、全日本司厨士協会、同

 私のこれまでに配った資料で現れた一番古いジンギスカンの実演は、昭和2年11月に糧友會が催した第1回羊肉料理講習会で糧友会嘱託の満田百二さんがやったカオヤンロー(25)です。そのときは鍋羊肉と書いてましたがね。前回の講義を思い出して下さいよ。次回あたりで食糧展覧会にも触れますが、丸本さんがいかに口八丁手八丁だったとしても、わざわざ2等主計正、佐官クラスのご本人が大衆の前で肉を焼いてみせることまでしたとは考えにくいのです。何のために満田嘱託や一戸食物研究所の一戸伊勢子所長がいるのか。
 少なくともこの展覧会の詳細な記録である「現代食糧大観」を読むと、丸本さんの「成吉思汗料理」の談話は載っていますけれども、食糧展覧会場で丸本さんが講釈や実演をしたとは書いてありません。それから新聞も調べましたが、それらしい記事すら見付からないので、日吉さんの思い込みでしょうと私は主張してきました。
 ところが今般、丸本さんは自ら実演したと書いている資料が見付かりましたので、実演したことを認め、しなかったという見方は引っ込めます。私は雑誌「糧友」は敗戦により廃刊されたと思っていたのですが、丸本さんが個人で同名の雑誌「糧友」の発行を続け、その12号に書いてあったのです。
 いずれ詳しく出所などを話しますが、それには、大正10年に丸本さんが中国へ出張してジンギスカンを初めて食べ、鍋を手に入れてきた。「翌年春東京九段坂の偕行社で、本邦創始の成吉思汗料理の披露試食会を行つたことは前述の通りであるが、その後昭和四年の春、上野で開催された食糧展覧会で成吉思汗料理の実演食をやつたことがある。(26)」と書いてあったのです。
 丸本さんは軍服の上に白衣でも着てジージー焼いて見せたのでしょうね。A級戦争犯罪人として終身刑に処せられた元陸軍元帥畑俊六の昭和27年の日記に「現役中宣伝家タリシ丸本彰造主計少将突然来訪、余ト荒木老、ソレニ本人広島県出身ヲ以テ、賀屋、三戸海軍中将、三上陸軍中将ト面会ス(27)、」とありますが、宣伝家とはいいところを突いている、丸本さんは目立ちたがり屋であったようです。
 負け惜しみをいう訳ではありませんが、日吉さんはこうした資料に基づいて実演したと書いたとは思えないのですがね。まあ、とにかく食糧展覧会で丸本さんはジンギスカン料理を広めようと何回か張り切って焼き、観客に味見させたんでしょう。
 はい、いまさっきいったように日吉さんは「北海道農家の友」にも食べ物随筆を連載していたので「成吉思汗料理事始」という題で同じように書いたのです。昭和36年12月号に掲載されたその記事の関係部分を、資料7と同じ形にして資料その8にまとめました。こっちでは、北海道開拓経営課塩谷正作技師談と道庁のお役人が情報源だと明かにしているのは「農家の友」の読者の大半が道内農家の人たちだと意識してのことですね。
 「キュリネール」は司厨士協会の会誌ですから配布部数が限られますが「農家の友」は、農業改良普及員協会が発行、売り込みに努めていた雑誌であり、そのバックは道農業改良普及課だったのですから、販売部数ははるかに多く、道内に駒井命名説を広めたのは「農家の友」だとみていいと思います。
 資料その8(3)が「農家の友」の「成吉思汗料理事始」の先頭ページです。ここで注目して欲しいのはカットの星型鍋です。昭和36年、これを描いた画家は鍋を前に置いて写生したのではなくイメージで描いたと思うのですが、ジンギスカン鍋と言えば、こうした星型鍋ばっかりになっていたのですね。
 さて、日吉さんの「事始」は、NHKの「村の広場」という朝6時からのラジオ番組で命名の由来を放送した。わずか12分の枠だったので「ほんの筋書だけ」で「聞いたいただけなかった方も多いとおもったのでこの欄を借りて補足再録させてもらうことにしました。」と前置きしています。
 それからジンギスカンは北海道の特産料理として全国に知られてきたのに近年、羊肉が不足して困るというのは、コリデール種のような毛肉兼用種を奨励してきた報いだ。羊毛の輸入自由化で採算が取れなくなった農家が羊を捨てたためだ。やはりケプロンが考えた肉専用のサウスダウン種を一貫して増やしていれば、羊肉不足の悲劇は起きなかったと思う
(28)と述べています。もう昭和30年代半ばからジンギスカンの羊肉は輸入に頼らざるを得なかったのですね。
 次いで「その問題は別の機会に考えるとして」と話の方向を変え、信ずる駒井命名説を書いています。日吉さんが前書きに書いたジンギスカン料理の定義にも注目して下さい。

資料その8

(1)
昭和36年6月号  農村喰物閑談 北海道緬羊雑話(64ページ)
昭和36年7月号  農村食物閑談 パン食あれこれ(63ページ)
昭和36年9月号  農村食物閑談 パン食の歴史と小麦(68ページ)
昭和36年10月号 農村食事閑談 食事片々(60ページ)
昭和36年12月号 農村食事閑談 成吉思汗料理事始(53ページ)


