沼津にある珍しい緬羊牧場跡の碑

 前回に予告したように、静岡県の牧畜について話しますが、その前に明治30年から翌年7月の渡米までの新渡戸さんのおおまかな動静について私が調べたことを話しましょう。まず、きょうの資料を配ります。一部ずつ取って回して下さい。
 資料その1、これは新渡戸さんが札幌にいる後輩高岡熊雄さんに送った手紙です。読めばわかるように書いたのは、明治30年5月25日とあるから、そういうことにして話を進めますとね、このとき新渡戸さんの身分は、まだ札幌農学校の教授でした。「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」を見ると「明治30年8月31日現員」として、教授のところに新渡戸さんの名前があり、「マキストル、アルチユウム及びドクトルデルフイロソヒー(獨國ハレ大学)バチエロル、オフアーツ(米國ジヨンスポツキンス大学)」の学位と「兼舎監北海道庁技師」となっています。明治28年卒、13期生の高岡さんは講師のところで単に農学士(1)とあります。
 明治32年1月に発行された「札幌農学校一覧 自明治三十年至三十一年」を見ると、明治31年10月1日現在なので、新渡戸さんの名前はもうありません。ただ、このバージョンは先生たちの担当科目が書かれており、助教授になった高岡さんの名前の上に経済原論、農業経済学、近世史(2)と書いてあります。つまり、高岡さんは新渡戸さんの後継者だったことがわかります。
 この手紙を引用している本としては、昭和44年に出た松隈俊子著「新渡戸稲造」と、昭和61年に出た蝦名賢造著「新渡戸稲造―日本の近代化と太平洋問題―」の2冊があります。同じ手紙なのですから同文でないとおかしいのですが、両書にはわずかではあるが、字句に違いがあります。それで資料には先に出た松隈本が掲載した「高岡熊雄宛書簡」を引用しましたが、例えば「農科大学に農業経済、農政に関スル書なしとて」というところが、蝦名本では、単に「農業経済、農政に関スル書なしとて(3)」であり、農科大学がありません。話した松崎氏とは、農科大学の所有本を熟知していることから察して、大日本実業学会高等農科講義録の「農政學」を書いた農科大学教授の松崎藏之助でしょうね。

資料その1

 明治三十年五月二十五日  静岡県 牛臥
                              新渡戸稲造
 先日は御手紙有難、御地の細報喜んで拝読致候又御問合せ申上候事御覚被下御礼申上候
 御望の通りリーランの書、御預け申上候 貴公も一度は御通覧可然と存侯
 出立の節御願申候書籍は何分よろしく御保かん被下度候 小生の宝蔵品は書物の外か何にも無之紛失なき様時々御改め被下度候
 小生病状十日以前より大に進歩せる様感じ候 然し未だ坐し或はこしをかけては仕事出来不申、手紙を認むるにも臥して致候 近日は毎日一二時間づつ「農業原論」の最終の章なる「農業ノ貴重ナル所以」を書取り候
 小生の「農業発達史」は御覧被下候哉(高等農学講義中)大分雑且俗に致し候得共、御批評如何 inprovement の suggestion を賜れかし
 余事ながら小川氏に Athletic に関する金言、手許に持参せる書二冊斗り見しかどよき思へ付き無之至急御伝言を願ふ
 小生も先日夜より少々古本求め候 一は、Wagner(Pastor),Sittlichkeit auf dem Lande 一は、Funke, Zerspletterung の言を論せるもの、一は、Reyneer(仏人)古代農業史のザットしたるもの、一は、Scherzer, Welttindustrie なり、お目にかけ度程のものなし、農科大学に農業経済、農政に関スル書なしとて、松崎氏は話せり。
 学生卒業論文の題之義に付、御相談有之侯 次は今さし当たり思付き少し二、三を掲れば、
 一、北海道泥炭改良案
  What degree of intensivity must be reaches in order to make Moor culture profitable.
 二、保護移住と自由移住の得失
 三、松前家の殖産政策
 四、北海道大小豆(或禾麦)の販売方法及び販方と用途
 五、北海道の維持に得る人口数計算
 猶後日可申上候
 清水氏は目今何を致し居らるる哉 殖産事業者義□て入りしが如何
 これ丈け書きたれば例の通り右腕痛み始めたり、先日時任一彦君より見舞状を得たり宜敷御伝言を請ふ
   五月廿五日
                     新渡戸
 高岡兄

 松隈さんは、この「高岡熊雄宛書簡」は北海道大学北方資料研究所蔵(4)と明示しているので、それを引き継いだ北大図書館内の北方資料室へ行き、手紙を見せてもらいました。その結果、松隈、蝦名両氏はその手紙を書き写したのではなく、文献のようなものから引用したことがわかりました。
 私は、その元になった文献をまだ見付けていませんが、そもそも手紙の先頭と末尾にですよ、書いた日にちと名前を付ける書き方がおかしいと思いませんか。北方資料室にある手紙は、巻紙に筆で書いた手紙を拡大コピーしたものであり、封筒の裏表のコピーと並べて張り付けてありました。先頭の「明治三十年五月二十五日  静岡県 牛臥」「新渡戸稲造」は手紙の差し出し日と場所のように取れますが、封筒の宛先は「北海道 札幌農黌 高岡熊雄様」、裏は「沼津牛臥 新渡戸稲造」となっていて、まったく違っていたのです。手紙の本文は「先日は御手紙有難」から始まり「高岡兄」で終わっていたのです。「明治三十年五月二十五日 静岡県 牛臥」なんて、どこにも書いてないのですから私はびっくりしましたね。錚々たる研究者が2人そろって同じ間違いを冒すなんて想定外ですよ。
 でも、こんな宛名でちゃんと届いたのですから、いかに札幌農学校が有名だったか、おして知るべし。これに匹敵するのは、支笏湖畔に北大ヨット部が管理する支笏寮があったとき、北海道支笏湖畔、北大山賊の家と書いた葉書が届いたというケース。もっともこれには裏があって、寮の隣で、いろいろお世話になったY家の旦那さんが、湖畔の郵便局に勤めていたお陰だった。はっはっは。
 はい、書簡のことですが、松隈本の「inprovwment」は誤りで、手紙はちゃんと「improvement」と読めるなんてのは小さい。大きなのは「小生も先日夜より少々古本求め候」です。これが「夜」ではなくて「獨」だったのですから、えらい違いだ。私は夜店の店の字が抜けたのかと考えていたのですが、とんでもない思いつきだった。ドイツから原書を買ったというので、すっきり筋が通りますよね。
 日付の「五月廿五日」も違う。「五月二十五日」と略していません。このコピーを張り付けたファイルの奥付には所有者として高倉新一郎の名前があり、移管に伴っての措置でしょうが、線を引き抹消した形になっていました。重要なことは発信日として「明治三十一年五月二十五日」と書いてありました。書いたのは高倉さんかもかも知れませんが、手紙には明治何年がありませんから、この発信年は間違いで、30年だと断定する根拠はありません。ただ、封筒には2銭切手が張ってあり、それに押した消印が手かがりになるのだが、白黒コピーなので模様と重なって読めないのです。
 でも、元の手紙が高岡家から北大文書館に寄贈されていると聞きましたので、同じ3階の文書館に行き、消印を調べてもらったのですがね、残念。切手は切り取られており、消印を確かめることはできなかった。けれどもですよ、札幌郵便局による配達印というスタンプが封筒の宛名の下部に押してあったのです。私はスタンプの知識がないし、老眼で読めないので、文書館の専門家に解読してもらいました。
 配達印の形など細かい説明は省きますが、日付は「丗一年四月二十九日」と確認されたのです。中味の手紙は明治30年に書いたものとすれば、ほぼ1年違う。北方資料室のコピー奥付に近い日付です。沼津から札幌への郵送に11カ月も掛かったとは考えにくい。人間が走る飛脚便でももっと早く着くでしょう。31年説に立ち、新渡戸さんが4月を5月と書いたとすると、沼津からたった4日で札幌に届いたことになる。いろいろな手紙を見た経験からすると、明治時代とはいえ、意外に早いそうですが、1カ月も間違えて書くとは考えにくい。
 どうも封筒と中味は別々のものだと考えざるを得ません。新渡戸稲造展のような催しへ出品した際など、収める封筒を取り違えたことが考えられます。こうなると、手紙の中味から30年か31年かを判断するしかありませんよね。
  

参考文献
上記(1)の出典は札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」122ページ、明治30年11月、札幌農学校=近デジ本、(2)は同「同 自明治三十年至明治三十一年」96ページ、明治32年1月、同、(3)は蝦名賢造著「新渡戸稲造―日本の近代化と太平洋問題―」85ページ、昭和61年10月、新評論=原本、資料その1は松隈俊子著「新渡戸稲造」新装版2刷183ページ、昭和57年6月(初版は同44年8月)、みすず書房=原本、(4)は同198ページ、同


 まず受取人の高岡さんですが、明治30年と31年は札幌にいました。高岡さんの回想録「時計台の鐘」によれば、明治28年7月に卒業すると、新渡戸さんの勧めで校費研究生になり、翌29年に農学校所属の農芸伝習科講師となり、農業経済学の講義を受持った(5)とあります。さらに「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」を見ると、30年8月31日現在で高岡さんは講師(6)、その次の「札幌農学校一覧 自明治三十年至明治三十一年」を見ると、31年10月1日現在で助教授(7)になっています。つまり手紙が30年5月でも、31年5月でも札幌農学校に送れば間違いなく高岡さんは受け取れたのです。
 では新渡戸さんです。札幌で発行された北海道毎日新聞は、札幌農学校や先生のことをかなり頻繁に取り上げるのですが、惜しむらくは、この明治30年分はかなり欠落があるのです。その後身である北海道新聞社が作ったマイクロフィルムは飛び飛びどころか、数日分しかなく、小竹家文書と呼ばれる新聞コレクションのマイクロフイルムが頼りなのです。これを見ていくと、新渡戸さんの病状がわかるのではないかと思ったわけです。そのとき私が書いた札幌農学校関係記事のメモが、資料その2なのです。

資料その2

1月17日6面 「殖民部技師新渡戸稲造氏は土地調査の為め一昨十 日空知郡へ向け出発、鉄道敷設部技師仁科信蔵氏は鑽孔笠取調の為め高嶋郡手宮へ向け一昨十五日出発」とあった。空白は五か。

1月20日1面 札幌農学校が長野県からの蜜蜂を飼い、どこに置いているとは書いていないが、越冬できそうだという。

1月21日1面 冬期学校という講座が開かれ、その第2日夜と第3日昼の部の紹介。新渡戸さんは「次て第二席の札幌農学校教授ドクトル新渡戸稲造氏は『泰西哲学の鼻祖』」と題してソクラテスの話をした。

