春秋園に籠城した力士団は2度ジンパをした

 前回は東京大井の支那料理店にいた料理人吉田誠一が昭和7年からジンギスカンの歴史と作り方を「料理の友」や新聞に5回も書いたことを取り上げました。この吉田が働いていた春秋園をキーワードにしてインターネットを検索すると、昭和7年1月に起きた世にいう春秋園事件を取り上げたページが出て来ます。
 これまでは北大と札幌市立中央図書館にある新聞5紙のマイクロフィルムを読んで春秋園事件を調べた結果を話してきましたが、その後、私が東京の国会図書館に通い、札幌では読めない新聞を読み、新しい事実を見付けたので、講義内容を組み替え今年度からは2回に分けて話すことにしました。春秋園に立て籠もった力士たちは2度ジンギスカンを食べたのですが、1回目の今回は、東京で発行された12の新聞の報道ぶりです。次回は春秋園の新聞広告と事件の関係、社会人の方がこの講義を読んで春秋園のあった場所がわかる大井町の地図を送信してくれたことなどを取り上げます。
 春秋園事件は昭和7年、西暦の方がわかりやすいという人が多いから、そっちで言えば1932年、私が生まれる前年の1月6日の午後から始まったのです。力士の待遇改善、相撲協会改革を要求して大関の大ノ里と武蔵山、関脇天龍を中心とする32人が所属する出羽の海部屋を抜け出し、吉田のいた大井町の春秋園に立て籠もったのです。その後の経過をかいつまんで説明するとだね、天龍たちは改革要求が容れられなかったので、相撲協会を脱退してちょんまげを切った。そして大日本関西角力協会を設立して軍隊慰問で中国大陸へ渡ったり興行したのです。5000人も観客を集めたこともあったけど、結局は力士団から脱走して部屋に戻った武蔵山を含む相撲協会には勝てず、首謀者天龍は廃業、一部の力士たちは元の部屋に戻って終わった相撲史に残る大事件でした。
 このとき東京日日新聞は、力士たちが立て籠もった春秋園でジンギスカンを食べたと書いたということは、私より遙かに早くからジンギスカンの歴史を調べていた高石啓一さんが、かつて存在したある公立研究機関のホームページの中の「ウンチク」で指摘していました。また「畜産の研究」平成8年6月号の「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」の参考文献で「4)東京日々:“成吉思汗料理で気勢を挙ぐ”新聞記事,昭和7年1月7日付(1932).(1)」、同じく平成18年2月号の「料理の友による成吉思汗料理考」で参考文献「東京日々新聞:“成吉思汗鍋料理で気勢を挙ぐ”新聞記事(昭和7年1月7日付版)(1932.1)(2)」として挙げておられるので、私もよく承知しているのです。
 それでね、札幌市立中央図書館で東京日日新聞のマイクロフィルムの1月7日の紙面を見たらですよ、その立て籠もるに至る記事を載せた同じ紙面に春秋園の「独特の成吉思汗料理開始」という広告があったので、ピンときましたね。春秋園のジンギスカン料理の売り出しと、春秋園が力士らの立て籠もり場所に使われたことは、全く無関係ではないとにらんだのです。この広告との関連は次回に回し、きょうは各社の紙面作りを比較することから始めます。
 新聞記者の世界では、特ダネだ、特オチだ、抜いた抜かれたと日夜競争しています。東京日日新聞だけが「成吉思汗料理で気勢を挙ぐ」なんて書いて終わるわけがない。当然よその新聞だって書いているはずです。東京日日のこういう記事があるというだけでは、とてもジンパ学だなんて大きな顔はできない。東京日日は、いまの毎日新聞ですから、三大新聞といわれる朝日新聞と読売新聞の記事も並べ、比較検討してみることから始めました。また記事だけでなく平行して広告も調べると、意外なことがわかるかも知れない。意外性、これが私がこうして講義するときに心掛けていることの1つですからね。
 それらの資料をいまから配ります。きょうは沢山あるからね、どんどん後ろの人に回して。よろしいですね。はい、発端の記事から考察してみますか。待遇改善を要求して力士32人が春秋園に立て籠もるぞと初めて報道したのは昭和7年1月6日に配った夕刊です。このころの夕刊は翌日の日付にしていましたから1月7日付になっています。それから東京日日と朝日は日曜に配る夕刊は休んでいるのですが、読売は独自のサービスとして日曜も発行していた。1月6日は水曜なので3社とも普段通り夕刊を発行しています。
 それで7日付夕刊、6日の夕方に配達された紙面に掲載されている記事をまとめたのが、資料の一番上、資料その1です。実際の紙面は見出しがあり組み方などに特徴があるのですが、資料その1では去年までみんな見出しを※印の列1行で表してきましたが、それだと各新聞の性格というか特色が消えてしまうので、今回から原文通りに変えました。ただし新聞の見出しの通り活字の大小や位置を再現できないので、見出しの文字列は、左側はみんな1字下げて並べてあります。
 それから要求した10項目は東京日日の記事に入れましたが、朝日と読売もほぼ同文ですので、両社の記事では省略しました。この要求の4番目の中銭制度、私も知らなかったが、そのころの地方巡業で、初めからいくらと木戸銭、入場料を取りにくいので、安く入れといて、中でまた桟敷はいくらと2度料金を取ること(3)だそうです。北京動物園でね、私がパンダを見ようとしたら、7頭も見せるからというわけでもないらしいが、パンダ館で別途入館料を取られた。そういうのを相撲興行では中銭といったんですなあ。

資料その1

東京日日新聞

角界の積弊打破を叫び
 力士結束して起つ
  武蔵山以下西方某所に會合
   東方も漸次に参加

大正十二年角界未曾有の紛擾を起した角道革新運動は、その後内部的にしば/\問題となつてゐたが俄然五日春場所新番付発表を機会に西方の人気力士武蔵山、天龍、大ノ里を中心に西方力士一同が結束して角界多年の積弊打破の猛運動を開始したため相撲協会側では十四日の春場所を前に周章狼狽して善後策に狂奔してゐる、その要求は左の十項である

要求十項

(一)相撲協會の會計制度を確立し、その収支を明かにすること(二)興行時間を改正すること(三)入場料を低下し角技を大衆のものたらしめること(四)相撲茶屋と中銭制度を撤廃すること(五)年寄制度を漸次に廃止すること(六)養老金制度を確立すること(七)地方巡業制度を根本的に改革すること(八)力士の収入を増加し生活の安全をならしめること(九)冗員を整理すること(十)力士協会を設立し共済制度を確立すること

四十八時間以内に
 協會へ回答を要求
  春場所を控へて大波瀾

六日西方幕の内力士一同と十両力士は正午過ぎ各部屋を出て京浜沿線市外某所(特に秘す)に極秘裡に集まり協議し角道改革のため奮起することを決議し長文の宣言書を公表すると共に前記十ケ條から成る要求條項を相撲協会に提出し四十八時間以内に回答を求める旨を申し出て満足な回答を得るまでは前記某所に立籠ることになつた、力士団がその部屋を離れて一ケ所に立て籠り角道革新の叫びを挙げるに至つたことは大正十二年一月以来の大事件であるなほ一同が立籠つた場所といふのは市外大井町某所で六日午前十一時ごろ稽古を終つた力士は正午過ぎ思ひ/\に散歩にでも行くやうな態度を装つて出羽の海部屋を出で午後二時までに省線電車で大井町下車、或は圓タクで某所に集合したもので集合した力士は大の里武蔵山、天龍、綾桜の西方三役力士をはじめ西方幕の内力士の殆ど全部と十両力士達であるが、このほかに東方力士中にも、この運動に参加する希望のものが可なり多く、七日までには東方幕の内力士も多数参加して立籠ることになるであらう


東京朝日新聞

角界内部から、突如
 積弊大廓清運動起る
  武蔵山以下の力士結束し
   十ヶ條の要求を提出

相撲界多年の積弊はさきに武蔵山をして拳闘界への転身まで決意させこの積弊に対する力士多数の不満は日を追うて内昂しその爆発は時の問題とされてゐたが、果然五日の春場所番発表を機会に西方の人気力士武蔵山、天龍、大ノ里以下が結束してこの積弊打破のため起つことになり西方幕の内及び十両力士一同は六日正午過ぎけい古が終ると共に三三五五出羽の海部屋を出で京浜沿線大井駅前春秋園に秘密裏に会合協議の結果角道改革のため長文の宣言書を公表し同時に相撲協会に対して十ケ條から成る要求書を提出、これに対し、四十八時間以内に回答ありたき旨を伝達することになり、一同満足なる回答を得るまでは同所に立籠ることになつた
力士団がその部屋より脱出して一ケ所に籠城しこの強硬な態度をもつて革新の旗しをあげたことは去る大正十二年角界紛擾以来未曾有の大事件で十四日の春場所大相撲をひかへてゐるだけにその成行は注目されてゐるが東方も合流の形勢にある

入場料低下など
 要求條項の内容

経過など要求項の内容
春秋園に立てこもつた力士団一同
から相撲協会に提出された要求條
項は左の如し
一、相撲協会の会計制度を確立し
 その収支を明らかにすること
二、興行時間を改正すること
三、入場料を低下し角技を大衆の
 ものたらしむること
四、相撲茶屋と中錢制度を撤廃す
 ること
五、年寄制度を漸次に廃止するこ
 と
六、養老金制度を確立すること
七、地方巡業制度を根本的に改革
 すること
八、力士の収入を増加し生活を安
 定ならしむること
九、冗員を整理すること
十、力士協会を設立し共済制度を
 確立すること

聴かれねば
 脱退決意

一同は天龍を最後に二十九名集合午後二時から協議に入つたが結束はすこぶる固くもし一ケ條でも容れられぬ場合は現在の協会を脱退し別個の協会を作るといつてゐる


読売新聞

遂に爆発・角道革新の叫び
 四十八時間以内に回答求め
  正午から大井町春秋園に籠る
   春場所前に協會大狼狽

去る大正十二年角界未曾有の紛擾を起した角道革新運動はその後内部的にしば/\問題となつてゐたが俄然去る五日の春場所新番付発表を機会に西方の人気角力武蔵山天龍大ノ里を中心に西方角力一同が結束して角界多年の積弊打破の猛運動を開始したゝめ角力協会側では来る十四日の春場所を前に控へてゐることゝて周章狼狽して善後策に狂奔してゐる六日西方幕ノ内力士一同及び重要力士は正午過ぎ各その部屋を出で京浜沿線市外大井町春秋園に極秘裡に集合協議して角道改革のため奮起することを決定し長文の宣言書を満天下に公表すると共に十箇條から成る要求書を相撲協会に提出して四十八時間内にその回答を求める旨を申出て満足な回答を得るまでは同所に立籠ることになつた、力士団がその部屋を離れて一ケ所に立籠り角道革新の叫びを挙げるに至つたことは大正十二年一月以来の大事件である

提出した要求條項

力士団一同から相撲協会に提出された要求條項は左の如くである
一、相撲協会の会計制度を確立し
 その収支を明らかにすること
二、興行時間を改正すること
三、入場料を低下し角技を大衆の
 ものたらしむること
四、相撲茶屋と中錢とを撤廃する
 こと
五、年寄制度を漸次に廃止するこ
 と
六、養老金制度を確立すること
七、地方巡業制度を根本的に改革
 すること
八、力士の収入を増加し生活を安
 定ならしむること
九、冗員を整理すること
十、力士協会を設立し共済組合
 制度を確立すること

武蔵山はじめ続々
 散歩を装つて集る
  東方も多数合流へ

相撲協会所属力士団一同が立籠るまで午前十一時ごろ稽古を終つた力士は正午過ぎ思ひ/\に散歩にでも出るやうな態度を装つて出羽ノ海部屋を出て午後二時までに省線大井駅に下車或ひは圓タクで春秋園に集合した力士は大ノ里、武蔵山、天龍、綾桜の西方三役力士を初め西方幕ノ内力士の殆ど全部と十両力士であるが、尚ほこの外に東方力士中にもこの運動に参加する希望の者がかなり多いので七日までには東方幕内力士も多数参加して立籠ることになるであらう

