マトン料理店は女性向きの商売と勧めた

 はい、始めます。私はジンパ学の資料集めにあちこちの図書館へ行きます。本や新聞を読み、書き写したりコピーを取ったりして、ジンパ学のデータベースに入れる。何年もこれをやっていると、年のせいもあるが、安心して何を集積したのか忘れてしまう。もっとも覚えきれないぐらい集まれば最高なのだけど、そもそもジンギスカンのことを書いたものが少ないんで、そうもいかない。それでも忘れそうで気になっている古い年代の主に婦人雑誌に現れた料理法を一度紹介しておくことにしました。では、資料を配りますから、一部ずつ取りなさい。
 最初にジンギスカンの料理法を載せた本、雑誌は何か。これが極めて難しい。ジンパ学の研究を始めて6年になり、この本だろうと思うものがないわけではないがね、料理の本を全部読んだわけではないし、意外な本に書いてありそうで、とてもじゃないが、自信を持ってこの本だといえません。
 そこでだ、いままでの調べてわかっている書誌、新聞の記事を年代順に話しておき、どこまでわかったかを知ってもらうのがきょうの狙いです。だから、きょうの資料と話に出なかったことを見つけてジンパ学のレポートにしようと思った人は、ぜひトライしてほしい。私はその探索方法、実行してみた努力を評価します。
 また学外の方は、私の講義は秘書兼御用人がホームページでこの講義を公開するから、それを読んで載っていない記事を知っていたら、こういう記事があるよとメールで教えてください。単位は上げられませんが、その方の報告を講義録に追加して研究への貢献を明らかにします。インターネットは他人の書いたものを漫然と読むだけのためにあるのではない。ケータイの画像でJR運転士の居眠りを告発したように、新しい使い方でジンパ学の発展に力を貸してください。
 ああ、それからね、わかっていると思うが、この場合、西洋料理または西洋料理風の記事は対象外ですよ。鍋にバタを入れてとか塩胡椒で味を調えるような羊肉料理は入れないでの話ですからね、はい。
 ところで、かつて「わたし作る人、ぼく食べる人」というテレビのコマーシャルが物議をかもしたことがありましたが、やはり主婦と料理はの関係は切り離して考えられない。前にも少し話したように思うが、雑誌で私が知るうちで最も古い例として、大正8年の「料理之友」が掲載した田中宏のインタビュー記事を資料その1に引用しました。
 料理の記事なのに、衣料の話から始まるのは、第1次世界大戦で羊毛輸入が止まり、その反省から緬羊百万頭増殖を目指すことにした当時の日本の国策から、羊肉を食べることがお国のためにもなると教えるためです。作り方にあるソップとはスープのことです。

資料その1

 料理に用ふる羊肉の価値

        獣医學博士  田中宏

 近頃緬羊飼育の奨励、其の利益なることなどが新聞雑誌等でちよい/\紹介されて居ります。私共は世界戦争の影響から毛織物の著しく高価になつたのを目撃して居ります。一尺八九銭で購はれたメリンスが廿二三銭ともなり、一着卅圓位で出来た洋服が六七十圓でも出來ない様な有様になつて居ります。革の鎧を着て戦争をした昔はいざ知らず今日の時世ではどうしても毛織物に俟たなくてはならぬ場合が多いのであります。
 其の毛織物並に原料を悉く外國に仰がなくてはならぬ我が國の輸入金高は大したものであるのみならず、若外國に於て羊毛の輸出を禁ずるとか又或事情で輸入の出來ぬ場合を考へると甚だ心細さに絶えません。其が追々我が國で産する様になることは誠によろこぶ可き事であります。
 羊が飼養せらるゝ様になりますと従つて其肉が我々の食膳にも上るわけになりませう。また盛んに其の肉を食用することは軅て緬羊飼育事業を盛んにする一助ともなります。 其處で其の羊肉なるものが食用上如何なる価値のあるものかを田中博士について御伺ひいたしました處次の様なお話がありました。

  ▲羊肉は味のよいもの
    臭昧の強いのは或種に限る

 緬羊の食用としての価値の貴い事は世の認むる所でありまして、欧米各國にては牛肉、豚肉と等しく普く食用せられて居りますが、我が國では緬羊の飼養が幼稚でありますので、肉の供給が乏しく其の美味を試みる揚合がありませんから、羊肉は甚だ臭いものであると云ふやうなことを考へて居るのであります。けれども夫は緬羊の種類をよく知らないからであります。羊毛専用種なるメリノー種の肉は多少人々に喜ばれない臭ひの致すものでありますが、其他の毛肉兼用種なるコリーデル、サウスダウン、シユロプシヤーの如きものゝ肉は決して臭ひはしませぬ。又多少臭があるにしても夫れは食ひ慣れぬからの事で、牛肉にも魚肉にもみな夫々特有に臭ひはありましても慣れさへすれば少しも気にならぬと同様で、羊肉も慣るれば決して気になるものではありませぬ。寧ろ慣れたならば豚よりもひつこくなく、軽ろい味はひによつて日本人の口に叶ふではなかろうかと思はれます。脂肪も可成沢山にあります。而も豚肉や牛肉よりも凝固することが早いので一見ひつこひ様にも考へられますが此の脂肪は誠にあつさりと食べられるのであります。
 今日本で奨励いたして居りますのは多く後者の種類に属して居りますから皆さんがお購めになるなら大てい臭くない方の肉を求めることが出來ませう。斯様にして此の種の羊肉から憤れたならばメリノーの肉も終には氣にならすに食べられるかも知れません。
 ▲美味く食られる調理法 羊肉の調理法は私が紹介して居る豚肉の調理法と大差はありませぬ。臭味を消すためには葱、生姜、大蒜などを用ひ、脂肪の凝固したのを厭ふ場合には熱く食べられる料理法にすればよいので、出來上つたものは中々美味しいものであります。
なほ肉は赤身のみに限らす脂肪も共に切り込んでも少しも不味くはありませぬ。
種々の方法によつて試食して見ましたが、美味に食べられるものが澤山あります中に早速何處の家庭でも試みられて美味しいものを二三申て見ると
  ▲羊鍋 普通牛鍋と同様に肉も脂肪も一緒に薄く切り醤油、味醂に葱を加へて煮れば誠に結構に食べられます。之れに白瀧、三葉、焼豆腐、筍等を煮合せてもよいのです。好みに依つては胡椒を振りかけます。又ソツプや鰹節の煮出汁を加へてもよい。
  ▲すき焼鍋 肉は薄く切り、別にソツプ又は鰹節の煮出汁に 醤油、味醂を加へて美味しい煮汁を拵へ置き鍋を火にかけヘツドかラードを少々入れて其熱した時肉を少しづゝ入れ、両面をぢり/\と煎りたる後煮汁を鍋に入れ、葱其他を加へて煮てもよし。
  ▲味噌煮 鍋に味醂を沸立[湯を加へてもよし]て普通に切つた肉を入れ又葱其他の野菜を加へ次て摺味噌と砂糖少しを 入れて掻き混ぜながら煮ます。
  ▲茹肉 何部の肉でも大塊の儘沸湯に荒切の葱又は生姜及ぴ塩少々を加へて一時間程茄で其儘湯と共に冷やした後適宜薄く切り、醤油をつけて食べます斯様に茄でた肉は数日間保存も出來又色々の料理 に用ひられます。酢醤油、生姜酢、芥子酢をつけてもよろしく酢昧噌にしても又ぬた、和物等にし ても結構であります。

 大正8年は未年だったので、都新聞は正月に「群羊に親みて」という緬羊の飼育を勧める記事を載せています。「日本で羅紗がないのは日本に緬羊が碌に居ないからの結果に外ならぬそこで農家の副業として緬羊飼養の声が滅切り多くなつたのである」といい、緬羊は太ると「一頭の重量約六貫目屠殺しても棄る處はない角は細工物に肉は需用広く肉は百匁が九十銭もする力ツレツにすれば臭くなく紫蘇の粉を入れて煮れば全く無臭となる味は牛豚より淡白で色は馬の肉の一層美なる物である、宮中にも折々一頭の肥たる羊が献ぜられる(1)」と書いています。
 カツはともかく、紫蘇の粉を入れて煮ると臭みが消えるか、試したことがないので保証しかねますが、そういう消し方もあったということです。また、荘司左男治という人は自著の「最新緬羊飼育法」で「羊肉は獣肉中最上位に位するものと云ふを得べく、特に當才仔の肉(ラムと称す)の如きは柔軟にして其香味絶佳なるを以て非常に珍重せらるゝものなり。」と説明していますが、食べ方としては羊肉の南蛮煮と味噌漬け(2)だけです。これはその前の年の大正7年に農商務省が出した「緬羊」という90ページほどの冊子の附録「簡単なる羊肉調理法」の引用らしく、ほぼ同文です。(3)まあ、こうしてみれば、田中さんの羊肉料理はぬきんでたレベルだったことがわかりますね。
 農商務省は大正11年に開いた第10回地方畜産主任官及び種畜場長会議の内容をまとめた「地方畜産主任官及種畜場長会議要録」を出しています。この中に「羊肉試食」という章があり、出席者が食べてみたと思われる和風の羊肉料理5種が書いてあります。とても料理の本とはいえないのでレシピは別の講義でやりますが、羊肉を全く使わない酢蓮とウドの海苔巻きを含めての5種(4)だからね、1週間ものロングラン会議の打ち上げ宴会の肴であることは明らかです。
 次は主婦向けの代表として、その名も「主婦之友」の考察からいきましょう。道立図書館に主婦之友社が平成8年に覆刻した創刊号、大正6年3月号があります。きれいな箱入りでね、それを見て当時の社名は主婦之友ではなくて東京家政研究会だったことを知りました。意外にも料理の記事は成田良子の「手軽な経済料理法」の1本だけでね、11種書いてあるうち肉料理は「牛肉生姜醤油焼」と「豚の桜蒸し」の2種でした。
 生姜醤油焼は「牛肉の繊維を横になして、厚さ三分大さ二寸五分四方位に切り、醤油少々に生姜おろし少量を交ぜたるものの中に二時間程浸しおき、後取り出して焼きます。焼く時はよく金網を暖めておいてから載せます。度々裏返して両面を焼き、冷えぬ内に喰べます。
(5)」でした。豚肉の方は豚挽肉と食パンをちばって適当な大きさに丸め、挽米をまぶして、焼かずに蒸すという料理でね、どちらも材料とか分量は書いていません。
 また道立にある主婦之友社編「カラー復刻『主婦之友』大正期総目次」には創刊号から大正15年12月号まで117冊の目次が載っているので、それを見ると成田はその後も料理の記事を書いてます。2号は「手軽な惣菜料理」、3号から5号は「季節向の総菜料理」となっています。
 どうも「手軽」「経済」がキーワードらしくてね、はっきり肉料理とわかる記事は創刊から1年たった大正7年3月号に勝見信太郎が書いた「手軽で珍しい豚肉料理」(6)でした。その後の肉の種類がわかるのは大正10年12月号の勝見の「風流な季節向の鳥料理」と、13年3月号に春日真木が書いた「兎肉の美味しい料理法」の2本だけでした。支那料理の初出は大正11年3月号の指原乙子の「お惣菜向きの支那料理」でした。
 ジンギスカンはないけれど、一戸伊勢子が大正12年に出した「栄養料理法」に羊肉料理が載っています。一戸は東京東京女高師の講師で、農商務省から依託された羊肉料理の研究に携わってましたから当然、研究の成果として取り上げますよね。「<略>羊肉には一種の特有の臭気がありますが、之は飼料の改良によつて漸次失せてまゐるのであります。多少の臭気は或る程度まで調理する際の温度と調味及材料の配合によつて失せるのであります。(7)」ということで、羊肉の青和え、同葱間揚げ、同胡麻和え、同きぬた巻きの4種を載せています。
 これと大同小異の羊肉料理を書いた本が大正14年に愛媛県で出てます。「大和式調理加工法講習全書」という本です。書いたのは愛媛県で学校の先生をしながら料理を研究した千葉青波。「生活改善経済保健」という副題が示す通り、地元の食材を科学的に調理して栄養を十分取り、より以上偉大なる大和民族を作りたいと願い、それで大和式と命名して、大正6年から愛媛女子師範はじめ農村などで講習会を開いて普及に努めた人(8)とわかります。
 いろんなことが書いてあり、小鮒の鱗の取り方の秘伝、牛乳の刺身の作り方まである。肉料理にしても牛、豚、鶏、馬、羊と十二支みたい。「栄養料理法」と同じく羊肉は青和へ、葱間揚げ、胡麻和へ、きぬた巻きの4種(9)になってます。
 「栄養料理法」の通り料理を作ってみて、調味料の分量を自分好みに少し変えたかなというぐらいの違いで、説明はほとんど一戸さんと同じです。私は羊肉料理しか比べなかったが、この時代、一戸さんの「栄養料理法」に啓発されて羊肉料理を研究した人が、ほかにもいたかも知れません。
 一方、緬羊飼育を勧める中央畜産会の参考書「緬羊」の初版の料理は、羊肉の南蛮煑と味噌漬けだけだったが、4版までに資料その2の5種に増やしました。皆が羊肉を食べるようになれば、毛だけでなく肉も売れると農家が緬羊を増やすことを期待して、食生活からも働きかけを始めたわけです。

資料その2

附録
   第三   羊肉の調理法

羊肉を食膳に上せると云ふ事は欧米支那等では古來盛に行はれた事であるが我が國では羊肉のみならず牛、豚の肉でさへ数十年前までは習慣上之を食ふ事をしなかつたのである、然るに近年肉食と云ふ事は益々旺になつて來たと共に緬羊飼育の普及、頭数の増加と云ふ事は同時に羊肉の供給を漸次多くすると云ふ事となり從而羊肉を食膳に上せると云ふ事も将來必ず盛になつて來ると云ふ事は疑ふ余地のない處である、一体羊肉の調理と云ふ事に就ては一般に非常に面倒なもの六ケ敷ものの様に考へられて居る様であるが決してそんなに面倒なものでもなければ億劫なものでもない、又羊肉は一種の臭味があるからと云つて厭ふものもあるがそれは要するに慣れないからの事で肉の臭味と云ふものは牛には牛、豚には豚のそれ/\゛種類に依つて特有的のものであつて羊肉にも亦羊肉としての一種の臭味のあるのは當然の事であるが之も厭ふべき様のものでなく食ひ慣れた人は反つて香味と感じて居るのてあるので調理の方法に依つては頗る美味に食ふ事が出來るものである、調理の方法にも種々あるけれ共茲には極く平易なもの数種に就て簡単に説明をすることとする。

一、羊肉南蛮煑

羊肉を豫め適宜の大きさに切つて用意しておく、先づ牛蒡胡蘿蔔は斜に切り蘿蔔は銀杏に切り蒟蒻は短冊に切つてよく湯煮し軟らかくなつた時湯を捨て醤油で少し味をつけ別に摺つて置いた白味噌を入れてよく混ぜ之に豫ねて用意して置いた羊肉を入れ砂糖と山椒の粉とを加えて程よく煮るのである。

二、羊肉味噌漬

味噌に少し味淋を加へてよく煉り混ぜ其の半分を適宜の器の中に入れて其の上に紙を敷き二寸位の大きさに切つた羊肉を並べ紙を以て其の上を包み其の上に前に残して置いた味噌を詰め器の蓋をして置き日を経て肉を取り出し小口から適宜の大きさに切つて焼いて食ふのである。

三、煮附

羊肉を普通に切り沸湯に荒切の葱、生姜を少々加へたものにて三分問許湯掻き其の湯は棄て味淋、醤油、砂糖(湯も少し加へてよろし)にて煮附ける、又其の季節の野菜を加へて煮るのである。

四、煎甘煮

羊肉を普通に薄く切り筍、蓮根、牛蒡、慈磨A里芋、独活、隠元等を普通甘煮に用ゆる様に切り鍋に胡麻の油二三勺をを熱して微塵に刻みたる葱と生姜各茶匙一杯位を加へ肉を入れて煎り次に笥、蓮根、慈茄、牛蒡を入れて煎り醤油、味淋、砂糖、鰹節にて味を附け独活と里芋を入れ煮えた頃に隠元を入れ静に混ぜながら煮るのである。

五、バタ焼

羊肉を普通に切り塩と胡椒を振り掛け置き鍋にバタを溶かし微塵切の葱生姜少々を加へ肉を入れ火を強くして肉の下面が稍々焦げかけた頃初めて裏返して暫らく焼くのである。

 国会図書館の近代デジタルライブラリーの本は、私も多用していますが、切り取られたページは埋めていないので読めない。村井政善著「家庭応用和洋料理法」の「ひ之部」の羊肉とその前後も欠落したままです。それでね、岩手県立図書館にコピーをお願いして集めました。いずれ羊肉の前の「ひじき」と「ぜんまい」のレシピも足して近デジ本の欠落箇所はこうだよと示ますか。余計なお世話かな。
 ああ、いまゼンマイといったら変な顔をした人がいたが、漢字の花のバラの後ろの草冠に微かと書いた字は訓読みでビなので、ヒツジの後ろにあったんです。山のゼンマイがそんな字だなんて知らなかったね。ともあれヒの羊肉料理は資料その3(1)の通りでした。
 同(2)は大正15年に出た「食通の喜ぶ日本、支那、西洋珍料理」に載っているレシビです。羊肉ではなく豚肉料理ですが、焼く前にタレに漬け込むところが、一戸伊勢子の作り方と似ているので紹介しました。筆者の服部茂一は服部式茶菓割烹講習会の主催者で会員を募って講習会を開くかたわら本を書き、服部式手軽天火、服部式パイ皿など講習会で使う調理用具や食品の通信販売もしていたやり手でした。国会図書館には服部が書いた本が10冊ありますが、烤羊肉のカオヤンローの羊のヤンを豚のトゥンにすげ替えてコウトンローと振り仮名を付けたあたり、服部がよく中国料理も研究していたことが察せられます。

資料その3

(1)
  羊肉生姜味噌

 先づ羊肉を適宜の大きさに切り少量の塩を撒布して俎の上にのせ當り棒様の物にて輕くうち串に刺し炭火に架け程よく焼き裏漉しにしたる味噌に味淋を加へてどろ/\になしみぢんに切りたる生姜を混合爲したる物を二三回掛け串を抜き程よく庖丁をして皿に盛りて供します。


  羊肉葡萄煑

 材料 羊肉百匁 葡萄酒二合 塩少々。

 羊肉は鍋に入れ被る位の清水を加へ適度の塩を入れ火にかけ煮立ちたれば上に浮きましたる泡を充分掬い捨て文火にして二時間位茹で砂皿に上け稍々冷めたる時賽形に切り葡萄酒の中に漬け込み四五時間して供します。


  羊肉のカレー煑

 是は豚の拵らへ方と同様なれば其條参照ありたし。


  羊肉豆腐

 材料 羊肉百匁、豆腐一丁、玉子二個、米利堅粉大匙二杯、味淋五勺、生姜微塵切茶匙    一杯、五寸折箱一個、醤油三勺、塩小匙一杯。

 先づ羊肉は極細かに叩き摺鉢に取り食塩を入れ充分摺りましたならば水氣を固く搾りたる豆腐を加へ米利堅粉と玉子味淋及び醤油を加へて尚よく摺り裏漉しにして是に生姜を混和為し此混合物を折箱に入れ平らにして蒸籠に納め沸騰せる釜にかけ二十五分間位蒸して取り出し清水に放し折箱を抜き適宜に切り味噌汁や椀盛り其他好みに応じて供します。


  羊肉の軟か煑

 羊肉は極く細かに敲き之れを二分位の厚さに平に伸し五分四角位の大きさに切りメリケン粉にまぶしおき次に鍋の内に凡そ肉の被ると思ふ位の煮出汁を入れまして火にかけ灌え立ちましたれば羊肉を入れ暫く煮まして適宜の砂糖と醤油を加へ程よく <1字空白だが「に」とルビ>て火より下ろし器に盛り霰切りにしたる柚子を撒布して供します。


  羊肉の黒和へ

 之れは豚内の胡麻和へと拵へ方同様なれど黒胡麻にて拵へます豚肉の胡麻和参照ありたし。

  羊肉の白酢和へ

 是れは葡萄酒煮に拵へたると同様に肉を茹でまして薄く切り胡瓜の揉みたる物やせん大根生姜等と白酢(胡瓜の白酢和へに有)にて和へ小鉢に盛りて供します。


  羊肉の阿部川

 之れは羊肉豆腐を温かき内に切り豆の粉を塩味にして之れにてまぶし皿に盛りて供します。


  羊肉の吉野煑

 軟か煮に拵へましたる物に今少し汁氣を多くなしメリケン粉の代りに葛の粉を用ひまして汁氣を充分ねば/\して供します。


  羊肉カツレツ

 之れは豚肉と同様なれば其條参照ありたし。


  羊肉の味噌漬

 之れは牛肉と拵へ方同様なれば其條付委し。


  羊肉の照焼

 之れも牛肉と同様なればその條参照ありたし。


  羊肉の衛生煑

 材料 羊肉百匁 人参一本 大根一本 小椎茸二合 酒二合 砂糖大匙二杯 醤油三勺    塩小匙一杯 莢隠元少々 メリケン粉少々
 先づ羊肉は薄く平に切リメリケン粉にまぶし乾きたる俎に取り當り棒にてかるく敲きおき人参と大根は皮をむき適宜に切りさつと煠でゝ置きます椎茸は足を取り去り水に三十分間位つけて後叮嚀に洗ひ次に鍋の内へ清水一升五合を入れ火にかけ灌え立ちましたれば羊肉を入れ尚煮立ちたる時上にうきたる泡を掬ひ取り人参と大根 椎茸及び酒を入れ文火にして二時間位煮ましてのち砂糖を加へ尚十五分間位の後醤油を加へ少量の塩を入れて味加減をなし暫くして火より下ろし深皿に盛り莢隠元の塩煠でにしたる物を上にのせて供します。


(2)
   烤豚肉(コウトンロー)(焼豚肉)
  
  材料四人前 1、豚ロース百目  2、玉葱一個  3、生姜一個
        4、茴香少々(薬店に有り)  5、調味品
  
1、豚のロース大切のまゝ百目を求め一寸五分角二分厚さ位の大きさに切つて置きます。 2、丼の中に玉葱一個と生姜一個を卸し込み、その中に茴香(ウイキヨー)(薬店に有ります、無ければ肉桂粉でもよし)少量(二匁位で良し)と味の素少量、及び醤油大匙五杯を加へて掻き混ぜその中に、今の豚肉を浸けて三十分間位置きます、時間が経ちましたら取り出し玉葱を払ひ落す様にして金網の上で焼きます、焼けましたら四分の一づゝを皿に盛つて侑めるのでありますが菠薐草の浸し物等を付け合せれば純支那式とは言へませんが、さつぱりして美味しい物です。

