北大にしかないジンパ学講座

 私がこの講座を担当する文学部の尽波です。私はきわめてフレキシブルな、ブロードバンドな趣味の持ち主と自認しています。たとえば、泳げないのにヨット部員だったし、就職活動なんて放置して4年目の秋まで応援団で旗を振った。かつて私は嘘は申しませんといった総理大臣がおったが、伝統ある北大応援団に私がいた証拠が農学部横の北大文書館にあるんだからね。それをスライドで見せましょう。後ろの人、見えますね。


  

           

 上の写真の破れワイシャツを着ているのが3年目の我が輩。その右の羽織の猛者が高根団長だから昭和29年秋の商大戦で行進しているところでしょう。下の写真はそのときの角帽、カクボウといっても木の棒じゃなくて角張った大学生用の帽子です。これを被っていれば無銭旅行ができたくらい価値があったんですがね。
 何代か団員が被った角帽なので鍔なんかくたびれているけど、ヨット部で一緒にチン、転覆した小倉誠氏と戦後の学生生活の資料として文書館に寄付したんです。彼の角帽の方がきれいだが、あの写真の学生の角帽がこれですと説明できるようにと、文書館の方が配慮したんですね。離れてはいるが、新渡戸稲造とか有島武郎といった有名OBの資料と同室にあるんですぞ。おほん。わかるね。はっはっは。
 私はね、文学部卒ながらラジオ少年の延長でコンピューター歴25年。マイコンという用語もなく、8つ穴だったかな、紙テープ入力の電子計算機、OKITAC5090Cからで化石みたいなものです。お花は2年習って草月流1級、パソコン通信歴15年、道内で2番目にできたヨコネットの創立会員だ。残念ながら仲間がインターネットのメールに移って、いまはメーリングリスト。なんか手応えが弱くてメーリングリスト歴何年と威張りにくいね。
 動物もいろいろ飼いました。一番手間が掛からないのは家鴨かな。だいたい飛ばないから柵もちゃちなので間に合うし、何でも食べてくれます。高校1年のときは毎日弁当のおかずは家鴨の卵焼きでしたな。厄介だったのはヤギの乳搾り。すぐ入れ物を蹴飛ばすからやりにくいのなんのってね。末っ子の弟は、母乳でなくて完全に山羊で育った山羊の子です。高校の校舎にすんでいた鳩を捕まえてきて馴らしたら、鳥小屋に住みついた。夕方になると、鳩と鶏が止まり木の場所争いをする。鳩は鶏の足下に潜り、背中で持ち上げて落とす。平和のシンボルになっているけど、どうしてどうして、鳩も結構戦うよ。珍しいはずなのはカワセミを刺身で飼ったこと。私が手づかみしたくらいだから、弱っていたのか、1週間ぐらいしかもちませんでしたね。
 このジンパ学も、ここでは宣伝しないが、私のある趣味のホームページの延長でもあるのです。そちらは近世にまたがり、記録の少ない庶民生活の中での存在を探なければならないのに対して、こちらは全く違って、ほとんど活字で印刷された文書の世界における情報収集力を試すという意義があります。インターネットを多用してみせることによって、多分、皆さんの専修研究にも役に立ち、アカデミックにも正しい畜産史とジンギスカンを受け持って日本の食文化史に貢献するはずだと考えています。
 ところで私の講義はちょいちょい脱線すると思うけれども、ほとんど北大か羊に関係した話になるでしょう。私は落第なしでマスターまでヤッカイドウ大学に6年ご厄介になったし、もう閉校になった国立の短大が気に入って5年も通いました。ちと恥ずかしながら、この某短期大学部でわが人生初と2回目の落第をまとめて経験した。そうなると、文部省の管轄で残るは高等工専だけなので、生きているうちに通って一通り全部に通い、授業料を払った男という前人未踏のレコードを狙っているんです。北大同期のかの三浦雄一郎でもできないよ、これは。苫小牧高専の3年生募集に応募しようとしたら、工業高卒が対象であり理系短大を出た人はどうも、と断られましたがね。趣味ですからまだあきらめていません。はっはっはっは。
 文部省、ああ、いまは文部科学省か、私立に負けるな、とやたら授業料を上げるから、名誉教授の小遣いでは高専の授業料払いはちとつらいんですな。仕方がないから、教える側に回って、こういう講座でうさを晴らしているが、われわれ現役のころなら、毎春値上げ反対闘争で旗振ってストライキだね。いまのみんなは、講義中はうるさいが、そうした発言はせずおとなしいよなあ、まるで羊の如しだといわれても反論する人もいないでしょう。
  それはさておき、国内留学中は明治生まれの方々をはじめ錚々たる大先輩たちからほぼ10年薫陶を受けたというか、北大東京同窓会の運営をはじめ、ビールの飲み方に至るまで、しかられたり教えられたりしました。それからちょいとブランクがあったが、ここ4年は北大文学部同窓会を通じて再び母校に出入りし、文学部の諸先生方の該博さのサンプルのような酒席にも座り、ついには中央図書館の奥の奥にある諸新聞のマイクロフィルムも見せてもらっております。
 ジンギスカンを食べるだけでなく、その起源などを調べていくと北大、東北帝大農科大、札幌農学校につながっていきます。農学校以来の殖民学にもちらとでも触れることになるかな。札幌農学校の開校は明治9年8月14日、夏休み中でありがたくないが、だから8月14日は本学開学記念日になっておるのです。それから間もなくクラークさんは黒田長官に食生活の改善を含む意見書を差し出した。これから配る資料に入れてあるけど、まずスライドで文面を見せましょう。
 注目すべき意見は第3の肉食です。いい家畜を増やす勧めだ。北海道ぐらい寒いところじゃ四つ足の肉を食べないと冬は働けないよ。肉を食べるために牧場を拡げ畠を耕してエサを確保し、優れた品種の家畜を飼おうということ。クラークさんが入り用とする家畜は羊、豚、牛とした並べ方がわかるかな。当時は緬羊はいないも同然だったから、毛も肉も役に立つ羊を最優先で輸入せよとおっしゃったのです。