(2)
  成吉思汗料理事始
          全日本司厨士協会北海道
          本部相談役兼研究部顧問
                     日吉良一

   (見出しのない前書の末尾)<第1章>
 しかしこの問題はまた別の機会に考えるとしてジンギスカン料理といわれるものはもともと中国料理の烤羊肉(カオヤンロウ)とか、羊肉(シヤワンヤンロウ)などの他、すべての緬羊料理の総称として、支那大陸に早くから渡つていた連中が、大陸制覇のウツボツたる野心を燃えあがらしていたころ、むかしの成吉思汗(鉄木真)が欧亜を席捲した覇業を連想し、軍兵の食糧として羊の大群を常に牧羊したのと結びつけて緬羊料理を「成吉思汗料理」と名づけたのである。

   北京の飯舘子<第2章 略>

   成吉思汗料理の名附親<第3章>
     (駒井徳三のこと)
 前に述べたように支那大陸制覇に野望を燃やした軍閥者流が日露戦争で獲得した満鉄とその他の租借地を拠点にして活動した中に、満鉄会杜の調査部が大きな諜報活動をしたが、その指導者に、駒井徳三という人がいた。読者の中にはまだその記憶に残つている方もあるかとおもうが、この人は日本軍閥によつてそのカイライ政権として生みだされた。満州国政府の総務長官として華々しくデビユーした人であつた。この駒井徳三氏は惜しくも二三年前に死去したが、出身校は北大農学部で本道とは縁の深い人であつた。
 大正年間から満鉄(南満州鉄道株式会杜)の調査部長として活躍していたが、この調査部員には多くの国家的諜報活動をした人物もいて、烤羊肉(カオヤンロー)を食べ、白乾児(パイカル)(支那焼酎)をあおつて大いにメートルを上げていた。そのあくる日、駒井徳三は談往むかしの成吉思汗の覇業におよんだとき部下の松島侃などに向つて「成吉思汗は源義経なりともいう。諸子よこれからはわれわれ日本人は羊肉料理を「成吉思汗料理」と呼ぼうじやないかと提案し、松島この人は後の(松島大使の弟)などの部下に大いに宣伝させたのが、その名の始まりとなつた、と伝えられている。(北海道開拓経営課塩谷正作技師談による)
 北海道の成吉思汗鍋が名物として全国に宣伝されるにいたつた今日、不思議な因縁を感ずるのである。

   本邦最初の成吉思汗料理実演<第4章 略>

   北海道の成吉思汗鍋<第5章 1行18字で6行しかない>
 東京では昭和七、八年ころになるとチラホラ「ヂンギスカン鍋」の店ができたが、いつしか消えていつた。
 北海道では昭和二十一年秋に、大通りから南一條西三丁目の中通りに移転したレストラン〈精養軒〉が最初である。


(3)

  

 この(1)で示すように日吉さんは、昭和36年6月号に「北海道緬羊雑話」を書き、12月号に「成吉思汗料理事始」を書いたのでした。「緬羊雑話」は道内の緬羊はケプロンのいう通りコリデールにしておけば道民は羊肉を食べて体位がもっと向上していただろうということと、オーストラリアの家庭の羊肉料理の紹介(29)でジンギスカンには触れていません。だから12月号に緬羊がらみの駒井命名説を書いてもおかしくなかったのです。
 (2)は少し誤植が認められますが、いわんとすることはわかりますね。日吉さんはジンギスカン料理という名前は前書きの末尾にあるように「支那大陸に早くから渡つていた連中」が付けたとみていたのですね。
 ところが変わったのです。どっちが塩谷談話通りなのかわかりませんが「キュリネール」では「当時の南満洲鉄道株式会社という国策会社の中」の「調査部」の「その主脳の一人」とぼかしたのに、こっちでは駒井さんが「大正年間から満鉄(南満州鉄道株式会杜)の調査部長」とポストを明示した。主脳の一人よりは偉そうな部長に昇進させた。これは日吉ジャンプ、日吉辞令ですよ。「当時の満鉄調査部長駒井徳三」というせりふは、ここから始まったのです。
 この「当時の満鉄調査部長駒井徳三」はですね、これから25年後の昭和51年に復活するのです。郷土史家、随筆家に転身した元道農務部農政課長吉田博氏が馴染みの「農家の友」で「この名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏。明治四四年の北大農経出身。(30)」と、さも自分が調べたみたいに「成吉思汗物語り」で打ち出した。そして駒井さんの長女「満州野さんは『父とジンギスカン鍋』という一文を草している。(31)」と、家族も父親が命名したと認めているように書いたのが効いたんでしょう。13年も前に書かれたことは伏せて「父とジンギスカン鍋」を組み合わせた着眼点もよかったと思われます。
 以前講義で毎日新聞が出した「北の食物誌」にジンギスカンと「名づけた当時は満鉄(南満州鉄道株式会社)の調査部長で、後に満州国総務長官を務めた『駒井徳三』という人物です。(32)」というQ&Aが載っていると話したはずです。この本が出たのは翌52年ですから、吉田さんの「成吉思汗物語り」を元に書いたとみられるのです。
 当時の満鉄調査部長駒井徳三、これが受けたのですなあ。せっせと広める人がいて「成吉思汗物語り」がバイブル並になり、日吉さんの「成吉斯汗料理事始」なんか奇麗さっぱり忘れられてしまったのです。
 私がこの講義で、満鉄には調査課はあったけれども調査部はなかった。だから調査部長という肩書きは誤り、駒井さんはヒラでやめたと満鉄職員録で明らかにするまで調査部長で通用していたのです。いまは、満鉄調査部長でなく、たいてい満州国総務長官駒井徳三と書くようになりましたから、駒井さんは名付け親ではないとなっても、草葉の陰で尽波君よ、すまんと感謝していると思いますよ。
 それから緬羊料理は成吉思汗料理とする日吉さんの定義ですがね、羊肉料理なら煮ても焼いてもジンギスカン鍋というのだとしている。しゃぶしゃぶもジンギスカン鍋というのは、完全に間違いかというと、そうでもないらしいのです。
 というのは韓国ではジンギスカンというと、羊肉のしゃぶしゃぶ、羊肉を指すそうですからね。李盛雨という人が書いた「韓国料理文化史」に「羊肉を非常に薄く切り、箸でつまんで熱い汁の中で数回ゆすり、用意しておいたたれをつけて食べる。日本ではこれを『しゃぶしゃぶ』といい、わが国ではどうしたわけか『ジンギスカン』と呼んでいる。おそらく、遊牧民の料理という概念からきているようだ」(33)と書いてあります。ですから、韓国で焼き肉にする日本式の食べ方を覚えた人もいて、日吉さんのいうように羊肉は焼いたのもジンギスカンと呼んでいたかも知れませんね。でも、目下のジンパ学では韓国の分まで手が回りませんので、そういう説もあるという程度にしておきます。
  

