昭和11年秋、陸軍や海軍の大将たちが月寒の八紘学院を訪れ、昼にジンギスカン料理を食べたことは以前の講義で話しましたが、この年には札幌狸小路にあった横綱という飲食店がジンギスカン料理を始めたという記録があるのです。例えば亡くなった食文化研究者小菅桂子さんが書いた「近代日本食文化年表」の昭和11年のところに「札幌にレストラン[横綱]が開店。ジンギスカン鍋の元祖(1)」と載っていますが、きょうはその横綱についての考察です。
まず、いまいった「近代日本食文化年表」の誤りを指摘しておきますがね、横綱はいわゆるレストランではありませんでした。昭和11年開業ではなくて、それ以前から営業していた。おでんと焼き鳥でお酒を飲ませる店でした。そこへ新しいメニューとしてジンギスカンが加わったのです。
小菅さんの書き方だと、ジンギスカン専門で新規開店した、よって元祖なんだと受け取れます。まるで日本で初めての店みたいですよね。私はね、小菅さんは毎日新聞北海道報道部が出した「北の食物誌」か「北海道緬羊史」を元にして、そう書いたと思うのです。
毎日さんは「ジンギスカンなべを民間で初めて客に出したのは札幌・狸小路六丁目にあった『横綱』という店が、これも道庁畜産課の肝いりで、羊肉、なべ、それに宣伝マッチやリーフレットまで道庁が準備して昭和十一年十一月に店開きした。(2)」と書いています。
その6年後に出た「北海道緬羊史」は「札幌では、現在の狸小路6丁目に、昭和11年に横綱(店主合田正一氏)という小料理店で、道庁の中西、渡辺両技師などのすゝめもあって開店したのが、北海道におけるジンギスカン料理の元祖といわれている。北海道緬羊組合聯合会では『羊肉は肉の王』というポスターや、ジンギスカン鍋料理の広告入りマッチなどを作り、宣伝したが、なかなか客がつかず、好評ということにはならなかった。(3)」と、どちらも専門店が開店したように書いているからです。「緬羊史」は「北海道における」と、地域を限定しているのに、小菅さんは全国初みたいに書いているから、毎日新聞の「北の食物誌」に頼ったように思われます。
小菅さんの本の12年前に出た「日本史分類年表」の「食物年表」には「32・ジンギスカン料理が東京に出現(4)」とあるんですよ。32は1932年を指しているから昭和7年ね。濱町濱の家や大井春秋園を指すはずですが、ともあれ東京の店が横綱より4年は早く売り出したことは確かですから、全国的には、こっちが先祖ですよね。どうもみても、小菅さんは資料として1冊しか見なかったように思われます。これはできるだけたくさん資料に当たるべきだという私たち研究者に対する教訓でもあるのです。
ところが、できるだけたくさん文献に当たっても、小菅さんと同じような過ちを犯すことがあり得る。それはね、見た文献が引用している元の文献が全部同じで、別系統の新資料がなかなか見付からない、もしくは見つけようとしない場合です。明治2年細川少審議官緬羊輸入説がそのいい例です。そういうケースは、こうだから疑問があり真相はわからないという結論になっても仕方がない。
その報告を読んだ別の研究者に新しい証拠を見付けてもらうしかないのです。そこでね、私がその別の研究者として昭和11年の横綱の新しい証拠を探してみたら、別系統というより別角度から調べることによって、横綱がジンギスカンを売り出したという昭和11年は極めて怪しい。12年だったらしいが、確証が見付からず真相は不明といわざるを得ないことになったのです。
いま配る資料のトップにある写真を見なさい。はい、どんどん後ろへ回して。渡りましたね。資料その1は「札幌狸小路発展史」という昭和13年の本にある横綱の写真(5)を複写したものです。丸く輪を巡らせて土俵をかたどった玄関は、狸小路の南3条西6丁目、つまり通りに面して北向きでした。その上にしめ縄みたいに、それこそ横綱を飾り付けていたことがわかりますね。
左端の看板は「七月廿四日 横綱武蔵山関御来店 おでん 横綱」と読めます。調べたら昭和12年7月21日から5日間、西15丁目の札幌師範移転跡地で札幌場所が開かれた。24日の結びの一番で武蔵山は寄り切りで大邱山に勝ってます。夜は中島公園で花火大会があった(6)ので、武蔵山は夕涼みがてら横綱に顔を出したのでしょう。屋根に雪が積もっているから、この写真は11年から12年に掛けての冬に撮影と思われます。
資料その1
突きだした看板灯に「横綱 おでん」とあり、スライドするらしい扉の「酒」という大きな字の上に右書きで横綱、その右側に何字かあり、続けて「おでん」と書いてあります。店の前の自転車のフレームの中に三角形の板があり、復刻本ではわかりませんが、原本なら虫眼鏡を使えば「横綱おでん」と読めます。玄関の左側でちょっと突きだしている障子戸に、右から小鳥やき、やき鳥、もつ焼ですね。どう見ても縄のれん、いわゆるレストランという風情ではありませんよね。
経営者は写真の右上にある顔写真の人、合田正一さんでした。いくつかの資料を手がかりとして計算すると、合田さんは明治29年か30年生まれとみられるので、昭和11年は39か38歳でした。
合田さんがいつ店を開いたかわかりませんが、昭和6年6月の北海タイムスに、狸小路西6丁目の大黒おでんという店が内部を改装したので、来客に粗景呈上(7)という広告があります。また翌7年8月にも「譲おでんや 狸小路盛業中/百八十円南三西三藤田電三四一四」(8)という広告があります。これが大黒おでんと同じ店だという証拠も何もありませんがね。
「札幌狸小路発展史」の聯合会員名簿に200人の名前、営業種目、屋号、電話番号が載っています。それをみると酒場、飲食店、食堂はありますが、おでん屋は横綱しかない。私はどうも合田さんはこの盛業中のおでん屋の後を引き受けてこの道に入ったような気がするんですよ。
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参考文献
上記(1)の出典は小菅桂子著「近代日本食文化年表」166ページ、平成9年8月、雄山閣=原本、
(2)は毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」115ページ、昭和52年8月、毎日新聞社=原本、
(3)は北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」237ページ、昭和59年2月、北海道緬羊協会=原本、
(4)は桑田忠親監修「日本史分類年表」*ページ、昭和59年6月、東京書籍=原本、(5)は松内保太郎編「札幌狸小路発展史」30ページ、昭和13年3月、狸小路聯合会=原本、
(6)は昭和12年7月25日付北海タイムス朝刊8面=マイクロフィルム、
(7)は昭和6年6月15日付同朝刊7面広告、同、
(8)は昭和7年8月6日付同朝刊4面広告、同
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はい、次の資料その2は、主に道内に住む文筆家、研究者が北海道のジンギスカンについて書いたものを年代順に並べた表です。このほか農業雑誌などに家庭向け料理法は載っていますが、それらは除いてね、おおまかにいえば食通向けという読み物に絞りました。たいていの本は北大にはなくて、札幌市立中央図書館にあります。横綱の名前が出てくるのは昭和37年以降なので点線を入れておきました。
これが悩ましいところでね、それ以前に絶対になかったとは断言できない。横綱で開いたジンギスカン試食会の初日は昭和11年11月13日と合田さんが北海道新聞に語っているので、私はその前後2年ずつの北海タイムス、小樽新聞を読んだのですが、支那事変つまり日中戦争の記事が多くて、まだ見つからない。道庁が勧めて開いたというから、道庁が毎日発行した北海道庁公報も見ましたが、やはり見つからないのです。
それだけじゃない。当時の雑誌も調べましたね。ところが、ろくろく残っていない。売れないので作らなかったのかと思ったら、そうではなかった。「北日本評論」という雑誌に「道庁雑誌を整理廃合せよ!」という主張がありましてね。
それよると「昭和十年の春から秋にかけて内務省は、全国的な『暴力団並に新聞雑誌膺徴」を断行した。その結果として民間新聞雑誌の廃刊は夥だしき数にのぼり、現に札幌なぞは大小六十有余の新聞雑誌社があつたものが、たつた五社に減つてしまつたのである。即ち、新聞では北海タイムス、札幌毎日新聞、雑誌では北海春秋、北海道衛生、北日本評論より此の世に呼吸して居ないのである。(8)」と抗議していたのです。
皆さんは「暴力団並に新聞雑誌ヨウチョウ」と聞いてもピンとこないだろうが、ヤクザ集団と新聞雑誌社をこらしめるという意味です。中国との戦争を始め、何が何でも勝たなきゃならんときにだ、足を引っ張るような新聞雑誌社は消してしまえと国家権力でつぶしてしまったのです。
この5社という数は「北海道の出版文化史」が示す昭和15年の「北海タイムス年鑑」から転載という「札幌市・近郊町村」の52社(9)より遙かに少ない。ジンパ学的には脱線なので詳しく追求してませんが、年鑑は一時休刊の形をとった社も含めたんじゃないかと思っています。ともあれ、3つの雑誌で北大と道立と札幌市立図書館に保存されている分は全部見ましたが、羊肉の話はなかった。そんなわけで横綱試食会の開催の物証は皆無と断言してもいいくらい捜索は難航してます。
また、合田さんは戦後薄野でジンギスカンを売り物にした屋台店を開き、そのときも横綱と名乗ったらしいのです。その後で南5西4のちゃんとした店舗に移った。終戦後の新聞はページ数が少なく、食糧はじめ生活と新しい政治記事であふれており、とてもジンギスカンを売る一露天商の話が新聞雑誌に載っている思えないのです。それでね、戦前と終戦後10年間の記録探索はペンディングにして、昭和30年以降でみれば昭和37年に初めて認められるので、一応の区切りとしたのです。
下の行の二重かぎ括弧の題名は掲載した本や新聞の題名、書いてないのは単行本。それから辰木久門の本が4冊あるが、これは達本外喜治のペンネーム、達本で2冊と「札幌事始」のジンギスカンの項を書いています。
資料その2
北海道ジンギスカン関係書誌年表
昭和26年 「宮様と鍋羊肉」なんばしるす
『緬羊とその技術』北海道緬羊技術連盟
「羊肉の料理」
『緬羊の生産物と其の加工法』北羊會(非売品)
昭和28年 「豪快なる味覚」北海タイムス社
『北海タイムス』
昭和31年 「全国うまいもの旅行」
日本交通公社
昭和35年 「『じんぎすかん鍋』に寄せるオムニバス」吉田豪介
『札幌百点』北海道書房
昭和36年 「成吉思汗料理事始」日吉良一
『北海道農家の友』北海道農業改良普及協会
「成吉斯汗料理という名の成立裏話」日吉良一
『北海道の文化』北海道文化財保護協会
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昭和37年 「北の味」日吉良一
『札幌百点』さっぽろ百点社
昭和38年 「たべものの語源」日吉良一
柴田書店
「父とジンギスカン鍋」藤蔭満洲野
『札幌百点』さっぽろ百点社
昭和40年 「北海道の味覚」辰木久門
札幌鉄道管理局
「北海道の味とうまい店」辰木久門
レポート社
「さっぽろ百景」五十嵐久一
タイムス観光
「月寒十五年」釣谷猛
釣谷猛文集刊行会
昭和42年 「ジンギスカンなべ物語り」北海道新聞社
『北海道新聞』
「羊群声なく…ことしの主役よもやま」北海タイムス社
『北海タイムス』
昭和43年 「開かれた道いまここに」朝日新聞北海道支社
『朝日新聞』
「味とうまい店<全北海道版>」辰木久門
レポート社
昭和45年 「北の味覚 ふるさとの海幸・山幸」辰木久門
みやま書房
昭和49年 「北海道 海幸・山幸」伊藤利孝
『うまいもの屋北海道篇』講談社
昭和50年 「北海道たべもの文化誌」北海道新聞社
北海道新聞社
昭和51年 「成吉思汗物語り」吉田博
『北海道農家の友』北海道農業改良普及協会
昭和52年 「北の食物誌」毎日新聞北海道報道部
毎日新聞社
昭和53年 「続々北海道絵本」更科源三
さろるん書房
「味覚辞典 日本料理」奥山益朗
東京堂出版
「ジンギスカン」清水祐孝
『札幌風物誌』札幌市教育委員会
昭和54年 「北海道緬羊史」北海道緬羊協会
北海道緬羊協会
「ジンギスカン」達本外喜治
『札幌事始』札幌市教育委員会
「月寒種羊場 ”ジンギスカン”発祥の地」
『語りつぐほっかいどう100年』読売新聞北海道支社
昭和56年 「北海道たべもの歳時記」重森直樹
月刊北海道マービス
「ジンギスカン」瀬川恭子
『北海道大百科事典』北海道新聞社
昭和57年 「新北海道たべもの歳時記」重森直樹
月刊北海道マービス
「名物にうまいものあり」座談会
『食べものの習俗』ぎょうせい
