フランス山羊の輸入説を黙殺した松方正義

 きょうは我が国第4代と第6代と総理大臣を2度も務めた松方正義とですね、乳用山羊の関係について取り上げます。そう聞いて、ははあ、松方首相は山羊ミルクが好きだったということか―なんて、早合点してはいかん。松方は薩摩藩の武士だったのですが、維新で出世してから農業に関心を持ち、那須高原に農場を開き、緬羊をたくさん飼ったりしました。東京・赤坂の松井肉店は、この松方農場で育った緬羊の肉の販売を頼まれたことから、牛肉だけでなく羊肉も扱うようになり、これが成吉思莊の開業につながったのです。
 それから山羊。いまでこそ、われわれは山羊と緬羊とを区別していますが、昔はそうではなかった。昔の人はひっくるめて羊と呼び、記録している。それにカモシカを山羊と書いている場合もあるようで、わかりにくい。凡そ700年前に描かれた「鳥獣人物戯画絵巻」に出てくるから、山羊は緬羊より遙か昔からいたらしいが、明確ではありません。明治以降にしても、緬羊の頭数は調べても、山羊の方は、それこそ野放しだったりでね。ヤギという名前の由来がはっきりしないのと同じように、山羊飼育の実態を知るのはなかなか難しいのです。
 北大のジンパでは山羊肉は食べないのだし、難しいのなら山羊の歴史に触れなければいいと思う人もいるでしょう。そうじゃないんですね。山羊を調べているうちに、緬羊のことが出てくるかも知れないでしょう。ましてやどっちも羊と呼んでいたのですから、牛馬を調べていくより、山羊関連で出てくる確率は高いでしょう。そう考えてのことなのです。
 そうした日本に於ける山羊の位置づけについて、先輩小谷武治さんは明治45年に出した「羊と山羊」で要領よくまとめているので、資料その1に引用させてもらいました。はい、いま配るプリントの1枚目がそれです。はい、後ろの人に送って。きょうはかなりの枚数ですよ。

資料その1

我邦に山羊の伝来せる時代は漠として史に徴すべきなしと雖も蓋し遠き昔時にあるべし。 皇極天皇(紀元千三百三年)の御代に「山脊王の頭髪斑雑にして毛は山羊に似たり」との童謡ありしを見れば當時既に山羊を熟知せるものゝ如し。降りて薩摩、琉球、大島にて盛に飼育するに至りたるは恐くは数百年前支那より輸入せる者にして、主として肉用に供せる者なり。嘉永年間米国水師提督ペルリが小笠原島に放ちたりと伝ふる山羊は爾来蕃殖して今尚ほ同島に存す。今より四十八九年前文久年代に江戸雉子橋厩構内南方の一隅に山羊と緬羊とを飼養せり。古来羊と云ひしは緬羊にあらずして山羊なりと思はる。其頃山羊と緬羊とを混称して単に羊と称せり。明治維新後海外との交通開け外人等携へ來りて之を飼育し自家用乳用に供せるを以て吾人は初めて山羊の乳用を認むるに至れり。明治十一年松方正義氏(現今の松方侯)欧州より帰朝の際仏国より乳用種の良山羊を齎らし之が蕃殖を計れり。然れども當時は牛乳すら厭ふて排斥せる時代なれば山羊乳の如きは殆ど顧みるものなく萎微振るはどるに至れり。最近数年間に於て山羊に注目するもの漸く多きを加へ之が飼育を企つるもの次第に現はれ遙に天の一方に斯界の曙光を認むるに至りしは時運の進歩と云はざるを得ざるなり。

 小谷さんは「山脊王の頭髪斑雑にして毛は山羊に似たり」と山羊をヤギと解釈していますが、以前の講義でいったように、ここはカモシカのことなんですね。「古今要覧稿」は「羚羊の毛の斑雑なるを以てこれを山背王の頭髪にたとへしは日本紀に見え(1)」657ページと書いていますし、坂本太郎氏は「山に棲む羊というくらいの意味」ではないか(2)といっています。ですから、童謡にもあるぐらいだから、そのころの人々が山羊をよく知っていただろうというのは、ちと言い過ぎではないかなあ。
 その次のペルリが小笠原の島に山羊を放したこと、沖縄から鹿児島にかけて山羊が古くから飼われていたことはいいでしょう。問題はその次です。明治11年に松方氏がフランスから乳用種の山羊を連れてきて増殖を図ったというところ。何頭連れてきたとは書いていませんね。牡牝片方では増殖できないから最低でも1つがい、スエズを抜け赤道のそばを通る長い航海の途中、いくら山羊が強健でも万が一病気で死なないとも限らないから、やはり2つがい以上は積んできたと思いますよね。
 松方がフランス産山羊を持ち込んだということは、山羊の飼育書には、たいてい書いてあります。小谷さんより前に出た本にも書いてありますし、手近なところで中央畜産会の公式ホームページの「畜産ZOO鑑」の「山羊関連年表」を見ると「明治11 乳用山羊をフランスから輸入(松方 正義)」とあります。つまり、明治11年に松方正義が乳用山羊をフランスから輸入したのは事実だと認めているわけだと、去年まで話してきました。
 ところが、いつの間にか消えた。いま、平成21年1月現在、この表が削除されていました。私はね、これから話す事実に反するから、松方導入説には触れないよう変えたとみたのですよ。あるとき「畜産ZOO鑑」制作担当のYという方にお尋ねしたら、子供向けのデザイン優先で書き換えたのであって、まったく他意はないとのことでした。
 幸い農林水産省家畜改良センター長野牧場のホームページには、手直し前の「畜産ZOO鑑」の山羊関連年表がそっくり残っている。こっちも書き換えられるかも知れませんから、松方山羊輸入の次の行は「1899 明治32 58,694 山羊が初めて統計に載った。(3)」と書いてあったと、講義録の方に記録しておきましょう。
 また、常に最新情報を載せたページに差し替えていく加除式の「農業技術大系」という本が北大図書館の開架にあります。その「中小家畜」の山羊の分に、鹿児島大の萬田正治先生は「明治11年に松方正義がフランスから乳用ヤギを輸入した記録があるが、当時はまだ一般には顧みられなかった。(4)」とお書きになっている。萬田さんが挙げた参考文献15冊は皆戦後に出た本ばかりだが、どれかに記録があると明記されている筈ですよね。
 ところがですよ、松方導入説は証拠がないとあっさり否定した、れっきとした大著があるんですなあ。なんと、それは農林省畜産局が昭和41年に出した「畜産発達史」なのです。畜産振興を唱え、推進してきた本家本元が松方導入説を裏付ける資料がないというのですから奇っ怪です。もちろん萬田さんの参考文献にはありませんよ。その個所を引用したのが、資料その2です。

資料その2

 数多くの山羊参考書に一八七八年(明治11)松方正義がフランスから乳用種を輸入したとあるが、これを裏付ける資料はみつかっていない。一八九二年(明治25)内藤菊造は『山羊全書』を自費出版したが、この書に記すところによると、同氏は一八八六年(明治19)動物学の書籍で乳山羊を知り、百方さがし大阪でアメリカ人宣教師より五円で子山羊二頭を入手、郷里三河で搾乳牧場を開き、一八九一年(明治24)迄に一六四頭にふえ、前途有望と期待したところ、一大天変(竜巻)にあい、大部分の山羊を圧死させてしまったという。この書の出版の動機を彼はつぎのように述べている。「明治二〇年(一八八七)頃流行期があり、奸商が長崎浦上郷あたりの山羊を洋種といつわって良民にうりつけ、この支那系肉用種は『愚鈍蒙昧にして適当の知覚も有せざる』程度のものが高価に売買されている現状を見るにしのびず、本書を出版した」と。

   「畜産発達史」の編集に携わった専門家たちが「資料はみつかっていない。」と明記しているのだから、松方の乳用山羊導入説は単なる言い伝えということになります。農林省農務局の先輩が編集した「明治前期勸農事蹟輯録」は「〇明治十一年二月 勧農局長松方正義ヲ佛國博覧會事務副総裁トシテ同國ニ派遣ス 同人ハ各種農産種子(阿利襪、葡萄、甜菜等)等ヲ購求シ、明治十二年三月帰国ス(5)」であり、山羊は入っていませんし、農林水産省の資料庫とか国立公文書館に何もないのでしょう。
 だがしかし、ですね、専門家がそう書いたからといって、はあ、そうですかと素直に引き下がることは、私の現場主義が許しません。松方はポケットマネーで山羊を買ったとしたら、領収書がお役所に残っているはずがないし、横濱税関の動物の輸入記録まで調べて「やっぱりない」と結論づけたわけでもないでしょう。
 内藤の「山羊全書」には「明治二十四年八月までに百六十四頭に増加し前途有望の機運に際し茲に古今未曾有の一大天変に遭遇し一百九十有余坪の監禁所倒潰し空しく山羊を圧死せしむ(6)」とあります。また「別表掲ぐるハ明治二十四年九月まで愛知県宝飯郡牛久保町大字下長山に現存せし著者の所有に係る山羊飼育場の構成を写したるものなり(7)」とも書いているのです。9月まで「古今未曾有の一大天変」はなかったのです。
 明治24年、宝飯郡では御油町(現豊川市)に気象観測所がありましたが、それを含む愛知県内21気象観測所の記録(8)による明治24年管内重要事項は「八月五日尾張東部雷雨被害アリ仝月十八日暴風雨、十月二十八日大劇震(9)」となっており、名古屋で最も強い風が吹いたのは8月16日で秒速20・5メートル(10)を記録しています。
 牛久保と名古屋は直線で60キロほど離れているので、同じ強さの風は吹かないでしょうが、どこから竜巻だと判断したのか、おかしい。濃尾大地震は明治24年10月28日朝起きたのです。山羊小屋をつぶしたのは、この地震じゃないのか。まあ、明治24年9月の名古屋の新聞を調べればはっきりするでしょう。
 この「畜産発達史」の本編、年表とも、細川少審議官が明治2年にアメリカで緬羊を購入したことになっています。これは明治4年の誤りだと、機会あるたびに私は指摘しとるのだが、無視されている。この「畜産発達史」を編集した方々は、飼育とか畜肉加工ではプロであったとしても、歴史の専門家じゃないから、こういう細かいところまで調べたとは思えません。でも私の講義が本になっても、畜産関係者はこっちを引用するだろうから、明治2年購入説は不滅でしょうな。
 松方がパリで開かれた博覧會事務副総裁として出発したのは明治11年2月であり、帰国は翌12年3月でした。だから明治11年導入というところからしておかしいのですが、いつごろだれが最初にそんな説を唱え始めたのか。徒労に終わるのは承知の上で、納得するまで調べてみたのです。これが私が実践する現場主義です。はい。
 ちょっと脱線ですが、松方が明治11年どころか10年に洋行したと伝える本もあるのです。「水産要鑑」という本でね、缶詰は「我が国では長崎の松田雅典氏が明治三年頃より缶詰の研究を初め明治十年には松方正義氏が洋行土産に成島鎌吉氏をして仏国より器械を買入れ勧農寮に於て試験をなし、又開拓使に於ても明治十年米人トリート氏を雇ひ、石狩町に缶詰伝習所を置いたのが初めである。(11)」と書いてあるのですから、もう笑うしかありません。
 「畜産発達史」の言い方では、内藤が明治25年に「山羊全書」を出すまで、山羊の参考書はなかったように受け取れます。だって明治19年に「動物学の書籍で乳山羊を知り」というのですからね。それまでに山羊の参考書があったら、だれそれの本で乳山羊を知っていたと書いたでしょう。調べてみると、役に立つ立たないは別にして、少なくとも山羊のことを書いた本はあったことがわかります。
  

参考文献
上記資料その1の出典は小谷武治著「羊と山羊」396ページ、明治45年4月、丸山舎書籍部=近デジ本、 (1)は屋代弘賢著「古今要覧稿」6巻657ページ、禽獣部かましし、明治40年1月、国書刊行会=同、(2)は坂本太郎著「坂本太郎著作集」11巻284ページ、吉川弘文館=原本、(3)はhttp://www.nlbc.go.jp/ nagano/newpage37.htm、(4)は「農業技術大系 畜産編6 中小家畜『ヤギ』」基1ページ、萬田正治「飼育技術の基礎」、昭和55年7月第1刷、農山漁村文化協会=同、資料その2は農林省畜産局編「畜産発達史 本編」1022ページ、昭和41年1月、中央公論事業出版=同、(5)は農林省農務局編「明治前期勸農事蹟輯録」上巻539ページ、昭和14年3月、農林省農務局=同、(6)は内藤菊造著「山羊全書」2ページ、明治25年5月、内藤菊造=近デジ本、 (7)は同65ページ、同、 (8)は愛知県名古屋測候所編「愛知県気象二十年報 自明治二十四年至仝四十三年」44ページ、明治44年3月、愛知県測候所=近デジ本、 (9)は同ページ番号なし、同、 (10)は同34ページ、同、 (11)は星野佐記、南摩紀麿、鐘ヶ江東作著「水産要鑑」606ページ、明治43年8月、東京国民書院=同、


 その証拠に国会図書館の近代デジタルライブラリー、略して近デジを「山羊」で検索すると、平成20年末現在で120件出てきます。年代不詳1件を含めて明治25年末までに出た本は29件です。この中の「イソップ物語」とか山羊が出てくる国語や英語の教科書などを除き年代順に並べると、こういう順序になるというのが、資料その3です。
 それから近デジではね、少なくとも目次にキーワードがないと出ません。だから本文に松方が山羊を連れてきたとあっても、目次がない本とか見出しに山羊が入っていなければ検出できない。それで山羊の飼い方を載せていないか読んで調べたら、番号無しで下に並べた5冊にあり、どれも松方山羊は書いていませんでした。また近デジには雑誌は1冊もないから、山羊を取り上げた雑誌捜しも忘れてはいけません。