 大正年間で忘れてはならないのが山田政平の「素人に出来る支那料理」です。これは雑誌ではありませんが、大正13年と14年の「婦人之友」に山田が書いた支那料理の記事を土台にした本なので、ここで紹介しておきます。
 私はまだ「婦人之友」に掲載された成吉思汗鍋の記事をみていないので、資料その4(1)には、単行本にまとめた「素人に出来る支那料理」の成吉思汗鍋を引用しました。それだと、山田はカオヤンローではなく、ヤンカオローと呼んでおり、誤植で見出しの斯と汗が逆順になっています。
 この本は平成23年7月から国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めるようになりましたから、確かめてもらってもいいのだが、食べる状況を説明しているだけです。またこの本の22ページにジンギスカンが出てくるが烤肉(カオロー)(やき豚の一種)として、おろし生姜などを加えた醤油に浸けた豚肉の焙り焼きを書き、その末尾に「烤肉と云ふ名前は同じでも、全然方法を異にしたものがあります。回々(フイ/\)教徒の羊肉料理で、在支日本人の一部によつて命名せられた、所謂『成吉斯汗鍋(じんぎすかんなべ)』は即ちそれです。(10)」と書いているだけです。山田のこの「在支日本人の一部」という一言は、北京にいた鷲沢・井上コンビ命名説を打ち出している私にすれば、心強い支えなんですよ。
 また、引用文のすぐ前に「支那に於て羊肉料理が異常な発達を遂げたのは、この絶対に豚肉を食べない回々(ふい/\)教徒の食饌として成就されたものですから、羊肉料理即ち回々料理と云つて差支へありません。(11)」と、回々料理を説明しています。そこまで書きながら烤羊肉のレシピがないのは、そのころ羊肉を売っている肉店がほとんどなかったからでしょうね。
 それでね、山田が戦後書いた「飲食雑記」の「仁宗夜半の思ひ」という章からの引用を資料その4(2)にしました。これなら作り方といえると思うのですがね。山田には、もっと丁寧に作り方を書いた本が、もう1冊あるのですがね、それは戦後のレシピの講義に回します。ただ私としては、ヤンカオローが「日露戦争後流行の兆を見せ」たという山田説を念頭に置いて、明治大正の新聞を読むとき気をつけているのですが、まだそれらしい記事にぶつからず、半信半疑でおります。
 資料その4(3)は山田が味の素から出した「四季の支那料理」にあるカオヤンローのレシピです。昭和4年に出た本なので、そのころは大都市だけだったかも知れませんが、羊肉が食べられたので、カオヤンローが入っています。豚と牛と並べたのはともかく、ルビが烤牛肉の儘のカホニユーローはまずいですよね。またジンギスカン鍋などと書かずにフイフイ料理で有名としているのは、まだ日本国内ではジンギスカンという名前が知られるようになるのはうんと先の話と考え、使わなかったのでしょう。
 上野翠松園にいた料理人、吉田誠一が昭和3年に出した「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」は「山羊、鹿、羊、料理」という章の欄外に「綿羊肉は近頃、千葉県、茨城、北海道方面のものが東京市場へ少しずつ見うけますが、まだ一般家庭には使用されていないやうです。(12)」と当時の羊肉事情を伝えています。
 そのころ道内では道庁などが主催して札幌、小樽、旭川で羊肉料理講習会を開き、一戸伊勢子がジンギスカンも教えた記録があります。これは改めて詳しく取り上げます。
 この章の11種の料理の名前は、吉田の中国語の読みも見てもらうため、整理して資料その4(4)としました。吉田は緬羊と鹿は4品ずつで同格扱いしていますね。激増したエゾシカの肉消費策として、中華料理を忘れちゃいかんのです。「エゾシカを食卓へ」という本の各国料理にはね、骨付き肉の塩ゆでにポン酢をかけて食べるシューパウローとすね肉のチャーシュー(13)しか書いとらんが、中国の料理法をよく調べれば、もっとうまい食べ方があるかも知れんよ。はっはっは。

資料その4

(1) 九 原始的な成吉汗斯鍋

 成吉斯汗鍋と云つても鍋を用ふる訳ではなく、本当の名前は羊烤肉(ヤンカオロー)と云ふ回々料理(ふい/\れうり)であります。原始的な美味しい料理として、在支日本人の一部が斯く命名し、これを歓迎して居るのであります。
 すべて料理は屋内で食べるのが普通ですが、この料理ばかりは必ず屋外でいたします。それは箱火鉢か鍋のやうなものに火をおこし、それに金網若しくは鉄の棒を渡し、羊肉を焙りながら、支那の醤油をつけて賞味します。火を起すにも薪を燃やして作り、寒い冬の夜、庭上に炎々と燃へしきる焔を眺め、まだブス/\と燻る大きな火を囲みながら食べる羊肉の味はまた格別で、成吉斯汗鍋の名の由つて来る所も偲ばれます。勿論強がち情景の原始的なのに、好事者の感興を唆るばかりでなく、実はこの料理特有の美味は、他にその類を見ないほどのものがあります。
 羊肉には一種のいやな臭気がありますが、羊烤肉になるとこれも殆んど苦になりません。この料理法を以て、羊肉に代ふるに牛肉を用ひるのも甚だ結構です。

(2) 仁宗夜半の思ひ

<略> 今羊肉の直火焼には焼羊の外に烤羊肉(カオヤンロウ)がある。邦人は之を成吉斯汗料理又は成吉斯汗鍋と謂ひ日露戦争後流行の兆を見せ、漸く人口に膾炙するやうになり、東京にも之を呼物にする店さへ出来た。烤羊肉は季節料理の一つで、晩秋に始まつて晩冬に終るのが通例である。
 羊肉は先づ鋤焼肉のやうに薄く切り、之を食者自ら(にんにく)、酒、醤油を合せた汁に浸し、函火鉢の如きものに火を焚き、鉄線上で焼きながら食べる。焼く時に汁や脂肪が火中に落ちて灰が立昇るので屋外の院子(には)でする。然し都会の料理店では鍋を伏せたやうな形の物々しい鉄板に穴や隙間を切込んだ特殊な道具を使つて居る。羊肉も鋤焼同様焼き過ぎては旨くない、片面だけ焼いて食べるのが巧者な食べ方である。酒のいける人は此の料理には必す焼酒即ち白干児(パイカル)の杯を片手に、且つ飲み且つ喫べる。


(3) 焼烤菜

   烤肉(カホロー)(やき豚の一種)

 材料 豚肉適宜量 醤油適宜量 味の素適宜量
 準備 肉脂肋分少き處を選び、厚さ二分位の刺身に切ります。醤油と
味の素は混ぜ合せ、前の肉を浸けて置きます。
 調理 肉に汁が沁み込んだ頃を見計らひ、金網又は渡し金の上で直接
(ぢかび)
で焼きながら食べます。
 注意 此浸汁(したしじる)には、薑汁(しやうがじる)を加へたり、微塵葱を加へたりいたしま
すと結構です。
 元來屋外料理ですから、ピクニツク等には最も適當です。金網、渡
金等のない場合は適當な石を焼いて、石の面で焼くことも致します。

   烤牛肉(カホニユーロー)

 材料が変るだけです。

   烤羊肉(カオニユーロー)(羊肉同上)

 これは回々料理(フイ/\れうり)で有名なものです。


(4)  山羊、鹿、羊、料理

  緬羊肉
     炸羊肉(ツアヤンロウ)(羊肉の蒸揚)
     紅焼羊肉(ホンシヤウヤンロウ)(羊肉の醤油煮)
     栗子羊肉(リイツヤンロウ)(栗と羊肉の醤油煮)
     炒羊肉絲(チヤヤンロウスウ)(羊肉と野菜炒り)
  鹿肉
     紅焼鹿肉(ホンシヤウルウロウ)(鹿肉の醤油煮)
     栗子鹿肉(リイツルウロウ)(栗と鹿肉の醤油煮)
     炒鹿肉絲(チヤルウロウスウ)(鹿肉と野菜炒り)
     叉焼鹿肉(チヤシヤウルウロウ)(鹿肉の焙焼)
  山羊肉
     紅焼草羊(ホンシヤウフオヤン)(山羊の醤油煮)
     栗子草羊(リイツフオヤン)(栗と山羊の醤油煮)
     炒草羊肉絲(チヤフオヤンロウスウ)(山羊と野菜炒り)

  

参考文献
上記資料その1の出典は料理の友社編「料理の友」7巻3号9ページ、大正8年3月、料理の友社=マイクロフィルム、 (1)は中日新聞監修「都新聞復刻版 大正8年1月」51ページ、大正8年1月8日付5面、平成16年10月、柏書房=原本、 (2)は荘司左男治著「最新緬羊飼育法」27ページ、大正8年6月、岩本農園出版部=原本、 (3)は農商務省編「緬羊」84ページ、大正7年4月、中央畜産会=近デジ本、 (4)は農商務省農務局編「地方畜産主任官及同種畜場長会議要録」305ページ、大正11年3月、農商務省農務局=近デジ本、 (5)は主婦の友社編「主婦の友創刊号復刻版」110ページ、平成8年9月、主婦の友社=原本、 (6)は主婦の友社社史編纂委員会編「カラー復刻『主婦之友』大正期総目次」112ページ、平成17年2月、石川文化事業財団=原本、 (7)は一戸伊勢子著「栄養料理法」10版111ページ、大正13年5月、アルス=原本、初版は同12年6月、 (8)は千葉青波著「生活改善経済保健 大和式調理加工法講習全書」ページ番号なし、「自序」より、大正14年9月、盛文堂出版部=近デジ本、 (9)は同238ページ、同、 資料その2は農商務省編「緬羊」増訂4版95ページ、大正9年1月、中央畜産会=原本、同その3(1)は村井政善著「家庭応用和洋料理法」401ページ、大正11年3月、東京宝文館=原本、 同(2)は服部茂一著「食通の喜ぶ日本、支那、西洋珍料理」64ページ、大正15年1月、坂本書店出版部=館内限定デジ本、 (10)は山田政平著「素人に出来る支那料理」23ページ、大正15年1月、婦人之友社=原本、 (11)は同140ページ、同、 資料その4(1)は同141ページ、同、 同(2)は山田政平著「飲食雑記」同168ページ、昭和28年9月、芥子社=原本、 同(3)は山田政平著「四季の支那料理」50版88ページ、昭和11年9月、味の素本舗株式会社鈴木商店出版部=原本、 同(4)と(12)は吉田誠一著「美味しく経済的な支那料理の拵へ方」218ページ、昭和3年8月、博文館=館内限定近デジ本 (13)は大泰司紀之、本間浩昭著「エゾシカを食卓へ ―ヨーロッパに学ぶ鹿類の有効活用―」198ページ、平成10年9月、丸善プラネット=原本


 ちょっと脱線ですがね、だいぶ前のことだがね、ウィキペディアのジンギスカン料理の説明があまりに旧態依然としているので、山田を念頭に置いて大正15年の文献にジンギスカンが出ていると、私がヒント的に書き込んでやったんですよ。ところが、いつまでたっても、そのまんま、だれも山田の「素人に出来る支那料理」だと書き換えない。
 もっとも書き換えると、その前に書いた人物かだれかが、また元通りに直して、いたちごっこになりやすい。私のヒントはあっさり消えたが、これがオーソドックスだといわんばかりのモヤシを敷いた写真がいまだに健在なのは、もう一言ある人たちは書き込まなくなったからからだと私は見ますね。まあ、ジンパ学の講義録が出典といわれないように、どなたかが慎重かつすれすれに抜き出し、メンテナンスしているらしい。
 例えば駒井徳三命名説は「全日本司厨士協会北海道本部相談役の日吉良一が北海道開拓経営課の塩谷正作の談話(冗談)を元に『L'art Culinaire Moderne』に1961年に投稿した『蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親』(14)」だとして出典は「日吉良一、『蝦夷便り 成吉斯汗料理の名付け親」『L'art Culinaire Moderne』昭和36年10月号、1961年、p29、東京、全日本司厨士協会(15)」と明記してくれたために、私がこの講義録を本に仕立てたとき、逆にウィキが出典と正直に書いていないと指摘されかねないと気にしてるんですよ。
 大正から敗戦後の昭和にわたる山田政平の著書のために、昭和の初めがわかりにくくなりましたが、糧友会が昭和3年10月に東京で開かれた全国馬匹博覧会の会場内に構えた羊肉食堂では一戸さんのメニューにない料理を出したことがわかるので、その記事を資料その5に引用しました。名前だけなのでレシピを見れば一戸さんの何々と同じということがあり得るが、今となってはそれが出来ないので別物としておきます。

資料その5

馬匹博に於ける
    糧友會羊肉食堂

 羊毛資源増殖策の一助として、羊肉
食用の普及を図りつゝある本會は、昨
年十月二十五日から十一月一日まで、
東京代々木練兵場に開かれた御大典記
念全國馬匹博覧會々場に、農林省並に
同上馬匹博の後援で、羊肉食堂を設
け、實費で左の羊肉料理を入場者一般
に頒つた
 一、羊肉ライスカレー  二、羊肉むし焼
 三、羊肉スープ     四、羊肉酢和
 五、羊肉串焼      五、羊肉チヤツプ
 六、羊肉料理一品入定食
 尚本會の特輯にかゝる「緬羊と羊肉
料理」のパンフレツトを特価で頒ち、
又緬羊肉の廉売を爲し、羊肉の如何に
美味しく、高尚な味をもつて居るかを
普及するに努めた。
 處が予想外に多数の試食者があつて
僅か八日の期間でその内二日の雨天が
あつたにも拘らず、約二千食からの羊
肉料理が売れ、而も極めて好評を博し
馬匹博の入場者は意外に安い旨い羊肉
料理を食べて、馬の知識を得ると共に
叉豫想せざる羊の知識を得たことをい
たくよろこんで居た人々も少くなかつ
た。<略>

 このほか昭和3年には以前の講義で示した陸軍糧秣本廠の外郭団体、糧友会がカウヤンローと振り仮名を付けて鍋羊肉のレシピを発表してます。資料その6(1)としてもう一度示しておきましょう。その次になるのが、まともな料理法とはいえないが、中国文化研究者の中野江漢が昭和6年に雑誌「食道楽」に書いた「成吉思汗料理の話」は無視できない。
 中野のそれのレシピらしいところは「『タレ』は、『蝦油』即ちえびの油に、醤油と酢とを混じ、それに『ヤクミ』として、『葱』と『香菜』といつて『藿』即ち『かをりぐさ』を用ゐねばならぬ。蝦油は單に風味を附けるのみでなく、蝦油をつけて羊肉を食へば食當りをせぬと傳へられて居るからである。香菜や葱も、臭ひを消し、消化を助ける上に働きがある。(16)」ぐらいでね。これを読んだだけでは支那料理の歴史、北京正陽楼の烤羊肉はわかっても、とても日本の家庭で烤羊肉という料理はできそうもない内容なのです。
 ところが、昭和7年3月に中野の「成吉思汗料理の話」そっくりの解説付きのジンギスカン料理のレシピが中外商業新報、いまの日本経済新聞に「美味百パーセントの成吉思汗料理/これを取入れて食膳を賑はして頂きたい」 として掲載されたのです。筆者の吉田誠一は東京大井町の支那料理店、春秋園の料理人でした。推理小説の翻訳で知られる吉田誠一とは別人。こっちは「吉田誠一が書いた命名者伝説の出所」という講義で取り上げたユニークに人物だから名前は覚えているよね。
 私はこの「美味百パーセント」を見付けるまで、吉田が初めて書いたジンギスカンのレシピは昭和8年の「料理の友」5月号の「痛快無比 成吉思汗料理 =美味烤羊肉=」だと思っていたんだが、そうじゃなくて、これは吉田にすればタレの作り方も同じ2回目のレシピ公開だった。そうとわかったので私も今期から吉田の昭和7年レシピをここ加えました。
 資料その6(2)がそれです。3日連載された「美味百パーセント」の中野とそっくりの箇所のことと中外商業新報に書いた吉田の支那料理のレシピは、ここをクリックすれば「春秋園は事件の2月前に開店したばかりだった」(仮題)を公開したら、ジャンプして読めるようします―と明記していたんですなあ。
 ところが申し訳ないことに、私はここにそう予告したことをきれいに忘れて、ここ数年間「吉田誠一が書いた命名者伝説の出所」の方で「痛快無比 成吉思汗料理」が吉田が初めて書いたレシピだと繰り返していた。まだ認知症にはなっていないと自己診断しているが、このズレは教える側として重大なる失態だと認めざるを得ません。
 それで急遽「命名者伝説の出所」を書き換え始めたのですがね、昭和7年11月の報知新聞で吉田がごく短く書いたジンギスカンの紹介を見付けたこともあり、講義済みの中野とそっくり箇所の検討など前半の内容を変えることにしました。報知のそれは講義録の「本や雑誌にジンギスカン料理はこう書かれた」に入れたので、そっちを見てもらいますが、吉田は春秋園の広告代わりに自分が書いた支那料理のレシピを載せようとした、もしくは経営が悪くなり広告代わりに自分のレシピを載せようとしたらしいので、時事新報なども調べており「吉田誠一が書いた命名者伝説の出所」の公開は、もう少し待って下さい。世界最先端のレベル維持は本当に疲れるよ。ふーっ。
 資料その6(2)にユニコードにもないので■とした字が3カ所あります。この■は虫篇に片仮名の「ト」、虫の右隣は卜になっている字です。諸橋の「大漢和辞典」にも載っていない字でね、振り仮名もないので、どう読むのかもわからん。新聞社もそんな活字は持っていないからね、虫篇の活字の右半分を削り取り、朴か何か右半分がトになっている活字の左半分を削って2本を合わせて間に合わせたため、字が不明瞭でマイクロフィルムを最大に拡大して確認しました。
 今いった中野のレシピらしいところと比較すると、これは蝦油の蝦という字らしいとわかる。中国人からでも教わったか、とにかく奇っ怪な字です。蝦油は以前の講義でも話したはずだが、要するに旧満洲南部の特産品で小蝦の塩辛の上澄み汁です。
 しかし、本物は手に入らないので吉田は味噌と醤油と酒とスープでその味を再現しようとしたわけで、2回目の「料理の友」のレシピもそのままです。それにしても家庭でビールの中瓶一本分もタレを本当に作ったら持て余すこと間違いなしだから、これはタレを作るならという味噌などの割合はこうだということでしょうね。

資料その6

(1)
 四、鍋羊肉
(支那料理の焼肉)(五人分)
材料
 羊肉(肩又は股肉) 百二十匁
 醤油 五勺
 酒 二勺
 砂糖 十匁
 七色唐辛子 少量
 胡麻油 少量
準備
 羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七色唐
 辛子を合せた中に約三十分浸しておきます。(漬け汁は
 とつて置きます。)
調理
 焦げつかぬやう、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪に
 かけ、漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。
注意
 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて、多少
 燻し氣味に焼きますと一層風味がよくなります。


(2)

<略> 肉の焙り方は広く列べず數片を
丸めて半焼けを以て風味ありとい
ふ人もありますが、原則としては
よく焼かなければいけません、前
に述べた詞句の如く火炙最宜生嗜
嫩で生焼けは嫩即ち風味が少ない
のであります、次にタレは■油即
ち■の油にスープ、紹興酒、胡麻
油、醤油、酢、その他の調味料を
攪拌し、その他薬味として香菜、
葱、生姜、柚子等を用ひます、し
かし東京、横浜等の支那食料品店
には■油がありませんから、家庭
的には次のやうな方法で、作るこ
とを研究しました、味噌茶匙山盛
一杯、柚子の絞り汁三個分、酒、
酢、醤油各一デシリツトル(五勺
五)スープ二デシリツトル、それ
に味の素を適宜に加へ、以上を良
く混合して、その汁の中へ葱、生
姜、パセリを微塵に切つて茶匙山
盛一杯づゝ浮べて各人の小皿に注
き、焼き肉を浸して食べるのであ
ります
     ◇
 肉の焼方は、羊肉を薄く刺身の
やうに切り、それに酒と醤油を同
量に混合せた汁にしばらく浸して
置き、フライ鍋又は餅焼網の上で
小さなビフテキでも焼くやうに座
敷の中で七輪又は火鉢の上で焼き
ながら、前のタレを付けて食べる
のであります、しかしこれはどこ
の家庭でも出来るやうに簡単な説
明に過ぎません、深く御研究をさ
れたい方は当園までお出下されば
実地に付いて御相談申します



 昭和三年札幌、小樽、旭川三市に於て、道庁及各市役所主催の下に実施せる羊肉消費宣伝の料理講習会に於て東京一戸料理研究所長一戸伊勢子先生のなせる講義の一部である(スゝム)


  第四、鍋羊肉(支那料理の焼肉)五人前
材料 羊肉(肩又は股肉)百二十匁、醤油五勺、酒二勺、
 砂糖十匁、七色唐辛子少量、胡麻油少量
準備 羊肉は一分位の厚さに切り、醤油、酒、砂糖、七
 色唐辛子を混ぜた中に、約三十分間浸しておきます。
(漬け汁はとつておきます)
調理 焦げつかぬ様、金網に胡麻油を塗つて強火の七輪
 にかけ、漬け汁をかけながら、肉の両面を焼きます。
注意
 一 漬け汁を、醤油と味淋にしても宜しいのです。
 二 味淋を入れるのは味淋の中には琥珀酸があつて、味を
  よくするのでありますが、これは多く使ふのは反つて
  コゲついたりして宜しくありません。どの料理でも琥
  珀酸の量が二%位で味が充分つくのであります。
 三 焼く前に澱粉を撒布して焼いても宜しい。これは肉
  を一層軟かくする爲めなのであります。澱粉は七十五
  度で糊化する(ノリになる)のでありますが、澱粉は少
  し振フリカケただけで多くかける必要がありませんし、
  火は充分強い方が宜しい。
 四 味淋を用ふる場合には、前申したと異なり味淋の中
  に五分間程つけておいて、次に醤油の中につけるのも
  よろしい。味淋と醤油は混ぜないのです。
 5 金網の代りに、素焼と同様、鍋で焼いても宜しい。
  いづれの場合でも強火で金網や鍋がよく焼けてから始
  めます。
 六 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜて多少いぶし
  気味に焼きますと、嗜好に依り一層おいしく食べられ
  ます。
(北海道畜産協会編「畜産雑誌」27巻4号30ページ、一戸伊勢子「羊肉料理(一)」より、昭和4年4月=原本、)

