北大予科教授までの小谷さんの歩み

 ごく初めのころの講義で、明治45年に札幌農学校卒の小谷武治さんが書いた「羊と山羊」を取り上げましたね。大先輩の新渡戸稲造さんが、その本に寄せた序についても話しました。どんなことだったか、覚えている人はいないでしょうが、私の研究が進み、皆さんに話すに足るぐらいの材料が集まりましたので、もう一度取り上げます。いいですね、取り上げたいと思いますといわないところがハードボイルドなのだ。そこできょうはスライドで、その「羊と山羊」が出版されたときの雑誌広告を見てもらうことから始めます。はい、画面を出しましょう。

     

 左は明治45年の「肉と乳」6月号に載った広告です。同じ1ページサイズなんですが、新渡戸さんの序が見えるよう6月号の方だけ大きくし、5月号にもあるよと縮めました。全体に見にくいのはスライドのせいでなくて、どちらも色の付いた薄手の紙に印刷されていて、きれいなコピーが撮れないせいです。左側の中央に「新渡戸博士」とか「官民一致協力して牧羊振興」とあるのが見えますね。この文章のほとんとが新渡戸さんの序の引用なのです。珍しいコピーでしょう。
 右側は5月号の広告で、序からの引用ではないので小さくしてあります。上側右から「我牧羊界空前の大出版」、右側縦に「牧羊決して本邦に適せざるに非ず既に」と大きな字で入っています。これでは生ぬるいと翌月の広告は強化バージョンというか、新渡戸さんの序を大胆に引用したと思われます。いまから配るきょうのプリントに、この2つの広告文があります。新渡戸さんの序文のサマリーになっていることがわかります。後ろまでいきましたね。資料その1の(1)が5月号、(2)が6月号の広告文です。太字が広告で大活字になっている字句ですよ。

資料その1(1)

牧畜振はずして善く富を致せる國果して何れに在るか近来我当局者の大に牧羊の奨励に意ある偶然にあらず今や洋服の便利を解せる我國民が十分牧羊の事業を経営すべき余力あるにも拘はらず進んで実地に着手するもの甚だ少なく年々数千万円の羊毛を外国輸入に仰ぎさゝありされば牧羊智識の幼稚なること農業教師にして山羊との区別をさへざるあるの現状に在るは豈に遺憾ならずや本書は我農家の一大欠陥を補ひ致富の要素たる耕牧一致の妙味を知らしめん為め牧羊の指導者として生れ出でたるものにて農業教師たると技師技手たるとを問はず一般農家の一読して而して着々実地に試むべき有用の書也


同(2)
新渡戸博士本書にしてはく……毛織物の需用は上下を通じて漸く普及し……其製品及原料の輸入は年額少き時も千万円を下らず多きは三千余万円に達す而して将来愈々増加すべきは疑を容れざるなり是に於て国内に牧羊を起して輸入の幾分を防遏せんことは国家経済上忽にすべからざる問題に属す……予屡欧州諸国を漫遊し彼地の山野到る所群羊を放牧し農村戸毎に多少の羊畜を飼はざるなきを視……同時に我邦の此業に就き極めて微々たる現況に想到して慨然たらざるを得ざるなり……気候風土到底牧羊に適せずんば即ち止む苟も之に適する地方あらば官民協力一致して牧羊振興を講ぜずして可ならんや我邦は地積狭少なりと雖も丘陵荒地等利用すべき處尚乏からず……蓋牧羊の適不適は既に解決せられたる問題也……小谷農学士牧羊書を著すに志あり予志を賛し其発刊を待つこと久し今其稿を閲するに緬羊を説くこと詳細を極め殆ど余蘊なし蓋此種の著書中真に白眉と称するに足らん且之に添ふるに山羊を以てす山羊乳は之を実用するもの近時漸く多きを加へ之を飼養するもの次第に増加せるが故に是亦時機に適ふ云ふべし要するに本書世に出でなば庶幾は世を益すること少小ならざらんか云々と博士の評論以て此書の真価を定むに足る牧畜に志ある諸君の愛読を希望す

 「小谷農学士」から後ろ「世を益すること少小ならざらんか」までは、新渡戸さんの序のままみたいなものです。白眉と何か思い出しましたか。小谷さんが新渡戸さんから教わったことがあるという程度の教え子なら、自分の序文をこんな風にあちこちちぎって広告文に使われたら、かんかんになって怒るでしょう。出版元の丸山舎はですよ、小谷さんが新渡戸さんの愛弟子であることをよく承知していて、決して駄目といわれないとみて了解を求めたと思いますね。以前の講義で小谷さんが札幌農学校に入る前の北鳴学校時代から新渡戸さんの薫陶を受けたことは話しましたが、農学校を卒業してからも深いつながりがあったからなのです。
 小谷さんは札幌農学校で数えると第15期の卒業生です。新渡戸さんが2期生で明治14年卒ですから、13期違うと明治27年卒になるはずなのが、農学部同窓会の会員名簿では30年卒になっている。この3年のずれと、小谷さんが北大予科の英語の先生として戻るまで「羊と山羊」とどう関わっていたのかという面でわかったことを話しましょう。
  小谷さんは明治30年に卒業します。その後の経歴を調べれば、小谷さんはいつごろからどこで緬羊と山羊を研究したのかわかるはずです。ところが北大図書館には、札幌農学校の同窓会誌である「札幌同窓会報告」が、創刊から19回がなく、20回目の明治42年7月発行から後の分しか保存されていません。残念ながらそれ以前は残っていないのです。
 北大にあるその第20回「同窓会報告」では、小谷さんは台湾総督府の台中庁という出先機関と苗栗支庁を兼任する技師(1)です。政府印刷局発行の「職員録」で調べると、台中支庁では支庁長の次、ナンバー2でした。
 その前年の41年に佐藤昌介学長が台湾視察をしており、明治41年11月30日の記事として「渡台記念品として佐藤学長に贈呈すべき銀製竹筏を本日小包にて発送す」があり、賛同者に小谷さんの名前(2)があります。
 そこから先は国会図書館の近代デジタルライブラリーにある「職員録」が頼りです。こうした「職員録」、その前の「官員録」といった記録がインターネットで自宅にいながらにして読めるようなったことは、われわれ研究者にとって大変ありがたいことです。でも、人名索引がありませんから、目当ての人物が転勤すると、追跡するのは大変です。いずれこうした過去の職員録でも人名索引ができるようになるとは思いますが、いまはないから闇雲に探すしかない。
 「同窓会報告」の記載からさかのぼり、明治40年5月現在の「職員録」では台中街土名台中58番地の2に住み、台中庁に技師として勤務(3)していますから、2年いたことはわかるのですが、39年版では名前がありません。台湾総督府を全員見たのですが、見付かりません。人名索引がないので行き止まり、だいぶ長い間卒業してからの9年間がわかりませんでした。
 検索で江別市大麻にある道立図書館には、北大よりもう1年半古い第17回の「同窓会報告」があるとわかるのですが、それは明治40年12月発行です。すでに台湾にいたととわかっているから見ても仕方がない。それでね、私は何のあてもなくgoogleに「札幌同窓会報告」と打ち込んでみたのですよ。そしたらですよ、出てきた。手がかりがあったんですねえ。まさに求めよ、さらば与えられん―ですよ。
 読むと、北大低温研究所よりもう少し北東にある古書店・市英堂書店の売り物でね、明治29年12月発行の「第五回報告」と32年7月発行の「第八回報告」と36年12月調べの「札幌農学校同窓会々員氏名録」の3冊、しめて2万円也。現職のときなら、いいですよと笑って買い上げたのだが、名誉教授という名の年金生活者の懐には、どーんと響く。東京調査で私が愛用する某ホテルならシルバー割引で3日泊まれるからねえ、もったいない。
 遺言代わりに言っときますがね、こういう本は見付けたときすぐ買っておかないと、売れてしまってから後悔しますよ。郷土史の人なんかが、物知りのご老体が危篤と聞いて駆けつけたら、遅かりし由良の助なんて、よくあることなのです。元気なうちに、もっと聴いておけばよかったと悔やむわけね。それで私は虎の子2枚を取り出して自転車で疾走しましたね。
 2万円は痛い。しかし、考えようです。武士は食わねど高楊枝―とはまではいかなくても、私は明治32年と36年の小谷さんの仕事と居場所がわかれば、後はもう用がない本です。そのうち太っ腹な北大OBと、どこかで行き会うかも知れん。酒でも飲んで話がはずみ、そんな本がなら私が尽波先生から2万円でそのまま譲ってもらい、北大図書館に寄付するというのはどうですか―という話になるかも知れない。そういう事態に備えて私はちゃんと市英堂さんの領収書をもらってあります。
 ふふんじゃないよ、そういう奇跡を願っていれば本当になるのです。求めよ、さらば現れん―ね。学生時代に部活でサークル會館のどこどこを壊したりして申し訳なかった。あの罪滅ぼしをしたいなんて殊勝な気持ちになった同窓生は、すぐ目次の鍋の絵の下にある私のアドレスにメールを下さいよ。はっはっは。
 それまで私が立て替えていると思えばいいのだ。いよいよ飲み過ぎの肝臓ガンで悪運が尽きそうだと悟ったら、ジンパ学研究で散々お世話になったお礼として北大図書館か顔見知りのいる北大文書館に寄付すりゃいいのだ。
 こう言えたのは平成20年ごろだろうなあ。その後の研究資料がたまって時々山崩れを起こすようになり、市英堂の領収書は行方不明。就職活動を縮めて就活という単語が生まれ、それをもじって年寄り用に終わりの終活という単語もいわれ、私も85歳を過ぎたのに、札幌同窓会の3冊を引き取ってやろうと有志が現れないので観念した。令和元年6月、私の終活の1つだよと笑って北大文書館に納めました。
 いいですか、北大OBOGは北大文書館にもっと関心を持たなくちゃいかんのです。私なんか元某県副知事からもらった昭和27年北大合格者名簿のコピーだが、三浦雄一郎のエベレスト登頂祝賀会でサインしたものを文書館に寄付したもんね。こういうものが何の役に立つかと思うでしょうが、予想できなくてもいいのです。継続は力なりというが、同じように集積は力なりなんです。
 そうそう、平成19年12月16日の日本経済新聞に、京大の佐藤卓己氏が黒岩比佐子著「編集者国木田独歩の時代」という本を紹介していました。佐藤准教授はだね、黒岩氏が独歩のさまざまな資料に基づいて小説のモデルの女性を割り出したことを褒めて「もとめよ、史料は必ず現れる。歴史研究のお手本として薦めたい一冊である。(4)」と書いていた。
 これです。太平洋戦争といっておきますが、戦時中我々少国民は必勝の信念を持てとよくいわれた。まあ、戦争は負けたけれども、何事も信念が大事なことには変わりがない。一心巌も通す。いまいった一言がわからない人は検索しなさい。私はジンギスカン命名者の史料が必ず現れることを信じ、探し求めているのでありますよ。
 それから間もなくね、命名者ではありませんが、あるものが見付かったのです。Boys,be Ambitiousというあの名言が全国に知られるようになったのは、明治33年からだという説を調べていたら、国会図書館の近代デジタルライブラリーに明治26年2月現在の第4回「同窓会報告」があるとわかったのです。これは私のものより2年古い。私の知る最古の「同窓会報告」です。また33年9月現在の第10回報告も並んでいたのです。あったんですね。史料は必ず現れることを実感しましたよ、はい。
  

参考文献
上記資料その1(1)の出典は肉食奨励会編「肉と乳」3巻5号ページ番号なし、明治45年5月、肉食奨励会=原本、同(2)は同3巻6号ページ番号なし、明治45年6月、肉食奨励会=同、 (1)は社団法人札幌同窓会編「札幌同窓會第二十回報告」37ページ、明治42年7月、社団法人札幌同窓会=原本、(2)は同12ページ、同、(3)は「明治四十年職員録(甲)」812ページ、明治40年5月、印刷局=近デジ本、(4)は平成19年12月16日付日本経済新聞24面=原本


 思わずツキの講釈が長くなっちゃったが、貧乏はしたくないものですなあ。さて、順に説明しましょう。まず明治29年の「同窓会報告」が出たとき小谷さんはまだ在学中で会員名簿に出てきません。新渡戸さんは農学校教授で舎監で道庁技師兼務(5)と載っています。このとき新渡戸さんは遠友夜学校を開いており、校長でしたから、北鳴学校以来の教え子である小谷さんは当然遠友のボランティア先生を務め、子供たちに勉強を教えた。さらに日曜は官舎だと思いますが、北3條西1丁目1番にあった新渡戸さんの自宅で開く英文聖書の講義を聞きに通ったはずです。この講義は「聴講者二室に充満した。高岡北大総長も其一人だった。其講義振は先生独特で啓発せらるゝ所多く且興味津々たるものがあった。(6)」と小谷さんは回顧しています。これはやはり熱心に通った人でないと書けないことだと思います。
 それどころか小谷さんは卒業する年の春、洗礼を受けていたのです。新渡戸さんの自宅講義を聞いてのことでしょう。さっぽろ文庫の「新渡戸稲造」に「明治三〇年受洗(7)」とあるので、私は北大北方資料室の「札幌独立基督教会日誌」4冊の中に記録がないか尋ねました。近年プライバシー保護思想が高まり、これはある意味では重要なことでありますが、こうした個人の経歴を調べるときには、結構なカーテンになるのですなあ。細かい説明は避けますが、やはりこの教会で4月4日に洗礼を受けたことがわかりました。私がなぜ受洗日を調べたかというと、後で話しますが、小谷さんが新渡戸さんの農業発達史を筆記した期間を推察する手かがりになると考えたからですよ。
 それはそれとして、この「札幌農学校同窓会々員氏名録」を見て、小谷さんが明治30年卒で18期生のはずなのに、なぜ15期生なのかもわかったのです。毎年2500人も入学するいまなら考えられないことだけど、卒業生のいない年があったのです。
 明治13年に佐藤昌介ら1期生10人が出ます。新渡戸さんは14年卒の2期生、15年卒の3期生までいいのですが、16年は卒業生がゼロ。さらに19年と23年も出なかった。明治30年までに卒業生が3回出ない年があったために、27年卒でなくても小谷さんは15期生が正しいとわかりました。以前の講義で話した3年ずれ問題はこれでわかったけれども、では、なぜ卒業生が出ない年ができたのかという新たな疑問が生じますよね。
 「北大百年史」によると「生徒ハ課程ニ随ヒ其学力大ニ上進セシト雖トモ去明治十二年ニ於テハ前年既ニ定員ニ充チ之カ為ニ本科生ノ新入学ヲ許サゝリシノ故ヲ以定期四箇年ヲ経テ本年卒業スヘキモノ無カリシナリ(8)」というのが公式の答えですがね、もう少し砕けた説明はないか。「新渡戸稲造全集」第21巻に入っている新渡戸さんが英文で書いた「札幌農学校」が、うまく説明していることを確かめました。それがプリントの資料その2の(1)です。