「決議文を見た上
 態度を決めたい」
  出羽海取締の憂色

出羽ノ海取締は愕然として且つ憂はしげに語る
「私共はそんなことが起つたのは少しも知りませんでした、さういへばけさ十時頃に部屋の連中が思ひ/\に出て行つたので何か散歩にでも行つたのではないかと思つてゐる矢先に貴社からの電話で初めて承つたのです角道の改革といつたところで数年前の紛糾以来角界は至極静穏で何事もなかつたのですが一体彼れらは何をやらうといふのでせう、とに角その決議文なり何なり見た上でないと何とも私共の態度は決しかねます、何分この十四日の初日も間近ですし何とか円満な行動を執つてくれゝばよいが……」

  

参考文献
上記(1)の出典は養賢堂編「畜産の研究」50巻6号77ページ、高石啓一「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」、平成8年6月、養賢堂=原本、(2)は同60巻2号320ページ、高石啓一「料理の友による成吉思汗料理考」、平成18年2月、同、資料その1はいずれも昭和7年1月7日付夕刊2面(6日夕方配布)=マイクロフィルム、 (3)は昭和7年1月9日付報知新聞朝刊3面、「第5回相撲座談会」より=マイクロフィルム

 はい、どんな違いを見付けましたかな。東京日日だけは集合場所を「特に秘す」として書いていませんね。なぜかな。私が思うには、東京日日の相撲担当記者は集合場所は「特に秘す」として、前もって原稿をデスクに渡した。そういう原稿を専門用語で予定稿と呼びます。デスクは前々から天龍一派の改革運動についてその記者から詳しく聞いていたし、場所は隠す約束があるならと記者を信用してそのまま載せた。
 予定稿は事前に活字で組んでいるから、もし何か原稿と違いが生じたら、あそこはこう直してと電話を入れて、すぐ訂正できます。刻々手直ししていくから、事件が一段落してから書いた記事と同じ内容になるのだけれど、刻々書いているのと同じで制作時間がうんと縮められるというメリットがあります。昔は植字工が原稿を読み読み、手で鉛活字を1本ずつ拾って記事を組んでおり、印刷スピードも遅かったから、そうした予定稿はとても重宝がられたのです。
 当時の新聞輸送の主力は汽車でした。駅で下ろされる新聞を販売店に運び、配達少年が配る。非常に時間が掛かるので、東京の本社から遠方へ送る新聞ほど早く刷り上げないと、夕方までに配達できない。だから先に刷るのです。北海道だと、汽車と青函連絡船で運ぶのですから、とてもその日付のうちに新聞が届きません。それで東京で印刷する朝日、毎日、読売新聞はね、北海道向けの夕刊はなくて、1日遅れで届く統合版と呼ばれる朝刊だけでした。
 昭和34年に3社が一斉にファクシミリという伝送方式を使い、東京で組んだ紙面を札幌に送り、札幌で印刷を始めるまでは、日曜のナイターの結果なんか、水曜配達の統合版に載っていたというぐらい遅かったそうですからね。北海道新聞など道内発行の新聞は、この1日という運送の時間差の壁に守られて部数を伸ばしたといっても過言ではありません。
 こうした田舎向けといいますか、遠方に送るため早い時間帯に印刷する紙面を新聞社内では早版といい、本社のある東京市内に配る紙面が遅版でした。読者に対して特に事件の記事は続けて読ませたい、欠落なしに伝えたいので、朝刊と夕刊を配る地域では、夕刊遅版の記事を朝刊早版に入れ、朝刊遅版の記事は夕刊早版に入れるというように繰り返して組むのが基本です。
 もちろんその間に情勢が変われば、刻々書き換えるので、まったく同じということはありません。これら3紙のマイクロフィルムを見ると、欄外の日付のそばに夕刊だとCの字が入っています。その版の種類を示す符号で、Aから始まってCは3つ目になる遅版を意味しているはずです。朝刊だとGですが、脱退力士団から逃げ出した武蔵山が13日午前2時過ぎに発見されたという記事を載せた東京日日の13日朝刊にはHが付いていますから、この日は8つ目の版まで作ったと思われます。
 それから、新聞社同士で早版遅版の新聞を交換しており、それで抜かれた記事の有無を確かめることができたそうです。このため特ダネは早版から入れず、見たときにはもう追いつけないように遅版から掲載するとか、早版から載せても大事なことは隠して書いたりした。この「特に秘す」がそのいい例だと思いますが、新聞社同士の間にも、虚々実々の駆け引きがあったそうです。
 たまたま昭和6年の「料理の友」を見ていたら「新聞の出来上るまで」という記事かあったんですよ。当時数寄屋橋のたもとにあった朝日の東京本社を参観したひで子という女性が書いたものでね。朝日の版建てと発送のことが書いてあり、ここの説明にちょうどいいので資料その2としました。

資料その2

<略> 私達の参観しました時は恰度夕刊を刷つてゐましたが、この夕刊だけでも三版に分れて居り、午前十時から正午までの締切が第一版、午後一時半の締切が第二版、二時半の締切が第三版。東京市内に配達するのは最後の版ださうです。遠方程早い版にしますから配達の時刻は大抵一定してゐます。
 朝刊は七版に分れでゐて、午後六時に第一版を締切り、夜半の一時半から二時位までに最後の版を締切ります。その最後の締切後にも不意にどんな事件が突発しないとも限りませんから、之に備へるために、宿直社員が三十人位づゝ居りまして、何か事があれば直ぐに自動車を飛ばすとか、電話をかけるとか、適宜の処置をとり、組み上げられた活字でも直ぐに組み直して、出来るだけ精確な報導を 敏速にする事に極力努力してゐます。

 いいですか。各地の図書館が地元で購読して保存した新聞は別ですが、新聞社に保存されている紙面は、資料その2でわかるように、朝刊と夕刊の最終版だということを頭に置いて見てくださいよ。それを写真に撮ったマイクロフィルムや縮刷版の紙面は当然、東京市内もしくは新聞社のある都市に配達する最終版です。
 ですから、早版から遅版までの間に、記事がどう変化したかは、新聞社内にいる編集と印刷の一部の人しか知ることができません。ましてや、70年も昔のことですから、そんな紙面が全部残っているとは考えにくいし、見比べることはほぼ不可能でしょう。ああ、それから地方ごとに違う地方版のページも保存していて、それぞれのマイクロフィルムも作っている新聞社もあります。
 資料その1の記事を読み比べると、読売と東京日日の前文は、特に初めのところがそっくりですね。前文というのは、サマリーとして先頭に置く記事で、北海道新聞の場合、デスクは新米記者に「前文は骨だけ、肉に当たることは本記に書け」と教えるそうです。前文は要点、その後に詳しい本文を並べろということですね。もっと細かい、断片的なことはサイドとか雑感というような呼び方をするそうです。
 こうした古い時代の新聞製作の知識は、鉛活字を使い、輪転機に鉛の鋳型版を取り付けて印刷していた時代特有のもので、昔の新聞人でないと知りません。私はね、元新聞記者の古い親友から、じっくり教えてもらいましたから、こうした内部の事情は確かですよ。いまは本社のコンピューターでレイアウトして、全国何カ所かの印刷工場でオフセット印刷し、販売店へはトラック輸送と、すっかり変わっています。
 はい、なぜ東京日日は春秋園の名前を出さなかったのか。私は作業仮説として、こう考えたのです。力士の立て籠もり計画は東京日日の特ダネだったので、参加人数と場所はぼかして書くことを情報源と約束して、夕刊早版から遅版まで「特に秘す」で通した。田舎へ送る夕刊早版は10時ごろが締め切りで、昼前後に汽車に積んでいたでしょう。力士たちの集合時刻は午後2時でした。部屋を出てから数時間は行き先を秘密にしなければ相撲協会が集会阻止に動き出しますよね。
 朝日と読売は東京日日の夕刊早版を見て追っかけた。東京日日は集合場所を書いてませんから、親方や後援会関係者の所へ飛んでいき、やがて春秋園とわかり記事を書いた。朝日は自社の記事ができあがるまで待ちきれず、東京日日の記事を参考にして予定稿を用意し、春秋園に29人集合したことを確かめたので付け加えた。いいですか、これらは私の想像ですよ。
 読売も同様。出羽の海親方に電話したら、うまい具合に、記者の問い合わせで初めて知ったと話したので、親方も知らなかった情報をいち早くキャッチしていたように書いてはあるけれども、力士の人数はついに間に合わなかった。前文は東京日日の丸写しみたいだし、十両力士と書くべきところを重要力士と間違えています。慌てていた証拠でしょう。
 翌日の7日朝刊を読み比べると、力士たちが6日夜、ジンギスカンに舌鼓をうち萬歳を叫んで気勢をあげた(4)と載っているは東京日日だけです。ようやくジンパ学と春秋園事件とのつながりが見えましたね。朝日と読売もジンギスカンのことは書いたのに削られたのか、紙面にはありません。だから、朝日と読売の読者は6日夜に春秋園で力士らがジンギスカンを食べたことは知らされていません。だから高石さんが参考文献に挙げる東京日日の記事切り抜きは、道内向けの紙面だったとすれば東京で印刷し、北海道まで運ぶ間に1日遅れになり、翌8日に配られた7日付朝刊のはずなんです。
 それはおいといて―と。関連記事8本が載っている東京日日の7日朝刊7面、そのころは3面とか社会面と呼ばれていたページの左下隅に、力士が立てこもった春秋園の「独特の成吉思汗料理開始」という縦長の突き出し広告が載っていたのです。これは偶然だと思いますか。スライドでその紙面を見せましょう。はい、紙面の左下の方をよく見て。

      

 「サンデー毎日」というカットのすぐ上にある広告です。白い字です。なんとか春秋園と読めるでしょう。私はですよ、東京日日の相撲記者は天龍はもちろん、天龍の後援会にも深く食い込んで取材をした。そして春秋園が力士たちの決起大会や合宿所に使われることを知り、この際、春秋園の宣伝にもなると経営者に広告を出すよう勧めてきた成果とみたのです。
 ここまで話したことは、6日配達の夕刊と7日朝刊を読んだ私の第一印象による仮説なのです。でも、疑問もあるのです。どうして東京日日と読売の前文前半が似ているのか、前文後半は朝日も似たところがあるのはなぜか。意地の張り合いみたいな新聞記者の世界で、気安く真似て書くようなことはしないはずです。
 もしかすると、通信社が配信した記事を使ったためではないのか。いまは朝日、毎日、読売3紙は共同通信に加盟していないので、共同通信の記事が紙面に載ることはありません。しかし、昭和7年もそうだったのか。調べると昭和7年には大きな通信社としては日本電報通信社と日本新聞聯合社の2社がありました。昭和14年にこの2社が合併して同盟通信社が発足し、敗戦後、共同通信社として生まれ変わったのです。
 70年以上前の、しかも、とっくになくなった通信社が配信した記事を、どうやって見つければよいのか。元新聞記者の友人が「ローカル紙の記事をいくつか集めれば、それから抽出できるだろう」というので、やってみました。その結果はどんでん返し、さっきの東京日日特ダネ仮説は、特ダネどころか特オチのしそこないが真相だったのです。私が深読みしすぎたのです。失敗でした。ウィキペディアによると、失敗を解明して繰り返さないよう研究する失敗学会という立派な学会もあるそうですから、ここからは、通信社の記事を元にして考察し直しましょう。
 いまでこそ、北海道新聞は、中日新聞、西日本新聞と並ぶブロック3紙といわれていますが、昭和7年当時はそうではなかった。道内にたくさん新聞社があり、札樽では北海タイムスと小樽新聞が競争し、函館では函館新聞、函館毎日新聞、函館日日新聞と3つも新聞社がありました。私はこれに樺太日日新聞を加えた6紙の春秋園事件の記事を集めてみたのです。
 こうした地方新聞は記者の人数が少ないので地元取材に最も力を入れ、全国各地の事件事故、国内の政治経済、国際問題などの記事は通信社に依存していました。こうした編集体制は、いまでもあまり変わりません。それで紙面に余裕があれば、というか、地元記事が足りなくてスペースが空くようなら、通信社からの記事をちょん切らずそっくり載せている可能性があります。
 この6紙を選んだのは、札幌市立中央図書館にマイクロフィルムがあるからなのです。ただし、このころの北海タイムスはニーズが多いせいでフィルムの画面が完全にすり切れ、肉眼でもほとんど読めません。それで道文書館のフィルムをお借りしてコピーしたけれど、これもかなり危ない状況です。
 調べたところ、北海タイムスは1月6日は休刊日で朝夕刊ともなく、第一報は7日朝刊でした。このため6日夕刊用と7日朝刊用をリライトし、要求は8条に圧縮していました。樺太日日もリライトしてかなり短くして7日朝刊に載せていました。それで残る4紙が共通して使った記事3本が6日夕方に配る夕刊用として、通信社が配信した記事と推定しました。それが資料その3です。細かく見れば少し添削したり句読点を入れたりして各社違いはありますが、大筋は同じです。