 次は日本放送協会が昭和10年に出した「放送料理一千集」を取り上げます。この本については、恥ずかしながら私は去年までおかしなことに同じ書名の本が2種あると間違った見方を皆さんに話していた。
 現場主義を旗印にしていながら、片方の「肉類篇」しか見ないで、それも、はしがきを信用して料理の品数を数えなかったことを認め、去年までのジンパ学履修者諸君にお詫びします。単位をもらったらもういいやでなくね、たまたまでもこの講義録を読んだら「放送料理一千集」は「野菜篇」と「肉類篇」とに分けて出た1冊の本―と改めて覚えてくれることを希望します。
 私は羊肉料理がありそうだと、スカイマークの運賃より遙かに安い「肉類篇」を通販で買いましたね。「野菜篇」は売ってなかったし、国会図書館にないから大阪府立図書館まで行かねばならないと思い込んでいたのです。東京・高輪の味の素食の文化ライプラリーに両方あるのに気付かなかったことからケチが付いたんですなあ。
 今回、大阪と味の素で「野菜篇」を読み、はしがきが「肉類篇」と同文で組み方も同じ、料理は508種だったことから誤りに気付きました。日本放送協会は大正15年から昭和3年までの放送分を「四季の料理」と「日々の料理」として出版しており「今回はその後をうけ、昭和九年の夏までのものを一括し、その中より一千五十種(17)」を選び、それを2冊に編集した本だったのです。私の「肉類篇」は昭和16年に出た20版ですから、立派なロングセラーといえるでしょう。
 それからね「肉類篇」の料理は料理は529種で「野菜篇」と合わせて1037種であり、ぴったり「一千集」でもなく、はしがきのいう「一千五十種」でもなかった。ただし「野菜篇」には混ぜご飯28種、パン・サンドイッチ8種、洋菓子18種、飲物16種などがあり、玉葱の肉詰め、茄子の肉詰めどころか、いまでいう肉まんも入れていたのには参りました。
 対する「肉類篇」は魚と貝、鶏卵を含み、料理の種別だと67%が卵と魚料理でね。赤い血の肉料理は鶏肉54種、鴨と小鳥各2種、牛肉37種、豚肉67種、羊肉5種、兎肉3種、馬肉1種で合計171種。早い話が昭和1ケタ時代は肉イコール魚だったといっても過言ではないでしょう。
 ただ、この仮定では、七輪で松葉や枝を燻らせてサンマを焼き、塩振りか大根おろしで食べるというだけで、10分の放送時間をもてあましそうな「秋刀魚の松焼」、サバ2匹に卵を4個使う「鯖の卵黄しぼり」を魚料理の1品と数えており、放送回数を調べ、材料による区分けを厳密にすると、比率はもう少し変わってくるとは思いますが、ともかく魚主体の食生活なのです。
 また使われた魚介60種類のダントツは28種のタイでした。次いでイワシ、サンマ、イカ、カニ、アユがそれぞれ16種。サバは15種、アジは12種と僅差でした。実話ですが、いまの陸上自衛隊じゃ隊員がいやがるので給食に骨のある魚は出さないそうで、まさに隔世の感。おっとっと、羊肉に話を戻します。
 昭和1ケタの家庭料理ではジンギスカンには到らず、羊肉では羊肉の青あへ、羊肉葱間揚げ、羊肉の胡麻和へ、羊肉のきぬた巻、羊肉のラグウの4種の料理法が載っています。執筆者21人の中に糧友会嘱託の満田百二とやはり糧友会と深い関係にあった一戸伊勢子の名があるから、2人のどちらかが放送したのでしょう。
 羊肉のラグウには括弧して「煮込み」と説明付きで、このラグウを除く3種は、原稿が徹底した「ございます」調であり、かつ作り方の後ろに必ず「注意」を附けていることから、これらは一戸担当、ラグウは満田が放送したと推察されます。満田は「日本綜合料理」という本を出したり、一戸と同じように新聞、雑誌にいろいろ料理の記事を執筆しているから、魚料理も放送したと思いますよ。
 そのころは全国どこでも羊肉は買えなかったので、代わりに牛肉や豚肉にした料理もあるんですね。というのは、豚肉のカツレツで「この料理は、肋骨附きのの犢肉、豚肉、緬羊肉で拵へます。其の中、緬羊肉が最も適して居ります。けれども普通には、豚肉を使ひます。(18)」と説明しているから、料理研究家には羊肉のうまさは知られていたのですね。
 1回の放送時間は10分でしたが、羊肉の青和えは、特に羊肉の特長を語っているので、こんな風に羊肉料を勧めたという意味で資料その7としました。

資料その7

羊肉の青和へ
材料(五人前)
 羊肉     百匁     砂糖  十匁(約大匙一杯)
 葱の青い部分 二十本分位  生姜  一個
 酢      一勺     塩   少々
 味醂     一勺
 拵へ方を申し上げます前に、先づ羊肉について一寸申上げます。羊肉は牛肉より繊維が細く、組織も粗うございますので、従つて消化液とも交り易く、座つて居る事の多い人や、御婦人、お年寄りお子さん方の召上り物として大変よろしいと存じます。只この羊肉には一種特別の臭みがございますが、之は飼料の改良によつて段々失はれて参るのでございます。そして少し位の臭味は或程度まで調理する時、其温度や調味料又は材料の配合によつて、少なくする事が出來るのでございます。
 さて青和への拵へ方を申上げます。羊肉は目笊に入れて熱湯をかけてから、鍋に熱湯を沸かした中に、丸のまゝ入れて二十分間位強火で煮ます。そして鍋蓋をした儘十分間位むしておきましてから取り出し、繊維に添うて引き裂き、二杯酢をかけておきます。此場合それに生姜の摺つたのを加へますとよろしい。砂糖は入れずにおきます。つまり二杯酢とは、酢に塩又は醤油を適宜に加へたものでございます。次に葱を熱湯に塩を入れた中に入れて、手早く茄でて冷水に取り、それを細かく切つて摺鉢で摺り潰し、裏漉しにかけます。之に分量の砂糖と味醂、塩等で味をつけ、此中に前の酢につけておいた肉を入れ和へて混ぜて、器に盛つて供します。
 注意 葱はなるべく澤山用ひます方が、見た目も綺麗で味もよろしうございます。又肉は熱湯の中ではなるべく早い時間で強火で茄でるのでございます。


炒綿羊肉絲(シヤメンヤンロウスウ)
   (これは羊肉応用の支那料理でございます)

 材料
 羊肉  五十匁     片栗粉 十匁
 筍(二寸位のもの)一本 春雨(支那料理に用ふもの)
                で乾物屋にあります 半把
 松茸  二 本     葱    二寸位
 生姜汁 小匙二杯    醤油 大匙一杯
 味淋  一勺      塩  少々

 羊肉は五、六分の大きさに繊維と直角(つまり繊維と十文字)になります様切つてから、これに分量の醤油と、味淋と生姜汁とを一緒に混ぜ合しましたものを加へて、よく揉む様にして混ぜてその上から片栗粉をふりかけて置きます。筍は短冊切か、又は繊切に致します。松茸は石づきを取つて塩水に浸して後、短冊切でも繊切でも、筍と同様に切つて置きます。春雨は其の儘直ぐに胡麻油の中に入れて揚げておきます。此の場合春雨を極く少し宛入れて揚げます方がよろしうございます。
 かうして下拵へが出来ましたら、次にフライパンに胡麻油を少々入れ、此の中で先づ筍を炒ためて、取り出してから次に羊肉を入れて炒ため、それに熱湯を肉を覆ふ位迄に注ぎ入れて、沸騰致して参りました時、直ぐに前の炒めた筍と、松茸の切りましたものを加へ、塩小匙一杯と醤油一滴とを入れ、更に片栗粉の残りましたのを水で溶いて加へ、最後に葱の微塵切に致しましたものを加へて、煮上りましたら火を止め、これを前に拵へました春雨を皿に盛つてその上に載せますが、又は先に皿に肉類を盛つておいて、春雨を添へて供しましても、どちらでもよろしうございます。

 重箱の隅をつつくようなことですがね。この青和えはいまさっきいった「栄養料理法」と材料、こしらえ方は全く同じなのに「栄養料理法」では、引き裂いた羊肉に掛けるのは三杯酢であるところが違う。何度も作っているうちに「酢につけておいた」といえるぐらい、たっぷり二杯酢を「かけておけば」二杯酢で十分と知り、変えたと思われます。
 それから一戸さんは昭和4年3月26日に「羊肉の葱間揚」を放送しています。そのレシピが読売新聞にあるので「一千集」のそれと比べると、羊肉が20匁多く、それに玉葱のおろし汁を混ぜて葱に詰めるようにしている点が違っています。「一千集」は7年分の要約ですから、一戸さんは羊肉の葱間揚を2回放送したのかも知れません。確かめたければ私の講義録の食糧展覧会のところを読みなさい。
 蛇足だがね、私は「四季の料理」と「日日の料理」も調べましたね。「四季の料理」は「毎朝放送します御料理の献立が丁度一年間に三百余種の多きに達し」たので纏めたと、はしがきにあり、目次に月別の放送分は(総数三百五種)(19)と書いてあるが、数えると292種しかない。
 もちろん私の数え方は花見団子2種という題名でも1回分なら1種というきつい数え方のせいもありますが、附録にまた「正月の重詰料理」とか「お雛様の御膳部」などがあって、300種余りとはそれらを数えていった数字なのかどうかわからん。とにかく350種ぐらいのうちに、兎肉と雉子肉は使われていたが、羊肉料理は皆無でしたね。
 「日日の料理」は支那料理18種を含む221種の料理が書いてあり、羊肉を使う料理として、シャメンヤンロースーという支那料理が1種だけ載っていました。(20)せっかく見つけた珍しい例だから、資料その7に入れておきました。丁寧すぎると思うような言い方と味醂を味淋と書いているし、料理とは別に栄養の解説をこの本に書いた一戸さんの放送分と私はみますね。
 それから序でに注意しておくが、この本はニチニチ、日を2つ書く方ですからね。日の後ろが片仮名のマみたいなおどり字の「々」で国会図書館を検索すると、割烹研究会による「四季御料理と毎日の料理」という大正時代の本が出る。書誌情報が「四季の御料理 : 日々の料理」となっているせいです。
 昭和1ケタ時代の「主婦之友」にある羊関係の記事としては、まず昭和4年8月号に「緬羊の飼ひ方」という記事があると研究仲間から教わっているのですが、私はまだ見ておりません。読んだものでは未年の昭和6年1月号の「緬羊の飼ひ方座談会」ですね。「政府が奨励金まで出す好副業」「年額二億円の羊毛と毛織物の輸入を防げ!!」という見出しで、緬羊飼育のメリットを語り合っています。
 出席者はイロハ順で、農林省畜産課長石崎芳吉、東洋軒社長笠原彦三郎、陸軍被服本廠陸軍一等主計生地竹之助、農林省副業課技師大山彦二、福島県で緬羊を飼っている黒沢倉蔵、農民美術研究会山本鼎、松井商店主松井平五郎、宮城県の飼育者で齊藤荘次郎、農林省畜産課技師岸良一、糧友會満田百二、千住製絨所会計課長三徳徳次郎、陸軍糧秣本廠三苫弥太郎、陸軍糧秣本廠繁富保雄
(21)の13人。後に成吉思荘となった建物は、この座談会に出た松井の別荘だったのです。
 記事をみると(1)日本人の生活と緬羊(2)日本に於ける緬羊飼育の現況(3)副業としての緬羊飼育の特長(4)実際飼育者の緬羊に就ての経験(5)初めて緬羊を飼育する人の注意(6)緬羊飼育に必要な土地と資金(7)副業としての緬羊飼育の収益(8)美味で栄養に富む羊肉料理(9)羊毛と羊皮の処分法について(10)農家の肥料代を軽減する羊肥(11)政府の補助奨励の方法―と分かれており、広告も入っているけど、全体で16ページもあり、関係者の力の入れようがわかります。その中の「美味で栄養に富む羊肉料理」を資料その8に引用しました。

資料その8

繁富 羊肉、羊毛、羊肥などの処分法に就て、それ/\゛専門の方から伺いませう。先づ農林省から指定されて、羊肉の販売に従事してゐられる松井さんからお話ください。
松井 私が羊肉の販売を始めましたのは、明治四十年でありまして、その当時は主として西洋人に向けてをりました。月に三頭くらゐが関の山でしたが、大正時代に入つて、日本の高級な料理店などで、ぼつ/\使用するやうになり、最近では、一ケ年に七百頭くらゐ使用するやうになりました。
 羊肉は、その味が極めて高雅で、栄養価も高く、肉質が軟かくて消化が良く、日本人向きの料理に適してゐますので、今後は一段と歓迎されることゝ思つてゐます。
繁富 飼育者の家庭で、羊肉を食用に供してゐるやうなことはありませんか?
齊藤 他の地方ではどうか知りませんが、私共のところは、始めて間もないので、羊肉の料理に就て、農家の婦人には、まだよく理解されてゐないやうです。
繁富 黒沢さんの地方では如何ですか?
黒沢 食べるよりも、金にした方がいゝと思つてゐますので、自家の食卓に上せるやうなことは、めつたにありません。
岸 羊肉は、やつぱり当分は、専門に商売する方に処分して貰つて、将来だん/\と理解ができ、嗜好が生ずるやうなれば、牛肉や豚肉と同様に、一般の肉屋さんから買つて食するやうになるでせう。
繁富 羊肉料理に就て、東洋軒の笠原さんに、お話を伺ひませう。
笠原 西洋では、羊肉料理は極めて高等な料理としてあれります。高貴な方々に差上げる料理や、芽出度い場合の料理には、必ず羊肉を使ひます。
 支那でも、「羊頭を掲げて狗肉を売る」といふ言葉があるほどですから、昔から高級な肉とされたゐたものと見えます。
 羊肉料理で一番美味しいのは、「マテンチャップ」と申しますもので、これは、羊肉を焼いたものであります。一般家庭で召上がるには、羊肉を針金に刺して、瓦斯火でも何でも結構ですから、高熱でお焼きになるのが、一番美味しいやうです。
繁富 糧友會では、三年ほど前から、農林省の委託託を受けまして、羊肉知識、羊肉料理の普及に努め、東京市内に於て、毎年数回、羊肉料理の講習会を開き、最近は銀座と新宿に、羊肉食堂を設けて、その一普及化を図つてゐる次第であります。
 本會の講師たる、満田さんに、羊肉の家庭料理に就ての注意を、簡単にお話して頂きませう。
満田 すべて獣肉には、それ/\゛固有の臭ひがありまして、羊肉にもまた、羊肉独特の臭ひがあります。
 欧米人は、この臭ひと、高尚な味と、舌ざはりのよい軟かさとを、殊更に賞美いたしますが、日本人はまだ慣れませんので、一般に食はず嫌ひの方が多いやうであります。
 また一度や二度くらゐ食べたことのある方も、料理法が合理的でないために、羊肉は美昧しいが、その臭ひがいけないと申されますが、その固有の臭ひも、料理法一つで極めて簡単に、取り除くことができるのであります。
 その方法は、短時間に、高熱で調理することであります。<略>

 糧友会の満田がここぞばかり短時間、高熱で焼くジンギスカン料理についてぶったと思うのですが、紙面には何も載っていません。家庭で短時間に高熱で調理する方法もカットされています。まあ緬羊を飼っている農家でもめったに食べず頭数増やしに専念しているらしいから、そうでなくても臭い肉だというし、食べ方はいらないよねなんて編集者が削除したのでしょう。
  

参考文献
上記の資料その5の出典は糧友会編「糧友」4巻1号144ページ、「糧友ムーブメント」より、昭和4年1月、糧友会=原本、 (14)と(15)は令和2年1月31日現在の https://ja.wikipedia.
org/wiki/ジンギスカン_(料理) (16)は食道楽社編「食道楽」第5年10号8ページ、昭和6年10月、食道楽社=原本、 資料その6(1)は糧友会編「糧友」巻号ページ、昭和3年1月、糧友会=原本、 同(2)は昭和7年3月26日付中外商業新報朝刊5面=マイクロフィルム、 (17)は日本放送協会編「放送料理一千集 (肉類篇)」はしがき1ページ、昭和16年10月、日本放送出版協会=原本、 (18)は同531ページ、同、 資料その6は同577ページ、同、 (19)は日本放送協会関東支部編「ラヂオ放送 四季の料理」1ページ、昭和2年5月、日本ラヂオ協会=館内限定近デジ本、 (20)は同「日々の料理」201ページ、昭和3年9月、同、 (21)と資料その8は主婦之友社編「主婦之友」15巻1号362ページ、「緬羊の飼ひ方座談会」から、昭和6年1月、主婦之友社=原本、


 婦人雑誌は戦前の一時期、雑誌そのものより附録が立派で、新聞の広告を見ていくと、何月号発売という広告とは、別にその附録の内容を訴える広告があります。本当ですよ。しかし、本体と附録とをそろえて所蔵している図書館は少なくてね。そうした附録の料理を調べるには、古書店から買うしかないと思ってよろしい。
 家庭料理を特集した附録だからといって、ジンギスカンが載っているとは限りません。では支那料理の附録なら確実かというと、そうでもない。執筆した講師がジンギスカンは支那料理ではないという考え方の持ち主なら、かなり厚い料理の本でも載ってません。ですから国会図書館で支那料理の本をせっせと読んでも、さっばり見付からないことがよくあります。
 それで私は通信販売で附録を買うとき、メールでジンギスカンが書いてあるかと尋ねてから買うようにしています。古書店の売り手が正直に答えるかどうか次第ですが、書いていないといわれても買って、当たった例もありますし、逆に質問しただけなのに、いきなり本を送ってきた古書店もありました。そういう場合、発注していないのに迷惑だと送り返すだけですが、だいたい古書店の経営者は本好きが多いと見えて、実に丁寧に包装してくれる人が多いのは嬉しいですね。
 こうした買い方でうまくジンギスカン情報を手に入れたことが、これまでに2回あります。まず「婦人倶楽部」昭和8年11月号の付録の「家庭向支那料理三百種」ね。値段はいいませんが、336ページの結構厚い本です。店主が目次にジンギスカン料理はないと答えてくれたのですがね。300種なら羊肉料理が1つぐらいはあるんじゃゃないかとダメ元で買ってみたのです。
 そしてね、ジンギスカンはないかと隅から隅まで天眼鏡でながめたら、ちゃんとあったんですねえ。料理の作り方以外に「材料の用ひ方秘訣」「角卓の席の定め方」など16種の一口知識が付いていて、その「支那料理用語便覧その四」の末尾に、ちゃんと4.5センチ角の挿絵付きで載っていた。「本書に御執筆の諸先生」13人の中に「大井春秋園吉田誠一先生(20)」が入っているだけのことはあったのです。
 資料その9の挿絵に「成吉思汗料理 材料は羊肉ですが、英傑成吉思汗が愛好した陣中、野外料理で、羊肉を醤油と、大蒜(にんにく)とを混ぜた中に浸して、焼きながら食べるものです。(21)」と説明が付いていた。私はね、最初見たとき、テント前で女性が鍋の下の火を棒で突いて火勢を強めているところと思いましたね。どうやって肉を焼くのか、執筆者と打ち合わせずに画家に描かせたため、こういう絵になったと見たのです。
 資料は拡大しているからよく見えますが、火をつつく棒はただの棒でなくて、鍔のあるサーベルの形をした金串だね。先に肉片を刺して焔の中で炙っている。そばの地面には新聞紙を敷き、弁当箱みたいな容器の蓋を開けているので、肉はたれに漬けて持参したという想定ですな。

資料その9

    