昭和58年 「北海道うまいものめぐり」重森直樹
月刊北海道マービス
昭和59年 「ジンギスカン」佐々木酉二
『札幌食物誌』札幌市教育委員会
「札幌の食いまむかし」茜会
北海道教育社
「ほっかいどう 味の風土記」達本外喜治
北海道新聞社
「ジンギスカン鍋」永平敏夫
『札幌歳時記』札幌市教育委員会
昭和60年 「北海道うまいものうまい店300選」重森直樹
月刊北海道マービス
昭和61年 「聞き書 北海道の食事」矢島睿
農山漁村文化協会
昭和62年 「定本北海道たべもの歳時記」重森直樹
月刊北海道マービス
昭和63年 「歴史の源流を行く 成吉思汗」
『北海道新聞日曜版』北海道新聞社
「北の国の食物誌」達本外喜治
朝日新聞社
平成元年 「北の味覚 つれづれ草 食味評論集」重森直樹
月刊北海道マービス
平成2年 「北海道事始め ジンギスカン鍋」吉岡道夫
『われら北海道』自由広報センター
平成3年 「これでも医者だどさ」高島巌
北海道新聞社
平成5年 「ジンギスカン鍋」山崎民子
『十勝大百科事典』北海道新聞社
平成6年 「東北・北海道の郷土料理」乙坂ひで
ナカニシヤ出版
平成7年 「これをたべなきゃ」渡辺淳一
集英社
平成8年 「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」高石啓一
『畜産の研究』養賢堂
「我が青春のジンギスカン」沖田重敏
『あの時あの味あの風景』スカット出版
平成9年 「近代日本食文化年表」小菅桂子
雄山閣出版
「昭和・平成家庭史年表 192677→1995」下川耿史
河出書房新社
平成10年 「牧柵の夢」吉田稔
デーリィマン社
平成12年 「北海道の食 その昔、我々の先人は何を食べていたか」村元直人
幻洋社
昭和37年に横綱の名前を挙げたのは日吉良一さんです。日吉さんは「成吉思汗料理事始」では道内初のジンギスカン店は戦後生まれで札幌の精養軒だと書いたけれど、一生懸命調べたのでしょう。タウン誌「札幌百点」に「<略>第二次大戦後、北海道知事田中敏文氏の肝入りで札幌の精養軒が昭和二十二年の夏はじめたのが第一号ということになつているが、実はそれより以前の昭和十年ころ狸小路にあつた「横綱」という飲食店ではじめていたとの説もある。<略>(10)」と書いています。半信半疑の感じではありますが、目下のところ、これが横綱の初出誌なんです。
その次の辰木さんは横綱には全く触れず「北海道の味覚」から「北の味覚 ふるさとの海幸・山幸」までの4冊は、日本国内でという前提だと思うのですが、ジンギスカンが「流行しだしたのは昭和初年ごろで」あり「札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。(11)」という同文が入っております。
辰木久門こと達本外喜治さんは、略歴によると大正2年生まれなので昭和11年には23歳。道庁務めをしていたのだから、精養軒で食べたり飲んだりしたことがありそうで、戦前の証言として無視できん。後でまた話します。
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参考文献
上記(8)の出典は北日本評論社編「北日本評論」6巻7号181ページ、昭和12年10月、北日本評論社=原本、
(9)は北海道の出版文化史編集委員会編「北海道の出版文化史 ――幕末から昭和まで」144ページ、出村文理「昭和戦前期の出版事情」、平成20年11月、北海道出版企画センター=原本、
(10)は札幌百点社編「札幌百点」4巻5号23ページ、日吉良一「北の味」、昭和37年6月、さっぽろ百点=原本、
(11)は辰木久門著「北海道の味覚」56ページ、昭和40年4月、札幌鉄道管理局=原本
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横綱に関するこれら書誌の中で、私が重要と評価するのは、昭和42年の未年にちなんだ北海道新聞の「ジンギスカンなべ物語り」と翌43年の朝日新聞北海道支社版の「開かれた道いまここに」です。この後に現れた書誌は皆、この2紙の記事をさりげなく織り込んでいることでも明らかでしょう。
それで横綱の考察には、ほぼ40年前の両記事抜きにはできないので、北海道新聞社及び朝日新聞社には、いささか多めの引用についてご理解とお許しをお願いしてね、話を進めます。著作権保護は真面目にやらないとね、この講義が本になったら私にも返ってくる問題でもありますからなあ。
北海道新聞の「ジンギスカンなべ物語り」は昭和42年1月1日の朝刊、つまり未年の元日号31ページに掲載されました。「はじめは軍が奨励」「いまや道産味覚のホープ」という大見出しで、本文は14字詰め250行を超えています。それに「元祖は私の店です」という見出しの合田さんの回顧談が付いています。この記事によって横綱は札幌ジンギスカンの元祖として一躍、脚光を浴びることになったのです。
しかし、道新のライバルだった北海タイムスも負けずに同じく元日号で「道産の肉はゼロ」「種羊場にわずか二百頭」と、輸入羊肉によるジンギスカンブームを取り上げた。「十三年前から開業の向ケ丘ジンギスカンクラブを”元祖”に」札幌郊外にジンギスカン料亭が続々できた(12)とあるから、ジンギスカンは昭和28年に月寒で始まった料理とみていたわけね。
名前の由来は「ジンギスカン―蒙古大平原の勇者…その名を冠したこの料理、別に蒙古料理とは関係ない。北海道の雄大な蒙古のそれに似かよっているところから名づけられたものらしいがそのアイデアはまことにりっぱ。<略>(13)」とはっきりしません。
一方、道新の記事には6本の小見出しが付いてます。小見出しごとの記事を要約すると、最初の「草原のバーべキュー」は、ジンギスカンの遠征軍が歩く兵糧として羊群を引き連れ、羊肉を焼いて食べた。「戦いすんで、時は流れ、野戦料理も、料亭に現れる。(14)」そして家庭に入ってきたと、当時のジンギスカンブームに結びつけています。
次が「大佐殿が料理実演」。昭和の初め満洲に渡った日本人が羊肉料理を食べ「羊肉の焼いたのを、だれいうとなく”ジンギスカン焼き”と呼び慣らわした。(15)」と。即ち「満洲でだれいうとなく」命名説を取り入れてます。さらに陸軍糧秣廠の丸本彰造大佐が食糧展覧会でジンギスカンを実演したのは、羊毛の国内自給体制を固めるために、羊毛だけでなく羊肉も農家の収入になるよう国民に羊肉を食べる新しい習慣を作り出そうとする狙いがあった。つまり「満洲料理の羊の焼き肉が”ジンギスカン焼き”に衣替えして登場したのも、国策のためだった。(16)」と明かしています。
3番目の「牧羊のことはじめ」は日本の緬羊史概説ですな。4番目の「悩みの種はニオイ」で、横綱の名前が出てきます。試食会の日付も入っているので、ここは資料その3(1)として引用しました。また、合田さんのインタビューも一緒に(2)としました。
資料その3
(1) 悩みの種はニオイ
菓子類や観光みやげ品のレッテルにある”元祖””始祖””本舗”などは、どちらが卵か鶏か、優劣をつけがたい。ところが、北海道の”ジンギスカンなべ”に限っては太鼓判を押してもよい”官製ジンギスカン料理”の元祖が、はっきりしているようだ。
いまは、もうないが、戦前、札幌の狸小路六丁目に「横綱」という焼き鳥、おでんの店があった。ここで、昭和十一年十一月十三日、第一回の”ジンギスカン料理”試食会が開かれた。『農林省で費用を持つ』との話で、三日間、店を貸し切りにした。滝川種羊場の山田場長夫妻が、料理の指導に当たり、なべも持ち込まれた。試食券が配られ、道庁の職員、種羊場の技師たちが、おっかなびっくりハシをつけた。
めん羊を増殖するのには、どうしても羊肉の食用をすすめなければならないが、難点は、独特の羊肉臭。魚類のニオイなら、どんなくさいニオイにも平気な日本人なのに、獣肉となれば、すごく敏感になる。羊肉はくさい。一言のもとに、はねつけてしまう。そこで羊の焼き肉を普及するためには、羊肉のにおいを消す料理法を考える必要があった。
道農試畜産化学研究室長の西部慎三さんは、羊肉のニオイを消す三つの条件に『ニンニク、ショウガなどの香辛料、酒のアルコール分、それに果実の酸味』を数えている。リンゴ、ブドウ、ミカンなどの絞り汁に酒を加え、ニンニク、ショウガをすりおろし、しょうゆで調味するのが、タレの基本。アルコールと酸は、脱臭効果に欠かせない。このタレを月寒種羊場が開発。東京精養軒考案というあのカブト型のなべと合わせて、ジンギスカンなべの定型ができた。
試食会は、盛大に行なわれたが、こんどは、ニンニクくささには食べてもらえなかった。<略>
(2) 元祖は私の店です
昭和十一年に初めて試食会
私の店がジンギスカンの元祖だったことは、はっきりしていますよ。昭和十三年に刊行された「狸小路開拓史』という本にも、ちゃんと出ています。なにしろ、道庁のお声がかりで始めたんですから。
ジンギスカンなべは、ぜんぜんモウケになりませんでしたね。試食会のころは、映画館でただの招待券を配ったりしたものです。一度は食べてくれても、ニンニクくさいので女房にいやがられたとかいって、二度はきません。なべにしても、鋳物屋に行って、自分で木型をこしらえ、くふうしました。タレも、あれこれ作り、羊肉の切り方、調理法も、自分で納得できるまで、三年かかりました。
ジンギスカンのコツは、まず、なべにあります。この、なべを見てください。六度目に作ったものが残っているのですが、小さいシチリンよりも、なべのほうが小さいでしょう。炭火のほのおが、ぜんぶ、なべに当たり、なべがすっかり熱せられないとダメです。
付け汁(タレ)を焼く前の肉にさっとかけて、すぐ焼きます。肉は薄切りで、一定の厚さ、大きさにそろえます。タレは、酒、果汁、ショウガ汁、しょうゆなどで調合。水は一滴も使いません。味加減は自分の舌しだい。教えても、おぼえてくれませんね。
【写真説明】元『横綱』の経営者 合田正一さん(70)(札幌市南五条西四丁目)
続く5番目は「敗戦、めん羊ブーム」では衣料不足で緬羊飼育が盛んになるが、海外から安い羊毛が輸入されるようになって羊毛ブームは終わった。6番目の「家庭でも気軽に」では、観光旅行が盛んになるにつれ、北海道の味覚の1つとしてジンギスカンを食べさせるホテル、料理店が増え、家庭でも食べるようになって道内の緬羊は急に減った。煙の出ない鍋、タレが市販されるようになった今は曲がり角だと指摘しています。
記事を熟読してね、私はこう考えた。記者は合田さんに会い、試食会ことなど思い出をたっぷり聞いた。そこで記者は話を切り分けて、山田喜平さんが鍋を持参したことと元祖として重要な日時、昭和11年11月13日から3日間の様子は本文とし、鍋の改良とたれの工夫は回顧談に入れた。本文の記事にはさらに西部さんから取材したにおい消し3条件を満たすたれ開発の話と、いま使われている鍋の原型は東京精養軒が作ったという西部さんの精養軒考案説を加えた―とね。私はそう読んだのです。
西部さんは昭和27年農学部獣医学科卒で、すぐ農林省北海道農業試験場、月寒の元種羊場に入り23年間月寒に務め、その後九州、四国などで研究生活を送り、昭和61年から定年まで古巣の農林省北海道農業試験場の場長(17)になった人です。来年は未年だから、ぜひジンギスカン鍋を取り上げたいと道新の記者が月寒へ出かけ、西部さんから聞いた通り書いたと思ったのです。
それから、合田さんの談話ですがね「狸小路開拓史」といってるが、そういう本はないから、多分資料その1の写真が載っている「札幌狸小路発展史」のことでしょう。また写真のほかは、西6丁目の狸小路聯合会々員として「南三条六丁目 おでん屋 横綱 合田正一」と1行あるだけで、ジンギスカン鍋の元祖だなどとは書いてません。私が狸小路にいて、横綱という店をやっていたことがわかるよと解すべきでしょう。
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参考文献
上記(12)と(13)の出典は昭和42年1月1日付北海タイムス朝刊2面=マイクロフィルム、(14)、(15)、(16)及び資料その3(1)と(2)は、いずれも昭和42年1月1日付北海道新聞31面、特集「ジンギスカンなべ物語り」=マイクロフィルム、(17)は月寒史料発掘会編「月寒史料発掘会聞書き史料(1)〜030」1ページ、平成9年11月、月寒史料発掘会および西部慎三著「私の軌跡 ―古希を迎えて―」85ページ、平成11年5月、自費出版=いずれも原本
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この記事の検討は後回しにして、次は朝日新聞です。こっちも年頭の連載企画「開かれた道 いまここに」の記事でね、半年後にまとめて「北のパイオニアたち」という本にしています。ジンギスカンを取り上げた「羊肉」はその23回目で、2月9日付朝日新聞北海道支社版朝刊9面に載っています。