資料その2(1)
 <略>
 本校の方針にもっとも重要な変化が、ほぼ、この時期に行なわれた。この時まで、学生の数を五十名に限定し、教育の費用はすべて”政府”によってまかなわれていたが、改正された計画では学生の数を制限せず、自己の費用はみずから責任をもつ、という趣旨であった。同時に、人柄が立派で、〔経済的〕にめぐまれない若者を援助するため、必要とする資金をあらかじめ”政府”がたてかえ、そのようにして受けた負債は、かれらが卒業ののち、一定の分割払いで返済するという条件の規定がつくられた。この理解ある規定には、多くの応募があり、さかんに利用された。寄宿舎、化学実験室、講義室などは、五十名以上を収容するように造られていなかったが、どの時期においても、実際の学生数はそれを大きく上回ることはなかった。そこで、明治十三年夏、一期生のクラスが卒業するまで、新入生の入学は行なわれなかった。一期生のクラスは、入学時は二十四名であったが、しだいに減少し、かれらがカレッジ生活の最終学年になったときには、十三名になった。かれらには「農学士」直訳すれば「バチェラー・オブ・アグリカルチュア」の学位が授与され、ただちに、開拓使に採用された。そして、それぞれの適性に応じ、さまざまな職場についたが、それらはすべて、農業、工業、教育に関連するものであった。学園のはじめての果実であるこの若い、教育をうけた役人の集団は、その翌年、十名の卒業生のあらた供給によって補強された。かれらもまた、職業として公務員が待ちうけているのを悟った。<略>


同(2)
四九五   本科生徒招募延期の儀上申
第拾九号
   札幌農学校本科生徒召募延期之義上申

右本年八月札幌農学校本科生徒為補闕拾四名於東京召募可致之処志
願者四拾三名ノ内合格者僅ニ三名ニ過キス要スルニ本年者廃使等ノ
為メ当校将来之方向ニ自然疑惑ヲ抱キ候ヨリ応募者此ノ如ク相減シ
候義ト被察候然ルニ三名ノ為メ別ニ一級相設候モ無益之事ニ有之且
明年者卒業候モノモ無之ニ付元來新募ハ不致見込ニ有之候處前述之
事情ニ付之レヲ来年ニ延期シ本年者新生徒入校中止仕候此段上申候


  明治十五年九月十二日
             札幌農学校長農商務権少書記官森源三[印]
農務局長農商務大書記官田中芳男殿
                 〔道〇七二六六〕

 これなら、よくわかりますね。全員寄宿舎に入れて少数精鋭で徹底的に勉強させたかったのですね。この訳は鳥居清治さんという昭和6年農学部卒の先輩によるものです。その鳥居さんの解説によると、新渡戸さんが「発展途上にある母校を外国へ紹介する目的をもって執筆し、シカゴの万国博覧会に出陳した、と言い伝えられたが、その所在が不明のため幻の書」とされていた。昭和31年に逢坂信忢氏が自著『クラーク先生詳伝』で実在を公にし、後に逢坂氏が北大図書館に寄贈した40ページほどの冊子(9)だそうです。
 これで明治16年は了解しましたね。19年に卒業生が出なかった理由は資料その2(2)です。願書を出したのが43人、実際に受験したのが28人、合格者は3人という結果になった。3人で1学年はまずいと入学を断ったのですね。「史料編」には断った合格者3人の名前も書いてありまして、1人は池田菊苗というのだが、聞いたことないですか。花の菊、苗穂の苗、珍しい名前でしょう。
 はい、では味の素を知らん人はいないでしょう。ああそうかと思い出しましたか。北大中央図書館の開架に、その昔北大応用電気研究所の助教授もした広田鋼蔵氏が書いた「明治の化学者 その抗争と苦渋」と「化学者 池田菊苗 ―漱石・旨味・ドイツ」という本がありますから、さっそく確かめました。
 この2冊を読むと、池田の札幌農学校受験は公知の事実として書かれています。「明治の化学者」では、文部省御用掛の杉浦重剛が明治15年1月、東大予科のような性格の東京大学予備門の門長に就任します。池田は同じ年にその予備門に3番の成績で合格しますが、予備門では2番までしか奨学生になれない。「そこで池田は全員官費の札幌農学校にいこうとした。これを知った杉浦が、三番まで奨学生枠を広げてくれたので、池田は東大に止まった。(10)」とあります。
 「化学者 池田菊苗」も同様です。「この家出人同様の菊苗は、翌明治一五年に目的の大学予備門に入学を許された。だが、早速学資に困った。幸いにも校長の杉浦重剛(一八五五〜一九二四)の特別のはからいで、三番入学の彼にも奨学金を与えられ、危機を切り抜けた。以後も彼は優秀な成績を得たので、卒業まで奨学生の特権を保持できた。(11)」と書いています。
 広田さんは札幌農学校が池田を含む合格者3人の入学を断ったことを知らなかったのか、札幌がだめなので池田が次はどうしようとしたかまでは触れていません。「化学者 池田菊苗」によればですよ、池田は幼いときから英語を学び、13歳のとき大阪で造幣局の御雇い外国人教師から英語で化学を学んだ。さらに村橋次郎というやはり造幣局技師と知り合い、化学を学び、16歳のときには自分の家で銅、Cuのカパーね、銅のおおよその原子量を計ることができた(12)というのですから、ちょっと出来が違う。
 なにしろ杉浦は若いときイギリスでちゃんと化学を勉強してきた人ですし、形式主義は大嫌いという性格だったそうですから、池田のバケ學の才を惜しんでの措置であっても不思議ではないでしょう。プロ野球なんかでよくいうタラレバですがね、札幌農学校が明治15年8月、わずか3人でも1学年クラスを作ることに決め、池田を入学させていたら、タラですよ。英語と化学に強い池田は、さっそく化学の宮崎道正教授に認められ、卒業したら札幌農学校の教師に採用され、いまの味の素というカンパニーはなかったかも知れないということです。
  

参考文献
上記(5)の出典は札幌農学校同窓会編「札幌農学校同窓會第五回報告」18ぺージ、明治29年12月、札幌農学校同窓会=原本、(6)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集」別巻79ページ、小谷武治「新渡戸先生の札幌時代」、昭和62年4月、教文館、同、(7)は札幌基督教会日誌 3、明治30年2月〜31年1月、札幌独立基督教会=写本、 (8)は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」639ページ、昭和56年4月、北海道大学=原本、資料その2(1)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集」21巻372ページ、昭和61年4月、教文館=原本、同(2)は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」630ページ、昭和56年4月、北海道大学=原本、(9)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集」21巻642ページ、昭和61年4月、教文館=原本 (10)は広田鋼蔵著「明治の化学者 その抗争と苦渋」62ページ、昭和63年2月、東京化学同人、同、 (11)は広田鋼蔵著「化学者 池田菊苗 ―漱石・旨味・ドイツ」17ページ、平成6年5月、東京化学同人、同、 (12)は同13ページ、同


 ここで大魚を逸したか、残念―で済ましたのでは面白くない。脱線ではあるが、明治15年の受験事情を少し調べてみました。まず生徒募集の広告からね。資料その2ですが、読めない字が沢山あるなら国語を勉強しなさいよ。資料その3が1回目の広告、新聞ではぎっしり詰めの縦組みです。オーバーにいえば「北大百年史 史料」にも載ってない貴重な記録ですぞ。はっはっは。

資料その3

   広告

札幌農学校ニ於テ本科(私費貸費)生徒十余名試験ノ上召募ス志願ノ者ハ七月十日限リ凾崎町開拓使残務取扱所ヘ願出ヲ可シ
 但詳細ノ義ハ出頭ノ上承合ス可シ

○試験科目
第一項 年齢十六年以上ニシテ入學後一年間ニ徴兵ニ當ラサルモノ
第二項 品行方正身体強壮ニシテ種痘或ハ天然痘ヲ畢リタル者
第三項 左ノ試験科目ニ合格ノモノ
英語(読書、解話、作文、翻訳)○地理○歴史○算術(方程式迄)○漢学
                    以上

○校則摘要
一生徒品行方正學方優等ナルモ修學ノ資力ナキ者ハ本科生ニ限リ左ノ規則ニ拠リ學費ヲ貸與スコト有可シ
第一條 貸與ノ金額ハ入學ノ日ヨリ月々金拾弐圓ヲ規トシ衣服筆紙等ノ現品ヲ以テ給シ或ハ其代価ヲ以テスル等本校ノ便宜ニヨルヘシ
第二條 貸費生徒ハ卒業後ヨリ月々金拾弐圓ツゝ返納スルモノトス
第三條 学業進歩セサルカ品行修マラザル等ニヨリ退校セシムルモノ若クハ契約書ニ誓ヘル期限前不得止ノ事故アリテ自ラ乞テ退校スルモノハ在校中ノ貸費三ケ月間ニ其額ヲ返納ス可シ
第四條 貸費生ハ學力年齢等本科生タルニ適スル者ニ非ザレバ貸費生タルヲ得ス

○私費生徒入學願書式
 貸

(用紙美濃)
(正副二葉)         私義
札幌農学校(私貸)費生徒志願ニ付試験及第候ハゞ入学御
差許被下度別紙履歴書相添此段奉願候也
          族籍 
 年 月 日      何 誰 印
札幌農学校長
  何 官 何 誰 殿
○契約書
(用紙 証券界紙)
(   一 葉 ) 
今般札幌農学校貸費生徒トシテ入學被差許候ニ付テハ御
規則堅ク相守リ可申シ旦卒業後ヨリ月々金十二圓ヅゝ御貸
與ノ金額無相違返納可仕若シ又国法或ハ校則ヲ犯シ或ハ
渋鈍ニシテ学才ニ乏シキノ故ヲ以テ退校被申付候節ハ在
学中ノ貸費速ニ本校会計係ヘ返納可仕候也
     何縣何郡何町何番地
     華士族平民何ノ誰子弟
 年 月 日      何之誰印
札幌農学校長
  何 官 何 誰 殿

○保証人契約書
生徒誰儀札幌農学校ヘ入学御許可相成候上ハ私儀其保証
人ニ相立同人ノ御校ニ誓ヒタル條欵ハ之ヲ誠実履行可為
致責ニ任シ将又同人ヨリ金員上納可致モノ有之淹滞候節
ハ速ニ私ヨリ其負債金額ヲ本校会計係ヘ上納可仕段契約
仕候仍テ如件
        保証人 府県郡区町村何番地華士族
            (府下何区何町何番地寄留)
 年 月 日         何 誰 印
   (証人ハ東京或ハ札幌居住寄留ノ者ニシ
    テ且相応ノ家産ヲ有スルモノタルベシ)

別紙(証人東京居住或ハ寄留ナレバ)
 前書ノ通リ府下寄留居住ノ者ニ相違無之候也
 年 月 日      東京府知事何ノ誰印

  (証人札幌居住或ハ寄留ナレバ)
 前書ノ通リ区内寄留居住ノ者ニ相違無之候也
 年 月 日      札幌区長 何ノ誰印

(私費生徒誓約書)
   誓約書
私儀私費生徒トシテ入校被差許候ニ付左ノ条件奉誓約候事
第一条 入学中ハ校則ヲ遵法シ諸官員ノ命令等聊違背仕間敷候事
第二条 入学中ハ学資トシテ月々金拾弐圓ツゝ其月五日限リ本校会計係ヘ上納可仕事
第三条 入学中ハ漫リニ方向ヲ転シ退校等相願間敷候事

         何府県郡区町村番地
          華士族平民何ノ誰子弟
 年 月 日      本 人 印
札幌農学校長
  森 源 三 殿
(私費生徒保証人契約書ハ貸費生徒ニ同シ)
(明治15年7月3日付東京毎日新聞8面に掲載された広告)

