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洋種緬羊明治2年初輸入説は大正7年から

 はい、静かにして、始めます。21世紀のわれわれが羊とか緬羊と聞いて連想する白い毛のもこもこした動物は皆、明治以降に輸入された欧米種の緬羊です。それ以前に輸入された緬羊はあまり毛の長くない中国種か蒙古種で、内務卿大久保利通によって創設された下総牧羊場にしても、最初は中国から輸入した緬羊を飼ったのです。では欧米種の緬羊が初めてを我が国に入ったのは明治何年かと調べてみると明治2年であり、細川少議官という人がアメリカでメリノー種8頭を買い、持ち帰ったのが嚆矢、初輸入だったとわかります。
 大正以降の畜産学の本や緬羊の飼育指導書はもちろん、毛織物工業や毛糸の本にも、緬羊の歴史の項があれば、そう書いています。最も権威あるとみられる農林省編「畜産発達史」も同じく明治2年細川少議官の輸入が嚆矢と書いてます。だから明治2年だったと信じていいのかね。
 そこでだ、これから配るきょうの資料に目を通してもらいましょう。いいかな、後ろまで行き渡りましたね。はい、最新といっても昭和41年発刊だが「畜産発達史」から資料その1として、その冒頭部分を引用しました。ちゃんと明治2年に細川少議官が輸入したと書いている。それが日本緬羊史上はちょいオーバーかな、とにかく重要な史実なので太字にしておきました。

資料その1
 
  第五章  緬羊飼育の変遷

   第一節明治初期における緬羊の飼育

    〔一〕明治初年よリ一八七五年まで

 明治初年における緬羊の飼育については、これに関する文献が少なく詳細は不明である。わずかに判明しているものは一八六八年(明治元)鹿児島藩主が出水郡伊唐島の内清良島に雄緬羊一頭、雌緬羊三頭を放牧し、それが蕃殖して一時は一二頭に達したが、その後斃死して一八七五年(明治8)にいたり廃牧したという記録があリ、明治に入ってから緬羊が飼育されたのはこれが最初のものである。ついで一八六九年(明治2)細川少議官が、アメリカからスパニッシュ・メリノ種八頭を輸入したのを輸入の嚆矢とし、その後一八七二年(明治5)五月一七日在米中の勧農助由良応によって購入された緬羊若干頭が到着したので、これを観農寮の所管である雉子橋外の邸内で飼育した。翌年八月、さきに農事牧畜調査のためアメリ力に派遣されていた岩山壮太郎が、スパニッシュ・メリノ種その他各種の緬羊四〇頭を携えて帰国し、また一八七五年(明治8)には武田昌治が支那羊二四頭を清国から購入し、さらに横浜において洋種緬羊九頭を購入したことも記録されている。
 なおこれとは別に北海道開拓庁長官黒田清隆が、北海道の開拓には緬羊事業の奨励が急務であるとして、サウスダウン種、スパニッシュ・メリノ種、コッツウオルド種等各種の緬羊を輸入し、一八七二年(明治5)東京青山の開拓使付属試験場で飼育し、後、七重分場を設立してこれに移したが、一八七五年(明治8)七重試験場と改称し、御雇教師アメリカ人エドウィン・ダンをして農業各課を伝習させ、また桔梗野牧羊場および札幌牧羊場を開設して緬羊の蕃殖を行なわしめ、一八七四・七五年(明治7・8)頃から七〜八ヵ年の間に約九〇〇頭の緬羊を中国その他から輸入し、前記牧場で蕃殖した子緬羊を民間に配布して飼育を奨励した。 なお当時における牧羊場に関する政府の施設としては一八七四年(明治7)一月牧畜事務を大蔵省より内務省勧業寮に移管し、内藤新宿試験場で緬羊を試牧し、蕃殖した種羊を各府県に分かち、あるいは民間に払下げまたは貸付をし、また品種の改良に関しては、一八七三年(明治6)以来開拓使、租税寮または勧業寮において、緬羊の良種を得ようとするものは、雌羊を国または開拓使の設けた施設にひきつけて、種付けを申請するよう布告し、民間緬羊の資質向上を図ったが、国内の牧羊業はきわめて微々たるものであって、全国における民間の飼養頭数は僅々二〇〇頭余に過ぎない状態であった。
 明治初年より一八七五年(明治8)、政府の緬羊飼育奨励事業着手までに輸入された緬羊頭数は第1表のとおりである。<略>

    〔二〕緬羊飼育奨励事業の展開

 明冶維新後欧米文化の流入は決河の勢であったが、これに伴って国民の生活様式にも画期的な変化をもたらした。そのうち特にいちじるしかったのは羊毛製品の増加であるが、これに対し当時国内にはほとんど緬羊がおらず、毛製品はすべてこれを海外よりの輸入にまつよりほかなく、国家経済上牧羊の必要性は、識者間において大いに論議され、政府においてもまたよくこれを認識して、前掲のとおり一八六九年(明治2)以来数次緬羊を輸入して勧業寮試験場等で試育せしめたのをはじめ、岩山敬義ら係官を欧米各国に派遣して、もっぱら開墾牧畜の事業について実地調査を行ない、準備を進めるなどの措置が講ぜられたが、民間においてもこれに着眼するものがあり、一八七一年(明治4)四月、東京浅草橋場町居住の藤家又助および園小弥太の連名で「羅紗製造のため牧羊の義に付建言」が民部省開墾局に提出されている。その後一八七四年(明治7)八月、アメリカ人D・W・アップ・ジョンスが、わが国に牧羊業を開始すべきであるとの意見書を内務省に提出したので、大久保内務卿はこれを採り上げ、翌年五月八日「牧羊開業方法並に収支予算書」を作製して太政官に稟議し、裁可を得たので、ただちに土地の選定に着手し、同年一一月にはわが国最初の緬羊牧場である下総牧羊場が開設される運びとなったのである。<略>

 緬羊関係の本は皆、このように明治2年に細川少議官が初めて西洋種の緬羊を輸入したと書いてあるから、明治2年は真っ赤なウソだ、明治4年の誤りだと私独りが唱えてもだれも信じない。狼少年扱いもしてくれないんですなあ。明治2年に輸入したという証拠を示せといったところで、そう本に書いてしまった学者や専門家は、先人の本の丸写しを認めることになり、沽券に関わるから応じる訳がない。知らんぷりだ。とどのつまり、ごまめの歯軋り、犬の遠吠えと、私としては動物残念3連発を繰り返すだけとなるんだなあ。
 以前の講義で、この細川少議官がアメリカに出張したのは明治4年なのに、一般に明治2年だといわれているが、当時の農商務省農務局長、道家齊がその言い出しっぺの疑いがあるといいましたが、覚えていないだろうね。そのとき細川はサンフランシスコで開拓使顧問として北海道に赴任途中のホーレス・ケプロンと会い、日記に書き残したことも指摘しました。初耳だというならインターネットにある私の講義録を見なさい。
 きょうはもう1段掘り下げて、明治2年に細川は日本にいたという証拠とだね、緬羊輸入は明治4年だという事実をたっぷり資料を使って示しましょう。明治2年輸入説の文献探しをすれば、するほど4年輸入の証拠が集まるんだなあ。それで明治2年嚆矢説に札幌農学校OBが深く関係していたことを知ったくらいです。畜産関係者はぜひとも、きょうの私の講義録を読んで、今後は明治4年初輸入と改めてもらいたい。ホントにさ。
 まず細川が書いた意見書とか批評、関係した事務の書類などを集めた「吾園叢書」の中に明治10年までの経歴書があります。我々は履歴書といいますが、明治の人は経歴書と言ったんですなあ。誰が書いたという説明がないので、細川の自筆とは断定できないけど、筆に慣れた明治の人が他人に書いてもらった経歴書を本に載せるとは考えにくい。ともかく資料その2がその経歴書の全文です。下はそのページのコピーで、経歴書の太字の20行が該当箇所。明治4年説を通そうと書き換えていないことがわかりますね。

資料その2

  高知県士族
     細川潤次郎
        習
      天保五年甲午二月生
明治元年戊辰十一月三日
一 学校取調被仰付候事
同月十二被
一 議事体裁取調兼勤被仰付候事
同二年己己正月十七日
一 開成所学校権判事被仰付議事取調兼勤可致事
同年四月十九日
一 議事取調兼勤被免候事
同年六月三日
一 学校権判事被免学校判事被仰付候事
同年七月廿四日
一 是迄之職務被免候事
同三年庚午八月十日
一 任民部権少丞
同日 叙正七位
同四年辛未四月廿三日
一 御用ニ付米国へ被遣候事
同年七月廿七日
一 廃民部省
同日
一 追テ御沙汰候迄従前之通事務取扱可致事
同年八月廿五日
一 任工部少丞
同年十月十六日
一 帰朝
同月廿八日
一 任少議官
同年十一月八日
叙正六位
同五年申二月廿日
一 澳国博覧会御用掛被仰付候事

同月十九日
一 任中議官
同月廿五日
一 本官ヲ以文部省出仕被仰付候事
同年四月十五日
一 叙従五位
同年八月廿二日
一 四等出仕兼勤被仰付候事
同年十月八日
一 左院中大中少議官被■<廃のように見える>
同日
一 任二等議官
同六年五月四日
一 印書局長被仰付候事
同年六月十九日
一 文部省出仕被免候事
同年十月九日
一 今般臨時裁判所被開候ニ付参座被仰付候事
同年十二月廿九日
一 御詮議之次第有之参座被解候條此旨相違候事
同七年三月十二日
一 印書局長被免候事
同日
一 免兼出仕
同八年四月十四日
一 廃左院
同日
一 御用滞在被仰付候事
同月廿九日
一 任大書記官
同年七月廿日
一 任権大内史
同年九月廿二日
一 任一等法制官
同九年二月廿七日
一 汽船衝突一件臨時裁判所被開候ニ付審判被仰付候事
同年四月八日
一 任議官
同日 
一 年給三千円下賜候事
同年五月廿二日
一 叙従四位
同年九月八日
一 国憲取調委員
同年十月十八日
一 自今年俸三千五百円下賜候事
同十年四月八日
一 幹事仮任
同年五月九日
一 幹事仮任ヲ解
同月廿一日
一 幹事心得
同年七月七日
一 幹事心得ヲ解
同年十二月廿五日
一 刑法草案審査委員被仰付候事


 これにあるように明治2年の初め細川は開成所学校権判事、半年で学校判事に昇格しました。開成所というのは幕府のいわば西洋文化研究所でした。文部科学省のホームページの「学制百年史」によれば、明治元年に新政府により復興され、開成学校と改称したけど、依然開成所とも呼ばれていたそうで、細川の経歴書もそうなってますね。
 初めは川勝近江、柳川春三が頭取となり、さらに、そのころは恒次郎という名前でしたが、内田正雄が代わって頭取となり、積極的に外人教師を雇い、英仏独の語学と外国語による教授が行なわれた
(1)とあります。
 この開成所に至る経緯は細川が明治25年に開かれた関西地方教育者大集会で「洋学ノ原始」という演題で講演しているのですが「大日本教育会雑誌」という雑誌がその速記録を載せたのはいいのですが、紙面の都合か前半分だけでした。その末尾が資料その3(1)ね。2冊の本に前半だけの儘収められ、さら細川の「茶橋録話第三集」にも後半を書き足すこともなく、そのまんま載っています。細川は長崎で蘭学を学び、ジョン万次郎に英語を教わった人だから語学力は抜きん出ていたでしょうが、緬羊と山羊の区別が付いたかどうかなあ。
 資料その3(2)は「東京大學法理文學部一覽」です。Google書籍で本探しをしていたら偶然、明治9年版の東京大学カタログという英文の本が出てきたのです。細川の名前が出てくるヒストリカルサマリーの一部を引用しようと書き写し、書名など書誌情報を明記して引用しようと、改めて検索すると、もう見つからない。それで資料には国会図書館の近代デジタルライブラリーにある明治14年・15年版の和文の「沿革略史」を引用しました。
 「一覧」によると文学部といっても哲学、政治学、理財学の専攻に分かれていたり、理学部には土木、採鉱冶金といまとはかなり違っていた。それから学科学年別の期末試験の問題が載っていてね。20問中15問できれば最高点を付けると予告したり、16問の奇数番か偶数番のどちらか片方を解けといった風変わりな先生がいたんですね。

資料その3

(1)
<略>時ニ外舶ノ辺海ヲ伺フコト頻繁トナリ、海防ノ事急務トナルニ及テ、洋學者ノ需用甚多ク、翻訳書大ニ世ニ行ハルゝニ至リ、幕府ハ兼テ設ケタル翻訳局ヲ天文台ヨリ九段坂下ニ移シ、名ヲ改メテ蕃書調所ト曰ヒ、箕作阮甫、杉田成卿ノ二人ヲ教授トシ、古賀謹一郎ヲ以テ其頭取トス、後其名ヲ改メテ洋書調所トシ、新ニ學校ヲ一橋門外ノ護持院原ニ建テ、後又其名ヲ改メテ開成所ト称ス、此開成所ハ幕府ト与ニ廃セラレ、庭草人ヲ没シテ狐狸ノ栖トナレルヲ、予ハ亡友内田正雄ト与ニ學校判事ノ任ニ膺リ、之ヲ再興セシハ明治元年ノ末ニテアリキ、(下文略ス)


(2)
  正記
明治元年戊辰九月旧幕府建ル所ノ開成所ヲ復興シ仮リニ旧幕臣川勝近江柳河春三[後春蔭ト称ス]ヲシテ其事務ヲ掌ラシム次テ内田恒次郎[後正雄ト称ス]細川潤次郎ヲ以テ之ニ代ヘ新ニ教則ヲ撰定ス爾後統理者ノ更任一ナラスト雖モ姑ク茲ニ載セス」同二年己巳正月始メテ教場ヲ開ク即チ其科ハ英仏ノ二語学ヲ首トシ別ニ講習所ヲ設ケ其二語ヲ以テ変則教導ヲ施行シ後又独乙語学ヲ加フ」<略>

  

参考文献
上記資料その1の出典は農林省畜産局編「畜産発達史 本編」905ページ、昭和41年1月、中央公論事業出版=館内限定近デジ本、 資料その2は細川潤次郎著「吾園叢書 15」ページ番号なし、明治14年、発行者不明=同、 (1)はhttp://www.mext.go.jp/b_menu/
hakusho/html/others/detail/
1317579.htm
資料その3(1)は大日本教育会編「大日本教育会雑誌」122号708ページ、細川潤次郎「洋学ノ原始」より、明治25年11月、大日本教育会=館内限定近デジ本、少年園編「少年園」9巻100号103ページ、明治25年12月、少年園=同、 博文館編「日本大家論集」5巻1号21ページ、明治26年1月、博文館=同、細川潤次郎著「茶橋録話第三集」1ページ、明治27年3月、女子高等師範学校=近デジ本、 同(2)は東京大学法理文三学部編「東京大學法理文學部一覽 従明治十二年至明治十三年」13ページ、丸家善七=同

 細川のアメリカ出張の主目的は明治4年の「本年六月米国桑港ニ工業博覧会アルヲ以テ出品セントスル者ハ随意申請セシム尋テ民部権少丞細川潤次郎ヲ遣ハシ該会ニ臨ミ且ツ該国東部ノ農事博覧会ヲ歴観セシム(2)」でした。その命令書を示して済ますことはできるが、今回はできるだけ多くの文書で出張を裏付けて、彼がメリケンからメリノー緬羊を連れてきたのは明治2年ではなく4年だったことを証明します。資料としては冗長は承知で日付順に公文書を並べたのが資料その4です。

資料その4

(1)五二三 四月三日       太政官辨官ヨリ
    (五月二十一日)   外務省宛

桑港器械展覧会出品ニ関スル布告各開港場ヘ伝
達方指令ノ件
 付属書 四月三日右太政官布告

別紙之通惣布告イタシ候ニ付各開港場ニテ其旨相心得罷在
候様御省ヨリ御申達有之度候也
辛未四月三日
           辨官
 外務省御中

(附属書)
当辛未年六月十五日ヨリ七月十七日迄即チ西暦千八百七十
一年第八月中亜米利加合衆国桑法朗西斯哥港ニ於テ展覧会
相開候ニ付御国商民ヨリモ物産差出度輩ハ勝手ニ可願出候
抑展覧会ノ儀ハ各国ノ物産并新発明ノ器械類ヲ取集メ人民
ノ知識ヲ拡充シ通商ノ方法ヲ裨益スルノ趣意ニ候間有力ノ
者申合セ精々物産差送候ハゞ御国産ノ富饒ヲ普示シ将来彼
此貿易ノ道ヲ盛大ニスルノ一端ニ候ヘバ一己ノ利益ニ拘泥
セス各勉励シテ夫夫御国産ヲ取集メ可差送候右展覧会発開
ノ期ハ來ル六月十五日ニ付西洋千八百七十 四月廿日西洋第六
            一年第八月一日     月十七日
頃迄ニ荷物取揃ヘ輸送候様可致依テ其品物ノ種類大略別紙
掲示候條有志ノ者ハ來ル四月廿日限其府藩県管轄所ヘ願出
身元取調請任相立候上同所添翰ヲ以テ各開港場ヘ届出勝手
次第渡航候様可致事
 但往来船賃ハ平常五分ノ三相払可申物品運賃ノ儀ハ彼地
 二於テ売却不致候ハゞ相払ニ不及候事
  辛未四月       太政官

