初の国産鍋は糧友会、料理の友が2番手

 いまでこそジンギスカンの鍋と言えば、大抵の人は知っていて、ああ、中央が盛り上がった兜みたいなとか、中華鍋をひっくり返したようなあれね、とかいいますよね。また、ホームセンターというような大型荒物店なら大抵売っているようになりましたが、昭和10年になるまで国産の鍋は全くなくて、濱町濱の家の講義で見せたような鍋を、いちいち中国から買ってきたり、取り寄せていたのです。もっとも今はまた、そうした売り物の鍋の多くは、日本から注文して中国の工場で製造された鍋だから、昔に戻ったようなものですがね。きょうは輸入品から国産品に移るあたりの鍋を考察します。資料を配ります。うーん、かなり休んでいて、余りそうだな。インフルエンザかね。
 初めてと2番目の国産鍋は、ホームページ「現場主義のジンパ学」講義録の目次の下に絵を並べて持ち主を捜し、それから取り上げようと実行してだ、もう10年もたつのに鍋情報は全く梨の礫、ゼロ。運が良ければ化石として掘り出されるかなあというぐらい、きれいに消滅したらしい。その代わりみたいに、あの2つの鍋のことをまとめて書いた論文が現れたのには、いやー、びっくりしたな、もー。三波伸介もお笑い芸人としては最早完全に化石だ。はっはっは。
 論文を発表したのは文化人類学とモンゴル学が専門の渡辺隆宏氏です。「畜産の研究」に「成吉思汗料理考 ―『支那料理』としての成吉思汗料理―」という題名でね、平成9年の63巻3号つまり3月号に(1)、次の4号、4月号に続きの(2)を投稿した。なぜ論文を書いたかというと、北海道遺産の指定もそうなんだが、ジンギスカン料理を日本料理だと言い切ることは「成吉思汗料理の来歴のみならず,日本の食肉受容の歴史をも覆い隠すおそれがある。そこで本研究では,成吉思汗料理が,太平洋戦争以前,北京の名物料理として知られ,支那料理の一種として一般に広まった料理であるという事実を,掘り起こしておこうと思う。(1)」と述べています。いわば、渡辺さんは、北京にあったカオヤンローがジンギスカン料理の原形だという重要なことを忘れちゃいかんぞと叫んで立ち上がったのですなあ。ジンパ学にとって、まことに心強いサポーターが現れたのです。奇特な方です。
 そのために、渡辺さんは私の講義録をじっくり読み込んだ。会ったこともない学者の研究法がどうしてわかるかって、いや、いまいった「成吉思汗料理の来歴」という文字列についている註の5番を読んでわかったのです。しかもジンパ学が最高詳しいと明記してくだすったんですぞ。「尽波満洲男を名乗る人物」という言い方は愉快じゃないが、うつらうつら聞き流していい講義じゃないぞと渡辺さんが認めているのは、私としては誠に嬉しいことなのでね、URL以外の半角を全角に書き換え、その註5を資料その1として引用しました。きょうの国産鍋の話を進めるために、講義録の目次のところにある2つの鍋の絵も入れてね。自画自賛的な資料で、ちと照れるがね、はっはっは。

資料その1

 5 成吉思汗料理の歴史を記した代表的なものとして,高石〔1996,
 2003,2006〕や,佐々木〔2003〕などがある。また,尽波満
 洲男を名乗る人物によるインターネットサイト『現場主義の
 ジンパ学』http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle
 /2248/jinpa12.htmlは,最も詳細な文献調査に基づいたも
 のであるが,未完成で更新中である(2009年1月現在)。本
 研究では,特に文献収集などの点で,これらの先行研究を大
 いに参考としたが,利用した史料は原典に当たった。

 「これらの先行研究を大いに参考とした」のは当然として、コピペして同じことは書いたら後追いになるだけで、論文としての価値がない。なにがしでもオリジナリティーがなきゃいかん。研究者の常識です。もっともオリジナリティーがありすぎて、理化学研究所のどなたかの如くだ、出身大学の学位審査まで疑われるようなことになってもいかんがね。
 2つの鍋の絵を探し出してホームページに掲載している私が、絵の鍋そのものについては少ししか話していない。そこです。私の詳細な文献調査に基づいた事柄と重複しないようにするには、歴史や料理法のことのほか、2つの鍋の素性も加えれば、よりオリジナリティーが増すと渡辺さんは考えたのでしょう。
 「畜産の研究」に載っている渡辺論文には鍋の絵や写真は付いていないけれども「昭和10(1935)年に、陸軍糧秣省の外郭団体であるところの糧友会が,その機関誌『糧友』100号と会の創立10周年とを記念して,特製の“家庭用成吉思汗鍋”を贈呈しているのだ。(2)」と書いてます。それが資料その2(1)の左側の鍋、焼き面です。
 それから大日本料理研究会講師の吉田誠一が昭和12年、料理の友社からのジンギスカン鍋発売に合わせた「成吉思汗鍋料理」という記事の中に「本会は最も手軽な鍋を七輪、電熱、瓦斯其他火鉢でも使用出来得るやうに完製して本社代理部で販売することに致しました。〔吉田 1937:16〕(3)」と「料理の友」に書いた箇所を引用しています。その本会、つまり大日本料理研究会がどう絡んだかはわかりませんが、料理の友社代理部が売り出した鍋が資料その2(1)の右側です。
 糧友会の焼き面の上に、マグロのネタみたいな羊肉の切り身が6つ置かれているが、野菜はない。このころのジンギスカン料理は肉だけ食べるものだったことを示しています。料理の友社創製の鍋は一口チーズのようなものがありますね。別の資料に見せますが、元々は箸で挿んだ脂身を焼き面に乗せ、脂を引いている絵なのですが、私が画像に手を入れて箸を消したので、脂身1切れになったんですわ。
 この焼き面を掛けた七輪が円筒形ですが、私はこれは水焜炉に掛けた絵だとみます。水焜炉とは、炭火の熱が七輪の底を伝わってテーブルを焦がさないよう、底に水を入れられるようになっている七輪と思えば宜しい。参考までに「料理の友」にいつも載っていた水焜炉の広告を資料その2(2)にしました。

資料その2

(1)
    


(2)
    

 年代順に糧友会の鍋からいきますか。糧友会は昭和2年に「羊肉知識の普及と榮養經濟美味羊肉料理の一般化(4)」を図ると宣言して、試食会、講演会や料理講習会を開いて国民に羊肉を食べようと勧めました。当時のジンギスカンは国産の鍋がなかったので、肉は金網で焼くよう指導したのです。それはいいのですが、烤羊肉を鍋羊肉と書いてカオヤンローと読ませたので、鍋を使わないのに鍋羊肉とは変じゃないかと聞かれたりしたことは、前にも話しましたね。
 それから10年後、吉田誠一は「料理の友」の「成吉思汗鍋料理」に、ジンギスカン料理が「昨今では家庭でスキ焼の代りに座敷で賞味されるやうになりました。 然し火又子(ホチヤツ)……鍋が特種のものにて支那より取寄せなければ間に合ず(5)」と書いていますが、それは内地、本土での話であって、満洲では昭和5年の秩父宮殿下が公主嶺見学の際の歓迎ジンパの講義で話したように、とっくに日本人が鍋を作っていました。ただ内地、日本の国内ではまだ研究中だったのです。
 私が成吉思荘の松井統治さんのお宅をお訪ねしたとき、試作された鍋の1枚が残っていました。後に成吉思荘になった建物は松井さんの祖父平五郎さんが別荘でした。でも平五郎さんが隠居してからは、父親の初太郎さんが鍋と料理を研究をする隠れ家にしていた。それで羊肉販売で顔なじみの農林省や糧秣本廠の関係者が出入りするようになり、やがてジンギスカンの試食場みたいになり、成吉思荘に発展したのですがね。ただ、鍋については特許取得問題もあるので、三重県出身の平五郎さんのツテだろうと思うのですが、東京や川口で試作をせず、わざわざ三重県で試作してさせていたそうです。
 そうした試作鍋の1枚が資料その3(1)の大鍋で、これは直径が49センチもありました。立てかけたソファの肘掛けの位置からも大きさがわかるでしょう。成吉思汗焼鍋と上下の縁に浮き彫りになっています。昭和12年に正式に開業してからは店内では使わず、大勢が庭に出て焼いて食べるときにだけ使ったそうです。その下(2)の広告のように篝籠のような特製焜炉があった筈ですが、これを撮影したときは、もうありませんでした。また、この広告には鉛筆書きでゴルフ雑誌用とあるほかに記録がないので、掲載年月、誌名不明。どうも戦前のゴルフ雑誌を所蔵している図書館が見つからないのです。まあ、成吉思荘は昭和12年開業ですが、親店は宮内省御用達の松井本店、当初はお客にゴルフをやるハイソサエティを狙って、こういう広告を打ったと思われます。

資料その3

(1)
   

   (2)
      

  

参考文献
上記(1)の出典は養賢堂編「畜産の研究」63巻3号391ページ、渡辺隆宏「成吉思汗料理考(1) ―『支那料理』としての成吉思汗料理―」より、平成9年3月、養賢堂=原本、 資料その1は同393ページ、同、 (2)は同63巻4号490ページ、渡辺隆宏「成吉思汗料理考(2) ―『支那料理』としての成吉思汗料理―」より、平成9年3月、養賢堂=原本、 (3)は同489ページ、同、 (4)は糧友會編「糧友」2巻11号2ページ、昭和2年11月、糧友會=原本、 (5)は料理の友社編「料理の友」25巻2号16ページ、吉田誠一「成吉思汗鍋料理」より、昭和12年2月、料理の友社=原本 資料その3(1)と同(2)は松井統治氏所蔵

 糧秣本廠の外郭団体である糧友会は、羊肉食普及活動の一環として、東京銀座に「宝来」という羊肉レストラン開店に力を貸し、昭和5年12月の開店披露で招待者にジンギスカン料理を食べさせたのです。資料その4は糧友会の機関誌「糧友」昭和6年1月号に掲載された写真で「糧友会後援で我が国で初めて開いた銀座『宝来』の羊肉料理開店披露当日、ヂンギスカン鍋に舌鼓を打つてゐる光景(6)」という説明が付いています。白いエプロンの女性は長い菜箸で 左手に持った皿の羊肉を鍋の上に乗せていますが、その菜箸より鍋の直径が大きくて、30センチ以上はありそうに見えます。写真が楕円形にカットされているので、鍋の下の五徳の上端と白い焜炉の側面しか見えませんが、次の資料その5の鍋と見比べて下さい。日本橋濱町濱の家が北京の正陽楼から鍋を買ってきて、間もなくです。渡辺論文に濱の家もこれも書いていないのは、国産ではないからですね。
 開店後間もない1月8日「糧友」に執筆する糧秣本廠の将校たちが宝来レストランを訪れたときは羊肉スープとレバーソティを半額割引券で食べただけて退散したと「銀座たべあるき合戦」に書いている(7)ので、ジンギスカンは試食会のときだけだったようです。

資料その4



羊肉食堂開店

 銀座尾張町交差点(歌舞伎座通三原橋寄)カフエーライオン先の従来宝来パン店を改造して、十二月十五日より羊肉料理を主とした「宝来レストラン」が開店された、同所で料理する羊肉料理は農林省、糧友会にて後援し、料理は糧友会満田委員が指導する事となつてゐる、糧友会員には羊肉料理の半額割引券を配附する故、是非羊肉料理を味つてほしい、尚羊肉料理半額割引券御希望者は糧友会事業部へ御申込を乞ふ。

 資料その5の写真は昭和6年2月、糧秣本廠に1師団1人ずつ17人など22人の主計将校を集めて開いた30日間の軍隊炊事勤務指導実務実習(8)でのジンギスカン。味見程度なんでしょうが、楽しそうですね。日程によれば2月25日の特種品調理で羊肉と兎肉とトマト調理(9)を習っています。鮮明なのでロストルと言うより20本以上鉄棒をぎっしりと並べたような焼き面がよくわかりますね。四角の鉄枠の上に4本と見られる短い足の五徳が固定されており、白い底の鍋みたいな焜炉をそれに掛け、その上に鍋が載っている。五徳の輪と焼き面の間に金属製の輪が嵌っていて少し離れておる。その離れ具合と白い焜炉の側面から「宝来」の開店披露で使った鍋と焜炉がこれと同じだとわかりますね。
 つるり丸くて白い焜炉のこの鍋の持ち主は糧友会であり、昭和4年、上野で糧友会が食糧展覧会を開くに当たり、陸軍省経理局衣糧課長の丸本彰造が北京にいた貴志正雄という3等主計正に頼んで満洲から取り寄せ、丸本がジンギスカンを実演するのに使った鍋がこれだろうとにらむのですが、証拠はありません。貴志は昭和10年には糧友会大阪支部専務理事になっていました。