 毎月12円で暮らす生活であり、全額自分持ちの私費生で入學すると毎月12円を納めて寄宿舎に入り貸費生と同じ釜の飯を食う。3食洋食の新渡戸さんのころと違って、もうこのころは3食和食さ。成績がよくないと退校を命じられるから怠けられない。貸費生は卒業したら毎月12円ずつ返済する仕組みだったのです。
 資料その1(2)を見る限り、開拓使制度の廃止などで先がわからんと志願者が減ったので仕方がないなあと思いますよね。だが本当にそうだったのかね、この広告を何回も出して真面目に志願者を募集したのか。もう少し脱線、もうタイムスリップだね、私は郵便報知新聞、東京日日新聞、読売新聞を調べました。朝日新聞はまだ出ておらず、時事新報は創刊されたばかりでした。紙面をみたら読売は4ページで広告が1ページしかなくて、生徒募集の広告はほとんどない。で、郵便報知と最古の歴史を持つ東京日日に掲載された東大予備門、札幌農学校、駒場農学校の広告の出し方から探ってみたのです。
 それでわかったことの1つは、札幌農学校は願書締め切りを1回延ばしたのに対して、池田が入った予備門は2回延ばしていたことです。我が札幌は初め6月10日まで願い出ることとしたけれど、人数が少ないので8月10日までと延ばした。予備門は5月1日から募集を始め6月10日に試験をした。でも当初の計画通り8月15日までとして補欠を募集した。それでも空きがあったので締め切りを半月延ばし、8月31日まで生徒を集めたのです。紙を節約して、それらの広告は講義録の方に置きましたから、インターネットで見なさい。予備門が志願者集めに力を入れていたかわかればよいので、掲載した新聞の名前などは省いてあります。
 それを見れば、わが札農当局は資料その3の広告を7月10日の期限を過ぎても出し続けた。郵便報知新聞に3回、7月18日、20日、22日と3回出している。それを見付けて10日までだったそうですが―なんて、いまならケータイで聞けますよ。そのころは電話がなかった。住んでいるところから日本橋まで無駄足覚悟で聞きに行くしかないのです。これでは本気で募集しているのか怪しまれます。こんなだらけたことをしていて「本年者廃使等ノ為メ当校将来之方向ニ自然疑惑ヲ抱キ候ヨリ応募者此ノ如ク相減シ候義ト被察候(13)」とは、よくいったものです。
 さらに、変なのは「七月十日限リ凾崎町開拓使残務取扱所ヘ願出ヲ可シ」と締め切り期限と願い出場所を「當八月十日限箱崎町農商務省会計局出張所ヘ願出可シ」と書き換えた2度目の広告をね、8月11日から月末まで6回も出していることです。いまと違って何日の広告で知ったと遅れても平謝りすれば、願書を受け付けてもらえたのかも知れませんが、8月29日に8月10日締め切りという広告を見たといって通ると思いますか。
 生徒募集の広告の無駄打ちをしたことは明らかですが、少し同情すべき事情もあります。明治15年はコレラが大流行しました。東京では各火葬場が大混雑しているという記事があり、千葉師範、千葉中学校、千葉女子師範の3校は共同で9月1日からの開校を延期し、両師範は入試も延期する(14)と3日続けて広告を出しているくらいだから、東京へ行くのは危険と思われたこともあったでしょう。それに、わが札幌農学校の入学願い出先が、開拓使残務取扱所というのが、そもそも暗いなあ。7月7日の東京日日新聞には開拓使が廃止になり、箱崎町の開拓使貸付所が移管改名する(15)という記事が載っています。ですから、間もなく札幌農学校も移管され官費で勉強できなくなると予想して諦めた人もいたでしょう。
 杉浦予備門長は理屈っぽい人だったそうですから、締め切りを2回も延ばさないと志願者が集まらなかったのは、奨学生は2番までと少ないせいだと主張し、3番の池田菊苗を奨学生にしたのではないかなあ。単なる私の想像ですがね、そんな気がしてなりません。どんな広告の出した方をしたか表に仕立てました。プリントは配りませんが、この講義録のホームページの方でリンクを張っておきますから、見たい人はそっち経由で見なさい。それから、後で話す明治30年7月の卒業式に於ける校長挨拶もそっちに入れてあります。
 明治34年の東奥日報に資料その4にした農学校受験に関する記事が載っています。東奥日報という新聞は、明治21年の創立で青森県内全域をカバーしていた新聞です。札幌で受験しようとすれば海を渡ってこなければならないし、東京で受けようとすれば本州の北端なので最も汽車賃が高い。そこで学校当局は、このような誠に温情溢れる措置を考えらしい。1年限りだったのかとか、この地元受験制を利用して何人入学したという記事まで捜していないんだが、今も昔も生徒集めには苦労がつきものだったんですね。

資料その4

●札幌農學校の入學試験嘱托  札幌農學校豫
修科に入學せしむへき生徒に対し是迄札幌、東
京の兩地に於て入學試験を執行し來りたる所同
校は遠隔の地にありて受験者の為めに不便なる
のみならす萬一不合格となる場合は旅費等の關
係より気の毒なること尠からさるにより本年の
入學生に就ひては出來得る丈け便宜を與ふるの
方針を採り其試験を本縣中學校長に嘱託するこ
とに取計ひたる赴き今般同校長より本縣廳まて
申來りたる由にて本縣中學校及東奥義塾の卒業
生中に同校豫修科へ入學せんとするものあると
きは來る五月末日まてに其人員等を同校に報告
し且ついよ/\入學志願者出つるときは試験問
題は同校より廻附し同校長に於て試験を執行す
る様取運はれ度き旨本縣内務部長より各校へ通
達ありたりと云ふ

  

参考文献
上記(13)の出典は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」630ページ、昭和56年4月、北海道大学=原本、(14)明治15年8月28日付東京日日新聞7面から3日連続で広告掲載=マイクロフィルム、(15)は同7月7日付東京日日新聞3面、同、 資料その4は明治34年4月12日付東奥日報朝刊3面、同


 おほん、明治30年まで3回卒業生なしの年があったという話はそれぐらいにして、小谷さんに戻します。炭鉱鉄道社長の堀基が校長で、新渡戸さんが教頭の私立北鳴学校は明治24年の創立でね、北海道毎日新聞によると、その開校式で小谷さんは生徒総代で答辞を読んだことわかります。資料その5(1)がそれです。長官のお言葉を肝に銘じて一生懸命勉強しますぐらいじゃないかと思ったら、とんでもない。明治の中学生は違うんだなあ。同(2)のように、渡辺長官より難しい熟語をちりばめて最後は云爾(ウンジ)、以上ですときたもんだ。いやはや私なんか恐れ入るだけです。
 北鳴学校は明治27年度になったら「北海道庁に於て官立中学校を設立する内議あり此際北鳴学校を北海道庁に譲らんと欲するに在りたるも議会解散のため全く予期に違ひたる(16)」が、有志の寄附でなんとかつないで28年3月、2回目の卒業生7人を送り出し、(17)在学生は道立の札幌尋常中学校の2年から4年生に応募できるようにして閉校しました。
 また北鳴学校の記録などをまとめた「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」を発行したのですが、それに小谷さんは資料その5(3)にした一文を寄せています。同(4)は北海道毎日の記事ですが、幹事長小谷某は小谷さんと私は推定しています。

資料その5

(1)
○北鳴学校開校式の模様 堀基氏が発起して當
区北八條に校舎を新築せし北鳴学校は生徒入学
試験も済みいよ/\昨七日開校の典を挙げたり
<略>又た當日校長堀基氏は病気にて転地療養
の為め室蘭地方へ赴かれ不在により幹事二木彦
七氏校長に代り左の祝詞を朗読せり<略>
次に仝校教頭新渡戸稲造氏の演説あり次に長官
渡辺千秋氏は左の祝詞を朗読せり
 本道拓殖の事業漸く緒に就かんとす而して此
 偉業を賛け目的を達せんと欲する宜しく教育
 の進歩を図らさるを得す有志者爰に見るあり
 本校を設立し専ら授るに中学の科程を以てし
 力めて実業の素を養ふに在りと是今日の形勢
 に於て最も其要領を得たるものなり此校の名
 北海に鳴る亦遠きにあらさるべし千秋開校の
 式に臨み一言を述べ以て祝詞と為す
  明治廿四年九月七日
   北海道庁長官從四位勲四等渡辺千秋
右了つて生徒総代小谷武治氏答詞を朗読し是に
て式を全く終り来賓一同へ茶菓を饗し一同退散し
たるは四時頃なりき


(2)
     答詞
北鳴學校土功新ニ成リ、本日ヲ卜シ開校ノ典ヲ挙ケラル、生等亦タ諸賓ノ後ヘニ従ヒ、席末ニ列スルヲ得タリ、何ノ光栄カ之ニ若カン、顧フニ徳澤ノ廣且大ナル者ハ、教化ヲ布キ人心ヲ稗益シ、世道ヲ匡正スルヨリ善キハ莫シ古人育英養才ヲ新生ノ至楽ト為セシハ盖シ以ヘアルナリ況ヤ生等本校ニ入リ其教化ニ親炙シ其徳澤ニ薫浴スル者ニ於テヲヤ唯恐クハ生等不敏長官閣下及ビ校長教頭貴下ノ明諭ニ報スル能ハサランコトヲ然雖駑馬モ休マザレバ千里ニ致ス可シ請フ教員諸氏ノ誘掖鞭督ト砕励自奮ノ力トニ頼リ學、行ト脩マリ技、徳ト進ミ以テ本校ノ盛名ヲ発揚スルハ生等ノ本分ナリ而シテ本校ニ報スルノ道亦此ニ外ナラザルヲ信ス今ヤ開校ノ盛典ニ際シ感ズル所ヲ述ベ答詞ニ代フト云爾
 明治廿四年九月七日      北鳴學校生徒総代   小谷武治
(北鳴學校紀事編纂発起人編「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」8ページ、明治28年3月、北鳴學校紀事編纂発起人=原本)


(3)
                  現時札幌農學校在學 小谷武治

余北鳴學校にあること僅に一年時日甚た短しと雖ども教員諸君の懇篤なる教訓誘掖により且は札幌農學校に入學せんとの志を抱き自ら励精せざるを得さりしに由るか蒙昧余の如きも學業進歩の程度實に著しかりしを覚ゆ仝校に於て脩めたる普通學科は一として進歩を覚ゑざるなく英學に於て科學に於て殊に進歩せるの感あり而して獨り學藝に於て進歩を覚えたるのみならず精神涵養上に於ては殊に感謝すべき裨益を得たり余尚ほ故国に於て多年學に在れども未た曾て仝校の如く徳性涵養に力を用ひたるを見ざりき毎週一時間の倫理講話並に親く教員諸君に接して受けたる薫陶により徳性涵養に及ほせる裨益夫れ幾何ぞや余か始めて聖書を手にし若しくは日記を認めて日々の言行を省るの習慣を養ふに至りたるが如きは實に北鳴學校在學の時にありき初め同校が堀校長の発起有志者の尽力に由て成り不少困難を排して能く余輩北海の學生に脩學の道を與へ以て曠野に彷徨せざらしめたるは一に同校の恩に浴せりと謂ふべし余は愛する北鳴を去て茲に三年今や仝校が閉校の時運に際し仝校を追想すると転た切なるを覚ゆ思ふに有形の北鳴學校は将に影を失はんとすれども無形の北鳴學校は永く余輩の胸中に印して忘れざるべし
(北鳴學校紀事編纂発起人編「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」52ページ、明治28年3月、北鳴學校紀事編纂発起人=原本)


(4)
○北鳴学校旧友會総会  仝會は去三日當区中
央寺に開會來會者七十余名會長新渡戸稲造氏の
開會の辞、幹事長小谷某の報告、木村某の演説有
り役員改選の結果會長に新渡戸氏再選し会長の
指名にて大野、井上、星野、芳賀、君嶋の五名を幹
事と定め茶菓の饗応有りて和気洋々旧窓■交を暖
め四時頃散会したりと尚列席者進某の発議にて其
日の景況を旧北鳴学校長堀基氏に報じ敬慕の意を
評したりと
(明治29年11月3日付北海道毎日新聞朝刊**面=マイクロフィルム、)

 小谷さんは北鳴学校に1年学び明治25年、札幌農学校に入るのですが、そのあたりを調べてわかったことを話しましょう。北大図書館には明治20年から40年までのほぼ毎年発行した「札幌農学校一覧」がありますが、なにしろ貴重資料室の耐火扉を開け、宮部文庫から取り出される御本であり、気安くコピーしていいですか―なんて畏れ多いことはいえません。ところが、これが国会図書館の近代デジタルライブラリーにもあるんですねえ。ぱらぱらページをめくることはできませんが、こっちは気楽にひねくり、24時間いつでも読めます。
 その中に「「明治24、26年分」があるので、てっきり24年と26年だけで25年分はないと思ったら、ちゃんと入っていて「明治24―26年分」か「明治24〜26年分」と表示されるべき内容だったのです。お陰で小谷さんは、いきなり予科の最上級生になったことがわかりました。
 明治25年3月発行の24年版の予科4年生39人(18)と、26年3月発行の25年版の予科5年生22人(19)の名簿を付き合わせてたみらですよ、予科4年39人が5年になる前に22人が退学して17人と激減した。当然学校としては校則の「第二十六条 予科第一学年ニ入学ヲ願フモノハ年齢満十三年已上ニシテ高等小学校前科卒業ノモノ若クハ之ト同等以上ノ学力アルヲ要シ其他ノ学年ニ入学ヲ願フモノハ相当ノ年齢ニ達シ其課程ヲ修メ得ヘキ学力アルヲ要ス(20)」に基づいて予科5年生を募集し、時任一彦、小谷武治、内田富吉、林宮橘、佐藤信孝の5人が入学して22人になったことがわかる。小谷さんは、新渡戸さんの教え子だから北鳴を出る前に、予科5年に応募するよう勧められたと思います。
 予科1年生の受験資格は満13歳以上だから5年生は満17歳になる。小谷さん17歳かそれ以上だったはずです。しかし、まだ退学者が続き、26年版の卒業生名簿で小谷さんの第7期は14人に減っている。1年下にも抜けた8人の名前はないから、きっと卒業前に退学したのですね。
 明治25年の予科5年生の時間割を見ると、動物学が週3時間ですから、講義だけだったでしょう。その代わり英文学が週4時間、英作文1時間、英論理1時間(21)となっているから、たっぷり絞られたでしょう。また26年の農学科の時間割では動物学と同実習(22)があるので、小谷さんが羊と山羊に触れたのは、本科2年目からのはずです。
 でも小谷さんは、専攻とは関係なく、道庁技師としての新渡戸さんの地方出張に付いて行ったこともあるのですね。その一例が新渡戸さんが東京にいた宮部金吾さんにあてた手紙で見られます。それが資料その6ね。

資料その6

   一八九三年八月四日
           (稲造発、札幌より東京下谷区へ、和文毛筆巻紙)
<略>
一、官制改革でも出来たなら若同窓会員を採用スル機会もあらん。
一、拙者小谷を連レ上川行ニ就キ、昨日出札、Peat試験見分ニ当地立寄、今朝奈江へ赴ク。
一、一昨日ト昨日ハ烈暑甚し、95°Fahr.
一、植村、岩本両氏ニ宜敷。
一、先達たのんだ北鳴学校数学教師の事、問合ハセヲ願い25位に而壱人欲し。
         岩見沢
                     文久

