鷲澤與四二、時事新報北京特派員になる

 きょうはジンパ学のコアである命名者について話しますから、絶対に居眠りをしないようにね。まず資料を配っておきますから、耳の穴をかっぽじって聞きなさいよ。断っておくが、なにしろ、私がジンパ学の研究に乗り出すことになった契機とか、命名者を割り出した根拠など、紆余曲折しないと説明できないのです。3回以上かかかると思うな、いいですね。
 いったい誰が羊肉の焼き肉にジンギスカンという突飛な名前を付けたのか。これまでの講義で、私は駒井徳三命名説は、そもそも満鉄に調査部長なるポストはなかった、とんでもない作り話として否定しました。娘麻田満洲野の思い出随筆は命名者であってほしいという願いのような内容であり、証拠としては極めて弱いことも話しました。まだ、調査部長でないのなら満洲国総務長官だったと、駒井のポストを取り替えて駒井説に固執しているホームページがあるようですがね、まあ、いいでしょう。また、私がだれそれと明らかにしないから駒井だと信じたいという方もいるようです。駒井でないとすれば命名者は誰か、そろそろ示さねばなりませんね。
 私は、ずばり、時事新報社の北京特派員だった鷲澤與四二(わしざわよしじ)だと断言しますね。鷲沢説は、そうですねえ、平成15年ごろ、もうホームページに出ていました。キーワード「鷲沢与四二」で検索すると、いまでも鷲沢が北京の古道具屋でキャッチャーのミットとかマスクのような鉄鍋を買い、羊肉を焼いてみたらうまかったのでジンギスカン鍋と名付けたという話が書いてあるページがいくつか見つかります。
 どんな怪しげな説でも私が知った以上、検討してみて正しければジンパ学に取り込むと常々いってきた通り、2つぐらいでしたかな、見付けたホームページの管理者にメールで出典をお尋ねしました。するとメールマガジン「ざつがく・ザツガク・雑学(1)」の管理者未菜実さんはとても親切な方で「『名前の不思議 面白すぎる雑学(2)』と『雑学全書(3)』だよ」と教えてくだすった。そりゃかたじけないと「名前の不思議 面白すぎる雑学」を探したら、その辺の古本屋にごろごろありそうなのに、ないんですねえ。結局国会図書館へ行かざるを得なかった。そして見たら、前段が「モンゴルの羊肉料理では、鉄鍋なんてシャレたものは使わない。ゲルと呼ばれる移動式住宅の前で、朽ちた大木の穴のなかに肉や野菜を投げ入れて焼くだけ。日本のジンギスカン料理以上に、もっと素朴で豪快な料理なのである。」というのですから、がっくり来ました。文献のエッセンスがこれじゃね、いくら私が現場主義者でもこの本は付き合えません。
 そしてですね、日本のジンギスカン料理と命名したのは新聞記者の鷲沢與四二だ。仕事で中国へ行き、古道具屋で買ったキャッチャーミットのような鍋で羊肉を焼いたらうまく焼けた。「そこで、とっさに彼がつけたのが、ジンギスカン焼という名称。場所柄といい、その豪快さといい、ジンギスカンのイメージにピッタリだったのだろう。
(2)」とあります。
 一応参考文献として22冊を挙げているのですが、元になった記事を見つけたところで、中国で食べたのに、どうして蒙古の英雄の名前を付けたのか。また、鷲沢はどうやって、その名前を広めたのか。もし原本がそれらが書いてあるなら、当然知識として書くと思うのに、何も触れていないのは書いていないのだろう。22冊のネタ本探しは時間の無駄だ。私は、はやばやと諦め、明治の新聞読みに専念しました。
 そう講義してきたのは平成18年度まで、今回からは違うのです。出所がわかったのです。白状しますと、ホームページで公開しているジンパ学の講義録を読んだある人が興味を持ち、鷲沢命名説の出典を知らせてくれたからです。その方はやはり食文化の研究者で、ご迷惑にならないよう東京A氏とさせてもらいますけど、元時事新報記者の多田鉄之助が書いた「食通ものしり読本」に書いてあるよと、その「烤羊炉(カオヤンロウ)」のコピーを送って下さった。濱町濱の家のケースと同様、私が敬語で話していることでわかるように、ありがたかったですねえ。インターネットで天下に公開していて、よかったのです。私もお節介とは思っても、似たようなことをときどきやっていますが、本当に助かりました。
 そこで「食通ものしり読本」です。今いった命名説は「鷲沢さんが北京から帰って来て『時事新報』の編集局で雑談しているときに話の一部を直接、同じ編集局員だった私自身が耳にしたことなので、確実な話です。」と書いてあるのですね。それから大木の穴に肉や野菜を入れて焼くというのは、黒龍王という名刺を持つ満洲の馬賊のリーダーが、日本のジンギスカン料理は本物でないと多田に語った(4)思い出話を、かなり変形した内容とわかりました。冗談でなく、ものがジンギスカンだけに、火のないところに煙は立たずだったのです。食関係の評論家として知られた多田が断言したのですから、一応信用しますよね。
 ちょっと脱線だが、黒龍王なる御仁は多田だけでなく、誰にでもこの類の原始的料理を聞かせたようで、昭和13年の読売新聞に「満蒙の曠野を我家として緑林の荒武者どもを叱咤したことのある黒龍王のお話し―」として、紙の上で焼いた肉が一番うまいなどと語った記事が載っています。そしてね「乾いた家畜の糞を燃料にする満蒙地方では糞の上で餅を焼くが、肉は直接置くと糞がつくので木の小枝を組み合せてその上で肉を焼いた、これがヂンギスカン料理となつたのです。」とね。さらに地面に穴を掘り、米と水を紙袋に入れて蒸し焼きみたいにして炊く(5)、ちょっと信じ難い飯炊き法も語ってますよ。
 さて、そうとわかれば現場主義です。多田のほかの本も調べる。昭和29年に出した「うまいもの」という本に、北京にいた日本人命名説が書いていました。長くもないから読み上げましょう。「牛肉や羊の肉を焼いて食べる一つのやり方に、御承知の『ジンギスカン料理』がある。然し七百年前のジンギスカンの羽振りをきかした時代に現在用いているようなジンギスカン鍋があったわけもないし、よく聞いてみるとジンギスカン料理という名前は北京に住む日本人が、なんとか名前をつけようという結果ジンギスカン料理がよかろうというので命名したので、ほんとうからいったならばジンギスカンとはおよそ縁のないものなのである。(6)」とあります。そして巻狩焼という半円の焼き鍋を考案し、使っていた東京・神田の「ゑびす」という焼き肉店を紹介していました。
 ここで時事新報の編集局で多田が鷲沢の話を聞いた時期を検討してみますか。「食通ものしり読本」では多田がいつごろ聞いたと時期には触れていません。ただ、黒竜王に会ったのは「それから十何年かたちまして、もう太平洋戦争が始まっていた昭和十七年に(7)」と書いているのです。10何年のうちの何年が7年だと仮定すると、昭和元年以降に聞いたことになる。多田は大正11年に慶応を出て、すぐ1年志願兵として近衛歩兵2聯隊に勤務し、関東大震災のときは浅草吾妻橋一帯の治安維持に当たった。(8)兵役をすませて時時事新報に入社したのでしょうから大正13年以降。また時事新報は昭和11年に東京日日新聞に吸収合併されているので、それまでの12年間ですね。鷲沢は昭和7年に代議士になりましたから、もう少し幅が狭まり昭和1ケタの話でしょう。
 この辺はもう少し調べてみますが、キャッチャーミットという鍋のサイズ問題はともかく、鷲沢本人の命名話を聞いたという証言は、この「食通ものしり読本」しかないのですから、東京A氏のご教示はありがたかったのです。以来、私も東京A氏の研究に関係ありそうな情報を見付けたら、参考までと送っているのです。象牙の塔にこもらず、こういう気安いネットワーク作りが大事なことは、皆さん、わかりますね。
 それから、もう1冊の「雑学全書」は札幌市立中央図書館にあります。私が最初見たのは初版第4刷でしたが、参考文献を全く載せていなかった。東京A氏と同じように「雑学全書」は「與四」で「二」が抜けて間違っているよと、メールで光文社編集部にお知らせしておきました。その後で新版が出ているのを見たら、ちゃんと「與四二」に直してある。あれは私が注意してやったからでしょう、多分ね。

  

参考文献
上記(1)の出典はhttp://www.geocities.co.jp/ Bookend/4373/(2)は博学こだわり倶楽部編「名前の不思議面白すぎる雑学」134ページ、平成4年7月、青春出版社=原本、(3)はエンサイクロネット編「雑学全書 天下無敵のウケネタ1000発」598ページ、平成14年9月、光文社=原本、(4)と(7)は多田鉄之助著「食通ものしり読本」236ページ、昭和52年9月、新人物往来社=原本、(5)は昭和13年12月5日付読売新聞朝刊5面==マイクロフィルム、 (6)は同「うまいもの」106ページ、昭和29年3月、現代思潮社=原本、(8)は日外アソシエーツ編「20世紀日本人名事典」1534ページ、平成16年7月、日外アソシエーツ及び読売新聞社編「週刊読売」昭和58年5月1日号58ページ、多田鉄之助「食の昭和史」、昭和58年5月、読売新聞社=原本

 私はクリスチャンではないが、皆さんより遙かに長い人生経験から「求めよ、されば与えられん」という聖書の言葉は本当だと思っています。運に恵まれ役立つ発見をする能力をセレンディピティというが、特定の情報を見付けようと執着する根性があってのことで、しつこさは学問をするうえで、非常に重要な気質なのです。実際問題として、思いつきでもいいから、あらゆる方面から鷲沢に関する資料を探すのです。そのうちに鷲沢情報にぶつかるだろうと信じてですよ。北京にいた時事新報の記者というからには北京特派員であり、当然署名した記事があるだろう。それを見つければヒントがあるのではないか。
 また、インターネットで「鷲沢」を検索すると、なぜか神奈川県大和市がらみのホームページに鷲沢の名前が出てくるので、そちらをたぐっていったところ、大和市つる舞の里歴史資料館にぶつかり、そのころの館長だった、仮にAさんとしておきましょうか。Aさんに鷲沢情報をお尋ねしたことから、資料館にある情報、鷲沢が大和市の林間都市と呼ばれた小田急沿線の土地開発に参画していたこと、子孫のことなどを教わりましてね。私もわかった鷲沢情報を送る、つまり情報交換を始めたのです。
 Aさんは鷲沢がジンギスカンに関係ありそうだからと、Aさん自身が調べた鷲沢年表、大和市教育委員会が出した写真集「大和写真館」、「中央林間を語る」という座談会の抜き刷りなど、たくさんの資料を送ってくだすったのです。これはやはり、インターネットが使える時代だからこそ、素早くできたことです。
 私は北大図書館などで鷲沢情報を探して「長野県百科事典」で見付けた略歴を送りました。また私の友人が「人事興信録」で見つけてくれたものもあります。資料のその(1)が前者で(2)が興信録です。合わせてみると鷲沢の生涯がよくわかると思うので、いまから、それらが載っているきょうの資料を配ります。
 きょうから数回の講義で配る資料はジンパ学のエッセンス。記憶するぐらい読み返してもらいたい。そして社会に出てからね、ジンギスカンを食べつつ、命名者が話題になったときは、北大のジンパ学でこう教わってきたと胸を張って、ぶってもらいたい。私以外にこんなに鷲沢とその相棒の井上一葉を追った研究者はおらんのです。おほん、おほん。

資料その1

(1)わしざわよしじ 鷲沢与四二 1883〜1956 新聞人。上田中学出身、上田中学は野球熱が盛んで、そのマネージャーになり、のちには月刊誌『ベースボール』を出したこともある。慶応大学を終えて時事新報記者となり、長く北京特派員をつとめて中国通となった。軍部の満蒙侵略工作が始まった1930(昭和5)年ごろには、国をあげての対中政策論争のなかでその名が大きく浮かびあがり、1932年代議士に当選したが、その後は落選が続いて引退。昭和恐慌で養蚕業が没落したときには、アンゴラウサギの取り入れに奔走、信州農村の更生策につくした。第二次大戦後は神奈川県に転居、神奈川県公安委員長などに就任した。〈田中武夫〉