資料その5



   羊肉料理講習に於けるジンギスカン鍋

 もう一度、資料その4の写真を見て下さい。鍋を囲んでいる紳士たちは、焼けた肉をそのまま食べている。漬け汁を入れた皿とか小鉢を持っていませんね。どうも味の付いた肉を焼いてもらっているとしか思えません。そこです。いま風にいうと味付きジンギスカンなのですなあ。松尾ジンギスカンの先祖は糧友会だったともいえる。これは「宝来レストラン」の料理を指導すると書かれた糧友会の満田百二委員が「羊肉網焼(成吉思汗鍋)」として発表した砂糖抜きのレシピのだったからだと思いますね。満田さんによる「羊肉家庭料理」のレシピは、いずれ一戸さんのジンギスカン料理考案のページで取り上げます。
 満田さんは、それまで必須だった砂糖10匁はすっぱりやめて、代わりに塩を入れてしょっぱい漬け汁に切り換えたのです。さらに刻んだ葱も薬味として加えたのです。山田喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」の初版が出たのは昭和6年11月ですから10カ月早い。喜平さんは昭和9年に第2版を出して、漬け汁に生姜と葱の微塵切りを入れるように変えていますが、この満田さんの葉葱入りを試してみて思いついたのでしょう。
 満田さんは砂糖を入れて漬け汁を甘くするのは、くどい味になると書いていますよね。くどいと感じるかどうかは、かなり個人の好みが左右すると私は思うのです。多分満田さんは甘い物が嫌いなのだろうと思っていたら、鋤焼きの作り方として「一方に焼けた肉を片寄せて、次々に肉を焼いて片寄せておきます。それから葱、焼豆腐等お好みのものを入れ、野菜のいたんだ頃、砂糖を入れ、好みの味に醤油で調味します。(10)」と新聞に書いているので、砂糖を使わない主義ではなくて、ジンギスカンの漬け汁には不要と判断したということでしょう。
(昭和6年12月4日付北海タイムス夕刊4面=マイクロフィルム)
 でも「糧友」の昭和6年1月号に満田レシピが発表されたからといって、パソコンのリセットみたいに、すぱっと切り替わったとは思えません。もう一度資料その5の写真を見て下さい。焼けた肉にタレを付けながら食べているようでしょう。
 左端の両手しか見えない人の左手は小皿、カメラ目線の人と1人を飛ばして右に並ぶ白衣の2人は、いずれも左手に持つ深めの食器が見えます。私が小学生のとき1日入隊で使った青い縁取りで星マークの付いた白い琺瑯食器のような感じです。満田さんの作り方なら、タレなしで食べるはずなのにおかしい。その前の糧友会レシピで食べているのか全くわかりません。こうなると、もう私以外の人はどうでもいいことでしょうね。
 昭和8年に使われた鍋の写真が読売新聞に載っています。陸軍大臣の荒木大将たちが遠乗り会と称して馬に乗って今の東京都北区赤羽北から練馬区の豊島園という遊園地まで行ってジンギスカンを食べた。豊島園にあった食堂には鍋を持っておらず、多分陸軍当局が用意したのでしょうが、資料その6にあるように焼き面の頂点が高くて半球形に近く、また大きな金輪の掴み手に特徴があります。こんなに盛り上がった焼き面の鍋はほかに見たことがない。資料その5の焼き面と違うことことは一目瞭然、満洲か中国から持ってきたのでしょう。
 乗馬隊はどういうコースかわかりませんが、Googleマップでは赤羽北―豊島園間は「環八通り/都道311号線経由」で8.8キロ、徒歩なら1時間51分と出ます。人間と同じ速さだったとして2時間、午後4時には開宴できるはずで、それから4時間、ジンパをやったことになります。酒酔い乗馬の取り締まりなんて、なかったんでしょうね。はっはっは。

資料その6

   

  春風に勇む
    陸軍 遠乗会
          陸相ら野宴
          に舌鼓

 荒木陸相は八日午後二時から催された恒例の陸軍遠乗会に参加した
 ―赤羽の工兵大隊から愛馬に跨つて長鞭一振、花曇りの郊外を軟か
 な春風に撫でられ乍ら鉄蹄軽やかに薄暮豊島園に到り庭前に設けら
 れた質素な園遊会場で『成吉思汗料理』に舌づゝみ打つた
  この『成吉思汗料理』は曾つて成吉思汗がアヂア平定の雄図を実
  現すべく十万の精鋭からなる蒙古騎兵を率ゐて出征した折り好
  んで口にしたといふ羊肉の原始的なスキ焼だが
 特に非常時打開の重任にある皇軍のこの遠乗会を意義あらしむべく
 設備したといふわけで陸相をはじめ柳川次官、土岐政務次官、石井
 参与官、谷少将ら六十余名の参加将校たちはこの由縁ある料理と清
 酒に腹を満たし陸相の発声で天皇皇后両陛下をはじめ奉り、満洲
 派遣全将兵、全陸軍の万歳をそれぞれ三唱して盛況裡に軒昂たる意
 気を誇示して八時散会した【写真は成吉思汗料理を突つく荒木陸相
 (右)と土岐次官】

 昭和10年になると、つるり丸くて白い焜炉が、もう1つ現れます。昭和10年暮れに農林大臣がジンギスカン食べた際の写真及び関連記事を資料その7としました。(1)は雑誌「畜産」からで(2)の小樽新聞からは記事だけにしました。白い焜炉は似ていますが、もっと五徳の足が長くて背が高い。それで焜炉の底の下に灰受けらしい容器が置かれていることがわかります。
 五徳の足の先は、背の低い焜炉と同じように四角い枠に固定されているように見えるところも似ているけれども、よく見ると五徳の鍋を支える輪と焼き面との距離が違う。背の低い鍋は円環と焼き面の間に足の長さの半分ぐらいの高さの側壁が入っているのに、のっぽ鍋はそれがなく、円環と焼き面はほとんどくっついていますね。それに五徳の輪に焜炉の底が深くて、輪から下が背の低い鍋の焜炉の倍ぐらいありそうなことから、私は背の低い鍋とは似て非なる鍋と判定しました。
 記事では30人ぐらいが食べたとあります。まさか鍋が1枚で焼いたとは思えませんから、ここに写っている主賓以外は金網焼きで「分座」した畜産の技師から松葉燻しなどの講釈を聞いたのでしょう。23日は100人余というから、わがキャンパスでもちょっとない大ジンパですよ。

資料その7

(1)


農相官邸のヂンギスカン鍋試食會

 本會主催の肉畜博出品の優良肉緬羊の肉をヂンギスカン鍋にして、十二月二十一日正午農相官邸で試食會が開かれ山崎農相初め、守屋、長瀬両次官、田淵畜産局長以下各局長、主なる新聞記者一行三十余名は、濛々たる燻煙の中に、羊肉の醍醐味に舌鼓を打ち、畜産からは釘本場長が一応、説明役となり、各技師も食卓に分座して大に宣傳に努め、大好許を博した。二十三日は夜旧官邸で、省内各課長其他百余名と試食會をなし此れ亦大好評であつた。


(2)
 農相官邸の国産成吉思汗鍋 二十日午後零時半農林大臣官邸の前庭で六七脚の卓子が持ち出されると忽ち煙がもう/\として何ともいへぬおいしさうなにほひをあたりに漂はせはじめたこれはこの頃開かれた中央畜産市場で折紙のついた羊をもらつてきて国産成吉思汗鍋の試食会とあつてあつまつた面々山崎農相をはじめ長瀬守屋両次官、田淵畜産局長以下各局長炭火であぶつた肉に「ラク」といふ凝つた薬味とつゆをつけて蒙古気分を満喫した(写真は試食會(左より二人目が農相)

  

参考文献
上記(6)の出典は糧友会編「糧友」6巻1号150ページ、昭和6年1月、糧友会=原本、 (7)は同115ページ、同、 資料その4は同150ページ、同、 (8)は同6巻3号28ページ、昭和6年3月、糧友会=近デジ本、 資料その5は同6巻4号口絵、ページ番号なし、昭和6年4月、糧友会=原本、 (9)は同49ページ、同、 (10)は昭和6年12月4日付北海タイムス夕刊4面=マイクロフィルム、 資料その6は昭和8年4月9日付読売新聞朝刊7面=ヨミダス歴史館、 資料その7(1)は中央畜産会編「畜産」22巻1号97ページ、昭和12年1月、中央畜産会=原本、 同(2)は昭和11年12月23日付小樽新聞朝刊11面=マイクロフイルム、

 舶来鍋が続いた序でに、もう1枚、満洲からとみられる鍋を紹介しましょう。昭和12年1月、総辞職した広田内閣の後を受け、陸軍大将宇垣一成が首相に推挙され、組閣工作をしました。そのとき大量の届いた電報の中に「『組閣を祝福するため羊一頭持参、ジンギスカン鍋を携へ上京しつゝあり』といふ朝鮮の宇垣崇拝者の祝電があつた、(11)」後、羊肉と鍋が自宅に届いた。その写真が資料その8(1)と(2)です。
 叺ではなくセメント袋みたいな丈夫な紙で荷造りした羊肉と鍋と焜炉1組が宇垣さんの自宅に持ち込まれた。焜炉は焼き面をうんと深くした形で、側面に空気を流通させる隙間がたくさんあるのが見えますね。それを荷ほどきしたところが資料その8(2)。上から見ると焼き面の中央が平たく見える。(1)のように盛り上がって見えないのは意外ですね。左の人物の右手のところが首で、左手のところが後ろ足なら小さい緬羊だ。鎌田はラムを持ってきたのかも知れません。
 東京日日新聞にはおどけた記事も載っているので、それをスライドで見せましょう。これだと生きている緬羊が鍋と一緒に届いたみたいですよね。

検束・お守札・祝電
  組閣第三日スナップ

大将の参内で朝から俄然色めき
立つ組閣本部の第三日、廿七
日の風景小品
  ×
大将の別荘のある府下国立町代
表三宅憲吉氏ほか二名は午前十時
半ごろ
国立から祈る、閣下の御健康、
組閣の大成
と認めたお守札を贈つて來た
  ×
電報で先づ幸先きを祝つて來た例
の『羊一頭とジンギスカン鍋』が
はる/\゛朝鮮から届けられて家の
子郎党がワツと歓声
  ×
<略>
(昭和12年1月28日付東京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、)

 1月27日の「夕食にはこの日朝鮮から駈けつけた沢田朝鮮緬羊研究所長が持参した羊を料理して作つたジンギスカン鍋を今井田参謀長、沢田氏の三人で囲み、れいによつて『白鷹』二本を傾けタンマリと闘争の原動力を摂り、意気はいよいよ軒昂たるものがあつた、(12)」と読売新聞は伝えていますが、鎌田沢一郎という名前のせいで記者が間違ったと思いますが、鍋を囲んだ沢田は誤りで鎌田が正しい。
 中外商業新報に「<略>朝鮮京城の一角に私設緬羊研究所を建て朝な夕な緬羊の飼育に、牧草の研究に余念のない日を送って居る隠れたる研究家鎌田沢一郎氏を紹介しよう今回の政変で宇垣大将に大命降下の報が伝わるや急遽緬羊一頭を土産に組閣本部を訪れ、組閣の成功を祈って居たが、遂に流産の憂目に遭い、ガッカリした身体を赤坂山王ホテルの一室に休めた氏を二十九日夜訪れてみた(13)」とありますよ。
 鎌田は朝鮮緬羊協会理事(14)京城日報嘱託(15)という肩書きもあり、宇垣は昭和6年から5年間、朝鮮総督を務めたとき鎌田と親しくなり、緬羊に対する認識を新たにして「南棉北羊」というスローガンを唱え、半島北部での緬羊増殖とホームスパン普及を奨励し、ホームスパンの服を着るようになったのです。
 資料その8(3)と(4)の鍋について説明する前に鎌田の活動振りをみるとですね。昭和9年、鎌田はまず朝鮮総督府の弘報誌「朝鮮」2月号に288ページもの「緬羊及緬羊事業研究」を書いています。この号には「朝鮮總督府の緬羊奬勵第一期計画」、「朝鮮緬羊協會創立趣旨書」、「拓務省緬羊の改良及攝Bに關する方策」も載っており、(16)実質的に朝鮮緬羊特集号です。3月には自分の「緬羊及緬羊事業研究」に「朝鮮」2月号の緬羊関係分を抜きだした著書「緬羊及緬羊事業研究」を朝鮮総督府から出版しました。
 鎌田は前の年、昭和8年秋に京城新報に「羊を尋ねて」という朝鮮各地の緬羊牧場のルポルタージュを12回連載(17)してますが、それと「緬羊及緬羊事業研究」などを合わせた著書「羊」も出したのです。「人生と緬羊・緬羊の飼ひ方・ホームスパンの織り方・日満羊を尋ぬる旅」という長い副題が示すように、日本と満洲の緬羊飼育の状況も収めています。
 これら3冊には資料その8(3)と(4)にした写真が同じ形で載っております。(3)の鍋が鎌田が宇垣宅に運んだ鍋と同形だとわかりますね。これは昭和8年11月9日の京城日報に「成吉斯汗鍋を囲む/東拓羊肉試食會」という見出しで載った245行の記事に付いた写真と同じだ。記事によると、輸入緬羊60頭の飼育を始めた東洋拓殖という国策会社が開いた初の模擬店形式の試食会でね、左が京城日報嘱託で試食会の記事を書いた鎌田氏、右が試食会の全料理を作ったレストランを経営する海外拓殖社長井上巌二氏です。(18)
 (4)はその大型で、焜炉が洗面器サイズを通り越して洗濯盥、ベビーバスに近い大きさだ。これも東洋拓殖という国策会社の主催で初めて開かれた羊肉試食会の光景で、鎌田は「鍋はわざ/\奉天から取り寄せた由で(19)」(328ページ)と「羊」に書いてます。つまり満洲では、焼き面は隙間のある同形だけれど、焜炉の方は焼き面と同じような隙間のある籠型の焜炉と、公主嶺の講義で示したようなつるりとして隙間のない鍋型の焜炉と2種類の焜炉があったのですね。
 (4)も昭和8年11月13日に東洋拓殖が開いた羊肉試食会で、広い土間に3枚、同じ鍋を掛けている。京城日報によれば「軍部関係、新聞関係の諸氏数十名を加茂川山荘に招待、羊肉の試食会を催した、席上田淵氏は『緬羊の飼育奨励は食用肉の普及にあり』とて挨拶(20)」したとあります。このころ丸本一等主計正は第20師団経理部長として京城におり、緬羊や食糧関係の記事にちょいちょい名前が出てます。鎌田は記事も書く嘱託だったので、これらの写真と記事を転載しても京城日報はあれこれいわなかったのではないかな。

資料その8

 (1)
   

 (2)
  

 (3)
   

 (4)
    

  

参考文献
上記(11)の出典は昭和12年1月27日付朝日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (12)は同年1月28日付読売新聞朝刊7面、同、 (13)は同年1月31日付中外商業新報「緬羊政策縦横談/鎌田沢一郎氏」=神戸大学図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫、 (14)は昭和8年6月7日付京城日報朝刊3面=マイクロフィルム、 (15)は同年8月26日付同、同、 (16)は朝鮮総督府編「朝鮮」225号目次、昭和9年2月、朝鮮総督府=近デジ本、 (17)は昭和8年8月26日付京城日報朝刊3面〜同年9月7日付同朝刊5面=マイクロフィルム、 (18)と(19)は同年11月9日付同朝刊8面、同、 (20)は同年11月15日付同朝刊12面、同、 資料その8(1)は昭和12年1月28日付朝日新聞夕刊2面、同、 同(2)は同日付東京日日新聞夕刊2面、同、 同(3)と(4)は鎌田沢一郎著「羊」ページ番号なし、昭和9年7月、大阪屋号書店=原本