資料その3

(1)
※※※※※※※※※※
(東京電話)去る大正十二年角界未曾有の紛擾を起こした角道革新運動はその後内部的にもしば/\問題となつてゐたが俄然去る五日春場所新番付発表を控へ西方人気相撲武蔵山天龍大の里を中心に西方相撲一同結束して角界多年の積弊打破の猛運動を開始したため相撲協会側では來る十四日春場所を前に控へ周章狼狽して善後策に狂奔してゐるが六日西方幕内力士一同及び十両力士は正午近くまでに各稽古場所を出で京浜沿線の市外某所に極秘裏に会合協議をなし角道改革のため奮起することを決定長文の宣言書を満天下に公表すると共に十ケ條から成る要求書を相撲協会に提出し四十八時間以内に回答を要求し満足なる回答を得るまでは同所に立籠ることになつたがかくの如く力士団が角道改革の叫びをあげるに至つたことは大正十二年十一月以来の大事件である

掲載紙 小樽新聞と函館毎日新聞

(2)
※※※※※※※※※※
(東京電話)力士団一同から相撲協会に提出された要求條項は左の如
きものである
一、相撲協會の會計制度を確立しその収支を明かにすること
二、興行時間を改正すること
三、入場料を低下し角技を大衆のものたらしめること
四、相撲茶屋と中銭制度を撤廃すること
五、年寄制度を漸次に廃止すること
六、養老金制度を確立すること
七、地方巡業制度を根本的に改革すること
八、力士の収入を増加し生活の安定を図ること
九、冗員を整理すること
一〇、力士協会を設立し共済制度を確立すること

掲載紙 小樽新聞と函館毎日新聞

(3)
※※※※※※※※※※
(東京電話)相撲協會所属力士團一同の立こもつた場所は市外大井町
の某所で六日午前十一時より稽古を終つた各力士は正午過ぎ思ひ
/\散歩にでも出る様な態度を装て出羽の海部屋を出で午後二時半
省線電車で大井町下車或ひは圓タクで某所に集合したもので集合し
た力士は大の里武蔵山天龍綾櫻の西方三役力士を初め西方幕内力士
は殆んど全部に十両幕内力士達でなほ東方力士中にもこの運動に参
加する希望のものが可なり多いので七日までは東方幕内力士より多
数参加し立こもる事になるであらうと

掲載紙 小樽新聞と函館毎日新聞

  

参考文献
上記(4)の出典は昭和7年1月7日付東京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、資料その2は大日本料理研究会編「料理の友」19巻9号133ページ、昭和6年9月、料理の友社=館内限定近デジ本、 資料その3(1)と(2)と(3)はいずれも同年1月7日付小樽新聞朝刊7面と同年1月8日付函館毎日新聞夕刊2面(7日夕配達)、同

 函館新聞は7日夕方に配達した8日付夕刊に(1)の前半と(2)をつないだ記事及び協会の態度と出羽の海取締の談話を合わせた記事の2本を掲載しています。函館日日新聞も同様です。これでわかることは、東京日日の記事は(1)の前半と(2)、それに(3)を加えた構成、實は小樽新聞など地方紙と同じだったということです。とても相撲協会に相撲記者を詰めさせている大手新聞社とは思えない紙面だったのです。
 東京日日は独自の記事が何もない、いや夕刊は通信社の記事だけで十分と判断したともいえますが、とにかく集合場所を(特に秘す)としたのは、社会面の締め切り時間までに春秋園に集合していることを突き止められず、他紙との対抗上、知ってはいるけど―と、強がりを示したと受け取られても仕方がないですよね。
 この春秋園事件の始まりは、どうも通信社のスクープだったらしい。そう考えれば、いまいったように通信社の記者が、集合場所については6日中は伏せる。省線電車大井町駅下車で行ける場所という程度にとどめると約束した。そして脱退計画を聞き出し、加盟社に配信した。朝日の記者も力士たちの不満はよく知っていたので、通信社の記事を見て、すぐ後援会筋に当たって春秋園を突き止め、出入りする関取を数えた。最後に天龍に29人来ていることを確かめて夕刊用に送った。
 読売は通信社の記事を見て、すぐ出羽の海取締に電話を掛けた。さっきもいいましたが、うまい具合に初耳だといったので即談話にして入れたけれども、力士の人数は間に合わなかった。一番立ち後れたのが東京日日です。通信社にどこに集まるのかと問い合わせたところで、情報源との信義に関わるから答えるわけがありません。相撲取材の経験者が出払っていたのかも知れませんが、通信社の記事でお茶を濁さざるを得なかったのですね。
 だいたい、各社はこんな動きをしたと考えます。通信社の配信記事で、最初思いついた東京日日の独走仮説は完全な否定されました。では、この一連の記事を送った通信社はどこなのか。北大図書館に通信社史刊行会編「通信社史」という、どこの通信社かわからない愛想のないタイトルの社史があるので、それを読んでみたらズバリ書いてあったのです。資料その4に引用しましたが、日本新聞聯合社という通信社の特ダネだったのです。

資料その4

 聯合内信の拡充 しかし、時局は、それに関係なく、急迫の一途をたどり、「聯合」の活躍を必要とした。そして、「聯合」内信は昭和七年(一九三二年)に少なくとも二つの大きなスクープを記録した。一つは天龍一派の大日本相撲協会脱退であり、もう一つは桜田門事件であった。桜田門事件というのは、一月八日、天皇が代々木練兵場における「陸軍始」観兵式からの帰途、桜田門外警視庁前に差しかかったとき、一朝鮮人が御料車めがけて爆弾を投げつけた事件で、たまたま「聯合」の警視庁詰め記者が居合わせたので第一報の速報に成功したのである。<略>

 小見出しの「内信」とは、外国のことを伝える外信に対して、国内のことを扱うので、こう呼ばれました。資料の4の「それ」とは、ちょうど満洲事変が起き、戦闘状況を伝える通信経費が経営を圧迫したことを指します。にもかかわらず重大事件が続発するので内信要員を増やし、6年間に3倍、109人(5)に達したとあります。省庁の発表事項を府県別の記事に書き分けるのも、内信の大事な仕事の一つだそうですよ。
 聯合社の年表を見ると、昭和7年1月は3日の日本軍の満洲・錦州入城、6日の社会民衆党の3反綱領決定、8日の桜田門事件発生と犬養首相の辞表奉呈(6)と続き、春秋園事件は入っていません。1000ページ近い本にたった1行、いや1行にもなっていない。こういう奥ゆかしい社史は、いかにも新聞紙面の黒子である通信社らしいと私は感服しましたよ。
 聯合は大正15年の創立で、東京と大阪両方の朝日と毎日など加盟社は8社(7)でしたが、どんどん増えました。創立時に読売は加盟していませんが、後で加盟したのでしょう。小樽新聞などは早く加盟しますが、北海タイムスなどは長く電報通信社を使いました。ですから、朝日、毎日、読売は当然、聯合の「天龍一派脱退」の特ダネ記事を見て、びっくりしたはずです。
 夕刊で連合に遅れを取ったので、各社の記者たちは朝刊で返り討ちだ、勝負だと春秋園はもちろん、協会、文部省などなどの取材に一斉に走り出したのです。そして作り上げた1例が、さきほどのスライドでみせた東京日日の7日朝刊の紙面だったのです。
 皆さんには見えなかった7面の記事を説明しますと「西方卅二力士」などのトップの大見出しがあり、前文には「天龍の後援者影山由巳氏の経営する市外大井町三五四五支那料理店春秋園(旧後藤毛織社長邸)に集まり(8)」と詳しい。「特に秘す」と6日に配った夕刊には書かなかったけれども、春秋園だったことは熟知していたのだといわんばかりです。
 「協会代表と力士 会見遂に物別れ」という見出しのすぐ右脇、四段1行に組んだ前文のお仕舞いの3行は「天龍後援会が援助して籠城の準備を整へ、一同は午後七時庭のテント内で羊肉の成吉思汗料理に舌鼓をうち萬歳を叫んで気勢をあげた(9)」と書いてあるのです。「羊肉の成吉思汗料理」というあたり、この記者さん、初めてジンギスカンを見た。もしかしたら禁酒を決めたばかりの力士たちに混じって、何切れかご相伴に与ったかも知れません。
 このくだりはジンパ学にとっては重要な記録なので、資料その5として前文の後半を入れておきました。確かにそう書いてあるでしょう。

資料その5

<略>午後七時力士側は一同春秋園二階鳳凰の間に集まつて天龍以下の交渉委員から報告を聞き、飽くまで闘ひを続けることを誓つた、かくして解決まで春秋園に籠城することを申し合せ、大ノ里、武蔵山、天龍、山錦を統制委員とし
【庶務部】綾櫻、常陸島、外ケ濱、綾昇【会計部】玉碇、羽後響【外務部】天龍、山錦【後援会連絡部】武蔵山、出羽ケ岳、和歌島、大和錦、新海、高ノ花【力士世話部】信夫山、大島、霞ケ浦
など学生運動のやうな組織を作り、午前六時起床、午後十時就寝、禁酒、禁足、七日から春秋園裏庭に土俵を築いて稽古をすることなどを定め、天龍後援会が援助して籠城の準備を整へ、一同は午後七時庭のテント内で羊肉の成吉思汗料理に舌鼓をうち萬歳を叫んで気勢をあげた

 これに対し朝日は「大井町春秋園に立て籠つた」、読売は「市外大井町春秋園に集合」という程度に止めています。しかも朝日は「力士団の統制のため総本部以下七部を設けこれが担当力士をそれ/\゛決定して午後三時五十分散会したが一切の経緯と決意とを明記した手紙を作成してこれを東方力士の代表たる玉錦等三役に交付し、廓清運動に参加方を勧誘する事になつた(10)」と書き、夜の動きは何も触れていません。
 読売は「『我々の要求はあくまでも真正なものだから明日からは我々同志は禁酒を断行して結束を固くして貰ひたい』と天竜が得意の上突つ張りよろしく一語一語を力強くブツ飛ばすと左党の武蔵山が真先に賛意の手を挙げる、甘党の出羽は云はれなくともといつたふうにニヤニヤしてゐる斯くて一同はいとも神妙に籠城の第一夜を見事押し切つた(11)」となっています。7日からの規則だから6日夜は一杯飲んだかも知れませんね。東京日日にしてもジンギスカンを食べたとは書いたが、酒は飲んだとは書いていません。禁酒を誓ったばかりですから、力士たちは我慢したのでしょうかね。
  