1月21日6面 出張と帰庁欄に新渡戸は18日に帰庁したとある。

1月22日1面 冬期学校で「札幌農学校教授ドクトル宮部金吾氏の『植物の黴病に就て』の講演あり」。

1月23日1面 冬期学校で「札幌農学校長ドクトル佐藤昌介氏」が「農業経済的観察」を講演した。記者によっては農学校教授はすべてドクトルと書いたよう。

1月30日1面 きょう開く札幌史学會で新渡戸は「西洋葬式論」と題して「講述する筈なり」とある。

2月7日1面 札幌史学會が編集した「札幌沿革誌」は印刷が遅れているが、25、26日ごろには送本できる見通し。

2月7日2面 1月22日に新渡戸が講演した「西洋葬式論」の講演速記の連載始まる。12、16、17日と4回に分かれた。

2月10日6面 「○北海道庁辞令 東京広嶋徳嶋山口の府県に出張を命ず 新渡戸稲造」とある。

2月11日1面 札幌農学校の同窓農友會第七次総会と札幌史学會例会の記事がある。史学會では新渡戸会頭のあいさつと「札幌沿革誌」に関して報告があり、次いで1月30日の冬期学校と同じメンバー3人が同じ演題で講演した。新渡戸もう一度「西洋葬式論」を話した。

3月19日6面 興農園の小川二郎が夫人梅子死亡で帰札「小生兼テ上京中ノ處今回帰札仕候」という広告と、夫人追悼会を3月19日午後7時から日本基督教會で開くという広告を同時に出している。追悼会広告に朋友として新渡戸まり、大島金太郎(明治26年卒、札幌農学校教授)らの名がある。

4月7日6面 「○殖民課員 技師新渡戸稲造氏は山口、廣嶋、徳嶋の三県へ出張中の處一昨五日帰庁」

6月6日1面 「札幌各学校聯合運動会の景況」で札幌の4小学校児童約1500人が大通練兵場で運動會を開いた。来賓に「新渡戸、宮部、吉井の各農学校教授を始め」とあった。

6月14日6面 前日北1西1の官舎街で火事があったので「今朝近火ノ際ハ直ニ御見舞被下難有奉■<1字不明>謝候  六月十三日 新渡戸稲造」の広告を出している。

 これでわかるように、新渡戸さんは2月中旬から4月の初めまでの長期出張で、札幌にはいなかった。それで道立文書館に出張報告書の有無を尋ねましたが、明治42年の火災で焼け、残っていないのです。だから山口、広島、徳島縣あたりまで何を調べに行ったのかわかりません。札幌農学校は1月10日から後学期が始まるから、4月第4月曜から一週間の春期休業までの間、新渡戸さんはほとんど授業をしなかったことになります。
 その間に小川梅子さんが亡くなったので、追悼広告に奥さんが名前を出したのですね。新渡戸さんがいたら、ここは稲造名義だったでしょう。興農園の小川二郎という人は明治26年卒の札幌農学校OBで、興農園の札幌支店長でした。
 私はただ興農園といってますが、正式には東京が付く。東京興農園で園長が渡瀬寅次郎。明治29年には東京駒沢に農場を持ち、札幌には支店と果樹園と種子採取場を持っていました。種子採取場は札幌農学校園隣地(8)というのですから、いまの北大構内の地続きですよね。小川さんはこれらの総括と「興農雑誌」の記事を書いていました。
 エドウィン・ダンはメロンが大好きで、米国公使として東京にいたとき、本国からメロンの種を取り寄せ、興農園に育ててもらい、食べていた(9)話が「興農雑誌」にありますから、この駒沢農場、当時は北荏原郡駒沢村で育てたのですなあ。
 それはさておき、小川さんは明治29年11月山形県内で開く東北苹果名称一定会に北海道代表として出るため出張した(10)ことが「興農雑誌」からわかります。開拓使は番号、縣ごとにリンゴの名前が違っては販売政策上困るので、統一する動きが進んでいました。小川さんは11月15日の「苹果名称一定会に臨み夫れより更に上京せられたり(11)」と興農雑誌にありますから、そのまま東京に滞在していたら奥さんが亡くなった。それで札幌に戻ったというお知らせと葬儀の広告を出した。そういう仲ですから「Athletic に関する金言」を頼んだ手紙の「小川氏」はこの人と思われます。
 新渡戸さんは6月6日に札幌にいて、小学校の運動会を見に行っているのですから、その11日前にですよ、学校に行けば会える高岡さんに、わざわざ手紙を書くとは考えられない。また手紙は講義録の「農業発達史」ができており、高岡さんの目の届くところに置いてきたから、読んでみてねと書いてある。この時点で「農業本論」は書きかけであり「農業発達史」が先に本になり、新渡戸さんの手許に届いていたことは明らかです。
  

参考文献
上記(5)の出典は高岡熊雄回想録編集委員会編「時計台の鐘」50ページ、昭和31年12月、楡書房=原本、(6)は札幌農学校編「札幌農学校一覧 従明治二十八年至明治三十年」123ページ、明治30年11月、札幌農学校=近デジ本、(7)は同自明治三十年至明治三十一年」96ページ、同32年1月、同、資料その2の記事内容はすべて北海道毎日新聞=マイクロフイルム、(8)は東京興農園編「興農雑誌」種苗特別40ページ、同29年1月、東京興農園=原本、(9)は同44号22ページ、同31年5月、同、(10)は同26号17ページ、同29年11月、同、(11)は同27号19ページ、同29年12月、同、


 やはり手紙は31年5月に書いたのでしょう。札幌農学校校則第11章「卒業論文規定」の第74条に「論題ハ第三学年ノ終リ迄ニ撰定シテ校長ニ届出テ指導ヲ受クヘキ教官ノ指定ヲ請フモノトス(12)」とあります。3学期の終わりは7月10日だから、5月末には考え始めてもおかしくありません。
 31年だとすれば、小谷さんの次の18期は第79条が定める6月25日締め切り(13)で追い込み中、その1人湯地定彦は「羊毛論」(14)を書いていました。ですから、新渡戸さんはその次の菅菊太郎たち19期向けに論題を考えたことになります。ああ、いまいった湯地定彦の父親の妹、シズというおばさんが明治天皇の葬儀の日に殉死した乃木夫妻の奥さん(15)だった。これは湯地定彦を検索したら出た「第1回なるほど栗山学」の講師横田直成さんの話で知ったことですが、ちと脱線ね。
 「此書は新渡戸氏の図書館によりて成れるものなれば。紀念の為め。親愛なる新渡戸夫人に捧ぐ。(16)」と自著「日欧交通起源史」に献辞を書いた菅は「私が札幌農学校本科に進んだ其の第二学年の時に、先生は猛烈なる脳神経衰弱に罹られて、母校の教授職を退くの止むなきに至つた。私たち本科一年で経済学の御講義、二年で農業史の御講義を伺つて、尠からず学問上の興趣が醞釀せられて居た其の途端に、先生の此の災厄は私たち学徒に取つては、如何に多大な損害であつたかは申すまでもない。(17)」と後年ぼやいたけれど、手紙が31年発信であれば、新渡戸さんの方もそれを大変気にしていたことになります。
 封筒の配達印31年4月29日からみて、新渡戸さん、4月は沼津にいた。新渡戸さんの生涯については多くの論文があるけれども、31年4月の動静について考察した論文はどうかな。まあ、枝葉末節のことですから、普通は取り上げませんよね。でも新渡戸さんは、なぜ沼津を選んだのか、不思議だと思いませんか。その4年前、沼津の島郷に皇太子ご静養のための御用邸が建てられたくらいだから療養によかろう―という程度の理由じゃなさそうです。
 新渡戸さんが、療養中東京近傍を転々としたことは「農業発達史」の緒言から30年11月下旬は鎌倉(18)、「農業本論」の自序から31年7月17日は伊香保の聚遠楼(19)、これは楼ではなくて木暮武太夫氏経営の聚遠舘(20)と思われますがね、とにかく伊香保にいたことは知られていますが、その前の31年4月は沼津にいたと指摘する論文はないはずです。そりゃそうでしょう、ジンパ学研究により高岡さん宛の手紙を書いたのは30年5月ではないと初めてわかったのだからね。
 「絵葉書にみる沼津の名所」という本を見ると、牛臥山という小さな山を手前に入れた富士山の絵葉書がたくさん作られたことがわかります。海水浴場があり明治27年には東洋海水浴舘という旅館(21)がありました。また御用邸に伺う政府要人がよく泊まった三島館という旅館が有名で、家族風呂の建物まで絵葉書(22)になっていますが、明治28年の「沼津案内」で紹介されている(23)ので、新渡戸夫妻はどちらかに滞在したのでしょう。
 新渡戸さんは盛岡生まれ、札幌農学校に入る前、東京で勉強したけれど、沼津に土地勘ができるようなことはなさそうです。だれかが沼津がいいよとに勧めたとしても、半月ぐらい泊まれる宿なり家なり心当たりがなけりゃ気安く勧めませんよね。いや、懐に飛び込んで頼むといえば、なんとかしてくれそうな博愛主義者、キリスト教の信者が沼津にいたのではないか。「沼津 クリスチャン」という程度のキーワードで検索したら、江原素六と渡瀬寅次郎という2人が出てきたのです。
 まず先輩渡瀬さんを調べました。札幌農学校1期生、興農園主ぐらいは承知していましたが、渡瀬さんと新渡戸さんは同じ宣教師から洗礼を受けたことは知りませんでしたね。渡瀬さんはクラークさんから直接学び「イエスを信ずる者の契約」に署名しました。そしてクラークさんが帰国した3カ月後の「同年八月在函館美以教会宣教師エム、シー、ハリス氏來りしかば伊藤一隆を除き他の十有五名の青年は同氏より受洗し美以教会員となれり(24)」と「札幌基督教会歴史」にあります。ハリス師の教会の美以は美以美とも書き、明治の人はメソジストと読んでいました。伊藤さんは一足先に別の牧師から受洗していたのです。
 翌月に新渡戸さんら2期生が入学します。渡瀬さんたちがクラークさんの教えを説いたと思いますね。次々と契約書に署名し「其の翌年六月宣教師ハリス氏再び來るに及び太田稲造(今の新渡戸)、宮部金吾、内村鑑三、藤田九三郎、廣井勇、足立元太郎、高木太郎の七名受洗したり(25)」と書いてあります。
 同じ釜の飯、いやパンをかじり、同じ牧師から洗礼を受けた仲です。新渡戸さんから相談されたら渡瀬さんが黙っているわけがありません。そのほか「興農雑誌」を通読して見付けたいくつかの事実から、沼津に来るよう勧めたのは、渡瀬さんに違いないと確信しましたね。
  