(2)鷲澤與四二
        勲四等、東京アンゴラ兎毛(株)社長
        東京府在籍
妻 ノブ 明一九、四生、愛媛、田中次造長女
<養子の記載があるが省略>
東京府人鷲澤由太郎の長男にして明治十六年八月出生大正十年家督を相続す明治四十一年慶応義塾大学政治科を卒業し毎日電報杜時事新報社各記者慶応義塾教員となる
後時事新報社北京特派員として渡支し北京日刊英字新聞ノース・チヤイナ・スタンダード紙を創刊す現時東京アンゴラ兎毛會杜長たり曩に昭和七年長野縣より選出され衆議院議員となる嘗て国際聯盟會議を視察し欧州各国を巡遊又中華民国より一等大緩嘉禾章を贈らる。[家族]<養子の記載があるが省略>

  

参考文献
上記資料その1(1)の出典は信濃毎日新聞社開発局出版部編「長野県百科事典改訂版」856ページ、昭和56年3月、信濃毎日新聞社=原本、同(2)は人事興信所編「第十一版 人事興信録」ワ37ページ、昭和12年3月、人事興信所=原本


 かつてモダニズム文学の旗手といわれた龍胆寺雄という作家がいました。Aさんがこの龍胆寺が鷲沢と親しかったというので、私はジンギスカンに触れていないかと、彼の全集などを読んだ。そしたら「名前の話」という随想で、與四二という珍しい名前の由来を見つけました。
 鷲沢から直接聞いた話として、両親が何人か子供があって末の男の子だし、必要ない子だから死を與える、與四二となったのだそうだ。「死を與えるはヒドい。死ねというのである。兄弟の中でこの人が一番偉くなって、一家を養った(9)」と龍胆寺は書いています。さすがに死という字は数字の四二にしたんですね。少子化のいまなら、もういらんと祈るほど子だくさんの家庭なんかありませんよね。
 また龍胆寺は「奇習奇俗」という随筆の中で蒙古族の「ご馳走は、いわゆるジンギスカン料理。天幕の中央に掘った炉に、羊の糞を乾燥させた燃料の火を燻ぶらせて羊の肉を焼く。調味料は岩塩である。大きく輪形に干し固めたタン茶という中国茶が添えられる。(10)」と紹介しているが、どうも眉唾ものですなあ。鷲沢から聞いた話が元かも知れませんが、天幕の中だと煙たくて、ゆっくり食べておられんでしょうにね。それから鷲沢との関係について「『M・子への遺書』前後」と「私を取り巻く愛情」という作品に書いています。昭和54年に出た長篇自傳小説というべき「人生遊戯派」に両作品が載っており、読めば龍膽寺は昭和10年に大和市に家を建てようとしたとき、鷲沢と知り合ったことがわかります。小田急とも深く関係するこの辺は、また別の講義で話しましょう。
 えーと、資料その1にはありませんが、鷲沢は慶應にいたときは野球部のマネージャーでした。龍胆寺は「『M・子への遺書』前後」に「有名な腰本監督と一緒に慶應義塾の野球部を創設した功労者(11)」と書いていますが、三田ベースボール倶楽部が組織されたのは明治21年であり、2人は仲がよかったことは確かですが、創設期に居合わせたわけではなく、違いますね。
 鷲沢が務めた時事新報は慶應義塾の創立者福沢諭吉が創刊した新聞ですから、紙面も慶應重視というか、三田カラーを強く感じさせます。だから明治40年秋、慶應野球部がハワイのセントルイス大チームを招いたときは、連日紙面を大きく割いて報道しています。10月28日付6面なんか、7段組みのうち5段が「布哇野球選手来着」という歓迎記事で埋まっている。セントルイスといっても、セントルイス・ブルースのセントルイスから呼んだんじゃなくて、ハワイの大学名ですから間違えないように。はい。「曩に遠く慶應義塾野球部に向つて挑戦し来たる強チーム布哇セントルイス カレヂ野球部選手一行の乗込めるサイベリア号は予定の如く二十七日午前七時朝霧を破りて横濱に入港したり」という書き出しで、大きな写真を2枚も入れてます。一行は下船まで検疫などで4時間も手間取り、下船を待ちかまえる在京13新聞社の記者たちのところへ「△マネージヤー鷲沢氏は直ちに体格の円満に発育せる一個の好紳士夫妻を導き来たれり是れぞ一行のキヤプテンたるグリースン氏なり(12)」と、鷲沢の名が出てきます。後年英字新聞を発刊したぐらいですから、学生時代から英会話を習っていたのでしょうね。
 また10月29日付時事新報に「捕手ソ氏の談」という記事があります。記者が面会するまでのことは何も書いてないけれども、同日付都新聞は「●布哇野球団選手談話」という見出しで「健気にも万里の波濤を踏破して遙々日本に来りし布哇野球団の一行を昨日慶應義塾に訪問したるに選手は布慶試合に関する用談ありて在横浜の世話人の處へ行きたりとて捕手のソーアス只一人図書館の二階に在りとのこと慶應方の世話人鷲沢氏の案内にて面会したるに氏は大要左の如く語れり(13)」と、案内役の鷲沢に触れています。この記事は通信社が配信したものらしく同日付朝日新聞4面にも同文が「布哇野球団選手談話」として載っています。
 翌30日付「時事新報」は「布哇対慶應 野球競技準備」という記事があり、29日のハワイチームの練習振りなどを伝えています。その中で「早稲田の選手山脇、押川両氏と鷲沢、櫻井、吉川、高浜の慶應選手は相合して」慶應の次は早稲田とも対戦する日程を決めた(14)と書き、鷲沢は選手にされているが、同日付「朝日新聞」は両チームを一緒に写した写真を掲載し、選手のポジション説明で鷲沢を監督(15)にしているから笑ってしまいます。
  

参考文献
上記(9)の出典は竜胆寺雄著「龍胆寺雄全集」2巻274ページ、昭和59年3月、竜胆寺雄全集刊行会=原本、(10)は同8巻264ページ、昭和60年10月、同、(11)は龍膽寺雄著「人生遊戯派」392ページ、昭和54年12月、昭和書院=原本、(12)は明治40年10月28日付時事新報6面、時事新報社=マイクロフィルム、(13)は同10月29日付同6面、同、(14)は同10月30日付同6面、同、(15)同10月30日付朝日新聞4面、同


 それからね、石井研堂著「明治事物起源」に「野球の木戸銭」という記事が載っています。明治「四十年、聖ルイス大学野球団が慶應の野球団より招聘せられて、来朝の招聘費用は、約八千円内外なりしが、その財源に苦しみ、ために一円、五十銭、三十銭の入場料を徴集したり。これ本邦の野球団にて入場料を取りし始めなり。(16)」と書いてありますがね、10月26日付読売新聞によると、値段が違うんですね。もう少し安い。「猶同塾にては今回の同団体試合に関する諸設備の費用を補充する為め一般観覧者より入場料を徴収する事に決し観覧席を三等に区別し一等六十銭、二等三十銭、三等十銭と定め(17)」たとあります。同日付都新聞も同額で「競技場の等級入場料及び人員左の如し。 一等六十銭(千五百名)、二等三十銭(二千五百名)、三等十銭(六千名) (一等)本塁より三塁迄、子ツトの後方、柔道場の上下 (二等)一塁より銃器室、銃器室の上下、剣道場の前後 (三等)其他一体(18)」と書いてありますし、同月28日付時事新報も同額の入場料を示していますから、少なくとも慶応対ハワイ1回戦の入場料については「明治事物起源」は信用できません。この本は国内初の羊肉の売り出しも書いていますが、私はその日付より少し早い広告を見付けています。石井が知る限りのという条件付きの「明治事物起源」というべきですよ。
 ちなみに60銭の価値はどれぐらいだったか。都新聞の値段は1カ月前金払いが35銭だから、ほぼ2月分ですな。これは毎日の最終紙面の左下隅に出ていますから、出典は示しませんよ。いまの北海道新聞は1カ月消費税込みで3925円。35銭のほぼ1万倍ですから2月分として8000円ぐらいね。都新聞の「物価賃銀の騰貴」という記事をみると湯銭、公衆浴場の入浴料が大人3銭、10歳以上2銭5厘、10歳以下は2銭。また物価の値上がりで豆腐は1丁2銭、油揚げは1銭が相場(19)でした。
 いま公衆浴場の入浴料は都道府県によるけど400円前後。だから、この慶応対ハワイ1等席を入浴料で比べると、20倍だから8000円見当です。ハンカチ王子登場で人気を盛り返した東京六大学野球の一般内野席は900円、札幌ドームでの日ハム公式戦のS指定席でも5000円はしませんから、まあ相当高かったといえるでしょう。
 また10月28日付都新聞は「布哇野球撰手の上京」という記事で「▲歓迎式は多分明日頃挙行すべく入場券は本日より左の場所にて販売し当日は入口にて売渡す由」と、三田の慶応義塾消費組合、当時は京橋区でいまは銀座の交詢社、日本橋の丸善商店など5カ所(20)が書いてあります。この慶応義塾消費組合は、同志社の学生消費組合に次ぐ明治37年創立でね、午前7時から午後10時まで塾生4000人向けに日用品を市中価格より2割安で売るため「三田通の諸商店は大恐慌を来し何れも大奮発にて売品を値下げし居れりといふ。(21)」くらいですから、当然野球の入場券も扱ったのですね。
 10月30日付都新聞5面に「布哇野球選手来朝彙報」があり、その一こまに「▲本邦の野球仕合に入場料を徴収するは今回を以て嚆矢とす若し遠来の敵と戦はんと欲する学校あらば慶応の運動場にて仕合ふべく入場料はやはり慶応の収入にしたしとの希望なるが是れ亦一万円の負担を控ふる慶応に取りては無理なかるべく此事を慶応の鷲沢氏より昨日来観の早大撰手押川河野森本山脇西尾の諸氏に交渉せしに早大側にて無条件に承諾せしかば来月三日以降は早慶代る/\゛外敵に対抗する由(22)」と、鷲沢マネによる根回しを伝えています。
 鷲沢たちが考え出したこの入場料徴収制は、初めてだっだけに問題視されました。読売新聞は「然るに今回の競技に至つては、競技者の学生たるに拘はらず、純然たる興行物の有様を呈し、是まで未だ曾て有らざる有代の入場券を発行して、之を売捌きたるは、学生運動会の範囲を超えて、興行物の中間に入り、競技者もまた学生の身分を打忘れて、商売的興行人と、略ぼ同一の地位に在るの観無きを得ず、或は入場券の発売は、入場者に制限を設け、及び其売上代金を以て、費用の幾部を補ふの必要上、已むを得ざるに出でたりとの説もあらん、是亦た一応尤もなるに似たれども、斯く迄にして、競技会を開かざるを得ざるや否やは、一個の問題なり、(23)」という論説を掲げました。運動はやるべきだが、学生なんだから金もうけに走っちゃいけないぞという論旨でした。
 また11月4日付読売新聞は、第2回戦が雨で延期になったため慶應の選手たちの様子を報じ「又其隣では老将櫻井君とマネーヂヤーの鷲沢君が盛に囲碁を囲み乍ら『幾ら悔やんでも天候が然らしむるのだから施す術がない、まあ一日の骨休めと思つて盛にエネルギーでも蓄積するさ』と相変らずポツン々々々。(24)」、また時事新報も「二階の囲碁、雨中の飛球」という記事で「鷲沢氏野球のマ子ーヂヤーは碁にもマ子ーヂヤーか谷井氏は此鷲沢氏を烟たがつて居る様子(25)」と書いています。
 鷲沢のマネージャーとしての口八丁手八丁の活躍は、マネージャーという仕事の名前を世間に広めたようで後世にも名を残した。その証拠に小学館が平成18年に出した「精選版 日本国語大辞典」の「マネージャー」の項の@は「物事を支配・管理・監督する人。ホテル・バー・レストランなどの支配人や、舞台監督、会社の重役など。」ですがAは「運動部などで、チームの一切の世話をする人。*都新聞−明治四〇年(1907)一〇月一日「慶応野球部マネージャー鷲澤氏の語る所によれば(26)」と書いてあるんだからね。立派、恐れ入りましたというしかない。
 小学館は日国友の会というホームページを通じて、次の「日本国語大辞典」第3版に取り込む新しい用例や項目を募っているのを知ってますか。あれには本か新聞に載っていないと採用されないから、だれか新聞に載ったジンパの用例を投稿してほしいね。私もいくつか投稿しているが、ジンパは手前味噌になるから、やせ我慢しているんだよ。はっはっは。
 ところで、ハワイ組招待予算は当時の1万円ですから、1万倍するといまなら1億円。もちろん慶応義塾というバックがあってのことですが、鷲沢はこの一大プロジェクトを見事やり遂げたようで、ハワイ軍は11月20日横浜からそろって船に乗り、時事新報は11月22日の「野球部彙報」で慶応チームの選手と「マ子ージヤー松田氏応援隊長栗谷氏(27)」に交代したと伝えています。
 読売新聞は彼等の帰国に際して「<略>偉なる哉彼等の技倆壮なる哉彼等のチーム、吾人は其優秀なる技倆を有する聖路易野球團の幸福を羨むと同時に彼等が約一ケ月間我国に在て前後八回の競技をなし幼稚なる我野球界に直接間接の利益を残したる恩恵の大なるを深謝す(28)」と書いていますから、野球の興行みたいであったにせよ、技術吸収という面では大きな収穫があったことは間違いないでしょう。
  