資料その3

(1)ベレエズ著、田中芳男、成島謙吉訳「学業捷径 初編」、明治8年3月、雁金屋清吉)
(2)田中芳男選、中島仰山画「動物訓蒙 初編(哺乳類)」、明治8年7月、博物館
(3)チャンバ−著、勝島仙之介訳「牧羊篇」、明治17年10月、丸屋善七
(4)中根壽編「新撰農業書」、明治19年3月、文学社
(5)今泉六郎著「家畜年齢図説」、明治20年1月、有隣堂
(6)藤江卓蔵著「実用殖産新書」、明治20年12月、安江静
(7)玉利喜造著「米国改良種畜類」、明治21年8月、玉利喜造
(8)内藤菊造著「山羊全書」、明治25年5月、内藤菊造
(9)原熈著「実用教育農業全書 養畜篇」、明治25年9月、博文館
(10)金港堂編輯所編「動物図解説」、明治24年4月、金港堂

 爾師応著「農学読本 巻之三」9丁裏、明治13年7月、古賀鴻文堂
 関澄蔵著「農業捷径」153ページ、明治15年12月、中近堂
 関澄蔵著「小学農業捷径 下」33丁裏、明治15年12月、中近堂
 古沢角三郎著「普通農学講義 牧畜第二」56ページ、明治22年2月、古沢角三郎
 宮城県桃生郡役所著「農理書 下巻」10丁裏、明治22年7月、宮城県桃生郡役所

 この中の(1)の「学業捷径 初編」と(2)の「動物訓蒙 初編」、1つ飛んで(4)の「新撰農業書」、(5)の「家畜年齢図説」、一番下の「動物図解説」の5冊は、山羊とはこういう動物だよと説明しただけみたいな本です。皆短いので山羊のところを抜き出し、資料その4にまとめました。小中学生向きではないかと思うけれど、資料その3を読んでご覧、漢字検定に使えそうな字が結構ありますね。はっはっは。

資料その4

(1)第四十四章 山羊 家豚

山羊ハ其性活発ニシテ随意ヲ主著張ス故ニ之ヲ駆逐シテ群ヲ成サシムルコトハ羊ヨリ難シ山羊ハ屡其群ヲ脱シ隠逸ノ境ニ至リ岨岐ヲ躋攀スルコトヲ好ム者ナリ然トモ其食料ハ皆人ヨリ給与スルヲ以テ稍家畜同様ノ動作ナサシムベシ
山羊モ亦牝羊ノ如ク乳汁ヲ出ス殊ニ其量甚タ多シ此乳汁ヲ用ヒ或ハ乳餅トシテ食糧ニ供スルコトアリ其毛ハ毛糸ニ製スベキ柔軟ノ質ナラズト雖トモ亦良好ナル織物トスベシ其皮ハ羊皮ヨリ貴ク其角ハ牛角ト同ジキ用ヲナス」山羊ハ他ノ家畜ノ如ク人ノ保護ヲ要セズ其体壮健ニシテ食品ニ忌畏ナク殆ト諸種ノ草類ヲ食ス故ニ其食用ニ適当セザル者甚ダ僅少ナリ<豚略>(ベレエズ著、田中芳男、成島謙吉訳「学業捷径 初編下」32丁表、明治8年3月、雁金屋清吉)

(2)第六十一 ヤギ 山羊

往年ヨリ舶来アリ大サ羊ニ同シ形亦相肖タリ然トモ其毛ハ羊ヨリ劣レリ牡ニハ髯アリ其毛黒色、又白色、淡褐等ヲ通常トス小木ノ叢生セル地又山地等ハ最適當ノ棲處トス此獣非常ノ熱ヲ体ヨリ発ス故ニ大風暴雨ヲモ恐ルゝコトナシ乳ハ滋養ノ効多ク又乳餅ニ製スベシ性羊ヨリ強ク人ニ馴レ易シ好テ小樹ノ芽、嫩木ノ皮ヲ食フ一種アンゴラ山羊ハ小亜細亜ニ産ス其毛細密ニシテ長シ(田中芳男選「動物訓蒙初編」32丁表、明治8年7月、博物館=原本)

(4)第二十一章 山羊及び「アルパカ」

山羊は、羊の一種にして、其種類極めて多し、其の最も美毛を生ずるものを「カスミア」種と云ふ、性質強健にして、山野瘠鹵の地にて、草木のよく繁茂せざる処に牧するに益あり、又自ら能く野犬などの害を防ぐが故に、別に番犬を附くるを要せず、○其乳は滋養分多くして、その量も亦少なからず、且つ其質最も小児の飲料となすに宜し、「アルパカ」は南亜米利加の産にして、又山羊と均しく、山野の草木の十分繁茂せざる地に牧するに益あり、其毛又細微にして、其肉も亦佳なり、殖産に心厚き人は試みに之を輸入して牧養すべし、大に国産に益すこと疑なし
(中根壽編「新撰農業書巻之二」25丁裏、明治19年3月、文学社=近デジ本)

(5)第三 綿羊及山羊の年齢

綿羊及山羊の歯数は牛に同し常に歯なくして生れ把歯及第一中歯は初週間に現はれ第二中歯は九日乃至十日に現はる然れとも隅歯は稀れには四週の末若くは五週の初めに至らされば発現せす歯弓三ヶ月にして正円を呈す(第三十三図)
十八ヶ月にして把歯交換し(第三十四図)二年にして第一中歯交換す(第三十五図)
三年乃至三年半ニシテ第二中歯交換す(第三十六図)
四年乃至四年半ニシテ隅歯交換す(第卅七図)
五年にして壮歯弓円形を呈す(第三十四図)
九年にして全歯摩軋す(第三十八図)
綿羊に於ても亦た牛に於けるか如く改良種の「メリノー」及殊に英国種は第一歯の交換は第一年の末の前にあり故に卅四図は一年を表すその他卅五図は十八ヶ月卅六図は二年三ヶ月、卅七図は三年を表し卅八図は六乃至七年を表す半改良種は前者より六ヶ月を遅ふす
(今泉六郎著「家畜年齢図説」21ページ、明治20年1月、有隣堂==近デジ本)

(6)山羊篇

近時世上漸く覚知する所の山羊乳は下に論する如く滋養至て夥多にして胃弱家一日も闕くへからさることは牛乳の比に非す而して飼養法に至ては實に容易なること犬猫を養ふが如し且つ近来本邦に於て製する洋服地の絨毛に欠乏を告くる際なれは殊に該山羊を繁殖せしめ其毛を剪取して供給を博くせさる可からす其効用と飼育の容易なることと其利益の多きことは下條に就て見るへし
<略>
今又米国農務局山羊の報告を録し以て世人の感覚を催さんとす  千八百
<略>
(藤江卓蔵著「実用殖産新書」1ページ、明治20年12月、安江静=近デジ本)

(10)山羊 Goat.

山羊は綿羊と族を同うし其の形も相肖たり、変種も亦多し。然れども角は大にして竪立し、咽喉に長き鬚あり。
 家畜と野生とあり、性質怯懦なれども軽躁にして快活なり。又身体壮健なれば岩石を踏み山坂を駆け跳躍自喜ぶ。之を飼ふには山地の矮樹ある場所宜し、取扱は粗率なるを好とし鄭重なるを要せず。
 毛の品位は羊毛に比して劣等なれども毛布に織りて質頗強し。而して鞣皮ハ却てこれに優れり。又この毛を以て最上の筆を製す。乳汁は牛乳と同じく滋養の効あり、殊に小児に適す。又肉は一般に食用となる、但或種は年老ゆるに従ひ臭気ありて口に適せず。
(金港堂編輯所編「動物図解説」24ページ、明治24年4月、金港堂=近デジ本)

 こうなると、山羊の飼育法を書いた初めての単行本は、資料その4で示す勝島仙之介訳「牧羊篇」ということになりますね。これにしても、27ページのほとんどが緬羊で、山羊は2ページ足らずしか書いていない。また「此書ハ英人チヤンバー氏著ニ係ル百科全書ト題シ一千八百八十一年第五版英国出版ノ原著中『ゼ、シープ、ゴート、アルパカ』ト題スル部ヲ訳セシ者ニシテ今称シテ牧羊篇ト名ツク(12)」と、勝島駒場農学校教授が断っている通り、イギリスの山羊の飼い方なので松方さんの乳山羊なんか全く出てきませんです、はい。それでだ、あんまり短いから、その全文を資料その5としてサービスしちゃう。私からすれば君たちは大事なお客様、お客様は神様だからね。はっはっは。

資料その5

   山羊

山羊ハ飜嚼獣類ニ属シ羊ト其族ヲ同フス今日家畜ノ山羊ハ大抵羊ト身材ヲ等フスト雖モ敏目、長毛角湾曲シ体格羊ノ如ク圓満ナラズ牡山羊ハ長髯ヲ具フ英人俗ニ(ビリー)ト唱フ牝山羊ハ(ナンニー)ト称シ髯ヲ有スル者甚ダ罕ナリ凡テ山羊ハ野生ト馴養トヲ論セズ敏捷疾走懸麹陋ヘノ間ニ飼艸ヲ探求シ怯懼セサル者ノ如シ古ヨリ山間牧畜家ハ大ニ山羊ヲ貴重シ之カ飼育ニ注意スル反テ今日ニ優レルハ著述家ノ論証スル所ナリ要スルニ山羊ハ貴重ノ動物ニシテ其ノ用アル一二シテ足ラス其皮ハ以テ諸般ノ革具ヲ製スヘク其肉ハ羊肉ニ劣レトモ美ナラズト云フ可ラズ特ニ其乳ハ精美ニシテ山羊ヲ貴重スル實ニ是ニ在リ何トナレハ其乳ハ啻ニ滋養ニ富ムノミナラズ薬餌ノ効アレハナリ小農ノ牝牛ヲ飼養スル資力ナキ者ハ特ニ山羊ヲ有益ナリトス蓋シ容易ニ肥腴シ牛羊ノ堪ヘザル粗艸ヲ飽食スレハナリ山間ノ農民一偶ノ山羊ヲ飼畜スルニハ幾ント労力ト資金トヲ要セズ灌木叢生ノ荒蕪地ニ在ルモ十分飼艸ヲ覓メ看護注意ヲ要スルコトナシ某國ニテハ山羊ニ由テ大益ヲ収ム肉ハ?蔵シテ冬季ノ食料トナシ乳ハ以テ精乳ヲ製ス幼弱ナル山羊ノ肉ハ頗ル滋美ニシテ香氣ノ上品ナル児羊ノ肉ニ優ルモ劣ルコトナシ
貌烈頓ニテハ一山羊一時ニ二子ヲ産スルヲ常トス或ハ三四頭産出スルコトナシトセズ暖国ニテハ一時ニ四五頭ヲ生スレトモ畜種劣変ノ虞アリト云フ胎孕ノ期五ケ月ニシテ牡ハ一年牝ハ七ケ月ニシテ交接ニ耐ユ然レトモ斯ノ如ク幼弱者ノ成達前ニ挙ケタル穉児ハ尩弱ニシテ不具畸形多シ故ニ十八ケ月若クハニ年以后ニ孳尾セシムルヲ善シトス巳ニ六歳ニ至レハ老齢トナス然レトモ間マ十五歳迄モ生存スル者アリ
山羊ハヨク馴育スレハ一日二回畜主ノ許ニ帰リ搾乳ヲ促シ又好テ屋下ニ睡眠ス
山羊ノ乳ハ旨甘ク牛乳ノ如ク胃中ニ在テ凝固シ易カラズ故ニ胃弱家ノ喫飲ニ妙ナリ而シテ食餌ノ香氣ヲ乳ニ傳フ是レ牛羊ノ乳ニ絶テナキ所ナリ日々ノ全量半パイント乃至一クオータルニ下ラズ純良ノ乳酥ヲ生ス飼育宜キヲ得レハ一年ノ中十一ケ月間ハ乳ヲ生スト云フ瑞西ウヱールス蘇格蘭高地ニテハ山羊ハ住民ノ一大動産ニシテ他畜ノ生存スル能ハサル山丘ニモヨク成育シ強剛ナル土人ヲ給供ス但シ土人ハ甚タ之ヲ貴重シ其革ヲ以テ臥床ヲ製ス温暖華美ナリ其乳ハ燕麦ノ麺包ヲ和シテ食ス或ハ精乳ヲ製シ或ハ酪ヲ製ス其肉ハ成達ノ期ニ及テ醃蔵スレハ頗ル良品ナリ山羊ハ羊ノ如クヨク肥腴ス然レトモ其肉ハ奈何ニ飼養ニ注意スルモ羊肉ノ如ク美ナラズ○山羊ハヨク熱帯地方ニ繁殖ス羊ハ熱地ニ在テ羸瘁虚弱トナルモ山羊ハ反テ改良スルモノヽ如シ将タ山羊ノ乳酥ハ牛乳酥ノ如ク凝固シ多量ノ凝乳[乳餅トモ云フ]ヲ生ス酪ハ良品ニシテ香気アリ其形状美ナラサルモ滋味頗ルパルシシアン酪ニ類ス其農民ハ牛乳ニ少量ノ山羊乳ヲ混和シ大ニ其香氣ヲ美ナラシム冬季土産ノ飼料乏匱ナルトキハ蕪青、馬齢薯、ノ截片甘藍葉其他庖厨ノ残滓ヲ食ス其蝋ハ羊蝋ヨリモ純良高価ナリ故ニ上等蝋燭ノ製造ニ用ユ
コペツト氏ハ細民ニ山羊飼育ヲ勧奨シテ曰ク山羊ハ嫩木ノ柔皮ヲ噛傷シ庭園ノ花卉ヲ損害スルノ弊アリ然レトモ共同牧場ニハ樹木ノ存スル罕ナリ假令之アルモ巨大ニシテ山羊ノ為メ害セラルヽコトナシ故ニ牧牛ニ適セサル地ニハ山羊ノ不利アルヲ見ズ体質ノ強剛ナル粗食ヲ厩ハサル世間山羊ニ比肩スル者ナシ例ヘバ溝渠ノ果実ヲ捜索シ腐敗セル麺包悪臭ノ乾芻、藁稈、刺鷹爪、薊、黒白ノ古紙等物トシテ食セサルナク而モ絶ヘズ乳汁ヲ生スソノ棲息スルヤ或ハ犬實ニ於テシ能ク圧住ニ堪ヘ売買ノ際如何ニ制錮スルモ強壮ニシテ健康ヲ損スルコトナシ將タ航海中ハ風波ヲ意トセズ家鴨鵞鶏豚等ハ斃死スルモ山羊ハ依然壮康ナリ各種ノ犬ハ須臾モ甲板上ニ起ツ能ハサルモ山羊ハ跳躍走行常ニ異ナラズ
貌烈頓ニテハ外國種山羊ノ飼蓄ハ功ヲ奏セサリシモ佛國ニテハ盛ニ之ヲ輸入シタリカツシュミール山羊ハ其絹様ノ長毛ヲ以テ名ヲ博セリ故ニ佛國ニテハ之ヲ輪入シテイベツト種ト交種セシム但シカッシユミール上衣ハ古ヨリ世人ノ賞賛スル所ナレバ此交種所産ノ毛亦精美ニシテカッシユミールニ一着ヲ譲ラズ由是観之吾國ノ暖和地方ニハ如是外國交種ヲ輸入シ土産種ニ配セハ実益アルハ疑ヲ容レズ
(チャンバー著、勝島仙之介訳「牧羊篇」25ページ、明治17年10月、丸屋善七=近デジ本)

