【お断り】原文は振り仮名がついていますが、これは省
略しています。また、会話は『で始まりますが、終わ
ったときが16字目になったときは略して』をつけて
いない原文通りにしてあります。漢字も完全に原文通
りの旧漢字にはしておりませんし、明らかに誤植と思
われる箇所もそのままで修正していません。
原文は大正8年1月1日付函館毎日新聞朝刊14面か
ら15面にかけて掲載してあり、函館市立図書館作製
のマイクロフィルムによりました。
ひつじの方 江見水蔭
『一』
何百年前からの旧家ではあるが
材木が良好なので何處に一ツ揺ぎ
の見えぬのが伊木田家の誇りとし
て有つた。
花代村の草分で、代々庄家も勤め
たといふ家柄であるが 當代の陽
太郎に成つてから内部は大部苦し
いといふ噂をチラ/\耳にする様
になつた。
でも人に悪い顔を見せぬのが伊木
田家の総ての覚悟とあつて、誰一
人他に愚痴を零した事が無い。
交際でも何んでも昔通りにしてゐ
るたけそれだけ苦しいと見える。
當主の陽太郎は東京へ修学に出て
ゐたのだけれど、それもこの秋か
ら帰つたきりで再び出て行かない
『阿母さん、何の臭気でせう、時
々鼻持のならない臭気が風に連て
來ますねえ、前には這んな事はな
かつたのですがねえ』と陽太郎は
書斎の窓を締切りながら云つた。
『それなんだよ、お前が東京へ勉
強に出てゐる間にわ、佐戸見原に
別荘が出来てね、東京の金持が時
々來られるのでね……。それであ
んな臭気がし始めたのだよ』と、
母のお増は説明した。
『へえ、金持はあんなに臭気もん
ですかねえ』
『いえ、その金持の別荘が広いも
のだからね、種んな獣物を畜つて
るのだがね』
『だつて、豚の臭とも違ひますぜ
『それが羊を飼つでるのでね』
『羊ですか?羊は流行るといふ事
も聞きましたが、へえ、羊の臭気
ですか。溜まらないものですね、
一寸考へると如何にも羊飼は綺麗
事で、西洋の詩にも能く有るんで
す、毛は美しいし乳がそれは大層
滋養に富んで、これを盛んに飼養
すれば、却々儲かるさうですが、
……金持は違つたものですね、金
のある上にも金を造りたいと、保
養に來る別荘の地面さへも、只遊
ばしては置かないのですね。』
『それから見ると内の地面なんか
遊ばし過ぎてゐますね、未だ手に
入れてない荒地がねえ』と母のお
増は述懐めいて云つた。
『然うです、一等の田畑の方は大
分手放して了ひましたがね……今
では買手の無い荒地の方が多く遺
りました』と陽太郎は嘆息した。
『どうも悪い土地は開け難いので
ね』
『阿母さん、私は既う東京へ出て
学校生活をする事が出来ないので
すから、家でプラ/\遊んでゐる
のから考へると矢張り家代々の百
姓に復帰して、耕作をした方が好
いと思はれます、來春から荒地を
ボツ/\開墾しやうかと思ひます
『然うさね、何もしないでゐるよ
りは運動に成つて、お前の健康の
為にも好いかも知れないね。』
『何だつて一生懸命に遣れば成功
しない事はありませんよ』
『此間。観音堂の御籤を引いて見
たらばね、お前は未の方角に向か
つて行くと大層好いのだとありま
したよ、家から未の方角に當る荒
地を開墾したら好いかも知れない
よ』
『阿母さんは相変らず迷信家です
ね、けれども何方に向かつて行と
いふ方針は私には無いのですから
阿母さんの行けと仰有る方に向か
つて行くより他にはありませんと
いくら御籤が教へたとて、一旦傾
けた伊木田の家運を挽回する事は
困難であると陽太郎は心の中で泣
かずにはゐられなかつた。
『二』
併し能く聞く話に這んなのがある
長者の家には、それ/\後の凋落
を考へて、宝を地の下に埋めて置
くといふ、それが後代に至つて堀
當る、再び家運を隆盛にならしめ
たといふ物語り。
もしか我が家にも、そんな事はな
いだらうが、未の方角の荒れ地を
発掘してゐる中に、大判小判がザ
ク/\と出ると云つた様な巧い話
に成りはしないだらうか。
いや/\、そんな小説的な都合
の好い事が滅多に有るものではな
い、それに其様な空想に依頼する
様では、到底真面目な成功を見る
ものでは無い、人は何所までも地
道を歩まなけれ成らない。汗の肥
料で荒れ地を美田に化すよの他に
はない。
雑木を伐つて、それを薪とも炭
とも其根株まで堀起して燃料とし
其跡に陸稲を植て、其収獲を待つ
のが一番の安全だ。
然う思ひ着いた陽太郎は少しも早
く取掛つた方が毎日家にゐて考へ
込んでばかりゐるより、どの位賢
いか分らぬと覚了した。
ぞれで先づ久々で、未の方に當る
荒れ地の検分に出掛けてみた。
行つて見て驚いた、直自分の持
地の隣まで鉄条網で囲ゐを取つて
広い/\別荘との領分が区別され
である。
然うして其一部分に、鶏舎もあれ
ば、犬小屋もあね、仕切つては豚
小屋もある。然うして問題の羊小
屋もある、臭気の発しるのは正に
此方からと分つた。
佐戸見原は知らぬ間に開けて了
つた、子供の時に遊びに來た其時
の光景は全く見えなく成つてゐる
茫然として陽太郎は其處に立つて
ゐた。
『おほゝゝゝゝ』と急に高笑ひの
声がした、続いて又大勢の笑ひ声
がした。それは皆女の声音である
何うしたのかと陽太郎は、奇異
に感じながら其方を見た。
すると羊小屋の後から二頭の白羊
を追ひながら、美しい婦人達が四
五人出て來た。
その二頭の白羊にはどちらにも真
紅のリボンで、造花の種々なのを
結びつけて、飾立てゝある、それ
を婦人達は並ばせて追立て歩ませ
てゐるのである。
初め見た時には、どれも皆一様
に美人に見たけれど、気が鎮まつ
て來ると、一人だけ美しくて、後
はそれ程でないのが分つた。
服装から何から一人を除いては後