参考文献
上記(16)の出典は石井研堂著「明治事物起源 8」296ページ、平成9年11月、筑摩書房=原本、 (17)は同10月26日付読売新聞*面、マイクロフィルム、 (18)は中日新聞監修「都新聞復刻版 明治40年9月〜10月」315ページ、同10月26日付5面、柏書房=原本、 (20)は同325ページ、同10月28日付3面、同、 (22)は同337ページ、同10月30日付5面、同、 (19)は中日新聞監修「都新聞復刻版 明治40年11月〜12月」41ページ、同11月7日付5面、柏書房=原本、 (21)は明治39年10月17日付東京朝日新聞6面=マイクロフィルム、 (23)は明治40年11月2日付読売新聞1面=マイクロフィルム、 (24)は同11月4日付読売新聞3面、同、 (25)は同11月5日付時事新報9面、同 (27)は同11月22日付時事新報5面、同、 (28)は同11月21日付読売新聞3面、同、 (26)は小学館国語大辞典編集部編「精選版 日本国語大辞典」3巻745ページ、平成18年3月、小学館=原本

 翌年の明治41年、ハワイで「万国野球競技」をやるから日本代表として慶応野球部に来てくれと声がかかるのです。万国といっても國としては地元ハワイがアメリカで、それにカナダ、日本が入る3国だったのですがね。ハワイ側の計画通りだと慶応の学期試験とぶつかるのと、遠征の資金難で難航するのですが、なんとか解決して卒業したばかりの鷲沢が慶応チームの監督になり、ハワイへ遠征したのです。
 鷲沢は明治41年5月、政治科10人のうちの1人として無事卒業し(29)、5月13日の慶應義塾春季同窓会に晴れて出席したことが時事新報の出席者名簿(30)でわかります。その後、遠征関係の記事に鷲沢の名前は見えないのに、いきなり遠征チームの監督は鷲沢と発表されるのです。
 どうも、このころの監督は、いまのようにチームを総合指揮する役目ではなくてチームの代表者を指していたのではないでしょうか。前の年のセンイトルイスの記事でも慶応の監督がだれだったのかよくわからん。新聞記事からマネージャーの鷲沢がね、いまの監督みたいな役目をしていたように思われるのです。卒業した元選手たちは就職したばかりとかなんとか皆二の足を踏んだので、では俺様がやるしかないかと鷲沢が買って出たことが考えられます。
 資料その2はハワイ遠征決定までの時事新報の一連の記事から選んだものです。見出しの文字配置は新聞の紙面通りできないので、簡単にしています。それからね、原文通りなんですが、布哇はハワイと読むのですよ。

資料その2

(1)万国野球競技の企画

昨年八月渡来して我が野球界を活動せし
めたる布哇セントルイスカレツヂ野球団
のマ子ージヤー、グリスン氏は滞在中慶
応選手に向て布哇に來らん事を勧誘した
る由なるが帰国後に至り加奈陀サンタク
ラフの野球団も布哇に来る意ありとの
事に茲に東西の二軍を迎へて万国野球競
技を挙行せんとの議起り数日来各方面に
手を分ちて運動したる結果此程同地ホテ
ルに米国人よりはウツド氏(振興會書記)
マキナーニー氏、スチーア氏、日本人よ
りは運動倶楽部の安藤勝太郎氏、永見俊
氏其他支那人も会合してグリスン氏議長
となり慶応との交渉顛末を語り次で財政
問題に就て協議する所あり近々再び此事
に就て会議を開く筈なる由布哇新聞に見
えたり其後如何に決したるやは不明なれ
ど成立の上は何れ改めて慶応に交渉し來
るなるべく愈々実際となるに至らば近来
稀有の快事と云ふべし
(4月5日5面)

(2)慶応野球選手 渡布確定
   
過日慶応方より問合せたる電報に対し布
哇なるクリースン氏より六月二十八日横
浜出帆のコレア号にて來布せよ人員十二
名に対する一等賃銀横浜東洋汽船会社に
払込みたりとの返電に接したるが六月二
十八日は未だ試験も始まらざる時なれば
七月十七日横浜出帆のサイベリア号にて
出発の旨返電に及びたりと云ふが是れに
て渡布の件は全く確定したるものなりと
(5月26日7面)


(3)渡布慶応選手

慶応義塾野球の選手が布哇に於て挙行す
る万国野球競技に加盟する為め本月廿七
日午後三時横浜出帆のコレア号に搭じて
同地に向ふ由は既報の如くなるが確定せ
る同一行の顔触は左の如し
△選手 高浜徳一   安倍喜十郎
    村上信二   神吉英三
    福田子之助  小山万吾
    佐々木勝磨  亀山万平
    大橋正介   肥後英二
△監督     鷲沢與四二
△マ子ージヤー 斎藤衡平
(6月16日5面)

 結局出発は予定より2日遅れた6月29日になり、新橋駅では慶応の全学挙げての見送りに関取やファンも大勢加わり、さらに横浜の埠頭まで繰り出してね。翌30日の時事新報は見送りの光景を5面の1段と3分の2を割き、6面はトップからの3段半に写真3枚を付けた記事が埋まっていてね、まるで慶応の大学新聞みたいに報道しました。
 チームは7月8日ホノルゝに上陸したので「人々の最も知りたきは其都度電報に見えたる試合の詳説なるべし(31)」と時事新報は「渡布慶応野球試合詳報」の掲載を始めます。さらに斎藤マネージャーが書いた「渡布慶応野球通信」も載りますが、これでは鷲沢が15日の仏教青年会の演説会で「在布哇同胞諸氏の歓迎を多謝し三田学生の意気塾風より精神界に及ぼす関係と布哇に対する感想を述べ(32)」たことぐらいしかわかりません。
 このほかに「慶応野球選手一行が布哇到着後に於ける活動は既に記す所なりしが今又監督鷲沢氏、マ子ジヤー斎藤氏の筆に成る日誌を得たれば左に其大略を摘記すべし(33)」と8月17日の紙面から「渡布日誌」を掲載しています。でもこれは連名なので鷲沢がどこを書いたのかわかりません。
 時事新報は試合ぶりを詳しく書き続けます。そして「七月十一日ブナホ野球団と相見えたるを初めとし自来聖ルイ、カメハメハ、ダイヤモンド ヘツド、サンタ クララ等の諸野球団と奮闘したる慶応野球遠征隊の布哇に於ける成績は諸野球団中第二位にあり(34)」というのですが、中には審判の判定を不服として行った再試合もあり、それをどう数えたのか、私には理解しかねるので、慶大教授の池井優著「白球太平洋を渡る」に6勝6敗(35)だったと書いているので、戦績はそれに従っておきます。
 チームは9月11日帰国したが、ハワイから凱旋と出迎えもまた大騒ぎした。選手たちは一度郷里に戻り、9月18日交詢社で開かれた慶応関係者挙げての歓迎会に臨みます。このときの様子を時事新報は「当時の一行監督鷲沢氏の布哇土産話の約二時間に亘れる物語ありて一同は絶えず腹の皮を捻らせたるが如何に選手の一小団が彼地に渡りて内外より同情ある歓待を受けしや同氏の談中に於て詳かに之を察するを得し始終聴者をして快感を禁ぜざりしめたるは選手を招きて反して選手に歓待されたる如き心地あり鷲沢氏の談話の一節に曰く『吾等が諸彦に対して何が第一の御土産かと問はるればゲームは素よりゲームとしてのものなればスポーツマンライク(遊戯的)に試合へば宜し是迄一般選手が負けて歯噛をなし反て自から驕れるの因を作るは愚の話。オツトその試合という訳字が全体穏かでないのだと亦た悟れりといふべし(36)」と伝えています。
 2時間の漫談、大学を出たばかりでこれですからね。後年「日本雄弁家名鑑」に選ばれた364人の1人として資料その3(1)のように書かれたのも当然でしょう。また話が長い方でも知られたようで同(2)の逸話があります。ただこれの引用元の「文芸春秋」の発行年月が書かれていないので、資料の発行順にして置きました。鷲澤も出席したジュネーブの国際会議は昭和10年でしたから、この本が出た昭和14年迄の4年間の文春にあるはずで、いずれ巻号をはっきりさせますが、とにかく鷲沢は大変な話術の持ち主だったことは間違いない。

資料その3

(1)  鷲澤與四二

 時事新報政治部記者より身を起して、昭和七年の選挙に打つて出て始めて、民政党代議士に當選した。慶大政治科、四十一年の卒業である。在学當時は、野球部のマネージヤーとして、知らざるものなく、名前は分らなくても、顔さへ見れば、あれが慶応のマネージヤーだと指示されたもの。曾て時事新報社より北平に特派された。後、同社客員となり、北平に燕塵社を経営し、現在に及んでゐる。
 壇上の姿は、眉太く、相迫つて、顎がぐつと突出てゐる、一見老成の風貌、而して説き來るところも、温藉の言、平明の辞、聴衆を首肯せしめる力を有つてゐる。年五十三歳。


(2)  日本長口舌三人男
              (文芸春秋より)

 ジュネーブ会議から帰朝された帝国全権松岡洋右氏が『鷲澤君が居たので一寸も退屈しなかつた』と大いに鷲澤氏の長口舌に舌を巻いたとの事だが、其の鷲澤氏が『よく喋る男』として敬服している人に本多熊太郎氏がある。
 松岡、本多両氏の長広舌も有名な話だが、鷲澤氏の長広舌も相当なもので、氏の講演会は大概三時間から五時間を要する。政治、外交、経済の全般に諧謔、諷示を加え縦横に説き来たり、説き去るのだ。
 或る日此三人が一堂に会したことがあつた。各々他を制し自論を固執するので尽きない。そこで側の人が次の様なことを言つた。
 『今日はゆつくりやれ、併し銘々が勝手にやつたんでは結論を得られないから、先づ二十四時間を三つに区切り、一人八時間宛にしたら如何だ』
 そして小さな声で『さぞ喋り栄えがするだらう』