 1893年は明治25年、小谷さんは7月に札幌農学校予科を出た年です。本科の前学期は9月1日からですから、まあ本科1年のとき、とみますか。この本の解説はPeatを泥岩にしているが、泥岩はMudstoneだから炭の誤植でしょう。「当時新渡戸は北海道庁技師をかねており、泥炭地開発のため夏休中に視察していた。(23)」とあります。小谷さんはこうした出張に何度か同行したからこそ、新渡戸さんが出張のときは二等の切符を持っていても三等車に乗り、乗客と懇談して喜ぶとか、洋服の上にアツシを着て、草鞋履きで農村巡視をした、泊まるときは一番貧弱な宿を選ぶなどの奇行(24)を知ったのですね。
 また29〜30年の農学科課程時間割によると、2年生は週5ないし6時間の動物学と実習、3年生は動物生理、動物飼養論、4年生は家畜論や獣医学などの講義(25)がありました。校舎は、いまの時計台のあたりでしたが、第1農場と第2農場はいまのキャンパスでね、家畜舎もあり「札幌農学校一覧」によれば、小谷さんがいたころは緬羊と山羊が10頭ぐらいずつ飼われていました。解剖もしますから、後年の畜産學科の学生のように、羊肉を食べるチャンスはあったと想像されますが、公式報告のこれらにそんなことを書くわけがないのはわかりますね。
 明治11年5月に教師ブルックスが開拓大書記官堀基にあてた文書「校園家畜房増築の図面及び仕様書提出の件」には、家畜房が豚圏、牛圏、馬圏、羊圏に分かれており、その仕様(26)の説明が「北大百年史 札幌農学校史料(一)」にあります。図解がないし、英尺、英寸なんて単位なのでの私には皆目見当が付きませんので、明治33年1月発行の「札幌農学校一覧」にある「札幌農学校所属第一、第二農場略図」のスライドで綿羊舎が確かにあったということを見ましょう。右側が北です。

     

 左下が中央ローンを抜けるシャクシコトニ川です。曲がり具合はほとんど変わっていないことがわかりますね。川との位置関係からすると、家畜舎の位置はこの文系4学部の一帯。いまの図書館の辺に私がいたころ畜産学科なんかの教室があり、その北側に獣医学部があったのは、そういう名残だったのでしょう。
 雑誌「肉と乳」に、札幌農学校の緬羊の「畜舎は奥行二間半にして直角に屈曲し建坪五十坪を有す、其の対面の二方は板塀を囲らし以て方形をなす畜舎の前面は二間を隔る毎に扉戸を設けずして一間を開放し大気の流通群羊の出入を自在にす而して畜舎は三区に分ち其の一区は牡羊を入れ二区は牝及び剦羊又は老幼等を隔離分置する處とす。(27)」という説明が載っていますが、略図では確かに綿羊舎は曲がっていますね。
 さらに「牧場の地勢 平坦にして其の一部は高燥一部は低地にして卑湿に属すと雖も牧草の繁茂極めて盛なり而して牧場の一端に清流あり西南数丁の處に源を発して東北に流る水頗る清浄にして最も人畜の飲料に適す其の両岸には卑湿なれども牧草能く繁茂す。」とあり、牧草は6種で「混播とす。(28)」と書いています。私が1年目のとき、林檎の神様といわれた学長、島善鄰先生にですよ、中央ローンのことをお尋ねしたことがあります。すると島さんはオーチャードグラスとなんとかとなんとか、3種の混合で、よそにないものだと即答された。きっと昔は放牧場だったことを知っておられたからと思うが、私は学者は何でも知っているんだなあと感心した覚えがあります。
 また清流とはサクシュコトニでしょう。あの川は昔、高架の向こう側から湧きだし、偕楽園のところを通って農場を抜けて流れ、海からサケが上ってきたのです。明治25年ごろこの教室のあたりで緬羊が草を食べていたなんて、日ハムの彼じゃないけど、シンジラレナイーでしょう。はっはっは。
 私の見るところこの地図の綿羊舎は古河講堂のあたりですね。とすれば、クラーク像は綿羊舎の左側のあたりということになります。スライドには入っていませんが、この図の少し下の方、東側にはかつての大学本部がありましたね。それはこの第一農場事務所の位置になります。
 また「札幌農学校一覧」では毎年、第1農園の説明として「家畜類ハ亦経済用ト試験用トノ二種ニ分チ経済用ハ搾乳ヲ専一トシ試験用ハ内外各種ヲ眷養シ学生々徒ヲシテ其蕃殖飼養摂生及管理法等ヲ攻究セシムルニアリ其家畜類ノ名称数量ヲ挙クレハ左ノ如シ」(29)」と何種何頭何羽と報告しています。
 ともかく小谷さんは真面目に緬羊や山羊と戯れて、いや勉強してだね、明治30年7月7日の卒業式に臨むことができました。小樽新聞は卒業式のことだけでなく本科と予科の卒業生の氏名、本科は卒論の題名も報道しています。なんせ、学士様は数少ないエリートでしたからねえ。それが資料その7です。予科卒業生の名前にも注目して下さい。小谷さんの3代前に遠友夜学校の代表を務めた有島武郎、その次の蛎崎知次郎、小谷さんから代表を引き継ぎ、昭和14年から閉校まで校長も務めた半沢洵の3人が入っています。不思議にも小谷さんとこの予科11期は、新渡戸さんが建てた遠友夜学校と深くつながっていくのです。ああ、それから石沢達夫、この人は後に道庁技師になり、道内の緬羊指導で活躍したことから、私のジンパ学関係者リストに入れてあります。

資料その7

●札幌農学校卒業式順序 今七日午前十時卅分を以て挙行の札幌農學校卒業式順序は左掲の如し
午前十時十分学生々徒并に父兄保証人及参観人着席但し學生々徒は正服正帽着用の事又父兄保証人並に参観人は洋服又は袴羽織着用の事同十時三十分校長北海道庁長官並に來賓先導着席、但し北海道庁長官臨席の際一同起立禮着席一、校長式辞を述ぷ 次に主任共感報告 次に校長各卒業生に順次卒業証書を授與す 次に校長告辞 次に北海道庁長官祝詞 次に卒業生総代答辞 了て式場退散
●札幌農学校  本日を以て卒業証書を授与の同卒業生は左の如し
(農学科)時任一彦、藤田昌、相沢元次郎、菊地幸次郎、東條秀介、林宮橘、小谷武治、宮地利雄、芳賀亀太郎、広瀬渡、菊地土之助、遠藤謙吉、三輪龍揚、鶴巻恒太、相馬経治
(工学科)内田富夫、関山良助、今野譲三郎、筒井武
尚ほ今日を以て予科卒業証書授与の生徒は三十九名あり其の氏名は左掲の如し
星野純逸、星野勇三、早川万一、渡辺重作、佐藤政次郎、和田伊之助、半澤洵、鈴木真吉、畑治作、豊田熊次郎、東海林力蔵、原田友作、羽山守人、有嶋武郎、中田重勇、鈴木敬策、岩田榮次郎、井衛顕、木村総蔵、富益良一、蛎崎知次郎、芳賀鍬五郎、町井正路、佐藤六郎、池田太郎、井口為次郎、林力蔵、鈴木慶松、久保隆三、瀧臣弼、吉川春治、野呂莊次郎、内藤乾造、石沢達夫、関又一、池正記、結城弘毅、藤井欣吾、幹量平、森本厚吉
●農学校卒業生の卒業論文 札幌農学校第十五回卒業生の卒業論文は左の如し
 文題          学科 姓名
大小麦作と気候の関係   農芸 時任一彦
貯蔵中稲藁の受くる成分の変化 化学 藤田昌
北海道農業労働者     経済 相沢元次郎
羅漢拍天狗巣病原及其構造 植物 菊地幸次郎
同化作用の生成物に関する研究 化学 東條秀介
牛種朝夕乳及乳皮の牛酷に及す関係試験  農芸 林宮橘
北海道牧羊事業      農芸 小谷武治
北海道に於ける亜麻作と気候及土壌の関係 同 宮地利雄
玉蜀黍澱粉試験      同  芳賀亀太郎
北海道主要作物輸作法   同  廣瀬渡
蚕況飼育法        同  菊池丈之助
北海道に於ける大麻作と農学経済 同 斉藤謙吉
屯田兵村論        経済 三輸竜揚
製油原料として各種亜麻油の品位を論ず 化学 鶴巻恒太
飼豚法          農芸 相馬経治
大沢河湊修築工事設計   工学 内田富夫
天塩線ピツプ川國境間工事 工学 関山良助
空知太旭川間石狩鉄道橋梁工事予算 同 今野讓三郎
宗谷旭川間鉄道工己工事  同 筒井武

 小樽新聞は卒業式の予告記事を載せ、就職情勢として「工学科の卒業生は四名共卒業前より採用さるゝ申込ありてはけ口甚だ宜しきも農学科の卒業生は本年は至て不捌けなりと云ふ(30)」と書いています。ところが、卒業式が終わって1カ月もたってから「農学校卒業生の売口 本年札幌農学校卒業生は十九名を出したる事なるが本年も戦後経営の結果として大に卒業生の売口能く今日の處二三卒業生を除く外凡て契約済も為りたると(31)」と訂正したような記事が出ています。この戦後経営とというのは、明治27〜28年の日清戦争の後の国内景気を指すのでしょうが、最初の記事は学校当局が就職内定者数をよく把握していなかったせいかも知れないが、いつの世も就職事情は厳しいことにし変わりない。私も苦労しましたね。
  

参考文献
上記(16)の出典は明治27年1月14日付北海道毎日新聞朝刊*面=マイクロフィルム、 (17)は同28年3月31日付同*面、同、 資料その(1)は同24年9月8日付同*面、同、 同(2)は北鳴學校紀事編纂発起人編「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」8ページ、明治28年3月、北鳴學校紀事編纂発起人=原本、 同(3)は同52ページ、同、 同(4)は明治29年11月3日付北海道毎日新聞朝刊**面=マイクロフィルム、 (18)は札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十五年至明治二十六年」115ページ、明治26年3月、札幌農学校=近デジ本、 (20)は同26ページ、同、 (19)は同「同 従明治二十六年至明治二十七年」104ページ、明治27年4月、同、 (22)は同92ページの位置にありページ番号なし、同 (21)は同「同 従明治二十五年至明治二十六年」94〜95ページの間にありページ番号なし、明治26年3月、同、 資料その6と(23)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集 別巻2」621ページ、宮部金吾宛書簡、平成13年11月、教文館=原本、 (24)は同「同別巻」81ページ、昭和62年4月、同 (25)札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」53ページ、明治30年11月、札幌農学校=近デジ本、 (26)の出典は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」359ページ、昭和56年4月、北海道大学=原本、 (27)と(28)は肉食奨励會編「肉と乳」5巻7号15ページ、「北海道の牧羊沿革」、大正3年7月、肉食奨励会=原本) (29)は札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」168ページ、明治30年11月、札幌農学校=近デジ本、 資料その7は明治30年7月7日付小樽新聞1面、卒論の文題で未定となっていた箇所を同7月10日付北海道毎日新聞2面の記事で補足=マイクロフィルム、 (30)明治30年6月26日付小樽新聞1面=同、 (31)は同7月10日付小樽新聞1面=同


 さて、農学士小谷さんです。どこへ就職したのか。ここで私の「札幌農学校同窓会第八回報告」が役に立ったのです。明治32年夏、なんとなんと大阪府師範学校教諭になっていたのです。羊とまるで関係なさそうで、これは予想外でした。大坂府大坂市北区大工町108番地に住んでいました。氏名の下に(十五、三〇)(32)とありまして、注記でこれは農学科15期、明治30年卒を示すとわかります。新渡戸さんは外国の部にあり、北米合衆国で漫遊(33)となっていますが、例の「武士道」発刊は33年でしたから、療養の傍らその原稿を書いていたと思いますね。
 近代デジタルライブラリーの内閣官報局編「職員録(乙)」にも記録があります。ところが、これは明治31年が欠けている。しかし、32年がわかっているから、同じライブラリーに明治31年2月現在の「大阪府職員録」があるので、それを見ると小谷さんは教諭10人中4番目にいます。これは内閣官報局の「職員録」と違って出身庁府県を書いていて、小谷さんは北海道庁(34)とあります。道産子だったのです。
 しかし、小学校でも教員免許がないと教えられません。ましてや小谷さんは師範学校、そのころは尋常師範学校といいましたが、尋常中学校と高等女学校の教員は、小学校の教員免許とは別でした。私は教員免許の試験を受け、大坂師範勤務の辞令が出ているのではないかと思い、明治29年から1年半の「官報」で探しました。
 そして見付けましたね。明治31年7月11日発行の「官報」に「○教員免許状授与 文部省ニ於テ一昨二十九年七月ヨリ本年三月マテノ間ニ試験ヲ要セスシテ尋常師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状ヲ授与セシ者五百一人アリ其学科及族籍、氏名次ノ如シ(文部省)」という記事と名簿があり、その中にあったのです。農学士である小谷さんは植物科と農業科の免許を授与されています。また一緒に卒業した林宮橘、菊地幸次郎、斉藤謙吉、鶴巻恒太の四人も同じように教員免許を得た(35)のでした。
 なぜ小谷さんが大阪師範に発令されたのかはわかりませんが、この「官報」読みで面白いことも見付けました。1つは大阪師範で教頭の次、ナンバー3とナンバー4は明治30年6月30日付官報に、6月28日発令で任大阪師範学校教諭として発令されいた2人で、もう舎監とか付属小学校主事兼小学校教員検定委員(36)という肩書きがありました。だから2人は以前小学校教員のキャリヤーがあり師範などの教員免許試験にパスしたので「官報」の辞令に載ったのでしょうね。
 もう1つは、きわめてトリビアルなのですが、新渡戸さんは後藤新平と並んで辞令を受けていたことです。明治31年3月8日付「官報」でね、台湾総督府民生局長の後藤さんは「依願学校衛生顧問赦免」となり、その左隣に札幌農学校教授兼札幌農学校舎監兼北海道庁技師の新渡戸さんの「免兼北海道庁技師」(37)が掲載されています。明治34年1月に初めて2人は会い、新渡戸さんは台湾総督府に招かれ、小谷さんも台湾に行くのですが、そうした縁はこの「官報」からだったと私は思いたいなあ。はっはっは。
 大蔵省の「職員録」に戻しますが、次に出た明治32年2月現在でも大阪府師範学校におり、教諭11人の5番目。33年からの「同窓会報告」はないから、官報局の「職員録」でたどっていくと、33年4月現在でナンバー3で教諭11人の2番目に上がり(38)、34年4月現在では、古手の先生が入ったので教諭の席次は3番目(39)に下がっています。
 ポストは兎も角、大阪師範は明治21年5月に「農業実習地二反九畝廿四歩を市の北端上福島に選定して農業科の実習を始め、九月手工科を設けて木工の製作をなさしむ。(4038)」とありますから、当然植物と農業を教えたでしょう。また小谷さんが大阪の出版社・新農報社が出していた雑誌「新農報」に緬羊のことを書いたりしたと以前話しましたが、33年のその雑誌に佐園農夫という農学士の「地方農学校に於ける外国語に就きて 附師範学校并に中学校の英語科との比較」という投書が載っています。  「余嘗て師範学校及中学校に在て英語教授に従事すること数年多少の経験と意見を有するものなるが師範学校(余か従事せし当時の景況を記す其後多少の変更ありしやも計られざれども決して大差なきを信ず)」という人物ですが、師範では「英語農業手工の三科ありて生徒の所長により一科を撰修せしむ即ち仮入学中一週一時間づゝ各科を教授し其成績により且生徒の志望を斟酌して或一科を修めしむるの規定なるが特に農業又は手工に対し趣味若くは熱心を有するものは格別なれども其他は皆英語科を志望するを普通とす是れ卒業後に至り実際の効用は兎も角も英語を撰修したるものは何となく肩幅広き心地し世人の待遇善きによるならんか而して英語に幾分の素養あるもの若くは最も成績善き者より凡そ生徒の三分の一を撰で英語科編入を命じ次に手業の巧者なるもの三分の一を手工科に入れ残り三分の一即ち英語も出来ず手工も巧ならざるものは農業科に編入せらるゝものとす」と書いています。大阪師範もそうだったかも知れません。
 また師範学校だけに教育學関係は、東京高等師範出身者が多く「他校出身者若くは検定出身者との間には何となく折合はさる所ありて」対立する雰囲気は「世間にも漏れたる事実なり
(41)」というのです。そういう内部事情によるのか、3年で小谷さんは師範学校の先生を辞めた。34年8月現在の「庁府県学事職員録」と35年5月現在の「職員録」の大阪府内の師範、公立と中学校女学校の教諭から消えています。
 うまい具合に私が買った「同窓会々会員氏名録」が明治36年12月調べでできております。そっちを見ると、教員免許を生かして大阪府市岡中学校教諭(42)へ転職したのです。36年5月現在の「職員録」にはやはり市岡中学校の校長の次、教頭に位置にいるので、34年半ばから36年春までがわからなかった。
 でも、国会図書館の近代デジタルライブラリーで「官報」の検索ができるようになったお陰でわかったのです。小谷武治と入力したら、辞令が4通出て来て、そのトップが明治34年5月9日付で徳島県三好農学校教諭の小谷武治に年俸800円を下賜(43)するだった。34年8月現在の「庁府県学事職員録」を見たら三好農学校は校長以下教諭3人助教諭2人の小さな農学校で、小谷さんは筆頭教諭(44)でした。
 翌年の明治35年版の「庁府県学事職員録」の三好農学校は先生が増え校長以下教諭3人、助教諭5人になったが、小谷さんのナンバー2は変わらず(45)でした。明治36年4月に大阪府市岡中学校教諭として9号俸下賜(46)という辞令があるから「庁府県学事職員録」の記録と合わせると、小谷さんは三好農学校で2年間英語と博物と農学を教えていた(47)ことがわかりました。
 市岡中学校で4年間教鞭を執り、明治40年3月の「官報」に叙高等官七等、任台中府技師(48)の辞令があるので、今度は南も南、台湾総督府のお役人になったとわかります。これで札幌同窓会報告と「職員録」は、めでたくつながりましたね。
  