 はい、私も全部読めんのですがね、難しい漢字は飛ばしても一通り目を通しましたね。これで資料その3の(5)まできたから、次は(6)ね。 この藤江さんは、いま読んだチャンバーの要約みたいな山羊飼育の勧めを書いた後、資料の通り「今又米国農務局山羊の報告を録し」と正体は翻訳物で、松方乳山羊はノータッチ。日本の山羊は(7)で、ようやく取り上げられるのです。松方さんがフランスから連れてきたとしたら、8年たったのだから、相当その子孫が増えて、乳をよく出すと知られていそうなものだが、松方のマの字も書いていない。
 どう書いているかというとね「我カ国南島ハ従来山羊ヲ飼養セリ故ニ九州殊ニ鹿児島等ニハ之レヲ飼養スルモノアリシカ近年ニ至テハ西洋人ヨリ伝播シテ之レヲ飼フモノ諸所ニアリ東京ニ於テハ麻布ノ井上氏今井氏最モ先進者タリ氏ハ已ニ百余頭ヲ飼養シテ専ラ搾乳ニ従事セリ而テシ産児ハ甚ク健康ニシテ滋々殖蕃スルノ景況ナリ(13)」。
 松方じゃなくて東京麻布の井上、今井という名前が出てくるのです。玉利さんは、続けて我が国の羚羊は山羊の一種だ。山奥の羚羊たちが健在なんだから当然山羊は飼えるはずだ。いきなり緬羊に飛びつかず、体の丈夫な山羊で勉強してから緬羊を飼えばよろしかろうという意見でした。
 資料その3の(7)の内藤菊造も、天災で山羊を失ったので「東京の井上某、三河岡崎の畔柳某よりも数十頭を譲り受けしことあるも(14)」と書いています。明治24年10月から本を書く前の25年春ぐらいまでの間に井上から山羊を買ったのですね。こうなると東京麻布の井上なる人物を調べなければなりませんよね。(9)の原熈著「実用教育農業全書 養畜篇」は牛から蜜蜂まで13種を取り上げ、山羊には11ページを割いていますが、歴史には全然触れてない。家禽として白鳥の飼い方も書いてある点は変わっています。(10)は資料その4に入っています。
 井上某をどうやって捜すか。松方さんがフランスから帰国したころの新聞はもちろん、畜産の雑誌も見なければなりません。あれこれ掻き集めて私は「山羊なんでも年表」を作りました。調べが進めば追加事項が出るでしょうが、現段階のを資料その6として示します。こんな年表は山羊の参考書にはありませんよ。
 余計なことだが、明治15年6月の「五畜分娩早見表」と全く同じ表が明治23年2月25日発行の「牧畜雑誌」27号12ページの「統計」に「家畜分娩日早見表」として載っている。使い方の説明だけですが、誰かがあれは役に立つと編集者に掲載するよう勧めたのかどうか、わかりませんなあ。

資料その6
        山羊なんでも年表

明治9年3月5日    津田仙が農業雑誌にカシミル山羊飼養の利を説く
明治10年9月     前田正名が「三田育種場着手方法」を出版
明治11年3月29日  小児に与えるなら山羊乳が最良と読売が報道
明治12年3月25日  片寄が農業雑誌に「山羊の利益并びに其飼養法」を書く
明治13年1月21日  農業雑誌が松方インタビューを掲載
明治13年8月21日  駒場農学校が洋種山羊7頭払い下げる
明治14年春      井上龍太郎が松方から山羊有用論を聞かされる
明治15年6月     「興農叢誌第一集」が二見政道作成の「五畜分娩早見表」を掲載、山羊は必ず154日で分娩すると明記
明治15年       井上が今井某と仏人から買った山羊の飼育始める
明治18年8月1日   井上が麻布区内に3牧場を開き山羊乳売り始める
明治19年5月     大日本農会品評会で井上、石川の山羊が受賞
明治19年10月31日 東京府下の山羊乳業者は麻布区1軒だけと読売が報道
明治19年12月31日 東京農林学校で山羊3頭飼育と報告
明治19年       内藤菊造が山羊を飼い始める
明治19年       井上が仏国の良種と称する山羊の乳売ると新聞に広告
明治20年2月2日   官報が明治19年東京府下の乳山羊267頭と発表
明治20年4月     農会報告が東京山羊搾乳者数12でなく2の誤りと指摘
明治20年       井上が「山羊飼養論」発行、農会報告が梗概を掲載
明治21年1月     前田正名が鹿児島など4カ所で一歩園経営始める
明治21年4月5日   山羊乳業者、東京に1軒と府牛羊乳月報
明治21年8月     麻布の井上、今井は山羊飼育の先達と玉利が自著で紹介
明治19年〜21年   松方が岩村道庁長官に山羊の有用性を説く
明治22年5月5日   山羊咳の妙藥の回答
明治22年6月25日  牧畜雑誌11号に鈴木美清が「山羊の説」書く
明治23年8月6日   前田正名が牧場開設するよしと読売が報道
明治23年8月7日   前田が山羊牧場を開くと時事も報道
明治23年8月13日  東京日日と読売が前田正名が山羊牧場計画を報道
明治23年8月13日  郵便報知と時事も前田山羊牧場計画を報ず
明治23年8月13日  時事新報も前田の山羊牧場計画を報ず
明治23年8月21日  山田法相を訪ねた前田、山羊話かと東京日日冷やかす
明治23年8月25日  牧畜雑誌も前田山羊牧場計画を伝える
明治23年9月25日  農業雑誌の「牧畜雑説」が山羊取り上げる
明治24年6月5日   同誌に質問新題
明治24年6月25日  同誌に小沢回答
明治24年8月15日  同誌で小沢が山羊飼養法語る
明治24年8月     内藤菊造は三河で山羊を164頭に増やす
明治24年10月15日 同誌で武藤が山羊乳汁の効に就て語る
明治24年10月25日 同誌に耕牧園が山羊の広告
明治24年12月16日 益農園が勧農叢誌を創刊、山羊記事を載せる
明治24年12月15日 小沢が農業雑誌で山羊飼養質問を謝絶す
明治25年1月5日   同誌に山羊質問
明治25年1月25日  表野が山羊の効益
明治25年2月15日  同誌に純粋佛國種拾頭売ると広告
明治25年2月25日  表野が回答は見聞によるだけと謝る
明治25年4月15日  小沢、松方の山羊持帰り説を農業雑誌に書く
明治25年5月     内藤菊造が「山羊全書」を刊行
明治25年6月5日   農業新誌に山羊質問出る
明治25年9月29日  農業新誌が泰農園の山羊飼育質問への農務局回答を掲載
明治25年10月5日  農業雑誌に山羊の一芸
明治25年11月1日  玉利の要請で海軍がマルタ島から野牛3頭を運ぶと読売報道
明治26年1月5日   農業新誌で泰農園が当局の山羊回答を公開
明治26年1月20日  農業新誌に質問
明治26年2月25日  耕牧園主人が牧畜雑誌で「米國農務省山羊報告」連載開始
明治26年5月10日  牧兎生が牧畜雑誌に「山羊の話」を書く
明治26年5月10日  牧畜雑誌に質問
明治26年5月15日  加藤懋が21年ごろアンゴラ山羊初輸入と農業雑誌に記事
明治26年6月10日  牧兎生が牧畜雑誌に「山羊の話」2回目で終わる
明治26年11月25日 牧畜雑誌に質問
明治27年2月10日  耕牧園主人「山羊飼養の必要を論す」を牧畜雑誌に投稿
明治27年2月15日  耕牧園主人「山羊の飼養を奨励す」を農業雑誌に投稿
明治27年3月5日   耕牧園主人「山羊飼養の必用に付」を農業新誌に投稿
明治27年4月5日   農業新誌に回答
明治27年7月5日   農業新誌に山羊の回答
明治27年9月10日  耕牧園主人「米國農務省山羊報告」11回目で終わる
明治32年9月20日  木暮厚平が農業世界に「飼養論」を投稿
明治27年9月25日  牧畜雑誌に質問
明治32年10月20日 農業世界に山羊参考書の質問
明治32年12月20  農業世界で山羊飼っている所の質問
明治34年1月5日   農業世界で質問
明治40年12月5日  農業雑誌が「山羊の飼養を奨む」の連載開始
明治41年1月5日   農業雑誌「山羊の飼養を奨む」で食べ方紹介

 別に松方さんの帰国から2年後までの動静記事一覧も作ったね。それには松方さんが世話になったお礼にフランスへ犬を送ったという記事があっても、山羊を連れてきたという記事はない。見付からないから載せられないのですよ。記者たちは出張から戻った松方さんに会えないときは、同行者でもいいのに、何日か待って、わざわざ松方さんから話を聞いて書いたとわかる記事もあります。少なくとも農商務省時代の松方さんは話し好きで取材しやすいお役人だったと思われます。そういう人がヨーロッパの山羊について語っても、日本で増やすべく買ってきたと語った記事とか逸話はない。そうなると誤解にせよ何にせよ、輸入説を作り出した何かがあるはずですよね。
 そこでだ、山羊年表の明治13年の津田仙によるインタビューを、資料その7にしましたから見て下さい。前半は削りましたが、松方さんは西欧型農業と食生活を取り入れようと語ったことがわかります。[ ]の間にある文は小さな活字で2行組みにした註です。


資料その7

仙一日勧農局長松方正義君を三田に訪ひ山談海話
の末談鋒漸く遷りて勧農前途の目的如何に及ぶ君
曰く興農の事たる目今の急務なり而れども我國の
農業は猶未だ完全の域に達せず疎漏の点甚だ多け
れバ之が改良を要する者亦少なからず
<略>
夫れ我國の農具は不充分なり而して奥羽北海道の
間曠原荒野の拓くべき者甚だ多し今より牛馬の牧
畜を盛にし之を耕作に牽施に食料に供して其糞は
豚に與へ其骨は肥料と為し又羊豚及び兎の類は柔
順にして製し易き畜類なれバ嬬弱の婦女子に之を
飼はしめて毛を截り肉を食ひ皮を剥ぎ葡萄の栽培
を盛にして其菓を食用と為し又は飲酒を製し可成
輸入の減額と輸出増加との道を開き玉蜀黍の耕作
を盛にして人畜平常の糧食を足し[玉蜀黍は米に比するも其の養分多
き者なり]人糞の外に骨粉又は魚類の〆粕等を施こして
植物の生長養育を裨け日に農業の秘薀を研究して
之れが開進を索むるあらバ農産頓に興りて民に余
澤を生じ利益は工商に波及して余澤は全國の公衆
を潤ほし農、工、商業、並び進んで相悖らず野に遺利な
きを見るに至るは足を翹して待つべきなり余が勧
農前途の事に就いて下したる所の見解は一にして
足らざれども其大略ハ先づ此の如きのみ其細條目
に至つては異日また悉しく談論するところ有る可
し云々  

 羊は1回、山羊は全く出ませんが、もっと山羊に絞った発言があるのです。それが年表の上から11行目「松方伯が岩村道庁長官に山羊の有用性を説く」。編集した六々仙史こと伊藤巳尾は「前太政大臣ノ奏議ヲ始メ各大臣カ行政ナリ司法ナリ教育ナリ産業ナリ兵事ナリニ於テ演述セラレタルモノ若クハ其他ノ貴顕紳士カ此個々ノ事ニ就キ意見ナリトシテ官報或ハ各新紙ニ散見スル所ノモノヲ抜粋聚集シ以テ一小冊子トシ(15)」たと緒言にあるので捜しているのですが、まだ見つかりません。
 出版が21年末、松方さんが伯爵になったのは17年、岩村通俊が北海道庁長官の在職期間から推して、19年1月から21年6月の間の発言としたのです。資料その8が松方さんの山羊に関する発言ね。惜しいところで云々だ。だから、私がフランスから買ってきたとか、帰国後発注して普及を図ったとかね、もう一言ほしい。松方山羊の真相を解明する上で、ぜひこの記事の原文を見付けたいのです。著者の住所が大阪になっているので関西の新聞かも知れないが、捜してレポートを書く人はおらんかなあ。

