魁養軒の開業と山オットセイ

 はい、始めますよ。私は現場主義のジンパ学とうたって、この講義をやってきました。それだけに現場、つまり図書館にいって資料調べに時間をかけます。その甲斐あって西洋料理店魁養軒の続きで大きな収穫があったんですよ。きょうはまず資料を配り、その話から始めます。どんどん後ろへ回す。
 前回、コックの原田伝弥が明治12年、札幌農学校のペンハロー教授に雇われて東京から札幌にやってきたと話しました。デビッド・ピー・ペンハローは北海道志の巻15に駝宇伊津津度比弁波郎と書かれているのには驚きますが、とにかく年俸金貨2500円を受け取っていましたから、コックぐらい自前で雇えるんですね。ちなみにクラーク先生はもう500円高い3000円の高給取りでした。そりゃどうでも宜しい。これまでの札幌の歴史では、原田伝弥が西洋料理店を開いたのは明治14年とされてきたけれども、疑問があると前回の講義でいいました。
 だれも原田が明治14年に魁養軒を開いたという証拠を示していないのです。それで私は何かないかと、赤レンガの道立文書館に保存されている第20号から40号まで飛び飛び12枚の札幌新聞を見せてもらいました。
 明治13年6月16日、札幌で初めて創刊された新聞、札幌新聞の第1号が出た。毎週水曜発行、和綴じの本のような週刊紙でした。21号からでしたかな、ちょっと怪しいのですが、後で函館新聞などと同じスタイルの4ページに変わるんですよ。文書館のはそうなってからの紙面です。
 わが札幌農学校の先生たちが主力だった札幌史學會が明治30年に出した「札幌沿革史」によると「当時新聞を購読する人多からず、営業利潤なきを以て二十五号にて廃刊せしは惜しむべし」とあるんですがね、どっこいもう少し長く続いた。現物を読んだはずの先輩たちはどうして早とちりしたんでしょうかね。このミスは「札幌市史 文化社会編」(昭和33年刊行)にも引き継がれていて、こちらも25号までとしているのです。
 文書館所蔵のは皮肉にも22号以降ばかりでしてね、40号まで飛び飛びながら全部で12号分が保存されているんですよ。
 いまの新聞は毎日朝夕刊があるから配達少年が入り用なのであって、週一で、しかも読者が散在していたので戸別配達なんか無理です。郵送していた。札幌新聞の保存紙面のところどころに当時の1銭切手の剥がし残りがくっついたまま残っているんです。この1銭切手の切れっ端は、札幌新聞だけでなく、道庁が出していた初期の殖民公報にも付いていますから、郵送料に新聞と雑誌の区別がなかったのかも知れません。その22号の記事、資料その1を読んでください。

資料その1

明治13年11月10日付札幌新聞第22号
○檜山通藻岩学校建築費の内へ北後志通長谷川節三外九名より左の通り寄付金されたり 金十圓長谷川節三金五圓原田伝弥金二圓宛阿部仁太郎山本市藏北島久米次郎金壱圓宛港屋金兵衛北川勘次郎大澤勇蔵大村健次郎鈴木源太郎


 この北後志通とは、いまの大通公園を挟む北側通りです。藻岩学校とは南3条西7丁目に建てた小学校で、黒田清隆がロシア視察で見てきた防寒構造を取り入れてログハウスのような建物だったそうです。大通北側に住んでいる住民有志が寄付したらしいのですが、そこに原田が住んでいて五円も出した、出せたという事実はどう解釈すればよいのか。悩ましい問題です。
 いまの時計台の位置は、建設当時のままではないのですが、一帯が農学校の校舎や米人教師の住宅などがあったはずなので、原田がペンハロー宅に近い大通沿いのどこかに住んでいてもおかしくはありません。13年秋という時期に寄付金を出せる懐具合とみられて住民有志から誘われたか、新たな住人として名刺代わりに5円を差し出したかまでは、この記事だけでは判断できません。
 それで文書館の方に札幌新聞は、もうこの外に札幌新聞は存在しないのだろうかと伺いましたら、印刷された資料を調べて道立図書館にもあると教えてくれました。
 道立図書館は江別市大麻にありますから、往復にちょっと時間が掛かります。それで、北大図書館でに切れっ端でもないかと検索しましたら、何と北方資料データベースに「明治十三年の札幌新聞」という資料があったんですね。灯台もと暗しです。
 北海道文化資料保存協会という団体が「北海道稀覯史料集成第4集」として昭和34年5月に非売品で配布した薄い本でした。ガリ版刷りで限定200部と書いてありました。見ましたら札幌新聞の1号から6号までと19号と20号の記事のうち雑報と呼ばれるものを書き出したものでした。その中に魁養軒開業の記事があったんですよ。はい、それを見せましょう。いま配った資料の2番目がそれです。はい、現場主義の成果ですよ。

資料その2

明治13年6月30日付札幌新聞第3号 
○広告にもある通り魁養軒の開業式に請待せられしは官員方を始め軒主辱知の諸君にて西洋料理の宴を開き大に歓を尽され中々盛んな事でありき遊戯の玉衝臺はお雇教師トン氏のもと所持せられし美麗の品にて事に座中の飾りも余程注意を加へられたれは追々繁昌致しま志よう