参考文献
上記(32)の出典は札幌農学校同窓会編「札幌農学校同窓會第八回報告」26ページ、明治42年7月、札幌農学校同窓会=原本、 (33)は同28ページ、同、 (34)は石西尚一編「大阪府職員録」60ページ、明治31年4月、石西尚一=近デジ本、 (35)は明治31年7月11日付官報4508号131ページ=原本、 (36)は明治30年6月30日付官報4499号409ページ、同と石西尚一編「大阪府職員録」59ページ、明治31年4月、石西尚一=近デジ本、 (37)は明治31年3月8日付官報4401号84ページ、同 (38)は内閣官報局編「職員録(乙)」47ページ、奥付なく不明、内閣官報局=近デジ本、 (39)は同52ページ、明治34年7月、同、 (40)は大阪府編「大阪府誌 復刻版」3編554ページ、昭和45年4月、大阪府=原本、 (41)は新農報社編「新農報」22号22ページ、明治33年11月、新農報社=原本、 (42)は札幌農学校同窓会編「同窓会々会員氏名録」7ページ、明治37年1月、札幌農学校同窓会、同 (43)は印刷局編「官報」5358号6ページ、明治34年5月16日発行、印刷局=近デジ本、 (44)は金港堂書籍株式会社編「庁府県学事職員録」463ページ、明治34年10月、金港堂書籍株式会社、同、 (45)と(47)は同「庁府県学事職員録」309ページ、明治35年11月、同、同、 (46)は印刷局編「官報」5935号11ページ、明治36年4月18日発行、印刷局、同、 (48)は同「官報」7111号14ページ、明治40年3月16日発行、同

 「札幌同窓会報告」は年2回発行なので、小谷さんが札幌に戻るまでをたどることができます。明治42年12月の同窓会報告には台湾総督府は休職、和歌山市(49)に住んでいます。43年5月現在の台湾総督府の職員録には名前がないので、春ごろ辞職したのでしょう。
 43年11月までに東京市赤阪区青山南町五丁目四三番地に移り、実業に就いた(50)ことになっています。だから、ここらで小谷さんは会社勤めでもしながら「羊と山羊」を書き始めたと考えたのですが、そうではなかった。国会図書館の近代デジタルライブラリーにですね、佐藤良之助という人が明治41年6月に出した「牛乳に優さる乳の山羊」という山羊飼育の参考書があります。その補遺に小谷さんが「山羊の乳汁」という題で10ページほどの論文を書いていたのです。つまり小谷さんが、まだ台湾総督府にいたとき、頼まれたと思うのですが、これを書いたことになります。
 補遺「山羊の乳汁」の書き出しと、その4年後に出た「羊と山羊」の「山羊乳」の先頭箇所を、以前の講義でやったように比較したスライドを用意したので、見てもらいましょう。はい、薄い色の箇所が「山羊の乳汁」にあった字句で、下線付きが「山羊乳」で書き加えられた分です。

牛乳の衛生上特効あることは、今や都鄙の別なく普く世人の知する所なれどりと雖も、山羊の乳汁に至ては之を説くもの甚だ多からず、従て其効能如何を知るもの寧ろ少きが如し、中には山羊の如き牛以外の家畜が産出する乳汁にありては果して用ふるに足るや否やを疑ふものなきに非ず、何ぞ知らん然るに健全なる山羊の鮮乳は其色味共に牛乳に酷似し、するを唯牛乳に比して更に濃厚にして稍甘味を帯ぶるを異なれりとするのみ、換言すれば山羊乳は牛乳に比して糖分及クリーム(脂肪)を含むこと多く水分少なきにあり
是を以て山羊乳は自家用に供して牛乳に勝るは之を試用すれば直に認むるを得べし今之を沸騰して珈琲に加ふる時は其の味佳美にして濃厚乳脂クリーム(脂肪)の観を呈し帯び、且つ一杯の珈琲に僅の数滴を用れば牛乳一を加ふるに等し、菓子を製するに当りても其色味著しく勝りて濃黄色を呈するべく為に混用すべき鶏卵の数を減少し得るのするを得て経済上利益あるべし 唯一の不便なる点は之が調理に当りて其凝固し易きにあり新鮮ならざる時は特に然りとなす。夫れ此の如く果して山羊乳牛乳に比して果して濃厚なりとせば消化し難かるべしとの疑問自ら起らん。然れども実験は全く其の否らざるを證す。 <略>

 「山羊の乳汁」は、この後に医学者の説、成分、乳量、出乳期、概論と5本の小見出しを立てて利点を説いています。行数こそ多いのですが「山羊乳」も、それは同じです。「山羊の乳汁」は新たに執筆したものか、書きためていた原稿を縮めたかはわかりませんが、こうそっくりである以上、小谷さんは明治41年から「羊と山羊」に手を付けたとみていいでしょう。案外「山羊の乳汁」を書いたことから、緬羊と山羊で1冊出そうという気が起きたんじゃないかなあ。佐藤良之助のことは改めて取り上げます。
 明治45年は7月から年号が大正に変わりました。小谷さんも仕事を変え、大正元年12月の27回同窓会報告には、鹿児島県立川辺中学校教員(51)とあります。さかのぼって44年5月1日現在の「職員録」を見ると、小谷さんは川辺中学校の嘱託教授になっており、名前の上に(手當年九六〇)とありますから年俸九百六十円(52)の講師のような地位だったと思われます。翌45年5月1日現在の「職員録」では教授託嘱と肩書きは変わっていますが、手当は同額(53)です。教員免許を持っているのに、なぜ講師格で務めたのかわかりません。
 こうしてみると「羊と山羊」の発行日は明治45年4月3日だから、小谷さんは新渡戸さんに序文を頼み、だいたい1年前に出版社にあらかたの原稿を渡して鹿児島に行き、もう教えていたことになる。新渡戸さんの序は44年8月に書いたことになっているから、それで原稿が全部そろい、45年春に本が出たのですなあ。
 明治44年と大正元年の川辺中学校の先生の顔触れを比べると、44年は校長と教諭が18人、舎監2人、講師格8人計28人(54)だったのが、翌年には校長と教諭、舎監計17人、講師格ゼロ計17人に縮小され、しかも、引き続き残った先生は7人(55)という大幅な入れ替えが認められます。職員間の派閥抗争でも起きたのかも知れませんが、ともあれ小谷さんは、大正2年7月より前に鹿児島を去ったのです。
 そして東京へ戻り東京市小石川区林町九七番地に住みます。翌3年にまた教職に戻り、今度は岡山県に赴任します。勝田郡英田郡組合立農林学校長兼教諭になり、岡山県勝田郡勝間田町(56)に住所を移します。印刷局の「職員録」では奏任官待遇、正7位とありますが、先生は小谷さんを含めて10人の小さな農学校(57)です。
 3年務めた後、同窓会報告の名簿には休養中として岡山市内(58)に住みますが、大正7年中に東京市小石川区大塚坂下町四〇に移り、私立東京女子大学幹事(59)というポストに就き、2年後の大正9年8月に月俸5等7級の北海道帝国大学附属予科教授(60)となったのです。
 この幹事がわからないので、長尾半平編「創立十五年回想録」を見たらですよ、ポストとしてはナンバー4で、教職員の異動記録によると、小谷さんは教授として大正7年3月から同9年9月まで、つまり東京女子大では学部長格で、ずーっと英語を受け持った。(61)ですから、北大予科でも引き続き英語を教え、緬羊とは縁がなかったのですね。
 東京女子大はキリスト教諸派の団体が開いた大学であり、その団体理事だった佐藤北大総長が新渡戸さんを初代学長に推した。新渡戸さんは私よりも安井てつさんがいいと推したけれど、安井さんが固辞するので引き受けたのです。
 新渡戸さんは海外出張もあるので、気心の知れた人に大学運営を支えてもらいたい。そこで愛弟子のクリスチャン、小谷さんに白羽の矢を立て幹事という職名で、英語の先生の傍ら開学前後からさまざまな仕事をしてもらった。大学が軌道に乗ったところで、新渡戸さんと佐藤総長が相談し、母校に錦を飾らせるトレードを決めたことが考えられます。新渡戸さんと小谷さんの間柄を知るいい資料をその8にしました。これは小谷さんが昭和8年12月に書いた「札幌時代の新渡戸先生」からの引用です。小谷さんは同じ題で「新渡戸博士新渡戸博士追憶集」にも筆を執っていますが、それでは新渡戸ノート紛失には触れていません。

資料その8

 当時の教師達は殆ど米人ばかり。其の講義筆記は極めて念入りで悉く書き直されたのであるが、其の表題から末尾までペンマンシツプ風の字体で真に鮮かな筆勢雄渾に認めてあるには何人も感嘆せずには措かない。恐くは空前絶後であらう。北大図書館にその内五冊だけ蔵され此の九日の追悼会で展覧に供し十一日には一般観覧を許すさうである。私が先生から頂いた六冊はもつと立派で几帳面に書いてあり植物学筆記に馬鈴薯などの挿絵が奇麗に画いてあつたのを記憶する。私が幾度かの転居の際其の全部を紛失したのは返す/\゛も残念です。

  

参考文献
上記(49)の出典は札幌同窓会編「札幌同窓會第二十一回報告」25ページ、明治42年12月、札幌同窓会=原本、 (50)は同「第二十三回報告」16ページ、同43年11月、同、 (51)は同「第二十七回報告」20ページ、大正元年12月、同、 (52)と(54)は印刷局編「職員録(乙)」695ページ、明治44年7月、印刷局=近デジ本、 (53)と(55)は印刷局編同733ページ、同45年7月、同、 (56)は札幌同窓会編「札幌同窓会第三十回報告」39ページ、大正3年7月、同、 (57)は印刷局編「職員録(乙)」561ページ、大正3年7月、印刷局=近デジ本、 (58)は 札幌同窓会編「札幌同窓会第三十七回報告」45ページ、大正6年12月、札幌農学校同窓会=原本、 (59)は同「同三十九回報告」58ページ、大正7年12月、同、 (60)は同「同同窓会第四十二回報告」38ページ、大正9年12月、同、 (61)は長尾半平編「創立十五年回想録」附録10ページ、昭和8年7月、東京女子大学=原本、 資料その8は東京女子大学同窓会編「新渡戸稲造先生追悼録」88ページ、小谷武治「札幌時代の新渡戸先生」より、昭和9年3月、東京女子大学同窓会=原本