 時計を3年戻しますが、糧友会にとって昭和9年は記念すべき年だったのです。「顧れば本会が大正十四年の歳陸軍糧秣本廠内に創立せられてより第十年目を迎へ、翌大正元年紀元節の佳辰を卜して本誌を発刊してより本年五月号を以て第百号に達し、本会の基礎弥々堅実を加へ、本号にて第九巻を閉づるに到つた(21)」ことは嬉しいと糧友会専務理事石川半三郎が昭和9年12月号に「本会の一年回顧」を書きました。
 石川は9年の各種事業計画を列挙し、特に「糧友」第百号記念事業として「1糧友特輯号の編纂 2記念大会を開き特別講演会演芸映画会の開催 3論文記事小説等の募集 4食糧映画の作製 5糧友会功労者の表彰 6団体炊事用カード式献立票の編修及出版」を示し「以上の計画は概ね実施し得ました。」と書いています。他機関との共同事業として「1通俗食糧講演会の開催 2羊兎肉食其他の奨励普及(22)」があるけど「糧友」読者に限定した事業は見当たりません。
 「恒例に属する糧友会の事業」のうちの「小家畜の飼育を食糧問題の立場から既に奨励してゐる處でありますが、更に軍用被服資源として、又農村副業助成の意味をも含めまして、緬羊肉、家兎肉の普及の為に、之が食用の実際運動を為し講演会、料理講習会、試食会を東京大阪等に数回開催して相当の効果を挙げてゐます。(23)」と説明しています。
 ところが、突然ですね、昭和10年の4月号に「糧友第百號記念と/第十週年に際し/成吉斯汗鍋を謹呈」という見出しで鍋贈呈の予告記事が現れたのです。エープリルフールではないことがわかるように、特に資料その9にその記事を取り込みました。

資料その9

  

 本誌が昨年五月號を以つて第百號に達し且つ創立第十週年となつたので記念號及び記念會員大會を開催したが、糧友を百號読んで頂いた方、及び本會功労者に記念品を贈呈すべく考究中の處、満洲國獨立をも意味して
 家庭用成吉斯汗鍋 を特に製造してこれ等の方々に贈呈する事とし、漸く昨今出来上り三月中に発送する。之は羊肉を焼くのだが、他の肉でも魚でもよく、料理法もつけて謹呈する筈。

 私は10年の事業計画を見落としたかと、1月号から読み返したが、載っていない。ずーっと読んでいったら5月号に昭和10年度糧友会事業案の審議委員会が4月6日に開かれたとあったのですが、これは原案審議で、満洲出張から小野寺理事長が戻るのを待ち、6月19日に開いた審議委員会で正式に議決、8月号に掲載されたのでした。
 その「昭和拾年度糧友会事業計画」は9年と大差なくてね。「本会の趣旨達成と其発展企画に関する事業」で鍋贈呈に関係がありそうなのは11番目の「食糧に関する図書及特殊食糧品並に器具類の考案及宣伝頒布、特殊食糧品使用法の野外実習映画(十六ミリ)作製(24)」の器具類の考案しかない。これに相当する9年の事業は10番目の「食糧に関する図書、及特殊食糧並器具類の考案及頒布」(25)」です。
 特殊食糧が羊肉、器具類の考案がジンギスカン鍋の製造、頒布が愛読者へ謹呈といえなくもありませんが、要するに「糧友」の誌面だけでは鍋プレゼントに到る経緯は全くわからん。創刊号から足かけ9年も読んでくれた継続読者を喜ばせるビッグ・サプライズとしてこっそり研究し、製造したことだけは確かです。
 「糧友」5月号は1ページを割いて資料その10(1)にした「成吉思汗鍋の使用法」を掲載しました。挿絵は四角い七輪に鍋を掛けていますが、写真は丸い植木鉢のような七輪です。鍋を贈られる愛読者でジンギスカンを食べたことのある人は稀だろうし、ましてや鍋を持っている家庭なんかなかったから、こんな隙間だらけでも鍋かと変に思ったでしょうね。ジンギスカン料理が食べられる支那料理店としては、東京でさえ濱町濱の家と盛京亭と春秋園ぐらいしか知られていなかったのですから、伝説の名前の由来から詳しく説明した。そうすりゃありがたみも増すってもんです。
 資料その10(2)は別ページのお知らせ記事、同(3)の「編輯を終へて」と(4)の「一年を回顧する」は、見出しは違うけれど、どちらもいわゆる編集後記の中の鍋関係の項です。

資料その10

(1)
   


糧友会  糧友百号御継続のお方に贈呈する
第十周   成吉思汗鍋の使用法
年記念           糧友会

 成吉思汗鍋は、彼の蒙古の英雄成吉思汗(成吉斯汗とも書く)が大軍を率ひて満洲の野を馳駆した時、暮夜沙漠の露営舎の前で、部下の將士と共に高粱酒の杯を挙げながら羊肉を賞味したといふのが、その名の出所で、現今でも蒙古でこの料理に舌鼓を打ち、また北京城北門前の名物料理です。
 この鍋は野外で十数人よつて食べられる大きなものですから、これを家庭の食卓に用ひられるやう型を小さくして特製したのが、今回本会十周年記念として贈呈する鍋です。

  材料(五人前分)羊肉(肩又股肉)約百五十匁
  醤油五勺、食塩少量、日本酒少量、
  洒葱盃一杯、七味唐辛子少量、
  胡麻油一勺

 準備 丼の中に醤油、日本酒、七味唐辛子及葉葱を木口切りにして、布巾に包んでよく揉み、其のまゝ水で洒らし、更に其の水を絞つたものを入れて薬味を作り、其の中に鋤き焼肉のやうに薄く切つた、羊肉を約十分間浸して置きます。
 方法 羊肉を浸して居る間に、一方では七輪に炭火をおこして食卓に載せ、火が落ちついて來た時成吉思鍋をかけて、すつかり熱くなつてから肉が焦げつかぬやうに、其の上に胡麻油を塗つて、箸で肉を廣げつゝ、鍋に載せ肉の周囲の縁が色褪せて來たら、裏返して焼きあげ、すぐ其のまゝ熱いところを召し上ります。
 注意 焼き肉を度々裏返して、焼くと切角美味しい汁が、火の中に落ちて、味が低下します。附け焼きのやうに度々浸け汁をかける事も禁物です。浸け汁が、甘いやうでしたら、食塩で加減いたします。
 又浸け汁の中に、味淋や砂糖を入れますと反つて味が濃くなりますから、羊肉のお料理には砂糖を用ひない方が、悧巧なやり方です。これは一名烤羊肉ともいひ少し凝て参りますと炭火の中に川楊又は青松葉などを時々さし入れて、その煙で肉を燻しますと一段の風味を添、又胡麻油の代りに小蝦仁油(チアーシンユ)を塗りますと、本來の支那料理となる訳です。
 羊肉の代りに、蝦、烏賊、蛤などが最も適し、貝類、鶏肉、兎肉、白味の魚、葱などは之に次ぎ、其他の肉、魚でもこの方法で美味しく召し上がれます。
(糧友会編「糧友」10巻5号77ページ、昭和10年5月、糧友会)


(2)糧友百号記念 成吉思汗鍋贈呈

 糧友の創刊號より百號迄の継続会員並に本会功労者に成吉思汗鍋を謹呈する事は既に報じた處であるが、何分特に製造せし爲遅延し、先號に三月中送付の處と報じたが四月中旬に発送した。別項にその調理使用法を掲載した。


(3)編輯を終へて

 百號記念として創刊から百号迄継続会員読者に、成吉思汗鍋を謹呈。
 満州国独立の意味も含め、二百号、三百号迄もくさらぬものといふ念願から鋳物にした次第です。鍋を囲んで一家団欒、皆様の健康を祈る。
   ◇
 満州国皇帝陛下、御来朝を祝して、東京全市に満洲パンデーが催されて頗る盛況、之は全市パン連合会の主催、本会主唱指導の任に当り、短時間の間に業界見事な統制。お陰で民衆は腹の底から日満食糧ブロックを認識、所謂「味を占めた」催しでした。<略>


(4)一年を回顧する

 <略>
   ×
 昨年の五月は百号、大正十五年十二月廿五日創立より十周年両記念に、第一号より百号迄の連続会員に記念品を贈るべく計画し、本年家庭用成吉思汗鍋を百号会員及功労者へ謹呈した。
   ×
 <略>

  

参考文献
上記(21)と(22)と(23)の出典は糧友会編「糧友」9巻12号122ページ、「糧友時報 十二月号」より、昭和9年12月、糧友会=原本、 資料その9は同10巻4号142ページ、昭和10年4月、糧友会=原本、 (24)は同10巻8号141ページ、「糧友時報 八月号」より、昭和10年8月、糧友会=原本、 (25)は同9巻12号122ページ、「糧友時報 十二月号」より、昭和9年12月、糧友会=原本、 資料その10(1)は同10巻5号77ページ、「成吉思汗鍋の使用法」より、昭和10年5月、糧友会=原本、 同(2)同141ページ、「糧友時報 五月号」より、同、 同(3)は同143ページ、同、 同(4)は同12号123ページ、昭和10年12月、糧友会=原本

 昭和10年4月、糧友会はようやく愛読者へのジンギスカン鍋の発送を始め、贈呈を実現させますが、その前、1月10日に陸軍大臣林銑十郎が糧秣本廠視察にきて、糧秣本廠が開発した軍用食品を試食したという記事と、閣下たちが何か口にしている写真が2月号に載っています。資料その11がそれですが、ジンギスカンも出している。ジンギスカンは糧友会の縄張りでないかと思うのですが、会が発足して10年にもなると、もう糧友会は間借りの外郭団体の域を超えて糧秣本廠と一心同体になっていたのですなあ。
 それでね、糧友会の鍋贈呈計画は林陸相の一言で拡大されたという仮説を思いついたんですよ。ジンギスカンを試食した林さん、これは羊肉のいい利用法だ。この鍋を全師団の将校集会所に10枚ぐらいずつ配ったらどうじゃと発言したと考えたのです。命令ではないが、陸軍大臣の提案ですからね、重みがあります。
 根拠として「私は世界大戦の起る一年前に渡欧し、戦争突発当時ドイツに居て、親しく戦争の起る機運、灼熱した当時の状況を目撃した。恰もオーストリヤ、ハンガリー、ブルガリヤ、トルコといふ諸国を廻つて一九一四年五月独逸に帰つて來ると直に戦争が突発した。それから英国にニケ年居てフランスに行き次で露国に赴いて聯合国側を悉く経廻つたといふ関係上、三年間戦争見学の機会に恵まれた。(26)」と講演したように欧州通の勉強家だったそうだから、イギリスの羊毛禁輸措置と国産羊毛の増産につながる羊肉消費の必要性も知っていたはずです。
 本場のシシカバブーなんかも食べただろうから、いい仮説だと思ったのですが、あにはらんや、林は「彼の大尉時代、即ち陸大在学中」から、元陸軍薬剤監、石塚左玄が唱えた食養保生法を信じ実行していた(27)と知って、がっくりきましたね。「風俗画報」にわかりやすい石塚の食養道歌が載っていたので、肉関係の二、三首を紹介すると「○臼歯持つ人は粒食ふ動物よ肉や野菜は心して食へ(人類は穀食動物なり)」、「○肉食へは野菜を好かぬ人となり薬/\とたのむ可笑さ(しゝ食つた報い)」、「 ○牛乳飲で漬物嫌て肉好かばひよろ高くして顔は小さし(ふぐ汁や鯛もあるのに無分別)(28)」 という具合。林の髭さん、ヨーロッパで何を食べていたのか不思議ですよね。
 林は目の前で焼く羊肉を一切れも食べなかったでしょうが、欧州留学中、彼は特に余暇を割いてバルカン方面の旅行をして回教文化一般の研究も視察して「第一次世界大戦時回教諸国の動静」という分厚い研究ノートを持っていたぐらいで、緬羊と回教徒との関係は熟知していた。首相を辞めてからですが、国防政策に役立てる狙いもあり、回教圈民族との親善、貿易などを推進する大日本回教協会の初代会長を引き受け、東条陸相に予算増額の陳情までした(29)と伝えられています。
 林は自分の食生活はさておき、回教圏の諸民族のと交流に備えるという意味でも、国内での羊肉食普及は重要と認め、せっかく糧友会が鍋を開発したのだから糧友会の功労者と愛読者だけなんてケチなことをいわず、できるだけ広く配布すべきだと発言したと思われます。それで10年の事業計画案にない鍋贈呈という案件が急に持ち上がり、大臣交際費からなにがしか補助して鍋を増産させたこともあり得るのです。
 それからね、資料その11の写真を見ていて、はっと気付いた。大臣の前にあるジンギスカンの鍋と焜炉は、5月号の使用法説明の鍋写真と同じだ、とね。資料その10の写真と見比べなさい。光った金属盆に焜炉が乗っていて、逆光でできた影の形と位置、焜炉の右手前になにか白い固まりが置いてある。通気口の形と位置、右奥に立っている輪はよく見えませんが、まったく同じでしょう。何か食べている大臣を写した写真から鍋と焜炉を切り抜き、背景の白塗りしたせいで、使用法の鍋写真はピンボケに見えちゃった。改めて見直すと糧友会の特製鍋はぺたっとした挿絵とはちょっと違い、こんもりした焼き面で、直径は30センチはありそうな大型だったのですね。

資料その11

 

最近研究の糧秣及び野戦炊事具を
   林陸相糧秣本廠親察
      新研究品を試食さる

 林陸相は一月十日午前十時、平手経理局長、川岸少将、永田軍務局長、工藤少將、市川衣糧課長、有末秘書官、川島主計正を從へて陸軍糧秣本廠に來廠、廠業務の概要特に皇軍給養に關する研究事項に就て約三時間に亙り親敷視察された。
 八年振りで陸軍大臣を迎へる本廠は非常な喜びと緊張裡に諸般の準備を整へ、當日は本廠長から業務の概要を報告、清水審査部長から研究業務の概要を實物標本又は模型に就て説明申上げ、引続き雨中構内の巡視を願ひ、研究業務の現状、給養器具機械の使用状況或は試験工場、搗精工場、エキス工場等の作業状況に就いて阿久津主計其他担當係官から説明申上げ、其後左記の如き本廠研究品より成る野戦式料理の御試食を願つた。
 尚當日は、職員一同冷雨の中を玄開前に整列して直属長官たる陸相を迎送し、糧友会よりは本廠研究品たる新軍用糧食類を参考のため謹呈した。口絵写真参照