それをスライドで見せようと思ったのですが、マイクロフィルムのコピーなので、合田さんが試食会のときの鍋のサイズを示している肝心の写真が黒くつぶれてよくわからん。それで本の「北のパイオニア」からコピーした写真にしました。七輪の直径の倍ぐらいを示していますね。
朝日新聞北海道支社編「北のパイオニア」142ページより
本は同文ですが1字誤植があります。道庁が羊肉消費をふやす運動をして「各地の洋食店に、宣伝マッチや店の看板までつくってやるなどして、くどいて回った。」という中の「洋食店」がね、本では三水のない、ただの羊の「羊食店」になっている。羊肉料理を出す「羊食店」が道内各地にあったら、口説いて回らなくてもよかったはずですよね。ふっふっふ。
この記事は合田さんと道緬羊協会副会長中西道彦さんの回顧談が基礎になっています。前半は中西さんが北大生だったとき月寒でジンギスカンを食べた。中西さんが道庁に務めてから羊肉消費を増やす運動の一環として横綱を借り切って試食会を開いた経緯を語っています。
記事の書き方がうまいので、普通の人は気づかないでしようが、私はジンパ学のパイオニアである、おほん。ちょい待ち、それはおかしいんじゃないのというところがあるので、朝日から検討します。資料その4は中西談話のところです。
資料その4
<略>「大正八年、北大生のころ、月寒へ見学に行って、生れて初めてジンギスカンなべというものをごちそうになった。めん羊でも、こんなにうまいものかと思った。種羊場ができたのは大正七年だから、そのころから始ったのではないだろうか」と、道緬羊協会副会長の中西道彦さん(七六)は語る。
その時のなべは、直径五十センチぐらいの大きなものが一つ。牧場のわきで大型の七輪に炭をおこし、シュウユに日本酒やショウガ、リンゴの汁を入れたタレをつけて食べたという。<略>
「大正八年、北大生のころ」前の年に開設されたばかりの月寒種羊場で「生れて初めてジンギスカンなべというもの」を食べた。種羊場ができて1年たったら、もうジンギスカンなべという名前と料理法とそれ用の鍋もできていたみたいな話ですなあ。ちょっとおいしすぎる話です。
月寒種羊場は何度も名前と組織が変わっています。明治39年の月寒種牛牧場から始まり、41年に月寒種畜牧場となり、道庁種畜場から引き継いだ緬羊を飼い始めるのです。大正5年に農商務省畜産試験場北海道支場、7年に農商務省滝川種羊場月寒出張所と変わり、8年には制度が変わり全国に5カ所の種羊場を置くことになり、畜産試験場北海道支場内に月寒種羊場が併置されたのです。(18)大正7年に種羊場がポンとできて緬羊飼育を始めたのではない。だから「北海道緬羊史」の年表の大正2年のところに「羊肉利用(味噌漬、粕漬)を試む(19)」と書いてあるわけです。
では味噌漬け、粕漬けにした羊肉を煮て食べるでしょうか。ずっと以前、函館新聞に新発売の牛肉の粕漬けの食べ方広告をスライドで見せましたね。あれには吸い物の具にする食べ方もありましたが、臭いと嫌われた羊肉ではどうかなあ。
それより重大なことは「北海道緬羊史」の年表の大正12年の記事として「羊肉利用のためロストル型ジンギスカン鍋考案(20)」とあるのですが、中西さんの思い出通りなら、それより4年も前に種羊場はジンギスカン鍋なるものを少なくとも1枚持っていたことになる。ロストル型だとはいわなかったようだから「直径50センチぐらいの大きなもの」は鉄板か網だったのでしょう。
多分種羊場の人がそれを鍋と呼んでいたんでしょうね。中西さんはただの鉄板を見て変だとは思わず、七輪に掛けるから鍋なんだと素直に納得したのでしょうか。それが本当なら、種羊場考案のロストル型鍋はオリジナルではなくて、大正8年に所有していた鍋の改良型だった可能性も出てきますよね。どうも中西さんの話は既知の記録と合わないように思われてなりません。
中西さんが大正15年3月に北大畜産を出たことは農学部の札幌同窓会の名簿でわかっていたので、いつ入学したか調べてみました。留年なし、並みでいけば予科3年本科3年だから、スライド遡ってみせましょう。こうなるはずですね。
大正15年3月で 卒業
14年4月で 畜産3年
13年4月で 畜産2年
12年4月で 畜産1年
11年4月で 予科3年
10年4月で 予科2年
9年4月で 入学して予科1年生
北海タイムスを調べて、中西さんは大正9年9月入学(21)とわかったのです。郷土史もたくさん書いた高倉新一郎先生が同期でした。中西さんは大分宇佐中学出身(22)だが、大正8年はまだ北大生じゃなかった。大分県で勉強していたか、浪人で札幌にいたかであり、月寒に行ったのは8年より後の筈です。こうした調べ物ではよく起きるのですが、この1年のズレ調べで、結構な時間と労力をロスさせられた。それにしても、よくも大正8年、北大生のころなんて、いってくれたものです。うん、記者の聞き違いもあり得ますがね。
また、北大文武会、いまでいえば全サークル連合会ですかな、そこで毎年秋、予科や専門部の新入生歓迎遠足会を催していた。大正8年は月寒種羊場で豚汁を食べさせたと北海タイムスで読んだので、中西さんの入った9年は月寒ジンギスカンにしたかと調べたら、各自弁当と茶碗持参、野幌林業試験場での豚汁接待だった。(23)まあ、ジンギスカンは知られていなかったかも知れないし、200人給食なら豚汁の方がやりやすいことは間違いない。茶碗持参はエコのためでなくて、発泡スチロールの使い捨て丼なんかなかったからです。
北大は大正9年9月から12年3月までの間に、勉強する期間を5カ月縮めて春に入学と卒業をする形の学制に変えた。それで北海タイムスの大正12年3月28日付2面に「北大各科卒業」という記事があり、その英語学級71人の中に中西さんの名前がありました。順調に本当の大学生になったのです。
北大予科の学生が種羊場見学にいったら、たまたま羊肉があったとしても、月寒までよくきたねと七輪に火を起こしてだよ、ジンギスカンを食べさせるほど種羊場の人々は気前がよかったとは考えにくい。畜産学科の学生ですが、皆さんの仕事を見せて下さいとかね、前もってお願いしておけば、もう身内同様と肉を用意して御馳走したかも知れないけど、一見の予科生は無理でしょう。とすると大正9〜10年より12〜13年に月寒へ行ったと見るのがよさそうです。
そうなると、大正12年考案のロストル製ジンギスカン鍋と中西さんのいう鍋は同じものだった可能性が出てきます。ただ、その鍋が実在したのかどうか未だ明確ではないのです。
しかしだよ、雑誌「畜産と畜産工芸」にね「大正八年月寒種羊場で二百頭の羊の皮を剥ぎ、其の肉は堆肥の中に突込んだ事がある。即ち肉の需要が見付から無つた為めである。(24)」と農商務省の三浦畜産局長が書いてます。だから中西さんの話は本当で、肉を埋める前の試食会に偶然ぶつかったのかも知れん。そうなりゃだれにでもごちそうするわ。はっはっは。
それから中西さんはタレと呼んでいるので、仮に月寒式タレと呼んでおきますが「シュウユに日本酒やショウガ、リンゴの汁を入れた」と種羊場の職員が北大生たちに得意げに説明した。だから中西さんは半世紀たっても、このように鮮明に思い出せたのだと信じておきましょう。
さて大正の後期からこの月寒式タレの作り方があったとします。代々受け継がれ、8年後の昭和2年5月に山田喜平さんが月寒に着任するまで伝わっていたでしょう。喜平さんは月寒式で食べるチャンスがあり、こっちがうまいとか糧友会の方が合うとか判断できたはずですよね。喜平さんがリンゴとミカンのジュースを漬け汁に入れると書いたのは昭和12年の「緬羊と其飼ひ方」第4版からです。
もし、月寒式が本当にあったのなら「緬羊と其飼ひ方」の初版が出たのは昭和6年なんですから、月寒式のタレについて何も書かなかったのはおかしいと思いませんか。リンゴの汁に気付かなかったとして、生姜だけでもいいですよ。喜平さんが生姜を入れるように書いたのは、滝川に転勤してからの昭和9年の第2版からです。5年も月寒にいて1回も月寒式タレで食べなかったなんてあり得ないでしょう。月寒式が嫌いだったのですかと喜平さんに聞きたいところですよね。
それから奥さんのマサさんが月寒式で食べる機会はなかったのでしょうか。種羊場内の官舎に住んでいたのですから、井戸端会議みたいな付き合いで、ジンギスカンのたれの作り方が話題になり、本を書いている旦那の喜平さんに月寒じゃリンゴの汁を入れるそうよと知らせるぐらいあり得たと思うのです。
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参考文献
上記資料その4の出典は朝日新聞北海道支社編「北のパイオニアたち」140ページ、羊肉、昭和43年7月、北苑社=原本、
(18)は(北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」13ページ、昭和59年2月、北海道緬羊協会=原本、
(19)は同251ページ、同、
(20)は同252ページ、同、
(21)と(22)は大正9年7月9日付北海タイムス2面=マイクロフィルム、
(23)は北大文武会編「文武会報」91号59ページ、大正10年1月、北大文武会=原本、
(24)は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」10巻3号4ページ、三浦実生「事務室より」、大正12年3月、中央畜産会=原本
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ちょっと回り道だが、中西さんを札幌同窓会の会員名簿で調べたら大正15年道庁に入り本庁の技手になった。それからは北海道庁職員録を見ていくと、昭和3年から渡島支庁、つまり函館にいた。昭和8年から昭和11年末までは十勝支庁にいたのです。
道庁が発行していた北海道庁公報を見るとね、昭和11年6月30日発行のその叙任及辞令に「(農産課) 北海道庁技師 澤潤一/第一回上川乳牛能力共進会審査委員長ヲ命ス/(十勝支庁) 同 中西道彦/第四回十勝乳牛能力共進会審査委員長ヲ命ス/(農産課) 同 岩瀬久雄/第四回十勝乳牛能力共進会審査委員/第一回上川乳牛能力共進会審査委員ヲ命ス(以上六月二十七日附(25))」という記事があります。また8月30日発行号の叙任及辞令にも中西さんに第一回十勝養鶏経営共進会審査委員長を命じる8月20日附の辞令があります。(26)つまり中西さんは昭和11年当時、札幌にはおらず、十勝で仕事をしていたことは確実なのです。
中西さんが札幌に来たのは12年1月なんです。その辞令を資料その5に示しましたが、序でに吉田博の辞令も入れておきました。注意して欲しいのは、まだ1月では中西さんは農産課勤務であり、畜産課ではないことです。
資料その5
叙任及辞令
(十勝支庁) 北海道庁技師 中西道彦
経済部農産課勤務ヲ命ス(一月十六日附)
◎四月一日
任北海道庁技手 吉田博
給六級俸
北海道庁技手 吉田博
上川支庁在勤ヲ命ス(四月一日附)
この吉田博は何者か、わかりますか。資料その1の昭和51年を見なさい。「北海道農家の友」に日吉さんの駒井徳三命名説をリバイバルさせ、駒井さん長女、藤蔭満洲野さんの「父とジンギスカン」と組み合わせた「成吉思汗物語り」を書いた吉田博その人です。
ところが、これが吉田博の道庁初就職ではないのです。昭和10年と11年の職員録の経済部農産課のところに助手として、すでに名前が載ってました。どちらも6月1日現在でね。10年は月七〇、11年は七三と名前の上にあるから、70円、73円の月給(27)を頂いてていた。北大卒なのだから道庁の雇員採用試験に合格し、欠員があれば技手として採用されて載るはずなのに、そうではなかった。試験に落ちたかコネがあったので受けなかったかのかわかりませんが、とにかく農産課で仕事をしていた。翌12年に正式に技手として採用され、旭川に赴任したのです。
そこです、問題は。吉田博は昭和12年の春までのたっぷり2年間本庁の農産課にいたのです。そりゃ畜産の仕事はしなかったにせよ、昭和11年にジンギスカン試食会をやり、だれでも食券があれば試食できるのにですよ、同じ農産課、身内です。君も食べてみるかねと配られるか、僕にもくださいと食券をもらってね、横綱へ味見に行くチャンスは十分にあったと思いませんか。
試食会の後、合田さんはしばらくの間、映画館の前で無料招待券を配ったというのだから、それをもらうこともできたはすだ。それなのに、吉田博は横綱で食べたとは書かず、中西さんの「残念ながら羊肉の臭みや、ニンニクの臭いに閉口した人の方が多かったようですね」だ。なぜ他人の話で間に合わせたのか。吉田博は試食会をまったく知らなかったか、羊肉が大嫌いで敬遠したのか。いやいや、試食会は12年だったので、旭川にいて食べていないからでしょう。11年説が怪しいという根拠の1つです。