参考文献
上記資料その4の出典は社史刊行会編「通信社史」288ページ、昭和33年12月、社史刊行委員会=原本、(5)は同289ページ、同、(6)は同991ページ、同、(7)は同260ページ、同、 (8)と(9)と資料その5は昭和7年1月7日付東京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、(10)は同付朝日新聞朝刊7面、同、(11)は同付読売新聞朝刊7面、同

 このように3紙のうちでジンギスカンを食べたと書いたのは東京日日だけなので、事実なのか疑わしくもあります。それで私は當時東京で発行されていた12の日刊紙を全部調べてみたら、朝夕刊両方、朝刊だけ、夕刊だけと3つの発行形態があり、抜いた抜かれたと一律に評価しにくいことがわかったのです。でもジンギスカンを食べたと書いたかどうかはわかりますから、違いを一覧表にまとめて資料その6としました。ちょっと変わった表でしょう。
 まず左端の新聞名から説明すると、時事は時事新報、中外は日本経済新聞の前身の中外商業新報、報知は報知新聞、都は都新聞、国民は国民新聞も万朝は万朝報、中央は中央新聞、やまはやまと新聞、二六は二六新報の略。その後ろの数字は朝刊夕刊の順で普段のページ数です。日曜夕刊は休刊なのですが、読売と朝刊だけの都と国民の3紙は読者サービスに夕刊を発行しています。ああ、念のためですが、やまと新聞と二六新報は夕刊の位置に記号をつけたけれど、ノンブルと呼ぶ発行日付けとしては翌日になってますからね。
 次の数字は通常の朝刊と夕刊のページ数。10・4は朝刊10ページ、夕刊4ページを示し、号外は数えない。時事新報の10・4は国会図書館のマイクロフィルムでのページ数です。北大図書館で保存している時事新報はだ、東京で印刷して北大に配達された「北海樺太版」の原紙で、夕刊が10〜12ページ、朝刊が4ページと東京で配達される紙面建てとは違っています。早い話が首都圏向けの朝刊に夕刊の題字をつけ、夕刊が朝刊になるようして1日遅れで配達したのですね。ページをめくると破れそうで、本当に拝見させて頂くという気持ちになりましたね。もちろんコピー禁止、こういう調べ物を一度やると、マイクロフィルムのありがたさがよくわかりますよ。
 それから記号ですが、7日付夕刊に集合場所は春秋園と明記していれば○、特に場所は秘すと通信社原稿のままなら△、春秋園事件について1行でも書いていれば…、何もなければ―、7日朝刊と10日朝刊にジンギスカンを食べたとあれば◎、もちろん子供のご飯じゃないから酒を飲むことを含む―ね。ジンギスカンは食べたとは書かず酒で乾杯したなら▲を付けました。万朝報と中央新聞は夕刊用記事の締め切り時間が早いせいか7日付夕刊には何も載ってないので当然―。やまと新聞と二六新報は夕刊紙だが、7日夕方配達であり、ジンギスカンが入っていれば◎なんだが、春秋園だけなので○ね。
 報知新聞は春秋園事件ではなく1面の「評壇」6項目のうちの1項目が「大関躍進の武蔵山」という見出しで「小結から一躍大関に昇進した武蔵山、當人の実力にもよらうが、少しは運命の神のお手傳もあらう。(12)」と書いてあるので…ではなく〜にしました。

資料その6

     7日 7日 8日 8日 9日 9日 10日 10日 11日
     付夕 朝刊 付夕 朝刊 付夕 朝刊 付夕 朝刊 付夕
朝日10・4 ○  …  …  …  …  …  …  ◎J
東日10・4 △  ◎  …  …  …  …  …  ◎K
読売10・4 ○  …  …  …  …  …  …  ▲L ▲R
時事10・4 △@ ◎B …  …  …  …  …  ▲M
中外10・4 ○A …  …  …  …  …  …  ▲N
報知 8・4 〜  ◎C …  …  …  …  …  ◎O
都 14・0    ◎D    …     …     ◎P ▲S
国民10・0    ◎E    …     …     ▲Q …
万朝 4・4 ―  ○F …  …  …  …  …  …
中央 4・4 ―  ○G …  …  …  …  …  …
やま 0・4 ―     ○H    …     …     …
二六 0・4 ―     ○I    …     …     …

 こうやってみると、6日夜にジンギスカンを食べたと7日朝刊に書いた新聞は5社もあり、多数決ではないが、食べたことは間違いないと判定できますよね。朝日、東京日日、読売の記事はすでに資料その1と4で示したから省略して、その他の新聞が掲載した集合場所と1回目のジンギスカンを食べた、もしくは冷酒で乾杯したという一連の記事にIまでの番号を付けて並べて記事を読み比べられるようにしました。それが資料その6で要求項目、申し合わせ事項は各社ほぼ同じなので略しました。
 時事新報の7日付夕刊は△で、東京日日と同じく新聞聯合からの「某所」で凌いだことがわかりますね。報知はゼロなので事実上は―なんですが、訳ありで〜。でも報知の相撲記者だった加藤進は、このとき春秋園に行って天龍たちと会い、報知主催の相撲座談会に出て相撲通の名士と語り合えば早く片付くのではないかと出席を頼んだけれど、力士団はうんといわなかった(13)というのです。
 報知は8日朝刊に3段抜きで、結束を天地神明に誓う誓約書の全文と「三十二名がそれ/\゛自署し指を切つて血判を押した(14)」という記事を載せてますが、このとき加藤が掴んだか特ダネみたいな扱いだが、地味な扱いながらも時事新報と中外商業新報が血判を押したことと誓約文の全文を載せ、都新聞も第一夜の動きの中で誓約書の大意と「一同之に署名血判して結束を固め」た(15)と張り合っています。
 くどくわけではないが、マイクロフィルム読みは大変なんですよ。経年劣化のひどい紙面のポジ写真なので、明るさを上げてコピーしても全体に暗くて非常に読みにくい。それを読んでコピーを取ってもスキャナーでの文字化けがひどく、原文通りに復原するのに手間と時間がかかりますが、ジンバ学上重要な記事ですから忽せにはできません。精粗ありますが、読者の多くはこれらの記事によって羊の肉を焼いて食べるのがジンギスカン鍋、ジンギスカン料理だという知識を得たはずで、羊肉食普及でも画期的な事件だったと私は評価しています。資料その7の出典は参考文献に入れると、照合が面倒になるので記事の下に置き、マイクロフィルムによることは略しました。

資料その7

時事新報@

武藏山・天龍が中心に
 相撲界革新の烽火
  西方一同要求書を提出
   春場所を控へて協会大揺れ

去る大正十二年角界未曾有の紛争を起した角道革新運動は其後内部的に屡々問題となつて居たが、俄然五日春場所新番附発表を機会に西方の人気力士武蔵山、天龍、大の里を中心に西方相撲一同結束して角界多年の積弊打破の猛運動を開始した為め相撲協会では、來る十四日の春場所を前に控へて居ることゝて周章狼狽して善後策に狂奔して居る、六日西方幕内力士一同及び十両力士は正午迄に各部屋を出で京浜沿線の某所(特に場所を秘す)に集合極秘裡に角道改革の為め奮起することを決定し長文の声明を発表すると共に十ケ條から成る要求書を提出し四十八時間以内に回答を求める旨を申出で満足なる回答を得る迄は同所に立籠ることになつた、斯くの如き角道革新の叫びを掲ぐるに至つたことは大正十二年以来の事である
(昭和7年1月7日付時事新報夕刊2面=マイクロフィルム、)

東方へも漸く波及
 大の里以下西方揃つて
  けふ大井町に立籠る

相撲協会所属力士団一同が立籠つた場所は市外大井町某所で六日午前十一時頃稽古を終つた力士は正午過ぎ思ひ/\に散歩にでも出るやうに装ふて出羽海部屋を出て、午後二時迄に省線電車又は円タクで集合したもので集つた力士は大の里、武蔵山、天竜、綾桜の西方三役力士を初め西方幕内力士の殆ど全部と、十両力士達であるが尚ほ此外に東方力士中にも此運動に参加する希望者が可なり多いので七日迄には東方幕内力士の多数も参加することになるであらう
(昭和7年1月7日付時事新報夕刊2面=マイクロフィルム、)


中外商業新報A

春場所を目睫に控へ
 果然力士の大争議起る
  西方全部けふ春秋園に立籠る
   協倉側極度に狼狽

去る大正十二年角界未曾有の紛擾を起した角道革新運動はその後内部的に屡々問題となつてゐたが
 果然  去る五日の春場所新番付発表を機会に西方の人気力士武蔵山、天龍、大の里を中心に西方相撲一同が結束して角界多年の積弊打破の猛運動を開始したゝめ相撲協会側では來る十四日の春場所を前に控へてゐることゝて周章狼狽して善後策に狂奔してゐる、
 六日  西方幕の内力士一同および十両力士は正午過ぎ各々その部屋を出で京浜沿線市外大井町春秋園に極秘裡に集合協議し角道改革のため奮起することを決定し長文の宣言書を満天下に公表すると共に十ケ條から成る要求書を相撲協会に提出し、四十八時間内にその
 回答  を求める旨を申し出で、満足なる回答を得るまでは同所に立て籠ることになつた、力士がその部屋を離れて一ケ所に立て籠り角道革新の叫びを挙げるにいたつたことは大正十二年一月以来の大事件である
(昭和7年1月7日付中外商業新報夕刊2面=マイクロフィルム、)

東方力士も参加

相撲協会所属力士団一同が立て籠つた場所は春秋園で六日午前十一時ごろ稽古を終つた力士は正午過ぎ思ひ/\に散歩にでも出るような態度を装うて出羽の海部屋を出て午後二時までに省線電車で大井町駅に下車或は円タクで集合したもので、集合した力士は大ノ里、武蔵山、天龍、綾桜の西方三役力士を始め西方幕の内力士の殆ど全部と十両力士達であるが、なほこの外に東方力士中にもこの運動に参加する希望のものがかなり多いので、七日までには東方幕の内力士も多数参加して立て籠ることになるであらう
(昭和7年1月7日付中外商業新報夕刊2面=マイクロフィルム、)


時事新報B

本部裏手で稽古を
 成吉思汗鍋で気焔

問題解決まではかたく籠城を決意した西方力士卅二名は、六日夜は春秋園、庭園の紅白の幔幕内で成吉思汗鍋で夕食を摂り大に前途を祝し合ひ、全員を総本部、庶務掛、会計部、外務部、後援会聯絡部、力士世話掛等の各掛を設け、事件解決まで禁酒を申合せ、今七日は早朝から春秋園裏手に土俵を造り八日より猛練習を行ふことゝなつた
(昭和7年1月7日付時事新報夕刊2面=マイクロフィルムと同8日付時事新報・北海樺太版朝刊2面=原本は同じ記事)

報知新聞C

けふから自炊
 火の出る稽古

協会の態度をあきたらずとした天龍、大の里、武蔵山等は協会が要求を容れるまで春秋園に立てこもることを申合せたが、更に天龍の動議によつて七日より一切禁酒をなすことゝし、六日夜は庭のテント張りで一同結束をちかつてヂンギスカンが戦ひの門出に剣をもつ て羊を斬つてつくつたといふ
 故事  によるヂンギスカン鍋をつゝいて冷酒の盃をあげ奮闘の決意をかためた、更に春秋園の庭に土俵を設けて七日より稽古をする事とし、一同は六日夜だけはお客さんとして同園に泊つたが、七日からは自炊し、夜は倉の中に寝て目的の達成まで籠城する傍ら火花の出るやうな稽古をする事になつた、なほ出羽の海部屋の先輩なる春日野(元栃木山)藤島(元常の花)の両氏は六日午後九時これまた慰撫のため春秋園を訪ねたが一同の結束の意外にたかいのに驚き、大の里、武蔵山、天龍に面会し
 お前等の要求する處は我々もよく諒解してゐるから出来るだけ努力しよう、十四日が
 初日  だから成績に関係があるやうでは心配だ、稽古をすると聞いて安心した、みんなに身体を大事にするやうに伝へてくれ
と午後十時頃引とつた
(昭和7年1月7日付報知新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)