陸軍大臣閣下
御試食献立

昭和十年一月十日
    陸軍糧秣本廠

一、主食 米麦飯(電気炊事)
二、副食
 お吸物(玄米もやし、乾燥菠薐草、椎茸)
 兎肉酢煑
 羊肉揚
 羊肉成吉思汗鍋
 兎腸詰サラダ
 豚汁(携帯味噌汁、乾燥野菜使用)(電氣炊事)
三、デザート
 携帯甘酒(膨脹米入リ)
 罐詰みかん(追送品)
 香のもの(〃)
 圧搾茶(〃)
四、随意食
 パン三種(大豆パン、満洲パン、栄養バン)
 兎罐詰
 魚罐詰
 乾燥野菜(各種)
五、其他軍用食品
 固形スープ
 携帯甘酒
 乾パン
 小型乾パン
 携帯牛肉罐詰
 軍粮精
 耐寒食
 榮養源
 熱量食
 航空食(四種)
 居眠り防止菓子

 陸軍大臣が視察したのは正月早々、1月10日であり、この日程が決まったのは前年中でしょう。そうと決まれば自分たちが設計した鍋で、ぜひジンギスカンを試食してもらおうと、視察日までに何枚か確保したいと川口あたりの鋳物工場をせっついたかも知れません。読者へプレゼントする鍋の一部は9年末には出来上がっていたのです。
 この鍋こそ、大連や満洲を除いた国内、内地産第1号のジンギスカン鍋なのです。濱町濱の家や昭和6年に銀座宝来で使った鍋など、ここまでに見せた鍋は皆、いうなれば輸入鍋、舶来品ですからね。私が最も強調したいことは、資料その10の使用法にある焼き面の大きさの説明です。説明の上から5行目、本場北京などでは「野外で十数人よつて食べられる大きなもの」なんだが、日本の「家庭の食卓に用ひられるやう型を小さくして特製した」という違いです。
 いいですか、当時は日本の家庭には必ず炊事用の七輪があった。その七輪にちょうどいいサイズに縮めたのです。以来、国産の家庭向け鍋は、この糧友会の特製鍋が標準型になったのです。七輪で使えればガス焜炉、電熱器でも使えますからね。
 それからね、いまの鍋と全く異なるのは、周環と私は呼ぶのだが、焼き面の周辺がつるんとしていて、肉から出た脂をせき止めたりも野菜が転げ落ちないようにする平面部とそれを囲む壁、両者を合わせた縁がないことです。舶来鍋を手本にしたこともあり、挿絵でわかるように端がなだらかな曲面のままで、反り返っていませんね。だから肉からの脂は焼き面の隙間から火の中に落ちるか、焼き面を伝わって周辺からぼたぼた滴るよね。
 でも鍋は強火で熱せられてるから、置いた肉はすぐ焼き面に張り付いて転げ落ちない。支那や満洲でやっていないこと、つまり芋やモヤシといった野菜を一緒に焼くなんてことは、糧友会役員でもある糧秣本廠の主計将校たちにすれば、思いも寄らぬことです。肉が焼ければよかった。その流れをくむ山田喜平さんの本にしても、輪切り玉葱、薄切り南瓜も焼くように勧めてますか。書いてないですよね。
 ひたすら羊肉を焼いて酒の肴か、ご飯のおかずにする。満田レシピでは材料に葱が入っているけど、漬け汁に使うだけで焼いて食べるわけではない。鍋羊肉と書いていたころのジンギスカンは肉だけ、野菜無視だったのです。正陽楼では、香菜という菜っ葉を焼いて食べることもあるそうですが、なんせあちらの鍋は広くて勾配が緩いから、こぼれ落ちなかったと思いますね。
 私にいわせれば、野菜も一緒に焼くようになってからね、長年慣れ親しんだ鋤焼き鍋と合体したような独特の形になっていった。鍋の周環、脂溜まりが深くなり、同時に鍋の縁の高い鍋が作られたのです。肉ばかり食べるのは体に良くないといわれるし、家族団らんで奥さんや子供たちも食べるには、肉ばかり焼くと家計に響き過ぎる。それで縁の付いた鍋を使ってだ、沢山食べたような気分にするためといっては悪いかな、ヘルシーな野菜の転落防止を図りつつ、焼き面から流れて周環にたまる脂っこい肉汁で味付けして食べる。または茹でるなど軽く前処理してある野菜は、焼けたらすぐたれを付けて食べるなり、肉汁を付けるなり好みに委せるようになったと思いますね。生肉は勿論だが、漬け汁に浸した肉にしても、その味が感じられないとか薄ければ、野菜と同じように、たれを付けて食べる。最近ではなんでもありで、テレビのなんとか県民ショーで道産子の正しい食べ方の締めはラーメンと實演した方々には絶句しましたね。ジンパ学の研究対象は昭和までと決めておかないと切りがない。
 それから使用法を見て下さい。前書きはさておき、砂糖抜きの満田さんのたれの作り方に似てます。満田さんが教えた通り書いたのかも知れません。また、羊肉は臭いから嫌とか、羊肉も扱う精肉店がなくて買えない読者を想定して「蝦、烏賊、蛤などが最も適し、貝類、鶏肉、兎肉、白味の魚、葱などは之に次ぎ、其他の肉、魚でも」OKと付け足したところが目新しい。お仕舞いにやっと葱の名前が出てきます。明治の牛鍋では煮るのは肉と葱だけだったことを思い出して、付け足したのかも知れません。
 糧友会大阪支部嘱託の太田要次も昭和11年の「糧友」2月号に「家庭でするにはこんろに糧友会特製の家庭成吉思汗鍋か、又は線の太い金網をのせ少量の油で拭いてその上に魚貝鳥獣肉或は野菜をはりつけて焙きながら程よい割下につけて食べれば簡単に出来ます。(30)」と、羊肉にこだわらないジンギスカンを勧めています。
 これは吉田誠一も軌を一にしてます。なんせ彼は模倣が得意だからね。料理の友社開発の鍋発売に当たり「料理法も緬羊のみに留めず、如何なる地方でも出来得る様に研究致しまして」と、牛肉から鯨肉まで、鶏もつも食べるジンギスカン料理を書いた(31)のです。つまり特製鍋は羊肉専門ではない、何でも焼けるのだよということです。別の資料で見てもらいますがね、ご丁寧にそれぞれの肉を皿盛りした写真もつけた。さも我が料理の友の鍋なら何でも焼けるとね。
 渡辺さんは、こういう勧めを「成吉思汗料理の,“羊肉という食材への縛り”からの逸脱例(32)」と呼んでいますがね、私はそれよりも羊肉縛りでいきたくても縛れないくらい縁遠い食材だったため、羊肉でなくてもいいよと書かざるを得なかったとみますね。「栄養と料理」が創刊したのは昭和10年ですが、それから敗戦までの9年分でも羊肉料理が1品もないことからも、普通の精肉店ではお目にかかれない肉だったことがわかるでしょう。
 「糧友」は毎号団体炊事献立表と家庭献立を載せていますが、昭和11年の家庭献立に羊肉料理は1品もない。献立に使った肉を数えたデータのスライドを見て下さい。?肉はただ肉類と書いたり、何肉がわからないカレーライスなどね。薩摩汁は豚肉、チキンライスは鶏肉と見なしました。
 1月から3月は兎肉がよく使われていますが、この3カ月は糧友会が作った献立なので、兎肉を意識的に使うようにしたのでしょう。それなら兎肉のジンギスカンがあってもいいのにね。4月以降は女性の料理研究家が作ったものです。6月は単に挽肉という書き方なので、一応豚牛合挽にしてありますが、鶏肉が0なので鶏肉だけの挽肉も含むかも知れません。また10月は大人3人子供2人の家庭で燃料代、おやつ代を入れて50円でまかなう想定でと編集部が注文したため牛肉が敬遠されています。資料には入れていませんが、講義録ではどういう料理で使ったかがわかるリストへリンクさせてありますから「家庭料理の献立」 をクリックしなさい。



   鶏 豚 牛 兎 豚 兎 鶏 ? ハ 鶏 牛 小 べ 鶏 鶏 豚 ソコ
   肉 肉 肉 肉 牛 又 も 肉 ム 又 又 鳥 | 又 又 肝 ||
           合 は つ     は は   コ は は 臓 セン
           挽 豚       牛 鶏   ン 豚 兎   ジビ
1月 2 1 2 6   1   1         1       1|
2月 3 4 2 5   1                   1  フ
3月 3 1 3 2   1   2             1
4月 2 5 2   1   1 2
5月 3 10 1       1 1 1
6月   8 1   6 1 2   1         1   1  1
7月 3 10 2   1   2 3 2
8月 1 9 3         2 1       1
9月 4 1 7             1 1 1
10月 2 7         2 2
11月 5 5 4   2
12月 8 7 1 4 1   1 1 1


 ところで成吉思汗鍋なんて、思いもよらない記念品をもらった読者は大喜びして「糧友」編集部に礼状を出した。腐らないものと願って鋳物にしたというなら、そのころですと、常識的には置物、灰皿、文鎮あたりが無難だと思いますが、食糧問題、なかでも羊肉食と兎肉食普及に取り組む糧友会らしくジンギスカン鍋にしたのは、アイデアとしては良かった。
 資料その12はそうした礼状集です。このとき大内は陸軍省主計課長でしたが、おおまかにいえば、三井と杉浦は水産、柴田は料理、逸見は缶詰、木村と門野は実業界の各代表からの礼状ということになります。柴田は「俄に調理の用に供するをためらう逸品永く重寳と可致」と書いてますね。いま風にいうなら、インテリアにしたいくらいということですが、羊肉がその辺では買えないからという皮肉にも取れます。
 ちょっと笑い声が聞こえたようだが、札幌のある焼肉店では、ジン鍋を壁にたくさん取り付け、後ろに電灯を置いて間接照明にしているそうだから、何もおかしくない。八戸物産協会が開発した「南部せんべい手焼きセット」のパンフレットには「伝統ある南部鉄器の焼き器は室内インテリアとしてもお使いいただけます」と書いてある。氷挟みの親類みたいなあれを飾ったら、重みで壁がガバッとはがれそうなのでやってませんが、私は2セット持っておりますよ。

資料その12

(1)会員便り

 今般貴會創立以來満十ケ年と相成、食糧報國に鋭意邁進せられ今や我國食糧界の重機關として斯界の囑望か聚められ基礎愈々確賓を加ふるに至リたること衷心慶祝に不堪候、就ては今回第十週年記念として成吉斯汗鍋御贈に預り誠に難有受納仕候
《大内球三郎》
  × ×
 今回創立第十週年記念に成吉斯汗鍋御恵贈に預り實に好個の記念且つ御趣向難有拝受致候
《三井米松》
  × ×
 貴重な成吉斯汗鍋を拝受難有奉存候その形体の妙にして巌丈成吉斯汗を象して詩趣あリ、俄に調理の用に供するをためらう逸品永く重寳と可致厚く御礼申上候
《柴田曜之助》
  × ×
 御自製の成吉斯汗鍋の御恵贈を忝うし、誠に難有拝受仕候御目讃を超えて貴會十年の業績は斯界に輝き食糧の眞価をさへ弁ぜざリし日本が今や世界的に食糧に関する指導的位置にさへ就かんとする現状は、其の功績の大半が貴會の熱誠なろ研究實施の努力に帰せらるべきものと存居候
《逸見斧吉》


(2)会員便り
  × ×
成吉思汗鍋御恵送に接し難有拝受仕候早速使用致候處誠に工合よく殊に其の珍らしき風変りの型に子供達の好奇心かそゝり思はず食も進み一家談笑裡に使用致居候。
《杉浦保吉》
  × ×
御自製成吉汗鍋御恵贈を蒙リ難有拝受仕候、老生曾て大正十年の昔北京郊外に此鍋を囲みて羊肉を試食致せし事有之其當時を偲び申候。
《木村久壽彌太》
  × ×
此度の珍らしき成吉斯汗鍋御恵送に接し正に拝受奉謝仕候。
《門野重九郎》
(成吉斯汗鍋礼状以上の外三百余通略)

  

参考文献
上記(26)の出典は糧友会編「糧友」9巻8号2ページ、林銑十郎「戦時に於ける十五の問題」より、昭和9年8月、糧友会=館内限定近デジ本、 (27)と(29)は宮村三郎著「林銑十郎(上)」548ページ、昭和47年1月、原書房=原本、 (28)は東陽堂編「風俗画報」334号32ページ、「衛生門」より、明治39年2月、東陽堂=館内限定近デジ本、 資料その11は糧友会編「糧友」10巻2号139ページ、昭和10年2月、糧友会=原本、 (30)は同11巻2号80ページ、太田要次「温くて明朗な鍋物料理」より、昭和11年2月、糧友会=原本、 (31)は料理の友社編「料理の友」25巻2号16?ページ、昭和12年2月、料理の友社=原本、 (32)は養賢堂編「畜産の研究」63巻3号391?ページ、渡辺隆宏「成吉思汗料理考(1) ―『支那料理』としての成吉思汗料理―」より、平成9年3月、養賢堂=原本、 資料その12(1)は糧友会編「糧友」10巻6号142ページ、昭和10年6月、糧友会=原本、 同(2)は同7号158ページ、昭和10年7月、糧友会=原本、

 ところで、糧友会は何枚ぐらい鍋を配ったのか、また、要した経費を考えてみましょう。まず枚数だが「読者便り」に300通余の礼状は省略したとあるから、下限は300枚とみてよいでしょう。「糧友十年(一) 『糧友』百号回顧」という記事に「皇紀二千八百八十六年(大正十五年即ち昭和元年)の紀元節の佳辰にいよ/\本誌が創刊せられた。陸軍糧秣本廠研究科の一室より初刷三千部の糧友を発送した時は如何に主任者の喜びが大であつた事か。(33)」とあるから、当然上限は3000枚ですね。そこで資料その13を見る。この9年というのは大正9年です。
 また資料その4の銀座「宝来レストラン」の羊肉料理の「試食用として糧友会員及関係方面へ『羊肉料理半額割引券』を三千余枚配附した、(34)」という記述もあり、3000は無意味な数字ではないでしょう。

資料その13

  第三期 糧友会時代(前期)