別紙
 
 桑法朗西斯哥展覧会ヘ可差送御国産物ノ大略

石炭  各種   銅鉱 各種并  麻   并麻布
            製銅       類
漆   液    生蝋 各種   鉄鉱  并製鉄
                     類
鋼類  并製鋼  油類 各種   生綿  并種綿
                     綿布類
絹   生糸并  絹縫絲     竹細工 并籐細
    絹布類              工
楮        紙類 各種   漆器  最上之
                     品
陶器  各種   象牙細工    水晶  玉石類
鋳物細工     皮革類     砂糖  各種
煙草  并葉煙  礦石類     茶   各種
    草
鼈甲細工     穀物 種物見  乾物  見本
            本
菓物  見本   彫刻物     材木  板切レ
                     類見本

註 右附属書ハ「太政官日誌」ニハ四月三日ノ項ニアリ


(2)五二四 四月二十八日   民部省、大蔵省ヨリ
    (六月十五日)  外務省宛

 細川民部権少丞外一名桑港器械展覧会ニ差遣ス
 ヘキニ付桑港在勤日本領事ヘノ紹介方依頼ノ件

                細川権少丞
                吉田二郎
右のもの今般米国展覧会へ被差遣候に付万事周旋有之候様
サンフランシスコ港に在る御国岡士ブロックスへ御省より
紹介状御遣し有之度此段及御掛合候也
  辛未四月廿八日
           民部省
           大蔵省
外務省御中

註「太政官日誌」ニ拠レハ四月二十一日細川民部権少丞
 ニ対シ「御用ニ付米国ヘ被差遣候事」ノ辞令アリタリ


(3)五二五 四月二十九日  神奈川県ヨリ
    (六月十六日) 外務省宛

 桑港器械展覧会ニ出品出願ノ大坂商人二名ニ対
 シ右手続等指示方依頼ノ件
  附属書 四月二十二日大坂府ヨリ神奈川県宛書翰写
      桑港器械展覧会ニ出品出願ノ商人二名ノ
      渡米ニ対シ配慮方依頼ノ件


來る六月十五日より七月十七日迄亜米利加サンフランシス
コにおゐて博覧会相開候に付御国商民よりも物産等可差出
旨御布令の趣を以今般大坂府下商人加賀屋仙助倅久兵衛外
壱人産物持参当港より同様出張のものと共に航海可致見込
にて罷越然る処当県管轄内の者共航海の見込無之哉何とも
申出候もの無之就ては御省えは定て各府藩県等より追々伺
出候ものも可有之と存候間御規則等可然御差図有之度仙助
外壱人義來月三日の郵船便にて出帆可致見込の由左すれば
最早日合も無之に付彼是御往復の為其機に相後れ候ては折
角当人の志願も不相立義に成行候間夫迄に直々本人共御省
え差出候義に付左様有之且仙助等へ御達の手続は追て当方
えも御申聞被置度此段及御懸合候也
        辛未四月廿九日
                   神奈川県
     外務省御中
     尚々大坂府よりの來書御為心得写御廻し候也
   (付属書)<略>


(4)五二七 四月三十日   田辺外務少丞等ヨリ
    (六月十七日) 桑港在勤日本領事「ブルークス」宛

 桑港器械展覧会ニ派遣ノ細川民部権少丞等紹介
 ノ件

辛未四月晦日附 柳谷持参
以手紙致啓上候然は此度カリフォルニヤ於て発開の展覧会
え我国商人共物産持渡り右会場へ差出候に付取締等の為め
我政府よリ細川民部権少丞吉田二郎被差遣外に運上所取扱
向研窮のため柳俗文書権大佑被差遣候就ては貴下ヘ諸事御
相談可及候間可然御紹介有之度御依頼申入候此段可得御意
如此御座候以上
   年 月 日
            大少丞  花房
                 田辺
 米国サンフランシスコ在住
 大日本国領事
  チャルレスウォルコットブルークス貴下

  

参考文献
上記(2)の出典は農商務省農務局編「大日本農史 今世」65ページ、明治24年7月、博文館=近デジ本、 資料その4(1)と(2)は外務省調査部編「大日本外交文書」4巻889ページ、昭和13年12月、日本国際協会=近デジ本、 同(3)は同4巻891ページ=同、 同(3)は同4巻893ページ=同


 細川の「新国紀行」は乗っている郵船アメリカ号は旧暦10月14日正午、横浜を距てること38里、多分38海里だろうが、房総沖で北に針路を変え始めた(3)で終わっています。資料その5(1)の文書から西暦でいうとアメリカ号は11月1日にシスコを出帆したとわかりますから、日本で発行されていた英字新聞のザ・ジャパン・ウィークリイ・メールのシッピング欄を探したら、その(2)のように11月26日に到着したとわかる。資料その1の経歴書では旧暦の10月16日とに帰朝と書いてますね。西暦に直すと11月28日となり、彼は2日家にいて帰国祝いをやり、英気を養い、それから出勤して旧暦の10月16日帰国と届けたんでしょうね。
(細川潤次郎著「新国紀行」39丁裏、明治16年1月、細川潤次郎=近デジ本、)
 それから(1)の帰国者にある三隅市之助は、明治3年に日本海海戦で名を挙げた上村彦之丞たちと一緒に海軍操練所に入所(4)してますが、4年1月には民部省農事取調委員として岩山壮太郎と一緒に農事調査のためにアメリカに派遣(5)されたのに病気になり、残念ながら半年で帰国せざるを得なかった人物です。岩山は欧州も調査して明治6年に帰国、下総御料牧場の初代場長など、明治の畜産界の指導者になった岩山敬義その人です。

資料その5

(1)
明治四年辛未第廿一号 自十月十七日
           至廿九日
 外務省日誌

<略>
廿三日
○布哇嚆矢ノ書翰<略>
○米在留日本領事ノ書翰
以手紙致啓上候然ハ去月中到着并ニ出立ノ人名
記差進申候就テハ開拓使ヨリ御差出相成候貴政
府ノ生徒三隅君不幸ニ重病ニ罹リ貴国ヘ出立被
致候尤モ同人ハ至極実貞ナル生徒ニ有之候ヘハ
今般帰国ノ儀拙者残念ノ至ニ存候
華盛頓府ニ在ル柳谷謙太郎君ハ健康ニ有之多分
来月相帰可致申旨拙者迠書報有之候
<略>
細川潤次郎君ハ器械展覧場一見ノ為参リ居候者
ト同道ニテ今日出立被致候然ルニ右同人等ハ各
其職務ヲ勉励シ我国民中ニ於テモ感賞致候事ニ
御坐候
貴国政体変革ノ件々新聞紙上ニ相見ヘ貴国人民
ノ故習御一洗相成候儀賞讃致シ有之候先ハ此段
可貴意如此御座候以上

千八百七十一年第十一月 サンフランシスコ、カリホルニヤ
            日本領事館ニ於テ
    大日本領事 チャルレス、ウォルコットブールークス

外務卿
外務大輔

別紙
千八百七十一年第十月日曜日蒸気「アメリカ」舩ニテ横浜ヨリ「サンフランシスコ」ヘ到着ノ日本人名記
 名前    身分  行先
有馬幹太郎  書生  ニューヨルク
日下三郎   書生  カリホルニヤ
千八百七十一年第十一月一日蒸気「アメリカ」舩ニテ「サンフランシスコ」ヨリ横浜ヘ出帆ノ人名記
 名前    身分      行先  居所
細川潤次郎  元民部省官員  横浜  東京
白井勇象   東京府官員   仝   仝 
佐野吉右衛門 商人      仝   仝 
岡幸兵衛   佐渡附属    仝   仝 
森善蔵    商人      仝   阿波
三隅市之助  農学生徒    仝   長州
イペルレン スミット 評議人 仝   ワシントン


(2)
SHIPPING

 ARRIVAL
Nov.26, America, Am.steamer, Doane, 4,454, from San Francisco, November,1st, Mails and General, to P.M.S.S.Co.

 経歴書でわかるようにアメリカ出張中に所属する民部省がなくなり、細川は工部省の所属となり、民部権少丞から1つランクが上がって工部少丞となります。帰国を前にして細川は日本にはない馬車や農機具などを買ったんですね。その馬車がキャデラックみたいな高級車だったので、笑っちゃいかんが、資料その6(1)のように偉い人が天皇家御用の馬車を買ったと受け取られたんですなあ。御門の字の前、一字分空いてましょう。闕字(けつじ)といって陛下への敬意を表する当時の書き方をしているので、これはゴモンではなくミカドと読むんですね。
 それらの買い物に当たり細川は使い方を聞いたり値切ったり世話役抜き、一切独りでこなしたので、その下(2)の記事にように書かれた。今後こちらへの出張者は細川みたいな英語のできる人を派遣してねというあたり、皆目英語のできない出張者を世話するためシスコの領事館が苦労していたことが察せられます。
  

参考文献
上記(3)の出典は (4)は海軍「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C09090160400、公文類纂 明治3年 巻15 本省公文 学術部(防衛省防衛研究所)」、 (5)は農商務省農務局編「勧農局沿革録」2ページ、明治14年5月、農務局=近デジ本、 資料その5(1)は北根豊監修「日本初期新聞全集」32巻464ページ、平成3年10月、ぺりかん社=原本、 同(2)は同32巻420ページ=同、原紙はTHE JAPAN WEEKLY MAIL Dec 2, 1871.


 資料その6(3)は「明治大正史」の経済編で「米国式農具及び種子類は民部少丞細川潤次郎なるものが博覧会視察の為米国に渡航した際購入して送つたもの」の1つが(5)の「青森県りんご発達史」のリンゴの苗木。アメリカ帰りは明治2年ではないとリンゴでも証明されるのに「畜産発達史」の明治2年は何を証拠にしたものかね。
 これには雇った人名がジヨージ・ア・エツチ・ホールですが、民部省日誌ではジヨシア、ヱツチ、ホール。種藝にはクサキノヤシナヒ、牧畜にはケモノノヤシナヒ(5)と注が付いてますよ。新しい言葉だったんでしょうね。
 それから明治5年2月の「都鄙新聞」8号に「此度大蔵省分局勧農寮ニ於テ諸国ノ農具一ト通ツゝ取纏メ備ヘ置ルゝヨシ国々ニ於テ農具ノ製ハ一様ナラス土地ノ形勢ニ依テ各製造異ナリナレトモ彼ノ地ノ便品ヲ是ノ地ニ用ユルノ事ナキテ以テナリト(6)」という記事があるんですが、このアメリカ分は細川の買ってきた機械じゃないかなあ。この8号はどういうわけか発行されなかったが、ほぼ完成した形で「日本初期新聞全集」に入ってます。
 資料その6(4)は82歳になった細川が木戸孝允の思い出を語った一部です。この「史実参照 木戸松菊公逸話」の「緒言」で著者は木戸公が亡くなって30年以上たってからの旧懐談なので記憶違いがあるのは免れがたい。それで談話速記を精読してちゃんとした文献による略解を付けたと断っています。細川もお年のせいで工部省から出張だったとか、馬牛も輸入したとか眉唾なことを話したため、それはそれとして妻木が資料その2の「吾園叢書」みたいな資料で「著者曰く」を付けたのですね。

資料その6

(1)ジヤパンヘラルド新聞二千四百九十八号
           明治四年辛未十月廿四日刊行

民部省の長官細川潤次郎ハ過日米国にて一季に一度の市を見物し帰国されしか米国滞留の時 御門の御用となるへき結構なる馬車をニウヨルク地名にて誂へり且つ耕作の為め大に辛労を助く便利なる器械を持帰りたり


(2)オークランド新報抄訳
 明治四年辛未九月十九日刊行
 日本官人出立ノ事

○吾輩昨夕新聞ヲ得タリ曰ク本日出帆ノ蒸気アメリカ(船号)ノ旅客多キガ中ニ華盛頓(ワシントン)ノ人ヱス、ペルシヤイン、スミッス君及ビ細川潤次郎君モ乗組タリト<略>細川君ハ日本於テ農業ノ事ヲ委任セラルゝ人ナリ、今度内国事務局執政ノ命ニヨリテ米国ニ来リ過日桑法朗西是格(サンフランシスコ)ニ於テ興業アリシ人工物展覧会ヲ見分シ、加之、大西洋沿海ノ大都会ヲ巡行シ諸邦諸邑ニ至リテ各般ノ製造局ヲ観察シタリ是蓋シ其製造法ヲ日本ニ伝ヘント欲スルナリ同氏帰国ノ時、搬車、蒸気打椿機、種々ノ舟車、乗車、蒸気毛織機械、各種ノ新機械、農具其他必要ノ品物ヲ船ニ積ミタルヲ以テ是ヲ察ルベシ細川君使節トニ為リテ他ニ習慣セル人ノ補助ナク斯ノ如ク諸事整ヘルハ果シテ日本国ニ於テ貴重スベキ人物ナルコトヲ知ルベシ向後我米国ニ使スル者ハ皆此ノ如ク才能アリテ実用ヲ達スベキ者ヲ撰テ委任アランコト、和米両国人民ノ為ニ希望スル所ナリ


(3)明治大正史 明治四年
海外留学生の派遣  鹿児島藩の岩山壮太郎山口藩の三隅市之助両名を耕牧事業講習の為米国へ派遣。
米人技師の雇用  米人ジヨージ・ア・エツチ・ホールを開墾局に雇ひ種藝牧畜の事に従はしめた。
和蘭綿種試作  民部省から和蘭国木綿種を地方に頒ち試作せしめた。
駒場農事試験場の開設  東京市郊外の上目黒村駒場野八万坪を開墾して農事試験場としたが、大日本農史に拠ると「耕地の墾開牧草培養牛舎藩籬築造等総て欧米の方法に倣て之を開行するの順序を議決す」とあるから純洋式の農法を研究した試験場で、しかも当初は畜産を主としものゝやうである。
開拓使官園の設置  これも農事試験場で開拓使に所属し、第一官園を青山南町に、第二官園を青山北町に、第三官園を麻布新笄町に設けたが、その目的は外国から輸入した家畜作物を一応此処で飼育栽培し、風土に馴致した上で更に北海道に移すにあつた。
霞関試験場の設置  東京霞関旧広島藩の邸跡を試験場とし、米国から輸入した農具を以て西洋の穀類蔬菜類を栽培した。これらの米国式農具及び種子類は民部少丞細川潤次郎なるものが博覧会視察の為米国に渡航した際購入して送つたものであつて、麦類の種子は直ちに各県に配布して試作せしめた。


(4)○細川潤次郎(男爵)氏の談話(大正七年二月二十一日)

<略>其の後、私は工部省から農事視察の為に、亜米利加に出張する命を受けた。それがたしか、明治四年の五月であつた。其の要務を早く辨んじて帰朝したので、木戸公が全権副使として、欧米各国巡視の途につかれたのと齟齬いたしたのである。私が渡米する時には、民部権少丞と官を帯びてゐたが、其の不在中に官制が行はれた。其の時に民部省が廃せられて、私は工部少丞となつてをつた。だから管轄が異なつてゐて、農事に関する調査をして、牛羊や植物の苗木などを持ち帰へつたが、其の処理が分からない。最も困つたのは馬の始末であつた。種々詮議の末に、動物は大蔵省に引き渡し、苗木類は開拓使に受け取らして結末を告げたのである。

 著者曰く 細川潤次郎の民部権少丞に任じたのは、明治三年八月十日である。翌四年四月二十三日に、米国出張を命ぜられたが、七月に民部省が廃止せられて、八月に新に工部少丞に任ぜられ、十月十六日に帰朝した。権少丞は七等官で、月俸百円、少丞は六等官で月俸百五十円で、みな奏任であつた。