都新聞D

禁酒を誓ひ
 籠城の第一夜
  藤島との會見に劇的の場面
   要求書返却を力士団拒絶

革新を叫んで起つた力士団の本部春秋園では別館階下娯楽室で打ち興じてゐた力士連は、午後六時十分協会への使者に立つた委員が帰つて來たので一度にどつと協議室に宛られた二階鳳凰の間に集り、委員からり経過を聞き約一時間に亘つて対策を練つた
    ◇
長方形六十畳敷の西洋間中央に長くテーブルを連ね両側に無雑作に居並んだところは一寸見られぬ奇観であらふ、羽織袴に衣紋を整へたのや、薩摩絣の着流しや大島の対に仙台平、さては寝巻なのか外出着か判断のつきかねるのを纏まつたのやらで如何にもお角力らしい風景である
    ◇
八時になると協会側から千賀の浦、花籠の両幹事が委員として乗り込んで來たので、力士側からは大の里、武蔵山、山錦、天龍の四名が紅葉の間で會見約二十分に亘つたが、協会幹部の意嚮として力士は協会へ直接に要求その他を提出することは誓約書に認められてゐないから、各所属の親方の手を通じて出せと形式論を主張するのに反し、力士側では手続上に手落はないと述べ、一応合議の上要求書返却を拒絶したので両使者も持て餘し結局諸君の意嚮は幹部へ伝へると八時五分會見を打ち切り引き上げた
    ◇
両使者が引き取つてから約五分位たつたと思はれる頃入りかはつて藤島が訪問したので前記の四名が会見し先輩としての自分等がお前達の前途のためにつくすことは当然のことである、この件で物質的に後援者や旦那筋からの援助でもあるか、又は第三者の支持でも受けてゐるやうであれば後日抜き差しのならないことになるから注意しなければならないと諭し天龍からその厚意を謝し、藤島は最後に健康に注意して土俵に立つて失敗しないやうにと注意し約十分間で会見を終り一同の見送りを受けて引き上げた
    ◇
尚この日天龍より「今後飽迄結粛k固め要求を貫徹する為めに一同禁酒を實行して貰ひ度い」と一同に計り、禁酒の申合せ冷酒の乾盃に今後の結束を誓ひ蒙古料理を鱈腹喰ひ、気焔万丈、籠城第一夜を過ごした
(昭和7年1月7日付都新聞朝刊13面=マイクロフィルム、)


国民新聞E

その夜の籠城力士<横見出し>
 蒙古料理で大気焔
  一同禁酒誓って結束し
    仮土俵でけふから稽古する

大井町春秋園に立こもり角界革新の烽火をあげた西方幕内十両力士三十二名は愈々結束を固め、天龍より「今後飽迄結束を固め要求を貫徹するために一同禁酒を断行してもらひ度い」と一同に計り禁酒を申合せ、六日夜はそのまゝ同園に籠城し、七日朝より速成の土俵に設けて稽古を続ける事となつた
  ◇
その夜大ノ里、武蔵山、天龍などの協会へ行つたのを初め東方や新聞社廻りに交渉委員が出掛けた後の本部春秋園では、力士連は洋館階下の娯楽室に集り中でも和歌島関は天龍後援会の人達と双肌抜きでピンポンを始めあの巨躯に似ず中々鮮かな球さばきでまたゝく館に二、三人を撫で斬りにする、一方では愛嬌者の出羽ケ嶽が新海、金華山、伊勢ケ浜と卓を囲んで麻雀にふけり室の隅では肥州山が羽後響と黙々として烏鷺をたゝかはしてゐる
  ◇
六時過ぎに協会に出かけた一隊が相続いで帰つて來る、一同ぞろぞろと二階へ上つて天龍関の報告を謹聴する
 我々の要求はあくまでも真面目なものだから明日から一同禁酒を励行して結束を図つて貰ひたい
と天竜が云へば左党の武蔵山が緊張した面持で真先に勢ひよく手をあげて賛意を表し、甘党の出羽ケ嶽は夕刊を抱へ込んでエヘラ/\笑つてゐる
  ◇
一同が神妙に結束を申し合せた此の階上は勤王閣と言つて平常は正面に明治大帝の掛軸をかけ園の主人が毎朝礼拝をかゝさぬ部屋だ、この勤王閣で冷酒の乾盃に今後の結束を誓つた一同は更に成吉思汗が彼の席捲の大遠征に用ひたので有名な成吉思汗鍋を例の長い箸でつゝき合ひふうふう言ひながら熱い羊肉料理をたら腹食ひ、気焔萬丈、籠城第一夜を過ごした
(昭和7年1月7日付国民新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)


万朝報F

角界の廓清運動
 突如、内部から起る
  新大関武藏山以下西方力士結束し
   要求書を協會へ提出

去る大正十二年相撲界未曾有の紛擾をかもした、角界革新運動はその後しば/\問題となつてゐたが去る五日春場所新番附発表を機に西方の人気力士武藏山、天龍、大の里を中心に西方一同結束して角界多年の積弊打破の運動を開始した為相撲協会では十四日の春場所を前に周章狼狽して善後策に狂奔してゐるが六日西方幕内力士一同及十両力士は正午過ぎ各自の部屋を出て京浜沿線市外大井町春秋園内に極秘裡に集合して角界革新のため奮起する申合せをなし宣言書を作製発表すると共に左の如き要求書を相撲協会に提出し満足なる回答を得ざるときは各力士は所属部屋を離れて同所に立籠り角界革新を期することゝなつた
 要求事項<略>
(昭和7年1月7日付万朝報朝刊3面=マイクロフィルム、)


やまと新聞H

西方力士の要求提出に
 朝來、協會側善後策を協議
  籠城軍更らに結束を固む
   東方合流は難問題か

春場所を週日後に控へて、相撲界に突如改革の嵐が捲き起つた、六日常例の稽古を終へた後、出羽の海部屋に属する武蔵山、大の里、天龍、綾桜以下の西方力士は市外大井町駅前春秋園に会合の上、別項の如き八ケ條より成る要求書を決議すると共に長文の宣言書を作製する一方『相撲愛好者各位に訴ふ』の檄を飛ばせて角道を時代の潮に乗せるべく、相撲の大衆化を叫んで根本的改革を相撲協會に迫つた、而して午後五時半武蔵山、大の里、天龍、綾桜の三役力士を代表として協会を訪問該要求書を提出せしめた、此の際協会には出羽の海高砂両取締及び春日野、花籠、山科、谷川等の幹部が居合せたが、何れも寝耳に水であり、餘りにも突然に起れる重大事ではあり、且つ又要求は親方を通じて提出するとの厳重なる内規があることゝて、その驚きは一方ならず直に善後措置を協議した後、調停役として千賀浦と花籠両氏を春秋園に派遣したが力士の結束堅く如何ともなし得ず、更に出羽の海部屋の先輩たる春日野、藤島両氏も現地に赴いて極力鎮撫に努めた、然し力士団体は終に同夜は春秋園に籠城して目的の貫徹に鋭意し、七日も只管結束を堅めてゐる、一方協會でも七日朝八時から幹部室に於て役員會を開き之れが善後措置を熟議したが、大体に於て要求は協会としても永年の懸案とする所でその実行に臨みつゝあることであるが、唯『年寄制の全廃』が一大問題となつてゐる模様である、他方合流の勧誘を受けてゐる新東方玉錦、能代潟以下の力士は、七日も早朝から立浪部屋に於て猛烈なる聯合稽古を行つてゐるが、終了後此の問題に就き熟議を凝らすことになつてゐる、勿論要求事項には異論なきも、西方と違つて複雑なる関係もある所か直ちに共同戦線を張るか否かは一部問題が存する如く観られてゐる、尚角界に此の種の大問題が起つたのは、明治四十四年夏及び大正十二年一月の三河島籠城があり、後者から今年は丁度十年目である
(昭和7年1月8日付やまと新聞夕刊2面=マイクロフィルム、)


二六新報I

出羽の海部屋一同の宣言行動に
 東方は合流せず
  争ひは協會対西方一同

大相撲紛擾は別項の通りとして、昨夜、東方の合流を西方代表山錦霞ケ浦とに求められた東方の大関
 玉錦は  七日、立浪部屋における東方聯合稽古後に一同の協議を開き何分の返答をなすと別れた結果、けさの東方協議会が最も注目されてゐたところ、その立浪部屋では、けさ七時半から各力士が参集し、それに徳川家達公酒井子、柳沢伯等の正面桟敷における
 名士フ  アンの見物あり猛烈な稽古が正午近くまで行はれたが、この稽古中當の玉錦は『私は昨夜突然書面を突きつけられたがかうしたものは自分一人で開封すべきでないと思ひ役員に渡しました、別に稽古後とても相談会なぞは開かないでせう』と語つたが東方各力士共に寝耳に水のこととて統一がとれず、それに高砂、井筒、立浪の各部屋とも
 昨夜寝  込んだ力士を親方がたゝき起し『西方に合流する如きことあらば承知せぬぞ』とおどかされたこともあり目下の處合流は不可能と見られてゐる

改革を約して場所を
 開き千秋樂後に
  解決を付けるらし

相撲界の積弊打破の要求書を提出された大相撲協会では上を下への大騒ぎとなり目下大阪に旅行中の入間川取締に急報すると同時に今朝七時半会長尾野大将を除く両取締役、監事、理事等を
 召集し  八時から一般役員會(平年寄)を開催し種々協議をなした上十時に終了し、引続き協会奥廿畳の間で理事会を開催したが入口には若い者四五名を頑張らせ物々してものであつた、理事間には目下の協会の財政上西方力士の要求は入れられぬと
 強硬意  見を持つものと協会の面目上力士の要求を出来るだけ入れて春場所に差支へぬ様にといふ一派と硬軟両派に別れて午後に持ち越したが此の理事会の結果を夕刻大井の西方へ伝へる事になつてと同時一般にも
 発表す  る由、一方理事会開催中鳴戸、伊勢ケ濱、二十山立浪の諸氏は玉錦以下東方の力士を訪問し意見をきゝ歩いたが大体改革を約して置いて春場所打揚後に細目を決定したいと云ふ事になつたらしい

西方結束固く
 元氣素晴し

一方大井町春秋園に立て籠つた西方力士三十二名は今朝來自治制による各部の役員を決定したり、他の力士にかたかけで同園の裏庭の
 樹を斬  り倒し土俵を築いてゐるがそれも今日中には出來るので明八日からは稽古を行ふ事になつてゐる、天龍と武蔵山の両名は午前十時に大井署長を訪問し
 諒解を  求めたが何れも結束固く要求貫徹まで籠城をなすとて素晴らしい元気である
(昭和7年1月8日付二六新報朝刊2面=マイクロフィルム、)

  

参考文献
上記の(12)の出典は昭和7年1月7日付報知新聞夕刊1面=マイクロフィルム、 (13)は相撲趣味の会編「大砲から大鵬まで」288ページ、昭和36年2月、万有出版=館内限定近デジ本、 (14)は昭和7年1月8日付報知新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (15)は同日付都新聞朝刊13面、同、

