魁養軒を開いた伝説のコック原田傳弥

 はい、始めますよ。私は現場主義のジンパ学とうたって、この講義をやってきました。それだけに現場、つまり図書館、文書館を検索して、これはと思う本や文書があったら出来るだけそこへ行き、時間をかけて調べます。自宅にいて見当がつけられるのはインターネットのお陰であり、さらにそのお陰で札幌農学校の教師ペンハローのコックとして北海道にやってきた原田伝弥という人物は、札幌で初めての西洋料理店を開いたり、豊平館の料理を請け負ったりしただけではなく、意外にも羊肉販売にも深く関係していたことがわかったのです。これは赤煉瓦の旧道庁の中にある道立文書館が保存している公文書のお陰でね、ジンバ学としては大きな収穫でした。まず資料を配ります。きょうはどっさり、3回分ぐらいあるからね。
 さっぽろ文庫の「開拓使時代」を見ると、道シナリオ作家協会の吉岡道夫代表幹事が原田を紹介して「札幌に本格的な洋食のコックがやってきたのは明治四年。開拓使お雇いの外国人技師たちとともにやってきた、横浜出身のコック八人であった。これが開拓使ルートとすれば、明治十二年東京からきた原田は札幌農学校ルート。ペンハロー教授の調理係として札幌にやってきた。(1)」と書いています。
 原田を連れてきたというペンハローは、クラークさんと一緒に明治9年、札幌に来て5年間、勉強だけでなく課外活動を奨励してだね、ベースボールと陸上競技も教えた先生ですよ。それで全国規模の競技会などで高位入賞した個人・団体にペン先生の名を頂いた北大ペンハロー賞を授けることになったのです。まあ、それはさておき、原田がペンハローとどこで知り合い、なぜ札幌にきたのか本気で調べた人はいない。渡辺正雄氏によるペンハローの業績を調べた論文では、インド洋におけるトビウオの飛び方(2)は出てきますが、札幌における原田の料理は出て来ません。
 デビッド・ピー・ペンハローは「北海道志」に漢字で駝宇伊津津度比弁波郎と書かれているのには驚きますが「米国人ナリ明治九年五月農学校化学本草農業算術ノ教師ト為シ年俸金貨二千五百円ヲ給シ札幌ニ居ラシム十一年五月約ヲ継キ一月金貨五十円ヲ増給シ十二年八月年俸貿易銀三千三百円ヲ給シ十三年八月職ヲ解ク(2)」とある高給取りでしたから、コックぐらい自前で雇えたんですね。ちなみにクラークさんはもう猛烈、年俸7200円(3 )の超高給取りでした。マサチューセッツじゃ学長でしたし、札幌農学校という「学府の基を残し行くコチャエ」のお方ですから、それぐらいは当然か。はっはっは。
 これまでの札幌の歴史では、原田伝弥が札幌にきたのは明治12年とされていますが、その根拠は何でしょうか。道立文書館の公文書で初めて原田の名前が現れるのは資料その1にした明治12年2月6日付の文書です。
 断刑課という何やら恐そうなところの呼び出しだから、原田が何か悪いことをしたみたいですが、そうではないらしいのです。断罪というキーワードで公文書件名を検索すると89件出てくるけど、うち出頭は原田を含めて3件しかない。残る2件の片方は明治11年の「御雇教師ターン氏妾松田ツル断刑課出頭ノ件(4)」つまり後のエドウィン・ダンの奥さんです。だから2人は外国人と共に生活する心得のようなことを言い渡すためか、身元の確認に呼ばれたと思うのですが、目下はこれ以上わかりません。

資料その1

第四十七号
           外事課断刑課

    農学教師へンハロー氏コツク
              原田伝弥

右之者儀明七日第十時當課へ出頭候様御取計相成度此段及御依頼候也
 明治十二年二月六日

  

参考文献
上記(1)の出典は札幌市教育委員会文化資料室編「さっぽろ文庫50 開拓使時代」286ページ、吉岡道夫「原田伝弥」より、平成元年9月、札幌市、札幌市教育委員会=原本、 (2)は日本科学史学会編「科学史研究」111号130ページ、渡辺正雄「研究ノート D.P.ペンハロー―W.S.クラークの脇役(2)」より、昭和49年9月、岩波書店=館内限定近デジ本、 (3)は開拓使編「北海道志 巻之十五」60ぺージ、明治年月、大蔵省=近デジ本、 (4)は開拓使・簿書2453件番号191、道立文書館=原本、 資料その(1)は開拓使・簿書3087件名簿42「ペンハローコツク原田伝弥断刑課ヘ出頭方ノ件」、同、

 これまでにわかっている原田に関する次の情報は、翌3月30日に札幌の武林写真館でペンハローの同僚ブルックスの使用人と一緒に撮った写真です。わが北大が誇る北方関係資料データベースにあり「ブルックス,ペンハロー両教授の馬丁,小使,料理人(6人) / 武林盛一(明治大正期北海道写真目録(明治大正期の北海道・目録編)) 画(5)」という件名になっています。だいぶ前のことですが、女性と車引き風と少年を除いた後列の男性3人のどれかが原田伝弥である可能性があるので、私はこの貴重な白黒写真の裏とか台紙に何か書いていないか見せてもらいましたら、青インクで書いてあったんですねえ。
 驚きましたよ。そのときから125年前の字ですから、少し薄くはなっていますが、なんとか読めました。縦6センチ、横9センチとサイズはインターネットでわかっていたのですが、それを縦にして資料2に描いた図のようにペン書きで名前を書き、武林写真所の朱印が押してありました。若いときのにせよ原田の写真があるとわかったのは、インターネットのお陰ですよ。本当に。

資料その2

(1)
×Isamatsu(Betto)
○Torakichi(Boy)
−Takejiro(Betto)
−Hirokichi(Boy)
○Harada(Cook)
 Mrs.Harada

┌――――┐
|Brooks |TOGRAPHER
|48    |Takebayashi
|    |Satsuporo
└――――┘
   所真写幌札
   一盛林武

B******* Servants
 March 30.1879
× New Working on Farm
○ Penhallow's servants
― Dr.** Brooks servants


(2)
  

 資料その2(1)の小さな四角は切手ぐらいの北方資料の整理票を表す。スタンプで押したPhotographer武林さんの頭文字Pが隠れています。*は私が読めなかった字で、上はBunkiokuのように見えます。もしBunkichiだと字数が合うし、この撮影に間に合わなかったクラークさん付きの給仕だった真田文吉(6)、当て字だそうですが、という見方ができます。
 下の*はCなんとかに見えるのですが、ブルックスさんの署名にあるようにWmかも知れません。Bettoは別当で馬を扱う人、Boyはボーイ、給仕であり、新人5人が札幌に勢揃いした明治12年3月30日、記念撮影をしたんでしょう。右から2人目が原田で、いい着物を着ていて大店の若旦那といった風情ですよね。一緒に写っている奥さんの名前はスミさん。後の新聞広告でわかりました。
 その表の画像ですが、著作権問題なしで堂々とジンパ学の講義資料として使わせてもらうには、大学当局の定めた手続きを要するので後回しにしてきたのですが、今回から新たにわかった史実を加えて話すのだから、正規の手続きを取り原田夫妻らの写真が見られるようにしました。それが資料その2(2)の白黒写真なのです。
 データベースにはペンハロー夫人の写真もあります。いまの件名では「D.P.ペンハロー夫人 / 武林盛一(札幌)(明治大正期北海道写真目録(明治大正期の北海道・目録編))画」です。服装が明治12年撮影とされる教授たちと7人一緒の写真と同じなので、そのとき撮ったのでしょう。サラ夫人がいたのにペンハローは原田を呼んで料理を作らせる必要があったのでしょうか。その疑問は後回しにして、いったんクラークさんら3人が札幌にやってきた3年前に話を戻します。
 クラークさんはホィーラー、ペンハローを伴って明治9年6月29日横浜に着きます。札幌に着いた「三人の宿舎に充てられた開拓使旧本陣は『教師館』『外国人旅館』などと呼ばれていた。そこで、彼らの食事の世話をしていたのが小口平二であった。大正から昭和にかけて、豊平館の『拝借経営者』を務めた杉山正次さん(八九歳)の祖父である(7)」と札幌市発行の「グラフさっぽろ」は書いていますが、太田雄三著「クラークの一年」にあるクラークの私信第9信によると、違うんですなあ。
 「ここはぼくたちにとって非常に快適な住いになります。浴室(複数)と外便所(複数)も付いています。うまやもぼくちたちがこれから手に入れるはずの馬のために、まもなく作られることになっています。家の反対側は和風で、コックの木村氏、クラーク学長の給仕のブン、ペンハローと僕の給仕のウン、内藤氏、やはり通訳の小島氏、それに夜景とその家族が住んでいます。(8)」とある。
 北大建築学科の教授だった遠藤明久さんが、3人が住んだ東創成町の外国人旅館について設計者の開拓使御用掛安達喜幸の記録を元に考察しています。そして3人がどの部屋にいたか推定して「教師各室の面積は、やや小さい感があるが、全体として行き届いた施設であったことは、間違いない。(9)」と評価しています。
 次の講義でケプロン専属のコックは渡辺金次郎だけで、8人とか7人もコックを連れてきたという通説はまったく疑わしいことを取り上げますが、弟の伊助、仲間の小口平二も木村清次郎も、このころの開拓使の書類に出てこないのです。クラークさんが札幌に来たのは、その4年後あり、しかも東京で月給75ドルで雇った(10)このコックの名前は木村岩次郎であり、通説の木村清次郎ではありません。
 札幌農学校では外国人の教師が現地調査などで地方へ出張するとき、臨時にコックを雇い、同行することを許していたことが公文書からわかります。その例を資料その3に示しました。(2)の五己辰右衛門は後で出てきますが、御雇い外国人の満期帰国で失職したコックのはずであり、その書き方からすると同(1)のペンハロー氏コックの矢野は現職であり、ということはクラークさん帰国の前か後かわかりませんが、ホィーラーとペンハローの雇いコックは木村から矢野に変わっていたことになります。
 (3)は「北大百年史」からで、●は丸の中に印の字を入れた字の代わり。6月末の申請だから(1)の出張のことであり、学校ぐるみの大探検旅行の趣きがありますね。開拓使の公文書には、これら地方出張に持参する外国人教師用の食料品、コーヒーだとか缶詰とか書いたものもあります。

資料その3

(1)
  上局       外事課
              検査課


        教師ペンハロー氏コツク
           矢野才一郎

右ハ御雇教師ペンハロー氏御用ニ付空知方面出張致候ニ付
コツク壱名召連度旨申出候ニ付日給五十銭外ニ食料一日金
三拾銭被下
出張当日ヨリ帰札迄
御雇入相成度此段相伺候也
十年七月三日


(2)
   上局       外事課
              検査課

       元御雇教師コールヒン氏コツク
           五己辰右衛門

右ハ御雇教師ホ井ラー氏測量御用トシテ黒松内方面出張致候ニ付
コツク壱名召連度旨申出候ニ付先規ニ倣イ一日金七拾銭支給出張
当日ヨリ
御雇入ニ相成度此段相伺候也
十年七月三日


(3)
  二五七 ペンハロー並に生徒等石狩川上流へ調査に付費用出
      方伺
  上局●(調所)翁●(内海)   札幌農学校●(森)●(下山)
             検査課●(大久保)●(対馬)●(沢口)
今般暑休中教師ペンパロー氏生徒六名随行致サセ石狩川上流其外山
野礦物本草等採蒐研窮ノ為メ七週間程巡廻致候ニ付テハ諸御入費之
儀追テ取調九年七月以後十年六月迄本校予算羨余ヲ以御出方相成候
様仕度此段相伺候也
  十年六月廿九日

川船六艘人足三拾名程五十日間傭賃其他食用并ニ需用品等凡ソ積算
八百円
                       〔農〇五四〕

  

参考文献
上記(5)と資料その2(1)と同(2)の出典は北海道大学所蔵北方関係資料・明治大正期北海道写真目録、レコードID 0B040060000000000、明治12年、北海道大学付属図書館、 (6)は太田雄三著「クラークの一年」101ページ、昭和54年8月、昭和堂=原本、(8)は同100ページ、同、 (7)は札幌市広報課編「グラフさっぽろ」7号(和62年度版)12ページ、昭和63年3月、札幌市=原本、 (9)は日本建築学会北海道支部編「日本建築学会北海道支部研究報告集」63号389ページ、遠藤明久「安達文書による外国人旅館(旧本陣)」人平成2年3月、日本建築学会北海道支部=館内限定近デジ本、 (10)は開拓使・簿書1566件名簿69「農学教頭クラーク元コック木村岩次郎前借金弁償ノ件」、道立文書館=原本、 資料その3(1)は(開拓使・簿書1976件名簿115「御雇教師ペンハロー空知方面ヘ出張ニ付旅費仮渡方ノ件」、道立文書館=原本、 同(2)は同3094件名簿11「御雇教師ホ井ラー黒松内方面出張ニ付コック1名雇入ノ件」、同、 同(3)は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」297ページ、昭和56年7月、ぎょうせい=原本、

 さて、ホィーラーは婚約者、ペンハローは奥さんをアメリカに残しての札幌赴任でした。こっちに来てみたら開拓使はじめ皆が大事にしてくれるし、年俸も悪くない。それでホィーラーが帰国して婚約者ファニーさんと式を挙げ、新妻とペンハロー夫人サラさんを連れて札幌に戻り、もう何年か落ち着いて農学校で教えようと話がまとまり、学校当局に相談した。当局としても教育以外で2人にもっとやってもらいたいこともあるので、往復4カ月はかかるホィーラーの帰国を認めたいと、資料その4の「北大百年史」にある温情溢れるはオーバーかな、とにかく書類1件を作ったんですね。

資料その4

 二七五 ホイーラー一時帰国の件掛合

十ニノ五十二号
   東京書記官              札幌書記官

札幌農学校教師ウヰルリヤム、ホヰラー氏増給御雇継之義伺出候処
允裁ヲ得弥々此地ニ永ク奉職スル以上ハ是非トモ妻ヲ携帯致度志願
然ルニ同氏ノ妻約定延ニ付明春帰国結婚之上ペンハロー氏ノ妻ト共
ニ当地へ同伴致度且本校課業ニ供用スベキ機械学及ヒ農学教授ニ須
用ナル器械購求ノ義モ有之殊ニ該器械ハ注文シ得ルモ能ク其課業用
ニ供シ得ベキ哉否予メ保シ難キ場合モ有之ニ付第二年報文編成次第
右公私ノ両用ヲ兼明年二月ヲ期シ一旦帰国致度旨懇々申出其事情無
拠相聞候ニ付強テ之レヲ拒絶スルニ由ナク将又同氏赴任以来冬夏ノ
休暇中モ本使ノ意ヲ体シ野業ニ従事シ其著キ者ハ黒松内并小樽新道
測量及ヒ篠路川測量等是ナリ是レ全ク本使ニ尽ノ誠意ヨリ出ル者ニ
テ今回ノ帰国モ善良ノ器械ヲ購求シテ教育上二完全ノ成績ヲ期スル
ノ主儀ニ有之ヘク是等ノ趣旨厚ク御酌量特旨ヲ以御許可相成候様長
官殿へ稟請相成度尤同氏不在中該校ノ学課ハ聊カ無欠遺施設シ横浜
発程ノ日ヨリ帰任ノ日迄凡ソ四ケ月ト見積リ月給ハ全額ヲ支給シ并
旅費ハ普通ノ半額位モ御手伝トシテ被下候様御取計ニ相成度尤至急
ヲ要シ候義ニ付御許容之上ハ電報ヲ以テ一応御報知相成度此段及御
照会候也
  十年十二月十九日
                     〔道〇一九三七〕

 ホィーラーの一時帰国が認められ「御雇教師ホ井ラー氏一時帰国ニ付金員渡方ノ件(11)」という明治11年3月25日付の文書があるので、ホィーラーは4月には日本を離れ、故国でめでたく結婚式を挙げて戻ってきます。夏休みになるのでペンハローも奥さんを迎えに東京へ出たことが「雇外国人ペンハロー学校休暇中自費出京願出ノ件(12)」という文書でわかる。そして「ホ井ラー氏ヘンハロー氏共函館ヨリ小樽向出帆ノ件(13)」という10年9月の文書から2人そろって奥さんを連れて札幌に帰ってきたと察せられます。
 ホィーラーは戻ってきたら外国人旅館と呼ばれた宿舎を出て、奥さんと1軒家に住みたいと希望して出かけた。開拓使の文書に「御雇教師ホ井ラー氏ヘ貸渡ノ元女教師館模様換ノ件(14)」というのがあるので、その願いもかなったようで、件名から間違いないと思いますね。
 ホィーラーとペンハロー共同の嫁さん呼び寄せ作戦の成功は、12年3月10日に農学校講堂で開いた「雇鉱山師ゴヲジヨ安着ノ晩餐会ニ来会方ノ件」の招待状の文案に「ウ井ルリアム、ホ井ラー夫妻貴下」「デ、ピ、ペンハロー夫妻貴下(15)」とあり、また4月28日の「土木師長ファンゲント安着祝賀会晩餐会ニ案内ノ件」でも「教頭フイーレル并細君」「博士ペンハロー并細君(16)」とあることから明らかです。
 ところがね、明治12年11月25日、外国人旅館が火事で焼けてしまい、焼け出されたペンハロー夫妻らの仮住まいを開拓使が指定した。資料その3で示す文書なんですが、ペンハローとホィーラー両夫妻の間柄をよく知っての行き先指定ですよね。

資料その5

上局   外事係
今廿五日東創成町外国人旅館焼失致候ニ付右住居ノ<この辺書き写し略>
即チペンハロー、ブルークス、カッター、三氏ノ内ペンハロー夫妻はホ井ラー氏方、ブルークスハドン氏方、カッター氏ハボーマン氏方ヘ各自談ノ上暫時ノ間同居致候趣ニ付為念此段申上候也
  十二年十一月廿五日