はズツと品下がつてゐる。
して見ると、一人は別荘の令嬢
で、他は侍女かも知れぬと考へた
それにしても何をしてゐるのか
と陽太郎はヂツと立つて見てゐた
婦人達も鉄条網の外に人の立てゐ
るのを見て、一寸吃驚したやうで
あつたが其儘白羊を追ひ立て/\
小亭のある方へと去つて了つた。
然うしてその方で又面白さうに笑
ひ声がしてゐた。
その笑ひ声が極度に高く響いた、
余程面白い事をさしてゐるのと見
えるが、樹の蔭でもあり、距離も
遠く陽太郎の目には入らなかつた
『三』
見られぬと成ると見たいもので
あるあんなに羊を飾立てたしか雌
雄の二頭だつたが、何をして遊ぶ
のだらうと陽太郎は考へて、今は
自分の荒地を検分するなどの心は
起らなかつた。
其處へ顔を見知つてゐる作右衛門
といふ老爺が、ブツ/\云ひなが
ら別荘内を歩いて來た。これは此
別荘の掃除番に傭はれてゐると見
える。
『馬鹿々々しい。仕様のねえ女達
だ。此方へ來て退屈でなんねえも
んだから羊を玩具にして種んなこ
として遊ぶだア』
と独語いた。
『作右衛門さん、羊を如何してる
んだね』と陽太郎は問うた。
『おう。陽太さんけえ……なアに
お嬢様がの、退屈なもんだからの
侍女を相手にして羊を玩具にして
遊ぶだよ』
『羊は臭いではないか』
『だから香水を浴びせる様にぶツ
掛けてるだ』
『作右衛門さん、如何してあんな
に羊は臭いもんだらうね』
『野郎の羊が臭いんだ、何んでも
時が來ると女の羊を引附けるのに
体からあんな臭気が出るんださう
だ、アレで動物仲間ぢやア芳い香
なんで、あれを嗅ぐと知らず/\
寄つて來るんだつて、そんな話を
学者の何んとかてえ獣物ばかり世
話する先生が云つたつけ、俺達は
臭くツて耐まらねえだのう』
斯う云ひ捨て作右衛門は行つて
了つた、小亭の方では未だ婦人達
の笑ひ声が続いてゐた。
陽太郎も小時立つてゐたが、不図
気が着いた。そんな事を考へてゐ
る場合では無い、自分は伊木田の
家を再興すべき責任がある、この
荒れ地を開墾する大役がある、グ
ズ/\゛しはてゐられぬ。いよ/\
翌日から着手しなければならぬと
気を取直して、その日は家へ帰つ
た。
明くる日は朝早くから、鋸や斧
を持つて荒れ地に入り。雑木を片
"ツ端から伐り倒すことにした。
東京に出て読書してゐた者には可
成り強い労働なので、直に疲労し
ては休んだ。
午後に入つては益々疲労した、そ
れで切株に腰を掛けて、休んでゐ
た。
此日は冬にも似ず、小春日和のや
うで温かで好い心持であつた。
『大層御勉強ね』と後から優しい
声を掛られた。
振り向いてみると別荘の令嬢で、
今日は一人であつた。
『あツ…………』と陽太郎はいつ
たのみで、後の言葉は出なかつた
『まア何といふ芳い香でせう。木
の伐口から発しる香は迚も人造の
香水なんかとは比べ物になりませ
んね』と令嬢はいつた。
『それは散々高価な香水に厭きて
ゐらつしやるからでせう。山海の
美味に厭きた方が麦飯を賞さる
のと同感じでせう』と陽太郎はい
つた。
『然うかも知れませんわ』といひ
つゝ令嬢は亦向かふの伐株に腰を
掛た。
『四』
斯うして相対して見ると、昨日
見たよりも一層美しく令嬢は輝い
て見える、森の女神の様に又神々
しくも思はれたのである。
『貴郎の打下す斧の音が能く聞え
ましたわ。宛如音楽的に妾の胸に
響きましたわ。妾は此方の別荘へ
來て退屈で退屈で仕様がなくつて
ゐたのです。少しの間でも単調で
暮らすといふことは苦痛なんです
ね。翌日は既う東京へ帰らうと思
ひますの。然うすれば又復雑な生
活に入つて、自然に神経質な日常
を送るやうになるのでせう……そ
ればかり続くと又それが厭になつ
てゝ此方へ來ては静養しますので
すよ……もつと貴郎が早くから此
荒れ地を開きに入らつしやつてゐ
れば、妾は翌日帰るなんて手筈を
しなかつたのでせうが……』と令
嬢は思つた儘を判明語り尽す性質
と見える。
『や、それはお騒々しいのを、外
交的に裏面から仰有つたのでせう
なるべく斧の音は立てないやうに
致しませう』と陽大郎は捻くれる
ともなしに然ういつた。
『いゝえ、本統なんです。全く斧
の音がヒシ/\と胸に応へました
(十五頁へ続く)
(十四頁より続く)
の。それが知らず/\一人で此方
へ近寄つて参りますと。鋸をお挽
になる音が又何んとも云へない美
妙に妾の心に感じまして……妾は
其鋸屑の中に全身を没したい様な
感じが致しました。』
『そんなにお感じで御在ましたか
『さア妾の見てゐる前で、一ツ木
を挽いて御覧なさいな』
『今實は労れた處でして……』
『では、妾も手傳つて上げますわ
『迚も貴女……、第一、お手が……
直肉底が出來ますよ』
『ぢやア貴郎が鋸の柄を持つてゐ
らつしやる處を、妾が上から持つ
て御一緒に挽いて見ませう』
『貴女。迚もお出來に成る事では
有りません……』
『貴郎は妾に何んにも出來ないと
思つてゐらつしやるの』
『生花の木の小枝を鋏でお摘に成
位は出來ませうけれど……』
『いゝえ、妾は随分思ひ切つた事
の出來る女んですよ。単調に厭き
てゐるんですからね』
こんな無邪気のことを話合つて到
頭日の暮れまでゐた。
嬢の行方が知れなくなつたので
別荘の者が驚いて、探がしに來た
のを見て、却つて嬢は興を催した
何か変つた事がしたいのが嬢の性
格と見えた。それが嬢の年と健康
と境遇とからして、最も極度に発
達してゐた時に、偶然陽太郎と語
り合う機会を得たので、非常に愉
快に小半日を過ごしたのであつた
『五』
明くる日に嬢は東京に帰つた。
陽太郎は毎日荒地までは出掛るけ
れど、木を伐り倒す勇気は無かつ
た、嬢の掛けた伐株に腰を掛けて