(5)細川潤次郎の買入 開拓使次官黒田清隆が洋式農具、家畜等とともに穀菜種子、果樹苗木を携えて帰朝したのは明治四年六月であつたが、それより少しおくれて同年十一月民部権少丞細川潤次郎が、アメリカで買い集めた農具、種子、苗木等も横浜に到着した。これが明治に入つてから勧農主務官庁が輸入した最初の外国果樹苗木である。細川は同年四月渡米したのであるが、その任務は六月に開かれたサンフランシスコエ業博覧会を視察したあと、米国東部の農事博覧会を歴観することであつた(大日本農史今世編)、洋式農具及び果穀種苗を輸入しようという発議が民部省内で起つた前後のことで、恐らくそういう任務も委ねられて東部を廻つたものであろう。
 細川がこの時買入れた果樹苗木がどれほどにのぼったものか明らかな記録はない。横濱に到着した苗木が神奈川県にあずけられ、翌年十月頃勧農寮に引き取られた経過は次の記録で残っている。
    掛合書              辛未十二月三日 山田中属
 細川少議官在米中買入之苗木類此頃之船便ニテ御地へ着イタシ候由ニ付御手数ナカラ御取調之上迅速当寮へ向ケ御差廻有之度右運賃ハ於当寮仕払可申候間一時御繰替置有之度此段及御掛合候也
    辛未十二月           勧農寮
 神奈川県御中
 尚以先度器械運賃其外トモ繰替相成居候本文苗木類運賃ト共ニ一同可及御償却候也

 細川が連れてきた緬羊8頭は皇居に近い雉子橋にあった勧農寮の厩構内に入れたら子羊が生まれたことは「主に牛肉と羊肉召し上がった明治天皇」という講義で話してますが、ここでは馬のほかに種牛、種豚も飼っていたから厩舎というより畜舎といべきで馬場もあった。早稲田大学の創設者大隈重信さんは雉子橋に住んだことがあり「大隈侯一言一行」という本に「此邸は、旧幕時代の馬場となつて居たところで、堀によつて細長い形になつて居る点は今見て面白い。(7)」とあることからも馬場があったことは確かです。
 いま、そのあたりは千代田区役所になっていて、区役所前に「大隈重信侯 雉子橋邸跡」の記念碑が建ってます。その9階にある千代田区立図書館に行った序でに撮った写真を見せるから、ちょっと待った。はい、全体が入るよう離れて撮ったので、スライドではちょっとわかりにくいが、石碑のてっぺんに注目。早稲田大学の時計台そっくりになっていて、時計は1時25分に彫ってあるでしょ。創立125周年記念事業として大学と同窓会が建立したと碑文にあるから、その125を時刻で現したんですね。写真の右側の車道を越えると皇居のお堀と清水門があります。

      

 また「皮革産業の先覚者 西村勝三の生涯」によるとね、榎本武揚たち幕府軍がこの馬場の穴蔵に軍用金を隠して函館に逃げた。後でそれを取り出して送金するよう頼まれた西村は、こっそりその金を取りだして沢庵樽に詰め、横浜に送ってドル手形に替え送金した(8)そうだ。穴蔵はオーバーにしても、厩構内はそういう隠し場所が作れるぐらい広かったんですね。
  

参考文献
上記(5)の出典は民部省編「民部省日誌明治四年辛未第二号」1ページ、明治4年、民部省=近デジ本、 (6)は北根豊監修「日本初期新聞全集」35巻140ページ、平成4年4月、ぺりかん社=原本、原紙は明治五年二月「都鄙新聞八号原稿 不刊行」3丁裏、 資料その6(1)は同33巻136ページ、平成3年10月、ぺりかん社=原本、原紙は明治4年11月付万国新聞第9号、 同(2)は同34巻140ページ、明治5年1月付万国新聞3号*面、平成4年2月、ぺりかん社=原本、 同(3)は牧野輝智編「明治大正史」3巻262ページ、昭和5年12月、朝日新聞社=館内限定近デジ本、 同(4)は妻木忠太著「史実参照 木戸松菊公逸話」 479ページ、昭和10年4月、有朋堂書店=同、 同(5)は青森県編「青森県りんご発達史」1巻36ページ、昭和33年3月、青森県=館内限定近デジ本、 (7)は市島謙吉著述「大隈侯一言一行」272ページ、大正11年2月、早稲田大学出版部=近デジ本、 (8)は佐藤栄孝編「皮革産業の先覚者 西村勝三の生涯」83ページ、昭和43年3月、西村翁伝記編纂会(非売品)=館内限定近デジ本


 資料その7(1)はその雉子橋厩舎で飼っていた細川緬羊8頭の明治5年1月分の餌代計算書です。「九両三分永百三十二文二分」とは何だ、分という単位が2つ入っているのは書き間違いじゃないかと解釈に苦しみましたね。実は先に出てくる分と後ろの分は違う単位で、前者は4分で1両なのに対して後者は永という冠付きで区別される分であり、前者の1分は永2500分、1文は永10分だったのです。
 子羊2頭がいたから10頭のはずだが、おっぱいを飲んで干し草などは食べなかったということか8頭で計算して、29日間食べたので延べ232頭、1頭1日42文6分、永426分食べるたから232倍すると永98832分になる。1両が永1万分だから1万で割ると9・8832、9両と永8832分となる。冠無しの分で3分は永7500分、それを永8832分から引くと残りは永1332分、つまり永133文2分と解釈された。省略しましたが、馬の餌代は1頭1日「永二百五拾九文」だから緬羊16頭分ぐらい馬は金がかかるということですね。
 資料その7(2)は明治5年5月、今度は由良守応が送ってきた緬羊牝21頭牡6頭が着いたので、雉子橋の牧牛馬掛邸内の細川緬羊の小屋の隣にもう1軒小屋を作ることにして工費11両を支出してほしい(9)という書類です。このほか久留米県、三池県、柳川県の統合でできた三潴(みづま)県に細川緬羊が産んだ牡1頭を払い下げることを決めた(10)書類も残っています。これぐらい証拠を示せば、自ずと明治2年輸入説は誤りだとわかりますよね。

資料その7

(1) 七九(六) 雉子橋牧牛馬掛邸内繋馬ノ入費ノ件

〔明治四〕
辛未正月晦日    牧牛馬掛 地理大佑由良守応

 合金弐百八両三分永弐百四文九分

内訳<略>
右ハ雉子橋牧牛馬掛邸内御繋馬飼料并ニ小買物代別紙仕訳書之通御座候間御下金有之度此段相伺申候也
  辛未正月

〔別紙〕<略>

未十一月五日          小柴勧農少属

雉子橋邸内種馬飼方之儀西洋ノ法ニ模擬致シ候方入費相減候ニ付
当十一月ヨリ断然右法則ヲ以飼立可仕依テ別紙相当表相添奉申上
候也

倭洋種馬平均飼料相当表<略>

一金九両三分       綿羊八疋正月朔日ヨリ廿九日
  永百三十三文二分   迄日数廿九日延数二百三拾二疋
             但一疋二付永四拾二文六分

   〔明治五〕
  申正月       榛原屋壽平


(2)  七九(二六)米国ヨリ差送ノ綿羊飼立ノ件
  五月八日             中属   小柴京紀

一金拾壱両壱分也

右ハ今般米國在留由良勧農助ヨリ差送侯綿羊牝牡弐十七疋差向飼
立場モ無之最前細川習持皈リ侯綿羊ハ雉子橋邸ニ仮リニ飼立有之
依テハ右在來ノ地続キニ竹木取交犬除ノ仮柵相仕立雨除小舎ヲモ
別帋朱書之通可成丈簡易ニ見積リ申付侯処本文之通相掛侯間至急
取掛ケサセ申度仍御下金御坐侯様致度此段申上侯也

 以前の講義で明治4年、博覧会視察のためアメリカに渡った細川潤次郎と、開拓使顧問として日本へ向かおうとしていたケプロンがサンフランシスコで会っていたことを話しましたね。明治4年のことですよ。細川はケプロンから緬羊がいかに役に立つか、そのとき教わったと思われます。それなのに大正7年になって農商務省農務局長、道家齊が「西洋種の緬羊を最初輸入したるは明治二年即ち細川少議官米国に於てスパニツシユ、メリノー種八頭を購入したるを嚆矢とす、(11)」と雑誌「畜産」に発表した。これを略して明治2年細川輸入説と呼ぶことにしますが、それが信用されて広まり、以来、緬羊関係の本が皆、明治2年細川輸入説となり、資料その1で見るように48年後まで引き継がれて農林省畜産局の「畜産発達史」にまで及んでいるんですなあ。
 しかしですよ、明治9年の内務省火災で、民部省関係の記録のかなり失われたという事情もあるので、道家の明治2年細川輸入説は古い緬羊飼育の思い出みたいなものを元に書いたかも知れないので、私はもっと調べる必要があると、その講義でいったはずです。
 私の毎日のように資料探しをするが、あるとき「満蒙経済事情」という古い雑誌で「本邦に於ける緬羊の沿革」と題する論文を見つけた。大正7年に関東庁が出したその22号は、関東庁の前身、関東都督庁民生部嘱託の旭藤市郎が集めた緬羊関係資料特集でね、旭は陸軍の主計将校だったとか、旭論文の附録資料を「満蒙経済事情」で公開した経緯の説明は省きますが、その「本邦に於ける緬羊の沿革」は、私が探していた明治2年細川輸入説を唱えていて、題名のそばに「大正四年農商務省川島技手調査」とあったんです。道家より3年も前にだ、明治2年細川輸入説を唱えたこの川島技手は本当に農商務省にいたのか、私はすぐ「職員録(甲)」を調べましたね。
 すると川島は明治40年から月寒種牛牧場技手として現れ、翌41年に月寒種畜牧場と改称になっても川島はその儘月寒にいて、明治45年から農務局技手と種畜牧場技手の兼任になる。大正5年に月寒は畜産試験場北海道支場と改称されても川島はその技手兼任の儘でしたが、5月18日付官報で年額千円の千葉県農業技師に転職した(12)ことがわかりました。
  

参考文献
上記(9)の出典は農林省畜産局編「畜産発達史編さん資料 NO.16」第1分冊10ページ、昭和49年、農林省畜産局、原本は農商務省農務局編纂課編「農務顛末抄録」、 (10)は農林省農業総合研究所編「農務顛末」4巻956ページ、「七九(二九)綿羊払下ノ件」より、昭和30年12月、農林省=館内限定近デジ本、原本は農商務省農務局編纂課編「農務顛末」、 資料その7(1)は農林省農業総合研究所編「農務顛末」4巻913ページ、昭和30年12月、農林省=館内限定近デジ本、原本は農商務省農務局編纂課編「農務顛末」、 同(2)は同4巻954ページ=同、 (11)は中央畜産会編「畜産」4巻1号2ページ、大正7年1月、中央畜産会=マイクロフィッシュ、 (12)は明治40年職員録(甲)603ページ、明治40年、印刷局=近デジ本、同41年同610ページ、<以下出版年月は略す>、同42年同687ページ=同、同43年同678ページ=同、同44年同689ページ=同、同45年同656ページと農務局技手として656ページ、同、大正2年同724ページと同686ページ=同、大正3年同795ページと同756ページ=同、大正4年同811ページと同772ページ=同、大正5年同(5月1日現在)833ページと同792ページ=同、大正5年5月18日附官報1137号12ページ、大正6年 職員録(乙)228ページと種畜場分場技師として240ページ、大正6年、印刷局=同


 経歴はつかめたので、次は川島が大正4年に発表したらしい論文「本邦に於ける緬羊の沿革」をを探したのだが、いまだに掲載した本が見つからんのです。わずかに田村一郎が自分の「羊毛の需給と満洲緬羊の将来」の「内地の緬羊事業」に明治2年細川輸入説は大正四年農商務技手川島氏の本邦に於ける緬羊事業の沿革に詳しい(13)と書いているくらいでね。それでだ、緬羊と緬羊事業の違いはあるけど、旭嘱託を信用すれば川島論文は「満蒙経済事情」の「本邦に於ける緬羊の沿革」そのものか、もしくは極めて近い内容のはずだと、川島論文探しを続ける傍ら、川島という人物情報を探していたら、思いがけない展開になったんですよ。
 なんとなんと、北大文書館の山本美穂子さんが北大文書館にある「川嶋一郎関係資料」の解題を「北海道大学大学文書館年報」5号に書ていて、それがPDFになっていたので即読めたんですなあ。つまり川島の島は嶋が正しく明治39年札幌農学校卒という大先輩であり「本邦に於ける緬羊の沿革」と題名の似た論文「本邦に於ける緬羊業の変遷」を大正5年「畜産」に連載した(14)とわかった。こうなりゃ、相撲取りじゃないけど、ごっつぁんです。
 山本さんは「1914年、農商務省に勤務していた川嶋一郎が、下総牧羊場の沿革記録を用い、『本邦における緬羊業の沿革並に現況』を調査してまとめた。当時、農商務省は緬羊飼育奨励の方針をとり、1915年議会では緬羊業奨励案を提出して予算が計上された。川嶋一郎が作成した調査書の概要は、道家斉農務局長の推薦により、1916年、中央畜産会の機関雑誌『畜産』に6回にわたり連載された。(15)」と解説していたのです。そうなればだ、明治2年細川輸入説は「本邦に於ける緬羊業の沿革並びに現況」か「本邦に於ける緬羊業の変遷」から生まれた可能性大ですよね。
 すぐ「畜産」の掲載号を読みましたね。それらは少なくとも1度は目を通した本であり、私としたことが、こんな重要な論文を見逃していたとはね。やはりジンギスカンが先、羊の話は後でとページをめくってしまったんですなあ。慌てる乞食はなんとか、あれですね。
 いいですか「本邦に於ける緬羊業の変遷」の連載第1回にね、ずばり「洋種緬羊の初めて外國より輸入せられたるは明治二年にして細川少議官米國に於て『スパニツシユ、メリノー』種八頭を購入したるを嚆矢とすべし、(16)」と書いてあったんですよ。明治2年細川輸入説は、それこそ、この川嶋の「本邦に於ける緬羊業の変遷」を嚆矢とすべし―だった。いや、まだこの段階ではそこまで言い切れないけど、道家局長は部下の川嶋のここを借用して明治8年の「畜産」に「西洋種の緬羊を最初輸入したるは明治二年即ち細川少議官米国に於てスパニツシユ、メリノー種八頭を購入したるを嚆矢とす、(17)」と書いたに違いないのです。
  

参考文献
上記(13)の出典は田村一郎著「羊毛の需給と満洲緬羊の将来」73ページ、昭和9年5月、松山房=館内限定近デジ本、 (14)と(15)はhttp://eprints.lib.hokudai
.ac.jp/dspace/bitstream/
2115/43387/1/5_167-185.pdf、底本は北海道大学大学文書館編「北海道大学大学文書館年報」5号167ページ、平成22年3月、北海道大学大学文書館、 (16)は中央畜産会編「畜産」2巻5号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、 (17)は中央畜産会編「畜産」4巻1号2ページ、大正7年1月、中央畜産会=マイクロフィッシュ


 川嶋論文が公表される以前は、欧米産緬羊輸入は明治5年の由良守応、明治6年の岩山敬義、明治9年の大久保利通のいずれかを嚆矢と唱えたことがわかるように資料その8に纏めました。明治40年の新聞記事が多いのは、未年に因み何か載せているはずとマイクロフィルムを読んで集めたからです。中央の畜産関係者の眼中にはなかったらしいが、開拓使がケプロンの勧めで緬羊9頭輸入を始めたのは明治5年(18)からなので、川嶋は「本邦に於ける緬羊業の変遷」では、これをちゃんと盛り込んでいるのは札幌農学校OBならではの視点ですね。
 ああ、それからね、明治24年に出た大林雄也編「大日本産業事蹟 上巻」も「本邦種牛、馬、羊、豚維新後舶来の事」(19)で緬羊に触れていますが、資料その8(1)の「本邦牧畜ノ起原質問」の答えと同じなので省略してます。

資料その8

(1)本邦牧畜ノ起原質問     東京府武藏國芝区田村町 加藤懋

第二項 泰西産ノ種牛、馬、羊、豚ヲ本邦ニ移セシハ何レノ年代ニ於テ何レノ地方ニ輸入セシヲ以テ創始トナスカ又爾後輸入セシ種畜ノ頭数ハ若干ニシテ之ヲ畜養セシハ何レノ地方ナルヤ