資料その8

  ○牧畜業ノ事ニ関シ岩村前北海道庁長官カ松方伯ヲ訪ハレシ時同伯ノ意見

予曾テ欧州ニ使シテ佛獨白西其他諸國ノ内地ヲ跋渉セル毎ニ好ノ道トテ公務ノ余暇ニハ必ス牧畜ノ事ヲ探リシカ彼ノ獣類中ニテ最モ我邦ノ牧畜ニ適セルモノハ山羊ニ如モノ莫ラント思フ何トナレハ山羊ヲ飼養スルニハ別ニ餌料ヲ要セス又牧場モ敢テ平坦ナル原野山林等ヲ好マス剰サヘ其肉ハ牛肉ヨリモ美ニシテ且ツ養分多ク其乳汁ハ牛乳ニ優ル遙カ数等ニシテ西洋人ハ常ニ之ヲ嗜好シ又其毛皮ハ氈ニ供スヘク其毛ハ筆ヲ製スヘク其皮ハ靴ヲ造ルニ最モ適當セリ殊ニ該獣ハ一年ニ四頭ノ児ヲ産ムモノニシテ其生子モ七ケ月ヲ経ハ交尾セルモノ故繁殖ノ速キコト實ニ驚ク可キ程ナレハ若之ヲ北海道ノ荒蕪地ヘ放飼センニハ定メテ我帝國ノ一大利益ヲ起シ得ヘシ云々

 この年表にはね、松方山羊輸入説を決定的にしたに違いないという記事もちゃんと入ってます。ふっふっふ、それはどれかというとね、明治23年8月6、7日と13日の両項目です。東京日日、読売、郵便報知、時事と少なくとも有力4紙が一斉に前田正名が鹿児島に牧場を作り、松方伯が欧州から持ち帰った山羊を殖やすと書き立てたことです。朝野新聞、朝日新聞、東京曙新聞にはないので、通信社と契約してなかったか、山羊を送ってからでもいいとボツにしたのでしょう。
 この前田という人物は旧薩摩藩士。長崎で勉強して明治8年にパリの日本公使館に勤務する。帰国して農商務省三田育種場長を命じられ、山羊年表の上から2行目の開発計画を立てます。明治11年開かれたパリ万国博覧会事務官長として、またパリに行き、日本国副総裁として出かけた松方さんを支え、農商務省農務局長、農商務次官を経て元老院議官になった。山羊牧場を計画中と報道されたのは、そのときのことです。
 前田は北海道とも関係大ありでね。阿寒の山林4300ヘクタールを持ち、保護している財団法人前田一歩園の前身は、前田が明治39年に国有林の払い下げを受けて設立した阿寒前田一歩園でした。(16)また前田は釧路町の「天寧の地に前田製紙工場を明治十三年(一九〇〇)に設立した。後に北海紙料〜富士製紙第四工場となる。(17)」と「釧路町史」にあります。
 資料その9が前田山羊牧場の新聞、雑誌の記事です。その(1)が読売新聞と時事新報が載せた第一報です。書き方が違うので、両社の独自取材による記事らしいが、その1週間後に出た記事は、4社ともほぼ同じなので通信社が配信した記事でしょう。郵便報知は縮めすぎたと思ったのか、ご丁寧に翌日も山羊乳の記事を載せていました。はい、読み比べて下さい。

資料その9(1)
 
○前田正名氏羊飼とならんとす 前の農商務次官前田正名氏ハ山羊の有益にして且又其飼養も我国に適するを以て今度薩州桜島近傍に一大牧場を設け一層該獣の増殖を計らるゝ由(明治23年8月6日付読売新聞2面=マイクロフイルム)

○前田氏の牧畜 先年松方伯が欧州巡回砌牧畜業の我国に必要なるを感じ帰朝の際山羊数頭持ち帰りたることあり其後各所に牧場を開き山羊を飼ふものありしが今度前農商務次官前田正名氏は薩州桜嶋近傍に一大牧場を設け其増殖を計ると云ふ
(「時事新報 復刻版」9巻3号237ページ、昭和61年4月、龍渓書舎=原本、紙面は明治23年8月7日付時事新報1面)

同(2)

○山羊牧養  元老院議官前田正名氏が薩州桜島近傍ヘ一大牧場を開設し山羊を牧養せんとの計画あるよしは既に報ぜしが氏は佛国より其の良種を購求する都合なりしも幸ひ麻布廣尾なる益農園にて飼養する山羊は先年松方伯が佛國より帰朝の節携へ帰りたる良種なればとて同園より牝牡数頭を求め近々同地へ移さるゝよし又此の畜の効用ハ種々あるも氏は山羊乳汁需用の拡張を第一に計る由にて山羊乳ハ諸動物中最良のものにて滋養成分の多量なるのみならず其消化の速かにして味ひは甘味の中に一種の香氣あり人体滋養にハ此上もなきものなりと云ふ既に明治十九年中内務省衛生局試験所に於ける試験の成績にも本品は色味臭共に異状なく比重は摂氏廿三度半に於て一、〇三二なり然して百分中所含の各成分は水分八三、五二九脂肪七二、五〇蛋白質〇三、四乾酪素三六、一五乳糖四四五九灰分〇八、〇七なりと云ふ
(明治23年8月13日付東京日日新聞4面=マイクロフィルム)

○前田正名君の牧畜 元老院議官前田正名氏が薩州桜島近傍へ一大牧場を開設し山羊を牧畜せんとの計画あるよしハ世人の噂する處なるが氏は仏国より良種を求むる筈なりしも幸ひ麻布広尾なる益農園にて飼養する山羊ハ先年松方伯が仏国より帰朝の節携へ帰りたる良種なれバとて同園より牝牡数頭を求められ近々該地へ移さるゝよし又該獣の効用ハ種々あるも氏は第一山羊乳汁需用の拡張を計らるゝ由にて山羊乳汁ハ諸動物中最良のものにして滋養成分の多量なるのみならず其消化の速かにして味ひ甘く一種の香気を含み人体滋養に最も効ありと云へり去る明治十九年中内務省衛生局試験所に於ける試験の成蹟ハ色味臭共に異常なく比重は摂氏二十三度に於て一、〇二三なり而して百分中所含の各成分は水分八三、五二九脂肪七二五〇蛋白質〇三四〇乾酪素三六一五乳糖四四五九灰分〇八〇七なりといふ(明治23年8月13日付読売新聞朝刊2面=マイクロフィルム)

○前田氏の飼羊 元老院議官前田正名氏が薩州桜嶋近傍へ一大牧場を開設し山羊を養はんとの計画あるよしは既に世人の知る處なるが氏は當初仏国より其良種を求むる筈なりしも幸ひ麻布広尾なる益農園にて飼養する山羊は先年松方伯が仏国より帰朝の節携へ帰りたる良種なればとて同園より牝牡数頭を求め近々該地へ移すよし (「時事新報 復刻版」9巻3号278ページ、昭和61年4月、龍渓書舎=原本、紙面は明治23年8月13日付時事新報4面)

  ●山羊の乳
前田正名氏薩州桜島近傍へ一大牧場を開設し山羊を牧養せんとの計画あるは既に久し初め仏国より良種を求むる筈なりしに幸ひ麻布広尾なる益農園にて飼養する山羊は先年松方伯が仏国より携へ帰りたる良種なれバ此より牝牡数頭を求めたり近々薩州に送るならん山羊の効用は種々あるも氏は乳を専ら取るの見込なり山羊の乳は諸動物中最良のものにて滋養分の多量のみならず其の消化の速かにして味ひ甘く一種の香気を含み尤も妙なりと未た嘗めたることあらざれば詳かには状する能はず
(郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞 復刻版69」423ページ、平成4年12月、柏書房=原本、紙面は明治23年8月13日付郵便報知新聞朝刊3面)

  ●山羊乳の滋養分
山羊の乳は滋養分多くして且つ香気あり尋常の牛乳の搾取は一日二度に超へざれどこと山羊に至ては四回以上搾取するを得べし其量は毎回一合余を出す、されば來客等あるときには常に搾りたての香乳を供するを得べく且つ其価も一頭五六円にして繁殖も又速かなり比等の利益あるためにや咋日記せる如く前田正名氏は薩海櫻島近傍に此の大牧場を起さんとするなり山羊乳と牛乳との滋養分の比較を挙くれば左の如し
  牛            山羊
一水    八七、二五   八五、四〇
一蛋白質   三、七〇    四、五五
一脂油    三、六〇    五、〇〇
一糖分    四、七三    四、三〇
一灰     〇、七二    〇、七五
一滋養■<1字不明> 一〇三、九   一〇四、〇 
(郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞 復刻版69」427ページ、平成4年12月、柏書房=原本、紙面は明治23年8月14日付郵便報知新聞朝刊3面)

○山羊の牧場 嘗て松方伯か欧州巡回の節我邦に牧畜事業を盛にするの必要を
感せられ帰朝の際数頭の山羊を持ち帰られしより該獣を飼養するものも次第に
増加し來りたるか這回前田正名氏も山羊の有益にして而かも体質強健能く我国
土に適するを以て薩州桜島近傍に一大牧場を開き大に之を蕃殖せんとするの計
画ありといふ
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」39号12ページ、明治23年8月25日、牧畜雑誌社 =原本)

 これらの記事は、山羊牧場もさることながら、12年前「松方伯が佛國より帰朝の節携へ帰りたる良種」の山羊の子孫を「麻布廣尾なる益農園にて飼養」しているぞという大宣伝にもなったのです。おまけに「牧畜雑誌」も「数頭の山羊を持ち帰られしより」と書いてくれたから畜産関係者にも知れ渡りました。
 資料その9(2)でわかるように通信社の記事らしいので、信濃毎日新聞を見たけど載ってなかった。この年の北海道毎日新聞は小竹家文書として12月分があるだけでほとんど残っていないのですね。でもどこかの新聞には記事が載ったかも知れません。どうです、この明治23年8月13日の各紙報道によって、松方欧州産山羊持ち帰り説が天下に広まったと考えておかしくないでしょう。
  

参考文献
上記(12)の出典はチャンバ−著、勝島仙之介訳「牧羊篇」例言、明治17年10月、丸屋善七=近デジ本、資料その5は同25ページ、同、(13)は玉利喜造著「米国改良種畜類」44ページ、明治21年8月、玉利喜造=近デジ本、(14)は内藤菊造著「山羊全書」自序2ページ、明治25年5月、内藤菊造、同、資料その7は学農社編「農業雑誌」100号73ページ、明治13年1月21日、学農社=原本、 (15)は六々仙史著「日本の針路 前編」緒言、ページ番号なし、明治21年12月、大石堂=近デジ本、資料その8は同112ページ、同、(16)は前田一歩園財団編「前田一歩園財団10年の歩み」109ページ、平成4年10月、財団法人前田一歩園=原本、(17)は釧路町史編集委員会編「釧路町史」739ページ、平成2年8月、釧路町=原本


 では、具体的にどんな山羊だったのか―まず益農園探しからです。これまた私はね、年表作りで「農業世界」という雑誌を読み、いいヒントを得ていたのですよ。それはね、東海外史というペンネームで書かれた「種物屋近世史」という論文でした。「麻布廣尾の片田舎に益農園なるもの起り勧農叢誌なる雑誌を発行せられたりしが数號の後廃刊するの巳むを得ざるに至りたれども是れぞ種苗商が雑誌を発行して己が販売品の廣告機關とするの開祖にして今日種苗商の多くが機關雑誌を発行せし導火線とす尚又益農園にては種子苗木の外に鶏、豚、羊、兎等其他の動物をも販売せるが是亦た種苗商が動物へ手出しせし嚆矢なりとす(18)」と書いてあったのです。
 検索すると「勧農叢誌」は道内に1冊もないんだなあ。近くで持っているのは盛岡の岩手大。しゃあない東京へ出かけて、1号から9号まで持っている東大の通称明治新聞雑誌文庫で見せてもらいました。創刊号はいうなれば山羊特集号。記事は「経済動物(山羊)」という記事1本だけで「山羊は明治の初年、今の総理大臣松方伯が欧米巡遊の折携へて帰られしを初として日本に渡りしが今や漸やく農産社会の一大利源となるへきの時となれり(19)」とありましたね。まるで松方山羊以前の日本には、一匹も山羊がいなかったみたいでしょう。
 山羊の品定めには「また朝鮮山羊または島山羊或は八丈山羊と称するものあれとも肉味疎にして乳少なく皮毛も劣等にして市場に出すへからす内地に於て多少の費を出して飼ふの価なし(20)」と書いているくせに、後の資料で見せますが、ちゃっかり島山羊も売っているので笑ってしまいました。
 毛と皮を狙うならアンゴラ種かその雑種かカシミア種、寒い土地ならチベット種を飼え。「乳及び皮を目当とするものは仏国種を飼ふべし其皮堅固にして乳の分泌甚だ多し」と書いています。ピリニアン種とネビア種とマルタ種は日本で飼うのは難しい(21)とありますが、仏国種は駄目とは書いていない。どんな山羊が仏国種なのか、いまひとつはっきりしません。
 資料その3(9)の原熈の本は、アルプスとピレニヤという2種をひっくるめて仏国種としています。原は「あるぷす品種ハ体躯痩セテ丈ケ高ク大抵角ヲ欠如ス頭ハ長クシテ外觀醜ク毛ハ短クシテ黄色ト褐色ヲ混ス耳ハ長クシテ前方ニ垂レ乳房ハ長クシテ両房ノ間狭シ乳ノ量頗ル多ク主ラアルプス山近傍ニ畜養セラルぴれにや品種ハ体躯重大ニシテ丈ケ高シ毛ハ黄褐色ニシテ長ク角ハ大ニシテ後方ニ屈曲ス耳ハ山羊中最モ長大ニシテ垂レ頭ハ細美ナリ胸部ニ垂レタル肉瘤アリ主ラ仏蘭西ト西班牙トノ國界ニ棲息ス(22)」と説明しているのです。
 「勧農叢誌」のピリニアンは原のピレニヤのことだろうから、どうも仏国種とは残るアルプス種、いまはアルパイン種と呼ぶ山羊を指すのでしょう。小谷さんも仏国種は数種あり、乳用ならアルプ種とピレニー種を推しており(23)原と同じです。
 その仏国種なる山羊を飼っていた益農園はですね、石川丈吉という人物が経営していたと思われます。「勧農叢誌」の編集人兼発行人であり、第6号に紙面改善の方針のお知らせ広告があり、次号にある人物の肖像画を掲げ、國主は園主の誤植と思いますが「君が生前の知友なる國主石川丈吉は君が言語君が経歴を記して愛顧諸君に示さんとす(24)」とあるからです。
 それから前に出てきた東京麻布の井上を調べました。彼は井上龍太郎といい、井上が書いた「山羊飼養経験説」で、私は重要な示唆を見付けたのです。井上のこの文書はね、明治20年2月12日に大日本農会会堂で開かれたこの会の第56回小集会の席上、世話役の平野師応が朗読した(25)と記録されています。太字の個所が決め手です。書き手を考えながら読んで下さい。