考へ込んでばかりゐた。
或日作右衛門は飛込む様にして
陽太郎の家へ入來つた。
『おい、陽太さん、別荘のお嬢様
は嫁に行つて了つたゞよ』と報告
した。
陽大郎は愕然とした、併は出來る
だけ冷静に構へて
『そんなことは、私に何の関係も
無いでは無いか』と云つた。
『それが有るんだから教に來ただ
よ、と作右衛門は語り出した。
令嬢が嫁入りする時に。別荘の羊
の所分に就て問題が起つた。
しちぎ けげし やラ
どうも臭気が激しいので、飼養し
ても別荘内では困る、一層売却し
て了ふとなつた時に、令嬢が口を
出して、陽大郎に全部遺つてしま
て呉れ。それは彼の若者には人の
知らぬ間に一方ならぬ世話になつ
てゐる。それは或日散歩の折に道
に迷つて、林の中に入つてゐる時
恐ろしい山窩の群に襲はれやうと
した處を救はれたのである、可成
り危険の迫つてゐた事件なので人
には告げずにゐたのが、斯うなれ
ば打ち明ける、その礼をして羊の
残らずを與へて呉と云ひ出された
といふ、
『そんなことが有つたのかのう』
と作右衛門は問掛けた。
陽太郎は考へた末に、それは事
實だと答へた。
作右衛門は自分の事の様に喜んで
『ヤア、福が授かつたぞ、伊木田
の家も亦昔に復るだ』と呼ばつた
× × × × ×
× × × × ×
良種の羊、数十頭を譲與された陽
太郎は今は臭いなんて云つてゐら
れなくなつた。
然うして熱心にそれを飼養した為
に予は子を生んで、頭数は忽ち殖
えた。
乳も売れ毛も売れ、肉も売れ、
皮も売れ、忽ち羊成金に成り了は
せた。
『矢張、未の方角が好かつたのだ
ね』
と母のお増は時々云ひ出して喜ん
だ。(をはり)
これで終わったら、なんだジャンプして読むほどの話じゃなかったと、がっかりするでしょう。そこでジンパ学研究の副産物である昔の札幌の繁華街の思い出を用意したから読んでみなさい。札幌初の西洋料理店魁養軒が明治13年に今の今井丸井大通店のところで開店してからの飲食店の栄枯盛衰は、函館新聞、北海道毎日新聞をずーっと読むことにより、かなりわかってきます。その新しい方のことについて郷土史家、澤登龍生氏が書いた「札幌駅前通り回顧」をおまけとして紹介します。だから誤字脱字、尻切れご免。
私が北大に入ったころは、ここに出てくる建物や店屋などはかなり残っていたのですが、やはり札幌オリンピックを機に急変しました。
札幌駅前通り回顧
澤登龍生
札幌駅前に降り立つ総ゆるツウ
リストはまず眼交(まなかひ)遙
かただしく続く廣い大通りに籠
る静温な街の雰囲氣にほつと息
づき、殊に初夏のよく晴れた蒼
穹のもと、若葉青葉に点綴し東
西両側の家並を見えつ隠れつさ
ながら枝もたわわに咲き誇るア
カシアの、純白な花群が微風に
揺れ動くさまには何人も何か新
しい都市情緒を抱かずにはいら
れないと言うけれど、維新後四
年正月、人口九戸十三人のサッ
ポロを北海道首都と決定しかつ
発展の基礎をつくつた恩人は判
官島義勇、開拓顧問ホオレス・
ケプロンらであり「札幌は太平
洋に唯一筋の通路を有する窮鼠
の如し」と反対したトオマス・
アンチセルの言葉も今になつて
みると却つて快い苦笑の因であ
る
私は、この誇るに足る文化的
な駅通りの公式誕生を明治十
四年八月三十日午後九時、す
なわち明治大帝はじめて通御
の時刻としたい意図であるが
その道順、大通りを左折し豊
平館へとあるから、これは駅
通りは大体大通りまでとする
現在の概念にも合致するわけ
である
アカシヤを焚木に
そして、この街路並木は開拓に
急ぐあまり天然樹を乱伐した弊
を達観し同十八年五月、改めて
市中植樹すべき旨宣布した大書
記官佐藤秀顕らの功績を伝えら
れ「それ樹木は酸素を吐き炭素
を吸収するを以て常に大気を清
浄にし爲に精神爽快を覚えしめ
ま火災暴風の
防禦となり且市
街の風致を美麗
ならしむ云々」
という告文に明
石屋(アカシヤ)
桜、柳等を挙げ
ているのも面白
く、ただ当時の
住民である我々市民の大先輩達
が苦情はおろか焚木にする始末
で遂に同十月諭告を出したまま
市中は放任、駅通りのみ樹下に
結柵し牧草を植えて辛くも維持
したのが情ない越えて廿二年留
学帰朝した宮部金吾先生が公開
演説を試み「路傍樹は花樹を要
せず、葉と形の美なるを貴ぶ本
道産赤ダモこそ永続すべき適種
なるべし」とせられたのも亦一
見識と謂えよう
草創時代の駅前通
さて私が駅通り西側の家々に
淡い記憶を持ちはじめたのは
素よりずつとずつと後年で駅
前の大部分を占める炭鉱汽船
会社用地の原つぱに社宅や倉
庫があつたとか通運会社の隣
に小川二郎さんが五番館を創
めたとか、伊藤組先代亀太郎
さんが辛苦の甲斐あつて事務
所を持つたとか、静岡屋、越
中屋が出来たとかいうのは殆
んど知らずに過ぎ大谷屋の並
びへ移つた古い菓子屋の今立
さんなどは却つて丸井裏にい
た昔々を覚えている
何分幾千軒に及ぶ店舗世代の変
転甚だしいため生ずる時間的ズ
レや占居前後の相違は叙述の関
係上予じめ許して戴かねばなる
まいし、草創時代の駅通りを明
確に覚えて居られる方は探し出
したくとも最早絶無らしいのが
遺憾である
事実、北三條西側の鉄道用地は
兎に角、相撲を興行したという
東側、裁判所だつて北二條東側
でも五番館南前角からはじめて
金子荒物、松実洋服、上田旅行
具、翁堂菓子また角から越山石
油、蟹屋菓子、敷島屋、南部菓
子、北海石炭所さんなど其後
それらの空地に出來、折角お馴
染になつた店さえ実際は各々十
年、廿年近い相違で遷移された
ようであり名物白樺の小島直さ
んが再び美味しいコオヒー菓煎
れる日を待つ人多かるべきと共
に更にそのカミ青春の我等がこ