               牧畜科農藝委員  后藤達三

第二項 始メテ泰西産ノ種牛、羊ヲ本邦ニ輸入セシハ去ル明治六年八月岩山直樹君[今敬義ト称ス官農商務権大書記官タリ君往キニ農事取調委員トシテ米国其他二派遣セラル]カ純粋短角牛(シヨルト、ホルン)種牡牝三頭「スパニイシュ、メリノオ」羊「シレシヤン、メリノオ」羊「ソルブシルダオン」羊ト他牡牝四拾頭ヲ英米ヨリ牽テ帰朝セラシヲ創始トス是レ等ノ種畜ハ初メ旧勧業寮所轄東京内藤新宿試験場ニ於テ飼養セシカ後下総牧羊場ヲ開カルゝニ迨ヒ羊ヲ此ニ移シ取香種畜場ヲ設ケラルゝニ至リテ牛ヲ是ニ移サレタリ又馬ハ明治八年八月洋種乗用農用及ヒ貨車用ノ良馬購求ノ為メ旧勧業寮ヨリ吏員ヲ米国ニ派遣セラレタルニ起源ス爾後明治十年十月洋種牡牝牛貸与規則ヲ設ケラレシヨリ各地方其貸与ヲ得テ飼育スル者甚ダ多シ宜シク農務局年報ニ就キテ参照スヘシ
附言明治初年ノ頃某会社アリ豚ヲ英米ヨリ購入シタルコトアリシカ其事専ラ流行ヲ逐ヒ射利ノ目的ニ出テクルヲ以テ幾何モナク廃絶シ爾後復タ豚ヲ外國ヨリ購ヒ之カ蕃殖ヲ図ル者アルヲ聞カス


(2) 我邦牧畜業の前途如何(承前)
            獣医学士 佐藤清明

大日本農史に拠れは七年以前より早や明治二年に牛十五頭豕二十四頭を英国商人より購入するを始とし五年には牛羊共に米国より数頭購求せることを明に記載せり其後米国より濠洲より清国より牛馬羊豕の輸入殆と毎年絶へさりし又驢馬の如き山羊の如きも明治九年に清国より輸入するもの驢は百五六十頭山羊は二十五頭なりし<略>


(3)  ◎本邦の牧羊業
 左に掲ぐるハ目下馬匹調査会に列し居る北海道庁真駒内御料牧場長たる村上要信氏の談話なり氏ハ二十余年來身を牧畜業に委し頗る斯業の為めに苦心したる人なれバ時節柄特に茲に掲ぐることとなしぬ
本邦へ綿羊の入りたるハ明治八年と同十二年に亜米利加及濠洲「ヴイクトリア」よりメリノー、サウスダウン、リンコルン、コツフオールド、スロツプシールダウン、の五種を輸入したるにあり最初下総其他の種牧場に置き繁殖を計りしが其後支那綿羊を輸入するに当つてフートロツト病及肝虫病(フエラリア)の流行の為め死没せし者多し<略>


(4)明治40年正月の新聞記事

朝日新聞

本邦に於ては明治八年に至るまで、牧羊の事なかりき。只往古より琉球に山羊を産し現今十三万頭の多きに達せると、小笠原諸島にも亦山羊を産す(往年米国水師提督ペルリ氏の放ちたるものより蕃殖せしなりと云ふ)るものありしのみ。此故に緬羊の牧業は極めて近代の歴史あるに過ぎず左に其概要を述べ、聊か以て世人をして当局者が辛苦経営の一端を知らしむるの料とせん。
牧羊の事たる、衣食住三者中の二要を兼ね人生須臾も欠くべからざるものに属す。従つて開港以来逐年絨布の需要を増加し、多額の国幣を費して之を海外に仰ぐの状態なり。されど海外の供給を仰ぐのみにては、到底一般の需用を充たすに由なく、且之が為に多額の金銭を海外に投ずるは、国家経済上亦黙視すべからざるを以て、曩に文部省より岩山敬義氏等を欧米に派遣し、専ら開墾牧畜の事業に就き、実地調査せしむる所あり。此等諸氏の帰朝後、漸次斯種の事業を興さんと謀るに際し、適々米国人ジヨンス氏も亦斯業に就き建白する所あり。内務省乃ち此言を納れ明治八年九月故参議兼内務卿大久保利通公に依つて、創めて下総に一大牧場を拓き、海外良好の種畜を索め、畜産の改良蕃殖を謀り、其増殖するに従ひて、順次之を各地方に配布し、大に牧羊業の振興を企てんとせり。<略>(明治40年1月1日付朝日新聞朝刊5面、須藤義衛門「羊(三)」より)

東京日日新聞

羊は維新以前には我邦殆んど牧養するものはありませぬ唯珍しき動物として和蘭支那葡萄牙等の諸国より輸入したるに過ぎませぬ明治八年に故大久保公が下総の地に牧羊場を設けて飼養を始められましたが抑も我国牧羊の嚆矢でありました是より以來諸所に飼養を試みましたが何分牧畜事業に慣れぬ上に大氣の冷たり旦つ湿り勝ちで雨の多い我風土に慣れない体質の繊弱な改良種を輸入して試みました故仔羊は充分に育たず毛は悪しくなり親も次第に斃れて端なくも失敗に終はり遂に羊は我風土に適せないものであるとの概念を抱かしむるに至りましたが後ち種々と羊の飼養法に研究を重ねて追々本邦の気候に慣るゝものを見出して今日では稍々望みの多いものとなりました<略>(明治40年1月6日付東京日日新聞朝刊4面、松尾寛「牧羊短話」より)

読売新聞

▲日本の牧羊 然るに我國には羊の居た様な記録は見つからぬ尤も支那及び和蘭葡萄牙等から輸入されたことはあるやうだが只珍動物を送るといふ位のことで実用的に輸入したのは維新後のことである。明治八九年頃時の内務卿大久保利通氏は大に資を投じて下総国の三里塚に香取種畜場と相対して、牧羊場を起し盛に羊を飼養し、これを民間にも配布したが、夏殊に梅雨の候には斃死するもの多く好結果を得なかつた、こゝに於て諸方に種々なる説をなすものが出た、其主なるはレイン氏(独人)、等二三の外国人は皆日本の多湿なる風土に羊の飼育は適せずと主張した。又Janson氏の如きは日本で羊の死ぬのを以つて胃肝臓の寄生虫の然らしむる所だと称へそれからは只維持的に飼養するに止つてゐたが順次土地に順化した関係もあらうと飼養法にも熟練し衛生にも注意する様になつた為め漸く好成績を得て、今は盛岡在で岩崎氏の経営にかゝる小岩井農場等にも盛に羊を飼養して好結果を得、今や北海道でも牧羊場を始めんとするに至つた、
(明治40年1月4日付読売新聞朝刊3面「羊の話」より)

都新聞

年立ちかへる新玉の年に因みある牧羊事業が、久しく我国民に見捨てられて居つたが、因みある年に向ふて、偶然にも再び其の頭を擡げ來り茲に復活の生命を得んとしつゝあるは奇とすべくも又た喜ぶべき事である、此の復活の原由を説くに先だち、我国牧羊業の由来を討ぬるのも又た一興であらう▲我国牧羊業の起源 山羊は余程以前から居つたけれど、緬羊の牧養を始められたのは明治維新の後である、即ち明治八年に米国人ジヨンス氏が、牧羊の必要なる事を、時の内務卿大久保利通氏に説きしに、卿は其説を容れて一方に牧羊場を拓くと同時に、千住に製絨場を起した、今の三千五百万町歩の大地積を有する下総の御料牧場は、即ち是である、(明治40年1月1日付都新聞朝刊4面「我が邦の/牧羊業(其の起源、飼育法、利益)」)

時事新報

歳の干支に縁みて我邦に於ける牧羊の事を聞くに今より三十余年の前故大久保内務卿が種畜場と牧羊場とを下総に設け始めて牛馬羊の種畜を海外より輸入して牧畜奨励の端を示せり是れ実に我邦牧羊の嚆矢なりとぞ今の下総御料牧場は即ち是れにて同場に飼養せらるゝ緬羊目下の数は千三百一頭その種類はラムブリーメリノー種、第三回改良種、第二回改良種、第一回改良種、二分五厘改良種、子グレチーメリノー種、サウスダウン種等にして常に改良方法を講ずると共に民間の希望者に払下げて牧羊の普及を謀り居るよし
(明治40年1月1日付時事新報朝刊2面「牧羊の嚆矢 下総御料牧場の緬羊」より)

中央新聞

羅紗を衣服に作らなかつた我国では緬羊を畜ふことは維新前までは行はれて居なかつたが万事更新産業の大改新に着手せられた故大久保公の遺業の一として我国にも牧羊といふことを現実にすることとなつた
我国で羊を畜つて軍服其他の羅紗を内地の原料で作るやうにしなければならぬといふ大久保公の意見が今の下総御料牧場となつたものである
何でも明治八年の事である丁度米国耕牧の視察をして帰つて來た故岩山敬義氏が主となつて米国牧羊家ジヨンス氏管理の下に牧場を佐倉の旧牧場に卜し大久保氏自身に出張して土地を巡検するなど頗る大熱心で牛馬羊を畜ふこととなつてソレ種牛ソレ種鳥と手に触るゝに従つて買入れたるが緬羊もジヨンス氏清国に出張して千三百頭を購入し て帰つて來た<略>(明治40年1月1日付中央新聞朝刊2面「我國の牧羊者」より)


(5)本邦牧羊の沿革

之<尽波注 安政元年>より明治年間に至るまで牧羊に関して何等記録の徴すべきなし。之れ実際国内に於て牧羊の形跡なきに因るべし。而して明治年間の事項は吾人の記憶に新なれば特に之を記するの要甚だ少しと雖も試みに之を列挙すれば
 明治五年五月十七日大蔵省に於て在米国勧業権助由良守応等より送致せる綿羊を仮に雉子橋外の邸内に飼養す。(御入用筋廻議綴込)
 次いで明治六年三月十四日租税寮に於て綿羊の良種を得んと欲するものは牝羊を勧業課の試験場に牽致して孳尾を請ふことを得せしめんとす尋て之を広告す。(租税寮牧畜廻議簿)


(6)第七編 羊

<略>我国に於ても古書に比豆之なる語あるを見れば、古、支那より輸入せられたるものであらう、併し其毛肉を利用せんとして輸入せられたるは、明治八年故大久保利通公である、公は地を下総に卜して牧羊場を設け、洋人二名をしてこれを牧養せしめたるも、意の如く成績を挙げることが出来なかつた、然れども現今我国に多少牧羊の行はれつゝあるのは全く公の英断の賚である、


(7)(2)下総御料牧場に於ける育羊の趨勢

 日本の歴史に徴すれば古来我国には緬羊はなかつたもので、何時代に輸入したものであるかは明かでないけれども支那より輸入し來つた事と和蘭、葡萄牙等より輸入したる事とは明かである。其頃は唯珍らしき動物として持來りしのみで、毛用肉用として輸入したるは明治維新以後の事である、そして大日本農史に就き之を見るに、「明治五年五月十七日在米国勧農助由良守応等より送致せる緬羊を、仮に雉子橋外の邸内に厨養す」とあれど、事実上輸入し來りたるは明治八年に故大久保卿が地を下総に卜して牧羊場を設けたるが其飼育の始まりである。

  

参考文献
上記(18)の出典は中央畜産会編「畜産」2巻6号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、 (19)は大林雄也編「大日本産業事蹟 上巻」269ページ、明治24年10月、目黒十郎=近デジ本、 資料その8(1)は大日本農会編「大日本農会報告」21号20ページ、明治16年3月、大日本農会=館内限定近デジ本、 同(2)は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」83号1ページ、明治25年6月25日、牧畜雑誌社=マイクロフィッシュ、 同(3)は明治25年10月26日付読売新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 同(4)はいずれもマイクロフィルムより、 同(5)は小谷武治著「羊と山羊」初版15ページ、明治45年4月、丸山舎=近デジ本、 同(6)は西川勝蔵、岸本雄二、岩田勇著「通俗畜産大観」536ページ、大正元年8月、帝国畜産奨励会=同、 同(7)は長崎発生著「実験緬羊飼養法」増訂6版19ページ、大正9年1月、長隆舎=同、初版は大正4年8月発行なので採録


 さらに山本さんのお陰で北大図書館に川嶋さんの「吾が半生の思い出」があるとわかったので、さっそく借りて読みました。沿革と変遷の両論文の思い出を期待したんですがね、淡々とした記述で、ちょっと当てが外れたけど仕方がない。論文を書いたころを資料その9に引用しました。
 要するに「本邦緬羊業の沿革を具体的に記述したものは殆ど無かった」ので川島さんが調べてみた。資料を集めたところ勤め先の「畜産課」に「下総牧羊場の沿革記録」が保存されていて大助かりした。書き上げた調査書を上司などに見せたら「道家局長の注意」を引き「局長命令」で「この調査書の一部」が「畜産」に連載されたということですね。それはいいのですが、私が気になるのは川島さんは「我が国緬羊業嚆矢である下総牧羊場の沿革記録」と書き、細川少議官による明治2年輸入が我が国の緬羊業嚆矢と書いていない点です。
 たった8頭であり雉子橋の牧牛馬掛邸内で飼った後どうしたのかわからないからか、または川島さん本人は多数頭放牧でなければ緬羊業と呼べないとして触れなかったのか。もしかすると細川少議官なんかすっかり忘れていたのかも知れません。はい、資料その9が「吾が半生の思い出」です。

資料その9

 農務局長は下岡忠治氏に代わって道家斉氏がなられた。極めて几帳面なお爺さんであった。間もなく畜産課長の更迭があり、新課長には月田藤三郎氏がなり、旧課長の湯地彦二氏は月寒種畜場長に転勤を命ぜられた。左遷であったので不平満々であったろうが、外務大臣でも外国大公使になることもあるんだからと言へ慰められたとのことであった。そうして岩波君が本省詰めとなった。<略>

 私は我が国に緬羊が輸入されてからの沿革を調べてみようと思つたので、色々と参考書を集めた。ところが幸いにも我が国緬羊業嚆矢である下総牧羊場の沿革記録が畜産課の引き出しの中に蔵はれてあったので、これが非常な参考になって、私の調査に精彩を添えてくれた。私は本邦緬羊業の過去および現在について一通り記述した。そのときの日本現在の緬羊頭数は僅かに三千余頭に過ぎなかった。
 そこでこの出来上がった調査書を上局に供覧したのである。ところが丁度その頃は農商務省でも緬羊奨励の機運が勃興してゐたときなのでこの調査書は道家局長の注意を引いた。今までは本邦緬羊業の沿革を具体的に記述したものは殆ど無かったのである。そこで局長の命令でこの調査書の一部が中央畜産会の機関雑誌である「畜産」誌上に毎号載せられて世に発表せられたのである。
 大正四年の第○○回議会に漸く緬羊業の政府奨励案が提出されて豫算が計上された。原來農商務省の緬羊奨励は明治四十一年に月寒種畜牧場に初めて英国からシュロップシャー種サウスダウン種の二種類八十五頭を輸入してから毎年継続して輸入せられ、種羊の払下げ配布をしてゐたのであるが、これから愈々本格的な奨励を企て、月寒と茨城の友部に種羊場を設けることになったのである。
 警視庁の技師で農商務省技師を兼ねてゐた佐藤悠次郎氏は緬羊について興味を持たれ研鑽をしてゐられたが、私のこの調査書の発表されたのを見て、とうとう君に緬羊業の先鞭をつけられたなあと言はれた。
 農商務省として緬羊を奨励することにはなったが、畜産課には緬羊に関する専門の知識を持った技術者は誰れも居なかった。私が月寒でその方の経験があるというので、その衝に當らなければならなかった。そこで道家局長の命令で緬羊に関する色々の調査などをさせられたが、あるときは栃木縣西那須野にある松方侯爵経営の農場に緬羊調査を命ぜられて出張した。停車場まで農場から馬車を出迎へによこされたり、農場ではひどく歓待されて貴賓のような待遇を受けて恐縮したこともある。