 魁養軒の開業は、これで明治13年6月ごろに決まりですよね。札幌区史の12年でもなく、日吉さん、矢島さんらの14年でもない。その中間の明治13年だったのです。開業はそれでいいとしても、またしても、この記事には札幌で初めての西洋料理店ということを強調していませんね。
 なぜ「官員方を始め軒主辱知の諸君」だったのでしょうか。辱知とは広辞苑第2版によれば「知を辱(かたじけなくするの意)その人と知合いであることの謙譲語」とあります。明治17年に出た北海道志は札幌の人口が約1万4000人といまなら合併必至の村クラス、函館の半分以下であることを示しています。
 ですから、まあ、顔見知りになりやすかったにせよ、札幌農学校で働いてきた原田がどうして官員の方々と知り合いだったのか。店こそ構えていなかったが、もっと前から開拓使御用達の西洋料理の仕出しのようなアルバイトをしていて、顔が広かったことが考えられますね。そうでなければ、いくら官員が威張っていたにせよ、初めて行く店のお披露目で「大に歓を尽」しにくいでしょう。
 こうなれば、ぜひその広告を見なければなりません。また、史料集成の記事は句読点が入っておりました。明治初期の新聞に句読点がないのが普通ですから、その点の確認も必要です。末尾が「しませう」でなく「しましよう」なのも怪しい。
 惜しむらくは、この記事はどこに保存されている紙面を基にしたとは書いていないのです。道立図書館の所蔵資料目録には1号から6号までと19号と20号のマイクロフィルムがあると載っていましてね、書き出した号がそれと一致していますので道立図書館の紙面から抽出したと推察しました。
 それで大麻にいってみました。大当たりだったのです。道立図書館のホームページでは、PDFで所蔵新聞目録が見られるようになっています。平成14年末現在の調べで、まだ不完全であると断っていますが、本当に不完全でして、札幌新聞はその中に入っていないんです。でも、ちゃんとマイクロフィルムはありまして、私は第3号の広告を見れば用が足りるのですが、なんとなんと札幌新聞は1号から20号まで収められていたのです。
 昭和50年代に当別町教育委員会が持っていた実物を道立図書館が撮影したものと聞きましたが、とにかく大助かり。明治13年の札幌の様子がかなりわかるのです。いま示した資料その2の文体はフィルムの記事通りに句読点を取り去り、漢字は常用漢字、変体仮名は末尾は「しましよう」の「志」だけを残して、普通の平仮名に書き換えたものです。
 記事に現れる「お雇教師トン氏」はエドウィン・ダンでしょう。そのころイナゴの大群が日高などに出現して、作物を食い荒らした。それで「御雇教師ダン氏と八等属岩根精一氏は急ぎ同郡に赴かれたる由」とか、農業仮博覧会の審査員を務める「お雇外国人『エドウイン、タン』」という書き方を記者たちがしておりますし、しばしば濁点をつけない記事スタイルから、タンと書くはずか、トンとトンでもない書き間違いをしたのではないかとね。とにかくお雇い外国人のだれかが札幌に持ってきた玉突き台だった。それで前回示した記事の通り、魁養軒でコツンコツンと玉突きが行われていた理由もわかりました。
 さて、原田伝弥が出した肝心の広告はどうであったか。それが資料の3番目です。

資料その3

弊店義今回物産局御製造品を始め左に掲載有之候品々美味専一に調進仕一層廉価を旨とし且亦御料理之義は御好に応し有合品の内何品にても御望次第御饗応に仕候御食事後の御運動御慰の一端にもならんかと玉衝を備置本月廿三日開店仕候間四方之諸君陸続御愛顧あらんこと奉希候
          札幌区後志通壱番地
 西洋御料理
 同御菓子製造所   魁養軒

物産局   
御製造   麦酒<ビールとルビ>
同  缶詰類 品々
西洋御料理 御好次第
同  遊戯 玉衝<うんどうあそびたまつきとルビ>
同  飾菓子類 品々
フリング菓子類 品々
パイ菓子類  品々
氷製菓子<アイスクリンとルビ>
西洋焼菓子類 品々
食パン
西洋酒類 品々
右之外御好に任せ且亦御料理の義は仕出し等も可仕候


 いわばジンパ学のヒットですからね、広告の割付も見てほしいので紙面をスライドでも見せましょう。いいですね。後ろの人も見えますね。資料の通りであることを確認して下さい。同時にこういう貴重な紙面を残しておいてくれた先人、それをマイクロフィルムに集め、誰でも確かめられるようにしてくれた道立図書館の方々に私は深く感謝し、敬意を表します。皆さんもそう感じませんか。