よなきオアシスだつたカフエ・
パウリスタのマアブル卓に映る
緑葉の影を今更こころ懐しく憶
い出し西側の山形屋大竹さんが
軒を並べた旭館や弁護士斎藤享
さんの去つたのちなお札幌古豪
の一つとし健在なのを祝いたい
のである
ホテルは女子小学校
極めて教多くの良妻賢母を生ん
だ札幌女子小学校がグランドホ
テルから市役所にかけての一帯
にあつたのもつい最近と感ずる
けれど、その跡が長く北海道物
産館だつたのを考え合せると随
分前の事であ
り、同じ北一
條の東側、角
イ星、星井歯
科、藤井果物
店、先代が札
幌農学校長某
氏にえたとて
植物園の入場
券を売つていたリリスの山本菊
造さん、その南の丸ヲそばやな
どは今在るにせよ無いにせよ古
株として差支えない
名物のロバパン
山本さんの跡を引受けロバが
鈴を鳴らしてパンを届ける計
算絶妙の商策に一躍全道的名
を売つた石上達夫さんと丸ヲ
跡にいた一誠堂書店山野成
之さんが現在十字街で仲よ
く顔を並べて御繁昌なのは、
札幌電灯会社の跡に出た拓殖
銀行が近頃開業五十年を祝つた
のと共に結構至極と申すべきで
あらう
また拓銀の向西側、即ち早川両
替、代田古書、高木時計店さん
達は以前藪惣七氏本宅跡で北隣
の日ノ出屋と山カ山本両菓子店
とは烈しくシノギをけずり合つ
て平穏な札幌の話題をさらい丸
新旅館を越えて北角は西沢リン
ゴ園の直売所から駐cベルトを
経て丸モ伊藤、大沢商会と変つ
たようである
大通に大蛇の屍
私の家は今の三越の一軒おいて
東隣富士銀行の後に数拾年間カ
ネ大という金物店を営み裏口は
四拾年大火の焼跡そのまま丈深
い雑草に■やバツタの飛ぶ大通
りに直面していたので屡々掛か
る相撲や動物園などどうしても
私の家の井戸を使わねばならぬ
関係から木戸御免の小さな顔役
となつた私は色々面白い話の種
を拾つて来た。大蛇の屍を埋め
たのも其一つであるがそれより
以前北海道屯田銀行のあつたの
は今の第一銀行の所でよく菊亭
侯爵が馬車を乗りつけて球を撞
きに来た、其隣の宝亭料理店の
看板娘は引手あまたの中から確
か王子製紙会社技師の奥方に納
り幸福な生涯を送つてる今日で
も古老の世間話に出て来るが駅
通り昔語りのうちにこうした微
笑ましい市井のロオマンスで評
判になつたのも若干無くはない
神田床や信伊奈写真館や三股
耳鼻科等あつたのは三越の北
の部分で南角には長い間南部
佐七さんが小間物を商つて居
られた、いま駅前で喫茶をや
り軈て十字街に繰出すという
西村久蔵さんは伯父さんに当
る南部さんで育ち私などと針
金を竹に仕込む■を交えた好
敵手でけれど双鬢霜を置く今
日と■もお互に当年の無邪気
さと元気さとは失つていない
積りである。南部さんの後が
京屋になり三越になつたこと
は近年ゆえ(と言つても二十
年経つ)知る人も多かろう
銀行は取付騒ぎ
南大通り西側は常腰、玉川堂、
発明界、波多野、坂野大衆堂さん
等前後して居られたが、南角は
不思議にも銀行が続いた、最初
は札幌貯蓄銀行が不良貸付から
取付さわぎとなりあわてた預
金者は其頃既に金貸として有名
な五十嵐佐市さんが通帳を半額
で買うというので買取つて貰い
一方低利で銀行から借り高利で
貸して利鞘を稼いでいた五十嵐
さんはこれを相殺の道具に使お
うとして失敗したとか、せぬと
かいう噂があり、真偽はとに角
なかなか侮れぬ手腕であつた
この札幌貯蓄銀行の跡が北海
道拓殖貯蓄銀行、その跡が北
門銀行、またその跡が現在の
日本銀行となる訳だが北門銀
行新築のときあたかも学校を
でて家業に就いた私は、その
地下室に収める極大金庫の注
文を受けたは宜かつたけれど
駅から地下室迄の運搬費をも
勉強し過ぎ手酷い損をした笑
話がある、同じ酉側舟南「陳
に入つて北角から熊倉俥屋、
平井洋服、某雑貨店などがあ
り十字街の角は菓子の旧舗多
田さんで法華宗の熱烈な信者
だつた―
○
此処まで話し来つて読み返して
みると文字通り滄桑の変まこと
感無量であると共に、わずか一
日で調べ且つ書いたには惜しい
材料だと考えた、いずれ改めて
読者にまみえる所存である
(写眞は明治三十二年建築当時
の山形屋)
(筆者は郷土史研究家)
十字街の回顧(上)
沢登龍生
都市計画で今は削られている十字
街南東角のあたり、中野時計店の
窓ガラスにその頃流行つた肩掛け
カバンの学校帰りの一年坊主がし
ばらくの間食い入るような眼付で
頬をくつつけていたが、彼を惹き
つけているのは秒を刻むたんび眼
玉を左右に光らせて振る梟時計で
あつた。自分ながらどういう訳な
のか判らぬけれどとに角昔を懐う
たび先ず私の眼の前に出て来るの
は、大人にも珍らしかつたその梟
時計を初めて見た一日のことで
ある。
そして、女の身で碁が強く札幌
番付の上位に出た母親がよく結
つていた丸まげと襟元を汚さぬ
ように廣く掛けていた白い布。
紺地に白く大きく屋号を染抜い
た方一間位の日除けを二つ三つ
戸外に張出し軒に長々のれんを
吊した店先。客は椅子に腰かけ
番頭は畳に坐つている店の中。
現在あれば博物館ものの配達用
箱車と其上に悠つくり寐そべつ
ている黒き猫。よく晴れた五月
の日中なのにひつそり静まり返
つて人通りも少なく向の家でか
ける電話がよく聞えるほど静寂
な街景。
宛然、木村荘八描くところの明治
開化風俗にも似た斯かる景物揃い
の一コマこそ当時の札幌中心街で
あり、妙にその日を忘れ兼ねる当
時の一年坊主は昭和二十五年仲秋
明月、白髪頭を振り立て振り立て
水鉢巻でこの「札幌十字街回顧」
を綴りはじめたが、その時と今の
間には実に五十年近い歳月が情容
赦もなく過ぎ去つているのだ!