 資料その9では省略しましたが、川嶋さんは「愛知県畜産共進会が安城町で開かれた。」とき牛を審査し、その後「犬、『チン』の産地枇杷島へ行って」チンの調査をして「その記事を畜産雑誌で発表した。(20)」と書いています。この共進会が催されたのは明治44年10月(21)で翌年、正しくは「牧畜雑誌」に「愛知県下に於ける狆の調査(22)」が載ってます。川嶋さんの雑誌デビューは意外にもワンちゃんでした。
 でも川嶋さんは緬羊のプロとして起用され、大正2年、やはり同じ「牧畜雑誌」に「農家副業としての緬羊業」という題で2回、「緬羊の飼育」と改題して3回計5回にわたり飼育法を連載しています。「我が国に初めて緬羊の輸入せられて以来殆んど四十年の歳月を閲せるにも関らず現在本邦に於ける之れが飼育頭数は僅かに四千頭に過ぎずして之れを他の牛馬豚鶏が逐年進歩発達の続著きに較ぶるときは其の増殖の程度頗る遅々として進まざるは誠に遺憾なりとす(23)」というのが1回目の冒頭です。きっかり40年経過とすれば明治6年となるけど、殆ど40年というからそれより後となる。明治8年からの下総牧羊場構想を頭に置いて書いたように思われます。その後で漠然とでも明治2年細川輸入説を聞き、それで外国種輸入の始まりをきちんと調べる必要があると資料集めを始めたことが考えられます。
 川嶋さんに調査書を「畜産」に載せるよう命令した道家局長の経歴も調べました。安政4年2月生まれ、農商務省北海道事業管理局に入ったのは明治17年10月で27歳(24)だったと叙勲の記録からわかるけど、それまで何をしていたのかわからん。アジア歴史資料センターで見つけた経歴書はなぜか明治17年までの半ページは半ば消されていてね。明治6年3月に東京外国語学校に入ってフランス語を学び13年からフランス公使館で通訳を務めた(25)と読める。これらから計算すると道家が水産局長から農務局長に横滑りしたのは大正元年末で55歳、川嶋32歳。人生50年といった時代だから道家を爺さん扱いしたのは無理からぬところですかな。
 大正3年暮れの読売新聞に「農商務省にては來る大正四年度より約二萬円を経常部に計上して種緬羊飼育に関する経費に充つることに決定したり(26)」 という道家農務局長談が出ているが、羊が増えると当然、肉の利用問題が生じますよね。それで道家は豚肉料理の権威、田中宏に羊肉料理も考えるよう勧めた。田中は「畜産」の「羊肉料理」の連載開始に当たり「即余は曩に道家農務局長の勧めに依り、拙案の豚肉調理法に基き、羊肉の調理を試みたるに、何等の困難もなく忽ち数十種を拵へ得たり(27)」と執筆の動機を述べている。伊達に年は取っていなかったのです。
  

参考文献
上記資料その9の出典は川嶋一郎著、川嶋昭二編「吾が半世の思い出」115ページ、平成4年3月、川嶋昭二氏による私家版、 (20)は同121ページ、同 (21)は第三回愛知県畜産・第四回愛知県産馬共進会編「第三回愛知県畜産・第四回愛知県産馬共進会事務報告」5ページ、大正10年3月、第三回愛知県畜産・第四回愛知県産馬共進会=近デジ本、 (22)は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」317号28ページ、明治45年3月1日、牧畜雑誌社=原本、 (23)は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」330号34ページ、大正2年4月、牧畜雑誌社=マイクロフィッシュ、 (24)は総理府賞勲局編「特別叙勲類纂(死没者)」下巻556ページ、昭和59年3月、大蔵省印刷局=原本、 (25)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A06051168100、枢密院文書・枢密院高等官転免履歴書 明治ノ一(国立公文書館)」、 (26)は大正3年12月4日付読売新聞朝刊3面=マイクロフィルム、 (27)は中央畜産会編「畜産」5巻1号47ページ、大正5年1月、中央畜産会=マイクロフィッシュ、


 川嶋さんの「変遷」をみると輸入緬羊の到着年月について「洋種緬羊の初めて外國より輸入せられたるは明治二年にして細川少議官米國に於て『スパニツシユ、メリノー』種八頭を購入したるを嚆矢とすべし(28)」で何月到着とは書いていないのに、その次の由良守応は「明治五年五月十七日(29)」、3番目の岩山壮太郎は「翌六年八月(30)」と月まで書いている。明治2年だけなのは畜産課に残っていた「下総牧羊場の沿革記録」通りと思われます。
 もし資料探しで「新聞雑誌」26号を読んだとしたら「昨年細川省議官『米利堅』国ヨリ帰朝ノ節諸種苗及ビ耕作器械等ヲ携ラレタリ其中綿羊八匹当時雉子橋御門外官邸ニアリ(31)」なので、全部で8頭とはわかるけれど、明治8年までの統計表にある牝6牡2の内訳はわからない。
 でも農務局纂訂の「大日本農史 近世農史巻之三」は読んでますね。明治5年5月の部の「十七日大蔵省ニ於テ在米勧農助由良守応等ヨリ送致セル綿羊ヲ仮リニ雉子橋外ノ邸内ニ飼養ス[御入用筋廻議綴込](32)」と、同6年8月28日の部の「曩ニ大蔵省ノ命ヲ以テ岩山壮太郎ノ洋行スルヤ専ラ牧畜ノ業務ヲ研究シ兼テ農事ヲ観察セリ是月各種ノ綿羊数十頭及ヒ英米両国ノ農具、穀菜牧草等ノ種子数百種ヲ携ヘテ米国ヨリ帰朝ス[勧農局革録等](33)」を取り込んでいるからです。
 細川のアメリカ出張はその前にある「近世農史巻之二」にあり、川嶋さんは明治4年の「同年四月三日本年六月米国桑港ニ工業博覧会アルヲ以テ出品セントスル者ハ随意申請セシム尋テ民部権少丞細川潤次郎ヲ遣ハシ該会ニ臨ミ且ツ該国東部ノ農事博覧会ヲ歴観セシム[布告全書新国記行等](34)」と、11月の部の「七日曩ニ民部権少丞細川潤二郎ノ米国ニ到ルヤ各処博覧会歴観ノ途次菓苗穀菜種及ヒ犁鎌播種器剉芻器等ヲ購入シテ我国ニ輸送ス是ノ日勧農寮ヨリ神奈川県ニ照会シテ之ヲ東京ニ逓送セシム[勧農寮廻議新国紀行]」(35)」は読んだかも知れん。だが、緬羊購入と明記してないので、牡牝別の頭数も書いてあった「下総牧羊場の沿革記録」の明治2年を信用したことが考えられます。「本邦に於ける緬羊業の変遷」の中で明治2年が出てくる5カ所を抜き出したのが資料その10で、太字がキーワード、いや、長いからキーフレーズというべきでしょうね。

資料その10

   本邦に於ける緬羊業の変遷
                農学士 川島一郎

(一)明治以前の緬羊<略>

(二)明治初年頃の緬羊 明治初年頃に於ける緬羊の記事に就ては殆んど文書の徴すべきものなきを以て之が沿革を知るに由なけれども、恐らくは當時未だ飼養せられざりしものなるべく、唯だ前章にも記述せる如く鹿児島県伊唐島に数頭蕃殖し居りたるが如きも、之れとても単に試牧に止まりて未だ家畜として之が飼養を試むるには至らざりし。
 洋種緬羊の初めて外國より輸入せられたるは明治二年にして細川少議官米國に於て「スパニツシユ、メリノー」種八頭を購入したるを嚆矢とすべし、其の後明治五年五月十七日在米國勧農助由良応等の購入せる緬羊到著せしにより仮に之を勧農寮の所管たる雉子橋外の邸内に飼養したり、翌六年八月には曩に農事牧畜調査の為め米國に差遣せられたる岩山壮太郎各種類の緬羊数十頭を携へて帰朝せり、八年には武田昌治支那羊百二十四頭を清國より購入し又横濱に於て洋種緬羊九頭を購入せり。
 以上述べたるは明治八年内務省に於て牧羊奨励事業開始以前本邦に輸入せられたる緬羊の沿革とす。
 而して當時に於ける牧羊業に關する政府の施設としては明治七年一月牧畜事務の大藏省より内務省勧業寮に属してより以來は勧業寮試験場に於て蕃殖せる種畜は府県に頒ち或は當業者に払下げ又は貸與を行ひたり。
 改良蕃殖に關しては既に明治六年以來開拓使、租税寮及勧業寮等に於て緬羊の良種を得んと欲するものは牝羊を牽致して孳尾を請ふベき旨を廣告して民有緬羊の蕃殖を計りたれども當時に於ける牧羊業は尚ほ極めて微々たるものにして全國に於ける飼養頭数は僅に二百余頭に過ぎざる有様なりき。
(三)明治八年以降に於ける緬羊(緬羊奨励事業の開始) 明治維新後欧米文物の輸入と共に絨布の需用も亦逐年其の数を増加し年年多額の羊毛製品を海外に仰がざるべからざるに至るや国家経済上牧羊業の決して等閑に附すべからざるは夙に具眼者の注目するところなりしを以て明治二年以降漸次之を輸入して勧業寮試験場等に於て試育をなし、又岩山敬義等を欧米各国に派遣して専ら開墾牧畜の事業につき実地調査を為さしめ帰朝の後漸次此等の事業を興さんことを計れり。<略>
(中央畜産会編「畜産」2巻5号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、)

 本邦に於ける緬羊業の変遷(続)
                農学士 川島一郎

二節、本邦に輸入せられたる緬羊

 明治以前にも緬羊の本邦に輸入せられたることは既に前章に述べたるが如くなれども其の種類頭数及産地等は詳ならず。明治維新後に於ては明治二年米国より西班牙メリノー種八頭を輸入したるを初めとし、其の後大蔵省及内務省にて屡屡之を輸入したるが、明治八年牧羊業奨励の議決し下総牧羊場の創設せらるゝや、盛んに種畜を海外より輸入し、又開拓使に於ても之が奨励を計らむが為めに米国より屡々輸入したるを以て明治十三年迄に輸入せし頭数実に六千余頭に及べり。
 然るに当時諸種の疾病続発して斃死するもの多く、加ふるに之が飼育管理に熟練せざりしを以て斯業に対する将来の見込立たず、一時之が奨励を中止せざるべからざるに至り、従つて輸入を企つるものなりしが、降つて明治三十四年以来小岩井農場に於て「シユロツプシヤー」種を英国より輸入して之が飼育を開始し、又農商務省に於ても明治四十一年以降種羊を英国より輸入し其の他二三牧羊場に於て輸入をなしたるものあり、左に明治初年以降種畜として輸入せられたるものゝ頭数を示す。
 明治二年以来同八年迄に大蔵省及内務省に於て輸入したるは約百八十余頭にして内藤新宿試験場内に之を繋養して試牧せしものゝ頭数左の如し、
   年次    種       頭数        産地
                牡  牝   計   
明治二年 スパニツシユメリノー 二  六   八
同 六年 シリシアンメリノー  一  二   三
同    シユロツプシヤー   一  二   三
同    メリノー       ― 三一  三一
同    サウスダウン     一  二   三
同 八年 蒙古羊        四 三八  四二
同    揚州羊        ?  ?  八二
同    サウスダウン     二  二   四
同    リンコーン      ?  ?   三
同    スパニツシユメリノー ?  ?   二
 下総牧羊場<略>

  

参考文献
上記(28)と(29)と(30)の出典は中央畜産会編「畜産」2巻5号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、 (31)は北根豊監修「日本初期新聞全集」34巻117ページ、平成4年2月、ぺりかん社=原本、原紙は明治5年1月付「新聞雑誌」26号3丁裏、明治5年1月、 (32)は農商務省農務局編「大日本農史 今世巻之三」96ページ、明治24年7月、博文館=館内限定近デジ本、 (33)は同124ページ、同、 (34)は同「今世巻之二」65ページ、同、 (35)は同81ページ、同、 資料その10は中央畜産会編「畜産」2巻6号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、


 大正4年に川嶋技手が作成した調査書「本邦に於ける緬羊業の沿革」と思われる文書がアジア歴史資料センターの外交関係資料「蒙古農牧事業関係雑件」の中にあります。これが見つかるまで私は「満蒙経済事情」22号に載った「本邦に於ける緬羊の沿革」に近いはずと調べてたんだが、これは「蒙古農牧事業関係雑件」の中の片仮名書きの「本邦ニ於ケル緬羊業ノ沿革」に句読点、濁点と送り仮名を加えて読みやすくしたものとわかった。
 インターネットで見ると、この資料全体の表紙は「外務省記録/自大正七年一月」と「蒙古農牧事業関係雑件/(別冊)関東都督府調査書」となってますが、その綴じ込みの次の表紙は「極秘/大正七年一月稿/満蒙ニ於ケル羊毛改良経営機関私見/関東都督府/陸軍三等主計正 旭藤市郎」だ。その「舌代」には「満蒙ニ於ケル羊毛改良経営機関設立ノ必要ナルハ万人ノ均シク認ムル所ナリ唯如何ナル形式、如何ナル程度ニ於テスベキカガ問題タルベシ予ハ一介ノ武弁専門的技術ニ傚ハス加之精細ニ亙リ調査スルノ時日ヲ有セス随感随筆的ニ雑然ト羅列セルニ過ギスシテ不備ノ点鮮少ナラサルヲ自覚ス若シ一部分タリトモ研究者ノ参考トナルアラバ幸甚之ニ過ギズ矣/大正七年一月 陸軍三等主計正 旭藤市郎(36)」と書いてあるのです。
 早い話が、旭嘱託は大正7年に関東都督府を通じてね、外務省に対して満鐵や東拓と呼ばれた東洋拓殖株式會社などに羊毛改良は委せておけない、日中蒙3国合同で緬羊の品種改良を大規模に進め、羊毛を増産する仮称「「中日墾牧公司」を作ろうという大胆な提案をした。それで見開き2ページを1コマにした写真で合計298コマにもなるこの資料が外務省に残っていたのです。
 旭嘱託は「中日墾牧公司創立要領」として@名称A組織B目的C本、支社出張所位置D資本E役員F業務G保安―は定款に書かねばならんだろうと案文を示してね。さらに経営する際、問題となると思われる@小会社ノ分立、個人経営ノ併合A改良ヲ迅速ナラシムルノ手段B蒙古王公ノ懐柔C経営地域D喇嘛教ノ利用E種牧場及模範牧場F管理法ノ改善G緬羊ノ所有H金融機関I羊毛ノ買付J内地当業者トノ連絡K製絨工場L羊皮類ノ販路M羊肉ノ処分(37)―の各項に短い説明を付け、詳細は別冊参考資料を見るようにと分厚い資料が付けています。
 ジンパ学としてMの羊肉の消費ルートが気になるのですが「支那ハ肉食国ナルカ故ニ羊肉ノ処分ニ付テハ強テ研究ヲ要セサルベシ(38)」と、あっさり片付けています。当時としては羊毛はほしいけど、羊肉はわざわざ日本国内に運んで食べるには及ばんとされたんですなあ。
 3分冊の3冊目の11コマからが探していた「本邦ニ於ケル緬羊業ノ沿革/(大正四年農商務省川島技手調査)(39)」で、関東都督府の「満蒙経済事情」22号に載った「本邦に於ける緬羊の沿革」とほぼ同文です。これを「沿革」と呼び「畜産」連載分を「変遷」と呼ぶことにして、両者の構成を資料その11(1)に示しました。
 大きな違いは「沿革」の4の各府県の飼育状況と6の朝鮮の飼育飼育状況が「変遷」では削除されてね「沿革」の5の「下総御料牧場緬羊飼育の状況」は「下総御料牧場要覧に詳なるを以て略す」だけだったので「変遷」では、新たに明治8年から18年までの経過を約1500字で説明したことです。
 資料その11(2)では「沿革」の「二 明治初年ニ於ケル緬羊業」と「変遷」のその箇所を並べて違いを示しました。上がオリジナルとみられる「沿革」で、かつてトウフといったものだが、どちらかで消えた箇所には□を並べた。全部これ式でやったら紙がたまらんから「三 明治八年以降ニ於ケル緬羊業」は「変遷」で加えられた字句、大抵読点だが、下線で示し「沿革」にあったのに「変遷」で消えた字句は赤字で示しておきました。ただ川嶋調査書が関東都督府の旭嘱託とか三菱商事の田村の手に渡ったのか経緯がわからん。私はやはり道家が少数の緬羊研究者に出来たて調査書のコピーを配るよう指示したとみますね。旭嘱託が「変遷」に取り替えなかったのは、ほぼ同じ中身だし各府県と朝鮮の状況がわかる「沿革」の方が役に立つと判断したからでしょう。東京・飯倉の外務省外交史料館に現物があるから、いずれ撮影させてもらうつもりです。

資料その11

(1)「沿革」と「変遷」の構成比較 
 
  「沿革」
一、明治以前ニ於ケル緬羊
二、明治初年ニ於ケル緬羊
三、明治八年以降ニ於ケル緬羊
  イ、緬羊奨励事業ノ開始
  ロ、本邦ニ輸入セラレタル緬羊
  ハ、本邦ニ於ケ緬羊ノ種類
  ニ、緬羊飼育ノ状況
  ホ、緬羊ノ貸與
  ヘ、羊毛ノ買上
四、各府県ニ於ケル緬羊飼育ノ状況
五、下総御料牧場緬羊飼育ノ状況
六、朝鮮ニ於ケル緬羊飼育ノ状況