 はい、原田に話を戻しますが、原田の前歴について道立図書館が国会図書館が主宰する「レファレンス協同データベース」に質問しておりますが、回答は通説の域を出ず「さっぽろ文庫」など6冊に「東京で西洋料理の修行をした後、ペンハローのコックとして来札したとある(17)」でした。
 ただ遠藤明久教授が「HTBまめほん23 豊平館」の中で、原田は「愛知県北設楽郡の出身。東京で西洋料理を修業、札幌農学校教師ペンハローのコックとして、明治十二年に來札した、と伝えられる人物である。同十四年、独立して大通西二丁目に、札幌最初の西洋料理店『魁養軒』を開業。その実績が買われて、当時三十歳の彼に、豊平館の経営が委託されるのである。(18)」と書き、さっぽろ文庫の「豊平館・清華亭」にも同じことを書いているから、遠藤さんは開拓使時代の建物調査などで、原田の略歴の書類を見たんじゃないかなあ。
 明治26年1月の北海道毎日に愛知県人の懇親会開催の広告があり、原田が参加申し込みの受け付け係になっている(19)し、翌27年1月は資料その6(1)の通り発起人に入っているから愛知県出身は確実です。
 謎なのはペンハローと原田がいつ、どこで知り合ったか―です。私はペンハローが11年の夏、奥さんを迎えに上京したときとみているのですが、これという証拠はありません。ただ、ペンハローは病弱な奥さんのために、パートタイマーみたいに料理を作ってくれるコックを捜すのも上京した目的の1つだったと考えます。そして原田と出会った。そのとき札幌には西洋料店がまだ1軒もないとペンハローから聞いた原田は、それこそボーイズ・ビー・アンビシャス、東京で店を持とうと用意した資金を持って北海道へ渡り、札幌で一旗揚げようという気持ちになったとみたい。
 でも、札幌のことは全く知らないし、レストランを開くのに適した繁華街の土地が買えるのかどうかもわからない。それで、ひとまずペンハロー家のコックを務めながら、値の張る西洋料理を食べに来るような人たちが大勢いるのか、肉類はすぐ手に入るのかなど札幌の実態を調べることにしたと思うのです。札幌に奥さんを連れてきて、ペンハロー家で食事を作りながら、12年春ごろ大通近辺にあった空き店舗を借りて西洋料理店を開いた。資料その6(2)がそれでしょう。
 原田はペンハローが翌13年8月には契約満期(20)で帰国するので、それまでに自立するつもりで來道したはずです。だから12年春の開店は営業よりもコック志願者を集めるためとみますね。それで何人か集まったし、なんとかやっていける見通しがついたので一旦閉店し、持ってきた資金を投入して大通西2丁目に玉突き場のあるレストランを新築したと考えます。
 こういう仮説でみれば、資料その6(2)と同(3)と明治20年の絵ですが、洋式の堂々たる建物の同(5)が納得できます。特に資料その6(3)は12年のうちに、原田が開店していた証拠であり「札幌区史」の「又西洋料理には渡辺金次郎あり頗る熟達せり、其弟子原田傳彌(東京)明治十二年魁養軒を開けり(21)」の弟子かどうかはさておき、魁養軒と名乗らなかったにせよ、12年開店は正しかったことになります。
 また同(4)は同(3)の記事は雇い方の訂正であり、洋食店原田伝弥方が存在しなかったという訂正ではない。後で記事を示しますが、13年6月の魁養軒としての正式開店に招待された「軒主辱知の諸君」とは、このころから通ったお客でしょう。

資料その6

(1)
第五回愛知縣人大懇親會
◎二月四日午後正四時東
京庵に於て開會す
○會費金壱圓當日持参の事但学生諸君は半額
○御賛成の諸君は大通西三丁目宝亭へ前日迄
 御申込を乞ふ
発起人(いろは順)
 石垣道也  岩井勘次郎
 岩間覚之助 原田文次郎
 原田伝弥  林定平
 海部大純  吉田松太郎
 吉田春齋  竹田忠治
 筒井喜平  上田武彦
 岡本蔵之助 松永佐六
 真野重兵衛 湯浅忠良
 三沢玄高  鈴木鑒藏


(2)
○札幌近況(前号之続)<略>○元某局
の官員中村守重氏ハ牛数頭を牧養し又ハ屠殺して肉を
売りしが此節ハ原価頗る騰貴して売肉ハ間に合はずと
て専ら運輸にのみ供せり夫故市中にて牛肉を購んとす
るも能ハず此丈ハ甚だ遺憾なり○西洋料理屋ハ先日開
店せしが程なく閉店せり○相替らず繁昌するのハ東京
庵と滄海楼なり<略>


(3)
◎食物改良の計画 後志国忍路郡忍路村の大場庄七氏
は今度従来の食物を改良し西洋料理を用ゆる事と為ん
との計画にて当地大通西二丁目洋食店原田伝弥方へ西
洋料理人の雇入方を依頼し來りたれば原田より村山吉
五郎と云ふ人を雇入れたるよし


(4)
◎食物改良の事 本紙第百廿号に後志国忍路郡忍路村
の大場庄七氏は今度従来の食物を改良し云々記載せし
が右は全く誤聞にて其実は当時節柄事物進捗するに従
ひ洋食の調理法位は家族共に少しく心得させて遣度心
組にて其向の者を一時教師に雇入れたる迄のことなりと


(5)
  

  

参考文献
上記資料その4の出典は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」318ページ、昭和56年7月、ぎょうせい=原本、) (11)開拓使・簿書2453件名簿60「御雇教師ホ井ラー氏一時帰国ニ付金員渡方ノ件」、道立文書館=原本、 (12)は同2455件名簿126「雇外国人ペンハロー学校休暇中自費出京願出ノ件」、同、 (13)は同2453件名簿193「ホ井ラー氏ヘンハロー氏共函館ヨリ小樽向出帆ノ件」、同、 (14)は同2453件名簿129「御雇教師ホ井ラー氏ヘ貸渡ノ元女教師館模様換ノ件」、同、 (15)は同3094件名簿59「雇鉱山師ゴヲジヨ安着ノ晩餐会ニ来会方ノ件」、同、 (16)は同3094件名簿68「土木師長ファンゲント安着祝賀会晩餐会ニ案内ノ件」、同、 資料その5は同3094件名簿52「外国人旅館焼失ニ付ペンハロー外2名他ノ外人宅ニ同居ノ件」、同、 (17)はレファレンス協同データベース回答、平成27年2月、http://crd.ndl.go.jp/
reference/detail?page=ref_
view&id=1000167030 (18)は遠藤明久著「HTBまめほん23 豊平館」23ページ、昭和51年1月、北海道テレビ放送=原本、 (19)は明治26年1月7日付北海道毎日新聞3面=マイクロフィルム、 (20)は開拓使・簿書10768件名簿95「米国人ダウィット・ピ・ペンハロウ、解雇ノ件」、道立文書館=原本、 (21)は伊東正三編「札幌区史」735ページ、明治44年7月、札幌区=近デジ本、 資料その6(1)は明治27年2月2日付北海道毎日新聞3面=マイクロフィルム、 同(2)は同12年6月17日付函館新聞2面、同、 同(3)は同年12月4日付同2面、同、 同(4)は同年12月13日付同5面、同、 同(5)は高崎竜太郎著「札幌繁栄図録」7丁表、明治20年5月、高崎竜太郎=近デジ本

 行ったり来たりしますが、道南の七重試験場で緬羊を飼い始めて4年たった明治11年、不用の綿羊をいつまでも飼っておくのは引き合わないから、早いところ肉用に処分しようとする動きがあったのです。言い出しっぺは七重試験場の湯地権少書記官で黒田長官宛に資料その7(1)の書面を送ったのです。しかし、いまは緬羊を殖やすことが先決、羊肉を売るのは時期尚早と資料その7(2)のように却下されたのです。■は文書館のベテラン司書もお手上げした字で、多分芟と同じく何か切り取るという意味の字でしょう。

資料その7

(1)
   剦羊撲殺売肉之儀伺

當場育畜ノ綿羊サウスタアン種年々ノ生殖牡児数多有之其ノ群羊中骨格良備ノ物ヲ撰ンデ種畜トシ其他ハ睾丸ヲ割去シ単ニ其毛ヲ■芟致シ居候然ルニ即今畜飼ノ諸費ヲ計算スルニ平均一ケ年凢金四円弐拾銭ヲ消耗シテ収毛ノ利僅ニ弐円〔当今相場羊毛一斤ニ付キ凢金弐拾五銭壱頭ヨリ平均八斤ヲ芟毛スルモノト見積リ〕ヲ得ル斯ノ如ク出入其當ヲ得ズ仍テ形躯不良ナル閹羊ノ毛ヲ芟収シテ後チ其肉ハ人生食餌ノ最上ニ位セルモノナレハ之ヲ発売シテ其利ヲ納メテ得失相償フ是レ牧畜上経済ノ一法ニ候條撲殺販肉ノ儀至急御允可相成度此段相伺候也
  明治十一年五月二日    開拓権少書記官 湯地定基

 開拓長官黒田清隆殿


(2)
  函第三百七拾壱号
    七重
     湯地権少書記官殿
               東京
                 書記官

サウスタウン奄羊撲殺売肉之儀山内大書記官村橋権少書記官見込之報有之勧農局農業教師江モ見込相尋候處別紙之通申越候就テハ夫是参酌之上実際御調査相成候方可然哉右伺書外書類候一先図致此段及御照会候也
   明治十一年七月六日

 村橋権少書記官付箋
緬羊〔サウスタヲン〕胤ハ蕃殖其ヲ得頻年ノ生殖夥多ニ付牡羊ハ種用ヲ除キ骨格不良ノモノハ剦羊トナシ其毛ヲ剪截セリ然ルニ本紙販売伺ノ如キハ牧畜経済ノ一ニテ至極適応ナレトモ老幼其宜ヲ得サレハ売肉良否ニ関シ従テ声価ニモ波及ス可シ因テ予メ撲殺スベキ年限ヲ定メ満三才ヨリ五才ニシテ頗ル肥満セシモノ撲殺販売或ハ管詰ニシテ広ク羊肉ノ美ヲ知ラシムベク御許可ノ上右等ハ兼テ札幌ヘモ通知致可然哉

 山内大書記官付箋
七重伺之趣右ニ相聞候得共今ヤ勧農局ニ於テ千住ニ羅紗織所創設スルニ当リ日ナラズ綿羊ノ毛ヲ要スル許多ナルベキニ付以撲殺販肉ノ義御見合可然哉
 五月十五日
 
 奄羊並貯毛ノ義ニ付キ勧農局御雇教師ニ質問ニ及ビ候處左ノ如ク答弁セリ
一奄羊撲殺ノ年限ハ種類ニ由テ差ヲ生ズ何トナレバ
一種ノ羊ハ疾ク成長スルトモ又他ノ一種ハ成長スル
コト遅ケレハナリ然レトモ肉味ノ佳美ナル時限ハ通例
一歳乃至二歳トス「サウスタウン」「リンコルン」等ハ此
年限ヲ尤適宜ナリトス英国ニ於テモ持主ノ望ニ由
タテハ良モスレバ久シク眷養スルコトアルトモ大概右
ノ年限ニ肥満セシメテ冬月売却スルヲ常トス元来
奄羊ヲ仕立ツルノ本意ハ収毛ヨリ良肉ヲ得ンガ為
ナリ尚牝羊ト雖モ年ヲ経テ脱歯スレバ仮令一歯タ
リトモ咀嚼大ニ困難ヲ生ジ其後ハ漸ク疲瘠シテ再
ビ肥満スルコト難シ故ニ此期ニ至ラハ一時美食ヲ給
シ肥満セシメテ販売スルノ優レルニ若カズ

一収毛ノ貯蓄ハ丈夫ナル囊ニ力ノ及限多量ニ押入レ
テ凄冷ナル場所ニ置ク中ニハ二ケ年位ハ敢テ障害ナ
ケレトモ余リ久シキ至レハ自然毛ノ弾力ト光沢ト
ヲ失シ其質ヲ不良ナラシムルニ至ル宜ク注意スベシ
 前條ノ答弁ニ就テ茲ニ聊カ鄙見ヲ述ルニ其レ英
 国ノ牧羊家奄羊ハ勿論仮令牝羊ト雖モ年ヲ経テ
 脱歯スルニ至レハ肥満セシメテ之ヲ販売スルナ
 リト彼国ニ於テハ実ニ左モアルベシ然レトモ皇国
 ノ如キハ牧畜ノ開ケタルモ即今ノコトニシテ其数
 至テ寡シ一頭ノ羊モ容易ニ撲殺シ利益ノミヲ視
 テ彼国ノ如キ所分ヲ施行スル能ハズト雖モ去リ
 トテ骨格ノ善悪ヲ問ハズ又其場合ヲ察セズシテ
 乱ニ眷養スルヲ以テ牧畜家其路ヲ得タリトモセズ
 固ヨリ群ヲ生スルニハ良種ノモノヲ選択セザ
 ルベカラズ故ニ肉用トナスノ他道ナキ骨格不良
 ノ牡羊ハ従来ノ如ク奄トナシ教師ノ教示年限ニ
 随ヒ撲殺スルノ外ナカルベシ将タ牝羊ハ仮令年
 齢ヲ重ヌルトモ収毛生殖用ノ為メ飽迠 畜育スル
 ヲ宜シキ乎ト存候也
   十一年六月
          牧畜係   志賀清任
          一等卒業生 尾崎延之助

 でも湯地さん、そちらの御雇教師も美味しい肉を売るために牡を去勢すると答えているではないか。もう一度私の提案について考え直してほしいと、資料その8のように再提案した。こうしつこく繰り返されてはたまらん。これ以上飼ったら餌代分損する発育不良の去勢羊と年寄り牝羊などに限り処分してもよいと許可されたのですね。

資料その8

   長官殿       於本庁
                書記官

別紙七重試験場乾壱号伺形態不良等ノ綿羊撲殺ノ義ハ左ノ通御指令相成
可然哉此段相伺候也

 伺之通
但形躯不良ノ奄羊及老牝羊等牧養スルト売肉スルト其損益ノ目類然タル
モノニ限リ当分撲殺可取計尤撲殺売肉セル分ハ三ケ月分ツゝ取束
其理由并頭数等■状候義ト可相心得候事
 明治十一年十月五日

  乾第壱号 
    緬羊撲殺売肉之義再伺

当場畜育ノ綿羊 サウスタウン 骨格不良ノ牡ハ毛ヲ芟収スルノ後撲殺売肉イタシ度旨本年五月二日付相伺候処山内大書記官村橋権少書記官見込並ニ勧業局農学教師答弁書添ヘ東京書記官ヨリ右異見ニ付尚当場ニ於テ実際調査候様照会有之候仍テ篤ト勘考仕候処先般具陳候通飼畜ノ諸費平均一ケ年壱頭凡ソ金四円弐週銭ニシテ収毛ノ利僅ニ弐円〔羊毛壱斤ニ付金弐拾五銭壱頭平均八斤ト見積〕ナレハ出入其当ヲ得サルヤ明ナリ況ヤ勧農局教師ノ答弁書ニモ奄羊ヲ仕立ル本意ハ収毛ヨリ良肉ヲ得ンガ為メナリト固ヨリ其言ノ如ク奄羊ノ蕃殖ニ充ツヘカラサル論ヲ俟タス然レハ将来羊毛高価ノ確タル目的ナクシテ徒ニ愛惜シテ売ルヘキノ期節ヲ失シ老羸ニ及ヒ価ノ減センヨリハ即今断然売却シ聊カ失費ヲ補ヒ度若シ羅紗織器械建設ノ上羊毛ノ価騰貴シ得失相償ノ時至ラハ則収毛ヲ主トスル様可致候牝羊モ教師ノ答ニ脱歯スルモノハ販売スルノ優レルニ若カスト此説ニ付牧畜係氏ガ清任外壱名ノ異見モ有之ト雖モ脱歯ノモノハ収毛ノ量大ニ減シ生児モ多ハ不良ニシテ蕃殖ニ充ヘキモノニアラス故ニ老牝ヲ眷養スルトキハ亦得其失ヲ償フヘカラス奄羊並ニ老牝等ハ時期ヲ見計ヒ便宜売却或ハ撲殺販肉致シ度此段相伺候也

   明治十一年八月十九日   開拓権少書記官 湯地定基
  開拓長官黒田清隆殿

付箋
乾第壱号ノ綿羊撲殺売肉ノ儀七重勧業課試験場伺
本課ニ於テモ異按無之候得共畜羊ノ如キ本邦未曾有ノ
一大事業ナレハ目下売肉センヨリ収毛スルヲ主要トス奄羊ノ如キ
モ良毛ヲ剪収スル年限ヲ經セシ後撲殺販売ハ方ト存候
 但シ骨格不良ノ綿羊ニシテ到底牧養ノ目的ナキモノヲ撲殺スル
ハ固ヨリ無論ト存候
          本庁勧業課 ●(細川)●(林)

 しかし、湯地さんにしても屠殺して羊肉を売って餌代を回収するという目当てがあったわけではなかったのでしょう。七重産の羊肉を売買したという記録が文書館にあるのかどうかまで、まだ調べていないので、これ以上のこといえません。私が赤煉瓦の公文書を調べた限りではですよ、真駒内の緬羊を食用として屠殺したの明治11年10月の榎本武揚公使の接待用が初めてです。値段に触れていないので、役所内のことだからと無料だったでしょう。
 資料その9(1)がそれで、同(2)はだれの接待用がわかりませんが、2回目とみられるケースです。外部への払い下げは、原田からの願いが届いてから初めて羊肉の払い下げ価格を検討した文書があるので、明治13年まで開拓使内部で羊肉を食べていても、民間への羊肉払い下げはなかったと考えております。ここの■は重ね書きで訂正したため読めない字です。

資料その9

(1)
   局長      勧業課
           農事係

 榎本全権公使近々御饗応有之筈ニ付畜牛並綿羊等屠殺之義

別紙之通用度課ヨリ掛合越候處畜牛ハ春來耕牛之為メ
南部方面ヨリ購入之内追々可払下分綿羊はサウスタウン
剦之内屠殺■■ニ候此段聞申候也

   十一年十月七日

別紙
  勧業課      用度課

今度榎本全権公使近々御饗応有之筈ニ付牛並綿羊等屠方之義上局
御達有之候所御差図無之候間ハ予て御用意相成様致度此段及御照会候也
   十一年十月七日


(2)
   五ノ第二百六十三号
 <朱書>
 局長            勧業課
 接待係           農業係
         
                勧業課
貴賓饗応之為メ閹綿羊壱頭來廿五日頃屠殺ノ上引渡可申旨  号ヲ以御來意了承然ル予メ都合モ有之故日限御確定候ハゝ御御申越有之度御回答旁々此段申進候也

別紙

  勧業課    接待係

   剦割緬羊  壱頭
右ハ貴賓接待用來ル廿五日頃屠殺ノ上御引渡有之度此段予メ及御照会候也
  十二年七月廿一日

 追伸 本文否御回答有之度候

  勧業課    接待係

貴賓接待用綿羊壱頭屠殺御引渡之義ハ明日ト森六等属江及照会置候處貴賓明日饗応ニ付本日午後三時ニ御引渡相成度否御回答有之度候也
  十二年七月廿四日

  