参考文献
上記(25)の出典は糧友會編「糧友」第6巻1号110ページ、満田百二「羊肉家庭料理」、昭和6年1月、糧友會=原本、 (26)は丸本彰造の個人発行ながら糧友會発行の形にしている。よって文献としては「糧友」12号、孔版印刷の本を筆写したためページ番号は記録無し、昭和30年10月、糧友会=原本、 (27)は小見山登編著「前編 巣鴨日記(増補)」103ページ、平成4年5月、日本人道主義協会=原本、 (28)は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和36年12月号53ページ、日吉良一「成吉思汗料理事始」、北海道農業改良普及員協会=原本、 資料その8(2)は同54ページ、同、 同(3)は同53ページ、同、日吉氏の写真は札幌百点社編「さっぽろ百点」3巻2号(通巻25号)69ページ掲載の写真、昭和37年3月、札幌百点社=原本、 (29)は同昭和36年6月号64ページ、昭和36年6月、同、 (30)と(31)は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、北海道農業改良普及員協会=原本、 (32)は出典は毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」115ページ、昭和52年8月、毎日新聞社=原本 (33)は李盛雨著、鄭大聲・佐々木道子訳「韓国料理史」291ページ、平成11年6月、平凡社=原本

 日吉さんは「キュリネール」へ駒井命名説をいち早く掲載して研究部顧問らしい仕事ができた。「農家の友」へも原稿は送り済みで1件落着と思っていたら「キュリネール」編集部の太田さんから思いがけない連絡が入った。うちの会誌に書いた駒井命名説は針小棒大だから今後発表は控えめにした方がいいよとでも注意されたのでしょう。
 「キュリネール」の掲載は10月号であり「農家の友」は12月号掲載。発行日の違いがあったとしても、1カ月開いているということは、太田さんは掲載前に香村、松島両氏にこういう話があるが―と真偽を尋ねたのではないという見方ができます。もし、そうなら、太田さんはすぐ日吉さんに伝えなかったことになります。
 太田さんも駒井さんの出世は知っていたから、日吉原稿を信用した。たまたま香村さんに用事で電話を掛け、昔話でもしていて日吉さんの原稿のの話になり、それで初めて駒井命名説は言い過ぎと知ったので日吉さんに知らせたのでしよう。が、遅かりし由良之助、もう「成吉思汗料理事始」は手直しできない段階にきていた。
 私は、太田さんが香村さんに掛けた函館までの市外通話の電話代がかなりだっただろうと思っていたのですがね、香村さんは昭和33年に大学をやめ、昭和36年のこのときは東京世田谷区に住み、国際家畜研究所で鶏と馬を研究していた(34)ことが、後でわかりました。ですから、港区の「キュリネール」編集部にいた太田さんは市内通話になり、電話代は気にせず、香村さんには電話を掛けたんでしょうね。
 塩谷さんの話を真に受けたのは大失敗、なんとかしなくてはと日吉さんは焦ったでしょう。そこへ北海道文化財保護協会から「北海道の文化」創刊号に載せる原稿の注文が来た。すぐ日吉さんは塩谷談話を打ち消す「成吉斯汗料理という名の成立裏話」を書いたと私は見るのです。
 その裏話のさわりが資料その9(1)です。ここにおいて日吉さん駒井命名説は「突飛もないジヨーク」だとして自ら否定したわけです。それはいいのですが、多くの道内農家に読まれていた「農家の友」にも同じ駒井命名説を書いたことは全く触れていない。「司厨士協会東京総本部の雑誌」にしか書かなかったみたいで、本当の裏話になっていないのは、まことに遺憾でございますなあ。あっはっは。