いまに残る老舗
赤煉瓦のアメリカ風=一丁目
御存知の通り札幌は明治初年創成
川北一條東端に設置せられた開拓
使本庁につながつて市街を形成、
のち十三年小樽―幌内炭山間鉄道
開通に際し停車場を現在位置に決
定したため四方へ延び、従つて老
舗の多くが東西此間の地域に在り
駅通りを札幌の顔とせば心臓に当
り所謂十字街し頸動脈と称しても
略々差支えない程なので標題範囲
を創成川と旧新川の間、つまり南
一條西一、二、三、四丁目に限定
して筆を進める。
さて、私がもの心ついたころ一
丁目北角は銀行、南角は角サボ
シ新田貞治商店で角の秋野漢法
薬舗や小林時計店、商品を車に
積んで市の端々を回り現金で卸
すという特異な川野荒物、なく
なつた名取金物、向側のカネキ
長谷川荒物、丸カ細川雑貨、大
沢、拓銀東支店とその北裏の高
野染物屋さんが今日となつては
■■でもお古い方で、長谷川さ
んの当代は最近拓銀釧路支店長
に栄転した硬骨しかも小児の如
く純情な伊久雄君である。
共稼ぎの古谷さん
秋野さんの西向、カネマル古谷は
旧丸中後藤さんの跡で、古谷さん
の先代辰四郎氏は北村與惣彌荒物
店の丁稚から叩き上げてその息女
を娶り、確か初めは狸小路の端で
共稼ぎの青物屋を開きやがて一條
二丁目丸十跡へ引越し現重役忠司
さん父子の協力も手伝つて粒々辛
苦の末この場所を手に入れ有数の
富豪となられたが、然し後に話す
滋賀同県人藤井太三郎さんの信頼
を得て多大な後援も受け一時は藤
井さんにならつてキリスト教に帰
依したほどであり、その隣にあつ
た長野さんは紙の旧舗、一昨年か
ロサンゼルスから久振りに帰郷、
お土産話を残して行つた長野一郎
さんの生家である。続いてその西
角、マルト本間跡へ今の南三條松
本剛太郎さんの辺から移つて来、
一時は現ナマ札幌一と噂された高
桑市蔵さんは客と話しながら番頭
達のよせる算盤の誤算を指摘し、
碁は初段格、よく努めた書道は曩
に札幌神社大幟をものするに至つ
た怖るべき天才であつた。、
同じ町内北側、大成建設会社の
前身は古川に水絶えぬうらやま
しい富豪田中重兵衛さんの元本
宅、五番館と同じくドオム型の
窓に総れん瓦建のかかる様式は
石造の札幌郵便局とともに全国
を通じアメリカ風を享けた日本
明治文明開花の香りがだたよい
その北裏の最古参ともいうべき
下宿滄海館は、教会の處にあつ
た北海中学の濫觴北海英語学校
共ども何時の間にかなくなつて
いる。
光る藤武良兄弟
老舗はここに集る=二丁目
田中さんの西隣は丸井呉服部、そ
の四向角デパートの所は同じく洋
品部、一町越えて現在金物部の場
所は丸三藤武良屋の跡であるが、
私はこの屋号が示す三兄弟、越後
の国三條の人、今井藤七、武七、
良七お三人が毛利元就矢の教訓の
如く力を協せ堅実至極、金輪際微
動だもせぬ経営方針で大を為した
事は以て特記すべきだと考える。
私は盲縞木綿の筒つぽ和服に紺角
帯、緑色前垂掛の丁稚小僧さん部
隊がキチンと列伍を組み勢揃いし
て店へ出勤する朝の光景を屡々見
たのであるが、ことごとく新潟縣
の小学校卒業生中から良質を選抜
し渡道と共に一定寄宿舎に収容、
厳格な実地教育のうえ各地支店へ
配属された。この人達によつて今
日の大丸井がほとんど動いている
事実は、商売、道に因つて賢く必
ずしも学に因つて成らざる証左と
いえよう。
また丸井洋品部は其頃としては
明るかつたので店の前によく子
供達が集つた。私など冬の極め
て寒い日、スケート遊びに疲れ
た手で窓際の真ちゆう棒につか
まつた途端たちまち凍り着き痛
くて取れなかつた記憶があるか
ら多分ウインドウもあつたであ
ろうし、早春の一夜警鐘が乱打
され起きてみると大水で豊平川
の堤防が切れ滔々として丸井前
まで押寄せて来た濁水を止める
ため、大勢の人が提灯を振りか
ざしつつ怒声をあげて懸命に土
俵を築いてる凄い光景を、ヒタ
ヒタ延びて来る水とそれに映り
乱れる灯影と共にハッキリ覚え
ているから思えばまこと隔世の
感ありと申すべく、丸井裏に早
いころいた伊藤辰造氏は明治八
年西洋洗濯を開業した斯界の鼻
祖でのち消防組に携わつた。
靴の元祖岩井さん
それから丸井洋品部の西隣で矢張
り明治の十二年開業菓子の今立さ
ん、鋸の中山、阿波出身で筆法が
丸井と似て非なる秋山雑貨し今デ
パートの一角と変じ、つづいて薬
の丸一斉藤、開拓使製靴工場で仏
人レマルシヤンに仕事を習つたの
ち其工場を払下げられ同じく十二
年開店、全道靴工の祖と仰がれた
岩井信六、陶器の一メ塚原、丸十
昔は罪のない洒落者が多くかつて
商業会議所議員に立候補したとこ
ろ、イケナイ・ヨソウキチと姓名
をもじつた投票を頂戴したと伝え
らるる金物の池内與惣吉さんなど
老舗が並び、同南側の角セトヤ加
藤三義さんの処には山口、坂部の
茶店二代、その南隣に最初のタク
シイを始めた吉原俥屋がいたけれ
ど他と同様この町内も四十年五月
十日の大火前後からかなりの変動
が見られた。
即ち以上に■■■辺つまり二丁
目南側東から早川餅屋、青山時
計、山一ハカリヤ、山田と藤原の
家具、島口と前田の金物、小六
雑貨、カネキ中村、睦屋糸、小
林小間物、難波■、大槻小間物
カネヨ南部、富貴堂、大丸藤井
丸油呉服、山ミツ星前田、中野時
計、角一朝明ブリキ、北海銀行な
ど一時は市中に名を売つた店の
うち今日残つているのは三分の
一もなく大店だつた南部や丸
油の影無きはもち論、大橋は蔵
のみ残り、壱対の大石灯籠を札
幌神社拝殿前に寄進した前田金
物当代と、古いキリスト教信者
だつた別の前田さんとは東京へ