参考文献
上記資料その7は開拓使・簿書2408件名簿56「形躯不良等ノ綿羊撲殺売肉ノ件」、道立文書館=原本、 資料その8は同2961件名簿26「綿羊撲殺売肉ノ義ニ関スル件 」、同、 資料その9(1)は同A4/51件名簿142「榎本全権公使饗応ノタメ牛並ニ綿羊屠殺ノ件」、同、 同(2)は同A4/81件名簿15「饗応用ノタメ綿羊1頭其外接待係ヘ譲渡ノ件」、同

 原田が緬羊払い下げを申請した書類で、一番早いのは資料その10にした明治13年6月です。肩書きがペンハロー氏コックですから、羊肉はペンハロー家の食卓に上るのは当然、ホィーラーなどへもお裾分けするにしても1日や2日で食べ切れない。関係官員殿とこっそり話はついていたにしても、即決で払い下げになるとは思えない。これから話しますが、原田の魁養軒が公式に開店したのは13年6月23日であり、その18日前の出願というところが思案のしどころでした。
 案の定、札幌の本庁として初めての緬羊払い下げだったので値段がわからない。書類をみると「価格ハ他日ノ類例トナル恐アルヲ以テ牛肉等ノ比較ヲ以テ適当ニ相定可申事(22)」という付箋が付いているから、勧業課では少しは悩んだでしょう。1頭何円で払い下げるという書類が付いてないので、いくらに決まったかわかりません。
 ともあれ1頭払い下げられ、原田が料理した。ご主人ペンハローはじめアメリカ人教師は羊肉の味を知ってますから、真駒内のは堅い、まずいと批評したかも知れん。それから西洋料理店、魁養軒の方ですが、開店広告に羊肉料理をうたっていないので、想像ということになりますが、払い下げられた緬羊は生かしておいて魁養軒の開店に合せてつぶしたんじゃないかな。日本人の客はほとんどが初めて食べる羊肉料理だったので、堅いとか臭いとかケチをつけなかったと思いますね、はい。
 この原田の申請は重要で、払い下げ価格が決まっただけでなく、よぼよぼ緬羊の民間払い下げの前例になったと思われます。なぜならこの半年後ですが、函館の健全社という精肉店グルーブが函館新聞に「当日ヨリ弊社ニ於テ新鮮ナル羊肉販売いたし候間何卒賑々敷御購求之程奉願上候(23)」という広告を載せたからです。もしかすると健全社が売り出す羊肉は七重試験場の緬羊だという記事があったかも知れないのですが、その前の何回かの紙面が欠けているため、湯地さんの主張が認められたという裏付けがないのが残念なところです。
 また「内務省農勧局牧羊場払下ケ」と東京の勧奨社が初めての国産羊肉を売り出し(24)てからわずか1年後ですから、札幌と函館、共に身近に緬羊がいたからできたことでした。


資料その10

  綿羊払下ノ件
           勧業課
 上局        動植係
           庶務係<以上朱書>

 原田伝弥ヨリ綿羊壱頭払下出願ニ付事実取調ノ處
 食用ニ供シ度趣就テハ牧羊場飼畜ノ内老齢ニテ蕃殖用ニ
 難相成分弐頭有之ニ拠リ其ノ内ヨリ相当代価(出納)ヲ
 以テ払下候條致度教師ドン氏協議ノ上此段相伺候也

 明治十三年六月五日
  追テ本文裁可ノ上ハ剪毛ノ上ニテ可払下見込候也

  御払下願書

 一 綿羊壱頭
 右ハ御払下ケ被下度此段奉願上候也
  明治十三年
   辰六月五日   ペンハロー氏
              コツク 原田傳弥 印

 勧業課御中

 東京の仮学校を札幌に移転させるに当たり「札幌転地に付パン焼雇入の儀伺(25)」とか「札幌転地に付靴職雇入の儀伺(26)」という明治8年の書類があり、宮部金吾さんが学生生活の思い出で「西洋料理は原田傳彌君が東京から呼ばれて、御雇教師や我々生徒の賄を擔當した。彼は後に勢力を得て、豊平館の経営を擔當した。(27)」と語ったから、原田は明治12年より前に札幌に来ていたと見る人がいます。
 しかしだね、宮部さんは札幌農学校2期生、14年7月卒業です。それまで3年間「朝夕二食は洋食、昼は和食(28)」時代から「朝昼二食は和食、夕は洋食(29)」になるまで寄宿舎にいた人です。「北大百年史」の資料で原田の名前が初めて出るのは、資料その12(1)にした明治15年秋「朝昼和食、夕洋食」を三食とも和食にしたいという献立変更の伺いだけど、開拓使の公文書では明治14年3月4日付で原田が「農学校賄方」として真駒内に払い下げ予定の牛があるそうだが、ぜひ私に払い下げてほしい(30)と願い出ている。つまり原田は宮部さんの卒業前、少なくとも4カ月前から農学校で働いていたんだから原田が東京からきた賄い方だと知っていておかしくないのです。宮部さんと同期の新渡戸さんも常瑶居士のペンネームで資料その11のように原田エッセンを書いているけど、年数は漠然としています。
 その次に賄い方原田の名前が残るのが、すっかり有名になっちゃった札幌農学校の「隔日ニライスカレイ」と書いてある明治14年11月24日付けの夕食の献立変更伺いだ。大学文書館にあるから、いずれ講義で取り上げ、カレーライスとクラークさんは特に関係ないことを示しましょう。ふっふっふ。


資料その11

 学校の食事

<略>又た豊平館原田伝弥氏も其の来札の所以を尋ぬれは農学校御雇異国教師并に学生のひもじからぬたち態々鳥が鳴く(あずま)都を背に見て遙々本道にぞ参られける我等在学中は仝氏庖厨奉行の位置を占められたる時代なれば深く腹の底より其の恩を謝せざるを得ずと雖とも折々は氏を大敵の如く恨みたることゝもありけり昔しの豪傑の言葉に「遺恨十年磨一剣」とかりきみたるが我等も十余年後の今日に至り豊平館の楼上を恨みて時々原田氏を襲ひ一剣を磨かんとすれとも如何せん廃刀の時節柄なれば剣もなく刀もなし不得止磨くものはやぶれ靴のみなり

 資料その12(2)はその牛払い下げの文書です。同(3)は開拓使の官員井上重寿が書いた「左多楼平むだがき道中尻から毛」にある明治13年の札幌の牛肉事情(31)、美味しいわけがない。井上は13年5月30日に札幌に着き、病気で11月に退職して東京に帰るまでの見聞を書いており、それを裏付ける「東京府士族井上重寿開拓使御用係依願差免ノ件」など公文書8件(32)が文書館にあります。札幌の肉屋や牛鍋の肉はこうしたルート経由だったのですね。キーワード「牛」と「払下」で文書館を検索すると262件出ます。これらは見ていないけど、コックからの払い下げ申請は原田が初めでしょうね。

資料その12

(1)
四九九   生徒賄方改正に付稟請

十五年十月卅日   七等属 加藤政敏[印]
  校長(印)(森)
              札幌農学校(印)(井川) (印)(修)
  生徒賄向当分改正之義二付稟議

本校生徒賄向是迄夕飯壱度洋食ヲ加へ立賄来候処七月以降ハ貸費生
徒而已ニ而定額も自然少額ニ相成且ツ冬季ハストーフ用薪代等之費
用も相嵩ミ何分貸費額ニ而者支難ク候ニ付当分和食而已ニ改正仕度
依而別紙積書相添此段及御稟議候也
〔別紙〕
   御賄献立書
一  朝 四銭五厘 飯 汁 香之物 茶
一  昼 六銭   飯 魚
            野菜 之内一品 香之物 茶
一  夕 五銭   飯 吸シタジ物 香之物 茶
  右之献立ヲ以御賄御請仕度此段奉願上候也

明治十五年十月三十一日  賄方  原田伝弥(印)


(2)
十四年三月五日
  第拾壱号  真駒内老牛払下之件
 上局               勧業課
                  動植係
                  庶務係
     勧業課
      真駒内牧牛場  本課

其場畜牛之内已ニ老牛ト相成候分払下取斗度趣二月十七日付ヲ以テ御成意了承即チ別紙乾第五十九号写之通伺稟儀候相成リ且ツ今度原田伝弥ナル者代即納ヲ以テ右牛願受度旨出願候ニ付同人出場致候ハゝ払下分壱乃至弐頭共其望ニ任セ相当ノ代価ヲ付シ御下附相成候様取斗有可度御照会及候也
   十四年三月四日
追伸 畜牛払下八頭ノ内弐頭丈目下払下致シ余ハ逐テ払下可取斗様団氏ヨリ無■■本場江通知相成候筈ニ付其場ニテ教師払下見込之分先以テ同人江御下附(其旨御報道)相成度此段添申候也

  牧牛願受願書
一 真駒内御牧飼の牧牛之内今度御払下に相成分御座候哉に承候間何卒代価速納以て私儀江御払下被相成候様御取斗被下度此段奉願上候也
    明治十四年              農学校賄方
      三月四日               原田伝弥(印)
  勧業課御中


(3)
<略>当札幌ハ牛肉ハ官ニテ屠牛セシヲ長官始メ属官ニ至ル迠廻状ニテ誰々何斤入用ト印テ官員へ売払テ、残リヲ町家へ売渡ス事ゆへに、何分ニも日合をくれ(以下片仮名平仮名が混乱して使用されている)、其上老牛ゆヘニ、コハク、迚も東京ノ者ニハ喰せず、僕モ四五度も喰ニ行候得共、丸デ東京の肴込の牛店同様ニテ、カタデ(かたくての誤りか)不喰、其わリニハ鹿肉ハ極上等ナリ、風味よくうまし

  

参考文献
上記(22)と資料その10の出典は開拓使・簿書A4/95件名簿26「原田傳弥ヨリ綿羊1頭払下出願ノ件」、道立文書館=原本、 (23)は明治13年11月14日付函館新聞4面=マイクロフィルム、 (24)は同11年12月12日付有喜世新聞3丁裏の広告、三益社=原本、 (25)と(26)は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」174ページ、昭和56年7月、ぎょうせい=原本、 (29)と資料その11(1)は同612ページ、同、 資料その12は札幌農学校予科内学芸会編「尢ム」11号37ページ、常瑶居士「忘れぬ草(承前)」より、明治27年5月、札幌農学校予科内学芸会=原本、 (27)は宮部金吾博士記念出版刊行会編「宮部金吾」66ページ、平成8年10月、大空社=原本、 (28)は同65ページ、同、 (30)と資料その12(2)は開拓使・簿書A4/116件名簿36「農学校賄方原田伝弥、真駒内牧牛場畜牛中老牛払下願出ノ件」、道立文書館=原本 (31)は新島繁編「蕎麦今昔集」524ページ、林美一「明治十三年の札幌たべある記」より、昭和52年12月、錦正社=原本、 (32)は簿書3805/件名簿145「東京府士族井上重寿開拓使御用係依願差免ノ件」、道立文書館=原本

 いいですか、明治14年秋の時点で、原田は魁養軒だけでなく農学校の賄い方、後で説明しますが、豊平館の料理も引き受け、同時に3カ所で料理作りをしていたのです。資料その13の地図を見なさい。上から農学校、豊平館、その豊平館からみて左下の横長のブロックの右下隅に魁養軒がある。横倒しだが、なんとか読めるでしょう。いまの明治安田生命のビルとNHK札幌放送局と丸井今井大通館を結ぶ三角形に調理場があったんですなあ。舗装なしの道を歩いて回るだけでも大変だ。まあ、私が原田なら、最も大事な豊平館にいて料理を作り、腕前を認めた弟子を魁養軒に置き、農学校の賄い方は新米の弟子にやらせるね。わざわざ食べにくるお客優先、学生向けは質より量、おいしさは2の次だ。うなづけるでしょう。

資料その13

  

 通説では明治14年開店だが、それは誤りだという証拠がもう1件あります。いまいった井上重寿の「左多楼平むだがき道中尻から毛」です。井上はその中で「○会席料理屋ハ、イブリ通り第一等滄海楼、西通リ鯉川、西通東京菴、イブリ松月亭、都寿し等ナリ、外ニ並料理や十軒モアリ(別に地図を付す)、滄海楼ノ向側、本年開店ノ西洋料理ニ玉突并洋酒等ノ見世繁昌ス、安直故ニ此家ニテハ牛肉モ売ル也、(33)」と書いているのです。資料その13の地図の左下の用水路がп形になった一番上のブロックの右下に横に寝せて魁養軒、その斜め右上にやはり横に寝せて蒼海と見えるでしょう。これが井上のいう滄海楼であり、その向かいの西洋料理店は魁養軒しかない。明治13年には繁昌していたことは間違いありません。
 次は資料その14(1)です。これが魁養軒の開店広告。6月30日発行の札幌新聞3号に1回目の広告を載せたのですが、最後の1行で「御好に狂せ且亦御料理の…」と誤植があった。それで7月7日発行の第4号で「御好に任せ且亦御料理の…」と訂正した。このコピーはその4号のものです。おめでたい開店広告を「狂わせ」てしまったのですから原田はカンカン、料金なんか払えるかと怒り、創成社は平謝りしたと思います。
 広告の文面がわかるように書き出して同(2)としました。同(3)は札幌新聞の記事です。仮開店から半年たってますから、記者も慣れてしまって札幌初、西洋料理店の魁だということを忘れ、客は「官員方を始め軒主辱知の諸君」だったとあっさり書いて事足れりとしたことがうかがえます。

資料その14

(1)



(2)
弊店義今回物産局御製造品を始め左に掲載有之候品々美味専一に調進仕一層廉価を旨とし且亦御料理之義は御好に応し有合品の内何品にても御望次第御饗応に仕候御食事後の御運動御慰の一端にもならんかと玉衝を備置本月廿三日開店仕候間四方之諸君陸続御愛顧あらんこと奉希候
          札幌区後志通壱番地
 西洋御料理
 同御菓子製造所   魁養軒

物産局   
御製造   麦酒(ビール)
同  缶詰類 品々
西洋御料理 御好次第
同  遊戯 玉衝(うんどうあそびたまつき)
同  飾菓子類 品々
フリング菓子類 品々
パイ菓子類  品々
氷製菓子(アイスクリン)
西洋焼菓子類 品々
食パン
西洋酒類 品々
右之外御好に任せ且亦御料理の義は仕出し等も可仕候


(3)
○広告にもある通り魁養軒の開業式に請待せられしは官員方を始め軒主辱知の諸君にて西洋料理の宴を開き大に歓を尽され中々盛んな事でありき遊戯の玉衝臺はお雇教師トン氏のもと所持せられし美麗の品にて事に座中の飾りも余程注意を加へられたれは追々繁昌致しま志よう

 記事に現れる「お雇教師トン氏」はエドウィン・ダンです。道立文書館の文書11件で「綿羊飼立ニ付御雇教師トン氏意見差回方ノ件(34)」などトン氏と呼んでいる。後にある資料その16の機械技師ホルトが帰国するとき玉突き台を除いた家具一切を400円で開拓使が買い上げた文書(35)があるので、余されたその台をダンが引き取っていたかも知れません。明治19年に出た吉田香雨著「西洋日本支那礼式食法大全」、29年に出た杉本新蔵著「日用西洋料理法」という本は、玉突指南が末尾にあり、西洋料理に玉突きは付きものだったようです。
 それから私は思うんですが、原田は自分の料理より物産局のビールと缶詰を最初に書いている点に注目しなければならないとね。開拓使が売りさばきたい品物を売ったり使ったりアシストする料理店、本命の西洋料理に缶詰を使うなら道産品愛用でいくよ―という仕入れ路線を明確に打ち出した。これによって官員諸君の気持ちをぐっとつかむ。よしよし、贔屓にしてやろうじゃないかとなると思いませんかね。原田はただものではありませんな。
 食べたら玉突きで、ゆっくり遊んでいってね。玉突き料金はわかりませんが、明治15年の函館新聞に100突き25銭を1時間35銭という時間制に変える(36)という広告が出ていますから、そういう時間制だったかも知れません。知れませんという想像ですよ。とにかく店経営のコンセプトが時代にぴったり「追々繁昌致し」たわけです。
 開拓使も魁養軒を使っていた証拠を資料その15にしました。この10月は明治14年10月のことで、デビソンは件名でわかるように函館在米国代理領事でした。多分、公用で札幌に来ていたのでしょう。クラークさんが教頭のとき校長だったのが、この調所でね。開拓使庁ではナンバー3の大書記官でした。

資料その15

函館駐在米国代理領事デビソン夫婦エ饗応費仕出方ノ件

  当土曜日午後六時魁養軒ニ晩餐呈供仕度候条
  御来会被下度御案内マテ申述候也

   十月一日   調所広丈

 デビソン君
 同令閨

  

参考文献
上記(33)の出典は新島繁編「蕎麦今昔集」524ページ、昭和52年12月、林美一「明治十三年の札幌たべある記」より、錦正社=原本、 資料その13は小川正治編「札幌実業家便覧」ページ番号なし、明治28年3月、小川正治=国会図書館インターネット本、 資料その14(1)と同(2)は明治13年6月30日付札幌新聞3号11丁表=マイクロフィルム、 同(3)は同6丁表、同、 (34)は開拓使・簿書2458件番号214「綿羊飼立ニ付御雇教師トン氏意見差回方ノ件」、道立文書館=原本、 (35)は開拓使・簿書6748件番号2「元御雇教師サントホルトクラーク所有物買上代価及豚油其外品願受代価差引残金渡方ノ件」、同、 (36)は明治13年4月14日付函館新聞4面=マイクロフィルム、 資料その15は開拓使・簿書4543件名簿390「函館駐在米国代理領事デビソン夫婦エ饗応費仕出方ノ件」、道立文書館=原本、

 さっきいったコック五己辰右衛門だがね、明治9年に西洋料理店を開きたいから開拓使所有の調理器具と食器一式をお借りしたいと願い出たことがあります。資料その16は五己が差し出した願書です。願いの趣は聞き届けがたし、道具は貸せないとあっさり却下されたのです。もし五己が開店していれば、原田魁養軒は札幌で2番目の西洋料理店になったはずです。資料のサチは匙でしょうが、ほかの道具はまるで明治英語のクイズ、調味料容器を乗せる台らしいが、四ツミパヲシ入がわかりません。
 ああ、それから五己を雇った御雇外国人のホルトは明治6年から9年7月までいた器械方頭取エンドブリウ・ホルト、コロビンは8年7月から9年10月までいた仮学校教師ウイルリアム・コルウイン(37)とみられるので、この願書は2人が去って2月後に提出さたものですね。

