羊頭掲げ羊肉食普及を図った松井本店

 えーと、濱町濱の家は確かに昭和6年秋からジンギスカン料理を始めるに当たり「羊肉は木下謙次郎氏の肝入りで、わざ/\濠洲から取り寄せたり、(1)」と昭和6年の「文芸春秋」9月号のコラムで紹介していますが、マトンにせよラムにせよ羊肉がなくては始まりません。
 ジンパ学研究の一環として、その原料である羊肉を売る肉屋サイドを調べていきますと、東京赤坂にあった松井肉店が羊肉食の普及活動において極めて重要な役割を果たしたことがわかります。以前の講義で昭和13年に松井牛肉店が東京日日新聞に出した「緬羊肉」「マトン愛食時代來る」と入れた広告をスライドで見せたことがありましたよね。あの店です。
 明治23年に創業し、戦前は宮内省はじめ17の皇族方の御用商人として牛肉などを納める傍ら、明治39年から羊肉も扱いました。大正13年には農林省から初めての羊肉指定商に指定され、生きたままでも枝肉になったものでも全国から出荷される緬羊肉を買い付け、卸売りだけでなく普及宣伝のため小売りもしました。
 さらに松井肉店は、自分で茨城県に緬羊牧場を持ち、その肉も使って羊肉料理の研究開発に協力し、東京高円寺にあった庭の広い自分の別荘を農林省の畜産関係者などの羊肉料理、率直に言えばジンギスカンですね、その試食場に提供した。
 さらに陸軍の主計将校など軍人も出入りするようになり、いつまでも羊肉料理愛好者クラブみたいな形でいるのはまずい、いっそ正式な商売にした方がよいという勧められ、別荘を改装して昭和11年からは成吉思荘というジンギスカン料理を主とする支那料理店を開いたのです。いまは閉店してありませんが、きょうはその成吉思荘の生みの親である松井本店とそれに関連したことを取り上げます。
 私はたったいま、松井肉店、松井牛肉店、松井本店と3通りの呼び方をしましたが、この松井という肉店は歴史が長いだけに1つの呼び方ではくくりにくい。初代のときは松井平五郎商店という呼び方もありました。これでは何の商売かわかりにくいですよね。
 それで資料に従い、いちいち呼び方を変えるのも変ですから、赤坂田町にあって太平洋戦争の空襲で消失した肉店は本店、支店の一つといえる成吉思荘は成吉思荘と統一して呼ぶことにします。では、東京空襲で焼ける前の本店の写真など、きょうの資料を配ります。
 わが現場主義のジンパ学はれっきとした学問なんですから、文献調べもろくにしないで幻の成吉思荘などと祭り上げている本や緬羊関係者と、この辺から違うのです。追々話しますが、人でも物でも関係あるらしいものは、とにかく探して調べる。成吉思莊のことでは福岡空港まで飛びましたね。札幌からでは高速バスを乗り継ぐより飛行機が安いということもありますが、井の中の蛙では駄目、ノーベル賞の根岸さんは海外に出よといっているでしょう。私も津軽、関門と海峡を2つ越えた。はっはっは。はい、後ろの人へ回しなさい。

資料その1

 写真(1)
 「緬羊と羊肉料理」に掲載された松井本店。創業以来の店舗が関東大震災で焼失したため建てた仮店舗(左側の平屋建て)で、写真説明は「我国に於ける羊肉販売の嚆矢松井羊肉店」とあるが、宮内省御用達で肉類はなんでも扱っていた。(糧友会編「糧友」昭和3年12月号106ページより)

   

 写真(2)
 松井本店の建物全景、大正14年9月に完成したが、昭和20年5月20日の空襲で焼失した。建坪約230平方メートル、地下室もあった。「売場及び作業場等は全部鉄骨金網にて完全防塵防蠅施設、殊に作業場は大理石を以て仕上た 完成後は都内に唯一の模範的肉店として賞賛された」(「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書」より)
   
 

 写真(3)
松井本店が掲げた戦捷幟。右脇に雌のブロンズ像が見える。(松井統治氏所蔵資料)
        


 写真(4)
 緬羊肉卸商のシンボルとして本店玄関の両外灯上に飾られていた緬羊の頭部ブロンズ像。右の角のあるのが雄、左は雌。(松井統治氏所蔵資料)
   


 (1)の写真は松井さんのアルバムでも見たように思うのですが、差し当たり糧友会の本にある写真を見てもらいます。右側の2階建てでなく左側のバルコニーにも看板を取り付けた店ですが、コントラストが弱くて見えにくいけれども、下の看板に松井羊肉店とあるのです。
 この仮店舗を正面から撮った別の写真も松井さんが持っています。そのガラス戸に張ってあるビラの字を苦心して読んだら「目下の必須事(ヒツジ)は羊」(2)と読めたと聞きました。これは昭和4年に川島四郎が「糧友」に載せた漫画のなかのポスターの標語と同じなんですね。偶然の一致なんでしょうが、松井さんはそういうことは全く知らずに解読したのですから驚きます。本来はそれを見せたいのですが、まだコピーさせてもらったいないので、代わりにこの写真で想像してもらいましょう。
 どうです。(2)は佐藤武夫著「緬羊の研究」の広告で使われた写真です。下に「国産緬羊肉開祖」、「創業明治23年」と書いてあるのです。また「緬羊の研究」という本の内容に合うよう「松井平五郎商店緬羊部」を名乗っています。後で紹介するつもりだが、畜産の雑誌に緬羊部と名乗って緬羊を汽車で松井平五郎商店へ出荷する際の心得を書いたものがあります。この写真(2)は私が国会図書館で見付けたもので、創業者の松井平五郎さんから見ると孫で、成吉思荘の2代目経営者だった松井統治さんも持っていなかった肉店の全景のありがたい写真ですぞ。おほんおほん。
 いちいち松井を付けると混同しそうだから、ここからは初代は平五郎さん、2代目は初太郎さん、3代目は統治<とうじ>さんと、それぞれ名前で呼ばせてもらいましょう。
 三重県出身で明治23年に赤坂で牛肉店を始め、後に羊肉卸売りも加えた平五郎さん、その子供で昭和11年に本店経営の傍ら成吉思荘を開いた初太郎さん、ホテルで客商売を修行してから成吉思荘の経営を引き継いだ統治さんという3代が、それぞれ一生懸命商売に励むことによって、我が国の羊肉の普及に一役も二役も買い、ひいては流通環境の整備にもつながる働きをしたのです。
 松井牛肉店で羊肉を売り出したのは明治39年、成吉思荘が開店したのは昭和11年。この間だけでも79年かかっています。牛肉は大好きになったが、羊は臭いとかなんとか食わず嫌いをしていた日本人に、羊肉のうまさを知ってもらうのは生やさしいことではなかった。その難しさは小谷さんも本に書きましたよね。
 一方、緬羊の生産者側でも多くの関係者が頭数を増やす努力を重ね、戦後はまた緬羊を飼う環境の激変があり、結果としてジンギスカンは戦前以上に広まったのです。そしてですね、いつの間にか道産子がジンギスカンに惚れ込み、花見だ、祭りだと食べるようになり、わが北大生協はジンパセットを売り出し、ついには私がジンパ学の調査研究に乗り出し、この講座を開くまでになった。いいですか、近年ジンギスカンブームだなんていわれて羊肉料理店が増え、mixiの日記などに初めてジンギスカンを食べた、ラムはおいしいなんて書いていますが、羊肉がいまのように好かれるまでに、実にたっぷり100年かかっていることを忘れちゃいかんのです。
  

参考文献
上記(1)の出典は文芸春秋社編「文芸春秋」9年9号231ページ、「目・耳・口」、昭和6年9月、文芸春秋社=原本、 資料その1(1)は糧友会編「緬羊と羊肉料理」21ページ、昭和3年6月、糧友会=原本、 同(2)は佐藤武夫著「緬羊の研究」広告ページ、昭和5年7月、希望社出版部=原本、(2)は糧友会編「糧友」4巻1号61ページ、昭和4年1月、糧友会=原本、


 はい、また資料写真の方に戻ります。統治さんが保存している戦前の写真は、初太郎さんが学徒出陣で出征した統治さんが無事帰ってくる日を願い、統治さんの部屋のもの一切とアルバムなどを疎開させていたので、本店の写真もかなり残ったのです。資料の写真(3)と(4)がそれです。
 本店は大正12年の関東大震災でも焼け写真(1)の平屋建ての木造店舗で営業を続け、大正14年に鉄筋モルタル造り、中2階があり実質3階建てを新築しました。写真(2)は、店の正面から見て左側面がきれいに写っていていますね。小路を挟んで直ぐ隣にあった店が全く写っていないから、本店が完成したとき隣の店はなかったのかと統治さんが見直したぐらい珍しい写真なのです。
 いいですか。写真(2)の右側、お客が出入りする玄関があり、両脇の柱に白い外灯がありますね。その外灯の上をよく見てください。なにか黒っぽく突き出たものがありますね。これが巻いた角のある緬羊の頭の彫刻像なのです。堂々と掲げたブロンズの羊頭は、左右にあって夫婦になっています。間口14間といいますからおよそ25メートル、宮内省御用達にふさわしい堂々たる店構えでしょう。
 よく見えない、疑わしいという人もいるかも知れないので、片方ですが、本当に付いていた証拠写真が(3)です。初太郎さんが緬羊肉問屋のシンボルとして木村石斧<せきふ>という彫刻家が制作した作品で、ほかに我が家に小さな作品が1点あるが、木村の経歴などは知らないとのことでした。
 それからこの垂れ幕ですが、漢口陥落と読めますね。新聞を調べますと昭和13年10月27日に武漢三鎮制圧と大本営発表があり、提灯行列など祝賀行事が行われたとありますから、そのころ撮った写真でしょう。
 この緬羊のモデルですが、こう耳隠しみたいに後ろから前へカールする角が生える品種となるとランブイエメリノー種でしょう。肉用ではないけど、そこは芸術家。東京から近い友部種羊場へでも行って毛が密生していて、いかにも緬羊らしいと選んだのでしょう。偶然ですが、大正8年東京で開いた畜産工芸博覧会の総裁を務められた閑院宮殿下へ中央畜産会が記念品として銀製の緬羊の置物を贈っています。そのモデルがランブイエ種でね、その写真に「羊置物としては恐らくは本邦未曾有なるべし。」(3)と説明しています。もちろん肉それなりにうまいのですから、松井本店が高く掲げるにふさわしい写実的羊頭ですね。
 それでね、ちょっと脱線しますが、私は緬羊の頭を彫った木村という彫刻家を探したのです。北大と国会図書館で調べた結果「現代画家番付」などで大正15年から帝国美術院美術展覧会、通称帝展に連続4回入選(4)した彫刻家とわかりました。
 「現代画家番付」は彫刻家も入っていたのです。番付というだけあって相撲のそれと同じくこの本は名前などの字の大きさで格付けしています。高村光雲、朝倉文夫、北村西望という当時の大ボスは1ページ2段組で6人ずつ並べてあります。その次は1段に10人詰め、11人詰め、13人詰めとなり、それ以下は帝1というような実績と姓名と住所の府県名だけになり1ページに104人詰めと小さくなっていくのですなあ。
 11人詰めクラスに加藤顕清がいました。いまのクラーク像を彫った人ね。木村と絵でも知られた梁川剛一が13人詰めクラスです。梁川はサークル会館にあるクラークさんが島松で別れるシーンのレリーフを作った人で、あれは北大東京同窓会が寄贈したものです。番付を数えたら彫刻家の部には342人の名があり、木村は159番目、梁川は166番目という位置でした。まあまあ中堅のビリといっていいでしょう。
 木村の住所を見て、私はずっこけましたね。なんと東京市外杉並町高円寺七二一、(5)何のことはない、後に成吉思荘になる初太郎さんの別荘の近くに住んでいた。初太郎さんと顔見知りだったことから制作を頼んだと思われるのです。統治さんにその住所を知らせたら、成吉思莊の敷地内に何軒か家があり、そこに住んでいた人ではないかという話でした。まあ、そういう本物の芸術家の作品をシンボルに掲げて、松井本店は羊肉卸・小売、さらに羊肉料理店と商売を拡げていったのですね。
 求めよ、さらば与えられん。青森県出身の一戸伊勢子さんの経歴調べで、古い「東奥年鑑」を見ていたら「本県出身の美術家」に木村が載っていたんですよ。本名は石五郎、それで石斧なんて変わった雅号にしたらしい。生まれは今は八戸市内になった三戸郡下長苗代村。「本県育英会の貸費生として東京美術学校彫刻科に学び大正十五年三月卒業した。彫塑及木彫をよくし、大正十五年第七回帝展に彫塑『腕白時代』が入選し続いて第八回帝展に彫塑『九ツの子供』が入選した。未だ二十五歳の生年で大いに将来を嘱目されてゐる。(6)」とあります。松井本店は大正13年完成ですから、木村が美術学校3年生のときの作品ということになりますね。
 もう一度(2)を見て下さい。手前にもう1つ、引っ込んだ玄関があります。統治さんによると、これは家族用の玄関。初太郎さんは清潔第一と、店からの家族の出入りを禁じていた。それで統治さんが出征するときも、こちらの家族用玄関を使い、近所の人たちが見送りに集まったそうです。昭和18年暮れ、日本がアメリカなど連合国に無条件降伏をする2年前の1943年のことです。統治さんは21歳、慶応の法学部の学生でしたが、兵隊が足りないので文系の学生は仮卒業ということで戦場へ行かなければならなくなったのです。
 当然わが北大、当時は北海道帝国大学からも、統治さんのように学業半ばにして出征した先輩がいたのです。北大はそのころ我が文学部など文系4学部はなかったのですが、農学部の農学科、農業経済学科、農業生物学科の3学科の学生は「ソノ学科ヲ卒業スルコトガ軍要員取得上必要ト認メラレ」ない(7)ということになった。
 いいですか、これらの学科は、いまの学科編成では生物資源科学科と農業経済学科と応用生命科学科に当たるでしょう。そして北大からまっすぐ110人が陸軍、24人が海軍に入ったのです。いや、仮卒業という扱いで行かなきゃならなくなったのです。合わせて134人、これは農学部学生の30%に当たる人数だった(8)と「北大百二十五年史 通説編」に書いてあります。
 北大図書館に山口哲夫さんという先輩が編集した「都ぞ弥生」という本が2冊あります。「都ぞ弥生」を巡る証言や思い出と「一帯ゆるき」をはじめ各年の寮歌の作詞、作曲者に発想、背景などを書いてもらい、まとめた本です。山口さんは亡くなられましたが、当時は日大教授。農経から学徒出陣で海軍に行った1人で、千葉県館山にあった海軍砲術学校でがっちりしごかれたそうです。私が応援団OBだから勧めるわけではないけど「都ぞ弥生」に前口上なんて変なことをせず、素直に歌っていたころの本であり、寮歌ファンはぜひ読んでもらいたいね。
 「北大百年史」によると、このほかにも水産学科の生物系の学生と農学實科、林学実科、予科の生徒で浪人などで徴兵年齢に達したものも学業半ばで入隊(97)したし、教職員もかなり召集され「医学部の応召率が特に高く、助教授現員の四分の一、助手現員の半ば近くが応召している。(108)」とあります。
 残った学生にしても毎日勤労動員で工場や農家で働かされ勉強どころではない。「食糧不足を補うために、校庭の木は切られ芝生は開墾されて、馬鈴薯・野菜などが植えられた。クラークの記念胸像や佐藤昌介、青葉万六らの銅像は、すでに一九四三年六月に供出されて姿を消していた。」が、大学としては「空襲による被害を受けなかったことが、せめてもの幸福であった。(119)」とも書いてあります。
  