資料その10

  山羊飼養経験説[第五十六回小集会演述] 通常会員 井上龍太郎

余は本會名誉會員松方正義君の楽耕園に在りて植物栽培の試験に従事すること久し今を距る七年即明治十四年の春一日君に就きて家畜の事を聞く曰く佛國に在るの日彼地の家畜中最益あるものを視るに其利山羊を飼養するに若くなきか如しと而して具に其飼養の法と其効用の途を教示せらる余拝承感する所少なからす是に於て奮発大に為すあらんと欲し乃東西に奔馳して良種を得んとしたれとも當時壱頭の山羊たになくして空しく其年を過きぬ翌十五年に及ひ漸府下南豊島郡渋谷村の今井某 [今井某の養ひしものは十一年に松方君か仏国より牽き帰られしものを同君の實兄久保之昌氏より得たるなりといふ蓋欧州種の本邦に入りし嚆矢なるへし] より始めて山羊数頭を購求せしか此時に方り佛人サラザン氏また良種数頭を飼育せるを聞き直に同氏の家につきて譲與せんことを請ひたりしも氏容易に肯さるを以て尚余か積年の素志を陳へ再三請ふて止まさりしかは氏も頗余か熱心を賞して遂に其五頭を譲與し旦懇に飼養法を教示せり<略>

 はい、読みましたね。井上は松方の農場で働いていた。明治14年春、松方の山羊談義を聞かされて山羊飼いになろうと決心し、優れた品種の山羊を捜したけれど見つからなかった。翌15年に渋谷村の今井某から数頭とサラザンというフランス人から5頭を譲ってもらった。要約すると、こういうことですね。
 この久保という兄貴がよくわからないのです。明治12年に牛鍋店「いろは」チェーン創立で有名な木村荘平と組んで屠畜会社を始めたり、三田育種場を借りて興農競馬を催したことぐらいしかわかりません。いろいろのことで俺の弟は偉いのだぞと松方さんを利用して飯の種にしていたらしいのです。
 いいですか、角括弧の中はね、井上の「山羊飼養経験説」には入っていなかった説明みたいに受け取れます。スライドで見せましょう。上の方が切れてますが、ほら、この通り小さい字で2行組みになってる。井上は品種について何も書かなかったので、読み上げた平野かお節介な編集者かが付け加えた可能性があります。

   
        (北海道大学図書館蔵書から)

 松方は山羊がいかに飼いやすくて人間の生活に役立つか、井上にたっぷり吹き込んだ。欧州にはいい山羊がたくさんいるとは話したでしょうが、おいどんがフランスから買ってきた乳をよく出す山羊は、土産代わりに兄貴にプレゼントしたなんて一言も言わなかった。もし、そう語っていたら井上は真っ直ぐ久保之昌に会いに行き、今井某が子孫を飼っていると聞き出し「空しく其年を過」すことはなかった筈です。
 そもそも井上本人はこの小集会には出ておらず、代読だったのですから、こんな説明はできるわけがない、そうでしょう。読み上げた平野某が、私の知る限りではなんて一言付け加えた分も、速記者が書き留めたことが考えられます。
 それから井上経験説を掲載したこの「報告69号」の寄贈書籍・物品リストに「実地経験 山羊飼養論壱冊 井上龍太郎著 通常会員井上龍太郎(26)」とあるから、この経験説は本の一部であり、多分何かのとき皆さんに披露して下さいとでも添え書きして、井上は農会事務局にその本を寄付したのですね。この本は国会図書館や大学になくてね、やっと有名な成田不動の成田山仏教図書館で拝見できるとわかったので、行ってきました。それでこのくだりは原本とは大違い、平野が半ば勧進帳みたいな読み方をやり、その速記だったことがわかりました。
 勧進帳とは、歌舞伎から来た言葉でね、安宅の関で弁慶が何も書いていない巻物を勧進帳だといって読み上げるふりをすること。何か読んでいるようだが、實はアドリブという場面を指す。最近の実例では赤塚不二夫の葬儀でタモリが読んだ弔辞がそうでしたね。かつて新聞記者がメモ帳を見ながら、ちゃんと書いた原稿を読むみたいに電話で吹き込む、つまり速記者に書き取ってもらうことも勧進帳と呼んでいたそうです。
 資料その11に原本の2ページから3ページの終わりまでを引用しました。文中に「生ハ」とか「生が」とあるが、ビールの生じゃなくて小生、私はとか私がという意味ですよ。

資料その11

<略>左に山羊の邦家に必用なる大意を挙けん今や文明の進歩と共に摂生の道も月に開け乳汁の需用も日に加ハり肉食も亦然り毛布の美絨氈の如きハ貴賤の別なく是を用ひさるハなし靴及ひ手袋の如きも大に人民の需用を増したり然れとも未だ此製造に充つべき獣皮の産出あるを聞かす産出少くして消費多ければ到底外國の輸入を仰くの外他なからん是れ生が片時も座視すべからざる所以なり此一品の輸入たりとも實に莫大の金額にして以て我國利源の衰頽を表さんとす然らば是れを邦内に繁殖するにハ山羊を飼養するの外良策なし何となれば該獣は多くの効用あり且つ身体強健にして飼養容易きのミならず一ケ年両度の分娩をなし其産する子は毎回二三頭より多きは四五頭を産む是等は皆な世人の了知する處なり我国に於て未た山羊牧場の設け有るを聞かず是れ生が大に嘆する處なり顧るに財政困難の今日に當り其本を養ハすして其末に走るは實に惑へるの甚しき者なり而して山羊を牧飼する土地固より乏しきに非す到所に多の山野を有しながら如斯利益ある業を起す者未た之なきハ生が深く怪む処なり依て鋭意を以て之を鼓舞せらる可らずと確信し此業に着手して積年の宿志を達せんとす然れ共数百頭の山羊を得んと欲して各府県下を跋渉捜索すと雖も一頭すら之を得る能ハず遺憾ながら手を拱て日を費し遂に明治十五年と成る此の際今井伸之丞氏[註]同氏が養へたる山羊ハ欧州種にして松方伯が明治十一年に仏国携帰せられたるものなり蓋し欧州産山羊の本邦に入りし嚆矢とすべし より始めて僅に五頭の山羊を得たり次に仏国人サラザン氏に乞へ共之を肯せず再三生か積年の素志を陳して譲與を乞ふて止まざりしかハ同氏も其熱心に感じ愛育する處の山羊五頭を譲られ懇に飼養の法方をも示されたり生益々感激して日夜此業に勉励し其飼法を研究す然れ共尚ほ其数の欠乏なるに因み甲地に山羊有るを聞けば数百里の遠きを<略>

 これを読むと、井上に山羊5頭を売ったのは今井伸之丞という男です。府下南豊島郡渋谷村なんて住所や久保は書いておらず、それらは完全に平野の勧進帳だったことは明かですね。井上は今井から松方がフランスから帰国する際連れてきた欧州種と聞いたのでしょう。自分が東奔西走しても1頭も買えなかった経験から、その山羊の祖先こそ「欧州産山羊の本邦に入りし嚆矢」と断定してもおかしくない。
 ところがもう一つ思いがけない資料が飛び出してきたのです。それは篠田鉱造という人が「食道楽」という雑誌に書いた「元祖食味の新聞文献」という史話です。短いので全文をスライドで見てもらいましょう。明治19年に井上が山羊の乳を売る広告を出していたというだけなら、珍しくないのですが、井上は松方正義の別邸に住んでいたらしいのです。はい、スライドの特に末尾の住所に注目ね。


◇仏国良種山羊の乳売祖

山羊の乳は、この明治十九年中、肉食界の光景に似ず逸早く売り出されてゐるのは、外国人相手といふ点もあつて、其余分を一般へ売出してゐたのかも知れないが兎も角、四十六年前に売出してゐるのである。

日本最初 やぎのちゝ広告 一合に付金三銭五厘
山羊の乳の人体栄養に大効ある牛乳の比に非ざるは内外
諸大医の認知する處なり○特に小児の発育に欠くべから
ざるは、横濱築地の外國人にして子を持ちたる者は各同
家に飼養するを以ても其必要なるを知らる○弊舎の山羊
は予て日本農會に於て賞典を得たる佛國の良種にして其
乳汁は東京衛生試験所に於て最も善良なる試験を得たり
麻布区竹谷町六松方家別邸    井上龍太郎
      搾取販売所     養成會

(食道楽社編「食道楽」9年9号15ページ、篠田鉱造「元祖食味の新聞文献」、昭和10年9月、食道楽社=原本)

 私は「山羊飼養論」の食い違い部分を見付けて喜びすぎ、大事な奥付コピーを忘れていたのです。それで後日、仏教図書館のレファレンス担当の方に電話て教えて頂きました。それで奥付らしい形の記載はないけれど、山羊飼養の試算表などの最後のページに「明治二十年/東京麻布区竹谷町六番地松方殿別邸/井上龍太郎記(27)」と記載されているとのことでした。
 私の「山羊なんでも年表」では、この広告の前の年、明治18年8月から井上は山羊乳を売り出したとなっていますが、出典は平野速記だからちょっとお預け。こうなると井上は松方別邸という絶好の地の利があるのに、松方公携帰のフランス種の山羊ともうたわず、遠回しに「仏国の良種」と称する山羊の乳を売っていたのか、それこそ素直に飲み込めません。はっはっは。
 篠田の記事は何月何日の何新聞とは書いていないけれど「明治百話」などたくさん歴史の話題を書いた人ですから、探せば見付かるでしょう。このあたりは、もう一度成田に行って前後を調べますが、今回はこうした別筋の資料もあるという紹介に留めます。
 松方帰国の際という導入時期が今井か井上の創作ならうまいとは思いますが、平野が久保の介在を付け加えたところからみると、有名な弟を利用することにたけた久保がそう言いふらして毛色の変わった山羊を方々へ売り込んでいたのかも知れません。
 井上の本に書いてあることと「大日本農会報告」の平野演述は少なくとも、こうした違いがあり、現場主義を標榜する私としては井上本の註のあるページをスライドで見せておきたい。はい、仏教図書館には、大事な本をガラス面へ押しつけて傷めないよう、開いた真上からカメラで撮影して刷り出す高級コピー機を持っていてね、これはそれでコピーしたページです。コントラストがよくないのは、初めてお目に掛かるマシンで、私が濃淡調整できなかったせいね。一応読めるのでよしとしたのですが、こうしてスライドで見るとかなり薄いねえ。

       
        (成田山仏教図書館蔵書から)

 井上の「実地経験 山羊飼養論」は何部印刷したかわかりませんが、現存するのは仏教図書館ぐらいなの対して「大日本農會報告」は40ほどの大学図書館が明治14年の創刊号から同25年までの大部分を保存しています。だから松方帰国を明治11年と間違えた上に「欧州産山羊の本邦に入りし嚆矢とすべし」と書いた井上の「註」よりも「大日本農会報告」が掲載した平野の勧進帳速記の方が、桁違いに影響力が大きかったと考えられます。
 これで篤農家や農学校の教師などに松方の欧州産山羊持ち帰り説が伝わり、3年後の明治23年の前田正名の桜島山羊牧場計画の報道で、より知られるようになった。だから、翌24年に出た「勧農叢誌」創刊号の山羊記事に松方山羊持ち帰り説が入っていても不思議でない。
 その翌年の25年8月に出た「勧農叢誌」8号には「仏国種山羊独文句」と題する山羊飼育の常識を盛り込んだ戯れ歌が載っています。これなんか松方伯にお供して海を渡ってきたとね、はっきり謳っているので資料その12として紹介しておきましょう。山田喜平さんは緬羊普及の歌を作っていますが、こういう戯れ歌ではありませんでしたね。
 私はこうした経過から、いま山羊飼育書に載っている松方乳山羊持ち帰り説の出所は、明治20年に出た井上本と「大日本農会報告」に違いないと考えておるのです。畜産の本にある山羊の歴史は、こんなマイナーなことまで詮索して書いたものではないのですね。素直な方が、先人の書いたものを素直に引き継ぐというか丸写しするから、松方山羊移入説は永遠に不滅なのです。

資料その12

  ◎佛國種山羊獨文句   浮亀散人戯著

 農界の先輩先に稲作奇談養蚕之教等の戯文あり今又
 た之に傚ふと雖素より淺学能く事實を抜く能はず所
 謂虎を画んとして猫を画く者か恐らくは却て山羊牧
 畜の眞意を汚す事なきやを疑ふ読者乞ふ其の心して
 笑覧あらば散人又た何をか云はん