参考文献
上記(12)と(13)の出典は札幌農学校編「札幌農学校一覧 自明治三十年至明治三十一年」30ページ、明治32年1月、札幌農学校=近デジ本、 (14)は明治31年7月8日付北海道毎日新聞1面=マイクロフィルム、 (15)は「第1回なるほど栗山学」講演記録、ogose.air-nifty.com/blog/
files/kuriyamagaku1.pdf (16)は菅菊太郎著「日欧交通起源史」扉裏、明治30年11月、裳華書房=原本、 (17)は東京女子大学同窓会編「新渡戸稲造先生追悼録」92ページ、昭和9年3月、東京女子大学同窓会=原本 (18)は新渡戸稲造著「新渡戸稲造全集」2巻*ページ、「農業発達史」、昭和*年*月、教文館=原本、 (19)は新渡戸稲造著「農業本論」4ページ、明治31年9月、裳華房=近デジ本、 (20)は木暮三郎著「伊香保の温泉」39ページ、明治30年8月、木村貞次郎=同 (21)は桜井純一編「東海道鉄道遊賞旅行案内」105ページ、明治27年12月、丸善商社=同、 (22)は沼津市明治史料館編「絵葉書にみる沼津の名所」13ページ、平成13年12月、沼津市明治史料館=原本、 (23)は間宮喜十郎編、間宮徹太郎補、和田鷹峰校「増補 沼津案内」23ページ、明治28年11月、吉成権平=近デジ本、 (24)は須々木邦造編「札幌基督教会歴史」10ページ、明治27年7月、喜多島慶次郎=近デジ本、(25)は同11ページ、同


 その事実とは何か。まず前の講義で取り上げた「札幌農学校」の巻頭の「BOYS BE AMBITIOUS!」というクラークさんの言葉に添えられた小さな絵とその隣のページの絵です。ええっなんて驚くのは、オヤジギャグだね。おほん「大志を抱け」の意義などは、あまた考察されているけれどもだな、それを天下に広めるのに貢献したといわれるこの本のだね、添え物の挿絵情報について真面目に考察したのは私が初めてでしょう。ふっふっふ。
 覆刻版が20冊も各学部図書室などに置かれているのだが、見たことのない人のためにスライドで見せましょう。これは明治31年に札幌農学校学芸会が出した初版の絵です。確かめておりませんが、2版にも載っていたけれど、35年に出た増補第3版ではなくなっています。見開きで示します。

     

 こうした絵をカットとともいいますが、先に左のページだけ、もう少し拡大して見せましょう。どうです、左は子供、右は猿回し、どういう取り合わせなのか。縮め方が違いすぎる。左側のカットは、おかっぱ頭で腹掛けをした裸に近い男の子が大きなコップになみなみと入った何かを飲んでいて、犬2匹がそれをほしがっています。右側は烏帽子を被り、もんぺを穿いた昔風の猿回しと猿1匹を描いています。紋付きの着物を着た男は左手に輪を持ち、風呂敷包みを背負っている。猿はその上に乗り、左手で猿回しの肩をつかみ、輪くぐりなど芸をさせる棒をつかむように右手を伸ばしています。
 子供のもつコップは神の恵みであり、犬ばかりでなく猿回しもそれに注目しているとか、猿回しの曲芸用の棒が十字架を暗示して、クラークが生徒を信仰に導いたことを忘れるなとか、ダ・ヴィンチ・コードみたいな暗号でね、後輩に伝えようとするメッセージを秘めているのか。皆さん、何か読めますか、はっはっは。

    

 私は国内留学時代に北大東京同窓会の会報「エルム新聞」の編集長を務めたと話したことがあるはずだが、その関係なんかで古い印刷所のことはいささか知っています。いまはデスクトップパブリッシング、パソコンで印刷物のレイアウトをやり、物によっては自分のプリンターで印刷してしまうから知らないだろうが、新聞を作る場合、昔は鉛の活字を組んだ版の上にインキを付け、紙を乗せて、ばったんばったん大きな音を立てて刷る平版の印刷所に頼んだものです。
 写真や絵を入れるときは、製版専門の工場に原画を持ち込んで金属板に焼き付け、インキを付ければ印刷できるようにしてもらった。金属板は薄いから、活字と同じ高さになるよう、木片というか木の台に張り付けてある。小さい印刷所で印刷するときは、そのカットを印刷所に原稿と一緒に渡す。
 印刷が終わると、活字はばらばらにして、元の活字棚に戻し、カットは編集者に戻ってくる。出版社が貧乏な場合、編集者はそのカットを保存しておいて、原稿の都合で生じる隙間を埋めるのに繰り返し使ったのです。私は、このアンビシャスの下の空白部分を、あり合わせか、出来合かわかりませんが、そうしたカットで埋めたと見抜いたのですなあ。
 となると出所はどこか。印刷所が持っていた可能性もあります。そこで私は渡瀬さんと同期の佐藤昌介校長が創刊号に「畏友渡瀬農学士茲に見る所あり曩きに同志と相謀りて興農園を興し種子の良新なるをものを撰んて廣く農界に販売を試み農家に益する所あらんと務めたり今又一歩を進めて興農雑誌なるものを発行し農業振興の策を講せんとす其平生蘊蓄せる卓見を吐露するに惜しむことなく大に農界の気運を隆かんならしむるは疑を容れさざる所なり(26)」と祝辞を寄せた「興農雑誌」に注目しました。
 ちょっと脱線、いや、かなり脱線になるかな、渡瀬さん、小川さんの「興農雑誌」は札幌農学校カラーが非常に強く出ている。私にいわせると福沢諭吉創設の時事新報の三田カラーといい勝負だ。たとえば「玉蜀黍食用法」です。新渡戸さんがまだドイツに留学しているとき宮部さんに送った手紙で、玉蜀黍料理の一つであるホミニーを普及させようと提案しています。資料その3(1)に示していますが、鳥居清治さんの本からの引用です。

資料その3

(1)文集に収録されない宮部宛の手紙(一八八八年三月十日付、ボン発)には次のような一節がある。
 「バルチモアに居るとき、しばしばホミニーを食べました。そこを出発するとき、ホミニーの原料となるいろいろ種類のトウモロコシが、若し札幌でよく生育するものならば、われ/\はそれを始めようではないか、という考えが偶然浮かびました。ホミニーは外観といい、食味といい、ほとんど米に変わらないくらいよく似ています。ぼくはそれを製造 することのできるトウモロコシを二種類ほど知っています。またバルチモアはホミニーの一大産地であることも承知していますが、生憎、その製造工場を見学しておりません。君はこの問題に心をとめ、十分な注意を払ってくれませんか――言いかえれば、若し君が推進に同意してくれるなら、それは北海道中に普及するでしょう」。
 ホミニーが北海道内で製造されたという記録は、寡聞にして聞かない。

(2)○玉蜀黍調理法
玉蜀黍は滋養物を含む事多く穀物中の貴重なるものにて米國諸洲欧羅巴の如きは最も之を珍重し種々の調理をなして食用に供す左れば其種類も年々改良して幾多の新良種を出し我國に渡りたるも多し左れ共其調理法を知らざるが故に未だ廣く我國に行なはれず徒づらに小児の慰さみ、食間の点心とするに過ぎざるは遺憾の至りなり
此篇は札幌農學校教授博士新渡戸稲造氏が玉蜀黍食用法研究に熱心し態々メキシコなるパソテルノラと称する所へ照回し同國に於る食用法を調査したるものなり
墨是其は玉蜀黍を産する事多く随て其食用品は極めて多種にして頗ぶる甘美滋養なるものあり殊に土人農耕日用の器具等にて日本に類似せるもの多く現に同國人が玉蜀黍を食用とするに当り之を粉にするには石臼を用う其臼の構造は最も能く我石臼に似たり我邦の一部分にては近來墨是其殖民の説頻りに起り現に其地所買入を決行せりと
今此玉蜀黍調理法は爾来我国に於て重要穀物の栽培を発達せしめ其調理法を普及せしめ併せて墨是其國民が如何に此穀を利用珍重するかをも知らんには此篇甚だ有益のものたるを疑かはざるなり
             編者識

 このホミニーとは「当時亜米利加にて盛んに生産する一種の産物にして器械力にて玉蜀黍の外皮並に芽の部を除き去り恰かも粗大なる白砂の如き觀をなせるものにて種々の食物に作るなり(27)」という食べ物です。
 鳥居さんが注に書いたように、ホミニーは製造されなかったらしいのですが、新渡戸さんはホミニー普及を忘れなかった。ボンで書いた手紙の7年後になりますが「興農雑誌」に「玉蜀黍食用法」の記事を書かせたのです。それも、ただ書きなさいと勧めたわけではなく、作り方をよく心得た札幌の女性を記者に引き合わせたのです。「次に記す旧式『ホムニー』製造法は園員が新渡戸博士の紹介を以て清水なか子嬢(嬢は先年米国に渡り五年間家事料理等を修業したる人なり)に就き聞得たるなり(28)」というのです。いかにも新渡戸さんらしいと勧め方だと思いますね。
 はっきり清水嬢が教えた玉蜀黍料理としてわかるのは「旧式ホムニー」「玉蜀黍菓子(原名コールンケーキ)(29)」、「ハゼ玉黍蜀(ポツプコールン)の効用及調理(30)」、「玉蜀黍紛の麺包」
速成麺包(コールンケーキ)」「玉蜀黍粉の粥(コールンミールマツシユ)」の作り方
(31)です。
 このほかに第9号では資料その3(2)の解説を入れ、メキシコ料理というべき「玉蜀黍の飲料(墨是其人は之をアトールと称し我国の茶に於るが如く毎日之を引用す)」「玉蜀黍パン(墨是其語パンテ、メイヅ)」「麺包の附もの(タノールスと称す麺包につけて食す、あんこ、又は田楽の如のもの)」「玉蜀黍粥(プレルス)」と4種(32)を載せ、第11号では「ゆで玉蜀黍(エロテコシド)」「炙玉蜀黍(エロテアサド)」「埋め焼(エロテタテマド)」「素焼玉蜀黍」「玉蜀黍の煎餅『トルチラ』」の5種の作り方(33)を紹介しています。
 明治の本はメシコまたはメキシコを墨是可、墨是哥、墨是科と書いています。だから墨是其の其は哥の間違いかとも思われますが、これだけ並べられると、こういう書き方もあったらしいとしか言えません。ともあれ解説からみて、このメキシコ風のレシピーは当然、新渡戸さんが提供したのでしょう。また清水嬢は本誌寄書家として、この後アメリカの家庭料理、暮らし方の実態など「興農雑誌」の家事面に記事をたくさん書いています。
  

参考文献
上記(26)の出典は東京興農園編「興農雑誌」1号13ページ、明治27年10月、東京興農園=原本、資料その3(1)は鳥居清治訳注「新渡戸稲造の手紙」129ページ、昭和51年10月、北海道大学図書刊行会=原本、同(2)は東京興農園編「興農雑誌」9号12ページ、明治28年6月、東京興農園=原本、 (27)と(28)と(29)は同6号13ページ、同年3月、同、(30)は同8号18ページ、同年5月、同、(31)は同11号12ページ、同8月、同、(32)は同9号13ページ、同年6月、同、(33)は同11号14ページ、同8月、同


 トウキビの話はそれぐらいにしますが、札幌農学校と因縁浅からぬ「興農雑誌」をどんどん見ていって見付けたのが、資料その4の「札幌農学校」に対する書評です。

資料その4

新刊批評

札幌農学校 題の下に美麗なる雑誌発刊されたり其写真石板には該農学校創立の長官黒田清隆氏と時の教頭ウ井リヤム、ヱス、クラーク氏とを対掲し次て講堂学舎家畜房等より野外講義の図まで十三葉を載せてあり本文には札幌の学問、札幌農学校の過去、札幌農学校の現今、札幌帝国大学設立の必要を論ずるの四章に分ちて評論密議余す處なし一目該校の性質を知悉すると共に如何に該校の我邦に必要なるかを知るに足る、由来我邦南に得て北に失あもの多し世の識者一読して北辺の軽視すべからざるを知れかし、其第一頁裏面に寒村暮靄の小図あり編者は之を以て標識とせよと註す愛嬌慢々 (明治31年9月に出た48号34ページ)