 もう1例は「主婦之友」昭和9年5月号の附録「栄養料理の作方」です。1000円で売っている書店に尋ねたら、ジンギスカンは載っていないと返事が来た。それならダメ元で、もう少し安く売っている古書店に注文してみたのです。
 確かに作り方では載っていなかったけど「主なる日常食品の栄養図表」にある192種の中に緬羊肉があったのですよ。どうみても山羊の絵と共に「寄生虫なし。臭味あれど高尚、ジンギスカン鍋が可。皮下脂肪が特に臭いゆゑ、除去する。」と書いてあった。それもそのはず、その図表について「陸軍糧秣本廠北山義雄先生指導(22)」とありました。糧秣本廠はジンギスカン料理を全国に広めようとしていた糧友会の大スポンサーなんですから、何かを外しても羊肉は取り上げる筈ですよね。
 これらは数少ない当たりの話でね、はずれの方がはるかに多い。はずれても懲りずに、また探すしかない。ジンバ学の裾野をより廣く詳しく開拓するには、この繰り返しは仕方がないのですね。そのうち本にして、印税でその一部を取り返せたらいいなあ―ですよ。
 ちょっと戻りますがね、昭和8年の「婦人之友」12月号に、ある意味、無責任な記事があるんですなあ。「お国自慢 満鮮地方」という題で12月ごろ食べられる満洲と朝鮮の家庭料理8種を、両地方に住んでいる読者に書いてもらったらしいページでね。松岡久子という女性が朝鮮料理として神仙炉、あげ豆腐、胡瓜の油いための3種と満洲料理としての成吉思汗鍋について報告しています。
 松岡は朝鮮在住らしく、3種については作り方や味はこうだと説明しているけれども、ジンギスカンは自分で作ったり食べたりしたわけでなく、満洲で食べてきた旦那の話の受け売りなんです。編集者はほとんどの読者は成吉思汗鍋なんて知らないだろうし、ましてや食べこともないだろうから、満鮮料理の知識としてならよかろうと載せたと思われます。次の資料その10(1)がそれです。
 私が羊肉の匂いに慣れたからではないが、いまはウッと顔を背けたくなるほど臭いマトンにお目に掛かることはないよね。でも糧友会が国民に羊肉を食べる習慣を植え付けようと普及活動を始めたころは、老いぼれ綿羊の肉であり、屠殺してからの処理も良くなかったので臭かったらしいのです。さりとてその匂いを完全に消せないので、より強い香りを放つ野菜などで押さえ込んで食べる料理が研究された。
 資料その10(2)は昭和9年3月の中外商業新報、いまの日本経済新聞に載った中央畜産会の岡崎秀喜氏による羊肉の臭味の消し方とそれによる羊肉料理です。
 料理3品のうち羊肉の網焼は名前は違いますが、糧友会の鍋羊肉のレシピの系統に属するジンギスカンなので、臭味消しの要点と合わせて記事から抜き出しました。焼くとき塩と材料に書いていない山椒を振りかけるところは違うけど、松葉か松笠で燻せばよいというところは同(3)の成吉思汗鍋と同じでしょ。
 さて、こんな風に資料を集めてみると、昭和10年を過ぎてからが多いんですなあ。ということは糧友会が昭和2年に羊肉食普及運動を始めてから、ざっと10年かかったという見方ができます。また婦人雑誌だけでなく新聞記事もちゃんと羊肉食普及に力を貸していたのです。
 羊肉食普及に努める糧友会は昭和11年夏「農村食生活指導パンフレット」として「緬羊の飼方及び羊肉調理法」を出してます。料理は嘱託の満田百二が執筆しています。羊肉は特有の臭いがあるけれども、慣れるとその臭いが好きになると説明し、日本人が羊肉を食べ始めてからの「其の歴史も浅く、一般に親しみが薄い関係からして、丁度四十年前頃の牛鍋のやうに、軒下で煮るやうな運命にある様です。」が、そんなに敬遠するのは時代遅れだ。ちゃんと料理すれば「至極簡単にその臭ひを消て、持ち前の高尚な真味を遺憾なく賞味する事が出来るのであります。(23)」とね。
 満田はある時期から砂糖ではなく、塩を入れたタレを提唱しています。私は糧友会型ジンギスカンでタレが砂糖、味醂入りなら一戸流、甘みゼロは満田流と定義しているのですが、満田流でやれば美味しいよというわけね。満田は砂糖を入れると味がくどくなるというのですが、これは塩や塩辛などしょっぱいもので日本酒を飲んでいたと思われる満田の好みであり、一戸は女性で酒飲みでなかったから薄甘いタレでよいとしたと考えてます。
 このパンフレットには、焼き物5種、揚げ物4種、汁物、煮物、和え物各1種計12種の料理が書いてあります。ジンギスカン鍋は羊肉は焼く前に砂糖を入れない漬け汁に浸けて味を付けておき、焼けたらそのまま食べると明確に指導しています。
 ここ何年か小鉢に入れたタレを付けることはせず、先に味付けした肉を客に出して、焼けたらすぐ食べるのは、北京正陽楼と同じと話してきましたが、今回同(2)を追加するのを機に里見クが書いた「満支一見」を読み直して、私は食べ方を少しく誤解していたことに気付いたので、説明を改めます。
 「ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。――と、かういふ順序なのだ。(24)」という表現に気を取られて、私は正陽楼は漬け込みで少し味を付けた肉を出す。里見クと一緒に食べた志賀直哉はタレを付けてから焼けとうるさく言ったのは、濃い味付けが好きだったからであり、里見はそうではなかったので、皿盛りの肉をそのまま焼いて満足したとね。
 ところが「葱、人蒜などは無論煮込んであらうし、ちよつとピリツとしたところを以つてみれば、胡椒の類も加味されてゐようか。」という「一種の醤油を入れた鉢」が渡され、それから「太くて長い竹の箸で、肉を適宜に把つて醤油につけ金網の上に載せるのだ。(25)」と里見はちゃんと書いていました。
 思い返すと、私は「ジユウ/\云つて焼ける。滴つた脂が、ボロ/\ツと焔の舌をはいて燃えあがる。ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。(26)」という実感溢れる描写に感心し過ぎたんだなあ。それで里見が「舌にピリツとした」醤油、つまりタレを付けてから焼くと書いていたのに、そこは気にしないで「皿へ山盛りに盛つた羊の生肉」を、直ぐ金網に乗せ、焼けたら「口へ持つて行く。」ことができるのは味付き肉だからと受け取り、皆さんにそう話してきたことは非常にまずかった。読み飛ばしたんだろうといわれても否定できない。
 もしOBOGで、いまこの講義録を読んでいたら、私が何年間かこういうミスリードをしてきたことをお詫びします。もし北大出ならと説明を求められたら、かつての正陽楼でも焼いてからタレを付けていたと教えてやって下さい。
 はい、資料その10(3)が糧友会パンフのそれです。晒し葱を加えるのも満田式の特徴のひとつです。
 昭和11年ではもう一つ、東京で果汁を加えた漬け汁のジンギスカンのレシピが、ある本に書かれています。私はこれまで果汁入りは山田喜平さんが考え出して自著「緬羊と其飼ひ方」の4版から書き加えたと話してきましたが、東京のこの本が半年早く出ているので見方を変えました。
 ここでそれについて話したいのは山々なのですがね、東京の成吉思荘を始めた松井初太郎氏と関係することなので、成吉思荘の開業の前後を取り上げるなかで話した方が理解しやすいと思うので、ここではそうした事実があるという指摘にとどめます。
 先行するジュース入りのレシピがあったから、山田喜平さんは、それを真似たといいたいのではありませんよ。滝川にいた山田さんは全く独自に考え出したのかも知れませんがね、松井さんとは懇意にしていたので、もしかするとその本を読んだかも知れん。あくまで勘ぐればの話ですよ。

資料その10

(1)
 先達主人が満洲視察から帰り、おいしいと思つた成吉思汗鍋の話をしました。
 月明の夜戸外で食べたのださうです。三脚のついた鉄鍋に炭火をもり、亀甲形の鉄灸をかけ、羊肉を焼いて食します。その肉は予め、老酒と蟹の油とを調合した汁に、わけぎの細切を混ぜたものへ浸けて置き、焼きながら頂きます。時といひ處といひ、ぢわ/\と焼ける香りといひ、原始的なうちに何ともいへない味があつたと申します。   以上 (松岡久子)


(2)

羊肉もよいが
 臭味が嫌や
  牛肉より滋養分が多い
   臭味は消えますよ

<略>羊肉の香は体表部の方が比較的強いからなるべく皮下筋や厚い脂肪の外皮を取り除いたところをおもとめになること、また羊肉の脂肪は冷めるとすぐかたまつてしまひますから温い中に召し上ることです、それで羊肉は高熱で手早く調理するといふことの条件になるので、直接炭火にかざし、またはテンピを使ふか、油であげるとかして臭気をけしますと割合短時間に料理され、味や栄養上の損耗が少くなり、いくぶんこげ気味のところで歯当りもよくなります、なほ野菜や香料を使つて香を消すことも出来ます、これはシヨウガとネギ、セリ、ウド、ミツバ、ゴボウの類、つまり香の高い野菜を取合せて汁物、和へ物にするのです調味料としてはサンシヨ、ガラシ、七色唐ガラシ、コシヨウを使へばよろしいのです

   羊肉の網焼(五人前)
 【材料】羊肉百匁、みりん一勺
  塩小匙一杯、醤油二勺、七色少
  少
 【方法】 羊肉を一分位の厚さ
に切り、味淋と醤油の中に十分位
漬けサンシヨと塩とを撒いてよく
焼けた金網の上で両面を焼きます
焼く時に松葉か、松笠を火の間に
おき多少この煙の出るような所で
焼けば一そう風味を増します、こ
の料理は肉の薄い部分を利用すれ
ばよいので決してロースを使う必
要はありません、複雑な香を好む
人にはセルリーを少し切つて肉と
一緒に浸してしおけばよいのです


(3)

 ロ、成吉思汗鍋(烤羊肉(カウヤンロー)
          (支那料理)

材料 (五人前)
 羊肉(肩又は股肉)約百五十匁
 醤油          五勺
 食塩          少量
 酒(日本酒又は老酒(ラオチユー))  二勺
 晒し葱        盃一杯
 七味唐辛子       少量
 味の素         少々
 胡麻油         一勺

準備
 丼の中に、醤油、酒、七味唐辛子、味
 の素及び葉葱を木口切りにして、布巾
 に包んで、よく揉み、其のまゝ水で晒
 らし更に其の水を絞つたものを入れて
 薬味を作リ、其の中に鋤き焼肉のやう
 に薄く切つた、羊肉を約十分間浸して
 おきます。
方法
 羊肉を浸して居る間に、一方では七輪
 に炭火をおこして食卓に載せ、火が落
 ちついて來ましたら、金綱をかけて、
 肉が焦げつかぬように、其の上に胡麻
 油を塗つて、箸で肉を廣げつゝ、金網
 に載せ肉の周囲の縁が色褪せて来まし
 たら、裏返して焼きあげ、すぐ其のま
 ゝ熱いところを召し上ります。
注意
 焼き肉を、度々裏返して、焼きますと
 切角美味しい汁が、火の中に落ちて、
 味が底下します。附け燵きのように、
 度々浸け汁をかける事も、禁物です。
 浸け汁が、甘いようでしたら、食塩で
 加減いたします。
 又浸け汁り中に、味淋や砂糖を入れま
 すと、反つて味が濃くなりますから、
 羊肉のお料理には砂糖を用ひない方が
 悧巧なやり方です。これは、一名成吉
 思汗鍋(本名烤羊肉)と称して、有名
 な北京料理であります。これが少し凝
 て参りますと専用の金網を用ひ炭火の
 中に川柳又は青松葉などを、時々さし
 入れて、其の煙で肉を燻しますと、一
 段の風味を添へます。又胡麻油の代り
 に小蟹の油を塗りますと、本来の料理
 となる訳ですが、以上申しあげた方法
 で、羊肉の本味に変りはありません。
 七輪を囲んで、一家団欒のお料理とし
 て、趣味の上からも、栄養の上からも
 誠に結構な召し上り方です。

  

参考文献
上記(20)の出典は大日本雄弁会講談社編「婦人倶楽部」14巻11号附録「家庭向支那料理三百種」扉(49ページ)、昭和8年11月、大日本雄弁会講談社=原本、 (21)と資料その9は同147ページ、同、 (22)は主婦之友社編「主婦之友」18巻5号附録「栄養料理の作方」55ページ、昭和9年5月、主婦之友社=原本、 (23)は糧友会編「農村食生活指導パンフレツト第十四輯(緬羊の飼方及び羊肉調理法)」27ページ、満田百二「羊肉家庭料理」より、昭和11年7月、糧友会=原本、 資料その10(2)は同27ページ、 同(1)は婦人之友社編「婦人之友」26巻12号178ページ、昭和8年12月、婦人之友社=館内限定近デジ本、 同(2)は昭和9年3月30日付中外商業新報朝刊9面=マイクロフィルム、 (24)と(25)と(26)は昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面、里見ク「満支一見」66回より、同


 次の資料その11(1)は、料理研究家、登山家として売れっ子だった黒田初子が朝日新聞に書いた作り方です。黒田は大正12年、東京女子高等師範家事科卒で、一戸伊勢子から支那料理と栄養学を学んだそうです。(27)女流登山家としても知られた人ですが、料理の本も沢山書いてます。昭和11年はまだ国産、舶来とも鍋が手に入りにくかったので、「鉄板か鉄網」で焼くように教えています。
 その(2)は東京日日新聞、いまの毎日新聞に掲載されたバーベキューの勧めともいえる画期的な記事です。記事の区切りの飾りの位置は正しいのですが、紙面通り再現できそうもない形なので、私が見繕った飾りです。
 筆者の上島岩子は日本女子大出身の料理研究家で、濱の家の富山栄太郎さんと一緒に東京料理学校の講師を勤めていました。ここで書いている「道具」は濱の家の鍋の倍ぐらいの大きさなので、だれか支那通といわれた人から聞いたか本で読んだ道具だと思われます。
 同(3)は「婦人商売往来」という女性に適した商売を始めるよう勧める連載記事の1つです。この1月前に「まだ東京に三、四軒出来ただけ」と「ホット・ドッグ屋」開業を勧める記事がありましてね(28)、肉を扱うという共通点があるので、同(2)の記事を忘れないうちにと追いかけて取り上げたのでしょう。昭和11年は東京の高円寺で成吉思荘が開店した年で、女中さんが1枚ずつ肉を焼いては客に勧めていたそうですが、そうしたハイクラスのジンギスカン料理店ではなくて、焼鳥屋並みにぐっと砕けたジンギスカン店作りを狙っています。
 大勢の読者の中には、こうした記事を読んでやる気を起こす人もいたらしい。3月後に「座敷女中 開店急募/特殊料理ヂンギスカン焼十七八歳[より]/廿五歳迄素人も可本人来談正/午ゟ四時日本橋濱町明治座裏 大藤(29)」という小さい広告を出した人は、そういう人だったかも知れません。
 同(4)は満洲は大連で発行されていた「新天地」という雑誌からです。満鉄は満洲国内の主要都市でヤマトホテルを経営し、そこの地名と組み合わせた名前にしていました。大連ヤマトホテルは夏目漱石が学友中村是公が満鉄総裁のとき招かれて泊ったホテルです。大連ではこのヤマトホテルなどで中秋の名月の夜、ジンギスカン料理を食べながら満月を見る会を開くの慣例になっていました。この鷲田のレシピに続いて、大連と星ケ浦と旅順の3つのヤマトホテルを掛け持つ支配人として活躍した田中芬が、大連ヤマトホテルの料理研究について書いています。
 それからね、この「新天地」が出たのと同じ昭和11年10月に満洲日日新聞が「卓上探秋」という題名で秋の味覚たっぷりの料理を紹介しています。その1回目がジンギスカン鍋で、星が浦ヤマトホテル浜田氏談となっていますが、そのたれの作り方、滷蝦油、照興酒、支那醤油などを混ぜ一度煮立ててるところはまったく同じなんだな。詳しくは大連のジンギスカン事情の講義録を見なさい。この滷蝦油はさっきの吉田レシピの虫篇にト油の本名です。
 また鷲田は「これにヂンギス力ン鍋と命名して」「代表的東洋料理として天下に売出すべしである。」と、まだジンギスカン鍋が知られていないような書き方ですが、鷲田がいた大連のある関東州と満洲では、もっと前からジンギスカンを食べていたんですから、これは内地の読者に向けたメッセージと解すべきでしょう。

資料その11
 (1)

 ジンギスカンなべ

ジンギスカン鍋には、ほんとは羊肉を用ひるのだが、しかし牛肉豚肉、鴨などの脂肪の多い肉なら出來る。鉄板か鉄網を熱し、あぶら身でよくふいて一切づつ焼きながら食べる。大根おろしに醤油をまぜた物を鉢に入れて各自で持ち、自分の食するだけを焼いてはおろし醤油をつけて食べるのである。
 小人数ならフライパンで結構。大人数で羊肉を用ひる時は、煙が室内にこもるから、風通しをよくする必要がある。【黒田初子】


 (2)

   一日に一度づつ
      お庭に出てお食事
        不思議においしい
 誂へ向きの/ジンギスカン料理<この行は次の前文にかぶせた横書きの見出し>

何でもない事ですが、お料理は野外で食べると不思議においしい、ハイキングなどでお弁当が足りなくなつた経験は、どなたもあるでせう、そこで一日一回は『お庭でお食事』なさることを提唱したい家の中からちよつと出たばかりでハイキングのお弁当ぐらゐのおいしさは保証します、まだ寒くないので夜のお食事もできます、明月をあふいでのお食事など趣味的でもあり、家庭生活に面白いヴアラエテイを與へます

お料理は何でもかまひませんが、 こゝに一つ変つたのをご紹介しませう、ご存じの方もあるでせうが、例の「ジンギスカン料理」です、これは蒙古風の一種のすき焼で、英雄ジンギスカンが征旅の幕営で、楯の上で焼いたと伝へられてゐます
   ))
       ((
たゞ今使はれてゐる道具は、直径四尺高さ三尺五寸位、半円の傘型の鉄の太い網で、蒙古の農夫がすきで焼いてゐたのから転じたといはれる大陸的なものです、これを家庭的に変形したのを、お庭で楽しみたいといふのです
   ))
       ((
まづ、鉄の串または普通のスキヤキ鍋と、牛肉を用意します、牛肉の厚さはビフテキ用より少し薄いくらゐが適当です、次にお庭で炭火を起すのです、七輪を使ふのが簡単ですが、地面に穴をあけて灰を入れ、その中で炭火を起すほうが、原始的な味があります
   ))
       ((
料理法は簡単至極のもの、他に用意したお醤油六分、味醂四分のお汁の中に肉を浸し、それを太い串や鍋の上でヂリ/\と焼き、お汁につけて食べるのです、お汁のなかにニンニクをおろし、七味唐辛子をあしらつて風味を添へます、もしお手もとにあつたら、ブドウ酒を少々たらしたら一層味がよくなります、何ともいへぬ原始的なおいしい味が、お庭の気分と秋の月ととけ合つて愉快な一夕がすごせます
   ))   
       ((
この料理は味がとても淡白なのでいくらでもめしあがれます、たゞおなかをこはさぬご用心だけはなさいませ(上島岩子)


 (3)

婦人商売往来

  マトン料理の店
   近頃はやつて来た羊の焼肉
     一、二軒出來ただけ

 マトン料理の専門店が、最近東京に一−二軒姿を現してゐます、現在営業してゐる専門店は、高級に属する方ですが、これをもつとぐつと砕けてこざつぱりとした、明るい、値段も大衆的にした店を開業すると、面白いのではないかと思はれます

 マトン料理  といふのは、例のヂンギスカン料理のことで、主材料は緬羊肉です、これに玉葱などの輪切りにしたものをあしらひます、季節によつてはマツダケだとかその他のものを取り合せて料理するのも面白い、やり方は特殊な鍋を火にかけて熱を通し、熱して来たところで、肉脂で十分に油掃きをして、厚切りにした緬羊肉をのせ、約七分通り火の通つたところで裏をかへし、ちよつと焙つた程度で、調味したネギ醤油等にひたして食べるといつた原始的の調理法ですが

 そこにまた  何ともいへぬ風雅な趣ぎがあり、味も独特であるヂンギスカン料理といふのは、往古アジアの驍将ヂンギスカンが、遠征の野戦料理として羊を屠つて調理したのが起源だと伝へられてゐるものですが、従来広くこの料理をするところがないだけに、都会人には迎へられるものと思はれます
この店をはじめるには、手軽く食べられることを主眼に、椅子、テーブルを設備したものゝ方がよいやうである、出來れば店内を二つに一方はテーブルで、一方はお座敷といつたのもよいであらう

 装飾看板は  簡素なのがのぞましい、場所は盛り場が第一である、銀座、新宿、渋谷など結構に思へる、それも表通りよりも少し横へ入るか、裏通りが適当であらう、お客の対象はサラリーマンに置くが、家族づれも考慮する、材料の緬羊肉は、今日これ専門のと ころがあるし、また鍋も特殊なこれ専用のものがある、しかし自分でこの方は何か考案をめぐらすのも面白い、焼肉が主であるが、このほかに酒も置く、高粱酒など適当である、現在営業してゐる店では支那料理もやつてゐるやうだがむしろ焼肉一手で押して行つた方が賢明であらう、あまり世間ずれのしない女中さんを二、三人、これは必要である、資本はその

 開業場所に  よつて、権利その他が高いので一様にはいへないが店内の新設備だけで、三百圓もかければ十分であらう、利益は売値との関係があるので明示出來ないが、牛鍋なみと思へばまづ大差あるまい
なほ店内の構造は煙がさかんに立ちのぼるので排氣設備をして置くと大変衛生的です


 (4)

  成吉斯汗鍋
          鷲田稻作

 ヂンギスカン鍋! 秋の味覚を唆ると共にその響は男性的、回顧的で、およそこれ位東洋人の趣味を象徴する御馳走はあるまい。<略>
 ヂンギスカン鍋、(チヨンギスカン料理)といつては固より漢人や満蒙人には通じない、本名は「烤羊肉(カオヤンロー)」。かうなつたら全く支那臭くて平凡化して了まう。この料理は蒙古が本場で満漢人間に拡まつたものだから、其間に人様々の嗜好や材料の関係上幾多の変遷を経で今日に至つたものであらう。これにヂンギス力ン鍋と命名して英雄崇拝の本音を吹いた日本人は須らく腦味噌を絞つて、これを大成し、代表的東洋料理として天下に売出すべしである。

   調理法(大連ヤマトホテル)
 一、席   野天
 一、原料  羊肉(一説には羊の後肢のみに限られ脂肉三四分程度のものを
       以て最も美味となすと云はれて居る。)
 一、調味料 紹興酒、蝦油或は蟹油、醤油、分葱、芹菜(支那セロリー)或
       は葱(蒜、蕃蒜等を加味することもある。)紹興酒と蝦油又は
       蟹油は予め之を適宜混合し十五分乃至二十分緩煮した上冷却さ
       せ置く。
 一、添食物 糖蒜(ニンニク砂糖漬)毒を消し消化を助くと云ふ。
 一、用具  鍋を裏返しにした様な鐵串鍋、箸―竹製(長さ二尺以上)
       儀礼的の際には腰に細身の小刀を垂らし烤肉を切るに使
       用する。
 一、燃料  薪炭共に特に樹脂多きものを用ゐる。北平に於ては松材を使用
       する。松の根炭最も佳と称せられる。一説には牛馬糞の乾燥せ
       るものを最とすると云ふ。蓋し肉に移る薫味に、他の燃料の追
       随を許さぬものがあるとのことである。
 一、喰べ方 鍋に火を拵へ鐵串鍋で覆ひ其の鐵串の熱するを待つて先の脂肪
       を其の面に塗り置き一方ソース(前記蝦油又は蟹油と紹興酒と
       を混合したるもの)に醤油を加へ嗜好によつては芹菜又は葱の
       きざみたるものを入れ主客自ら之に羊肉を浸し其の鐵串の上で
       裏表を返しながら焼いて喰べる。半焼程度が味の大乗と云ふこ
       とである
 一、酒   酒は焼酎即ち上等の高粱酒が古くより用ゐられ最も可とされて
       居る。

  

参考文献
上記(27)の出典は黒田初子著「お料理のレッスン七十年 ―私の好きなレシピ集」172ページ、平成8年7月、草思社=原本、 (28)は昭和11年11月14日付東京日日新聞夕刊6面「家庭」欄=マイクロフィルム、 (29)は昭和12年2月23日付東京日日新聞朝刊12面広告=同、 資料その11(1)は昭和11年2月20日付朝日新聞朝刊5面、家庭欄「一品料理」=同、 同(2)は同年11月9日付東京日日新聞朝刊5面「婦人と子供」欄=同、 同(3)は同年11月14日付東京日日新聞夕刊6面=同 同(4)は新天地社編「新天地」16巻10号100ページ、昭和11年10月、新天地社=館内限定近デジ本