本庁に戻ってきた中西さんは、さっきいった羊肉消費をふやす運動に携わったのですね。ここが朝日のさわりでね、資料その6として引用しました。
資料その6
羊肉 無料試食も不人気
元祖、普及に工夫こらす
<略> 昭和十年代に、めん羊の増産対策として、道庁が肉の消費をふやす運動をしたことがある。各地の洋食店に、宣伝マッチや店の看板までつくってやるなどして、くどいて回った。狸小路でおでんと焼鳥の「横綱」という店を出していた合田さんがジンギスカンなべを始めたのも、この時の道のさそいによるものだった。
「高級な肉というイメージを広めるため、初めは一流の料理屋をねらったが、ことわられた。困っているとき、きっぷのいい合田さんが頭に浮かんだ」と、道の畜産技師だった中西さん。当の合田さんは「常連の中西さんたちが来て、おやじ、三日間だけ店を貸せやといい出した。聞いてみると、費用は出すからめん羊を焼いて売ってみてくれという。くさくて、煙が出るからいやだとはねつけたんだが、しつこく頼まれると、私ももの好きなもので、つい……」。
講師として滝川種羊場長夫妻が行き、例の大型なべが三つ持ち込まれた。道で無料の試食券二千枚をつくり、映画館のサービス券にして配ったりしたが、客はさっぱり。<略>
どれぐらいの頻度でどれぐらいの期間通うと常連と認められるか、店によってまちまちでしょうが、中西技師が単身赴任で十勝支庁官舎に住んでいてね、ちょこちょこ帯広から帰ってきて横綱に通った常連だったということは、当時の交通事情からみて、まず無理でしょう。転勤してきたのは昭和12年1月です。それから通い始めて秋までの半年で常連と呼ばれるに至ったという方が自然ですよね。
資料その6の記事の前に「同市狸小路六丁目で昭和十一年秋に営業を始めている。東京・高円寺の成吉思荘で蒙古(もうこ)風のパオを庭園に設けて売出したのはその二年後である。(28)」と書いてあります。合田さんか中西さんから11月13日から3日間と聞いたはずなのに明記していない。朝日の縮刷版は東京の最終版で作るのだから載っているわけがない。30年前の先輩が残したスクラップブックが書庫にあったとしても、切り抜いてあるという保証もないので慎重を期した。連載担当のデスクが辰木久門の2冊を読んでいて、精養軒が昭和10年ごろ始めていたそうだぞと筆を入れて日付をぼかしたと私はみますね。
11年秋でもいいのです。ジンギスカン営業を始めるきっかけになった試食会のために店を貸せと常連の中西さんたちがきた。いいですか、12年に札幌に転勤してきた人物が、1年前に常連であり、店を貸せと言い出したなんて、SF小説やタイムマシンじゃあるまいし、そんな異常現象があり得ますか。
その疑問をさらに拡大するのが吉田博の「成吉思汗物語り」です。「成吉思汗物語り」は以前の講義で配ったけれど、もう一度資料その7としました。
資料その7
民間へ拡がる導火線
大正に入ってから輸入された品種は毛肉兼用のコリデール種だけに限られていた。だから肉の利用は毛と同様の重みがあった。月寒種羊場は道庁畜産課とタイアップして、民間消費の促進を策した。当時道庁の小家畜係長であった中西道彦さんはこう回想する。
「芝生のある広い庭園のあるところを探し、円山電車終点にあった助川さんの別荘と中島の割烹、西ノ宮支店を候補に挙げて交渉したが応じてくれない。しかたなく繁華街の飲食店ということで狸小路六丁目、博品館デパートの隣りにあった横綱を口説いた。焼き鳥とおでんの店で、主人の合田正一さんははなしがよくわかるんで、なかなかのアイデアマン、係員の進藤久憲君が何回か足を運んで引受けてもらった。そして昭和一一年一一月一三日がジンギスカン鍋の試食会。三日間借り切って種羊場、道庁の関係者、高級官吏や名士を招待しました。肉と鍋は種羊場、タレは滝川から山田場長夫妻が来て指導してくれた。費用は道庁持ち。大好評と言いたいが残念ながら羊肉の臭みや、ニンニクの臭いに閉口した人の方が多ったようですね」
ここで合田さんは奮起したのであろう。独自のタレの使い方や、鍋の製造にとりくんだ。
「肉の切り方とタレのつくリ方を自分で納得するまで三年かかりました。鍋は札幌のいかけ屋につくらせましたが六度目でどうにかものになりました。現在のような兜形でなく、ロストルを曲げたような形です。一人前最初は二五銭であったかと思いますが、さっぱり客が集まりません。しかたがないので三友館(映画館)の前へ行って無料招待券をくばったものです。戦争が激烈になるにつれ酒の配給がない、羊肉も手に入らないので店を閉めました。」 以上は合田さんが四二年に語った記録である。
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参考文献
上記(25)の出典は昭和11年6月30日発行「北海道公報」1030号17ページ=原本、
(26)は昭和11年8月30日発行同1085号*ページ、同
資料その5の中西関係は昭和12年1月19日発行「北海道庁公報」1199号21ページ、北海道庁=原本、
吉田関係は昭和12年4月2日発行同1261号59ページ及び60ページ、同、
(27)は北海道庁編「北海道庁職員録(昭和十年六月一日現在)」59ページ、昭和10年6月、北海道庁総務部人事課=原本と同(昭和十一年六月二十五日現在)60ページ、同11年6月、同、
(28)と資料その6は昭和43年2月9日付朝日新聞北海道支社版朝刊9ページ、「開かれた道いまここに」=マイクロフィルム、
資料その7は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」28巻8号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、昭和51年8月、北海道農業改良普及員協会=原本)
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この中の庭園探しと「係員の進藤久憲君が何回か足を運んで引受けてもらった。」という話は、道新と朝日の記事にはない。これは吉田さんが中西さんに会って聞き出したか、私の知らない資料から得たことですね。
進藤君を調べたら、昭和11年6月1日現在の北海道庁職員録にはなくて、翌12年6月1日現在のそれの経済部畜産課の臨時雇として現れます。畜産課は6月に復活したばかりで農産課の間違いではありません。
毎年2月の北海道公報には採用試験合格者の名簿が載ってます。昭和12年の中学校卒業で事務職に合格したのは64人ですが、進藤はありません。同程度の学力で農業部門合格者が14人、畜産部門合格者が2人発表されていますが、それれにもありません。(29)ツテかなにかで務め始めたとみられます。でも昭和13年の道庁職員録では畜産課雇、畜産課が馬政課に変わった昭和16年のそれには馬政課の農林主事補に昇格して載っていますよ。進藤君は臨時雇いから働きぶりを認められて、後に正職員に採用されたのでした。
本当に試食会が11年11月13日だったら、中西さんは十勝支庁にいて、円山公園の市電終点のお屋敷や中島の割烹にジンギスカンをやらせてくれとリモコン交渉をしたし、雇われてもいない進藤君がだれかの指示で横綱へ出かけていたことになります。こんなことがあり得ますか、変でしょう。役者が揃わないのですよ。これは横綱試食会の最大の謎です。
北海道庁職員録と北海道庁公報の記載は必ずしもきっちり合致しないことが認められるのです。それは後で出て来る吉田稔さんの例で示しましょう。いままでの話の吉田は吉田博さんですからね。その別人の吉田さんは昭和11年の北海道庁公報に2回出てきます。
1回目は5月2日発行の982号の「北海道庁雇員採用試験合格者」の名簿で、205人の中に名前があります。この中に後に道副知事になった蛯子哲二さんがいました。2回目は6月21日発行の1024号の叙任及辞令で「任北海道庁技手 吉田稔/給月俸七十円/北海道庁種羊場在勤ヲ命ス(六月二十日附)(30)」です。
ところが、吉田さんは昭和11年版職員録に載っていない。種羊場勤務は6月20日からだから、種羊場に載らないのはわかりますが、見習いの雇員にしても、一応どこかの椅子に座って月給を頂いていたと思うのですが、職員録にはない。吉田稔さんはね、昭和9年4月1日現在の職員録に産業部農産課の雇として名前が載っていて、10年の経済部農産課の雇で、助手の博さんと一緒にいたのですから、なおわけがわかりません。
話を進めます。中西さんが会場候補の1つに挙げた中島の割烹、西の宮支店はどんな庭園を持っていたのか、スライドで見せましょう。どうです。「第一回札幌市商業調査」という報告書に載っていた広告の写真でね、場所は南10条西3丁目となっているので、いまのパークホテルあたりになります。池の方へ張り出した座敷であり、ジンギスカンをやれるような芝生は見えませんね。昔の広告を見ると、西の宮は南4条西4丁目に本店があり、中島公園は遊園地と呼ばれ、そこに建てた支店だったことがわかります。
大正2年8月の北海タイムスにこの西宮支店で開かれた木材業者大會並に山林會大會出席者聯合大園遊會の記事が載っています。「酒池肉林の大園遊会 千百名の珍客=空前なる大設備」という見出しで「▼模擬店も大繁昌とあつて二百名の芸妓と申す妲さん達が大車輪の活躍(31)」などと面白おかしく書いていあります。
主催者発表の人数でしょうからサバを読んでいるとしても、700人ぐらいは入ったのでしよう。ただこの記事は大正2年のことであり、その後敷地の縮小などかあったかも知れませんが、ジンギスカン鍋の2つや3つ囲むぐらいのスペースはあったでしょう。
はい、10年近く本庁に勤務していない中西さんが、こんないい場所があるとか、狸小路の横綱の合田さんは話のわかる男だと知っていたなんて変でしょう。中西さんが道庁に勤めてから札幌出張の度に飲みに行っていたとかね、横綱の常連だった職員が十勝支庁にいて、その職員から頼むなら横綱だと勧められたということでしょうか。
いずれにしても、昭和11年秋に「道庁畜産課」は存在せず、中西さん、進藤君とも畜産課勤務ではなかったのです。中西回想に出てくる人名が正しければ、試食会の開催日は少なくとも1年ずれた12年でなければおかしいのです。吉田博さんは中西さんと会って話を聞いた形を取っていますから、もしかすると吉田さんが開催年月日を聞き間違えたのかも知れません。
また合田さんの「語った記録」にもおかしい点があります。「語った記録」とは合田さんの談話を記録した何か、雑誌か新聞によれば、という意味に受け取っておきますがね。問題はジンギスカンが売れないので「三友館(映画館)の前へ行って無料招待券をくばったものです。」というところです。
三友館の後に括弧して映画館と書いてあるということは、合田さんが三友館といったので、聞き手が質問したら映画館だと答えたので注として書いた。または映画館としか言わなかったので、どこの小屋かと尋ねたら三友館といったので、この記事を書くときに三友館を出して映画館と注をつけたことが考えられます。
ところが、ご丁寧なこの注は何の役にも立たないどころか、合田談話が創作ではないかと疑わせる注なのです。なぜなら昭和10年代の札幌には、三友館という映画館はなかったからです。
札幌市教委が出した「さっぽろ文庫36」の「狸小路」を見ると、脇哲という人が「遊楽館を本拠とする九島興行は大正四年南三条西二丁目に中央館(のち中劇)を発足させ、次いで十四年五丁目南向きに三友館を開く。人の足が新川に阻まれ勝ちな五丁目にも、ようやく明色が灯った。昭和八年日活館と改めたが、十年になって独立した大番頭の谷井平蔵が采配をふることになった。(32)」とあります。また昭和6年に道内で初めてトーキー映画を上映(33)していました。
念のために調べると、昭和11年11月の新聞に広告を出していたのはエンゼル館、日活館、宝瑩館、振興中央館、松竹座、遊楽館、美満寿館でした。札幌劇場は芝居が多く、横綱は6丁目にあったのですから、5丁目の映画館なら一走りで招待券を配りに行けます。合田さんがどうして10年も前の映画館の名前をいったのか、まったく変でしょう。31年もたっていたので思わず昔の名前をいってしまったのでしょうか。
吉田さんが書いた随想を調べると、吉田さんは三友館の名前をもう1回書いてました。かつて北海道総務部行政資料室が出していた「赤れんが」という雑誌。これは行政資料誌というのだそうですが、道庁のPR雑誌の一種でした。いまは同じ題名ですが、中身は道文書館の研究雑誌に変わっています。