 これは7月7日付第4号に出した広告です。6月30日発行の第3号の広告には最後の1行に誤植があって「御好に狂せ且亦御料理の…」と、それこそ狂ってしまったので、その次の7月7日発行の第4号では「御好に任せ且亦御料理の…」と訂正して、計2回広告を出しています。事もあろうに出だしを「狂わせ」てしまったのですから原田はカンカン、料金なんか払えるかと怒り、札幌新聞を作った創成社は平謝りしたでしょうね。想像ですよ、これはね。
 それから私は思うんですが、原田は自分の料理より物産局のビールと缶詰を最初に書いている点に注目しなければならないとね。開拓使が売りさばきたい品物を売ったり使ったりアシストする料理店、本命の西洋料理に缶詰を使うなら道産品愛用でいくよ―という仕入れ路線を明確に打ち出した。これによって官員諸君の気持ちをぐっとつかむ。よしよし、贔屓にしてやろうじゃないかとなると思いませんかね。原田はただものではありませんな。なかなかのやり手だ。
 食べたら玉突きで、ゆっくり遊んでいってね。玉突き料金はわかりませんが、明治15年の函館新聞に100突きで幾らという料金で始めたが、今後は30分幾らという料金制に変えるという広告が出ていますから、そういう時間制だったかも知れません。知れませんという想像ですよ。とにかく店経営のコンセプトが時代にぴったり「追々繁昌致し」たわけです。
 これで魁養軒の開業日は明治13年6月23日ということが明確になりました。原田伝弥が控えめな人物であったとしても、広告でも店名以外に札幌の西洋料理店の「魁らしさ」が全く打ち出されていませんね。やはり魁養軒より前に1度、だれかが開業しており、札幌新聞の探訪、いまでいう新聞記者もですよ、原田もそれを知ってたからではないでしょうか。
 私は札幌より先に小樽に西洋料理店があったので、記者はそれが頭にあって札幌で初めてとはやさなかったとも考えています。というはですね、農学校1期生、伊藤一隆の父、平野弥十郎の日記がそれを示唆しているからです。
 平成12年にわが文学部教授だった田中彰先生らOBを含む4人が「平野弥十郎幕末・維新日記」という本を北海道大学図書刊行会から出されました。その明治12年10月の日誌に、小樽駅逓所から手宮までの車道工事が完成したので「同夕此祝宴として、小樽山の上町の西洋料理に於て酒宴に付、安達と我是に招かるゝ、」(同書402ページ)とあるのです。祝宴には開拓使お雇い外国人ジョセフ・クロフォードも出席する関係から西洋料理店が選ばれたと思われるのです。
 弥十郎日記は本人が還暦を過ぎてから子孫のために残そうと清書したもので、原文には、日付も店名もなくただ「同夕」「西洋料理」になっているようですが、田中先生たちは西洋料理店と解釈していますから、そうすれば札幌より1年前の明治12年、モースがきた11年にはなかった西洋料理店が小樽にできていたことになります。となると、前回取り上げた函館新聞の明治12年の札幌における西洋料理店開店の記事は、実は小樽のこの店だった。だから札幌に記録が残っていないと説明が付きますし、まんざら根も葉もない記事でもなかったことになります。小樽を調べて行けば、もっと明確になるでしょうがね。
 魁養軒の開業に戻りますが、なんだ、たった半年の違いじゃないかと思う人がいるかも知れませんが、明治12年だ、14年だとお互いに引用し合ってきた書斎主義では、札幌区史から数えて93年、西洋料理渡来四百年史からでも42年間、それすらも指摘できずにきた事実をどう言い訳するのですか。小樽山の上町の洋食店はどう説明するのですか。インターネット時代だからこそ見つかる資料があり、本気で追いかけたから過去のいい加減な手抜きがこうしてバレるのです。
 広告のフリングとは、今風に発音するとフィリングで、いうなれば餡パンのような詰め物をした菓子です。原田が働き者であったとしても、料理一筋ではなくて、アイスクリームを練り、食パンを焼き、お菓子も並べるとなると容易なことではない。やはり下働きのコックが何人かいたに違いありません。
 明治13年の函館新聞の紙面を丁寧に見ました。札幌新聞創刊は6月25日に報じていましたが、魁養軒は見つかりませんでした。もう函館では西洋料理店は珍しくなかったし、田舎と見下していた札幌の洋食店開店なんか、どうでもよかったからでしょう。
 魁養軒の13年開店が明らかになると、ほかの明治の札幌に関する定説にも少なからず影響します。昭和54年に出たさっぽろ文庫シリーズの「札幌事始」に書いた五十嵐久一さんの「洋食」は、いうまでもありませんね。
 また、その本では達本外喜治という人が「パン屋」の第1号は木村清次郎だと書いています。開拓使に雇われて移住してきた8人のコックがいると達本さんは書いています。日吉さんによると7人であり、これが先ず違うのですね。
 次いで、そのうち木村がパン作りを受け持ち、明治14年にコックたちが東京へ帰るものと札幌に残るものと分かれた。原田が14年に魁養軒を開き、15年に小口平二が札幌で最初の肉屋と氷水屋を開き、17年に村山吉五郎が洋食店を開いた。「こうして見ると、木村清次郎の『木村屋パン店』は、せいぜい早くて明治十五年ごろという想定が成り立つ」とお書きになっていらっしゃる。
 魁養軒はパン専門店ではないにせよ、広告に見る通り明治13年に食パンも売り出した。「ともかく、これ以上の記録はない」と、達本さんは書いているくらいですから、札幌でパンを売った最初の店は魁養軒だと書き換えてもいいのではないでしょうか。こうした点では、北の生活文庫規格編集会議編の「北海道の衣食と住まい」の中の「第2章第6節 洋食の普及」とか農漁山村文化協会の「聞き書 北海道の食事」の「札幌の食」も、同様の誤りを犯していますね。
 この広告によって氷水屋より2年も早くアイスクリームを売っていたことも、また明らかになったのですから、こちらも見直しが必要でしょうね。このように、私が”孫引きごっこ”と定義する書斎主義が侵してきた間違いは、現場主義で正してやるのが、面白いんですね。皆さんに知ってもらいたい学問上の快感ですよ。
 「札幌事始」と同じシリーズに「豊平館・清華亭」があります。その第1章で明治14年8月30日から4日間、豊平館が明治天皇が泊まられたので「公式記録は、この栄誉の日をもって開館とする」と、井黒弥太郎さんが書いています。
 確かに明治17年に開拓使が出した「北海道志」巻3の22ページに「豊平館 札幌区大通ニ在リ賓旅ヲ待遇スル所ナリ明治十三年一月新築シ十四年八月成ル楼二層西洋式ヲ用イ広二百十五坪余庭上水ヲ引キ仮山ヲ作リ周囲鉄柵ヲ繞シ四方各一門ヲ開キ南ヲ以テ正門トナス」とあります。しかし「新築」から「成ル」までの1年半も放ったらかしていたわけじゃない。明治13年12月3日に豊平館の落成式を挙げ、12月16日には安田、時任、折田3書記官の送別会が開かれた。
 調所さんをはじめ書記官は家族連れ、屯田兵士官たちも加わって飲んだり食べたりしたほか、大広間で俳優の踊りや狂言を見たと札幌新聞第28号に書いてあります。17日は清華亭、18日はまた豊平館館で送別会が続くはずで「余り葱皮<くどとルビ>いからこゝらてヲシマーイ」と結んでいます。調理場はあったのだし、少なくともエリート官員さんたちは仕出しなんか取って宴会場にしていた。井黒さんが執筆したとき、札幌新聞の記事の存在は知られていなかったかも知れませんが、今後はこうした事情もちゃんと加えておいてもらいたいものですね。
 それから資料その1で紹介した原田の寄付金5円は、札幌新聞第2号に載った公立小学校教員等級月俸表によれば、最低の7等準訓導が6円だから駆け出し先生の月給に匹敵する額だったことがわかります。開業して半年足らずですから、やはり最新流行の洋食店のオーナーシェフ、札幌新聞風にいえば「軒主」として気張った額という感じがしますね。
 さーてと。明治13年の札幌の様子はざっとこれぐらいにして、函館に戻りましょう。牛肉に関係ある広告を3つ、資料その4にまとめました。いずれも明治11年の函館新聞からの記事です。

