勇敢にも着物を着て蒙古へ食事調べに行った

 きょうは戦前、非常に有名な料理研究家だった一戸伊勢子さんを取り上げます。糧友会や山田喜平さんの本についての講義で、何度も一戸さんの名前が出たから、覚えてるでしょ。うーん、怪しいなあ、松葉燻しといったら思い出すかな。いま我々がやっているジンギスカン料理の原形である鍋羊肉のレシピを考え出した青森県出身のえらい先生です。まず資料を配ります。きょうはたっぷりだよ。
 1枚目、資料その1(1)の踊っている婦人が一戸さんです。大衆娯楽雑誌「キング」の昭和9年12月号の「名士と諸国民謡踊り」に載った写真です。一戸さんが弘前市生まれなので、カメラマンが津軽のよされ節のポーズでとお願いしたと思われます。同(2)は一戸さんの足元の組まれた説明、同(3)のEなどによれば43歳の艶姿ということになります。
 一戸さんは、料理研究家になるまでのプライベートなことはほとんど語らなかったので、経歴資料集めには難儀しました。資料その1(3)にあるように「日本人物情報大系」なんかでも名前と住所、明治24年、弘前生まれ、奈良と東京女高師で教えた元教師で一戸食物研究所を創設したぐらいしかわからん。あちこち探し回って青森県立図書館のご教示でやっと納得できる情報が得られたのです。それが資料その1(4)で昭和3年の「東奥年鑑」の記事。「東奥年鑑 昭和九年」の「県外に活躍の本県婦人」にもほぼ同文が載っています。

資料その1

(1)
      


(2)
 よされ節は青森県津軽地方で唄はれてゐる情緒豊か
な民謡である。ヨサレサアーンヨの囃しは、拒否的な
意味をもつ『止されよ』の意味と云はれてゐる。
 一戸女史は弘前の生れ、独学力行料理の権威として
知られてゐる。曾つては奈良女高師、東京女高師等
に教鞭をとつた事もある。


(3)

同(A)「俎上の名流婦人」
一戸伊勢子
1 一戸食物研究所長
2 弘前市出身、東京、奈良両女子高等師範学校に約十八年勤務
3 東京市淀橋区戸塚町三ノ九七〇(電話牛込四七二七)
  一戸食物研究所 東京市芝区新幸町一
 (新橋駅北口)堤第一ビル三階


同(B)「全日本公私職婦人録」
一戸伊勢子 淀・戸塚・三ノ九七〇 青森 研究所長 一戸食物研究所長


同(C)「昭和十一年婦人年鑑」
一戸伊勢(弘前市)
  東京市淀橋区戸塚町三ノ九七〇
  電牛込四七二七番
1、関係せしことも多々御座候も
  いつも自己の研究にまぎれ御無礼
  いたし居候。
2、奈良、東京の両女高師に約十七
  八年間勤めし位にて、まだ/\も
  のごとが出来申さず候。


同(D)「昭和十二年婦人年鑑」
一戸伊勢(弘前市)
  東京市淀橋区戸塚町三ノ九七〇
  電牛込四七二七番
1、関係せしことも多々御座候も
  いつも自己の研究にまぎれ御無礼
  いたし居候。
2、奈良東京の両女高師に約十七
  八年間勤む。


同(E)「昭和十三年婦人年鑑」
一戸伊勢 東京市淀橋区戸塚町三ノ九七〇・電牛込四七二七、明治二十四年弘前市生。奈良、東京、両女高師にて十八年間教職にあり、其後食物研究所を創設。現在一戸料理研究所長。『鳥獣肉の切り方及び其利用法』の著あり。


同(F)「昭和十四年婦人年鑑」
一戸伊勢 東京市淀橋区戸塚町三ノ九七〇・電牛込四七二七、明治二十四年弘前市生。奈良、東京、両女高師にて十八年間教職にあり、其後食物研究所を創設。現在一戸料理研究所長。


同(G)「昭和十五年婦人年鑑」
一戸伊勢 淀橋区戸塚町三ノ九七〇 電牛込四七二七 明廿四年弘前生 奈良 東京 両女高師にて十八年教鞭 其後食物研究所を創設 現在一戸料理研究所長


(4)
 一戸伊勢子さん    女史は弘前市の
            人で夙に女史教
育界に進出し奈良女子高等師範学校に教鞭
をとること八ケ年、転じて東京女子高等師
範学校に教へ居ること十年に及んだ。弘前
市にある弘前女学校在学当時、米国婦人宣
教師から西洋料理を学んだことによつて此
方面に興味を持つ様になり、大正二年奈良
女高師に教鞭をとつてゐる頃から専門的に
研究をつゞけ東京女高師に転じて愈々研鑽
をつみ、料理学と一般理論、之に附属した
実験の一部を担当して同校の権威とされた
「料理法は応用学に過ぎないので料理学と
して原則的に、科学的に料理に関する法則
を研究することは非常に大切である」と云
ふのは同女史の所論で、其後その信ずる所
を心ゆくまで研究し多くの婦人と共に之が
改良を図らんとし昭和二年十一月から東京
市四谷番衆町に食物研究所を起し婦人のた
めの根じろを構へた。創立後日浅きにも拘
らず世の食物の科学的研究に共鳴する人々
多く日を逐うて盛況を呈してゐる。

  

参考文献
上記資料その1(1)と同(2)の出典は大日本雄弁会講談社編「キング」10巻12号28ページ、昭和9年12月、大日本雄弁会講談社=マイクロフィッシュ、 資料その1(3)の(A)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」4巻女性叢伝4の250ページ、平成11年7月、皓星社=原本、底本は坂戸公顕著「俎上の名流婦人」附録9ページ、昭和11年7月、三耕社、 同(B)は同7巻女性録編2の437ページ、同、底本は米沢志磨夫編「全日本公私職婦人録」39ページ、同12年12月、全日本公私職婦人録刊行会、 同(C)は同8巻女性録編3の13ページ、同、底本は東京聯合婦人会編「昭和十一年婦人年鑑」婦人録199ページ、同10年12月、東京聯合婦人会、 (D)は同3の61ページ、同、底本は東京聯合婦人会編「昭和十二年婦人年鑑」婦人録254ページ、同12年1月、同、 (E)は同女性録編3の117ページ、同、底本は東京聯合婦人会編「昭和十三年婦人年鑑」婦人録373ページ、同12年12月、同、 (F)は同女性録編3の165ページ、同、底本は東京聯合婦人会編「昭和十四年婦人年鑑」婦人録417ページ、同13年12月、同、 (G)は女性録編3の217ページ、同、底本は東京聯合婦人会編「昭和十五年婦人年鑑」378ページ、同15年4月、同、 同(4)は東奥日報社編「東奥年鑑 1922」657ページ、昭和3年10月、東奥日報社=近デジ本、

 「キング」の経歴には独学力行の人とあるけれど「東奥年鑑」を読むと、弘前女学校を出て外国で料理を学んできた人か、奈良女高師、奈良女子高等師範学校の卒業生を想像してしまいますよね。どれが本当なのか。この「キング」と「東奥年鑑」のことを知るまでは、奈良女高師と東京女高師の卒業生名簿で探したり、一戸さんの研究振りとかインタビューに応じたときの談話などを随分沢山集めました。私の故郷では正月の鏡開きの日に特別の飴が売出される。焼いた切餅に刺して食べるとお腹に悪い虫がわかぬという談話(1)から、生まれは弘前じゃないんだろうと疑ってましたね。まず一戸さんが奈良女高師の先生をやめて東京に出てきたあたりから取り上げます。次の資料その2を見なさい。

資料その2

[大正7年7月1日]
昨三十日付以テ
 各通 東京女子高等師範学校教授 喜多見さき
    東京女子高等師範学校教授 大江スミ
羊肉調理方法ニ関スル研究ヲ嘱託ス
 報酬壱箇年金七拾五圓贈与
 (本件ハ農商務省ノ委托ニ基ツケルモノナリ)

[大正7年12月27日]
羊肉調理ニ関スル特別手当金拾圓給与(農商務省/農務局) 書記 長谷川保幸
    〃       金五圓給与(   〃    ) 雇  成家チヨ

[大正8年2月22日]
羊肉調理ニ関シ農商務当局ヲ招シテ試食ヲナス

[大正8年5月3日]
<略>
本日付ヲ以左ノ通リ
        東京美術学校教授  大村西崖
        東京美術学校助教授 森田亀之助
東京女子高等師範学校授業ヲ嘱託ス
                   一戸伊勢
東京女子高等師範学校授業ヲ嘱託ス
                   穴沢ゑい
東京女子高等師範学校授業ヲ嘱託ス
  手当壱箇月金二十圓給与

 平成26年元日の朝日新聞北海道版「再発見」11面に古源盛一記者による記事「ジンギスカンの冒険/道民のソウルフード/源流は大正時代の東京」が載りました。私の知らないことを書いているかなと読んでみたら「1918(大正7)年7月、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)の日誌に、農商務省が家事科の教授に『羊肉調理方法』の研究を委託し、金75円を送った記録が書き込まれた。(2)」とあった。研究仲間からお茶の水は戦災で焼けたから古い本や資料は残っていないそうだと聞いていたので、私は本気で調べたことがなかったんですわ。
 でも日誌があるとなれば、ぜひ見せてもらいたい。それで単刀直入、朝日新聞北海道支社の古源記者に出典を教えてとメールを送ったら、すぐ旧東京女子高等師範学校の日誌はマイクロフィルムになっていて、お茶の水大図書館で手続きすれば学外研究者でも読めるとあり、自分が見つけた研究委託の日付など羊肉関連3件を教えてくださった。(3)誠にありがたい情報であり、私は古源さんが将来、ジンギスカンの記事を書くことはないかも知れないけれど、それまでに調べた一戸さんの経歴をお礼メールに加えましたね。例のGive and Givenという気持ちです。
 その旧東京女高師日誌で一戸さんのこともわかるかも知れないので、さっそく出掛けました。行ってみたらね、開けっ放しみたいな我が北大と違って、ガードマンがいて構内の出入り管理は極めて厳重。なんでと聞いたら、皇族の方がお出でになってますからと答えましたよ。小学生だ、いわなくてもわかるね。
 我々と違って大正の人の字は達筆でね、資料その2は崩し字辞典を見ながらやっと解読した結果です。大正7年7月は農商務省が大正8年から発行した「緬羊彙報」創刊号にある「大正七年中緬羊課記事」の「大正七年六月八日緬羊の寄生虫ニ関スル調査研究ヲ東京帝国大学農学部ニ羊肉調理方法ノ研究ヲ東京女子高等師範学校ニ委託ス(4)」と委託時期が合致します。つまりジンギスカンにつながる羊肉食研究のスタートを明らかにするものです。
 長谷川保幸ら2人への特別手当金は赤坂の緬羊肉問屋、松井精肉店との羊肉買い入れや運搬、調理手伝いなどをした褒美でしょう。長谷川は「職員録 大正七年」の東京女高師の書記(5)で載っていますからこれも合致する。いろいろ料理を拵えてみて翌8年2月の試食会となるんですね。食べた人数とか場所などは一切なし、これだけですが、以前の講義で話した月寒版と平山版による「羊肉調理研究の一班」の日付、大正8年2月22日と一致します。このとき試食された料理があの28種と証明されたわけです。
 「農商務時報」の「本省編纂新刊書目録」の8番目の新刊書として「羊肉調理研究の一班」が大正10年2月に発行されたとあるけれど、月寒版と平山版は本にしては活字が大きいからコピーかも知れません。ともあれ一戸さんがお茶の水の女高師の嘱託になったのは5月ですから、28種の羊肉料理は喜多見・大江コンビで考案したことになります。
 試食会の後で資料その3の研究報告書が農商務省に提出されたんですね。私は初めて筑波の農林水産技術会議事務局筑波事務所の資料図書館でこれを見たのですが、B4のばらばら、本の形になっていないものでした。それでこの講義で参考文献として「緬羊彙報」何号何ページと紹介できない。そこで現場主義です、京大付属図書館にある雑誌になった「緬羊彙報」を見に行きましたね。
 それで各号とも目次はあるが、題名を並べただけで全ページとも番号なし。何巻何号しかいえないことがわかりました。ですから大正8年6月に出た1巻4号の記事としかいえません。また常識的には6月号なんだから6号ではないかと思うでしょうが、3月、4月に出さず、6月に2冊、10月に3冊という不定期で、大正8年はトータルで12号まで出していました。調理方法は別に出すんだからよござんしょとカットしたんですな。

資料その3

  羊肉調理研究報告(大正八年三月三十一日)
      羊肉調理研究嘱託
       東京女子高等
       師範学校教授  喜多見さき

大正七年四月以降羊肉調理法ニ関スル研究ヲ嘱託セラレシ
カ本務多忙ノ為メ未タ充分ナル研究ヲナシ得サリシハ甚
遺憾トスル處ナレトモ聊カ経験シタル所ヲ左ニ記シテ報
告ス
一羊肉ハ繊維細ク組織疎ナルカ故ニ牛、豚ニ比スレハ軟ニシテ
 其ノ味淡泊ナレハ種々ノ日本料理ニ試ミタルニ至極好
 結果ナリ
一羊肉ハ一種ノ臭気アリト聞ケリサレト今回研究ニ用ヒタ
 ル松方農場ニ飼育サレタルシェロップ、メリノーノ雑種ハ嫌
 フヘキ臭気ナシ然シ牛、豚ト同シク羊特有ノ香気ハ勿
 論之ヲ有ス若シ強テ之ヲ去ラントセハ葱、生姜、粉山椒、
 胡椒等ノ香料ノ少量ヲ調理ニ加味スレハ本邦人ノ嗜好
 ニ適スルコトトナルヘシ
一羊肉ノ食用ニ供シテ尤モ味好キハ二齢ヨリ四齢位ニテ秋季
 屠リタルモノヲヨシトス齢多キニ従ヒ脂肪多ク香気モ高シ
一羊肉ノ脂肪ハ牛豚ニ比スレハ凝固シ易キカ故ニ調理法
 ニ依リテハ其ノ外形ノ美ヲ損スル嫌ヒアリ故ニ肉ノ使用
 方ニ注意ヲ要ス
一羊肉中一等肉ト称スル所ハ股ノ肉ニシテ脂肪モ筋モ少
 ナク大塊ニシテ尤モ良キ肉ナリ此肉ヲ用ヒテ作リタル品ハ
 脂肪ノ凝固ニヨリテ美観ヲ害スルコトナケレハ吸物口取甘煮
 煮附摺リ肉煎リ煮等ノ調理ニ用ユルヲヨシトス
一内ロース、背ロース尤モ上肉ナレトモ股肉ノ如ク大ナラス此肉
 ハ小口ヨリ適宜ニ切リテすき焼、付焼、照焼、揚物等ニ
 用フルヲヨシトス
一バラ肉、三枚肉、首肉等ハ脂肪多キ所故之ヲ小間切ニナシ一
 度湯掻キテ卯ノ花炒リ、炒リ豆腐、酢味噌、掻キ揚ケ
 等ノ調理ニ用フ
一舌ハ脂肪ナク良キ肉ナレトモ其ノ肉薄キカ故ニ漬焼又ハ煮
 附等ニヨシ
一脂肪ハヘット、ラードノ如ク貯蔵シテ調理ニ用フルコトヲ得
一骨ハ牛、豚ト同シクスープヲ取リ吸物ノ汁、或ハ煮物ノ煮
 出シトシテ鰹節出ヲ用フルトコロニ使用シテ美味ナリ
要スルニ羊肉ハ供給十分ニシテ其ノ価廉ニ至レハ普通一般ノ
食用トシテ牛豚ノ如ク賞味セラルルニ至ル事疑ナキコトナル
ヘシ殊ニ羊ノ滋養価ハ牛、豚ニ劣ラス、仔羊ニ至リテハ却テ
牛豚ニ優レリ本邦人カ牛豚ヲ食用ニ供シタルノ最初ニアリテ
ハ之ヲ厭フモノ甚タ多カリキ然ルニ今日ニ至リテハ之ヲ食
用セサルモノナク却テ賞味スルニ至レリ爰ヲ以テ考フルニ羊
肉モ畧同様ノ経路ヲ踏ムヘケレトモ遂ニ人々ノ賞味シテ常
食ニ用フルノ時機ニ到達スルコトナルヘシ
          (調理方法ノ説明ハ爰ニ省ク)

  

参考文献
上記(1)の出典は昭和7年1月9日付東京日日新聞朝刊10面=マイクロフィルム、 (2)は平成26年1月1日付朝日新聞北海道版「再発見」11面=原本、 (3)は朝日新聞北海道支社の古源盛一記者から平成26年1月14日受信したメールより、 (4)と資料その3は農商務省農務局緬羊課編「緬羊彙報」1巻1号ページ番号なし、大正8年1月、農商務省農務局=原本、 (5)は印刷局編「職員録」382ページ、大正7年8月、印刷局=近デジ本、

 半世紀後に喜多見教授の予見した通り「遂ニ北大ノ人々ノ賞味シテジンパニ用フルノ時機ニ到達」したってわけですな。めでたしめでたし、はっはっは。
 ところで「奈良女子高等師範学校一覧」を年度順に見ていくと、一戸さんは「大正六年度」には載っているけれど7年度と8年度を合わせた「奈良女子高等師範学校一覧 大正七年度/大正八年度」には載っていません。東京裁縫女学校が出していた「裁縫雑誌」の大正7年4月号の「本校職員異動」に「任教諭 一戸伊勢(6)」とあるから、一戸さんは大正7年3月までに奈良を出て東京裁縫女学校の先生になったんですなあ。その傍ら佐伯矩という栄養学者が創設した佐伯栄養研究所で栄養学の研究をした。大正7年9月の朝日新聞の「学界消息」に「▲佐伯医学博士の栄養研究所で専ら栄養学の研究を進めてゐる一戸いせ子女史は九年間も奈良女高師家事科の先生をやつた人であるが感ずるところあつて断然官職を辞し上京した人であるが、努力の甲斐ありて、女史の拵へる料理が博士の食物栄養上の理論とピツタリ一致するので先生が舌を巻いてゐるさうだ<略> (7)」とあります。
 また「裁縫雑誌」11月号の論説では東京で開かれた家事科学展覧会に裁縫女学校も参加・出品したことを取り上げ「本校の実用主義に依つて、一戸講師の考案に係るものは、一日八銭もあれば三食の副食物が出来るやうなもので、夫が美味にして、且保健的なものである、夫を今回実演と試食とを兼ね行つたので(8)」と書いている。ですから栄養研究の傍ら裁縫女学校で家事を教えたといういい方が正しいのかも知れません。
 一戸さんが栄養研究所で研究をしたのは、大正6年秋に佐伯博士が開いた栄養学講習会に参加して佐伯理論を学んだからでしょう。佐伯の長女、佐伯芳子さんが「栄養学者佐伯矩伝」に「講習生として医師十人、高等師範学校教授二人が参加しました。(9)」と書いています。傍証とした「医学中央雑誌」256号は「第一回修業者十二名ニ証書ヲ授与シ(10)」とあるだけですが、佐伯さんのいう教授のうち1人は一戸さんだったのでしょう。
 佐伯はアメリカで栄養学を学び、国立栄養研究所を作るべきだと唱え、まずは自分で研究所を開いて啓発活動を始めたのです。そして大正7年9月、その研究所で一日5銭で食べられる栄養料理を教える安価栄養無料講習会を開いた。「芝金杉の佐伯営養研究所に於ける安価営養無料講習会は、所長佐伯医学博士及び料理講師一ノ戸伊勢子女史の献身的努力に依つて、二十一日三週間の会期を大成功の裡に終了しました。(11)」という書き出しで読売新聞が最終日の実地試験と証書授与式の様子を伝えています。このとき東京女高師と掛け持ちだったら「献身的」に21日間も料理を教えておれなかったと思いますね。
 一戸さんは裁縫学校を出た人なんですから衣服作りなんか朝飯前。夏に「火のそばで長時間料理などしてゐますと、汗の為に一日で着物を台なしにして終ひます。(12)」からと、佐伯栄養研究所で一戸さんが着ていた丸襟ワンピースのような仕事着が「婦人之友」の記者の目にとまり、その仕立て方が「婦人之友」に載っています。さる研究所のリケジョ博士が愛用する割烹着が話題になったが、その点では一戸さんが草分けですよ。
 大正8年7月、佐伯博士夫人、まさ子さんが病気で亡くなりました。(13)一戸さんは私生活を明かさなかったので独身とみられていて、資料その4のようなゴシップのネタにされた。これは満洲日日新聞で見つけた記事ですが、保育雑誌にその一戸さんが自信たっぷり書いた「乳児期から四歳迄の子供の食物(14)」には、ごく最近までずーっと疑問を抱いておりましたね。