これ/\皆さん○おねぼけなさるな○あくびをするのは○しよくむじや
ござらぬ○皆々はたらく○事業と申すは○御國の基だと○むかしの人か
ら○申されましたる○耕作牧畜○仕事もたくさん○ありますけれども○
牧畜事業を盛にせなけりや○年々減ります○数多の動物○年々増へます
○肉食世界に○不足をつげます○ゆうしの御方は○さはいであります○
内地雑居も○油断はできない○後悔するより○準備がかんよう○盗賊み
つけて○とり縄よるのは○旧幕時代の○てんぽうせんです○牧畜事業に
○失敗するのが○多いと申すは○計算かまはす○畜養いたして○不當の
たかねに○うりたい野心の○もへだずけむりは○煙草の様です○やにこ
い考へ○さつぱりおやめよ○正直正味の○牧畜事業を○盛んにせないと
御國が立たない○欧米諸國の○富強な様子は○皆さん御存し○羨らやむ
御方は○ふぐりがないのか○しつかりなさいよ○心を静めて○私の云ふ
事○聞てもくんねい○外ではござらぬ○明治のはじめに○欧米諸國を○
巡遊なされし○松方伯に○御供いたして○親族朋友○子供の泣くのも〇
一つさいかまはず○牧畜事業を○奨励したさに○萬里の波かせ○しのい
で來たのも○もと/\身体が○健つしやのせいです○ほかのものなら○
いくじがござらぬ○夫れ程辛苦を○重ねた私し○くどい様だが○長くは
申さん○御耳に入る迄○真實ばなし○あくびを忍で○聴聞なされ○私し
の古郷は○仏蘭西国で○アジヤ○アフリカ○ユーロープ○御腹と御種が
○かわつていても○同じ中間は○大勢いござる○北のはてより○南のは
てまで○移住致して○ミルクの製造○上手な者なら〇三升ぐらい○下手
な者でも六合以上○ヌビヤン○チベツト○中々きよう○私しも決して○
御譲り申さん○さんしよは小粒で○ひりりとからひ〇三尺たらずの○体
をしても○うできゝ者だと○欧米諸国の○びんぼう人まで〇九尺二間の
○うらやにかこう○自慢をするではこざりませんが○一銭二銭が○其の
日の入費〇一合四銭とつもつてみても〇一升つくれば○四十銭○其の外
○雑費を差引勘定○純益二十の○銅賃を列へ○此れでも○私しの仕事は
下手か○御試しなされば○論より證拠○撿約するのは○主人の御爲め○
私しのミルクを○皆人さんが○御試撿なされて○舌うちならし○何とむ
まいじや○ござらぬか○牛乳なんぞは○そばにはよれない○身体にきく
のも○中々はやい○その上○まことに愛嬌者で○子供の守まで○してく
れる○食べものいらずの○手間いらず○そだてゝ見たいと○皆さんさは
く○アンゴラさんは○なかよい友で○奇麗な毛糸を○つくるが上手○一
年獨りで○一貫目○其の又た○ねうちが〇六十余弗○今じや○日本に○
数ない故に○輸入の金高〇三十萬弗○其れ程多くの○黄金を出して○御
國の宝が○年々減るのを○御存じないのか○御氣がついたら○牧畜する
のが〇一番上等○貴人高位の○方々様より○其外皆さん○とうから御存
じ○肉のよいのは○ほうべたおとし○豚でも○牛でも○はだしでにげる
○いくぢのないのは○羚さんばかり(羚とは島山羊也)○食うと飲むとが
〇一番上手○子供はようよう育てるが○お乳を製くるは○實に實に御下
手○はたらきないから○びんばう世帯○食ふ物食ずの○やせつこけ○ほ
んにいくぢがなさすぎる○長く日本に移住して○出世をしないも○むり
はない○私しや○負るが○大きらい○親の腹には〇五ケ月あまり○産れ
て六月は○がんぜなく○なゝつき八月と○日数が立てば○どこにだして
も○おくれはとらぬ○立派なものよと○皆さんほめる○自惚云ふでは○
ござりませんが○毎日そでひく○女子のかずは〇三十位も○ござりまし
よう○夫れでもひるまぬ○私しのつよさ○其處で○私しはきんぬきされ
る○からだがふとると○つまらぬ御世話○さてもみごもる〇吾等の妻は
○月みちやす/\○産れた子供○いつでも二つ子か〇三つ子が多ほい○
其の子も○中々りこうでござる○皮をさらされ○細工をされて○うつッ
いあねごの○すなほなてゝに遇ふてうれしき○御手ぶくろ○碩学博士の
あまれしふみは○いつでも○表紙のやくめを○いたす○びろうなはなし
で○失禮なれど○私しの糞は○重寳物よ○洗濯なされば○何でもをちる
○私しのからだの○にほいをかげば○馬は病氣が○出ないと申す○私し
の命は〇二十の上よ○死でも寳をのこすがゑらい○皮はきれいな○ひき
物できる○骨だの○肉だの○肥料に上等○捨る處は〇一とつもごさらぬ
○完全無欠の○牧畜事業を○なされる御方は○私しをよびなよ〇一生懸
命○ドシドシかせいで○御家内安全○陶朱ロバート○何んのその○金銀
珠玉を○どしことならべて○御君が笑顔を○見たいが山々○其の時きや
○御前は牧畜大家○知らぬ方まで○牧畜さわぐ○そこで國益○どんどん
ふゑる○ふじの山より○もそつとたかく○びわのうみより○もそつとふ
かく○あさひの光は○どこまでとゞく〇丸ひ地球の○はてとはて○ほい
ほい/\

 明治の仮名遣いであり、当時の政治や社会情勢を織り込んでいるので、皆さんにはわかりにくいでしょうが、要は松方さんがフランスから山羊を連れて帰ったという話が、こういう歌に取り込まれるくらい人口に膾炙していたことがわかればよろしい。
  

参考文献
上記(18)の出典は農業世界社編「農業世界」1巻4号61ページ、東海外史著「種物屋近世史(承前)」、明治32年9月20日発行、農業世界社=原本、(19)は益農園編「勧農叢誌」1号2ページ、明治24年12月、益農園=原本(20)は同21ページ、同、(21)は同20ページ、同、(22)は原熈著「実用教育農業全書 養畜篇」153ページ、明治25年9月、博文館=近デジ本、(23)は小谷武治「羊と山羊」第5版477ページ、大正9年3月、丸山舎書籍部=原本、 (24)は益農園編「勧農叢誌」6号附録、明治25年5月、益農園=原本、 資料その10は大日本農会編「大日本農会報告」69号43ページ、山羊飼養経験説、明治24年4月、大日本農会=原本、 (25)は同68号5ページ、第56回小集会要録、明治20年3月、大日本農会=原本、(26)は同70号5ページ、明治20年5月、同、 資料その11は井上龍太郎著「実地経験 山羊飼養論」1ページ、明治20年、井上龍太郎発行=原本、(27)は同裏表紙、奥付相当記載事項、同、 資料その12は益農園編「勧農叢誌」8号13ページ、明治25年8月、益農園=原本、


 山羊年表の24年12月15日の「小沢が農業雑誌で山羊飼養質問を謝絶す」はですね、伊豆國賀茂郡浜崎村の小沢為吉という人が「農業雑誌」に飼育法などを書いたら、問い合わせの手紙がたくさんきた。それで飼育法や販売所の質問は「東京青山北町五丁目耕牧園或ハ仝麻布広尾町益農園へ申込まるべし余ハ失敬ながら多忙の身なれバ今後御質問を謝絶す(28)」とシャットアウトを宣言したんですな。
 それでも、なお手紙が絶えないので、それら質問者の意気に感じて「山羊ハ世界各國に於て夙に有益動物として貴重せらるゝものなり故に我國にても盛んに山羊を飼養したらんにハ莫大の国益となるべしとて現総理大臣松方伯往年欧米巡遊の節種山羊を持帰られ各地に之が飼養を勧められたり今其経済上利益あるの一斑を示さん(29)」とね、改めて飼い方要旨を書いた。明治25年4月の「小沢、松方の山羊持帰り説を農業雑誌に書く」は、それなんです。
 このように農家が乳用山羊に関心を持ち始めた時期に、内藤菊造が「山羊全書」を出したのです。これには仏国種には通常種とアルピン種がある(30)と書いてありますが、松方伝説は触れてません。内藤は今井某からも山羊を買ったことがあるし、益農園の実態も見ていて、松方山羊は眉唾だと知っていたから書かなかったと私はみますね。
 その証拠というほど大袈裟なものではありませんが、東大で見た「勧農叢誌」3号にある風変わりな山羊販売広告のことを聞かせましょうか。それにはね、仏国種とチベット種を売るから「右御望ノ御方ハ下名ヘ御通知ヲ請フ」と印刷し、売り主の住所、氏名があるべき位置に「東京麻布広尾橋際 益農園」という2行の朱印を押したクラフト紙のような紙片が張ってあるんです。そのページの裏を見たらですよ、にじんだインキで内藤の内と藤の月らしい形が認められるので「山羊全書」を書いた内藤の住所と氏名だったと推定しましたね。
 この3号には、別に内藤が山羊の乳でコンデンスミルクと粉ミルクの製造法を開発したという記事があり、その作り方を有料で伝授するという広告も載っています。一緒に山羊の売却広告も出したものの、名前を出すとまずい事情が生じて、益農園名義で売ることにしたらしい。そうでなければ線を引くぐらいでいいはずでしょう。わざわざ張り紙したところに事態の急変を感じますが、まだ理由がわかりません。内藤ミルクの記事と広告を資料その13にしましたが、黒い角印を押して消した■の3字はちゃんと「當園に」と読めます。それぐらい内藤と益農園のつながりを見せたくなかったらしいのです。

資料その13

煉乳并粉乳の伝習
内藤菊造と云ふ人は目下麻布区霞町二十一番地に寓
居せらるゝが元来三河の人にして山羊牧畜の熱心家
なり同氏は去る明治廿一年以来山羊乳を以て煉乳粉
乳を製造する事を発明され本年■■■来遊せらるゝ
に際し之を試験するに頗る良好の成績を得舶来鷲印
人形印等の及ぶ所にあらず而して製造に供する器械
たる極めて簡便且つ経済にして如何なる僻陬の地た
りと雖ども調進せざることなし今や同氏は斯る有益
技術を自己の胸中に埋没するは不可なりとし極めて
些少の手数料を以て右の煉乳粉乳の製法及煉乳粉乳
に附着すべき商標(レツテル)を印刷すべき化学的藍色又は赤色
複写法を伝習せらるゝと云ふ今日世間に流行する諸
般の秘法秘術たる伝習費多額ならざれば効用多から
ず効用多ければ多額の金額を費さゝべからずと雖ど
も内藤氏の伝授せられんとする技術の如きは伝習費
は多額の金を要するなく殊に軽便なるを以て最尠な
からざる利益を世に遺すものと云ふべきなり
(本号の広告欄参照)


吾輩他年牧畜事業に従事しコンデンスミルク(煉乳)
フートルミルク(粉乳)の製造に於ては最も力を尽せ
しものにして他に一歩を譲らさるを信す今や之を自
己の胸臆に秘すへきにあらす普く衆庶の便益を図り
及牧畜業の進歩を期し茲に無報酬を以て前二法及日
光作用化学的赤及藍色迅速軽便複写法をも教授す但
複写法は煉乳及粉乳のレツテル(商標)を印刷する為
め考窮錬磨せしものなれども大抵の文書図画ハ複写
し得さるなし」前項諸法伝習望みの向は府下と地方
とを問はず手数料及信書費として郵券十五銭送付あ
れは直ちに詳細に四法を申送るへし万一一回の信書
にして意を尽さゝる場合有と雖とも二回以降の回答
に要する費用一切申受くることなし

東京市麻布区霞町二十一番地 内藤菊造

 ところで松方山羊を飼っていた渋谷村今井某のことですが、私の調べではこの人の名前が出るのは明治20年の井上龍太郎の「山羊飼育経験説」と同21年に出た玉利喜造の「米国改良種畜類」と同23年の第3回内国博覧会出陳者・受賞者だけです。山羊年表の明治19年10月にあるように読売新聞に東京府下の山羊乳業者は麻布区1軒だけという記事(31)とね、井上が「山羊飼育経験説」で同18年から麻布区内で3牧場を設けて山羊乳を売り出したと書いていることからみて、種山羊の増殖販売専門の牧場主と思われます。21年4月の東京府牛羊乳月報が山羊乳業者は東京府下に麻布、本所両区各1人と報告している(32)のは、それを裏付けるものでしょう。
 では益農園はどうか。そのころでいう種物屋、益農園の広告はあっても石川の名前はなかなか出てきません。こっちも種山羊などを売るだけだったので、山羊乳業者に数えられなかったと考えます。山羊に関する雑誌の掲載広告、投稿、質疑応答での発言をまとめたのが資料その14。きょうは資料がたくさんあるなあ。これまで日本山羊史という本がなく、山羊飼育書の歴史では沖縄などで古くから飼っていたことと、松方さんの山羊輸入を書くぐらいが関の山だから、思わずたくさん作っちゃったよ。時間切れで余ったらホームページで読めるようにしておきますか。

資料その14

◎東京府下の山羊乳搾取人員 本会報告第六拾八号統計中明治十九年東京府下牛羊乳搾取表[六〇丁]に山羊乳搾取人員一二と記載あり是は本年二月二日の官報に拠りしなれとも其實東京府下の山羊乳搾取営業者は本会通常会員井上龍太郎氏の他になきの如きを以て少しく疑なき能はす因りて某氏に請ひて其筋の調査を煩しゝに右は井上氏壱名なれとも氏は麻布区竹谷町と同区霞町とにて営業せるか故に其筋の調査には弐名となりおるよしされは前記の表中に一二とあるは単に二の誤なること知るへし
(大日本農会編「大日本農会報告」69号60ページ、明治20年4月、大日本農会=原本)

○食用兎飼養の実験
   東京   井上龍太郎
<略>
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」2号20ページ、明治21年9月25日、牧畜雑誌社=原本)


○博覧会出品の牛、羊、山羊、豚、兎 今回開会中なる博覧会に出陳せし牛、羊、山羊、豚、兎の種類及び出品人府県別等は左表の如し素より鉛筆もて書取たる次第なれば或は誤写もあらん看官これを諒せよ
<牛など略>
○山羊
アンゴラ種  二頭    石川丈吉 東京
仏国種    牝牡及
       仔二頭   井上竜太郎 仝
アンゴラ雑種 二頭    仝     仝
山羊     三頭    仝     仝