資料その4

11月22日4面
私儀年来魚青料理営業罷在候処日々繁盛仕難有仕合奉存候就ては此度諸君の御勧に随ひ一変致し肉類良営業仕尤新鮮肉廉下清潔の儀は不及申諸事注意仕当廿三日より開店仕候間永続御来車の程偏に奉希上候
 ○牛鍋拾銭 ○鶏鍋拾銭 ○玉子とうふ三銭
 切売 牛肉一斤拾七銭 ○鶏肉拾銭に付廿九匁
開店当日より三日の間麁景呈上仕候平日にても御座料五拾銭以上へは景物差上申候 
     函館大町七十二番地
十一月廿二日  三ツ泉  山本半七


11月30日4面
私儀是迄大黒町に於て牛肉料理営業罷在候処今度類焼致候間当分之内片町二番地■印の跡にて来月三日より従前之通営業可仕候間不相替御来臨可被下候以上
            函一

12月4日4面
私儀年来従前之料理渡世仕候処四方各君之御蔭を以日増繁栄仕難有仕合奉厚謝候随而今般牛鍋鳥鍋等之料理取交せ一際注意廉価専一に仕来る五日より開店仕候間猶不相替開店同日より賑々敷御来車之程伏而奉懇願也

         定価
  ○牛鍋八銭  ○かしは鍋拾銭  ○茶碗蒸五銭
  ○雑煮弐千五厘  ○しる粉二銭五厘
  其他御料理御好次第御一人前五銭より拾銭迄
     函館大町七十二番地小路
十二月        ■印  藤村金蔵
但開店当日より三日之間粗景呈上


 もう函館では牛鍋は当たり前の料理になっている様子がうかがえますね。函一の■になっている屋号は、中という字の上に直線を引き、右斜め上で直角に曲げて下に引く図柄です。カネナカでしょうね。藤村金蔵の方は、同じように金という字の上に直線を引き、右斜め上で直角に曲げて下に引くカネキンです。函一は違いますが、カネナカとカネキンはメニューに牛鍋を加えたというお知らせであり、牛肉ファンが増えてきたことがうかがえます。
 明治11年8月20日1面に黒田開拓使長官一行が函館裁判所などを巡覧し「開養軒にて午餐を召され」たとあるのですが、残っている16年までの紙面で開養軒の広告は見つかりません。北海道では最高偉い方、開拓使長官が入るからには、格式ある店であるはずです。似た名前に、開成軒、養和軒がありますが、これは西洋料理開祖と称する開成軒で間違いないでしょう。
 ジンパ学としては常に綿羊を重視しておりますが、5月17日の「根室近況」という記事に「○花咲町に綿羊と牛の牧場あ近々函館勧業課より洋牛馬を取寄る由」とあるだけです。それより鹿肉の記事と広告が目に付きます。
 日付順でいきますと、7月22日に開拓使製造物産売捌大取次人になった泉藤兵衛が鹿肉と牡蠣の缶詰小売りの広告を出しています。値段は鹿肉が1缶売りなら17銭、2ダース以上なら1缶14銭9厘とあります。
 追いかけるように、7月26日の1面記事で、この広告について「北海道の名産となり今度仏国大博覧会に差出されて然も絶品なりとの評語を得たる鹿肉牡蠣の缶詰を此度地蔵町丸泉印泉藤兵衛氏がその筋より大取次の免許を得て売捌く由なるは当社新聞広告の部にも悉しく見へたる通りなれば皆さん買て召上がられませ吾々も喰て保証の上味ひものは衆人と與に喰べる法と存じ一寸此に御披露を申します」とちょうちんを持っています。
 さらに12月28日の「札幌近況」の一こまに「○鹿肉秋味は例年より高価にして最も鹿肉の如きは非常に騰貴せり何となれば今年は缶詰の製造盛んに行はるゝに因るといふ」と載っています。
 ところが、当時の人たちは鹿肉も食べていたはずなのに、料理店のメニューで鹿鍋の入った広告は明治15年までの4年間を見ても函館新聞では2例しか見つけられませんでした。鹿入りはね。

資料その5

明治12年10月8日4面
即席  御料理 鳥鍋 鹿鍋
右ハ這回ヨリ釧路国釧路米町ニ於テ開店仕御料理ノ儀ハ吟味之上御丁寧ニ御取扱仕候間御通行之御方ハ御来車之程偏ニ奉希候以上  釧路米町六拾四番地
    ■<○の中に忠の字を入れた屋号>    昇月楼


明治15年2月16日4面
弊店儀是迄相生町十六番地ニ於テ定席御料理并牛鹿鳥鍋寿し等営業罷在諸君ノ御愛顧厚キニ依リ日増繁昌ニ趣キ難有奉鳴謝候随テ今般宝町三十三番地ヘ移転左記之通兼業相営来ル十二日ヨリ開店仕候間昔日倍シ御引立之程伏テ希望ス
 半会席
一御酒 御肴 御飯共 九品 金四拾銭
  芝居弁当仕出し
   但シ御重詰等御好ミ次第
       上等御壱人前  金六拾銭 
旅人宿営業  中等同     金五拾銭 
       下等同     金四拾銭 
       宝町三十三番地
二月十一日     ■<∧の下に米の字を入れた屋号> 米谷米右衛門