資料その4

  食糧研究一年間
     一戸伊勢子女史の事業

▲高粱研究の為め渡満された東京女子高等師範学校教諭一戸伊勢子女史は既報の通り大連 を経て奉天北京其他に活動を試み來る二十日再び來連されます。
▲そして廿一日より三日間に亘り大連基督婦人会主催の講演会に臨み「小供に対する食物及料理法」「老人病人に対する食物及料理法」「普通食物を如何にせば安価に且つ栄養素を最も多く存せしむるを得るか」に就て講演されます。
▲一戸女史は人も知る如く保健食糧学実地研究の為め東京芝口なる佐伯医学博士の栄養研究所に一ケ年間自費生徒として研究を積まれたのです。
▲佐伯博士の栄養研究は、米、味噌、牛肉、酒、野菜を毎日常食とする人に就て一週間毎日定量の酒食を定時に与へ其大便小便を毎日一回試験器に掛け、以て栄養価値を測定するのでございます。
▲栄養研究所の生徒(特別講習生)になる者は栄養研究の為めに或時は牛を殺して集めた血でお菓子を作るお手伝ひをせねばなりません誰より先に其のお菓子の風味をして仮令夫れが吐き出すやうなまづい物でも先生此のお菓子は大層おいしうございますわ位のお世辞が云はれぬやうでは気転が利かぬと申さねばなりません。
▲牛の血ならばまだ我慢も出来ませうけれど毎日々々西洋皿に取分けました大便の分析のお手伝ひをしますことは研究と申せば夫迄でございまするが婦人としてなか/\出来るものではございますまい。
▲佐伯博士は博士の学位も夫れでお取りになり趣味もお有りでせうから一日大便と睨めつこをなすつても苦痛ではございますまい、御職業で其の分析や実験におありのことですから他人の思ふ程キタないの臭いのと申すことはございますまい。
▲併し一戸さんは婦人でございます、女学校の先生でございます、臭い物と申したらば御自分のお放しになるアンモニヤ瓦斯にさへ袖や袂を二重三重に押し当てゝ南部の鮭は鼻曲り鼻まがりはしなからうかと秘かにお案じになる程な淑女でございます研究とは云へ毎日多くの大便を盛つたお皿の前にノートを拡げて博士のお講義をお聴きになるのは人として一大事業と申さねばなりますまい。
▲一戸さんは而も夫れを丸一ケ年御辛棒なさいましたのでございます、毎日の事でおいでですから鼻も曲りくたびれて元の位置に曲り直る程御研究を積んだのでございませう。
▲或人が是れに就て一戸さんの心理を下のやうに解剖なさいました一戸さんの辛棒強く御研究なさる裏面には深く期する所がおありなのではなからうかと。
▲其の当時でございます、博士の夫人は病重く一戸さんの御研究として毎日博士に親近してをられる内に博士夫人は終に白玉楼中の人となられました博士は其後何故か後妻をお迎へになりませんでした。
▲或人は夫れで恁う思ひました、博士は一戸さんを後妻にお直しになる気があるのではございますまいかと、或又別の夫人は恁う思つたそうでございます、一戸さんは博士夫人に直られるのではなからうかと。
▲突然一戸さんは研究を打切つて退所なさいました、博士は別段気にも留めず後妻も貰はず相変らず大便研究をなすつておゐでヾございます、曩に一戸さんのお心を忖度した或人は流石は学識あり人格高き一戸さんは師事する先生の後妻になる気を持つやうなお方ではない、夫れを其処に落ち込まねばならぬ者として予断して自分が恥しい、一戸さんに済まないと申してをられました、ナゼ博士は後妻をお迎へにならんのでせう。
▲疑問は一寸解け掛かりました、跡から寒気の抵抗に逢つて氷が張り直すにしても急に気候が温かになりますれば厚氷とて一時的に部分的に解けることがございます、其のやうな刹那的であらうか否か知りませぬが、ホネムーンの著者たる女流文士内藤千代子女史が博士の夫人たるべく四方に噂の高まつた事、夫れが其の氷の部分的融解を意味する疑問の標的で有つたのでございます。
▲博士と内藤千代子女史とは旧知の間柄であつたと申します、夫人逝去後内藤女史が尋ねて見えた噂もございます、一戸女史の研究所を退いたのは研究の目的を達したものでございませう、内藤女史が尋ねて見えたに就いてゞはございますまい。
▲何でございますか一向取り止まりがございませんが学問があつてお年寄りではなくつて美男子で、亡くなつた奥様の補充をなさいませんお方には得手婦人といふものを結びつけて兎や角申すのが世間といふゴシップの研究所でございます。ほんとにイヤですわ。

  

参考文献
上記(6)の出典は渡邊滋編「裁縫雑誌」16巻4月号64ページ、大正7年4月、東京裁縫学校出版部=館内限定近デジ本、 (8)は同16巻11月号1ページ、大正7年11月、同、 (7)は大正7年9月28日付朝日新聞朝刊7面=聞蔵U、 (9)は佐伯芳子著「栄養学者佐伯矩伝」20ページ、昭和61年11月、玄同社=原本、 (10)は医学中央雑誌社編「医学中央雑誌」256号1661ページ、「佐伯営養研究所修業式」より、大正6年6月、医学中央雑誌社=近デジ本、 (11)は大正7年9月22日付読売新聞朝刊4面=ヨミダス歴史館、 (12)は婦人之友社編「婦人之友」13巻6号127ページ、一戸伊勢子「上着代りに着る仕事着」より、大正8年6月、婦人之友社=館内限定近デジ本、 (13)は大正8年7月20日付読売新聞朝刊4面=ヨミダス歴史館、 (14)は日本幼稚園協会編「幼児教育」21巻7号257ページ、大正10年7月、日本幼稚園協会、http://teapot.lib.ocha.ac.jp/
ocha/bitstream/10083/9354/1/
19210700_007.pdf、同21巻8号282ページ、同年8月、同、http://teapot.lib.ocha.ac.jp/
ocha/bitstream/10083/9368/1/
19210800_009.pdf 資料その4は大正9年9月18日付満洲日日新聞夕刊5面=マイクロフィルム

 佐伯栄養研究所での料理講習で一戸さんの栄養理論に基づく安い家庭料理が注目されたためと思われますが、朝日新聞の「料理」執筆を頼まれ、大正8年7月6日から連載を始めたのです。その予告に「お茶之水女子高師及び渡辺女學校に教鞭を執りつゝ嘗て佐伯博士の研究所其他に於て一日五銭の安價料理を栄養的に実習講話し斯界の権威と目されつゝある一戸伊勢子女史は特に本紙の料理欄に執筆を快諾せられたれば今後本欄は新たなる面目を以て読者に見ゆ(15)」あるので、もうこのときは佐伯栄養研究所を退所していたんですね。渡辺女学校は本郷にあった東京裁縫女学校の通称で、お茶の水とは近かったので掛け持ちできたと考えます。
 大正8年度分と思われますが、農商務省からの委託研究は東大の羊皮利用と合わせ「本年度ニ於テモ孰モ継続委託ヲナセリ(16)」と「緬羊彙報」にあります。それで8年度は一戸さんを加えた3人で研究に当たり翌9年3月20日、農商務省会議室で試食会を開いて成果を報告した。資料その5はその試食会開催を伝える「緬羊彙報」の記事です。この試食会開催については読売新聞と「畜産と畜産工芸」に載っており、どちらも「庶民の食卓と西洋料理との大きなギャップ」の講義録に載っているから、ここでは「緬羊彙報」の原文にしました。会議室では煮炊きできないので折詰めに納めた料理と火鉢でも使って温めた吸い物と葛煮を出したとみられます。
 「畜産と畜産工芸」のレシピは「緬羊彙報」とほぼ同文です。また、これと「羊肉調理研究の一班」とを比べると、新しい料理は煮コゴリだけで「蒸肉の吉野焼」が、ただの「吉野焼」と改名し肉を蒸す時間を30〜40分から20分に縮めていますが、ほかの8種は材料や説明の順序が少し異なるだけで同じで、一戸さんらしい料理はないといえます。

資料その5

    羊肉試食会開催

本月二十日農商務省内ニ羊肉試食会ヲ開催セ
リ出席者約百名(左記ノ通リ)盛会ニシテ数種ノ羊
肉調理ハ何レモ好評ニシテ献立説明別紙ノ如シ
大臣
次官
各局長
会計課長
秘書課長
文書課長
秘書官
本省各課長
緬羊課及畜産課高等官
獣疫調査所長
畜産試験場長
陸軍省経理局長、糧秣本廠長、被服本廠長、衣糧課長、
海軍省経理局長、同第二課
千住製絨所長、作業課長、庶務課長
都下新聞記者(四七名)

 (別紙)   献立説明

一、折詰物

  一、煑コゴリ
ミヂンニ切リタル羊肉ヲ塩、胡椒シテ酒ニテ煎リ置ク
椎茸ハ煠 デゝ砂糖ト醤油ニテ味ヨク煑ツケ蓮根モ煠
デゝ砂糖、塩ニテ白煑ニナシ三ツ葉ハ煠デゝ五分位
ノ長サニ切リ置ク。
角天一本ヲ三合ノ水ニテ溶キ砂糖、醤油及椎茸ノ煑
汁等ヲ入レテ味ヲツケ煑詰リタルトキ右ノ材料ヲ入
レ流シ箱ニテ寄セタルモノナリ

  二、吉野焼
股肉ノ脂肪ナキ大塊ヲミヂン切ノ葱、生姜ヲ入レタル
醤油ニ半日斗リ浸シ置キタル後蒸器ニ入レテ二十分
蒸シ冷エタルトキ其周囲ニ醤油ニテ溶キタル片栗
粉ヲ付ケ胡麻油ニテ焼キ薄ク切ル

  三、玉子巻
玉子ヲ解キ少量ノ酒、砂糖、塩ニテ味ヲ付ケ玉子焼
鍋ニテ一分位ノ厚サニ焼キマダ上面ノ十分焼ケザルト
キ乾キタル布巾ノ上ニ焼ケタル面ヲ下ニシテ置キナホ同
様ニ焼キタルモノ半枚ヲ続ケ其上ニ生玉子ヲ塗リ
ツケ味ノツキタル摺肉ヲ二三分ノ厚サニ延ベ渦巻ニ巻
キタルマゝ凡十五分間蒸ス摺肉ハ摺鉢ニ葱ト生姜ノ
ミヂン切ニシタルモノヲ茶匙ニ凡一杯ヅゝ入レテヨク摺リ
タル処ニ脂肪ナキ肉ヲ肉挽器ニカケタルモノ凡一斤ヲ入
レテヨク摺リ之ニ玉子ノ白味二個ヲ加ヘテ摺リマゼ塩、
砂糖、酒、醤油ニテ味ヲ付ケタルモノナリ

  四、味噌漬焼 ハスノ白煮
羊肉ヲ平タク大形ニ切リ漉味噌ヲ醤油ニテ溶
キ粉山椒ヲ入レテヨクマゼタル中ニ半日斗リ漬ケ
タルヲ金網ニノセテ両面ヲ焼ク
蓮根ハ砂糖、塩、酢ニテ煮タルモノナリ

  五、ウマ煑
肉ヲ薄ク平タク切リ煑立チタル湯ノ中ニ五分間入
レテ煠 デ置ク
鍋ニ酒、砂糖、醤油ノ煑汁ヲ作リ煑立チタル処ニ
肉ヲ入レテザツト煑タル後穴杓子ニテ肉ヲ掬ヒ
出シアトノ汁ヲ煑詰メ十分濃クナリタルトキ肉ヲ再
ビ入レテマゼル
慈姑ト麩ハ煮切、砂糖、醤油ニテ味ヨク煮ツケ
タルモノナリ

  六、黄味アヘ
小サク薄ク切リタル肉ヲ煑立チタル湯ニテ五分間
湯掻キタル後バタニテ煎リ塩、胡椒ニテ味ヲ付ケ
此中ニ小間切ニシタルハムヲ入レテ一処ニ煎リ置ク
胡蘿萄ト馬鈴薯トハ凡三分位ノ賽ノ目ニ切リ塩
煠デニナシ置ク
独活ニ乱切ニナシ塩ト酢ニ浸シ、生姜ハミジンニ切
リ湯ニテ洗ヒ布巾ニテ絞リコレモ塩ト酢ニ浸シ置ク
玉子ハ煠デ白味ノ方ハ小間切ニシ黄味ノ方ハ裏
漉シニナシ置ク
豌豆ハ缶詰ヲ用ヒ塩酢ニ浸ス
右ノ準備出來タル後大ナル鉢ニ粉芥子ヲ入レ生玉
子ノ黄味ニテトキナホ酢ニテ緩メ塩ト砂糖ニテ
味ヲツケ此ノ中ニ裏漉シノ黄味半分ト右ノ材料
ヲ汁ヲ絞リテ入レテマゼ盛リタル後黄味ヲカケル

  七、佃煑
肉ノ小間切ニシタルヲ熱湯ニテ五分間湯掻キ其ノ汁ヲ
去リ古生姜ノ薄切リト共ニ酒ト醤油トニテ辛ク煮付ル

二、吸物 ツクネ肉 短冊ウド ミツバ

玉子巻ノ処ニテ説明シタル摺肉ヲ小サクツクネ煑立チ
タル湯ノ中ニ入レテ煠デ之ヲ椀ニ盛リユデタル三ツ
葉ト短冊ノ独活ヲ盛合セ汁ヲカケル

三、葛煑

肉ヲ胡麻油ニテ揚ゲコレヲ煑立チタル湯ニテ五分
間湯掻キ其ノ汁ヲ去リ再ビ煑立チタル湯ノ中ニ
入レテ凡二十分間煠デ其ノ汁ヲ別器ニトリ冷シ置ク
トキハ脂肪ハ上部ニ凝固ス後其ノ汁ヲ布ニシ
別鍋ニ漉シ出シ前ノ肉ヲ入レ野菜ハ硬キモノヨリ
順々ニ入レテ煑込ミ酒、砂糖、醤油ニテ味ヲツケ
十分煮タル後オロシ生姜ト葛トヲ入レル

  

参考文献
上記(15)の出典は大正8年7月5日付朝日新聞朝刊7面=聞蔵U、 (16)は農商務省農務局緬羊課編「緬羊彙報」2巻6号、ページ番号なし、大正9年5月、農商務省農務局緬羊課=原本、 資料その5は農商務省農務局緬羊課編「緬羊彙報」2巻3号、ページ番号なし、「羊肉試食会開催」より、大正9年3月、農商務省農務局緬羊課=原本

 勉強家の一戸さんはお茶の水の高等師範学校と東京裁縫学校で料理を教える傍ら、今度は東大農学部の稲垣乙丙教授について栄養学の研究を始めたのです。資料その6はそれらの新聞記事の大正9年分の一部で(1)は東大の稲垣乙丙博士に師事したことがわかります。また稲垣博士らの糧食研究会に加わり、会誌「糧食研究」昭和9年3月号に「パンに附けるもの品々」を書いたのを皮切りに次々と料理法や問題点を書いています。
 大正9年の夏休みに一戸さんは満洲と北京視察に出掛けおり、8月18日から9月25日までの満洲での動静は満洲日日新聞が細かく取り上げています。その間に一戸さんは講演や料理実習をやり、さらに奉天などを廻り白い実のなる高粱を発見(17)したりしました。
 北京では新支那という新聞社のインタビューを受け資料その2(2)のように語りました。一戸さんの旅行は料理の勉強というより、日本人の常食に向く新しい食物調査と食生活改善に役立つ調理法探しの旅行だったことがわかるので、長いのですが、あえて取り上げました。この間、朝日の料理記事は休んでおり、朝日は一戸さんが研究旅行に出掛けて不在のためだとわかるように動静を伝え(18)、一戸さんも「奉天に来て初めて純支那風の食物にありつきました。(19)」という北京便りを寄せています。
 「糧食研究」には「支那旅行報告(奉天にて)(20)」を書いていますし、その関係からか満洲日日新聞に「日本人の嗜好には不向/満洲の高粱研究結果」を2回寄稿した(21)ときは農科大学嘱託という肩書きになっている。一戸さんは毎度のように東京女高師の教授に祭り上げられたけど、農科大学嘱託は初めて見ました。
 私が思うに、農商務省の試食会の紹介の通り喜多見教授が和風料理を受け持つならも大江さんは明治35年から3年半、イギリスで家政学を勉強した留学経験者(22)ですから、当然洋風料理のリーダーになる。それで一戸さんとしては支那料理にヒントを求めざるを得ない。大正9年の調査旅行では口外しなかったけれども、一戸さんは肉料理に強い関心を持っていたはずです。不潔だとは思っても屋台の料理でも何でも食べ、調理法を尋ねたと思いますね。

資料その6

(1)
女師教授の
 食道楽研究
  一戸伊勢子女史

女子高等師範の教授一戸伊勢子さ
んは東京駒込の農科大学で稲垣博
士指導の許に食物や其

 調理法を科學
    的に研究中で

目下一般家庭に一大福音を与へる
可く調味料研究に没頭されて居る
現在家庭で使用している味の素は
しつこくて不純な味がするし、醤
油に鰹節や味淋を混ぜては非常に
高価に成る上、魚類も野菜も又軽
い物も重い物も一つの物を使つて
は、ほんととうの味は出ないので
野菜の味の素

 魚類用の物と数
   種実験中である

経済の点から鰹節は余り使はぬ事
にし煮出しと昆布を混合した物で
豆腐の様な味の無いのは調味料を
濃くす可く大豆やみようばんを入
れる程である。女史の研究によつ
て近くお台所に重宝を与へられる
であらう


(2)支那に於て
    食料研究
         一戸女史談話

◎今度 今度來燕した一戸いせ子女史は東京女子高等師範学校
の家事科教授であるが女史は非常の研究家で御茶の水に教鞭を
執る傍大学に通ひ稲垣乙丙博士に就き博士の助手として専ら食
料に関する研究を為し同大学内に組織せられたる糧食研究会に
も関係し女史の寄与は頗る少くない女史は自ら労働者の家庭貧
民窟等を視察して其等の社会の食糧品等に関する調査をもした
が更に歩を進めて
 ◎支那  に於る食料品の研究を為すべく今回単独の旅行を
企つるに至つたので目下扶桑館に滞在中であるが女史は語つて
曰く『日本の内地は食料品が甚だ高価になりまして一般生活難
を感じて居りますので私は予て此方面の研究に興味を持つて居ま
した所から聊か食料品の改善を計り之を学理的に研究しまして
安価で栄養に富める食物を調べ之を一般に勧めたいと存じまし
て女の身の甚だ出過ぎた事のやうでありますが好める道とて
遂ひ遙々此方まで参つたやうな次第でありますが内地で考へ
ました一つは支那に沢山ある高粱は何とかして日本の代用
 ◎食料  にならぬかと云ふ事でありまして少し精しく調
べて見ましたが此物は成分上から見ますと却々滋養分が多く且
つ副産物として色素脂肪等も取れまして頗る面白いのですが消
化の点が問題なので何とか調理法に依つて之を常食にすること
は出来ぬものかと様々工夫しましたが今度満洲に参りまして第
一に其実地を見ましたが日本内地での想像と異り之は苦力な
どでも余り常食にはして居らぬやうでありますですから高粱の
食用に就いては余程研究せぬと未だ十分な事は申されません又
此方へ参つて見ますと粟が大層多く作られてありますが此方な
らは
 ◎高粱  よりは食料に適するだらうと思ひますから之を一
つ更に調べて見度いと存じます猶序で私は日本の労働者と支那
の労働者の食物の比較研究をもして見たいと存じまして出来る
だけ試みましたが矢張り支那の労働者の方が日本のよりは遙か
に滋養量のある食物を取つて居ることを確めました是等も参考と
して日本の労働者の食物改良に資したいと存じて居ます又支那
は料理法が発達して居まして日本料理は外観や器物などに重き
を置き内容の滋養の方を忽にする傾向があるに反して支那料理
は外観よりも内容の方に重きを置くと云ふことを聞きまして之
れも一つ研究しましたならば日本の食料の
 ◎改善  に何等かの利益を與へることゝ存じまして北京へ
は主に其れか為めに参つたやうな訳ですが少し長いあひだ滞在
して種々御指導に與ると宜いのですが満鐵会社の御依頼で矢張
り食物の事で少許り講演を致す都合になつて居ますので時間の
少いのは遺憾であります』と単身独力支那まで研究に来られた
婦人ながら極めて優しい女らしい方でありました(ゆかり女)