資料その16

    拝借之義奉願候書附

願第五百拾四号
                   私儀
 明治八年七月中ヨリ御当使御雇洋人ホルト並ニ コロビン氏江
 私並ニ妻共コツクニ被相雇罷在候処当明治九年九月下旬同人共
 御用済ニ付帰国之砌私共暇無差遣候ニ付其後浦川通四十壱番地
 土田弥太郎方へ借家罷在候得共素ヨリコツク之職而己ニテ別ニ
 専業等無之ニ付休業罷在候
 然ニ御当所モ追々御盛大之御場所ニ相成候処未タ西洋料理渡世
 之者モ無之候ニ付就而ハ右渡世仕ノ儀候得共被前紙之通拝借之
 上開仕度候間向来願品拝借仰付被成下度尤御用之節ハ何時ニテ
 モ奉上納候間格別之御■ヲ以右願之通御聞届相成下度此段奉願
 候以上
               願人
             浦川通四十七番地借家
                  五己辰右衛門
               身許引受人
              津軽通十七番地
                  中川良助
               総代
                  三浦定吉
  開拓使中判官 堀基殿

  前書之通出願ニ付■仕候也
               副区長
                  高木栄三郎
               戸長
                  山口秀治郎

  願之趣難聞届候事
   明治九年十二月廿一日

           記

 一 カーヘル    壱ツ
 一 フライ鍋    沙枚
 一 フレキノ角鍋  同
 一 ニク皿 大小  十六枚
 一 コーヒコツプ皿 六人前
 一 コーヒトオシ  壱ツ
 一 サチ  大小  十二本
 一 ナイフ     六人前
 一 ホーコ     六人前
 一 四ツミパヲシ入 壱組
 一 丸テーブロ   壱ツ
 一 同テーブロカケ 壱枚
 一 椅子      六人前
   十三品

 さて、原田コックが初めて真駒内の年寄り緬羊の払い下げを受け、魁養軒の目玉料理に仕上げたことが、開拓使内部に伝わったからだと思うのですが、開店から半月もたたないうちに、今度は開拓使の方から羊肉を払い下げるから外国人の接待料理を作ってほしいと頼んだのが、資料その17の文書です。産めよ増やせよ一点張りの畜産担当者に西洋料理にすれば羊は食べられることを気付かせたともいえます。原田にすれば、そうこなくちゃと2つ返事で引き受けたはずですね。クロホルトは鉄道建設兼土木顧問のクロフォードで、同時に土木技術者など5人が函館に着いた(38)と函館新聞に載っています。クロフォードが一時帰国してアメリカから連れてきた技師たちで、緬羊はその歓迎宴用でしょう。

資料その17

    用度課ヨリ綿羊譲受方掛合ノ件
号外
   勧業課        用度課

 一 綿羊 壱頭
 右ハ今般御雇外国人クロホルト氏其外接待入用ニ付則屠殺ノ末コツク原田傳弥江御渡相成度上局命モ有之候此段及御掛合候也
  十三年七月二日

        證
 一 綿羊  壱頭
   但御雇外国人クロホルト其他接待用
 右正に請取候也
  十三年七月二日    用度課

 豊平館の建物が完成したのは明治13年12月でして、12月8日発行の札幌新聞第26号に「去る三日同館に於て落成の祝儀を行れ諸官員は各課一名つゝ午後六時に出席調所君の演舌等あり中/\盛んなことで有升たと(39)」という記事が載っています。「明三日豊平館ニ於テ祝宴施行ニ付洋牛壱頭屠殺の義上局下命ノ次第有之候処屠殺之九十斤丈速ニ送致残余ハ腐敗之無ク懸合無様貯蔵有之度此段申進候也(40)」という12月2日付けの文書があるから間違いない。調理場の竈ができておらず、宴会では七輪で網焼きしたビーフステーキ、明治英語でビステキが出たかも知れません。
 90斤54キロもの牛肉を何人で食べたか推定しようとしたんですが、明治12年12月現在の「開拓使各庁職員録」は課別に書いていないので「各課一名づゝ」で数えられない。御用掛、俸金30円のところに佐藤昌介以下1期生10人(41)の名前があります。続いて12月16日には安田、時任、折田3書記官の送別会が開かれた。調所をはじめ書記官は家族連れ、屯田兵士官たちも加わって飲んだり食べたりしたほか、大広間で俳優の踊りや狂言を見たと札幌新聞第28号に書いてあります。17日は清華亭、18日はまた豊平館館で送別会が続くはずで「余り葱皮(くど)いからこゝらてヲシマーイ(42)」と結んでいます。
 それから1年たち、緬羊払い下げの風向きが変わった。魁養軒の原田は羊肉がほしいはずだから、いらない羊は皆彼に払い下げてしまおうと牧羊場のエドウィン・ダンが勧めたようで、開拓使側から原田に対して緬羊の処分引き受けを持ちかけてきたのです。資料その18(1)が払い下げの条件。どういう基準かわかりませんが、上等羊なら1頭1英斤10銭、下等なら1英斤8銭で払い下げるとあります。
 永峰春樹著「緬羊の飼方」に「羊の肉量は種類及び年齢に依つて一様でないが、一般には牛より生体量に対する割合は少なく、生体量の四割五分から五割位が普通である。」とあり、小岩井農場が大正5年までの6年間に出荷したと思われるシュロップシャー種773頭の平均体重は10.792貫だった(43)というデータを載せています。
 また東京教育大の齋藤昌蔵氏によるコリデール種の肥育研究でも体重に対する肉量は生後5カ月で45%、10カ月で53%(44)と報告されています。
 1英斤は1ポンド、尺貫法にすると120匁9分6厘(45)なので、小岩井シュロップシャーは平均89.2英斤となる。皮や内臓を除き、肉として売れるのはざっとその5割とみると44英斤。この数字を開拓使の提案に当てはめると上等の場合、44掛ける10で1頭毎に開拓使に4円40銭納めるけれど、1英斤28銭で売るから完売なら12円32銭になり、差し引き1頭当たり7円92銭の利益が得られる。下等でも44×8=352だから、3円52銭で買い、売値は44×25=1100で11円、11円から買値を引いた7円48銭が販売手数料、もうけとなる。皮の始末などに金がかかるとしても手取り5円ぐらいにはなったでしょう。

資料その18

牧羊屠殺払下ノ義伺之件

 上局       勧業課
          動植係
          庶務係

牧羊ハ連年生殖著シク其所生之牝羊追々老衰良児ヲ挙ル能サルモノ并老年之胤牡羊睾丸抜牡羊ヲ合セ大略五拾餘頭有之候間屠殺売契之義タン氏申付候條西洋料理商原田傳弥ヘ売捌代価ヲ生キタルモノニテ上等羊一英斤金拾銭下等金八銭之割ヲ以同人ヘ引渡諸人望之者売與候節ハ上等之分ハ一英斤金廿八銭下等金廿五銭之割ニテ払下取計度御許可之上ハ当分ノ内隔日壱頭宛ハ屠殺シ不断売與候様可為致此段相伺候也
 但代価上納等ノ手続ハ堅ク約定取■

明治十四年七月十四日
<付ケ札>皮ハ勧業課ヘ被置候事ナルベシ

 その5円で脱線しますが、原田は明治13年5月に藻岩学校の建設資金として札幌区に5円寄附(46)したことが札幌新聞22号からわかります。藻岩学校とは南3条西7丁目に建てた小学校で、黒田長官がロシアで知った防寒構造を取り入れてログハウスのような建物で、丸太学校(47)と呼ばれたそうだ。それで札幌区長山崎清躬が原田ほか寄附者5人の表彰したいと調所開拓大書記官に相談した。書類を見るとご褒美は黒木杯、木製の盃で5円の原田は直径3寸、9センチとし、2円寄附者は2寸6分(48)と1廻り小さくして差を付けています。
 原田の寄付金は、札幌新聞第2号に載った公立小学校教員等級月俸表によれば、最低の7等準訓導が6円(49)だから駆け出し先生の1カ月分に匹敵します。原田がかなりの開業資金を持って札幌にきたからこそ、できた寄附だと考えます。
 はい、払い下げ羊に戻りますが、原田は何度か開拓使側と話し合ったはずです。1月後に資料その19の価格で払い下げてもらう契約が成立したのです。開拓使が初め示した払い下げ価格と比べると、上等と下等の価格差2銭が1銭5厘と5厘縮まっているが、お客に売る価格は3銭差からね、上等1英斤30銭に対して下等18銭、4倍の12銭に拡がっている。

資料その19

八月十六日 第十九号<以上朱書>
 緬羊売捌方ノ義上申ノ件

 上局    勧業課
       動植係

 緬羊売捌御裁可之上価額等篤ト調査シ別紙請書為差出候
 此段上申候也

 明治十八年八月十六日

  切符 半紙四ツ切
  緬羊何頭可相渡事

    御請書

一 今般羊肉売捌被仰付候ニ付テハ左之條々
  契リ道奉可仕御請書如件
一 緬羊払下願出之節ハ御課残出切符ノ
  願牧羊場ニテ現物請取候様可仕事
一 羊肉代価之義者掛ケニテハ上等羊肉英斤壱斤
  ニ付金八銭下等羊肉ハ同壱斤ニ金六銭五厘
  右之割ヲモツテ毎月末上納可仕事
一 払下望之者ヘ者売捌代価上等羊肉英斤
  壱斤ニ付金三拾銭並ニ下等羊肉ハ同壱斤ニ付
  金弐十八銭■売捌候様可仕事

 明治十四年
  八月十四日     大通一番地
              原田伝弥
   勧業課御中

 緬羊の肉量が一様に44斤とすれば上等では買値が3円42銭、売値が13円20銭で利益は9円78銭となり、下等では買値が2円86銭、売値が7円92銭で利益は5円6銭となります。もし上等と下等を1頭ずつ2頭売り切った場合、原案による利益は19円80銭ですが、妥結案では14円84銭と5円少ない。さらに50頭を1日置きに1頭ずつ屠殺して払い下げるという項目が消えています。
 しかし、原田はこれでよしとしたのです。多分牧羊場では下等羊が多くて、上等羊は滅多出ない。昔、札幌駅前に五番館というデパートがあってね、地味な経営、それだけお安くというコマーシャルをやっててね、麻雀で安い手で上がるとき、よく使った。それですね。下等なら1英斤6銭5厘で仕入れる形になるから、自分の店の料理に使って、もうければいい。生肉を売るといったって、日本人のお客は滅多にいない。1英斤8銭が6銭5厘に下がったので、それで結構と手を打ったとみますね。
 隔日に1頭つぶすから引き取れというのは需用を無視した売り方だ。和食店は羊肉を使わないし、いくら西洋料理が珍しくても、魁養軒1軒では毎日20英斤もこなせるほど客はこない。それより入り用になったときに、すぐ払い下げてくれる方がはるかにありがたい。牧羊場では餌代が嵩むから早く50頭を処分したいでしょうが、私共の都合もありますからと、不定期で使える切符制にしてもらったとみます。札幌牧羊場の分だけで終わったかも知れませんが、これで原田は開拓使公認、北海道初の羊肉卸商になったといえましょう。内務省勧農局払い下げの羊肉を売った東京の勧奨社より丸2年遅いけど、羊肉に目を付けた原田は進んでいたことがわかりますね。
  

参考文献
上記(37)の出典は大蔵省編「開拓使事業報告第一編」122ページ、明治18年11月、大蔵省=近デジ本、 資料その16は開拓使・簿書6107件名簿46「御雇教師人ホルト外1名ノ元コック五己辰右衛門、西洋料理店開業ノ為、器具等拝借願出ノ件」、道立文書館=原本、 (38)は明治13年7月1日付函館新聞1面=マイクロフィルム、 資料その17は開拓使・簿書A4/95件名簿25「雇外国人クロホルト接待用綿羊1頭譲受ノ件 」、道立文書館=原本、 (39)は同年12月8日付札幌新聞26号2面=原本、 (40)は開拓使・簿書A4/96件名簿85「豊平館ニ於テ祝宴施行ニ付洋牛1頭屠殺ノ件 」、道立文書館=原本、 (41)は開拓使編「開拓使各庁職員録附郡区吏並町村戸長」23ページ、 同14年2月、清水初太郎=近デジ本、 (42)は同13年12月22日付札幌新聞28号1面=原本、 (43)は永峰春樹著「緬羊の飼方」101ページ、大正6年6月、子安農園、同、 (44)は福島県緬羊農業組合連合会編「肉緬羊の研究」155ページ、齋藤昌蔵「肉緬羊の肥育中における羊肉造成の過程と肉の等級別差異」より、昭和36年10月、興文社=館内限定近デジ本、 (45)は細川広世編「日本帝国形勢総覧」369ページ、明治19年3月、細川広世=近デジ本、 資料その18は開拓使・簿書A4/116件名簿17「牝牡老年ノ牧羊屠殺、西洋料理商原田伝弥ヘ払下ノ件」、道立文書館=原本、 (46)は明治13年11月10日付札幌新聞第22号1面=原本、 (47)は札幌市史編集委員会編「札幌市史 別巻」40ページ、昭和30年7月、札幌市役所=原本、 (48)は開拓使・簿書3875件名簿36「藻巌学校新築費ヘ寄付ノ原田伝弥外並ニ対雁村教育所ヘ出金ノ新家幸一外賞誉方ノ件」、道立文書館=原本、 (49)は明治13年6月23日付札幌新聞2号1丁表=マイクロフィルム、 資料その19は開拓使・簿書A/116件名簿22「緬羊売捌ニ付原田伝弥請書差出ノ件」、道立文書館=原本、

 豊平館の建物は出来ても空箱みたいなもので、翌14年は北海道御巡幸前に内外の仕上げを急ぎ、豪華な家具を揃えた。8月30日に明治天皇は小樽に上陸され、汽車で札幌に着き、豊平館にお泊まりになったのです。函館新聞連載の「北海道御巡幸沿道略記」によると、豊平館には30、31日と9月1日と3晩お泊まりになり、31日は農園、9月1日は校内と札幌農学校は2度巡覧(50)された。資料その20の文書から御巡幸に付いてきた宮内省内膳課員らに開拓使は「お疲れ様です」と1頭をプレゼント(51)したことがわかります。さらにまだ読んでいないのですが「御巡幸ノ節宮内省内膳課其他ヘ贈進用ノ牛、羊屠殺ノ上引渡ノ件(52)」という文書もあるので、牛も追加贈呈したかも知れません。

資料その20

 御巡幸御用取扱へ綿羊引渡之件

 勧業課     御巡幸御用取扱

一 羊 壱頭
右者宮内省内膳課其他江贈進用トシテ今朝壱頭御引渡シ處右ニテハ
不足ニ付尚又書載ノ通屠殺之上食料糧御引渡有之度此段為御照会候也

    證
一 羊 壱頭
是者宮内省内膳課其他へ贈進用之分
 右正ニ請取候也
   十四年八月三十日 御巡幸御用取扱

 勧業係

 明治天皇は行在所の豊平館に3晩お泊まりになったということは、お供の方々も札幌のどこかで寝泊まりしたということです。記録から原田も賄いの御用を務めたことがわかる。その人数を数えると、農学校講堂に泊まった大隈重信参議ら8人はじめ、生徒宿舎4人など9カ所98人の食事作りを引き受けてます。(53)宿泊所と身分に応じたベッド、机と椅子、洗面器などの配置すべき物品リストをみると、よくやったもんだと感心しますね。
 札幌だけでなくお帰りで通る島松と千歳での給食も言いつけられている。千歳の行在所は「新保鉄蔵の居宅に接して官にて新築されしものゝ由又廿二間許りの官舎四棟あり是ハ同所ハ狭隘なる一小駅にして中々供奉の方々を容るべき旅館に乏しければ今度更に新設されしなりと然れども人夫などハ宿泊すべき所なく天幕のうち又は莚を布いて露宿する等雑沓大方ならざりし又賄ハ皆折詰めなり(54)」と函館新聞は伝えていますが、大きな釜や鍋、俎などを開拓使から借りて、いうなれば東京からだけでも「夫卒に至るまで三百余名(55)」という団体給食ですから、残暑の中、氷で冷やした水を飲みながら供奉した人々以上に疲れたことでしょう。
 豊平館について遠藤さんは「意外といえば、昭和三十六年に、私が指摘するまではホテルとして計画されたことも知られていなかった。当時の通説では、明治十四年の明治天皇の北海道行幸に備え行在所として建設されたもの、ということになっていた。真相はホテルとして工事中に行幸が決定し、行在所で正式開館ということらしい。豊平館以前の官設旅館の事情や豊平館の工事記録、それに宮内庁の資料などから判断すると、どうしてもそう考えるのが筋のようだ。(56)」 と「HTBまめほん」に書いています。
 札幌新聞7号には「○豊平館ハ荒々出来しが近々参議方着札せらるゝ迄には落成しかたく先其一方のみは五旅館に充てらるゝと道路の風聞(57)」とあるので、遠藤説の通りホテルとして建てられたのでしょう。五旅館の五は御の当て字で、このころはこう書いても通ったんですね。
 豊平館貸与とか拝借といった件名の書類はないのですが、行幸が終わるのを待っていたように原田は真新しい豊平館を無料で開拓使から借り、ホテル経営者も兼ねることになったのです。資料その21(1)は函館新聞、同(2)は郵便報知新聞の記事ですが、札幌みたいな田舎町にそんな豪華ホテルを開いても泊まる金持ちがいるのかねと冷やかしていますが、玉突きの台1つにしても函館丸が行幸の半年前に運んできた新品(58)でしたから、ひがむのも無理ないか。うっふっふ。

資料その21

(1)
特別旅館(とくべつほてる)  札幌にて西洋料理を営業したる魁養軒原田傳彌(くわいやうけんはらたでんや)
ハ今度官より同所官設の壮宏美麗にて當道第一の建物とも云は
やすべき豊平舘(はうへいくわん)(行在所となりし所)を無代にて拝借願済の上同
舘にて旅宿(りよしゆく)と西洋料理とを開店なし一泊上等四圓中等三圓下等
二圓五十銭其他玉衝臺(たまつきだい)等を備へ去る六日開業にハ同所の官員方
等を招待してなか/\の大盛会なりしよししかし當港と違ひそ
んな立派な旅舘が出來ても旅人(りよじん)ハなし殊に一泊下等でさへ二圓
五十銭の宿泊料を払ふやうな旅人(たびひと)ハ年にかぞへるほどあるかな
しかの所なるに何の公益あつて斯く立派なる特別保護の旅店(りよてん)
出来しにやと同市民ハ疑を抱けるよし開業後ハ旅人ハなくたゞ
日々誰殿にや玉衝をさるゝ音が幽かに聞へ其他ハ西洋料理の客
が少し宛ある位なりと同地を遊歴して帰函せし人の話なり