 「其第一頁裏面に寒村暮靄の小図」とは、最初に見せたスライドの右側のページにあるカットですね。はい、それだけのスライドを見てください。手前から続く小道があり、そのそばに跳ね釣瓶の井戸と木がある。垣根の向こうに茅葺き屋根の家が見え、木の葉がほとんど散っているから秋の夕暮れか。銅版画タッチのこの絵の下に「四方購求之人須認此證標初版為記」という短文があるのがわかりますね。なんでこれが「愛嬌慢々」なのか。

        

 私はね、東京興農園は1期生渡瀬さんが作った会社だから、学生たちが頼っていくと、なにかと面倒を見てくれた。北海道から出てきて、札幌の母校を天下に知らしめるための本を作るという、若者らしい企てに対しても黙っていなかった。もしかすると、このカットは「経費節減になるぜ」なんてね、興農園の編集者が手持ちのものを貸したのではないか。借り物なのに、彼等は、さも自分たちが作ったみたいに「編者は之を以て標識とせよと註す」なんて、よくいうわ、わらわせるぞと冷やかしたとみたのです。
 「興農雑誌」のどこかにあるかなと捜したら、ちゃんとあった。「札幌農学校」の出る1年半前の26号に使われていました。時事新報から転載した「青物市場」という記事に続くスペースを埋めるのに使われていました。同じでしょう。

          

 となると、左側ページのカット2枚も「興農雑誌」編集部が、貸したものかも知れませんよね。丹念に見たら、子供は明治31年1月発行の40号のトップページの飾り「穀菜穰穰」という字のわきに入ってしました。猿回しはちょっと違って「札幌農学校」が出てから2年後の「興農雑誌」73号(33年10月)に使われていたのです。子供は明治41年に修学堂が出した大畑裕著「記事論説壱万題」の96ページにもありますが、これは離れすぎているので、多分コピーでしょう。
 私がいい加減なことをいっていないという証拠に、子供のカットのある「興農雑誌」のページを見せましょう。左側の人物は三番叟みたいな格好ですから許せるとしても、この夏姿の子供は赤道直下でもあるまいし、正月号にそぐわない図柄です。まあ、明治の人たちは、清濁併せ呑むというか、あまり細かいことき気にしなかったのですな。

           

 それから「興農雑誌」の編集部ではなくて、印刷所が自前でこうしたカットを持っていて貸したのではないかと考える人もいるでしょう。でもね、裳華房が「札幌農学校」を刷らせた印刷所と「興農雑誌」の印刷所は異なるから、一応否定できます。それにですよ「興農雑誌」の明治32年11月号の発行が遅れ「一方ならざる迷惑を掛けたるは實に遺憾の極なり依て本刊よりは印刷所を変改し且つ今後断じて発刊期日の遅延なからしむる(34)」と、12月号にお詫びが載っています。
 調べてみると、理由はわかりませんが、32年は2月と8月に印刷所を変えていた。12月から、また変えたので、1年分を4つの印刷所で刷ったことになります。猿回しのカットが印刷所の手持ちだったら「札幌農学校」が出た後の33年にも使えたかどうか。やはり「興農雑誌」側がちゃんと管理していたからでしょう。東京興農園は「興農雑誌」だけでなく、いろいろな本を出し、札幌農学校の教授陣も執筆した「大日本農学講習会」という講義録まで発行しました。だから、猿回しのカットは、興農園発行のどの本かで使用済みだったと思われます。
 ちょっと脱線ですが「興農雑誌」にある誘蛾灯のような縦長のカットに似た絵を、当時の随筆集で見たことがあるので、これらのカットは出来合、既製品だったと思われます。その根拠はですね、大雪山の命名者とされる松原岩五郎が書いた「社会百方面」の18ページで「寒村暮靄の図」を私が見つけたからです。「札幌農学校」は牛込区加賀町の秀英社工場なのに対し、この「社会百方面」は4年後に神田区錦町の熊田活版所の印刷です。印刷した時期も場所も違うのに同じ絵という事実。はい、いわなくてもわかりますね。
 こう重複した3つのカット、ホミニーの話からみて、興農園と札幌農学校はツーカーというほどではないにしても、かなり親密な関係にあったと思われます。新渡戸さんがアメリカ療養の帰りヨーロッパを回って帰国したとき「興農雑誌」の記者が聞いた談話を資料その5にしましたが、いかに身内同様に気を許して話したか、よくわかります。これが決定打になると思いますね。

資料その5

新渡部博士の欧米視察談

 西班牙―亡国の兆候―阿弗利加的、独逸―、巴里 日本の出品―、農業の紀元、農政

過般帰朝せられたる農学博士新渡部稲造氏の欧米視察談を聞くに下の如し
 自分は神経衰弱症に罹り、医師の勧告に従ひて三年前より米国に遊び、予て思立ちし世界農業の沿革史の材料を集めて居たが、病氣も余程宜しくなつたので、今年一月米国を出立し、西班牙に渡り同国の農業改革を調査して見たが、ソウ思ふて見る故であるかは知らぬが、見るもの聞くもの下火になつて居る様で亡国の兆候が歴然として見えて居た、一寸工場を視察しても新らしいものは一つもない、ヤレ之は三百年前の建物だとか、之は五百年前の宮殿だとか、総て昔を忍ぶ様な事が多くて、新らしい製造場や運河なぞは一つもない、
 尤も同国も昔は農業の盛な國であつたが、之は重にアラビヤ人が這入り込んで來てヤツタので、御承知の如く十六世紀に於て、イサベラと云ふ人が、アラビヤ人を放逐したが、此時より同国の農業は衰へたので、今日に於ては殆んど見るべきものがない、尤とも同国で出来るものは、米、麦、甘藷等で、地味は我九州と殆んど同一なれば、九州辺で出来るものは大抵出来る様である、
夫れら西班牙は國勢から云つても、先づ阿弗利加的で総てが阿弗利加に傾いて居る様である、
西班牙を見て次に独逸へ行くと之は反対で此國の趨勢は隆々として旭日の如き様である、何を見ても新らしくつてピン/\して居て活きて居る様だつた、
亦た自分は巴里に永く滞在して、博覧會で我農業に關する審査官をもやつた、日本の出品の中で特に外人の目を惹いたのは麻である、之は器械を用ゐず総て手製であるから、光澤があつて頗る人が目を付た様だ、ソレから農産物の出品の多きは米國で、欧洲では匋牙利、露西亜等で、獨逸の如きは今日は既に農業時代を去つて、工業事態になつて居るといふので、農産物の出品は至つて少なく、工産物の出品が多かつた様だ、為に独逸の名物たる森林に關する出品物は少なかつた、
自分は欧洲に於て農業の紀元といふ事を取調べたが、日本を除き外の國の分は已に取調べがついたら近日出版する積りであるが、日本の分は古代の調査が困難であるから一寸出来難い、
又自分は欧洲出張中、台湾へ行つて農政の事をヤツテ呉れといふ命を受たから、一且帰朝の上、後藤長官と打合せて後ち渡台する筈にて、児玉総督にも神戸で面謁をした、(以下省略)
(興農園編「興農雑誌」26号56ページ、明治34年3月、興農園=原本)

 末尾の3行は、前回の小谷さんの経歴でも引用しましたが、この談話で最も重要なのは、新渡戸さんが札幌叢書として出すと約束した「農業発達史」は出すつもりだけれども「日本のは古代の調査が困難」だから、日本の分はやりにくいとためらいを見せたことです。私は皇国史観では裏付けのしようがないと明確にした点にあると考えます。
 那須皓氏は「先生は此の『農業発達史』を大成する希望を最後まで持って居られたらしく、近年に於ける各種手記や新聞切り抜き等にも之に関するものを散見する。時としては時間のないのが気にかゝられたらしく、農史に関する資料を如何処置すべきやなど自分に言はれた事もある。(35)」と書いています。「併し自分が小説は固より各国の俗謡に至るまでも探究して居るのは何の為かと云ふと、それはその中に世界の農業発展史の参考資料になる何物かがないかと探して居るので、目標はちゃんとそこにあるのだ。俺は『世界の農業発達史』を完成したい。これだけは残したいと思っている(36)」といわれたと東郷實氏も伝えています。
 これらの談話からすると新渡戸さんは「農業本論」と同じく書き直す意欲はあった。でも「武士道」の著者としては、日本抜きの世界農業発達史は書けない。古代の日本農業の歴史をどうまとめるか。新渡戸ファンは承知できないでしょうが、私は「興農雑誌」のこの発言はですね、新渡戸さんが思わず洩らした本音だと考えます。那須さんの話のように原稿があったのならばですよ、死後公表とだれかに託してもよかったのに、そうはしなかった。触らぬ神に祟りなしか、いや書かねばならぬと迷い、決断しきれぬ儘亡くなられたと思うのです。
 まあこうした事実から新渡戸さん及び札幌農学校と東京興農園との親密さがわかれば、新渡戸さんが沼津に行き療養したのは渡瀬先輩のツテという見方は納得してもらえるでしょう。私はこうして沼津のことを調べていて、江原素六という人物に率いられた士族たちが明治の初め、沼津で緬羊を飼ったことを知ったのです。
 一般に江原は教育者といわれていますが、とても一言ではいえない経歴の持ち主でね。幕府の侍で官軍と闘い、維新後は許されて沼津に住み、仲間と沼津兵学校などを開き、県庁の役人や師範学校の校長になったりした。大勢いた元士族の働き口として運送業、茶畑と牧場などを始めるが、失敗して負債償還で苦しむ。クリスチャンで日本基督教青年会長となり、第1回帝国議会の代議士に当選し後に貴族院議員。東京で麻布中学校を作り校長を務めた。渡瀬さんは沼津兵学校附属小学校の後身である集成舎出身なので、広い意味で江原の教え子といえますね。ああ、それから小麦の祖先を発見し農学部OBの木原均さんが、その麻布中を明治45年に出ました。木原さんが小麦研究を始めた農学部の北側に「小麦研究記念碑」があるのは知ってますね。
 「江原素六傳」に「渡瀬寅次郎氏と先生」という一節があります。沼津の人々がいかに江原を尊敬していたか、また江原の牧畜業を語っているので、資料その7として引用しました。