その古い方の43号に「美味滋養の羊肉宣伝マッチ」という一文を寄稿しています。札幌のマッチのコレクターが北海道めん羊協会に寄贈したマッチのラベルの写真を添え、当時農産課だったのに畜産課があったように錯覚して羊肉普及運動を回顧しているので、一部を引用しました。資料その8です。三友館はおしまいの方にちゃんと入っとるでしょ。細かいことですが、この記事は、2カ所とも「横網」であり、私の誤植見逃しではありませんよ。
資料その8
<略> 昭和十一年には一般消費者向けに羊肉普及のキャンぺーンが行われた。その中心的役割を果たしたのは、道経済部畜産課中小家畜係と、同課内に事務局を置く北海道緬羊組合連合会であった。
写真はその当時配布された宣伝用マッチのレッテルである。一枚は羊の絵と、コックが羊肉料理を手に捧げている。堂々たる体躯を誇っている。一枚はエプロン姿の女性が羊肉料理を運ぶところ。どちらにも「羊肉」と、「美味滋養」と入れてある。
前者の方は農林省から同じ図案のポスターが配られていたので、これを真似たものであろう。二枚のデザインは道畜産課で、製作配布したのは連合会ということになっている。
ジンギスカン鍋の普及を促進するため、民間で実際に売り出してもらうことを考えその第一号は北海道狸小路のおでんや「横網」に担当してもらった。道庁が口説き落したのである。昭和十一年十一月十三日に試食会を開いたが、羊肉独特の臭いになじめないで、評判は香しくなかった。「美味滋養」とはいかなかったようだ。
「横網」の主人合田正一氏は、客寄せに狸小路の映画館三友館の前で無料招待券を配ったり、このマッチもみせに置いてサービスしたという。<略>
もう一つ、横綱試食会について書いた本があります。さっきの吉田稔さんです。稔さんは昭和11年春から滝川種羊場勤務でしたから、合田さんにジンギスカンの料理法を教えた山田場長から横綱のことを聞いていたのでしょう。資料その9の通り日時ははっきりしません。ジンギスカンをただで食べて1本とはいえお酒も飲めるのに、人気はさっぱりだったとはね。きっと話がうますぎると思ったのでしょう。
資料その9
<略> 道庁では昭和十一年ころだったか、札幌の狸小路にあった「横綱」というおでん屋でジンギスカン鍋をやってもらうことにした。七輪の火で、ロストル式の鍋で焼くと火にタレが落ちて煙がもうもうと出るは、肉の脂肪の臭いも出るはで、店の中が臭くなる。店の主人は初めは文句をいっていたが、最終的にはジンギスカン鍋を一生懸命に宣伝してくれた。
道庁畜産課では新聞社や有識者に食券を発行して「横綱」で試食してもらうことにした。ジンギスカン一人前に銚子を一本つけて、無料で食べてもらい、月末に「横綱」のおやじさんがこの券を道庁畜産課に持ってくると、一枚につき三〇銭か四〇銭を支払うという仕組みだった。これが札幌のジンギスカン鍋の最初だと思う。もっとも、滝川の種羊場では職員がジンギスカン鍋をすでにやっていたし、道庁からのお客にも食べてもらったことがあるが、町での営業としては「横綱」が最初である。これも戦争が激しくなると羊肉が入手できなくなり、いつしか止めてしまった。
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参考文献
上記(29)の出典は昭和12年2月20日発行「北海道庁公報」1226号彙報1ページ=原本、
(30)は同年6月21日発行同1024号19ぺージ、同、
(31)は大正2年8月22日付北海タイムス2面マイクロフィルム、
(32)は札幌市教委編「さっぽろ文庫」36巻*ページ、「狸小路」
(33)は札幌市編「新札幌市史」8巻229ページ、平成20年3月、札幌市=原本、
資料その8は北海道総務部行政資料室編「赤れんが」43号24ページ、昭和51年7月、北海道総務部行政資料室=原本、
資料その9は吉田稔著「牧柵の夢」36ページ、平成10年3月、デーリィマン社=原本
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繰り返しになるけど、昭和11年は道経済部農産課であって、畜産課はなかったのです。それなのに、資料が示す通り両吉田さんは、そろいもそろって畜産課がずーっと存続していたように思い込んで書いている。そう思わせる何かがあったのですね。
私は畜産課があったように錯覚しているのは、佐藤退三という北大OBが2度畜産課長になり、畜産行政の音頭を取っていたせいだとみるのです。佐藤さんは変わった経歴の持ち主で25歳で札幌農学校に入学した。それなのにテニスに凝るやら結婚するやら31歳まで在学されたご立派なオンケル、ああ、昔は裏表やったりしたご老体に対して敬意を表してそう呼んだのです。おじさんという意味のドイツ語ね。
この変形というか、昔楡影寮という学生寮が構内にあってね、その寮母さんに、おばさんという日本語と、このオンケルをつないでオバンケルという愛称で呼んでいたというエピソードがあります。検索してご覧、記念碑のことなどいろいろ出てきます。ちと脱線ね。
佐藤さんは大正3年東北帝大農科大学のときの畜産卒で、畜産学科の嘱託となり大正7年に道庁に入り、昭和2年に畜産課長になりました。道職員録で遡ると、大正12年に内務部勧業課が産業部となり、畜産など5つの課制に変わり、15年には内務部と部の名前が変わりますが、5課はそのまま、さらに昭和3年にまた部の名前が産業部に戻ります。畜産課ができてからここまでの4年間、畜産課は専任の課長はおらず、嘱託の橋本左五郎北大教授が畜産課長事務取扱を兼任していたのです。
浜口内閣の緊縮財政を受けて道庁は昭和7年、畜産課など3課を統合した農産課を設けるなどの機構改革を行ったため、佐藤さんは畜産課長から農産課主任技師というポストに移されるのです。
昭和10年1月の北海タイムスに「阿部課長の試金石/運用を誤れば一大改悪」という記事があります。新任の阿部平三郎農産課長がそれまでの「勅任待遇の安孫子技師が試験場長と兼て殖産係の主任にあり糖務課時代の課長梁田技師が農政主任、畜産課時代の課長佐藤技師が畜産主任の椅子を占めてゐる」農政、殖産、畜産、庶務の4係の事務分掌を19係に細分化したのです。
「三主任の権力を小さく分散せしめ課長集権の実を挙げんとした(34)」とタイムスは見ていますが、どうも失敗だったらしい。その手直しを池田清長官がやろうとしたけれど、1年ちょっとで大阪府知事となったため、機構改革と人事は置きみやげとなり、新任の石黒英彦長官の発令となった。それが資料その10です。(1)の佐藤畜産課長という新聞辞令は見事に外れ、畜産課の独立などについて(2)のように書いたのです。
大塚課長は畜産課長不在という事態を避けるためのもので、7月に新たな課長を配置して畜産行政と取り組むとね。そして7月に決まったのが、なんと畜産未経験の文官、工藤太郎。またもや佐藤さんは主任技師の椅子に座らされたのです。
「佐藤退三の追想と歴代課長随想録」という本によれば「畜産課は再び独立したが、課長には高文出の工藤太郎が就任、ついで三十八歳くらいの西宗直が東京から着任したが、実質的には主任技師の佐藤退三が指導の中心であった。昭和十三年五月三十一日、西宗課長転出のあと再度佐藤退三は経済部畜産課長となった。齢はもう五十五歳になっていた。(35)」という変な人事になったのです。
資料その10
(1) 道庁行政機構改革
佐上長官時代以來の懸案
池田長官により断行
道庁の課統合による行政機構の改革は佐上前長官時代以来の懸案であつたが池田長官は赴任以来人事異動に関係してこの行政機構の改革に腐心し具体案を練つてゐたが今回いよいよ断行することになり不日處務規則の改正を断行することになつた、今回の機構改革の範囲は土木部総務課を廃して河港課を二分して港湾河川の両課となし経済部にては農産課より畜産課を分離独立せしめる外総務部人事、秘書両課を併合するものゝ如く河川課長には齋藤帯広治水事務所長港湾課長には平尾函館築港事務所長、畜産課長には農産課佐藤退三
技師が擬せられてゐるがこの行政機構改革断行に伴ひ課長級の異動が行はれる模様である
(2) 道庁の異動
新しく三課を設く
道庁西村総務課長は福岡へ、吉田警務課長は大阪府へそれ/\゛転出事務官見習ひの大谷氏は広島へ、塩谷氏は福島べ栄転し、本村事務官、奥田警視が本道に転任となつたのを機会に道庁では、かねての懸案であつた庁内部課の独立新設を実行した、即ち次ぎの通り社会教育課を新設して、新任本村浩氏を課長に、また畜産課を復活し、大塚商工課長を兼務課長に据ゑ、更に統計課の独立により、内館主事を課長に、小野寺主事を社会課長に任命し、沈滞した庁内人事の刷新を試みたこの異動は今後の事務官、課長および支庁長異動の前哨的のもので七月中には全く落付くものと観測される<略>
事務官(商工課長)
大塚兼紀
経済部畜産課長兼商工課長を命ず
<略>
(3) 叙任及辞令
(畜産課長兼商工課長) 北海道庁事務官 大塚兼紀
総務部地方裸長兼人事課長ヲ命ス
(社會教育課長) 同 本村浩
経済部商工課長ヲ命ス
同 工藤太郎
経濟部畜産課長ヲ命ス
同 幸前伸
學務部社會教育課長ヲ命ス
同 大濱芳雄
學務部學務課長ヲ命ス
同 阪野定一
終済部農産課長ヲ命ス
同 梅田邦彦
警察部建築工事課長ヲ命ス
北海道庁警親 瓜生順良
警察部特別高等課長ヲ命ス(以上七月二十二日附)
(4) 明朗な運動家
宮城縣から榮転の工藤氏
【仙台発】道庁事務官に栄転した宮城県警務課長工藤太郎氏は熊本縣出身五高を経て昭和二年東大法学部卒業、同年内務省都市計画課に入り三年栃木県属を振り出しに青森県警務課長を経て十年一月宮城県警務課長に転じた人で本年卅八歳明朗、温厚なスポーツマンでスキー、庭球、撞球、麻雀などなんでも御座れの多芸、弓は三段の腕である、吉報をもたらすとまだ公電を受けてゐないから何ともいへぬ北海道は青森にゐた時と昨年大演習の際打合せに旅行したことがあるし知人もゐるから正式にきまつたらうんと頑張るつもりだと語つた
なほ家庭にはいつ子夫人との間に愛嬢せつ子さん(四つ)がある
工藤畜産課長がきて一段落、佐藤さんたちが落ち着いて仕事が進みだした途端、またまた畜産課長が交替したのです。それは新井藤一郎水産課長が汚職容疑で休職扱いになったため、工藤が畜産から横滑りして水産課長となり、文書課長だった西宗直が畜産課長にきたのです。
しかしね、課長が替わろうが、畜産課の仕事は「実質的には主任技師の佐藤退三が指導の中心」だったので、北大OBたちは5年間途切れた畜産課がずっと続いて存在していたように記憶してしまったのは無理もないのです。
さて、道新を検討しましょう。資料その3にした記事は「タレを月寒種羊場が開発。東京精養軒考案というあのカブト型のなぺと合わせて、ジンギスカンなべの定型ができた。」と、ずばり示したところがミソ。いや、ジンギスカンなんだからタレと言うべきかな、はっはっは。こんなに明確に横綱をクローズアップし、ジンギスカンは鍋とともに日本で作り出されたと書いた記事は初めてでした。
ジンパ学に於いては鍋は重要なテーマであり、初めて見る東京精養軒考案という説は調べねばなりません。資料その1の昭和42年以降出た本で、精養軒が作ったカブト型の鍋でうんぬんとあるのは「北海道 海幸・山幸」と「北海道たべもの文化誌」ぐらい。そう書くと、道新をネタにして書いたとバレてしまうからぼかしたのでしょう。
だからといって東京の精養軒に問い合わせて書いた人もいない。要は本当に鍋を作ったかどうかです。私は随筆家ではなくて研究者なんだから、お尋ねメールを送りましたね。その日のうちに精養軒総務部の方から返事が来ました。「残念ながらその当時の資料の多くは震災及び戦災で失われており、証明する資料は現存せず、大変お恥ずかしい話ですが『不明』という回答とさせていただきます。(36)」ということでした。
こうなれば、外部資料で調べるしかない。それで精養軒開発説の正否は結論に至っていないのですが、精養軒は明治時代から西洋料理で知られたレストランですし、これまで鍋研究でわかった事実からみて無関係でしょう。いよいよ、この鍋の話は記者が西部さんから聞いた話に違いないと思ったのです。
西部さんが情報源とみたのは当てずっぽうではなくてね。その前に私は研究仲間からもらった西部さんの講演要旨を読んでいたからです。平成7年、道新記事が出てから28年後、日本SP豚研究会の会誌「All About Swine」にね、西部さんは「地域に根ざした豊かな食生活と食品開発」という講演要旨を書きました。「余談ですが,現在ジンギスカン料理に使用されている,兜形の鍋は東京上野の精養軒で考案されたものといわれています。この鍋と羊が丘の調味のタレと羊肉が合体して,ジンギスカン料理として商品化されたのが昭和11年11月13日となっています。札幌の狸小路に『横綱』という店があって,ジンギスカンという料理を初めて売り出しました。」とあります。