 通信指導の必要 <略>
 糧友の生誕  そこで、九年末既に「糧食改善参考資料」の月刊が計画され(記者註、糧秣廠に於て)各師團から九百余部の申込があつた。然し引続きの巡回出張と、彼是事情の爲再三の著手も實現に至らず、大震火災で糧秣廠も焼けたが、通信指導の必要は増して、十四年経理部長會議の際経理局長指示事項ともなつた。(二)
 そこで軍隊炊事改善に熱心なる「M、S、I、K、K、」の諸氏が十四年十二月十五日に『糧友會』の結成を決議し(三)、上司の承認を受けて通信指導の爲、雑誌発行の準備を進めた。
 而して同月廿八日には、早くも「広く團体給養業務關係者に食糧知識を普及し給養の改善に資する爲、食糧雑誌発刊の運び中にある旨、時の深澤陸軍糧秣本廠長より三井陸軍省経理局長へ報告(四)」翌十五年二月、建國紀元の佳節に、右の食糧雑誌は「糧友」と名づけられて、糧秣廠内糧友會 より発刊された。
       (一)(二)丸本、「糧友生まれるまでと今後」糧友第一巻第一號
       (三)(四)糧友會「糧友十年」糧友第九巻第五號
 「糧友」による通信指導計画<略>

 糧秣本廠員が各師団に主張して献立や炊事方法の改善講習会を開いたりしていたが、もっと効果を上げるため通信指導、つまり月刊「糧食改善参考資料」を通じて通信教育もやる計画を立てた。大正9年の時点でも、各師団からの申込みが900を超えた。有料でも主計経費で払うんだからと気安く申し込んだとしても、この希望者は「糧友」創刊号から継続講読する可能性は大きいでしょう。
 食文化研究者、安原美帆氏の「雑誌『糧友』にみる兵食と一般家庭の食との関連について」によると「購読者は、創刊の当初は全て団体炊事の関係者である。これは『糧友』の創刊に先がけて陸海軍をはじめ衛戍病院及び学校に書簡で申し込みを募ったためである。その内訳ついてはわからない。(35)」そうです。
 しかしね、安原さんは私よりすごい現場主義者といっては悪いかな、わからないといいながらも「糧友」1巻2号から14巻12号まで77回掲載された新規加入者名簿の人数を数えたら、延べ1万800件を超えた(36)というのです。思わず最敬礼しましたね。人数でなく延べ件数で示した理由は、新規のみの掲載なので継続の有無がわからない。つまり、いったん講読をやめ、また講読した場合も新規とみなしているかも知れないということと、掲載ぺージが1巻2号など4回を除いて、1ページ以下で「加入者を加入時期に対応して掲載しきれず次回に持ち越すこともあったため(37)」です。
 それで私は考えた。「糧友」には、陸軍糧秣本廠出入りの業者からの広告が沢山載っている。どれかの号には16ページの増ページは支援の賜なんて書いてあった。こうして積み立てた金を一挙に吐き出して鍋贈呈に使ったに違いないが、糧友会の予算については一切書かれていない。
 2年後の昭和12年「料理の友」社が売り出した鍋は1枚1円、送料が内地22銭、鮮満65銭です。糧友会は金儲けしたいわけではない。鍋の製造価格が80銭なら、外地読者はそうないとみて、送料込み1枚平均1円20銭ぐらいで贈呈できるだろう。1000枚で1200円、1500枚で1800円を要するが「糧友」1号発行するたびに18円ずつ純益を積み立てていたら実現出来る。「糧友」は送料込みで1年分前納3円だから前納読者6人分相当、これぐらいなら、なんとかなりそうだと思うでしょう。
 安原氏は「糧友」の配付方法について、こう書いています。「<略>なお、刊行の損益については、商業雑誌ほど重要とはしていなかったといえる。それは先の納金と併せて、創刊号の表紙に示されている試算からもうかがえる。その試算とは、陸軍の炊事改善が向上し、一日一人一厘の節約が可能となれば、全軍で一年間に八万円の経費節減になるというものである。それが実現できるのであれば、『糧友』を後述の創刊時の部数で一年間無料配付したとしても、一万円余りであり、軍事費においては投資の許す範囲の事業であったと考えられる。(38)」と。後述の部数とは創刊号の3000部を指しています。
 また昭和11年3月号の「編輯あとがき」に「先月読者(年極め会員にかぎる)奉仕のためにとじ表紙をつくり、雑誌と共に発送しようと思つたのだが郵便法規の関係でそれが出来なかつた。それでとじ表紙は別送する事にした。もう全員にゆき渡つてゐるはずです。(39)」と書いております。
 もし綴じ表紙の送料が本体と同額なら1銭5厘かかりますから、年決め会員が3000人いたら送料だけで45円、その印刷製本費はわかりませんが、送料と同額でも45円、封筒代などで100円を超すと思いますが、綴じ表紙というお年玉にそれぐらいの臨時支出を許した。そういう太っ腹な経理なら、10年積み立てでなくても鍋贈呈に2000円ぐらいポンと支出できたでしょう。
 「糧友」の10年4月号に山本洋一氏が「金属製食器具と其腐食」、鈴木猛男氏が「食器具と熱」と2本の記事が載っています。題名通りの内容で、鈴木氏は「即ちビフテキの様なものを作る時に、肉を直接焼けたフライ鍋にあてるとついてとれなくなる。之を防ぐ為に普通フライ鍋に薄く油を敷いて用ひて居る。之は油の薄い膜が器物に密着して熱の伝導を非常に妨げて温度を制限し、肉が器物に附着することを防ぐのである。(40)」と油の役割を説明した箇所はあります。
 でも、私はそうはみないんだな。糧友会は初めてジンギスカン鍋を作るに当たり、安く上げるために、鉄兜のように鉄板をプレスした鍋ではどうかと科学者の意見を求め、やはり鋳物がよろしかろうと聞かされ、なるほど、序でですがと原稿を発注したとね。
 鍋は9年末までに相当数できていた。ところが視察にきた林陸相が省内に配る枚数をふやすことを望んだ。陸軍大臣のご意向です、糧友会はすぐ手持ち分を回した。それで追加製造しなければならなくなり、読者への発送が遅れた。いっときますが、いまの話は4月号の公表より先に鍋が使われてた事実と、必然性のない食器具記事の掲載から立てた仮説ですからね。
 安原さんに笑われるでしょうが、いまいったような経理方針と遅延仮説から、私は1000枚で間に合うはずだったのが、500枚ぐらい追加することになり、しめて糧友会は余裕を持たせて1500枚を作り、贈呈したとするこれまた根拠無しの作業仮説を唱えることにしたのです。いや、こういう記録があるぞと、私の1500枚説を否定してくれる方の出現を期待してのことでもあります。君たちが出すレポートで優れた見方があったら、次年度からの講義で紹介しますから頑張ってみて下さい。
  

参考文献
上記(33)の出典は糧友会編「糧友」9巻5号241ページ、昭和9年5月、糧友会=原本、 (34)は同6巻2号126ページ、「糧友時報 二月号」より、昭和6年2月、同、 資料その13は同10巻7号36ページ、糧友会「団体炊事の発達(四)」より、昭和10年7月、同、 (35)と(36)と(37)と(38)は日本風俗史学会編「風俗史学」22号52ページ、平成15年1月、日本風俗史学会=原本、 (39)は糧友会編「糧友」11巻3号143ページ、昭和11年3月、糧友会=原本、(40)は同10巻4号32ページ、昭和10年7月、同

 枚数はそれぐらいにして、今度は形です。形ではちょっした発見がありました。昭和11年1月号に糧友会の鍋の写真があったのです。それも糧友会の羊肉料理講習会に必ずといっていいほど付き合い、会場での羊肉廉売を引き受けた松井商店の年賀広告の中でした。それが資料その14です。松井さん、頂いた鍋を見せ「糧友会記念御贈呈の成吉思汗鍋を御利用して」とうちのマトンを食べてねとやったわけ。さっきいったように松井平五郎さんの別荘は、功労者としてこの鍋を贈られるような軍関係者が出入りして、息子の初太郎さんが試作した何種類かの鍋でジンギスカンを賞味していたのですから、ここで試作した1枚が糧友会の鍋になったのかも知れないのです。

資料その14

    

 使用法の写真と比べると、かなり平べったく見えますよね。向かって左側をもっと拡大してみたのが、資料その15です。縁のあたりは資料その10の挿絵のように焼き面の端がすとんと切れ落ちておらず、ほんの少し平らな部分が認められます。箪笥の引き手みたいな丸い取っ手は絵のようにだらんと下がらない。焼き面の端にあるため平らな面の端の高さより下がらず、鍋を持つときは真上に立ててつかみ、仕舞うときは焼き面側に倒しておくのですね。ロストル型の鍋が手近にないため、定義出来るのかどうかわからないのですが、中央部の隙間の間隔と棒になっている部分の幅の比率が1対1に近いように見えますね。

資料その15

  

 もう少し高い位置から撮影したのが、スライドの参考写真です。こうすると、焼き面の盛り上がりが高く感じられる。棒になっている部分の端が脂落としの隙間に向かって丸くなっていて、いかにも丸棒を並べたように見えます。左手前のハイライト部分で焼き面から縁の端までがなだらかなのがよくわかるでしょう。脂落としの隙間が16あることがわかりますかね。はい、よく見ましたね。

参考写真

    

 ここまで私が延々と糧友会の記念鍋について説明したのは、今は幻になった鍋に対するレクイエムのつもりでした。この講義録の目次のページで示したように、昭和10年に製造された鍋として小さいながらも鍋の絵を付け、こんな鍋の所在または所有者を知らせてと講義録を読みにきた方々にお願いしてきましたが、10年を超えても梨のつぶてでね。完全に失われてしまったと諦めていたのです。
 ところがギッチョン―あっ、つい学生時代に使った事態急転の前置き語をいっちゃったが、青天の霹靂、私にとっては驚天動地とでも言い換えますか、糧友会の鍋が見付かったのです。それも、なんと2枚も保存されていたのです。まず資料その16で、ジンパ学にとっては国宝というべきお姿、笑っちゃいかん、2枚並べたところを斜め上から見てもらいましょう。
 この前のスライド、参考写真の鍋は、實はこの鍋だったのですね。隙間の数といい、取っ手の形といい、金色のプレートの有無を除けば全く同じでしょう。

資料その16

  

 私はいつかの講義でも話したと思うが、インターネットでいろいろ検索します。犬も歩けば棒に当たる、何もしなければ何も見付からないという意味で、私は犬棒と呼んでいますが、複数のキーワードで検索するのです。ジンギスカンと1語だけ入れてご覧、平成29年10月現在、グーグルなら919万件、ビングなら1940万件もあると出る。ほとんど料理店の案内か羊肉などの通信販売のページだ。
 そこでジンギスカンと由来の2語を組み合わせると、グーグル16万6000件、ビング106万件に減り、由来が探しやすくなります。画像でも件数はわかりませんが、同じように犬棒が利き、画像がかなり変わります。
 このたびの糧友会の鍋発見の端緒は画像の犬棒でした。あるホームページのジンパの鍋を見て、ピンときましたね。滅多にないロストル型なんだが、惜しむらくは10数年前の写真だった。だから廃棄されたかも知れないが「求めよ、さらば与えられん」です。そのホームページの管理者の方、例によってAさんとしますが「初めまして」とメールで有無をお尋ねしましたね。
 ところが、その鍋は都内某区のさる方、匿名希望なのでBさんとしますが、持ち主はBさんであり、管理者AさんがBさんのジンパに招かれたときの写真だった。でもAさんは親切な方でね、私の願いをBさんに取り次いで下さった。
 それでBさん宅のジンパにお招きを受け、撮影と計測をした上、今回は札幌の片岡精肉店から取り寄せた冷凍マトンを凍ったままこの国宝鍋に乗せて焼き、大根おろしをたっぷり入れ、酸味もあるB家秘伝のタレでご馳走になってきました。北海道の味を知ってもらおうと、私はベルとソラチのタレ2本を持参したけど片岡の自家製タレもあり、ほとんど出番はなかった。
 Bさんのお母さんからは鍋にまつわる思い出を伺い、鍋が2枚あるのは、当時の陸軍の最高首脳部に身内が2人いたからだとわかりました。国内では初めて作られた鍋を初めて使った家庭ということになるので、なるべく詳しいレシピを講義録に残したいとお願いしたところ、お母さんは「永年使っていたレシピを孫がなくしたようなので、うろ覚えですが」といわれたが、どうしてどうして、しっかり記憶されていた。
 お母さんによるとだね、羊肉の漬け汁とタレは分けて作った。漬け汁は醤油2に日本酒1、おろし生姜をたっぷり入れた。その漬け汁の中に肉を2時間くらい漬けた。タレは醤油4に 酢1の割合とし「それに大根おろしをいっぱい入れていだきました」といわれた。だから「大根おろしをいっぱい入れ」るために、おろし金を4、5枚用意して、おろすのは男の役目とやらせたというから、旦那さんもゴリゴリ。「ときにはお客様もおろして下さるくらい大根は沢山頂きました」というのですから、消化の良い羊肉にジアスターゼいっぱいで、少しぐらい食べ過ぎても胃にもたれるわけはない。
 さらに栄養に気を遣っていたB家では、早くから野菜も焼いていたことも知りました。いまのジンギスカンは当然のように野菜も焼くけど、この糧友会鍋の構造を見なさい。肉が焼ければいいのだと周環と縁がない。葱なんか転げ落ちるに決まってますよね。
 正に先見の明です。お母さんの話では、野菜は素のまま金串に刺して別の七輪で焼き、大根おろしたっぷりのタレを付けるほか、好みで塩、醤油、ケチャップなどをつけて頂いたそうです。野菜は串刺しで別の焜炉を使う。糧友会のレシピ通り肉だけ焼いていては気付かない重要なポイントでした。
 米寿のお母さんは「私は主人のお客様をお持てなししていた60年間、大体このようなお味にしておりました」と言われた。これはB家に嫁いでからのことでしょうが、この鍋で小学生のときから食べていたお母さんは「80年の間に、主なお客様である男の方のお口に合うように甘くない漬け汁になったのかも知れません」ともいわれた。B家に限りませんが、戦前のジンギスカンは男向けの料理だったのです。
 古きよき時代のB家の「ジンギスカンの会」は昼食だったので、当日は朝から芝生に茣蓙を敷き、お膳を出して食器を並べ、開会の時間が近づくと七輪の炭に火を起こしたり、普段は食べるだけの者も総出で手伝った。初めは親類などを招いて春にジンギスカンの会をやっていた。ある年の秋、お庭の紅葉はどうかというようなことを聞かれ、さてはジンギスカンの会かと察して、以来春秋2回が恒例になったそうです。
 それで鍋は使う度にしっかり手入れされ、蒸気機関車でいえば動態保存されて今日に至った。ただ永年の使用で「糧友会拾週年記念」鍋の方は、そのプレートに向かって右側の縁が割れ目がありますが、焼き面の上側には微かな凹凸が認められるものの、肉でも転げ落ちそうで焼くときあまり使われない縁寄りは、新品のままのようで真っ平らです。
 2枚の鍋は直径27センチ、重さ2.8キロで全く同型で、ただ真鍮製のプレートの文字が違います。写真を資料その17にしましたが、同(1)は「成吉斯汗鍋」と「糧友会製」であり、同(2)は「糧友会拾週年記念」と「糧友会製」です。50グラム刻みのバネ秤で測ったところ、陸軍由来がプレートが長い分か50グラム重く出ますが、誤差みたいなものです。
 脂落としの隙間の長さはですね、取っ手そばの短い隙間を1番とすると、1番は7.8センチ、頂天へ向かって次の隙間2番は13.3センチ、3番16.7センチ、4番18.7センチ、5番20.7センチ、6番21.8センチ、7番22.6センチ、8番は22.8センチで、反対側も下から頂天に向かって同じ長さの隙間になっています。この測定はやっていると何番目の隙間だったか混乱してね、やり直しで時間が掛かりました。
 同(3)は鍋を横から見たところで、頂天の高さは底面から4.5センチ、 焼き面中央の脂落としの隙間の両側の反り返った2本の横棒の長さとして、鍋の縁から反対側の縁まで巻き尺を当てて計ったはずなのに、ノートにないので書き忘れたのですなあ。