参考文献
上記(3)の出典は中央畜産会編「畜産と工芸」5巻7号ページ番号なし、大正8年7月、中央畜産会=原本、 (4)と(5)は美術倶楽部出版部編「現代画家番付」108ページ、昭和4年1月、美術倶楽部出版部=原本、 (6)は東奥日報社編「東奥年鑑 1922」733ページ、昭和3年10月、東奥日報社=近デジ本、 (7)は (8)は人数、北海道大学編「北大百年史 通説」*ページ、昭和57年7月、ぎょうせい=原本、 (9)は同293ページ、同、 (10)は同292ページ、同、 (11)は同296ページ、同


 はい、統治さんの話に戻します。いま兵隊に行ったら生きては帰れないだろう。もう一度自分の部屋を見ておこうと思い立ち「ちょっと失礼」と、いまさっきいった隣の店と本店との間の小路に入った。そして裏から自室に戻ってぐるりと見渡し、大好きだったモーツァルトのバイオリンコンチェルトのレコードを1枚聞いた。それから、さりげなく皆の前に戻ったそうです。私も何人か、たすきを掛けて出征するよそのおじさんの見送りに行き「ああ大君に召されたる…」と始まる「出征兵士を送る歌」を歌い、日の丸の旗を振った覚えがありますが、統治さんもそうだったのでしょう。家族用の玄関が写っている(2)の写真は、統治さんの出征当日、昭和18年11月30日のこうした行動を思い出させたのです。
 ジンパ学の本筋ではありませんが、文学部の学生である諸君は、真っ先に文系の学生をごっそり戦場へ送り出した学徒出陣のことはしっかり知っておくべきだと考えます。まず昭和18年10月21日、神宮競技場で開かれた出陣学徒の壮行会で、どんなことが強調されたのか。皆さんはテレビの終戦特集か何かで学徒兵の行進のシーンは見たことがあるかも知れないけれど、東條首相の訓示全文は聞いたことはないでしょう。
 北大と札幌市立中央と道立の3図書館にある作道好男、 江藤武人編「北海道大学百年史」の学徒出陣関係の一部が資料その2(1)です。では学生全員が文系とみなされたはずの小樽商大、当時の小樽高等商業学校ではどうだったのか。「小樽商大史 開学六十五年」を調べましたら「北海道大学百年史」と編集者が同じで出版年も同じ昭和51年、学徒出陣のいま読んだ箇所はこちらの259ページにもあり、まったく同文だったのです。財界評論新社という出版社が出した「北海道大学百年史」は1萬3500円もした本です。広告を見ると、60余りの大学などの歴史書を出していた。
 つまりですね、この学徒出陣はじめ学制改革など共通した部分を骨組みとして用意しておき、それぞれの学校独自の記録をあちこちに挟み込んで作るお手軽何十年史だったのです。北大当局が出した正史は3冊組みの「北大百年史」であって1冊だけの「北海道大学百年史」ではない。わかるでしょう。だからこそ北大内部だけで11冊もあり、webcatでみると北大を除く21大学図書館などが所蔵されているのですね。
 念のために、このような訓示があったのか調べてみたら、まあ、その通りではあったのですが、まぎらわしい書き方だとわかりました。というのは、11月21日に神宮競技場で行進したけれども「学徒出陣の日」は別の日、東條首相が「死を鴻毛の軽きに置きて悠久の大義に生き」うんぬんと訓示したのは12月1日であり、場所は神宮ではなくてね、北海道新聞によれば「東部第○部隊」であり、朝日新聞によれば「東部第七部隊」の学徒兵を前にしてのことだったのです。
 いくら2年八カ月首相の座にあり、太平洋戦争を指揮していたとはいえ、神宮に集まった大学生たちに対して東條は遠慮気味の訓示をした。でも、いったん兵隊になったからには陸軍大将としてお前たちは命は鳥の毛より軽いと思って死ぬまで戦えといえたのですね。
 そのころの新聞を見ますと、学徒出陣の日は場所によって違ったようで、北海道新聞の札幌市における出陣壮行式の記事が資料その2(2)です。これでわかるように札幌は11月28日でしたが、旭川と函館と帯広では12月1日朝行われており、その前文が(3)です。どうやら学徒出陣日は必ずしも12月1日でなかったので「北海道大学百年史」の元原稿は、日付抜きで学徒出陣の日とぼかしたと推察されるのです。
 折角の機会ですから紙代を奮発して、出陣学徒壮行会、首相訓示、文章挨拶、壮行の辞、答辞を資料その(2)の(4)から(8)として付けました。

資料その2

(1)
 十月二十一日、冷雨降りしきる明治神宮競技場で学徒出陣の壮行会が挙行された。数万の角帽、学生服姿の隊列が東条首相の前を分列行進した。トラックにはね返える泥しぶきを浴びながら、学徒出陣の決意をかみしめつつ、ただ、黙々と行進した。学徒出陣の日、東条首相と岡田文相は学徒の入営状況を視察し、東条は「……死を鴻毛の軽きに置きて悠久の大義に生き、もって無窮の皇恩に答え奉らんとす。これまさに青史にその例を見ざるところにして皇国臣民の栄誉、男子の本懐何ものかこれに過ぎるものあらんや。……」と激励し、訓示した。
(「北海道大学百年史」652ページ、昭和51年9月、財界評論新社=原本)

同(2)
閃めく旗・沸く校歌
 ペンを擲ち学徒征く日の感激

ちぎれよとばかり振る日の丸、初冬の空気をふるはして滔々と沸き上る校歌、祖国に殉ずる血は漲つて学徒は厳然出陣する――二十八日札幌は朝から学徒出陣一色に塗りつぶされた、海の雛鷲として光栄の入校を命ぜられた本道中等学生○○名、徴集猶予停止の新号令 によつて進発する陸の○○名二つの晴れの出陣壮行式が大通聖恩碑前広場で行はれた、学友、近親、隣組の人々の歓呼の嵐に包まれつつ制服に一きは目立つ日の丸襷も凛々しく祖国の急に馳す感激を面いつばいに漲らせて陸続と式場に集まつた、午後二時感激の入営学 徒を前に三沢札幌市長(代理岡内兵事課長)先づ
いまこそペンを捨てて剣をとるべき時機が來た、大君の御盾となつて興亜の大業に参加する男子の光栄これに勝るものはないいざ征け学徒諸君!
と烈々壮行の辞を贈れば満場を掩ふ討たんかなの気勢学徒の双眸に燃え上る、続いて学徒代表長岡留吉君『只今より征きます』とたつた一言力強く答辞を述べて異例の式を終つたが、これより雛鷲部隊は護国神社に行進、最後の参拝を終へ陸の学兵一行は式場より直 に札幌駅にと向つた、沿道に堵列して送る市民からは”頑張れよツ“の激励が飛び征く学徒は感激を一層高潮させ、想ひ出多いアカシヤ並木を去つて停車場へと急いだが○○時発でそれ/\゛発した
(昭和18年11月29日付北海道新聞朝刊2面)

同(3)
既に敵を呑む学兵
  けふ颯爽と営門へ進軍

けふ早朝、全国各地の陸軍部隊の衛門は学徒兵士の浪に埋まつた、懐しの学園に訣れを告げ、父母の膝下を離れて一路決戦場へ出でたつた若人たちの感激は如何ばかりか、その凛々しい眉宇に、紅潮した双頬に、醜の御盾の誇りが輝いてゐる、先輩の忠烈を継いで、日本学徒の意気を示し米英の学生たちを粉砕する秋は來たのだ、君たちの逞しい双肩に祖国の興廃がかゝつてある、学生兵士よ健在なれ、新しき世界歴史は君たちの血潮によつて**たる光彩を放つであらう、武運の長久を祈りつゝ君たちの赫々たる戦功を待つ――
(昭和18年12月1日付北海道新聞夕刊2面)

同(4)
たゞ一筋、醜の御楯へ
 今ぞいで立つ我等
  緑りの外苑に学徒壮行式

校門は衛門に続く…学徒総進撃の命令は下された――宣戦の大詔を拝したあの感激の日以来たゞ黙々学業研鑽に努め只管決戦場へ総突撃の日を待ちこがれるばかりであつたその熱願の征戦命令は遂に下り今ぞ学園において錬りに錬つた心身を祖国に捧げる時が来たのだ
「光栄の十二月一日」を前に本二十一日嘗ては若き熱血を漲らせて技を競つた緑りの明治神宮外苑競技場において「出陣学徒壮行会」が盛大に挙行された、この日午前八時に神宮外苑所定の道路に集結した学徒は東京都、神奈川県、埼玉県、千葉県所在の男子官公私立大学、高等、専門学校、師範学校など七十七校、何れも執銃帯剣、校旗、報国隊旗の下に母校の名誉を担つた衝天の意気を蔵して粛然と整列してゐる、一方出陣学徒の母校七十七校に女子専門校三十校を加へた百七校外に東京都内男女中学校の生徒の父兄達はこれが出征を見送るべく同時刻神宮外苑式場芝生観覧席一杯に集合した、会場には岡部文相がすでに姿を現し又父兄席も満員の盛況だ
やがて九時十五分岡部文相が受礼臺に登壇した、次いで九時二十五分列行進、指揮官文部省岩野体育官の号令一下時計台下の北側入口より学校報国隊旗を先頭に校旗これに続いて第一部隊東京帝大、第一大隊より整然と入場歩武堂々の分列行進が開始された、陸軍戸山学校の吹奏する観兵式行進曲の裡に東京帝大東京商大、慶大、早大と見事な分列行進は後から/\続く、今こそ会場は決戦場へ結ばれたのだ、かくて日本歯科医専を殿りに出陣、全学徒は十時十分所定の式場中央に整列し終つた
各校の校旗が一列に並び式場は学徒に埋つてゐる中を九時五十五分東條首相兼陸相颯爽と入場するや出陣学徒壮行式の開式が厳かに宣せられた、全員起立喇叭 君が代吹奏裡に参加会員はいひ知れぬ興奮の裡に宮城に対し最敬礼を行つた、次いで君が代奉唱、喇叭國の鎮め吹奏裡に明治神宮遙拝、同じく靖国神社を遙拝した、続いて岡部文相の宣戦の詔書奉読、大東亜戦争必勝祈願、戦没将士の英霊に感謝皇軍将士の武運長久祈念の後東條首相起つて学業と兵務につき別項の如く出陣学徒に贈る訓示をなし、次に岡部文相は行学一体の精神を説き餞けの訓示を一首の歌をもつて終れば在学学徒を代表して慶大医学部奥井津二君指揮台に上り、まず三大臣に敬礼、整列する出陣学徒に向つて壮行の辞を述べる、これに応へて出陣学徒を代表して東京帝大文学部江橋愼四郎君、三大臣に向つて烈々たる答辞を行ひ、こゝに征く学徒、送る学徒の鉄石の赤心は正に渾然一体と化した、次いで起る東京音楽学校の出陣学徒からなる報国隊の吹奏する「海ゆかば」を全員声高く斉唱、最後に東條首相再び立つて天皇陛下の万歳を奉唱すれば全員力強くこれに唱和、こゝに意気既に米英を呑む出陣学徒の荘厳な壮行式を終つた、時に十時五十分
同十一時十五分宮城遙拝のための行進が二部隊に分れて開催された、第一部隊は東京帝大第一大隊を先頭に右翼時計台側北口から、第二部隊は早大第十七大隊を先頭に左翼日本青年館側南側からそれ/\進発した、歓送する学徒から期せずしてわき起る拍手の嵐、来賓席、学校長席、父兄席の人達は今ぞ征く学徒をぢつと見送つて動かない、かくて宮城前に両部隊とも隊列を整へ各学校毎に「出で立つ吾等」の誓ひを立て厳粛に宮城遙拝を行つた、最敬礼の学徒の胸裡を去来するものは何ぞ、今は澄み切つた心境にただ一筋醜の御楯と散らんとの決意のみであらう学徒はこゝに敬虔な祈念をこめたのち玉砂利を踏んで再び整然と行進を起し日比谷公園広場で散会した
(昭和18年10月21日付北海道新聞夕刊2面)