しかも「私の調べた限りでは,この『横綱』が北海道のジンギスカンの元祖であって、昭和45年頃もまだ営業していました。そういう歴史を調べて、ジンギスカン料理に詳しくなり、店のオヤジとも仲良くなっていろいろ話を聞くことができ、大変勉強になりました。ジンギスカン料理にまつわる,この辺のいきさつは昭和42年(未・ひつじ年)元旦の北海道新聞に詳しく紹介されています。(37)」とありましたからね。
店のオヤジとは合田さんですね。もう30年近くも前の古いことだからと、西部さんは気を許したと思いますが、自分の話したことがそっくり道新に載っていなければ、この辺のいきさつは北海道新聞に詳しく、詳しくですよ、紹介されているとまでは言えませんよね。出所は西部さんと考えておかしくないでしょう。
私は元道新にいた友人を介して「ジンギスカンなべ物語り」を執筆した道新の元記者、例によってAさんとしますが、当時のことをお尋ねしました。それで、私の推理は全く見当違いとわかった。精養軒考案説はAさんが本を読んで付け加えたもので、西部さんは無関係だったのです。
Aさんが「往時茫々」といいながら思い出したことは、南5条西4丁目、金星ハイヤーの車庫の西側の小路で、娘さんと「横綱」という店を開いていた。木造で小さいながらも3階建てで1階が居酒屋風、2階が座敷になっていた。カメラマンと店に行くと2階の座敷に案内された。合田さんは背広、ネクタイの正装だった。後で出てくる畑山さんによると、3階は住み込みの女性従業員の部屋でした。
合田さんの話を聞きながらジンギスカンをご馳走になった。小さな七輪でストーブのロストルみたいな鋳物の鍋を掛けた。肉は調理したもののようで、色も形もマグロの刺身そっくりの肉で、リンゴなどの入ったたれをつけて、鍋に乗せて、さっと焼いて食べた。この手順は北京正陽楼で食べた志賀直哉が唱えた、たれをつけでから焼く食べ方ですね。品よく美味だったことを覚えているとのことでした。
昭和4年の食糧展覧会で丸本彰造大佐がジンギスカンを実演したことと精養軒のくだりは市立図書館で見た本によるもので、書名は記録も記憶もないということでした。昭和42年以前の本としては資料その2の年表からみて、Aさんは市立図書館所蔵の日吉の「たべものの語源」で丸本実演、達本の「北海道の味とうまい店」で、精養軒を読んだと推察されます。Aさんは精養軒を東京の精養軒と誤解し、自前の鍋を持っていたから横綱より先行したと考えたということでしょう。
ちょっと話が飛んで平成になってからだと思いますが、札幌テレビでジンギスカンを取り上げ、アナウンサーがツキサップじんぎすかんクラブと札幌精養軒の元経営者を訪ねて、それぞれの鍋を見せてもらう番組を放映しました。私はその録画をある方のお宅で見せてもらったことがあります。番組では断定しなかったように思いますが、私は同じ鍋だと見ましたね。
この番組のシナリオと思われる「ジンギスカン鍋」という7ページの本がグーグルの書籍検索で出てくるので、STVに尋ねたことがあるのですが、残っていないということでした。グーグルの情報は不完全で所蔵大学名などが一切ないので、それ以上はわかりませんが、少なくとも戦後の精養軒ではロストル型の古い鍋を使っていたことは確かです。
いずれにしても、西部さんはAさんの記事の説明はうまいと感心して、それからは受け売りする側に回った。そして「兜形の鍋は東京上野の精養軒で考案された」と語り、詳しくは道新に書いてあるといったとみられます。ジンパ学は新しい分野なので、こうした見立て違い、失敗は避けられないのですが、私の推理とまるで逆だったのには参りました。ま、こうやって学問は進むんですなあ。
Aさんは親切な方で、薄野の横綱があった場所の写真を下さったので、更科さんの地図と合わせて資料その11で見てもらいましょう。平成21年7月に撮ったという写真には「1)ススキノ 南5西4の北西角。南に向かって。 2)左は駐車場。昔は「金星ハイヤー」 3)南北に細い小路。『横綱』は、現『丸八』ラーメンあたりにあった。(38)」というメモが付いています。
写真の真ん真ん中に左に向かって真四角の看板があり、その赤丸の中に八という字が見えますから、そのあたりだったのですね。地図は「札幌百点」に更科さんが連載した「さつぽろの街と道」に付けてたもので、更科さんの手書きでしょう。地図と写真は48年の時間差があるので一致しませんね。赤線の先に「横綱」があります。Aさんは更科さんにも会って取材したけれど、戦後の精養軒しか語らなかったそうですから、この横綱に入ったことがなかったのかも知れません。
資料その11
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参考文献
上記(34)の出典は昭和10年1月30日付北海タイムス朝刊3面=マイクロフィルム、
(35)は刊行発起人会編「佐藤退三の追想と歴代課長随想録」19ページ、昭和53年12月、デーリィマン社=原本、
資料その10(1)は昭和12年4月15日付小樽新聞朝刊3面=マイクロフィルム、
同(2)は同年6月26日付東京日日新聞16面北海道樺太版、同、
同(3)は同年7月24日発行「北海道庁公報」1354号29ページ、北海道庁=原本、
同(4)は同年7月25日付東京日日新聞13面北海道樺太版=マイクロフィルム、
(36)は平成23年2月7日付株式会社精養軒総務課よりの電子メールからの引用、
(37)は西部慎三著「私の軌跡 ―古希を迎えて―」85ページ、平成11年5月、西部慎三及び月寒史料発掘会編「月寒史料発掘会聞書き史料(1)〜030」1ページ、平成9年11月、月寒史料発掘会=ともに原本、
(38)は元道新記者A氏提供の写真に添えられたメモ=原文、
資料その11の写真はA氏撮影の「横綱」のあった札幌市中央区南3西5の北西角、地図は木村慶一編「札幌百点」4号42ページ、更科源蔵「薄野(その1) ”さつぽろの街と道”第4回 」、昭和35年1月、北海道書房=原本
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そうとわかれば、精養軒ホテルは昭和十年ごろ始めていたという辰木久門・達本外喜治説を吟味しないわけにはいきませんよね。辰木の「北海道の味覚」から「北の味覚 ふるさとの海幸・山幸」までの4冊はそうでしたが「札幌事始」では、ころっと変わって精養軒はやっていなかったと書いた。達本外喜治の本名で書く以上、いい加減なことは書けないと改めたというならわかるのですがね、また元へ戻っちゃう。23年間に出した全7冊のそのくだりを資料その12で示しました。
3冊目の「味とうまい店」は辰木の書いた序文、ジンギスカンはじめ料理や食材の解説が「北海道の味とうまい店」と同文のせいか、出版したレポート社は似て非なる書名なのに「第二刷」という奥付にしているのですよ。
それにね、同じ店を取り上げても書き換えているし、道内主要都市の店紹介と編集方針もまるで違う。20ページほど薄くなっているから、強いていえば精選改訂版とでもいうべきだね。それでだと思うのだが、所蔵する道立図書館では別個の本扱いしているので、私もそれにならって別々にしました。
つまり「北海道の味とうまい店」の方は、札幌の料理店に限った本です。ジンギスカン店6軒の紹介に11ページを割き、さらに店名、住所、電話だけですが、8軒を挙げ、さらに中国料理店に分類した精養軒と郷土料理の羊亭の紹介でもジンギスカンにふれているのです。
3年後に出た「味とうまい店」の「あとがき」を読むと、こうしたジンギスカン偏重と全道にわたるような書名批判があったようで「味と」では、札幌のジンギスカン店はわずか3店に減らし、精養軒は載ってません。
「味とうまい店」では札幌以外からも店を選ぶよう範囲を広げ、函館、旭川、釧路、小樽、苫小牧のうまい店を取り上げています。詳しく話したいところですが、きょうは試食会の考察ですから、またの機会にしましょう。
資料その12
ジンギスカン(成吉思汗)
<略> 札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。夏バテには最適で、価格が低廉で、ウナギにまさるともおとらず、冬はまた寒中といえども、酔っぱらって路上で寝ても、めったなことでカゼもひかない。<略>
(辰木久門「北海道の味覚」56ページ)
ジンギスカン(成吉思汗)
<略> 札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。夏バテには最適で、価格が低廉で、ウナギにまさるともおとらず、冬はまた寒中といえども、酔っぱらって路上で寝ても、めったなことでカゼもひかない。<略>
(辰木久門「北海道の味とうまい店」12ページ)
ジンギスカン(成吉思汗)
<略> 札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。夏バテには最適で、価格が低廉で、ウナギにまさるともおとらず、冬はまた寒中といえども、酔っぱらって路上で寝ても、めったなことでカゼもひかない。<略>
(辰木久門「味とうまい店<全北海道版>」12ページ)
ジンギスカン鍋(成吉思汗)
<略> 札幌では昭和十年ごろ、当時大通りの五丁目にあった精養軒ホテルで始めていた。夏バテには最適で、価格が低廉で、ウナギにまさるともおとらず、冬はまた寒中といえども、酔っぱらって路上で寝ても、めったなことでカゼもひかない。<略>
(辰木久門「北の味覚」82ページ)
ジンギスカン
<略> 札幌では昭和十年ごろ当時大通の西四丁目にあった精養軒ホテルが始めだといわれているが、名の高い洋風の料理屋だけに、焼肉と結びつけて噂されたのかもしれない。「ジンギスカンなべ」の元祖として通っているのは、合田正一さん(札幌市南大通西十三・後の北農菌取締役)の狸小路で開いた店である。<略>
(達本外喜治「札幌事始」276ページ)
ジンギスカン………………壮大な原野と伝説が握手
<略> 札幌で流行しだしたのは昭和十年ごろ。畜産試験場のキモいりで、狸小路の「横綱」という店で試食会をはじめたのが発端とか。私は同じ時代に、当時大通りの西四丁目にあった精養軒ホテルで食べた記憶がある。タレの研究のせいか、いまのものが旨いような気がしてならない。<略>
(達本外喜治「ほっかいどう 味の風土記」158ページ)
ジンギスカン
<略> 札幌で流行しだしたのは昭和十年ごろ。畜産試験場のキモいりで、狸小路の「横綱」という店で試食会をはじめたのが発端とか。私は同じ時代に、当時大通りの西四丁目にあった精養軒ホテルで食べた記憶がある。タレの研究のせいか、いまのものが旨いような気がしてならない。<略>
(達本外喜治「北の国の食物誌」160ページ)
普通の人は、前に読んだのと違うような気がするぞというぐらいで終わりでしょうが、こう発行順に並べると「事始」で否定したのに「風土記」以降、一転して精養軒で食べたと明記したことが、よくわかる。その間に出た食べ物本で精養軒ホテルのジンギスカンを書いた本がないので、かつてのホテルを懐かしんで食べたことにしたように思われてなりません。
というのは「昭和十年、現北海タイムス跡に三階建の精養軒ホテルがお目見得し、当時の紳士淑女の社交場となった。札幌の鹿鳴館、精養軒ホテルの料理は、当時の紳士淑女達の舌も美食の鼓を打つほど愛され、絢欄たるシャンデリアの下に、栄光への額を照らしたことである。(39) 」と「北海道の味とうまい店」で、昔の精養軒を褒め称えているからです。札幌グランドホテルができたのは昭和9年末ですから、それまでは輝ける社交場だったのでしょう。
しかし、グランドより1年早いだけで、そんな地位になれたのか。昭和9年の新聞を見たら精養軒ホテルの年賀広告が載っていた。昭和10年お目見えじゃなくて、もっと古いということだ。それでどんどん遡って調べました。なーに、あまた旅館がある中でホテルを名乗るのは札幌で4軒でしたかな、目立ちます。元日号の年賀広告を見ていけば変わり目がわかるから、そこから細かく見ればいいのです。
その結果、西洋料理と支那料理のほかに昭和5年11月から日本料理も加えて豊平館と並ぶ結婚披露宴の会場になろうとしたことがわかります。資料その13は「御婚礼のお支度は」と今井呉服店、五番舘はじめ14店が新聞に出した1ページの(1)は合同広告の一部、(2)は精養軒の独自広告です。左側の3行は「今回新たに和食部を特設致しまして軽便に経済に各種宴会の御相談に応じます何卒御利用を」とあります。単独の広告はその翌日、北海タイムスに出したもので、同じく和食を始めたことをうたっています。
資料その13
(1)
(2)
時流に順応し各種の御会合に最も経済に且つ
軽便を旨とし今回従来のメニユー洋食、支那