  

参考文献
上記(17)の出典は大正9年8月26日付満州日日新聞夕刊5面=マイクロフィルム、 (18)は同年8月15日付朝日新聞朝刊5面=聞蔵U、 (19)は同年9月18日付同朝刊7面、同、 (20)は糧食研究会編「糧食研究」6号40ページ、大正9年10月、糧食研究会、 (21)は大正9年11月15日、17日付満洲日日新聞夕刊5面=マイクロフィルム、 (22)はお茶の水女子大学百年史刊行委員会編「お茶の水女子大学百年史」83ページ、「総説 第二章 女子高等師範学校時代」より、昭和59年5月、お茶の水女子大学百年史刊行委員会= http://hdl.handle.net/
10083/4567、 資料その6(1)は大正9年6月16日付満洲日日新聞夕刊5面=マイクロフィルム、 同(2)は同年9月7日付新支那朝刊3面、同

 その翌年、大正10年の夏、一戸さんと大江スミ教授が連名で「糧食研究」に「羊肉の調理研究」と題して50種を発表してます。資料その7に全文を示しましたが、このときから一戸さんが羊肉料理の表舞台に出たことになる。農商務省緬羊課のだれかが書いた前書きで「女子高等師範学校教授一ノ戸、大江の両女史に羊肉の西洋料理」と嘱託の一戸さんを教授にしちゃったために「糧食研究」の編集者も著者名で大江さんより上位に置いた。一戸さんは暫く大江さんに対しては気まずい思いをしたことでしょう。ふっふっふ。
 先の試食会の献立と比べると、煮こごりを含む8種が全部入っており、作り方もほぼ同様。レシピの書き方は前の「調理研究の一班」「農商務省試食会」と同じで材料の分量抜きで作り方であり、材料、方法、注意という3段飛びの一戸スタイルではない。でも調理法を分類してみると、俄然変わったことがわかるのです。

資料その7

羊肉の調理研究


   農商務省    緬羊課
   東京女高師教授 一ノ戸伊勢子
           大江スミ子

農商務省緬羊課にては予ねてよりお茶の水女子高等師範学校
教授一ノ戸、大江の両女子に羊肉の西洋料理北見キタ女史に
日本料理の研究を委嘱しつゝありしが此の程その一部の研究
完成するに及び盛んに羊肉食の宣伝に努めつゝあり。今その
内の主要調理法を示せば左の如し。

1 吸物種 つくね肉
摺鉢に葱と生姜の微塵にしたるものを茶匙に凡一杯づゝ入
れてよく摺りたる處に脂肪なき肉を肉挽器にかけたるもの
凡一斤を入れてよく摺り之に玉子の白味を加へて摺り交ま
ぜ塩、砂糖、酒、醤油にて味をつけ之を小さき団子様につ
くね煮立ちたる湯の中に入れてゆで、これを椀に盛り、ゆ
でたるみつばを添へ味よき清し汁を注ぐ

2 玉子巻
玉子を解き少量の砂糖、酒、塩にて味を付け玉子焼鍋にて
一分位の厚さに焼き、まだ上面の充分焼けざる時、乾きた
る布巾の上に焼けたる面を下にして置き、なほ同様に焼き
たるもの半枚を続け其上に生玉子を塗り前記同様の摺肉を
二三分の厚さに延べ、渦巻に巻き布巾に包みたるまゝ凡十
五分間蒸し小口よりきる

3 胡麻あへ
煮立ちたる湯の中に小間切にしたる肉と大切の葱一本と、
生姜二切ばかりとを一處に入れて湯掻き直に出し少量の醤
油に浸し置く別に黒胡麻をよく摺りつぶし少量の砂糖と醤
油にて味をつけこの中に醤油に浸し置きたる肉を入れてあ
へる

4 煎り煮  肉、乱切牛蒡、ちぎりこんにやく、くわゐ
鍋に少量の胡麻油を入れて火にかけ直に微塵切の葱と生姜
少々入れ此中に小間切の肉を入れて煎り肉の色の変りたる
時ゆでたる野菜を入れて共に煎りたる後ち煮出しと砂糖、
酒、及少々の醤油を入れて煑込み汁の詰りたる時尚醤油を
加へ汁の煮詰るまで煎り煮になす

5 付け焼
肉を平たく大形に切り之を酒と醤油とを等分に合せたる汁
に生姜の絞り汁少々加へたる汁にて凡二時間斗り浸し置き
後金網にのせて両面を焼く皿に盛りたるとき胡椒又は粉山
椒をふりかける

6白あへ
肉は前同様にしてゆで少々の塩をふりかけ置く、別に五勺
斗りの胡桃の皮をむき摺鉢にて摺り尚三個の豆腐を布巾に
て水氣を絞りて入れ共に摺りまぜ、砂糖、塩にて味をつけ
鍋に入れて火にかけ適宜の堅さに煮詰め、この中に前の肉
と薄味に下煮したる野菜とを入れてあへる

7 味噌汁
味噌汁をつくり熱湯にて五分間ゆでたる肉と生の野菜とを
入れ此中に大切の葱と生姜とを少し入れ野菜の軟になるま
で煮込み葱と生姜とを除きて椀に盛る

8 厚焼
車ゑびを酒、砂糖、醤油、にて煮つけ其汁に浸し置く椎茸
も軟にゆで、煮切味淋、砂糖、醤油、にて味よく煮込み其
汁に浸し置く、次に摺り鉢に凡百匁斗りの摺り肉を入れ充
分に摺り五六個の玉子を一つ宛入れて肉とよく摺りまぜた
る後、塩、砂糖、酒、醤油及椎茸の煮汁を入れて濃き味を
付け車ゑび、椎茸、を細かく切りまぜ玉子焼鍋に入れ遠火
にて両面をやき少し冷めたる後に切る

9 揚物
肉を平たく切り塩少々振りかけ置く、別に二個の玉子を器
に入れ充分泡の立つまで掻きまぜ之にメリケン粉を中匙五
杯斗り入れてこねぬ様にまぜ、酒と塩にて味をつけこれを
肉につけ胡麻油にて揚げる、付け汁は煮出し二杯、煮切一
一杯、醤油一杯、を合せてつくる

10 ぬた
小間切肉を前記同様にゆで酢に塩を加へたる汁に浸し置く
葱は五分位の長さに切りてゆで独活は小さき乱切になし、
濃き塩水に浸し、わかめは水に浸し筋を去り小間切になし
葱、独活、わかめ、共に塩酢に浸し置く別に灰引の芥子を
摺鉢にて摺り、其中に味噌を入れて充分にすり砂糖と酢に
て味をつけ、肉及野菜を軽く絞りて入れ生姜は霰に切り残
りたる塩酢にて洗ひたる後、入れてまぜる

11 うま煑
脂肪なき處の肉を小さく薄く切り煮立ちたる湯に五分間入
れてゆで、之を砂糖、醤油、を味よく合せ煮立せたる中に
入れざつと味をつけ後肉を出し残りの汁を充分に煮詰め、
再肉を入れてまぜ置く、八つ頭はゆでたる後よく水にて洗
ひ再鍋に入れ煮出し、酒、砂糖、醤油、にて味をつけ芋の
崩れぬうちに鍋を下し其汁に浸し置く、独活は煮出し酒、
砂糖、醤油、にて煮汁をつくり肉と同様に中揚をして煮る
さやえんどうは煮立ちたる湯に塩と共に入れて青くゆで、
之を酒、砂糖、塩、にて味をつけ皿に出し急に冷す、以上
を格好よく盛りつく

12 木茸巻
木茸を線にきり、ゆでて味よく煮る、別に前記摺肉を摺鉢
に入れなほも充分に摺り味を濃くし、幅の広き竹の皮の上
に延し其の真中に木茸を入れて巻き、壱銭銅貨位の太さに
なし、皮にのみ周囲を紐にてくゝり凡十五分斗り蒸し冷え
たる後に切る

13 白汁
脂肪なき肉の大塊を煮立ちたる湯に一寸入れて直に出し再
び煑立ちたるスープ或は湯の中に入れ大ぎりの葱と生姜と
を入れ、塩を加へて余り強からぬ火にかけ汁の少し煮詰り
たる後バタと酒とを入れてゆで凡一時間斗りの後鍋を下し
其まゝ汁に浸し置く、玉葱、にんじん、松茸は、塩ゆでに
なし置く、別に鍋にバタを入れ同量のメリケン粉を入れ文
火にかけて気長にまぜ充分粉の煮えたる時牛乳にで延ばし
なほも前のゆで汁を漉して入れ適宜にゆるめ、この中にゆ
でたる肉を適宜の大さにほぐしたるものと、塩ゆでの野菜
と缶詰の青豌豆とを入れ酒と塩とにて味をつける

14 卯の花煎
卯の花を握鉢にてよく摺りたる後、布巾にとりて絞り水気
を去り置く、にんじん、椎茸、は線に切りゆでたる後煮出
し、砂糖、酒、醤油、にて味をつける、次に鍋に胡麻油を
少々入れ微塵切葱と生姜とを少々入れ直に肉を入れてまぜ
色の変りたる時卯の花を入れてよく煎り之に煮出し、砂糖
酒、醤油を加へて味よく煎りつけ後、にんじん、椎茸をま
ぜる

15 味噌あへ
小間切の肉を胡麻あへの時と同様にゆがき置き味噌を摺り
砂糖及酢にて味をつけ肉をあへる

16 塩焼
肉を平たく大形にきり塩、胡椒、をふりかけ空壜にてたゝ
きこれを金網にのせて焼くか又は鍋にバタを入れて焼くも
よし

17 黄味そぼろ
前記摺肉を摺鉢に入れ、なほも完分にすり味をよくし、ゆ
でたる玉子の白味を小間切にしてまぜ適宜の大さに丸め、
其周囲に玉子の黄味を裏漉にかけたるそぼろをつけ蒸籠に
乾きたる布巾を敷き其上にならべて蒸し凡十分の後出して
再周囲にそぼろをつけ置く

18 蒸肉の吉野焼
股肉又は脊ロースの大塊を微塵切の葱、生姜、を加へたる
醤油に半日斗り浸し置きたるを蒸籠にて三四十分蒸し冷め
たる時片栗粉を醤油にてときどろ/\の汁をつくり、これ
を肉の周囲につけ少量の胡麻油をやき其中に肉をころがし
て周囲を焼き冷えたる後一分位の厚さに切る、芥子醤油を
つけて食す

19 味噌煑
小間切肉は煮立ちたる湯にて五分間湯掻き、其汁を捨て置
く、別に鍋に少量の酒を入れ煮立ちたる時微塵切の葱、生
姜を少々入れ直に肉を入れてまぜこの中にゆでたる野菜を
入れまぜ後煮出し又は羊肉のスープを充分に入れ煮立ちた
る時裏漉したる味噌を入れて煮込む

20 豆腐煎
豆腐を細かくつぶしてゆで布巾にとりて水氣を絞り置く、
にんじん、椎茸はゆでて味をつけ置く、別に鍋に酒、砂糖
醤油にて味よき汁をつくり煮立ちたる時微塵切の葱、生姜
を入れ次に肉を入れてまぜ色の変りたる時ゆでたる豆腐を
入れてまぜこれに煮出しと砂糖、醤油を加へて味をつけ充
分に煎り、後、にんじん、椎茸の汁を絞りてまぜる

21 つくね揚
肉の脂肪のまさりたる處を細かく凡一分角と思ふ位に切り
少々庖刀の脊にてたゝきこれを鉢に入れ水ときしたる、片
栗粉と微塵切の葱、生姜とを入れよくまぜ醤油と酒にて味
をつけ適宜につくねて胡麻油にて揚げる

22 味噌漬焼
肉を平たく大形にきり、味噌を醤油にてゆるめたる中に半
日斗り浸し金網にて両面を焼く

23 煮込み
肉を大形に厚く切り煮立ちたる湯の中に入れて、五分間斗
りゆで肉を笊に揚げ置く、別に牛蒡、にんじん、大根等の
野菜を大きく切り、鍋に湯又はスープを煮立たせ其中に肉
と大切の葱、生姜を入切て煮込み次に牛蒡を入れて煮、暫
くしてにんじん、大根を入れ上部に浮びたる灰を除きなが
ら煮込み野菜の軟らかになりたる時、酒、砂糖、醤油を入
れて味をつけ其上にゆでたる葱を二寸位の長さにきり、油
揚も適宜に切りてのせ味のつくまで煮込む

24 作り肉の三杯酢
白汁の時に説明したる通りにゆで、其ゆで汁に浸し置きた
る肉を小口より薄く切り線切うどと共に格好よく盛りつけ
猪口に二杯酢又は芥子醤油を入れて添へる

25 腎臓の塩煎
腎臓を小口より薄く切り、フライ鍋にバタを入れ其中に肉
を入れ塩、胡椒にて味をつけて煎る

26 塩汁
鍋にバタを入れやゝ解けたる時微塵切の葱、生姜、を入れ
次に肉を入れてまぜ色の変りたる時玉菜、玉葱の線切した
るものと、にんじんのゆでたるものとを入れて煎りたる後
煮出し又はスープを入れ煮立ちたる時塩と酒とにて味をつ
ける

27 おろしあへ
小間切の肉を前記の通り湯掻き塩酢に浸し置く、独活は細
かにきり濃き塩水に浸し置く、別に大根おろしをつくり軽
く汁を絞り砂糖、塩、酢にて味をつけ肉とうどを入れてま
ぜる

28 すき焼
肉のよき處を薄く切り野菜と共にすき焼になす

29 葛煮
肉を皮付のまゝ大きく切り、之を胡麻油にて揚げ之を煮立
ちたる湯の中に入れて五分間湯掻き、其汁を捨て別の湯を
入れて凡そ三十分ゆで、肉を掬ひ出し残りの煮汁を冷し置
くときは、脂肪は上部に凝固す之を布にて別鍋に漉し出し
此汁の中に前の肉入れ酒、砂糖、醤油とにて味よく煮込み
此中におろし生姜と葛とを入れて煮、温き處を食す

30 佃煑
肉の小間切を五分間湯に入れて煮たる後其汁を去り古生姜
の薄切りと共に酒と醤油とにて辛く煮付る

31 玉子煎り
玉子を煎り、酒、砂糖、醤油にて味をつけよくかきまぜ此
中に前記の如く五分間湯掻きたる小間切肉と缶詰の青豌豆
とを入れて火にかけ煎玉子になす

32 磯辺揚
脂肪の少き肉を挽肉になし、(又は俎板の上にてたゝく)之
を摺鉢に入れ微塵切の葱、生姜と共に摺り、煮出しにてゆ
るめ塩と胡椒にて味をつけ置く、別に海苔を四つ切りにし
たるものにて摺肉を包み平たくし胡麻油にて揚げ割醤油を
つけて食す、割醤油は一合の煮出しに三勺の醤油と二勺の
煮切味淋を加へ煮立てたるものなり

33 磯辺焼
擂鉢にみじん切の葱、生姜を入れて摺り此中に挽肉を入れ
てよく摺り、煮出しを入れて前記磯辺焼の肉より少々細く
なし塩、胡椒、酒、砂糖、醤油にて味をつけ置く、別に海
苔を焼きて細かくし玉子焼の中にはいる程の押板の上にふ
りかけ其上に前記の肉を一分位の厚さに圧し平になし其上
にも細かき海苔を振りかけ玉子焼を火にかけ胡麻油を引き
其中に板のまゝ入れて、肉面を焼き片側の焼けたる時刺身
庖丁にて肉を板より離し、他の一面を玉子焼にて焼きたる
後適宜に切る、又板につけず手にて丸め平たくし両面に細
かくしたる海苔をつけて焼くもよし

34 鹿の子焼
天皿の底の裏面を清潔に拭ひ、前記磯辺焼の時と同様に作
りたる肉を刺身庖丁にて塗り付け、一分位の厚さに延ばし
たる後細かくきりたるセロリを振りかけ、其上を刺身庖丁
に布目を付けたる後天皿の縁を持ちて其面を焼き、片面焼
けたる後天皿を七輪にかぶせ内面ょ焼き火の通りたる時庖
丁にて離し適宜に切る

35 煑こゞり
微塵に切りたる羊肉を塩、胡椒、して酒にて煎り置く、椎
茸はゆで、砂糖、醤油にて味よく煮つけ蓮根は白煮になし
三葉はゆでゝ五分位の長さに切り置く
寒天一本を三合の水にてとき砂糖二十匁、醤油三勺、にて
味をつけ煮詰めたるものゝ中に前記の材料を入れて流し箱
に入れ寄せたるものなり

36 吉野肉
脂肪なき肉を平たく切り塩と胡椒とをふりかけ置き、乾き
たる俎板又は新聞紙の上に片栗粉をまき其上に肉をのせ粉
をまぶしつけて、空壜又は摺木にてたゝき煮立ちたる湯に
て湯掻き、椀盛の種とす

37 黄味焼
摺肉に味をつけ、二銭銅貨位の大さになし布巾に包みて蒸
し冷えたる後周囲に玉子の黄味をつけ玉子焼に胡麻油を塗
りて焼く二三回 玉子つけて其周囲を焼く時は黄味にて包
みたる様になる之を小 よりきる<1字空白、口と推定される>

38 黄味あへ
肉は薄く小さく切り煮立ちたる湯にて、五分間斗り湯掻き
たる後鍋に胡麻油を少々入れて肉をいため其中にハムの小
間切を入れて煎りつけ置く
にんじん、馬鈴薯を三分位の賽の目に切り塩ゆでになし、
うどを乱切にし酢と塩とに浸し置く、生姜は微塵に切り湯
にて洗ひ布巾にとりて絞り置く
別に缶詰豌豆を塩、酢に浸し置く、玉子は之をゆで白味の
方は小間味にし黄味の方は裏漉しになし置く
右の準備出来たる時鉢に粉芥子を入れ、裏漉にしたる黄味
の量の五分の 位の生玉子を黄味にてときなほ酢にてゆる
め塩と砂糖にて味をつけ此中に裏漉しの黄味の半分と右材
料の汁を絞りたるのとを悉く入れてまぜ器に盛りたる後裏
漉しの黄味をかけ、生姜も少々かけ置く

39 雪煑
羊肉の脂肪なきよき處を小口より薄く切り鍋に少量の微塵
切の葱、生姜及酒を入れ煮立ちたる時塩と砂糖とを入れ此
汁にて肉に味をつけ置く、別に鍋に煮出しを入れ煮立ちた
る時塩と砂糖とを入れ吸物の汁より少々辛くなし、此中に
おろしたる大根の汁を絞りて入れ其中に前の肉を入れ直に
鍋をおろす

40 木の芽あへ
羊肉を前同様に味をつけ置き、摺鉢に木の芽を入れて摺り
此中に白味噌又は赤味噌を入れてよく摺りまぜ、煮出しに
てゆるめ砂糖を入れて味よき味噌とし、此中に肉を入れて
あへる、うど、筍等季節の野菜を共にあへてよし

41 たで酢あへ
羊肉を前記同様に味をつけ置き摺鉢に蓼の葉を入れてよく
摺りつぶし此中に飯を少量入れて充分に摺り酢にてのばし
砂糖と塩とにて味をつけ肉をあへる

42 松風焼
前に説明したる通りに羊の摺肉を作り煮出し、酒、砂糖、
塩、醤油にて充分よき味をつけ板に二分位の厚さに延し刺
身庖丁にて平になし煎りたるケシをかけ火にかけ両面を焼
き後庖丁にて離し適宜に切る