 昭和12年に入るとジンギスカンという料理はかなり知られるようになったようで、資料その12(1)は昭和12年1月の読売新聞で見付けた兎のジンギスカンです。筆者の香川綾子は昭和11年2月から一戸伊勢子の後を引き継ぎ「一人前五銭から七銭位まで(五人前)、どこからも苦情の出ないやうにおいしく、榮養も十分(30)」な料理を読売の「今晩の献立」に発表していました。医学博士の香川はまた女子栄養大学の創設者で、構内に旦那と2人の胸像があります。余計なことだが、息子の1人は私と同期、農学部OBだよ。
 同(2)は畜産業者や農家向けの「畜産」4月号に「羊肉料理も大分流行して來た」という書き出しのレシピです。これは山田喜平さんが昭和12年4月、ほぼ同時に出した改訂4版の「緬羊と其飼ひ方」のレシピと比べてみると、いささか違いが認められます。喜平さんは蜜柑汁が1個分だし、砂糖10匁を入れるのに対して、こっちは蜜柑汁が3個分で砂糖は少量としている。それらのタレに喜平さんは30分浸すのに対して、こっちは10分と短いですね。
 これは山田以外にも肉を漬け置く汁にリンゴとミカンの果汁を加えることを見つけた人物がいたということであり、その果汁と鍋の使用を勧める点で、主流といえる糧友会のレシピより進んでいるので、婦人雑誌ではないけれども、特に紹介しておきます。
 それから肉は一人400グラムぐらいあっさり食べちゃうから、付け合わせと称しておるがね、ガサマシに野菜を食べさせるよう勧めている点でも、これは画期的なレシピなのです。「下手をすればすぐ失くなつて了ふから」という言い方がざっくばらんで、ほほえましいなあ。
 最後の「尚糧友會や松井肉店で作り出してゐる沈吉思汗鍋は他の肉料理にも極めて重寳であつて直火焼には持つてこいの器具だ。」という点にも注目しますね。糧友会は鍋を愛読者にプレゼントしたのは2年前、昭和10年だから、まあいいのですが、この時点でまだ松井肉店はジンギスカン鍋を売るという広告を「畜産」に出していなかったのです。
 ほかの何かに出したかも知れませんが、私が調べた限りでは、この「畜産」の6月号の「松井式 成吉思汗焼鍋」の広告が最初なのです。だから読者は「松井肉店で作り出してゐる沈吉思汗鍋」とはどんなものか、わからなかったと思いますね。その広告の内容などは成吉思荘の方で扱いますが、値段は焜炉と鍋の一式なら10円、鍋だけだと3円でした。
 別の講義でやりますが、昭和12年に道庁主催のジンギスカン試食会の会場になった狸小路のおでん屋、横綱はね、道内ジンギスカン店の元祖なんですが、店のメニューに取り入れてから、ずーっと付け合わせは葱だけでした。満洲時代の私の家でも、だれかにそう教わったと思うのですが、豚肉と葱だけでした。1回だけ食べたキジの肉は柔くて美味しかったと、妹はまだいいますがね。
 このころ塩や味噌、贅沢して塩辛なんかで飲むような酒飲みも多かったので、肴としては葱でよかったのでしょう。もやし、キャベツなどバラバラになる野菜も一緒に焼いて食べるようになったのは戦後ですよ。
 同(3)は前年開店した東京・高円寺の成吉思荘のレシピだと「糧食研究」6月号に掲載された記事ですが、まことに怪しい。講釈が長いが、羊肉食普及の必要性を読者と思われる食糧問題の研究者や専門家の理解をより深めるためでしょう。
 ずばり言えば、これは糧友会のレシピをベースにして松葉燻しも勧める山田喜平の果汁入りレシピに近い。ジンギスカン焼きだけでは続かないかも知れないから北京料理も出せるようにと雇った中国人コックが、濱の家かどこか先発のジンギスカン店を偵察してきて「旦那、あれはカオヤンローという料理です」と報告したという松井統治さんの話からしても、とても成吉思荘直伝とは思えません。
 同(4)は岡山県緬羊組合聯合会が出した「有望なる緬羊の飼育に就て」にあったレシピです。昭和16年という掲載年からすれば、もっと後ろに載せるべきものだが、畜産関係組織の出版物であり「特殊な成吉思汗鍋あり。無ければ線太の魚焼網でもよし」という言い方など同(2)の系統に属するレシピと認め、ここに入れました。大きな相違は、肉を割り下ベースの浸積液に付け、食べるときは別のタレを使うことです。
 でもね、素焼の割り下といわれても、このレシピの前にある「羊肉の素焼」じゃ、焼いた肉に醤油3勺を入れた大根卸を付けて食べよ―であり、割り下は使わない。急遽、素焼の割り下約一合五勺、270ミリリットルを作るとしても、この通り作り方抜きではお手上げだ。
 そもそも割り下とはなんぞや。羊肉料理を12種も載せた「家庭応用和洋料理法」の執筆者村井政善は、その中で「牛肉の煮乍らを食する場合にはぜひなくてはならぬ煮汁(だし)煮汁なれとも少し手数のかゝる故に之を用らる事甚だ少し」といい「牛のすき鍋」用として、大豆1合を水5合で煮て、煮汁が1合5勺になったら布で漉して酒4合、醤油1合、砂糖大匙3杯を入れて煮る割り下(31)を示しています。
 割り下の使い方だが、古川緑波の「ロッパ食談」に四谷見附の三河屋の例があります。彼にいわせると、三河屋では長方形の皿に肉を並べ「他と違ふのは、その皿の中に、牛肉の上に、タレがかけてあつたこと。タレと言つては間違ひ、ワリシタと呼ぶのが正しいさうだが、ま、何つちにしても、その汁がかけてあつて、女中が、その皿から、牛肉を鍋へ入れた後、皿に残つた汁を、鍋の中へあけてゐたのを覚へてゐる。」とね。
 さらに「皿の中の汁以外に、ワリシタを入れた器があり、それに秘伝ものゝワリシタが入つて」いて、ロッパは煮えた肉に「プーンと強い味淋の匂ひ」のするワリシタをつけて食べた。
(32)糧友会の初期のジンギスカンは肉のつけ汁を残して、薬味をいれてタレにしたあたり、どうもこのワリシタの使い方に通じるものがあります。
 でも、この(4)のジンギスカンの手本と思われる(2)にしても、あれこれ混ぜただけの汁であり、煮詰めて作る割り下ではない。なぜ素焼きの割り下なのか。私は筆者が単に割り下でよかったのに、ご丁寧に「すき焼の」と付けた。まずいことに、すき焼きと書いたつもりだったが、きが抜けていて原稿は「す焼の割下」となっていた。それで校正者が気を利かせて、すを漢字の素に書き換えたために、素焼き用という特製割り下を使うことになったという仮説を考えました。まあ、当時の人々は、肉の食べ方としては、焼き肉よりすき焼きを好んだということだ。
 ああ、それから村井の羊肉料理ですが、照り焼きがあるので、ジンギスカンライクなのかも知れんと、その項を見たら「之れも牛肉と同様なればその條参照ありたし。」でね。そっちを見たら薄切りの肉を1時間ぐらい醤油に浸し、金網で焼きながら1、2度醤油を付け、粉山椒を振り掛けて食べる(33)でした。
 昭和12年に戻すが、昭和10年に大連・星ケ浦ヤマトホテルの支配人田中芬、司厨長濱田喜介(34)のコンビがジンギスカンをホテルの名物料理に仕立てようとPRを始めていたので、その一度火を通すタレが伝わった可能性もあると思うのが、同(5)の昭和12年12月の函館新聞に載ったレシビです。
 資料その10(4)の「新天地」が出て1年後ですが、鷲田レシピと較べると、葱、ニラ、セリが肉を付ける漬け込み用のタレに入ってしまい、焼いてからつけるタレの味は「残りの醤油、味淋」のカクテルだ。試してないけど、これは濃いめの天つゆに近い味になるんじゃないかな。ともあれ、これが釣谷猛著「月寒十五年」にある醤油の生臭みを消すため、ちょっと火に掛けたタレを使う「月寒流成吉思汗鍋」(35)」の祖先とみられるのです。この記事及び月寒流成吉思汗鍋の「鍋」という呼び方も満洲レシピを見習ってのものと考えます。

資料その12


(1)  兎肉ぢんぎすかん焼

 ▼材料 兎肉百匁、葱六本ほど、 醤油、酒、胡椒、山椒。
▼作り方 兎肉はうすくへぎ切りとし、葱は六、七分の筒切りにします、器に酒三、醤油七の割に合せた浸汁を作り、胡椒と粉山椒をふりこみ、この中に兎と葱を浸し焼きながら頂きます。直火でやけば美味しいが、油をぬつたフライパンでやいてもよろしい。肉はやきすぎない内に、葱と合せて一緒に頂きます。羊肉の様にクセのあるものに適する頂き方ですが、今兎肉が安いですから之を用ひました。豚、牛等好みのものをお用ひになつて下さい。


(2)   成吉思汗鍋

 羊肉料理も大分流行して來た。殊に春秋庭先きでする成吉思汗鍋は風雅
なものだ。
〔材料〕羊肉(腿、肩肉)三百匁(一瓩位)
 汁……醤油一合、林檎汁一個分、酒五勺、蜜柑汁三箇分、砂糖、味の素少量
 薬品…ペセリー、生葱一本、生姜皮付十匁、ユヅの皮、以上を綺麗に微塵切
 りする。
〔方法〕汁を合せて之に薬味を混ぜ其の中に鋤焼の様に切つた羊肉を十分程浸
して置く、鍋を(特殊な成吉思汗鍋あり。無ければ線太の魚焼網でもよし)熱
くして此の上に胡麻油又は豚の脂肪を塗つて用意の肉を廣げ裏返して大抵焼け
た所を藥味の入つた汁につけて其の儘喰べる。
〔注意〕炭火の中に青松葉を落して燻し乍ら焼けば更に趣深い。
 尚羊肉は輕いから一人前百匁位平気で喰べられるし重苦しい様なこともな
い、下手をすればすぐ失くなつて了ふから、附合せとして葱や、椎茸等野菜物
を一緒に焼けば美味しく喰べられる。
 尚糧友會や松井肉店で作り出してゐる沈吉思汗鍋は他の肉料理にも極めて重
寳であつて直火焼には持つてこいの器具だ。


(3)
   羊肉料理

 羊毛国策の立場から農林省や軍部
では緬羊の飼育と共に羊肉の食用を
奨励して居るが、これは羊毛の収益
だけでは緬羊飼育の経営が困難であ
るため羊肉による収益の補ひによつ
てこの事業を確立せんとしてゐるも
のである。
 緬羊のわが国への輸入は明治五年
と言ふから既に六十五年を経過して
ゐるわけだが今迄この事業があまり
振はなかつたのは他にも色々理由は
あるだらうが、羊肉が一般に賞美さ
れなかつたのも大なる原因とされて
ゐる。牛肉にさへ簡単に食ひつかな
かつた日本人である。羊肉も又長い
間その食はず嫌ひに逢つてゐたので
ある。ところが時勢であらう。最近
では日本人の嗜好に合つて來たのか
イ力もの食ひの域を脱して盛んに羊
肉が食用される様になつて來た。昨
年あたりから東京市内には羊肉料理
を特別に食はせる肉屋が三、四軒と
羊肉料理専門の店さへ出現するに至
つた。一般家庭で食用する迄には未
だ行つてゐない様であるが、間もな
く普及されることゝ思ふ。
 次に羊肉料理専門店高円寺の成吉
思荘で聞いた羊肉料理を次に紹介し
よう。羊肉料理の代表とも言ふべき
成吉思汗鍋は成吉思汗が大軍を統い
て満蒙を征服した際、將士をねぎら
うため羊を屠り兜を火にかざして肉
を焙り食した野戦料理を模したもの
で分厚い鉄兜に縦に数條の穴をあけ
た恰好の特製焼鍋を普通の鍋のかけ
方とは反対に底を上になした方法で
火にかけ、その上に油をひきスキ焼
の肉の様に切つた羊肉をのせて焙り
多様の薬味を混ぜた汁につけて食す
るのである。柔かくてサツパリした
美味しいものである。極めて簡単な
料理だが汁と薬味の作り方に秘訣が
あるそうで、汁は果汁を用ひる所に
特徴があるらしい。之がよく羊肉に
調和して美味を醸し出すのである。
その普通の造り方は後述の通りであ
る。焼方はスキ焼と同じ要領で、ト
ロ火にかけ半面を七分、裏面を三分
と言ふ程度が一番美味しい。尤も焼
く時の方法に肉をはじめ汁に十分に
浸してから焼くのとそのまゝで焼く
のと二種あるが、之れは何れでもよ
く、各々特別の味を持つてゐる。
 なほ現在羊肉は福島、長野、宮城
の各県から東京赤坂の松井肉店が一
手に引き受けて販売してゐるが、小
売値段は百匁一圓五十銭から一圓前
後である。
 料理法は左の如し。

  成吉思汗鍋
材料
 羊肉(腿、肩肉)三百匁(一瓩位)
五人前
 汁 醤油一合、林檎汁一個分、酒
   五勺。蜜柑汁三箇分、砂糖、
   味の素少量。
 薬味 パセリー、生葱一本、生姜
   皮付十匁、ユヅの皮、以上を
   綺麗に微塵切りする。
方法
 汁を合せて之に藥味を混ぜ其の中
に鋤焼の様に切つた羊肉を十分程浸
して置き、鍋を(特殊な成吉思汗鍋
あり無ければ線太の魚焼網でもよ
い)熱くして此の上に胡椒油又は豚
の脂肪を塗つて用意の肉を広げ裏返
して大抵焼けた所を藥味の入つた汁
につけて其の儘食べる。
(注意)炭火の中に青松葉を落し
 て燻し乍ら焼けば更に趣が
 深い。

 マトン、チヤツプ<略>
 炒羊肉絲<略>
 マトンスチウ<略>


(4) 羊肉 <略> 羊肉料理の簡単なものを二・三種掲げて見る。(料理は一品五人前)
◎羊肉の素焼 <略>
◎羊肉の網焼 <略>
◎マトンチヤツプ<略>
◎成吉思汗料理
(材料)羊肉(腿・肩肉)四百匁。
浸積液 一、素焼の割下 約一合五勺 二、生姜 約八匁 三、玉葱 約八匁
    四、味淋と醤油 若干 五、七色蕃椒 若干 
タレ  一、日本酒 約二合五勺 二、醤油 約五勺 三、苹果搾汁 約二勺半
    四、蜜柑又は橙搾汁 二ケ分 五、味の素 若干 六、砂糖 コーヒー匙
      一杯
薬味  一、日本葱 一本 二、柚 一個分 三、パーセリー 十本
    四、ニンニク 半ケ分 五、生姜 十匁
(方法)右の浸積液に鋤焼の様に切つた羊肉を焼く二−三時間前に浸して置く、鍋(特殊な成吉思汗鍋あるも無ければ線太の魚焼網でもよい)を熱くして此の上に胡麻油を塗つて用意の肉を広げ裏返して大抵焼けた所を薬味の入つた汁につけて其の儘食べる。
(注意)炭火の中に青松葉を落して燻しながら焼けば更に趣深いものである。


(5) 羊肉
     美味しい喰べ方
    北海道緬羊組合聯合會談
(上)     
 寒さもいよ/\本格的となつて
 人々の食欲はだん/\肉類へ向
 ふ様になりました、この秋に當
 り北海道緬羊組合聯合會では本
 月の二十日頃から札幌(グラン
 ドホテル、丸井食堂)小樽(杉
 田肉店)函館(肉商組合)旭川
 (三光舎肉店)で羊肉を売出し
 て大いに皆さんに召上つて戴か
 うとして居ります、羊肉の美味
 しいことは既に羊頭を掲げて狗
 肉を売るという言葉のあること
 を以ても知ることが出来まする
 が又羊肉は洋食によし支那料理
 によし、スキ焼にも結構而もそ
 の味は淡白で繊維は柔らかで消
 化はよく病人にも、老人子供に
 も向くといふ具合で英国で食肉
 の王と称へられて珍重がられる
 のも宣なるかなと思はれます
然るに往々にして羊肉は臭いなど
といつて毛嫌ひする向があります
がそれは真に羊肉を知らない人の
いふことで一度羊肉になれて来た
ら羊肉でなくてはならぬといふよ
うになり又香気をも賞味するよう
になります、それを今頃羊肉が臭
いなどといふようでは食肉人とし
てほんとおはづかしい次第ではな
いかと存じます
 それに又近頃では本道農家の緬
 羊飼育技術も大いに進歩して來
 まして肥育なども大変上手にな
 つて来ましたので昔の様な臭気
 は全くなくなつてほんとに美味
 しく戴ける様になりました、今
 度各都市で皆さんに差上げるも
 のもきつとお賞めを戴くことの
 出来る立派なものばかりだと存
 じます、どうか充分に召し上つ
 て一日も早く我羊肉党になつて
 頂きたいと存ずるのであります
そして又羊肉を沢山召上つていた
だくといふことが引いては本道の
緬羊奨励ともなり又軍需品として
需要な位置にある羊毛の増産奨励
ともなるわけでありまするから羊
肉愛用をおすゝめすると共に皆さ
んの愛国心に訴へて緬羊国策遂行
に向つて賛助を望む次第ぶありま
すそこで羊肉はどうして喰つたら
羊肉の真価を尤もよく発揮しかつ
又尤もおいしく喰べられるかとい
ふことになりますが以下少しく羊
肉をおいしくいただくことの出来
る簡単な料理数種について述べて
見たいと存じます
一、成吉思汗鍋 は世界でも味で
誇る支那料理の粋たるもので羊肉
を味はんとする大方諸彦に先づお
すゝめするめずらしくも亦美味で
しかも極めて簡単に出来る料理で
ある抑もこの成吉思汗鍋は皇紀一
千八百年代の中葉に蒙古の一大英
雄『成吉思汗』が歳四十四で白馬に
鞭うち蒙古の大軍を叱咤し満蒙の
地から西へ/\と進み中央亜細亜
の諸国を席捲し欧州の中原を風靡
した時部下の将兵と共にかの高粱
酒をかたむけながら至る所に飼は
れてゐる羊を屠つて盾を焼きその
肉をあぶり舌つづみをうちながら
今日の勝を誇り明日の策をねつた
といふことに由来してをり名も何
時した成吉思汗料理ととなへらる
るに至つたとのことである
材料 羊肉一〇〇匁、醤油三勺、
 味淋三勺、ネギ、セリ、シヨウ
 ガ、ニラ、唐辛等少々
方法 羊肉を漬ける「タレ」は醤油
 味淋各二勺宛にネギ、セリ、ニ
 ラ、シヨウガ、唐辛等を細かく
 乱切にしたものを好みの量だけ
 入れて作る、羊肉は二分位の厚
 さでなるべく大きく切りこれを
 前の液の中に三四十分間漬けて
 置く、別に残りの醤油、味淋を
 まぜ適當に割つて煮沸して「タ
 レ」を作つて置き、先に「タレ」
 に漬けて置いた羊肉を金網の上
 で強火で焙り別の「タレ」をつけ
 て喰べる、この際金網の下に日
 本松の葉を燻すべて焙れば亦格
 別の風味を添へる

  

参考文献
上記(30)と資料その12(1)の出典は昭和12年1月22日付読売新聞朝刊9面=マイクロフィルム、 同(2)は中央畜産會編「畜産」23巻4号97ページ、「肉の料理」より、昭和12年4月、中央畜産會=原本、 同(3)は糧食研究会編「糧食研究」131号47ページ、「羊肉料理」より、昭和12年6月、糧食研究会=館内限定近デジ本、 同(4)は岡山県緬羊組合聯合会編「有望なる緬羊の飼育に就て」47ページ、昭和14年1月、岡山県緬羊組合聯合会=近デジ本、 同(5)は昭和12年12月21日付函館新聞朝刊4面=マイクロフィルム、 (31)は村井政善著「家庭応用和洋料理法」219ページ、「わりしたの拵へ方」より、大正11年3月、東京宝文館=原本、(33)は同220ページ、同、 (32)は古川緑波著「ロッパ食談」151ページ、「牛鍋からすき焼へI」より、昭和30年7月、創元社=原本、 (34)はは昭和10年9月8日付満洲日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (35)は釣谷猛著「月寒十五年」165ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本

 「主婦之友」昭和12年5月号にはジンギスカンではありませんが、羊肉料理の記事があります。駐日英国大使館の加藤コック長が代表的な英国料理としてラム・チョップ・ウィズ・グリンピースを取り上げ「英国では、昔から羊肉を珍重して、いろ/\に料理されてゐるやうです。日本でも、この頃は羊毛の関係もあつて頂くやうになりましたが、滋養も充分あり、消化は他の肉よりよいくらゐです(36)」と書いています。単に「羊毛の関係もあって」ではなくて「羊毛増産という国策の関係もあって」だったのですがね。
 さらに「日本では、羊肉の臭みを嫌ふ方があるかも知れませんが、サラダ油に浸けてから焼けば、その心配はありません(37)」とも書いています。プロがいうのだから信用しますが、もし、サラダオイルが臭み消しに利くと早くからわかっていたら、ジンギスカンはどうなっていたかねえ。はっはっは。
 一方、羊肉食普及運動の旗頭をもって任じてきた糧友会は、機関誌「糧友」の昭和12年8月号から附録「羊新聞」を作り始めました。そのきっかけは6月9日農林省の細川畜産局長たちが糧友会を訪れて「羊肉普及具体策に関し研究懇談(38)」したことです。それで糧友会は6月21日「緬羊国策達成側面支援のため緬羊飼育奨励羊肉食普及の機関誌(菊版十六頁)を本会より刊行することを決議し、糧友八月号以降毎号附録としてこれを添付頒布することになつた。(39)」と素早く実行に移しています。それだけ緬羊関係は重要かつ切実な問題になっていたのです。
 附録といっても婦人雑誌の附録のように別冊ではなくて、本誌に綴じ込んだものでね、緬羊増殖にウエートが置かれてますが、料理もちょっぴりあります。「羊新聞」のページ数をみると、8月号の1号は発刊の辞などで豪華24ページ。2号から4号までは決定通り16ページでしたが、12月号の5号は12ページと減り、昭和13年正月号の6号はたったの2ページと減り、13年10月号の15号から後は見当たらない。まさに竜頭蛇尾でした。
 資料その13(1)と同(2)は「羊新聞」の発刊の辞と羊新聞に掲載された記事からです。「緬羊の綜合的経済的価値の向上をはかる」とは、緬羊を飼う農家の現金収入が羊毛と羊肉の2本立てになるように―ということね。12巻8号の「編輯後記」でも「◇本号より『羊新聞』を第二附録として添へる。国策達成理解のため愛読を乞ふ。(40)」とありますが、たとえ臭いと思っても羊肉を食べることがお国のためになってきたことがわかりますかね。
 同(2)はマトン料理店開業を勧める東京日日の記事、資料その11(3)の焼き直しとみられます。いずれ生かそうと切り抜いておいたら「羊新聞」が始まり、日の目を見たってわけでしょう。「ですます」調が途中から「である」調になってますが、編集者は変だとは思わなかったのかと、東京日日を見たら、お手本がそうだったのには笑っちゃった。はっはっは。
 私が最も注目するのは「殊特なこの鍋も糧友會を初め二、三ケ所で売られてゐる。」という言い方です。「殊特」は誤植で正しくは「特殊」だが、これだと当時、糧友会でもジンギスカン鍋を売っていたみたいでしょう。糧友会が昭和10年に愛読者サービスとして特製の鍋をですよ、人数はわかりませんが、無料贈呈したことは事実なのですが、その後の紙面には鍋販売の広告、お知らせのたぐいは一切ないのです。私が研究を始めてから14年後の平成29年に「殊特なこの鍋」が見つかりましてね、講義録の目次の下でその写真を公開してますから見なさい。
 また「糧友」の昭和11年2月号に糧友会大阪支部嘱託の太田要次が書いた「温くて明朗な鍋物料理」の中の「成吉思汗鍋」でも「家庭でするにはこんろに糧友會特製の家庭成吉思汗鍋か、又は線の太い金網をのせ<略>(41)」とあります。太田は「糧友」の読者の一部は当然その特製鍋を持っているという想定で書いたのでしょうが、昭和11年は家庭でジンギスカンをやるとしたら「糧友会特製の家庭成吉思汗鍋」か、満洲または中国で買ってくる鍋しかなかったという私の仮説を裏付ける記事でもあるのです。鍋関連として同(4)として加えました。
 糧友会は食品保存壜はじめ独自の器具、食品類を通信販売しており、その広告は毎号掲載されていますが、ジンギスカン鍋は現れません。もしかすると、陸軍内部で鍋分譲の希望者が続出したため、間欠的に鋳物工場に発注して作らせていたのを販売していると誤解したのかも知れませんがね、その辺はまったくわかっておりません。
 資料その13(3)は、すぐ上の同(2)のマトン料理店の記事掲載をね、自画自賛した編集後記です。  その次の同(5)は、糧秣本廠にいて糧友会委員だった川島四郎の談話速記です。北京で調べたら、こういう結論に達したというわけではなく、在住邦人命名説は百も承知で、向こうは商売上手なんだから、こういう経緯もあり得るといっただけで、ずっと前に話した中川兵三郎の「日本人の嗜好に投じ甚吉斯汗料理と称して居る。(42)」という見方と同じですね。