○兎
兎(赤、胡麻)数頭    井上龍太郎 東京
仝(仝)   仝     石川丈吉  仝
食用兎(胡麻)仝     奈良専二  千葉
仝(仝)   仝     山本丑五郎 仝
仝      二頭    岡崎育三郎 仝
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」36号12ページ、明治23年7月10日、牧畜雑誌社=原本)

○博覧会受賞目録(承前)
褒状
<略>
牧草種子類聚    東京府麻布区網代町  石川丈吉
<略>
山羊(洋雑種乳用) 同府南豊島郡渋谷村 井上竜太郎
家兎(洋雑胡麻毛) 
山羊(洋種乳用)  同府麻布区網代町  石川丈吉
<略>
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」38号9ページ、明治23年8月10日、牧畜雑誌社=原本)


  広告
金色(ゴールデン)パタコニアン種兎○ベルキアンポール種兎
○仏国種山羊○種禽各種○牧草種子各種
右は要望諸君の需に応ず但郵券弐銭御送あらは代
価表進呈仕候
東京赤阪区青山北町五丁目四十八番地
   水天宮境内        耕牧園
拙者益農園には更に関係無之に付御用の御方は右
番地へ御照会被下度候
           井上龍太郎
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」43号裏表紙、明治23年10月25日、牧畜雑誌社=原本)


○山羊の良種質問の答
         東京    耕牧園主人
山羊の種類中産乳の多きものは第一ニユビヤ種第二マルタ種第三佛國種な
分娩後乳を搾取するは六ケ月間を通常とす然れとも次回交尾の遅速により
控乳の期も亦伸縮すること易るへし
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」53号18ページ、明治24年3月25日、牧畜雑誌社=原本)


●種兎及種禽広告
●金色パタゴニアヤン、ラビッツ
●ベルギアン、ポール、ラビッツ
●改良種禽各種
右は純量の種を以て弊園か絶へ得らる可き丈け廉
価に販売仕候
但し御照会の節は郵券封入或は往復端書にて御
申越御被下度候也
東京赤阪区青山北町五丁目四拾八番地
        耕牧園    井上龍太郎
東京府荏原郡駒沢村      
大日本農会植物園管理者    直井真澄
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」55号20ページ、広告欄、明治24年4月25日、牧畜雑誌社=原本)


食用兎の毛皮製肉等の需用口及価格に付質間の答
        東東   井上龍太郎
<兎の回答略>
○山羊の件に付質間の答
            仝人

山羊は性質強健にして能く寒暑に堪へ南方は赤道直下の熱帯地方より北の
方西比利亜の寒帯地方に至る迄能く生活繁殖するものなることは皆人の
知る所にして予か先年信州諏訪の有志者に該種畜を分け譲りたることあり
しか元來該地は巳に世人の知れる如く有名なる巌寒凛烈の地なれとも此山
羊を該地に移したりしに少しも氣候風土の変化の爲に障害せらるゝことな
く強壯にして能く繁殖せりと云ふ且北海道各地及ひ石川縣地方に於ても能
く繁殖するものなり之に依りて之を観るに山羊は敢て氣候風土の何たるを
問はす繁殖するものゝ如し然れとも其最も該獣の棲息に適当なるの地は極
寒中華氏寒暖計三十五度の氣候の地なりとす
<略>
山羊の食量は一日に附き夏日なれは生草壱貫五百目を給し且つ?或は米糠
豆腐粕等の類少許を與ふへし冬日は乾草及ぴ穀類を與へ其他根菜類を與ふ
るは最も良とす元來山羊は粗悪の雑草を食して生活するものなれとも又此
滋養食品を與ふれは多くの乳汁を紛泌するのみならす該畜の衛生上大に健
康を保たしむるものなり東京にて販売せるものは青山北町五丁目四拾八番
地耕牧園麻布廣尾町益農園なり
交尾後百五十日を経れは分娩するものにして其分娩して後二三週間を経過
せは亦次回の交尾をなすものなり産仔は生れて五ケ月を経れは交尾をなし
十一ケ月目に孫仔を産するものなり茲に聊か経験したる所を述へ以て問者
参考の資に供す
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」67号17ページ、明治24年10月25日、牧畜雑誌社=原本)


○種兎及種山羊
○べルギアン、ポール種兎○ゴールデン、バタゴ
ニアン種兎○佛國種山羊○チベツト種山羊
右種畜ハ内國博覧會及農産品評會に於て賞與を得
たる純粋の良種なり澤山御購求御試養あらんことを
東京赤坂区青山北町五丁目四十八番地
      陸軍御用
      養兎場         耕牧園
(学農社編「農業雑誌」425号ページ番号なし、明治24年10月25日、学農社=原本)


   益農園販売品目録
○植物種物各種 一林檎○梨○李○杏○柿○枇杷三
又樹○楮○桑○夏蜜柑外柑類各種○梅桃○楓樹○椿
○林木各種其外各種苗木
野菜類○穀類○牧草類○林木種類○甘菜類其他
  種牛 うし
○ゼルシー種 「ゼルシー」は英國「ゼルシー」島
 の原産にして性質温和強健体躯小なりと雖とも多
 く良乳を出す乳濃厚なるを以て牛酪を製するに適
 す頗る良種なり
○ホルスタイン種 乳量甚た多く乳質佳なり
○ジヨルトウン種(短角) 世界の牛属を改良
 せしと云ふ有名の種なり肉乳両用性温和成長速か
 にして体躯能く肥大となる
○デブオン種 第一肉第二乳の両用なり成長期
 速かに肥太し易く体躯大ならすと雖とも寒暑と粗
 食に堪へ且つ強健なり
○アンカス種(無角) 肉を先にし乳を次にす性
 強健にして粗悪の野草を食して能く乳を出ず
  山羊 やぎ
○佛國種山羊○アンゴラ種○チベツト
種○島山羊
  豚 ぶた
○バークシヤー種 体躯大其量七百斤に達し〔ハ
 ム〕〔ベーコン〕及塩豚に適す性最強健なり
○ポーラントチヤイナ種 性温和体躯最大其
 量九百斤に達す効用は〔パークシヤー種に異ならす
○ヱセツクス種 体躯大ならすと雖とも体甚釣
 整なり性質強健にして其肉殊に佳良なり
  鶏
○レグホルン種 伊多利亜の原産にして性活溌
 強健にして能く寒暑に耐ゆ
○プリーモツスロツク種 米國原産にして肉
 卵両用体格大にして雄一貫目雌八百目産卵壱ケ年
 百二十顆性温和強健能く冬日に産卵す
○ブラマ種 印度國の原産にして肉用也体格最大
 雄壱貫四百目雌壱貫目産卵少なく性温和且強健也
○ハンバーク種 欧洲の原産にして性質活溌容
 貌最も美麗にして賞観あるのみならず卵多く壱ケ
 年二百顆以上を産す 銀色 斑毛 金色 斑毛等也
○ウーダン種 佛國原産にして肉卵両用なり壱
 ケ年産卵数五十顆体格中にして雄五百目雌四百目
 性活溌強健なり
○ワイアンドツト種 米國原産にして卵肉両
 用体格大にして雄壱貫目雌八百目性温和にして柵
 飼に適す 銀覆輪種 金覆輪種 白色種等あり
○コーチン種 清國原産にして卵肉両用体格大
 にして雄壱貫三百目此壱貫目性極めて温和
  兎
◎ 兎は専ら野草を食して生育なすものにして其飼
 養甚た容易なるのみならす繁殖殊に盛んなるもの
 なり肉は家鶏と等しく食用すれは佳美善良の滋養
 分あり其毛は織物に製し皮は滑して手袋等を製す
 るに軟靭にして頗る上品なり種類数十種あり

       麻布広尾橋際   益農園
(益農園編「勧農叢誌」1号24ページ、明治24年12月16日、益農園=原本)


○牛、山羊等の乳汁の成分に付質問の答
         耕牧園主  井上龍太郎

各種家畜の乳汁中余は山羊乳汁に優るものなきを信するなり蓋し此乳汁は
人類生活に必用なる種々の食素を含有して人躰を滋養するの大効あり加之
乳球に不同なくして細小球圓なれは胃中に嚥下して凝結すること尠なく甚
た消化し易きか故に小児は勿論虚弱なる人又は胃弱症の人等にも適良の飲
料なりとす抑も乳球の細小球圓なるは山羊乳の特性にして人工の能く成し
得へからさるものなり左に乳球比較の図及乳汁試験の成績を掲けて以て問
者の参考に供す
五百倍顯微鏡を以て乳球を照視したる図
<略>
右圖の如く山羊乳は乳球細小球圓にして其効牛乳人乳の能く及ふ所に非す
乳汁試験表
千分中   山羊乳  牛乳   人乳
水     八四四  八五七  八八九
固形分   一五六  一四三  一一一
乾酪素
蛋白質    五六   五四   三九
脂肪     五三   四三   二七
乳糖     四一   四〇   四四
灰分      六    六    一
又左に附記する分析表は去る明治十九年中余か畜養する所の山羊の乳汁に
就て内務省衛生局東京試験所の査定を受けたるものなり
本品は色味臭共に異状なく比重は擾氏二十三度半に於て一・〇三二
なり而して本品百分中所含の各成分は左の如し
水分    八三・五二九
脂肪     五・二五〇
蛋白質    二・三四〇
乾酪素    三・六一五
乳糖     四・四五九
灰分     〇・八〇七

○山羊の件に付質問の答
           同人
現今我國にある山羊純粋の種類及舶來せし國名を挙けんに佛蘭西國より舶
來したる純粋のものはチベツト種ニユービヤ種佛國種等にしてアンゴラ種
は米國よリ舶來したるものなり其他朝鮮山羊あり支那山羊ありと雖未其種
の何たるを知らす思ふに雑種ならん歟而して西洋雑種の山羊より英国より
輸入せしもの多く又南洋小笠原島の山羊は有名なる米国の使節ペルリ氏か
安政年間同島に碇舶の際放飼したるものなりと云ふ是即米国種にして同国
ロツキー山の麓に生息するものと其躰格を同くせり
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」78号17ページ、明治25年4月10日、牧畜雑誌社=原本)


○山羊に付き質問の答
     東京青山耕牧園主 井上龍太郎

本誌第八十八號に於て北海道北山貫三君が本題の質問を挙けて数件を質さ
れたれは聊か鄙見を陳述して以て参考の一助に供せんと欲す若し取る所あ
らは幸甚然れとも思ふ所多く述へんとする所繁く到底除白一片の記し得る
所に非れは爰に唯其大要を以てするのみ
山羊は需肉需乳何れを目的として飼養するに利益ありやとの事に付其飼養
の目的を三段に分ちて之を述へん
<略>
山羊肉と牛肉との滋養成分の比例は大差なしと雖も山羊肉は其繊維細小に
して蛋白質に富み又脂肪乏しきが爲め其味淡白にして消化容易なり故に予
は脳病患者の多き我國人に取りては必要の獣肉なりと信せり
山羊の乳并に肉の代償乳は現時東京にて販売するもの一合代金五銭なり肉
の如きは種畜の供給に乏しき今日なれは迚も之を販売すること能はす但横
濱在留の支那人は毎年冬至に此肉を以て祭禮の式を挙け又西洋人は耶蘇教
の祭日に必す此肉を用ふ而して其一斤(百二十目)の代価は大概金五六十銭
位なりと云へり
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」90号18ページ、明治25年10月10日、牧畜雑誌社=原本)


内外穀菽。疏菜。牧草。種子各種。苹果。梨
葡萄。無花果。櫻。桃。杏。柘榴。枇杷。柿。
蜜柑。桑苗。其他観賞植物。山林木。各種
山羊 佛国種。西蔵種。アンゴラ改良種及ヒ
食料兎。家禽。種牛。緬羊。家犬。各種
右各種廉価ヲ以テ販売仕
候間多少ニ不拘御注文ア
ランコトヲ希望ス
             東京麻布廣尾橋際
動植物販売所
勧農叢誌発行所        益農園
(明治25年11月8日付北海道毎日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、)


◎山羊飼養の必要を論す
 東京赤坂区青山北町五丁目四十八番地  耕牧園主人稿
世運日に開け事業月に起り商業に工業に医術に法律に
<略>
たるもの一日も速に事に從はさるへからさるなり
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」122号14ページ、明治27年2月10日、牧畜雑誌社=原本)


○山羊の飼養を奨励す    東京市赤坂区青山北町五丁目 耕牧園主人報
世運日に開け事業月に起り社会愈々繁忙を極め贅言冗長のこと亦之を願みるも
<略>
に至るや必然の理なれバ憂国の士たるもの一日も黙止すべきにあらざるなり
(学農社編「農業雑誌」508号77ページ、明治27年2月15日、学農社=原本)


○山羊飼養の必用に付
    東京市赤坂区青山北町五丁目四十八番地 耕牧園主人
世運日に開け事業月に起り社会愈々繁忙を極め贅言冗
<略>
る之れ必然の理なれは憂国の士たるもの一日も黙止す
可きに非らさるなり
(博文館編「農業新誌」3巻3号40ページ、明治27年3月5日発行、博文館=原本)


●乳用山羊販売
弊園ノ山羊ハ大日本農買会及内国博覧会等ニ於テ賞
與ヲ得タル純良ノ血統ナリ御要望ノ需ニ応ス
●百合種根販売
世人カ輸出植物ノ帝王ト称賛スルモノハ海外人士
カ愛好スル我国特有ノ百合根ナリ今弊園カ耕作ス
ル四拾余種中最モ将来有望ト認ムルモノ三拾種ノ
種根ヲ御要望諸君ニ頒タントス
 右二件ニ対スル代価御照会ハ郵券封入アランコ
 トヲ請フ
  東京市赤坂区青山北町五丁目四十八番地
                  耕牧園
(牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」5136号19ページ、広告欄、明治27年9月10日、牧畜雑誌社=原本)