同(5)
米英の学徒と対し
  断乎気魄で倒せ
   烈々野決意瞳に察す
      首相訓示

曾て藤田東湖先生が正気之歌を賦してその劈頭に「天地正大の気、粋然として神州に錘まる」と申されたのである。只今諸君の前に立ち親しく相見えて私は神州の正気粛然として今茲に集結せられてゐるのを感ずるものである、諸君は胸中深く既に決するところあり腕を撫して国難にくき烈々たる気魄将に旺んなものがあるのを私は諸君の輝く眸に十分察する事が出来る
若き諸君は今日迄皇国未曾有の一大試試煉期に直面し乍らなほ未だ学窓に留まり鬱勃たる報国挺身の決意躍動して抑へ難きものがあつたと思ふ、然るに今や皇国は三千年来の国運を決する極めて重大なる時局に直面し緊迫せる内外の情勢は一日、半日もゆるがせにすることを許さない、一億同胞が悉く戦闘配置に就き従来の行がかりを捨て身を挺して各その全力を尽く以て国難を克服突破すべき総力決戦の時期が将に到来した、皇国の若人たる諸君が勇躍学窓より征途につき祖先の遺風を昂揚し仇なす敵を撃滅しで皇運を扶翼し奉るの日は来た、大東亜十億の民を道義に基いてその本然の姿に復帰しむるために壮途に上るの日は来た私はここに衷心よりその門出を祝ふものである
もとより敵米英においても諸君と同じく幾多の若き学徒が戦場に起つてゐる、諸君は彼等と戦場におい相対し気魄においても戦闘力においても必ずや彼等を圧倒すべきことを私は信じて疑はない、申すまでもなく諸君のその燃え上がる魂その若き肉体その清新なる血潮き総てこれ御国の大御宝なのである、この際大君の御ために捧け奉るは皇国に生を享けたる諸君の進むべき唯一の途である、諸君が悠久の大義に生きる唯一の途なのである、諸君の門出のその尊厳なる所以は、実にこゝに存する
諸君の光栄ある今日の門出に際しわれ/\の祖先がわが子の初陣に当り一家一門打揃つて祝ひ送つたのと同様の心持をもつて諸君の征途を祝ひ送らんとするものである
希くは青年学徒諸君、私は諸君が昭和の御代における青年学徒の不抜なる意気と必勝の信念とをもつて護国の重責を全うし後世に永く日本の光輝ある伝統を残されんことを諸君に強く期待し且これを確信するものである、而して我々諸君の先輩も亦諸君とともに一切を捧げて皇国興隆の礎石たらんことを深く心に期してゐる、先人の歌に曰く「海潮波流るゝきはみ皇国と思ひて行かね丈夫の伴」と懸軍萬里御稜威を仰ぎ奉りて皇道宣布の大御戦に参加の光栄を担う諸君が必ずやその責任を全うせられんことを切に祈念して諸君に対する私の壮行の辞とする
(昭和18年10月21日付北海道新聞夕刊2面)

同(6)
征く者も止ま者も
 途は大御戦の完遂
         文相挨拶

諸君、昭和十六年十二月八日畏くも米国及び英国に対する宣戦の詔書渙発あらせられてより茲に二年当時の深い感激は今なほ国民の記憶に新たなるものがあるのである緒戦以来大御稜威の下わが忠誠勇武なる皇軍将兵の善謀力戦により南に北に戦果は赫々としてあがり帝国の威武早くも敵国を圧し大東亜建設の巨歩は着々と進められつつあるは国家のため洵に欣幸これに過ぐるものはないのである、諸子も亦多くは学窓にありと雖もよくその使命の重大なるに鑑み日夜修文練武の功を積み第一線にあるの意気をもつて或は学業に或は勤労に精励されたることは世人の等しく知るところである、自分も亦諸子に俟つところ大なるものがあつた、今や戦局はいよ/\重大なる決戦段階に入り一億国民挙つて鉄石の決意をもつて戦闘配置に着き戦力増強の一途に向つて国家の態勢を整備し総力を最高度に発揮せんとする事態に直面しつゝあるのである、既に第一線には諸子の父あり、兄あり、又先輩、同僚あり諸子の出陣を待つこと久しきものがあつたのである、諸子は今日まで学園にあり学業によつて報国の誠を尽さんことを期してをられたことと信ずるのであつて、この抱負固より国家に貢献すること大なるものあるべきは疑ひを容れざるところである、しかし今や諸子は単なる学徒ではなく實に身をもつて大君の御盾となるべき最も大切なる使命を担ふの秋が來たのであり、特に近き将来皇軍の幹部として立つべき重大責任を担つてゐるのである、学園より蹶然起つて先輩の遺訓に習ひ、海に陸に将た空に決戦の第一線を目指して進撃するの路が開かれたのである、戦時下青年学徒にとつて無上の栄誉であり、皇国男子として本懐これにすぐるものはないと信ずるのである
一方暫時入営を延期せらるゝ学徒諸子はなほ當分学園に留まつて修学を続けるのであるがこれ或は智能技術を磨いて米英撃砕の科学戦に果敢なる突撃を敢行せんがためであり或は又国力の根基を培ふべき教育要員の確保に遺憾なからしめんがために他ならぬのであつて、途は唯聖戦完遂の一途にあるのみであり、征くものも留まるものも近き将来には必ず同じ戦場において互ひに尽忠報国の赤誠を誓ひ合ふ学友であり戦友である、即ち今や青年学徒諸子は悉く動員令下にあり生死を超越して戦い抜き勝ち抜くための戦闘配置につくのである、敵は早くより世界制覇の野望をもつて東亜に侵寇してをつたことは今さら喋々を要せざるところであるが、彼等はこれが保持のためには死力を尽してわれに反攻し來ることは想像に難からず、今や戦局は愈よ熾烈を極めてきたのである、凡ゆる困難を克服し敵を撃砕して不敗の陣容を固むるに當つては更に勇気溌剌たる諸子に俟つこと大なるものがあるのである
最後に聊か餞の印として一首の歌を贈りもつてこの壮行の辞を結ばん

海ゆかむ山また空をゆかむとの
若人のかどでををしくもあるか
(昭和18年10月21日付北海道新聞夕刊2面)

同(7)
諸兄よ元氣で征け
     壮行の辞

大東亜戦争の戦局愈緊迫して将に決戦段階に入らんとする秋現在徴兵猶予の恩典を享けつつある青年学徒も亦遂に 天皇陛下の御召により近く挙りて戦場に出て征くことになりました。然るところ、本日茲に文部省並に学校報国隊本部主催の下に出陣学徒壮行會を挙行せられるに當り、吾等徴兵未適齢の故に在学する者また参列して、吾吾に先んじて征く諸兄を送るの光栄ある機会を得、真に感激に堪へないのであります、しかしこの感激こそは、吾々も諸兄に続いて召されて征く日を想ふと湧き上る感激に連るものであります、吾々は諸兄とひとしく既にして選ばれたる学徒であるとともに、立派な兵士であることを自負するものであります
今や吾々は最強なる兵士になることが、とりも直さずもつとも勝れた学徒となることであるといふことを信じて疑はないのであります、諸兄が学窓を去つで戦場に赴くことは決して学徒たることを止めることでないのと等しく、吾々学窓に留まるものも決して兵士たることを忘れ去ることではないのであります
あゝ多数の学徒が軈て一時に戦列に配せられて敵を撃つときの壮絶さを想ひ、たれか胸躍らざるものがありませうか、されば諸兄の心を心として、学問の研鑽を続けると共に、心身の錬磨に努むることを誓ひます、どうぞ諸兄元気で征つて下さい、一言以て壮行の辞と致します

     出陣学徒壮行会参列学徒代表
     慶応義塾大学医学部生 奥井津二
(昭和18年10月21日付読売新聞夕刊2面)

同(8)
誓つて頑敵を撃滅
       答辞

明治神宮外苑は、生等が多年武を錬り技を競ひ、皇国学徒の志気を発揚し來れる聖域なり、本日、此の思出多き地に於て、近く入隊の栄を荷ひ、戦線に赴くべき生等のため、斯くも厳粛盛大なる壮行會を開催せられ、内閣総理大臣閣下、文部大臣閣下よりは懇切なる御訓辞を忝うし、在学学徒代表より熱誠溢るる壮行の辞を恵與せられたるは、誠に無上の光栄にして、生等の面目、これに過ぐる事なく、衷心感激措く能はざるところなり、思ふに大東亜戦争宣せられてより是に二星霜、大御稜威の下、皇軍将士の善謀勇戦は、よく宿敵米英の勢カを東亜の天地より撃攘払拭し、その東亜侵略の拠点は悉く我が手中に帰し、大東亜共栄圏の建設は、此の確固として盤石の如き基礎の上に着々として進捗せり、然れども暴戻飽くなき敵米英は、今やその尨大なる物資と生産カとを擁し、あらゆる化学カを動員し、我に対して必死の反抗を試み、決戦相次ぐ凄惨なる戦局の様相は、日を逐うて熾烈の度を加へ、事態愈々重大なるものあり、時なる哉、学徒出陣の勅令公布せらる、予ねて愛國の衷情を僅かに学園の内外にのみ迸らしめ得たりし生等は、是に優渥なる聖旨を奉体して、近く勇躍軍務に従ふを得るに至れるなり、亦奮起せざらんや
生等今や見敵必殺の銃剣を提げ、積年忍苦の精進研鑽を挙げて悉くこの光栄ある重任に捧げ、挺身以て頑敵を撃滅せん、生等もとよリ生還を期せず、在学学徒諸兄、亦遠からずして生等に続き出陣の上は、屍を乗越え乗越え、邁往敢闘、以て大東亜戦争を完遂し、上宸襟を安んじ奉り、皇国を富岳の泰きに置かざるべからず、斯くの如きは皇国学徒の本願とするところ、生等の断じて行する信条なリ、生等謹んで宣戦の大詔を奉奉戴し、益々必勝の信念に透徹し、愈々不撓不屈の闘魂を磨励し、強靱なる体躯を堅持して決戦場裡に突進し、誓つて皇恩の万一に報い奉り、必ず各位の御期待に背かざらんとず、決意の一端を開陳し以て答辞となす

     出陣学徒代表
     東京帝国大学文学部学生 江橋愼四郎
(昭和18年10月21日付読売新聞夕刊2面)

 各新聞を見比べると東條首相と岡部文相の冒頭部分の扱いに少し違いがありますが、財界評論新社の「百年史」にある字句とぴったりの表現は見当たりません。当時はスパイを警戒して新聞もラジオも天気予報はなし。また記事も学徒の人数は○○名と隠し、雨の中行進したとも書いていません。ラジオでも放送していないはずです。
 いいですか、この学徒出陣の実態は、4万5000人から5万人と推定される文系の学生は、即戦争の役に立たない勉強はやめて、理系学生より先に戦争に行けと命令されての出陣だったのです。いま思うと大変な命令です。
 でも、資料その2を読んでわかるように、表向きは学生自身が志願して兵士になり、喜んで戦場へ赴くという形式を取っていた事実に注目してください。日本男子として生まれたからには、天皇陛下のために命を捧げるのは当たり前という教育を受け、弾に当たったとき天皇陛下万歳と唱えて死のうと、私も思っていましたね。
 隣組や消火訓練に協力しないと非国民といわれ、皆に虐められた。女なら派手な服を着たり髪にパーマを掛けるのも禁じられた。本音では死にたくなくても、そういわざるを得なかった。そういう雰囲気だったのです。(しこ)御盾(みたて)なんて皆さんには難しい熟語が多いかも知れないが、当時の市民は皆読みこなしていたのです。配った資料を無駄にしないよう、じっくり読んでみてください。
 いまの国内情勢を見るに、憲法9条の改正を唱える人々が増えている。私は日本人男子の平均寿命まで残り5年ほどになりましたから、お呼びでないでしょうが、若い諸君が黙っていると「美しい國を守るために」なんて徴兵制度が復活し、どこかの国みたいに2年は兵役に服さなければならないようになるかも知れない。もしかすると世界のどこかの戦場に駆り出されて命を落とさないとも限りません。先の長い皆さんは、もっと政治に関心を持たないと、いつの間にか「悉く戦闘配置に」つけさせられますよ。
 さて、学徒出陣した統治さんは陸軍通信学校に入るのですが、それに関して1つ秘話と思われることがあるのです。福岡大学に正式名称が「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム 松井家文書」という資料が保存されています。平五郎さんが赤坂で店を開き、その店が太平洋戦争の帝都空襲で焼失するまでのことを初太郎さんが晩年書き留めたものが原本で、それを福岡大学教授だった親類のある方がコピーしたものです。
 松井家文書と呼ぶ場合は全部公式名称で呼ぶという約束がありますので、略さずに福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書と呼びますがね、webcatの検索では出てこない。ために私が嘘をついていると思われかねないので、ちょっと説明しておくとね、福岡大学研究推進部所蔵のマイクロフィルムの中にあります。私はそれを検索で見付けて飛行機で福岡まで読みに行った。翌日は九州大にお邪魔して夜行バスで東京に戻り、新宿からすぐ国会図書館へ行った。バスで14時間耐えたから、エコノミークラスでニューヨーク直行の自信がつきましたね。貧乏な研究者は冴えた頭だけでなく、鍛えて頑丈な体にしておかねばならんのです。おっとっと、福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書のことでした。
 そのトップページは「御祝  東條」と書いてあるのし袋のコピーだったんです。裏のコピーを見ると筆字で「統治、広島山部隊 応召、入営の際 当時、内閣総理大臣 東條閣下家より 餞別に金壱封賜」とあった。東條家は本店のいいお得意さんだったからですが、陸軍大将の総理大臣が一兵士に餞別をくれたなんて、ヒルマン監督じゃないが、信じられなーい、ですよ。初太郎さんにすれば、名誉なことであり家宝に価すると思ったからこそ、裏書きして大事に保存したのですね。
 統治さんが入隊してから、東條夫人から葉書で礼状がきたことがあったそうです。上官がこの東條とは総理らしいが、どういう関係かと説明を求められた。それで、はっ、自分の店のお得意でありますと答えたら、驚いたらしかったという話です。福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書にはそんなエピソードは書かれていませんが、一般市民は「欲しがりません勝つまでは」と空きっ腹を抱え我慢しているときでも、松井本店の営業は統制外に置かれ、皇族華族などのお屋敷には注文通り肉類を配達していたそうで、どうもそうした配慮の礼状らしいのです。
 統治さんの父親初太郎さんが昭和38年、喜寿を迎えて書いた「松井家文書」に松井本店が御用を承っていた17宮家などリストに東條閣下の名前があるから、これは実話ですね。スライドにしてあるので、宮家と公家が17載っているそれを見せましょう。