 さて、大井町春秋園に集団で泊まり込む最初の晩、1月6日夜ですね。力士たちは冷酒の乾杯のほかにジンギスカンを食べたという記事を載せたのは東京日日新聞、時事新報、国民新聞の3紙だったことは、皆さんガッテンですね。都新聞と国民新聞のサイド記事の尻尾の1コマは新聞聯合の記事を元にしたようですが、国民新聞は蒙古料理か羊肉料理だった箇所の前に「成吉思汗が彼の席捲の大遠征に用ひたので有名な成吉思汗鍋を例の長い箸でつゝき合ひふうふう言ひながら」と書き足した。
 いや逆に削ったのではないかと考える人もいると思いますが、新聞記者だった友達にこの記事を読んでもらったところ、通信社は早く送ることが最優先、記事が短かければ送信も早く終わるので、これは国民新聞の記者が筆を入れたと思うといってましたがね。その記者は相撲担当だったかどうかわかりませんが、春秋園かどこかでジンギスカンを食べたことがあった人ですね。
 更に革新力士団の行動をたどっていくと、それから4日後、力士団が相撲協会に脱退届を出した1月10日の夜、もう1回ジンギスカンを食べたという記事を資料その7に集め、番号を引き継いでJから振っています。6日夜と違って今度は朝日と東京日日と都新聞が鍋を入れた写真を付けているから確実です。
 鍋を掛けた焜炉に注目すると、前回のスライドで見せた春秋園の横長広告の焜炉の絵に似ている。足が長くて、焜炉の底と鍋の焼き面が対称型に見えますね。空飛ぶ円盤型UFOが着地用の足を出したみたい。なに、前回休んで見なかったって? じゃ、予定外だが、もう一度スライドで見せよう。焜炉に鍋を掛けた形が似ているでしょう。

     

 3枚で最もワイド画面の都新聞の写真を優遇しました。それぞれ写真説明がありますが、見ればわかることなので省略ね。右側から出ている手の箸を見なさい。普通の箸より長い。天ぷらを揚げるときに使う長い竹箸たが、それぞれのテーブルとなす角度を比べなさい。もっと、よく見てほしいのは鍋の真後ろの関取の頭上で3つの白い茶碗が作る三角形だ、同じように見えます。特に朝日と東京日日の写真が非常に似ている。それで私はてっきり新聞聯合のカメラマンが撮った写真を両社が掲載したと見て、これまでそう説明してきたのです。
 ところが、マイクロフィルムを拡大して読むアナログ式リーダーの写真では不鮮明で違いがわからなかったのであって、世の中進み、朝日と毎日と読売は濃淡、コントラスト調整のできるデジタル式のリーダーの写真と、新聞データベースと3通りの写真が見られるようになった。朝日は縮刷版の写真もありますが、データベース聞蔵Uの画像が最も奇麗だ。それと東京日日と見比べたら、右端とその左の顔の間隔の開きと指先の位置、右から4人目の顔とその前に差し出されている上の茶碗との間隔、だれかの左手による鍋の左側上の顔の隠れ具合などの違いがはっきり認められる。両者はほぼ同時にシャッターを切っているが、朝日の方が東京日日より少し左寄りでカメラの位置が低いと推定されます。
 そうとわかった以上、ノーベル賞の対象ではなくてもだ、はっはっは。ジンギスカン研究の最先端を行く私としては、両新聞社の著作権を尊重しつつ、いい写真を皆さんに示さずにはおられません。それで、頑張るぞと乾杯する写真は両社とも記事データべースのものに差し替えました。焜炉の足がスライドの広告のように曲がっておらず真っ直ぐだとか、力士たちは盃ではなく、大きめの茶碗で乾杯しているよね。

資料その8

朝日新聞J

   ★……★
十一時過ぎ春秋園へ引あげた脱退力士団は二階に集り協議した後一同を代表して天龍が記者団に脱退届提出の始末を報告し声涙共に下る態度で今後もよろしく御願ひすると固い決心の程を示した後、十一時半一同は將來を誓つて萬歳を三唱しそれより裏庭に設けられた紅白のまん幕張りの宴會場に降り両国から運んで來た例のこも冠りをかつぎだして勢よく鏡を抜き羊二頭を血祭りに上げて料埋した、成吉汗なべをつゝいて仲よく歓談、將來を堅く誓つて干杯し門出を祝つた

  

(昭和7年1月10日付朝日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、写真は同社データベース聞蔵Uビジュアル・同日付紙面より)


東京日日新聞K

西方力士脱退
 鐵傘下の傳統潰ゆ
  籠城四日・廓清の力闘空しく
   新相撲團体を組織

角道刷新、更生を目指して大日本相撲協会西方力士団一同が結束して八ケ條の要求書を協会に提出、出羽ノ海部屋の先輩春日野、藤島の慰撫にも耳を藉さず、一路協会の反省を求めて去る六日以来市外大井町春秋園に籠城すること四日、その間数回にわたる文書の往復 により折衝を重ねてゐたが双方よ四つに組んで互に譲らず、力士団が最後の切札、根本問題としてゐる協会の会計検査を申し出でたるに対し九日朝協会側より「弁護士、計理士を加へたる会計検査は拒絶する」旨の電話があり、力士団から更に書面により返答を求めたところ同日午後八時半速達便で「今朝午前十時千賀ノ浦幹事より電話をもつて御答へしたる件は御書面の通り相違無之につき御回答及び候也」と拒絶を回答、この回答を手にした力士団は「会計検査を認めない協会は財政確立に対する誠意を欠くものだ、われ/\は今後行動を共にする事は出来ぬ、脱退だ」と極度に憤慨直に左記の如き声明書を発表し同時に「今般生等感ずるところあり財団法人大日本相撲協会所属力士たることを脱退仕り度くこの段御届に及び候也」との脱退届を作製、籠城力士卅二名一通毎に各自署名、拇印を捺し、また各自所属の出羽ノ海、春日野、山分、小野川親方に対し別記の如き師弟関係絶縁状をも作製し午後十時一同は春秋園前で首途の万歳を三唱して十臺の自動車に分乗、協会 に脱退届を提出し、更に出羽ノ海部屋に絶縁状を提出して引き揚げ春秋園内の紅白の天幕内で血をすゝる気持ちで乾杯し結束を固めて更生の首途を祝福した、かくて伝統と因襲の大日本相撲協会の内部に醸成した自壊作用は遂に結論を見出し、こゝに光輝ある歴史を有する協会は事実上分裂、大ノ里、武蔵山、天龍、山錦を主軸とする新相撲団体は大衆への大旆をかざして新しく誕生することとなつた

成涙の乾杯
 角道十字軍の意気

◇ 脱退届を協会に、師弟絶縁状を涙ながらに親方に提出した西方力士団一同は午後十一時過ぎ春秋園に引き揚げた、日頃はしやぎやの新海、常陸島がまつ先に玄関から入つたがさすがに目を泣きはらしてゐる
 藤島親方のおかみさんにまあ上つて行きなさいとやさしくいはれた時は思はず涙が出た上つたら大変だと袂を振りきつて帰つて來たが親方にはほんとにすまない
とオロ/\声で語る
◇ さすが血よりも濃い師弟関係を絶つたので「親方にはすまない」と天龍はじめ一同気の抜けたやうにボンヤリとして師匠思ひの衷情に世話係りや春秋園の女中連も思はずホロリとさせられた「途中で買つて來たんだけふは首途だ景気よく乾杯しようぜ」と一同元気をつけて菰冠りを自動車から軽々と下す「武蔵山関が見えないぜ」と心配してゐると「やア途中でパンクしたから」と元気よく帰つて來た
◇ 一同鳳凰の間に集まつて希望と光明に燃えながら万歳を三唱、新しく結束をかため内庭天幕内で羊二頭を屠つて成吉思汗料理に舌鼓みを打ち籠城中の禁酒を棄てゝ一同酒をグイ/\呷り「元気で行くんだ」「生れ代つて精進するぞ」「角道革新の十字軍だ」と夜更けまで気勢をあげて旗上げを祝つた

  

(昭和7年1月10日付東京日日新聞朝刊11面=マイクロフィルム、写真は毎日新聞社データベースの毎索・同日付紙面より)


読売新聞L

鏡を抜いて
 先づ万歳
  結束を盟ふ
  籠城本部

力士団は十一時十分大井の本部に帰着、三十二力士は天龍を中心に益す結束を固める誓ひをなし、両国の酒屋から持帰つた酒樽の鏡を抜いて冷酒を汲み万歳を唱和した 上十二時それ/\寝に就いた
(昭和7年1月10日付読売新聞朝刊7面=マイクロフィルム)


時事新報M

試合は拳闘式に
 行司を審判と呼ぶ
   今月末第一回選手権大會を開く
     新團体の方針決る

脱退届を提出して春秋園に引揚げた力士団は、同夜十一時半から同園裏庭で四斗樽の鏡を抜いて乾盃し、将来への力強い宣誓を行つた後、二階大広間で全員協議会を開き新組合の組織につき協議の結果大体方針を左の如く決定し、本月中旬明治神宮相撲場に於て第一回の力士選手権大会を開催することとなつた
<略>
(昭和7年1月10日付時事新報朝刊7面=マイクロフィルム)


中外商業新報N

春秋園力士團
 遂に脱退を声明
  暇乞書を携へて一同
    車を並べて協會へ

角道の因習を打破し新興国技の創設を叫んで起つた西方力士一同の最後的通牒に対する協会の回答は九日午後一時卅分速達便を以て発送せられたが、なか/\届かぬため同日午後八時三十分谷川協会監事(黒瀬川)が改めて出向くことゝなり、八時四十分、手紙と相前後して大井春秋園に到着した、谷川は大ノ里と会見一分、手紙の來つたのを認めて帰つたが、一同は直に協議会を開催し、九時別項の如き脱退声明書を発表するに至り力士争議は抗争四日遂に至るべき所にまで至つた、かくて即刻卅有二名の力士は、各自協会宛の脱退届を認めると共に、師匠出羽ノ海、春日野、藤島、山分に対する暇乞ひの文を作成、九時四十分万歳の声高らかに十餘台の自動車を連ねて、協会及び出羽ノ海部屋に向つた

 協會の回答<略>
 力士團の脱退届<略>
(昭和7年1月10日付中外商業新報朝刊7面=マイクロフィルム、)

折衝十分にして
 恩愛の絆を絶つ
  出羽ノ海部屋玄闘の劇的状景

春秋園を出た力士団は途中濱町河岸の丸見屋で勢揃ひし午前十時半協会に到着、谷川監事に銘々の脱退届と声明書を手交して立ち去らうとしたところ協会に直接出すのは受取られず、力士達は再び天龍を先に隊伍を整へ一町ばかり離れた出羽ノ海部屋に向つた、流石永年の生活のにじみ込んだ部屋に近づくにつれて力士たちは極度に緊張し
「襟巻をとれ」
と囁き合ふ、出羽の海部屋では親方は現れず先輩の藤島、春日野、山響、玉垣などが応対し天龍から先の二通に感謝状をそへて玄関敷台に置き藤島に
「まあ上つて、よく話して行つたらどうだ」といはれても
「絶対に上りません」
とはねつけ無理に立去らうとしたところ追つかけて山響が自動車にすがり
「これは受取れぬ」
と放り込み、再び玉碇、高ノ花が車から下りて玄関に置き引きとめるのをふり切り折衝十分間にして永年のきづなを断ち切つて師匠の手を離れて行つた、さうして十二時近く春秋園に引揚げ一同乾杯の後思ひ/\の感慨あふれた胸をいだいて寝についた、なほ協会では十日午前緊急理事会を開いて脱退届を受理するや否やを決する筈である
(昭和7年1月10日付中外商業新報朝刊7面=マイクロフィルム、)