資料その9

(1)成吉斯汗料理という名の成立裏話
                  日吉良一
   (1)中国の羊肉料理系譜<第1章 略>

   (2)日本の成吉斯汗料理系譜<第2章>
 <食糧展覧会の説明 略>

 所がこの成吉斯汗料理の命名がある一人によつて発案されたものと、いとも自信を以て私に語つた人が現れたのには驚いた。それは現に道の開拓経営課技師として勤務する塩谷君である。その語る処によると、それは初代満洲国総務長官駒井徳蔵氏でこの人が満鉄の調査部長をしていた時、部下の松島鑑、香村岱二の両氏と例の通り「烤羊肉」で白乾児酎(ばいかるちう)をあふりながら大いに時事を談じた折り、羊肉から成吉斯汗を連想し、更には義経は成吉斯汗なりとの説を想い、その覇業を慕うため、爾後「烤羊肉」を成吉斯汗料理と呼ぶことにし、一般杜会にも大いに宣伝すべしと松島、香村二氏に命じたのがこの名の起源であるというのである。この三氏は共に北大農学部の出身というので、私は大いに気を好くして早速この事を全日本司厨士協会東京総本部の雑誌に発表したものである。所がこの雑誌の編集長太田兵三君は函館生れの北大出身で前三氏の後輩で、共に面識の間柄だつたので、現在猶元気な松島、香村両氏に電話で話した所、それは少々言い過ぎで、自分達はそうした宣伝をせよと駒井氏から受けた事はなく、大正末年頃向うの日本人間で誰となく言い出したのが真実であると語られたと太田君から通知があつた。塩谷君はどこからそうしたニユースソースを手に入れたか知らぬが、時々突飛もないジヨークを飛ばす人なので今後は少々気をつけなければならないと先日ある会合で塩谷君の元の上司であり、畜産界の先達である赤城氏と笑つた事であつた。
<香村氏の逸話と北海道で最初にジンギスカンを始めたのは札幌の精養軒という話など 略>

(2)「北海道の文化」8号までのの印刷・発行日
創刊号 36年12月20日印刷
       12月25日発行
第二集 37年12月15日印刷
       12月20日発行
3   38年6月10日印刷
       6月15日発行
4   38年8月1日印刷
       9月1日発行
5   38年12月1日印刷
       12月1日発行
6   39年2月1日印刷
       3月1日発行
7   なし       39年6月10日印刷
                6月15日発行
<発行番号7は奥付がなく、半年後に出た同番号8の86ページの奥付のそばに「付記 北海道の文化七号の発行年月日がもれておりますが次のとおりです」と示した年月日>
8   40年3月1日印刷
       3月20日発行

 昭和30年代の雑誌は月初めか前月末に発行している可能性があるので、発行日付を吟味してみました。「農家の友」は昭和36年12月号だから、日吉さんは原稿を11月末か、遅くても12月初めには出したでしょう。こちらは農業改良課のお役人が発行した雑誌らしく毎月1日発行、印刷日は前月20日でした。
 一方「北海道の文化」は表紙に「創刊号」とあり、奥付は昭和36年12月20日印刷、12月25日発行で、どちらも「農家の友」より後です。橋本生と署名入りの「編集後記」に「あらかじめ御寄稿いただいたものはごく僅少で、大半は発行予定日を気にしながら、御無理をお願いする結果となつて仕舞いました。<略>山田先生の『知里さんのこと』、日吉良一氏の『成吉思汗料理の裏話』など、お忙しい中を御執筆いただきました。(35)」とあります。その創刊号から8号までの印刷と発行日をまとめたのが、資料その9の(2)です。年1回の発行の雑誌だったことを示しました。
 日吉さんにすれば、そんなことはどうでもいい。道民向けの「北海道の文化」、しかも創刊号。「農家の友」に書いちゃった「成吉思汗料理事始」の早とちりを弁解する絶好の媒体と機会を得たのです。道民がジンギスカンは北海道の文化だと目覚めたのは、この創刊号に日吉さんが書いたからなのだというのは冗談。ふっふっふ。
 編集者「橋本生」が6ページ開けて待っているから、きっちり書いてと頼んだと思われます。それで日吉さんは苦心した。「成吉斯汗料理という名の成立裏話」というタイトルとあまり関係ない話も加えて引き延ばしを図り、自分が大正7年夏、シベリア出兵で奉天に滞在したとき「二、三度『烤羊肉』を食べに飯店に行つたがその頃はまだ『成吉斯汗料理』という名は無かつたと記憶している。勿論当時日本国内にもそういう名の料理はなかつた。(36)」と書いています。これが「キュリネール」の「成吉斯汗鍋」では入れなかった日吉さんの体験談、重要な証言です。そして丸本談話を引用し、さらに自分で描いた月寒種羊場場の挿絵で半ページを埋めたのです。
 日吉さんとしてはね、間髪を入れず駒井徳三命名説は否定したから大丈夫と胸をなで下ろしたかも知れませんが、そうは問屋がおろさない。生まれたての「北海道の文化」に書いた日吉さんの否定と弁明はほとんど広まらなかった。それから8カ月後に出た「長沼町の歴史」という空知の長沼町史が「成吉思汗料理事始」をまとめて取り込んでいるのが、その証拠ですなあ。資料その10は「長沼町の歴史」の補足説明として載っているジンギスカン鍋の説明です。資料その8そっくりでしょう。