43 大根巻
大根を一分位の厚さの桂むきになし、一寸塩水に浸したる
後俎板の上に平に置き、平たく薄く切りたる羊肉を重ね生
姜を細長く切りて真に入れ小口より巻き干瓢にて括り鍋に
敷笊をしきて入れ煮出し、酒、砂糖、醤油にて気長に充分
汁の含む様に煮込み食べよき様に小口から切りて器に盛り
つける

44 玉子焼
器に生玉子を割よく溶き此中に微塵切葱、生姜少々と羊
肉の脂肪なき處微塵にきりたるものとを入れ煮出し少々
酒、砂糖、塩、油にて味をつけ玉子焼に入れて焼く焼き
方は厚焼にても焼にても可

45 肉豆腐
豆腐にて味よき煎豆腐を作り木茸、にんじんを線にきりゆ
でゝ味をつけ之と羊肉の摺肉とを豆腐にまぜ竹簾又は布巾
にて巻きて蒸し、之を適宜に切り吸物の種にするか又は一
寸薄葛の煮汁を作り此中に入れて味を付け小口より切りて
鉢に盛り付くるもよし

46 山かけ
羊肉の脂肪なき處を二分位の厚さに大きく切り之を味淋、
酒、醤油、を等分に合せたる汁に微塵切の葱、生姜を入れ
たる中に浸し一夜の後金串又は金網にて焼き適宜に切り器
に盛る此上に摺りたる山の芋を煮出しにて適宜にゆるめ塩
にて味をつけたるものをかける

47 酒蒸
羊肉の脂肪なき處を線に切り器に入れ塩を振りかけ酒をか
けて三時間斗り浸したる後其器こと蒸籠に入れて蒸し此ま
ゝ膳に出し、味淋、醤油を合せ煮詰めたる汁におろし大根
を入れこの汁をつけて食す

48 挽肉焼
羊肉を肉挽器にかけ之に微塵切の葱、生姜少々と肉百匁に
つき玉子二個の白味をまぜ酒、塩、胡椒、醤油にて味をつ
けよくまぜ直径一寸位の扁平の形につくね胡麻油にて焼く
かけ汁は煮出しに酒、砂糖、塩、醤油を加へて味をつけ薄
葛にしたるものを用ふ

49 朝鮮焼
羊肉を扁平に大きく切り、酒と醤油を合せたる汁に一夜浸
し置き、金串に刺して両面を焼き胡麻を周囲に付け再火に
かざし皿に盛る、胡麻は煮りて摺り少々の砂糖と醤油、煮
出し等にてどろどろになし置きたるものなり

50 照焼
羊肉を前記同様に平たく切り醤油と味淋と合せたる汁に一
夜浸し置き之を金串に刺して焼き、照汁を付け火にかざす
照汁は味淋と醤油を等分に合せ少々葛を入れて作る

 もう「一班」と略すが「一班」の28種と試食会の50種を調理法別に分けると資料その8のようになります。満洲と北京視察で一戸さんは焼き肉でメニューを増やせることに気付いたことによると思うのですが、焼き物の激増が目立ちます。さらに焼く前に漬け汁に浸し置く時間をみると、付け焼は2時間、味噌焼は半日と両者のレシピは同じだが、試食会はさらに吉野焼の半日、朝鮮焼と照焼は1夜と長い。肉に下味を付けるだけでなく羊肉の臭味消しにもなると知っての処理ですよね。
 その他に書き出した料理では、名前が変わった程度のものがある。「一班」の黄味団子は試食会の黄味そぼろ、白ゆでは作り肉の三杯酢とレシピが同じです。木茸蒲鉾は木茸巻として試食会では〜巻に入っているし、ぬたは共通。となると、試食会の其他は正確に分ければ試食会の煮こごり、吉野肉、肉豆腐、山かけ、酒蒸し、煮込みの6種ですね。
 それから資料その7ではよく見えない大きな変化が潜んでいる。それは何かというとだ、味淋の使用です。8番の厚焼、32番の磯辺揚、46番の山かけ、47番の酒蒸、最後の照焼で使われていることを資料その7で確かめなさい。一戸さんは若いときからミリンのリンを酒篇ではなくサンズイの淋しいを書いています。喜多見・大江レシピではなかった味淋を使う料理は、まず一戸レシピとみていいと思います。

資料その8

   羊肉調理研究の一班  羊肉調理研究
 〜焼  5         14
 〜煮  4          7
 〜揚  3          3
 〜あへ 4          7
 〜汁  4          4
 〜煎  3          3
 〜巻  1          3
 計  24         41
 其他 ぬた         ぬた
    黄味団子       黄味そぼろ
    白ゆで        煮こごり
    木茸蒲鉾       吉野肉
               肉豆腐
               山かけ
               酒蒸し
               煮込み
               作り肉の三杯酢
合計  28         50

 農商務省の緬羊課は一戸・大江レシピを「食糧評論」8月号に掲載した後、今度は緬羊課単独で同じ「食糧評論」12月号に、また「羊肉の料理」12種を発表したのです。資料その9がその全文ですが、半分は一戸・大江レシピと同じか簡略版だ。揚物は一戸・大江レシピの(21)と同じ、煮込みは同(23)の最後に入れる茹で葱と油揚を略したものだし、塩汁は同(26)のバターを胡麻油に変えたもの、葛煮は同(29)と同じ、佃煮は同(30)と同じ、朝鮮焼は同(49)も同様、照焼は同(50)の味淋を酒に変え、漬け込み時間を2時間に縮めたものです。
 斯く一戸・大江レシピとの重複を承知で掲載したのは、一戸・大江レシピにはなかった羊肉の特徴、羊肉の臭いは嫌うほど強くないことを強調するためぐらいしか考えられませんが、羊肉調理法の進展という観点から無視できない動きなので、この際、ここで紹介しておきます。

資料その9

羊肉の料理
          農商務省農務局緬羊課

   羊肉に就いて

一、羊肉は大した臭味
  のあるものではないが、矢張り羊は羊だけの香がある、こ
  れを消すには葱、生姜、胡椒、粉山椒等の香料を用ひて、
  調理すればよろしい。

一、羊は牛、豚に比すると
  体躯が小さいだけ、其肉も大きい塊りが少い、それで大切
  の肉を要するときは、股肉、次は肩肉からとる、小さい肉
  で上等の處は、内ロース脊ロース等である、其他首肉ハラ
  肉等は小間切にして用ゐる。

一、羊肉の脂肪は
  少し冷えると直に凝固する、これを除くには肉をまず茹で
  ゝ後調理する、又スープをとるには、其肉汁を冷して置く
  と脂肪は上部に凝固するこれを篩で漉して用ゐる。

      簡単な調理法

▲塩焼   股、肩等の肉を平たく大形に切り、両面に塩を
      振りかけ、後微塵切の葱、生姜をまぶし付け室
      壜でたゝき、串に刺して焼く。
▲味噌漬焼 塩焼と同じ様に切り、其周囲に微塵切の葱と生
      姜をまぶし付け、空壜にてたゝき、後味噌を酒
      と醤油にてゆるめたる中に一夜漬け置きて焼く
▲照焼   前と同じ様に切りたる肉を、酒と醤油を等分に
      合せたる汁に、凡二時間漬けて後焼き、其周囲
      に照汁を付る、照汁は肉を漬け置きたる汁を煮
      立たせ、少々片栗粉を入れて、とろ/\の汁に
      作る。
▲朝鮮焼  照焼と同じ様に焼き、其周囲に黒胡麻を炒り
      よく摺り、醤油と酒にてゆるめたるものをつけ
      る。
▲すき焼  股肉、肉ロース、脊ロース等の上肉を薄く小切
      になし、焼鍋にて焼き、葱、蒟蒻、豆腐等の野
      菜と共に、煮ながら食す。
▲煮込み  肉を大形に厚く切り、煮立ちたる湯の中に入れ
      て、五分間計りゆで、其汁を捨て湯を十分注ぎ
      大切の葱、生姜を入れて煮る、別に牛蒡、にん
      じん、大根等の野菜を大きく切り、堅きものよ
      り順に鍋に入れて煮込み、上部に浮びたる灰汁
      を掬ひ去りながら、野菜の和らかになるまで煮
      たる後、酒、砂糖、醤油を入れて、味をつけ冷
      えぬうちに食す。
▲葛煮   バラ肉三枚肉(どこの肉でもよし)等を、皮付の
      まゝ大く切り、之を胡麻油にて揚げ之を煮立た
      る湯の中に入れて、五分間湯掻き、其汁を捨て
      別の湯を入て、凡三十分ゆで、肉を掬ひ出し、
      其煮汁を冷し置くときは、脂肪は上部に凝固す
      之を篩にて別鍋に漉し出し、其汁の中に前の肉
      を入れて火にかけ酒、砂糖、醤油とにて味よく
      煮込み、此中に、卸し生姜と葛とを入て煮込み
      温き處を食す。
▲佃煮   肉の小間切を、五分間煮立ちたる湯に入れて、
      煮たる後、其汁を去り、古生姜の薄切と共に、
      酒と醤油とにて辛く煮付る。
▲和へ物  肉の小問切を、五分間湯掻きたる後、胡麻和、
      白和、ぬた、味噌和、おろしあへ等になす。
▲揚物   脂肪のまざりたる荒肉を、細かく(凡一分角位)
      切り俎板の上にて庖丁の脊の方で少々たゝき、
      これを鉢に入れ、水にときたる片栗粉と、微塵
      切の葱と生姜とを入れ、塩、酒、醤油にて味を
      付け、適宜につくねて、胡麻油にて揚げる。
▲塩汁   鍋に少量の、胡麻油を入れ、煮えたるとき、葱
      生姜の微塵に切りたるを入れ、次に小間切の上
      肉を入れてまぜ、色の変りたるとき、玉菜、玉
      葱の線切にしたるものと、胡羅匐、馬鈴薯のゆ
      でたるものを入れて煎り後、湯または煮出しを
      入れて煮たゝせ、上部に浮きたる灰汁を去り、
      塩と酒にて味を付ける。
▲汁物   小間切の肉を湯掻きたる後、清し汁及味噌汁等
      の實になす。

 満洲と北京でいろいろな肉料理を覚えてきた一戸さんは、女高師と裁縫女学校で教え、朝日の料理のレシピを考え、稲垣研究室で勉強という忙しい日々を送りながら、これが一戸レシピだという羊肉料理を作り出そうと努力して、遂に9種のオリジナル料理を作り出した。そしてちょいちょいレシピを書いていた裁縫女学校の「裁縫雑誌」に「羊肉に就て」と題して発表したのです。その中の松葉燻しの「羊肉の網焼」こそ、われわれが愛するジンギスカン料理の遠い遠い祖先なのです。いいですか、大正11年のことです。一戸一勢と間違っていますが、資料その9が全文、元祖さまが目立つように太字にしました。
 いっておくが、魚を松葉で燻しながら焼くのは日本料理の調理法なんです。例えば明治45年に出た緑葉女史著「客来献立御膳の仕方 惣菜料理法(23)」にありますし、大正13年10月の北海タイムスに「鯖の松葉いぶし山葵醤油(24)」が載っています。私の郷里の新聞「はちのへ」にも同じ記事がほぼ同時に載っている(25)ので、通信社が配信した記事でしょう。一戸さんは松茸と松葉を炮烙に入れて蒸し焼きにする松茸の松葉蒸し、鯛と松茸の松葉蒸を、このころの朝日新聞の「お料理」に書いている。だから前の年の満洲・北京旅行でカオヤンローを食べてみて、串焼きだったかも知れないが、煙を避けながら、あっ、これなら松葉燻しが使えるわと思いついた―とね、私は想像するんです。
 このころの一戸さんと農商務省の関係は飼育講習会での料理講師を務めたり、羊肉料理の模型づくりなどつながりはあったけれど、料理の継続委託はなかったんじゃないかな。個人研究なればこそ、その前に使った「食糧評論」ではなく教鞭を執る東京裁縫女学校の「裁縫雑誌」で発表したとみられます。
 それから19年後、一戸さんはイワシの食べ方として松葉焼きを勧めました。「フライパンの上に庭の松葉をならべ、塩をパラ/\ふりまいて、その上に頭、中骨、はらわたをとつたひらき身のイワシをのせ、さらにその上にまた松葉をならべる。次に、とも蓋でしつかり蓋をしたうへ、最初は強火にしあとは中火で五、六分焼く。よいにほひのしだしたところで裏返して両面焼く。かうすると松葉でイワシのくさいにほひが消えるうへ、最初強火で焼いて表面の蛋白質を凝固させるので榮養価が逃げない。(26)」とね。太平洋戦争の真っ最中で何でも配給の時代、塩と松葉で食べようとはさすが一戸さんです。松葉燻しは消臭効果を狙ってのことだったのです。

資料その9

   羊肉に就て
             一戸一勢<原文のまま>

  一、羊肉の特長
 羊肉は牛肉に比して香汁の量が少なく且繊維管
が細く織維が粗になつて居るから肉が柔い従つて
消化も早いから労働しいな人、坐食者、婦人、病<原文のまま>
人等の食料として最よろしい。

  二、羊肉と牛肉の化学的
    成分の差
   水分    粗蛋白質  粗脂肪   灰分
羊肉 五七、三〇 一六、六二 二八、六一 〇、九三
牛肉 六〇、八〇、一八、〇〇 一六、〇〇 五、二〇

  三、羊肉と牛、豚、鶏肉と
    の料理時間の差
 牛肉百匁の肉を丸の儘煮るには約二十五分間を
要するが羊肉ならば十四五分間でよろしい又部分
によりては僅に九分間位でもよい。
 又焼いても牛肉、豚肉、鶏肉等に比して早く焼
ける例へば肉百二十匁をロースとする場合に要す
る時間を挙げると、
  羊肉    九分間−十分間
  豚肉    三十分間
  鶏肉    十五分間−二十分間
  牛肉    二十四五分間
 斯く羊肉は組織か粗なるだけ煮ても焼いても他
の肉類より早く出来上るので従つて料理の時間と
薪炭の経済上より云つても大差がある羊肉には羊
肉特有の臭ひがあるが之れは飼料其の他色々の関
係から來ることで若しや之れ等の関係上多少の臭
ひがあつても取合せの材料で其の臭ひは左程感じ
ない程のものにすることが出來る即ち他の香辛類
を特に用ひて之れを消さすとも取合の材料一つで
肉の真味を損せずに調理することが出來る。
 羊肉は日本料理としても又洋食、支那料理等と
しても肉が柔かいので大変に結構である其の上に
日本料理の甘煮などにしても他の鳥獣肉の様に砂
糖などを用ふる必要がない。
 砂糖などを用ひては却つて羊肉の真味を害して
不味くなるのであるから其れより取合せの材料に
注意して例へばアマイドの多い野菜を取り合せて
用ふる様にすると経済でもあり美味でもある。
 又羊肉は他の肉類同様何れの料理でも出來る羊
肉に就て夫々研究すると少しも捨てる部分が無く
又其の方法によつては長く貯蔵も出來得るのであ
る。

  羊肉料理

  1 羊肉の鍋焼
材料 羊肉百匁、味淋二勺、醤油二勺、胡麻油一
   勺、メリケン粉十匁。
方法 羊肉を一分位の厚やに切り之れを味淋及醤
   油の中に約二十分間浸しおき、後ちメリケ
   ン粉を撒布して五分間置き、之れを「フラ
   イパン」に胡麻油を少々入れ此の中に肉を
   入れて焼く肉の蛋白質が凝固せし時返して
   両面を焼く。
注意 肉を焼く火加減は強火がよろしい、弱火に
   て長く時間を要して焼く時は肉硬くなり又
   羊肉の臭ひが出でゝ悪い、羊肉を味淋や醤
   油に浸し置く間に肉を上下にして能く浸る
   やうにする。

  2 羊肉の網焼
材料 羊肉百匁、味淋一勺、塩小匙一、醤油一勺
   七色蕃椒少々。
方法 羊肉を一分位の厚やに切り、味淋、醤油の
<原文のまま>
   中に約十分間浸し、後ち蕃椒粉と塩を撒布
   して十分間をき金網のよく焼けた上にて両
   面を焼く。
注意 之れを焼く際に松葉か、又松笠など火の間
   に置き、多少此の煙の出る處にて焼けば一
   層風味を増す、併し斯かる事は各自の嗜好
   故如何様になすもよし。
   此の料理には肉の薄い部分を利用すればよ
   い、決してロースなどを用ふる必要はな
   い。
   複雑なる香味を好まるゝ方には「セルリー」
   を細く切つて肉に浸し置く時に交ぜて入れ
   るもよし。


  3 羊肉のすき焼
材料 羊肉百匁、葱二本、芹或は野蜀葵一把、胡
   麻油少々、醤油一勺、塩小匙一、味淋一勺。
方法 羊肉は二分位の厚きに切りて味淋少量かけ
   置く。
   芹又野蜀葵は一寸位の長さに切る、葱は斜
   に薄く切つて置く、鍋に少量の胡麻油を入
   れ熱せし時羊肉竝芹、葱等を入れて手早く
   いため、後ち味淋、塩及醤油を加へて味を
   つけ火よりおろす。
注意 火加減は強火にてなるべく短時間に煮るを
   よしとす。
   羊肉は蛋白質が凝固さへすればよいので、
   之れによつて可溶成分の浸出を防ぎ、肉味
   の損せぬ様になすのである。
 以上の料理には脂肪の少ないところがよろしい
之れを薄く切つて用ゐるのである肉を切る時には
繊維と直角になる様に切らぬと肉が硬くなつて不
味い。

  4 羊肉と独活の煑附
材料 羊肉百匁、独活二本、味淋二勺、醤油二勺。
方法 独活の皮を剥ぎ、五六分より一寸位の長さ
   に切り、之れに熱湯を覆ふ位入れて、独活
   の半柔くなるまで煮る、而して味淋及醤油
   を入れ、沸騰させ、此の中に適当に切つた
   羊肉を入れて、強火にて沸騰させ、肉の蛋
   白質の凝固したのを見計つて火を消す。
注意 羊肉は長く煮ては不味く、煮過ぎぬ方がよ
   い、此の料理は嗜好によつては薄餡かけと
   なすもよい。
   季節によつては独活の代りに筍を用ふるも
   よい。

  5 羊肉の煑込み
材料 羊肉百匁、胡蘿蔔二本、小蔗菁十箇、小玉<原文のまま>
   葱十箇、塩一匁二分、胡椒少々、胡麻油少
   々。
方法 羊肉を適当の大さに切つて胡麻油にていた
   め置く。
   胡蘿蔔及小蕪菁は、汚れたる部分のみ取り
   去り、胡蘿蔔は乱れ切りとなして丸の儘の
   小蕪菁と一緒に鍋に入れ、材料を覆ふ位熱
   湯を注ぎ、火にかけて沸騰させ、此の中に
   玉葱の皮を剥いたものを丸の儘胡麻油にて
   いためて加へ、野菜の柔くなるまで煮る、
   次に之れにいためた羊肉を加へ一二度沸騰
   させ、表面に浮いた泡を取り去り、之れに
   塩を加へ、肉の中まで火の通りたる頃を見
   計ひ胡椒を加へ、今一度沸騰させて火を消
   す。
注意 肉の切り方によつて煮る時間に長短がある
   肉の中まで火の通つたのを見計つて火を止
   めればよい、又嗜好によつでは醤油一二滴
   加へてもよい。

  6 羊肉の龍眼揚げ
材料 羊肉百匁、醤油大匙一、澱粉一勺弱、胡麻
   油。
方法 羊肉を庖刀にてこそげ取り之れを俎の上に
   て一二度たゝき、之れに醤油をかけて約二
   十分間置く後ち之れを龍眼大にまるめ澱粉
   を撒布して胡麻油にて揚げる。
注意 揚げ過しては硬くなりて不味くなる又形を
   作るには一握の肉を握つて拇指と人さし指
   との間より出た肉を以て一定の形を作るが
   よい。

  7 葱間揚げ
材料 羊肉百匁、葱三本、澱粉十匁、胡麻油、醤
   油二勺。
方法 羊肉を繊維と直角になるやうに幅二分、長
   さ一寸五分位に切り、之れに醤油をかけ置
   き後ち同様に切つた葱と一緒にして、之れ
   に澱粉をつけ熱した胡麻油にて揚げる。
注意 葱は外側に、肉は内側になる様にするがよ
   い。