(2)
○札幌市街に巍然空に聳え壮観人目を驚かす新築を瞥見すれハ誰しも一大官衙ならんと思ふへきが三條相國が豊平館の三字を揮毫せられし金光燦然たる扁額を掲けたるを見て官衙ならさるを知るべし其建築の起因ハ明治十一年中河村海軍卿が札幌を巡視せられし時貴紳の宿泊すべき適當の所なき由を黒田開拓長官に物語られしに始まるといふ爾来工を起し三年の星霜を経て内外全く竣工し本年八月 聖天子北巡の砌行在所に充られ始て此館を開きたり客室は三層にありて其粧飾善美を尽し庭内ハ四時の花卉を植え泉水を引き惣構は繞らすに銕柵を以てし中々手に手を尽くされたるものなり然れは東北諸県にハ此右に出る行在所なく 聖天子も九重の宮殿に在すにハ及ふましけれとも定めて御満足に思召されしならんと供奉の大宮人も申されし由なるが今度此豊平館ハ西洋料理人原田某に貸渡され去月六日に開館し同日ハ開拓使の官吏数十名を招待して盛宴を張り自後上等西洋料理一泊ハ四圓中等ハ三圓下等ハ二圓五十銭の宿泊料と定めたれば今より後ハ北海漫遊の貴賓紳士は廣き東京にだなき此宏壮の旅舎に宿するを得て恰も西洋漫遊の思ひをせらるへし又此館にハ碁将棋玉突等の設あれハ開拓使官吏は豊平の月、札幌の雪、本願寺の暁鐘など近江八景に擬して彼を咏じ是を弄び公務鞅掌の苦を慰せらるゝならん開けゆく大御代とて蝦夷地にまで斯る一大楼閣を築くに至りしハ 聖駕北巡の余沢もあるべしまた開拓進歩にも因る可し然るに風流嫌ひの百姓の中に我等が此建築に費せし五万の金あらハ五十万坪の土地をポツ/\開拓すへきに惜いものなりと云ふ者もあるとか

 遠藤さんはホテル豊平館の使い初めが明治天皇の行在所だったと唱えました。「豊平館再説」によると「その後、『日本ホテル略史』(運輸省編、昭和21年刊)中の明治36年版の『チエンバレン日本帝国小史第七版』の記事を引用するくだりに、札幌・砲兵館≠ニして紹介していることを発見した。国内よりも海外でホテルとして知られていたのである。(原書は、A Handbook for Travellers in Japan<`ェンバレン・メイソン編、 ロンドン・ジョンマレー社刊、明治14年初版)(59)」とあります。このホウヘイに当てた字はドンと大砲を撃つ兵隊の砲兵でね、翻訳者は豊かと平らと書くとは知らなかったんですな。
 それで「日本ホテル略史」を見たら、明治46年の事項に「本年版のチエンバレン日本帝国小史第七版に記載せられたるホテル旅館名次の通。」として52の館名を挙げ、道内からは小樽の越中屋と札幌の砲兵館の2館だけでした。これも大砲のホウヘイでした。
 横濱はグランドホテルなど6館に対して東京は帝国ホテルとメトロポールホテルの2館。地方をよく調べており雲仙は5館も書かれており、オバマ大統領と同じ名前と宣伝している北陸小濱の1館も入っているけど、ハンドブックうんぬんは付いていない。
(60)
 どこかにハンドブックうんぬんという書名が載ってないかと読んでいったら、明治40年の事項に「東京赤坂溜池の松井平五郎、松方牧場の依頼により同牧場産の羊肉を販売す(本邦産羊肉の嚆矢)(61)」とあった。松井は国内初の羊肉卸問屋の主人ですよ。羊肉の納め先は帝国ホテルか有名レストランぐらいだったころだから、ホテル史に書かれて当然だし、奥山皓太郎という編集者のファインプレーですね。
 同じ40年の事項に「本年六月十五日発行のマレー日本案内記第八版所載のホテル、旅館名左の通。(62)」とあり、何回かマレーという名前が出てくるので、遠藤さんの「ロンドン・ジョンマレー社」ではないかと、A Handbook for Travellers in Japanでインターネットで検索したら見つかりました。赤い本の表紙に「Murray’s Hand−Book Japan」とあり、その明治24年の3版、27年の4版、40年の8版、平成12年に出た9版の復刻版と北大図書館に4冊も原書があったんですから参りました。
 資料その22はノースカロライナ大学図書館が見せてくれる明治36年の7版の復刻版の札幌の宿泊所の説明。駅前通りにあった山形屋と時計台前にあった丸惣が「ホテル略史」にないので和式旅館は省いたのですね。そのページは下のURLをコピーして使いなさい。全ページ読めるが、初めの100ページほどが日本についての常識集でね。有数の日本研究者だったバージル・チェンバレンならではの構成ですが、どうして日本帝国小史なんて訳されたのか不思議です。
 明治19年の函館新聞にチェンバレンが來道(63)して幌別に滞在してアイヌ語を学び「大方は通辨をまたず土人に接するも差支へなきほどに至れりといふ(64)」とあるから、このときホテル豊平館に泊まった可能性があります。トロント大の6版の画像を見ると豊平館は同じだが、和式は山形屋と旭館になっている。遠藤さんの「小樽の越中屋の次に札幌 砲兵館≠紹介する。原書のローマ字名を訳すとき、豊平館の名を思いだせなかったのである。(65)」という通りとしても、これだけで「国内よりも海外でホテルとして知られていたのである。」はちょっと無理じゃないかな。ふっふっふ。

資料その22

Sapporo (Hotel, Hōhei-kwan, originally intended for an Imperial
residence; only the four rooms on the lower floor are generally available,
but European visitors may obtain permission to occupy the upper storey;
Jap. Inns, Maruso, Yamagata-ya).

  

参考文献
上記(50)の出典はは明治14年9月9日付函館新聞3面=マイクロフィルム、 (51)と資料その19は開拓使・簿書A4/116件名簿25「宮内省内膳課其外ヘ贈進用羊更ニ屠殺引渡ノ件 」、道立文書館=原本、 (52)は同A4/117件名簿114「宮内省内膳課其外ヘ贈進用ノ牛、羊屠殺引渡ノ件 」、同、 (53)は同A4/128件名簿30「供奉員中旅館官舎ニ割当分賄向、請負人原田伝弥ヘ申付ノ件」、同、 (54)は明治14年9月17日付函館新聞3面=マイクロフィルム、 (55)は北海道庁編「明治天皇御巡幸記」30ページ、昭和5年10月、北海道庁=近デジ本、 (56)は遠藤明久著「HTBまめほん23 豊平館」6ページ、昭和51年1月、北海道テレビ放送=原本、 (57)は明治13年7月28日付札幌新聞7号4丁表=マイクロフィルム、 (58)は開拓使・簿書4654件名簿20「豊平館備王突台購求函館丸便ニテ落手ノ件」、道立文書館=原本、 資料その21(1)は明治14年11月16日付函館新聞1面=マイクロフィルム、) 同(2)は郵便報知新聞刊行会編「復刻版 郵便報知新聞」28巻212ページ、平成2年4月、柏書房=原本、底本は明治14年12月3日付郵便報知新聞3面、 (59)は日本建築学会編「日本建築学会大会学術講演梗概集」729ページ。昭和61年8月、日本建築学会=館内限定近デジ本、 (60)は奥山皓太郎編「日本ホテル略史」60ページ、昭和22年12月、運輸省鉄道総局業務局観光課、同、 (61)は同87ページ、同、 (62)は同88ページ、同、 (63)は明治19年5月21日付函館新聞1面=マイクロフィルム、 (64)は同年6月27日付同、同、 (65)は札幌市教育委員会文化資料室編「豊平館・清華亭」49ページ、昭和55年11月、札幌市=原本、 資料その22はhttps://archive.org/stream/
handbookfortravejohn#page/
534/mode/2up

 明治15年2月に開拓使が廃止されたため、この後は6月末までに出した緬羊払い下げ願いが3件あることぐらいしかわからない。そこから5年間、明治20年に札幌で北海新聞が発刊になるまでの原田と羊肉のことは、函館新聞に載った記事と文書館の公文書で知るしか手はない。だれもやってくれないから、私はその5年分ともう少し読みました。
 それでわかったのだが、北海新聞の発刊による札幌での読者離れ、地元紙北海新聞の購読者にならないよう函館新聞は急に札幌の記事を増やしていた。それまでの主読紙の地位を守る狙いもあったでしょう。ともあれ北海新聞は明治20年2月から発行され、8月から北海道毎日新聞と改名していますが、その記事に私のデータベースにあった原田関係の記事などを加えたものを3分割して説明します。
 まず資料その23(1)にある本会とは、道内ではろくに米が取れないのだから、それより「滋養多き小麦玉蜀黍等本土産物を以て従前輸送の粳米に換へ」よう(66)と、農産物の地産地消を狙い札幌県で結成された勧農協会のことです。例会は主に豊平館で開いていたことから、原田も勧農協会の趣旨に賛成してパンを焼いたのでしょう。
 明治12年から20年迄の7年間、札幌に洋食専門店は魁養軒しかなかったという証言が同(2)。これはまた、明治39年に肉店主、小口一太郎氏が提案した米風亭という店名をコックの岩井徳松氏が受け入れ「目出度く札幌における第二号のレストランが誕生した訳である。(第一号は申すまでもなく明治十四年開業の原田伝弥氏の魁養軒)(67)」という見方は誤りであることを示します。山十は明治28年の「札幌実業家便覧」の南1條西4丁目の店名に載っていないので長くは続かなかったとみられます。同(5)の洋食店も南1西4で開店したけれど「実業家便覧」に載っていない。(68)どうも当時の南1西4は洋食店には不向きな場所だったんじゃないかな。
 同(3)は同(1)とつながる記事で、原田は注文に応じて、洋食にはない団子汁や立食のための「折詰洋饌(69)」も作りました。こうしたおもてなしが同(4)と同(7)のように繁盛を招き同(11)でわかように、原田本人も入れてでしょうが、18人も働く大きな洋食店になれたのです。
 同(5)と(6)と(8)は、豊平館の所有者が宮内省から道庁に移るとき、原田がこれまで通り全館拝借したいと陳情したことを語る記事だ。同(8)と(9)から察するに、建物は借りられたけれど、玉突き台は借りられなかった。それで自分は豊平館の敷地内か近くに住み、魁養軒の住居跡を使って玉突き台を3台増の4台にしたことは同(2)からも確かでしょう。これで豊平館の玉突き客の常連を押さえたうえ、食堂では団体割引を始めたと考えます。
 (8)の広告は5月3日と6日と13日の3回出ています。「御料理五十人」の次の変な崩し字は「様」です。6年營業してきたはずなのに4月20日開業とは何だ。しかも10日遅れの広告です。それに住所が「大通西二丁目八番地」と変わっているのも変だ。おやおやと資料その6(5)の絵を見直すと8番地になってますよね。
 明治13年6月の開業広告の「後志通壱番地」が資料その19で「大通一番地」に変わったのは明治14年6月に何々條丁目と呼ぶよう制度が変わり(70)、道内の国郡の名前で呼ぶのをやめ、後志通は大通と改められたからでしょうが、それなら西2丁目1番地、蒼海楼向かいの東向きの儘なら西2丁目1番地になりそうなものなのに、なぜ8番地なのか。
 それでね、番地入り明治時代の地図を探しましたが、札幌にはなくて国会図書館に明治36年作成と16年後だけど、とにかく番地のわかる地図(71)がありました。それを見たらね、大通り南側の西2丁目には8番地がないんだね。資料その23(9)がその番地入り明細図の西2丁目一帯です。中通り北側のブロックは1番地から7番地まで、南ブロックは10番地から18番地までで、8番地と9番地はどこにもない。近くの8番地は西3丁目、いまの三越一帯とその北側ブロック内であり、西2丁目ではない。

資料その23

(1)
今般本會に於て北海道居住者之米食を変換することを以目的とし当道産之食物及調理法を研究し当区大通西二町目麺麭焼職原田伝弥滋養分多き麦粉を以て製したる麺麭壱斤「三食分六斤」代価三銭宛にて調進候間御風味之為差上候也
                   勧農協會頭
                         小寺秀信
十八年十二月三日
      三吉笑吾殿
 追伸御課御諸會之諸彦へ御通知被下度奉願候也


(2)
○札幌の西洋料理  さきごろハ根室の西洋料
理の事を記せしが此頃札幌より來書のハしに曰
く當地洋食店は魁養軒のほかハなかりしところ
南一條西四丁目へ山十印といふが出來上等六十
銭中等四十銭下等三十銭なりまた南二條西三丁
目の新盛楼も洋食を兼業し其ほかにも二三軒出
来追々競争をなし魁養軒でハこれでハ玉らぬと
玉つき臺をすへ新たに座敷を増築したれば目下
之に敵するものなし


(3)
○札幌雑話  <略>○去る二十九日午后札幌町會所に於て勧農
協會の集會ありて参會したるものも大分ある様
に見受たり偖該會は毎月一回つゝ同所に於て開
會する趣なれば其會毎に必ず立食の辨當を喰ふ
を例とすと云ふ併しながら其辨當は何時も並の
物と異りたるものゝよしにて先頃の辨當は藁團
子なりしよし此日の注文は魁養軒原田伝彌が受
合にて始め馬肉の「ビステーキ」と云ひしが馬肉
は早速に間に合ずとて止め更に「蕎麥のライス
カレー」と蕎麥粉と馬鈴薯の團子の汁とかの馳
走と聞けり實に奇食に非ずや風味は兎も角飢
饉抔の爲に試みるにハ好案にて實に勧農協會
の名に背かざるを企てなりとて市中で誉めを
とりましたと該地通信員より


(4)
○札幌市況<略>●西洋料理店は二三軒あれど何しをふ魁洋軒原田は主人の勉強と豪商紳士の愛顧多きゆへ何時もなから盛なり殊に球衝の流行こと午后一時頃より夜十時頃までコツン/\の音絶へず<略>


(5)
○札幌各料理店の咄  予て評判の偕楽園清華
亭抔貸下の許可を受けたる金清楼ハ愈近々に右
ケ處へ引移るとかの咄又引移の上ハ清華亭の
舌に廊下続きに盛大なる座敷を新設し且つ銭函
より潮水を取寄せ温泉を設くると云へバ新工夫
と云ひ且追々暖気に至れば随分來客も多からん
が偖其金主ハ誰がするかと今より贔屓の方が心
配してゐる由次ハ當地に指屈の西洋料理店魁養
軒ハ先頃北海道庁へ属せられたる豊平館を縣の
頃同様に拝借の儀願出し由右ハ多分許可になる
べしと云ふ尤も今度ハ許可せらるゝも玉衝丈ハ
其儘に置くと云ふ噂今一つの西洋料理店ハ南一
條西四丁目十番地へ先月開店したる伊藤喜太郎
氏が店にて至極手軽の塩梅か開店後日に五六組
の客之上らざることなしと云ふシテ一品何品に
てもパン付にて金十銭壱人前ハ上等金五十銭並
等は三十銭なり故に並等の客多く上等の客ハ開
店後僅に五六名なりと云ふ尤も並等にても五品
位出すと云へば随分腹塞げにハ沢山なりと云ふ
<略>


(6)
○豊平館  札幌豊平館ハ宮内省御料地にて今
度道庁へ属托せられたる迄の事にて全く宮内省
の根ハ切れざる由なるが今度予て仝舘拝借の
義出願中なりし札幌の魁養軒原田伝弥氏が道
庁より豊平館看守補助内外人接待の節ハ賄方
申付られたる由にて來る十五六日の頃館内へ引
移ると云ふ尤今度ハ自宅と両方にて営業の筈
なりとぞ


(7)
○札幌市況  <略>割烹店も東京庵を始め新盛楼清月東寿し等何れ
も本月になり客足の繁様子なり魁養軒原田は相変
す評判よく來客ひきもきらず<略>


(8)
   


(9)
    


(9)
○豊平館の繁昌  先頃當舘を北海道庁へ御委
托になつてより魁養軒原田傳彌に仝舘看守補助
を命ぜられ移転後日々客足の切れしことなく大
繁昌の處此頃ハ又郡区長會議其他にて宴會の続
くこと本日まで殆ど十日間なりと云ふ併し市中
に肉の切物なるにハ實に困却せりとの咄


(10)
○札幌市街祭の概況  <略>夫より競馬會
幹事本田親秀淺羽靖函舘大経氏及世話方等数十
名にて豊平舘に會し宴會を開き芽出度畢りしハ
午後十一時なりと云ふ又競馬に就て利益のあり
しハ魁養軒原田にて十五日にハ僅か金三四十圓
なりしも十九日にハ意外の利潤ありしとの噂


(11)
○和洋料理店の咄  札幌第一等と称する料理
店ハ東京庵にて西洋料理ハ魁養軒なるハ誰でも
知らぬものなき程なれば今其二軒の召使ふ雇の
人員を聞くに東京庵にてハ男女五十三名にて魁
養軒ハ十八名なりと云ふ依て他の料理店ハ此二
軒の右に出る能ハずと

  

参考文献
上記(66)の出典は明治18年12月12日付函館新聞1面=マイクロフィルム、 (67)は(岩井あや編「有合亭物語」5ページ、杉山正次「常に新しいセンスに生きた岩井家の皆さん」より、昭和56年8月、岩井あや=原本、 (68)は小川正治編「札幌実業家便覧」ページ番号なし、明治28年3月、小川正治=近デジ本、 (69)は明治26年8月16日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 資料その22(1)は開拓使・簿書9440件番号52「北海道産食物及ビ調理法ヲ研究ノ原田伝弥製造ノ麺麭有料ヲ以テ調進ノ件〈札幌県〉」、道立文書館=原本、 同(2)は(明治20年1月9日付函館新聞2面=マイクロフィルム、) 同(3)は同年2月4日付同、同、 同(4)は同年3月4日付北海新聞3面、同、 同(5)は同年3月9日付函館新聞2面、同、 同(6)は同年4月13日付同3面、同、 同(7)は同年4月29日付北海新聞3面、同、 同(8)は同年5月3日付同4面、同、 同(9)は同年5月29日付函館新聞2面、同、 同(10)は同年6月24日付同、同、 同(11)は同年7月1日付同3面、同、 (70)は開拓使・簿書4509件番号102「札幌市街町名改称ノ件」、道立文書館=原本、 (71)は井本菊太郎著「札幌市街番地等級入明細圖」、明治36年8月、三才閣札幌支店、同