資料その10

 成吉思汗鍋(烤羊肉(カオヤンロー)) 北大農学部出身の駒井徳三が、大正年間に満鉄の調査部長として諜報活動に携わっていたころ、この烤羊肉に白乾児酒を飲み歓談中成吉思汗の話におよびこの英雄になぞらえ、今後羊肉料理を成吉思汗とよぼうということになり大いに宣伝したのがはじまりであるとされている。日本では昭和四年三月二十二日から四月二十一日までの1カ月間、当時の陸軍糧秣廠の外郭団体であった糧友会の主催で、東京上野公園および付属博物館内で食糧展覧会が開催され、この会期中に三日間「羊肉デー」があり実演されたのが最初である。北海道では昭和二十一年にレストラン精養軒がはじめたのが最初である。

 「北海道の文化」で日吉さんは自分が広めようとした駒井命名説を否定し、誰いうとなく説の方が正しいと書いたのです。それでもまだ気になっていたのでしょう。「北海道の文化」に書いた半年後、タウン誌「札幌百点」6月号の「北の味」で、日吉さんは「ジンギスカン鍋」を取り上げ、誰いうとなく説を強調したのです。そのさわりを読みますよ。
 「この料理はもともと中国に昔からあつて『烤羊肉』(カンヤンロー)というのがそれである。回教徒の料理である。それを『成吉斯汗料理』と名づけたのは満州国初代総務長官になつた駒井徳三だとも伝えられている。その満鉄時代の部下であつた香村岱二氏の説明によると、大正末年ころから、誰いうとなく在支日本人の中からいいだしたのが本当らしい。(37)。」。これには日吉さんは香村さんに直接会ったように書いていますが、やはり「北海道の文化」に書いたように太田さんの話が元でしょうね。
 日吉さんは昭和38年、蘊蓄を傾けて「たべものの語源」という本を出しました。そのジンギスカンの項を抜き出したのが資料その11です。これでも駒井命名説を否定して「だれいうとなくジンギスカン料理といいだしたものとのこと。」と書いたのです。もう念には念を入れよ、だれが駒井命名説を唱え始めたのかという感じですよね。

資料その11

ジンギスカン鍋(成吉思汗)

♣ジンギスカンなべは中国から学んだ料理だが、中国では『焼羊肉』(カンヤンロー)という。これは炭火の上に渡した鉄桟の上で薄切り羊肉を焼いて好みのタレと薬味をつけて食べるもの。なべに沸とう(騰)させ熱湯にちよっと浸して肉の表面が白くなったていどで引き揚げてタレをつけて食べるのが『羊肉』(シャワンヤンロー)である。同じような方法であるが日本人のあまり食べない羊料理に『水爆羊肚』(シーボーヤント)がある。『肚』は胃袋のことである。中国人は動物の内臓を好食するが、この点日本人はもっと見習う必要がある。♣ジンギスカン料理が日本内地で紹介されたのは昭和四年三月東京上野竹の台で陸軍糧秣廠の主催の『食糧展覧会』で陸軍省衣糧課長丸本彰造という大佐が実演したのが最初である。♣ジンギスカンなべとか焼きとかの名をつけた最初の人は満州国初代総務長官になった駒井徳三氏という説も伝わったがこれは当時の満州にいた日本人が蒙古人ジンギスカンとその主食である綿羊を結びつけ、さらに義経はジンギスカンなりとの伝説を加えて綿羊料理をだれいうとなくジンギスカン料理といいだしたものとのこと。

  

参考文献
上記資料その9(1)の出典は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」創刊号16ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本、 (35)は同82ページ、橋本生「編集後記」、同、 (36)は同15ページ、同、 (34)は富岡秀義編「回想・奉天獣疫研究所の20年」335ページ、奥田友子「父・香村岱二と共に暮らして」より、平成5年10月、「回想・奉天獣疫研究所の20年」刊行委員会=原本、 資料その10は長沼町史編さん委員会編「長沼町の歴史」下巻528ページ、昭和37年9月、長沼町(非売品)=近デジ本、 (37)は札幌百店編集部編「札幌百点」第28号26ページ、昭和37年6月、北海道書房=原本、 資料その11は日吉良一著「たべものの語源」161ページ、昭和38年10月、柴田書店=原本、