 私は、このように鹿鍋が広告に出ない理由は、鹿肉はうんと安くて、皆家庭で食べている。わざわざ料理屋で注文して食べる肉ではないとされたせいと考えるのです。札幌の方の記録からみて、鹿肉は貸座敷のような形ばかりの食事を出す店とか広告とは無縁の安い飲み屋が出していたように思われます。
 ですから文明開化の先端を行く西洋料理店では、洋風は通しても、鹿はジビエだなんて説明してもわかりそうもない日本人には出さない。牛に匹敵するご馳走と理解してくれる外国人には出しても、日本人には何が何でも文明の滴したたる牛肉、ビーフステーキであり、鹿肉のステーキなんか出さなかったと考えるのです。
 いいですか、明治14年4月出版の高須墨浦著「函館繁昌記」という前編と後編2冊になった漢文の本があります。北大図書館の北方資料データベースで、その前編の画像は公開されていますが、西洋料理店を取り上げた後編は見られません。それを筆写し、私が訳して専門家に見てもらったものが、資料その6です。札幌では魁養軒と豊平館ぐらいしかなかった明治14年にですよ、3大名店を挙げられるくらい進んでいた函館です。店構えと味で競争するクラスの店で、鹿肉ステーキなんか、とんでもないと注文されても断ったと思いませんか。後ろが私の訳文です。

資料その6

西洋料理

古来本邦人忌食獣肉以白飯魚膾為無上之精饌至婦人小人指肉食者為不近
人情自外交一開来人漸知養生之道於是乎大都通邑往々肇西洋料理濃々之
酪羮以代淡々之■<豆篇に支、こ>汁多肪之牛肉以易鮮々之魚膾其他洋
食肆店不暇楼指焉亦飲食之一沿革也哉巴港鱗介之属殊夥而其価太廉其味
都不佳矣故不足以饗太■<賓の類字>不足以邀貴客鮭鱒美則■<美の下
の大の代わりに火>矣而其数億万亦不足為珍羞焉然則與其為本邦理為西
洋料理耳
 巴港以西洋料理為業者西濱有街森善會所街有金木大黒街有日出楼閣之清
潔食品之精鮮各相頡頏而人心之相異若其面未可軒輊也
各室玻璃為■<白の中の横棒の代わりにタを入れた字、そう>櫺繍布為
帷幕中央置一二大卓各蒙以白布上置一玻璃盒中盛油醤醋酸之類且具炒塩
及牛酪前置一玻璃椀左右具二小刀及一二匙是為一団洋食膳卓之周囲列椅
子数脚客至先供麭包而酪羹而牛炙而何而酒漿與巻莨則応客命而調理別為
三等上等価壱金中等七十五銭下等五十銭也
日属土曜退庁較早七八官人帰途過焉是簿書堆裏心身倶労且覚空腹因浅酌
慰其労也温々麪包兼牛酪相%H々麦酒洗胸襟而爽酪羮啜得而解渇牛炙噛
来能適口乍而酔乍而飽一人曰今日之君之所謄写何事曰根室漁民之願書以
船積條例出有所嘆訴也其文冗長如読一篇演説集誌然書記亦煩哉一人曰吾
訳英人某氏手書文法舛謬其意難解昨適当直通宵万考寝得其旨矣翻訳亦不
厭也一人曰吾今前年輸出入表ヲ算日■<日の下に咎の字>稍永睡魔仍侵
先覆顧後出入多寡不相合会計亦労神哉一人黙然在坐隅連麦酒己竭七壜衆
相視瞠若焉
別室三■<人篇に倉、そう>人樸然対坐相言吾儕未嘗喫西洋料理今日大
啖別其味也既而食丁先供麪包一人曰此可以代搏飯(直前2字にムスビと
ルビ)盡取炒塩加其上開巨口而■<食篇に稲の右半分の字>曰焉曰吾家
搏飯較覚鹹矣一人指牛酪(直前2字にバタとルビ)曰此必美矣一挙舐盡
之而牛炙而禽炙(直前2字にカツレツとルビ)而蒸臠(直前2字にシチ
ウとルビ)而何而何及膳了食丁持玻璃盂来盛水以供前蓋備漱澣也■<人
篇に倉、そう>人以為是代茶也仰而呑之食丁不覚失笑