引越し、電気の石垣開一、時計
の加藤義信さん達が勤めていた
中野時計店は千代田銀行や秋山
店の現在する建物を記念として
去り、ただ表通りから南裏仲通
へ移つた山一度量衡器店進藤胤
雄さん一家三代益々御繁栄で町
内第一の古顔を誇つているのは
御一緒に三丁目へ越した藤井さ
ん三代が文字通り大丸であり富
貴堂中村さんの愈々富貴なのと
共に御芽出たい限りであるが、
この進藤さんは太平洋画会に油
画を学んで五味清吉、多々羅義
雄ら旧帝展無鑑査組と同期とい
ふ変り種で、父君は「札幌区
史」を著した伊藤正三、三十八
年道民大会代表の山崎孝太郎と
共に北鳴新聞を興し、私の父な
どと永田巌北海銀行頭取を扶け
て札幌商業会議所を創めた人だ
つた。
想えば私たち腕白仲間が南部さん
の焼跡にあつた地下室で白骨を見
つけて怖がつたり、その西裏に残
つた士藏を見ん事切り破つた所謂
娘師の凄腕に驚いたり、南一條の
往来に雪山を積んで雪戦会をやつ
たりしてからさえ既に四十数年経
ているのであるから、人の世の恒
なる幾変転また故なしとせぬばか
りでなく、純情な吉原ロマンス
を未だ故老の語り草に残す南部與
七さんの老後を、南部さんの恩顧
を受け札幌政界に活躍した菊亭侯
爵執事富所廣吉氏の書生戸津高知
さんが引受け死水を取つたという
美談が噂されたとて格別不思議で
はないのかも知れない。
軒を連る商店街
慈愛の人 増本先代=三丁目
さて三丁目へ筆を進めると、昔は
北東角つまり今の増本茶店のとこ
ろにイゲタ石田呉服店が勢威を振
いのち南角に移つたが間もなく閉
店し、その跡へ丸三藤武良屋を名
乗つて丸井金物部が出、南隅に酒
醤油部を併置し、その西隣はサ印
岡田佐助商店であつた。画家故
岡田七藏君を生み遊園地、今の中
島公園に岡田花園をつくつたこの
旧家の店員からは池内金物、関谷
薬などを生出し如何に盛だつたか
は現在大丸藤井さんが使つている
間口十間奥行二十七間石造りの建
物を見ても判るであろう。
苦労人の藤井先代
そして、藤井さんの先代太三郎
二代専蔵さん父子は今井三兄弟
と同じく相協力して今日の基礎
を固め、古谷や富貴堂など同県
人の面倒をよくみたが、その二
丁目時代、石油を炭山に捌くほ
か夕方車につけで町通りを売り
歩いた姿を知る人も猶相当生き
ていられる筈で、私はその御向
にいたころ、塵紙はまだしも算
盤や硯をすら壱車商うという全
國希有な話を聞いて魂消げたも
のであるが、当代司郎さんの兄
に当る人であろうか、同じ年配
の幼友達が亡くなり美しい花に
包まれた顔をガラス越に見せる
キリスト教の葬式に衝たれた記
憶がある
藤井さんの西は二二商会からクラ
ブ化粧品の山上広瀬、秋田物産館
から勧業証券、元利久菓子から林
屋茶店、笠原洋品から関谷大学堂
萱間新進堂から富貴堂へ、久保砂
糖、棚田呉服から時代を置いてカ
ツヤ喫茶、シイク理髪等に変つた
筈で、角は梟時計の中野から木本
小松の靴屋二代へ来る間に大正琴
の雨宮さんがゐ、大正七年開道五
拾年博覧会の人出最中いま憶うと
やつぱり大正開化の響ある実演を
して行人を足止めしたものであつ
た。
また、今の有隣生命の昔はその
一角土地全部を持つていた建部
旅館が隣の五十嵐写真館から出
火したため皆いなくなり、前後
して有隣生命、北へ並んで新様
式ながら何處か危つかしい建築
の亀屋洋菓子、それを近代化し
た森永、私と幼友達の息子さん
がスケートの日本的選手で北大
助教授になつた安倍の帽子屋、
石田果実、玉屋眼鏡、折橋洋品
大阪屋ラジオ、繁華な通りの中
で薄暗く文字的でメンコかつた
喫茶店のルビイなどが在つたり
失くなつたりした訳であるが、
面白いのは安倍帽子の前に山下
氷屋があつたことであろう。
東へ返つて増本茶店の先代は二の
四の角いまの小原さんの所にあつ
た市田茶店の番頭で失敗した主家
を引受け五百匁一貫目の行商から
はじめ漸く三丁目イゲタ跡へ移つ
て來た人、老齢御存命の小母さん
は売上の汚れ紙幣のしわを火のし
で延して銀行へ運んだ位律氣な反
面、私や私と同じ歳頃のお富さん
という娘など子供達を集め炬燵に
あたらせながら百人一首を教へて
くれた人である。
変り種は独身一家
また増本の北は種苗の相沢さん
で姉の満寿子女史は札幌最初の
上野音楽校出ヴオツカレストと
して中央ステエジに立つた有名
な才媛であつた、増本の西、日
動保障の以前は藤川、其前は巴
屋上野と兄弟二代続きの紙屋だ
が、この一族は変つた人達で皆
生涯独身であり従つて炊事万端
店の者が勤めた。殊に弟の藤川
さんは店を手離し帰国するとき
数拾年交際つた御国衆の維新堂
布川さんはじめ情誼に厚い人達
が御別れの会を開こうとしても
居処が判らず、生れ在所に還つ
たのちそのマルモニズムが祟つ
て戦後窮乏の折柄金を出しても
大根一本売る者がないと伝えら
れた
余談休説、御承知の如く札幌の市
街区劃は略々六十間に二十七間、
一戸分は五間に十三間半が定法で
あるが、この南一條西三丁目八番
地には間口十間奥行二十七間の店
が五軒あつた。つまり藤川の隣の
角井長谷川陶器、私の家のカネタ
沢登金物、野原勇助、宮沢金物、
南部小間物の五軒であるが、いわ
ば目抜の南一條でブッ通し二百七
十坪占める家は丸井、古谷、高桑
藤井、富貴堂位のものであるから
一応巨商街と称えた、しかも冷厳
な変移はこの辺にもあり、今井さ
んと同郷の兄弟店で丸井に対する
角井を名乗つたと聞く長谷川さん
はお気の毒な事情で店を繊維組合
へ譲り組合の後が丸善。
私共は折角商業学を修めながら
永井荷風先生のいわゆる売文卑