  8 肝臓のよせもの
材料 羊の肝臓一箇、寒天一本、ストツク三合(鶏
   の骨を以て煑たる煑汁)、「セルリー」一本、
   「ハム」二切、玉葱一箇、塩、胡椒。
方法 羊の肝臓を目笊に入れて、先づ熱湯をかけ
   置き、後ち熱湯の中に入れて十五分間煮、
   之れを取り上げ裏漉にかけ置く。
   寒天を水に浸して柔くなつた時に細く切り
   ストツクを入れて煮る、溶けたる時に表面
   の泡を取り去り、之れを半分位になるまで
   煮詰めて火よりおろす、此の際塩、胡椒に
   て味をつけ置く、少し冷えたる時「セルリ
   ー」の細く切りしもの及「ハム」の切りた
   るものを加へ、之れに裏漉にかけたる肝臓
   を入れて流箱に流し入れ、固めて後適當の
   大さに切る。
注意 肝臓を湯煮する時間は大小によつて多少違
   ふが中まで火が通りさへすればよい、王葱
   は摺つて其の汁を寒天とまぜる際に入れ
   る。

  9 脳の味噌漬
材料 羊の脳一箇分、味噌百匁、醤油一勺、生姜
   一箇、葱一本、白胡麻五勺、砂糖五匁。
方法 脳は塩水にて洗ひ薄い膜を取り去つた後ち
   生姜と、葱と共に熱湯中にて十分間煮る、
   次に之れを取り出して味噌の中に入れ醤油
   をかけて約半日置き網の上に載せて両面を
   焼く、之れに白胡麻を摺つて白砂糖を手に
   てもみ合せたものを撒布して食す。
注意 新鮮な臓物はそれ/\゛利用の道も広いから
   一二代表的なものを挙げる、肝臓を食せば
   肝油と同様の養分が得られる。
   但し寄生虫のあるものは避けるがよい。
   脳には「レチシン」が多く含有されてある
   ので発育盛りの子供、腺病質の人、恢復期
   の病人等には最よい。

 これが農商務省当局の目にとまったんですね。どういう経緯で「上梓頒布すること」になったのかわかりませんが「羊肉料理法」というパンフレットになり、種羊場場などに配られたらしい。私がジンパ学の研究を始めたばかりのころ、霞ヶ関の農林水産省にあると知ったのでコピーさせてもらおうと省内の図書館を訪ねた。するとね、ぼろぼろでとてもコピー機に掛けられないパンフレットが1部あったのです。まだ私の記録スタイルが固まっておらず、羊肉の特長や成分は空知北村のパンフレットに似ているから次回でよいと省略して、レシピを書き写し、ノートにパンフをあてがって輪郭をなぞっておいた。いま計ってみると縦15.5センチ、横9センチだが、折り畳みだったか本だったか書いていません。
 このとき、もう1冊あってね。「羊肉料理/農林省畜産局」というパンフレットで「農林省畜産局寄贈/昭和8年5月15日収受」というスタンプが押してあった。写し取った輪郭を計ると縦14.5センチ、横11センチあります。内容は焼きもの12種、揚げもの14種、煮もの11種、和えもの3種。焼きものにカウヤンローとルビ付きで鍋羊肉(支那料理の焼肉)が入っていたので書き写した。いま読んでみると材料、方法は「糧友」昭和3年1月号の「羊肉料理法」のそれと同文です。
 資料その10が古い方の「羊肉料理法」の全文。右端に矢印が付いた行がある。これはね、一戸さんの「羊肉に就て」と違う箇所です。私の写し間違いかも知れないが、もう原本が見られないので校正のしようがない。その点を含んで見てもらうが、前書きにある通り一戸さんのレシピそのものです。
 私があの図書館について記憶している1つは1時間の昼休みがあったこと。後に東洋文庫でも昼休みは閲覧室を出る決まりを知ったけど、初めてだったので感心したねえ。それと司書の人がね、いずれここがアウトソーシングされたら、こういう本はなくなるだろうといっていたことだ。いま検索すると昭和8年のパンフはあるが、古い方は農林水産関係試験研究機関総合目録にもないから廃棄されたんでしょうな。

資料その10

   十三年一月

      羊肉料理法<子持ち罫で囲んである>

              農商務省畜産局
-------------------------------------------------------以上表紙

   例言
当局は羊肉利用の普及に資せむが為曩に東京女子高等師範学校に委嘱して邦人の嗜好に適する羊肉料理の方法を研究し茲に同校講師一戸伊勢子女史の考案に係る料理法中重なる数種を摘録し上梓頒布することゝなせり

           農商務省畜産局

一、羊肉の特長<略>
二、羊肉と牛肉の化学的成分の差<略>
三、羊肉と牛、豚、鶏肉との料理時間の差<略>

  羊肉料理

 (1) 羊肉の鍋焼
材料 羊肉百匁、味淋二勺、醤油二勺、胡麻油一
   勺、メリケン粉十匁。
方法 羊肉を一分位の厚さに切り之れを味淋及醤
   油の中に約二十分間浸しをき、後ちメリケ ←
   ン粉を撒布して五分間置き、之れを「フラ
   イパン」に胡麻油を少々入れ此の中に肉を
   入れて焼く肉の蛋白質が凝固せし時返して
   両面を焼く。
注意 肉を焼く火加減は強火がよろしい、文火に ←
   て長く時間を要して焼く時は肉硬くなり又
   羊肉の臭ひが出でゝ悪い、羊肉を味淋や醤
   油に浸し置く間に肉を上下にして能く浸る
   やうにする。

 (2) 羊肉の網焼
材料 羊肉百匁、味淋一勺、塩小匙一、醤油一勺
   七色蕃椒少々。
方法 羊肉を一分位の厚さに切り、味淋、醤油の ←
   中に約十分間浸し、後ち蕃椒粉と塩を撒布
   して十分間をき金網のよく焼けた上にて両
   面を焼く。
注意 之れを焼く際に松葉か、又松笠など火の間
   に置き、多少此の煙の出る處にて焼けば一 ←
   層風味を増す、併し斯かる事は各自の嗜好
   如何様になすもよし。
          ←「故」なし
   此の料理には肉の薄い部分を利用すればよ
   い、決してロースなどを用ふる必要はな
   い。
   複雑なる香味を好まるゝ方には「セルリー」
   を細く切つて肉を浸し置く時に交ぜて入れ
   るもよし。


 (3) 羊肉のすき焼
材料 羊肉百匁、葱二本、芹或は野蜀葵一把、胡
   麻油少々、醤油一勺、塩小匙一、味淋一勺。
方法 羊肉は二分位の厚さに切りて味淋少量かけ
   置く。
   芹又野蜀葵は一寸位の長さに切る。葱は斜 ←
   に薄く切つて置く、鍋に少量の胡麻油を入
   れ熱せし時羊肉竝芹、葱等を入れて手早く
   いため、後ち味淋、塩及醤油を加へて味を
   つけ火よりおろす。
注意 火加減は強火にてなるべく短時間に煮るを
   よしとす。
   羊肉は蛋白質が凝固しさへすればよいので、 ←
   之れによつて可溶成分の浸出を防ぎ、肉味
   の損せぬ様になすのである。        ←
以上の料理には脂肪の少ないところがよろしい、 ←
之を薄く切つて用ゐるのである肉を切る時には ←
繊維と直角になる様に切らぬと肉が硬くなつて不
味い。

 (4) 羊肉と独活の煑附
材料 羊肉百匁、独活二本、味淋二勺、醤油二勺。
方法 独活の皮を剥ぎ、五六分より一寸位の長さ
   に切り、之に熱湯を覆ふ位入れて、独活
   の半柔くなるまで煮る、而して味淋及醤油
   を入れ、沸騰させ、此の中に適当に切つた
   羊肉を入れて、強火にて沸騰させ、肉の蛋
   白質の凝固したのを見計つて火を消す。
注意 羊肉は長く煮ては不味く、煮過ぎぬ方がよ
   い。此の料理は嗜好によつては薄餡かけと
   なすもよい。
   季節によつては独活の代りに筍を用ふるも
   よい。

 (5) 羊肉の煑込み
材料 羊肉百匁、胡蘿蔔三本、小蕪菁十箇、小玉 ←
   葱十箇、塩一匁二分、胡椒少々、胡麻油少
   々。
方法 羊肉を適当の大さに切つて胡麻油にていた
   め置く。
   胡蘿蔔及小蕪菁は、汚れたる部分のみ取り
   去り、胡蘿蔔は乱れ切りとなして丸の儘の
   小蕪菁と一緒に鍋に入れ、材料を覆ふ位熱
   湯を注ぎ、火にかけて沸騰させ、此の中に
   玉葱の皮を剥いたものを丸の儘胡麻油にて
   いためて加へ、野菜の柔くなるまで煮る。
   次に之れにいためた羊肉を加へ一二度沸騰
   させ、表面に浮いた泡を取り去り、之れに ←
   塩を加へ、肉の中まで火の通りたる頃を見
   許ひ胡椒を加へ、今一度沸騰させて火を消 ←
   す。
注意 肉の切り方によつて煮る時間に長短がある。 ←
   肉の中まで火の通つたのを見計つて火を止
   めればよい、又嗜好によつては醤油一二滴
   加へてもよい。

 (6) 羊肉の龍眼揚げ
材料 羊肉百匁、醤油大匙一、澱粉一勺弱、胡麻
   油。
方法 羊肉を庖刀にてこそげ取り之を俎の上に  ←
   て一二度たゝき、之れに醤油をかけて約二
   十分間置く後ち之れを龍眼大にまるめ澱粉
   を撒布して胡麻油にて揚げる。
注意 揚げ過しては硬くなつて不味くなる又形を ←
   作るには一握の肉を握つて拇指と人さし指
   との間より出た肉を以て一定の形を作るが
   よい。

 (7) 葱間揚げ
材料 羊肉百匁、葱三本、澱粉十匁、胡麻油、醤
   油二勺。
方法 羊肉を繊維と直角になるやうに幅二分、長
   さ一寸五分位に切り、之れに醤油をかけ置
   き後ち同様に切つた葱と一緒にして、之れ
   に澱粉をつけ熱した胡麻油にて揚げる。
注意 葱は外側に、肉は内側になる様にするがよ
   い。

 (8) 肝臓のよせもの
材料 羊の肝臓一箇、寒天一本、ストツク三合(鶏
   の骨を以て煮たる煮汁)、「セルリー」一本、 ←
   「ハム」二切、玉葱一箇、塩、胡椒。
方法 羊の肝臓を目笊に入れて、先づ熱湯をかけ
   置き、後ち熱湯の中に入れて十五分間煮、
   之れを取り上げ裏漉にかけ置く。
   寒天を水に浸して柔くなつた時に細く切り
   ストツクを入れて煮る、溶けたる時に表面
   の泡を取り去り、之れを半分位になるまで
   煮詰めて火よりおろす、此の際塩、胡椒に
   て味をつけ置く、少し冷えたる時「セルリ
   ー」の細く切りしもの及「ハム」の切りた
   るものを加へ、之れに裏漉にかけたる肝臓
   を入れて流箱に流し入れ、固めて後適當の
   大きさに切る。             ←
注意 肝臓を湯煮する時間は大小によつて多少違
   ふが中まで火が通りさへすればよい、王葱
   は摺つて其の汁を寒天とまぜる際に入れ
   る。

 (9) 脳の味噌漬
材料 羊の脳一箇分、味噌百匁、醤油一勺、生姜
   一箇、葱一本、白胡麻五勺、砂糖五匁。
方法 脳を塩水にて洗ひ薄い膜を取り去つた後ち
   生姜と、葱と共に熱湯中にて十分間煮る、
   次に之れを取り出して味噌の中に入れ醤油
   をかけて約半日置き網の上に載せて両面を
   焼く、之れに白胡麻を摺つて白砂糖を手に
   てもみ合せたものを撒布して食す。
注意 新鮮な臓物はそれ/\゛利用の道も広いから
   一二代表的なものを挙げる、肝臓を食せば
   肝油と同様の養分が得られる。
   但し寄生虫のあるものは避けるがよい。
   脳には「レシチン」が多く含有されてある ←
   ので発育盛りの子供、腺病質の人、恢復期
   の病人等には最もよい。         ←

 農商務省のこのパンフレットを元に熊本種羊場は独自のパンフ作っている。「畜産の研究」63巻11号にある高石啓一氏の「北村史にみた成吉思汗鍋考」には「大正十三年/羊肉料理法/熊本種羊場」というパンフの表紙写真(27)があり、64巻5号の「緬羊と山田喜平と成吉思汗と」では表紙と「羊肉の網焼」の箇所をくっつけた写真が付いている。(28)字が読めるので、読み比べると農商務省パンフの網焼きと同文、まったく同じです。
  

参考文献
上記(23)の出典は緑葉女史著「客来献立御膳の仕方 惣菜料理法」ページ番号なし、明治45年1月、和田文宝堂=近デジ本、 (24)は大正13年10月29日付北海タイムス7面=マイクロフィルム、 (25)は同年同月16日付はちのへ4面、同、 資料その9は渡邊滋編「裁縫雑誌」22巻第12月号79ページ、大正11年12月、東京裁縫学校出版部=館内限定近デジ本、 (26)は昭和17年10月13日付朝日新聞朝刊4面=聞蔵U、 (27)は養賢堂編「畜産の研究」63巻11号1138ページ、高石啓一「北村史にみた成吉思汗鍋考」、平成21年11月、養賢堂=原本、 (28)は同64巻5号568ページ、高石啓一「緬羊と山田喜平と成吉思汗と」、平成22年5月、同 資料その10は農商務省畜産局編「羊肉料理法」、大正13年1月、農商務省畜産局=原本

 さて、ここで「北村百年史」にある北村「羊肉料理法」について考察します。私が羊肉研究を始めて間もなくのころ、北村緬羊畜産組合について北村役場に問い合わせたことがあります。すると北村村史を長年調べておられた札幌の太田幸雄氏から「北村百年史」のゲラ刷り、何かに掲載したと思われる緬羊関係の原稿や資料をどっさり送られてきたのです。北村緬羊畜産組合が大正13年2月に作った「羊肉料理法」は縦15センチ、横10.5センチ、両面印刷で5つ折りの実物大の複製もあったのです。私は太田さんの温情と度量には深く感謝しましたが、こう先行されているようでは、ジンパ学のネタは尽きているんじゃないか、将来は暗いと感じたぐらいだ。私の研究がここまできたから、いうけどね。
 その中の「『羊肉料理法』の系譜」は太田さんが何かに発表された論文らしいのですが、大正7年の田中宏博士から昭和9年の北海道緬羊組合連合会まで8種の「羊肉料理法」と普及活動を調べたものでした。A4判8ページ、プリンター印刷の横書きで題名の下に「平成15年3月28日 太田幸雄」と入っています。
 太田さんは一戸さんの「羊肉に就て」と農商務省畜産局のパンフは未見だったため「大正13年(1〜2月頃と思われる)に同校講師一戸伊勢子考案の羊肉料理法の中から、主な数種と西洋料理数種を加えて『羊肉料理法』というパンフレットを作成した。パンフレットは、農商務省の5種羊場から発行されたと考えられるが、現在見つかっているのは『農商務省熊本種羊場』発行のものだけである。(29)」と書いてあります。
 太田さんの「『羊肉料理法』の系譜」にある熊本パンフの例言は、農商務省パンフとほぼ同文で「当局は」を「農商務省にて」に、おしまいの「を摘録し」を「と外に西洋料理の数種を加え」(30)に書き換えただけです。そして一戸さんの葱間揚げまでの7種と@マットンスープAマットンカレーBアイリシシチューC羊肉のローストDロインニヨップE羊肉のカツレツFミンストラム―の洋風料理7種を加え14種を掲載している(31)とあります。熊本パンフは肝臓と脳味噌は敬遠して洋風料理を付け足したとみられます。
 北村パンフは「大正十三年三月」と表紙にあるので、そのころ発行したのでしょう。もし北村から近い滝川種羊場か月寒分場が畜産局パンフを元にパンフを作り、それを元に作ったとすれば2カ月後で出せたかどうか。思うにホームスパンの先覚者として知られた北村黽組合長が本省に掛け合ってパンフをもらい、好みの料理5種を加えて発行したのでしょう。一戸さんが書いた「レチシン」を農商務省が「レシチン」と間違えてますが、北村パンフはシをツと読み「レツチン」としていることからも農商務省パンフそのものを入手したとみられますが、それにしても手早いのには驚きます。「北村百年史」の「羊肉料理法」全文は現代仮名遣いなっているので、私は複製パンフの通りにして資料その11としました。

資料その11

  大正十三年三月

   羊肉料理法

            北村緬羊畜産組合
-------------------------------------------------------以上表紙
   例言
近来我国羊毛加工品の需用激増従て緬羊飼育も
重要視せらるゝに至れりと雖も我国斯業の前途
は羊肉の国民嗜好に達するや否やに存するもの
なれば当組合は曩に農商務省農務局にて頒布せ
られし料理法に二三増補を為し上梓以て羊肉利
用の普及に資せんとせり

         北村緬羊畜産組合

  羊肉に就て

  一、羊肉の特長
羊肉は牛肉に比して香汁の量が少なく且繊維管が細く織維が粗になつて居るか
ら肉が柔い従つて消化も早いから労働しいな人、坐食者、婦人、病人等の食料
として最よろしい。

  二、羊肉と牛肉の化学的成分の差
    水分     粗蛋白質   粗脂肪    灰分
羊肉  五七、三〇  一六、六二  二八、六一  〇、九三
牛肉  六〇、八〇、 一八、〇〇  一六、〇〇  五、二〇

  三、羊肉と牛、豚、鶏肉との料理時間の差
牛肉百匁の肉を丸の儘煮るには約二十五分間を要するが羊肉ならば十四五分間
でよろしい又部分によりては僅に九分間位でもよい。
又焼いても牛肉、豚肉、鶏肉等に比して早く焼ける例へば肉百二十匁をロース
トする場合に要する時間を挙げると、
  羊肉    九分間−十分間
  豚肉    三十分間
  鶏肉    十五分間−二十分間
  牛肉    二十四五分間

斯く羊肉は組織か粗なるだけ煮ても焼いても他の肉類より早く出来上るので従
つて料理の時間と薪炭の経済上より云つても大差がある羊肉には羊肉特有の臭
ひがあるが之れは飼料其の他色々の関係から來ることで若しや之れ等の関係上
多少の臭ひがあつても取合せの材料で其の臭ひは左程感じない程のものにする
ことが出來る即ち他の香辛類を特に用ひて之れを消さすとも取合の材料一つで
肉の真味を損せずに調理することが出來る。
羊肉は日本料理としても又洋食、支那料理等としても肉が柔かいので大変に結
構である其の上に日本料理の甘煮などにしても他の鳥獣肉の様に砂糖などを用
ふる必要がない。
砂糖などを用ひては却つて羊肉の真味を害して不味くなるのであるから其れよ
り取合せの材料に注意して例へばアマイドの多い野菜を取り合せて用ふる様に
すると経済でもあり美味でもある。
又羊肉は他の肉類同様何れの料理でも出來る羊肉に就て夫々研究すると少しも
捨てる部分が無く又其の方法によつては長く貯蔵も出來得るのである。

  羊肉料理

 (1) 羊肉の鍋焼
材料 羊肉百匁、味淋二勺、醤油二勺、胡麻油一勺、メリケン粉十匁。
方法 羊肉を一分位の厚さに切り之れを味淋及醤油の中に約二十分間浸しを
   き、後ちメリケン粉を撒布して五分間置き、之れを「フライパン」に胡
   麻油を少々入れ此の中に肉を入れて焼く肉の蛋白質が凝固せし時返し
   て両面を焼く。
注意 肉を焼く火加減は強火がよろしい、文火にて長く時間を要して焼く時
   は肉硬くなり又羊肉の臭ひが出でゝ悪い、羊肉を味淋や醤油に浸し置
   く間に肉を上下にして能く浸るやうにする。