報知新聞O

選手権の争奪を
 競技の中心とする
  力士團を主体の組合組織とし
   行司は審判に改む

角道革新の意気に燃えながらも流石に恩師に対するきづなは断ち難く涙と共に師の許を去り協会と
 絶縁  した革新派力士団一行は九日午後十一時十分大井町の春秋園に引き揚げ直ちに二階の協議室において将来に対する悲壮なる決意をかため万歳を三唱し将来の結束を誓ひ引き続き同園の裏庭でヂンギスカン鍋をつゝきこもかぶり(・・・・・)を抜き気勢を揚た、なほ革新派力士団の今後の方針については大体次の如くなる模様である、即ち今後は力士団を主体として純組合組織として
 行司  を審判と改め検査役を廃して正審と副審をおき、審判に対しては絶対服従することゝし物言ひは廃止すること、なほ観覧料は極力低下し地方巡業は積極的にこれを行はず招聘さるゝ場合に限り出かけること、競技方法は選手権争奪し合いを中心とすることゝなつた、なほ従来一日に一度より相撲を取らなかつたのを一人で四回でも五回でもとり相撲をして時代の要求に適合せしむべく極力努力すること等である
(昭和7年1月10日付報知新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)


都新聞P

角道更生への旗印
 自治制組合の建設
  本部で乾盃益々結束を誓ふ

十一時廿分両国より籠城本部に引き揚げた西側力士団卅二名は直に階上会議室で一同万歳を三唱して今後の結束を誓ひ、続いて中庭で羊二頭を屠て成吉思汗鍋をつゝきつゝ冷酒を大茶碗であふり乍ら大いに意気をあげたが、多難の前途を目前にして力士連も大いに自重して早く会議室に引揚げ、直に今後の対策につき次の如き根本腹案を根拠として今暁まで一同協議した、即ち今後の新方針は力士自身の搾取なき自治制組合の建設で而も時代に添ふべく大衆の支持獲得を大綱としてゐる、従つて新団体には年寄制度茶屋制度等力士自身に関係なき中間搾取機関は全然廃止し、而も一部角通を相手とするごとき競技方法を断然捨てゝトーナメント式により實力本位による選士権争奪試合等を採用し而も観覧料の低下等により、より広範囲の観客層を得る事に努めんとするもので、これにまつて彼等の旗印たる角道の根本的更生を遂げるべく一路邁進すると頗る固き決意を示してゐる、大体方針は左の通りである
<略>
  

(昭和7年1月9日付都新聞朝刊13面=マイクロフィルム、)


国民新聞Q

自治制の組合組織
 会計制度を確立する
   脱退組の今後の方針
      けふ午前中まてには決定

脱退組卅二名の力士団は九時半自動車十餘臺に分乗、脱退届、各自親方への挨拶状等を提出後春秋園中庭のテント内で先幸の乾盃を揚げ直に別室で大ノ里、天龍、山錦、武蔵の四幹部を中心に今後の方針につき慎重審議を行つた、この協議には天龍の後援者前市議茂木久平氏外後援者側からも数氏列席したが、新組合の組織には法的研究も必要、資金、時期、競技方法その他具体的な決定を見るに至らなかつた、同力士団旗揚げの根幹的方法としては此度の争議の性質からも組織は当然自治制の組合組織、会計制度の確立を期する意味で共同管理的なものとなる模様である、競技方法は一般スポーツの如くトーナメント式新味を加へ大衆的な国技をモツトーとし積極的に押進む方針であるが、何れにしても資金が先決の問題であり、場所及び時期等の具体的方法は深更一時近くまで協議したが決定を見るに至らず、一同就寝、十日改めて協議し同日午前中までには大体根本方針の決定を見る筈である
<略>
(昭和7年1月10日付国民新聞朝刊7面=マイクロフィルム、)

読売新聞R

全体會議を開き
 方針を協議
  土俵に撒きちらす
   更生第一日の元氣

九日夜脱退状及び絶縁状を提出して完全に大日本相撲協会から分離した市外大井町春秋園に籠城中の西方全力士団は同夜新興まで庭園中央に酒樽を抜いて最後までの勝利を誓ひ涙ぐましい緊張裡に祝宴を催したが十日は朝八時同園裏の宿舎新世界ホテルの床を蹴つて起床し快晴に恵まれた獨立第一日に更生の顔を輝かせ乍ら朝食後直に浴衣一枚となつて庭園の土俵に集合して猛烈な稽古を始めたが全力士団は溢れるやうな元気に漲つてゐる、同十時霞ケ浦は「協会脱退を御通知申し上げます』と認めた書状を東方の能代潟を訪問して手交し脱退の諒解をもとめたが正午からは春秋園楼上で独立後初めての全体会議を開き今後の方針につき力士団の名称総本部の設置、初興行の場所指定などについて協議を重ねた
(昭和7年1月11日付読売新聞夕刊7面=マイクロフィルム)


都新聞S

新飛躍に和氣靄々
 足がはみ出して寝られぬ蒲団
   徹夜の脱退力力士団本部

角道革新への熱情を更に冷酒であほつて力士達が威勢よく床にもぐつたのは今暁午前三時半、十日朝は一時間遅れて八時に起きたが、何しろ五日間に亘る籠城の寝不足で皆へばり気味だ、殊に力士の苦手は間に合せの蒲団が短くて足が大部分はみ出ることだ、「六枚位着て寝るんだが到底駄目だ」と力士連は皆風気味で顔を洗ひながら鼻をすゝる
    ◇
<略>
(昭和7年1月11日付都新聞夕刊1面=マイクロフィルム、)

 これらの新聞写真で、春秋園で使っていたと思われるジンギスカン鍋の焜炉は、白くて底がつるんと丸い中華鍋のように見えます。私の講義を真面目に聞いてきた諸君ならわかると思うが、昭和10年に農林大臣官邸で催されたジンギスカン鍋試食会はじめ糧秣本廠が炊事勤務の兵隊の実習などで使った焜炉と鍋にそっくりです。まだ国産の鍋と焜炉は市場に出廻っていなかった時期ですから、皆中国からの輸入品でしょう。
 その試食会の写真は講義録「『糧友』愛読者にジンギスカン鍋プレゼント」の資料その7にあるが、私がそれ1点しか知らないと思われるのは面白くないのでだね、ここでは敢えて不鮮明ではあるが、小樽新聞に掲載されたその試食会の写真と記事を見せることにした。資料その9がそれです。雑誌「畜産」に載った写真と同じ構図なので、農林省が羊肉普及運動の資料として新聞各社に配ったのではないかな。
 焜炉と鍋を支える鉄製らしい三脚は高さを変えられるようで、周りが背の高い関取ばかりなので鍋の位置は低いように見えるが、実際には農林大臣のジンパと同じく高い位置で鍋を掛けていると思います。小樽新聞の記事では「あぶつた肉に『ラク』といふ凝つた薬味とつゆ」をつけて食べたとあるのですが、このラクは何なのか、まだわかっておりません。トルコにラクという蒸留酒があるが、もしそれだとしても、清酒の代わりにわざわざそれを使う理由がわからん。

資料その9

    

 新聞だけでなく念のために日本相撲協会博物館運営委員監修「近世日本相撲史」の春秋園事件を見ますと、天龍が提案した10カ条の要求案は出席者の賛成を得て「やがて酒席となって気勢もあがり、要求書を提出する代表として、番付順に武蔵山、大ノ里、天竜、綾桜の四人を選出。この代表四人は二時過ぎ協会事務所へ出頭した。(16)」と書いてあります。新聞と違いますね。天龍たちは午後2時集合の約束で春秋園に集まり、形だけであったにせよ協議して品川の向こうの大井町から出掛けたのですから、午後2時過ぎ両国にあった協会へ出頭は無理でしょう。
 資料にはありませんが、中央新聞は会議終了は午後4時10分でそれから代表4人が出掛けた(17)、中外商業新報は代表は午後4時に出羽ノ海部屋に行き、その足で協会へ行った(18)、都新聞は午後5時半(19)と書いてます。春秋園に午前11時半に集まった(20)と書いた二六にしても協会出頭は5時半(21)というのですから明らかに違います。
 さらにですよ「協会は直ちに緊急役員会を招集して協議し、とりあえず春日野(元横綱栃木山)と藤島(元横綱常ノ花)の二人を春秋園に派遣した。出羽一門の先輩として、力士たちを説得する役である。しかし、春秋園における説得は物別れとなり、二人は協会に戻った。(22)」とあるだけで、その前に監事千賀の浦と花籠が要求書を突き返す使者として春秋園にきたことは書いていません。スライドで見せた東京日日の「協会代表と力士 会見遂に物別れ」という見出しは、花籠と千賀の浦との会見記事の見出しなのです。読売、東京日日、報知、国民などは会見の写真を載せて、この2人が返すはずの要求書を持ち帰った後、入れ替わりに春日野と藤島が来たと伝えています。相撲史は力士団の要求書返却に失敗したので、正式代表は春日野と藤島だとして花籠と千賀の浦派遣を隠したと思われます。現場主義のジンパ学としては、これら交渉に立ち会い、両者のやりとりを書いた新聞の方を文句なしに信用しますね。
  

参考文献
上記の資料その9の出典は昭和10年12月23日付小樽新聞朝刊11面=マイクロフィルム、(16)と(22)の出典は日本相撲協会博物館運営委員監修「近世日本相撲史」第1巻194ページ、昭和50年4月、ベースボール・マガジン社=原本、 (17)は昭和7年1月7日付中央新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (18)同日付中外商業新報朝刊7面、同、 (19)は同日付都新聞朝刊13面、同、 (20)と(21)は同日付二六新報夕刊2面、同

 ちょっと脱線ですが、もう1冊、参考に見た本があります。春秋園事件から17年後、朝日新聞運動部記者になった殿岡駒吉が書いた「小説春秋園事件始末」です。駒岡は天龍の自著「相撲風雲録」の成立に協力し(23)肝胆相照らす仲で、事件について「粘り強く取材を重ねたもので、著者のライフワークともいうべきものであった。(24)」と殿岡の子供の殿岡秀秋氏が解題に書いています。小説と銘打っているとはいえ、新聞記者の書いたものであり、6日の動きをどう書き残したか。少し長いのですが、著作権法第32条を守りつつ資料その10として引用させてもらいました。

資料その10

 出羽海一門の若い二人の親方が、自信を持って臨んだ春秋園での力士説得に破れて、頭を下げうつ向いて東両国の協会事務所へ戻ったころにはもう、その日の夕刊に、春秋園に立て籠りを決意した西方力士団の行動などが、大々的に報道されていた。
 朝日新聞一月七日付夕刊(六日夕刻発行、当時の夕刊は日付が翌日付になっていた)二面には、トップ見出しからほとんど一ぺージを費やして、角界空前の大騒動のいきさつが、こまごまと報じられていた。
「世間に知られたくない」と願っていた相撲協会の意志に反して、協会側の極度の狼狽ぶりまでが、詳細にわたって載っていた。
「親方に引きかえ生活苦に悩む力士達、相撲協会の台所は滅茶苦茶」とか、「消息通の伝える廓清(かくせい=粛清)運動の真相」とかの見出しの一文とともに、力士団側に同情的な記事が多く見受けられた。
「角界空前の大騒動、西方力士要求書を提出」
 の大見出しで事件を報じた同じ紙面にもう一つ、
「武蔵山の拳闘入り、春場所後に実現」
 という記事が、三段抜きで載っていた。相撲フアンにとっては、二重のショックとなった。
 その武蔵山はこのあと、十二日に西方力士団を離れて春秋園を去っている。何か、そんな前途を暗示しているかのようだ。
 春秋園第一日の夜は、「勤王の間」での夕食から更けていった。いつもの晩めしどおり、酒もビールも出されたが、改革運動の幕開けの夜とあって、緊張のためか座はやや白けていて、一向ににぎやかにはならなかった。
 力士団にまじって、彼らのブレーンである茂木久平、松本正雄、福島正守、小野正一の四人も夕食の席に加わっていた。床の間を背に、新しく出羽海の部屋頭になった新大関武蔵山を中心に、右へ福島、大ノ里、小野が、左へ茂木、天龍、松本、山錦と並んで座っていた。互いに盃やグラスのやりとりはあったが、夕食の席は、いとも静かに「お開き」になった。
 夕食後、外務担当の天龍と山錦は、茂木、松本の二人と別間に入った。きょう、説得にやって来た春日野、藤島親方らの調停乗出しに対する返答について、慎重に協議するためだ。協議はおよそ一時間で終わった。力士団から協会への回答は、翌七日夜八時にすると決めた。