  「変遷」
(一)明治以前の緬羊
(二)明治初年頃の緬羊
(三)明治八年以降の緬羊(緬羊奨励事業の開始)
             =「沿革」のイに対応する
         【以上5号】
 二節、本邦に輸入せられたる緬羊=同ロに対応する
         【以上6号】
 第三節 本邦に於け緬羊の種類 =同ハに対応する
 第四節 緬羊飼育の状況=同ニに対応する
         【以上7号】
 第五節  緬羊の貸与=同ホに対応する
         【以上8号】
 第六節  羊毛の買上=同ヘに対応する
         【以上9号】
 第四章 下総御料牧場に於ける緬羊=新規
  第一節 下総牧羊場及下総種畜場時代
   一、牧羊場の創設
   二、緬羊の輸入
         【以上10号】


(2)「本邦ニ於ケル緬羊業ノ沿革」と「変遷」と相違箇所

  一 明治以前ニ於ケル緬羊<略>
  □ □□□□□□□□□□□<略>

  二 明治初年ニ於ケル緬羊業
  □ □□□□□□□□□□□

 
□□□□□□□□□□□ 明治初年頃ニ於ケル緬羊業ノ記事ニ就テハ殆ント文
(二)明治初年頃の緬羊 明治初年頃に於ける緬羊業の記事に就ては殆んど文

書ノ徴スヘキモノナキヲ以テ之カ沿革ヲ知ルニ由ナケレトモ恐クハ當時未
書の徴すべきものなきを以て之が沿革を知るに由なけれども、恐らくは當時未

タ飼養セラレサリシモノナルヘク唯前章ニモ記述セル如ク鹿児島県伊唐
だ飼養せられざりしものなるべく、唯だ前章にも記述載せる如く鹿児島県伊唐

島ニ数頭蕃殖シヲリタルカ如キモ之トテモ単ニ試牧ニ止マリテ未タ家畜ト
島に数頭蕃殖し居りたるが如きも、之れとても単に試牧に止まりて未だ家畜と

シテ之カ飼養ヲ試ムルニハ至ラサリシ
して之が飼養を試むるには至らざりし。

 羊種緬羊ノ初メテ外國ヨリ輸入セラレタルハ明治二年ニシテ細川少議官米國
 洋種緬羊の初めて外國より輸入せられたるは明治二年にして細川少議官米國

ニ於テ「スパニッシユ、メリノー」種八頭ヲ購入シタルヲ嚆矢トスヘシ其
に於て「スパニツシユ、メリノー」種八頭を購入したるを嚆矢とすべし、其の

後明治五年五月十七日在米國勧農助由良応等ノ購入セル緬羊到著セシニヨリ仮
後明治五年五月十七日在米國勧農助由良応等の購入せる緬羊到著せしにより仮

リニ之ヲ勧農寮ノ所管タル雉子橋外ノ邸内ニ飼養シタリ、翌六年八月ニハ曩ニ農
 に之を勧農寮の所管たる雉子橋外の邸内に飼養したり、翌六年八月には曩に農

事牧畜調査ノ為米國ニ差遣セラレタル岩山壮太郎各種類ノ緬羊数十頭ヲ携ヘ
事牧畜調査の為め米國に差遣せられたる岩山壮太郎各種類の緬羊数十頭を携へ


テ帰朝セリ八年ニハ武田昌治支那羊百二十四頭ヲ清國ヨリ購入シ又横濱ニ於
て帰朝せり、八年には武田昌治支那羊百二十四頭を清國より購入し又横濱に於

テ洋種緬羊九頭ヲ購入セリ
て洋種緬羊九頭を購入せり。

 以上述ヘタルハ明治八年内務省ニ於テ牧羊奨励事業開始以前本邦ニ輸入セラ
 以上述べたるは明治八年内務省に於て牧羊奨励事業開始以前本邦に輸入せら

レタル緬羊ノ沿革トス
れたる緬羊の沿革とす。

 而シテ當時ニ於ケル牧羊業ニ關スル政府ノ施設トシテハ明治七年一月牧畜事
 而して當時に於ける牧羊業に關する政府の施設としては明治七年一月牧畜事

務ノ大藏省ヨリ内務省勧業寮ニ属シテヨリ以來ハ勧業寮試験場ニ蕃殖セル
務の大藏省より内務省勧業寮に属してより以來は勧業寮試験場に於て蕃殖せる

種畜ハ各府県ニ頒チ或ハ當業者ニ払下又ハ貸與ヲ行ヒタリ
種畜は各府県に頒ち或は當業者に払下げ又は貸與を行ひたり。

 改良蕃殖ニ關シテハ既ニ明治六年以來開拓使、租税寮及勧業寮等ニ於テ緬羊
 改良蕃殖に關しては既に明治六年以來開拓使、租税寮及勧業寮等に於て緬羊

ノ良種ヲ得ント欲スルモノハ牝羊ヲ牽致シテ孳尾ヲ請スキ旨ヲ廣告シテ民有
の良種を得んと欲するものは牝羊を牽致して孳尾を請ふベき旨を廣告して民有

緬羊ノ蕃殖ヲ計リタレトモ當時ニ於ケル牧羊業ハ尚極メテ微々タルモノニシ
緬羊の蕃殖を計りたれども當時に於ける牧羊業は尚ほ極めて微々たるものにし

テ全國ニ於ケル飼養頭数ハ僅ニ二百余頭ニ過キサル有様ナリキ
て全國に於ける飼養頭数は僅に二百余頭に過ぎざる有様なりき。


 三、明治八年以降に於ける緬羊業
   イ、緬羊奨励事業の開始

(三)明治八年以降に於ける緬羊(緬羊奨励事業の開始) 明治維新後欧米文物の輸入と共に絨布の需用も亦逐年其の数を増加し年々多額の羊毛製品を海外に仰がざるべからざるに至るや国家経済上牧羊業の決して等閑にすべからざるは夙に具眼者の注目するところなりしを以て明治二年以降次之を輸入して勧業寮試験場等に於て試育をなし又岩山敬義等を欧米各国に派遣して専ら開墾牧畜の事業につき実地調査を為さしめ帰朝の後漸次此等の事業を興さんことを計れり。<略>


 ロ、本邦に輸入せられたる緬羊
二節、本邦に輸入せられたる緬羊

 明治以前にも緬羊の本邦に輸入せられたることは既に前章に述べたるが如けれくなれども其の種類頭数及産地等は詳ならず。
明治維新後に於ては明治二年米国より西班牙メリノー種八頭を輸入したるを初めとし其の後大蔵省内務省にて屡之を輸入したるが明治八年牧羊業奨励の議決し下総牧羊場の創設せらるゝやに種畜を海外より輸入し又開拓使に於ても之が奨励を計らむが為めに米国より屡々輸入したるを以て明治十三年迄に輸入せし頭数実に六千余頭に及べり。
 然るに当時諸種の疾病続発して斃死するもの多く加ふるに之が飼育管理に熟練せざりしを以て斯業に対する将来の見込立たず一時之が奨励を中止せざるべからざるに至りて輸入を企つるものなりしがて明治三十四年以来小岩井農場に於て「シユロツプシヤー」種を英国より輸入して之が飼育を開始し又農商務省に於ても明治四十一年以降種羊を英国より輸入し其の他二三牧羊場に於て輸入をなしたるものあり左に明治初年以降種畜として輸入せられたるものゝ頭数を示す。
 明治二年以来同八年迄に大蔵省及内務省に於て輸入したるは約百八十余頭にして内藤新宿試験場内に之を繋養して試牧せしものゝ頭数左の如し
   年次    種        頭数        産地
                牡  牝   計   
明治二年 スパニツシユメリノー 二  六   八
同 六年 シリシアンメリノー  一  二   三
同   シユロツプシヤー   一  二   三
同   メリノー       ― 三一  三一
同   サウスダウン     一  二   三
同 八年 蒙古羊        四 三八  四二
同   揚州羊        ?  ?  八二
同   サウスダウン     二  二   四
同   リンコーン      ?  ?   三
同   スパニツシユメリノー ?  ?   二

 下総牧羊場<略>

  

参考文献
上記(36)と(37)と(38)の出典は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04011161000、蒙古農牧事業関係雑件/関東都督府調査書(1-7-7-011)(外務省外交史料館)」、 (39)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04011161200、蒙古農牧事業関係雑件/関東都督府調査書(1-7-7-011)(外務省外交史料館)」、 資料その11(1)と同(2)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04011161200、蒙古農牧事業関係雑件/関東都督府調査書(1-7-7-011)(外務省外交史料館)」と中央畜産会編「畜産」2巻5号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本と同2巻6号16ページ、大正5年6月、同


 「沿革」「変遷」ともに明治2年、細川少議官と書いてありますが、この2つのほかにも間違いがあるのです。それはね、細川メリノーの次、明治5年に緬羊を送ってきた在米國勧農助由良応等です。由良の名前は応等ではなく正しくは守応(もりまさ)。川嶋さんは「畜産要務彙集」の「五年五月十七日大蔵省ニ於テ在米國勧農助由良守応等ヨリ送致セル緬羊ヲ仮ニ雉子橋外ノ邸内ニ飼養ス(40)」5ページを見て書いたと思うのですが、守の1字を見落とし「沿革」のときから応等と書いてます。「変遷」もそのままなので、このあたりをそっくり転載したか、そうでない論文かを区別する目印になるんですなあ。
 この由良守応ですが、菊池晩香という人が大正10年に書いた「談欛 巻四」に「使馬如手(由良義溪伝)」という漢文の短い伝記があるのです。義渓というのは由良の雅号で、オール漢文のこの本はさておき、井上豊太郎という人が「詳解紀伊郷土文献拾遺」の中で、その「由良義渓伝」(41)を取り上げているので助かるんだなあ。井上は原文、その「和訳」と「大意」を書き、その「大意」に由良の官員時代をこう書いてます。「義渓わ後藤象次郎、伊藤俊輔、陸奥陽之助らと交際した。遂に大阪府勧農課に仕え後内務勧農局に転任した、正七位に叙せられた、明治五年岩倉右大臣が欧米を巡遊した際に義渓も之について行つた、帰朝して皇室の車馬を監督した、(42)」。
 由良が明治2年には民部官物産司は1人しかいないためのナンバー1、判司事(43)となり、機構改革で民部省通商司権大佑(44)と変わり、またまたの組織替えで大蔵省勧農寮ナンバー2の勧農助、源守応なんてね、(45)出世したのですが、その後のことは「大意」と違うんですね。
 由良に牧畜を学ぶようアメリカ留学の辞令が出たのは明治5年2月14日(46)で、岩倉使節団はとっくにワシントン入りして交渉の真っ最中でした。もっとも内示は早かったようで、由良はアメリカ留学の職人たちの引率者みたいになって3日後に出発した。新聞雑誌は「今般牧畜農耕ノ事業ヲ始メ玻璃器麦酒糖業糖ノ製造ヨリ染物織物メリヤス陶器其他種々ノ工職実際研究ノ為メ多少ノ人員各々其課ヲ分チ『亜利堅国』ニ差遣ハサレ二年ノ日数ヲ期シ業成帰朝ノ上ハ之ヲ師表トシテ普ク工技ヲ伝布シ邦内ノ人民ヲシテ外国ノ書品ヲ仰カガシメントノ主意ナル由ニテ由良勧農助ヲ始メ外諸方ノ生徒都合十四人二月十七日出帆ノ郵船ニ乗組横浜ヲ発セリ(47)」と伝えています。
 アメリカで種牛のほかに緬羊27頭も買い日本に送った際の「在米國勧農助由良守応等」の等は、18歳の山沢静吉という鹿児島出身者も牧畜を学ぶため由良と一緒に渡航した(48)ので、2人で相談して買ったとみて、受け取った側が軽い気持ちで等を付けたらしいのですが、これがために由良の名前の「守応」が「応等」と間違えられちゃうんだからわからんもんです。
 由良は民部省から年800ドルの学資をもらってアメリカの「牧畜盛大之地ハ遠近ニ不拘往來致牛馬之駄カケ或ハ羊毛苅取或ハバタチース等蒸気器械ヲ以製造致等迄篤ト試見」したため、手元不如意になってきた。それで岩倉使節団にくっついて廻ることを思いつき、前年からアメリカで牧畜を勉強していた岩山勧農少属がイギリスへ行くそうなので「且又御馬車之御シ方等モ帝国ナラテハ試見致候事不能候ニ付」と大蔵理事官などに懇願して合流が認められた(49)のです。初めから使節団に加わっていたのではありません。
 それから名差しはしていませんが、由良に違いないと思う人物の逸話を紹介しましょう。これは開拓使がアメリカに送り込んだ留学生の1人で、後に東京、九州、京都帝国大学の総長を歴任した山川健次郎が昭和4年、東京の武蔵高等学校の外遊生送別会で語った留学時代の思い出話の中にあります。由良はこんなことをしていたので手元不如意になったんでしょうね。

資料その12

明治五六年の頃、日本の政府には勅任官が三十人位いて、奏任官がその十倍の三百人から、その二十倍の六百人位までゐたであらう。奏任官にも仲々しつかりした人があつた。<略>当時の奏任官今云ふ奏任官よりも値打ちがあつた。然るに名前は云はないが某といふ人が、天子様の御馬車を御する大御者という役になり、奏任官であつた。この人がアメリカへ行つて自分の名札の名の下に Coachman to His Imperial Japanese Majesty と書いてあつたが、誰も相手にしてくれないので、大變不平であつたということがあつた。その人は英語が分らなかつたので、ニュー ヨークからワシントンに行くときに、紙に I want to go to Washington と書いて貰つた處が、バルチモーアという所は大分大きな町で、東の端と西の方の端にステイシヨンがあるが、この人が始めワシントンに行くときは、東ののステイシヨンに来て右の書付で甘く西ステーシヨンへ行き、ワシントン行きの列車に乗つてワシントンに行かれたが、帰りに西のステーションで右の書付を見せたら、ワシントン行きの汽車に案内されて、再度ワシントンへ行つたといふ話がある。

  

参考文献
上記(40)の出典は農商務省農務局編「畜産要務彙集」5ページ、明治27年3月、農商務省農務局=近デジ本、 (41)と(42)は井上豊太郎選「詳解紀伊郷土文献拾遺」334ページ、「由良義溪伝」より、昭和12年2月、起雲閣=館内限定近デジ本、 (43)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054272100、職員録・明治二年六月・官員録改(国立公文書館)」職員録・明治二年六月・官員録改」17丁裏、明治2年6月、御用官板所、 (44)は職員録(官員録 官抜)36丁裏、 明治3年、御用御書物所=近デジ本、 (45)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054276600、職員録・明治四年十二月・諸官省官員録(袖珍)改(国立公文書館)」44丁裏、明治4年12月、発行者不明、 (46)はは北根豊監修「日本初期新聞全集」35巻76ページ、平成4年4月、ぺりかん社=原本、原紙は「太政官日誌」明治5年第11号8丁裏、 (47)は同202ページ、同、原紙は明治壬申二月「新聞雑誌」33号1丁表、 (48)は農林省農業総合研究所編「農務顛末」6巻867ページ、「一三八 史官ニ米国留学生人名差出ノ件」より、昭和32年12月、農林省=館内限定近デジ本、原本は農商務省農務局編纂課編「農務顛末」、 (49)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A04017149200、単行書・大使書類原本在米雑務書類(国立公文書館)」、 資料その12は山川健次郎述・武蔵高等学校校友会編「山川老先生六十年前外遊の思出」18ページ、昭和6年7月、武蔵高等学校校友会=館内限定デジ本


 宮中に初めて御馬車が入ったのは明治4年8月、フランス公使の口利きでフランス製の4人乗り割幌馬車(50)を買い入れました。この1号車は東京国立博物館(51)にあるんですが、その写真から割幌馬車とは、後ろ側座席の屋根が幌で折り畳める馬車とわかる。車でいえばコンバーチブル。しかし、陛下はすぐ試乗されず、御覧になってから3カ月もたった8月6日に初めてお乗りになられた。(52)
 これはね、馬車を引く馬は4本足ならなんでもよくないからです。馬にも右利き、左利きのような違いやら、ちょっとしたことでは驚かないなど馬車馬としての適不適がある。さらに並んでの歩き方、走り方などを教え込まないと、車寄せを通り過ぎるようなことになる。なんだかんだと使えるようになるまでに2年はかかる(53)そうだから、この3カ月という期間は早すぎます。
 明治4年6月の「官員録」の宮内省には由良の名前はなく、また3年11月の「官員録」にあった御厩局がない。それで人名なしでも作られていた大馭者、中馭者、小馭者という職名もそっくり消えてます。(54)
 ところがだ、明治4年12月の「官員録」には、宮内卿徳大寺実則から数えて12番目に「御用兼勤 正七位勧農助 由良守応」、また典医と内膳司の間に舎人66人と大馭者3人、中馭者3人、小馭者1人の名前が入っている。(55)こうした組織替えからみて、馬車導入が決まったので乗馬の名手である由良は勧農寮と兼務で、宮内省の馭者のコーチ選びと馬集めを仰せつかったのでしょう。なぜなら、いまいったように複数の馬が引く馬車の操縦は、馬場馬術とは全く違うらしいからです。
 東京で指折りの馭者を招き、恐らく馬車引き経験のある馬を集めて、細川の買ってきた馬車か別の馬車での特訓で、官員の馭者たちの腕前は一応のレベルになっていたと思われます。でも念を入れフランス馬車が着いてから、さらに3カ月かけてこの新車、ふっふっふ、フランス車の走行特性と引き馬とを合わせたとみます。この後、陛下は気軽に馬車でお出ましされるようになり、護衛の樣式も定められたのです。
  