 鷲沢が「自分が大毎社から引き抜かれて、今度は時事新報の北京特派員として赴任するに就いては(37)」と書いた本があります。大毎というのは大阪毎日新聞の略称ですから、資料その1(2)の毎日電報社は大阪毎日新聞社の誤り、慶応の教員は監督が無職じゃ恰好がつかないから、慶応の先生ということで出掛けたんじゃないかなあ。帰国から北京着任までほぼ1年、その間大阪毎日で書きまくったのでしょう。
 この毎日電報という新聞社は明治44年に東京日日新聞社に合併され、その東京日日新聞社は昭和11年に時事新報社を吸収合併しています。このあたりを調べるために毎日新聞のホームページで沿革を見ましたら、なんと新渡戸さんが昭和4年から毎日新聞の顧問を務め「1933年カナダで客死するまで英文毎日の監修に尽力。(38)」と写真入りで書いてありました。知りませんでしたね。
 鷲沢が明治42年に北京に行ったことは、務めた時事新報にですね、特派員交替の記事が並んで載っていますから確実です。それを資料その4で見て下さい。(1)がそれですが、自社の特派員なのに氏を付けて、まるでよその社員みたいな扱いというか、他人行儀な書き方をしていますよ。紙面でも左下の方に並べて組んであります。はい、見て下さい。亀井氏に7年も北京勤務をさせておいて、久しく出張というのが、なにかユーモラスですね。何年いたら転勤というような暗黙の決まりみたいなものがなかったのかも知れません。
 ちょうど10月26日に元首相伊藤博文の暗殺事件が満洲ハルピンで起こったときでありまして、満洲、支那各地の特派員は関係記事を打電しているのですが、北京発では同(2)の記事があります。日付から見て鷲沢が北京から送った初の原稿ではないかと思われます。北京と特電に黒丸が付く珍しい見出しになっているのは、そのせいだろうと思うのです。
 これは玄関ダネともいわれる類の記事で、公使館だと要人が次々と出入りするから、昨日はどんな方々が来ましたかと聞けば即書けます。着任挨拶方々初めて公使館を訪れた鷲沢が手始めに書きそうな記事だからね。

資料その4

(1)
○亀井陸良氏 本社員亀井陸良氏は去る明治三十五年以来本社特派員として久しく北京に出張し居たりしが今欧米を漫遊することゝ為り来る十一月初旬横浜出帆の北野丸にて出発する筈
○鷲沢與四二氏 本社員鷲沢與四二氏は亀井陸良氏に代りて北京特派員と為り十九日午後六時三十分新橋発汽車にて出発、二十一日神戸発大信丸にて赴任す


(2)
北京の来弔者

北京(●●)発十月二十七日午後特電(●●)
伊藤公の遭難に対し仏国代理公使ボアソナ氏は昨夜我公使館を訪うて弔辞を述べたり 又外務部尚書梁敦彦(りやんとんちやん)氏は本日午前清国政府を代表して来弔し其他清国大官各国公使等来弔者引きも切らず公使館は頗る多忙を極め居れり

 ついでにいっときますが、全国の古い新聞の原紙またはマイクロフィルムがどこにあるか、創刊はいつかなどを調べるのには、国立国会図書館主題情報部新聞課が作った「全国新聞総合目録データベース」を調べるとよろしい。キーワード「新聞目録」でgoogleはもちろんgooでも出てきます。お薦めです。
 里見クは「満支一見」で、北京の正陽楼でジンギスカンを食べた話を書いている。私は鷲沢が本命ではないにしても、北京に長くいた人ですから、必ずやジンギスカンに関係しているか、書いているに違いないとにらみましたね。
  

参考文献
上記(29)の出典は明治41年5月11日付時事新報3面=マイクロフィルム、 (30)は同5月15日付同7面、同、 資料その2(1)は同4月5日付同5面、同、 同(2)は同5月26日付同7面、同、 同(3)は同6月16日付同5面、同、 (31)は同7月30日付同6面、同、 (32)は同8月3日付同7面、同、 (33)は同8月17日付同5面、同、 (34)は同8月25日付同5面、同、 (35)は池井優著「白球太平洋を渡る 日米野球交流史」69ページ、昭和51年10月、中央公論社=原本、 (36)は明治41年9月19日付時事新報6面=マイクロフィルム、 資料その3(1)は大日本雄弁会講談社編「創刊二十五周年記念 日本雄弁家名鑑」雄弁26巻4号附録197ページ、昭和10年4月、大日本雄弁会講談社=原本、 同(2)は鷲澤與四二著「アンゴラ飼育と現金収入」41ページ、昭和14年7月、国策新報社=国会図書館インターネット本、 (37)は日笠正治郎編「国士亀井陸良記念集」405ページ、鷲沢與四二「六翁の追憶」、昭和14年3月、国士亀井陸良記念集編纂委員会=原本、 (38)はhttp://www.mainichi.co.jp
/annuncio/enkaku.html、 資料その4(1)は同10月20日付時事新報7面、時事新報社=マイクロフィルム、 同(2)は同10月28日*面、同


 さらに北京と鷲沢を捜しているうちに、思いがけない文献にぶつかったのです。それは道新の「探偵団がたどるジンギスカン物語」で、ジンギスカンの権威と引っ張り出された道立中央農業試験場の高石啓一さんが、平成14年の「畜産の研究」に発表した論文「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」でした。その中で「中国の北京料理といわれる『烤羊肉』は、大正時代にすでにあり実際に日本人が賞味している記事が多々あった。日経新聞のコラムでは、入江湊氏(当時現拓殖大学理事)が中国での生活が長く、北京での仲間達との一緒に正陽楼で『烤羊肉』を食べた時の様子を詳細に記述しており、柳の枝をいぶして煙の中で食したとある。(39)」と書いてあったんです。
 さすが高石さん、権威といわれる方だけあって、私のこの講義の開講を思い付く前から資料を集めていたんですね。ぜひ、私も検討せにゃならんと思ったのですが、その論文の参考文献では16番目に「入江湊著:日経新聞所収「ジンギスカンの由来」、(掲載年月日不詳)、東京(40)」とあるだけなんです。思うに高石さんは記事の切り抜きのようなものは持ってはいるけれど、それには日付が書き込まれていないらしい。とすれば高石さんに日付を伺っても答えようがないでしょう。
 出所は日経とわかっているのだし、自分で探すしかない。仕方がありません、北大図書館に行き、2階の縮刷版コーナーで、あの重たい縮刷版を1冊ずつ、ずーっと見ていきました。題名「ジンギスカンの由来」とその内容は随筆らしい。私は日経の最後のページ、あそこは文化面というのですが、あそこに載った記事に違いないと推測した。あそこは「私の履歴書」という人生回顧録と大人向けの小説が定番です。例えば私と同期の渡辺淳一の「失楽園」。話題作でしたね。いま同期といったけれど、彼は昭和27年度入学で理類14組、学生番号270822番、本当ですよ。そのころは理類2年目で単位がそろっていさえすれば、だれでも医学部と札幌医大を受けることができた。そのとき彼は札幌医大を選んだということですね。
 あっ、脱線しちゃったが、日経の文化面はそれら定番の小説プラス珍しい本を出したとか、伝統行事を守る苦労話なんかを、いいタイミングで関係者に原稿を書かせている。真夏になると、なぜか北海道の人に原稿を発注する傾向があるように思いますがね。文化担当の記者が含蓄のある記事を書いたり、文句なしに面白いページです。
 ともあれ何日もかけて探してね、遂に入江さんの記事を見つけた。昭和38年11月28日付16面でしたね。題名は「ジンギスカン料理由来」と高石さんの参考文献とちょっと違っていました。副題は「◇明治の終わり、北京での試食から◇」で入江さんの名前には「いりえみなと」と振り仮名がついており、顔写真も載っていました。(41)
 本来なら全文を資料として読んでもらいたいのですが、日経は著作権問題に非常に敏感な新聞社でありますので、出所の明示を定めた著作権法第48条に基づいてですね、粗筋を紹介し、引用は許容範囲内と私が考える長さにとどめます。
 48条は本文と引用部分が明らかに区別(42)できるよう求めているが、元々わが講義録は書体と色で区別をしておりますし、引用元が「日本経済新聞社が昭和38年11月28日付で発行した日本経済新聞の朝刊紙面の16ページ」という場所に公表された著作物(43)であることをここに繰り返し明示し、さらに参考文献としてこの下の方にもう一度、出所(44)として書きますからね。人生、これコンプレックス、じゃないコンプライアンス。念には念を入れよ―ですよ。
 私は法律には明るくないのでわからんが、多分、著作権法第48条の条文引用それ自体も、そうしなきゃならんのでしょうが、30条から47条まで第何項の規定と数字がたくさん入る長いものなのです。だから「平成18年3月に有斐閣から出版された菅野和夫ほか3人編『六法全書U 平成18年版』の6392ページ(45)」に書いてあることを明らかにして、ご勘弁願うことにします。こうしておけば、日経さんも私が著作権法を徹底遵守していることは理解してくれるでしょう。はい、入江随筆の内容をより詳しく知りたい人は、図書館の縮刷版で読むように。昭和38年11月28日の日経最終面です。いいですね。
 入江随筆は5つに区切られ、見出しが付いています。こういう小見出しは、筆者ではなくて新聞社側が区切りを入れ、文意に合った短い見出しを付けることが多いですね。第1章が「ラーメン同様日本製」で、ジンギスカンはラーメンと同じく本場の中国人には通じない名前の食べ物だと説明しています。第2章は「中国でざっと四十年」で、入江さんが拓殖大学の前身である東洋協会専門学校を明治40年に出て横濱正金銀行に入り、中国に渡り昭和24年までいた(46)と記してます。
 入江さんの経歴は昭和元年に出た「支那在留邦人興信録」に載っていまして、そのときは日本人が3000人以上住んでいた漢口という都市の漢口銀行専務取締役になっています。出生が明治19年1月。「入社後横濱本店及び北京、漢口各支店に勤務(47)」とありますから、本店に1年ぐらい見習いをしてから北京へ渡ったとすると、24歳から中国にいたことになり、この原稿を書いたときは77歳だったとわかります。
 そうそう、この興信録には鷲沢も載っておりましてね、すぐそばに外務省天津総領事の名前がある。だれだと思いますか。後の総理大臣吉田茂ですぞ。はっはっは。そこでは鷲沢は「四十二年來時事新報北京特派員として北京に駐在せしが民国八年英文日刊新聞ノース、チヤイナ、スタンダード社を創設し、発刊以来穏健迅速の報道を緯とし正義公論の木鐸を経とし以て社会奉仕の為めに貢献する極めて大なるものあり(48)」と持ち上げられています。戦後出た「歴代国会議員名鑑」は、鷲沢が「北京新聞・北京燕塵・ベースボール各社長、時事新報顧問となり、東京アンゴラ・東京繊維興業・東京化学産業・東京繊維・国策新報各(株)社長となる。昭和7年第十八期衆議院議員に当選し、国民同盟に所属する。(49)」と、鷲沢の職歴を挙げています。
 鷲澤が発行していた野球雑誌「ベースボール」は、webcatで検索すると筑波大体育・芸術図書館に7冊と日体大図書館に60冊保存されていますが、それによると創刊は昭和5年10月です。朝日新聞の広告をみると昭和6年3月号は「飛躍せる三月号!! 本誌を見ずして野球を語る勿れ」とあり、鷲澤が「野球今昔物語(二)」、北京で英字新聞を一緒に作った腰本壽が慶大野球部監督として「定石について」を書いている(50)とわかります。ライバルは博文館の「野球界」で、新聞への広告回数も多く「ベースボール」の終刊はわかりませんが、昭和8年を超えたあたりで「野球界」に圧倒されたのではないでしょうか。
 はい、入江さんの随筆に戻ります。第3章は「すき焼きにもあきる」。明治43、44年ごろ北京に日本人が600人ぐらいいた。若者は北京公使館と陸軍駐在武官宅の間にコートを作りテニスを楽しんだ(51)そうです。昭和17年に出た「大衆人事録」の改題複製した「昭和人名辞典」に、入江さんの趣味はゴルフとテニス(52)と載っていますから、北京でもコートの常連だったんでしょうね。
 入江さんたちはテニスの後、コートにアンペラを敷いて、すき焼きを食べた。しかし、秋になり、テニスコートでは寒いので、何かすき焼きに代わるものを考え始めた(53)というのです。おほん、このアンペラというものはね、満洲では高粱(コウリャン)という赤い実のなる背の高い植物の茎の皮を編んだ薄い敷物を指していました。日本なら安い茣蓙か筵ですね。でもアンペラ()という草で編んだ筵というような定義もありますので、北京では原料が違うかも知れませんが、地べたに敷いてもいい程度の、あまり上等ではない敷物です。
 第4章の小見出しは「四等料理屋へ試食に」です。井上一葉という食通の新聞記者に会ったので、入江さんがすき焼きに代わる食べ物を相談した。すると井上が羊のすき焼きを食べられるかというから、勿論食べられますよと答えたことから、ある日7、8人で井上が「きたないところだぜ」と案内した料理屋に繰り込んだ。そこは最下層の労働者の出入りする店だった。入江さんは鷲沢には触れていないけれども、井上は「弁髪、中国服という姿で北京を歩き回る中国通」と形容しているのです。(54)
 第5章は「天長節に公使館でも」ですが、ここの先頭から一部を引用させてもらい、資料その5の(1)にしました。ひらがなが多く、ちと読みづらいが、原文の通りですからね、あしからず。はい、読んでください。