 (2) 羊肉の網焼
材料 羊肉百匁、味淋一勺、塩小匙一、醤油一勺、七色蕃椒少々
方法 羊肉を一分位の厚やに切り、味淋、醤油の中に約十分間浸し、後ち蕃
   椒粉と塩を撒布して十分間をき金網のよく焼けた上にて両面を焼く。
注意 之れを焼く際に松葉か、又松笠など火の間に置き、多少此の煙の出る
   處にて焼けば一層風味を増す、併し斯かる事は各自の嗜好故如何様に
   なすもよし。
   此の料理には肉の薄い部分を利用すればよい、決してロースなどを用
   ふる必要はない。
   複雑なる香味を好まるゝ方には「セルリー」を細く切つて肉に浸し置く
   時に交ぜて入れるもよし。


 (3) 羊肉のすき焼
材料 羊肉百匁、葱二本、芹或は野蜀葵一把、胡麻油少々、醤油一勺、塩小
   匙一、味淋一勺。
方法 羊肉は二分位の厚きに切りて味淋少量かけ置く。
   芹又野蜀葵は一寸位の長さに切る、葱は斜に薄く切つて置く、鍋に少
   量の胡麻油を入れ熱せし時羊肉竝芹、葱等を入れて手早くいため、後
   ち味淋、塩及醤油を加へて味をつけ火よりおろす。
注意 火加減は強火にてなるべく短時間に煮るをよしとす。
   羊肉は蛋白質が凝固さへすればよいので、之れによつて可溶成分の浸
   出を防ぎ、肉味の損せぬ様になすのである。
以上の料理には脂肪の少ないところがよろしい。之れを薄く切つて用ゐるので
ある肉を切る時には繊維と直角になる様に切らぬと肉が硬くなつて不味い。

 (4) 羊肉と独活の煑附
材料 羊肉百匁、独活二本、味淋二勺、醤油二勺。
方法 独活の皮を剥ぎ、五六分より一寸位の長さに切り、之れに熱湯を覆ふ
   位入れて、独活の半柔くなるまで煮る、而して味淋及醤油を入れ、沸
   騰させ、此の中に適当に切つた羊肉を入れて、強火にて沸騰させ、肉
   の蛋白質の凝固したのを見計つて火を消す。
注意 羊肉は長く煮ては不味く、煮過ぎぬ方がよい。此の料理は嗜好によつ
   ては薄餡かけとなすもよい。
   季節によつては独活の代に筍を用ふるもよい。

 (5) 羊肉の煑込み
材料 羊肉百匁、胡蘿蔔二本、小蕪菁十箇、小玉葱十箇、塩一匁二分、胡椒
   少々、胡麻油少々。
方法 羊肉を適当の大さに切つて胡麻油にていため置く。
   胡蘿蔔及小蕪菁は、汚れたる部分のみ取り去り、胡蘿蔔は乱れ切りと
   なして丸の儘の小蕪菁と一緒に鍋に入れ、材料を覆ふ位熱湯を注ぎ、火
   にかけて沸騰させ、此の中に玉葱の皮を剥いたものを丸の儘胡麻油に
   ていためて加へ、野菜の柔くなるまで煮る。次に之れにいためた羊肉
   を加へ一二度沸騰させ、表面に浮いた泡を取り去り、之れに塩を加へ、
   肉の中まで火の通りたる頃を見計ひ胡椒を加へ、今一度沸騰させて火
   を消す。
注意 肉の切り方によつて煮る時間に長短がある。肉の中まで火の通つたの
   を見計つて火を止めればよい、又嗜好によつでは醤油一二滴加へても
   よい。

 (6) 羊肉の龍眼揚げ
材料 羊肉百匁、醤油大匙一、澱粉一勺弱、胡麻油。
方法 羊肉を庖刀にてこそげ取り之れを俎の上にて一二度たゝき、之れに醤
   油をかけて約二十分間置く後ち之れを龍眼大にまるめ澱粉を撒布して
   胡麻油にて揚げる。
注意 揚げ過しては硬くなりて不味くなる又形を作るには一握の肉を握つて
   拇指と人さし指との間より出た肉を以て一定の形を作るがよい。

 (7) 葱間揚げ
材料 羊肉百匁、葱三本、澱粉十匁、胡麻油、醤油二勺。
方法 羊肉を繊維と直角になるやうに幅二分、長さ一寸五分位に切り、之れ
   に醤油をかけ置き後ち同様に切つた葱と一緒にして、之れに澱粉をつ
   け熱した胡麻油にて揚げる。
注意 葱は外側に、肉は内側になる様にするがよい。

 (8) 肝臓のよせもの
材料 羊の肝臓一箇、寒天一本、ストツク三合(鶏の骨を以て
   煮たる煮汁)、「セルリー」一本
   「ハム」二切、玉葱一箇、塩、胡椒。
方法 羊の肝臓を目笊に入れて、先づ熱湯をかけ置き、後ち熱湯の中に入れ
   て十五分間煮、之れを取り上げ裏漉にかけ置く
   寒天を水に浸して柔くなつた時に細く切りストツクを入れて煮る。溶
   けたる時に表面の泡を取り去り、之れを半分位になるまで煮詰めて火
   よりおろす。此の際塩、胡椒にて味をつけ置く、少し冷えたる時「セ
   ルリー」の細く切りしもの及「ハム」の切りたるものを加へ、之れに裏漉
   にかけたる肝臓を入れて流箱に流し入れ、固めて後適當の大さに切る
注意 肝臓を湯煮する時間は大小によつて多少違ふが中まで火が通りさへす    ればよい、王葱は摺つて其の汁を寒天とまぜる際に入れる。

 (9) 脳の味噌漬
材料 羊の脳一箇分、味噌百匁、醤油一勺、生姜一箇、葱一本、白胡麻五勺、
   砂糖五匁。
方法 脳は塩水にて洗ひ薄い膜を取り去つた後ち生姜と、葱と共に熱湯中に
   て十分間煮る。次に之れを取り出して味噌の中に入れ醤油をかけて約
   半日置き網の上に載せて両面を焼く、之れに白胡麻を摺つて白砂糖を
   手にてもみ合せたものを撒布して食す。
注意 新鮮な臓物はそれ/\゛利用の道も広いから一二代表的なものを挙げ
   る。肝臓を食せば肝油と同様の養分が得られる。
   但し寄生虫のあるものは避けるがよい。
   脳には「レツチン」が多く含有されてあるので発育盛りの子供、腺病質
   の人、恢復期の病人等には最よい。

 (10) スープ
   骨を適度の大さに切り、鍋に入れ水を骨のかくれる位入れて、一旦強
   火で煮き上に浮く泡を丁寧に掬ひ取つて、玉葱中二箇、人参二本、生
   姜少々入れます。それからは火を弱くして塩、胡椒を少し入れて、凡
   そ三時間位煮て後ち奇麗な布巾にて漉します。
   尚ほ前の冷たスープに玉子の白身二個と殻とを入れて、能く掻き交せ
   で三十分位煮ますと、玉子の白身が固つて上に浮きますから、其の時
   目のつんだ布巾で漉しますと、澄んだ上等のスープが出来ます。

 (11) 吸物種
   摺鉢に葱と生姜の微塵にしたるものを茶匙に凡一杯づつ入れてよく摺
   りたる處に脂肪なき肉を肉挽器にかけたるもの凡一斤を入れてよく摺
   り之に玉子の白身二個を加えて摺りまぜ、塩、砂糖、酒、醤油にて味
   をつけ之を小さき団子様につくね煮立ちたる湯の中に入れてゆで、こ
   れを椀に盛り、ゆでたるみつばを添へ味よき清し汁を注ぐ。

 (12) 胡麻あへ
   煮立ちたる湯の中に小間切にしたる肉と大切の葱一本と、生姜二切ば
   かりとを一處に入れて湯掻き直に出して少量の醤油に浸し置く別に黒
   胡麻をよく摺りつぶし少量の砂糖と醤油にて味をつけこの中に醤油に
   浸し置きたる肉を入れてあえる。

 (13) 塩焼
   肉を平たく厚一分位の大形にきり塩、胡椒、をふりかけこれを金網に
   のせて焼くか又は鍋に「バタ」を入れて焼くもよし。

 (14) 佃煑
   肉の小間切を五分間湯に入れて煮たる後其汁を去り、古生姜の薄切り
   と共に酒と醤油とにて辛く煮付る。

 9番の脳の味噌漬までは一戸レシピつまり畜産局パンフと同じで10番以降が増補分ですね。私はこれらもお手本があるんじゃないかと調べたら「羊肉調理の研究」に4つあった。(11)吸物種は「1 吸物種」、(12)胡麻あへは「3 胡麻あへ」、(13)塩焼は「16 塩焼」の空き瓶叩きを抜いたもの、(14)佃煑も「30 佃煮」と同じだから資料その7と比べてご覧。北村黽組合長は大正10年から「食糧評論」を購読して一戸・大江レシピを試していた可能性大です。
 残るは、唯一です・ます調の10番のスープ。特徴は生姜を入れることですが、生姜を入れるスープのレシピは稀で、やっとが服部茂一著「和洋料理の極意皆伝」で見つけた。「スープの土台と成る物九種」の中の牛肉スープと鶏肉スープと鶏のアラのスープに生姜を入れています。もっとも似ている鶏肉のスープを資料その12にしましたが、肉と玉葱、人参、生姜を煮て布巾で漉し、玉子の白身で濁りを固め、もう一度布巾で漉す。弱火で煮るところが違うけれども、北村の「澄んだ上等のスープが出来ます。」という説明は、服部の「奇麗に澄んだスープが取れます。」を知ってのいい方のように感じられます。

資料その12

 スープの土臺と成る物九種
    鶏肉のスープ

1、鶏肉を骨付のまゝ二百目をぶつ/\゛に切つ求めて置きます。
2、人参小一本は皮を剥いて置きます。
3、生姜一個は皮を剥いて置きます。
4、玉葱一個は皮を剥き後先を切落し水洗して置きます。
5、以上の用意が揃ひましたら鍋に水二升位を入れ今の材料全部を入れて一
  時間位そのまゝにして置きます時間が経ちましたら火にかけ指を一寸浸
  られる位の温度で(華氏百六十度以下の温度)で三四時間煮ます、時間
  経ちましたら火より下ろし冷めるまでそのまゝにして置き冷めた所でフ
  ランルネルの上に布巾を敷いて漉して粕を取り去り元の鍋に戻し再び火
  にかけ煮立つて参りましたら玉子の白味を泡立てゝ加へその上より半紙
  を被せ四五分間置き再びフランネルで漉しますと玉子の白味に灰汁が取
  られて奇麗に澄んだスープが取れます

 一戸さんの「羊肉に就て」と農商務省の「羊肉料理法」と北村の「羊肉料理法」の「羊肉の網焼」が同じだというわかったところで、資料その13(1)にした糧友会が昭和2年に公表した「羊肉料理法」の「鍋羊肉」を比べて見なさい。味淋が砂糖と酒に置き換えられ、醤油が5倍に増えているけど、松葉燻しは変わりません。味淋は贅沢品として清酒より高い酒税が課され、同じ量なら値段が倍ぐらいしたので、国民に羊肉を安く食べさせるためにと外されたのでしょう。醤油の増量は焼く前の塩と七色蕃椒振り掛けを漬け汁を付けながら焼くように変えたため、1勺では足りないからですね。
 その下同(2)は昭和10年に糧友会が創刊号からの愛読者に鍋を贈呈したときの説明の再録です。さらに砂糖がなくなり塩だけに変わり、しょっぱい焼き肉になるけれど、基本の前もって漬け汁に浸す準備、松葉燻しをする方法は一貫してます。
 砂糖より塩が安いということもあるが、私は(1)のときは講師陣に一戸さんがいたので、味淋外しだけにとどめたが(2)では一戸さんは参画しておらず「味淋や砂糖を入れますと反つて味が濃くなります」といい、使わないというあたり、荒っぽい男の料理、満田さん主導のレシピだと見ますね。漫画の星一徹がやっていたそうだが、白木の枡の縁に塩をちょっぴり載せて、その塩をなめながら飲むのが粋とされた。高血圧になると減塩が叫ばれる今と違って、酒の肴はもっぱら塩辛とか漬け物とか塩辛いものが好まれた時代でしたから、こう変えた方がよいとされたと考えます。
 陸軍糧秣本廠につながる糧友会は、牛肉豚肉と同じように羊肉も食べる国民に変えようとした。何度もいうが、みんなが羊肉を買って食べるようなれば、緬羊は収入になると農家が沢山飼うようになり、結果として軍需品である羊毛の増産になるからです。そのために一戸さん考案の羊肉の甘い網焼きよりもだ、男たちの酒の肴になり、御飯のおかずにもなるようしょっぱくして、まずは鍋羊肉なんて中国料理的な名前で普及させることにしたのです。
 一方、この料理は中国ではジンギスカン料理と呼んでいると最初から糧友会も認めたように、ジンギスカンとは何者か大抵の人は知っているし、覚えやすい。羊なら蒙古、蒙古の英雄ジンギスカンも当然これを食べただろうという連想もあり、鍋羊肉よりも奇抜な名前のジンギスカン鍋、ジンギスカン料理に限るよと広まったと考えます。でも、いま述べたように鍋羊肉を遡っていくと、始まりは羊肉の網焼きになるのです。私が一戸レシピこそジンギスカン料理の元祖、家元だとする由縁です。
 戦後、臭くて喰えないなんて贅沢を言わずに羊肉を食べるようになり、母親が忙しいので松葉燻しや漬け込みを省き、肉だけでなく一緒に焼いた野菜にも合う付け汁に凝る家庭と、忠実に漬け込んで付け汁も使う家庭に分かれた。家庭で食べる回数が増えるにつれて、だんだん手抜きになり、漬けこまずにベルやソラチといった市販のタレを使うようになり、焼きさえすれば食べられる松尾ジンギスカンにつながったと考えます。

資料その13

<略>
(1)  四、鍋羊肉(カオヤンロー)(支那料理の焼肉)(五人分)

 材料
 羊肉(肩又は股肉) 百二十匁
 醤油    五勺
 酒     二勺
 砂糖    十匁
 七味唐辛子 少量
 胡麻油   少量

 準備
  羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七色唐
  辛子を合せた中に約三十分浸しておきます。(漬け汁は
  とつて置きます。)
 調理
  焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪に
  かけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。
 注意
  炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多少
  燻し氣味に焼きますと一層風味がよくなります。
  <略>


(2)   成吉思汗鍋の使用法

 成吉思汗鍋は、彼の蒙古の英雄成吉思汗(成吉斯汗とも書く)が大軍を率ひて満洲の野を馳駆した時、暮夜沙漠の露営舎の前で、部下の將士と共に高粱酒の杯を挙げながら羊肉を賞味したといふのが、その名の出所で、現今でも蒙古でこの料理に舌鼓を打ち、また北京城北門前の名物料理です。
 この鍋は野外で十数人よつて食べられる大きなものですから、これを家庭の食卓に用ひられるやう型を小さくして特製したのが、今回本会十周年記念として贈呈する鍋です。

 材料(五人前分)羊肉(肩又股肉)約百五十匁
  醤油五勺、食塩少量、日本酒少量、
  洒葱盃一杯、七味唐辛子少量、
  胡麻油一勺

 準備 丼の中に醤油、日本酒、七味唐辛子及葉葱を木口切りにして、布巾に包んでよく揉み、其のまゝ水で洒らし、更に其の水を絞つたものを入れて薬味を作り、其の中に鋤き焼肉のやうに薄く切つた、羊肉を約十分間浸して置きます。

 方法 羊肉を浸して居る間に、一方では七輪に炭火をおこして食卓に載せ、火が落ちついて來た時成吉思鍋をかけて、すつかり熱くなつてから肉が焦げつかぬやうに、其の上に胡麻油を塗つて、箸で肉を廣げつゝ、鍋に載せ肉の周囲の縁が色褪せて來たら、裏返して焼きあげ、すぐ其のまゝ熱いところを召し上ります。

 注意 焼き肉を度々裏返して、焼くと切角美味しい汁が、火の中に落ちて、味が低下します。附け焼きのやうに度々浸け汁をかける事も禁物です。浸け汁が、甘いやうでしたら、食塩で加減いたします。
 又浸け汁の中に、味淋や砂糖を入れますと反つて味が濃くなりますから、羊肉のお料理には砂糖を用ひない方が、悧巧なやり方です。これは一名烤羊肉ともいひ少し凝て参りますと炭火の中に川楊又は青松葉などを時々さし入れて、その煙で肉を燻しますと一段の風味を添、又胡麻油の代りに小蝦仁油(チアーシンユ)を塗りますと、本來の支那料理となる訳です。
 羊肉の代りに、蝦、烏賊、蛤などが最も適し、貝類、鶏肉、兎肉、白味の魚、葱などは之に次ぎ、其他の肉、魚でもこの方法で美味しく召し上がれます。

  

参考文献
上記(29)の出典は太田幸雄著「『羊肉料理法』の系譜」1ページ、平成15年3月、太田幸雄=原本、ただし掲載書誌不明、 (30)と(31)は同2ページ記載による、同、 資料その11は北村緬羊畜産組合編「羊肉料理法」複製版、太田幸雄氏による複製年月不明、底本は北村緬羊畜産組合編「羊肉料理法」、大正13年3月、北村緬羊畜産組合、 資料その12は(服部茂一著「「和洋料理の極意皆伝」下巻6ページ、大正10年3月、服部茂一=近デジ本、 資料その13(1)は糧友会編「糧友」2巻12号123ページ、糧友会「羊肉料理法」より、昭和2年12月、糧友会=原本、 同(2)は同10巻5号77ページ、昭和10年5月、同

 キーワード「一戸伊勢子」で国会図書館サーチを使うと、一戸さんが書いた単行本としては大正12年の「栄養料理法」、昭和8年の「家庭重宝野菜鳥魚の切り方と開き方及其利用法」、昭和12年の「魚介料理 材料の選び方と調理法」の3冊が出てきますが、伊勢を平仮名書きにして検索すると、もう1冊、明治44年の「実験 家庭料理法」という本が出てきます。これは近代デジタルライブラリーで読める本なので、読んでみると緒言に「本書の大体は先きに日本新聞社の求めに応じて稿を起したるものなのが(32)」とあり、新聞に書いたレシピを纏めた本なんですね。
 緒言は「明治四十三年十二月 著者識す(33)」なのに、奥付は44年2月に修正している。それで国会図書館には日本という新聞のマイクロフィルムもあるので明治43年12月から遡って読みましたね。すると6月22日から「新式料理」という署名なしの料理記事が載っており、その始まりは前の年、明治42年12月10日付朝刊3面の「料理のいろいろ」でした。これが「実験 家庭料理法」の元になったレシピだったのです。
 一戸さんが料理の天才だったとしても、いきなり新聞社が料理の連載をお願いするわけがない。資料その1にあるように「弘前女学校在学当時、米国婦人宣教師から西洋料理を学んだことによつて此方面に興味を持つ様になり、料理を勉強したはずです。高木武夫編「日本メソヂスト弘前教会五十年記念史」に明治30年から35年に掛けての婦人伝道者として「ヒユイト嬢」「オツト嬢」「グリフイス嬢」「サゞランド嬢」(34)という名前が載っていますから、これらの諸嬢から西洋料理を学んだと思われます。
 そうして腕を磨いてから上京したんですね。国会図書館サーチで伊勢子でなく「一戸伊勢」をキーワードにすると大正11年と12年の「裁縫雑誌」に13回も執筆したことがわかる。それで発行者の東京裁縫女学校と何かつながりがあるらしいとにらんで、一番古い国会図書館で読める明治41年分から読んでみたらですよ、明治42年3月号の「会員移動」に「◎一戸伊勢子は山梨県立高等女学校に奉職中病気の為退職し静養せられつゝありしが今回全快したるを以て神田区三崎町なる東京割烹女学校に教鞭を執らるゝことゝなれり(35)」という記事が見つかった。これで一挙に東京裁縫女学校の明治42年より前の卒業生であり、山梨高等女学校に何年か務めて東京割烹女学校の先生になったという経歴がわかった。こうしたつながりを追えばいいわけです。
 現存する「裁縫雑誌」で最古と見られる大阪府立図書館の明治40年分12冊の卒業生名簿に出てこないので卒業はそれ以前。「職員録」で山梨高女の助教諭心得として載っている(36)のは明治41年版だけなので、1年そこそこで退職したのですね。
 日本新聞社の新聞、日本はただ日本と書くと、お国の日本とまぎらわしいので、講義では新聞日本、講義録ではカギ括弧を付けた「日本」で示すことにしますが、この42年暮れからの連載が始まったのですから、一戸さんが東京割烹女学校の先生だったときであり、おそらく新聞「日本」が年末年始の料理の記事を何回か書いてほしいと学校当局に頼んだことから、新任の一戸さんにお鉢が回ってきたじゃないかな。
 連載記事は「料理のいろいろ」というタイトルで、一戸さんの経歴紹介も何もなしに始まっています。資料その13は初回から12月12日までの3回のレシピです。このときから既に材料、作り方、注意という3段説明の一戸スタイルになっているし、味醂のリンは淋しい淋を使っています。