一、主ナル納入先

 宮内省各宮家
 宮内省 大宮御所 東宮仮御所 青山御所
 秩父宮家 高松宮家 三笠宮家 閑院宮家
 東伏見宮家 伏見宮家 山階宮家 賀陽宮家
 久邇宮家 梨本宮家 朝香宮家 東久邇宮家
 北白川宮家 竹田宮家 昌徳宮家 李鏈公家
 李鍝公家

 官庁関係(順不同)
 陸軍糧秣本廠 陸軍千住製絨所
 近衛師団管下各聯隊 農商省

 華族家
  公爵家
  島津家 徳川御三家 近衛家 大山家
  鷹司家 一條家 九條家 山縣家
  伊藤家 桂家 毛利家

  侯爵家
  山内家 池田家 西郷家 鍋島家
  前田家 広幡家 小松家 徳川家
  仲御門家 木戸家 細川家 山階家
  中山家 華頂家 筑波家 黒田家
  松平家 淺野家

  伯爵家
  柳原家 寺内家 二荒家 葛城家
  東伏見家 伏見家

  東條総理大臣 松平宮内大臣 百武侍従長 白根宮内次官
  甘露寺侍従次長          以下略

 宮内省御関係
 最近五年間売上高
  昭和十四年 六万円  五二、〇三四円
  昭和十五年 六万円  五六、八二〇円
  昭和十六年 七万円  七一、二八九円
  昭和十七年 八万円  七五、六七〇円
  昭和十八年 八万円  七七、三一〇円
 右之通リ候也
           合名会社 松井商店
           代表社員 松井初太郎
<注 前記の字は総て毛筆書きだが、売上高の何万円に×印があり、その訂正とみられる鉛筆かシャープによる円単位の数字書き込みがある。>

 昭和17年に帝国畜産会が出した「我国に於ける緬羊飼育の実際」によると「現在、緬羊の取引は食肉配給統制規則に依り取締まられ、食肉配給統制会社の手に依り取扱はれ自由売買は出来ない。尚同会社の手に依る緬羊肉の最高販売価格は次の通りである。」として肥育させた羊肉の枝肉1貫目が、日本食肉統制株式会社は6円30銭、地方畜肉配給機構または卸売業者は6円60銭、小売業者は7円10銭と定めています。(10)これは建前ですよ。人生いろいろ世の中いろいろ、いまも変わらないんですなあ。
 さて統治さんは無事卒業、見習士官となります。昭和20年8月6日の朝、廣島の船舶通信隊補充隊のグラウンドで抜刀して点呼の号令を掛けた瞬間、原子爆弾が広島市上空で炸裂した。30メートルも吹き飛ばされて頭と右手に大やけどをした統治さんは、兵舎の横穴の中で避難してきた多くの瀕死の市民に出会い、自分も生死の境をさまよったのです。
 成吉思莊について何でも知りたいと検索していて、私はNPO「昭和の記憶」というホームページで被爆体験を含む統治さんの思い出話を見付けたのです。後に同じ内容のブログもできておるが、ホームページには統治さんが被爆したとき付けていた革のゲートルの写真があります。(11)すねをすっぽり覆うもので、実物を見せてもらいましたが、もっと黒っぽいものでしたね。
 でもホームページでは統治さんの住所などはわかりませんから、あちこち検索しました。加入団体や出身校などのサイトを通じて、成吉思荘のことを知りたいとお願いして統治さんとお会いできたのです。それで松井家の記録を拝見したり、初太郎さんと統治さんが作り出して成吉思荘で使っていた鍋とコンロを撮影させてもらえた。だから、こうして成吉思荘のことを自信を持って話せるのです。
 私の研究日記によると、平成18年4月23日、初めて統治さんのお宅に伺ってます。歓待されて終電近くまで取材させてもらいました。このときは山形で調査を済ませて、またお訪ねして2回お会いしました。2回目に私がよく存じ上げている文学部のある先生と統治さんが東京の暁星中学以来の同期生とわかり、あいつの教え子ならと信用されたんですよ。全くの偶然でしたが、世の中狭い。その後、横浜に居られた先生に電話して統治さんのことをお知らせしたら、元気のいいやつで学校に牛の角を持ってきたことがあるといわれました。
 3回目になる同年10月8日に伺ったとき、その話をしたら大笑いされました。4回目と5回目は平成19年6月14日と15日で献立撮影は失敗したが、アルバム類と一緒にまた写させてもらおうと日記にあります。病気のため直前取り消しが2回あり、平成20年12月2日は電話で1時間ほど話を伺ったのが最後。平成22年入院され9月6日、88歳で逝去されたのです。
 統治さんは復員、つまり敗戦によって軍人ではなく普通の人として実家に戻ったら、親戚や多くの知人から被爆体験を聞かれた。それで記憶がしっかりしているうちにと書いた体験談がですよ、母校暁星学園の「研究紀要」に収められたのです。「連れて帰れなくて御免ね」というような題だっと思います。被爆の瞬間、兵舎の倒壊、横穴での治療などのほかに、広島で知り合ったある姉妹も被爆しただろう。自分も被爆して動けなかった。助けに行けなくてすまなかった―という内容だったと思います。
 いま2度も思いますといったのは、誠に申し訳ないことに私がね、統治さんから頂いたその貴重な「研究紀要」をうっかり東北大震災被災地に本を贈ったときか、不要本一括引き取りに出してしまったらしく、書棚に今ないのです。成吉思荘について初めて講義をしたとき、もう1回やる講義で統治さんから頂いた成吉思荘のサービスマッチ4箱、盃4杯セットなどと一緒に紹介するつもりでいたので、ここではその本には触れなかったのです。
 行方不明に気付いてから暁星学園に手紙で問い合わせても返事がないし、国会図書館はじめ思いつく図書館を検索しても暁星学園が出した紀要のような本はない。日本の古本屋サイトでも同窓会名簿が何冊かあるぐらいで「研究紀要」の何号の何ページ、要旨はこうだといえない。だから私のおぼろげな記憶で説明するしかないのです。暁星学園の関係者で、もし松井統治さんの被爆体験報告の掲載号をご存じの方は、ぜひGメールの尽波満洲男あてにご一報願いたいのであります。
 さて、統治さんの住所がわかったので、お話を伺いたいと手紙を出したら、間もなく返信がありました。その最初頂いた手紙を見て、私は本当かねと驚きました。なぜなら、それには初代の成吉思荘の写真などの載った平成17年5月28日付東京新聞朝刊30面のコピーが同封されていたからです。全体の題名が東京の次ぎに?が3つ並べてあり、それぞれなぜとルビが付いてますから、この題は「とうきょうなぜなぜなぜ」と読むんですね。嘘ではないという証拠に、その写真をスライドで見せましょう。はい、これですよ。写し方が下手なのでなくて、それとわかる程度にぼかし、ちょっと色も変えました。鮮明に撮って記事が読めたら1ページ転載したも同然で、著作権侵害になるんじゃないの。それが心配でね、いや、本当に。

   

 日本新聞協会のサイトにリンクしている東京新聞の発行部数をみますと、朝刊だけでも50万部以上発行されている大新聞ですよ。その読者の一人ぐらい、成吉思荘の元経営者が写真などを保存していると東京新聞に載っていたとウィキペディアへ書き込んでくれてもよさそうなものだが、だれもやらない。どこの新聞社も紙面の著作権保護にシビアなのを知って黙過したのかも知れません。ですから、私がわずか数年前、著作権保護期間の50年から見れば真新しい記事をここで紹介するのも、恐る恐るやらせて頂くのでありますよ。東京新聞さん、お手柔らかにお願いしますと前置きしてね。
 さて、その紙面ですが、いま見たように「ジンギスカン誕生秘話 背景に羊毛政策」「百年前 松井商店が肉も販売」という大きな見出しがあり、統治さんの顔写真はじめ5枚も写真を付けた140行ほどの記事で、本店と成吉思荘の歴史が要領よくまとめられているのです。
 前文を読むと、東京新聞の記者が統治さんを見付けたのではなくて、5月14日付の同じ「東京???」で「今話題のジンギスカン料理の由来を紹介したところ」統治さんから「昔の写真などが残こっていると連絡をいただいた。(12)」とあります。それでは、まず5月14日付の東京新聞のそのページを読む必要があります。東京新聞思い出新聞係に注文してコピーを取り寄せました。その写真も見せたいのですが、君子、二枚危うきに近寄らず。見たい人はメールで申し出なさい。
 それには「ジンギスカン店 急増中」「牛、鶏失速 羊が猛追」という大見出しがあり、前文は「東京でいま、専門店の数が急増中の人気料理といえばジンギスカンだ。<略>北海道の名物料理だが、なぜ東京で注目を集めているのか。そもそも、この料理をジンギスカンと呼ぶ由来は? ジンギスカン好きの記者が探った。(13)」となっています。
 あらすじを説明すると、東京ジンギス倶楽部の調べによると、都内の専門店は平成15年末は13店だったのが17年4月末には50店に増え、今年中に100店を超す勢いという。こんなに勢いづいたのは海綿状脳症の牛肉、鳥インフルエンザが不安で羊肉が注目されたと同倶楽部の霜野史明さんが指摘している。いま食用になっている羊肉は、ほとんどオーストラリアとニュージーランドからの輸入品で生鮮・冷蔵羊肉の輸入量は「二〇〇四年までの二年間で倍増した。(14)」と書いてあります。
 そしてジンギスカンという名前は「日本人が命名し、初の専門店は意外に東京にあったらしい。」と名前の由来を尋ねる。北海道中央農業試験場の高石啓一さんが登場して、中央部が盛り上がった鍋は昭和11年に成吉思荘が実用新案登録した(1514)と明かす。
 次いで平成6年に閉店した成吉思荘のパンフレットを持っている人として旧日本緬羊協会役員だった国政二郎さんが紹介される。「成吉思荘のメニューやバンフレット(16)」という説明で、ガスで焼く鍋が写っている4種のパンフレットなどの写真が1枚載せてあります。
 私は統治さんからその写真の右手前に見える8ページのパンフレットを頂いております。資料その3は写っているページそのものです。鍋は統治さんが開発したガス焜炉用で、頂点にこんもり丸い蓋があり、その根元の隙間から燃焼ガス上に逃がして火力を保つよう工夫したそうです。このパンフレットには、パオを模した小部屋など店の見取り図も載っているから、後でまた詳しく見せましょう。

資料その3



 画面上部の説明文は下記の通り。

蒙古のロマンただよう成吉思汗料理

蒙古の英雄″成吉思汗″が欧州を席捲したと
き、陣中で兜のうえに羊肉をのせ、これを
焼いて食べたのが″じんぎすかん料理″の
起こりだそうですが、蒙古では最近ま
で羊肉を水たきにして、塩味を加える
程度の簡単なものであったようです。
蒙古料理本来の、さらりとした味をも
とに、中国風の濃味を加えたもので、
北京城外の正陽楼の、有名な料理
「烤羊肉」(コウヤンロウ)をもとにし
たものです。
戸外に机をおき、そのうえに火鉢と鉄
架をのせて、特製のたれをつけて羊肉
を焼きながら立食する「烤羊肉」は、豪快
で東洋的なムードがあふれています。
″成吉思莊″の「じんぎすかん料理」は、
こうした持味を生かしながらたれと薬
味に改良を加え、日本人の味覚に合うよう
につくり上げたものです。