資料その13

   (1)   発刊の辞

    羊毛資源の涵養は、産業上、国
   防上重大なる開係をもつものであ
   り、緬羊國策の達成は目下緊急を
   要する政策である。しかし、これ
   が目的達成に、緬羊の綜合的経済
   的価値の向上をはかることによつ
   てのみ達せられる。
    然してこれがため本会は多年羊
   肉の消費普及に努力して來たとこ
   ろであつて、相當効果をおさめた
   ことは一般に認められたところで
   あるが、今や時代の要望にもとづ
   き政府は本年より緬羊増殖につい
   て劃期的施設か、樹立するに至つ
   たのに呼応して、緬羊の綜合的経
   済的価値を高めんとして緬羊の飼
   育、取引、處理、羊肉の利用其他
   緬羊に關する一切の事項を掲げ、
   以つて緬羊に關する人人の機關誌
   たらんことを期し、ここにこれを
   発刊する次第である。


(2)  婦人で出來る
       マトン料哩の店
         近頃流行の羊の焼肉

 マトン(羊のこと)料理があちらでもこちらでもやる様になつて來ました。然し現在営業してゐる店は大抵高級に属する方ですが、これをもつとグット砕けてこざつぱりとした明るい、値段も大衆的にした店を開業すると面白いのではないかと思はれます。
 マトン料理といつてもいろいろありますが、この様な店で行ふのにはジンギスカン料理が、一番よろしい。これは「すき焼」に一寸似た料理で、羊肉の他に玉葱などの輪切りにしたものをあしらひます。季節によつて松茸だとか、いろいろの蔬菜をあしらひます。
 太い角形の鐵棒で作つたジンギスカン鍋――この鍋は水がもるのですから鍋といふよりもむしろジンギスカン網といつた方が適當ですが、とにかくこの特殊の鍋を火にかけて熱を通し、熱して來たところで、肉脂で十分油ふきをして、厚切りにした緬羊肉をのせ約七分通り火の通つたところで裏がへし、ちよつと焙つた程度で、醤油、味醂、味の素などで調味した「わりした」に浸して食べるといつた原始的調理法ですが、そこにまた何ともいへぬ風雅な趣きがあり、 味も独得です。
 まだ広くこの料理を食べさすところがないだけに都会人に迎へられることと思ふ。
 現在あるところは高級で、独身サラリーマンが一寸夕食をといつて手輕にオデン屋へ入れる様に安直に食べにゆけない。それでこの店をはじめるには手輕く食べられることを主眼に、椅子、テーブルを設備したものの方がよいやうである。出來れば店内を二つに、一方はテーブルで、一方はお座敷といつたのもよいであらう。
 装飾看板は簡素なのが望ましく、質實剛健の氣風を作るのがよい様に思ふ。
 場所は何といつても盛り場が第一である。銀座、新宿、澁谷などが結構。
 店の場所は表通りよりも少し横に入るか、裏通りが適當である。
 お客の対象をどこにおくかが営業の最も大なるものであるが、それはサラリーマンがよく、独身ものも家族づれも行ける様に考慮することが必要である。
 材料の緬羊肉は、前月號に、紹介した様に専門店があり、そこへ註文すれば品切のおそれはない。また殊特なこの鍋も糧友會を初め二、三ケ所で売られてゐる。
 焼肉が主であるが、お酒と高梁酒位はぜひおかねばならない。他にいろいろの料理を出すことが考へられるが、むしろジンギスカン料理一手で押してゆき店の特色を出すのがよい様に思ふ。そしてあまり世間ずれのしない女中さんを二、三人おくことが大切である。
 資本は開業場所によつて権利その他が高いので一様にいへないが、店の改造費は除き店内の新設備だけで、三百圓もかければ十分であらう。利益はどれ位かといへばまず牛鍋なみと思へばよからう。なほこの料理は直火で肉を焼き煙が盛んにたちのぼるので、店の排氣設備を充分しておくことが大切である。


(3) 羊新聞編輯室

<略>
 寒くなると、肉料理が恋しく
なる。おでん屋式で、緬羊料理
――特にジンギスカン焼を食べ
さす店を始めたらさぞ繁昌する
だらうと思つてゐる。
 どの商売でも目先を変へて新
しみを出さなければ駄目である
といはれてゐるが、銀座裏でジ
ンギスカン焼を手軽に食べさす
のなんか、なかなか目先が変つ
たものであるといつてよい。
<略>


 (4) (五)成吉思汗鍋

 成吉思汗鍋は蒙古特有の国王料理であると思はれて居る。蒙古地方は水が尠いので煮て食べる事が不目由なため自然焼いて食べると云ふ風に調理法が発達したと首肯の出來ない事もない。
 その仕方はかうである。可なり重い鐵製の炉用のものに炭火をたいてその上に戟剣防具の面に似た肋骨形になつた鐵器をかけて肉でも魚貝でも或は葱の様な野菜を適宜に切つて、其の上でジー/\と焼きながら四方から取つて割下に浸して食べる。すると手も足も身体全部が俄に暖り酒をあふつて炉辺の閑談に味楽出来ると云ふ誠に野趣に富んだ、流石に北満蒙古に於ける大陸的風丰と然も滋味津々として口腹の快味は又格別であります。家庭でするにはこんろに糧友會特製の家庭成吉思汗鍋か、又は線の太い金網をのせ少量の油で拭いてその上に魚貝鳥獣肉或は野菜をはりつけて焙きながら程よい割下につけて食れば簡単に出來ます。


(5)  羊肉食と蒙古人
              川島四郎(談)
<略>
    成吉思汗鍋

 近頃成吉思汗鍋がかなり行はれて來たが、この料理は如何にも成吉思汗がさういふものを食つてゐた様に思はれてゐるが、あれは支那人が勝手に付けた名前であつて、蒙古人は焼いて食つてゐない。あの様な羊の肉の食ひ方は北京あたりの支那人が商売上手に成吉思汗焼きなんかといつたのだと思ふ。決して蒙古の土人は生の肉を焼いて食ふことはしない。さうすると咽喉が渇く、水はないから――あつても僅かであるから、咽喉が渇くといふことは恐ろしいのである。であるからみな水炊である。
 猶蒙古人はこの様な羊肉食の他に乳と茶を盛んに飲む。(終)

  

参考文献
上記(36)と(37)の出典はは主婦之友社編「主婦之友」21巻5号462ページ、昭和12年5月、主婦之友社=原本、 (38)は糧友会編「糧友」12巻7号115ページ、「糧友時報七月号」、昭和12年8月、糧友会=原本、 (39)は同12巻8号122ページ、「糧友時報八月号」、昭和12年8月、同、 (40)は同128ページ、同、 (41)は糧友会編「糧友」11巻2号80ページ、太田要次「温くて明朗な鍋物料理」、昭和11年2月、糧友会=原本、 (42)は満蒙文化協会編「満蒙」51号103ページ、中川兵三郎「民国人の飲食料品」、大正13年10月、中央畜産会=原本 資料その13(1)は糧友会編「糧友」12巻8号ページ番号なし、昭和12年8月、糧友会=原本、 同(2)は同12巻11号附録「羊新聞」10ページ、昭和12年11月、糧友会=原本 同(3)は同15ページ、同、 同(4)は(40)に同じ、太田要次「温くて明朗な鍋物料理」、昭和11年2月、糧友会、同、 同(5)は同12巻11号10ページ、附録「羊新聞」、昭和12年11月、糧友会、同


 実は資料その13(5)の記事のすぐ前でね、川島は蒙古視察で蒙古の人々はなぜ羊肉の水炊きばっかり食べるのかと質問して、ギャフンと参ったことがあると話しているのです。蒙古でも地方によっては塩味を付けたりすることもあるらしいのですが、川島の失敗談を料理研究家の本山荻舟がちゃっかり「飲食事典」に使ってます。羊肉関連情報として両者のさわりを資料その13にしました。読み比べてください。

資料その14

(1) 川島 主食としての羊肉

<略> その大事な一つしかない食物である羊の肉をどんな風にして食つて居るかといふと必らず判で捺した様に水炊きである。決して味を付けない。明けてもくれても水炊きして食つてゐる。日本だと肉を見ると、直ぐすき焼きにしたり、コロツケにしたり、ビフテキにしたりして色々な味を附けてやるが、向ふは羊を水炊きして食つてゐる。
 最初行つた時何故さういふ風にするのか。私にはわからなかつた。私はいろいろの粉末調味料を持つてゐたから、蒙古人にこれと一緒に煮て食へといつた。悦んで食ふが、続けて使はぬ。何故お前達はそんな水臭い水炊きにするのかといふと、普通の蒙古人は自分でやつてゐることが説明出來ない。所が二回目に行つた時に話のわかる蒙古人に逢つた所、私の疑問に一言のもとに答へてくれた。
『あなたの國だつて味があるかないか分らぬあの米を水炊きにして毎日食つてゐるぢやないか』といつた。
 これには私はギヤフンと参つた次第である。
 主食といふものは毎日食ふものであるから、味をつけてはならぬといふことが蒙古人の食物をみて本當に分つた次第である。とにかく日本人は肉を見ると、それを副食の様に思つて惣菜として味を附けようとする。飽くまでも肉を副食と見てゐるからであつて、蒙古人の羊は我々の米と同じである。


(2) 本山 成吉思汗料理

 ジンギスカンりようり  成吉斯汗料理 羊肉の附焼で北京料理の烤羊肉(カオヤンロウ)。羊肉のすき身を調味醤油に浸し、長方形の火炉に剣道に用いる面の如き鉄桟をのせ、周囲に(トウ)(こしかけ)を据えて団欒し、各自長箸を用いて肉片をはさみ上げ、みずから火上に翳し炙って直食す野宴。火炉を露天に持出して松材を燃料とし、炉辺に片足をかけながら焼くのが方式だとて、羊肉を常食する蒙古の英雄は、陣中にあってかくもしたろうとの連想から、日本人の命名した原始料理風景で、燃料の不足な蒙古では乾燥馬糞を利用するのが本格だなどと称し、猟奇的興昧と本質の美昧とから、昭和七〜八年頃東京の各所に流行したが、これには示唆の深い挿話があって、同年代の満州事変後公用を帯びて、満州奥地から蒙古へ出張した軍の食糧研究家が、羊肉は蒙古人の主食だから、本場のいわゆるジンギスカン料理が飽食できるだろうと思いのほか、彼地ではなるほど羊肉は豊富だが、ただ石鍋の水煮で何らの副材料も調味料も加えず、無表情に貪食しているだけなので奇異を感じ、理由を尋ねても言語が不通のため要領を得ず、不本意のまま帰来して数年後、更に拡大した事変の勃発で再び蒙古入りをした際、案内者に地元の知識青年を得たのを幸い、実は指導の下心もあって以前の疑問を繰返したところ、相手はほがらかに快笑したという。「大人、何がそんなに不思議なのでしょうか、わたくしどもは羊が常食だから味をつけません、お国で主食される米だって、平素は水で煮るだけではありませんか」に、二の句が出なかったというのである。烤羊肉は北京で発達した嗜好料理であり、今日本に行われる狩場焼だの山料理だのと看板の主材料はちがっても、みなジンギスカン料理と同じく、原始への郷愁から生れた夢であることに変りはない。

 本山が、少しく脚色しているのがわかりますね。原文には石鍋、馬糞なんて出て来ません。あまた蒙古人の生活を書いた本がありますが、皆鉄鍋で煮ると書いており、石鍋を使うというのはこの本山本ぐらいではないでしょうか。
 また「飲食事典」に書く10年前、昭和23年の「月刊読売」に載っている「悪食座談会」でも本山はこれをネタにしています。その座談会は佐藤垢石、渋沢秀雄、石黒敬七、本山の5人によるもので、このときは、ある男とぼかして、2度目の蒙古訪問でインテリ青年に日本のスキ焼みたいに野菜を入れて味をつければ栄養価があると教えるつもりでいたが、青年に笑われた。『お国の主食は米でしよう、米に味をつけますか』とな。(43)」と語ったことになってます。
 兵士として蒙古にも駐在して事物を観察した昆虫学者、常木勝次の「戦線の博物学者」によれば、最高の燃料は羊の糞で馬糞は最低。ぽろぽろの羊糞でも「夜間羊を一ケ所に集めてをくと、彼等は排泄しては踏みつけるので、糞は次第に堆積して遂に堅い板状物となる。之を適宜の大いさに打割つて積上げてをくと、すつかり乾燥して煉瓦のやうに固くなり、その色と云ひ中に植物繊維の含まれてゐる点と云ひ、泥炭そつくりになる。羊糞が上等といふ訳は、火力強く火持よく、且臭気が少ないからである。(44)」とね。
 牛の糞は「秋から春迄の間に出來るのがよいので、夏の青い草を食ふ時は糞がべたついてゐて崩れてしまひ、燃料とはならない。牛糞は火力、火持共に羊糞に次ぐ。駱駝は大きな圖体をしながら、ボロ/\零す排泄物はまことに可愛らしい程小さいもので、人の母指頭大である。性質は羊のに似てゐるが、之は産出が少ないので重要ではない。馬のはボウ/\してゐて輕く、焚付には好適であるが、火持悪く火力も弱くて悪質である。その上アンモニアを含むこと割合に多いと見えて、刺すやうな悪臭さへ放つ。(45)」そうです。いくら濱町濱の家が北京から燃料まで取り寄せたにしても、羊糞や馬糞はなかったでしょう。
 昭和7年1月に大関武蔵山、大の里、関脇天龍ら力士32人が相撲協会の経営改革などを要求して東京市外大井町の支那料理店、春秋園に立てこもる事件が起きました。このとき春秋園にいる間に彼等は2回ジンギスカンを食べたことは以前の講義でやりましたね。殊に2回目は相撲協会に脱退届けを出したその晩、宴会場で2頭の緬羊をつぶしてそれでジンパをやり、気勢を上げたと報道され、東京では朝日、東京日日、都の3紙は円盤形UFOみたいに見える鍋を囲む力士たちの写真を掲載しました。
 私の調べではジンギスカンの鍋の写真が新聞に掲載されたのは、これが初めてです。当時まだ日本内地では鍋が作られておらず、この鍋は中国で買ってきた鍋に違いないのです。また糧友会は金網焼きなのに鍋羊肉という名前でジンギスカン料理を広めようとしたことは、とっくに話しましたね。力士団が春秋園を籠城本部にしたことから、この脱退事件は春秋園事件とも呼ばれるようになり、また巧みな宣伝も効いて春秋園は一躍名を知られるようになったんですなあ。
 それでだと思うのですが「婦人倶楽部」の昭和8年4月号の「東京名料理一百種の作り方公開」の中に帝都唯一、本場北京の味と文春に広告を出していた濱町濱の家でなく、春秋園のジンギスカンが選ばれ、挿絵付きでレシピが載ってます。多分書かせてもらえた―なんでしょうが、その記事のねらいと公開した作り方をスライドにしました。さっきもいったようにこの後「婦人倶楽部」11月号の付録「支那料理用語便覧その四」にも「大井春秋園吉田誠一先生」が執筆しており、ジンギスカンのレシピは春秋園が一手引き受けだったようです。

    東京名料理一百種の作り方公開

 大東京に料理屋の数は何万軒とありますが、どこの何が美味しいと二十軒も
挙げられる人は余程の食通です。こゝに掲げた料理は、十数名の知名の食通か
ら聞き出した名料理二百数十種の中から、実際に拵へてみて、家庭で容易に出
来て成る程美味しいといふものばかりです。


 酒の肴に喜ばれる気の利いたお料理

  白魚の桜漬
        日本橋 春日
  <材料、拵え方略>
  蠑螺の壺焼
        浅草公園 野田屋
  <材料、拵え方略>
        <数店略>
  成吉思汗料理
         大井 春秋園

 北平(ペーピン)に遊んだ通人はこの料理を大応賞味い
たします。これは、元の成吉思汗が陣中で兜
を脱いで、その上で焼きながら食べたと言ひ
伝へてゐますが、原始的な趣のある野外料
理です。
        

 <材料と拵え方は資料その15へ>

 「北平に遊んだ通人はこの料理を大応賞味いたします。」という書き出しは、春秋園の料理人吉田誠一がこの年の「料理の友」5月号に書いた「痛快無比 成吉思汗料理」の「成吉思汗料理と云へば北京に遊んだことのある人は」うんぬんを縮めたものでしょう。吉田は「料理の友」の昭和12年2月号の「成吉思汗鍋料理」では羊肉のほかに牛豚鶏鴨鯨鶏肝と6種のジンギスカンのレシピを書いています。ですから(1)の書き手は書き出しと肉の種類から見て、吉田誠一の可能性大です。
 はい、次のスライドは昭和13年の「婦人倶楽部」4月号からですが、七輪を置いた角度といい、テーブルと肉の皿といい、素人みたいな昭和8年の絵がきれいに描き直されていますね。いいですか、この四角い七輪に金網を掛けて肉を2切れ焼いている挿絵をよく見てください。七輪の縁に煉瓦みたいなものを置いて金網との間隔を広げてますね。金網の手前側に針金の取っ手がぶら下がっている。手前のテーブルの角が直角ではないことも覚え置いてくださいよ。
 この本は絵入りで魚の焼き方なども説明していますが、そうした色刷りページの挿絵では七輪は灰色にして、平たい石のようなものは煉瓦色なので、これは煉瓦なんでしょうね。縦に置いて網を掛け、遠火にする使い方も示しています。

    

 はい、スライドを差し替えました。こっちは白い紙だから、すぐ別の絵だとわかるでしょう。でも前の絵と違うところがわかりますか。絵全体が小さいほかは、七輪は四角だし、金網の間の煉瓦はあるし、煙の線の上がりぐあい、テーブルの角は直角じゃないところも同じだ。肉も2切れです。絵の下にかなり見えている作り方の説明の「本来は羊肉ですが、」という書き出しも同じです。
 ただ、よーく見比べると、肉片に対する箸先の位置、箸を持った右手首の曲げぐあいと小指、テーブルの足の付け根の構造、七輪の影など、似ているけれども違う。意識的に変えて、カーボンコピーじゃないよ、丸写しはしていないよといえるようにした絵だと思いますね。

   

 もしかすると、初版と再版の違いかと思う人がいるかも知れませんが、この2枚の絵はまったく違う本から写したものなのです。初めのスライドはもう一度いうけど「婦人倶楽部」昭和13年月号の附録「「春夏秋冬家庭料理大全集」にある絵です。後で見た絵は、その2年半後に出た「栄養料理の作り方」からです。絵だけでなく説明まで似ている本を堂々と出していたことがわかるよう資料その15に両者の作り方説明をまとめました。

資料その15

(1) 成吉思汗料理(ジンギスカンれうり)

 材料  本来は羊肉ですが、牛肉でも豚肉でも鯨肉でも結構です。酒、醤油、酢、葱又は大蒜(にんにく)、生姜。

 拵へ方 肉をなるべく薄く大きく切り、焼いても縮まないために、包丁の先で叩いて数ケ所に切目を入れ、これを強い炭火で焼きながら、酒、醤油、酢を等分に混ぜ、葱か大蒜、又は生姜のみぢん切を混ぜた付け汁をつけて頂きます。 「東京名料理一百種の作り方公開」


(2) 成吉思汗料理(ジンギスカンれうり)

 材料  本来は羊肉ですが牛肉でも豚肉でも鯨肉でも結構です。酒、醤油、酢、葱又は大蒜(にんにく)、生姜。

 拵へ方 (1)肉を二口か三口で食べられる位に切り、焼いても縮まないために、包丁の先で(おもて)とまはりに数ケ所切目を入れ、これを強い炭火で網焼きしながら、酒、醤油、酢を等分に混ぜ、葱か大蒜、又は生姜のみぢん切を混ぜた付け汁をつけて頂きます。 「婦人倶楽部」


(3) 成吉思汗焼(じんぎすかんやき)

 材料 本來は羊肉ですが、牛肉でも豚肉でもよい。五人前で百匁(三七五瓦)其他醤油、酢、葱、生姜。
 作り方 肉は二口か三口で食べられる位の大きさに切る。そして庖丁の先で(おもて)とまはりに数ケ所切目を入れてから、強い炭火で網焼きしながら、醤油、酒、酢を同量づつ混ぜ、それに葱と生姜の微塵切を混ぜた汁につけて食べる。(▲カロリー一人前で約二五二、蛋白質約一四グラム) 「栄養料理の作り方」

 「栄養料理の作り方」は、材料に大蒜、酒がないのに、作り方では酒も醤油、酢と「同量づつ」混ぜるようにと書いてあります。大蒜は嫌う人が多いから外したとしても、酒の方は「家庭料理大全集」を書き写すときに、落としたとしか考えられませんよね。
 それからまだ見る機会がないので当たってないけれど、webcatで検索すると、国民図書協会とは別の女子教育社という出版社が出した「18版(1947.3)による」という注付きの「栄養料理の作り方」が出てきます。こちらも昭和15年12月出版と同時らしいので、榮養と料理の會が同じ本を2つの出版社から出したか、2版以降は女子教育社から出版したのか、いずれ違いを調べるつもりです。札幌にいると、こういう本がすぐ見られなくて、ついつい研究が間延びしてしまうんだよね。

  