資料その17

(1)
  

(2)
  

(3)
  

 私が最も驚いたのは底面の仕上げのきれいなことです。資料その18(1)にしましたが、わざわざ面取りしたようにみえるぐらいきれいで、こんな鍋は初めて見ました。幅広の縁の角なんか、まるでグラインダーを掛けて角張らせたみたいに、かきっと直角になっておる。お宝鑑定団の先生じゃないが、いい仕事してますねえと、感心するだけでは済まされない。
 今どき珍しいロストル型のジンギスカン鍋を作ったりしている函館のウエノヤマ技巧代表の上野山隆一さんに、これら一連の写真を見てもらい、鋳型だけでこういうきれいな造りになるのかとお尋ねしました。上野山さんによればだね、きずな、生砂と書く鋳型を使ったらこうなる。生砂は上質の天然の砂に粘土を混ぜたもので、その鋳型で鋳造する。岩手の水沢あたりでやっているという。そう言われれば、南部鉄瓶なんか、こういう肌をしてますよね。上野山さんは鍋などの古い木型や試作品を残しているというので、函館に行き、写真を撮り苦労話を聞きました。それはまた別の講義で話しましょう。
 同(2)はいささかピンぼけですが、勘弁してもらいましょう。82年前に作られた日本内地では初めて鋳造された国宝鍋の撮影にですよ、画素数の少ないガラケーでは申し訳ないと、小さくても1614万画素までいけるニコンのデジカメを新調して使った心がけは褒めていただきたいぐらいだが、半押しでピントが合うまで待つ練習が足りなかった。若いときニコンFなら百戦錬磨でしたし、いまも新聞読みには困らないので、液晶モニターでボケは見分けていたつもりだったが、自信過剰でした。
 取っ手は同(3)でなくてもわかるように、パタンパタンと内側にも外側にも倒れる円環になっており、昔の金属製火鉢の取っ手を思い出します。外側へ倒すと、丸い輪が4センチ出っ張ります。上野山さんによれば、これは鋳造ではなく、鍋かできあがってから、穴を開けてはめ込んだものだそうです。
 昭和34年に出た「野外料理 ピクニック料理とバービキュー 野山・海・お庭で」という本の中に、料理研究家の黒田初子が成吉思汗焼を書いたページがあり、そこにB家の鍋とそっくりの円環の取っ手と鍋半分の写真があります。資料その18(4)が、それですが、農林省関係者として鍋が贈られ、女史主宰の料理教室で使っていたんじゃないでしょうか。

資料その18

(1)
  

(2)
   

(3)
  

(4)
      

 当然のことですが、私は斯くなる鍋が見付かったと、いまさっきいった食文化研究者、安原美帆氏に資料その16の写真を付けてメールでお知らせしました。すぐ安原さんから「ホンマですか」と!記号を5つも付け「ホンマに、糧友会の記念鍋、あったんですね!」と返信がありました。安原さんは若いけれど、糧友会が展開した諸活動を研究した方ですから、特にこの鍋の価値がわかるんだなあ。重力波を初めて観測した物理学者みたいに私は激ホメされたけど、鍋を保存していたB家あってのことであり、ちと申し訳ない。はっはっは。
 さてと、本物の糧友会製の鍋の説明はこれで終わります。いまさっきスライドで見せた参考写真の鍋は、次の資料その19の昭和12年の「料理の友」1月号の口絵になっていたガス焜炉に掛けた鍋をね、私が画像処理して切り出し、拡大したものでした。
 この1月号には東京大井の支那料理店、春秋園の吉田誠一が「成吉思汗鍋料理」を書いており、料理の友社が売り出したこのジンギスカン鍋を使えば、豚でも牛でも肉ならこれで焼いて食べられるとよと7種の肉を盛った皿と一緒に示した鍋だったのです。
 こうして見ると、料理の友社が発売した鍋は、左右に取っ手の円環のある糧友会の記念鍋とそっくり、もしかすると同じ鍋かも知れない。でも、後の資料で鍋の絵入り広告を見せますが、その鍋は円環がなくて、糧友会の鍋とかなり異なる形なんですよ。そうなると、なぜ自社発売の鍋ではなく、糧友会の鍋を使ったのか。わかりませんねえ。ふっふっふ。

資料その19

        

 思うに「料理の友」が、自社が売り出す鍋で撮るべき写真を糧友会の鍋で間に合わせたということは、自分のところで売り出す鍋が手許に届いていないのに吉田に記事を書かせ、印刷したということでしょう。吉田は春秋園の鍋を熟知していますから、実物を見なくても「成吉思汗鍋料理」は書けます。なぜそんなに急いだのか不思議ですよね。
 私はね、正月号に我が社から鍋発売と景気よく掲載する予定だったのに、鍋の製造が遅れたなど何かの理由で、鍋が昭和11年内に編集部に届かなかった。さらに1月号の締め切りが迫っても届かないので、鍋なら同じような形だろうと糧友会の鍋で間に合わせたとみてます。まあ、昭和12年ののことですから、ジンギスカン鍋はこんな形と知らない読者が多いから、本物でなくてもそれらしくごまかせるけど、糧友会の鍋だから写真は大きく扱えない。それで肉の皿をずらり並べ、鍋は皿と同じぐらいのサイズでさりげなく見せることにした。まさに苦肉の策だ、はっはっは。
 糧友会の記念鍋とは違い、だれでも買える鍋なんだし、本来なら大威張りで、鍋をどーんとクローズアップして見せたいところだよね。鍋の絵入りの広告が掲載されたのは4月号からだが、まあ、それは後回しにして吉田の書いた「成吉思汗鍋料理」から昭和12年当時のジンギスカン事情を考えてみましょう。
 吉田は「この珍しい料理が五六年前までは食通の人々に賞味されてゐたのですが、昨今では家庭でスキ焼の代りに座敷で賞味されるやうになりました。(41)」と書いています。そのときから5、6年前となれば、昭和6年に濱町濱の家が始めていますから、そうした支那料理店で賞味する人々を指すと思いますね。それに糧友会が金網で焼くジンギスカンの普及に努めてきたので「スキ焼の代りに」に食べる家庭も増えてきたということですね。
 家庭ばかりでなく、ジンギスカン料理店も増えたのです。ちょっとしたブームだったようで日本料理店の経営者たちも注目したのですね。研究仲間が見付けてくれた珍しい問答を資料その20で見て下さい。鍋はすぐ買えないようだから、工場に注文して造らせるという答えが当時の鍋事情を語っています。またデパートならあるだろうといっていますが、まだまだ売っていなかったでしょう。
 また、料理の友社の鍋があるともいわないところをみると、回答者は「料理の友」を読んでいなかったんでしょうね。鍋1枚は3円前後と答えていますが、成吉思荘も鍋だけなら3円でしたから、3円が相場になったように思われます。

資料その20

随問随答 初歩欄
      応答当番 日本料理研究会理事  佐野成市

五七五、成吉斯汗料理

成吉斯汗料理とよく聞きますが、鍋の構造を図解で、使用
法を詳しく、又この鍋を買へば如何程位ですか、それから
食べ方、薬味、肉は何を使用しますか、野菜は使用致しませ
んか、右お手数乍ら御回答を乞ふ。(岡山県西大寺街 風月生)

   五七五のお答へ
      成吉斯汗料理

成吉斯汗鍋料理は蒙古に於て工風されたものと言はれてお
り、かの一世の英主成吉斯汗の名を冠して、近頃東京、大
阪あたりで流行してゐる牛鍋の変り型と言へませう。元来
蒙古人は羊肉を常用する民族です、従つてこの料理も本格
的に調理する場合、羊肉、其れも小羊を使用するものとさ
れてをりますが、小生の扱ひました際は小牛の肉を使用す
る場合が多い様です。
調理法 小牛を小口より切り、普通のすきやき風に作り、こ
の鍋独特の『かぶと型』の鍋にて客が焼きながら喰べる様
にだすのです。喰べるつけ汁としての割醤油は『すーぷ』
割又はダイ酢割り、薬味としてはオロシに小口葱等々が用
ひられます。
尚この料理に使用する鍋は、各方面に訊き合せて見ました
が案外取扱つてゐる所がありません。幸ひ本会に於て若し
注文ならば特に製らせる工場があるさうですからお申込な
さい。値段は四、五人前で一個三円前後の由です。
近頃自宅に於て賞味する人が多く、百貨店でも多分販売し
て居りませう。

<五七六から五七八略>
五七九、お狩場焼

お狩場焼について詳細御説明下さい。(岡山県西大寺町 風
月生)

   五七九のお答へ

お狩場焼とのお尋ねですが、これも又當世風の流行料理の
一つで、前記成吉斯汗鍋と略同様のものですが、筆者に言
はせれば前記のものと少しも変りませぬ。従つて調理の具
合も成吉斯汗の場合と同様です。大体こうした料理は料理
其のものよりも新しい調度、器物等を扱ひ、客の好奇心を
そゝる目的のものが多く、東京あたりでは往時の大名が狩
猟の際、獲つた獲物を其の場で料理する雰囲気を其まゝに
富士の裾野の背景、当時の調度品を模した等、一見して小
市民的趣味を売物にした店などもある位です。材料は勿論
前記成吉斯汗と同様ですが、時には猪、相鴨等を使用する
場合もありますが、大体以上の如き理由より調理する者の
研究がより必要です。

 これを読んで、佐野理事はジンギスカン専門店で食べたことがなかったと思いませんか。「小生の扱ひました際は」というのは、自分の店では、もしくは技術指導をしている店では、という意味だとすれば、子牛は邪道だと思っていなかったということですな。
 また雑誌「江戸と東京」の昭和10年12月号から山本栄三という人が連載した「大東京色とり/\゛記」で浅草の様子がうかがえます。札幌にいてはちょっと探しようのない古い雑誌で、これも研究仲間が送ってくれたものです。
 1回目は「大衆的と云へば支那料理の五十番。こゝは名物だけに安価にうまく食わせる。こゝの経営にかゝる雷門松屋前のレストラン五十番はヂンギスカン料理を勿驚たつた五十銭で食わせてゐるが大衆達は其の存在を知らないのだが知つておれば一度は試みるであらう。(42)」と書いています。これは記事体広告といわれる書き方で、記事のすぐ下に「ヂンギスカン料理」と入った浅草松屋前五十番の広告があります。
 翌11年3月号の3回目には「支那料理の生の元祖で知られてゐる五十番の出店、松屋前のレストラント五十番では、二三年前からヂンギスカン料理をたつた五十銭と云ふ安価で奉仕してゐるが、それを聞きつけたのが、講談社の野間清治氏。態々社員を使はして、食味を試みさせた處、成る程これなら宣伝価値ありとして、お手盛りの雑誌に紹介記事を書くことになつたと云ふ話だが、大衆的な社会奉仕の徳とでも云ふのてあらう。(43)」とありますが、広告は泣き別れで別のページでした。  「お手盛りの雑誌」がわからないので現場主義、私は人気雑誌「キング」と「冨士」の昭和8年1月号から昭和10年12月号までの3年分を調べましたね。それで両誌には評判のいい料理店とか食堂を紹介する記事は全くないことがわかりました。沢山の挿絵付きの小説と講談がてんこ盛りなのにだよ、食べ物関係では漫画家和田邦坊が軍隊の食事風景と国立栄養研究所を探訪した記事2本と糧秣本廠が開発した携帯食糧の宣伝みたいな川島四郎3等主計正による記事、後は食通談義が何回か続いた程度でした。「婦人倶楽部」もキーワード浅草で検索した見たけど、それらしい記事は出てこなかった。
 「江戸と東京」8月号には「ヂンギスカン料理」と入った広告だけで記事ではふれていませんが、昭和12年3月号の10回目では「珍らしい料理と云へば、浅草のピカ一のヂンギスカン料理、雷門松屋前のレストラント五十番で、此の珍らしい料理をたつたテブ(五十銭)で食はせてゐる。雪の降る今日此の頃、雪を見ながらこいつを食ふことが流行してゐる。満洲へ行つた気持ちで猟奇を欲する人は五十銭を投じて見ることだ。(44)」と書いています。
 浅草の五十番がいつごろからジンギスカンをメニューに加えたかと資料を探したのですが、資料その21にあるように、昭和8年以前はなかったとみられるのです。特に(1)の食べ歩いたのは「糧友同人」と名乗っていますが、資料その4の銀座宝来レストランで試食したのは糧秣本廠の同じメンバーとみられ、ジンギスカンがあったら必ず注文したと思われるのにシューマイで退散したとありますからね。

資料その21

(1)<略> 次は支那料理五十番、此の店は古い來々軒を凌ぐ評判の店、一同が二階へ陣取り人員点呼をすると二名紛失、さい一大事早速方々探しまわる。
 ○「参謀長何を食はせるんだい」
 △「もう酒はよそうよ」
合点と「シユーマイ」一皿に生ビールをひつかけて威勢よく階段を下りる、<略>