資料その13

「料理のいろいろ」(一)

 ◎塩鮭衷中(調理法)
 材料は鮭、バタ、メリケン粉、塩、胡椒、玉子
▲塩鮭の塩を抜き熱湯に入れ煮る水気を取りて皿
に盛りエツグスソースを掛けて供す▲エツグスソ
ースの製法は鍋にバタ中匙一杯入れて溶しメリケ
ン粉同一杯入れ能く掻き交ぜ塩を小匙半分胡椒を
同位加へ而して後徐々と熱湯五勺入れて五分も
煮玉子一個の黄身を能く掻き交ぜて入れ二三分に
て火より下ろす以上はソース一人分の量
 (注意)  鮭の塩を抜くに大根をおろし其汁
 との中に塩鮭を浸し置き二三日置けば能く抜け
 る鮭は煮ると干割れる故敷笊に入れ煮るべし

  ◎玉子の五色和へ(調理法)
 材料は玉子、酢、味淋、塩、大根、白菜、林檎、
 干柿、蜜柑
▲一、玉子を茹で黄身を裏漉に掛け酢、味淋、塩に
て味を附け能く掻交ぜ置く白身は細く賽の目に切る
▲ニ、白菜は成べく中の白きを取り細く切り塩に
て揉み置く▲三、大根は短冊に切り塩水の中に入
れ置く▲四、林檎は竪四割として心を取り横に薄
く切る干柿は適宜に切リて可し▲五、蜜柑は皮を
剥き熱湯の中に一寸入れ繊維を取去り丸の儘横に
二分位に切る以上の材料を和へる其上に玉子の白
身を振り掛けて供す(禁転載)


「料理のいろいろ」(二)

  △鱈のスチユ
 材料は鱈、レモン、バタ、牛乳、メリケン粉
玉子、塩、胡椒、玉葱(但し鱈の切身二個に
 付牛乳一合、玉葱一個、玉子大一個の割)
▲一、鱈の切身を能く洗ひて布巾に包み熱湯に
レモン少量入れ強火にて煮、水気を去り皮を剥
き肉を裂き玉葱は細く切る▲二、鍋にバタを溶
し鱈を入れていため後玉葱をもいため牛乳を
加へ三分間煮メリケン粉を水にて溶き入れ塩胡
椒にて味を附け玉子を掻き交ぜて入れ二三分に
て供す
(注意) 若し塩鱈なら大根おろしの中へ二
三日浸置き塩を抜きて用ゆ鱈の脂肪附着を避
くる為めに布に包む故ボイルする際に中より
身の出ぬ様にすべし

  △大根の淡雪
 材料は玉子、砂糖、林檎(塩酢少量)
▲一、大根を皮剥き山葵おろしにて摺り少量の
酢と塩を掛け置く林檎の皮を剥きて四割となし
心を取りて横に切り林檎二個に付砂糖大匙二杯
入れて煮る而して裏漉に掛け置く▲二、玉子二
個の白身を少量の塩を加へて泡立て充分に泡立
し時裏漉に掛けし林檎を入れ能く掻き交ぜる而
して大根を入れ掻き交ぜて供す
 (注意)大根は生にて若し辛き時は煮も可


「料理のいろいろ」(三)

  ●鰯の衣あげ
 材料は鰯、玉子、メリケン粉、塩、胡椒、ヘツト
 かバタ、酢、柚子
▲一、鰯を指先にて頭と腸を去り能く洗ひて
水気を切り置く
▲二、玉子の黄身二個へ塩、胡椒を交ぜ、メリ
ケン粉大匙四杯に水を少々加へて掻き交ぜ二個
玉子の白身を泡立てゝ其中に加へ能く掻き交ぜ
其中に鰯を入れ油の熱せし時に入れ揚げる少し
狐色になりし時取上げ柚子酢を掛けて供す
 (注意)フライにするには能く油の煮立し所
 へ入れるべし其度合を見るに荒塩一ト摘み入
 れ音すれば可し但し材料は成るべく一時に多
 く入れぬ事
 
  ●鏡蕪菁のそぼろ煑
 材料は蕪菁、鳥肉、味淋、煮出、醤油、砂糖、メ
 リケン粉、山葵
▲一、大蕪菁の皮を剥き二三分に横に切り充分
水を入れて茹で水気を取り置く鳥肉は細く刻む
▲二、鍋に味淋と煮出を沸立せ鳥肉を入れ五分
間煮而して蕪菁を入れ醤油と砂糖を加へ卅分間
煮メリケン粉を水にて溶き入れとろ火に五分間
掛け置く皿に蕪菁を盛り其上より鳥肉と汁を掛
け摺山葵を振り掛けて供す
但し煮出二合五勺に味淋一合醤油五勺砂糖大
匙二杯メリケン粉同匙三杯

 「実験 家庭料理法」より早く新聞に載せた料理の記事をまとめた本があるのだろうかと調べたところ、本はわかりませんでしたが、昭和女子大学食物学研究室が出した「近代日本食物史」にね、初めて新聞に掲載された料理記事は明治26年、時事新報が連載した「何にしよう子」だとありました。資料その14はその記事ですが、現場主義として、マイクロフィルムの時事新報を調べ、大筋では正しいことを確かめました。

資料その14

 初めて新聞に料理記事  明治二六年九月末からその年の末まで、時事新報では「何にしようね」という題のもとに、家庭でできる惣菜料理を三、四品ずつ毎日掲載した(時事新報 明治二六年九月二四日〜一二月二九日)。記事の発足に当たっての前書には次のように記されている。
 「今日は何にしようね――と毎日細君の困るのは何れの家も同じことなれば、其便利を謀り是から時事新報の片隅に毎日のおかづを掲ぐることとなしぬ。此所さえ見れば直ぐおかづの考へも附き同じ物でも旨くこしらへることを得べし、尤も是は此道の黒人(くろうと)たる新橋花月楼主人などの注意によって力あるものゆえ、爰に記して料理法の入念なるを吹聴す。追々は鹿角菜(ひじき)の油揚見たやうなものを取交ぜる筈なれど今日は初日の祝ひに奮発して鯛の御料理に致せり。」
 家庭の主婦にとっては、気取った料理記事よりも簡潔で実用的なこの記事はこの上なく役に立ち、現在のテレビの料理番組のような役割を果たしたと考えられる。婦女雑誌ではさっそくこのなかの多くの部分を「日々のさうざい」としてそっくり転載した(婦女雑誌第三巻第二〇号〜二三号 明治二六年一〇月一五日〜一二月一日)。ここに取り上げられた料理の大部分は日本式のものであるが、ときには東坡肉のような中国料理までも含まれていた。

 紙面では「何にしようね」ではなく「何にしよう子」で、子の字はより小さい字になっている。当時は子をネと読んでいたから、この程度の書き換えは許しましょう。しかしですね「明治二六年九月末からその年の末まで、」ではなくて、翌年2月まで続いてました。新橋花月楼主人のレシピのほかに、読者から投稿されたレシピも掲載するようになり、さらに読者同士による質問と回答という形も加わり、2月18日付朝刊9面の「●すめるを柔かにする法●新しき鍋釜のアクを抜く法」まで間欠的に続いていました。ナマコを煮て黄粉をまぶした安倍川がお茶受けによいとか、芭蕉の根を煮れば鍋釜のアクが抜けるという「毎日のおかづ」離れした投稿が多くなり、それで掲載取りやめになったと思われます。
 品数は「三、四品ずつ毎日掲載した。」ではなく、基本は3品で1品か2品の日もあるり、大晦日は重詰に入れる7品を挙げている。また「毎日掲載」は建前で時事新報は月曜休刊でなので、年末までに休刊日と合わせ4日休載が2回あってね、掲載日180日で68品の作り方を紹介しているから、1日3品弱となるんですなあ。
 もう1つだけイチャモンをつけるとすれば「ときには東坡肉のような中国料理までも含まれていた。」だね。中国料理は10月29日分の「今日は支那料理のまねごと」とした●サアハー●東坡肉の2品だけ。豚肉料理は全68品中東坡肉の1品のみ、牛肉を食べるのは11月2日分の●牛の蒸焼と同11日分の●カラのソツプ煎りの2品だけ。10月21日分の●土耳其(トルコ)めしは牛肉か鳥肉のスープで炊くが、肉の食べ方はない。明治20年ごろ牛鍋は食べても「毎日のおかづ」には牛肉でも滅多に使わなかったんですね。
 ほかの新聞はどうなのか知りたいところですが、明治44年に東京だけで18社(37)あり、とても私独りでは調べきれないので、とりあえず朝日新聞と読売新聞の記事データベースで検索したところ、読売が赤堀料理教場の赤堀峯吉校長から聞き書きしたレシピを明治36年から別刷り附録に3回載せ、同年8月から「簡便季節料理」という題で連載していました。また二六新聞が明治41年1月末から「食品新味」という料理欄のある家庭のページを設け、その2回目から濱町の常磐主人が引き受けて2月末まで10回連載し、その後は亀井牧子や通信社原稿と思われる無署名の料理の記事を載せているけど、朝日新聞は明治44年からと遅い。何回から連載と見るかという問題もあるので、料理記事の連載は読売が2番目、二六が3番目、一戸さんは4番目かというあいまいなことしかいえません。
 一戸さんの「料理のいろいろ」は「新式の料理法」を経て6回目から「新式料理法」という題名になり明治43年6月22日の85回で終わります。でも紙面の番号付けがいい加減で48回、53回、55回、64回、65回が2回ずつあり、40回が欠けているので差引4回、それに正月2日の口取りはカウントしていないから、これら5回を加えると90回の連載でした。複数の料理を書いたのは3回で合わせて97品を説明したことになります。
 「材料は何々」と名前だけで始めていたが、34回目で初めて「材料は何々何匁、何何本」と分量も一緒に書き込むようになるが、料理によっては材料の名前だけのこともちょいちょいあった。それから分量を書き始めて5回目の39回の「オイスターオムレツ」と43回の「メンチビーフオンポチートエツクズ」にだけ(以上の材料は五人前分)と人数が書いてあるが、ほかになかった。後半になると読者から質問がくるようになったためか42回の「アイリツシスチウ」 から時々「▲此料理法は総て一戸女史が実験されしものなるが尚ほ之に就て不審のある向は府下渋谷町字渋谷四百二番地なる同女史に宛て往復ハガキ又は三銭切手封入にて問合せらるべし(38)」という断り書きが付いています。これがいいフィードバックになり、一戸さんはわかりやすい説明を心掛けるようになったことが考えられます。
  

参考文献
上記(32)と(33)の出典は一戸いせ子著「実験家庭料理法」5ページ、明治44年2月、文成社出版=近デジ本、 (34)は高木武夫編「日本メソヂスト弘前教会五十年記念史」*ページ、大正14年*月、日本メソヂスト弘前教会=近デジ本、 (35)は渡邊滋編「裁縫雑誌」6巻15号99ページ、「雑録」より、明治42年3月、東京裁縫女学校出版部=館内限定近デジ本、 (36)は 明治41年5月1日現在の印刷局編「明治四十一年 職員録(乙)」264ページ、明治41年7月、印刷局=近デジ本、 資料その13は明治42年12月10日付「日本」朝刊〜同12日付朝刊3面「料理のいろいろ」=マイクロフィルム、 資料その14は昭和女子大学食物学研究室編「近代日本食物史」150ページ、昭和46年6月、 昭和女子大学近代文化研究所=原本、 (37)は日本電報通信社編「新聞総覧」1ページ、「全国新聞一覧表」より、明治44年12月、日本電報通信社=近デジ本 (38)は明治43年2月26日付日本朝刊3面「新式料理法」=マイクロフィルム

 「新式料理法」の記事を中心にした「実験 家庭料理法」が明治44年2月に出版され、その半年後、奈良女子高師範学校附属高等女学校の嘱託になったのです。「奈良女子高等師範学校概覧」によれば明治44年8月23日就職(39)で、9月から開校ですから、本が実績として認められスカウトされたんでしょう。「奈良女子高等師範学校一覧 大正二年度/大正三年度」では女学校の割烹の嘱託と師範の家事の嘱託と双方に名前があるので、大正3年には兼任(40)になったとみられます。
 評論家の丸岡秀子は「戦前のこと、産業組合中央会(いまの農業協同組合中央会)に勤めていたころ、農村婦人の啓発・調査というのがわたしの担当」で「料理の先生の一戸伊勢子さんと組んでの講演旅行」をしたそうです。「一戸さんも、一時は奈良女高師(いまの奈良女子大学)の家事科の教授をしておられた方だが、その傍ら、大阪大学の医学部に入学して、医学士の称号ももっていた。それは、料理と栄養を終生の専門領域にするためのことだったらしい。(41)」と本に書いています。大阪大医学部の前身、大阪府立医大が創立されたのは大正4年、一戸さんは大正7年には東京に移っているし、ご本人も「奈良の学校では皆さんが一戸は脱線してゐる、割烹するのに、医者や化学が何の必要があるんだ――と笑われたものでしたけれども私は馬鹿になつて無能になつてそれをやつてゐました。(42)」と語っているので、府立医大に研究生として通ったとしても、4年制を出た医学士ではなかったと思いますね。
 大正8年5月、東京女高師の嘱託となった一戸さんは満を持していたかのように仕事をこなしました。新聞雑誌に執筆だけでなく、青森県出身の女性組織、在京女子懇親会にも加わり、青森県出身者を結ぶ雑誌「陸奥の友」に一戸さんの動静が載るようになります。大正9年5月に小石川植物園で在京婦人大会が開かれた際、偶然青森高等女学校と青森女子師範学校の修学旅行団が植物園見学に訪れ「一戸伊勢子女史の斡旋で津軽伯未亡人と一戸大将夫人が特にこの修学旅行隊の挨拶を受けられてお言葉を賜はつた。(43)」という記事もあります。
 朝日新聞の料理欄を担当し、満洲や北京へ食事研究に出かけたり、農商務省や糧友会の料理指導もどんどん引き受けました。東京女高師ではちょうど羊肉料理の研究を続けていた時期ですから、一戸さんは朝日の料理に羊肉料理を取り上げているかも知れない。それで私は大正8年7月6日から11年5月28日までの1054日間に376回掲載され、書いた382品のレシピを全部当たりましたよ。結論からいうと、34回の獣肉料理で羊肉は一度も使われませんでした。骨折り損の草臥れ儲けみたいなものだが、笑っちゃいかん。一戸さんは味淋と松葉燻しが好きだったという重大な事実がわかったのです。ふっふっふ。
  

参考文献
上記(39)の出典は奈良女子高師範学校編「奈良女子高等師範学校一覧 大正元年度」195ページ、大正2年3月、奈良女子高等師範学校=近デジ本、 (40)は同「奈良女子高等師範学校一覧 大正二年度/大正三年度」180ページと248ページ、大正3年11月、同、 (41)は丸岡秀子著「埋葬を許さず―丸岡秀子評論集3」15ページ、昭和55年10月、未来社=原本、 (42)は昭和3年2月6日付読売新聞朝刊3面「今日を築いた元」より=マイクロフィルム、 (43)は陸奥の友社編「陸奥の友」2巻6号62ページ、大正9年6月、陸奥の友社=原本

 資料その15(1)は私の集計リストのサンプルです。こういう形で諸君に資料として配るとコピー代が馬鹿にならんので、リストはインターネットの講義録の方に置いてリンクを張っておきましたからね。あれ(見るならここをクリック)を見て何かレポートに書けるなら書いて提出しなさい。 ちゃんと評価します。
 それからね、私は一戸さんの料理を煮物、揚げ物、焼き物、和え物、汁物、漬け物、蒸し物、なま物、炒め物、雑類と10種類に分け、さらに題名にはないけど、牛豚や鳥肉を少し入れる料理は+印を付けました。これは私なりの区分でね、刺身、鮪の山かけ、メインの材料を軽く茹でたり焼いたぐらいのサラダはなま物とし、和え物ともいえる微妙な場合は加熱程度により判定した。田楽、何とか飯は雑類とし、同(2)のようにアルファベットで分けて集計しました。その下は各料理の回数表です。
 和え物と煮物が90品ずつで断然多く、この2つでほぼ半分を占めます。次いで蒸し物と揚げ物と焼き物が39品から36品とほぼ同じ、以下雑類27品、汁物24品、なま物23品、炒め物8品、漬け物7品。その割合を円グラフにすると同(3)のようになります。
 全レシピの1割になる34品の獣肉料理は、半分近くは牛豚のモツ料理でね、連載を始めた半年間に集中している。その後モツ料理がない理由は時代にそぐわなかったせいと私はみてます。佐伯博士の栄養研究所が開いた安価栄養無料講習会で、講習生に餅菓子を食べさせておいて、牛の血入りだと説明したら皆顔をゆがめた(44)と新聞に出ている。佐伯博士の下でその餅菓子などを作っていた一戸さんは、果敢に牛の脳のシチューなどを取り上げたんだが、モツと聞くのも嫌だという読者が多く、記事が受けないとでもいわれて、仕方なく魚肉に切り替えたと思いますね。

資料その15

(1)大正8年7月分の料理情報一覧

  6日 烏賊の衣揚げ    A
  7日 琥珀卵       M
  8日 鰺の潮汁      S
△ 9日 胡瓜の酢の物    W
 11日 玉葱の梅肉和へ   W
 12日 鮑の吸物      S
 13日 隠元の蘇紫巻    Y
▲14日 桃と枝豆のおろし和へ W
 15日 松魚の山かけ     F
▲16日 胡瓜の胡麻和へ   W
 18日 酢とり鰺の鉄砲瓜  F
 19日 鰯の酢漬      T
 20日 鰯の卯の花煎り   I
 21日 馬鈴薯麺      Z
 22日 鰯の塩煑      N
 23日 煑魚につきて(一)料理上の注意事項 Z
 27日 茄子の枝豆和へ   W
 28日 馬鈴薯の青和へ   W
△29日 牛肉の朝鮮焼    Y
 31日 茄子の油煑     N

▲ △ ▽  N A Y W S T M F I Z +
2 2 0  2 1 2 6 2 1 1 2 1 2 0
    20品 掲載日数 20日 休載6日 肉料理1回 期間26日

(2)集計用符号の説明

▲ 味淋
△ 味淋又は酒
▽ 三杯酢

N 煮物
A 揚げ物
Y 焼き物
W 和え物
S 汁物・吸い物
T 漬け物
M 蒸し物
F なま物
I 炒め物・煎り物
Z 田楽など雑類
+ 料理名にはないが、少量の獣肉、鶏肉を使っている


         煮 揚 焼 和 汁 漬 蒸 な 炒 雑    +
           げ き え   け し ま め      品
         物 物 物 物 物 物 物 物 物 類     数
         N A Y W S T M F I Z    
  大正8年後半 26  9 16 22  9  3  8  4  4  8     3
  同 9年前半 17  6  4 11  3  1  9  9  1  5     6
  同 9年後半 20  8  5 15  5  0  7  3  1  2     4
  同10年前半 16  6  7 19  5  1  6  3  1  5     1
  同10年後半  6  4  2 17  2  2  5  1  0  4     2
  同11年前半  5  4  2  6  0  0  4  3  2  3     0
         90 37 36 90 24  7 39 24  8 27 計382

   掲載日は376日、レシピは382品

(3)
    