資料その7

 東京興農園主渡瀬寅次郎氏は沼津小學校に於て先づ先生を知り、東洋英和學校教頭として先生を助け、東京市参事會員として先生と苦辛を倶にしたる人なり。其の知れる先生に就き語りて曰く、
『私は明治の初年二年頃から江原氏を知つてゐる。沼津の者は先輩として尊敬してゐた、江原氏は馬に乗つて行くと子供迄江原さんが通ると敬禮した。其頃誰も散髪せぬに江原氏は率先散髪して範を示した、私も藩士だから江原さんを其頃から知つてゐた。
 江原さんは沼津に居る藩士の世話をされて乳牛を飼ひ又支那から緬羊を輸入して愛鷹山の麓に放牧した。土族の資産に充てようとして殖産に心懸られた。然し緬羊は輸入しても飼育方法を知らぬから只だ山麓に放牧しておいた。愛鷹山麓は以前から馬を放牧し年々時期を定めて野馬を集め、其内の優良馬を売てゐた處で、緬羊も馬のやうにして放牧しておけば良からうと江原氏の住宅の近傍の東澤田の山に放つたが、遣り方がウソだから失敗して死んで仕無つた、然し殖産に就て熱心に指導される地位に立つたのは感謝せねばならぬ。
 殖産方面ばかりでなく教育に就ても新しい考へを有つてゐた、集成舎といふ中學校程度の學校を創設して校長以上のマア監督とでも云ふ地位に居つて指導された。<略>明治八年に私は東京へ出たから其後の事を如らぬが、其時分私等生徒は江原氏を非常に尊敬して居た。單に私ばかりではない沼津の人は江原さんは偉い人だと云つて崇めてをつた。其時分朝廷といふのは東京の事で、朝廷から屡々優秀な人物を喚び出して高官に採用した。江原氏は喚れても終に応じずに最後迄沼津の士族の爲に骨を折つてゐられた。地方の殖産振興、青年の指導に尽された事は人が皆感謝してゐた。集成舎は旧沼津城の前に在つて生徒は約三百人もあつた、女子部も有つた。
 江原氏は、社会の進運を達観し未だ世間で着手せぬ事業を行つた。或は着手する者があつても、僅かの人しかやらぬ事に目を着けて行つた事は後年になつて必ず多くの人が着手したのである。其先見には敬服せざるを得なかつた。<略>

 渡瀬さんは触れていませんが、江原の伝記には、明治政府が江原たちの殖産事業に対して2度、廃業命令を出したことが書かれています。最初は江原たちが開設した小学校と兵学校を維持するために商船会社兼銀行業を始めたら「朝廷から卒然と命令が下つて士族が商業をすることは体面に関するから、此状受け次第速かに閉店しろと云ふことであつたから、狼狽して止めた(38)」というのです。
 2度目は牧畜事業に対してです。渡瀬さんは緬羊しか語っていませんが、江原たちは「日本は是から肉食をするやうになる、同時に牛乳を用ゐるやうになるに極まつて居る(39)」と牛飼いに力を入れた。横浜のアメリカ人から贈られた洋牛1頭を飼い「之れ洋牛の牧牛としては本邦の嚆矢にして、同時に先生の開始せる牧場も、その規模設備に於て又實に本邦の嚆矢たりしなり。(40)」と力説しています。そして「洋牛二頭、南部種二十三頭、及び伊豆種二十三頭を購入して五十余頭の多きを算するに至り、同時に綿羊百数十頭を兼ねて遂に一大牧場を達成し、愛鷹山麓一偉観を呈するに至れり。(41)」とあります。
 「大日本農史 今世」の明治5年11月のところに「静岡県士族林則行等十余名一産を興し自営の法を立てんと欲し駿河国駿東郡元長窪村の旧牧地一十六町歩を開き洋牛五頭を放養し尋て奥州南部方面より和牛三十七頭を購入して牧畜に従事す(静岡県勧業第一回年報)(42)」とありますから、明治5年に沼津で旧士族たちが牛を飼い始めたことは政府にも知られていた。しかもこれが5年以上続いたのは資料その8の明治11年の新聞記事でも明かです。

資料その8

(1)
○静岡県下沼津在長久保村に同県の士族が創業せし牧牛
場ハ追々盛大にいたり且つ資本も充分なれと何分欧洲種
牡牛(めうし)が不足なれバ此ほど右ぎ拝借の義を勧農局へ出願
せしに同局にても牝牛ハ昨今出払らひとのよしにてお貸
渡にならざるよし


(2)
 明治十年内国勧業博覧会出品目録
 
      第4類
牝牛 (四)洋種斑ラ栗毛、
    駿東郡元長窪村      同
    字百澤(五)栗毛(六)  村  林則行
    和洋間生粕毛


 (1)は「沼津市誌」に「明治五年(一八七二)十一月に牧牛社(別名養正社)と名づけて発足した。代表者として長老格であった林則行、惣代に中村安近、(43)」と出てくる人々であり、資料その8でもわかるように林の名前で明治10年に開かれた第3回内国勧業博覧会に洋種雑種の牛を出品している以上、明治10年も牛飼いをしていたことは明かです。つまり畏れ多いからやめたにしても明治10年以降としか思えないのです。
 しかし、不運にも牛の大量病死、畜舎の火事に遭う。奮闘してようやく建て直したとき「牧牛をすることは外夷の肉食の風習を鼓吹するやうなもので国体に対して恐入る次第なれば速かに廃牧しろと云ふ」「朝廷から厳命(44)」があり、牧畜事業をやめたと彼は後年何度も繰り返し話したのです。
 江原の伝記で一番古いのはね、明治41年3月発行の江戸肇編「現代名流自伝」のなかの回顧談「予の受けたる境遇と感化」です。その次は大正7年4月発行の江原素六述・山田司海編「急がば廻れ」ですが、これは「予の受けたる境遇と感化」とほぼ同文。最も客観的で詳しいのは大正12年発行の江原先生傳記編纂委員編「江原素六先生傳」。ほかに結城礼一郎編「江原素六先生」と村田勤著「江原素六先生傳」がありますが、どれもどういう形で中止命令が出たと説明していないのです。しかも年月日不明。江原ほどの人格者が嘘をいうわけはあるまい、記録はないけれどもと信用して伝記に取り込んだと思われます。
 傳記編纂委員編の「江原素六先生傳」は、年譜の明治11年のところに月日なしで「朝命により牧畜事業を廃止す」と1行入れてありますが、明治3年か4年と思われる商船会社兼銀行業の廃止命令は書き込まれていないのは、そうした事情を物語るように思われます。そのあたりを資料その7に引用しました。

資料その7

<略>意外の朝命突として先生の上に下りて曰く、畜牧の如きは外夷の肉食風習を鼓吹するに過ぎす、國体に關するにより速かに廃牧すべしと。頑迷の言寧ろ驚異に値すれど、文運尚ほ未だ洽ねからず、上下飽まで旧習を守りし當時に在りては、之等の圧迫も亦敢て怪むに足らざりしが如し。
 営々艱苦の先生の牧畜事業は、爾かく幾多の災害に依つて先づ頓挫し、而して朝命遂に廃牧の止むなきに至れり。されどその朝命たる、思ふにそは一般の牧畜業者に向つて下されたる命にはあらで、當時先生牧畜以外に幾多の要職を帯び居たるを以て、即ち旧習墨守の頑迷より、一縣の要路に立てる先生として、兼ぬるに牧畜を以てする如きは、之れ職務の体面を汚損するものとなせしものならんか。何となれば當時既に牛商前田留吉あり、駿府に亦牛医あり、その他畜牛畜馬は全國到る處にありたればなり。先生の廃牧したる年月は明瞭ならず、されど前後の事情を綜合すれば、そは明治十一年前後の事ならんか。先生と村を同うして、同じくその事業に携はりし當時の同志江藤浩藏氏の談に曰く、
 『牧場は先生のお骨折りで、先生の経営でありましたが、先生は宅の方でも農業牧畜の事業に從事してゐました、牧場は山にありましたが、屋敷内には豚も飼つてありました、又茶の製造もやつてゐたので、職人を二十人ばかりも使用してゐました。屋敷の南方に小川があつて、そこには水車をかけてありました、又馬も飼つてありました、先生は馬の達人で、牧場や沼津へ往く時には始終馬に乗つて往きました。』
 當時の先生は敢て後年の廃牧あるを知らず、一意たゞ産業に熱心し、従つてその生活亦頗る円満平和なりしなり。<略>

 江藤談話の一部を裏付ける新聞記事があります。それは明治6年6月2日付の読売新聞です。その2面に沼津の祭りの記事があり、その後半に「同宿在熊の堂村の江原素六の家ハ此ほど製茶が済んだので祝ひに製茶人五十人ほどへ揃ひの浴衣を着せて大祝ひが有りました(45)」とあります。人数は違うにせよ、江藤のいう通りだったのです。
 廃牧命令について沼津市明治資料館にお尋ねしたところ、初出の新聞記事は明治37年の元日から「静岡新報」に連載された「戊辰懐旧談 江原素六翁の談」ではないかということでした。新村晃汀という記者らしい人物が江原談をまとめたもので、最終回の13日の記事「伊豆牛の改良」に「…其処で愛鷹山で牧牛を始めた、所が是も例の国体論です、『牧牛と云ふとは外夷の肉食の端緒を我国に開くやうになる、実に御国体に反するから速に牧場を廃せ』と云ふことである、已むを得ないから之を分けて農家へ預けた、(46)」とあると教えていただきました。札幌ではマイクロフィルムも見られないので、静岡県立図書館に問い合わせ、その記事が掲載されていることは確かめております。
  

参考文献
上記(38)の出典は江戸肇編「現代名流自伝第壱編」89ページ、江原素六「予の受けたる境遇と感化」、明治41年3月、新公論社=近デジ本、(39)は同90ページ、同、(40)は江原先生傳記編纂委員編「江原素六先生傳」182ページ、大正12年5月、三圭社=原本、資料その7は同174ページ、同、 (41)は同183ページ、同、資料その7は同183ページ、同、 (42)は農商務省農務局編「大日本農史 今世」109ページ、明治24年7月、博文館=近デジ本、 資料その8(1)は明治11年11月28日付東京日日新聞2面=マイクロフィルム、同(2)は内国勧業博覧会事務局編「明治十年内国勧業博覧会出品目録」第3冊静五ノ七、明治10年8月、内国勧業博覧会事務局=同、 (43)は沼津市編纂委員会編「沼津市誌 中巻」248ページ、昭和36年3月、沼津市=原本、 (44)は江原素六述・山田司海編「急がば廻れ」392ページ、大正7年4月、東亜堂書房=原本、 (45)は明治6年6月2日付読売新聞2面=マイクロフィルム (46)は明治明治37年1月13日付静岡新報1面=同