 まあ、貴重なノートをなくすほどめまぐるしく働き場所を変えたけれど、小谷さんは明治43年から札幌へ行く大正7年までの9年間に3度、東京に戻り住んでいますよね。教え子なんですから当然、新渡戸さんの自宅を訪ね、何か手助けしたり相談するようなことがあっておかしくない。ことに「羊と山羊」を書いていたと思われる時期に東京にいた。鹿児島や岡山行きは新渡戸さんの斡旋とか頼みかも知れないので、新渡戸さんの仕事と住まいを調べたのです。
 新渡戸さんは明治36年12月現在の「同窓会々員氏名録」では台湾総督府にいて、臺北府中街5丁目(62)に住んでいます。「職員録」を見るとね、台湾の殖産局長心得兼農事試験場長兼臨時台湾糖務局長兼出港税訴審査委員なのに、京都帝国大学法科大学教授(63)も兼務している。京大は集中講義でこなすとしても、2人前働くのは大変だったでしょう。37年も同様で38年にはやめて京大に戻っています。39年は変わりませんが、40年には東京帝大農科大学教授と第一高校校長(64)を兼務しています。またもや2つの仕事、新渡戸さんはワーカーホリックとやらじゃなかったのかという気がしないでもない。
 それで新渡戸さんの詳しい年譜で検討しようと、内川永一朗著「余聞録 新渡戸稲造」という本を借りてみたら、これが面白い本で、いきなり「新渡戸稲造をめぐる記録の誤り」という章から始まるのですね。
 その一つは新渡戸さんが初代学長を務めた東京女子大の新渡戸稲造研究会の出した年譜に、明治32年に「日本農業発達史」により農学博士の称号をうけるとあるのは誤りだと書いてありました。じゃあ、内川さんは年譜にどう書いたのかと明治32年を見たらですね「3月27日 先輩佐藤昌介とともに日本最初の農学博士の称号を受ける。(65)」とあったのです。これじゃ、どこが違うのか、はっきりしないなあと、その前のページの明治31年を見たらですよ。小谷さんの名前があった。そこを引用したのが、資料その9です。

 資料その9

明治31(一八九八)
 3月 札幌農学校教授を免官。7月、病気療養のため渡米。
 8月 『農業本論』(裳華房)出版。”辱けなく高恩を追慕し亡母の紀念に此の書を捧ぐ”
 :……………………………………………………………………:
 :【注】農業本論の序に新渡戸稲造がなぜ「…亡母の紀念 :
 : に此書を捧ぐ」として「記念」を使わなかったのか  :
 : は本文を参照                   :
 :……………………………………………………………………:
 『農業発達史』(小谷武治口述筆記・大日本実業学会――実業之日本社の前身)出版。

 いやー、ぴかっと来たねえ、この年譜だけ見ると、小谷さん独りでやったみたいだが、新渡戸さんが口述し、小谷さんが速記者よろしく書き留めたということだな。序文にでも小谷君のお陰でできたとかなんとか書いてあるだろう。新渡戸さんの本を見るべきだ―とね。
 「新渡戸稲造全集」第2巻に「農業本論」と「農業発達史」があり「農業発達史」と表題だけを印刷したページの裏、ページ番号はないけど、542ページです。そこに「新渡戸稲造口述 小谷武治筆記」と2行だけ印刷してあります。原本の「高等農科講義録」は北大農学部に1冊あるのですが、一連の内装工事でいま見られないので「農業発達史」で検索して出てくるジェトロのアジア経済研究所のホームページにある写真4枚を見て下さい。
 内川さんは「農業本論」は31年8月発行として「農業発達史」より前に出たように示しているけれど「農業発達史」の配付月を調べて判定したようには思えない。「農業本論」の凡例に「一 書中、往々『農業発達史』参考の文字あり。是れ著者が他日を期して世に公にせんと欲するものにして、立案既に熟すと雖も、未だ稿を脱せず。読者須らく公刊の日を待ちて、本書と併観参照すべし。(66)」と書いています。新渡戸さんはね、後で示しますが「農業発達史」は実業学会の講義録として書いておいて「農業本論」に続けて、裳華房という出版社から改訂版を出すはずだったのです。ともあれ「農業発達史」の緒言は、新渡戸さんと小谷さんの関係も説明しているので、資料その10として示しました。

 資料その10

  緒言

 余始め農業の発達を攻究せんと志し、好て各国の歴史を繙くに当りて、事苟も農業に関するものあれば特に注意すること茲に十五年、其間渉猟せる書籍其数実に少しとせず、然るに惜むらくは史家は恰も農業を度外視せるが如く、記事の農業に渉るもの極めて僅少にして適々之あるも農業其物を記録するよりは寧ろ農家の負担すべき租税或は農民の紛擾等に止りて、土地改良の法、耕作物の新種、農具の創製等に関することは殆ど之なきに似たり。
 如レ此不慥にして且僅少なる材料を集めて其聯絡を研究せんと勉む、余の浅学固より自ら満足する能はず、況んや之を世に公にするおや、心窃に之を恥づ、然るに退て考ふらく聊か従来蒐集したる材料を包隠せんよりも同志の人に示し相互に助力して研究の方法若くは材料の穿索に一層の便を得るに如かずと、乃ち不完全を顧みず今回大日本実業学会の需に応じて此講を草する所以なり。<略>
 余当夏より病魔に侵され、学問の研究は云ふも更なり執筆すら医師の禁ずる所となり、目下当地方に転地静養す、幸に農学士小谷武治君終始側にありて看護の労を執らるゝにより、病間二三十分間病床に在て之を述べ、同君筆記の労を執られ、茲に会員諸君と見ゆるを得たるは余の大に喜ぶ所なり。
明治三十年十一月下旬
        相州鎌倉に静養中
                  新渡戸稲造識

 新渡戸さんは30年10月5日に札幌を離れたと、須田政美氏はさっぽろ文庫の「新渡戸稲造」に書いています。明治30年10月5日付北海道毎日新聞に「小生病気中ハ度々ノ御見舞ヲ辱フシ難有奉深謝候就テハ今般医師ノ勧メニ従ヒ転地療養致度為メ明朝室蘭ヲ経テ出発仕候ニ付テハ一々御礼旁御暇迄ニ拝趨可致筈ニ候得共病中故乍略儀新紙ヲ以テ右申上候也(67)」、8日付6面には「昨朝出発ノ際ハ態々御見送被下難有御礼申上候一同無恙当地迄到着仕候ニ付此段不取敢御礼旁及御報道候也(68)」と新渡戸さんが出した広告が根拠でしょう。北海道毎日は10月6日は休刊で7日の紙面には何もなし、5日から8日までの小樽新聞にも記事はなく、見送りの様子はわかりません。「一同」という書き方から、奥さんだけでなくて、小谷さんかだれか付き添いがいたとみたいですね。なぜなら小谷さんの大阪師範教諭が内定していたら、この学校の新学期は4月始まり(69)であり、急いで着任しなくてもよかったと思われるからです。
 新渡戸さん大日本実業学会から頼まれて「農業発達史」を書きました。この「講義録」を読まない人には調べようもないないのに「農業本論」で参照させようとした。「未だ稿を脱せず。」というのは、札幌叢書の1冊としての改訂版のことで、当然「講義録」は「農業本論」より先に出たのではないか。ここからが現場主義です。
 つまり小谷さんは30年7月に卒業してますから、新渡戸さんに付いて鎌倉へ行った。大阪師範学校は31年1月から勤務すればよかったとしたら、たっぷり5カ月は体が空くから、その間新渡戸さんの講話を筆記できたと思われます。
 それにしても、1日に30分ぐらいしか口述できないとして、半年で書ける枚数かどうか、復刻版でぼちぼち字数を数えておりますから、そのうちわかるでしょう。私が小谷さんの受洗日を調べたのは、もし7月以降なら卒業式の後、その日までは小谷さんが札幌にいて新渡戸さんの本書きを手伝った証拠になると期待したからなんですよ。
 私は東京日日新聞のマイクロフィルム読みで「會頭 公爵二條基弘君 副會頭 前田正名君 」とうたう大日本実業学会の講義録の広告をときどき見た覚えがあったので、30年分を調べたら、ちゃんと11月3日付1面に「本会多年実業上の学術を普及するの目的を以て講義録を発行し來りしが自宅研究の便に供し來しが其功績顕著なるを致せり因て今般大に會務を拡張刷新して高等科を新設し又た更に普通科第三期を開始す 入会志望者は至急申込みあるべし(70)」という宣伝文入りの大きな広告が出ていたのです。
 新設の高等科には高等商科と高等農科があり、資料その11(1)が高等農科の講義録執筆者の顔触れです。両科とも講義録は毎月2回配付で第1巻は11月3日発行となっています。講義は1年間で終わりですが、農業発達史の講義担当が未定という点に注目してもらいたい。だから相当前から高等科新設と配る講義録の用意を進めてきたけど、新渡戸さんの病気で農業発達史だけ決定しきれぬまま、発行日の11月3日が迫り、やむなく未定として発表したと思われます。また朝日新聞と読売新聞にも同じ11月3日に同じ広告が出ているが、なぜか農業発達史という講義名だけで、東京日日のように(未定)という字句は入っていません。

 資料その11

(1)
○農政學(農科大学教授松崎法學士)○林政學(同教授本多林学士)○高等養蚕
論(同教授佐々木理学博士)○養鶏養蜂論(同教授本田農学士)○作物改良論
(同教授横井農学士)○家畜改良論(同教授今井獣医学士)○農事試験論(農事
試験場長澤野農学士)○農業土木學(高等師範学校教授稲垣農学士)○農用気
象學(中央気象台技師和田理学士)○園芸學(農事試験場技師高橋農学士)○昆
虫學(同技師小貫農学士)○農用分析術(同技師大工原農学士)○貿易作物論
(東京農学校教授佐々木農学士)○農業微生學(同氏)○農業発達史(未定)


(2)
○農政學(農科大学教授松崎法學士)○林政學(同教授本多
林学士)○高等養蚕論(同教授佐々木理学博士)○養鶏養蜂
論(同教授本田農学士)○作物改良論(同教授横井農学士)
○家畜改良論(同教授今井獣医学士)○農事試験論(農事試
験場長澤野農学士)○園芸學(同技師高橋農学士)○昆虫學
(同技師小貫農学士)○農用分析術(同技師大工原農学士)
○農業土木學(稲垣農学士)○農用気象學(中央気象台技師
和田理学士)○貿易作物論(佐々木農学士)○農業微生物學
(同氏)○農業発達史(札幌農学校教授新渡戸農学博士)

 さて、11月3日には未定だった農業発達史の執筆者が、決まるんですね。実業学会は東京日日の11月26日付1面に一回り小さい広告を出しています。その高等農科講義録の執筆者が資料その8(2)です。配付順が変わったのか講義録の並びが少し変わっていますが、最大の狙いは「農業発達史」の執筆者は新渡戸さんに決まったことを知らせるために違いありません。26日分と全く同じ広告が12月9日付北海道毎日新聞6面にも出ていますから、札幌の先生や生徒は皆、あれー、新渡戸さんは神経衰弱で療養している筈じゃないのかと驚いたんじゃないでしょうか。
 その紙面のスライドを用意しましたから、ちらっと見てください。はい、元々印刷はきれいでないのに、北海道毎日の紙面だという証拠に左側の札幌活版印刷所の広告が入るようトリムしたのでね、殆ど実業学会の広告の中身は読めないでしょうが、赤い矢印の上に農業発達史(札幌農学校教授新渡戸農学博士)と入っているのですよ。
 先生たちは新渡戸さんは病気がよくなれば札幌に帰ってくると期待していたと思われます。10月27日に開いた札幌史學会で「新渡戸會頭病気の為め會頭辞任願出の件につき協議したるに衆議は留任を請ふ事に決定(71)」という新聞記事があります。でも2月後には新渡戸さんの真意が伝わったようで、12月7日の新聞に同史学会の「役員は会頭に宮部金吾氏会計に原十太書記西田藤太郎半沢淳の二氏なりと(72)」という記事が載っています。

     

  

参考文献
上記(62)の出典は札幌農学校同窓会編「札幌農学校同窓會々員氏名録」9ページ、明治37年1月、札幌農学校同窓会=原本、 (63)は印刷局編「職員録(甲)」(明治37年5月現在)569ページ、奥付なし、印刷局=近デジ本、 (64)は同(同40年5月現在)519ページ、同、 (65)は内川永一郎著「余聞録 新渡戸稲造」186ページ、昭和61年2月、岩手日報社=原本、 資料その8は同185ページ、同、 (66)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集」2巻715ページ、昭和44年7月、教文館=原本、 資料その10は同2巻547ページ、同、 (67)は明治30年10月5日付北海道毎日新聞6面広告=マイクロフィルム、 (68)は同年10月8日付同6面広告、同、 (69)は大阪府編「大阪府誌 復刻版」3編553ページ、昭和45年4月、大阪府=原本、 (70)は同年11月3日付東京日日新聞1面広告、同 資料その11(1)は同年11月3日付東京日日新聞11面広告、同 同(2)は同年11月26日付同1面広告、同 (71)は同年10月26日付北海道毎日新聞1面=マイクロフィルム、 (72)は同年12月7日付同1面、同