 5月14日の「東京???」の記事に戻しますが、この成吉思荘が店を閉めるとき、緬羊協会に鍋を引き取らないかといってきたというのです。けれども協会は財政難で実現せず、国政さんは「その後、当時の鍋はどうなったかは不明だ。」と残念がっているとあります。国政さんは道新の「探偵団がたどるジンギスカン物語」でも同じ話をしていましたよね。
 しかし、統治さんによると、そんな相談をした覚えは全くなく、山形県のある人に「これで商売でもしたら」と進呈したというのです。私がそのある人、プライバシーを尊重してある人といわざるを得ませんが、ある人に鍋のことを尋ねたところ、平成17年ごろまで営業した後ある人に渡した。別のある人は、そんな由緒ある鍋とは知らず間もなく古いからと廃棄してしまったそうです。
 全部屑鉄になったかも知れないが、もし山形県内に残っていたらぜひ私に知らせてほしい。今風にいえばマジに一報を願っておるのです。こう話しておけば講義速記にちゃんと残り、山形の人がそれを読んで捜してくれるかも知れませんからね。
 また記事はジンギスカンという呼び名について、昭和6年の文献に「網焼きの羊肉料理として『成吉思汗料理』が紹介されている。高石さんは、このころに命名されたとみる。(17)」。根拠は大正6年に中国東北部に日本の種羊場がつくられ「そこで焼いた羊肉を食べたようだと指摘。大陸が発祥とうわさされ、ジンギスカンと呼ぶようになったと推測する。(18)」と書いてあります。続けて「このほか、北京の羊肉料理『烤羊肉(こうやんろう)』を日本人がジンギスカンと名付けたとの説もあるという。(19)」とあるから、高石さんがそうもいったのですな。どうやら高石さんは、平成15年に道新探偵団に対して断言した駒井徳三命名説はすっぱり、リセットしてね、大陸発祥という連想からという説と北京在住日本人命名説と2説あると記者に語ったと思われます。ことによると、北京邦人命名説は、鷲沢・井上コンビを挙げているこの私の講義のことかも知れません。
 そして「種羊場は北海道につくられ、ジンギスカンは北海道の名物になる。一方で、羊肉は戦後、ソーセージの原料などに使われたが、独特のにおいなどが敬遠され、冷凍の輸入量は減少傾向が続いていた。今回のブームで復権となるのか。(20)」というようなことで終わっています。
 統治さんはそれを読んで、いやいや、私の手許に成吉思莊のパンフレットやメニューだけでなく、色々な写真もあるよと名乗り出たのでした。ですから「誕生秘話」の方は写真が大きなスペースを占めている。それらの写真説明を引用しますと、一番大きい写真には「『成吉思荘』のジンギスカン料理(1980年ごろ撮影)(21)」です。初太郎さんが実用新案登録したかなり大きな鍋とコンロを使い、だれかが肉を焼いているところです。今後の説明でも炭で焼くこの鍋のことはちょいちょい出てくると思いますので、こちらを1号鍋、統治さんが開発したガス用の鍋を2号鍋と呼ぶことに決めておきます。資料その3の鍋は2号鍋ですが、すぐ焦げ付きそうにないおっとりした感じを与えますよね。
 この写真ではロースの大きな肉片をたっぷり盛った皿、玉葱、椎茸、春菊などの野菜の皿、竹串に刺した脂身の皿と3つの皿が写っています。脂身は肉を焼く前に脂を敷くのに使うのです。そして、肉を焼いている1人の手が写っています。お座敷では女中さんが1枚ずつ焼き上げてお客に勧めていたのです。
 次はに大きな写真は「開店当初の『成吉思荘』玄関。杉並区内に約300坪の敷地面積があったという(松井さん提供)(22)」です。瓦屋根の堂々とした玄関で、への字形の厚い板に「成吉思汗料理」と右書きで彫り込んだ額が掛かっています。この額はいま統治さんが保存しています。また、1号鍋を図案化した短い暖簾も掛けていたことがわかります。私は現物の写真を見せてもらいましたが、初めは酒を入れるひょうたんの図柄かと思いましたよ。1号鍋はコンロの脚がUのような形をしており、それがひょうたんのくびれに結んだ紐みたいにみえたのです。
 統治さんの写真には「『成吉思荘』の思い出を語る松井統治さん=東京都中野区で(23)」と説明が付いています。残る2枚は小さくて、1枚は「菜單」「成吉思荘」などの字が読めるメニューで「1935年ごろに『成吉思荘』が開店した当時のメニュー。定食で1円50銭とある。38年当時の東京―大阪間の鉄道運賃(3等)は6円27銭(現在は3510円)だった(24)」と説明しています。
 もう1枚は「北京で撮影された烤羊肉用とみられる鍋。中央部がわずかに盛り上がっている点は、ジンギスカン鍋と似ている(いずれも松井さん提供)(25)」という写真です。これは、正方形の机の上に桶型の炉があり、その中で火が燃えており、その上に3本か4本かはっきりしませんが、五徳みたいな脚の着いた円盤が乗っています。ロストルみたいな脂の落ちる隙間があるはずですが、写真ではただの平盤に見えます。
 はて、どこかで見たようなと考えたら、これは平成8年「畜産の研究」に高石さんが発表した「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」に添えられた「写真3 昭和初期、本場の烤羊肉鍋(北京所見)(26)」でした。非常に似ているのです。こちらは鍋とコンロが2組はっきり写っていますが、東京新聞のは1組だけだが、カットされた奥の方の鍋の部分らしいものがあり、断定はできませんが、同じ写真のように見えます。
 統治さんの話では、高石さんは一度尋ねてきたことがあるそうです。いまいった論文には1号鍋の中央部の盛り上がりが見えるよう横から撮った写真も付いていますから、そのときコピーさせてもらったのでしょうね。こうした鍋が北京にたくさんあったものかどうかなど、後日、鍋の形を講義するときにまた取り上げましょう。
 さて、統治さんが名乗り出た「東京???」ですが、統治さんと高石さんの談話に基づいた本店から成吉思荘に至る松井3代の歴史が手短に書いてあります。さらに山田喜平さんが書いた「緬羊と其飼ひ方」に金網で焼く方法が書いてあるのに、なぜ成吉思荘では専用の鍋を採用したのかという点にも触れ、昭和5年ごろ陸軍関係者が烤羊肉の鍋を松井商店に持ち込んだという話があると高石さんがいうし、その「烤羊肉鍋を改良したため、金網を採用しなかったという推測が成り立つ。」(27)と記者が推理しています。
  

参考文献
上記(10)の出典は井手利一著「我国に於ける緬羊飼育の実際」52ページ、昭和17年3月、帝国畜産会=原本、 (11)はhttp://www.memory
-of-showa.jp/result/
shisei/item/00060/
(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17)、(18)、(19)はいずれも平成17年5月14日付東京新聞朝刊30面「東京???」=原本、(20)、(21)、(22)、(23)、(24)、(25)、(26)、(27)はいずれも平成17年5月28日付東京新聞朝刊30面「東京???」=原本


 統治さんと高石さんの談話と資料を土台にしたと思われる東京新聞の記事は、だいたいこんな内容です。しかし、こちらは世界最先端を行くジンパ学です。松井3代が羊肉とともに100年、その事跡を講義すれば、大筋は似ていても、研究仲間の協力で、統治さんが見ておられない資料なども集めてあります。では平五郎さんが東京赤坂に本店を開き、牛肉や豚肉とともに、なぜ羊肉を売るようになったのか―というところから、話を進めます。
 私は明治42年11月3日、当時の天長節の都新聞に松井本店の広告が載っているのを見付けました。資料その4の広告ですが、右端をよく見れば「天長節の料理店 ◎此欄へ広告せば市内十万の人に目せられ広告料最低廉なり(いろは順)(28)」とうたっているでしょう。この2段広告は東京市内の牛肉店や肉料理店35店が明治天皇の誕生日を祝って一緒に出したもので、中に成吉思荘のルーツ「松井商店」の広告がある。資料その4は広告の右半分ですが、下段左から3つ目の松井商店がそれです。営業品目に牛肉、豚肉だけでなく羊肉がちゃんと入っている。明治42年には、もう羊肉を扱っていた証拠です。
 その1つ置いた右隣に「牛肉店元祖」と大きくうたった中川という店がありますね。これが「<略>明治元年に芝の露月町に堀越藤吉といふが切売を開業した(今の神田淡路町の中川)目的は外国人の供給にあつたが日本人でも開けた官員などはソロ/\牛肉を喰ひ出す様になつて、無闇と功能を吹聴する、翌年は卅間堀の紀の國橋へ開業したのが今の京橋の河合、是も外国人や官省の役人などに売るのを專門にしてゐた、間もなく両家とも鍋屋となつて家に客を取る、<略>(29)」と、都新聞に載っている中川ですね。
 その中川の右上に「芝浦 ろせつた」とありますが「東京風景」という本に繋留した船の写真があり「是は芝浦の海瀬に在るロセツタホテルの全景也、日露交戦の際武器兵■<1字不明>運送の用に充てる為め、外国より購入せしロセツタ号と称せし船舶の化身なり、元来老船なりし為め、爾後航海の用に適せざるより茲に据付けて旅館兼料理店と為し、一種風変りの設備を呼びものとし、世の喝采を博するの趣向なり(30)」 と説明している。横濱の氷川丸のいわばご先祖ですな。
 松井商店は「むし焼豚元祖」をうたっていますが、これはどんな製品でしょうかね。豚肉の塊をオーブンで蒸し焼きにしたものかどうか。後に高輪にできた松井牛肉店、高輪支店の営業品目には焼豚が入っていますが、これは中華料理の焼く方のチャーシューと思われます。まあ、このころには、こうした企画広告に付き合わないかと広告会社から声が掛かるランクの大きな肉店に成長していた思われます。

資料その4

   

 この広告を見付けて、なぜ11月3日なのかと考えたら「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書」によると店の開業記念日だったのです。となれば、5年とか10年とか節目の11月3日にお陰様でと広告を出しているのではないかと、都新聞だけですが、調べたのです。開業したという明治24年は都新聞が6月以降は失われ、復刻版には濃尾地震の被害写真だけ載せた11月18日の付録しかありません。
 節目の年に見付からないので、では前の年の明治41年の11月はどうかと見たら、都新聞が面白い人気投票をやっていたのです。それは牛鳥料理店と生肉販売店に一緒にして、どの店が「品質が良く、そして客扱いも丁寧・親切で、器具調度が清潔であるか」読者の投票で選ぶというのです。部数拡大を図って都新聞は毎月、投票用紙は「本紙に摺込たるものに限る(31)」として、こうした人気投票を催していたのです。
 だから、有名俳優を数人変装させて、印度巡査はだれそれと当てさせたり、後ろ姿美人投票なんてわけのわからない懸賞もやったんですなあ。牛鳥店投票は1等から3等までの「三傑の当選者には本社の新案に基き斯道の名匠の妙技に作られたる華麗優雅な衝立型飾看板各一基を、更に四等より十等までには本社意匠の掛時計各一個を贈呈(32)」というのですが、とにかく上位に入らなくては沽券に関わると、名の知られた店は票集めに奔走したのでしょう。
 39日間の投票期間が終わり、上野山下の釜屋という牛鳥料理店が25万7349票で1位になりました。(33)それから都新聞は連日投票対象になった141店を少しずつ発表して、11月14日にビリを含む下位41店を掲載した。スライドで見せましょう。都新聞としては積極的に票集めをしなかった罰のつもりか、紙面で冷遇し、1段幅5センチちょっとに、小さな活字でこれだけの記事を詰め込んでます。

●牛鳥料理店  投票の結果
   肉販売店

▲(二一)横濱相生町(牛)柳屋
▲(二〇)赤坂田町六丁目(牛)松井平五郎
▲(二〇)京橋八丁堀仲町(牛鳥)早川
▲(二〇)榊田猿楽町一丁目(牛)水村店
▲(一八)府下内藤新宿(牛鳥)甲州屋
▲(一六)芝二葉町(牛)黄川田
▲(一五)本郷四丁目(牛)三枝
▲(一五)赤坂田町(牛鳥)吉川
▲(一五)神田美土代町(牛鳥)松美家
▲(一四)下谷上野山下(牛)金子
▲(一三)浅草千束町二丁目(鳥)大金亭
▲(一二)淺草千束町二丁目(牛)尾島屋
▲(一〇)麻布飯倉五丁目(牛)米久
▲(一〇)京橋南新堀一丁目(牛鳥)今源
▲(七)京橋本八丁堀四丁目(牛)四国屋
▲(七)本郷湯嶋六丁目(牛)恵知勝
▲(七)横濱市伊勢佐木町(牛)荒井屋
▲(七)日本橋堀留町三丁目(牛)長谷甚
▲(六)芝通新町(鳥)稻毛屋
▲(六)芝愛宕町二丁目(牛)鈴丈
▲(六)神田連雀町(牛)第六いろは
▲(五)下谷上根岸御院殿前(牛)南養軒本店
▲(五)淺草馬道二丁目(鳥)金田
▲(五)府下南千住町(牛)伊吹
▲(五)芝口二丁目(牛鳥)今朝
▲(四)下谷元黒門町(牛)快養軒
▲(四)小石川小日向水道町(牛)いろ松
▲(三)日本橋馬喰町四丁目(牛)今清
▲(三)浅草小島町(牛)ばち兼
▲(三)本所二ツ目(牛)金子
▲(二)芝西の久保櫻川町(牛)玉子屋
▲(二)浅草千束町二丁目(牛)米久
▲(二)芝太左衛門町(牛)水野
▲(二)本郷元町(牛)金子
▲(一)浅草馬道二丁目(鳥)高砂
▲(一)本郷龍岡町(牛)豊国
▲(一)日本橋室町三丁目(牛)吉川
▲(一)赤坂青山南町六丁目(牛)青山亭
▲(一)神田今川小路一丁目(牛)今荘
▲(一)芝三田四國町(牛)今福
▲(一)芝愛宕町一丁目(鳥)中安商店