 さて、江原に本当に廃業命令が出たのか、恐れ入りましたと従ったのか。まずは船会社兼銀行業ね。同じ静岡藩内で渋沢敬一たちは銀行と商社の合いの子のような組織、商法会所を作り、明治2年から営業していました。新政府は財政再建のため各藩に太政官札を強制貸付し、静岡藩には53万両を割り当てたのです。これは利子を付けて13年で返さねばならない金なんです。それで渋沢はフランス仕込みの金融知識を生かし、それを元手に米や肥料を買い付ける一方、銀行みたいに預金業務も始めて、返済に備えたのです。
 渋沢の「青淵回顧録」によると「其肥料も米穀も、次第に直段が騰貴して來たから、米穀は利益があるとみれば、時々これを売却し、肥料は駿遠領内の村々へ貸付て、応分の利益を収めるといふまでに運びが付き、又市内でも預け金抔するものが追々に増加して、稍や当初の目的を達するやうに成つて来た、處で其年の五月頃、藩庁から、商法会所として藩の資本で商業をするのは、朝旨に悖るから、事実は兎も角も、其名称を改正しろといふ内意があつて、種々の評議をした上で、常平倉といふ名称に改めました、(47)」というのです。朝廷の考えに反するからという止め方が似ています。
 江原の伝記では、組織名も営業開始の時期もはっきりしません。でも「静岡県史」は「商法会所と同様のものに軍事掛の人々が組織した沼津商社会所があった。廃藩置県から一八七七年の間は岳東軒という名称を名乗ることになる。中川虎一郎、大野寛一、高橋晋平らが経営に当たった。(48)」と書いてあります。江原は明治2年静岡県の少参事で軍事掛を命ぜられ(49)ていますから、船会社兼銀行業はこれでしょう。廃藩置県は明治4年、江原はすぐ廃業したというけれど「静岡県史」を信用すると、改名して6年は営業していたことになるのです。おかしいでしょう。
 商法会所は藩庁内の協議により設立され、しかも藩庁の利益に直結する事業だったのに対し、江原たちのは廃藩置県後も沼津兵学校と附属小学校を維持する資金稼ぎが狙いだったこと、渋沢はコンサルタント、民間人だったといった条件の違いはありますが、どうも江原談話を基にした伝記は、ほかの記録と合いません。
 江原が士族授産のためと牧畜業に乗り出したのは、その後なのです。「時の静岡縣権参事長澤常山亦豫て士族の授産に意あり、茲に於て先生の主旨に賛同し、斡旋大いに努め、遂に駿東郡長窪村、同小林村、同東澤田村、富士郡萬野新田等土着の士族二百五十名に対し、愛鷹山洞中四萬二千坪の土地借用を許可し、同時に資金五千圓を貸付するに至りたり。」となりました。だが、開墾して茶畑と桑畑を作っても、数年たてば土地が痩せてしまう。平行して牧畜をすれば肥料が得られるし「食料衣服の改良目前に迫り居たるを以て、當然來るべき之が需要に応ぜん(50)」と家畜も飼うことにしたのです。
 そこで「先生飽まで過失粗漏のなからんことを期し、當時牧畜家として有名なりし米人ジョンスに依頼し、特に諸方を巡視臨検せしめ、その結果長窪は牧牛に適し、愛鷹萬野は牧羊に屈竟の地質なるを確かめたり。仍て牧場を十六箇所に設け、一箇所凡そ一町歩に境界し、周囲に土手を築き、一牧場を建坪十二坪の畜舎となし、本舎を五十二坪に建築し(51)」たのです。ジョンスとは、後に牧畜の建白書を書き下総牧羊場を指導したアップジョンスでしょう。アップジョンスが明治7年に「相模伊豆駿河及甲斐ノ荒蕪地ニ付上申セシ報知」を大久保利通に上申したと書いたものがあります。その続報である「下野常陸及下総ニ在ル荒蕪地」の報告(52)は国立公文書館にあるけれども、駿河などの方は残っていません。
 江原によると「横浜に居るスミスと云ふ人から極く良いシヨルトホーンの牡牛を一匹只で呉れると云ふことでありました、それを貰つて津田仙さんが非常な注意をされて箱根山を越して持つて来て呉れましたから、感謝の意を表して我々の方からもスミスと云ふ人に同じ毛色の馬二頭、馬車馬に御使ひくださいと云つて贈つたことであつた、是は洋牛の牧牛では嚆矢であると思ふ、(53)」と語っています。
 この「洋牛の牧牛」という定義がはっきりしない。日本人が洋牛を飼ったケースに限ったとしても「大日本農史」の明治2年12月のこととして「通商司ノ管スル牧牛馬掛ニ於テ洋種ノ牛豚及ヒ製乳器械等ヲ横濱在留英國商人ヨリ購買ス[築地商社建白留]本文買収スル所ハ牛一十五頭豚二十四頭其ノ他器械牛舎ナリ(54)」とあり「大阪府誌」はこれを指して「是れ實に洋種牛買入の嚆矢にして(55)」と書いております。
 いずれ京都・大阪の畜産を詳しく考察しますが「京都府農業発達史」によれば「牧畜場における家畜の飼育頭数は、五年二月には米牛四四、米羊一九<略>(56)」とあるのです。この頭数は「明治五年中米國に於て牡牛二頭牝牛二十五頭を購入し(但牝七頭牡一頭は航海中に斃死せり)(57)」という報告があるので、国内調達分に生きて着いた19頭を加えたものかも知れません。
 江原伝記は「明治五年十一月、先づ牝牡の洋牛三頭を購入せしが」とあり「米人寄贈の洋牛は牧場開始の記念を意味せるものにて、前記三頭の購入前なりしが(58)」というのですから、津田が牛を引いて箱根の山越えできるのは、やはり春以降でしょうから京都府の方が早そうです。嚆矢にこだわるならば、士族授産の牧場では嚆矢ということでしょうかね。
  

参考文献
上記(47)の出典は 渋沢栄一述著「青淵回顧録」*巻***ページ、昭和2年*月、青淵回顧録刊行会=原本、 (48)は静岡県編「静岡県史 通史編5 近現代1」43ページ、平成8年3月、静岡県=原本、 (49)は同34ページ、同、 (50)は江原先生傳記編纂委員編「江原素六先生傳」181ページ、大正12年5月、三圭社=原本、 (51)は同182ページ、同、 (52)は農林省農務局編「明治前期勸農事蹟輯録」下巻1665ページ、昭和14年3月、農林省農務局=原本、 (53)は江戸肇編「現代名流自伝第壱編」89ページ、江原素六「予の受けたる境遇と感化」、明治41年3月、新公論社=近デジ本、 (54)は農商務省農務局編「大日本農史 今世」109ページ、明治24年7月、博文館=近デジ本 (55)は大阪府編「大阪府誌第三編 畜産業誌」復刻版672ページ、昭和45年4月、大阪府=原本、底本は明治36年4月思文閣から出版、 (56)は三橋時雄、荒木幹雄著「京都府農業発達史―明治・大正初期―」16ページ、昭和37年1月、京都府農村研究所=原本、 (57)は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」79号5ページ、明治25年4月25日、牧畜雑誌社=原本、 (58)は江原先生傳記編纂委員編「江原素六先生傳」182ページ、大正12年5月、三圭社=原本、


 ところで、横浜から沼津まで洋牛を連れてきた津田仙。この人は万延元年の遣米使節団員に選ばれ福沢諭吉らとともにアメリカを訪れました。(59)35歳のとき東京にあった開拓使出張所に務め、明治4年9月、東京の延遼館で開かれたケプロン一行歓迎会に通訳兼農業専門家として出席(60)しています。また開拓使がその年送り出した女子留学生5人のうちの津田梅子の父親です。津田塾大学の始まりはね、帰国した梅子さんが明治33年開いた生徒10人の女子英学塾(61)だったのです。
 それから気前よく洋種の牛1頭を江原にプレゼントした「横濱のスミス」はですね、「横濱外国人居留地ホテル史」を書かれた澤護氏は「公徳心旺盛なスミス」と訳していますが、パブリック・スピリッテッド・スミスというあだ名で知られた英国人ウィリアム・H・スミス(62)以外にいないでしょう。スミスは諷刺雑誌「ジャパン・パンチ」を発行したチャールズ・ワーグマンの友人で、細い目、高い鼻ですぐわかる顔として彼の漫画に何度も登場しています。英語で長い書名なので「ミスター・パンチ」というキーワードで札幌市立図書館の蔵書を検索すると、一発で出てくる本が詳しく紹介していますが、20年横浜に住み、横濱ユナイテッド・クラブの運営や山の手公園の設立、横濱グランドホテルの創立にも関係しました。スミスはまた農場で牛や豚を飼い、PORK BUCHERSという看板の掛かった家の前で長い庖丁を持ってお客を迎え、その傍に22ドルの値札を首に下げた緬羊がいる漫画(63)も載っています。
 ところで沼津の牛肉事情について総合研究大学院大学の樋口雄彦教授が「旧幕臣の明治維新 沼津兵学校とその群像」という本に面白い話を書かれています。樋口さんは沼津市明治史料館の学芸員、主任学芸員として17年も研究した、沼津兵学校のOBみたいな方ですから、沼津では旧ご用邸を見たことがあるぐらいの私には、とても思いつかない方向からでね。そのあたりを資料その8に引用させてもらいました。

資料その8

<略>  食生活の面でも、兵学校関係者は先端を行っていた。藤沢次謙・塚本明毅・万年千 秋ら軍事掛幹部や兵学校教授らは、グループで牛肉を共同購入し、ビーフステーキに 舌鼓を打ったという。「牛之価低キニ御座候、一頭凡七八コバンに過キス、当地之諸 子社ヲ結ヒ毎週一頭ヲ屠リテ分配仕候事に相成、塚本万年なと其世話人タリ、ビーフ ステーキの喰ヒ飽が出来申候」と記した藤沢の書簡(二年一二月一五日付)からわかる 事実である。ヨーロッパの食生活に慣れていた赤松則良は、牧畜に関する書籍を持参 し、仲間にその話をしたらしい。江原は赤松の牧畜談に「すっかりかぶれてしまって (中略)学校の金を流用して牛屋を始めた、うまくゆきそうだったが朝廷からのお叱り で中止した」(結城礼一郎『旧幕新撰組の結城無二三』中央公論社、一九七六年)と いう。また、江原は沼津の博徒に学校用の肉や牛乳を賄わせるべく、牛豚の屠殺を営 業させたともいう。ただし、右に述べた江原に関する二つの逸話には史料的な確証は なく、兵学校時代ではなく廃藩後のことかもしれない。