 駒井さんが地方課にいた大正2年の社員名簿には、松島侃に似た名前の松島鑑という課員はいました。侃はカンと読みますから金偏の鑑を塩谷さんが誤って覚えていたのでしょう。松島鑑さんは大正2年北大農学部畜産学科卒で香村氏と同期、満鉄入社も同期で公主嶺在勤、つまり満鉄が公主嶺に産業試験場を作り、後の農事試験場、本社地方課に籍はありますが、かなり離れた公主嶺で仕事をする技術職員は存在(38)しました。大正4年の名簿では、もう試験場は組織としして独立したため、駒井さんのいた地方部地方課とは別に書かれています。
 この松島さんが新入課員歓迎会か何か、それこそジンパで、北大農経卒で2年先輩の駒井さんと一緒になって「都ぞ弥生」でも合唱して意気投合。「日本人は羊肉料理を『成吉思汗料理』と呼ぼうじやないか」という駒井提案に応じて「そうですね、この豪快さ、煙と臭いの羊臭さは英雄の名にぴったりですなあ。駒井先輩のその呼び方を広める片棒を担ぎましょう」なんて約束してね。羊肉を焼くたびに「これはジンギスカンという料理なんだよ」と言いふらしたという公主嶺発祥説に仕立てられるのですが、日吉さんが「語源」でもまたまた否定した。否定の3連発では、植木等じゃないけど「はい、それまでよー」。どうも私がクレイジー・キャッツ世代だということがバレバレですなあ。
 塩谷さんは「成吉思汗料理事始」に北海道開拓経営課塩谷正作技師としか出てきません。日吉さんは経歴について何も触れていないので私が調べてみて驚いたのです。塩谷さんも北大畜産OB、昭和9年卒ですぐ満鉄入社、それも公主嶺農業試験場技術員になったのです。当時の場長は駒井さんと同期の中本保三さん、香村さんは地方部農務課長で試験場技師を兼任(39)していました。昭和12年に満鉄斉斉哈爾鉄道局審拉爾基酸乳製造所主任(40)14年に満鉄吉林鉄道局附業課(41)へ転じていました。昭和16年には大樹拓殖実習場勤務(42)と内地に戻り、また満洲開拓を目指したのですね。
 私は塩谷さんはずーっと道内の農業団体にいた人で、赴任した伝習場に満鉄公主嶺農業試験場からの元満鉄マンがいて、駒井命名説を聞いたと想像していたのですが、とんでもない。塩谷さんは8年も満鉄の飯を食った人だった。豪傑駒井のさまざまな伝説を聞かされたはずです。塩谷さんは大言壮語するタイプだったそうですから、案外ご本人がジンギスカン鍋と呼ぶべきだなんて唱えたこともあったんじゃないですかね。
 「キュリネール」の太田兵三さんですが、あることで満鉄の社報を調べていて昭和6年4月14日付けの「獣疫研究所技術員 本職ヲ免ス」(43)という辞令を見つけた。満鉄にいた人だったんですね。それで調べたら満鉄が「家畜伝染病及疾病の調査研究を行ふと同時に各種血清,予防液及診断液の製造を目的として大正14年10月奉天に(44)」開設した研究所だった。鐵道会社なのに、こんなことまでやっていたんですなあ。ともかく大正13年に畜産を出て満鉄に入った太田さんは農試ではなく、この獣疫研に配属になったのですね。
 太田さんが獣疫研に入る前になるのですが、農試にいた香村さんは黒くて鼻の長い満洲豚の実地調査をして「満洲豚ニ関スル調査」という論文にまとめ、豚コレラにも触れています。(45)豚コレラ専門になった太田さんは当然それを読み、教わったことがあったと思われます。それに香村さんは獣疫研の黒山屯在勤という形で農試と兼務していたこともあるので、2人は顔見知り以上であったことは間違いない。このころ松島さんは本社興業部農務課長でした。
 「日本人物情報大系」の「満鉄職員録」は、大正15年版、昭和4年版、6年版と飛び飛び収録なのですが、太田さんは昭和4年版(46)にしか載っていません。昭和6年版は9月1日現在の在籍者なので、その3カ月前にやめたから載らないのはわかるが、大正13年卒ですぐ満鉄に入ったとしたら、大正15年版にないのはおかしいでしょう。
 それで太田さんの入社年月を調べたら、入社は大正15年8月18日(47)、札幌を離れて2年後だったのです。だから大正15年3月1日現在で作られた15年版には載らなかったとわかりました。太田さんは獣疫研に5年いたから、大先輩の松島さんとも何回か会うことがあったと思われます。
 札幌同窓会名簿によると、太田さんは昭和19年は国務院総務庁企画處参事官であり、そのとき香村さんは哈爾浜農業大学長、松島さんは満洲特産中央会理事長(48)と、元満鉄マンの3人はそろって満洲にいました。
 敗戦後引き揚げてきて昭和30年には太田さんは北里研究所技師、香村さんは北海道学芸大函館分校教授、松島さんは長野県教委委員長、塩谷さんは十勝拓殖実習場長(49)でした。太田さんはこの後、明治食堂支配人(50)を経て「キュリネール」編集部に移ったようです。
 こんなふうにOB3人の動静が、ある程度つかめたのは同窓会など所属先の名簿が残っていたお陰です。もっとも近年図書館が個人情報保護うんぬんと気安く名簿を見せてくれなくなりましたがね。同窓会の会費はさておいても、卒業証書より同窓会の名簿が役に立つことがあるから、名簿作りのためと往復葉書がきたら協力しておいた方がいいよ。
 わが文学部同窓会の会員名簿作りにね、私も1度タッチしたことがあるが、文学部卒どころか北大卒も消してくれという奇っ怪な依頼があった。どう処理したか忘れましたが、多分この御仁は東大卒とか、ハーバード卒と自称しているか、大卒を隠して高卒職場にいるか、いずれにしても学歴を詐称しているからだろうと思いましたね。
 はい、脱線はそれぐらいにして日吉さんに戻ししますが、日吉さんはこれら3本のジンギスカン料理の記事には皆、丸本談話を引用していますが、私はあちこち書き替えていることを問題にしたい。丸本談話は肉を箸で突き刺すとか、多分蝦油といったのに蟹肉としたなど記者が誤解して書いたと思われる変な部分があります。
 だからといって原文を尊重せず、自分の都合のいいように勝手に書き換えられては、研究者はたまったものではありません。それどころか、書き換えて引用しているとわかったら、素直にその論文は信用できませんよね。日吉さんがどう書き換えたか、丸本彰造談話の後半だけ比較してみたのが、資料その12です。
 一番上が「現代食糧大観」掲載の原文。その下が「キュリネール」、3番目が「北海道農家の友」、一番下が、そのすぐ後に出た「北海道の文化」に引用した丸本談話です。これらは同一なはずなのに異なっていますね。「キュリネール」では「その要点を抜記して」と断っているので、同じように比べられないとしても「パイカルが最適」なんて付け足して抜き書きもないものだ。私ならビールと書きますがね。はっはっは。
 コピー機がない時代で書き写すとき間違えたとしても、ちょっと違い過ぎます。こういう例があるから、私はインターネット以前の郷土史は吟味し直すべきだと唱えているのです。