 20票の中に松井平五郎があるでしょう。102位、105位ともいえますがね。大抵屋号、店名なのに平五郎さんは本名ということは、恐らく少しは票集めをしたが、料理店の物凄い競り合いを読んで、はやばやと諦めたとみますね。牛肉の老舗で後に羊肉も扱った芝二葉町の黄川田が16票、いまも繁昌するすき焼きの恵知勝が7票ですから、平五郎さんの20票は健闘でしょう。
 それでね、11月3日が開業記念日なのだから、まず開業致し候と広告を出しているのではないかと、明治24年の「都新聞復刻版」を見たら、6月以降の失われており、濃尾大地震でつぶれた家などの写真9枚を載せた11月18日2662号付録(34)だけでした。それから3年、5年、10年の節目の11月3日を見たのですが、広告はありませんでしたね。だから、多分松井本店の名前が新聞に現れたのは、明治41年のこの人気投票が初めてでしょう。2回目が翌年のむし豚焼きです。
 畜産関係の文書に松井肉店、この講義では本店ね、この名前が出てくるのは明治44年からです。明治43年に肉食奨励会が「肉と乳」という雑誌を発行したのですが、その1巻5号の商況欄に羊肉が初めて取り上げられ「東京松井商店」が「骨付一斤 四十銭乃至四十五銭 小売一斤 五十銭乃至五十九銭(35)」と情報を提供し、その後ずーっと続けています。その2号前に横濱市元町の丹後屋羊肉店が「羊肉(マトン)ノ美味ヲ知ラザル人ハ眞ノハイカラニ非ズ(36)」と1ページ広告を出しています。スライドでその広告をちらっと見せましょう。はい、これね。北大生はジンパで羊肉のうまさを知ってるから、あのボロ羽織を着る応援団の彼等も、実はハイカラな人ということになりますね。よかったねえ。

           

 「昭和の記憶」で統治さんが祖父平五郎さんのことを語っていますが、福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書に記されている生涯を要約すると、こうなります。明治14年19歳で三重県から上京した。5年間養豚を修業して23歳で独立し、養豚仲買業を始めた。これで成功したものの相場の変動ですっかり財産を失う。そこで未経験ながらも明治24年赤坂で精肉店を始めた。後に松方侯爵の牧場の羊肉販売を引き受けた。明治44年に宮内省御用達に選ばれ、2代目初太郎さんに家督を譲ってからは、五反田で緬羊を飼い、後に茨城県に牧場を開いて自家産の羊肉を供給できる体制を作った(37)―ということですね。
 統治さんによりますと、平五郎さんは占い師に占ってもらい赤坂で店を開いたそうですが福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム、松井家文書にも(1)赤坂区溜池町附近の未開地(2)将来を期待して忍耐と努力を生命として開業すること―の2条を守るようにいわれたと書いてあります。とろこが、赤坂に行ってみると、ぽつんぽつんと家が建っている淋しい草原だった。なにしろ明治になってからそれこそ溜め池を埋め立てて、明治21年に溜池町となったところですからね。
 でも赤坂田町6丁目9番地に商店によさそうな2階建ての家が見つかった。1階は3坪の土間と4畳半、2階に6畳間があり、家賃は月2円50銭というこの家を借り、未経験ながら主に牛肉を売る精肉店向きに改造した。資本金は手持の19円也、明治24年11月3日を吉日として「松井商店」が堂々開店したのです。この日は明治天皇の誕生日、当時は天長節と呼んだ祝日です。時に平五郎さん29歳、初太郎さん5歳。(38)成吉思莊のルーツはここから始まるのです。
  

参考文献
上記(28)の出典は中日新聞監修「都新聞復刻版 明治42年11月」19ページ、明治42年11月3日付5面、平成10年10月、柏書房=原本、 (29)は同「都新聞復刻版 明治41年11〜12月」79ページ、明治41年11月5日付3面、昔の牛肉屋(変れば変る面影、江戸通の故老の話)、平成10年6月、柏書房=原本、 (30)は小川一真出版部編「東京風景」ページ番号なし、明治44年4月、小川一真出版部=近デジ本、 (31)は同「都新聞復刻版 明治41年9〜10月」155ページ、明治41年9月25日付5面、平成10年6月、同、 (32)は同「都新聞復刻版 明治41年11〜12月」145ページ、明治41年11月14日付5面、平成10年6月、柏書房=原本、 (33)は同「都新聞復刻版 明治41年11〜12月」49ページ、明治41年11月9日付5面、平成10年6月、柏書房=原本、 (34)は同「都新聞復刻版 明治24年」263ページ、明治41年11月18日付、平成12年2月、柏書房=原本、 (35)は肉食奨励会編「肉と乳」1巻5号*ページ、明治44年*月、肉食奨励会=原本、 (36)は同1巻3号29ページ、同44年1月、同、 (37)と(38)は「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム 松井家文書」。同部のホームページ http://www.adm.fukuoka-
u.ac.jp/fu844/gaku/komon
/index.html#micro は学術文化資料(古文書)として「明治26年創業の松井商店に伝わる史料である。初代平五郎は三重県出身で上京して牧畜業の修業をし、同26年に食肉販売業(大正11年国産緬羊肉問屋、昭和11年国産緬羊肉試食所)を起こす。のち全宮家食肉配給指定店となっている。(史料点数8点、目録なし、マイクロ1本)」と説明している。


 松方羊肉の販売を始めた経緯や売れ具合などにについて平五郎さんの書いたものとしては、大正14年の「羊肉販売の実況」があります。資料その5の(1)にその「緒言」の一部を引用しました。明治の人らしく率直な書き方ですが、農商務省から国内唯一の羊肉販売商の指定を受けた決意を書いています。この後に全国から出荷される羊肉は私の店で全部売りさばくから、緬羊農家の羊肉の品質を落とさぬよう出荷の決まりを守ってもらいたいと呼びかけています。
 資料その5(2)は、昭和6年に糧友会が開いた羊肉消費座談会に招かれた平五郎さんの発言です。陸軍省経理局の丸本彰造衣糧課長が司会を務め、平五郎さんの話を補足したうえ、糧友会が貢献したと自画自賛してます。実際にはもっとやりとりがあったのでしょうが「糧友」に掲載するため圧縮されたと思われます。
 (3)は松方さんが書いたような形をしていますが、内容は談話の速記ですね。松方さんが農務局長だったとき下総で緬羊を飼ったが、病気でどんどん死ぬ。それでパリ博覧会事務総裁としてフランスに行ったとき、ある農学校で病気対策を尋ねた。するとフランスでも初めは病気が多発して、緬羊はわが国土に合わないとあきらめて農民に払い下げたことがある。でも農民たちの放し飼いで、緬羊はちゃんと育つことがわかった。つまりお役人の過保護、仕事だからと餌を与え過ぎるのがよくないといわれたそうです。それで松方さんは特に草の生え始める春先の飼い方に注意して、長男巌氏が(4)に書いたように500頭前後にまで増やすことに成功。平五郎さんに売り捌くよう頼むまでになったのです。

 資料その5

 (1)一、緒言

<略>抑も私が羊肉の販売を始めたのは昨年主務省より指定を受けたのに初まつたのではなくして、實は明治三十九年五月栃木縣千木松農場(松方農場)の羊肉依託販売を初めた時に在る。當時羊肉は横濱に於て加奈陀、濠洲、上海等の屠肉を輸入して外人の需要に応じて居たのみであるから在東京在留の外人の不便は實に甚だしいものがあった。仍て此の外人の不便を補はんが爲に羊肉販売を開始したのであるが最初は羊肉の生産も少かつた爲め羊肉の普及に就ては何等積極的宣伝をなさず主として外人方面の需要に応ずるに過ぎなかつたが、今日では緬羊飼育数も既に二萬頭に垂んとし羊肉の生産も著しく増加し加之昨年來全国の生産羊肉を取扱ふことゝなつたから、今後は販賂を新に開拓して消費力の増大を図り以て緬羊事業に微力を尽し度いと思つて居ます。仍ち茲に肉羊消費の實状を開述し併せて生産者各位へ羊肉販売者としての希望を述べることは強ち無益のことではあるまいと信じます。


 (2)羊肉消費座談会から

 丸本 次に東京ではどの位消費されてゐるかを知りたいものですが、松井さん如何ですか。
 松井平五郎氏 私は羊肉販売を始めてから昭和四年まで二十四年間に四千七十三頭の羊を取扱つて参りました。明治四十年頃取扱つたものと、今取扱つでゐるものとを較べて見ると、何れも国産ながら肉質に大なる進歩を認めることが出来ます、一頭の目方は前には五貫目位のものであつたが、近来北海道から來る八貫乃至十貫目位のものは脂肪多く優良なものであります、前には脂肪が少くて、もつと脂肪の多いものゝ出來ることを希つてゐたが、近頃北海道から來たものなどは反つて脂防が多過ぎて困る位になつたのでありまして、良肉としては秋田あたりから來るものが宜しいやうに思はれます何時になつたら御注文次第のものを差上げることが出來るやら知れませんが、精精注文に乖かぬものを提供することに努力してゐます。
 丸本 只今のお話によると、松井さんの取扱はれた羊の頭数は、明治四十年に四〇、大正六年に五一、同七年に八八、大正十四年には三五四頭、昭和元年には三八七頭、同二年四五八、三年には四五四頭、昨年は四四〇頭といふことになつて居りますやうで、我田引水かも知れませんが、昭和二年から糧友会が農林省の後援によつて宣伝したことが大効を奏したことが、この事実によつて証明されたやうに考へます。


 (3)
   私が羊を飼つた経験
              侯爵 松方正義

 羊の肉を食つて呉れる人のないのには、私ははじめは困つた。正熊(松方侯令息)が永田町の外国人の番人と知合だといふので、其の人に頼んで、屠殺人と約束して、四拾四五頭位もつて行つて、永田町の遊び場に繋いでをいた。それから外人に知られるやうになつて、一百頭位はどし/\売れるやうになつた。もう今では百頭でも二百頭でも容易に売れるよ。最初は横浜に出さうと思つたが、あの方へは下総の人が出してゐるので、邪魔しまいと思つて、東京の方へ出すことにした。此頃では大使館の人々の間に売れるやうになつて、寒い時が一番よく売れる、何程でも売れるので、足りない位になつて来た。
 私が羊飼をはじめたのは、日本では羊は飼へないと云ふ、其の考に対して慷慨の気が起つたからだ。私は何も知らず、理屈は云へないから、何でもこれは実行をして、実蹟を挙げてから説くことだと思つてやりはじめたのさ。それから農商務省でも、私の處に見に来るやうになつた。何でも三度か見に来たよ。
 農商務省などでも、やるなら大にやるがよいさ。だが、やり損なはぬやうにして貰はぬといかぬ。やり損なふておいて、日本は牧羊に適せぬなどと云つたのでは、一般に害を及ぼすことになるからね。


(4)
  緬羊の流行に就て
              松方巌

<略>今の下総の御料牧場が未だ内務省の管下で、勧業寮と称へた時分、始めて米國から羊を輪入して飼養したが、此最初の試みは悉く失敗に帰した、何うしたことかと云へば、管理法又は飼料の關係もあつたらうが、主たる原因は氣候の關係であつた、之れを見て日本の畜産業者は一概に羊は日本の氣候に副はねものと決めて終つたのである、處が當時自分の父は甚だ之れを遺憾とし、苦い乍らも既に之れ丈けの経歴があるものを此儘廃めて終うも残念だと云ふので、今一ぺん行つて見て、幸ひに出來る様になれば國家の爲めにも結構であると、下総から五十頭許りのメリノー種を那須野に入れて飼養を試みることゝした、始めは牧草もなく只野草を與へる丈けで、頗る困難を嘗め且つ自分に経験がないので下総の人を雇ふて之れに一任し而して今日に至つたのである、扨て追々氣候にも馴れ、飼料にも馴れ、漸くに数も殖へ多い時は五百頭以上にも上つて居る<略>

 松方さんは自分の牧場の緬羊を横濱に出したかったが「下総の人が出してゐるので、邪魔しまいと思つて、東京の方へ出すことにした。」と語っていますね。資料その6(1)の新聞記事から、下総の人とは御料牧場のことであり、いまさっきいった丹後屋と競合するのを避けたことがわかります。東京在住の外国人たちは横濱まで羊肉を買いに行ったり、東京の精肉店が注文を受けて横濱に買い付けに行ったりしていたから、松井が赤坂で売ってくれれば当然近い方で買うはずと松方さんは読んだのでしょう。
 松方さんは、そう考えても現実は厳しい。資料その6(2)は横浜に比べると東京での羊肉販売は苦戦していることを伝るものです。初太郎さんが永田町の原っぱで緬羊のお守りをしているような状態がかなり続いたと思われます。しかし、それはさておき、数字の誤植ではないのでしょうが、43年に子牛が急に売れたのは何かあったのでしょうか。掘り下げると面白いことがわかるかも知れません。
 (3)は、大正12年に出た長崎発生著「鶏と羊と山羊」からの引用です。松方農場と松井本店との取引は、紆余曲折はあったのでしょうが、20年近くも続き、ほかの牧場や緬羊組合も特定の販売店と特約出荷を続けていることを物語っています。松井本店は大正10年に農商務省から緬羊肉取扱指定商になり、全国の緬羊出荷組合と取引を始め、一段と忙しくなっていたとみられます。