 一八五 校園設置等に付申入(九月八日)

第五十六号

此ニ閣下ノ命ニ従テ当所開拓之事業ニ付テ或ル好マシキ改革ニ関シ
二三ノ鄙見ヲ書面ヲ以テ上申仕候ハ余ノ誉トス
第一ニハ札幌農学校生徒ヲ現術農学又格別労力ノ経済有益ノ作物并
ニ家畜ノ生産且又土地ノ肥力ヲ永続スルコトニ付テ田園取扱ノ正則
ニ於テ適当ニ操練スル為メニ左ノ儀ヲ御進メ申上候<略>
第二ニハ謹テ閣下の御注意欲スル処ノモノハ当所人民ノ住家并ニ屯
田之家屋ノ建方全ク此ノ地ノ気候ニ不適宜ナル事実ナリ<略>
第三ニハ人民ノ衣食ニ付テ或ル改革ヲ為スベキコト要用ナルベシ
毛織ノ衣服革製ノ長短沓肉食ノ多量ハ活達ナル健剛ヲ保全シ寒中戸
外ノ仕事ニ堪ユル為メ此気候ニ必用ナルト云コトハ世界中同シ緯度
ニ住スル総テノ国民ノ歴史ニ明白ナリ
此目的ヲ仕遂クルニハ飼料ノ為メニ直ニ牧草及ヒ蜀麦ヲ造リ都合次
第此後成丈ケ速ニ(高価ナル丁寧ニ畜育シ其ヨリシテ自然柔弱ナル
畜種ニ余リ関セズシテ)強剛質ノ豚牛ノ輸入ヲ御進メ申上侯也
 閣下ノ信服ノ臣トシテ止マルヲ余ノ誉トス