参考文献
上記(50)の出典は宮内庁編「明治天皇紀」2巻460ページ、昭和44年12月、吉川弘文館=館内限定近デジ本、(52)は同520ページ、同、 (51)は川又正智著「馬車の歴史 古代&現代の馬車」ページ番号なし、平成13年1月、神奈川新聞社=原本、(53)は同39ページ、「馬車を操作する」より、同、 (54)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054276400、職員録・明治四年六月・職員録改(国立公文書館)」、由良は36丁裏、 「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054274900、職員録・明治三年十一月・職員録改(国立公文書館)」、由良は65丁裏、御厩局は113丁裏、 (55)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A09054276600、職員録・明治四年十二月・諸官省官員録(袖珍)改(国立公文書館)」、由良は44丁裏と114丁裏、馭者は119丁裏


 さて明治6年、アメリカ、イギリスを廻って由良が意気揚々、帰国したら機構改革でもう勧農寮、宮内省の仕事がなくなり「帰朝して皇室の車馬を監督」なんて夢のまた夢、それどころかせっかくの牧畜の新知識を生かす場がない。それで由良は明治6年9月、大蔵卿大隈重信あてに「牧畜業振興ノ議」という書面を差し出し、ぜひ牧畜の仕事をさせてほしい(56)と嘆願しています。その3カ月後の11月7日、皇后と皇太后両陛下がお乗りになっていた馬車が麻布霊南坂の側溝に転落する事故が起きたのです。資料その12はその事故の状況を伝える記事ですが、これでわかるように最も詳しいのは「明治天皇紀」でした。
 御馬車の道路逸脱事故なので話も脱線するけど、乗っておられたのは前の年輸入したフランス製4輪車だったので資料その13の御馬車の注をフランス語のままランドレー式としたらしい。仏和辞典によると、ドイツのランドーという町で最初造られたのでランドー馬車と呼ばれる。その小さいのと限定する指小辞が付いてランドレーとなるのだが、その辞書のランドー馬車の挿絵(57)は、かつて満洲で走っていたマーチョという馬車と似ていると思いましたね。ふっふっふ。
 それからね、行幸に初めて馬車が使われた年の翌年、明治5年9月に新橋―横浜間の鉄道が開通し、新橋鉄道館での開業式に天皇は皇居から馬車でお出でになった。その様子の絵が博聞新誌(58)に載ってますが、御馬車が大きくて、とても幌割ランドレーとは思えない。そのはずです。鉄道工事を指揮したイギリス人技師のウィリアム・カーギルが「鉄道開業式に臨幸あらせらると聞くや、八月、英國製御料馬車一台・カリフォルニア産馬匹二頭及び銀飾馬装を献る、」と「明治天皇紀」にありました。天皇はさっそくその馬車にお乗りなり、カーギルに謝意を示されたと思われます。更に「金二千圓・蒔絵書棚一個・花瓶一對」(59)」を賜ったと「明治天皇紀」にあります。

資料その13

(1) 明治天皇紀

七日 皇太后・皇后、芝高輪附近に行啓、駕を旧山口藩主毛利元徳の邸に寄せたまはんとし、午前十時車を同じくして御出門、赤坂田町通を左へ、榎木坂を経て大和坂を下らせらる、数間にして、馬車[ランドレー式二頭立]は其の轅端を破損して急転し、両后乗駕のまゝ、左側工部省勧工寮に沿へる溝渠中に顛落し、馬匹一頭即死す、但し車軸に支へられて車体の溝底に陥らざりしは天祐なりき、大馭者目賀田雅周・中馭者武部可栄及び車添等、馬車の幌を壊りて両后を出したてまつる、幸にして微傷だもあらせられず、供奉女官等に扶けられて工部省に入りたまふ、御服湿潤せるを以て、女官等衣を脱して上る、右大臣岩倉具視・参議等馳せて伺候す、尋いで高輪行啓を中止し、午後二時肩輿に乗じて還啓す、皇后は少しく左肩に打撲の疼痛を感じ、今夕微熱あらせらる、[○公文録、幸啓録、内膳課日記、皇后宮職日記、青山御所御納戸日記、皇太后宮皇后宮御馬車傾頽書類、木戸孝允日記、大久保利通日記、東久世通禧日記、伊藤博文書翰、徳大寺実則書翰、木村介一談話筆記]


(2) 新聞雑誌

○本月七日皇后皇太后御同車ニテ浜離宮エ行啓ノ御途中麻布霊南坂ニテ御召ノ馬車不図溝側ノ駒寄セヘ倒レ掛リシ処引馬右ノ後蹄ヲ踏外シ深サ三間余幅五尺程ノ溝中ヘ陥リ御車其上ニ転覆セリ近傍工部省測量師等ノ官員一同駈付ケ漸ク抱護シ奉レリ幸ニ玉体ハ恙ナク即時輦輿ニテ還御在セラレタリ馭者ハ足ヲ折キ亜刺比亜産白馬一疋ハ即死一疋ハ測量司ノ介抱ニテ助カレリト云


(3) 日新真事誌

両皇后昨七日 午前十時御出門ニテ高輪辺御遊覧可被為在之処御途中大和坂ニオイテ御召車器械相損シ随テ馬転動遂ニ御乗車同所勧工寮側溝エ落込ミ候エ共些少之御怪我モ不被為在午後第二時御機嫌能 還御相成他タリ

 いまさっきいった「由良義渓伝」を膨らませて作家神山次郎は「走れ乗合馬車 由良守応の生涯」という面白い伝記小説を書いてます。題名の乗合馬車にオムンボスと仮名が振ってある、つまりオムニバスの明治英語ね。神山はこの事故を起こした馭者は由良だと噂になり「天皇の御召馬車顛覆と、畏れ多くも皇后陛下を“正面からおン抱き奉った皇宮御馬車掛由良守応”の浮説は、東京の人びとの口から口ヘと伝えられ、おそろしいほどの早さで全国津々浦々にひろがっていった。(60)」と書き、資料その12(2)の「新聞雑誌」163号の記事を引用しています。
 当然、他紙も書いているはずだから「日本初期新聞全集」で探したのですが(3)にした「日新真事誌」152号のほかには「陸軍省日誌」に救助に当たった近衛兵8人に御肴料10円を賜った(61)という記事しかない。とても全国的な話題になったと思えません。
 宮内省兼務は解かれていたし、事故を起こしたわけでもないけど、こうした噂に耐えかねたか由良は官員をやめます。井上は「由良義溪伝」の大意で「驥足をどうしてのばそう、と官を辞して馬車業を始めた、東京から宇都宮まで駅路三十里の間の運輸業で日夜に通交するわけである。号けて千里軒と云つた経営すること七年、一般の人にも義渓自身も共に利を得たわけである。(62)」と説明していますが、これは確かで由良は一財産築いた。ちょっと余計なことだが、由良が経営する千里軒の馬車が4歳児をひき殺したという記事が、読売新聞の明治7年11月2日の創刊号の1面に載ってます。
  

参考文献
上記(56)の出典は由良守応著「牧畜業振興ノ議」(書写資料) 、明治6年9月、早稲田大学図書館所蔵古典籍、 (57)は小学館ロベール仏和大辞典編集委員会編「小学館ロベール仏和大辞典」1394ページ、昭和63年11月、小学館=原本、 (58)は北根豊監修「日本初期新聞全集 補巻1」258ページ、平成9年9月、ぺりかん社=原本、原紙は明治壬申9月「博聞新誌」1号4丁裏と5丁表の見開き、「鉄道館行幸之図」、 (59)は宮内庁編「明治天皇紀」2巻752ページ、昭和44年3月、吉川弘文館=館内限定近デジ本、 資料その13(1)は同3巻157ページ、同、 同(2)は北根豊監修「日本初期新聞全集」第62巻382ページ、平成12年11月、ぺりかん社=原本、原紙は明治6年癸酉11月「新聞雑誌」163号、 同(3)は同382ページ、同、原紙は明治6年11月8日付「日新真事誌」152号、 (60)は神坂次郎著「走れ乗合馬車 由良守応の生涯」232ページ、平成元年3月、朝日新聞社=原本、底本は「週刊朝日」昭和63年4月15日号から同10月14日号まで連載の神坂次郎著「走れ乗合馬車 由良守応の生涯」、 (61)は(北根豊監修「日本初期新聞全集」第62巻206ページ、平成12年11月、ぺりかん社=原本、原紙は「陸軍省日誌」明治6年54号 (62)は井上豊太郎選「詳解紀伊郷土文献拾遺」334ページ、「由良義溪伝」より、昭和12年2月、起雲閣=館内限定近デジ本、


 明治はそれぐらいにして大正に飛ぶと、緬羊がらみでまた細川と由良が出てきます。農商務省農務局長の道家齊の書いた「緬羊の増殖に就て」が大正7年の「畜産」1月号と「大日本農会報」1月号と「斯民」2月号に一挙掲載されたのです。それぞれ10ページを費やしているから大論文だ。ほぼ同時に農業、畜産業関係者を主読者とする3つの月刊機関誌を使った、いわばキャンペーンですね。それぞれの編集スタイルで句読点が違うぐらいで中身は同じ。資料その14は3つの雑誌の「下総牧羊場開設(明治八年十一月)以前に於ける状況」を引用しましたが、細川と由良が入ってるでしょう。
   この道家論文をサマライズすると、第1次世界大戦の戦乱でイギリスなどが羊毛の輸出を禁止した。このため輸入羊毛で飯を食ってきた日本の毛織物工場は原料不足で苦しみ、国民は毛織物製品の値上がりで参った。再びこういう事態にならないようにするには羊毛を自給して幾分かでも国内の需要をまかなえるようにせにゃならぬ。明治以来の我が国の緬羊飼育を振り返ると飼い方が拙くて失敗した。いまでも約3300頭しかおらず、依然羊毛は輸入に頼っている。でも近年は農家が数頭ずつ副業として飼い、成功しているので、これをもっと広めて緬羊を増やし、羊毛自給を目指すことが重要課題なのだ―ですね。
 当時の軍艦の大砲は薬夾を使わず、弾頭の後ろに火薬入りの布袋を置き、それに点火して弾丸を発射した。このとき完全燃焼して、かすが残らないので火薬袋はウールに限るとされた。それで第1次世界大戦のとき羊毛豊富なイギリスはウールを使ったけれど、ドイツは羊毛が足りないため値段が高い上に燃えやすくて危険なセルロイド製品で代用せざるを得なかった。日本海軍は羊毛は足りないけど絹があるので、絹糸屑を利用した(63)と本にあります。羊毛には軍服だけでなく、こういう用途もあったので、羊毛なくして大艦巨砲主義が成り立たなかったのです。
 道家は緬羊を増やそうと3つの雑誌の読者に訴えたわけですが、この論文に川嶋論文の一部を借用した。なぜそう断定できるかというとですね、川嶋印のスタンプが2つ押してあるからです。1つは「西洋種の緬羊を最初輸入したるは明治二年即ち細川少議官米国に於てスパニツシユ、メリノー種八頭を購入したるを嚆矢とす」であり、もう1つは「在米國勧業権助由良応等の購入せる緬羊」ね。
 川嶋論文は「洋種緬羊の初めて外國より輸入せられたるは明治二年にして細川少議官米國に於て『スパニツシユ、メリノー』種八頭を購入したるを嚆矢とすべし、其の後明治五年五月十七日在米國勧農助由良応等の購入せる緬羊」であり、資料その11でわかるように道家の3論文は、そこを取り込んでます。ただ川嶋論文では勧農権助とした由良のポストを機構改革後の勧業権助と書き換えたけれど、応等の間違いはそのままだ。私がスタンプといった理由、わかりますね。ただ川嶋さんは、2年前の大正5年に千葉県の農業技師として農務局から離れており、道家の論文発表には関係していなかったと思われます。

資料その14

(1) 緬羊の増殖に就て
         農務局長   道家齊

第一章 総説
   <略>
第二章 本邦に於ける緬羊飼養の過去及び現在の状況
  第一 明治以前の事情
   <略>
  第二 下総牧羊場開設(明治八年十一月)
     以前に於ける状況

一、種緬羊の輸入蕃殖 西洋種の緬羊を最初輸入したるは明
治二年即ち細川少議官米国に於てスパニッシユ、メリノー種
八頭を購入したるを嚆矢とす、其の後明治五年五月在米國勧
業権助由良応等の購入せる緬羊到著し、仮に之を勧業寮の所
管たる雉子橋外の邸内に飼養し、次で明治六年には岩山壮太
郎氏米國より各種の緬羊数十頭を輸入し、明治八年には武田
昌治氏支那緬羊百二十四頭を支那より輸入し、更に横濱に於
て洋種緬羊九頭を購入せり、尚北海道に在りては開拓使庁に
於て明治五年頃より緬羊を輸入し、渡島七飯村農事試験場竝
に同七年札幌本庁札幌官園内に於て緬羊の飼育を開始せり
今明治八年迄に輸入したる緬羊の頭数を示せば左の如し。
 緬羊輸入頭数
    年次  下総牧羊場 開拓使  計
明治二年    八    −   八
同五年     −    九   九
同六年    四〇   八八 一二八
同七年     −    二   二
同八年   一三三  七五一 八八四
 輸入緬羊の種類はメリノー。シユロツプシヤー。サウスダ
ウン。リンミルン。支那種等なり。<略>
(中央畜産会編「畜産」4巻1号2〜10ページ、大正7年1月、中央畜産会=マイクロフィッシュ、)


(2) ○緬羊の増殖に就て
          農務局長   道家齊

 本邦に於ける緬羊飼養の過去及び現在の状況
   第一 明治以前の事情
   <略>
   第二 下総牧羊場開設(明治八年十一月)
    以前に於ける状況
一、種緬羊の輸入蕃殖 西洋種の緬羊を最初輸入したるは明
 治二年即ち細川少議官米国に於てスパニッシユ、メリノー種
 八頭を購入したるを嚆矢とす、其の後明治五年五月在米国勧
 業権助由良応等の購入せる緬羊到着し、仮に之を勧業寮の所
 管たる雉子橋外の邸内に飼養し、次で明治六年には岩山壮太
 郎氏米国より各種の緬羊数十頭を輸入し、明治八年には武田
 昌治氏支那緬羊百二十四頭を支那より輸入し、更に横浜に於
 て洋種緬羊九頭を購入せり、尚北海道に在りては開拓使庁に
 於て明治五年頃より緬羊を輸入し渡島七飯村農事試験場并に
 同七年札幌本庁札幌官園内に於て緬羊の飼育を開始せ
 り今明治八年頃迄に輸入したる緬羊の頭数を示せば左
 の如し。
 緬羊輸入頭数
    年次  下総牧羊場 開拓使  計
明治二年    八    −   八
同五年     −    九   九
同六年    四〇   八八 一二八
同七年     −    二   二
同八年   一三三  七五一 八八四
 輸入緬羊の種類は「メリノー」、「シユロップシヤー」、
「サウスダウン」、「リンコルン」、支那種等なり。<略>
(大日本農会編「大日本農会報」439号8〜18ページ、大正7年1月、大日本農会=原本、)