 「官報」によると新渡戸さんが札幌農学校教授を依願免になったのは翌年8月23日(73)だから、教授の肩書きはいいとして、このとき日本には、まだ農学博士という学位はなかったのです。それをいわれたら新渡戸さんは実業学会がいい加減に書いたのだと言い訳していたかも知れませんが、北海道毎日新聞は「札幌農学校教授ドクトル新渡戸稲造氏は『泰西哲学家の鼻祖』と題して」とか「札幌農学校教授ドクトル宮部金吾氏の『植物の黴病に就て』の講義」という書き方をすることもあり、札幌の人々は目くじらを立てなかったのではないでしょうか。
 これとは別に新渡戸さんの名が出ている広告もあります。どんどん脱線しますがね、この4日前、12月5日付北海道毎日新聞5面に裳華房という東京の出版社が、2段ぶっ通しの大きな広告を出しています。3分の2は「偉人史叢」という伝記シリーズの予約募集で、3分の1は菅菊太郎著「日欧交通起源史」という本の宣伝です。
 この「起源史」は勝海舟先生題字、新渡戸稲造先生校閲、志賀重昂先生批評とうたい「新渡戸稲造氏、嘗て米国遊学中、こゝに志あり、英獨西葡諸国の史書に就き、苟くも事の日欧交通に関係せるものは、博捜して遺す所なく、研鑽年あり、著者就きて、其蔵書を閲み、其の論評を聴き、更に和漢の史籍を渉猟し、参するに自家の研究を以てして本書を大成し、庶くは日欧交通の起源これによりて明確なるを得べく、歴史上の疑問たりし葡初航の年月事実もこれにより、明了することを得べし、若し夫れ如何に其材料の豊富にして、如何に其論断の明快なる乎は、読者自ら之を知らん、必ずしも此に絮説するの要なきなり。(74)」とね、まるで新渡戸さんと菅の2人で宣伝文を書いたみたいな恰好になっています。これは菅が主として新渡戸さんの蔵書を読み、指導を受けたという経緯をよく知っていた裳華房側が、こういう広告にしても新渡戸さんは叱らないと読んで作文したのでしょうね。きょう最初に見せた「羊と山羊」で新渡戸さんの序を広告文に仕立てていたが、裳華房は、14年も前から使っていたテクニックだったことがわかりますね。
 この初版は国会図書館の近代デジタルライブラリーにあります。読んでみたら著者の菅は札幌農学校の本科2年生であり、先輩志賀は菅を裳華房主人に紹介したのは私だが、頼まれた批評は「遂ニ約ヲ果ス能ハズ、余深ク之ヲ憾トナス。」再版には必ず書くから(75)と書いていたのです。これでは批評とはいえんでしょうが、ともかく志賀の一文は、末尾にねじ込んだように収めてあります。
 裳華房は明治31年9月に札幌農学校学芸会が編集した学校案内「札幌農学校」を出した出版社です。昭和50年に出た覆刻版に農学部の高倉新一郎教授が解題を書いております。その一部を引用したのが、以下の資料その12(1)と(2)です。

 資料その12

(1)
 『札幌農学校』の執筆者中四名は当時の最上級生であったが、何れも論説に、文藻に活躍していた学生達で、例えば菅菊太郎は当時学芸會雑誌編集責任者であり、在学中新渡戸教授の英文『日米関係史』(Intercorse between Unitesd States and Japan)を模し、その指導下に『日欧交通起源史』を書いて裳華房より出版し、安東幾三郎(のち義喬)は「尢ム」にクラーク傳の嚆矢ともいうべき「ウィリアム・エス・クラーク」を発表しており、三十年二月発行の札幌史学會編「札幌沿革史」附録「五十年後札幌未来記」の筆者だといわれている。岩谷譲吉は新渡戸教授の講義を筆記して、『農業本論』の基を造った人。草場栄喜は英文学上名高い田園に関する詩文を集めたDe Re Rustica なる書を編集、新渡戸教授の名で刊行を企てた。殆どが後に勝れた文業を挙げた人々である。  

(2)
 学芸会は、近年学術に関する著作が数多く出版されるようになったにも拘わらず浅薄粗雑なものがすくなく状況を省み、この弊害を救うために、百般の科学の基礎をなす農学の良書を刊行し、合せて開学以来蓄積され、深いけれど未だ世に知られていない札幌農学校教官の専門書を「札幌叢書」の名において刊行することを企てた。<略>不幸にして「札幌叢書」は『農業本論』と松村松年助教授の『日本昆虫学』のみでその後が続かなかったが、『札幌農学校』は売行きよく「学芸会雑誌」の同じ号で「多少の剰余金を得たるを以て彌々本校附属博物館内に雲漢を指す的の一大紀念標を建設し、銘に我北海大学生の日夕服膺の文字を刻する予定なりと云ふ」と報告される有様であった(但し実現せず)。

 さらに高倉さんは「菅の『日欧交通起史』などは、菅が新渡戸教授の紹介で志賀に会い、その斡旋で刊行されたものである。(76)」と書いていますが、出版順からみて、裳華房主人芳野兵作が菅と知り合った縁で「札幌農学校」を裳華房から出版することになり、さらに新渡戸さんら教官とも知り合い「札幌叢書」の企画が持ち上がり「農業本論」がトップを切ったと考えられます。「農業本論」の凡例に「余の初め本書の稿を起すや、其大半は、岩谷譲吉氏の筆記を煩はし、時々また農学士小谷武治氏、藤波源治郎氏を労したり。(77)」とあるのに、小谷さんは2冊も手伝ったことはおくびにも出さず「名著『農業本論』を完成して農政学者としての本領を発揮して広く識者の重用する所となった。(78)」と、師を讃えています。
 それから農学博士の初授与問題を調べていて、おほん、私はね、この高倉さんのいう安東幾三郎が「五十年後札幌未来記」を書いたのは自分だと認めた記事を見付けました。明治30年10月10日付北海道毎日新聞に安東嵩村生という人物の投書「札幌に官民倶楽部と図書館を設くるの議」がある。それに「札幌区の将来に就ては余は五十年後札幌未来記なる一小話を綴りて沿革史の余白に載せたり其旨意たる札幌の地は早晩大学府(ゆにばーしちーたうん)となり北海道工業の中心となるべしとにあり之れ余か札幌の未來を卜する企望及ひ抱負にして心中聊か確信する所ありて存せざるに非す(79)」と書いていたのです。
 どうして安東嵩村生イコール安東幾三郎なのか。証拠は明治32年4月の北海道毎日新聞に載っている随筆「病床漫筆」です。1回目は嵩村生、2回目は嵩山生、3回目は秋山紅葉麿とペンネームを変えてね、3回目に見舞いに来た「M生は余に命してクラーク博士の略伝を綴らしむ余は之を嘗て恵林誌上に編せしことあるを以て重ねて記するの必要なく只該文を省略抜抄して其用に供せよとて辞せりされと余は恵林紙上に於てクラーク博士か札幌を去りし時までを綴りしに過きす(80)」と書いていたからです。
 高倉さんが安東は「『尢ム』にクラーク傳の嚆矢ともいうべき『ウィリアム・エス・クラーク』を発表しており(81)」というのですから、この秋山紅葉麿イコール嵩村生即ち安東嵩村生であることは確実だ。安東は「『五十年後札幌未来記』の筆者だといわれている。」ではなく「〜の筆者である。」なんです。だからM生は安東を見舞いかたがた、何かにもう一度クラーク略伝を書いてくれと頼んだ。つじつまが合うでしょう。
  

参考文献
上記(73)の出典は明治31年8月24日付官報4546号226ページ=原本、 (74)は明治30年12月5日付北海道毎日新聞5面広告=マイクロフィルム、 (75)は菅菊太郎著「日欧交通起源史」附録1ページ、明治30年11月、裳華房=原本、 資料その121(1)と同(2)と(76)と(81)は札幌農学校学芸会編「札幌農学校」覆刻版1ページ、高倉新一郎「解題」、昭和50年12月、北海道大学図書刊行会=原本、 (77)は新渡戸稲造全集編集委員会編「新渡戸稲造全集」2巻84ページ、昭和44年7月、教文館=原本、 (78)は前田多門、 高木八尺共編「新渡戸博士追憶集」84ページ、小谷武治「新渡戸先生の札幌時代」、昭和11年11月、 (79)は明治30年10月10日付北海道毎日新聞2面=マイクロフィルム、 (80)は明治34年4月14日付同4面、同


 では脱線序でにM生はだれか。「MH、IS、OU、HS、SH等の諸氏」が見舞いに来たという安東日記から、M生はMHの略であり、安東たちと同期だったのに、足の手術とリハビリで2年卒業が遅れた森廣だと私はみます。森が卒業する34年は農学校創立25周年に当たること、森は2代目校長森源三の長男という奇縁もあり、記念行事の一つにクラーク略伝の出版を考えていたのではないでしょうか。これ以上のことは図書館で医学部OBの秋庭功氏が書いた「ポプラ物語」という本を読んでください。森の生涯、有島との関係、ポプラ並木の由来などを考察した本です。
 それから私はね、高倉さんの「不幸にして『札幌叢書』は『農業本論』と松村松年助教授の『日本昆虫学』のみでその後が続かなかった」という見方は、少し違うよと指摘しておきます。
 裳華房は、新しい自社の本に既刊の本に対する新聞雑誌の書評を集めて広告みたいに何ページも付け足す独特の本作りをしてましてね、例えば菅の「日欧交通起源史」は本文313ページに対して、自社の既刊「偉人史叢」の書評が24ページ、「農業本論」「日本昆虫学」「農作物生理学」が出た後に出た「座右之銘」という本には、本文211ページに対して「農業本論」など3冊の書評転載が21ページもあるのです。
 札幌叢書の発刊に当たって裳華房主人芳野は「札幌叢書発刊之趣旨」という一文を書き、叢書21冊の発刊予告を、一番先に出た「農業本論」に載せました。資料その13がそれで、横書きのため変形していますが、字句は変えていません。(1)が趣旨、(2)が叢書の内容です。

資料その13

(1)
   札幌叢書発刊之趣旨

我国一たび泰西の文物技芸を伝へしより、日尚ほ浅しと雖も、蔚然と して方今の盛観を致し、随つて学術に関する著作の梓に上せらるゝも の、汗牛充棟も啻ならず、豈に聖代の余沢と言はざるを得ん乎、然れ ども斯利あれば、則ち斯害あり、膚淺粗雑の学を以て鹵莾滅裂の説を 張り、徒らに識者の笑具となつて止むもの、亦往々にして少なからず、 是れ帝国学術界の為に憂ひて、而して惧れざるべからず。 夫れ学説を貴ぶ所は、着実にして且つ精覈なるに在り、若し一たび斯 正鵠を失するときは、其世道を害し後進を誤るの弊、極めて大なり、 弊房嚮に偉人史叢を発行し、古賢哲の遺行を伝ふるに努めしは、實に 淫靡読むに忍びざる小説詞曲の濫行をタるれば也、然るに今や顧み て學術界の形勢を観るに、亦乱離測るべからざるものあり、勢び拱手 傍観するに忍ぶ能はず、今回更に札幌大叢書の発行を企て、以て此 弊を未だ甚しからざるに匡救せんとす。 凡そ農を勧め、食を足し、以て厚生利用の途を求むるは、終古不易の 国是にして、天祖其基を肇め賜ひ、列聖之ほ紹述す、崇~詔して曰く 農は天下の大本と、蓋し古今に通じて悖るなきの一大真理たり、而し て農学なるものは、百般の学術を農業に応用して、最も有利的の結果 を獲せしむる者なるが故に、其価値の貴き問はずして知るべきのみ、 農学は寔に實利の淵源也、富殖の根柢也、半夜憂国の志士をして、坐 ろに斯学の鼻祖『テーヤ、リービッヒ』を想ふて、感慨措く能はざらし むるもの、其れ故ある哉。 蓋し農学は畢竟応用科学にして、其範囲極めて広く殆んど百般の科 學に関連し、古来学者の定義を下すもの、更に一に帰せずと云ふ、爰 に弊房自ら揣らず帝國學術界の乱離を矯めんとするに當り、先づ農 學の部門より手を下すは直接国家の実益を開き、列聖の宏謨を奉行 すると、同時に進んで他の百般科学に及ぼすの最捷径たるを信ずれ ばなり、札幌大農叢書は即ち広義の農学を包括せるものにして、是れ より着々諸科學に及ぼさんと欲す。 札幌大農叢書の発刊に就て、尚亦た一言せざるべからす札幌農学校 の内、学識洽博の士多きも由来自家の研鑽に専らにして、名利に遠か るが為めに韜晦知られざるものあるは、夙に弊房の憾みとせる所に して、今日學術界の趨勢は、先づ是等諸先生を起たしむるの急なるを 悟り、就きて著作の事を懇請する所あり、漸くにして諸先生の許諾を 得たり、故に我が札幌大農叢書は自ら世の舌耕者流が鹵莾滅裂の説 を售りて、射利これ主とするものと撰を異にすれば、江湖諸君子安 じて、本巻叢書を講読し、以て講學の津梁とせられよ、而して弊房が 帝國の出版界に竭さんとする微意、亦庶幾くは達するを得ん。 明治三十一年七月上旬  裳華房主人謹識す
(2)
●札幌叢書出版予定(順序不同)其他続出刊行

ドクトル 新渡戸稲造先生著 農業本論 全一冊
農学士            菊判頗ル美本大凡五百頁 八月出版
               正価金壱圓弐拾銭郵税十銭

ドクトル 佐藤昌介先生著  農業金融論
農学士
農学士 南鷹二郎先生著   蔬菜栽培論
農学士 松村松年先生著   日本昆虫學
ドクトル 新渡戸稲造先生著 農業発達史
農学士
理学士 原十太先生著    比較解剖學
農芸化学士 吉井豊蔵先生著 肥料新論
農学士 大島金太郎先生著  食品化学
工学士 平野多喜松先生著  高等算数學
農学士 清水元太郎先生著  農業簿記學
農学士 高岡熊雄先生著   評価學
農学士 堀正太郎先生著   植物病理學
理学士
農學士 大脇正淳先生著   植物蕃殖論
農学士 山田玄太郎先生著  新編植物學
農学士 角田啓司先生著   日本山林學
農学士 著者暫秘匿     農用気象學
農学士 著者暫秘置     治水経済論
農学士 著者暫秘置     経済通論
農学士 著者暫秘匿     農作物生理學
ドクトル 宮部金吾先生著  植物學大原論
農学士
大英大家プロビン先生編輯  各国土地制度論
札幌農学校農政専習科補訳