食料理の外に新たに「和食部」を設け一切の日
本料理を調進することに致しました特に弊軒
自慢の三国料理の定食も始めました何卒御愛
顧の程偏に願上奉ります
御試食トシテ
當分ノ間破格 精養軒
勉強致シマス 電八七七番
ホテルを始めたのはその翌年。昭和6年8月から料理店にホテルを併設したとわかりました。達本さんの記事とは4年も違っていたのです。その広告を資料その14にしました。(1)は8月8日と9日の北海タイムス朝刊7面に同じサイズ、位置で出てます。2階建てか3階建てかちょっとわからない建物の写真があるでしょう。
だいたい読めると思いますが、説明すると上端に「開店御披露」下端に「精養軒ホテル」、右端に「御得意各位ニ対シ長々御不自由相掛ケ恐縮シテ居リマシタトコロ愈々本日開店致シマシタ何卒倍旧ノ御引立ヲ願マス」、左端に「階下ノ一部ニグリル式食堂モ設ケテ有リマスカラ御利用下サイ」と縦に書いてます。また営業内容として日本、西洋、支那料理と御婚礼披露宴、宴会茶話会、貸席、ホテル、物品販売部と書いてありますね。
ホテルの開業予告の広告も探した。それはなかったけど7月26日と27日に求人広告が載ってました。「近ク開店 準備ノ為メ/女給三十名/見習コツク数名/希望ノ方ハ本人来談面会時間午後二時ヨリ午後五時迄/大通 精養軒(40)」という内容だからね、板前、コックはそのまま残し、ほかの使用人は一旦解雇したと思われます。
同(2)は昭和7年に出た大塚高俊著「大札幌案内」にある広告です。国会図書館には原本とデジタル本があります。「コレクション・モダン都市文化 札幌の都市空間」の復刻版の画像がいいと見たのですが、コピーしてみるとあまり代わり映えしないね。ともかく開業してからの1年で電話を2本に増やし、部屋も洋和お望みの方に泊まれるようサービスの充実を図ったことが察せられます。
グリルは焼き網または焼き肉という意味ですが、コース料理にこだわらない気軽な食堂という意味もあるので、精養軒はこちらのグリル式だったのでしょう。となると、新しい建物内で煙もうもうのジンギスカンの提供を許したのでしょうかね。
資料その14
(1) (2)
(3)
昭和10年お目見えと書いた根拠は何だろうか。偶然ですが「北海春秋」の昭和11年6月号で精養軒の広告を見つけたので、資料その14に入れました。「設備、サービス大改善」とありますね。達本さんは、こうした面目一新の改装の印象をデビューのように記憶していたのではないかなあ。ジンギスカンをやっていたら、大通りの花壇の花よりジンギスカンですなんて書きそうなものですがね。昭和6年と同10年の北海タイムスでは精養軒ジンギスカンの広告は見付かりませんでした。
ごく気楽に書いたせいか、達本さんは、精養軒の鍋や焼き方は何も書いてません。札幌では珍しかったはずだし、横綱が売り出したと知ったら、食べ比べてほしかったなあ。いまさらどうしようもありませんがね。精養軒調べはこの辺で止めて横綱に戻します。
道新と朝日の記事で共通なのは、試食会のタレがニンニク臭かったということです。山田喜平さんのタレは最初、糧友会直伝の醤油と酒と砂糖をベースに七味唐辛子と刻み葱でしたが、それに生姜を加える山田レシピのタレを編みだして「緬羊及び其飼ひ方」第2版、昭和9年からそう書き直されていると以前の講義で話しましたね。覚えているかな。
さらに喜平さんは昭和12年から果汁を加えるよう「緬羊と其飼ひ方」を改訂しており、奥さんのマサさんもそうなのですが、昭和16年に至るまで果汁入りの徹底した甘党路線の付け汁なのです。ですから、11年に行われたとすれば横綱試食会のころには果汁入りを研究していたはずであり、12年なら果汁入りを合田さんに教えた可能性が出てきます。
このように山田夫妻のタレは一貫してニンニクは使わなかった。それなのに、なぜ横綱では閉口した、臭くてたまらんと思うほどニンニクを使ったのでしょうか。よほど臭いのきつい羊肉だったとしても、慣れた葱、生姜だけで作り、わざわざニンニクを入れるとは思えません。
いくらアイデアマンの合田さんでもタレ作りも初めてですから、しばらくは山田さんから教わった通りのタレ使ったでしょう。中西さんの話だけならともかく合田さん本人がニンニク臭を認めているのだから世話ない。きついニンニク臭が本当なら喜平さんは滝川から鍋を持ってきただけで、タレは月寒式を推奨する別のだれかが教えたと考えざるを得ません。釣谷猛さんは「月寒十五年」に「最後にこれらの味を融和させるためにニンニク一個の絞り汁を入れる。ニンニクを入れないと味覚に画竜点晴を欠くこととなりトロッとしたコクのある味とならない。(41)」と書いていますからね。
だれかわかりませんが、月寒式を食べ慣れている人が、並と思う量のニンニクの絞り汁を入れるよう合田さんに教えた。ニンニクを食べ付けない人々にすれば、入れてあるだけでも感じるのに、並では入れ過ぎ、臭くてたまらんとなったのでしょう。こうした客の反応をみて合田さんは当然ニンニクを減らすなどタレの改良を始めたでしょう。
昭和12年12月20日の北海タイムスの産業欄に「緬羊の料理/成吉思汗鍋」という記事がね、突然という感じで現れるのです。「緬羊増殖にともなつて近ごろ羊肉の利用消流法も大いに考案されて来たが自家に於けるこれが料理法を二、三紹介する(42)」という前書きでジンギスカンと羊肉の田楽と佃煮の3種の作り方62行が載っています。
小樽新聞にはなかったれども、12月21日と22日の函館新聞には同じ料理法が北海道緬羊組合聯合会談として2回に分けて詳しく載ってます。その前書きでは「寒さもいよ/\本格的となつて人々の食慾はだん/\肉類に向ふ様になりました、この秋に当り北海道緬羊組合聯合会では本月の二十日頃から札幌(グランドホテル、丸井食堂)小樽(杉田肉店)函館(肉商組合)旭川(三光舎肉店)で羊肉を売出して大いに皆さんに召上つて戴かうとして居ります、(43)」という書き出してなんです。
これぞ、吉田博のいう「一般消費者向けに羊肉普及のキャンぺーンが行われた。その中心的役割を果たしたのは、道経済部畜産課中小家畜係と、同課内に事務局を置く北海道緬羊組合連合会であった。(44)」でしょう。しかも函館新聞には北タイの3種のほかにスキ焼きなど4種計7種の料理法を紹介しているのです。北タイが半分しか使わなかったが、函新は聯合会提供の広報記事を全文載せたのでしょう。資料その15はそのジンギスカンだけを抜き出したものです。
資料その15
一、成吉思汗鍋 は世界でも味で誇る支那料中の粋たるもので羊肉を味はんとする大方緒彦に先づおすゝめするめずらしくも亦美味でしかも極めて簡単に出来る料理である抑もこの成吉思汗鍋は皇紀一千八百年代の中葉に蒙古の一大英雄『成吉思汗』が歳四十四で白馬に鞭うち蒙古の大軍を叱咤し満蒙の地から西へ/\と進み中央亜細亜の諸国を席捲し欧州の中原を風靡して時部下の将兵と共にかの高粱酒をかたむけながら至る所に飼はれてゐる羊を屠つて盾を焼きその肉をあぶり舌づつみをうちながら今日の勝を誇り明日の策をねつたといふことに由來してをり名も何時した成吉思汗料理ととなへらるるに至つたとのことである
材料 羊肉一〇〇匁、醤油三勺、味淋三勺、ネギ、セリ、シヨウガ、ニラ、唐辛等少々
方法 羊肉を漬ける「タレ」は醤油味淋各二勺宛にネギ、セリ、ニラ、シヨウガ、唐辛等を細かく乱切にしたものを好みの量だけ入れて作る、羊肉は二分位の厚さでなるべく大きく切りこれを前の液の中に三四十分間漬けて置く、別に残りの醤油、味淋をまぜ適当に割つて煮沸して「タレ」を作つて置き、先に「タレ」に漬けて置いた羊肉を金網の上で強火で焙り別の「タレ」をつけて喰べる、この際金網の下に日本松の葉を燻すベて焙れば亦格 別の風味を添へる
この前書きは昭和14年に山田マサ夫人が「緬羊彙報」に書いた羊肉料理法のそれと似ていますが、山田が後ですから、これをお手本にしたのでしょう。私が注目するのは、肉を漬け込むタレに「ネギ、セリ、シヨウガ、ニラ、唐辛等」は入れるが、ジュースは入れないということと、焼いた肉を浸すほうのタレは、それを醤油、味淋で割って煮立てるという点です。それまでの糧友会―山田喜平流のタレとは全然違う。
ニラなんて、本場の中国料理を食べ慣れた人によるレシピの感じがしますよ。11月でいいニラもセリもなかったので、代わりにニンニクを入れたんじゃないかなあ。緬羊組合連合会が支那料理のコックに頼んだか、畜産課のだれかが書いたのかわかりませんが、このタレは当時の主流といっていい糧友会式のタレとは全く異なる作り方で、醤油を使い慣れた人の知恵が加味されているような感じがします。
それからね、いつごろから始まったかわかりませんが、釣谷さんの月寒式のタレの作り方は「醤油三合に砂糖五〇匁を入れ、ちよっと火にかけ、醤油の生臭い匂を消し、(45)」と火に掛けるから、このタレの流れでしょう。
「月寒十五年」の12年前に釣谷さんは「農業北海道」に「醤油に砂糖を入れ長葱五本を微塵に切つて放ち、とろ火で五分攪拌し葱をすくい上げ、生姜と林檎のオロした液および酒を入れ、唐辛子粉を辛味を試しながら入れ、最後にミカン汁を入れると出来上る。(46)」と書いてるから、火入れのタレは昭和27年まではさかのぼれますね。
また昭和32年ですが、沢光枝さんが「デーリィマン」に「豊平町月寒畜産部でのやり方を」として「醤油を鍋に入れて弱火にかけ、砂糖と長葱5本のミジン切りを中に入れ醤油が温まつたら〈煮立てないこと〉鍋を下し、葱をすくいあげてガーゼで搾る。次に林檎とショウガ、ニンニクを卸して汁を搾り入れ、柚子の搾り汁、酒、味の素を加え、トウガラシを加える。(47)」と書いているので、こうした作り方もあったことは間違いありません。
沢さんの夫の潤一氏は対象14年畜産卒の技師で道畜産課で中西さんと一緒に働き、退官後は道酪農協会理事などを務めたりしたので、光枝さんは旦那を通じて月寒式を知る機会があったのでしょう。
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参考文献
上記(39)の出典は辰木久門著「北海道の味とうまい店」248ページ、昭和40年10月、レポート社=原本、
資料その13(1)は昭和5年11月20日付北海タイムス朝刊4面広告=マイクロフィルム、同(2)は同年11月21日付同朝刊7面広告、同、
(40)は昭和6年7月26日付及び同27日付朝刊2面広告=マイクロフィルム、
資料その14(1)は同年8月8日付及び9日付北海タイムス朝刊7面広告、同、
同(2)は押野武志編「コレクション・モダン都市文化第88巻 札幌の都市空間」642ページ、平成25年6月、ゆにま書房=原本、底本は大塚高俊著「大札幌案内」80ページ、昭和6年8月、近世社、
同(3)は北海春秋編「北海春秋」3巻6号*ページ、昭和11年6月、北海春秋社=原本、
(41)と(45)は釣谷猛著「月寒十五年」165ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本、
(42)は昭和12年12月20日付北海タイムス朝刊8面=マイクロフィルム、
(43)と資料その15は昭和12年12月21日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、
(44)は北海道総務部行政資料室編「赤れんが」43号24ページ、昭和51年7月、北海道総務部行政資料室=原本、
(46)は北海道新聞編「農業北海道」4巻2号33ページ、釣谷猛「北海道と山羊」(続)、昭和27年2月、北海道新聞社=原本、
(47)はDAIRYMAN編「DAIRYMAN」7巻1号41ページ、昭和32年1月、北海道協同組合通信社=原本
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ところで試食会がちょうど1年後の昭和12年11月13日からだったと仮定すると、ちょっと不都合なことがあります。初日が土曜はいいのですが、資料その16でわかるように肝心の工藤課長が木古内に出張、不在だったことになるのです。昔のお役所の書類の1例です。
この国民精神作興というのは、一口で言えば、戦争に勝つために国民は一致団結、忠誠を尽くす気持ちをちゃんと持てと気合いを入れることです。各課長はそういう精神講話をするための出張を命じられた。講演の割り振りが決まる前に横綱借用の日取りが決まっていて変えようがないということで試食会の指揮は佐藤さんに任せ、工藤課長は木古内に出かけざるを得なかった。函館日日新聞に「畜産課長視察 工藤道庁畜産課長は十二日午後四時二十三分着函一泊、十三日木古内における国民精神作興講演会に講師として出席終りて管内視察すると(48)」とあります。