 味淋は1升でも一滴でも材料の項に味淋とあれば▲、味淋か酒は△、三杯酢は▽と印を付けで集計した味淋のことですが、一戸さんは全料理の58%、223品の材料に三杯酢を含めて味淋を挙げています。材料の項目に味淋とあるのは192品、味淋又は酒とあるのが21品、分量を書かず単に三杯酢とあるのが10品でした。材料に味淋とある料理の種類をみると、多い順から和え物54品、煮物52品、蒸し物29品、焼き物21品、なま物14品で、雑類、汁物、揚げ物、炒め物、漬け物は10品以下。これらを表とグラフにしたのが資料その16です。材料に味淋又は酒としたときは、表にはありませんが、和え物9品、煮物7品、揚げ物、焼き物、蒸し物、雑類の順になります。
 資料その16(2)は味淋1滴、同(3)は味淋と三杯酢と2通りに使い分ける例です。最後にポチッと1滴たらすなんて、おまじないみたいですよね。

資料その16
           材料に味淋が入っている料理法の割合

(1) 味 味 三  煮 揚 焼 和 汁 漬 蒸 な 炒 雑
      淋 杯    げ き え   け し ま め
    淋 酒 酢  物 物 物 物 物 物 物 物 物 類
大正  ▲ △ ▽  N A Y W S T M F I Z 計
8年後 33 9 5  12  1  8  6  2  0  3  1  0  0 33
9年前 32 6 0  10  0  2  5  0  1  7  5  0  2 32
9年後 36 2 3  14  1  4 10  1  0  5  1  0  0 36
10年前 44 0 0  12  1  5 13  1  0  6  3  1  2 44
10年後 27 4 2   2  0  1 15  1  0  4  1  0  3 27
11年前 20 0 0   2  1  1  5  0  0  4  3  2  2 20

  計 192 21 10  52  4 21 54  5  1 29 14  3  9 総計 192


     

(2)味淋一滴というレシピ

  葱鮪(アラ利用)

(材料)鮪のアラ、葱適當、昆布
 一尺、醤油、塩、味淋一滴
(方法) 鮪のアラを塩水にて洗
ひ後ち水気を去りおく。昆布にて
煮出しを取り二三回沸騰せしとぎ
に昆布を取り去り之れに鮪のアラ
を入れ次に葱の白いところを一寸
位に切りて入れ二三度沸騰させ上
に浮きし泡を取り去り醤油にて味
をつけ味淋一滴落し入れてあつい
ところを食す
 (注意)急の場合には昆布にて
 煮出しを取らずに昆布を敷き熱
 湯を入れ一二度沸騰せし時に鮪
 のアラを入れるもよし味はなる
  べく淡白になす方よし


(3)味淋と三杯酢と2通り使うレシピ

  大根と蛸の酢味噌和へ

(材料)蛸の足二本、大根一本、塩
少々、芥子少々、甘味噌廿匁、味淋一
勺、砂糖適當、三杯酢
(方法) <1字空白>にし蛸を長さ一寸二分
位に切り之を縦に薄く切りおく
大根は繊切となして塩にて揉みよ
く洗ひ水気を切りて之に三杯酢を
かけ十二三分間おき後蛸と混ぜ合
す。味噌は能く摺り之に砂糖及味
淋にて味をつけ煉たる芥子を加へ
入れて此中にて大根と蛸を和へる
器に盛し上に、青味を微塵に切り
て撒布すると色彩の配合よくなる
 (注意)蛸は塩/になす大根と蛸
 と交ぜ合さずに、味噌は敷みそと
 なして其上に大根と蛸を盛分け芥
 子を添へて出すも可

 一戸さんのように味淋を多用した料理研究家を知っているのではないかと日本最古を誇る九重味淋株式会社に問い合わせたのですが、大正から昭和初期の料理研究家についての資料が残っていないとのことで、比較できませんでした。ただ、一戸さんはこの連載の8年前に出した「実験家庭料理法」では75品のうちサルモンコロッケといった片仮名でない名前の和風料理が32品あり、うち13品、40%が味淋を使うレシピでね。東京女高師の先生になってから味淋好きになったわけではないようです。
 三杯酢は料理の常識では同量の酢と味醂と醤油を交ぜた調味料ですが、一戸さんの三杯酢は独特で、塩を醤油代わりにした三杯酢もある。それで材料としての三杯酢はないのだが、味淋、酢、塩、醤油などと挙げておき、作り方の「方法」の中でそれらで作る三杯酢を掛けおくなんて書いてあるレシピもあるので、数えてみたら25回もありました。
 一戸さんはね、東京帝大の稲垣乙丙博士の研究室に通って並の味淋よりよりアルコール分が少く、糖分が多いため使ったら追加の砂糖いらずで、かつ1合20銭で並の味醂より5銭安い味淋を研究していた(45)こともあるくらいですから、一戸さんは立派な味淋好きであり、羊肉の網焼きの付け汁は味淋入りなのは当然でしょう。時間を掛けて調べたレシピ集なので、リンクを張って見られるようにしました。一戸式三杯酢に興味のある人はここをクリックしなさい。
 朝日の料理連載が終わった大正11年夏、一戸さんは満洲の鄭家屯という辺地での蒙古民族の食事調べ出かけました。資料その17は大正11年11月13日の東京朝日新聞の記事とその写真です。アジア歴史資料センターを検索したら出てきた記事なんだが、朝日新聞のデータベース聞蔵Uで読み直そうとしたら見つからない。
 仕方なしに復刻版を見たらですよ、ちゃんと載っているじゃないか。それでわかったのだが、4ページ建ての月曜附録は朝日新聞ではあるが、月曜朝刊4ページとはページ番号も別々。この月曜附録の記事は聞蔵Uとマイクロフィルムに入っていませんよ。
 脱線だが、月曜附録を付けた期間を調べたら11年1月16日から12年8月27日まで続いたのだが、9月1日に関東大震災が起こり、その後の紙面作りで月曜附録なんて吹っ飛んでしまったらしい。震災の直前に9月15日から2ページ増やして朝夕刊合わせて14ページ建てにするという社告が出ていてね、この実現も相当遅れたはずで、多分月曜附録は14ページの中に吸収されたと思われます。
 記事によると一戸さんたち3人は鄭家屯から馬車で2時間ほど行つた外蒙古の中流の家族の家族というから、撮影場所はその家の近くでしょう。大正8年冬、大町桂月が鄭家屯から二爺府というところまで馬車で4時間かかった(47)と「満鮮遊記」に書いていますから、一戸さんはそれよりは近いところ、とてもゴビ沙漠なんていえない端の端、満洲の中にあった蒙古人宅を訪ねたんですな。このとき一戸さんは31歳、中央に立つ白いショールの中年婦人が一戸さんでしょう。まあ、そういう辺境まで着物を着てでも調べに行くところは粘り強い一戸さんならではです。
 それからね、この記事が出てから1月後の「食糧評論」12月号に原文のまま載っている。著作権侵害だ何だとうるさくいわない時代だったから、すかさず頂戴しちゃったということですね。

資料その17

  満蒙地方民の
    食物しらべ
       下層でも自然に栄養多い彼等の食料
         野菜類の乾燥法の行き届いたその設備
                一戸伊勢子さんの旅話

女子高師の教授一戸伊勢子女史は予てから支那人の食物調理法が侮れない進歩をして居る處に注目し頻に研究して居られたが、遂に自身支那に赴いて親しく同国人の生活に接触して見ようと決心して、昨夏はまづ同地労働者の食物研究に取かゝる可く大連埠頭に走つた、そして此処に働く無数の苦力や車夫の生活状態を見たのであるが、今夏は更に進んで中産階級の生活を見るため旅順を振り出しに鄭家屯からゴビの沙漠を経て外蒙古に入つて蒙古人の生活を見たのである。そして蒙古の中産階級が常食とする物のサムプルなども携へて帰つた。女史の視察談は却々面白い。<略>
 ◇ゴビ沙漠の一軒家
写真の右がそれで此辺に旅する人達は皆此家に泊るのです
一泊が五銭といふ
     

 そのころの教え子に後に登山家としても知られた料理研究家の黒田初子がいました。黒田は「東京女高師の修養年限は四年で、上級になるほど各科は専門に細かく分かれていきます。家事科は「衣」「食」「住」「その他」に分かれていました。私は「食」を選び、四人ほどの小人数で、おのおの専門的に講義と実習がありました。洋食は大江スミ先生(後に家政学院を創設)、中華料理と栄養学は一戸伊勢先生でした。一戸先生は、中国に行ってかなり研究された経歴をお持ちで、みんなの尊敬を集めていらっしゃいました。大江先生はとても大きい方で、堂々としていらっしゃいました。授業は日本語でしたが、料理名などには英語やフランス語がポンポン出てきました。<略>(47)」と本に書いています。
  

参考文献
上記(44)の出典は大正7年9月4日付朝日新聞朝刊5面=聞蔵U、 資料その16(2)は大正9年11月16日付同、同、 同(3)は大正10年10月13日付同、同、 (45)は大正9年3月19日付読売新聞朝刊4面=ヨミダス歴史館、 資料その17は朝日新聞社編「朝日新聞《復刻版》」大正編125巻154ページ、平成17年5月、日本図書センター=原本、原紙は大正11年11月13日付東京朝日新聞朝刊月曜附録2面、 (46)は大町桂月著「満鮮遊記」149ページ、大正8年11月、大阪屋号書店=近デジ本、 (47)黒田初子著「お料理のレッスン七十年 私の好きなレシピ集」奥付、平成8年7月、草思社=原本

 「文部省職員録」の大正14年版の東京女高師講師として一戸さんの名前がある(48)けど、昭和2年版(49)にはない。  退職後の昭和2年11月、いまは新宿5丁目となっている場所、新宿園跡に一戸食物研究所を創立、所長となりました。資料その18でわかるように料理も教えており、月謝、修業年限などの質問に対する国民新聞の「家庭問答」欄は「既に十二月一日より開校、月謝は一週二回で月四円以上、修業年限は専修部講習部等いろ/\科がありますがすべて三ケ月です一戸女史の住居は相州片瀬の海岸で、毎日四谷区新宿大番町新宿園跡の研究所へ来ます。(50) 」と答えています。

資料その18

  一戸伊勢子先生
       訪問記

 理論と実際との調和といふことは、ほんとうに至難しいもので御座いますそれがお料理となると殊にその感が深うございます、腕利きの庖丁だ美味しい料理だ」といふものが全く栄養分を無視したものであつたり「これは栄養的料理だ」といふものが全く嗜好とかけ離れたものであつたりします、榮養問題を考へる誰しも最も悩む処はこの点でなからうかと思ひます。
 こゝに着眼して極めて學究的態度を以つて榮養と嗜好とを調和し、智識と技術とを科学的に合理化する為めに、一意精進して居らつしやる一戸伊勢子先生が、十一月から新宿園跡で食物研究所をお立てになつたと承リ、早速お伺ひいたしました。(本誌記者)

  徹底した学術と技術

 それは朗かな秋の日も、黄葉した銀杏樹を斜めに照して、今にも暮れやうとする或る土曜日の午後でした。ちやうど土曜日の午後は、專修部の学術課のある日とて全くお忙しい日でした。
 この日は午後一時から榮養化學としてアミノ酸と蛋白質構造に就ての講義があつて、二時から四時迄その講義を生かす爲めに實物に就て調理し乍ら説明して知識と技術とを併行させ、次で出來上つた料理を皆で試食して嗜好を調べ、更に之を分析するのだそうで、全く徹底した教授振で御座いました。

  調理の科学化を叫ばる

『こゝをお立てになつた御趣旨とか御抱負といふやうなことは……』
『ハイ、事新しく私の申すまでもありませんが、我国に於て榮養上の知識及技術を一般に改善普及せねばならぬと信じます、それには先づ現今高等小學校、女學校等に教へます家事科の一部の調理法を科學的に取扱はなければなりません、從つて私はそれ等の女子教育家に食物の科學的 研究を望む者であります。
 次にまた現在の家庭生活に於ける食事食品の取扱方は如何で御座いませうか、習慣に従つて行つてゐますから、何とも思はないでせうが、随分榮養上の無駄と不経済とが繰り返されては居ないでせうか、三百六十五日食事を取扱ふ御婦人方の食物に対する知識と技術如何は、直ちに一家の健康、経済、能率、疾病に影響することが深刻で御座います。

  食糧知識を学校と家庭へ

 故に私は家庭調理の實務が速に科學化される事を希ふものであります。斯様に考へます時に、教育家の爲にも家庭婦人の爲めに自由に研究する処がなければならぬと存じまして、鳴呼がましくもこの研究所を設けさせて頂きました。
 また一つには私自身が心ゆくまでに研究する場所が欲しかつた爲でも御座います』
 と過去十年間の奈良及東京の女高師に於ける長い教壇を捨てゝ自分の研究所を立てるに到つた抱負をつゝましやかに談られました。
『でも料理などは腕であつて余り理論に渉るといけないと一般に申す様ですが、理論はそれ程必要でせうか』といふ無遠慮な質間に対して、
『私の理論と申すのはナゼといふ事の根本的に基礎知識を教へなくては調理の科学化は出來ないといふ意味で、例へば煮物は從來すべて蓋をして煮ます、これは燃料の關係もあるが品物によつては風味を損するものがあります、そんたものは蓋をとつて煮ると不快な物質を発散させて臭氣をとります、この臭いのはナぜ臭いか、蓋は何故とるかといふナゼを実際に就て了解して頂かなくてはならぬと存じます』

  家事科を教ゆる方の爲

『專修部とあるのはどんな事を教はるでせうか』
『それは食品の基礎學と實際調理とを修めますので、学課では榮養化学食品化学、食品学、實験及分析、調理の理論及実習、献立の作り方、食事作法等で御座います、そして公職にある方の爲め本日の様に土曜の午後と日曜に授業いたします』

  家庭婦人の爲に実習部

『實習部は主として調理法の實際に就て、日支洋及子供食病人食等を習ひ、講習部は全く、料理だけ、例へばお惣菜料理のみとか、或は來客料理だけとか、西洋料理は出來るが支那料理が覚えたいとか、日本料理の心得があるが西洋料理を知り度いといふ方々の爲に設けたのです。』
 その中に時間が來て先生は實験室に行かれた、以上のやうに調理を系統的に研究して、而も實際を忘れず且つ從來腕一方に走つて食品の基礎知識を知らぬ爲めに、榮養上の大切な処を見逃された欠点を補ふといふ真摯な能度に感ぜざるを得なかつた。

  

参考文献
上記(48)の出典は文部大臣官房秘書課編「文部省職員録 大正14年10月1日現在」326ページ、大正14年12月、文部大臣官房秘書課編=近デジ本、 (49)は同「文部省職員録 昭和2年10月1日現在」、昭和2年11月、同、 (50)昭和2年12月27日付国民新聞朝刊6面=マイクロフィルム、 資料その18は糧友会編「糧友」2巻12号86ページ、「主婦のページ」より、昭和2年12月、糧友会=原本

 昭和20年まで一戸さんが書いたり話したりした料理の記事は、それこそ枚挙の暇がない。昭和11年には研究所を芝区に移し、18年には京浜女子家政理学専門学校教授になります。資料その19に示すように太平洋戦争中、一戸さんは東京都の戦時調理室主任としても、配給の食糧の保存に知恵を絞り、食い延ばしを呼びかけた。満洲はまだ内地より食べ物に余裕があったけれど、一億一心、腹ペコだと小学生だった私も畑仕事を手伝いましたもんね。

資料その19

(1)配給物資で甘く調理
     市民の戦時食研究所を新設

少い物資を最高度に利用して「食料戦」にも勝ち抜かう…と、東京市では新春を期して帝都市民食生活の参謀本部ともいふべき「戦時綜合食料調理研究所」を新設することになつた<略>建物は現在築地の中央卸売市場内にある市営の「栄養調理室」を拡大してこれにあてるはずで、調理は斯界の権威である一戸伊勢子女史を主任格にその道の権威を委嘱、毎日入荷する市場の物資を使用して研究に当る


(2)食込まぬ注意

   都戦時調理室主任
     一戸伊勢子女史談

それはほんとに有難いことです防空貯蓄用としては既に各家庭とも四日分が配給されてゐるのですし、それにまた五日分を臨時配給して下さる当局の親心と窮屈な食糧事情にもかゝはらず断行されたこの臨時配給の意味をわれ/\都民はよく肚に据ゑる必要があると思ひます、今までの四日分はとうに食込んだ家庭が多いやうですが、これらの家庭も今度配給される米は絶対にそんなことのないやう注意しなけれはなりません、それにしてもいざ空襲となれば煮たきはまづできないと思はねはならず、煮たきしなくてすむ形で蓄へておくことが必要です、そこで煎米にしてすリ鉢ですつて、粉にして貯蔵することが一番良いのではないかと思ひます、粉にして缶に入れておけば、半年や一年は絶対に腐敗の心配がありません

 敗戦後、ぼちぼち出版された料理の本を調べても一戸さんの本は全く見当たらない。それで私は一戸さんは東京空襲で亡くなられたとばっかり思ってました。国会図書館で新聞データベースが自由に検索できるようになってからですが、一戸さんは昭和41年に勳4等瑞宝章を授与され、43年に89歳で亡くなったことを知った。逆算すると明治12年生まれとなり、資料その1の明治24年生まれなんてものじゃない。
 また各紙とも喪主はお孫さんと書いている。意外や意外、一戸さんは独身じゃなくて子供と孫がいたんですね。この謎を解明しないと私の講義は画竜点睛を欠く、いやジンパで肉は焼けたがタレがないも同然。お孫さんに一戸さんの経歴を教えてほしいとお願いし、お会いできた。そして一戸さんの履歴書を拝見し、晩年の写真をコピーさせてもらいました。資料その20がそれです。

資料その20

        

 ここまでの一戸さんのお年は明治24年生まれで計算したもので、實は明治12年6月29日生まれ、大胆にも干支で一回りサバを読んでいたとわかりました。ある女性研究者によると、今もそういう人はいるそうで、36歳を24歳、48歳を36歳といっても年の割にはちょっと老けてるかなぐらいでバレないし、干支の話題でボロが出ない。おっと、セクハラにならぬよう、これぐらいにします。
 お孫さんの持つ履歴書は、戦災で研究所と新宿の自宅が全焼したため一切の記録を失った。それで昭和25年、京浜女子短期大学教授に就任する際、戸籍謄本と記憶をたどって書いたものだそうです。明治28年、弘前女学校に入学したその年、一戸さんは16歳で婿さんを迎え、家庭があったのに年齢と同様、秘密にしていたため佐伯博士の後妻になんてゴシップをでっち上げられたんですなあ。
 明治30年に弘前女学校を出てから英国人に就いて英語と西洋料理を学び、明治35年に青森市の青森裁縫女学校と静修女学校の先生をしてから上京、東京裁縫女学校を卒業して、さっき話した山梨の女学校の先生になった。東京割烹女学校で教えていた明治42年から1年間、朝鮮に赴き支那料理および朝鮮料理研究をしたと履歴書にありますが、これは全く知らなかったことであり、それを知ってから明治42年の京城新報を見ましたが、料理の一戸女史で通るようになるずっと前のことなので、それらしい記事は見つかりませんでした。
 また大正2年は「支那に渡航し料理調査」とあります。裏付けを探したら昭和6年の「婦人倶楽部」の「夏の旅座談会」で一戸さんが上海での出来事を語っていました。料理にいる唐辛子がほしいと中国語でいえない。通りがかりの日本人の奥さんに頼んだら、その人もいえなかったけど器用な人で、着物の紅絹裏を出して小指に巻き、それを舐めると辛いという顔をしてみせたら店員が唐辛子を出してきた(51)そうです。研究熱心な一戸さんならではの笑い話ですね。
 それからね、一戸さんの夫だった方は戦時中に亡くなりましたが、男の子が1人いて、一戸さんが食物研究所の経理ができるように進学させた。しかし、残念ながら研究所の再建かなわず、某大学事務局に務められたそうで、私が伺ったのはその方の息子さんでした。まだ用意した話題はあるのですが、時間なので終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記資料その19(1)の出典は昭和18年1月4日付朝日新聞朝刊3面=聞蔵U、 同(2)は昭和19年8月16日付同、同、 (51)は大日本雄弁会講談社編「婦人倶楽部」11巻7号240ページ、「海水浴、温泉、登山、夏の旅座談会」より、昭和5年7月、大日本雄弁会講談社=館内限定近デジ本