(2)▽うまくて大衆的な五十番
 新仲店通りの五十番、上野公園前の五十番、それは何人もはつきり知るであらう。それ程、五十番は積極的で、売名的に成功してゐる。事実浅草へ來た人達が、支那料理を食ほうとすれば、先づ彼等の頭に、五十番を浮かばせる。これ位に五十番は宣伝が行き渡つてゐる。<略>全く五十番は震災直後、つまり大正十二年の十二月の開業だが、其の浅い日にも拘らず名実共に、人気の中心とな、如何なる日でも千人内外の客を入れてゐる。  果して何がそう繁昌させるか、それは主人宮沢氏の太つ腹が、そして、積極主義な営業振りがかく繁昌させたものである。しかし、其の半面には、支那料理の大衆化、つまり甘くて安いと言ふことが、浅草大衆の食味にぴつたり合つてゐるからである。


(3)◇五十番――ガラスと赤線の明るい二階建。階下は腰掛け式で、安いとうまいで、すつかり売り込みましたが、こゝの少女達繁昌に忙殺されるせいか、汁のこぼれることなどおかまひなし、まあレーンコートでも着て出かけぬと安心がなりませんは誇張ですが、それ程繁昌します。

 この「江戸と東京」は後に「新文化」と改題するのですが、昭和13年7月号に島東吉という人が書いた「新文化的味覚」で、ホットドッグなどを例に挙げ「鍋ものではヂンギスカン鍋も新東京の珍重味覚だが、これは蒙古の牛鍋だから、新文化的とは云へない。(45)」と評価しています。何だかよくわかりませんなあ。
 一方、食い倒れの大阪はどうだったかといいますと、とうきょうより遅かった。昭和7年の「糧友」3月号に大阪での羊肉食普及をテーマにした座談会が載っています。新聞記者が「満蒙のあちこちで行はれてゐる羊肉料理でヂンギスカン鍋が一番よい、東京にもありますが、あんな方法ならば普及性がある。」と語っているが、これは大阪にはないということですよね。また「羊肉料理をする為に買ひに出てもどこにもない、いつも困つて、川口方面や南京町を尋ねて用なく手に入れるといふ状態」と割烹女学校の校長がいっている。
 ただこれらは販売店を知らなかった発言で、糧友会側から信濃橋の保健食堂で羊肉料理と羊肉を売っている
(46)と教え、翌4月号の「大阪たべある記」で保健食堂を訪れ、羊肉スープの保健うどんなどがある(47)と書いていますが、いずれにしても、極めてマイナーな存在だったことは間違いない。
 大阪でジンギスカンを始めた店としては、例えば新町橋にあった與太呂です。ペンネーム「X・Y・Z」という人が主人の商売熱心なことを褒め「こゝのちり鍋と天ぷら、それに鰹のたゝきは余りにも有名だから、こゝでははぶく事にして最近秋田から『シヨツル』を取寄せたり屋上でじんぎすかん料理をやつたりしてゐる而かもインチキものでなく断然正真正銘なんだから食味人に取つては有難い。値段もシヨツル鍋が一人前五十銭ジンギスカン料理が一人前一円と言ふのだから彼の面目躍如としてゐるではないか。(48)」と「食道楽」に書いています。
 この記事は「食道楽」昭和9年6・5月合併号からですが、昭和8年1月号と昭和10年1月号のに載っている與太呂の広告を見比べると、10年には成吉思汗料理が入っていますからこの間の8年か9年に始めたことがわかります。スライドでちょっとそれを見せましょう。横着して2つまとめてスキャナー撮りしましたが、左は昭和8年、右が2年後の広告です。11年1月号の広告は丹頂らしい図案で、ちゃんと成吉思汗料理と入っていますよ。

    

  
  

参考文献
上記資料その14と同15の出典は糧友会編「糧友」11巻1号広告、ページ番号なし、昭和11年1月、糧友会=原本、 資料その16、同17(1)〜(3)、同18(1)〜(3)は総てB家所有の糧友会鍋、平成29年10月、尽波撮影、同(4)は雄鶏社編「「野外料理 ピクニック料理とバービキュー 野山・海・お庭で」50ページ、黒田初子「成吉思汗焼を中心に」より、昭和34年10月、雄鶏社=館内限定デジ本、 資料その19は料理の友社編「料理の友」25巻2号口絵、昭和12年2月、料理の友社=原本、 (41)は同16ページ、吉田誠一「成吉思汗鍋料理」より、同、 資料その20は日本料理研究会編「会報」7巻9号52ページ、「随問随答 初歩欄」より、昭和12年9月、日本料理研究会=原本、 (42)は江戸と東京社編「江戸と東京」1巻2号88ページ、昭和10年12月、江戸と東京社=原本、 (43)は同2巻2号225ページ、昭和11年3月、同、 (44)は同3巻3号91ページ、昭和12年3月、同、 (45)は新文化協会編「新文化」4巻6号489ページ、昭和13年7月、新文化協会=原本、 資料その17(1)は糧友会編「糧友」7巻3号88ページ、「浅草界隈食べある記」より、昭和7年3月、糧友会=原本、 同(2)は石角春之助著「浅草経済学」275ページ、昭和8年6月、文人社=近デジ本、 同(3)は白木正光著「大東京うまいもの食べある記 昭和8年版」234ページ、昭和8年4月、丸ノ内出版社=館内限定近デジ本、 (46)は糧友会編「糧友」7巻3号30ページ、「大阪に於ける座談会」より、昭和7年3月、糧友会=館内限定近デジ本、 (47)は同4号100ページ、「大阪たべある記」より、昭和7年4月、同、 (48)は食道楽社編「食道楽」8巻6号63ページ、「大阪料亭あちこち」、昭和9年6月、食道楽社=原本、

 大阪については目下それぐらいしかわかっていません。東京では昭和7年に吉田がよその店を偵察して曰く。「この成吉思汗料理の生命とする燃料を東京の成吉思汗鍋店で研究して頂きたい。甚だしき店に至つては鍋の底に少量の炭火を入れ、何時になつても炙ることの出来ぬ鍋を持出したと思へば又、羊肉であれば成吉思汗料理と心得て冷凍羊を平気で使用する店もありました。成吉思汗料理の看板を掲げた以上今一歩進んだ研究を望みたい。又羊肉は上等品を食卓に運ぶ前に暫くタレの中に浸して置かねばなりません。(46)」と批判しています。
 こういう店では、どんな鍋と焜炉を使っていたのか知りたいところですが、何も書いていません。でも「然し火又子……鍋が特種のものにて支那より取寄せなければ間に合ず、読者諸姉より毎日手軽な鍋の研究と其調理法の秘訣を公開するやうにと熱望に依り、本会は最もも手軽な鍋を七輪、電燃、瓦斯其他火鉢でも使用出来得るやうに完製して本社代理部で販売することに致しました。(47)」と書いていますから、多くは満洲から取り寄せた鍋だったのでしょう。
 火又子にはホチャツと振り仮名がありますが、これは吉田の写し間違い。又でなくて、中野の原文では火叉子で点が入っているのです。「金色夜叉」の叉、広辞苑では「鉄叉」に「先端を叉状に造った鉄の棒。」とあるし、鉄棒を並べた焼き面をいうのでしょうが、どうもこれは正陽楼独特の鍋の呼び方らしく、いまの料理の本では火叉子は滅多に出てきません。例えば辻学園教授の横田文良さんが北京の「烤肉苑」で調理済みの烤肉が出たので「この店では鉄炙(ティエヂイ)で焼かないのか」と尋ねたら、グループの時は鉄炙で焼くけれども、小人数の時は中華鍋で炒めて出すといわれた(48)そうです。
 私の調べでは「火又子」と書いている本は中村幸平著「日本料理語源集」だけです。中村さんは「ジンギスカン鍋〔成吉思汗鍋〕」の解説で「私は蒙古から送っていただいた火又子があり、彼地での味付、焼き方などこまごま教わっております。鍋は身と蓋と二枚になっており、下の方が少し大きく底に小さな穴が三ヶ所あけてあります。穴の小さいのは火力が強くならないためです。先方ではこれに桐の炭をおこし、牛糞をのせて火のたつのを押え、その上に蓋をのせますが、この蓋になるものは山形に一cm程の金の棒を並べた型になっております。この上で焼くわけです(49)。」とあり、レシピも書いてあります。振り仮名がないのでホチャツと読んだかどうかはわかりません。
 「編集後記」で中村さんは3年前に亡くなっており、遺稿を孫の原臣司さんが「祖父の念願を叶えてあげたい」と出版された本(50)とわかった。でも原さんは何か知っているかも知れないと思ってね、私は原さんを検索して、メールで火又子の有無をお尋ねしたんですよ。それでわかったのですが、中村さんは愛知県半田市で大きな料亭を営んでおられた。中村さんが亡くなり、道路拡張とかで料亭は取り壊され、そうした道具は処分された後だったのです。まったく残念、惜しまれます。
 最初にいった渡辺さんからみれば、成吉思汗鍋を「日本料理語源集」に入れること自体、ジンギスカン料理を日本料理だと認めることであり、支那料理の一種として広まったことを覆い隠すから問題だと主張しそうなものですが、ご存じなかったのか論文は何も触れていません。
 この「成吉思汗鍋料理」とその前の「痛快無比成吉思汗料理」については、中野江漢が昭和6年の「食道楽」に書いた「成吉思汗料理の話」のあちこちを無断引用していると以前の講義で話しました。でもレシピは取り上げませんでしたから、3本まとめて資料その22としておきました。レシピ見ると、さすがは大日本料理研究会講師になった料理人、スープを使い酢を入れる付け汁などはオリジナルだと認めます。

資料その22

(1)昭和8年1月の「痛快無比成吉思汗料理」

  <略>家庭的には次のやうな方法で、作るこ
 とを研究しました、味噌茶匙山盛一杯、柚子
 の搾り汁三個分、酒、酢、醤油各一デシリツ
 トル(五合五)スープ二デシリツトルそれに
 味の素を適宜に加へ、以上を良く混合して
 其汁の中へ葱、生姜、パセリを微塵に切つて
 茶匙一杯づゝを浮かべて各人の小皿に注ぎ、焼
 肉を浸して食べるのであります。
  肉の焼方は羊肉を薄く刺身のやうに切り、
 それに酒と醤油を同量に混ぜ合せた汁に暫く
 浸して置き、フライ鍋又は餅焼網の上で小さ
 なビフテキを焼くやうに座敷の中で七輪又は
 火鉢の上で焼ながら前のタレをつけて食べる
 のであります。而し之は何處の家庭でも出來
 得るやうに簡単な説明に過ぎません。<略>


(2)同年5月の「満州国建国記念 成吉思汗料理」

   (3)成吉思汗(羊肉のスキ焼)

 材料    羊肉百匁、羊生脂少々
  五人前  酒、酢、醤油、パセリ少々
       葱少々、柚子又はレモン一個

  成吉思汗料理につきましては、本誌新年号にくわしく申上
 げましたが、成吉思汗料理と云ふのは、日本人がつけた名
 で、要は、羊肉を薄く刺身の様に切り、それを酒と醤油を同
 量に混ぜ合せた汁に暫く浸して置き、之をスキ焼にして、醤
 油と酢酒を各々同量宛合せ、それにパセリと葱の微塵切りを
 加へ、柚子或はレモンの搾り汁を加味したタレをつけて食べ
 るのです。
  尚此の料理法は、牛、豚、鯨等の肉に応用されて妙味あ
 ると云ふ事と、陣中を偲ぶテント張りの下の成吉思汗料理
 は、當春秋園獨特のものであると云ふ事を附け加へて置きま
 す。


(3)昭和12年2月の「成吉思汗鍋料理」

   緬羊成吉思汗焼

 材料 緬羊二百五十匁、蝦油盃一杯、スープ五勺、紹興酒盃一杯
 醤油五勺、酢盃二杯、胡麻油五六滴、香茶茶飲一杯、葱一
 本、生姜一個、大蒜一個、柚子三個、レモン少々、味の素
 茴香少々、サラダ油
 調理法 (1)緬羊肉は内地産の上等品を求めて筋を除き、鍋
 肉より厚目に二分又は三分位の厚さに大きく切ります。
(2)切つた肉は深皿に並べ、酒と醤油を大匙二杯づゝ混ぜ合せ
 其中ヘサラダ油一杯を加へよく混ぜ合せ、生姜の薄切五六片
 と葱の斜切半本、茴香四五個を肉の上に振りかけ、酒の混合
 汁を一面に振りまぶして二十分間置きます。
(3)二十分間浸した肉は器に並べ直して葱や其他を取除き次の
 汁と藥味を共に食卓に運び、火又子を火にかけてそれを羊の
 生脂で擦つて肉を並べて焼きながら汁をつけて頂きます。
(4)汁の拵へ方……ボールにスープ五勺を注し、蝦油と紹興酒
 を盃一杯づゝ加へ、それに醤油五勺と酢盃二杯、胡麻油
 を五六滴加へ、柚子三個の搾り汁とレモン二片の汁を加へて
 よく攪拌して置きます。
(5)香菜と葱、生姜、大蒜、柚子の皮、陳皮等を出來るだけ
 細く微塵に刻み各々小匙一杯づゝ前の汁の中へ浮べ、よく混
 ぜ合せて五個の小碗に注ぎ分けて食卓に運びます。
(6)薬味……食塩、胡椒、七色唐辛子、葱、生姜、蒜子、柚子
 等の微塵切りを適宜の器に盛つて侑めます。