 道立文書館でそのことをお尋ねしたら「新札幌市史」に番地が載っていると本を出して下さった。それは第7巻になっている「史料編2」で、明治12年5月現在の宅地の所有者や地価などの一覧表で、番地、持ち主名、在籍場所つまり所有者の現住所、坪数、それに対する税額、100坪当たりの地価、割渡し年月、家屋構築年、摘要の9項目がある。南後志通1番地を見ると持ち主はそこに住む池田定吉で140坪、100坪当たりの地価は40円、明治4年10月に割渡しを受け翌5年7月に家屋を建てた(72)と一目でわかる。
 池田は開拓使払下げの鉄材代金の月賦払いの嘆願書(73)が残っているし、炭鉱の機械修理請負関係の身元調への書類にストーブ修理が得意(74)だなどと書かれているから、鍛冶屋だったらしい。それから1番地には枝番の1があり、所有者は札幌の馬具師の草分けとされる黒柳喜三郎で130坪、池田と同じ地価、割渡し年月だが、家屋構築は明治11年と遅い。2番地、3番地はそれぞれ270坪だが、4番地から6番地は135坪と小さく、7番地は405坪(75)とそれらの3倍で、明細図の幅はその通りに見えますね。
 ただし7番地の次は9番地115坪(76)で、これでもまた8番地がないんだなあ。だけど明治8年7月に後志通第八番地裏通六間中地往来」に工事の材木を置くよという民事局と工事局の文書(77)があるから、135坪だった8番地は何らの理由、もしかするとで郵便局の敷地として135坪2つ分の7番地に纏められ、8番は西3丁目に移したとも考えられる。
 調査したとき南後志通3番地の所有者は渡島通の相守定夫だったが、摘要に明治13年4月に伊藤辰造が買った(78)とあります。相守は明治6年4月に割渡しを受け、すぐ家屋を建てたので、実際には土地付き築6年の家屋を買ったんですね。伊藤は西洋洗濯の職人でお雇い外国人や農学校生徒の衣服洗濯を引き受け、その後、いまの市議会議員に当たる総代人になったり芝居小屋の座主(79)などさまざまな事業をした人です。
 前にもいったかなあ、明治14年の明治天皇の道内行幸の際、札幌では国旗を掲げる竿が手に入らないからと、伊藤は東京から旗竿や玉や國旗を400組取り寄せて売り切った。お陰で歓迎の体面も整ったと開拓使の調所大書記官が喜んでごちそうしてくれたという自慢話(80)が新聞に載ってます。だから3番地でやる商売を決めての買収だったに違いないのです。
 8番地、8番地とインターネットを検索していたら「街を読む」というホームページに伊藤が明治11年、西洋料理店を開く準備としてラセンという敷物の払い下げを開拓使に申請しているとあったんですよ。(81)もし開店していたら札幌初の洋食店は魁養軒という私の見方は大間違いということになるからこりゃ大変。すぐ「路上観察と街の歴史を掘り起こす研究サイト」のオーナー、やなぽん氏に詳しく知りたいとメールを送りましたね。するとラセン払い下げの書類はこれですと書面の写真と解読文を送って下さったのです。
 資料その24(1)が余白をトリムした書類の文面、同(2)はその解読文(82)です。お会いして知ったのですが、やなぽん氏は慎重、真面目過ぎるくらいの方でね、怪しいと思う読みには、いちいち(?)を付け、朱書の下という1字も揺るがせにせず上を重ねて書いてあると注付きです。ラセンは29円14銭6厘で払い下げてよいかという営繕課諸品掛の伺いも付いているのですが、やなぽん氏は「実際に西洋料理店を伊藤が開業したのか否かについては明確な裏付けがとれていない。(83)」としています。資料その14の魁養軒広告のような証拠が見付かるまでは、伊藤レストラン開店説は惜しいけれども保留するしかないですよね。

資料その24

(1)
      


(2)
   書附ヲ以奉願上候
 (朱「一 下(見せ消し、上に墨で「上」)ラセン拾壱丈五尺弐寸」) 私義
今般西洋料理開店仕度普請モ出来仕
候得共座敷敷物無御座ニ而殆与困り入候
随而奉願上候叶(?)恐受(?)奉存候(?)得(?)共ラセン拾壱丈
五尺ニ寸御拂下被仰付被成下置度代[人偏に費]ハ早御
上納可仕候間何卒前願御聞届被成下置度此段
奉願上候也

   明治十一年   爾志通弐番地
     三月五日    伊藤辰造(印「伊藤」)

 営繕課
   御役所
(以降はラセンの寸法なので省略)

 「普請モ出来」というから考えましたね。どこへ建てたかわからないが、敷物ぐらいなくても開店すればいいのに、しなかったらしい。もっとも明治11年では函館新聞が創刊したばかりですから、札幌のことを書いたかどうかわかりませんがね。私が考え出した仮説はこうです。井上重寿のいう「滄海楼ノ向側」に店を出来たけれど、コック採用とか什器調達がうまく行かず空き家の儘、年を越した。12年に入って伊藤が原田に声を掛けたか原田が見付けたかのどちらかで、原田は伊藤の店を借りて仮營業を始めた―です。これならペンハロー家の食事作りをしながらできるし、資料その6(3)の記事にも合います。また、伊藤はその建物管理のために、すぐそばの3番地を買ったともいえます。
 それから7年後の明治20年、原田は魁養軒の近い西2丁目1番地1の130坪に新店舗を建てた。「札幌繁栄図録」の絵はこっちで広告は新魁養軒の開業お知らせだったとみます。原田夫妻は月額5円の家賃で豊平館付属の宿舎(84)に住んでおり、旧店舗改築の邪魔にならなかったはずだが、新店舗の住所の8番地が説明できません。
 何か條丁目と番地のヒントは無いかと、火曜と金曜の週2回で発行し始めたばかりの北海新聞のマイクロフィルムを見ていて奇妙なことに気付いのです。明治20年4月8日付の19号から同月15日付21号の3回が欠号になっている。その4面左下隅に発行所と発売所の住所がですよ、18号の発行所は「北海道石狩国札幌区大通西三丁目四番地」の北海新聞社、札幌区の発売所は「石狩国札幌区南弐條西弐丁目十五番地」の聚文堂(85)だったのに、4月19日付22号のそれは「北海道疔下札幌区大通四番地」と「札幌区南弐條西弐丁目拾九番地(86)」に変っているじゃないですか。
 つい、若い人の口調でいっちゃったが、片方だけなら誤植と考えられるが、両方ともですからおかしい。この半月間に住居表示を変えさせる何かがあり、それで原田は新店舗の番地は西2丁目にはなくて、末広がりで縁起のいい数の8番地を選んだ。広告が遅くなったのは番地書き換えの大勢を見極めようとしたためで、北海新聞と聚文堂の変更を確かめて掲載に踏み切ったとみたい。
 さらに北海新聞を見ていくと6月17日付39号で発行所だけ「北海道疔下札幌区大通西三丁目四番地」に変わるが、聚文堂は「札幌区南弐條西弐丁目十九番地(87)」の儘だったように、新魁養軒も西2丁目8番地を変えなかった。その後、何回か番地の割方が変わり、2丁目北側は1番地から7番地と決まり、それに基づいて番地入明細図が作られたのでしょう。130年も昔のことであり、ジンパ学としての考察はここまでとし、魁養軒西2丁目8番地イコール1番地1説は郷土史研究者の方々に更なる検討をお願いしておいて講義を進めます。
  

参考文献
上記(72)と(75)と(76)と(78)の出典は札幌市教育委員会編「新札幌市史 史料編2」7巻440ページ、昭和41年3月、北海道新聞社=原本、 (73)は開拓使・簿書4653件番号65「大通西2丁目池田定吉ヘ辛未年中長割鉄払下代残金49ヶ月々賦上納方願出ノ件」、文書館=原本、 (74)は開拓使・簿書8001件番号53「鍛冶職池田定吉ヨリ、土木課御用請負願ノ件〈札幌県〉」、文書館=原本、 (77)は開拓使・簿書1231件番号25「後志通裏通往来ヘ用材差置ノ件」 (79)と(81)と(83)はホームページぺージ「街を読む」の「立花座小史:明治中期札幌の劇場界を駆け抜けた4年半」の注10、 https://sites.google.com/ site/machiyomi/ (80)は明治44年7月10日付北海タイムス4面=マイクロフィルム、 資料その24(1)と同(2)は開拓使・簿書4672件番号1「爾志通2番地伊藤辰造営繕課備ノ内ラセン願受願出ニ付払下ノ件」、文書館=原本、やなぽん氏提供、 (84)は開拓使・簿書8932件番号9「豊平館監守人取扱方及属舎一棟拝借人原田伝弥ヘノ貸渡手続ノ件〈札幌県〉、文書館=原本、 (85)は明治20年4月5日付北海新聞18号4面=マイクロフィルム、 (86)は同年4月19日付同22号同、同、 (87)は同年6月17日付同39号同、同

 はい、資料その25に行きます。この(1)はね、ジンギスカンはなかったけれど、明治20年の札幌区民約1万6000人(88)が1日に3頭分ぐらいの羊肉を食べたことに注目しました。豊平館魁養軒だけてなく資料その23(2)でわかるように明治20年には新たに洋食店2軒が加わり、3軒の羊肉料理のほか、鋤焼きにでもして食べる人がいたのでしょう。市来知はイチキシリと読み、いまは三笠市になった村名。炭鉱の鉱員たちがこれら屠畜のモツのお得意さんだったのでしょう。また同(2)の「牛羊鳥豚」と同(3)の「セロリ」があるので「洋食に適当なる材料に乏しからす」とはいっても、同(9)が心細さを示しています。
 同(4)の天幕とは天井に張って飾りにする幕(89)と辞典にあります。やなぽん氏の「立花座小史」を読んでわかったのですが、芝居好きというより、ご近所さんの伊藤辰造が東座を買収して橘座と改め、座主になるお祝いとして贈ることにしたんですね。資料その27(7)にあるように原田は寄付を惜しまない人でしたから、黙っては作らせなかったでしょう。
 同(5)は明治21年2月27日夜の札幌電信局の火事で、原田が出した火事見舞いお礼の広告です。同じ西2丁目だからびっくり仰天。資料その6(4)の魁養軒の絵を見なさい。4本煙突のように屋根に天水桶がありますが、2月だから屋根の雪のお陰か類焼は免れたんですね。「○札幌電信局 は去廿七日焼失に付ては多分同局を札幌郵便局へ合併せられ札幌郵便電信局と改称せられるべしと風説あり(90)」と報道され、同年10月からその通りになった(91)ことが官報でわかります。
 資料その24(7)は原田が総代人、いまでいえば市議会の議員に選ばれたという記事です。総代人に選ばれるには札幌区内に本籍があり20歳以上の男子で100円以上の価値ある土地を持っている(92)ことなどでの条件を満たさなければならないのですが、原田はちゃんと土地を持っていたんですねえ。
 「北3条東1丁目改正道路ニ係ル屯田事務局用地并原田伝弥地所ノ件(93)」という明治15年の開拓使の書類を見るとね、開拓使が東向きの原田の所有地900坪のうち主に南東側幅5間など184坪を買い上げて(94)道路をすっきり整えたことがわかる。札幌に来て3年ほどでそんな広い土地を買えるだけ原田は粉骨砕身、働いたということですよね。
 脱線というより蛇足だが、昭和3年発行の「札幌市都市計画内地番入精細図」という地図に「地主紹介」というリストがあってね、それに原田の遺産とみられる土地の持ち主が載ってます。
 その11面を見ると原田ミヨという女性が北4条東3丁目の540坪の地主(95)とわかる。後で示すが、原田傳彌夫人スミさんの葬儀広告に長女ミヨとあり、それから20年後だからこの人に違いない。その原田ミヨの隣に書いてある原田ヤスは大通西2丁目の405坪の地主(96)だ。ここは魁養軒があったブロックだからね、このヤスさんは傳彌の2女か、さもなくば日露戦争で戦死した長男玄吉の遺児でしょう。ジンパ学はしつこく調べるねとミヨさんとヤスさんがあの世で笑っているかな、はっはっは。
 それからね、同じ11面に新渡戸さんが南4条東4丁目に521坪の地主として載っている。なぜかと調べたら、そこは「妻メリー夫人の実家に引き取られて育った孤児の女性から遺贈された1000ドルをもとに古家付き土地を購入(97)」したと説明板にあるその土地だった。「札幌遠友夜学校跡地」とも呼ばれた「新渡戸稲造記念公園」ですよ。ジンパ学講座を開いたころ、まだ記念室があり再現した教室などが公開されていたことは間違いない。
 うん、総代人の話に戻しますが、ありがた迷惑だったのか、原田は惣代人を辞退したため伊藤辰造が代わります。繰り返しになりますが、伊藤は明治5年御雇西洋洗濯職としてケプロンのハンカチから腹巻きまで洗ったという書類が残っています。札幌農学校の生徒衣服類洗濯方、消防の組頭やいまいった橘座々主などさまざまな仕事をしており、総代としても古顔、原田夫人の葬儀広告では親戚となっています。(987)伊藤夫人は札幌で初めて洋服を着た女性だと明治20年の函館新聞が「當地にて女装の洋服を着たるハ之れが嚆矢なりと該地より(998)」とある。ぱーっと目立ったんですね。はっはっは。
 前の資料その23(6)は原田が豊平館内へ引っ越すと書いたけど、実行しているので、北3東1は趣味の乗馬のために使っていたかも知れません。「札幌実業家便覧」では、大通の魁養軒は「料理屋并ニ玉突業」で経営者は「鈴木サキ(10099)」はいいが、原田は「欄外之部」で単に「西洋料理」だけ(1010)店の住所は何も書いていません。
 同(8)から大通の魁養軒で4台ある玉突き台で競技会を開いたことがわかる。北海道毎日新聞のマイクロフィルムは明治24年はじめ28年、29年などかなり欠けていて、そこは札幌市公文書館のホームページにある「新聞スクラップ」に大分助けてもらいました。記事の見出ししか検索できないけれど、キーワードを含む記事だけでなく同じ画面に並んで出る記事や広告を丁寧に読むと、とても役に立ちます。
 そのスクラップで同(10)の通り原田は田中養治の後を引き受け2度目の総代人に選ばれた記事と日付がわかるので明治24年なら一発必中、札幌市立中央図書館の小竹家資料というマイクロフィルムで掲載面がわかる。(11)は高須墨浦著「函館繁昌記」より7年後に出た「札幌繁昌記」からですが、魁養軒も営業していたはずなのに洋食店は豊平館だけとしています。

資料その25

(1)
○肉の捌塩梅  札幌市街にて売捌ける諸肉ハ
大概牛肉が平均一日に四頭(此斤数凡一頭に付
平均正身百二十斤と看做すものなり)にて僅に
四百八十斤許鳥肉一日平均百羽綿羊が三頭馬が
一頭位の割合なりと云ふ尤も市來知其他へ廻る
も皆此中より売捌きしものゝよし


(2)
移住案内
 ○北海道の現況
 第1篇 札幌区(前々号の続)

豊平舘ハ大通西壱丁目にあり札幌美観の一なり十三年一月より起工し十四年に至て落成す十五年より御料地となる<略>故に内外貴賓の旅舘に供し又宴会を開くに堪へたり近時ハ原田傳彌なる者本舘にありて西洋料理を調進し居れり
因に云当地は夙に開拓使に於て洋食を奨励し又外国人多く來り住するを以て麫包の製造より牛羊鳥豚の割烹調理に至るまて頗る進歩し殊に洋食に適当なる材料に乏しからす且つ蔬菜果実類皆能く成熟するを以て美羞珍膳意の如くならさることなし


(3)
○セロリ 当地大通西9丁目壱番地住む水沢利祐氏が培養されし西洋野菜中ことに賞美せらるゝは(セロリ)にて其茎の長さ二尺四五寸太さ壱寸壱株の量二斤より三斤ありて美味なれハ洋食店原田傳彌方にては八百株ほど注文せしと云ふ(セロリ)の培養法は人糞に糠を腐敗せしめたるものがよしと云ふ


(4)
○札幌彙報(十一月廿一日通信)<略>
芝居の大繁昌  大黒座は近頃新戯題の光僚尼
経歴を演ずる由にて大評判大入なりと云ふ今度
新築中なる東座は出來の上は橘座と改名する由
なるが普請の出来は多分來月十日頃ならんと云
ふ又開業するに當て市中の消防組は白縮緬の引
幕を同座主へ贈ると云ふ其縮緬は八反にて金八
十餘圓なりと又天幕は市中藝妓連魁養軒の若連
諸料理店等都合七個なり又代り幕は薄野連水引
五十集屋連其佗畠山若衆より幟数本を送ると
云ふ因て市中何れの染物屋を見るも皆同座に係
りたる染物の様見受たり<略>

(5)
昨夜近火ノ節ハ早速御見舞被下難有奉存候取込中尊名
伺洩モ可有之候館乍略儀新聞紙上ヲ以テ御礼申上候也
        大通西二丁目八番地
  二月廿八日             原田傳彌


(6)
◎西洋割烹の伝習 石狩国浜益郡は漁業及開墾事業と
も日増に盛大なるに從ひ追々他より入込む人も尠なか
らず殊に往々西洋人の巡回せらるゝ事あるに付夫等の
便利を図り同地の本間某氏の尽力に依り茂生村料理
店竹田市兵衛氏は今回洋食店を開業せんとて右伝習の
為め本間氏の紹介状を以て札幌魁養軒主人に依頼し村
山吉五郎氏を教師とし昨今専ら伝習中の由に聞く


(7)
○町総代人更撰 去五日午后一時札幌区役所内町會所
に於て町総代人撰挙會を開かれたり其當撰者は現在総
代人の内半数留任になりし者第一部石川正叟第二部佐
藤金次郎第三部牛越寅之助第四部谷吉三第五部大岡助
右エ門第六部対馬嘉三郎第七部本郷嘉之助の七氏又新
任者は第一部原田伝弥第二部柴田直治右エ門第三部工
藤梅次郎第四部池田新七第五部村松誠蔵第六部新出織
之助第七部堀内龍太郎の七氏なりと云ふ@

○辞職 今度町総代に撰挙された原田伝弥氏辞職を願
出たりとA

○総代人 札幌区第一部総代人に撰挙せられたる原田
伝弥氏は其総代人を辞職されしに付更に次票の伊藤辰
造氏が其撰に当られたりB


(8)
◎玉突會 去る三日午后一時より大通西二丁目魁養軒
に於て某氏が幹事となり玉突會を催したるに來会者四
十餘名にて勝を得たる者には幹事より賞与あり晩餐後
会員は再ひ源平二派に分れて勝負ありたるが中々の盛
会なりしと