 昔から日本人は四つ足を食べると罰が当たると遠ざけ、白いご飯に刺身が最高のご馳走としてきた。女性も子供も肉を食べる人を情けを知らないやつとさげすんできた。でも外国人と交わって世の中が開け、肉は体によい食べ物と知られるにつれて、都会田舎を問わず肉を食べる洋食がどんどん広まった。
 どろりと濃いスープがあっさりした味噌汁に、また脂っこいビフテキが魚に代わった。食べ物がこう変わっては、街は軒並みレストランになるのも不思議でない。
 わが函館は、ことのほか魚が豊富で値段も安く味も良い。鮭鱒なんか美味しいし、いくらでも目先を変えられるのだけれども、なにか魚料理では大事なお客をもてなすと、経費を安く上げようとしていると思われかねない。だから日本料理より西洋料理で接待するに限る。
 函館で西洋料理の店といえば、西浜町の森善、会所町のカネキ、大黒町の日の出が知られ、店構えと料理の味で争っている。でも人によって好みが違うから店の人気の上がり下がりはこれからだ。
 こうした店には、きれいなカーテン付きのガラス窓の部屋があり、白いテーブルクロスを掛けたテーブルを真ん中に置き、その周りには数脚の椅子がある。テーブルの上にはソース、酢などを詰めたガラスの入れ物と、さらさらの塩を詰めた入れ物とバターの容器を備えている。ガラス皿とその左右にナイフとスプーンを数本ずつ並べて洋食のお膳立てがそろうことになる。客がくればまずパンを出す。それからスープだ、ビフテキだ、酒だ、なにだ、巻煙草だと客の命じるものを出す。料理は別の部屋で作る。値段は上等1円、中等75銭、一番安い下等50銭と3つのクラスがある。
 土曜日は昼までだから時間は早いが、退庁してきたお役人が7、8人、帰り道に西洋料理店に寄った。なにしろ書類の山崩しで心身とも疲れているし、少し腹も減ったので軽く一杯やってストレスを解消しようというわけだ。熱々のトーストにバターを付けるとうまいし、ビールをぐいとやると、すっきり心が弾む。まったりしたスープをすすり、ビーフステーキをかじると、これまた結構と思わず口も軽くなる。
 一人がきょう、君が書き写していたのは何だいと聞くと、あれは船積条例の出るのを待っている根室の漁師の願書さ。どこかに嘆願するらしいが、その文章ときたら長くて長くて、まるで演説集を1冊読むようなものだ。書記は煩わしい仕事さといった。別の1人は、おれはイギリス人某の書類を訳しているんだが、文法が怪しくてわかりにくいんだよ。昨夜は当直だったが、あれこれ訳を考え続けて寝らず、翻訳も辛いね。また1人がおれはね、前年の輸出入表を調べているんだが、眠くて眠くて。前後のページを何度も見ても出入りの数字が合わない。会計も神経が疲れるよとぼやいた。隅に座っていた1人は、黙々とビールを飲み、あっさり7本も開けていたのには、皆目をむいた。
 別の部屋では田舎からきた3人が、かしこまって座っていた。おれらは西洋料理というものを食べたことがなかった。きょうは大いに食べてその味を覚えるべしといった。ウェイターがパンを出すと、1人がこれがにぎりめし代わりかねと、塩の瓶を取って全部パンの上に振り掛け、あんぐり大口を開けてかぶりつき、おらの家のにぎりめしよりしょっぱいぞといった。もう1人はこりゃ絶対にうまいべとバターを全部なめてしまった。ビフテキだ、カツレツだ、シチューだ、あれだ、これだと食べ終わったところで、ウェイターが水の入ったガラス鉢を持ってきて客の前に置いた。フィンガーボウルなのに、おとっつぁん、これはお茶代わりだべなと仰ぐように飲み干したのには、ウェイターも思わず笑ってしまった。


 栄枯盛衰は世の常。盛名をはせた開成軒はすでに姿を消していた。この中の日の出とカネキの名前はすでに講義で出ましたが、森善は後でまた出てきます。いまをときめく五島軒は、これら3店に比べれば後発なんですよ。
 肉屋である牛店の広告を全部見ても鹿肉はまったく現れません。肉屋が売らない鹿肉はどうやって流通していたのだろうか。函館では、いまでもシーズンになると朝早く「エガー、エガー」とイカ売りの行商がくるそうですが、私は鹿肉も同じように魚の触れ売り人、イサバ、五十集と書くのですが、それらが魚同様に流通させていたと考えているのです。
 北海道の西洋料理の歴史をたどり、明治時代のレストランは鹿肉をどんどん料理していたように書いているものがありますが、当時の記録を見付けたとか、れっきとしたメニューがあるというわけではないようです。ようです、といっておくのは、私はまだ解明し切っていないので、断言できないのです。
 市立函館図書館長だった元木省吾さんが書いた「函館郷土史話」(昭和40年)という本の「明治二十年頃の年中行事」の中に、鹿肉を山オットセイと呼んで売りに来るので食べた話が昭和3年7月23日の函館毎日新聞に書いてある―とあります。
 文献、例えば近デジからですが、橋本海関著「百物叢談」(明治36年)の19ページ「我が幼年の頃には巳に牛の肉鹿の肉を販ぐ者あり其牛の肉を牡丹と名付け鹿の肉を紅葉と唱へて隠然其肉の名を顕はさず蓋し紅葉といへるは猿丸太夫の和歌に紅葉ふみ分け啼く鹿の云々且又鹿を指して紅葉鳥といふ古句あるより取りし名なる可し」とあります。
 目に一丁字もない、字を知らないということですよ。そうした下々の人たちは花札に描いてあるからと思っていたにせよですよ、とにかく鹿がもみじなら鹿鍋はもみじ鍋と呼ぶはずなのに、どっこい函館では山オットセイなんですね。かなり直截で、飾らない北海道弁らしくて面白いとは思いましたが、それにしても、なぜ昭和3年に明治のことを書いたのか、年号など間違いないのかと疑いつつマイクロフィルムで紙面を確かめてみました。
 それでわかったことは、函館毎日新聞の前身、函館新聞から数えて昭和3年は創刊満50年に当たり、何回もページを増やして記念号を作ったのですね。たまたま7月23日の記念号に、桂多楼というペンネームの人が「年中行事 四十年前の昔 函館の奇習」という題で各月の思い出集を掲載したのです。
 その一文は「私は一つ風変わりに、下手な俳諧で、函館の年中行事==十二ケ月をうたひ出してみやう。但古い慣習によつて、陰暦を用ひた」という書き出しで、12月まであります。そして、その2月の項にですよ。資料その7がその原文です。

資料その7

 「薬喰ひの鹿にはよろし津軽葱
  雪の上にむしろ敷きけり寒稽古
 牛肉を食ふに至つたのは、随分後のことで、明治十五六年頃までは、吹雪の夜==山オツトセイと呼んで来る、鹿の肉を買ふて薬食ひと云ふものをしてゐた。
 現代の寒三十日は、多く銭貰ひになつたが、その昔の函館は、三味線、唄の稽古をする者も、門に筵を敷いて凍えるやうな事をした。
 