賤の徒に堕もたに懲りず、古陶
を愛し美術考古を究めようとい
う度し難き不所存者であるから
現金と国債以外は持たず、石橋
を叩いて渡らぬ親爺の信頼に応
えて城郭を安田銀行(富士銀
行)へ高価に売払い、山形屋大
竹さん先代が勤めていた野原さ
んの跡は高増紙店、自治堂書房、
十二銀行、北陸銀行と変り、宮
沢さん跡の原田青果と南部さん
跡の京屋松本は一挙三越になつ
た次第であるが、霜ずく深夜、
孤り鼻水をすすりつつ此文を
やりながら私は自分の家の前で
悠々大きな紙鳶をあげて遊んだ
ことを昨日のように思い出し、
タぐれどき如何にも大家の御
主人らしく御人柄な長谷川さん
が奥座敷で吹きしく尺八の音の
表通りへ流れ漂つたほど静かな
あの頃に引換え、狂声と雑踏に
始終する今の十字街を見直すと
共に、時価二三万円の土地もそ
の頃は市有地で賃貸料坪月五十
銭だつたとつけ加えておく
(昭和25年10月27日付北海タイムス朝刊4面=マイクロフィルム、)
十字街の回顧(下)
沢登龍生
激しい変遷五十年
草分けは維新堂=四丁目
更に十字街を越えて西へ渡ると変
遷はかなり烈しく、年代順を構は
ず一條北側の熊倉俥、平井洋服、
穏明寺荒物、多田菓子、笹原酒、
新卯吉、丸冨雑貨、持田骨とう、
中原新聞、石田と原田の青果、梅
沢と大谷の時計、佐藤表具、ホリ
ノ家具、角の久慈縄莚、それに小
山電気、一條薬局、池内砂糖さん
など、同じく南側の丸辰佐藤洋品
、一の秋野薬、高知屋、土佐屋、
船山は帽子にかぶる、山吉肉、ア
ソヅヤ、若月紙、三田火薬、北海
道商工銀行、お福堂菓子、綱島敏
功、菊屋食料、上口洋服、小谷肉
丸仙浴場など数十軒の興亡は挙げ
るだけでも大変であり
殊に南側東向は札幌の主線に属
するため奥村靴、某行李、古書
札幌堂、山一証券と代変りした
南角から始まり僅か二十七間を
某鳥屋、安斎一刀堂、松末書籍
文具、料亭新高砂の先代竹内足
袋、赤帽子、小樽新聞支局、巴
屋、奥田歯科、お福堂喫茶、シ
イク理髪、阿部写眞、大谷時計
伊曽屋下駄など競り合つた揚句
維新堂が草分先達の栄を得たの
であるから殆んど目まぐるしい
話と言い得るし、これを四十年
の大火後、それまで二間半間口
だつた維新堂が頑張つて三間に
建てたものの裏には広い空地が
あり、そこで隣の鳥屋が鶏を飼
つていたというばかりでなく、
その新築した三間々口の家が星
霜ここに四拾五年を経いま一誠
堂さんとロバパンさん御盛業中
のそれであるというに至つては
私ならずとも感慨無量であろう
なお右のうち、高知屋または土佐
屋は当時新聞記者として在札した
自由民権の功労者中江兆民創める
ところ。中原新聞と丸仙浴場は何
れも斯業最古の一で、中原兄弟は
北中野球部の大先輩、妹さんは陶
芸の新人として売出しの宮下貞一
郎君お母さん。そして、母親に連
れられて丸仙へ行き否応なしにク
リクリと頭を洗われることを最も
怖れ、同級生久慈勘吉さんの莚
倉の中でする隠れん坊がすきだつ
た私は、後年、まだ新川が西四、
五丁目間を南北に流るるころ、川
端柳のあいだから水に映る灯し火
どき、ほの白く左褄とつて御座敷
へ急ぐ美婦の姿にものの哀れを感
じ初めた次第である。
維新堂の布川栄助さんは五拾年
来私共と親しく、お逢いする機
会も多いので色いろ昔話に落ち
て行くが、前に誌した三丁目巴
屋出身のこの老人は勤倹力行一
歩一歩地盤を固め揺るぎなき大
維新堂を築き上げ、現在といえ
ども雨が降ろうが槍が降ろうが
円山宮ケ丘の自宅から弁当持参
で長男弘司氏経営十字街の店へ
出勤し序に南四東一の次男章三
氏、経営キンシ鉛筆会社へ回る
のを日課としているから以て実
業家の範とするに足りる。
江州商人の頑張り」
言うまでもなく札幌には各府県人
が集まつて居り夫ぞれ御國振りな
特徴を持つているのであるが、私
は就中滋賀縣人つまり江州商人の
勤勉と団結とは注目すべきだと考
える。長なが述べ且つ挙げた数多
くの家々の大半が無惨にも浮世の
暴風に吹き折られた今日、なお屹
然として成功の光輝を誇る大丸藤
井、布川、古谷、関谷薬、池内金
物、富貴堂、増本諸氏、過去の岡
田佐助、大橋玩具、巴屋上野、藤
川らはそれであり、各々脈絡を以
て生きた点は天つ晴である。
○
読者諸賢は、既に幾たびか発し
た私の詠嘆と懐旧に煩さくなつ
たかも知れぬけれど、然しあま
り丈夫でもない肉体を鞭うち徹
夜また徹夜、ありもせぬタレン
トを絞り盡した末辛うじて、仲
なかまとめ難い此文章を為した
根源は実にその感傷であること
を御気付になり暫らく御勘弁願
うとして…
南壱條通りを悠るく流れた
昔懐かし鉄道馬車
「あ、パン、パン、パン、パン。
やつて来!おいしいパンがやつ
という、あのパン売の声や
「え、オイチニイ、オイチニ!」
と大礼服を着た薬屋の奏でる手風
琴の調べは、一体どこへ行つたの
であろう。
また真つ昼間の表通りを
「突貫!突貫!!」
と精一杯の喚き声をあげながら人
も無気にブリキの筒に台尻を黄色
く塗つた鉄砲を担いで駈け去つた
一群の頑童はどつなつたであろう
「小ぞうお!」
「へえい!」
「木綿縞持つておいで!」
「へえい!」
丸井の、畳を敷いた店先の座売と
いうやつで、真鍮の火鉢を前に
玉の大きな算盤を斜に構へていた
番頭と、ちんちくりんの御仕着せ
にそれでも角帯を締め素足で高麗
鼠の如く走り回つていた小僧とは
果てどちらが成功したであろうか
ああ、細いレエルの上をノロノ
ロと鉄道馬車が行く。マッチ箱
の様な車体の窓から外を見る乗
客と不潔物を放ち放ち走る馬!