(9)
◎札幌牧豚会社 同会社は先頃より株主の募集に着
手したるに目下市街に於ても豚肉の不足を感じ其他
の肉類も非常に高価なるを遺憾に思ひ居たる折なれ
ば意外に気配能く古川浩平対馬嘉三郎原田伝弥の諸
氏にも卒先加入され最早満株に至るべき景況なりと
云ふ


(10)
○惣代人補欠撰挙會 札幌区第一部惣代人田中
養治氏は今回辞職したるを以て一両日中に其補
欠撰挙會を開くよしなり@

○原田伝弥氏 今度當区第一部総代人に當撰し
たる同氏は愈よ承諾就職したりA
>
(11)
豊平舘は大通西一丁目にあり、札幌唯一の西洋料理店にし
て、唯一の建築物なり、<略>今は白皙人種の當区に来遊するもの
旅館(ホテル)を兼ね、洋食を調進す、去れば区内に住する洋人、及び
西洋風の連中は常に杖を寄せ、又た多人数の集会等ある時
は往々此に集まる、其料理塩梅上手なり

  

参考文献
上記(88)の出典は札幌区役所編「札幌区役所統計概表 明治21年」、明治22年6月、札幌区役所=近デジ本、 (89)日本国語大辞典第二版編集委員会、小学館国語辞典編集部編「日本国語大辞典」9巻857ページ、平成16年5月、小学館=原本、 (90)は明治21年3月1日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 (91)は「官報」1570号1ページ、明治21年9月20日、内閣官報局=近デジ本、 (92)は札幌区役所編「総代人必携」1ページ、明治26年8月、札幌区役所、同、 (93)と(94)は開拓使・簿書7474件番号33「北3条東1丁目改正道路ニ係ル屯田事務局用地并厚田伝弥地所ノ件〈札幌県〉」、道立文書館=原本、 (95)と(96)は安富晴蔵編「札幌市都市計画内地番入精細図」11面、昭和3年1月、北海調査会=札幌市中央図書館デジタルライブラリーの画像、 (97)は新渡戸稲造記念公園の説明板より、札幌市央区南4条東4丁目2=原文、 (98)は開拓使・簿書6786件名簿126「明治7年中札幌本庁繰替払ノ教師ケフロン食料品其外買上代戻入ニ付出方ノ件」、同と同簿書6118件番号6「札幌学校<略>更ニ生徒衣服類洗濯方トシテ伊藤辰造雇入ノ件」、同と明治26年1月5日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルムと同41年9月30日付北海タイムス7面、同と同44年7月10日付北海タイムス4面、同、 (99)は明治20年6月29日付函館新聞2面=マイクロフィルム、 (100)と(101)は小川正治編「札幌実業家便覧」20ページ、明治28年3月、小川正治=近デジ本、 資料その25(1)は明治20年7月1日付函館新聞3面=マイクロフィルム、 同(2)は同年10月8日付北海道毎日新聞5面、同、 同(3)は同年同月21日付同3面、同、 同(4)は同年11月23日付函館新聞2面、同、 同(5)は明治21年3月1日付北海道毎日新聞7面、同、 同(6)は同年同月16日付同4面、同、 同(7)は@同年5月7日付同2面、同とA同年同月9日付同3面、同とB同年同月16日付同2面、同、 同(8)は同年9月5日付同1面、同、 同(9)は同明治22年3月6日付同1面、同、 同(10)は@同24年5月1日付同2面とA同年同月19日付同3面=マイクロフィルム、 同(11)は木村曲水著「札幌繁昌記」84ページ、明治24年9月、前野長発、石塚猪男藏=近デジ本

 原田の道楽は馬でした。明治23年の札幌で総代人になれる資産家118人のうちの1人だった(102)のですから、遊ぶ金がないわけがない。
 資料その26(1)にまとめましたが、原田は持ち馬新冠産6才の谷昇号(103)をレースに出しただけなく乗馬も楽しんだのです。所有地が北3條東1丁目だから豊平館からすぐだ。馬小屋を作り暇を見ては乗る練習をしていたかも知れません。
 小竹家資料ににある明治24年の北海道毎日新聞の競馬と札幌遠乗会の記事を調べたら、この年原田の持ち馬谷昇は少なくとも賞金45円を稼ぎ(104)5月12日の第1回遠乗り会で原田は谷昇に乗って石狩濱まで往復しました。一行22人の人馬のリスト(105)が記事にあるが、2回目以降は名簿がないので動きは不明です。また原田は共同競馬会に12円の入会金を納めた特別会員で(106)後に会計担当役員も引き受けました。好きでなきゃ入会しませんよね。
 同(2)は明治24年春ごろから西洋料理で知られた魁養軒は業態の大転換をした。その広告です。店主は鈴木サキという女性だったことは近火見舞い御礼広告からわかります。さらに広告を見ていくと明治30年に湖月という料理店になり同(3)でわかるように37年に鈴木がカムバックして仕出し店を経営したことになります。
 豊平館魁養軒とは反対に魁養軒すゝ木と魁養軒を冠にしているので建物は原田の所有のままと思うのですが、証拠はありません。私はこの少し前に鈴木善之丞こと飯田善之丞とは金銭関係なしという広告を出した鈴木サキとイコールとみてますがね。(107)魁養軒の看板を引き継いだくらいだから、どこかで飲食店を経営していた玄人でしょう。同(4)から原田は新善光寺の檀徒だが、神道にも関係していたことがわかる。
 原田は気前よく寄附した人でした。同(5)にまとめたが、紙面で見付けた最高額は北鳴学校創設のための100円。このほかにもあちこちに寄附したと思いますよ。Bは大津事件と呼ばれるロシア皇太子傷害事件のお詫び行動費の寄附です。
 (6)Dは資料その23(8)で旧店と呼んだ魁養軒壽々喜のことですね。明治27年まで玉突きと和食で営業していたのですが、30年に料亭湖月に売った。広告は大通西3丁目だが、記事ではちゃんと西2丁目とあるので、これは誤植だね。また「今度の家は以前の家と事替り座敷も広く総ての事に都合よければ同店にては軽便に大人数の宴会を引き受ると云ふ(108)」とあるので、湖月は座敷を拡げるため玉突き台は大通西3にあった西洋料理の宝亭に譲ったらしい。同じ年の2月に宝亭で札幌玉突大会が開かれ、28人が参加した(109)という記事がありますからね。ここで魁養軒イコール豊平館だけになったので少し値上げしたとみられます。
 同(7)は定山渓に温泉旅館を建てる札幌の有力財界人の計画に原田も加わったことがわかります。このあと間もなく旅館の名前が決まったのですが、ジンパ学と離れるのでその先は調べてません。同(8)は豊平館の原田コックはおとなしい人と聞いただけで書いたような作文で人物評論なんてもんじゃないね。

資料その26

(1)
第7次札幌共同競馬会報告

 特別会員
一金拾弐円  原田伝弥@

札幌遠乗會広告
來十日即第二日曜札幌遠乗會第一回ヲ石狩ニ催
ス仍テ午前七時大通西三丁目火除場ニ集合セラ
レタシ但当日雨天ナレバ第三日曜ニ順延ス
  五月六日    札幌遠乗會A

○競馬の準備 札幌共同競馬会員家村、堀内の
諸氏は來る六月の競馬の準備として新馬を購入
し乗り馴らし居るよしは先きに記載せしが尚ほ
小谷熊造、黒柳喜三郎、工藤七之助、佐藤三之助
、原田伝弥の諸氏も同会には是非とも新馬を出
場せしめんとて目下頻りに準備中なりとB

○第一回札幌遠會の概況 <略>C

○札幌共同競馬会初日の模様 札幌共同競馬会
は一昨十五日予期の如く中嶋遊園地の競馬場に
於て執行せり<略>然るに此競馬には
原田伝弥氏の持馬谷昇も出づる筈なりしか同氏
の馬丁は開函後に於て投票を為したるを以て仝
会規則に違反と其組合競走を許されざりしは参
観者に取り気の毒なれとも又た原田氏の遺憾さ
こそと察せらる<略>杉浦貞之丞氏
が乗れる本田氏の総角勝を占め原田伝弥氏寄贈
の賞典を受く<略>D

○札幌共同競馬会 <略>第二競馬は原田傳弥氏の(谷昇)<略>五頭なりしが馬場半にして(一)は倒れ(谷昇)八十三度半の速着にて賞金十三円を受けたり<略>
第七競馬は(春風)(谷昇)(総角)の三頭にて杉浦氏の乗りたる原田氏の持馬谷昇は八十一度の先着にてて賞金十七円を得たり<略>E

○札幌共同競馬会 <略>第二は原田氏の(谷昇)西田氏の(夕顔)■■氏の(一)三頭にて旗手東風旗揚り違へしより夕顔の騎手蛯子氏は躊躇せしうちに他の二頭は一斉に駆出し終に八十一秒二分の一にて(谷昇)が勝を占め賞金十五円を得たり<略>
第五は原田氏の(谷昇)が八十一秒にて勝ち<略>
第八は前回の反対にして即ち当会にて一等の賞を得たる所の勝馬即ち(谷昇)(風船)(夕顔)(北洋)(北門)(走帆)の六頭を競走せしめたるが原田氏の(谷昇)は出遅れ<略>F

○有志臨時競馬会 當区の原田伝弥、対馬嘉三
郎、槇鍛其の他二三の諸氏が発起となり來る二十
日中嶋遊園地に於て札幌有志臨時大競馬會を催
ふさるゝよし其當日は競馬場にて楽隊の奏楽及
ひ花火の打揚けありとかいへば一層の賑はひを添
ふるならん又た右へ出馬望みの人は來る十六日
中に南一條西四丁目丸吉印小谷熊造氏方にて馬
体の検査を受け投票する都合なりと云へりG

    注意広告
本年は例年の如く當会場入口に於て入場券なるも
のを売捌かず単に寄附者に向つて招待券を発する
のみなれば競馬を見んと欲するの諸君は前以て寄
附御申込被下度其申込所は左の如し
     南一條西四丁目 菅井貞輔
     大通西二丁目  原田伝弥
     南二條西二丁目 黒柳喜三郎
  <略>
 明治二十九年七月
        札幌共同競馬会H

○競馬会役員の更迭  札幌共同競馬会々頭南部
源蔵仝副会頭新田織之助仝会計原田伝弥の三氏今
回辞任せられたるに付仝役員諸氏は一昨廿七日の
夜小谷熊造氏方に会合協議会を開き右承認するこ
とに決して直に補欠選挙を行ひたるに多数を以て
本郷嘉之助氏会頭に小谷熊造氏副会頭に菅井貞助
氏会計専務に當選し各承諾を得たるを以て仝会は
前会頭以下に謝状を贈る事となし午後十一時頃散
会したりとI


(2)             (3)
      
  (明治24年6月13日付     (明治37年9月10日付
  北海道毎日新聞3面=原本)    北海タイムス6面=原本)

一開店以来日猶淺キニモ拘ハラス各位ノ御愛顧
ヲ蒙リ日ニ月ニ繁栄ニ赴キ候條難有奉存候ソシ
テ此度新ニ東京表ヨリ精巧熟練ノ料理人雇ヒ入
レ申候ニ付寿し並どぜうなべ 新
       ニ      規
調理可仕候間倍旧続々御光來御試シ被下度幾重
ニモ御願申上候敬白
           大通西二丁目
 六月十二日   魁養軒  すゝ木
(明治24年6月13日付北海道毎日新聞3面=原本、)

  転居広告
一和洋御料理仕出し 是迄南三絛西四丁目ニ於テ営業致居候處今
般都合ニ依リ左ノ肩書之處ニ転居仕候間不相
変御引立ノ程只管願上候也
大通西二丁目八番地
■<屋号、丸の中に井>洋物店裏ノ角  鈴木サキ
(明治37年9月10日付北海タイムス6面=原本)

(4)
○千家管長を饗応す  札幌区の重立谷七太郎
対馬嘉三郎、富益頼道、林悦郎、村岡治右工門、南
部源蔵、石田篤三鄭、岡田左助、新田織之助、後藤半
七、中野四郎、原田伝彌、前野長発、村上祐、阿部宇
之八の諸氏は今回北海道巡教の爲め滞札中の出
雲大社教管長千家尊愛随行員長谷川静義の両氏
を昨十二日正午豊平舘に招待し洋食の饗応をなせ
しと


(5)
○火災義捐 ●金弐拾円谷吉三<略>●金三円 淺羽清、原田傳弥<略>@

○札幌女学校へ寄附 今回設立になる札幌女学校新
設費の内へ寄附したる人名及ひ金高は左の如し
 金百五十円 対馬嘉三郎<略>金二十圓 原田伝弥A

○御慰問費寄附金第四回報告
一金五圓也 札幌 原田傳彌<略>B これが不明

○永代奉納代々神楽寄附金連名左之通発発起札幌神社崇敬講●金参拾圓谷七太郎<略> ●金弐圓原田伝弥<略>C

○北鳴学校 寄附金額及寄附者姓名
<略>一金百圓 原田傳彌D

○めぐみ金  石狩の薄命者藤本才一郎へ又々當
区大通り原田伝弥氏より金五十銭を恵まるE

○消防組へ寄贈の金品  去る十日に於ける當区
消防組出初式に際し其祝として札幌警察署及び各
有志諸氏より寄贈したる金品尠からざるが其重
なるものは金二十圓宛札幌警察署北海道炭鉱会
社、金十圓電燈社、仝上並に手拭五十本田中以
曾、金八圓宛原田伝弥<略>F

○農学校遊戯会の寄附者  去る十九日農学校に
於る遊戯会の模様は已に報せし如くなるが今同会
に金品を寄附したるは前野長発<略>原田伝弥<略>G

○赤十字記事  一昨十八日午後一時ヨリ札幌区
外九郡の仝社正社員等當区豊平館に集会し席上
鈴木副長の演説うありたる一班は別項所載の如くな
るか仝日同社年醵金を一時に出金し加盟申込しは
(札幌区)森本義質、渡辺信四郎、原田伝弥<略>H

 第一回招魂祭典費寄附人名
一金百圓 偕行社永山武四郎外二十八名<略>一金弐圓川崎ソメ<略>原田伝弥<略>       札幌招魂例祭事務所I

●梵鐘鋳造寄附募集広告
<略>
  豊平山回向院順正寺住職
 明治廿九年五月 発起人  吉水順正
    世話人(イロハ順)
  伊藤辰造   岩間覚之助
  原田伝弥   <略>J

○師団新設祝賀花火の寄附  <略>
 金五圓 吉田善太郎  金五圓 森源蔵  金二圓 谷七太郎   仝   林頼三  仝   原田伝弥<略>K

○寄附金  今度當区北三條西一丁目創成河畔へ
公立消防第五部信号所設置につき左の寄附金あり
たりとぞ
金五十圓北海道製麻株式会社、金三十圓札幌麦
酒株式会社、金廿五圓合名会社大倉組出張所、金
二十圓大竹敬助、金十五圓稲川直養、金十五圓原
田伝弥<略>L

○寄贈金品 札幌区南二条西一丁目十一番地後藤伝七氏は清酒六樽を北一条西一丁目原田伝弥氏は金六円を何れも昨日出初式の公立札幌消防六組へ祝儀として寄贈したき旨其筋へ届出たりM


(6)
   近火御礼
昨夜近火ノ節御見舞被下候諸君ヘ乍略新聞紙
ヲ以テ御礼申上候
        大通西二丁目魁養軒
  四月二日     鈴木サキ@

 謝近火見舞御礼
    札幌区大通西二丁目八番地
       魁養軒 原田伝弥A


舶來最上等玉臺新着     尊客様方の御愛顧を蒙り日増に繁榮の段奉
    米利堅形石盤臺   鳴謝候就ては新年御遊樂の為め今般新たに
 玉突 佛蘭西形石盤臺   舶来最上等メリケン形石盤臺を取寄せ玉場
 玉場増築落成       も増築仕候間御誘合御來車御引立の程奉願
              上候
                大通西二丁目
                  魁養軒    壽々喜B

謝近火御見舞
    大通西二丁目八番地
        鈴木さきC

移転並開業御披露
新玉の年の始の御慶芽出度祝ひ納候扨て弊店儀昨
年迄當区成田山境内に在つで割烹営業罷在各々様
の御引立を以て日増に繁昌致し居り候折柄都合あ
りて一時休業罷在候處此度當区大通西二丁目八番
地元魁養軒跡へ引移り來る十二日より開業料理は
風味を第一とし各種の宴會は総てお手軽軽便を主
とし殊に出前は迅速を主として調進可仕候間倍旧
の御愛顧御引立を以て當日より賑々しく御光來被
成下度伏して奉希上候謹言
明治卅年  大通西三丁目 湖月D
一月九日


 ●西洋料理直上広告
各位益御清栄奉賀上候陳者弊軒義開業以来数十年
間各位の特別御引立を以て営業日増に繁昌致し誠
に以て難有爰に御厚禮申上候就ては是迄の各位の
御愛顧に酬ひる為め此際一層直段を引下げ料理調
進可仕筈には有之候得共如何せん昨今の諸物価高
直強て直段を安からしめんとせは勢ひ料理調進方
甚た粗末ならざるを得ず其実際に於て為し得べか
らざる義に付止なく今日より直段を引上是迄通例
上等と称するものは御一人前金一圓又並等と称す
るものは金七十五銭となし原料を精撰し佳味を専
一に完全なる料理調進可仕候間何卒相替らせず御
愛顧御引立被成下度尤も右は当分にして原料少し
にても下落候節は其程度に応じて直に直下げ取計
可申尚料理の義は是迄の通り何品にても御好に従
ひ速に調進可仕候間続々御注文被成下度此段謹告
仕候也

明治卅年二月十七日  札幌豊平館内
     魁養軒主   原田傳弥E


(7)
○定山渓旅館の建設  札幌郡平岸村字定山渓の
温泉は彼の豆州熱海の温泉と同質にして効験殊に
炳著なるも是迄完全の旅館なく為めに病者も壮者
も安く宿りを求めて療養もならざりしより自然不
振の姿にてありたるか兼て記載せし如く當区の谷
七太郎今井藤七岡田佐助新田織之助本郷嘉之助伊
藤辰造対馬嘉三郎南部源蔵富益頼道原田伝弥山本
壮之助三田村多仲土屋轍村岡治右衛門後藤半七加
藤政敏東清九郎高瀬和三郎菅井貞輔石川金次郎の
二十氏相謀り今回一の共算組合を組織し資本を金
三千六百円となし旅館浴室を建設し大に浴客の便
利を斗る由にて該事業は遅くも本月末には着手す
るの筈なれは之か建築委員に撰定せられたる新
田織之助伊藤辰造南部源蔵原田伝弥の四氏は請負
人同道來る十八日頃彼の地に趣くと云ふ