参考文献
上記資料その14(1)の出典は糧友会編「糧友」12巻11号附録「羊新聞」14ページ、川島四郎「羊肉食と蒙古人」より、昭和12年11月、糧友会=原本、 同(2)は本山荻舟著「飲食事典」299ページ、昭52年1月、平凡社=原本、初版1刷は昭和33年12月、 (43)は読売新聞社編「月刊読売」6巻11号30ページ、昭和23年11月、読売新聞社=マイクロフィッシュ、 (44)と(45)は常木勝次著「戦線の博物学者」405ページ、昭和17年9月、日本出版社=原本、 資料その14(1)は大日本雄弁会講談社編「婦人倶楽部」14巻4号478ページ、昭和8年4月、大日本雄弁会講談社=館内限定近デジ本、 同(2)は講談社編「婦人倶楽部」19巻5号付録「春夏秋冬家庭料理大全集」98ページ、昭和13年4月、講談社=原本、 同(3)は栄養と料理の会編「栄養料理の作り方 健康増進・美味・経済」16ページ、昭和15年12月、国民図書協会=館内限定近デジ本、

 一方「料理の友」では千葉芳子という女性ライターが大奮闘して、あれこれ書きまくり「料理の友」が千葉に乗っ取られたような感じになるぐらい変わるのです。昭和13年8月号なんか、千葉独りで(1)羊頭を懸けて狗肉を売る(2)魚好きは夏やせ知らず(3)脚気貧血の栄養食餌(4)古代の食料品(5)胚芽党になるまで(6)煮物解説(7)狸の珍料理(8)国民体位向上と支那料理(46)――と長短・硬軟8本も書いています。男性編集者が出征した穴埋めだとしても多すぎる。
 どうも糧友会が料理の友社のジンギスカン鍋開発と販売を支援する形で接近を図り、終いには「料理の友」を潜在支配して「第2糧友」にしてしまったことが考えられます。つまり千葉は昭和11年3月号からほぼ毎月書いていますが、13年は6月号に5本、7月号は3本と減りますが、その残りの何本かが8月号に廻ったのかも知れませんが、このころ糧友会の編集部か糧秣本廠幹部が書いても千葉芳子名義で掲載したと私は見るのです。
 千葉が書いた記事の例を資料その16にしましたから、読んでみなさい。とても大和撫子が書いた文章とは思えないでしょう。

資料その16

(1) 目下の必須事(ヒツジ)は羊
      肉は食糧
      毛は衣料   國策羊肉料理       千葉芳子

 国家国民の栄冠は気力体力資源の問題である、羊肉食の普及は羊毛資源の充実を促進し、気力体力を強化するのである。
 実に羊毛の国内産額の増加は、啻に経済上のみならず、軍事上に於ても一日も忽せにすべからざる国家重大問題の一たるを失はぬのである。更に現在の軍事上の必要性を委しく述べることに於て一層その必要性が分明することゝ思ふが事軍機に触れてもと思ひ只国民の自覚に俟つ處多いことを希つておく。
 我国では、いまだ羊肉の美味にして且つ栄養価値の大なるを知るもの少く中にはその臭味を云為する等、所謂食はず嫌ひの弊に陥る者多きは甚だ遺憾とする處であるから、国策達成上大いに羊肉の美味なること、栄養価値の大なることを一般に知らしめ、口から頭から、この羊肉に関する知識を普及し、国民的嗜好を開拓し、広く一般に羊肉を食用するやう、羊肉の利用を宣伝することは実に我国の必需品たる羊毛資源を涵養し、増産方策を徹底せしめる所以であり、又一面質から観た我国の食糧問題解決の一端ともなり、且つ農村振興の一助ともなることであつて、これ亦正に我国をば、経済上に於て、軍事上に於て、将た栄養上に於ても、安固なる基礎の上に置く所以のものである。
 羊肉の味は西洋でも羊の肉は一般によろこんで食され種々の料理に使用されて居り、一種いはれぬ高雅な味を有つて居るのである。
 羊肉を食品養価分析表の示すところによると、各成分が牛肉と豚肉との中間で、総カロリーは寧ろ牛肉に優つて居る。蛋白質は豚肉よりも多く、鉱物質は比較的に富んでをり、ビタミンも相当あるのである。栄養価値が頗る高い食品で而も肉質が非常に軟かく、消化がよく、牛肉のやうに刺戟分がないから病人食老年者の食用に適して居る。羊料理は数多くあるがこゝに一つ有名な、成吉思汗鍋の食べ方をご紹介しやう。

  □成吉思汗鍋
材料(五人前)羊肉(肩又は股肉)
約百五十匁、醤油五勺、食塩少
々味の素少々、酒二勺、晒葱盃
一杯、韮七味唐辛子少々、胡麻油
少々(支那の薬味尚好し)
 
 拵へ方 丼の中に醤油七味韮味の素晒葱、胡麻油を加へた中に鋤き焼肉のやうに薄く切つた羊肉を暫く浸しておき成吉思汗鍋を七輪へかけ熱してから肉をのせて焼き、別の小鉢に付醤油に味の素と薬味を加へたものをつけて食べるのである。
 炭火の中へ青松葉などを時々さし入れて其煙りで肉を燻すと一段の風味を添へる。又肉に塗る油は本格的にすれば、小蟹の油を塗つて焼くとよいが、この油は家庭で拵へることは多少面倒だと思ふ。
 蟹の油の外に蝦油もある、蝦を鍋に入布に包んで漉して拵へるものもあるが、いづれにしても、成吉思汗料理は肉が肩か股であることゝ、付け醤油の薬味が本格でないと、美味しく食べられぬといふことになる。
 

(2) 國民体位向上と支那料理
                千葉芳子

 近年我国民体位は逐年低下し、結核疾患は多発し、壮丁体格は劣弱化しつゝあり、これが原因は一ならずであるが、食物関係が最大であり、動物性蛋白の不足と共に脂肪の欠乏に因ること大であるとせられてゐる。国民の日常生活の飯にも菜にも脂肪を用ひる支那料理の様式を採り入れることは最も適切であると思ふ。殊に吾々国民の深く考慮すべきは満洲生活者の結核罹病率が内地の数層倍であつて、可惜大陸発展の希望を捨て、病を抱いて帰國するもの尠からざる悲痛事である、それは食物関係に於て内地の油氣少き極めて淡白なる料理形式を大陸生活にその儘延長するに原因すると謂はれてゐる、大陸生活の邦人がもつと支那料理を採り入れるは勿論、内地生活に於ても相當の食慣習となし脂肪の摂取を進めておくことが肝要であると思ふ。然しながら吾々日本人の魂の根元である日本人の食慣習たる日本料理をどうこうといふものではない、日本人の最も尊むべき日本の國粋料理はどこまでも國粋として吾々魂の根元の料理即ち日常生活の食餌としなければならないことは論を俟たぬが、支那料理の長所を採入れて、時代と並行し職業的地理的生活様式を考慮していつでもこれに適応するやう平時に於て食慣習をつけておくことは是非必要であらねばならぬ、この点が即ち家庭の日常生活に支那料理を普及しなければならぬ点であると思ふ。
 茲に陸軍主計少将丸本彰造閣下は、支那料理の再認識として、支那料理は何でも有合せものを使用し、魚鳥獣は尾鰭骨、臓物の一切を利用し野菜の切端をも廃物にせぬ点は真に無駄なき調理の標本でありと。閣下の編纂に係る『支那料理の研究附その料理法と随園食単』に於て述べて居られる通り、調理法極めて単簡頗る経濟的であり而も美味榮養に富み陸軍方面でも結核患者食として応用てされてゐる、それ故これが家庭団体栄養料理として尚一層晋及せらるべきものであつて、支那料理が世界的に愛好せられてゐることはこの必然性を語るものと云はなければならぬ。前記の単行本は東京陸軍糧秣本廠内財団法人糧友会より発行定価金一圓送料九銭(四六版二五〇頁)

 同じころ日本女子大家政学部が出した「戦時家庭経済料理」は、大陸の最前線の勇士へ食糧をたくさん送るため、国民は食糧の節約になり、しかも栄養価に変わりないよう研究した料理の本とうたっています。その結果「牛肉、豚肉は戦地へ、鯨肉、と肉は内地で、其の他従来はとかく軽ぜられて居た鰊、鰈、鰯干物、内臓等の食品材料もこれを味よく調理し栄養の補給を計る(47)」ことになってます。内容は鯨料理50種、兎料理19種、牛豚鶏の内臓料理36種などだから、牛豚肉の節約なんですね。羊肉と山羊肉は節約するほど食べてなかったせいでしょうが、無視されています。
 昭和14年夏、主婦之友花嫁講座シリーズの1点として主婦之友社が「洋食と支那料理」を出しました。講座ですから本では講師と呼んでいますが、東京料理学校講師山田山田政平、渡部支那料理研究所の渡部玉善、大島譲二夫人大島はま子、家庭料理研究会鐵村光子の4人が支那料理の執筆者でした。
 烤菜(直火焼)のところに烤羊肉があり「支那には直火で焼く料理は割合少く、大抵は仔豚の丸焼(乳豚)であるとか、鴨や鵝の丸焼といふやうな大きな料理でございます。近頃、我国で盛んに弘められてゐる成吉斯汗料理といふのは、烤羊肉とか羊烤肉とか言ひまして、烤菜の一つです。」と説明しています。回々教徒は豚を食べず、代わりに羊肉を食べるので「羊肉料理にかけては大そう深い研究が積まれてをります。(48)」ともあり、言葉遣いは編集者が統一して花嫁向けに書き直したのでしょうが、原文は満洲に長く住んだ山田が書いたと思われます。資料その17がそのレシピです。
 この「花嫁講座」は評判がよかったようで主婦之友社は「続花嫁講座」も出したのです。その第2巻は「食料品とお菓子」という書名なので、食品として羊肉が書いてあるかも知れないと古書店から取り寄せて見たら、空振りだった。
 「教えて」なんとかというホームページでね、ジャガイモの漬け物の質問に、びしっとした答えがなかったが、この本にはありましたね。「馬鈴薯を焼明礬の保存液に漬けると、澱粉質がしつかり固まつて、生大根か蕪のように歯切がよくなります。これを浅漬なり、味噌漬なりいろ/\の漬物に応用するのです。(49)」といい、その応用例が出ています。私は初めて読んだが、珍しいでしょう。あっ、思わずそれちゃった。あっはっは。

資料その17

  「洋食と支那料理」

   烤羊肉(カオヤンロウ)(ひつじ)肉の直火焼)
 支那の北方に多く、こちらでは成吉思汗料理(ジンギスカンれうり)として流
行してゐるものです。なほ羊といふと洋食に使ふマトン
(緬羊)のやうですが、支那の羊は山羊のことです。
▲材料=羊肉二百匁(七五○瓦)、酒、醤油、にんにく。
 羊はすき(・・)焼のやうに薄く大きく切り、別の器に酒三、
醤油五に、にんにく一片(ひとかけ)みじん(・・・)切を合せた浸け汁を作
ります。次によく熾つた火の上に金網を渡し、羊肉をち
よつと汁に浸し、この網に載せて焼きます。多勢で火を
囲み、各自(めい/\)好きな焼加減にして頂くのを楽しむもので、
支那人は強火でさつと焙つたくらゐを喜びます。
 肉の脂肪や浸け汁が火に滴れて灰が上つたり、煙が立
つたりしますから、外で頂くものとなつてゐます。牛肉
でも同様になさいませ。

 資料その18は昭和14年に北海道農村生活改善協会が出した「畜産料理の華」のジンギスカンの作り方です。砂糖抜きで塩を入れる糧友会の満田百二が指導する作り方そのものです。また牛、馬、羊、豚、兎、鶏の6種の肉料理が書いてありまするが、その特長をみると緬羊の肉はとても手に入りそうもないし、山羊はまた臭くて慣れるまでとても喰えそうもない。まあ、羊系を除いた肉を食べるようにと指導するための資料と受け取るとしても、こんな北海道で後世、羊の焼き肉料理が遺産とやらに指定されるなんて、お釈迦様でも予想できなかったでしょう。
 同じころ岡山県緬羊組合連合会が出した「有望なる緬羊の飼育に就て」のジンギスカンのレシピは資料その12(4)に入れましたが、ニンニクを使っており、また予め羊肉を漬け汁とたれを別にして、漬け汁では玉葱、たれの薬味は普通の葱と使い分け、さらに付け込む時間が格段に長いなど藝が細かくなっていきます。
 糧友会が昭和2年に初めての羊肉料理講習会を開いたとき、焼く前に肉を漬けた汁は残しておいて、焼いた肉のたれとして2度使った。だが、昭和13年の山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」5版では「尚ほ新しい漬け汁をつけ乍ら食べる。」と、羊肉を漬ける漬け汁と同じ成分ではあるが、予め分けておいて使うように改めたことが認められます。
 これがさらに進んで、肉の漬け込み用と焼けた肉の味付け用と別々に作るようになってゆく。どうやら羊肉に慣れて臭みは気にしないジンギスカン党が増え、どんなたれなら美味しく食べられるか考えるようになったということですね。
 昭和12年に札幌でジンギスカンの試食会が開かれたのですが、そのころ醤油と味淋をまぜて煮立てたたれを使うジンギスカンの食べ方が公表されたことは話してませんでしたかね。この醤油と砂糖をベースにして火を通すたれは、月寒種羊場の職員たちに好まれたせいか、後に「月寒流のたれ」と呼ばれる作り方として伝えられていきます。釣谷猛さんの「月寒十五年」に書いてあるたれはこれです。
 ジンギスカン料理が入っていないので名前だけにしますが、食糧協会が昭和14年3月にを含まない糧友会編「羊肉典型料理法」を出しています。目次をみるとがイギリス式料理10種、フランス式料理4種、支那料理10種となっており、昭和15年に開催が決まっていた東京オリンピックの選手団向けの料理研究をまとめたものとみられます。「家庭、調理教育者、団体炊事経営者、営業料理家の羊肉利用上の参考に供する」と緒言にありますが、非売品でした。

資料その18

 6 羊肉料理
イ、成吉思汗焼(ジンギスカンやき)  ■<火扁に孝の誤字>羊肉(カオヤンロー)(五人分)

羊肉(肩又は股肉) 百五十匁  醤油 五勺  酒 二勺  食塩 少々 晒し葱 盃一杯  七色唐辛子 少量  胡麻油 一勺

 丼に醤油、酒、七色唐辛子を混ぜ、夫れに木口切にした葉葱を布巾に包んでよく揉み、其のまゝ水に晒して水を絞つたものを入れて薬味を作り、すき焼肉のやうに薄く切つた羊肉を約十分間位浸けて置き、適当に味がしんだ頃<4字原文のまま>七輪の炭火にかけた金網に載せ拡げ、肉の縁が色褪せて來たら裏返して焼きながら熱い内に食べるのである。
 金網には肉が焦げつかない様に胡麻油を塗り、度々裏返すと折角の美味しい汁が火の中へ落ちるから、充分に焼けてから裏返す様に注意し、度々浸け汁をつけない方がよい。此の料理は支那の料理で我国のすき焼の様に一家団欒して楽しむことが出来、羊肉の本味を味ふことが出来るのである。従て浸け汁に味淋や砂糖を入れることは本味を壊すことになるから遠慮する方がよく、羊肉料理に砂糖は用ひない方がよいのである。

  

参考文献
上記(46)の出典は大日本料理研究会編「料理の友」昭和13年8月号目次、マイクロフィッシュ、 資料その16(1)は大日本料理研究会編「料理の友」昭和13年6月号52ページ、同、同(2)は大日本料理研究会編「料理の友」昭和13年8月号164ページ、同、 (47)は日本女子大学家政学部編「戦時家庭経済料理」ページ番号なし、「はしがき」より、昭和13年12月、桜楓会出版部=原本、 (48)は主婦之友社編「花嫁講座 洋食と支那料理」347ページ、昭和14年8月、主婦之友社=原本、 (49)は主婦之友社編「続花嫁講座 食料品とお菓子」55版215ページ、昭和18年6月、同、同、 資料その17は主婦之友社編「花嫁講座 洋食と支那料理」367ページ、昭和14年8月、同、同、 資料その18は北海道農村生活改善協会編「畜産料理の華」136ページ、昭和14年12月、北海道農村生活改善協会、同


 昭和13年の「糧友」9月号に、これぞ陣中料理というジンギスカンが載っています。「野戦炊事参考資料特輯」と銘打ったこの号には、陸軍省衣糧課が書いた「戦時給与規則細則改正中糧秣関係事項に就て」という長い解説記事があります。また「北支特産物資利用 野戦調理」などという記事が載っているということは、陸軍が「糧友」を一定部数買い上げて、前線の部隊に送って読ませていたことが考えられます。
 細則改正の要点の説明なんですが、細則というだけあって細かな話なので私にはピンとこない、わかりにくいのですな。どうしたものかと思案していたら、いまの我々にもわかるように改正点を書いた新聞記事があったので、それを見てもらいましょう。
 資料その19(1)がその食料関係のところです。昭和16年4月の米の配給量は11歳から60歳までは1日当たり330グラムだった(50)から、兵隊はその2倍食える計算になりますが、戦地でこの規則通り食べられるかどうかは別問題でした。
 第2部の「野戦調理法」には日本からの運ばれる食糧、物資に頼らず「その土地に多い豚や羊や又川魚などは努力次第で利用し得るのであるからこれを活用すること(51)」といい、そのジンギスカンは現地住民から買い上げか徴発かで確保した羊肉の食べ方の中にありました。
 資料その19(2)は、お前たちがいるのは戦場なんだから、鍋がなかったらエンピと呼ばれた携帯型の小型シャベルか、それもなければ瓦で焼けというところなんか、まさに野戦料理。シャベルを火に掛けたら柄が焦げると思うでしょうが、帝国陸軍のは背嚢にくくりつけられるよう棍棒みたいな木の柄は抜き差しできたので、鍋代わりにするときは柄を外して使えたのですな。
 厚みがあるから、トタン板より鍋らしく焼けたでしょう。敗戦後の満洲で、中国の国府軍と八路軍の内戦があり、その鉄条網の柱を立てる穴を1つ掘ればなにがしという請負仕事があってね、私もエンビでおやじの手助けをしましたよ。鋤焼きの始まりは田畑を耕す鋤の刃の平たいところで焼いたことからというが、エンピだったらエンピ焼きになっていたというのは冗談、はっはっは。

資料その19

(1)まづカロリーから
    兵隊さんの待遇改善
      肉も野菜も増えたのであります
       下帯も月一本を支給

兵隊さん喜べこれからは砂糖もたつぷリなめられるし肉も野菜もふえるいまゝで給与されなかつた褌まで一月一本支給するといふ、兵隊さんの全面的待遇改善が十五日官報で公布された陸軍達第廿二号『陸軍戦時給与規則細則中改正の件」できまつたこんどの
 改▽正  の主眼は支那事変に鑑みて長期抗戦に対応するため従來の不必要品を排除して主食になるものをふやして、絶対必要欠くぺからざるものを増加し新たにその品目を設けたもの、陸軍の言葉でいふといまゝでの基本定量代用定量の二つに区分されてゐた糧食の定量を基本定量、特殊定量、換給定量に三区分して朝、昼、晩に使用出來るやうにしたもので、カロリーの増大をめざして分量の増加したものを拾つてみると
 米は從來一日六四〇グラムだつたのが六六〇グラムになつて二
 〇グラム増加、麦が二〇〇グラムが二一〇グラムと一〇グラム
 増加し、生野菜五〇〇グラムが六〇〇グラムと一〇〇グラムも
 増加したし、乾物類も一一〇グラムが一〇グラム増して一二〇
 グラムになリ、肉類も従來一五〇グラムから二〇〇グラムの範
 囲内適宜に
  支▽給  されてゐたのが二一〇グラムとなり梅干福神漬等
 の漬物類も從來の四〇グラムが四五グラムになつたまたカロリ
 ーの不足を補ふため圧搾栄養食を新たに支給するほか疲労恢復
 に必要な砂糖も五グヲムを余計に給与することになつたし粉醤
 油という携帯に便利な調味料も新たに加はつた<略>


(2) 羊肉調理法   陸軍糧秣本廠

一、成吉思汗鍋

材料(五人分)
 羊肉(肩又は股肉)九〇〇瓦(二五〇匁)
 醤油          六〇竓(一合)
 酒(日本酒又は支那酒) 三六竓(二勺)
 葱(韮大蒜又は香菜にてもよし)  少量
 七味唐辛子            少量
(右は何れも現地にて調辮し得)
調理
 丼(又は飯盒の掛盒)に醤油、酒、七味唐
 辛子、可成細かく木口切りにした葱を入れ、
 これに鋤焼肉の様に薄く切つた羊肉を約一時
 間浸し置く。
 この肉を網の上で焼きながら食す。網の無
 い時は屋根瓦、圓匙等を代用するもよし。
備考
 一、香菜とは芹の如きもので北支地方に
   多く産す。
 二、生肉を右の如く焼きて、焼きた後右
   の醤油に浸して食ふを好むものあり。

  

参考文献
上記(50)の出典は遠藤一夫著「おやじの昭和――戦前の暮らし方と日章旗」178ページ、昭和56年10月、ダイヤモンド社=原本、 (51)は糧友会編「糧友」13巻9号58ページ、昭和13年9月、糧友会=原本、 資料その19(1)は昭和13年4月16日付読売新聞第2夕刊2面=マイクロフィルム、 同(2)は糧友会編「糧友」13巻9号89ページ、昭和13年9月、糧友会=原本、


 昭和14年の朝日新聞に野戦料理の記事があり、糧秣本廠の川島四郎中佐の談話として、日本の家庭で野戦料理のジンギスカンを味わいたければ「屋根瓦を一枚はがして來てこれを七輪にのせて焼くのもよい。定紋入りの屋根瓦などで焼いてお客にすゝめるなどは面白い。多少の煙が立つから縁側とか時には庭先の野天でやるのもよい。瓦位の厚味のものでやくと、肉はむつくりと軟らかやける。(52)」とあります。
 記事を読んで試した家庭があったかどうかわかりませんが、敗戦で捕虜になり、中国の無錫市に集結させられ復員を待っていた斎藤貢さんが瓦で焼き肉をしたと本に書いています。瓦を使ったとはっきり書いた例は珍しいので、資料その20として引用させてもらいました。何肉かわからんが、無錫は南の方だから豚肉だったと思いますね。

資料その20

<略> その後時々兵器の手入れ検査が行われ、広場に並べて部隊長の点検が行われたが、我が隊では馬や砲はすでになく、小銃と軍刀のわずかと各自の帯剣くらいで気軽であった。ほかの部隊では、小銃・機関銃・軍刀その他大量にあり、気重なようであった。
 「日本陸軍の兵器として恥辱を受けぬように」とのことであるが、今となっても厳しい兵器検査に不平を洩らしていたのであった。
 ある日はジンギスカン料理の集いがあり、部隊全員が広場で瓦板焼きの”焼肉会”を催すなどした。<略>