それが大正七年の春で、夏の開
道五十年博覧会には電車が走つ
た。ギイギイ鳴る小さな車体と
ゴツい車輪の軋りに
「十宇街まで!」
という私の顔を車掌は怪げんそ
うに見直した。
「四丁目の十字街までですよ」
「なるほど」
さういう呼び方もあつたのかと
腑に落ちぬ表情の車掌さんが面
白く、私は何度それを試みたで
あろう。
實のところ、私はかつて函館に学
び彼地で十字街という呼称を覚え
如何にも氣に入つたので半ば青年
の客気、それを使つたに過ぎない
のだが、しかし、今になつてみる
とその称呼がひとりでに拡がるま
で矢張り長い歳月を要していたの
である。(筆者は郷土史研究家、
北海道日本画協会理事、北海道民
芸協会支部代表)
*********
今は昔の物語
一丁目から七丁目まで
丸井さんSOS
○…丸井さんといえば東京以北
随一のデパートとして貫禄を示し
内地資本が束になつてかかつても
拓銀と丸井の牙城をくつがえせな
いといわれているが、この丸井さ
んにも店がつぶれかどうかという
危い時代があつた、それは大正八
九年欧州大戦の好況のあとをうけ
て物価はつるべ落ちに崩落、この
ため丸井さんも二百万円くらいの
損害、当時大学出で四十円という時
代の二百万円は丸井さんにとつて
は大打撃というよりは店がつぶれ
るかどうかの境目、ここでほかの
商店が値下げを渋つている時先代
社長が敢然として値下げ断行を決
意、拓銀や問屋筋の援助を受けて
危いところを切り抜けたが、それ
でもこの年の決算には二十四万の
赤字があつたという
株と政治は粟物
○…もう一つ…丸井一族が繁栄
しているかげにはこんな家訓がも
のをいつている、いわく
一、政治に手を出すべからず
一、相場や思惑をすべからず
札幌早創時代には豪商といわれた
人達は相場に手を出し巨万の富を
残したが反面ガラを触つて凋落し
た店も少くない、今井一家はこの
タブーを信奉しいまなお政治と相
場には手を出さない
坪二銭で高い?
○…いま市内で三越―今井を結
ぶあの周辺は地代も高く三越辺は
坪十万円といわれているがひの昔
明治十年頃には西一丁目かにいま
の丸井さんあたりが一番の繁華街
で地代も高く坪二銭であんな高い
ところでは商売にならんとさわが
れた、いまの増本園から三越辺は
格がグッと下り坪一銭五厘で五厘
の開きじやと売り買いに■られた
というから今から考えると夢のよ
うな話
半七さんの悲話
○…いまの古谷商店のところに
昔後藤半七さんという雑穀問屋で
は本道でも指折りの店があつた、
この店は当時二十五連隊の御用商
人として米、雑穀類を納めていた
が馬車追いが荷物を運んださいに
隊の使丁と結託して軍馬と馬車追
いの馬とをスリ替えてしまつた、
それが後日バレて半七さんは軍法
会議に附されスッタモンダしてい
るうちに未決で亡くなられてしま
つたこのためさしもの店もガタガ
タとなり遂につぶれ当時ジヨウル
リが流行つた時代なので若い娘御
さんまでが風呂の帰りに
今ごろは半七さん、どこにどう
してこざろうや……
と首をフリフリうたわれたものだ
という、古老には忘れられぬ語り
草の一つ……
危なく手放す
○…古い話ばかりの中に新しい
ところも一つ…二丁目ノ東向きに
カナリヤ洋装店がある、ここの御
主人は茂尻の店をたたんで札幌に
遠征?したが戦時中は統制ですつ
かりさびれ、十五、六万円だつだ
ら店を手放すがと買手をさがし回
つたほど苦しがつていたが戦後メ
キメキと頭をもたげ最近ではデパ
ートよりも品数を充実、店舗の狭
あいからいま電車通りに新築中出
来上がれば裏店から表店まで通ず
る百坪の売場スペースを持つこと
になり業界を驚かせているがあの
時手放していたら…とご主人も感
慨無量?とは運のいい人
消潰防組暴れ回る
○…「靴の元祖」岩井信六商店
はいま三代目、初代はクリスチヤ
ンで酒をのんで暴れたりすること
が大きらい、当時消防組が盆くれ
に寄付を強制的に集めてドンチヤ
ンさわぎをやる風習があつたので
ニカニガしく思いそれらの寄付を
一切御断りする一方区議会で寄付
強制の悪弊を論じたところ消防組
からニラまれ、正月の出初式のあ
と半鐘を鳴らし岩井が火事だ
と火事でもない同店にトビなどで
店の中をこわすやらホースで水を
放すなど乱暴狼藉の限りをつくし
て意気高らかに引あげた、カンカ
ンになつた信六さん早速告訴し、
この勝負信六さんにがいかが上り
り、それ以後消防はめつきりおと
なしくなつたそうナ…
モチがつけなくて
○…三丁目の大丸藤井店店…こ
の初代も江州商人として血の出る
ような苦闘の結果今日の礎をきず
いたが当時正月にはモチをつく金
すらなく「薯カユ」でおゾウニを
代用したが今日でも創代の苦労を
忘れることなきよう一族はみな「
薯カユ」で元日を迎えるというか
ら今日のアプレ商人にはセンジ薬
になる
丸善拾いもの?
○…「丸善」この店終戦まで大
同ビルで営業をしていたが終戦後
接収されてからいまの店舗を札繊
から二十四万円で譲り受けた、い
まになつて見れば三越―丸井には
さまれた絶好の場所なので売つた
方の旧札繊中ウロコ向井理事長は
二十四万円ぐらいならワシが買つ
ておけに良かつたとくやしがるこ
としきり…しかし向いの大丸が來
年四階建てのビルディングを新築
するというからカワラ屋根の丸善
はあの辺で一番見劣りすることに
なる「丸善もあれジヤア…」と嘆
くのは店員ばかりではない、早く
なんとかしてもらいたいもの…丸
井―三越までの電車通りはアスフ
アルトで舗装されるりでいまこの
辺は道路を掘りくり返して泥ねい
悪路、しかし年末ころには駅前に
劣らぬべーヴメントとなり来春ま
でに鈴蘭燈もつくというからアタ
マが古い老舗の御主人達も時世に
目ざめてやつと起ち上つたらしい
バレーも宣伝用?
○…四丁目から七丁目までは大
きな店もあるがゴミみたいな店も
雑居している 四丁目で大さいと
ころは岡本紙店 内田洋行 一條
薬局 梅沢時計店 池内砂糖店
五丁目ではカミシモのような制服
が御自慢の北海ドレメー、近ごろ
は宣伝?にバレーで名を売りアタ
マのよさを見せ 島津レントンゲ
ン、大どころ六丁目は患者の多い
ので有名な中村眼科 今井べニヤ
肉の組合などが目立つ程度
(昭和25年10月29日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム、)
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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