資料その5

 (1)
 店にはいると、まんなかに鉄の棒をはったような大きいなべがすえられ、そのまわりに長方形の台がある。台はいすのつもりらしいが、そこにまともにすわっている客などひとりもいない。足を半分乗せたりのせていたり、台の前につったったりして、なべをとりかこんでいる。
 料理をたのむと、一人に一さらあてで羊肉とねぎやにんにくがはこばれ、羊肉を長い五十センチほどもあるはしでなべにのせ、あぶり、適当なところでしょう油ざらにとって食べる。
 火もとの炭が柳の根で作ったもので、煙がもうもうと立ちのぼるから、なべをかこんでいても落ち着きはらってはいられない。煙をよけよけ、はしをあやつる有様だ。
しかし、羊の肉はうまかった。みんなは大いに満足し、よろこんだ。


(2)
 このとき、この料理は古くからある羊の食べ方で、たぶんジンギスカンのむかしからうけつがれたものだろうと、話し合った。以後この料理は公使館の名物になり、北京公使館を訪れた人から内地にこれが伝わった。それが今日のジンギスカン料理の名が出た由来なのである。

  

参考文献
上記(39)の出典は養賢堂編「畜産の研究」57巻10号95ページ、高石啓一「羊肉料理『成吉思汗』の正体を探る」、平成15年10月、養賢堂=原本、 (40)は同98ページ、同、(41)と(46)と(51)と(53)と(54)と資料その5(1)と同(2)はいずれも日本経済新聞編「日本経済新聞縮刷版」15巻11号688ページ、入江湊「ジンギスカン料理由来」、昭和38年12月、日本経済新聞社=原本、 (42)と(43)と(44)と(45)は菅野和夫ほか3人編「六法全書U 平成18年版」6392ページ、平成18年3月、有斐閣=原本、 (47)は芳賀登ら編集「日本人物情報大系」第11巻439ページ、「支那在留邦人興信録」、平成11年10月、皓星社=原本、 (48)は同422ページ、同、 (49)は「歴代国会議員名鑑」編纂委員会編「歴代国会議員名鑑 上巻」1305ページ、平成7年2月、議会制度研究会=原本、 (50)は昭和6年2月13日付朝日新聞1面=マイクロフィルム、 (52)は日本図書センター編「昭和人名辞典」4巻**ページ、昭和62年10月、日本図書センター=原本、


 その後、間もなく明治天皇の誕生日を祝う天長節になる。私は昭和天皇の時代でしたから、天長節は4月29日、いまのみどりの日でしたが、入江さんは明治の話ですから、私らの明治節、11月3日、いまの文化の日が当時の天長節だった。北京公使館では民間人を大勢招待して、模擬店でご馳走する習わしがあり、ことしは変わった趣向をしたいと公使館がいうので「先日の料理を」と紹介した。それで公使館が入江案を取り入れ、当日は廊下に4つの鍋が用意された。集まった皆は料理の名前はわからないけれど、とにかくうまいと食べた。
 第6章は「いつか内地へ伝わる」で、その冒頭部が資料その2の(2)です。この後は、入江さんが秋になると、また羊を食べる季節だと感じるようになったという話で終わっています。末尾の肩書きは「拓殖大学理事・学友会会長
(55)」となっています。
 さて、入江回顧談で、入江さんは井上一葉に連れられて正陽楼に行き、初めて羊の焼き肉を食べた。それが北京公使館の天長節パーティーの模擬店の料理として現れ、ジンギスカンのころからある料理だろうというようなことでジンギスカン料理と呼ばれ、日本国内に伝わったという筋道が、かなり明確になってきましたね。
 ただ、入江さんは明治四十三、四年ごろにさかのぼるとは書いてありますが、何年の天長節と明記していません。でも、入江さんは大正8年12月に漢口支店詰として横浜正金銀行調査報告第12号「河南省鄭州事情」を書いているので、公使館の試食時期は明治43年から大正8年末までの間と、かなり絞られてきます。報告書は鄭州に於ける綿、落花生、牛皮の集散状況を19ページにまとめたもので、発行は9年3月(56)になっています。
 しかし、回顧談に鷲沢のワの字も出てこないのは、お互いに知らなかったのか。鷲沢はテニスグループにいなかったのか。井上は何新聞の記者だったのか。そのころの北京の日本人社会の様子を伝える記録などはないのか。こうした疑問に答えられないといけませんよね。
 私は北京の在留邦人の動静を知ることから始めました。ひらめいた単語をキーワードにして検索を繰り返す、私は犬も歩けば棒に当たるというあのカルタの文句に因んで、犬棒検索と称しています。犬も歩けばには2つの意味がありますが、私のは思いがけずよい情報にぶつかる方ですよ。北京と組み合わせていろいろやってみました。そしてですね「TOKOTOKO」というホームページに奈良大の森田憲司先生が書いた「明治四一年のお正月」という記事から、そのころ北京にいた日本人たちが「燕塵」という同人誌を出していたことを知ったのです。この記事はいま「TOKOTOKO」には載っておらず、それに主立った在住者の名前や関係などを大幅に加筆したと思われる「『燕塵の日々』明治四十年代の北京」が「彷書月刊」という雑誌のバックナンバー(57)で読めます。
 エンジンといっても検索エンジンや車のエンジンとは違うんです。鳥のツバメ、それに塵埃の塵、チリの方です。北京は古くから燕京という雅称で呼ばれました。雅称とは俗称の反対、わが北大構内をエルムの森というように、風流な呼び方をいいます。ジンパの森は俗称かも知れんが、まあ大いに売り込みましょう。それから塵、いまは少し変わっているかも知れませんが、当時の北京は強い春風のために、ものすごい砂埃に見舞われる。それらで北京を象徴して、雑誌の名前にしたんですね。
 そうとわかれば北大図書館です。文学部図書室に近代中国研究センター編「中国関係日本文雑誌論説記事目録1」があります。それに月刊誌「燕塵」の総目次が載っており、明治41年1月号から45年3月号まで、通算すると5年間に49号まで出して終わった(58)とわかります。編集は明治39年から8年間北京郵便局長を務めた杉野耕三郎(59)という人が引き受け、このため杉野さんは燕塵局長というニックネームを奉られたくらいです。
 しかし、また大正6年9月から復活し、10日ごとか20日ごととちょっと不定期で7年5月号までの20号を発行して終わる(60)。正確には、同じく北京で発行されていた別の週刊誌と合併・改題したのだけれども「燕塵」は姿を消したと覚えておけばよろしい。
 この記事目録1そのものが、東京・白山にある東洋文庫が所蔵する3種の雑誌を対象としたものですから、東京へ出かけるしかありません。後で知ったのですが、国会図書館でも明治41年1号から45年1号までがマイクロフィルムで読めます。東洋文庫は貴重な古書がたくさんあって管理は厳重です。昼休みが30分あってね、その時間帯は閲覧者は本を机に置いたまま室外に出るのが決まりです。どうでもいいけど、こうした昼休みのある図書館は、私が知っているのは、もう一つアウトソーシングする前の農林水産省の図書館でしたね。
 「燕塵」創刊号のあとがき「天下同好に告ぐ」は「燕塵発行の趣旨は、筆写を印刷に代へ、相互の間に分て、北京に於ける出来事は勿論、是に関係する事々物々、大は国家の休威に関し、小は個人の利害に伴ふ所有事件の報道を専らとし、傍ら風雅の道を辿りて、光風霽月、以て俗情を脱し、或は奇言怪語を弄して、滑稽詼諧、以て人の頤を解き、時には暗々裏に彼れを諷刺し、時には明々地に是を警告す。一言にして之を謂へば、燕塵は我等同人の紙上倶楽部なり。(61)」と書いています。テレビや映画のない時代です。酒ばっかり飲むのは体に悪いし、暇つぶしをなにか書こうよ。清国の政治情勢と邦人社会の動静記録を中心にして、いまのブログに書き込むみたいな感覚で発行していたんじゃないでしょうかね。

  

参考文献
上記(55)の出典は日本経済新聞編「日本経済新聞縮刷版」15巻11号688ページ、入江湊「ジンギスカン料理由来」、昭和38年12月、日本経済新聞社=原本、 (56)は横浜正金銀行調査報告第12号「河南省鄭州事情」1ページ、大正9年3月、横浜正金銀行=近デジ本、 (57)は「彷書月刊」227号22ページ、森田憲司「『燕塵の日々』明治四十年代の北京」、平成16年7月、彷徨舎=原本、 (58)は新支那社編「新支那」73号11面、大正2年8月24日、新支那社=原本、 (59)と(60)は近代中国研究センター編「中国関係日本文雑誌論説記事目録1」=原本、 (61)は燕塵社編「燕塵」第1年1号41ページ、明治41年1月、燕塵社=原本