 札幌一千八百七十六年   ウイルリヤム、エス、クラーク

  開拓長官兼其他黒田清隆閣下
              〔道○一五六九(クラーク三)〕

 翌明治10年3月、クラーク先生は「札幌農黌第一年報」をまとめ「日本国ノ農業ハ大ニ其趣ヲ修整セザルベカラズ」と、また強調された。「牛馬ハ之ヲ耕転及ビ拖牽ノ為メニ要シ良好ノ乳牛ハ之ヲ製乳、牛肉仔牛肉、及ビ生皮ノ為メニ要シ羊ハ之ヲ羊毛及ビ羊肉ノ為メニ要シ家豕ハ之ヲ猪脂及ビ猪肉ノ為メニ要スル」(1)。いいですか、羊は羊毛と羊肉のためにあるのだと。明治の初めです。まだジンギスカンはなかったので、羊毛とジンギスカンのために羊はあるのだ―とはいかず、先生は羊も牛馬や豚同様に大事なのだと強調されたのです。ここで豚より先に羊の必要性をいわれたという事実、繰り返しになるが、先生は豚より遙かに数少なかった羊を、まず増やにゃならんと考えられたに違いない。
 だからですよ、先生は「第一年報」でですよ、日本の畜産の問題点に触れ、早くも緬羊は支那からの緬羊よりカリフォルニアの緬羊が好ましいとの意見まで述べておられます。そのところを資料にしてありますから、配ります。忘れないうちにいっておきますが、私の講義では資料をプリントして配ります。
 私が最前列の人にだいだい後ろに座っている人数分を渡したら、すぐ1枚取って後ろへ回してやって下さい。後ろの席で運悪く資料が行き渡らないことがあるかも知れないから、なるべく前の席に座るようにね。はい、きょうはたっぷり用意してきたから皆に渡ったでしょう。
 2枚一緒に配ると帰っちゃう人がいるかも知れないので、もう1枚は後で配ります。自分のエスケープ経験を顧みて、おしまいまで真面目に聞いてくれる諸君を大事に扱ってあげなくちゃね。それを借りてコピーする不埒なやつ対策として、たまには空色刷りも配ると予告しておきましょう、はっはっは。
 ああ、それからこのプリントは最後に出してもらうレポートのヒントになりますからね。ちゃんと保存して、レベルの高いものを書いてください。説明しますと、資料その1は初回ですし、1年目の諸君でも理解できるように私がクラークさんの報告の訳文に行替えと読みの注を加えましたが、原文は濁点と句読点がありませんからね。今後配る資料は著作権を尊重してナマのまま出しますよ。

資料その1

牧草及ヒ秣ニ供スヘキ精緻ナル良草ノ生スル時ハ本使<開拓使、北海道のこと>数年ノ後必ズ利純アルヘシトス況ンヤ農家ヲシテ之ヲ為サシムルニ於テヲヤ農家ヲ勧誘シテ各家少ナクモ二三頭ノ羊ヲ畜ヒ以テ牧羊ノ利純ヲ得ルハ如何ニ迅速ニシテ且ツ広大ナル者ヲ知ラシメンコト亦タ用意ノ事ナルガ如シ
羊ノ適種ヲ選フニハ精々廉価ニ多数ヲ得ンコト最モ肝要ナレハ余ハ先ツ第一ニ其価ニ依テ之ヲ定メンコトヲ欲スルナリ然トモ支那羊ト「カリフオルニア」種トノ二者ニ就テ之ヲ見レハ余ハ素ヨリ其健全ニシテ且ツ良好ノ綿毛ヲ生スル處ノ「カリフオルニア」種ヲ取ランナリ
札幌ノ新牧羊舎ハ周囲ノ牧場ト共ニ極メテ能ク其用ニ適スル者ナレハ該舎ニ畜養スヘキ羊ハ惟<おもう>ニ之ヲ良種ニノミ限ラレンコト亦余ノ勧奨セント欲スル所ナリ細毛ノ「メリノー」中毛ノ「サウスダウン」長毛ノ「コツツウールド」若シクハ「リーセストル」等ニテ可ナルヘケレハ此等ヲ以テ暫ク之ヲ実際ニ試ミ其北海道ニ適スル者ハ果シテ何種ニ在ル乎ヲ知リ又タ之ヲ全道ノ各地方ニ送リ従前ノ種ヲ改良スルノ種羊トナスヘキナリ

  

参考文献
上記スライドの出典は北海道大学編「北大百年史 札幌農学校史料(一)」234ページ、昭和56年7月、ぎょうせい=原本、 資料その1は「札幌農黌第一年報」3ページ、明治11年11月、開拓使=近デジ本(国会図書館近代デジタルライブラリー本の略)、資料その1は同38ページ、同