(8)
◎原田伝彌氏
札幌に在て縉紳の間に知られたる有名の西洋料理店豊平館主にして人と
為り温順、洒々潚々たる意想に富むを以て人に知られ顧客常に門に絶へ
ず、氏は斯道の達手にして能く泰西の俎法に通じ洋通をして垂涎置く難
はざらしむと云ふ、粋名を江湖に走せて豊平館の称北海に高し矣、又以
て主人の徳望敏腕なるを知るに足る。

  

参考文献
上記(102)の出典は明治23年3月6日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 (103)と(104)は同24年5月14日付同*面=札幌市公文書館新聞スクラップ、 (105)は同年8月5日と同月6日付同*面、同、 (106)は同年5月18日付同4面=マイクロフィルム、 (107)は同年2月20日付同4面、同、 (108)は同30年1月10日付同*面、同、 (109)は同年2月17日付同4面、同 (106)は明治30年1月10日付北海道毎日新聞6面、マイクロフイルム、 資料その26(1)は@明治22年9月29日付同4面、同、 A同24年5月7日付同4面、同、 B同年5月9日付同2面、同、 C同年同月12日付同、同、 D同年6月17日付同、同、 E同年8月5日付同、同、 F同年同月6日付同、同、 G同年同月12日付同、同、 H明治29年5月12日同、同、 I明治31年5月29日付同1面、同、 同(2)は明治24年6月13日付北海道毎日新聞3面、同、 同(4)は同25年10月13日付同、同、 同(3)は明治37年9月10日付北海タイムス6面、同、 同(5)は@明治20年6月21日付北海新聞2面=マイクロフィルム、 A同22年6月8日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 B明治24年5月*日付同、同、 C同24年3月13日付同4面、同、 D明治25年1月までの寄附で北鳴學校紀事編纂発起人編「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」110ページ、明治28年3月、北鳴學校紀事編纂発起人=原本、 E同26年1月29日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 F同27年1月13日付同1面、同、 G同27年5月23日付同2面、同、 H同27年11月18日付同*面=札幌市公文書館新聞スクラップ、 I同28年7月21日付同2面、同、 J同29年5月5日付同*面、同、 K同年11月26日付同*面、同、 L同30年3月30日付同*面、同、 M同32年1月8日付同6面、同、 同(6)は@同25年4月3日付同3面=マイクロフィルム、 A同年同月同日付同4面、同、 B同27年1月5日付同4面、同、 C同年5月23日付同4面、同、 D同30年1月10日付同6面、同、 E同年2月17日付同4面、同 同(75)は同29年6月13日付同*面=札幌市公文書館新聞スクラップ、 同(8は吉田南総著「北海人物評論 第壱編」61ページ、明治34年9月、北海人物評論社=近デジ本

 原田の魁養軒はいつまで続いたのか。杉山正次氏の口述によると「伝弥氏の息子さんは日露の役で戦死し、その後幾莫もなく伝弥氏も没した。その後を承けて石垣氏が五年間、その時のチーフはわからない。大正三年頃から金沢氏が経営した。」です。これはね、杉山氏が「北海道西洋料理沿革史」のために「札幌豊平館略史」として「第一章 所属司厨士小伝」と「第二章 経営者小伝」の途中まで書いたのですが、編集者の日吉良一さんが待ちきれず「印刷の都合でこれ以上時日の遷引を免されないのでそのまま頂戴した。以下同氏のお話を基に編者が綴る」と断って、聞き書きした話なのです。(1110)
 この杉山証言を元に日吉さんは1年後に出た「北海道地方洋食史(1)」に原田は「不幸にも一人息子を日露役で失い、次いで自分も明治42年頃病没した。<略>原田の死により経営者は石垣、大正5年金沢、大正8年杉山菊次郎と移つて行つたが、…」と書いた。(111)つまり、わからんということだね。
 こうなれば原田死去の記事か葬儀広告が出ていることを期待してマイクロフィルムの北海タイムスを読むしかない。このころの人は、いまのSNSみたいに広告を気安く使っている。例えば東京から戻った、禁酒した、転居したなど、ちょいちょい載っています。ただ小さく1回こっきりということもあるし、日焼けで黄ばんだ紙面を撮ったため画像が真っ暗だったりで、とにかくマウスを握る右手と目が疲れる。片目が真っ赤になったので診てもらったら、発病原因は不明とされる結膜下出血で治療法なし、自然に薄れるのを待つしか無い、3カ月したらまたおいでといわれたり。でも苦労の甲斐がありました。
 先ず玄吉という子供がいたとわかった。明治31年6月に「○茶舗開業 當区豊平館原田伝弥氏の倅原田玄吉氏は今度南一條西三丁目八番地へ新に茶舗を出し今二日より開店向ふ三日間大売り出しを為すに付景物を出すと云ふ(112)」という記事がありました。資料その27(1)がその開店お披露目の広告です。
 同(2)は明治35年の北海道毎日元旦号に載った原田の年賀広告です。左端の小さい文字列は「右ハ特別吟味シ御注文次第配達可仕候(113)」注文があれば西洋料理も配達します―です。同(3)はその年の8月2日に亡くなった原田の葬儀の知らせです。杉山説は7年も違うなんて余計なことは言いませんよ。ありがたや、ありがたや―です。文面は「原田傳彌 病気之處養生不相叶終ニ去ル二日午後第一時三十分死去致シ候ニ付來ル七日午後第二時豊平館出棺新善光寺ニ於テ葬儀執行仕候間此段辱知各位ニ謹告仕候 造花放鳥等御寄贈之儀ハ遺言ニ依堅ク御断申上候 明治三十五年八月 妻原田スミ 外親戚一同(114)」で、當時の広告スタイル通り享年と死因はなし、また有名人なのに死亡記事も見つかりませんでした。
 それからまた玄吉さん。父親と違う道を選んだ玄吉さんは日露戦争が始まってすぐの明治37年2月に出征(115)して、翌38年3月4日、奉天附近の戦闘で戦死(116)した。杉山説の「日露戦争で戦死」した息子さんが、この人なんですね。20歳から兵役3年、予備役4年(117)でしたから除隊後コックにならず茶舗を開いた仮定すると、28歳で亡くなったことになります。近衛兵は「全国の壮丁中より特に其の家庭・財産・教育及び体質の四者完備せる者を選抜採用する(118)」ので、儀仗部隊としてルックスが大事な騎兵に選ばれた玄吉さんはいまでいうイケメンだったはずです。
 遺骨は「●原田上等兵の遺骨到着 當区出身の戦死近衛騎兵上等兵原田玄吉氏の遺骨は近衛歩兵曹長松本氏特に護送し一昨廿三日の夜當区役所に到来せるを以て同役所にては今廿五日午前十時右遺骨を遺族に引渡す筈なりと(119)」という記事はありますが、記事も葬儀広告も見当たらない。家の名誉と戦死者の葬儀広告が出ているのですが、玄吉さん関係は何もないので、ひっそり遺族だけで営まれたのでしょう。

資料その27

            (1)
   

     (2)            (3)
       

  

参考文献
上記(110)の出典は日吉良一編「北海道西洋料理沿革史」130ページ、杉山正次「札幌豊平館略史」より、昭和37年8月、全日本司厨士協会北海道本部(非売品)=原本、(111)は北海道地方史研究会編「北海道地方史研究」48号16ページ、日吉良一「北海道地方洋食史(1)」より、昭和38年10月、北海道地方史研究会=原本、 (112)と資料その27(1)は明治31年6月2日付北海タイムス2面=マイクロフィルム、 (113)と資料その27(2)は同35年1月1日付同6面、同、 (114)は資料その27(3)は同年8月5日付同6面、同、 (115)は同37年2月7日付同2面、同、 (116)は同38年3月31日付同3面、同、 (119)は同年4月25日付同5面、同、 (117)は足立栗園著「修身教訓 学生と軍人」34ページ、明治35年4月、積善館=近デジ本、 (118)は帝国聯隊史刊行会編「近衛歩兵第三聯隊史」5ページ、大正6年10月、帝国聯隊史刊行会、同、

 原田家は葬儀の広告を8月5日から3日間、終わってからの会葬お礼の広告を2日続けた。合わせて5回も葬儀広告を出すなんて、なかなかありませんよ。
 はい、資料その28(1)を見なさい。2回目の翌9日は「故原田傳彌 葬送之節ハ酷暑ノ折柄ニモ拘ハラス遠路御会葬被成下御厚意ノ段奉深謝候取込中尊名伺洩モ可之有候ニ付紙上ヲ以テ此段御礼申上候 謹言 明治三十五年八月八日 妻原田スミ 外親戚一同(120)」という文面の会葬お礼広告と並べて営業再開の広告も出した。原田が磨いた魁養軒の塩梅を守り続けるという意気を示すものですね。
 同(2)は原田が亡くなった翌年、36年の北タイ元旦号の年賀欠礼の広告(121)です。はい、豊平館内として原田スミ名義、つまり魁養軒主人ということですね。下の同(3)は同年4月26日の夜に北1條東1丁目の空き家から起きた火事で北海道毎日に出た見舞お礼広告の一部です。豊平館は無事だったのでおスミさんとしては近火見舞ですが、矢印Aの料理屋、楊柳亭は同じブロックで焼けたため経営者とみられる石垣道直は類焼見舞とし、同時に楊柳亭の営業を続けると矢印Bの広告も出した。
 矢印の色が私が思ったより地味で見にくいが、我慢して下さい。「営業休止セサル廣告」というこの文面は「弊亭今回の近火に際し勝手向きは類焼に相罹り候得共御手傳被下候御尽力の幸福に拠り座敷廻及庭園樹木は総て無事にて御來客様方の御取扱には諸事差支無御座候に付営業は休止不仕候間旧に倍し御宴會等御用向き被仰付度此段謹告仕候 敬具 北一條東一丁目角 即席料理 楊柳亭(電話三百〇二番)(122)」です。でも調理場かどこかが焼けたらしく4月30日迄休んだ(123)ことがこの後の広告でわかります。

資料その28

        (1)               (2)
     

             (3)
 

  

参考文献
上記資料その27(1)と(120)の出典は明治35年8月9日付北海タイムス6面=マイクロフィルム、 同(2)と(121)は同36年1月1日付同20面、同、 同(3)と(122)は同年4月28日付同6面、同、 (123)は同4月30日付同6面、同

 いまさっきいった日吉説で原田の次の石垣とは、この楊柳亭の石垣なんだが、その引き継ぎ時期に触れていない。次のスライドです。この「西洋御料理大勉強」という記事中の広告が6月末に3回現れた。年賀以外は広告を出さなかったのに、西洋料理の原田ときたら豊平館とわかるだろうといわんばかりです。勉強というからには値下げですよね。だから私は石垣がバトンを受け、まずは原田として動き出したサインとみました。

         
(明治36年6月25日付北海タイムス3面=マイクロフィルム、)

 それから直ぐの7月8日、豊平館に泊まっていたドイツ人が暴れて逮捕されたという記事が出た。それには石垣が豊平館の監督、依田友三郎という人物が営業主となっているので、経営交代はもう少し前だったかも知れません。
 その記事のあらましはね、突然殴られた豊平館のボーイが抗議したらドイツ人は「憤然自分の部屋に駈け入り拳銃を携へ來り的なく二発までも発砲したれば同館監督石垣氏は大に怒り彼に迫りて拳銃を取上げ漸く其日は取鎮めたれど爾来彼は昼夜の別なく大聲を発し或は絶叫」するので警戒していたら、7月6日も暴れて「同館営業主依田友三郎を殴打せんとするより下コツクの三浦某是を支へんとし遂に硝子瓶を以て前歯数枚を打ち折られた」うえ、逮捕しようした巡査にも怪我させた(124)というのです。
 名前は聞き漏らした道立文書館の書類によれば、石垣道直は嘉永3年生まれ、元開拓使会計課の役人、明治14年豊平館が完成したとき3つ年上の兄道吉と豊平館の看守に任命された。開拓使が廃止になり、明治18年には札幌県会計課に勤めていた。このとき道直の住所はは北1東1(125)でした。つまり楊柳亭と同じブロックに住んでいたのですね。
 楊柳亭は茶道に凝った野村福秀氏が明治20年に「古風なる茶座敷を新築」して始めた。「売茶(茶の湯兼会席)を開業<略>會席ハ一客金五十銭内外にて好に任すと云ひ薄茶ハ菓子付にて一客金拾銭位の概定なりとて巳に広告案も出来たと云へば不日開業あるべしとて茶道に熱心の方々が今より待ち居ると云ふ大評判(126)」と函館新聞が取り上げています。
 しかし、お茶と懐石料理では採算がとれなかったか結婚式などに座敷を貸し(127)たり、明治28年には鮨の出前も始めています。(128)多分帳尻が合わなかったりして、会計に明るい近所の石垣が手伝うようになり、遂には経営全体を委されたかそっくり譲られたのでしょう。同34年の電話帳のイ之部に「(追加)三百二番 石垣道直 楊柳亭 北一、東一、四 料理屋」、ヨ之部に「(追加)三百二番 楊柳亭 石垣道直 北一、東一、四 料理業(129)」となっています。
 新聞記者に限らず明治の人たちは花柳界の話題が好きで、北タイもせっせと書いています。その1つですが、明治36年暮れに「花柳の噂」として幾さんという男と藝者の奴の話が載っています。幾さんの本名はわかりませんが、南2西5の宮前九平の娘婿だったのに奴と仲良くなり、宮前家を飛び出した。(130)宮前は掘井戸営業として「札幌繁栄図録」に屋敷の絵(131)が載っている金持ちでした。
 奴も本名はわかりませんが、36年の町見番の年賀広告の藝者54人の中にその名があり(132)、父親は「南二條西二丁目に喜楽亭とて料理屋を営み居りし(133)」男というのです。
 幾さんと娘のためとこの際、自分も一旗揚げようと、北2東3の醸造業で金持ちの対馬嘉三郎が親類だったので「対馬氏の所有なる元の偕楽園今の楊柳亭を引受けんと先づ対馬氏の支配人を口説落して咄嗟に楊柳亭に立退を命ずることゝ相成申し候、寝耳に水の不意打を食ひたる楊柳亭は周章狼狽すること一方ならず差詰立退くべき所も無きまゝ兎やせん角やと思案の末マゝよ三度笠横ちよに冠り暫らく浮世を忍ぶに如くはなしコゝに豊平舘の料理番に化け候、首尾よく偕楽園を乗取りたる幾さん及び奴拍子は萬歳を三唱して凱歌を奏し候(134)」と記事にあります。
 この「花柳の噂」の裏付けを探すと、まずこの年の8月に楊柳亭が偕楽園に移転するという広告が出ています。スライドで見せましょう。水辺で涼しいから夏の集会にはいいよと呼び掛けています。「花柳の噂」で偕楽園から追い出された楊柳亭とは石垣個人を指すとみれば、幾さん一味の仕業かどうかわからないが、石垣が対馬から建物を借りて楊柳亭を移転させた後、手放さざるを得ない事態が起きたんですね。

         
(明治36年8月1日付北海タイムス6面=マイクロフィルム)

 はい、次のスライド。わがクラーク会館の後ろの道路の南側の清華亭のあたりは偕楽園と呼ばれ、ちょっとした池があり、それに面して偕楽亭があったのです。石垣の楊柳亭が入ったのはこの建物でしょう。

      
(明治24年6月21日付北海道毎日新聞1面「札幌案内 第九」より=マイクロフィルム)

 石垣がドイツ人が暴れたとき豊平館に居合わせたのは、偕楽園に引っ越す前の楊柳亭からときどき監督にきていたからであり、魁養軒に専念するようになったのは、楊柳亭を失ってからでしょう。
 資料その29(1)は原田夫人の葬儀広告。當時の通例からすれば喪主は男がなるべきところですが、長女ミヨですから、玄吉さんは独り息子だったのですね。依田友三郎はドイツ人乱暴事件でわかるように豊平館の運営に加わっていたからでしょうが、明治44年の「札幌商工人名録」では南3西4に住む古道具商(135)となっています。
 伊藤辰造は、どういうつながりなのかはわかりませんが、大通西2丁目で親戚同様の付き合いだったということかも知れません。さっぽろ文庫の「札幌人名事典」では「嘉永3・9〜没年不詳」となっていますが、大正4年11月14日、糖尿病がもとで65歳で亡くなりました。(136)

資料その29

          (1)            (2)
      

 石垣は豊平館の初代看守だったからね、原田が豊平館を初めて拝借したときからの付き合いですし住まいも近い。石垣も楊柳亭を手掛けて経営者同士になったことからより話が合うようになり、いずれ魁養軒の跡を継いでくれと頼んだことが考えられます。それで原田の1周忌までおスミさんが頑張り、石垣と交代した。
 そして資料その29(2)の年賀広告が示すように明治37年の豊平館魁養軒の代表者は石垣だとはっきり名乗り出た。2行目の先頭の字がかすれているが「一層相働候間前同様御引立」と読めば、私は魁養軒に移ったけれど以前の楊柳亭のときと同じようにお願いします―であり、原田の時代は明治36年で終ったといえるでしょう。私もこれで終ります。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(124)の出典は明治36年7月8日付北海タイムス3面=マイクロフィルム、 (125)は道公文書簿書・件番号不詳、 (126)は明治20年3月29日付函館新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (127)は同26年9月14日付北海タイムス*面=札幌市公文書館新聞スクラップ、 (128)は同28年7月21日付同*面、同、 (129)は札幌電話交換局編「電話番号簿」1ページの前に追加した追加したページのため番号なし、明治34年3月、札幌電話交換局=原本、 (130)と(132)は明治36年12月12日付北海タイムス3面=マイクロフィルム、 (131)は高崎龍太郎編「札幌繁栄図録」11丁裏、明治20年5月、高崎龍太郎=近デジ本、 (133)は明治36年1月1日付北海タイムス6面=マイクロフィルム、 (134)は同年12月13日付同3面、同、 (135)は細川碧編「札幌商工人名録」67ページ、明治44年10月、札幌商業会議所=近デジ本、 資料その29(1)は同41年9月30日付北海タイムス7面=マイクロフィルム、 同(2)は同37年1月1日付同3面、同、 (136)は大正4年11月16日付北海タイムス3面=マイクロフィルム