 殿岡のいう「若い二人の親方」は春日野と藤島であり、見ていたように席順を書いているのに、禁酒にもジンギスカンにも触れていません。まあ、これはいいのです。問題は6日夕方に配達された朝日夕刊の内容です。大きな見出しがかろうじて読める程度ですが、朝日新聞のマイクロフィルムにある紙面の上半分をスライドにしましたから見て下さい。上が7日付夕刊2面、下が7日付朝刊7面です。

   
     上は昭和7年1月7日付朝日新聞夕刊3面(6日夕方に配達)


   
     上は同7日付同新聞朝刊7面(7日朝に配達)

 どうみても「事件始末」で説明する紙面は、7日朝刊であり「朝日新聞一月七日付夕刊(六日夕刻発行、当時の夕刊は日付が翌日付になっていた)二面」ではありません。夕刊2面のトップから春秋園籠城の記事を組んだのは読売だけ、朝日と東京日日は消防の出初め式がトップで、力士決起は準トップという位置でした。殿岡氏は何かを見て書いたのでしょうが、見出しも少し違っています。
 東京日日、時事新報、国民新聞が伝えるように6日夜、ジンギスカンを食べたとして、では何時からどこで食べたのか。東京日日は「午後七時庭のテント内で羊肉の成吉思汗料理に舌鼓をうち」と書きましたが、吉田誠一は昭和8年の「料理之友」5月号に書いた「痛快無比 成吉思汗料理=美味烤羊肉=」の末尾に、こう書いています。
 「當庭園のテント張りで成吉思汗に舌打つ客、鼻を衝いて來る羊脂の香煙、書いてゐてさへ喉がグウ/\鳴ります況や成吉思汗の味に於ておやですお試し下さい。(25)」とね。春秋園では都新聞の写真が一番よくわかるが、縞模様の屋根だけみたいなテントを年中庭園内に張っていて、煙の立つジンギスカン料理はそこで食べてもらうようにしていたと思われます。時事の幔幕は、1月の夜のことですし、風よけにテントの周りに巡らせたのでしょう。
 また、朝日8日付夕刊には、7日朝に力士たちが庭木を引っこ抜いて土俵を造り「裏手テント張りの中では地方巡業の時のやうに交替で昼飯だ、(26)」とありますから、6日夜から引き続きテントがあったのですね。その中で吉田がジンギスカンの宣伝を狙って、講釈しながら食べさせたのでしょう。新聞記者が大勢うろうろしているから、お相撲さんの食べっぷりを見たら当然記事に書くだろうという計算づくでね。
 吉田がジンギスカンは牛肉でも豚肉でもやれるけれど、今晩は本場並に羊肉にしたと聞かせたので、東京日日の記者は、特に羊肉なのかと納得して、羊肉のジンギスカンと書いたのでしょう。朝日、読売の記者も記事を送ったけども、相撲部屋の解説などが紙面を占め、もういらないとボツになったのでしょうね。春秋園事件当時の紙面を調べてみると、これは決して荒唐無稽な想像ではないと思うでしょう。
 ただ、東京日日の記事も少し怪しいところがあります。資料その4をもう一度見なさい。午後7時から2階鳳凰の間で交渉の経過報告を聞き、午後7時から庭のテントでジンギスカンを食べている。2手に分かれなければ、こんなことは不可能です。朝日の7日付朝刊は「要求書を突きつけた四力士は午後六時帰園、会場大広間で天龍からその顛末を報告」さらに「同三十分東方に諒解を求めに赴いた山錦、霞ケ浦が帰つて」玉錦と会ったことを報告した(27)とあり、読売には「六時過ぎ交渉に出掛けた連中が相次いで帰ってくると、一同がぞろぞろといかつい体を二階に運んで」報告を聞いた(28)とあります。だから東京日日の報告を聞いたのは午後6時からの誤りで、ジンギスカンを食べたのは全員が揃った7時過ぎだったのでしょう。
 それからね、朝日、東京日日、都の3紙の9日夜の記事は、緬羊2頭を春秋園の庭の宴會場で屠殺し、ジンギスカンで食べたのはその肉と受け取れますが、本当でしょうか。緬羊は殺されるとき、いくらおとなしくても、ロールマトンを切り出すようなわけには行かないはずです。腿みたいに切り取やすい部分だけにしても、皮剥きの時間がかかるでしょう。私が思うに、血祭りにされた緬羊は一旦引っ込める。そして力士たちの前に現れた羊肉は、6日夜と同じくタレに浸して薄味を付けた羊肉だった―でしょう。解体ショーで切り分けられた鮪の刺身とは違うんです。
 時間ですから終わりますが、もう一度、資料その5を見てください。同じ朝刊10ページ、夕刊4ページ建ての新聞でも、読売新聞と中外商業新報新聞の読者は籠城力士団がジンギスカンを食べたことを知らずにいたことになります。もしジンギスカン好きの読者がこれを知ったら、なんで書かなかったのかと怒って、別の新聞に切り替えるかもしれませんよね。
 朝日新聞Jに「両国から運んできた例のこも冠りをかつぎだし(29)」とあります。この前には酒樽について何も説明はなく、いきなり「例の」なんです。デジタル大辞泉によれば「例の」は「話し手・聞き手の双方が知っている人や事柄を指す(30)」とあります。両国から運んだというほかに酒樽の情報がないから「例の」といわれても何のことやらわからん。
 でも、東京日日を読むと積むときは「出羽ノ海部屋の近くの酒店十六屋で仕込み、肥州山が片手で持ち上げて車に積んだ酒樽(31)」だったのが「途中で買つて來たんだけふは首途だ景気よく乾杯しようぜ」(32)と下ろしている。どうも都新聞の「贔屓からお祝いに贈られた酒樽」(33)が真相らしい。多分、朝日にもそうした説明があったのだが、早版から遅版に変わっていくうちに、削られてしまい「例の」だけが残ったのでしょう。
 おっと、忘れるところだった。道内の新聞、北海タイムスと小樽新聞にはこの祝宴の記事は載っていません。9日深夜のことだから10日朝刊に間に合わなかったとしても、11日付夕刊に載せられたはずだが、このころ北タイと小樽は土曜深夜に編集して日曜朝に配る日曜付朝刊は発行するけど、日曜の昼から編集して夕方に配達する月曜付の夕刊は出さない制作体制だった。それで載せるなら11日朝刊となるのだが、脱退届の内容や脱退力士たちが親方との縁を切ると出した挨拶状などニュースバリューのある記事が続々入って祝宴の記事はボツ。読者は祝宴の記事は読めなかったのです。
 しかしね、函館新聞と函館毎日新聞は月曜付夕刊を出す体制だったので、羊2頭つぶして祝宴を開いたという記事を11日夕刊に載せられた。ジンギスカンとは書いていないが、函館新聞の記事をスライドで見せましょう。見出しは違うが、ほぼ同文の記事が函館毎日新聞にも載っているので、通信社からの記事でしょう。

   羊二頭を屠つ
   て祝盃あぐ

(東京電話)脱退届をたゝき付け
て大井町の本部春秋園に引揚た籠
城力士団は午後十一時半より一同
集合し更に今後の結束を誓ひ万歳
を三唱したる後廷園に急造された
宴会場で羊二頭を屠り祝宴を張つ
て新しきスタートを祝し深更まで
氣勢を挙げた

函館新聞は11日付夕刊3面に掲載(10日夕方配達)
函館毎日新聞は11日付夕刊2面に掲載(10日夕方配達)

 脱退事件の首謀者、関脇天龍は静岡県出身だから、静岡の新聞はどう扱ったかなと静岡民友新聞を見たら立派なもんだった。発端の1月7日付夕刊は「角界異変/ストライキ勃発せん」という見出しで、聯合通信をリライトした府下某所集合の記事ながら、末尾に括弧して午後2時と入れていた。(34)つまり締め切りを延ばし、東京から送られてくる朝毎読3紙の夕刊早版に対抗したんですね。
 祝宴も脱退届を出したときの記事にあり「結束を盟ふ籠城本部」という小見出しを付けて「力士団は十一時十分大井の本部に帰着、三十二力士は天龍を中心に益々結束をかためる誓ひをなし持帰つた酒樽の鏡を抜いて冷酒を汲み万歳を唱和した上十二時それぞれ床についた(35)」と11日朝刊にありました。天龍を案じる読者の存在を意識しての編集なればこそですね。
 だが、待てよ、どっかで読んだようなと調べてみたら、資料その8の読売Lの記事とそっくりでした。静岡民友が違う点は酒樽の前の「両国の酒屋から」がないのと「寝についた」と「床についた」の2カ所。つまり読売も通信社の原稿を使ったというなんでしょうね。それで大阪と東京では記事に時間差が認められるんじゃなかろうかと、朝日と毎日も見たら違っていたんですねえ。
 大阪朝日の7日付夕刊と7日朝刊の脱退事件の記事は乾杯もジンパもなし。10日朝刊は記事は同文でも「成吉汗鍋をつゝいて」(36)いる写真はなし。毎日は明治44年に東京日日の合併した新聞社(37)なのだが、題字は毎日と東京日日と別だったので別会社のようにみられていました。そのせいではないと思うのですがね、7日付夕刊は東京日日の「市外某所(特に名を秘す)」ではなく、毎日は(東京発)で「春秋園に集まつた西方力士は午後二時までに天龍を最後として幕内十両全部で卅名に達し(38)」と間に合わせていました。10日朝刊は東京日日と同様、鍋を囲む写真は付いていますが、記事は「春秋園に引揚げ乾杯して結束をかため<(39)」と簡単でジンギスカンには触れてません。締め切り時刻と掲載すべき記事を選ぶ整理記者の判断の違いが、紙面の違いになったということでしょう。
 NHKだけだったラジオが春秋園事件をどう放送したかまでは調べてませんが、広い知識を得るためにも新聞は1紙だけでなく複数読むことが大事なんですね。就職対策はもちろん、社會に出てからも新聞は重要な情報源であり、いまも當時の新聞記事が残っているからこそ、こうした考察ができるのです。はい、最初にいったように次回は春秋園のジンギスカン広告の出し方、春秋園のあった場所などのほか、プラスアルファとして武蔵山の大嘘を取り上げます。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(23)の出典は殿岡駒吉著「小説 春秋園事件始末」232ページ、平成6年12月、秀文社=原本、(24)は同231ページ、同、資料その10は同52ページ、同、 (25)は料理の友社編「料理の友」21巻5号120ページ、吉田誠一「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」、昭和8年5月、料理の友社=マイクロフィッシュ、 (26)は昭和7年1月8日付朝日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (27)は同7日付朝日新聞朝刊7面、同、 (28)は同読売新聞朝刊7面、同、 (29)は同年1月10日付朝日新聞朝刊7面、同、 (30)はhttp://kotobank.jp/word/ %E4%BE%8B%E3%81%AE (31)と(32)は昭和7年1月10日付東京日日新聞朝刊11面=マイクロフィルム、 (33)同日付都新聞朝刊13面、同、 (34)は同年1月7日付静岡民友新聞夕刊1面、同、 (35)は同年1月11日付同朝刊2面、同 (36)は同年1月10日付大阪朝日新聞朝刊11面=聞蔵U、 (37)はhttp://www.mainichi.co.jp/
corporate/co-history.html (38)は昭和7年1月7日付毎日新聞夕刊2面=毎索 (39)は同年1月10日付同朝刊7面、同