資料その12

【丸本談話後半の原文】
机上に構らへたる鍋に半焼木炭を燻らし、煙と火の粉が盛に立ち昇る。其の煙に薄截した羊肉に特別のたれ(蟹肉 と香味品で拵らへたる醤)をつけ乍ら煙に當て箸で突きさし、六尺の腰掛に片方の足をかけて立食する。空を仰ぎ談論しながら、馬上杯を盛に傾けつゝ、支那特有の焼酎をあふるのである。これは陣営に於ける酒の飲み方である。
 東洋的英雄氣質をそゝるいかにも成吉斯汗が蒙古を蓆捲して、其の地の羊を屠り、焼いて陣営で食したものと察せられる。それで誰言ふとなく成吉斯汗料理と云ふに至つたのだ。

机上に構らへたる鍋に半焼木炭を燻らし、煙と火の粉が盛に立ち昇る。
机上に構えられたる鍋に,半焼木炭を燻らし,煙と火の粉が盛んに立ち昇る。
机上にしつらえたる炉に半焼木炭を燻らし煙と火の粉が盛んに立ち昇る。
机上に構えられたる炉に半焼木炭を燻らし、煙と火の粉が盛んに立ち昇る。


其の煙に薄截した羊肉に特別のたれ(蟹肉 と香味品で拵らへたる醤)を
其煙に薄截したる羊肉に特別のたれ(蟹肉を香料品で拵らえたる醤)を
その煙に薄切した羊肉に、特別のたれ(蟹角、香料品、塩で作った醤)を
その煙火に薄截した羊肉を炙り、特別のタレ(蟹肉と香料で作つた蟹醤)を


つけ乍ら煙に當て箸で突きさし、六尺の腰掛に片方の足をかけて立食する。
つけながら煙に当て,箸で突きさし,六尺の腰掛に片方の足をかけて立食する。
つけながら箸につきさしたものを焼いて食べる。六尺の腰掛に片方の足をかけ、
つけた奴を六尺の腰掛に片足をかけて立食する。


空を仰ぎ談論しながら、馬上杯を盛に傾けつゝ、支那特有の焼酎をあふるのである。
空を仰ぎ談論しながら馬上杯を盛に傾けつつ,支那特有の焼酎(パイカルが最適)をあふるのである。
馬上杯の白乾児焼酎をあふりつつ談論する。
空を仰ぎ、談論風発、馬上杯で白乾児酎をあふるのである。


これは陣営に於ける酒の飲み方である。
これは陣営における酒の呑み方である。
これは陳党の酒の呑み方であり、食事の採り方である。
これは陣営における酒の呑み方である。


東洋的英雄氣質をそゝるいかにも成吉斯汗が蒙古を蓆捲して、
東洋的英雄氣分をそゝる,いかにも成吉斯汗が全蒙古を席捲して,
東洋的英雄氣分をそそり、いかにも成吉思汗が蒙古を蓆捲し、
この方法は東洋的英雄気質をそそるいかにも成吉斯汗が蒙古を蓆捲して、


其の地の羊を屠り、焼いて陣営で食したものと察せられる。
其地で羊を屠り,焼いて陣営の食としたものと察しられる。
引き連れた羊群を屠つて焼いた様子をおもわせるので、
その地の羊を屠り焼いて陣営で飲食した姿が想像されるので


それで誰言ふとなく成吉斯汗料理と云ふに至つたのだ。
それで誰言うとなく成吉斯汗料理と云うに至ったのだ。美味で羊の臭気を半焼けの木炭で消すのである。
誰いうとなく日本人間では『成吉思汗料理』とか『ヂンギスカン焼き』とか『鍋』というようになつた。
誰言うとなく成吉斯汗料理と云うに至つた