 面白いでしょう。藤沢は改名する前は志摩守といい、陸軍総裁勝海舟の下で副総裁を務めており、維新後は江原と同じく静岡藩軍事掛となり、沼津兵学校の経営に当たりました。(64)樋口さんが引用した書簡は兄桂川甫周に送ったもので「七八コバン」は「当時、伊豆の国の駿牛の極く上等なものが一頭七圓で買へる時代(65)」でしたから7乃至8円という意味ですね。この後ろに沼津はジャガイモも採れるので、肉じゃがとは書いてませんがね、兄さんがきたらディナーを食べよう(66)と書いています。
 赤松は文久2年から3年間オランダに留学し、明治2年に沼津兵学校教授(67)になり、江原と知り合いました。後に江原は「この兵学校の規則は大抵赤松先生が考案し、これを西先生が補正されて出来上った。だから、沼津兵学校の基礎は赤松、西の二人が作ったと云っても良いと思います。とにかく日本において小学校という名でヨーロッパの規則にかたどって普通教育をやったのは実にこの沼津小学校が初めてである。この沼津小学校というのはこの兵学校の付属小学校である、このように西、赤松両先生は日本の文明にご貢献になったのでありますから、両先生を深く私は尊敬を致しております(68)」と語っています。
 赤松はアムステルダムで最初、オランダ人の家に下宿して普通の家庭の食事をした。後に外食主体に変え、大衆食堂でワインを飲みつつ食べるオランダの食生活(69)をしっかり味わってきました。ですから赤松は、外国生活をしたことのない江原や藤沢にそうした話を聞かせ、ビフテキ・パーティーの音頭を取ったのではないでしょうか。
 江原は兵学校の移管問題が起きるちょっと前、政府派遣の海外視察團員に選ばれ半年アメリカ視察(70)をしてきます。赤松たちとビフテキを食べ、牧牛談義にかぶれたくらいだから、伊豆牛とアメリカ牛との味比べをしつつ、畜産知識の吸収に努め、旧士族が生きる新しい道はこれだと愛鷹山における畜産開発に乗り出したと考えられます。
 それから結城。無に和数字の二三と書いてムニゾウと読む変わった名前です。この結城無二三によると、ショートホーンの牛は牧場の開設祝いにスミスがくれたという江原本人の話といささか異なる。もっとも無二三本人ではなくて「江原素六先生傳」編集主任だった息子の結城礼一郎が書いた「旧幕新撰組の結城無二三」という本にそう書いてあるんですがね。この本は「お前達のおぢい様」という副題が示すように、礼一郎が自分の父無二三の生涯を孫つまり自分の子供へ伝える形で書いてあります。
 その中の江原を巡る牛飼育のところを引用したのが資料その9(1)です。「お父さんも江原先生の御厄介になる事になり」とあるのは、礼一郎が江原が創立した麻布中学校の1期生3人のうちの1人だったからです。それから「江原素六先生傳」と礼一郎個人が出した「江原素六先生」の両方に、同文で載っている逸話「赤松大三郎の牧牛秘書」に無二三の名前が出てくるので比べられるよう同(2)としました。

資料その9

(1)
<略> 祖父様は一方小學校で斯様して勉強すると同時に、赤松さんの處へ行つて種々泰西 の新智識の講釈を聴いた。そして一々筆記して置いた。其中でも牧畜に関する事は余 程祖父様の興味を引いたと見え、赤松先生牧牛秘書として薄葉へ一字一字鄭寧に浄書 し、一子相傳の事とまで書き添へてあつた、今になつて見れば博文館の本にもザラに 出て居る事なのだが當時にあつては全く驚異に値する研究だつたのだらう。尤も此の 赤松さんの牧畜談に捕へられたのは祖父様ばかりでなく、江原先生もすつかりかぶれ て仕舞つて、講釈を實地に試むべく横濱へ行つて英人に頼んで純粋の洋牛を一頭取り 寄せて貰つた、而して其れを伊豆牛にかけ合せて雑種を作り、学校の金を流用して牛 屋を始めた、うまく行きさうだつたが朝廷からの御叱りで中止した。其んな斯んなで 祖父様江原先生と大分御近しくして居られた。其の縁故でお父さんも江原先生の御厄 介になる事になり、其の又縁故で今度は慎太郎や雄次郎が麻布中学へ入る事になつた のだ。祖父様の筋から云へば江原先生の弟子なのだから通計すれば父子三代江原先生 の教へを受けた訳だ。<略>
   (結城礼一郎著「旧幕新撰組の結城無二三」より)


(2) 赤松大三郎の牧牛秘書

 先生の牧牛事業は其の端を外人の牛乳搾取に発せり。即ち沼津兵学校時代教師として外人を傭聘せしが、其の外人は日本に乳牛なき為め、乳牛を買入れ自ら搾取して飲用したり。
 先生早くも之に着目し、将来必らず牛乳の需要あるべき事を洞察せしが、偶兵学校教授赤松大三郎(則良)和蘭留学当時の見聞によつて、同じく牛乳の効果に想ひ及び原書を渉猟して牧牛秘書の著あり、先生即ち之れに準拠して外国種の乳牛を繁殖せしめ、盛んに搾取して附近の児童に飲ましめつゝありしに、事神祇官の知る處となり人間に四ツ足の乳を飲ますは怪しからずとなし譴責せらる。邦人にして牛乳屋を開業したのは先生を以て嚆矢とす。牧牛秘書は後伝へて当時兵学校に出入りせし新選組の浪士結城無二三氏の手に入り、結城氏は之を以て山梨県に於て牛乳事業を創始したり。
   (結城礼一郎編「江原素六先生」より)

  

参考文献
上記(59)の出典は河合寿造著「日本新立志篇」394ページ、明治26年10月、偉業館=近デジ本、 (60)は谷邨一佐著「奎普龍将軍」36ページ、昭和12年11月、山口惣吉=原本、(61)はhttp://www. tsuda.ac.jp/ contents02.php? contents _id =h0mTylZQAhBa (62)は澤護著「横浜外国人居留地ホテル史」*ページ、平成13年3月、白桃書房=原本、 (63)はCharles Wirgman著・画・Jozef Rogala編・解説・山下仁美解説翻訳「The genius of Mr. Punch Life in Yokohama's foreign settlement, Charles Wirgman and the Japan punch, 1862-1887」73ページ、平成16年7月、有隣堂=原本、 資料その8は樋口雄彦著「旧幕臣の明治維新 沼津兵学校とその群像」101ページ、平成17年11月、吉川弘文館=原本、 (64)は日本歴史学会編「明治維新人名辞典」851ページ、昭和56年9月、吉川弘文館=原本、 (65)は江原素六述・山田司海編「急がば廻れ」391ページ、大正7年4月、東亜堂書房=原本、 (66)は安西愈著「勝海舟の参謀―藤沢志摩守」163ページ、昭和49年7月、新人物往来社=原本、 (67)は富田仁編「新訂増補 海を越えた日本人名事典」60ページ、平成18年7月、日外アソシエーツ=原本、 (68)は赤松範一編注「赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録(東洋文庫317)」230ページ、昭和52年11月、平凡社=原本、 (69)は同198ページ (70)は江原先生傳記編纂委員編「江原素六先生傳」168ページ、大正12年5月、三圭社=原本、 資料その9(1)は結城礼一郎著「旧幕新撰組の結城無二三」115ページ、大正13年7月、玄文社=原本、同(2)は結城礼一郎編「江原素六先生」85ページ、大正15年5月、三圭社=原本


 文学研究者の森銑三は「江原素六先生傳」について「これまた好伝記というを憚らぬが、それは恩師を傳したものだけに、著作の態度が謹直であり、精彩は無二三傳の方にあるといわなくてはなるまい。私は無二三傳を以て、明治以降に成った伝記類中の最も異彩のあるものとする。(71)」と褒めてます。略していいますが「先生傳」が出て1年置いて「無二三」が出たのです。礼一郎が「先生傳」に無二三の証言を入れたかったが、先生の伝記だからと一緒に伝記を書いた4人に抑えられ、短い逸話にされた。それで1年掛けて、書きたかった父親のことを思いっきり「無二三」へ吐き出したとみられるのです。「精彩のある」のは當然でしょう。
 無二三の本を出してから、また1年後に礼一郎は「江原素六先生」を出しました。「先生傳」と内容を比べると「名士の見たる江原先生」の2本は「先生傳」の11本から抜いたものだし「赤松大三郎の牧牛秘書」を含む「逸話」36話のうち35話が「先生傳」73話から抜いており、新規は「青山学院長石坂氏の談」だけです。「先生傳」が6円もしたので、50銭で読める本を出して恩師江原の業績を広く知らせようとした。ダイジェストである以上、敢えて「牧牛秘書」も「先生傳」の儘にしたと私はみますね。
 「牧牛秘書」に出てくる神祇官というのは、役職ではなくて行政機関の名前で、西暦701年の大宝立令にその名前があると「神祇官考証」に見えます。要するに神様関係のお役所で明治4年8月に神祇官は神祇省と改称され、明治5年3月に教部省と改称して寺院も受け持ち、さらに内務省社寺局になってしまう(72)のです。
 江原たちが牛飼いを始めたのは明治5年秋であり、牛にしても子供を産んだ後でないと乳は出ませんから、そうした経産牛を最初から買い入れてこないと「盛んに搾取して附近の児童に飲ましめつゝあり」という状況にはなりません。とすると早くて明治6年春ごろとなり、神祇官は内務省になっていたはずで、牧牛秘書の話は時期が合いません。まあ、神祇業務を引き続き担当している部門から注意されたという程度に受け取りますか。村田の「先生傳」は神官が怒った(73)と書いていますがね。
 その次の「邦人にして牛乳屋を開業したのは先生を以て嚆矢とす。」というくだりは、前田留吉が文久3年には横濱で牛乳販売を始め(74)ているし、江原は前田の牧場へ搾乳などを学ぶために仲間を送っているのですから、江原がトップを切ったというのは無理です。また編纂委員編「先生傳」には資料その8とつながりのありそうな逸話が載っています。資料その10がそれです。

資料その10

  改心せる博徒の感謝

 先生の沼津兵学校時代、沼津に博徒の親分某あり、先生常に之を諭し之を教へ、徳化以て正業に就かしむ。當時兵學校あり、病院あり、爲めに牛肉及び牛乳の需要多かりしより、彼をして之を営業せしめ、藩へは牛豚屠殺の冥加金として一頭に付き金五十銭を納付せしむ。後政府が牛一頭の屠殺料を五十銭とせしは實に先生の指定せし此の五十銭に拠りたるものなり。この博徒爾來先生を神の如くに敬ひ、家族の者にも熊堂の方へ足向けてはならぬと誡め居りしが、後先生の衆議院議員として候補に立つや、彼は從前の乾児数十名を駆り、專ら先生の爲めに運動せしめ、開票當日の如きは沼津の郡役所より熊堂までの間に乾児を配置し、先生の得点を一点二点と次ぎより次ぎへ傳達して先生の宅へ報告せしめたり。