 益農園の目録で山羊の説明がないのは、さっきいったように山羊特集みたいな創刊号だからです。それはそれとして井上と耕牧園がよく出てくるでしょう。27年の投稿3本は、いまでいうマルチポストですね。
 益農園は「勧農叢誌」の奥付で、南豊島郡渋谷村36番地で(麻布広尾橋際)と書き添えています。地図で見ると、私が都立中央図書館への往復で乗り降りする東京メトロ広尾駅のあたりが広尾橋ね。橋も川もないので、そんなご縁があったなんて、思いもよりませんでした。
 井上は明治16年から18年まで毎年、横濱の英国人から牛を6乃至8頭買っているが、その住所は麻布区竹谷町6番地(33)で、資料の「東京府下の山羊乳搾取人員」の住所とも符合するので、実際にはそこに牧場を持ち、住んでいたのかも知れません。井上は山羊乳を売る傍ら兎も飼い、明治22年に「実用兎飼養新書」という本を出したときの奥付の住所は渋谷村元下渋谷36番地、益農園の住所です。井上は翌23年の内国博覧会に山羊を出したときも渋谷村をとし「勧農叢誌」3号で動植物石版画の予約募集をした久田浅吉という人の住所も渋谷村です。石川は渋谷村をいろいろ使わせて、益農園の広告の多くは麻布広尾橋際にしていました。
 井上は27年に「百合鑑」という本を出したとき青山北町におり、32年の「蜜蜂飼養法附採蜜法」と37年の「実地応用植物繁殖秘法」では豊多摩郡淀橋町を住所にしています。蛇足だが、南門の向こうのヨドバシは、この淀橋町で設立したことに因む社名とウィキペディアにありますよ。
 「実用兎飼養新書」は兎の本なのに、井上は山羊の体の色変わりに脱線して「既に予が飼養する山羊『アンゴラ』種は交尾后通常山羊と居を同ふせしに短毛の仔を産したるは実に本年四月のことなり亦仏国種純白牝山羊は黒色の『チベット』種牡を交尾せしに其仔純白なりしが其后二回の交尾に仝種の純白牡を交尾せしに豈に図ん黒色の仔を産したり是れ先きに交尾せし黒色の牡を慕ふの感ありたるものならん」といってます。
 兎、鶏でも同じ、西洋でもこうした例が報告されているし、われわれ人間も同様だ。きっと「妊娠中の感情より原因するものならんとは学士社会の一問題にして皆諸君の知らるゝ處なり
(34)」と断言して終わっています。これが本当なら、いや、これ以上はノーコメントね。
 ここでまた私の想像だが、井上は本と内国博覧会受賞で名を知られるに連れ、益農園の一員と見られたくない。俺は益農園じゃなくて青山北町の耕牧園の経営者だと広告に付け加えたのでしょう。そしてもっと耕牧園の名を広めようとして23年春「牧畜雑誌」29号に「養鶏家に質す」を投稿したと思われます。投稿者は耕牧園主人ではなく「麻布 耕牧野老」と名乗り、さらに鶏について2回投稿しています。筆名が違うけれども、耕牧と名乗り、名調子で鶏も書けるのは井上以外にいそうもないのです。
 資料その15(1)でそれを引用しましたが、外国船で余った食料用の牛や鶏が横濱で買える。それを舶来種と称して高く転売する悪い種物屋がいると暴露しています。これは鶏ですが、牛、緬羊、山羊も当然あり得るですよね。
 同(2)は明治19年の函館新聞に載っていた記事です。これだけドカドカ積み込むんだから、船の事務長や司厨長などが結託して帳簿よりちょっと多く積み込み、全部食べたことにして寄港地で売り払い、酒代にしていたなんてことは充分ありそうだと思いませんか。
 松方さんが帰りに乗った仏国郵船チーブル号も余った山羊を売ったかも知れん。フランスからかどうかは怪しいが、松方さんが乗せなくても、松方さんが乗った船が積んでいた山羊だ。そこです、山師みたいな連中が目をつけた。兄の久保之昌も仲間だったかも知れないのですが、松方が積んできて久保が飼っていたと今井某に売りつけたことが考えられます。松方さんは仏国産山羊導入説は嘘だと知っていたけれど、否定すれば兄貴に触れざるを得ないので、終生沈黙を守ったと考えます。

資料その15

(1)
◎養鶏家に質す        麻布   耕牧野老

数年以來養鶏事業の萌芽するや養鶏家は洋種鶏を輸入して在來鶏の改良を
謀り或は書冊を著し演壇に登り飼養管理の方法を解き國利民幅の實益を講
し家禽協会を組織して各自の経験を報道し交通の便宜を開陳し家禽品評
会を設立して鶏種の優劣を審査し血統の混雑を豫防する等この業の進歩発
達を奨励せられしを以て世人は有益の實業と信し甲傳へ乙和し今や東京市
中は鶏鳴車馬の響に和し大衢小巷鶏好の聲を聞かさるはなし種禽場養鶏
園の開業は日毎に数を増し輸入の洋鶏は船毎に多きを加ふ實に盛なりと云
ふへし養鶏の事業此の如く駸々乎として長足の進歩をなし数年ならずして
隆昌の域に到るは偏に養鶏家諸君の勧誘に因らさるはなし吾人は一大白を
呈上して其功労を謝せさるを得す然れとも尚ほ一二の鄙見を陳して諸君に質
さんとす
府下養鶏の流行を見るに浮利に走るの奸商ありて肉鋪俎上の食鶏を遠く米
國より輸入し汽船厨房の残鳥を近く横濱に競買し米國共進会一等賞何
々鶏日本家禽品評会優等賞何々鶏と新聞雑誌に廣告し田夫野人を欺かんと
す米國廣しと雖も一等賞の鶏は瓦礫の如く多からす焉そ便船毎に満載する
ことを得ん况んや日本家禽品評会の如きは昨秋初めて第一回を開き未た一
等賞を得たる優鶏あるを聞かさるをや且つこの輩の飼養する種類は唯体格
の肥大のみを貴んて食餌の多費を患へす羽色の華美のみを好んて實用の有
無を質さす容貌の佳麗のみを愛して風土の適否を考へす産卵の名称のみを
信して血統の邪正を弁せす需肉の外見のみに安んして遺伝の疾病を識らす
愛翫に偏して實利を顧みす唯新是競ひ長を挙けて短を言はす口を極めて称
誉し甚しきは一日に弐卵を産し両月に交尾を始め半年に数貫の肉量を有す
と爰に於て迷利の徒は洋鶏の何たるを問はす前後の慮もなく洋鶏は巨利
ある者と誤認し争ふて種卵種鶏を購入するを以て壱顆の卵は数圓の高に當
り壱番の鶏は数百圓の貴に価す驚くへし<略>

(2)
○航海の食料  大洋を航行する處の滊船にハ夥しき食料を積
込む者なり左に掲る食品の數を見は恐く一驚を吃せざる者あら
ざるべし凡そ斯る航行の滊船の乗客水夫の爲めに用意する食料
ハ牛酪三千五百磅臘乾三千磅ビスケツト(堅麺包)千六百磅(以
上ハ水夫の分を別にしたるなり)萄葡、巴丹杏、無花果、其他露氣
ある果物八千磅ジヤム千五百磅鑵詰肉六千磅乾豆三千磅米三千
磅葱五千磅蕃薯四十噸麦粉三百俵鶏卵一萬四千四百粒此他港々
にて積込者の野菜、肉、生牛、羊、豕、鴨、七面鳥、鵞鳥、小鴨、魚類、
介類等ありて其數量算定すべからず平均航海中ハ生牛二十四頭
羊六十頭を費し旅行の最も困難なる夏季に於てハ一回の中食に
二十五羽の鶏を屠てソツプを製する事あり

   近デジにある明治の山羊解説書で、松方山羊導入説を書いているのは明治33年8月発行の田口晋吉著「畜産各論」、40年9月の池久吉著「山羊の勧め」、41年6月の佐藤良之助著「牛乳に優さる乳の山羊」、それから45年4月の小谷さんの「羊と山羊」です。この中では「畜産各論」が一番早いので、資料その16(1)で見せましょう。つまり松方山羊を取り込んだのは田口本が嚆矢なんですな。松方は井上に山羊を託したとしているが、これは田口に対して井上が俺は若いとき松方さんとこで働いてたからねなんて、益農園抜きで由来を語ったからではないでしょうか。
 前田山羊牧場計画はどうなったのか、まだ調べ切れずにおりますが、資料その16(2)の記事でわかるように、良質なる授乳の重要性は身にしみて感じていた。だからこそ古里に山羊牧場を作ろうと本気で考えたのでしょう。

資料その16

(1)
山羊は古代より日本にありしものゝ如し皇極天皇二年(神武紀元千三百三年)の童謡に山脊王の頭髪斑雑にして毛は山羊に似たりとの意味を有するものあり往昔より琉球大島等の諸島に於て多く飼養し従て薩摩等にも間々之を飼養せり然れども其飼養の目的は児童遊戯の侶伴に供する位に過ぎざりき然るに明治年間に至り外国との交通開けてより居留地に住する洋人中に山羊を飼養して其地著搾取するものあり追々肉食も流行し乳の需要を増加するの勢あるの時に際し明治十一年に松方正義氏仏國より乳用山羊を携提し帰り之を井上龍太郎氏に托して蕃殖飼養せしめたり是より漸次蕃殖増加したるに其泌乳量も少なからず有益なる動物なるを知り井上氏は益々奮て之が飼養に勤め且つ世間に向つて其利を称導したり蓋し山羊飼養に就て世人一般の注意を喚起し今日の景況を致したるは井上氏の力與て大なりと言ふべし<略>


同(2)
○前田元老院議官の物語  行脚次官と綽名せ
られたる前田正名氏は目下大坂に滞在中なれば
或人が訪なふて此の度の御巡回ハ如何なる御目
的にやと問ひしに左ればなり何も人に対して約
束せしこともなく又た用事もなけれど自分ハ兼て
我國の山川にハ約束せしこともあり故に一度ハ馴
染の山川に会ひたしとて來りしなり尤も今度は
九州迄行き同地方の山川に会ひたしと思へど
色々用事起りたれば本月末にハ兵庫に出で同地
の葡萄園に面し一応帰京する筈なり云々」或人
ハ膝すりよせて一体貴下の御転任ありしはと問
ひしに自分が農商務省を追出されんとせしは前
後二回なり最初ハ不意を打たれて随分驚きもせ
しが二回目にハ已に一応の経験もあの又他人が
如何に言ふも自分は飽くまで農商務省の椅子と
打死し力のあらん限りハやつて見んとの考にて
ありしが人の感情と云ふ者は妙な者にて斯く迄
決心しても自分の言ふ事が行はれざる時は何ん
だか気持ち悪るく遂に気根まけして其の位地を
保つ能ハざるに至れり然して予は斯くなる上ハ
勧業を以て一身を任す可し予の考にては勧業さ
へ盛なれバ我が国の国権も拡張すべし陸海軍の
拡張も成し得べく対等の條約もなし得べし併し
茲に一つの困難と云ふは余ハ此の上なき貧乏人
にて間もなく元老院も廃せらるゝと云へば差し
当り其の日より生活に窮する訳なれは何にか生
活の途を見付けねばならすさりとて鉱山事業の
如きハなか/\資本なき身分にては成し得る様
もあらす依つて先づ手輕に苗屋にでもなる覚悟
なり云々」此に於て或人は貴下は以前左程まで
貧しき生計を営まれしにやと問ひしに議官ハハタ
と膝を拍ち貧乏話しには一つの面白き物語りあ
り所謂る貧乏子澤山にて予にハ既でに五人の男
子と一人の女子ありまだ/\十人ぐらゐは出來
る積りなるが曩きに農商務大書記官を非職とな
りし頃非常に家計に窮し身代と云ふは漸く二十
五銭の事もありき斯る次第なれば其れ迄牛乳に
て小供を育て居りしもドウモ牛乳にてハ金の方
が続かざれバ其の當時葛湯にて間に合せしが不
思議にも其子供ハ発育も宜しからず常に弟より
ハ身の丈も低く力も弱く兄弟喧嘩しても何時も
敗を取る方なるが或時其の子供が残念がりて自
分は何故に弟より弱きやと問れしが實に其の時
は面目なく金の力ハ小供の発育に迄及ぶものに
やとの感を起して感慨に堪えへざりき云々

 前田が非職つまり休職を命じられたのは明治18年末です。21年6月山梨県知事に任命されるまでの2年半貧乏したと思われます。大久保利通の姪イチ子との間に設けた5人の男の子で、背丈が不自由だったのはだれかまでは調べていません。
 それからもう一言、山羊年表の明治26年2月25日に耕牧園主人が牧畜雑誌で「米國農務省山羊報告」連載開始とありますが、この中身は「牧羊手引草」を書いた後藤達三による翻訳文の紹介で、資料その4にある藤江卓蔵著「実用殖産新書」の「米国農務局山羊の報告」とほぼ同じです。ちょっと駆け足になったけど終わります。
  

参考文献
上記(28)の出典は学農社編「農業雑誌」430号557ページ、明治24年12月15日、学農社=原本、 (29)は同442号171ページ、明治25年4月15日、同、 (30)は内藤菊造著「山羊全書」42ページ、明治25年5月、内藤菊造=近デジ本、 資料その15(1)は益農園編「勧農叢誌」3号広告ページ、明治25年2月、益農園=原本、 同(2)は(明治19年10月10日付函館新聞2面=マイクロフィルム、 (31)は明治19年10月31日付読売新聞1面=マイクロフィルム、 (32)は学農社編「農業雑誌」297号153ページ、明治21年4月5日、学農社=原本、 (33)は農商務省農務局編「輸入種牛馬系統取調書」14ページ、明治21年9月、農商務省農務局=近デジ本、 (34)は井上龍太郎著「実用兎飼養新書」47ページ、明治22年10月、井上龍太郎=近デジ本、 資料その16(1)は田口晋吉著「畜産各論」130ページ、明治33年8月、博文館=近デジ本、同(2)は明治23年7月23日付東京日日新聞2面=マイクロフィルム


 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)