(3) 緬羊の増殖に就て
          農商務省
          農務局長   道家齊

 一、総説
   <略>
 二、本邦に於ける緬羊の過去及現在の状況
  第一 明治以前の事情
   <略>
第二 下総牧羊場開設(明治八年十
   一月)以前に於ける状況
 一、種緬羊の輸入蕃殖 西洋種の
緬羊を最初輸入したるは、明治二年
即ち細川少議官米国に於て『スパニ
ツシユ、メリノー』種八頭を購入した
るを嚆矢とす。其の後明治五年五月、
在米国勧業権助由良応等の購入せ
る緬羊到着し、仮に之を勧業寮の所
管たる雉子橋外の邸内に飼養し、次
で明治六年には岩山壮太郎氏米国よ
り各種の緬羊数十頭を輸入し、明治
八年には武田昌治氏支那緬羊百二十
四頭を支那より輸入し、更に横浜に
於て洋種緬羊九頭を購入せり。尚北
海道に在りては開拓使庁に於て明治
五年頃より緬羊を輸入し、渡島七飯
村農事試験場、竝に同七年札幌本庁
札幌官園内に於て其飼育を開始せり
今明治八年頃迄に輸入したる緬羊の
頭数を示せば左の如し。
     緬羊輸入頭数
    年次  下総牧羊場 開拓使  計
明治二年    八    −   八
同五年     −    九   九
同六年    四〇   八八 一二八
同七年     −    二   二
同八年   一三三  七五一 八八四
 輸入緬羊の種類は『メリノー』、『シ
ユロップシヤー』、『サウスダウン』、『リ
ンコルン』支那種等なり。<略>
(竜渓書舎編「斯民」13巻上、復刻版2号14〜24ページ、昭和56年12月、竜渓書舎=原本、底本は中央報徳会編「復刻版 斯民」13編2号、大正7年2月、中央報徳会)

 このころは「大戦以来羊毛の相場が驚くべき勢ひを以て暴騰した結果吾々日本人は戦前に約二倍半乃至三倍の被服費を支払はねばならぬ許りか軍需品の原料にも窮する始末」であり、全国の緬羊の「産出羊毛を残らず合しても千住製絨所一日の原料を供給する事が出来ぬと云ふ憐れな状態(64)」であり、大正6年度の輸入羊毛量は緬羊「一頭の収毛量を約四斤とすれば之等の輸入を駆逐し自給の域に達せしむるには一千万頭の緬羊飼育を行はざるべからず之は実に現在の頭数の三千倍の頭数に達せしめざるべからざる訳なれば羊毛自給の前途尚遼遠なりと云ふべし(65)」というのですから大変、道家局長自ら、メーメー、産めよ増やせよ緬羊をとね、旗を振らなきゃならなかったのですよ。
 道家論文が3雑誌の読者にどう効いたかわかりませんが、省内の畜産関係者には強烈に効いたと思われます。翌年の緬羊百万頭計画といわれる政策立案に際して農商務省に設けられた臨時産業調査局が作成した「羊毛ニ関スル調査書」にある川嶋印を資料その15(1)で見てもらいましょう。前半は省略したかったけど、原文のまま引用し、川嶋印を太字にしました。
 この調査書は数表ばかりみたいな専門家用ですが、資料その15(2)は我が国初の緬羊白書というべき報告書「本邦内地ニ於ケル緬羊事情」は道家論文の明治2年輸入と由良応等で始めています。以来日本の緬羊の歴史に触れた本は皆「本邦内地ニ於ケル緬羊事情」の沿革に従ったため、明治2年細川少議官輸入説は揺るぎない定説となった。この(3)は、その20年も後に出た「本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革」ですがね、川嶋スタンプはそのままだし、古めかい文体なので、私はこれぞ川嶋さんのいう「畜産課の引き出しの中に蔵はれてあった」沿革記録かと早合点したくらいです。

資料その15

(1)羊毛ニ関スル調査書

 八、内地ニ於ケル緬羊飼養ノ沿革卜現況

本邦ニ於ケル牧羊業ハ明治八年内務省ニ於テ之カ獎勵ニ着手シ下總牧羊場ヲ創設シテ種羊ヲ海外ヨリ輸入シ蕃殖スルニ從ヒテ各地方ニ頒布シ之カ飼育ヲ為シメタルニ初マル其輸入頭數ハ明治十三年迄ニ略ホ六千餘頭ニ達シ飼育府縣ノ主ナルハ青森、巖手、千葉、靜岡、長崎、鹿兒島等ニシテ全國ニ於ケル飼育頭數ハ明治十九年頃ハ約五千頭現在セリ
又開拓使ニ於テモ明治五年ヨリ緬羊業獎勵ニ着手シ桔梗野及札幌ニ牧羊場ヲ創設シ明治十二年頃迄二約一千頭ノ緬羊ヲ輪入シタリ然ルニ當時ニ於ケル飼養管理極メテ幼稚ニシテ其方法當ヲ得サリシ為メ疾病続出シテ斃死スルモノ多ク蕃殖成績亦不良ニシテ漸次不況ニ陷リ其頭數年々減少スルニ至レリ
現在ニ於ケル状況ハ農商務省ニ於テハ畜産試驗場北海道支場及九州支場ニ於テ飼育ヲナセル外ニ下總御料牧場ニ於テハ下總牧羊場以來繼續シテ之カ飼育ヲナシ其他民間ニ於ケル主ナル牧羊場ハ小岩井農場、千本松農場及鹿兒島縣馬毛島牧場等ニシテ大正四年ニ於ケル現在頭数ハ二千七百七十一頭ナリトス
今本邦ニ輪入セラレタル緬羊ヲ見ルニ明治以前ニ係ルモノハ不明ナルモ明治維新後ニ於テハ明治二年米國ヨリ西班牙メリノー種八頭ヲ輸入シタルカ明治八年牧羊業獎勵ノ議決シ下總牧羊場ノ創設セラルルヤ盛ンニ種畜ヲ海外ヨリ輸入シ又開拓使ニ於テモ之カ獎勵ヲ計ラムカ為メ米國ヨリ屡々輸入シタルヲ以テ明治十三年迄ニ輸入セシ頭數実ニ六千餘頭ニ及ヘリ
然ルニ當時諸種ノ疾病續發シテ斃死スルモノ多ク加フルニ之カ飼養管理ニ熟練セサリシヲ以テ斯業ニ對スル將來ノ見込立タス一時之カ獎勵ヲ中止セサル可ラサルニ至リ從ヒテ輸入ヲ企ツルモノナカリシカ降テ明治三十四年以來小岩井農場ニ於テ「シュロップシャー」種ヲ英国ヨリ輸入シテ之カ飼養ヲ開始シ又農商務省ニ於テモ明治四十一年以降種羊ヲ英國ヨリ輸入シ其他二三牧羊場ニ於テ輸入ヲナシタルモノアリ左ニ明治初年以降種畜トシテ輸入セラレタルモノノ頭數ヲ示ス明治二年以來同八年迄ニ大藏省及内務省ニ於テ輸入シタルハ約百八十餘頭ニシテ内藤新宿試驗場内ニ之ヲ繋養シテ試牧セルモノノ頭数左ノ如シ<略>


(2)本邦内地ニ於ケル緬羊事情

    第一編 本邦内地ニ於ケル緬羊飼養ノ沿革
      第一章 自明治初年至明治七年
        第一 緬羊ノ輸入

明治維新後泰西文物ノ輸入ト共ニ毛織物モ亦輸入セラレ其ノ需要漸次増加セムトスルニ至レルヲ以テ国内ニ牧羊業ヲ興シ自国ノ産毛ヲ以テ其ノ需要ニ充ツルノ寧ロ国家経済上利益ナルヲ唱道スル者多ク明治二年細川少議官北米合衆国ニ於テ「スパニツシユメリノ」種八頭ヲ購入シテ之ヲ輸入スルニ至レリ之レ洋種緬羊輸入ノ嚆矢ナリトス其ノ後明治五年五月十七日北米合衆国ニ出張セル勧業権助由良応等ノ購入セル緬羊到着シ仮ニ之ヲ観農寮ノ所管タル雉子橋外ノ邸内ニ飼養セリ明治六年八月曩ニ農事牧畜調査ノ為北米合衆国ニ派遣セラレタル岩山壮太郎各種類ノ緬羊数十頭ヲ携ヘテ帰朝セリ其ノ他開拓使ニ於テモ明治五年ニ九頭同六年ニ八十八頭同七年ニ二頭ヲ輸入シ最初ハ東京青山農業試験場ニ収容セシモ後之ヲ七重勧業試験場及桔梗野、札幌ノ両牧場ニ移シテ其ノ蕃殖ホ図リタリ然レトモ民間ニ於テハ外国ヨリ緬羊ヲ輸入シタル者殆トナカリシカ如シ今明治元年ヨリ明治七年迄ニ外国ヨリ輸入シタル緬羊ノ頭数ヲ示セハ左ノ如シ
     緬羊輸入頭数
  年次    種類    政府直接輸入        開拓使庁輸入但シ
                牡  牝  計   種類牡牝不明
明治二年「スパニツシユメリノ」 二  八  八
同五年  不明         −  −  −    九
同六年 「シリシアンメリノ」  一  二  三   八九
同六年 「シユロツプシヤー」  一  二  三    −
同六年 「メリノ」       一 三一 三一    −
同六年 「サウスダウン」    一  二  三    −
同七年  不明         −  −  −    二


(3) 本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革
     第二 明治初年ニ於ケル緬羊業

明治初年ニ於ケル緬羊飼育ノ事蹟ニ付テハ殆ド文書ノ徴スベキモノナキヲ以テ之ガ状況ヲ知ルコト能ハザレドモ明治元年旧鹿児島藩主ガ鹿児島出水郡伊唐島ノ内清良島ヘ牡緬羊一頭、牝緬羊三頭ヲ放牧セシモノ蕃殖シテ一時ハ十二頭ニ達セシガ其ノ後多数斃死セシヲ以テコレガ飼育ヲ廃止セリト云フ之単ニ試牧ニ止マリタルモノナリキ
支那以外ノ外国種ノ緬羊ガ初メテ我ガ國ニ輸入セラレシハ明治二年ニシテ細川少議官ガ米國ニ於テ「スパニッシユメリノ」種八頭ヲ購買輸入シタルヲ以テ嚆矢トス其ノ後明治五年五月十七日在米中ノ勧農助由良応等ノ購入セル緬羊到著セシニヨリ仮ニ之ヲ勧農寮ノ所管タル雉子橋外ノ邸内ニ飼養シタリ、翌六年八月ニ曩ニ農事牧畜調査ノ為米國ニ派遣セラレタル岩山壮太郎ガ各種類ノ緬羊数十頭ヲ携ヘテ帰朝セリ、同八年ニハ武田昌治支那羊百二十四頭ヲ清國ヨリ輸入シ又横濱ニ到着セシ西洋種緬羊九頭ヲ購入セリ
以上ハ明治八年内務省ニ於テ緬羊ノ飼育奨励開始前ニ於ケル緬羊輸入ノ沿革ナリ

  

参考文献
上記(63)の出典は内外資料協会編「国防大学シリーズ 羊毛」153ページ、昭和12年10月、高山書院=近デジ本、 (64)は大正7年5月4日付朝日新聞朝刊5面=マイクロ=マイクロフィルム、 (65)は大正7年3月4日付読売新聞朝刊2面=同、 資料その15(1)は「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B11090402000、本邦経済調査会関係雑件/経済調査会書類 第一巻(B-3-4-1-1_1_001)(外務省外交史料館)」、農商務省臨時産業調査局編「産業第六號提案參考書 羊毛ニ関スル調査書」29ページ、大正6年、 同(2)は農商務省農務局編「本邦内地ニ於ケル緬羊事情」1ページ、大正8年8月、農商務省農務局=近デジ本、 同(3)は(農林省畜産局編「本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革」1ページ、昭和14年3月、農林省畜産局=館内限定近デジ本、

 大正8年は未年だったので、朝日新聞は農商務省畜産課長心得にして緬羊課長心得の月田藤三郎(66)に正月用に「我国の羊毛問題」を書いてと頼んだのですね。当然月田は親分道家局長の明治2年細川輸入説に従う。「今年は羊の年に当つて居る、我国民が齊しく羊の為に其寿を祝つて呉れることは吾々緬羊事業の奨励に従ふ者として頗る悦ぶべきことである、従來我国民の殆ど全部は羊なるものに対して甚だ縁の薄い之を遠い/\明治以前に遡つて見ても僅か支那朝鮮等より少数の羊が入つた事実もあるが要するに緬羊なるものは内地に存在しなかつたと云つても好い位であつた、若し緬羊が稍日本に存在したと云ひ得るならば、それは明治二年細川少議官が米国からスパニッシュ・メリノの種羊八頭を購入したことである、之が抑も日本緬羊の現在した濫觴と云つて差支ない。(67)」と書いた。濫觴(らんしょう)は嚆矢と同じで始まりのことです。
 また月田は北海タイムスには畜産課長として筆を取り「▽明治以前に在つては一頭も存在しなかつた。其後明治二年頃、当時の達識者が羊飼養の将来有望なるを覚とり、少数の輸入を試みたことがある、次いで明治八年に至るや故大久保卿が…(68)」と書いています。北海道のやつらに少議官だのメリノだなんて教えてもしょうがないだろうと見くびられていたかも知れん。
 さて、日本は太平洋戦争で敗戦国となり、すっかり生まれ変わりました。昭和37年、農林省畜産局で「畜産発達史」を編集刊行することになり、畜産発達史編纂室を設けて「畜産の歴史的過程及びその発展条件の変動等に関する資料」集め(69)に取りかかった。その1つに明治維新後のざっと20年の農業行政の記録30巻91冊のうち散逸せずに農林省に保存されていた27巻89冊を復刻した農業総合研究所編「農務顛末」6巻の中から、畜産関係の重要記録を拾い上げる「農務顛末抄録」(70)作りがあり、39年7月ガリ版刷りの4冊ができたのです。
 21人の編纂会議委員の1人だった日本緬羊協会副会長の渡会隆蔵氏は「経費その他の関係もあり、云うは易く行なうは難し」で「畜産関係の蔵書家一ノ瀬さんの豊富な蔵書と、森崎さんから提供された、『畜産要務彙集』と『農務顛末抄録』四冊、畜産行政史の写し、およびめん羊関係者の古い方なら何誰もよく知っている『本邦内地ニ於ケル緬羊飼育ノ沿革』、『本邦内地ニ於ケル緬羊事情』、『緬羊飼育概覧』」と渡会さんが自宅で保存していた書類に頼ることになった(71)」と日本緬羊協会の機関紙「緬羊」に書いています。
 それから3年たち「畜産発達史」の本編、別編、年表の3部作が昭和41年にまとまり、中央公論社から出版されたのですが、資料その12の川嶋印の本2冊が使われた。それに渡会さんは昭和30年に「日本の緬羊」という本を出し、その中で「政府は明治二年細川少議官をして、米国から『スパニッシュメリノ』種八頭を購買させたのを始めとして、年々少数の種緬羊を輸入して、観業寮試験場等に於て、試験的に飼育し、(72)」と書いた人ですからね。当然の父さん、発達史は川嶋印になりますよね。ならなかったらおかしいくらいだ。
 その本編第5章「緬羊飼育の変遷」の第1節がきょうの資料その1なんですが、可哀想なのは由良守応。もう一度よく見なさい。これまで応等だったのに、ここにきて「など」とか「ら」はいらんと、等の字が削られたんだね。由良応なんてどこかのお国の方みたいにされちゃって、オウオウと草葉の陰で泣いているよ。当然ながら細川が何月に輸入したかがわからないので、年表では明治2年で括った6項目の1つとして「・政府西洋牧草(アルファルファー,チモシー,カブ,燕麦等),家畜の輸入を試みる(種牛5〈短角種,デボン種〉),緬羊8〈スパニッシュメリノー細川少議官〉)(73)」という書き方で収めている。
 こうして年表でもご丁寧に裏打ちしている以上、細川輸入は明治4年が本当だぞと私がなんぼ力説しても、緬羊史を書く人は「ジンパ学講義録」より、やっぱりお役所が出した「畜産発達史」に頼るだろうから、また川嶋印になる。つまり長嶋さんじゃないけど、川嶋印のスタンプは永遠に不滅です。はっはっは。終わります。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(66)の出典は「職員録 大正8年」455ページ、大正8年11月、印刷局=近デジ本、 (67)は大正8年1月7日付朝日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、 (68)は大正8年1月1日付北海タイムス朝刊14面、同、 (69)は農林省畜産局編「畜産発達史 本編」1840ページ、「あとがき」より、昭和41年1月、中央公論事業出版=館内限定近デジ本、 (70)は農林省畜産局畜産発達史編さん室編「農務顛末抄録」3分冊ページ番号なし、「はしがき」より、昭和39年7月、農林省畜産局=同、 (71)は日本緬羊協会編「緬羊」195号10ページ、渡会隆蔵「畜産発達史(めん羊)各論を担当して得た収穫と感想@」より、昭和39年11月、日本緬羊協会=原本、 (72)は渡会隆蔵著「日本の緬羊」52ページ、昭和30年10月、日本緬羊株式会社=館内限定近デジ本、 (73)は農林省畜産局編「畜産発達史 年表」4ページ、昭和41年1月、中央公論事業出版=館内限定近デジ本