 日吉さんの肩書きは全日本司厨士協会北海道本部相談役兼研究部顧問というから、私はてっきり年季のはいったコックさんだと思っていたんですが「語源」のあとがきによると、まったく違っていました。「私は調理師でもなく、栄養士でもない。また専門の食品科学者でもない。全くの素人」と断っていたんですね。ひたすら美味を追究して「板前さんやコックさんに祝儀を包んで根掘り葉掘り」作り方を聞いては自宅で実習し「料理秘伝書から、ついには中国、日本、西洋の古典、はては秘史小説の類まで、こと飲食に関する記事のあるものは集めかつ読んだ」(51)と書いています。現場主義の大先輩といえるかと思いますが、その25年後に駒井命名説を書いた吉田博氏は、藤蔭満洲野さんの随想があるからと、日吉さんの書いたものをよく調べなかったらしい。
 いや日吉さんが「北海道の文化」と「札幌百点」で駒井命名説を撤回したことを知らなかったからこそ「成吉思汗物語り」が書けたのですね。しかも「農家の友」と長い付き合いがあったのに、日吉さんが25年前に唱えた「名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三」説を参考にしたとも、私が初めて見付けた話だとも書いていません。天の声で知ったのでしょうか。
 それをまた、鵜呑みにして証拠も示さず、駒井命名説を受け売りする人たちがいるし、いくつかの肉店、羊肉通販のホームページも同調して駒井伝説を広めているのです。まあ、そういう方々のお陰で、私はジンパ学研究が楽しめるという点で感謝しなければならないのですがね。人間、いくつになっても勉強しないといけませんよ。これでよい、終わりということはありません。
 そうです、まだ続くのです。浪花節の森の石松なら「だれか1人忘れちゃいませんかってんだ」と割り込むところです。吉田博氏です。調べたら、なんと吉田さんも塩谷さんと同期の北大OBだったのです。昭和9年農学部農学科卒、道庁に入り農協、農政、広報の各課長や労働部長を務めました。昭和36年大日本製糖、その後身の北海道糖業に12年務めて退社。昭和49年から水交社取締役として雑誌や本に執筆(52)した。「成吉思汗料理物語り」はそのときの作品だったのです。
 もう1人、駒井命名説に絡む北大OBを忘れちゃいませんか。はっはっは、私です。昭和31年卒の尽波ですよ。駒井先輩の命名説を日吉さんに吹き込んだ塩谷先輩、駒井説をリバイバルさせた吉田先輩、それを全面否定する後輩の私と、北大OBが絡んでいるのです。こうした因果で将来、ジンパセット育ちの後輩によって尽波説が否定されるかも知れませんなあ。ジンパ学の進歩の成果なら喜んで引き下がりましょう。はい、本当に終わります。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記(38)の出典は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」16巻満洲編6の39ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (39)は同17巻89ページ、平成11年10月、同、 (40)は同238ページ、同、 (41)は同409ページ、同、 (42)は札幌同窓会編「札幌同窓会員名簿」昭和15年12月現在版、昭和16年、札幌同窓会=原本、 (43)は南満洲鉄道株式会社編「南満洲鉄道株式会社社報」7201号2ページ、昭和6年4月18日発行、南満洲鉄道株式会社=マイクロフイルム、 (44)は満洲文化協会編「滿洲年鑑」267ページ、昭和8年5月、満州日日新聞社=館内限定近デジ本、 (45)は南満洲鉄道株式会社農事試験場編「農事試験場彙報」17号30ページ、香村岱二「満洲豚ニ関スル調査」、大正13年3月、南満洲鉄道株式会社農事試験場=近デジ本、 (46)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」16巻満洲編6の295ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (47)は富岡秀義編「回想・奉天獣疫研究所の20年」104ページ、平成5年10月、「回想・奉天獣疫研究所の20年」刊行委員会=原本、 (48)は札幌同窓会編「札幌同窓会員名簿」昭和19年3月現在版、昭和19年、同、 (49)は同昭和30年12月現在版、昭和31年、同、 (50)は同37年8月現在版、昭和37年、同、 資料その12の丸本談話原文と分割比較文最上段は糧友會編「現代食糧大観」712ページ、「成吉斯汗料理(丸本彰造氏談)」、昭和4年12月、糧友會=原本、 同分割比較文3番目は全日本司厨士協会編「L’art Culinaire Moderne」昭和36年10月号29ページ、日吉良一「蝦夷だより 成吉斯汗料理の名附け親」、昭和36年10月、全日本司厨士協会、同、 同分割比較文3番目は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和36年12月号54ページ、日吉良一「成吉思汗料理事始」、北海道農業改良普及員協会=原本、 同分割比較文4番目は北海道文化財保護協会編「北海道の文化」創刊号16ページ、日吉良一「成吉斯汗料理という名の成立裏話」、昭和36年12月、北海道文化財保護協会=原本、 (51)は日吉良一著「たべものの語源」あとがき1ページ、昭和38年10月、柴田書店=原本、 (52)は吉田博著「さとう大根」奥付、昭和55年10月、北海道テレビ放送=原本