 (1)は吉田の務める春秋園がジンギスカンを始めて間もないころで、春秋園でも食べられるという宣伝を狙った記事です。料理の友の鍋の発売前だから金網かプライパンで焼き、たれを付けて食べるよう勧めている。たれを使うこと、それには酢と柚子ジュースが入るなど満田レシピとはまったく違うことを注意して下さい。
 (2)は料理の友試食連盟という団体が3月18日に吉田の勤める春秋園で満州国建国記念と銘打った晩餐会を開いた。その菜単をみると冷葷ほか7品で、吉田は烤羊肉ではなく成吉思汗としたそのレシピです。グラビアページに3枚の写真と出席会員90人の名前が載っています。その中で私が知る名前は「素人に出来る支那料理」の著者山田政平、評論家の古谷綱武ぐらいですがね。
 (3)は鍋発売を知らせることを主眼とした記事です。資料その7(3)では羊肉を焼く「緬羊成吉思汗焼(烤羊肉)」だけにしましたが、吉田はさらに「牛肉成吉思汗焼(烤牛肉)」のレシピを書き、回教徒の料理としては「豚肉の成吉思汗料理のある筈はないが、これも同じ方法で焼き、汁の中に大根おろしを少量加へて頂けば美味しく頂けます又鶏肉はあまり美味しくないが鶏の臓腑等は牛肉成吉思汗と同様に用ひられ、鴨肉は鶏と同様大根おろしを加へ、鯨の赤身を用ひれば鯨料理としては美味しく頂かれます。以上豚肉、鶏肉、鴨肉、鯨、を牛肉と同じ方法で御用ひ下さい。」と書き、それぞれに豚肉成吉思汗焼(猪肉の炙り物)、鶏肉成吉思汗焼(鳥肉の炙り物)、鴨肉成吉思汗焼(鴨肉の炙り物)、臓腑成吉思汗焼(鶏肝の炙り物)、鯨肉成吉思汗焼(鯨のスペツシヤル焼)と命名(51)しています。羊肉のとほとんど同じたれを付けて食べるのですが、皆ホチャツで焼くように書いています。
 それだげに止まらず、吉田は鍋を使う牛肉のバター焼(牛焼肉の卸和へ)、牛肉のウヰスキー焼(牛肉の洋酒焼)、牛肉の玫瑰酒焼(牛肉の支那酒焼)も示しているのです。レシピを見ると、バター焼きが基本で、鍋にバターを塗って焼き、大根おろしを付けて食べるのですが、玉葱を輪切りにして焼いて食べるよう勧めている(52)ところが目新しいんだな。ウヰスキー焼は上等のウィスキーを振りかけて、バター塗りの鍋で焼く。玫瑰酒焼はハマナスの花を使って造る玫瑰露酒を振りかけてから焼くのは同じだが「ザクにて玉葱の輪切り松茸其他菌類を用ひて下さい(53)」と付け加えています。
 実質は羊肉と牛肉のジンギスカンと牛肉のバター焼きの3種なのに、なぜ吉田は見かけ上10種に増やして示したのか。繰り返しになるが、ホチャツと称する鍋が羊肉を焼くだけでなく、こんなに多くの焼き肉料理に使える万能鍋だと宣伝するためです。
  

参考文献
上記(46)と資料その22(1)の出典は料理の友社編「料理の友」21巻1号120ページ、昭和8年1月、料理の友社=原本、 (47)と資料その22(3)は料理の友社編「料理の友」25巻2号16ページ、昭和12年2月、料理の友社=原本 (48)は横田文良著「中国の食文化研究 北京編」91ページ、平成18年4月、辻学園調理製菓専門学校=原本、 (49)と(50)は中村幸平著「日本料理語源集」343ページ、806ページ、平成2年7月、光琳社出版=原本、 資料その18(2)は料理の友社編「料理の友」21巻5号20ページ、昭和8年5月、料理の友社=原本、 (51)と(52)と(53)は同25巻2号16ページ、吉田誠一「成吉思汗鍋料理」より、昭和12年2月、料理の友社=原本

 そこでどんな鍋の広告だったか、スライドで見せましょう。まず吉田が「成吉思汗鍋料理」の記事と一緒に載っていたもの。さっきいったようにこの記事を書いた時点では鍋が出来ていなかったようで、だから鍋の絵も描きようがなかったらしく、活字ばかりの広告です。

 

 次のスライドは3月号の広告です。スペースに余裕があったのか、縦に延ばしたため空白部が目立ちますが、書いてあることは2月号とまったく同じです。


 次のスライドが4月号の広告。ようやく鍋の絵が入りました。もし7つの肉皿と一緒に見せた写真の鍋が料理の友社代理部が売り出した鍋だとしたら、この絵の鍋はまったく別物を描いたとしか思えません。似ても似つかぬ鍋です。第一、明らかに焼き面の端が反り上がり縁があるように描いていますね。それに丸い輪みたい両脇の掴み手がない。すき焼き鍋のようなハンドルを使ったのでしょうか。糧友会の鍋の縁とは明らかに違いますね。
 鍋底と七輪の間をよく観察すると、真正面の小さい直方形は、七輪上面と鍋底が密着しないように支える突起と思われます。私は初め五徳代わりの帯状の金具と見たが、それでは鍋の左右の描き方がこの絵のようにはならないはずですから、箸の下あたりとその逆サイドと3つの突起がある七輪なのでしょう。
 焜炉の空気取り入れ口の下に書いてある小さな字は「コンロに乗せた図」と読めますが、ガスでも電熱でも使える鍋といふ触れ込みだったのが、これでは炭火用と断っている。いざ完成した鍋を使ってみたら、ガス、電熱ではうまく焼けないとわかったので、広告を通じて炭火を強調することにしたとも考えられます。


 同時にこの絵は「料理の友」の末尾の方にある代理部が扱っている天火やコーヒーポットなどの広告ページに加わった成吉思汗焼鍋で使われました。次のスライドはその1例です。ここでは「本社特製のジンギスカン焼鍋の家庭用を発売」となっています。これだとここに示してないけれど、店舗用とか営業用もあるように受け取れます。

 

 はい、スライドを変えます。同じスライドじゃないよ、鍋の値段が上がり1円50銭になっている違いがあります。「料理の友」を見ていくと昭和13年3月から20銭値上げして1円20銭になり、15年10月から1円50銭になるのです。この後、間もなく扱い品目から消えたように思いますが、とにかく鍋の広告では一貫して同じこの鍋の絵で通しました。だんだん日中戦争が激しくなったこともあり、改良型を作るとごろではなかったのかも知れません。

   

 ちょっと糧友会に戻りますが、なぜ鍋を贈呈だけにとどめたのかという疑問があります。「糧友」に毎号、貯蔵瓶とその滅菌器具、簡易農村パン窯などの糧友会の広告が載っているのにですよ。せっかく開発した鍋を売りものにしなかった。あくまでも100号と10周年の記念品だったからといえば、それまでですが、市販されているようにも受け取れる記事が2件あるのです。資料その23(1)と同(2)がそれです。
 (1)は昭和10年12月8日にNHKラジオで放送した糧友会提供の葱鮪鍋と塩ブリの粕汁のレシピのページの埋め草です。糧友会と関係ない料理雑誌の埋め草であっても黙過しませんが、日本内地で初めてのジンギスカン鍋を作り、陸軍関係者などに配って間もない昭和11年の「糧友」1月号の記事ですからね、見逃せません。
 「糧友」を8年余り読み続けた熱烈愛読者ならいざ知らず、2号以降からの読者は持っているわけがない。だから「あれば成吉思汗鍋がよい」は、創刊号からの読者は少ないことを前提に書いたと考えられます。
 (2)は(1)に続く2月号に載った糧友会大阪支部嘱託だった太田要次が書いた「温くて明朗な鍋物料理」5品の5番目のレシピです。太田は鍋の配付事情を知って書ける立場だったのかと検索してみたらですよ、大阪市立衛生試験所と第4師団経理部の嘱託の肩書きで、2月前の「家事と衛生」という雑誌に同じ題名といえる「温くて明朗な鍋物料理に就て」を書いたばかりだったのです。
 比べて見るとジンギスカン鍋以外の4つの鍋は並べ方もレシピも同じ。違いは全体の前書きがあることと、ジンギスカン鍋の俗説をたっぷり書いていることでした。つまり「糧友」の記事は「家事と衛生」のそれを縮めたうえ、かんてき、七輪のことですが、これを「こんろに糧友会特製の家庭成吉思汗鍋か、」と書き換えたものだったんですなあ。
 ほかに書き手がいなかったのかどうかわかりませんが、こういう記事を載せた理由として、まだ国内ではだれも作っていないジンギスカン鍋を作ったから、これを手本に鍋を作り、ジンギスカンをはやらせてくれと願ってやったという見方は、ちょっと糧友会の肩を持ち過ぎているかな。
 それからね「興安嶺の近傍成吉斯汗と云ふ小國」だが、満鉄の路線図に哈爾濱と国境の満洲里間の鐵道の海拉爾という駅の近くに成吉思汗という駅があります。昔その一帯に王国があったのかも知れません。

資料その23

(1)
   さつぱりと美味しい
      肉の食べ方

 この冬は兎肉が非常にお安いのです
が、肉類は種々にお料理しても、とかく
あき易いもので兎肉の様にさつぱりした
肉でもくどく感じる様になります。そん
な時にさつぱりと美味しく預くには、先
づ食卓の上に七輪を持ち出しあれば成吉
思汗鍋がよいのですが、普通の金綱でも
結構ですから、よく火をおこした七輪の
上にのせ、金綱の焼けた時兎肉をのせ、
両面を焼いて生醤油で召上つて下さい。
(糧友会編「糧友」120号141ページ、昭和11年1月、糧友会=館内限定デジ本、)


(2)
   (五) 成吉斯汗鍋

成吉斯汗鍋は蒙古特有の國王料理であ
ると思はれて居る。蒙古地方は水が尠
いので煑て食べる事が不自由なため自
然焼いて食べると云ふ風に調理法が発
達したと首肯の出來ない事もない。
 その仕方はかうである。可なり重い
鐵製の爐用のものに炭火をたいてその
上に戟剣防具の面に似た肋骨形になつ
た鐵器をかけて肉でも魚貝でも或は葱
の様な野菜を適宜に切つて、其の上で
ジー/\と焼きながら四方から取つて
割下に浸して食べる。すると手も足も
身體全体が俄に暖り酒をあふつて爐
邊の閑談に味楽出来ると云ふ誠に野趣
に富んだ、流石に北満蒙古に於ける大
陸的風丰と然も滋味津々として口福の
快味は又格別であります。家庭でする
にはこんろに糧友会特製の家庭成吉
思汗鍋か、又は線の太い金網をのせ少
量の油で拭いてその上に魚貝鳥獣肉或
は野菜をはりつけて焙きながら程よい
割下につけて食れば簡単に出來ます。
(糧友会編「糧友」121号80ページ、太田要次「温くて明朗な鍋物料理」より、昭和11年2月、糧友会=館内限定デジ本、)


(3)
   (五) 成吉斯汗鍋

 成吉斯汗鍋の仕方を話す前に一寸その由来を記して見ませ
う。
 蒙古の奥地から飛出してヨーロツパ大陸を馬の蹄に蹴ちら
して寄せ來る北欧雲霞の聯合軍に對しいざござんなれ、草多
ければ苅り易しと豪語して、東洋民族萬丈の氣焔を虹の如く
吐いて颱風の如く荒れまわつた彼の蒙古の大英雄「ヂンギス
カン」が、懸軍萬里長途の遠征を終へて懐しの故郷に晴の凱
歌を奏したのが萬物蕭條たる秋も末の頃で、久方振に見る故
国の小河は早や朔北の風強く飛雪紛々として一望千里白皚々
‥‥‥斯に輝やかしい部下凱旋将士の戦塵に塗れた雄々しく
も勇しい姿に眺め入つた「ヂンギスカン」は、何とかして此等
将士の苦闘のあとを犒つてやりたいと云ふので、薪をたけ!
羊肉を焙け! 酒を飲めと命じた。暮色蒼然としてあたりを
罩る頃、雪の野原のこゝかしこにボウ/\と火はもえる、酒
をあふつて大歌高吟し劍の先に肉を焙いて舌鼓をうつたと云
ふ事で、これが「ヂンギスカン鍋」の正しい由来であると云
ふ様に考える人もあるが、こいつは全然眉つばもので、抑も
「ヂンギスカン鍋」と云ふのは興安嶺の近傍成吉斯汗と云ふ
小國の王様が好んで食べた蒙古特有の國王料理であると云ふ
のが正しい見方と云はれて居るらしく、何は兎もあれ蒙古地
方は水が尠いので煮て食べる事が不自由なため、自然焼いて
食べると云ふ風に調理法が発達した事は強ち首肯の出來ない
事もない。その仕方はかうである。可なり重い鐵製の爐用の
ものに炭火をたいて、その上に戟劍防具の面に似た肋骨形に
なつた鐵器をかけて肉でも魚貝でも或は葱の様な野菜を適宜
に切つて其の上でジージーと焼きながら、四方から取つて割
下に浸して食べる趣向ですると、手も足も身體全部が俄に暖
り酒をあふつて爐邊の閑談に味樂出來ると云ふ誠に野趣に富
んだ流石に北満蒙古に於ける大陸的風丰と然も滋味津々とし
て口福の快味は又格別であります。家庭でするはかんてきに
可成線の太い金網をのせ、少量の油でよく拭いて之の上に魚
貝鳥獣肉或は野菜をはりつけて焙きながら程よい割下をつけ
て食べれば簡単に出來きます。
(家事衛生研究会編「家事と衛生」11巻12号84ページ、
太田要次「温くて明朗な鍋物料理に就て」より、昭和10年12月、家事衛生研究会=J−STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/seikatsueisei1925/11/12/11_12_84/_article/-char/ja/)

 「糧友」は軍隊、工場などの団体給食関係者に読まれたでしょうが、一般向けとはちょっといいかねる内容でした。そこで糧友会は大正2年創刊の歴史ある料理雑誌「料理の友」に目を付け、料理の友社に鍋作りのノウハウを教えてコネを作り、羊肉食普及の片棒を担がせようとしたのではあるまいか。この1年後に料理の友社はジン鍋を売り出したのですが、そのお知らせ記事に糧友会鍋の写真を使ったのは、同形の鍋を作るはずだったからと考えられます。
 そういう見方の根拠は「料理の友」の内容が、どんどん戦時型というか「糧友」みたいに変わり、前にもいったが、千葉芳子という女性が毎号何本も記事を書いたという事実です。前にもいったが、昭和13年8月号には「国民体位向上と支那料理」、「古代の食料品」、「狸の珍料理」など硬軟8本も書いている。とても女性が書いたとは思えない軍隊調もあるのです。「料理の友」の記者が応召、兵隊に引っ張られて減ったにしても、女性1人でこんなに書きまくるなんて異常事態としか思えない。ここらを取り上げた鋭いレポートを期待してますよ。
 それからね、国会図書館と奈良女子大と味の素のライブラリーで見た限りですが、戦前の「料理の友」は、自分のところで売っていたジンギスカン鍋の写真を掲載してない。広告の絵だけだ。でも、私が見ていない婦人雑誌の附録など料理の本がいっぱいあるので、そうした本にそれとおぼしき鍋の写真があるかも知れないのです。また満洲や中国から持ち帰った鍋を使った写真もあり得るのです。
 神田の古書店街とか女子大学図書館に出かけて、そうした本をじっくり探すことができない。これが札幌におけるジンパ学研究の泣き所なんだなあ。また研究と同時進行の私の講義録の公開が遅くなってしまう所以でもあるんですなんて、一言弁解して終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)