 だから北海道に住むわれわれは、クラーク先生が提言された種羊の子孫の肉が、いまどれぐらい改良され、おいしくなったか、常に食べてモニターしなければならないのです。北大生である以上当然ジンパ学を受講すべきであり、開校以来羊と取り組んできた北大こそジンパの本家だぞ、ノーベル賞なんかでランク作るなと、声を大にして啓発すべきなのです。大学祭のときは、正門前で焼いて「北大はジンギスカン。ジンギスカンでわからんことがあったら北大に聞きに来てください」と市民に味見させ、PRするぐらいでなきゃいかん。それだけの価値と味のある学問であーると、私は自信をもっていえますね。
 胸を張って―というより腰を伸ばして断言しますが、私のこの講義がジンパ学研究では、世界広しといえども最先端なんです。ですから、地球の裏側からでも読めるよう、こうしたホームページに開いて、講義を通じて最新の成果を公にしている。どしどし進めたいのですが、なんせ、私独りみたいなものなので、なまらゆるくないんだわ。うん、本州育ちにはわからん言葉を口走りましたが、これは今の北海道の若者風のいい方で、容易でない、とても疲れるんだよ、という意味ですよ。
 これまでの食べ物紹介の本とかホームページに書いてあるジンギスカンの由来・解説は、私に言わせると、ほとんど作り話、その受け売りか孫引き話なんです。自分で直に調べていない。よくて群盲象を評すようなものです。私は超割と自転車で東奔西走、広く調べてこれはと思う新説に出会ったらよく検討し、正しければ出所を明らかにしてジンパ学に取り込み、さらに未着手の分野を残さぬよう日夜努力しています。例えば、鍋の形の変遷なんかですね。いや、本当、全講義のおしまいごろに絵や写真で生産時期の見方などを教えます。
 このジンパ学は北大生はもちろん、社会人が聞いても損はないんですよ。平成16年度、来年春からですな、北大も国立大学法人になったら、e楡文のこの講座は閉めて、有料の通信教育に切り替えて、私も自分の研究費を稼がにゃいかんと考えているところです。
 もしかすると高校生諸君も潜り込んでいるかも知れないから、いっておくが、北大良いとこ、一度はおいで、ですよ。私は若いとき、東京でアキレス腱を手術したことがありますが、せっかく切れたんだから宮川知平先生といって北大医学部第1期生の経営する大病院に入れて頂いた。あの階段の踏み板1枚が、小さな喫茶店のカウンターになるぐらいでしたね。40日トイレ付きの個室にねんねしてだ、たまたま東京同窓会が毎月出していた会報「エルム新聞」の編集長を務めていたよしみで「君から差額ベッド代は取れないなあ」と負けてくださったので大助かりしました。尽波さん、夕食はなにがいいですか、なんて患者にリクエストを聞きに来てくれる病院なんか、君たち、想像を絶するだろう。
 そしてだね、担当医から、糸は北大式の結び方にしました、これは北大型のギブス切りのナイフです、持ち方はこうするのが北大流なんて説明を聞きながら、つないでもらった。宮川先生は、もうお年だったのでメスは持たれなかったが、私の手の甲の血管に輸液の針を刺してね、手術中付き添って話しかけてくれたね。それで私は平静を保ち、局部麻酔というのは痛みを消すのではなくて、しびれて痛みがわからなくなる、ある学界用語でいえばマスキングというべき現象だと初めてわかったのですよ。
 北大の東京同窓会の事務所は高田馬場、戸塚警察署の斜め向かいのマンションの3階にあるんだが、それは宮川病院の跡地であり、宮川大先輩のお陰でできたものであることを覚えておきなさい。宮川さんが医学部の後輩でキャノンの社長だった御手洗さんに「君は社長だからン10万円出してくれたまえ」と電話したりしてね。どうも、いまの東京同窓会は宮川さんのご恩を知らないような気がするのですよ。
 なぜ3階にあるのか。2階の下の店子を会社にしておけば土日は休みだから、北大OBが集まって同窓会でビールを飲んで酔っぱらう。それでストームやって「札幌農学校は蝦夷が島、熊が棲むっ」てな、ドタドタ、ドッタンと床を踏み鳴らしても苦情が出ないようにという精神科医でもあった宮川大先生のだな、北大生気質を熟知したご配慮による部屋取りだったのです。君たちも卒業して東京に就職するようなことがあったら、ぜひ文学部同窓会だけでなく、東京同窓会にも入って会費を払ってだね、高田馬場を大いに利用してくれ給え。私がいたときは、酔いつぶれたやつ用に布団が一組備え付けてあったよ。
 ただ憎いことに、小樽商大の同窓会事務所は池袋の超高層、サンシャインの中にありやがる。人数が少ないくせに金集めがうまいというか、金持ちが多いというか。いずれ、宮川マンションは建て替えなければならない時がくるだろうから、そのときはサンシャインより高いビルを物色して入ってもらいたい。頼みますよ、ボーイズとね。