 最後は昭和17年に出た「惣菜料理全書」。私は全書というから、ジンギスカンが入っていることを期待して調べたのですが、羊肉料理は影も形もなくて「節米保健食」に35ページ、7%も割いていました。節米保健食とは、すいとんとかモヤシ入りの粥など代用食ともいわれた食べ物のことです。
 書いてある料理は910種、うち何らかの肉を使う料理は123種でした。種類としては、単に挽肉、細切肉という書き方で挽肉が32種で最多でね、次が鶏肉の24種、これには鶏ガラ2種も含めてね。それから輝く第3位は兎肉で15種、4位は鯨肉の13種。ハム、ベーコン、ソーセージも15種で使われているが、3品合計なので単品にすれば鯨肉より少ない。さらに豚肉と指定した挽肉も含む豚肉10種、牛肉9種、もつなら何でよいというのも含めた鶏もつ5種でした。
 肉料理でも直火焼きは2種しかなく、ほかは皆炒める煮るです。はっきり金網でというのは「牛肉の朝鮮焼」だけで「白胡麻を炒つて半摺にし、蕃椒<たうからしとルビ>は種を抜いてみぢんに刻んでおきます。次に酒一(味醂ならなほよい)醤油二の割に合せた中にこの二つを混ぜ合せ、胡麻油を数滴落した美味しい浸汁に、薄切にした牛肉を二三十分以上浸けておき、汁気をきつて金網にのせ、浸汁をつけ/\焼き上げます。(53)」と説明しています。
 もう一つは、「鯨の味噌焼」。こっちは味噌に漬けておいた鯨肉の「味噌を落として焼きますが」で、金網で焼けと指定しているわけではないのです。ただ「牛肉のみぞれ焼」では、やはり味噌漬けにした牛肉を「これをこのまゝ焼けば普通の味噌焼ですが、フライ鍋に胡麻油を大匙二杯ほど煮立たせて、焦がさぬやうに注意しながに両面を鍋焼にし、(54)」とあるので、鯨肉は金網で焼くことによって普通の味噌焼きになると私が推察しての分類なんです。
 「配給」をキーワードにして札幌市立中央図書館の蔵書を検索すると、36件出る。その中に配給問題の座談会を載せた「中央公論」の昭和17年7月号と、井関純著「隣組配給の知識」が共通のことを取り上げています。それは東京市主催で開いた懇談会で聞いた配給に対する市民代表の意見です。
 中央公論の方は沖塩東京市配第給一課長が、大都市に物資が行き渡るよう公定価格の見直しなど5つに要約した意見を話し、それに基づいて行政、翼賛会、流通関係、有識者7人が話し合っている。自由学園の羽仁説子も出てますが、動物性蛋白源の議論は魚に偏っていて牛豚鶏肉が全然出てこない。(55)牛豚肉の配給なんて無理だとハナから諦めていたせいかも知れません。
 「隣組配給の知識」は「中央公論」より半年後に出た本ですが「例へば一新聞の記事を採つて見れば」として、懇談会で「二ケ月も牛肉や豚肉が顔を見せないのはどういう訳か。」 と消費者に聞かれて、業者は「現在、東京では屠殺が少ない、從つて小売店へは月に一、二回の配給があるだけだ。」、東京市の大迫経済局長は「帝都の肉類不足を少しでも緩和するため府、市農会と提携して、豚十萬頭増産を筆頭に、また家鴨、鶏の増産計画がある。」と答えた(56)とあります。
 「中央公論」では沖塩課長が「ちょうど先日、東京市で、消費者代表の配給に対する意見をお聴きしたのですが(57)」とあるし「隣組配給の知識」は何年何月かはないけど「五日午後二時から京橋公会堂にて開催(58)」うんぬんとあるから、元の記事はもう少し詳しいかも知れないと、朝日、読売、東京日日の昭和17年前半分を調べたんだが、それとおぼしき記事は見当たらなかった。
 もうこのころの新聞は朝刊4ページ、夕刊2ページなので、読む量としてはさしたることはなかったが、お目にかかるのは何々配給の記事ばっかり。東京日日の6月分では、牛という字は2年で食べられる育ちの早い品種の牛を増殖せよと山口県の畜産組合長が農林省に進言した(59)という記事でようやく見つけた。いや本当だよ、ふっふっふ。ともあれ札幌では都新聞、中外商業新聞のマイクロフィルムは見られないので、いずれ東京で調べて来年の講義で結果を話し、講義録には部分追加で入れておきます。
 しかし、3紙を読んだお陰で、当時の配給事情が、かなりわかってきたんです。早い話が肉類の配給計画はあったけれども、たまにしか配給されなかった。それで、いまさっきの「惣菜料理全書」の序文が「肉類、牛乳、玉子などもあるにはありますが、これはとき/\゛のものにして上手にあしらひ、乾物や干物は生物のないときに取り合せてゆきませう。(60)」となっていたのかと納得しました。確かにあるところにはあったのでしょうが、正式の配給ルートでは無いも同然だったのです。
 魚や肉を食べないと「保健にも差支へを來すやうに思ひ込んでゐるものがあるやうに聞きますが、これは全くの誤解で、われ/\の身体は鮮魚や牛豚のやうな肉は何ケ月食べなくても健康に少しも悪い影響を與へるものでなく、また婦人の妊娠も完全に行はれてゆくことに何らの心配ありません、これを杞憂するところに日本人殊に都会人の食物に対する錯誤があり、米英の食物習慣を鵜呑みにした結果です、たゞ肉を食べ乳を飲めば優秀な民族であると考へるのは非常な間違ひで、さうした食生活の米英人が果して優秀であつたか、どうかは十二月八日以來の歴史がよくこれを示してゐます<略>(61)」という厚生省栄養研究所技師、森本薫喜の談話が朝日新聞に載っていますが、獣肉を食べなくても生きられることと、配給できないこととは別問題ですよね。
 ちょっと昭和15年に戻るけど、15年2月の衆議院予算総会で民政党の北呤吉という議員がね、食料が不足がちだから全国の犬猫を殺そう。第1次大戦のときドイツやフランスが実行しておると発言した。それで畑陸軍大臣が、われわれは軍用犬を使っており、愛犬家の楽しみを取り上げてよいものか研究していると笑いを噛みしめて答弁した(62)と東京日日新聞が報じています。
 ペットにすれば冗談じゃないよね。早速犬の毛で織る羅紗の特許出願者が犬の毛は立派に羊毛代わりになる(63)と反対の声を上げ、逓信省も雪国の集配に犬を同行させる計画を発表(64)したりして、犬猫抹殺論はうやむやになったけど、それぐらい苦しくなっていたのですなあ。
  

参考文献
上記(52)の出典は昭和14年11月20日付朝日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、 資料その20は齋藤貢著「追想記」70ページ、平成16年6月、文芸社=原本、 (53)は主婦之友社編「惣菜料理全書」106ページ、昭和17年5月、主婦之友社=原本、 (54)は同107ページ、同、 (55)と(57)は中央公論社編「中央公論」57年7号130ページ、「配給と戦時生活」、昭和17年7月、中央公論社=原本、 (56)と(58)は井関純著「隣組配給の知識」84ページ、昭和18年2月、同文館出版部=原本、 (59)は昭和17年6月25日付東京日日新聞朝刊3面=マイクロフィルム、 (60)は主婦之友社編「惣菜料理全書」22ページ、「食料品の実際知識と調理の心得」、昭和17年5月、主婦之友社=原本、 (61)は昭和17年1月13日付東京日日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、 (62)は昭和15年2月14日付同7面、同、 (63)は同2月15日付同、同、 (64)は同2月27日付同、同、


 問題は、政府は国民にどれぐらい肉類を配給するつもりだったのか―です。敗戦後の昭和21年に国民経済研究協会がまとめた「戦後復興期経済調査資料」の「我国戦時統制政策の概要」に「畜産統制政策の概要」があります。
 その「食肉配給統制に就て」を見ると、政府は昭和16年10月に食肉配給統制法を制定し、日本食肉統制株式会社に実務をやらせところ「従来地方に根を下せし畜肉商を除外し専ら農業会に一任せるため肉地区の集荷は著しく不円滑となつた。即ち農業会は最近その業務拡大され集荷に関しても著しく事務的となつた故である。(65)」というレベルで、1日何グラム配給に失敗したなんて書いてないのですね。
 ところが糧友会が戦時中出していた雑誌「戦時食糧問題研究」の昭和16年1月号をみて、びっくり。大日本帝国は、いざとなれば家畜の餌を国民に食べさせ、動物蛋白は魚に頼るつもりで戦争をしていたのです。知りませんでしたねえ。一億一心、お国のためだと腹ぺこを我慢させられていたのです。ジンギスカンなんて夢の夢だったのですなあ。
 この雑誌は昭和14年11月に創刊され、ほぼ月刊だったが、1年もたってから、やっと「畜産国策の研究」という論文が載ったという事実からしても、畜産軽視は明らかでしょう。資料その21は農林省、陸海軍、糧友会関係者18人による第1回研究会概要要録の緒言と、支障を来たしていた増産5カ年計画です。

資料その21

        緒言

 我國の畜産は諸外國に比して劣勢であるにも拘はらず、今次食糧問題の撞頭と共に苦境に立つことを余儀なくされ、昭知十四年度に始まる政府の増産五ケ年計画さへ之れが遂行に支障を生ずるの止むなきに至つた。
 惟ふに戦時に於ける畜産は、その生産物の需要拡大により増産の要望切實となるに拘はらず、その飼料供給の方面から兎角脅威され勝ちなものであつて、我国畜産の現状は正にこの矛盾に蓬着してゐるのである。
 此の秋に於て吾人は、獨逸が前大戦に於て食糧難の苦杯を嘗めたに拘はらず、今回の戦争開始に方り、厖大なる畜産の抱擁を敢行してゐる事實、或はソ聯の数次にわたる五ケ年計画に於て畜産現勢の維持乃至拡充に非常なる努力を払つて來てゐる事實に察し、戦時食糧経濟一般論たる「人糧供給難の際は、畜産を犠牲にして餌料を人糧に転換する」との思想を愼重に再検討し、過誤なき対策を講ずるの要極めて大なるものあるを痛感せらるゝに至つたのでこの度畜産研究會の開催を企圖し、その第一回会合を十二月十四日に開催した次第である。<略>


   家畜・家禽増殖計画進行状況(昭和14年)

種類 基本年次 計画   @  実績   @  A
   頭羽数  頭羽数  %  頭羽数  %  %
牛   1,770  1,790  1.2  1,965  11.0  9.7
緬羊   61   167 174.1   149 141.1 10.9
山羊   292    -   -   286  1.9   -
豚   1,107  1,216  9.8  1,068  3.7 12.2
家兎  4,331  7,127  64.9  6,604  52.5  7.3
鶏  51,265 51,888  1.2 49,980  -2.5  3.7

備考 一、基本年次は家兎 昭和十三年 鶏 同十二年 其の他の家畜は同十一年なり
   一、牛、豚には官有を含まず

表の説明 @基本年次に対する増減割合
     A計画に対する増減割合
     原表にある頭羽数の1000以下は切り捨て

 研究会では蛋白質補給を水産で解決しようとしても田舎に十分行渡るほどの供給はできない。田舎の人々の健康維持のためにも農村は畜産を保有して動物性蛋白質を摂取させる必要があり「水産の方さえ維持出来れば畜産は放棄してもよいのではないかといふ意見には賛成しかねる。(66)」と岸農林省畜産局長が意見を述べています。
 また、部下の田口畜産課長は5カ年計画について「減少の最たるものは豚であるが、これは飼料の関係によるものである。(67)」と説明しています。これは「節米運動の徹底化とともに残飯量の減少を來しその他の飼料不足が根本原因とされている。食糧問題を繞る人畜闘争の一表現である。(68)」と大阪魚会社専務の伊東俊雄が「戦時食糧問題研究」に書いている通りだったのです。
 これは大阪毎日が出した単行本でね、伊東はさらに、残飯を出してはいけないと市民に呼びかけたら真っ先に養豚業者が抗議してきた。デパートの食堂からの残飯がなくなり、人間の食う麦などを炊いて食わせるので、結果として節米するもしないも同じことになると説明した(69)そうです。
   昭和17年の新聞を見ると、農林省が衆議院米穀管理委員会に出した資料から「昭和十六年の肉の生産高は内地では牛肉四十二万一千三百六十五頭、豚肉五十五万五五千三百八十頭(一部推定)だつたが、本年は牛肉が前年の約九十五%、豚肉は百四十八%を供給し得る見込みで豚肉だけは家庭にも十分潤ふ筈である(70)」というのですが、実際にはそうはいかなかった。
 東京の場合「四日に一度『肉あり日』/牛豚肉近く食膳へ(71)」と喜ばせる記事が出たのですが、うまく行かず「あすから肉を配給」と変わり「配給の方法は入荷があつた場合、肉屋は各隣組に通知し當分は隣組の手を通じて各家庭に配給する予定で入荷量の八割を家庭用とし、二割を業務用として業務用配給所は別に決定する、一支部の配給が完了しない間は他の支部の配給は行はないから割当量だけは確実に配給がある、幾日おきになるかは未定、<略>(72)」つまり幾日どころか幾10日おきになっちゃった。
 時間ですね。配給は当てならないし、乳も飲めるからと山羊を飼っても、食肉配給統制規則により勝手につぶして食べられない。日本食肉統制株式会社に出荷しなければならなかった(73)のです。
 畜産研究会は「人糧と競合せぬ兎肉の増産」が有望とみて第2回では「養兎国策試論」をまとめています。夏の毛皮が質がよろしくないと夏の間の兎の屠殺を禁じたため、もし「夏季に家兎が病死したりすると、一々役場に届けたり警察官の取調べを受けたりしなければならぬと誤解して」農家では飼わなくなっているから、猫を飼うのと同じぐらい手軽に飼えるようにせよ(74) などと提言したのです。
   こうした研究をふまえて主計少将、丸本彰造は、朝日新聞に「大都市食糧問題の対策」を書き、対策の1つに「牛肉、豚肉、鶏卵、牛乳等の欠乏に対しては、家兎の大増殖に努むると共に、生大豆粉の増産を図りこれによつて局面打開に寄與すべし(75)」と、兎肉と動物性蛋白質に近い生大豆粉で我慢しようと呼びかけていたのです。
 いずれにしても、ニクがナクて、ジンギスカンはもちろん、肉料理はまともに本に書けなくなっていたのです。次回は昭和11年に札幌でジンギスカンの試食会が開かれたという定説を検討するつもりですが、私がこれだけ戦前のレシピを挙げていいたかったことは、戦前のジンギスカンで焼くのは肉だけだったということです。野菜は入っていなかった。いまウッソーという声が聞こえましたが、もう一度資料を読み返してご覧。
 完全な脱線ではないのだが、関連情報が足りないので昭和16年のジンギスカンのレシピと明示しにくい1件、それが資料その22(1)の「月寒成吉思汗」です。これは私の研究仲間から頂いたものでね、彼の記憶によると「昭和16年4月16日『羊肉料理試食晩餐會』農林省種羊場」という文書が出所だそうなので、私は当時の月寒種羊場長は山田喜平(76)であり、タレの作り方も火を通す戦後の月寒流と違う糧友会レシピを改良した例の山田流だから、小さくでも新聞に載っているのではないかと北海タイムスと小樽新聞を調べてみました。
 すると、あったんだなあ―喜んでよくよく読んでみたら2日早い14日に旭川で昆布入り飯の試食會を開いたという記事で同(2)にした写真に欺されたのでした。なんで道新を見ないのかと思うでしょうが、道新は昭和17年に北海タイムス、小樽新聞など道内の新聞11社が統合した新聞社で、まだ道新はなかったんですよ。
 「旭川師団高等官食堂に於て十四日正午から試食會」が開かれ、バフラ昆布を入れて増量した飯を将校たちが「『ホホウこれは素晴らしい、美味だ』と一様に絶賛を送つて試食会を終へ」 「近く諸部隊に配給し北鎮健児の兵食に華々しく登場せしめることになつた(77)」とあります。バフラ昆布は俗称、葉の幅が広くてね、バフラバフラしているからそう呼ばれるんですな。16日のことだから17日の朝夕刊に載っているかと、じっくり見たけど載ってませんでした。
 脱線序でに昭和16年の世相を察してもらえるかと思う記事を同(3)にしました。これは、ほんの序の口、どんどん進んで何でも配給制、その配給もろくになくなったんですよ。

資料その22

(1)

§月寒成吉思汗(五人分)

◆材料
羊肉 三八〇瓦  

肉の浸出液、薬味、たれは左の通り
○肉の浸出液
スキ焼割下    約一合六勺
生姜       三〇瓦
玉葱       三〇瓦
味醂、醤油 七味蕃椒 若干

胡麻油      一合

○薬味
葱        一本
柚皮       一個分
パセリー     十本
ニンニク     半個
生姜       四〇瓦

たれ
日本酒      二.五勺
醤油        .五
苹果搾汁     二.五
蜜柑搾汁(橙)  二個分
味の素      若干
砂糖       七瓦

◆調理法
一.羊肉は繊維に直角に薄くへぎ切り肉の浸出液に三〇〜六〇分間漬けておく。
一.鍋を強火に架け十分熱したる時胡麻油を薄く引いて其の上へ羊肉を一枚ずつ列
  べ適当に焼けたるものを薬味を入れたたれを以て食す
註 右調理の場合羊肉は出来得る限り薄く強く強火を以て単時間に焼けるを宜しと
  す


(2)

     

(3)

   米と一緒にお芋を
       米屋で抱き合はせ販売

【東京発】代用食の悩みを解決する一策として農林省ではこの程『米穀の応急措置に関する法律』を改正して米麦以外の農産物をも国家管理に移す事になり差当り今年中には甘藷一億二千万貫、馬鈴薯三千万貫、麺類三千万瓩の買上げを実施するがこれ等の代用食を実際に家庭へ配給する場合にはお米の配給と一緒にしなければ節米の役目を果さないという建前から少くとも本年中の政府買上げ分だけはお米屋さんをしてお米と抱合せ売りで一般家庭に廻すことになつた
事変以来節米が叫ばれ甘藷、馬鈴薯などは代用食の横綱として脚光を浴びたがその後の公定価格その他の障壁から加工品に流れることが多く辛うじて一般家庭の手に入つたとしても混食せず間食する風習が強く却つて消費を増大する傾向があるため代用食の配給ルートを八百屋さんからお米屋さんの手に移し将来は一定のお米に甘藷、馬鈴薯等を加へ一定期間分の配給量として交ぜて炊くやう奨励しようという妙案である
お米屋さんの代用食販売は昨年暮従来主として乾物屋さんが売つてゐた小麦をお米屋さんに取扱はせた結果に鑑みても成績は良好と保證されてをり実現の暁は一般家庭には代用食も行渡るし節米も順調に行くものと思れるが他方これが各生果市場及び八百屋さんの生活にも響く関係を考慮して同省でも大体本年中の買上分だけをお米屋さんの手に移す方針の下に目下食糧管理局がその具体案を練つてゐる
(昭和16年3月4日付北海タイムス夕刊2面=マイクロフィルム、)

 昭和17年の「家庭と料理」11月号に資料その23にしたジンギスカン鍋の解説があります。「編輯室から」に「△今月号は『支那料理』の特輯致しました。大陸戦線から帰られた奥井先生の積極的な御協力を得てごらんの通りの充実した内容となりました△お断りしなければならぬのは活字の不足のため、折角くの支那料理用語の中のいくつかをけずらなければならなかつたことです。(78)」とあります。
 レシピを見ると、ハム、酒、グリンピース、豆素麺などを使うようになっているが、そうした食品も配給されていのかどうか、今となってはわかりません。ジンギスカンの解説に、なぜか本場の烤羊肉は強い酒を飲みながら食べるはずなのに書いていないのは、実際には酒がないから酒を思いださせないよう触れなかった。「欲しがりません勝つまでは」で、思うように飲み食いができなかったことによる代償行動として、料理本が読まれたともいえるでしょう。

資料その23

  ◎成吉斯汗鍋
 成吉斯汗鍋と云つても鍋を用ひる訳ではなく、本当は羊烤
肉といふ回々料理です。この料理の特徴は屋外でたべること
です。箱火鉢か鍋の様なものに火を起しそれに金あみ若し
しくは鉄の棒を渡し羊肉をあぶり乍ら、支那醤油をつけて食べ
ます。火を起すにも薪をもやして作り、寒い冬の夜、燃へ
たぎる焔を眺めて食べる料理の味は格別ヂンギスカン鍋と云ふ

 そもそもジンギスカン料理は男たちのための料理、お父さんやおじさんたちの酒の肴だった。それがね、ばらばらになる玉葱やもやし、堅い南瓜や焼きにくいトウキビも焼くように変わったのは、敗戦後、昭和20年以降のことなのです。食糧難で男たちだけ羊肉を食べ、酒を飲んで居られなくなった。奥さんや子供たちも一緒に鍋を囲み、ご飯のおかずにするので、栄養のバランスと増量を図るために野菜も焼くように変わった。いうなれば野菜入りのジンギスカンは家庭の民主化によって生まれたニューフェイス。新しく登場した映画スターを指すニューフェイスという単語もまた戦後生まれなんですよ。時間がきたので終わります。はい。
 (文献によるジンギスカン料理関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、正当な権利者のお申し出がある場合やお気付きの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(65)の出典は国民経済研究協会編「戦後復興期経済調査資料 経済復興資料」179ページ、平成10年4月、日本経済評論社=原本、 資料その210の緒言は糧友会編「戦時食糧問題研究」3巻1号2ページ、糧友会「畜産国策の研究」より、昭和16年1月、糧友会=原本、進行状況は同4ページ、同、 (66)は同4ページ、同、 (67)は同5ページ、同、 (68)と(69)は大阪毎日新聞社編「戦時食糧問題研究」183ページ、伊東俊雄「生鮮食料品の配給組織について ―主として大阪市について―」、昭和17年2月、大阪毎日新聞社=原本、 (70)は昭和17年1月29日付東京日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、 (71)は同年5月5日付同夕刊2面、同、 (72)は同17年5月19日付同夕刊2面、同、 (73)は大日本産業報国会編「職場家畜の飼ひ方」108ページ、昭和18年12月、大日本産業報国会=原本、 (74)は(糧友会編「戦時食糧問題研究」3巻2号5ページ、糧友会「養兎国策試論」より、昭和16年2月、糧友会、同、 (75)は昭和17年5月5日付朝日新聞朝刊4面=マイクロフィルム、 (76)は農林大臣官房秘書課編「農林省職員録 昭和16年8月1日現在」309ページ、昭和16年10月、農林省=国会図書館デジタル本 、 (77)は昭和16年4月16日付北海タイムス夕刊2面=マイクロフィルム、 資料22(1)は「昭和16年4月16日『羊肉料理試食晩餐會』農林省種羊場」以外は不明、 同(2)は昭和16年4月16日付北海タイムス夕刊2面=マイクロフィルム、 同(3)は同3月4日付同、 (78)は辻徳光編「家庭と料理」16巻11号48ページ、昭和17年11家庭と料理社=原本、  資料その22は同35ページ、同