 ここでもドクトル、こうなるとドクトルとは、先生と同じぐらいの軽い呼び方だったとみていいのではないでしょうか。ドクトル新渡戸は「農業本論」に続いて実業学科講義の改訂版か新規執筆かわかりませんが、札幌叢書として「農業発達史」を書く約束をしたのでしょう。これが1月ほど後に出た松村松年著「日本昆虫学」になると、札幌叢書の予定冊数が3冊増えて24冊になり、翌32年7月に出た「座右之銘」という本、この本自体は札幌叢書ではないけれど、裳華房は「発刊之趣旨」と「農業発達史」を含む出版予定は26冊に増え、堀正太郎著「農作物生理學」を加えて既刊は3冊となり、6冊を近刊にしています。
 近代デジタルライブラリーにある「農業本論」初版の奥付は、明治31年8月30日印刷、9月2日発行(82)なのですが、これは印刷した字の上に筆で書き込んだ形跡があり信用できません。でも、第6版もあるので、それだと初版は8月5日印刷、8月10日発行(83)なんですね。
 新渡戸さんは30年11月下旬に書いた緒言を付けた「実業学科講義」向けの「農業発達史」に手を入れて札幌叢書として出すつもりだった。「農業本論」は、翌年7月29日の日付を入れて裳華房が凡例で「本書稿を脱し、将に印刷に附せんとするに際し、会々新渡戸先生、米国漫遊の途に就かれ(84)」と断っていることからみて、脱稿は「農業発達史」が先であること間違いない。
 「実業学科講義」は、新渡戸さんの執筆が決まったときの広告で第1巻既刊であり、毎月2回講義録を送り1年間で終わる(85)ので、最終回の配本になったら31年10月、8月以前だったら「発達史」が先になります。講義録の「農業発達史」に奥付という決め手はないのですがね、もう一度、後で取り上げます。
 裳華房は33年5月発刊の大脇正諄著「米穀論」では、同じ文章なのに「札幌農学校学芸会藏版発刊之趣旨」と変え、さらに角田啓司著「日本土地経済論」では、ほぼ同文を「高等札幌叢書発刊之趣旨」と変え、既刊10冊の広告を載せています。その広告をスライドで見てもらいますかね。

         

 このうち「農業気象学」は札幌農学校の先生でもOBでもない中央気象台の中川源三郎氏が執筆しており、学芸会編「札幌農学校」は学術書とはいいにくいから、一応除いて考える。それでも8冊は残り、いずれも札幌叢書と銘打って恥ずかしくない本だ。札幌叢書は8冊も出たというべきだ考えますね。はい、左端の上下2冊がないとしても、8冊あるとわかりましたか。
 それどころか、もっと続いたのですなあ。この「日本土地経済論」の裳華房の広告ページには札幌農学校と密接な関係を持つ「普通農業叢書発刊之趣旨」という新しい叢書を始めるという裳華房主人の決意表明と、そのラインアップが、いま見せた広告に続けて載っているのですから面白い。資料その14にその趣旨と予定している著者と書名をまとめました。

資料その14


普通農業叢書発刊之趣旨

弊房時事に感ずる所あり曩に札幌農学校学芸会藏板に係る札幌叢書の編纂を企つ幸に江湖諸賢の眷顧を辱ふするあり爾来版又た版を追ふて其面目を更め今や農書出版界の覇王を以て目せらるるに至れり是れ蓋し我国農業界進運の然らしむる所なりと雖も抑も亦た読者諸賢が弊房の農書界に尽さんとする一片の微衷を諒察して其の此に至りたる者あるを疑はざるなり弊房が諸彦の恩遇を蒙むること夫れ斯の如し焉んぞ以て之に報ゆる處なかる可けんや伏して願ふに今や条約改正の業茲に其成を告げ商工業の勃興日に著し然るに獨り農業のみ尚ほ微々として振はざるの憾あるは何ぞ蓋し農業の性質たる極めて保守的にして其学科従て宏遠複雑殆んど一切の科學を応用するに非ざれば其蘊奥を窺ふ能はざるに依ると雖も亦た農業教育其宜しきを得ず且つ之れに関聯する適当の機関の乏しきに因るにあらずとせんや是れ弊房の潜かに遺憾とする所なり此に於てか弊房は奮励一番更に新春を期して斯道専門の学士に請ひ普通農業叢書を発刊し勉めて空論を避け実利を主とし煩雑を去り実験に基き汎く応用の實を挙げんと欲す而して其行文や解易を旨とし挿絵及び印刷の如きも深く注意を加へ以て夫の札幌叢書の学理深遠議論雄大なると並行し簡潔明快一目瞭然の下に農学の深遠を窺はしめ以て益々斯道発達の資に供せんことを期す希くは以て諸賢平素の恩顧其の萬分一に報ゆるを得んか敢て発刊の趣旨を叙すること爾り
  明治三十三年二月十一日   裳華房主人謹識す


岩谷譲吉  農学入門 32
明峰正夫  作物改良 32
今井秀之助 稲作改良     不明
著者暫秘匿 麦作改良
飯塚幸四郎 農具改良 32
西田藤次  作物病理 32
川上瀧弥  応用植物 33
飯塚幸四郎 農家余業 32
半沢洵   田圃雑草 34
瀧臣弼   家事園芸 34
著者暫秘匿 蔬菜栽培
池本文雄  苹果栽培     不明
著者暫秘匿 果樹栽培
著者暫秘匿 食用菌類
石田昌人  昆虫大意     不明
梁田斌   害虫要点 33
中川源三郎 気象ト作物    不明
明峰正夫  農用種子 32
草場栄喜  農産品評 33
菅菊太郎  農場管理 32
西垣恒矩  農業経済 32
中尾節蔵  重厚肥料 32
藤田昌   醸造大麦 30
石橋三郎治 牛乳ト衛生 31
西田藤次  養蚕大意 32
著者暫秘匿 蚕体病理
志村文三  製絲要法     不明
著者暫秘匿 養鶏指針
笠原文治  土性解理     不明
長田権次郎 農界偉人     不明

 本の題名と著者以外は略し、右側に数字で著者の卒業年を付けました。たとえば30は明治30年卒、小谷さんと同期の藤田昌はそうなっていますね。不明は明治36年末の「同窓会員氏名録」にない人。「斯道専門の学士に請ひ普通農業叢書を発刊し」とはいっても、ほとんど札幌農学校出身者であり、札幌叢書の執筆予定者に近い人で、まるで若手OBの執筆競争みたいでしょう。
 それでいて、畜産の本は牛乳と鶏しかないから、小谷さんもむずむず、あいつらも書くのか、俺だってと緬羊を書きたくなった。「新農報」に投書していたくらいだから、少し書いていた。新渡戸さんが「武士道」を出し、帰国したのは明治34年2月です。大阪師範にいた小谷さんは神戸まで出迎えに行き、相談したと思うのです。
 「又自分は欧洲出張中、台湾へ行つて農政の事をヤツテ呉れといふ命を受たから、一且帰朝の上、後藤長官と打合せて後ち渡台する筈にて、児玉総督にも神戸で面謁をした、(以下省賂)」という「新渡部博士の欧米視察談(86)」という記事が「興農雑誌」にありますからね。無茶な想像ではないでしょう。当然、新渡戸さんはぜひ書きなさいという。小谷さんはその後、仕事の合間、転職の合間に資料を集めて書き続けたと思うのです。
 私はね、裳華房が普通農業叢書を始めた理由は、スローダウンした札幌叢書の発刊を断念したからだと思います。札幌叢書は1期生佐藤昌介はじめ明治10年代のOBが9冊、20年代が6冊、30年代が9冊書くはずなのに腰が重い。裳華房がやいのやいのと催促すると、佐藤昌介と伊藤清蔵で「農業金融論」、宮部金吾と出田新で「農作物病理学」を書くというように師弟コンビで書くように変わってきた。
 札幌叢書が当たったからでないにしても、裳華房は「今や農書出版界の覇王を以て目せらるるに至れり」というのですから鼻息が荒い。いっそ書き手に若い人を起用しよう。「弊房は奮励一番更に新春を期して」選手交代を告げたのが、発刊の趣旨だったのですなあ。裳華房が出した30巻の広告を見せましょう。このスライドに採ったのは角田啓司著「日本土地経済論」の中にある広告ページです。冊数か増えたので活字を小さくして詰め込んだことがわかりますね。

         

 キーワード裳華房と札幌農学校で北大図書館を検索すると、森廣と川上瀧弥共著で藤島武二らに絵を描かせた「はな」も含めると、当時の裳華房から23冊も出したことがわかる。札幌叢書は普通農業叢書に名義替えはしたけれども、2冊きりで後は続かなかったわけではないというのが、私の言い分です。それから「札幌農学校」は売行きよく、その利益で「一大紀念標を建設」することは出来なかったけれど、クラークさんの肖像画となり長い間、旧恵迪寮に掲げられていたのです。
 それからね、かなりの珍説だとは思うが、新渡戸さんの神経衰弱は蛔虫のせいだった疑いがあるのです。時代はずーんと下って昭和3年6月。新渡戸さんがそう認めたわけではないけれど、一高の校長時代に鬱状態になったが、虫下し一服で治ったという体験と有島さんの父親のことを座談会で語っているので、その抜粋を資料その15として加えてあります。
 糧友会の丸本彰造理事と島丈道氏が新渡戸さんの家を訪れて開いた「寄生虫座談会」が「糧友」にその話が載っていたので、島丈道とは何者ぞと検索したら、東京目黒にある「目黒寄生虫館月報」が出てきて、それにある阪大名誉教授の吉田貞雄という先生が書いた思い出で、 伊豆大島出身の禅僧とわかりました。
 それによると、島さんは「万病寄生虫諭」など寄生虫退治を説く本を書き、サントニンという薬を飲む会を組織したり、外国にも出かけて駆虫薬服用を説いた。また新渡戸さんは、蛔虫はすでに我々の腹の中にいて「敵兵は既に我領土に上陸している。我々国民は如何にすべきか」といったうまい表現を使うので、吉田さんは駆除運動で新渡戸さんのそういう話を使わせてもらったといい、感銘を受けた2人として名前を挙げていた
(87)のです。

資料その15


  寄生虫座談会    新渡戸稲造氏
            島丈道氏
            丸本彰造氏
                   糧友記者
<略>
 と紹介と初対面のあつさりした挨拶やいろ/\の話があ
り、次で博士は駆虫論高潮の動機に入つて、
 新渡戸『私は高等学校長時代にどうも身体の工合が悪く
なり、種々と有名な博士達にも診察をして貰ひ、投藥もし
ましたがどうも癒らない、欝々として楽ますといふ状態で
あつた。然るに或日故松方侯爵へ伺ひました処、矢張り私
の様な症状であつたが、駆虫藥を飲で全快されたといふ話
を承り、私も若しかそれではないだらうかと思ひ、その
帰途、一藥店でセメン圓を大枚金十銭求めて呑みました、
そうすると翌朝から身体の工合がすつかり快くなりました
二年間医者や薬や温泉やと数千円を使つた病が、僅かセメ
ン圓の二三服で癒るのですから全く馬鹿げた話ではあり
ませんか……』
 新『その頃、学生が休むと、一一呼んで様子を調べ來れ
ない程度のものは私から行つて見る事にしてゐました、
それは校長に就任してからの事ですが、私の虫を下して
全快してからは学生の神経衰弱とか、過度の勉強の爲に頭
痛がするとかいふ者に皆虫下しを飲ませた処、その六七割
は癒つた様でした。
 それから私もいろ/\と寄生虫の書物を調べたり、專
門家に聞いたりして、どうしても我国民は寄生虫駆除を徹
底しなけれはならぬと思ふ様になりました。<略>
      ×
 丸『時に先生が一昨年講演の際セメン圓一服で夫婦喧嘩
が収つたのや、老人の癇癪が直つたといふ話は実話ですか』
 新『實話です。夫婦喧嘩の方は宮崎博士が實際に見られ
たのですし、老人の方は故有島武郎氏のお父さんが銀行家
でしたが、老いて悠々自適といふ風がありました。然るに
いつ頃からか癇癪玉を破裂して、何でも乎でも怒つてばか
り居るといふ事で、それでは駆虫剤を飲ませといふと本人
は益々憤慨して飲まぬ、そこで致方なく毒薬でも盛る様に
食事に混ぜて呑ませた処、虫が出て、それから強情も言は
ず、もとの如く好々爺然となつた事實譚であります。<略>

 富山の薬売りが札幌も回っていたはずだと思うのですが、新渡戸さんが札幌でセメン圓を飲んでいたら―いやいや、何がきっかけで人生が変わるか、わからんのです。いろいろ忙しい新渡戸さんが寄生虫駆除運動の旗も振るようになったのは、虫下しの効き目だけではなく、札幌での症状で思い当たるところがあったからだとみてるんですがね。はっはっは。
 私とは全く別に調べた小谷さんの経歴が「新渡戸稲造事典」に載っていますから紹介しておきます。新渡戸さんの資料を調べていてわかったことと思いますが、もう5年早く出版してくれれば、大助かりだったんですがねえ。

資料その16

小谷武治 おだに たけじ  (生没年不詳)
 教育者。北海道出身。北鳴学校をへて1897年(明治30)、札幌農学校卒業(15期)。この年、受洗。この間新渡戸の援助を受けつつ遠友夜学校で教える。鎌倉で静養中の新渡戸のそばにいて「農業発達史」の筆記を手伝う。その後、大阪府師範学校、大阪府立市岡中学校、鹿児島県立川辺中学校などで教諭をしたあと岡山県勝田郡組合立農林学校長となる。1906年(明治39)、台湾総督府台中府技師。1918年(大正7)、東京女子大学幹事。1920年(大正9)、北海道帝国大学予科教授。同年、遠友夜学校の代表(翌1921年まで)。『新渡戸博士追憶集』に「新渡戸先生の札幌時代」を寄せている。
 著書『羊と山羊』に新渡戸の序文がある。

 ややっ、資料が多くて脱線し過ぎた。新渡戸さんの緬羊へ戻らないうちにタイムアウト。仕方がない、次回は札幌農学校1期生の渡瀬寅次郎と新渡戸さんの関係調べでわかった静岡の牧畜についてやります。では来週。
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参考文献
上記の資料その11は新渡戸稲造著「農業本論」広告2ページ、明治31年9月、裳華房=近デジ本、資料その12は角田啓司著「日本土地経済論」広告4ページ、明治33年5月、裳華房=近デジ本、 (82)は新渡戸稲造著「農業本論」初版奥付、明治30年9月、裳華房=近デジ本、 (84)は同初版凡例4ページ、同、 (83)は同6版奥付、同38年6月、同、 (85)は明治30年12月9日付北海道毎日新聞6面=マイクロフィルム、 (86)は興農園編「興農雑誌」26号56ページ、明治34年3月、興農園=原本、 (87)は目黒寄生虫館編「目黒寄生虫館月報」47号7ページ、吉田貞雄「回顧50年」より、昭和38年1月、目黒寄生虫館=http://www.kiseichu.org/
Documents/mpmnews
47.pdf、 資料その15は糧友会編「糧友」3巻9号92ページ、昭和3年9月、糧友会=原本、 資料その16は佐藤全弘、藤井茂著「新渡戸稲造事典」164ページ、平成25年10月、教文館=原本