 この面のトップは、やはり柿の木生というペンネームの人の「寺町と学舎と監獄 五十年の変遷ぶり」という長い思い出話が載っています。文章の中で==という記号を5カ所も使っている。乱用というか、独自のスタイルで、桂多楼も2カ所で使っている点からみて、柿の木生と桂多楼は同一人物である可能性がありますが、そりゃどうでもよろし。
 山オットセイとは、本州で猪を山クジラと呼んだもじりなんでしょうが、なぜ山アザラシとか山トドでなかったのか。函館の人々がオットセイが薬になることをよく知っていたからこそ付けた名前だろうと私は考えています。
 というのはですね、gooの大辞林でオットセイを引くと、説明の末尾に〔「膃肭臍」とも書く。「膃肭(おつとつ)」はアイヌ語オンネプの音訳。陰茎を臍(ほぞ)と称して薬用としたことから〕と出てきます。いまでこそ、一太郎のATOKは「おっとせい」を膃肭臍に変換しますが、明治初期の記録や本はたいてい膃肭獣、ヘソでなくて獣、ケダモノと書いています。いつの間にかヘソがケダモノに代わっちゃったのですよ。
 ビートたけし風にいうとポコチン、そのポコチンの干物をタケリといいまして、松前藩が強精薬、いまならバイアグラとして幕府に献上していたのです。クジラのなにもタケリというそうですがね。オットセイからの取り出し方を示した絵巻が北方資料データベースにあります。資料その7の記事から、一時期人々が海オットセイ、本物を食べていたことがわかります。

資料その8

明治14年3月14日付函館新聞2面
○茅部郡各村にて是迄捕り上る膃肭臍は今より六七年前までは誠に僅々なりしが近來は追々数を増して当年は千七八百頭の上り高なりまた皮の相場は一昨年は壱枚一圓五六十銭昨年は二圓五六十銭当年に至つては最初三圓程より段々騰りて四圓八十銭までに及べり肉は一昨年頃一疋分二三十銭より五十銭位なりしが初め此肉を以て身体を温むるに無上の餌薬なりとし一般に食せしものなるが固より好んで味ふべき程のものならず且近頃段々経験の上にて見ると右様の効能は更にあらざる故にや昨年頃より肉は一向に売れ無くなつたゆゑ肉のみは該地にて食用に充て或は塩漬になし當地へは送り越さぬよしなり又右皮は是迄皆支那商人が買取りしものなるが近来は映じんも買入れて本国へ輸送するに至れりと又狐の皮は一昨年六十銭位の直段なりしが今年は一圓八十銭程に上りたり是も支那人のみの手に引取りしが近来は英人漸々買求むるといふ


 とにもかくにも、そうしたありがたーい薬の生みの親でありますからね、タケリでなくてもオットセイを食べると鼻血ブー、何となく元気が出るように連想してしまう。鹿もオットセイと同じように一夫多妻で群れを作る。鹿肉を山オットセイと呼べば薬みたいだし、そうでなくても薬食いなんだし、どんと売れるべさと、道南のどこかの知恵者が思いついたのでしょうなあ。おっと、オットセイのおかげで、脱線がまた脱線しちゃった。
 この山オットセイという売り方は、この桂多楼さんだけでなく、函館市長だった齋藤与一郎さんも認めています。齋藤さんが昭和30年から31年にかけて51回、NHK函館放送局から「非魚放談」というタイトルで郷土史について放送したうちの48回目、昭和31年10月9日の放送の中で「思いだされるのは、道南における鹿の群でありますが、非常にたくさんおりまして、私も子供のときには、山オットセー、山オットセーと、冬になると毎晩のように、鹿の肉を売りにきて、鹿の肉ぱかり食べさせられました。子供の時は、余りうまくなかったように思いますけれども、ただ今では、鹿の肉なんというと、大した重宝なものと思います」と話しています。
 これらの放送原稿を全部まとめて昭和32年5月、函館郷土文化会が「非魚放談」という本にして出したほか、復刻版が昭和63年に出ているのです。たった2例しか見つけておりませんが、もはやその当時を語れる人はおりませんから、貴重な記録であるということがおわかりでしょう。
 斉藤さんは明治6年10月生まれですから、大雪で鹿が激減したといわれる明治12年に6歳となり、それより幼いころから函館の人たちが鹿肉を食べていた思い出として計算が合うと思うと調べましたら、ちょっと違っていました。
 斉藤さんは新潟県生まれで、妻子を棄てて故郷を飛び出し、函館で飴屋を開いた父親を頼って祖母と妹3人とで出てきたのが明治16年、12歳のときであり「子供のとき」というにはちょっとひねていますがね。
 斎藤さんの生涯については、生存中に出版された佐藤精著「齋藤與一郎傳」という非売品の本に詳しく書かれています。この本は北大図書館にありますが、子供のときから家庭的に苦労した人で、函館では小学校へも通えず、叔父の医師田沢謙の医院の書生になり、脚気に悩みながら17歳まで下男同様に使われたようですから、斎藤さんの山オットセイの思い出は、田沢医院で書生など使用人向けの食事で食べさせられたことが考えられます。
 斎藤さんは優れた記憶力の持ち主で、百科事典を暗記したり、買えない医学書は借りて筆写しながら勉強したそうですから、昭和3年、55歳のときの函館毎日新聞の記事を読み、それを自分の体験のように語った可能性はゼロというわけでもありませんが、放送したときはそれから30年近くも後の83歳であり、年寄りは若いときのことはよく覚えているといわれますから、実体験だったのでしょう。
 昭和60年に出た藤原英司著「北加伊エゾシカ物語」にも、明治29年に函館市内でやはり山オットセイといって鹿肉が売られていたと書いてあるので、北海道毎日新聞を見ているのですが、まだ見つかりません。別の新聞も当たってみます。
 それから、函館関係では尾崎角太郎編「渡道六十五年回顧 佐藤祐知自叙」という本があります。これは昭和33年に出た本で、札幌にはないようなんです。ただし、その改訂版である佐藤正五編著「湯の川温泉と馬車鉄道」が札幌市立図書館で読めます。佐藤祐知は函館の馬車鉄道を始めた実業家で、佐藤正五さんは孫です。
 その佐藤祐知が22歳のとき函館でイサバ屋を始める。76ページから78ページに明治14年1月の大雪の思い出の一こまとして鹿が出てきます。函館市街の近くにある「根崎の浜や上磯近辺などに鹿が現れて捕えられたりしたぐらいだ」というのです。
 さらに「鹿のことに関していま一つ話そう。この月の末頃であったが永国橋の付近に屋台が出て、そこで生きた鹿を一頭八十銭で売っていたのだ。しかし、この鹿はどれも弱り切っていたので、満足に生きながらえるものはなかった。
 また、奥地で死んだ鹿の角は五〜六月ごろ続々と函館に陸揚げされ、浜町通りでは鹿の角が木の枝のようにからみ合って、あちこちに山積みになり売られていた。全道の鹿が全滅したというのも虚言ではないと思われた」とあります。このくだりには、永国橋の注釈が付いていますが、ここでは省略します。
 佐藤祐知さんの回顧は、資料その9から裏付けられます。初めの方は獲り放題で獲れた話であり、後ろの方は翌年、その反動がきたという話です。