 明治16年に出た岩城魁編「沼津雑誌」によると、沼津川廓町に甲州屋という猪や鹿肉を売る店が古くからあった(75)そうですから、もしかすると親分のばらした牛をそこへ売り込んだことも考えられます。「杉先生講演集」という本にある「駿河国沼津政表」を見ると、明治2年の職業別人口で牛肉売りはたった1人(76)なので、これが甲州屋かも知れません。屠牛業、博徒という分類がないのでわかりませんが、親分一家は表向きは堅気の仕事に就いていたのでしょう。
 屠殺料ですが、明治14年に出た「静岡県地方税規則便覧」には雑種税第13類として「屠牛 壱頭ニ付 金三十銭」と載っています。緒言に拠れば「明治十二年七月ヲ以テ本県地方税徴収ノ令ヲ発セラル(77)」とあり、その以前にあった明治10年11月の静岡県通達乙第99号による屠牛営業仮規則などが、札幌では調べられないので、何ともいえませんが、もしかすると、初めの50銭が肉食奨励の見地から30銭に値下げということもあり得るでしょう。
 朝命で牛飼いをやめよといわれて、江原がやめたのは「されど前後の事情を綜合すれば、そは明治十一年前後の事ならんか。(78)」と「先生傳」は推定しています。記録はないのですね。ところが江原は、元士族が共同経営する牧場の指導者というだけでなく、江藤浩藏のいうように「先生は宅の方でも農業牧畜の事業に從事してゐました、牧場は山にあり」松沢牧と呼ばれていたのです。どちらをやめたという発言は見当たりません。
 私はね、やめたのは江原個人の牧牛であり、共同経営の方は続けたとみます。こっちは静岡県が資金を牛を貸してくれたので、ようやく始められた事業です。肉食は盛んになる一方です。肉食を広めることにつながるという程度の理由で牧畜をやめさせ、大勢の元士族を失業させられますか。江原が陣頭指揮したからこそ事業が続き、明治7年に伝染病で37頭の牛が死に、8年に畜舎が焼け、建て直したら10年に強風で倒れる(79)という不運に遭ったともいえます。
 江原が「当時余の負債は累積して一萬五六千圓に及びぬ」という事態に陥ったのは、後の製茶会社の損失を「侠客的勇気を出し以て自ら好んで知己朋友の負債を分担したる(80)」せいと思われますが、共同経営した牧場の借金もあったでしょうね。
 江原は天下の大勢を眺め、松沢牧の牛をいったん手放し、何年か後に再開した。その間誰かに牧場を貸していたことも考えられます。とにかく牛飼いは一度やめたんですから、厳命に従いすぐやめたと後々公言できたわけです。明治10年の静岡県の調査報告には「松沢牧ハ数頭を飼養、和洋種アリ。近日、此牧場ニ於テ蒙古種ノ牧羊ヲ試ントス。(81)」と記録されているのです。このとき江原は県会議員であり、やる気満々、製茶輸出の積信社を興していました。
 資料その11は、さらに牛飼いを続けていた証拠です。

資料その11

(1)
牧場
名称  地名        獣名員数     結社名 主宰人名
本沢牧 伊豆國賀茂郡青野  洋種牛 一頭  一村共有 大野栄作
              和種牛 十三頭      大野善吾
                           土屋善五郎
田代牧 仝岩科村      雑種牛 十三頭 一村共有
              山羊  十一頭
百澤牧 駿河國駿東郡    洋種牛 廿八頭 結社人員
    元長窪村               十二名 篠山資之
                           栗野道徳
                           宮田有理
松沢牧 仝東熊堂村     雑洋種牛 十九頭  〇  江原素六

 明治12年は「11年前後」ですから、まあ大目にみますか。でも静岡県の「勧業年報 第3回」にある明治16年度牧場表に段別5町強の松沢牧があり、何を飼っていたかわかりませんがね、持ち主は「西熊堂村平民江原素六」(82)となっています。
 明治17年の「静岡県統計書」には松沢牧が載っていません(83)が、17年11月2日の日記には「栗田正道氏十月分乳代四圓五十銭持参、直に江藤浩藏氏へ預け、同氏請取書を栗田氏に渡す。」とある(84)ので、まだ1頭ぐらい搾っていたのかも知れません。
 江原は廃牧の際スミスからの大きな赤牛は預かり手がないので、伊豆岩科の牧場に頼んでおいてもらったら、自然交配でいい雑種が生まれて喜ばれた(85)といっています。ところが、もっと後になると話が変わって牛はみんな小笠原島へ送ったと語った(86)のです。自分の廃牧と共同経営の廃止がごっちゃになったせいでしょう。
 きょうは新渡戸さんから渡瀬さん、さらに素六さんと、3段飛びしたから、ちとわかりにくかったかな。ともあれ、3人のお陰で、まことに珍しい緬羊牧場跡という記念碑にたどり着いたのです。ジンパ学研究者として碑文に正確な頭数を書いていないかと調べたのだが、インターネット上にはなくてね、沼津へ行くしかなかったんですなあ。
 明治資料館の展示を拝見し、いずれ東熊堂の江原牧場の碑文も調べに伺いますと素六さんの胸像へ敬意を表したましたよ。それから分かれ道は右へ右へと資料館で聞いた通り山道を上りましてね。なんとか資料その12で見せる石碑をカメラに収め、説明板の内容を書き写して参りました。スライドでその「緬羊牧場跡の碑」の写真を見せましょう。大きさを比べるものが写っていませんが、私の背より高い大きな碑ですよ。
 顕彰会の方々が尊敬してやまない江原先生が牛を小笠原へ送ったなんて、でたらめをいわれるはずがないというかも知れませんので、証拠として資料その13を付けておきました。はい、終わります。


     
      沼津市笹見窪にある緬羊牧場跡の碑

資料その12

緬羊牧(めんようまき)場跡

 この場所は、明治維新に際し江戸から移住した旧幕臣(静岡藩士)百軒余が長屋を建てて住んだところであり、東田沢村字笹見窪といいました。その中でも、特にこの一角は、南北に細長くのびた士族土着地の北端にあたり、明治六年(一八七三)に開設された羊の牧場の跡地で、現在も「緬羊牧」と通称されています。
 土着士族たちは、廃藩により扶持米が支給されなくなると、自ら生計をたてるため、種々な事業を始めました。駿東郡元長窪村・北小林村・岡一色村・東田沢村・富士万野原新田の土着士族二百五十人は、県から一万四千円の資金を借り入れ、牧牛や牧羊、開墾などを行ったのですが、東田沢村の士族たちが選んだのは緬羊の飼育だったわけです。士族た ちのリーダーとして江原素六は、内務省勧業寮の御雇い外国人、アメリカ人のD・W・アップ・ジョンズに依頼して牧場用地を視察してもらい適地を選んだといわれています。
 明治六年正月の記録によると、番小屋や木の柵、土手、木戸などがあったことがわかります。羊の頭数は、駿東・富士両郡で百三十頭でしたが、その内の六十一頭がこの東田沢村士族の牧場にいたようです。羊から毛をとったようで、羊毛七百二十五目を沼津宮ノ後町の綿屋作平に預けたというような記録があります。
 しかし、病疫により多くの羊が死んでしまい、明治十五年頃までには牧羊事業は失敗に帰してしまいました。その後は、開拓社とか混同農社といった結社を組織した有志が、茶園の開墾や牧牛・養豚などに切り換えていたようです。それでも牧牛失敗の痛手は大きかったらしく、明治十年代以降、この地を離れる士族が激増し、笹見窪在住者は急速に減っ ていきました。
     平成二年十一月
                社団法人 江原素六先生顕彰会

資料その13

明治初年に於ける静岡県の牧畜及靴製造

  元静岡県令  江原素六氏談

 一國政治の局に當る者は、常に萬人に先んじて、其計を廻はさねぱならぬ、今の政治家の多くの遣口を見ると、一つの問題が起つて、それから遽てゝ研究調査を始める。あんな事では政治は何時でも遅れ勝ちになる。何時の世でも爲政者と人民との間には政見の相違は免れ難い事ではあるが、政治が社會の状態より遅れる位危険なことはないから、爲政者は常に此心を念としなければならぬ。
 明治の初年。吾輩が静岡縣の縣令をして居る時に牧畜を計画したのも此趣旨に外ならぬので、御維新になつてから総ての事情が一変して來て、士族の子弟だからと云つて、徒衣徒食ばかりはして居られない、何んでも実益のある事業をやらねばいかんと云ふのが、吾輩の意見であつた、あの当時始めて此牧畜と、靴の製造を思立つたのである。
 牛肉牛乳の需用は、これから先き追々発達すると云ふ事に気付いたのと、万事西洋に做ふに就ては靴の需用は盛に起ると思つたからである。靴の事では面白い事がある。士族の子弟を段々説き付けて、靴製造の見習に横濱の外國人の所へやつたのであるが、二年ぱかリして一通りの術を覚へて帰つて来た。習ふ間は真面目に習つたやうであつたが、帰つて製造するとなると、皆なが厭がつてやらない。靴なんかは穢多の仕事だなど言出して親達までが好まない、其所で色々考へた揚句が、此士族の製造した靴を藩公に献上する事にした。夫々打合せがしてあるから藩公は御嘉納といふ事になつた。何分あの時分は唯今とは違つて、藩公の御威光と云ふものは非常なもものであるから、藩公が御嘉納になつたと云ふので、やうやう本氣になつて靴の製造に着手したやうなこともあつたが牧畜の方は遺憾ながら、中途で中止することゝなつた。夫れといふのは、當時私は御役人であつたものだから、役人が商売をしてはいけないと云ふのが重なる理由であつた。一体にあの時分は、未だ武士気質が残つて居つて、利殖の事といふと寔に卑んだものであるが、御上の御用を勤めながら、牛飼などをやつてはいけないと云ふのだ。とうとう終ひには其筋からの注意もあつたので、遺憾ながら私は思止つて、静岡で飼育して居た牛の全部を、小笠原島に送り出して、此所で放し飼ひにする事にした。現今小笠原島で旺んに牛が産出するやうになつたのは、私のやつた牛が種牛となつたのである。當時私がこの牧畜を始めた時の苦心はまた非常なものであつたが、詳細は後日にゆづる、然し今からあの時分の事を考へて見ると、何事でもさうであるが、牛肉牛乳の発達は、眞に隔世の感があると言つても宜い。云々
   (肉食奨励会編「肉と乳」より)

 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

参考文献
上記(71)の出典は森銑三著「明治人物閑話」204ページ、昭和57年9月、中央公論社=原本、 (72)は佐伯有義著「神祇官考証」9ページ、明治33年9月、会通社=近デジ本、 (73)は (74)は雪印乳業史編纂委員会編「雪印乳業史」1巻4ページ、昭和35年11月、雪印乳業=原本、 資料その10は江原先生傳編纂委員編「江原素六先生傳」逸話編12ページ、大正12年5月、三圭社=原本、 (75)は岩城魁編「沼津雑誌」15丁裏、明治16年6月、間宮喜十郎=近デジ本、 (76)は杉亨二述・世良太一編「杉先生講演集」附録9ページ、明治35年8月、横山雅男=同、 (77)は太田栄彦編「静岡県地方税規則便覧」ページ番号なし、明治12年10月、提醒社=同、 (78)は江原先生傳編纂委員編「江原素六先生傳」185ページ、大正12年5月、三圭社=原本、 (79)は静岡県編「静岡県史 通史編5 近現代1」145ページ、平成8年3月、静岡県=原本、 (80)は川崎巳之太郎編「実験上の宗教」24ページ、明治30年12月、警醒社=近デジ本、 資料その11は静岡県編「静岡県統計概表 明治十二年」184ページ、明治14年7月、静岡新聞提醒社=近デジ本、 (81)は静岡県編「静岡県史 資料編17 近現代2」311ページ、平成2年3月、静岡県=原本、(82)は同398ページ、同、(83)は同1140ページ、同、 (84)は村田勤著「江原素六先生傳」257ページ、昭和15年12月、三省堂=原本、 (85)は原素六述・山田司海編「急がば廻れ」393ページ、大正7年4月、東亜堂書房=原本、 (86)と資料その13は肉食奨励会編「肉と乳」2巻1号11ページ、明治43年11月、肉食奨励会=マイクロフィルム、 資料その12は江原素六先生顕彰会編「緬羊牧場跡の碑」由来説明文、平成2年11月、社団法人江原素六先生顕彰会、