資料その6

 (1)
<略>▲緬羊には幾許の利益あるか 一年の剪毛収獲高はラムブリー、メリノーが十五斤乃至二十斤、改良メリノーは七斤乃至八斤、黒面種は五斤乃至六斤であつて其価格は孰れの種類を問はず、一斤四十六銭五厘に売れるのである、又肉は生体の儘で一斤十銭であるなら何時でも売れる、我国では横濱の丹波屋で、御料牧場の羊肉を一手にて売つて居るが、それが横濱で売れる全部の僅か幾分であつて、其の大部分は上海から輸入せられて居る、欧米各国では羊肉が諸種の肉の最上位にあるから、価格なども一番高いのである、横濱では一斤五十銭位で売て居る<略>


 (2)
▲羊と犢牛 羊肉は四十年からボツ/\と売れ出し四十二年
には九十五頭の需用があつた、但し是は西洋料理中必要な品
なるが爲めで外人の多く居住する横濱に需用多く東京では未
だ殆んど捌けて居ない、又犢牛とは生後百日或は百五十日位
を経過した子牛の事で東京に需用の道の開けたるは實に本年
が始めてゞある此両獣肉は普通の肉類のやうに七輪の上でジ
リ/\焼ては少しも味の出るものではないから要するに外人
當込みの西洋料理店でなくては一寸用ひない肉である、終り
に諸肉需用高の表を作つて見やう。
      牛      馬    豚     羊    犢
卅七年  三六五七八  六一八四 一六四四五  〇    〇
卅八年  ニニ五九二  五八ニニ ニ一七〇二  〇    〇
卅九年  二一八四五 一一一六四 二二六八一  〇    〇
四十年  二一九九六 一二六七三 三七五三八 一八    〇
四十一年 一八三二五 一〇一二八 四八二六一 五〇    〇
四十二年 二二五三八  八八三五 三八六一〇 九五    〇
四十三年 一三七三二  四九七六 二九九〇〇 七二 一一三三
七月迄
 

 (3)
栃木縣那須野に於ける松方農場にては毎年九月より翌年五月下句迄に東京赤坂区田町六丁目十番地松井平五郎方へ約百五十頭引渡す豫定となりてゐるが、東京千住に着荷の上は三輪屠場にて屠殺料一頭に付五十銭を支払ひ生皮は直ちに三輪字豆田の廣田にて一枚分一圓にて鞣せば鞣皮一枚二圓三四十銭相場として売出すのだと云つてゐる。また日本毛織物会社緬羊場にては肉を神戸に出し、小岩井農場は横濱の飯田屋に下総御料牧場に丹後屋といふやうに其他の育羊場に於ても、北海道や長崎などと羊肉の販売所を特約してゐる。今東京に於ける主なる羊肉販売所を列記せば、
芝佐久間町一丁目一番地   竹内藤藏
同烏森町一番地       徳地こう
赤坂田町六丁目十番地    松井平五郎
小石川区表町十八番地    西川肉店
と云ふたやうなものであるが、なほ羊肉を用ふる料理店としては帝國ホテルや精養軒は是非数に入れざるを得ない。そして横濱に於ける羊肉店の主なるものは代官坂の丹後屋山下町一八五の飯田屋真砂町一の倉田屋とするのである。

 松方さんなんか、御料牧場の緬羊が横濱に出荷されていることを知っていながら、売り方の話は大雑把で、息子の正熊氏が生きている緬羊を売りに行ったようなことをいっていますね。松井のマの字も出てこないどころか、屠殺人扱いしちゃってます。この辺は武士の商法らしく装って、わざとそういったのかも知れません。これでは当時の実情説明にならないので、いきいきと当時の様子を伝える初太郎さんのインタビュー記事を資料その4にしました。
 明治40年、初太郎さんは21歳になっていましたから、51年後でも羊肉売り込みの様子をはっきり覚えていた。初太郎さんは小学生を終えると、すぐ店を手伝い、上の学校へは行かなかったので、ペラペラができたとは思えませんが、ハウマッチと声を掛けてくる外国人たちと接しているうちに、アイムマツイ、マトンショップだなんて、自然と入り用な単語を覚え、ネゴシエーションできるようになったのでしょう。
 本店のあった赤坂区赤坂田町6丁目10番地は、どのあたりかというと、東京メトロ銀座線のね、溜池山王駅11番出口の前あたりだそうです。さっきの天長節の広告に演伎座裏角とありましたよね。かつて巨大ブルドーザーを屋上に飾っていたコマツビルのところが演伎座だった。いまはビルに遮られて駄目ですが、その昔なら、演伎座の裏手に回れば直ぐ見えたのでしょう。演伎座は明治25年に福禄座として開場、同27年に改名(39)しており、松井本店の方が住民としては先輩だが、活動写真の上映、芝居などで知られた演伎座を目印にしたことがわかりますね。
 そのころは道路を走るのは、せいぜい馬車と人力車と大八車ぐらいだから、緬羊に綱でも付ければ永田町ぐらい楽に往復できたのでしょう。夜はどうしていたのかな、店の近くの空き地に小屋でも作って入れていたのかも知れません。溜池あたりは人家がろくになかったなんて、いまでは信じられませんが、明治のことです。原っぱに見本用の緬羊を入れる小屋ぐらい建てても文句をいう人もいなかったでしょう。資料その7の座談会は松井と松尾がいるうえに、原本に同じ組み方では読みにくいので、発言者の名前はゴジックにしておきました。それから<>で囲った名前は私が入れたものです。

資料その7

羊肉普及に…半世紀
      成吉思荘当主の松井さんに聞く

            ▽聞く人 松尾久延(本会肉羊部長)
                 常葉順(〃普及課長)
            ▽語る人 松井初太郎(成吉思荘当主)
                   以上敬称賂
              記録と文責  本誌・井川正久
<前文略>
 羊肉の売始めは明治四十年

松井=私が国産の羊肉を売りはじめたのは明治四十年の五月でした。その頃、現在の国会議事堂のある場所はローンテニス・クラブでした。
松尾=なるほど、ちょっと信じられませんなア。量としては?
松井=そこへ、私のおやじが、当時公爵の松方<正義>さんから呼ばれましてね、自分のところで緬羊を飼っており、その頃で年産四十頭だけ肉羊として生産されるから、これだけをぜひ売って貰いたい…といわれたんです。
業者は多いが、堅くて信用のおけるのは君のところだけだ…といわれましてね、おやじが委嘱されました。申遅れましたが、私のおやじは明治二十四年、東京赤坂に肉商「松井商店」を創業しておりました。それまで、羊肉を扱った経験といえば、当時は国内羊肉の消費は殆んどが外人で、偶々外人の家庭から呼ばれ、上海羊を、ももならももだけ買って、納めたようなわけでした。だから屠場でおとし(屠殺すること)て、店ヘブラ下げることはできない、お客がそれだけないんですからね。
それではどうやって商売したかといいますと、先に述べたテニスコートの芝生に生きた羊を五〜六頭サンプル(見本)に放しておいたんです。すると外人が珍しがって聞く。そこで松井商店のだ、肉に売るのです…と答える。
ただしもも一つでは残肉処理ができないから、「組」で、前脚、もも、チャップという風に三〜四人のお客さんがまとまって漸く一頭になり、そこではじめておとして納めるという具合でした。また内臓や皮の処理が大変でした。内臓は棄てていました。毛皮は二〜三頭でしたから、皮屋を対象にした取引はなく、専ら自家用に利用しておりました。出ただけをなめしたわけです。
松尾=その頃羊肉を売り込むということは、全く大変だったでしょうね。話は違いますが、私は岸<良一>会長と一緒に農林省にいた頃、高とらさん(高橋藤良雄…現在飯能市で羊肉商を営む。松井氏の薫陶をうけた人)が農林省の廊下で羊肉を売っていたのを覚えています。昭和七〜八年頃でしたかな。
松井=とにかく明治の四十年頃は、羊肉を喰べる人は外人だけでした。日本人では新渡戸稲造(わが国民主々義唱導の先覚者…氏の著書「武士道」は有名。後述)さんぐらいなものでした。
そのうち帝国ホテルヘ話しかけ、そこで使うことに語がまとまりましたが、当時は何しろ単価も高いので、高級料理店だけでした。細かい単価は私、覚えていませんが、とにかくその頃はレストラン、ホテルの類は帝国ホテルだけでした。明治四十年は四十頭で、だんだんいくらかずつふえていきました。
一方私の店は明治四十四年に宮内省ご用達となりましたが、羊の方は相かわらずサンプルとして、草の上に生体のまま放たれ、注文の都度おとしました。
常葉=考え方としては非常によかったわけですね。
松井=その頃外人は、日本の畜産は北海道だけだと考えておりました。実は松方さんは栃木県西那須野の千本松農場でした。お客さんはすぐに「北海道の」とご指名です。で、こちらも「北海道」として売りました。当時は品種は大体シュロップシャーでしたが、千本松のは下総メリノ、つまりメリノの雑種でした。肉羊となったものの平均体重は十貫前後で、一頭つぶすと、三貫から三貫五百位で、四割しかとまりませんでした。これは発送貫に対するものです。ところで今はどの位です?
常葉=福島の現地で四〇%位ですね。
松井=発送時に計って、生体で貫二十円台でした。私はまた、千本松へもちょいちょい参りました。屠場でやるわけにいかないので、現地に獣医がいて、現地屠殺で、これを一頭か二頭、汽車でじかに小荷物で持ってきたものです。千本松から西那須野駅まで一里十四丁あるんです。そこから積み出しました。輸送容器ですが、豚籠を特に誂えて、一籠三〜四頭積めるようにして、駅へ持ち出しました。箱では困るが、籠だと重ねが効いたからです。
ところが或るとき、軍の大演習で貨車が取れず、已なく荷物を又牧場へ持ち帰ったら、一里十四丁の往復で、目方が五分減ってしまったことを覚えています。四十一、二年頃、一〜二頭ずつつぶして店へ持ってくると、ももやチャップは売れても、すね、ショルダー(肩)、ネック(頸)などは余りました。しかしそれらを惣菜にしてやっても店の者は食わず、当時ソーセージ屋さんが始まっていたかと思いますが、ただ棄てないというだけで処理しました。
その中、松方農場も生産がふえるばかりで、どんどん処理してくれ…と頼まれる。大正に入ってからでしたかね。当時のレストラン東洋軒などで、二〜三頭注文で出てきました。 <略>

  

参考文献
上記資料その5(1)の出典は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」11巻6号23ページ、松井平五郎「羊肉販売の実況」より、大正14年6月、中央畜産会=原本、 同(2)は糧友会編「糧友」5巻5号84ページ、昭和5年5月、糧友会=原本、 同(3)は子安農園内家畜研究会編「家畜」2巻3号49ページ、大正7年5月、子安農園内家畜研究会=原本、 同(4)は同3巻3号6ページ、大正8年5月、同、 資料その6(1)は中日新聞社監修「都新聞復刻版 明治40年1月〜2月」8ページ、 明治40年1月1日付都新聞4面、「我が邦の牧羊業」、平成10年3月、柏書房=原本同(2)は肉食奨励会編「肉と乳」1巻2号35ページ、「東京の食肉」から、明治43年12月、=原本、 同(3)は長崎発生著「鶏と羊と山羊」7版148ページ、大正12年7月、長隆舎書店=原本、 (39)は小学館国語辞典編集部編「日本国語大辞典」2版2巻735ページ、平成13年12月、小学館=原本、 資料その7は日本緬羊協会編「緬羊」15号3ページ、昭和24年4月20日、日本緬羊協会=原本