 鷲沢着任はこの「燕塵」でもわかります。明治42年11月号の「北京通信」に「○鷲沢與四二氏着任 時事新報社特派員亀井陸良氏の後任として同氏は二十七日着任あり、同氏は慶應義塾卒業後毎日電報社に在りて操觚業に従事し居られたりと、余輩は茲に又一人の友人を得たるを喜ぶ者也、(62)」とありますし、翌12月号の「北京通信」には学士グループの二十一日会に迎え入れられたと報じて「○二十一日会 本多、神田二氏の幹事にて、例の林ホテルに開催せらる、来賓には新入会の時事特派員鷲沢與四二氏あり、本日は幹事の発議にて気焔抜きとし平話暢談の裡に閉会せり(63)」と書いてあります。操觚業とは物を預かる倉庫業者ではありませんよ。物書き、文士、記者のこと、横文字でいえばジャーナリストですからね。
 興信録では、入江さんがいつから北京勤務になったか、はっきりしませんし「燕塵」でもわかりません。ただ入江さんは明治40年に学校を出て、2年間本店で見習い修業したとしても鷲沢とどっこい、1年で中国転勤なら文句なく先ですから、多分鷲沢よりは先に北京支店に来ていたと思われます。
 明治44年の3月号に「北京日本青年会記事」が載っています。この青年会は日本人大運動会や遠足会の開催など「よく遊ぶ」ことを主力にして結成された。しかし、43年に北京体育会が発足して体育行事はそっちに移り、活動が低調になったので、有志が立て直しを図ろうと集まり「会則を決定し、会長、副会長及幹事を剪定し、大会開催の件、賛助会員及顧問推選の件等を高宮、安藤、鷲沢、神田、杉野、中川、入江の各氏に委託せり、」とあり、初の幹事会で「会計事務に関しては幹事会より之を正金銀行の入江湊氏に嘱託したり、(64)」と伝えています。私の調べでは、入江さんの名前が出てきたのは、これが初めてですから、遅くてもこのころ鷲沢と顔見知りになったことは確かでしょう。
 4月号の「北京通信」に「○正金銀行入江湊氏新令夫人を迎へて二十三日日本より帰任す(65)」とありますから、それまでは独身で「支那在留邦人興信録」に基づけば、4つ違いの操子さんとの結婚が決まり、この春日本に戻って式を挙げ、新婚旅行よろしく北京に連れてきたのでしょう。
 5月号には「○北京テニス會 同會は十四日(日曜)午後一時会公使館邸内コートに於て開催せらる、入江氏の審判の下に第一回は七ゲーム第二回は紅白勝負をなし、余興として五組抜きのゲームを行ひ喝采裡に競技を了り、やがて入賞者に夫々賞品を授与して散会せりと(66)」とあります。入江さんは奥さんをコートに引っ張り出し、コーチするようなシーンもあったかも知れませんなあ。44年10月号にも「○庭球会 二十二日公使館庭内『コート』に於て秋季庭球大会を催し盛会なりき(67)」とあります。9月でもプレーできたというわけね。
 話が前後するけれど、私は基礎調査として、まず前期の「燕塵」の総目次をもとに、41年から45年までの49号の寄稿者数を数えてみました。英単語をカタカナ書きして、その区切りに点「・」、中黒とかナカポツといいますが、その中黒が「・・・同人」と「・・同人」という・1つの違いも別人と見なしたら、ちょうど380人でした。この中に井上雅二という名前はありますが、鷲沢はありません。なぜなら殆どペンネームを使っていたからです。パソコン通信じゃハンドルネームで呼び合いましたが、やはり本名と筆名の対応を知るには東京に行って「燕塵」を全部読んでみるしかない。
 その結果、井上一葉は一葉と素直に名乗っていたので、すぐわかりましたが、鷲沢はわからん。一つのヒントは3月号の「帰省中の珍妙坊の消息」でした。4月3日の日付印で、久々の江戸見物で道に迷い、連れに冷やかされた。「支那と日本との比較は、生ミルクにコンデンス位か存候、矢っ張り支那が恋しく候、(68)」という友人宛の短信が載っていまして、5月号に「○一時帰朝中の時事新報社北京特派員鷲沢與四二氏は九日、帰燕せり(69)」とあるので、珍妙坊かも知れないと思いながら読んでいったら、前期「燕塵」では、それで通していました。このほかに南萍とも名乗り、後期「燕塵」ではこれを主にしていますし、別の週刊紙では如是坊とか珍坊と名乗って執筆しています。何度も読んでわかったことですよ。
 それから入江随筆の天長節は明治40何年のことなのか知りたいですね。運良く明治44年の天長節は、清国公使伊集院彦吉の日記に書いてあったのです。それによると、11月3日の天候は晴れ「(例により天長節好天気。風なし)午前例により館員、軍隊、小学校、居留民の揺拝式を行ひ、駐屯軍分列式に臨場。正午軍隊、居留民傍会食あり。何れも盛会。唯当国の事局困難に際したるの折、多少の遠慮は必要と認め夫々注意し置きたるより、例年よりは静穏に之を行ひたるは邦人の体度として当然なるを覚へたり」と書いています。これでは型通りでしょうね。でも晩にも祝賀行事があったのです。日記の後半に「夕刻より居留官民主なる人々百五十名計を当館に案内聖寿奉祝の宴を開く。何れも来館盛会。寺田書記生の苦心せる各種の装飾は大に賞賛有之。唯時節柄例の如くならざる静穏なりしは当然なり。散会も早かりし。(70)」となっていて、模擬店のような趣向がうかがえません。やっぱり駄目です。
 伊集院公使は大久保利通の娘さんと結婚していた。大久保は緬羊を飼うことを提言し、下総に大規模な官営牧場を造り緬羊を輸入して飼育研究を始めさせた先覚者ですから、伊集院はまったく羊と無縁ではなかったといえますよね。ちと苦しいかな。北京では「きたないところだぜ」と井上がいった正陽楼には行かなくても、外交官の宴会などで羊肉を食べることはあったでしょう。
 職歴を見ますと、明治26年から支那の芝罘(チーフー)をはじめ、天津などにも勤務しました。特命全権公使になったのは明治40年で、大正3年まで8年も北京にいたのです。「余強記にあらさるも今日迄其しき不便を感せざりしも、年長し雑務益々輻輳するに至り、記憶漸く衰へたるを覚へたるを以て、茲に日記を認めることゝせり。(71)」ということで44年の10月から書き始めたのです。だから43年以前の記録がない。やあー、残念でした。
 その前のことなのですが、北京の日本公使館の建物そのものは明治42年に建て替えたのです。明治42年11月4日付「都新聞」に「◎北京の祝賀会 例年の通り日本公使館に於て聖影建拝式あり駐屯軍の分裂式<原文のまま>あり在留邦人の祝賀会あり夜は新築の公使館に於て夜会を開く(72)」と短いが「燕塵」には蓑虫庵が「午後八時より伊集院公使及同令夫人の案内にて、新築公使館に於て、天長節祝賀会を開催せらる、館は今正に工を竣れるもの、客室、食堂何れも善尽くし美尽くすの観あり、殊に其客室の如き光琳風に空、山、水を夫々色分けとしたる塩瀬織を以て周囲の壁を綵り、身恍として山水の裡に逍遙するの感あり、(73)」と詳しく書いています。いずれにしても42年秋は新築早々、煙もうもうのカオヤンローは部屋が汚れると即座に却下ですよね。
 どんな建物だったか見たい人は、国会図書館の近代デジタルライブラリーにある中戸川孝造編「北支那大観」という写真帳の55コマを開きないさい。大正6年ごろの公使館正門、玄関前庭、貴賓室の写真3枚があります。同ライブラリーは大正時代の本などの写真をより鮮明に見えるように改善しましたから、これならテニスコートぐらい作れそうだと納得するでしょう。

  

参考文献
上記(62)の出典は燕塵社編「燕塵」第2年11号35ページ、明治42年11月、燕塵社=原本、 (63)は同第2年12号36ページ、同、 (64)は同第4年3号39ページ、同、 (65)は同第4年4号42ページ、同、 (66)と(69)は同第4年5号38ページ、同、 (67)は同第4年10号28ページ、同、 (68)は同第4年3号42ページ、同、 (70)は社団法人尚友倶楽部・広瀬順晧・桜井良樹編「伊集院彦吉関係文書」1巻98ページ、平成8年12月、芙蓉書房出版=原本 (71)は同67ページ、同、同、 (72)は中日新聞監修「都新聞復刻版 明治42年11月〜12月」***ページ、同11月4日付*面、柏書房=原本、 (73)は燕塵社編「燕塵」第2年12号25ページ、明治42年12月、燕塵社=原本


 ここで話の筋道を北京から北大に戻して、佐々木道雄著「焼肉の文化史」という本に掲載されている鷲沢・井上命名説を紹介するために、大きく迂回します。もう一つ、そのために我がジンパ学の講義録公開の経緯について、先に話しておきましょう。
 そもそも、私の講義録は北大文学部同窓会のホームページ「e楡文」、イーユブンと読みますが、その中で公開したのが始まりなんです。きっかけは北海道新聞が未年、平成15年の正月に連載した「探偵団がたどるジンギスカン物語」に北大がまったく出てこない。ジンパという北大語が使われ、ジンパと聞くと学生も先生も目の色が変わる。北大生協も七輪貸し出しのジンパセットを売っているくらいですよ、ジンギスカン好きがウヨウヨいる我が北海道大學をだ、まったく無視したことです。私は怒りましたね、森進一に対する川内康範ぐらいね。
 探偵になった記者が北大OBではなくて、全国大学生協に例がないから、ジンパセットを知らなかったとしてもだ、駒井先輩の命名説にしても、北大で取材した形跡が全くない。いや、だれかに電話ぐらいしたかも知れんが、とにかくわが北大を無視しておって怪しからん。もう一つ、こんな伝説の繰り返しみたいな記事を書くようでは誠に遺憾。ジンギスカン料理は奥が深いから、道新が道警裏金事件でやったように、丁寧な調査報道でなきゃいかんのだ。
 あの鉄鍋は蒙古兵士の兜をかたどったものだなんて、世の中にはアホなことを信じる人たちが結構いるのですから、正しいジンギスカン鍋の歴史を広く教えて置かないと、将来月寒か滝川が発祥地だなんて、とんでもない俗説がでっち上げられないとも限らん。いや、すでにそう書いてあるホームページもあるからね。そういう危機感もあって公開に踏み切った。そういうわけです。
 もちろん、北大文学部同窓会の広報予算がゼロなので無料のジオシティーズを借りるような同窓会のホームページづくりを、応援団OBの私が黙って見ているわけがない。北大らしい読み物を増やすという積極的な狙いもあったのです。
 それでだ、道新探偵団の記事をそっくり転載して先頭に置き、ジンパ学はこんな浅いインスタントな読み物じゃないよと皮肉る形で講義録を載せ始めたのですが、だんだん回数を重ねるにつれて、そこに探偵団の記事を載せていたのを忘れてしまった。そうこうしているうちに道新側から、おたくのホームページの探偵団の記事だが、転載手続きをしたかと問い合わせが来たんですな。
 掲載していることすら忘れていたぐらいだから、びっくりしましたね、はい。詰問ではなくて問い合わせだし、まあ即刻削除して、代わりにお詫び文を掲載するぐらいで済むとみたのですがね。なにしろ文学部同窓会の役員会にはね、倫理学の大先生も混じっとる。理論を教えるだけでは済まない、実践しなくちゃと、同窓会代表として正式に道新を訪問して、始末書を差し出し、過ちは繰り返しませんと謝罪した。實に清く正しい文学部同窓会らしい対応だろうと威張れますがね。
 当事者である私も某先生に同行せざるを得ない。記事の転載を希望する場合は、こういう手続きを取って頂きたいと指導、いや説明を受けてね。道新を出てから時計台横の地下の喫茶店で冷や汗を拭い、某先生と一服した。いまのホームページには、そんなことは書いていないけれど本当ですよ。
 わが文学部同窓会の歴史を尋ねると過去2回休眠しているんです。それで法文学部創設50周年に当たる平成12年にOB有志が学部当局と力を合わせ、3度目の再建同窓会をスタートさせた。看板こそ上げなかったが、学部長室隣の事務室でハイネスへのアクセスも許されたのです。以来3年だな、同窓会のホームページe楡文を作っていた私の秘書兼御用人は「編集方針は質より量、異色にしてやや穏健」などと唱えて、一人で毎週同窓会の動きや学部掲示板などの見聞を書き加えていましたがね。ちょうどそのころ、無断転載の件とは別に、投稿の扱いを巡る意見の相違もあり、それで初めて予算を組み、私の秘書兼御用人に任せっきりだったホームページの内容をだ、リニューアルして広報担当という組織として運営することになったのです。
 そしてプロバイダーを有料のニフティに変えてね、いままたグーグルにあるがね。それまでのホームページを移転・改編したのが、いまの同窓会のホームページです。移転するとき、我が講義録にリンクを張ってくれなかったので、このようにジオシティーズに置き去りになったのです。ある幹事はジンパ学は尽波の個人的色彩が強いと渋ったらしいから、写真ばかりで字数の少ない何学部だかわからんような無難なページがお好みなんでしょう。そういう経緯があるので「ジンパ学講座」は、文学部同窓会との縁切れもやむなしと現在に至っているわけですよ。
 そこで、やっと「焼肉の文化史」との関係が説明できます。私はあれを読んでドッキリさせられた。それは鷲澤・井上命名説を抜かれたという意味ではなくて、同窓会のホームページの、この講義のアイキャッチャーにしたことのある「北京正陽楼 ジンギスカン料理」と説明の入った正宗得三郎画伯の挿絵を、ちゃっかり引用していたからです。1年足らずで削除し、痕跡を消したつもりが、まったくバレバレ。
 (『時事新報』連載・里見惇「満支一見」の挿絵〈昭和5年(1935)年6月発表〉……北海道大学文学部同窓会ホームページ・e楡文(いーゆぶん)の「現場主義のジンパ学」(尽波満洲男)より再引用)(73)という挿絵の説明があるのは、いま話した初代のホームページがあったからです。正宗さんの絵を、いまの文学部団扇に変えるまでの間にコピーされたちゃったんですなあ。それもだ、里見クを惇にしたり「満支一見」が掲載された昭和5年という説明にですよ、私が書いていない余計な西暦年をだ、勝手に5年も間違えて付け加えてな。佐々木のせいで、まるで私が間違っていたみたいじゃないか。
 それからねえ、正宗さんの絵の著作権は、そのときまだ8年保護期間が残っており、一時期とはいえ私の著作権侵害の事実を「焼肉の文化史」が天下に公表してくれたことになる。いやー慌てましたね。「焼肉の文化史」自体もそうなるのを知ってか知らでか。府中市のある方に対する事後処理など詳しい説明は避けますが、それやこれやで私は著作権問題にはすっかり慎重になり「ジンパ学」では出典と引用個所をしつこいくらい明確に示し、ときどき「長めの引用だけれどお目こぼしを…」と、著者もしくは著作権継承者にお願いする。さらに、これは問題だと思う個所があったら尽波に一報をと、各回の末尾でお願いしておく。この回のページにも、しっかり付けますよ。安倍君じゃないが、しっかりとね。
 法律に興味のない私でも、懲役3年以下、罰金300万円以下に処せられる著作権等の侵害は、親告罪ということぐらいは、心得ておりますのでね。まことに変梃であると思うけれども、こうした例のないホームページの組み方を考え出したのです。はい。まだ効き目はわかりません。
 これで著作権の保護期間がもう20年延びて70年になったら、使わせてもらうお願いと侵害監視で大変だよ。そうはいいながらも、私がこれを出版したら曾孫のミルク代ぐらいになり、曾祖父さんが変な本を出したお陰なんて拝まれるかも知れんし、いや悩みますなあ。
 考えようによっては「焼肉の文化史」は、あれが出る前に、私の研究がとっくに正陽楼に及んでいた事実を天下に示してくれた本もあるのだね。だから尽波講義録をかすめとったジンギスカン本が現れたとき、著作権侵害の証拠として使えるんですね。弁護士に聞いたわけではないけど、いい証拠になるんじゃないかなあ。
 正宗さんが亡くなったのは昭和37年、それから50年は平成25年なので、そこで今回から晴れて正宗さんの描かれた正陽楼の立ち食いの図をスライドで見せることにしました。勿論私は時事新報のこの前後の挿絵ともコピーずみですが、わがジンパ学講座が北大文学部同窓会のホームページの目玉読み物としてスタートした証拠として、あえて佐々木道雄著「焼肉の文化史」の330ページの絵にしました。ふっふっふ。