資料その9

明治14年2月8日付函館新聞3面
○鹿の當道に沢山なる事は兼て諸君もよく知らるゝ所なるが近頃近在にて鹿猟の盛んなる景況を聞ます/\鹿の多いのに驚ろかれます冬季に向ふと近在の猟師どもが鳥銃を携さへ山深く分入りて鹿狩をするは例なるが常年は鹿路とて鹿の通るべき線路を扼して容易く捕獲する習いなるに本年は何如なる故にや多く鹿路にのらずして處々に散乱し小安村から戸井近村の海岸へかけて人家近くまで続々逃げ来り雪の吹溜りたる小陰などに幾疋となく潜み屈んで居るを村民等早くも看附て初めは希有な思ひを為して捕まへて居たが幾等捕てもまた続々と押出して来るので是は漁業より割がよいと山刀或ひは斧斤など各自にそれ/\の得物を持行き終日鹿狩を専業として居る景況にて現に親子三人にて日に十六疋の鹿を捕得たる者もあり
手の廻り次第は何程にても捕る事が出来るといふ又た猟師等が山狩の景気も例年に増して捕獲も多く最初携さへて行きし食糧が切れて後ち毎日鹿肉の耳食て餓えを凌いて居る位なれば山にて直に猟師より買取るときは一疋分の鹿肉にで三十銭が上値段なるが余り多いので山里とも買手がなく角と皮に三圓余の直打もある故只だそれ而己の目的にて肉はおおかた塩蔵にしておくのみなりと其が為めにや去月上旬ごろ迄地廻りの鹿肉一疋分にて十二圓余の直段なりしに近頃に至り急に下落して一圓五七十銭位になれりと唯遺憾とする所は積雪のため馬便が乏しく小安邊より当地まで一駄[三疋分]に付き二圓近くにも成るゆゑ充分持出すわけに行かぬといふ


明治15年1月31日付函館新聞2面
○鹿猟 去冬は大雪のため鹿猟は夥たゞしく値も実に稀なる廉価なりしが本年はまた収穫は去冬の十分一にも及ばぬ不猟にて奥場所の猟夫舊土人等も夫れが為め尻岸内地方へ出かけ来たりしに同地も同く不猟のため又々此程は字ミナノサハ地方の山々に入りて折角勉強して居るよし昨今上等一頭の相場貳圓五拾銭位ななりといふ


 佐藤祐知は昼間は魚、夜は焼き芋を売って奮闘したのですが、イサバ屋の仲間に80銭の鹿を解体し、夜は「山オットセイ」と売り歩いた者がいても不思議ではないと私は考えるわけです。
 もう一つ、明治18年11月に大蔵省が出版した「開拓使事業報告」の陸産の部に、いい証拠があります。各支庁が管内で取れるいろんな産物について報告しているのですが、函館支庁の鹿について、こう書いています。「亀田上磯茅部松前檜山爾志山越七郡ニ産ス茅部亀田ヲ第一トシ味殊ニ美ナリ毎年函館市中ニ鬻ク者多シ松前檜山之ニ次キ上磯山越爾志ハ僅々トス」。
 いいですか、この報告を書いたお役人も、その上司もですよ。茅部、いまの森町とか、その名も鹿部町あたり。それと亀田郡、資料その9にある戸井あたりがそうですが、ここらの鹿肉が最高うまいと認めていた。それら鹿肉に関して口の肥えた人たちが買うから、足を伸ばして函館まで売りにくるというですね。同じ報告の中に明治8年1月「鹿牡牝四頭ヲ生獲シ宮内省ニ献ス」とありますが、これは天下一品の味を自慢したくて献上したことが考えられます。いまならクール何とか便でしょうが、当時は新鮮な肉を召し上がって頂こうと生きたのを船で送ったんでしょう。
 澤村真という人が明治44年に出した「実用飲食物辞典」に「鹿鍋には葱、蒟蒻等をあしらふを可とし、脂肉少なければ最初に牛脂もしくは胡麻油を少し鍋に落して葱・蒟蒻等を炒めおき、之に味淋醤油を加へ然る後鹿の肉を入れて煮るを可とす」と書いてあります。さっき津軽葱が出ていましたから、函館でも鹿鍋に葱はつきものだったのでしょう。札幌の方はもう少しはっきりしています。あっ、残念。時間がなくなりました。どうもいかんなあ。次回は札幌における鹿肉事情を考察し、なるべく早く羊肉に戻りましょう。はい、終わります。