 日本人で羊肉を買いに来たのは新渡戸さんぐらいという証言、長く欧米で勉強した人は違います。明治離れしていたんですね。初めのころの講義で、小谷武治さんが自著「羊と山羊」に「洋行帰りのハイカラ先生の如きは、一度マトン(羊肉)或はラム(羔の肉)と聞けば垂涎三尺鼓舌して止まざるべし(40)」と書いたと話したはずですが、この初太郎さんの話からしても、小谷さんは新渡戸夫妻の羊肉好きを意識して書いたことは確実です。
 緬羊の内臓はどうしていたのでしょうか。肩や首は棄てないという程度で引き取られたと初太郎さんは語っているところからみて、多分内臓は引き取り手がなかったのでしょうね。明治44年の「肉と乳」には牛豚の内臓各部の値段が書いてあります。大阪の話ですが、牛の内臓は「腸詰にもすれば牛蝋にも精製する其他は西浜辺の部落民の夜夜の膳を賑はすので、町内の牛糞は水分多量の為る今の處海底の藻屑となる。内臓外の牛肉は千日前辻立食場の需要として屠夫がロハで頂戴することゝなつて居るが之が牛の陰部や肛門の括約筋だから恐入る、安いからとて一本五厘の串をパクつくと牛の陰部をパクつくことになる、(41)」とあり、知らぬが仏、どんどん食べられていたことが察せられます。
 それに反して羊肉は、余った肉を賄い食にしても、肉店の店員ですら食べなかった。臭いとかなんとか、きっと食わず嫌いだったと思いますが、ジンパ大好きの我々からみると不思議なくらい昔の人は羊肉を敬遠したのです。
 明治24年の「牧畜雑誌」に「牡山羊は其交尾期節に至れは一種不快の臭気を其の皮膚より放散す而して此臭気は年齢を重ぬるに従て増加するものなるか吾人若し之を嗅くときは忽健康を害するに相違なきの感を生すと雖殊に知らす此臭気は馬匹の為め其暈倒症の予防剤たる効能あらんとは此説独り東洋諸国に行はるゝのみならす泰西諸邦に於ても亦之を唱ふるものありて大概数十頭の馬群を舎飼するものは牡山羊をも同厩舎内に飼養するもの少なからすと云ふ(42)」とイギリスの実例を紹介しています。
 明治以前の日本にいた緬羊はごく僅かで、ほとんど山羊であり、それを羊と呼んでいた。食べたことがないのに羊の肉は臭いと決めつけた誤解は、この牡山羊の体臭から生じたと私は考えます。幕末ごろは緬羊と山羊とを混称して羊と呼んでいた(43)と村上要信が「山羊飼方」に書いているし、小谷さんの「羊と山羊」の広告に「されば牧羊智識の幼稚なること農業教師にして羊と山羊との区別をさへ判じ得ざる者あるの現状に在るは豈に遺憾ならずや(44)」とあります。
 広津柳浪と同じころの人で江見水蔭という作家がいました。大正8年の元日、函館日日新聞が広津の「羊飼の娘」を掲載したことは以前話しましたが、函館毎日新聞は江見の「ひつじの方」という小説を掲載してます。まるで羊で張り合ったみたいですが、未年のせいですね。この江見がねえ、金持ちの別荘にいる山羊の臭気を針小棒大に書いているんだなあ。風下になると強烈なヤツが流れてくるから、たまらず窓を閉めるところを入れている。
 文中では単に羊としているけど「毛は美しいし乳がそれは大層滋養に富んで、これを盛んに飼養すれば、却々儲かるさうですが」といっているし、悪臭を放つその羊群のお陰で「乳も売れ毛も売とれ、肉も売れ、皮も売れ、忽ち羊成金」になるというのだから、どうみても山羊だ。緬羊なら毛も売れ肉も売れ、強いて搾れば乳も売れという順だと私は思うんですよ。
 青空文庫にないから、私が講義録の方で読めるようにして置きましたから、リンクした「ひつじの方」に目を通してください。多分緬羊飼いを奨励するつもりで書いたのでしょうが、逆に緬羊は臭くてたまらん、肉も臭いに決まってるという先入観念を作り上げる方に役立ったと思われます。はい。
 それと、ちとオーバーかも知れませんが、明治からの新聞を見ると、未年のたびに正月は羊と称する絵を載せてますが、昭和になっても多くは山羊としか思えない絵です。それを不思議に思わない人々にね、緬羊と山羊とは違うよと教え、その肉を食べさせようとしたのですから、容易なことではなかったのです。資料その8(1)は平五郎さんの手記、同(2)は大正から昭和に掛けて緬羊飼育の指導者による座談会の羊肉料理の部です。

資料その8

(1) 二、羊肉の消費力

 顧みるに昨年指定を受け専ら日本人の家庭に向つて羊肉の普及宣伝に努めたる當時に在りては少からず誤解を受けたものであつた。其誤解の一は羊肉は非常に高級の食料であつて上流階級者でなくては食しないものと速断するものゝ多きことゝ他の一は所謂食はず嫌ひで理由なく羊肉の食用を嫌忌する者の多きこととであつた。乍併初志を屈せず新聞、雑誌其他印刷物に依り宣伝に力めしは勿論女子大學割烹研究會、世界料理展覧会或は畜産博覧會等苟も羊肉宣伝に効果あるものと思惟する場合には力めて之に出品して販路の開拓に専心した爲に實績頓に揚り次第に需要量増加し一ケ月百頭位までは消化し得るに至り三月下旬に至りては疾くも供給不足を告ぐるに至つた次第にて開業劈頭に當り我緬羊事業の將來をトする吉兆として喜びに堪へなかつた處である。此の趨勢より推考するときは将來緬羊の生産が激増することあるも消費力に於ては些の懸念を要しないことを断言して憚らないのである。「羊肉料理を知らずしては真の食通とは謂ひ難し」と謂ふが今の東京に於ては一流の西洋料理店が何れも競ふて羊肉料埋を其献立表に現はす様になつたのである、羊肉消費力の前途は以て推知すべきである。<略>


同(2) 座談会 緬羊事業の思出を語る(完)

 ◎羊肉料理の話

日本料理として日本酒で
       臭はフレーバーだ

松岡=月田さんがおいでにならないのではつきりわからないが、あの頃羊肉は日本料理として奨励しなければならぬということでしたね。女子高等師範の一の瀬さんと、その他にもう一人女の教授が居られたが、この二人が日本料理に使えるようにする為にあの臭をどうして抜くかといつた研究をされたようでしたよ。私も度々その試食会に出席しろと言われて東京で一緒にやつたことを憶えています。大正八年だつたと思いますが貴族院議員を六十何名か招待するから友部<種羊場>で羊肉を準備しろということを緬羊課から命ぜられたことがありましたが、その時の料理は全部日本的なものでした。あの頃の一番基礎的な難点は臭があるということで、臭を抜いて日本料理とし日本酒で飲めるようにという方向で研究されたものです。
田口=一の瀬さんが臭を抜くという爲にとられた方法は、羊肉を牛蒡とシヨーガと味噌を使つて練炭火で焼くといゝのではないかというのでした。
松岡=羊肉は臭を抜くと氣が抜けたようで却つて抜かん方がいゝのではないかという風に考えたこともあるのですが、その後ジンギスカンが非常にいゝということになつて、すつかりこの問題も解決したのです。
伊藤=石崎さんの課長時代には料理講習会等に相当金を使いましたね。
松岡=日本化しようというところに苦心したのですね。随分あちこちでパンフレツト等も作りましたよ。
田口=石崎先生が課長の頃に羊肉理のパンフレツトを作つたが、その文章の中に私は羊肉には臭がある、その臭というのは皮下脂肪から來るものだと書いて石崎課長に見てもらつたら、この臭というのは英語でいうとフレーバーだ、羊肉には羊肉の香りがあり牛肉には牛肉の香りがある。だか「臭」というのはいかんというので原稿をなおされたことを記憶していますが要するにあの臭はフレーバーであり香気だというのですね。
山田=私は羊肉に臭かあるというのは日本人だけだと思うのですが。
岩住=日本では臭というけれども英國では羊肉は何の肉よりいいといゝますね。
松岡=やつぱり獣肉の王だという氣がするのですよ。
岡本=私も羊肉の問題では〕相当苦労したのですが、全國の指定所に集る羊肉というのが所謂肥育したのならぱいゝのだけれども農家で今にも死ぬようなものを屠殺して出して來る。それも肉を新聞紙に包んだりしてどこが新聞紙でどこが肉なのかわからんような状態のものが多かつたのです。
 ジンギスカンという料理について蒙古に行つたときに徳王と一緒に旅行して聞いたことですが、所謂我々のジンギスカン料理は回教徒の料理だというのです。
想像するに刀の先に肉を丸の儘で突きさして、あの時代の戦場と化した野原で薪や草を集めて燃しこれを焼いて所謂焼肉にして食べたものだろうと話して居ました。
松岡=陣中のカガリ火で肉を焼いて食べる……それはなかなかいゝ趣味だ。
山田=羊肉の宣伝と併行して各地方庁の人々が肉羊出荷に當つて例えば運賃が相当かさむ為に採算がとれない点等でその奨励では並々ならぬ苦労をしたことを忘れてはならぬと思います。
 それから川島四郎さん等も非常にこの問題では協力して下さつたものです。
山口=兎に角羊肉が容易にさばけるということは昔も今も緬羊経済上極めて大切なことだと思いますね。<略>
<注>この会の発言者の職歴(発言順)
     松岡忠一 初代友部種羊場長、元月寒種羊場長
     田口教一 元月寒種羊場長、前農林省畜産課長
     伊藤喜一郎 緬羊課当時の同課技手
     山田喜平 元月寒種羊場長
     岩住良治 終始東大教授で臨時産業調査局当時農商務省技師を兼務
     岡本正行 元月寒種羊場長
     山口清次 第一回緬羊技術練習生、三井報恩会技師

 「北海道緬羊史」もそうだが、どうも緬羊関係者は東京女高師の一戸伊勢子さんを「一ノ瀬さん」と間違えて覚えている人が多く、この座談会でもそう呼んでいますが、正しくはイチノヘ、弘前出身の人です。「もう一人女の教授が居られたが」というのは、後に東京家政大学を創立者となった大江スミ子さんを指していると思われます。
 それからね、資料その8(1)の平五郎さんは何も触れていませんが、このころ平五郎さんは品川区中延にあった隠居所に住んでおり、500平方メートルほどの土地で松方農場から20頭ほどの綿羊を飼っていたのです。
 松井本店が一時期、牧羊場を経営していたのは事実で、資料その7の初太郎さんへのインタビュー記事の続きに、100頭買おうと中国へ渡り、45頭を買い付けて中延へ連れ帰ったと語っています。そのあたりを資料その9にしました。文中の岸さんは元農林省畜産局長、このころ「緬羊」を発行していた日本緬羊協会長でした。

資料その9

(1)
   支那へ購買に

 <略>松井=さきに述べましたように、そろそろ現畜を確保せねば…ということで、ひとつ支那へめん羊を買いに行こうじやないか…ということになつた。が、岸さんは、支那羊は入れたくない…といわれる。ところが当時偶々母のお花の先生のお嬢さんと一緒になつていた星野米蔵という人が、青島に行つておりました。ちようど第一次世界大戦の終つた頃で、日独戦争でおちた砲台が残つている生々しい状景を見てくるのもよかろう…ということで青島へ行くことになつた。だが一人では心細いので、私共の店にいた田瀬という男を連れていくことになりました。当時私共の店では青島牛を扱つていましたが、田瀬はその選択のために雇つていたのです。
 常葉=青島肉というのは有名だつたらしいですね。私も記憶があります。
 松井=そして、私は青島済南へいつてみました。大正九年のことです。ところが現地に着いたら、驚いたことに折から赴島していた農林省の家畜購買官と一しよになつてしまつた。ホテルが偶然同じだつたのです。
 しかし、私は、めん羊を買いにきたのだ…ということは購買官の人たちにいえるわけはありません。なぜならば、支那羊は病気が多く、したがつて導入したくないという政府の方針に反することになり、まずいからです。
<略>
 さて話は前に戻つて、購買官は一しよに帰国しようというのですが、一しよでは前記のような事情でまずいので、ほかの船を利用して、下関へつけ、検疫を受けたわけです。一方購買官はそんなことはつゆ知らずというわけで、めん羊を頒けてやろう…と私にさかんに奨める始末、やむなく高い政府のものを四〜五頭買いました。これらのめん羊は神戸へ着いたのです。
 一方私のめん羊は、一足お先に中延へ到着しました。そしてこれらのめん羊はその後ボツボツ潰され、全て肉羊としてご奉公してしまつたのです。この購買羊、私のは全部健康でしたが、政府が買つたものは、船に積んでくる途中、そろそろ食いの悪いのが出たらしい。
 松尾=なるほど大変面白いエピソードがあつたわけですね。<略>


(2)

   

 松井家文書によると、大正11年秋に中延から茨城県稲敷郡朝日村字吉原に綿羊場を移し、昭和5年には平五郎さんほか4人で300頭余りを飼い、翌6年からは独立採算で経営できる見通し(45)になっていたとあります。
 初太郎さん自身の綿羊輸入はこの1回だけだったようで、国内の羊肉出荷が増えたこともあり、昭和11年の成吉思荘を開店以降の松井本店と成吉思荘の広告の多くは、資料その9(2)のように国産マトンと明示しています。
 きょうはこの辺でやめ、成吉思莊の開業の前後から閉店近くまでの歴史は次回話します。インターネットの講義録を読んでいる人は下の「次のページ」をクリックしなさい。終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記(40)の出典は小谷武治著「羊と山羊」1版78ページ、明治45年4月、丸山舎書籍部=原本、 (41)は肉食奨励会編「肉と乳」1巻2号60ページ、明治43年12月、肉食奨励会=原本、 (42)は同3巻5号ページ番号なし、同4年5月、同、 (43)は牧畜雑誌社編「牧畜雑誌」63号6ページ、明治24年8月25日、牧畜雑誌社=原本、 (44)は村上要信著「山羊飼方」75ページ、明治40年7月、村上要信=原本、 資料その7と同9は 資料その8(1)は「畜産と畜産工芸」11巻6号23ページ、松井平五郎「羊肉販売の実況」、大正14年6月、中央畜産会=原本、 同(2)は日本緬羊協会編「緬羊」号とページ番号と発行年月誤記訂正のため調査中、日本緬羊協会=原本、 資料その9(1)は日本緬羊協会編「緬羊」15号7ページ、昭和24年4月20日、日本緬羊協会、同、 同(2)は中央畜産会編「畜産」23巻3号ページ番号なし、昭和12年1月、中央畜産会=原本、 (45)は(38)と同じ「福岡大学研究推進部所蔵マイクロフィルム 松井家文書」