  

 まあ著作権の保護期間の問題はそれぐらいに留めて―と。そこで私も「焼肉の文化史」のジンギスカン命名のところを引用して、少しは正宗画伯の挿絵再引用のお返しをさせてもらいましょう。資料その6(1)がそれです。
 吉田が自分が調べたように書いていますが、これは中野江漢が昭和6年に月刊誌「食道楽」10月号に書いた「成吉思汗料理の話」のコピペなんです。次の講義で取り上げますが、吉田はまず昭和8年の「料理の友」5月号に「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」に井上発見・鷲沢命名説を入れた。自分の務める春秋園のジンギスカン宣伝も兼ねた内容でした。昭和12年のは、料理の友社代理部が家庭用のジンギスカン鍋を売り出したことを紹介するために書いたもので2度目なんです。
 中野は命名説は北京の「燕塵」という雑誌に発表されたと書いたけれど「燕塵」は全号そろっているので、中野の記憶違いとわかるのですが、その他のことは証拠が乏しい。それで鍋探し方々、私は北京の国立図書館に行き、北京で発行されていた邦字紙「新支那」を見せて欲しいと頼んだら、受付嬢は所蔵していないという。私の英語が拙いとみたか、受付に居合わせた日本語がわかる男の大学生が中国語で受付嬢に交渉したら、新聞資料室の責任者らしい中年女性が出てきて、やはり所蔵していないと説明したのですな。
 それで私はその学生に口添えしてくれたお礼に国立図書館の向かいのレストランでビールをおごって日本語が達者なわけを尋ねたら、彼は北京外語大の学生で早稻田にいたことがあるといってました。それでね、本当に「新支那」を所蔵していないのか調べて欲しいと頼み、彼の住所やメールアドレスなどを私のメモ帳に書いてもらった。
 札幌に帰ってからメールを送ったが、検閲にでも引っかかったか全くレスなしでね。嘘ではない証拠に彼の書いたページを公表してもいいのだが、大迷惑だろうから日中平和のために私が撮った北京動物園のパンダの写真でも見せましょうか。はっはっは。
 あれは中国漁船が日本の巡視船に体当たりした事件が起きたときでしたから、時期がよくなかったかもし知れん。何故か海上保安庁がその現場写真、録画をすぐ公開しなかったため、北京で見たテレビは日本の巡視船が中国船に体当たりしている逆の絵を見せて報道していた。日本が被害者側なんだから速報すべきだったのです。

資料その6

(1)■ジンギスカン料理の由来

 昭和12(1937)年2月発行の料理月刊誌『料理の友』の「成吉思汗鍋料理」(吉田誠一)という記事(以降、「成吉思汗鍋料理」という)に、ジンギスカン料理のいわれが記されている。それによると、北京在住のある日本人(井上某)が1910年頃に、北京前門外にある正陽楼の烤羊肉(カオヤンロウ)という料理に接して感激し、在留邦人に吹聴してまわった。そこで、その料理の原始性にふさわしい名を付けようということになり、ある人が成吉思汗が陣中でこれを好んで食べたという話をしたことから、鷲沢某という人物が成吉思汗と名を付け、皆がそれに賛同したと伝えられる。
 このようにジンギスカン料理は烤羊肉という料理に、北京在住の日本人が勝手につけた名前であった。


(2)山羊肉の特長

 綿羊肉は万人向きでありまして、滋養に富んで居る上に、味も香りも優秀な点は、丁度鳥類中の小鳥と、肉類中の綿羊を比べて、同じやうなものです。我国では未だ飼羊が発達して居りませんから、甚だ遺憾ではありますが、之は気候や牧場の関係によることゝ思ひます。近頃は東京市場でも綿羊肉を売つて居るやうですが、其の香味は、欧州産、殊に英国産のものには遠く及ばないとのことです。
 我国では、綿羊肉は未だ、普及されて居ないやうですから、四五種の料理方法を説明してみませう。

 「焼肉の文化史」を読んで、私は吉田誠一という人物が昭和3年に「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」を書いた人だろう。国会図書館で、その本は調べ済みだぞと、そのときのことを思い出しました。その本には、ジンギスカンは出てこないけれど、山羊肉が少し出てくるのでコピーしておきたかった。ちょうど図書館側の著作権保護意識が高まりだしたころというのも変ですが、国会図書館は全国の図書館のお手本たらんとしているようで、どんどん変貌するのです。
 記憶によれば「著者の死亡年は昭和何年ごろですか」と係の女性に聞かれた。向こうは何気ない質問だったかも知れないが、死後50年以上でないと受け付けないように私は感じたんですよ。そこまで調べていないし、複写依頼を取り下げ、自分で書き写した。それが資料その6(2)です。
 ノートを見ると、この「山羊肉の特長」は「山羊、鹿、羊料理」に入っていて、11種の作り方が書いてあり、緬羊は炸羊肉(羊の蒸揚)、紅焼羊肉(羊肉の醤油煮)、栗子羊肉(栗と羊肉の醤油煮)、炒羊肉絲(羊肉と野菜炒め)の4種、山羊肉は紅焼草羊(山羊の醤油煮)、栗子草羊(栗と山羊の醤油煮)、炒草羊肉絲(山羊と野菜炒め)の3種がそれぞれがあります。
 さらに、ページの上部に欄外注記が2個所あり「綿羊肉は近頃、千葉県、茨城、北海道方面のものが東京市場へ少しづつ見うけますが、まだ一般家庭には使用されて居ないやうです。」というのと「一般の料理系統から離れて、一種特別の地位にある回々教料理と云ふものが有ります。それは彼の有名な羊肉料理の別称で宗教上の関係から豚肉を絶対に食しませんので羊肉、鹿肉、山羊、牛肉等を食用とします為に特異の発達をしました料理で有ります。従つて一種独特の妙味を出してゐます。
(74)」と書き写していました。
 これはもう一度確かめる必要があると思い、国会図書館を吉田誠一で検索をすると、78件出てきて、そのうち平成19年3月現在で77件が推理小説の翻訳者の吉田氏の本なんですね。料理の吉田はこれ1件だけで見落とすところでした。
 調査を進めていくうちに、私はこの欄外注記の2つ目は山田政平の本の翻案だと気付いたのです。山田が大正15年に出した「素人に出来る支那料理」という名著があります。正直にいいますと、この本の存在は私が見付けたのではなく、一部の食文化研究者の間では公知のような本だったらしいのです。私はジンパ学の研究を始めてから知り合いになったある食文化論の専門家から教わったのです。医者と弁護士を友人に持つべきだといわれるようだが、研究者は親切な研究者を友人に持たねばいけませんよ。それにはテークだけでなく自分の得た情報をきちんとギブすることも忘れてはいけません。これは大事な心得ですよ。
 山田については、大正期の講義で取り上げますが、要するにですね、この本に「原始的な成吉斯汗鍋」としてカオヤンローのことが書いてあります。大正15年1月26日発行、昭和元年はこの年の12月25日からですからね。大正末期には既にジンギスカンという言葉が使われていたという立派な証拠なんです。はっはっは。
 山田の本の第8章は「回々料理」で、豚肉を食べない回教徒が羊肉料理を発達させた
(75)と説明しているのですが、私が読み上げてもわかりにくいと思う。資料その7で見てもらいましょう。はい、こういう違いです。

資料その7

 山田政平

 一般の料理系統から離れて、一種特立の地位にある回々料理と云ふものがあります。これは彼の有名な羊肉料理の別称で、宗教上の関係から特異の発達をした料理であります。<回教徒の地位などの説明省略>
 回々教徒はその宗教信条から、絶対に豚肉を食べません。食べないばかりでなく、その名を口にし、手を触れるも穢はしいとして居ります。その代り羊肉や牛肉は盛んに食べると同時に殆んど彼等の専売のやうになつて居ます。支那に於て羊肉料理が異常な発達を遂げたのは、この絶対に豚肉を食べない回々教徒の食饌として成就されたものですから、羊肉料理即ち回々料理と云つて差支へありません。


 吉田誠一

 一般の料理系統から離れて、一種特別の地位にある回々教料理云ふものが有ります。それは彼の有名な羊肉料理の別称で宗教上の関係から豚肉を絶対に食しませんので羊肉、鹿肉、山羊、牛肉等を食用とします為に特異の発達をしました料理で有ります。従つて一種独特の妙味を出してゐます。

 吉田の下線を付けた材料のところが、山田の前半の文に挿入された字句ですね。これを挟んだのはいいのですが、誰が豚肉を絶対に食さず、羊肉、鹿肉、山羊、牛肉等を食用とするのか、ぼやけた文になってしまった。山田の「回々料理」を「回々教料理」と直してあるので回教徒だろうとは推察できますがね。短いけれども、引用というか、少なくとも山田の文章を参考にしていることは、これで認められますよね。
 面白いことに、この回々料理が書いてある次のページ、見開きの左側になるページに、いまさっきいった「原始的な成吉斯汗鍋」が書いてあるのです。吉田は当然そちらも読んでいるはずなのにノータッチです。昭和3年出版ですから、原稿を書いたのは2年でしょう。糧友會が羊肉食の普及活動を始めようとしていたころです。山田の書き方も支那での食べ方を書いているので、まさか日本でこれを家庭料理として取り入れてようとしていると吉田は夢にも思わなかった、もしくは山田のあっさりした説明だけでは吉田は料理のイメージかつかめなかった―ですね。少なくとも昭和3年の時点で、吉田はジンギスカンについて十分な知識がなかったといえるでしょう。
 このたび国会図書館に行きましたら、備え付けのA端末と呼ぶパソコンで館内限定の近代デジタルライブラリーが読めるようになっていたので、いろいろ試してみました。探し方、読み方はインターネットのあれと同じで、プリントアウトは1階の方でまとめてやってくれるのです。つまりね、家でやっているのと同じ感覚ね。しかも近代デジタルライブラリーのお知らせにもあるように、インターネット提供数の約3倍(平成22年4月現在)も本がそろっている。昭和の本も沢山入っていますから、やめられない、止まらない―ですよ。
 そこで吉田さんを思い出して、コピーして帰り、よく眺めたら、題名が違っていた。ノートには「山羊、鹿、羊料理」と書き写したけど、正確には「山羊、鹿、羊、料理」と羊の下に読点が入っていたのです。この並べ方は手に入りやすい順序だったのでしょうか。
 全体の説明の題が「山羊肉の特長」なのに、綿羊肉のことばかりで山羊肉はないのも変だなあとコピーを見ていたら、料理のトップに、ちゃんと吉田は烤羊肉の作り方を書いている。ギョギョッ、こりゃ大変、誤解していたと皆さんに配る資料と教案の一部を書き換え、作り方も入れてから、天眼鏡を出して、よくよく見たら、烤羊肉じゃなくて、炸羊肉、ツアヤンロウと読ませている。別物だから和名が(羊肉の蒸揚)となっているわけだ。がっくりきましたね。折角入力したのを捨てるのはもったい。資料その8にしました。
 ジンパ学のせいで私もすっかり目が悪くなったが、館内限定の本といえども画像はインターネット上のやつと同じで、全体に暗くてコントラストが悪いせいです。安スキャナーで読み取れないものが多いのも同じです。折角だからショックを受けた炸羊肉の作り方だけを資料その5としました。転んでもただでは起きない、はっはっは。
 それから忘れないうちにいっておきますが、私の講義録の参考文献では、この国会図書館の中でしか読めない近代デジタルライブラリーの本は、館内限定近デジ本と書き、インターネットで読める近デジ本と区別するこにしたからね。その本が近くの図書館になかったら東京へ行くしかありませんよ。