こういう記事があるのに、畜産課の復活お披露目みたいなジンギスカン試食会の記事がないのは、道庁詰めの新聞記者に水産課長汚職事件の取り調べ中というまずい時期だから、記事には書かないでと頼んだことが考えられます。記者諸氏はこんなおいしい話を書けないとは残念至極なんて、横綱でオダを上げたかも知れません。
資料その16
(1)通牒
○丑社教第二一六號 昭和十二年十月六日
各支庁長 総務務部長
關係各町村長 學務部長
関係各町村銃後後援会長 経済部長
国民精神総動員実行会委員長
國民精神作興週間講演映画會開催ノ件
十一月三日本號標記週間實施方ニ關スル通牒ニ基キ標記講演
映画會左ノ通開催致スベク候條關係者協カシテ所期ノ成果ヲ
収ムル様特段ノ配意相成度
追テ開催地中會場未定ノ向ハ至急決定ノ上折返シ電信又ハ
電話ヲ以テ当庁社會教育課宛回報相成度
記
一 主催者 國民精精神総動員北海道實行委員会
(開催地)支庁
(同)銃後後援会
二 開催地及日時等
月日 時刻 第一班
一一・一〇 自午後六時半 門別村 門別小学校
一一・一一 同 苫小牧町 (未定)
一一・一二 同 利別村 今金小学校
一一・一三 同 木古内村 木古内小学校
一一・一四 同 岩内町 (未定)
一一・一六 同 士別町 (未定)
一一・一八 同 沓形村 沓形小学校
第二班
一一・一〇 自午後六時半 江別町 江別小学校
一一・一一 同 夕張町 夕張劇場
一一・一二 同 増毛町 増毛劇場
一一・一三 同 深川町 深川劇場
一一・一五 同 野付牛町 中央小学校
一一・一六 同 本別町 本別小学校
一一・一七 同 鳥取村 鳥取小学校
一一・一八 同 標津村 中標津小学校
三 講師 北海道庁ヨリ一名
其ノ他一名
四 講演映画會次第
(一) 修禮
(二) 開会ノ辞(地方町村長)
(三) 皇居遙拝
(四) 國歌齊唱
(五) 第七十二回帝國議會開院式ニ於テ賜リタル勅語奉読
(六) 挨拶(地方町村長)
(七) 講演
(八) 萬歳三唱
(九) 閉會ノ辞(地元町村長)
(十) 修禮
内閣総理大臣演説レコード
時局映画 公開
五 其ノ他
(一) 講演ノ対象ヲ一般町村民トシ當日成ルベク多数参集スル様宣
傳竝ニ会場ノ準備ニ遺憾ナキヲ期スルコト
(二) 会場ノ正面中央ニ大国旗ヲ掲グルコト
(三) 成ルベク「マイクロホン」竝ニ電氣蓄音機等準傭ヲナシ置ク
コト
(四) 宣伝用立看板「ビラ」及会場ニ要スル一切ノ経費ハ地元町村及
銃後後援会ニ於テ負担スルモノトス
備考 講師及映画班組合ハ不日決定通知ス
(2)○丑社教二一六號 昭和十二年十一月九日
各支庁長 総務部長
関係各町村長 学務部長
関係各町村銃後後援會長 経済部長
國民精神総動員北海道實行委員會長
國民精神作興週間講演映画會開催ノ件
十一月六日本號通牒標記ノ件道庁側講師其ノ他左ノ通決定相
成候條了知相成度
追テ其ノ他ノ講師ハ決定吹第通知致スベキニ付申添候
記
一 講師係員等
第一班
月日 開他地 講師
一一、一〇 門別村 學務部長 高辻武邦
同 一一 苫小牧町 経濟更生課長 喜多修吉
同 一二 利別村 社會教育課長 幸前伸
同 一三 木古内村 畜産課長 工藤太郎
同 一四 岩内町 農産課長 阪野定一
同 一六 士別町 社會課長 小野寺五一
同 一八 沓形村 地方課長 大塚兼紀
係員 属 松川清
(映画係) 永田康治
梁田徹太郎
第二班
一一、一〇 江別町 庶務課長 永田芳辰
同 一一 夕張町 學務課長 大濱芳雄
同 一二 増毛町 庶務課長 永野芳辰
同 一三 深川町 同 同
同 一五 野付牛町 総務課長 山本章一
同 一六 本別町 商工課長 本村浩
同 一七 鳥取村 職業課長 玉柳賓
同 一八 標津村 統計課長 内館泰三
係員 属 鷲崎重雄
社會事業主事捕 池浦俊彦
(映画係)前半 蓼沼経男
松山茂一
後半 黒澤保治
これまで述べたように試食会が昭和11年だったとは考えにくい。となればですよ、12年に開いたのに、なぜ中西さん、合田さんともに11年と発言したのか―です。私はね、中西さんが11年と記憶していて、戦後、合田さんと再会して以来11年だったと繰り返し聞かせたため、合田さんも11年と語るようになったと考えます。
中西さんは北大入学前だったのに北大生として月寒で食べたり、十勝にいた昭和11年に会場探しをしたり、年月のずれを気にせずどんどん語る人だった。狸小路の店を閉め、戦後、屋台店を開くまで4、5年のブランクがあったはずで、その間合田さんが何をしていたかわからないけど、狸小路時代の記憶が怪しくなりかけていたと思うのです。昭和11年だったかなあ、常連だった中西さんがそういうなら、やはり11年だったのだろうと徐々に信じ込んだのでしょう。
吉田博の「成吉思汗物語り」は、戦時中に材料がなくて店を閉めた横綱が戦後、ちゃんと生き返って薄野で店を再開、また消えたと資料その17のように書いて終わっています。確かに昭和51年の時点では横綱は消えていた。でも、いままた、立派にリバイバルしているのです。
資料その17
<略> これで横綱ジンギスカンは永久に消え去ったかと思われたが、終戦後の二六年に、松竹座向いの屋台店に再生した。合田さんの娘さんが主役である。この頃になると羊肉焼きのファンが増え出した。店も薄野の中心部南五条西四丁目に移転した。合田さんは、昭和四四年に歿した。娘さんの亀田田鶴子さんが横綱ののれんを守っていたが、四年前に閉店した。
「道産のラムやロースの良い羊肉が手に入りませんのでやめました。輸入冷凍のマトンを使っては父の名を汚します。父からおしえられた秘伝のタレづくりは子供にと期待しましたが、後を継ぐ者はおりませんのが心残りです。戦前父が作った鍋が一個だけ家に残っております。追憶の品ですワ」民営第一号の横綱は、約三〇年間に亘ってジンギスカン鍋の大衆化に努めたといってよかろう。今日北海道の特産料理として定着した陰には、横綱の父娘二代にわたる苦心が埋れていることが全く知られていない。
横綱のジンギスカン料理は、その後、合田さんの孫に当たる畑山年江さんが道南の森町赤井川で復活していることを私は検索で知ったのです。キーワード「森町 みどりの郷」で検索してご覧、ホームページが出て来ます。
ここに行きさえすれば、合田さんが作り出した小さめの鍋で肉を焼き、味に苦心したタレをつけて、往時の横綱のジンギスカンを味わうことが出来るのです。それでね、私は2度、大沼公園駅前で貸し自転車を借りて山道を走り、畑山さんがご主人の貞義さんと2人で管理している「みどりの郷」をお訪ねして鍋のサイズ測定などをしました。
「みどりの郷」は森町が撤退したバンガロー村を買収した宿泊中心の施設でね。新しい経営者を公募していたのを知り、立候補して平成4年に釧路から移住してきたそうです。畑山さんは、資料その17に出てくる亀田田鶴子さんのとき、店を手伝っていたので、秘伝のタレの作り方はもちろん、一個だけ残っていた鍋と、亀田さんがそれをモデルにして少し直径を大きくした鍋も引き継いでいたのです。
資料その18がそれらの鍋の写真。「みどりの郷」の焼き肉ハウスで私が撮ったものです。合田さんが6度目に作り出して、長く使っていた独特の鍋をA型鍋、それを模造した鍋をB型鍋と呼ぶことにして説明しましょう。
資料その18
(1)普通の七輪に乗せたA型鍋。どじょう鍋や桜鍋のように、直径が小さいので底全面に炭火の熱が当たる。白い塊は脂身。
(2)焼き面の横棒の上側が平面ではなく、少しくぼませてあるのが特徴。肉からの脂をなるべく炭火の中に落とさないようにするのと、すぐ浅い周環の方へ流すのが狙いとみられる。また環周は太い葱のぶつ切りが丁度はまる深さになっている。
(3)A型鍋の裏面。焼き面の隙間は割箸が入る幅だが、完全に等幅ではない。
(4)普通の七輪に乗せたB型鍋。縁が七輪の縁にかかっていてA型鍋より一回り大きいことがわかるる。横棒の表面が平らで、周環の深さがうんと深くなっている。別のお客が食べて帰った直後の鍋を撮ったので、あちこちに肉片がこびりついている。
畑山さんによると、合田さんは戦後、いまのラフィラの駅前通側に屋台を出した。札幌市が屋台の整理を始めとき、屋台の店主たちに呼びかけて組合を作り、商売を続けられるよう札幌市に陳情し、粘り強く交渉した。それで南3条西5に棟割りの商店街ができた。その交渉実績が認められて合田さんは一番間口の広い店舗を得て、横綱を再開したと聞いているとのことです。
合田さんが作り出し、店で使っていた鍋の測定結果をいいますと、A型鍋は直径が19センチ、重量は1.3キロ、焼き面の頂点の高さが底面から1.8センチ、縁外側の高さが1.8センチ、周環の深さが8ミリでした。写真でわかるように、ロストルの本数は7本、ロストル間の隙間は最大径の位置で厚さ4ミリの割り箸が入る場所と入らない場所があり、僅かではあるが、隙間は不揃いでした。
B型鍋の方は直径が23.3センチで、A型より4センチ大きい。比例して重量は2.1キロとA型より800グラム重い。A型鍋の直径を23.3センチに拡大したとすれば重さは1.5キロになるはずだから、鋳物としてはB型鍋の方が肉厚とみていわけですね。焼き面の頂点の高さは底面より3.1センチ、縁外側の高さは2.5センチ、ロストルの本数はA型鍋と同じく7本でした。
タレについてはニンニクはごく僅か使うが、火は通さないそうで、畑山さんは道新に載った合田さんの談話から、最初はニンニクを入れ過ぎて失敗したため、どんどん減らしていまの調合に決めたと思いますよということでした。
それから、薄野で営業していたころの横綱のことと思われる随筆があるんですよ。お客は道庁、国鉄の人が多かったそうですが、資料その19は美術評論家の吉田豪介さんが北海道放送のディレクターだったころ書いた「『じんぎすかん鍋』に寄せるオムニバス」です。資料その2の2番目にある古い文献で、その一部を引用しました。
資料その19
「じんぎすかん鍋」というのは、寒々とした秋空の下でもほのぼのとしたぬくもりを生んでくれる。
テレビ仲間に梅チヤンという男がいた。学習院じや島津久永さんの学友で、札幌でもめ
つぽう女にもてたが、無粋な奴で本人がほれたのは「じんぎすかん鍋」ぐらいだろう。
毎週金曜日は「話題のアンテナ」という番組で帰りが十一時になつたが、おわつてから
二人でのこのこでかけるのが習慣になつてしまつた。寒さが「じん」とくると「じんぎすかん」ときた。一人前が百円。野菜は長葱だけ、十円だせば長葱のおかわりももらえた。
おやじが女物のかつぽう着を気安く貸してくれたが、このかつぽう着がまた「じんぎすかん漬け」にしたかのような芳香がしみこんでいて、眼の前の鍋ともども完壁に近い「じんぎすかん」の立体的ムードをつくってくれていた。彼は鼻の頭が汗つかきのようである。ここに汗がにじみはじめると、彼は満足そうにニツとした。他人からみると少し焼き過ぎたのが好きのようだが、長葱をひと一倍食べたから、硬軟・あぶら具合はこのへんで調節していたのだろう。<略>
これをプリントして持っていき、畑山さんに読んでもらったところ、野菜は葱だけというから、これはやはり横綱のことでしょうねと私の見方を肯定されましたよ。私が最初「みどりの郷」で食べたのは平成7年でね。そのとき周環に白い長葱を輪に並べた写真を撮ったのです。ところが、そのハードディスクが壊れてね。それでことし撮り直しに伺ったら、いま葱が高くて使えないということで、ピーマンなどを使っておられたので、完全な横綱スタイルの再現写真は撮れませんでした。
あ、時間だね。次回は戦前の料理の本に現れたジンギスカンのことを話します。終わります。
(文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
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参考文献
上記(48)の出典は昭和12年11月13日付函館日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、
資料その16(1)は昭和12年11月6日発行「北海道庁公報」1442号21ページ=原本、
同(2)は昭和12年11月9日発行「北海道庁公報」1444号13ページ=原本、
資料その17は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」28巻8号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、昭和51年8月、北海道農業改良普及員協会=原本、
資料その19は木村慶一編「札幌百点」2巻9号25ページ、吉田豪介「『じんぎすかん鍋』に寄せるオムニバス」、昭和35年10月、株式会社北海道書房=原本
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