資料その8

 炸羊肉(ツアヤンロウ)(羊肉の蒸揚)

 材料 羊肉百匁、卵五個、メリケン粉大匙一杯、塩、五香末、ラード。

 調理法 羊の肉は大切の儘深鍋に入れ、水
を被るまで注して沸騰させ、浮上つた泡を去
り塩を加へて一時間位煮ます。之れを引上げ
て一寸位の正方形に切り、小口から薄く二分
位に切つて重ねて鉢に入れ、鍋の残汁を被る
まで加へ蒸籠の中へ入れ軟かくなるまで蒸し
ます。次に卵を丼に割りメリケン粉を加へ
て良く混合せ、蒸した羊肉を水気を断つて三
枚づゝ合せ、卵の中に入れて衣となし、別の
鍋にラードを沸騰させて狐色になるまで揚げ
油気を断つて器に盛り、五香末を振りかけて
供します。
 是は冬期に珍重されます。

 ところで「焼肉の文化史」は昭和12年のジンギスカン記事をを紹介しているけれども、なにしろ「料理の友」は大正2年に創刊された伝統と権威のある雑誌です。昭和12年までの24年間に、いくら羊肉は臭いと皆が敬遠したとはいえ、1回もジンギスカンを取り上げないはずがない。何度も話したように、帝国陸軍をバックにした糧友會が昭和2年から羊肉食普及運動を開始してから数えても、10年たっています。満洲事変から戦線が拡大し、国策だ、非常時だなんて言葉が使われだしていたのですから、羊肉食普及という面から、とても「料理の友」としても黙っているわけにいかなかっただろう。何か羊肉料理があるはずと予測しましたね。
 それで国会図書館に保存されている「料理の友」のマイクロフィッシュを全部調べてみたのです。1回の貸出は30枚という制限がありますから、何回になったのでしょうか。貸出係の方々には大変ご迷惑をお掛けしましたが、とにかく全部見せてもらいました。また原本の一部は、味の素ライブラリーでも拝見しました。佐々木氏は、焼き肉史の一部に過ぎないジンギスカン研究にそんな手間は掛けられないでしょうが、こっちは現場主義が旗印、ジンギスカンが本命なのですから、意地でもやらざるを得ない。
 国会図書館の保存分は第2巻1号に当たる大正3年1月号からあり、そっくり欠落している年もありますが、昭和15年12月号までのほぼ26年分がマイクロフィルムで読めます。欠けた分は奈良女子大にお邪魔して読みました。図書館の前に1匹シカがいてね、芝生を食べてた。さすが奈良と感心しましたが、シカは痩せて貧弱でね、あれから見たらその辺のエゾシカなんか筋骨隆々。
 おっとっと、読みながらこっくりやることがあるから、絶対の自信はないのですが「料理の友」における初めての羊肉料理の記事はですね、大正8年3月号掲載の獣医学博士田中宏の談話による「料理に用ふる羊肉の価値」だと思います。それから戦前の「料理の友」にジンギスカンのレシピを書いたのは吉田と山田政平しかいません。時間がなくなり、切りがよいので、きょうはそれを紹介してやめましょう。吉田誠一のジンギスカン料理は来週回しにします。
 田中宏は豚肉料理をたくさん考えだし、次は羊肉料理だと雑誌「畜産」に発表した。われが先輩小谷武治がその一部を自分の本「羊と山羊」に引用したことは以前話しました。それは明治45年、大正元年でもあるのですから、それから8年も後になるのですが、大正8年が未年だったので、羊肉料理を取り上げよう、そうなれば西洋料理のコックより、和風豚肉料理の先覚者である田中先生だ、と企画されたと思われます。
 第一次世界大戦とわれわれはいいますが、料理の友の記者は「世界戦争で影響から毛織物の著しく高価になつたのを目撃して居ります。一尺八九銭で購はれたメリンスが廿二三銭ともなり、一着卅円位で出来た洋服が六七十円でも出來ない様な有様になつて居ります。」と書き出しています。また外國が羊毛の輸出を禁するようなことがあると心配だが、わが国内で羊を飼い、羊毛が生産できるようになるのは喜ばしい。また羊肉が食膳にも上るようになり、どんどん食べることはやがて緬羊飼育を盛んにする一助ともなる。「其處で其の羊肉なるものが食用上如何なる価値のあるものかを田中博士について御伺ひいたしました(76)」というわけです。この田中談話が資料その9です。

資料その9

 緬羊の食用としての価値の貴い事は世の認むる所でありまして、欧米各國にては牛肉、豚肉と等しく普く食用せられて居りますが、我が國では緬羊の飼養が幼稚でありますので、肉の供給が乏しく其の美味を試みる場合がありませんから、羊肉は甚だ臭いものであると云ふやうなことを考へて居るのであります。けれども夫は緬羊の種類をよく知らないからであります。羊毛専用種なるメリノー種の肉は多少人々に喜ばれない臭ひの致すものでありますが、其他の毛肉兼用種なるコリーデル、サウスダウン、シユロプシヤーの如きものゝ肉は決して臭ひはしませぬ。又多少臭があるにしても夫れは食ひ慣れぬからの事で、牛肉にも魚肉にもみな夫々特有に臭ひはありましても慣れさへすれば少しも氣にならのと同様で、羊肉も慣るれば決して氣になるものではありませぬ。寧ろ慣れたならば豚よりもひつこくなく、軽ろい味はひによつて日本人の口に叶ふではなかろうかと思はれます。脂肪も可成澤山にあります。而も豚肉や牛肉よりも凝固することが早いので一見ひつこひ様にも考へられますが此の脂肪は誠にあつさりと食べられるのであります。
 今日本で奨励いたして居りますのは多く後者の種類に属して居りますから皆さんがお購めになるなら大てい臭くない方の肉を求めることが出來ませう。斯様にして此の種の羊肉から慣れたならばメリノーの肉も終には氣にならずに食べられるかも知れません。

 そういうことから、家庭ですぐ試みられる美味しい羊肉料理として、牛鍋の牛肉を羊肉にした羊鍋、すき焼き、味噌煮、茹で肉の4つの作り方を料理の友の記者に語ったのです。茹で肉は醤油をつけて食べるほか、数日は保存できるから酢醤油、生姜酢、芥子酢をつけたり、酢味噌、ぬた、和え物にしなさいと話しています。
 いまのわれわれは外国産のラムばっかり食べているようですが、国産のマトンの生肉の方が好きという人にも結構いますから、博士の予想通り「多少人々に喜ばれない臭ひの致す」「メリノーの肉」も気にせずに食べるようになったといえます。
 きょう話した鷲澤與四二と井上一葉のコンビは、後に北京で発行する邦字新聞と雑誌に深く関係していくのです。殊に鷲澤は自分の時事新報に記事を書くより、ほかの新聞雑誌に書く方が多かったのではないかと思うぐらいでね。資料その10は大正10年の本からの引用だが、それこそジンギスカンで馬力を付けていたのか、鷲澤と井上の八面六臂ぶりが感じられるでしょう。
 次回、成吉思汗料理という名前を初めて載せた本のことを取り上げますが、そのときの出てくる鷲澤と井上と渡辺哲信のVIP3人の名前と仕事を覚えておいて下さい。では次回欠席しないようにね、終わります。

資料その10

     新聞及雑誌

北京における日本人経営の新聞には漢字新聞中で最も古い歴史を持つてゐる
順天時報と、邦字新聞の新支那と、英字新聞華北正報の三新聞と外に雑誌及
通信等も数種あるが何れも漸次発展しつゝある。
【順天時報】(へ9)(電話編輯用南局一一三五號営業用南局一〇二五號)は前門内化石橋(北新華街東側)にある、明治卅四年現盛京時報(奉天)社長中島信雄氏の創立したもので、新聞紙としては北京に於て最初のものである、現に古きを誇つてゐる北京日報などもそれから数年後に出現したものである、中島氏の後上野岩太郎亀井陸良両氏の手を経て現社長渡辺哲信氏に至つた、同紙は古い歴史を有することゝ、革命政変等の際他の支那新聞のやうに政府から或種の記事を差止められ又は電報を押収され、其他種々の掣肘を受けることがないので支那人間に頗る信用を博し、一時は約二万枚を出したが其後支那人新聞が続出した為めやゝ部数を減じ、殊に民国八年の排日運動の際に非常な打撃を蒙り、現在は多少発行部数を減じた。
  社長 渡辺哲信  主筆 金崎賢  編輯長 脇川文近
【The North China Standard】(華北正報)(ゐ9)(電話東局二二二〇號)は崇文門内船板胡同にある、時事新報特派員鷲澤與四二氏が、北支那に西洋人方面に日本の対支態度を知らせる為めの英字新聞がないのを遺憾として、大正八年十二月一日から創刊したものである、創刊当時は英文家として外人方面に知られてゐる佐藤顕理氏が主筆として來たが久しからずして帰国し、布施知足氏が代つて筆致に任じて居る、同紙発刊以来僅に一年餘に過ぎぬ為め未だ異彩を放つまでには至らぬが、日本の対支態度に就ても公平な議論をするので漸次一般に認められて來るやうである。
  社主 鷲澤與四二  主筆 伏布施知足  編輯長 Willes
  支配人 尾崎正文
【新支那】(り7)(電話東局一八六一號)は東安門外大甜水井にある、北京に於ける唯一の日刊邦字新聞で、明治四十五年三月伊集院公使水野参事官松本君平氏等の援助の下に、鷲澤與四二安藤万吉井上一葉松村太郎氏等が週刊新支那をを発行したのに始まる、其後大正二年九月一日からさらに日刊新聞を発刊した、四十五年週刊創刊の当時には東城総布胡同であつたが、後順治門外香炉営四條、東単牌楼新開路等に移つたが後更に現所に移転したのである。
  社主 安藤万吉  主筆 藤原鎌兄
【京津日々新聞編輯所】<略>
【共同通信及亜細亜通信】<略>
【日本及支那】(わ8)(電話東局二九一號)は崇文門内東裱褙胡同にある、同誌は大正七年六月、曩に北京で発行して居た燕塵と東京で発行して居た支那時論とを合併して、鷲澤南萍(與四二)井上一葉(孝之助)氏等の手で作られた旬刊邦字雑誌である(現在は休刊)。
【東方通信北京支社】<略>
【中東通信北京支社】<略>
【各新聞通信部】
(大阪朝日新聞)<略>
(大阪毎日新聞)<略>
(東京時事新聞)(電話東局六二二號)東単牌楼東総布胡同
  主任 鷲澤與四二
(報知新聞)<略>
(読売新聞)(電話東局二九一號)崇文門内東裱褙胡同
  主任 井上一葉
(国民新聞)<略>
(日本電報通信)<略>
(福岡日々新聞)<略>
(天津日報)<略>
(天津アドバタイザー)<略>

 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(73)と北京正陽楼の挿絵のスライドの出典は佐々木道雄著「焼肉の文化史」330ページ、平成16年7月、明石書店=原本、資料その6(1)は同308ページ、同、同(2)と資料その7「吉田誠一」と資料その8は吉田誠一著「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」218ページ、昭和3年8月、博文館=原本、(74)は同219ページ、同、(75)は山田政平著「素人に出来る支那料理」140ページ、大正15年1月、婦人之友社=マイクロフィッシュ、資料その7「山田政平」は同、同、 (76)と資料その9は大日本料理研究会編「料理の友」7巻3号9ページ、田中宏「料理に用ふる羊肉の価値」、大正8年3月、大日本料理研究会=マイクロフィッシュ、 資料その10は丸山昏迷著「北京」368ページ、大正10年3月、丸山幸一郎=館内限定デジ本