 そんなわけでだ、私は筋金入りならぬ、筋糸入りの北大マンと自他ともに許しているんだからね。ビー、ジェントルマン、永年紳士たらんと心掛けてきた私の脱線話に、いまさらうそはないんでありますよ。
 ところで北大生になった君たちは、卒業するまでに間違いなく何10回かジンパをやるだろうが、そのジンパがよってきたる北大とのつながりすらも考えず、ただただ肉ばかり早く食べちゃおうなんてさもしい根性でやっていてはいかんのです。
 ジンパとは、ジンギスカンという人名らしい名詞と料理もしくは鍋という名詞がくっいた複合名詞で呼ばれる料理が正しいのだが、いつの間にかそのジンギスカンの方だけと、英語のパーティーとを接合させてしまった。それがまた、何でも短縮してしまう今風の変化でジンパとなってしまった。まあ変形しなくても和製英単語のひとつであることは間違いありません。
 少数派だが、ジンギスカンとコンパがくっついたという見解もありますけれども、名詞の先頭の音だけをつなぐ方が自然だと私は思っています。私が学生のころは何でもドイツ語。コンパもそうだと聞かされていました。アルバイトがその名残のいい例です。ですから過渡的にはコンパをもじってジンパと呼んだと推定されますが、医者が英語でカルテを書き「都ぞ弥生」に前口上がないと変だと言い出す時代になったからには、パの方の語源は英語といっても、さしたる異議は出ないでしょう。
 インターネットで検索してみればわかるが、ジンパをキーワードにしたアーチクルが結構出てきます。それを手当たり次第見ていくと、その5分の1ないし4分の1ぐらいは北大がらみの書き込みです。東京なんかよその大学では、玄関出たらすぐ道路なんてね、大学構内でジンパをやるスペースがないに等しいから、どうしてもやる機会が少ないということもあるでしょう。だからよその大学でもジンパという呼び方がないでもないが、まあ、天下の大勢からみて北大語といっても過言ではないでしょう。
 だからこそ、筋糸入りの私がジンパを一つの学問として開拓しなければ誰がやる、私がやらねばならん、やろうじゃないか、ビー・アンビシャス・ボーイズ、ということで、このジンパ学の講義を始めたわけです。おっと、ガールズも入れておかないとセクハラとつるし上げ、いや古い言葉だった。学内の委員会にしかられちゃうから、それはやめてと。ビー・アンビシャス・ジンギスカンズと訂正しましょう、わかるかなあ。
 私はそのキーワードであるジンギスカンという名詞のルーツを追い、いろいろな文献や証言を探し、どう情報を見いだせばよいのか、検索とはどういう風にすれば合理的なのかという、きわめて現代的な、実社会に出てから実に役立つ、それが実学ですがね。謙虚にいえばですよ、役に立ちそうな方法論をここに展開し、例証していきたいと思います。
 ああ、いかん、いかん。この「なんとかシタイと思います」という言い方は好かんのです、私はね。そう嫌いつつ思わず使ってしまったのはまずい。いまのは常に注意したいという願望の潜在意識のせいだ。いますぐやる動作に対して、シタイと思いますは変だと思わんかね。皆さんは知らないだろうが、シマスといってもらいたいと、私はかねがね主張してきました。いい終わった途端にやるのにだよ、シタイと思いますは全く変だろう。と思うとなると、そこに若干の間、無理に定義すれば30秒前後の時間が経過するなら許してもよい。
 もう箸で肉を持って口のそばまで持ってきているのに、ではジンギスカンを食べみたいと思いますといい、眺め回すわけでもなく、ぱくっと食べる。ではジンギスカンを食べますといい、ぱくっと食いつく。どっちが的確な予告か、考えなくてもわかるでしょう。
 思う間もなくトンネルを―なんて汽車ぽっぽの歌を知らんだろうなあ。食べます形はハードボイルドなのです。東直己って有名なハードボイルド作家、知ってますね。あの人は小樽商大を中退して、わが文学部に入り直し、宗教学をまた中退したというダブル中退の経歴を持つ先輩なんです。ご本人によると幼稚園も中退だそうですがね。
 ところで、いまはパソコンで検索エンジンをちょっと使い、ジンギスカンと入れれば、思う間もなくもっともらしい解説が簡単に見つかる。それで満足してはいかんのですね。たとえばgoogleにカタカナで入れると、3万9000件ぐらい出るのに対して、平仮名で入れると600件ぐらいしかないのは、なぜか。
 私はgoogleを愛して、その検索法を日夜研究しています。このジンパ学もgoogleなくしては3回で終わり、単位をうんぬんするコマ数に達しなかったでしょう。ヤフーなんてのが何の役に立つのか、私にゃさっぱりわからんのですよ。よくヤフーで情報検索ができる、できると信じていると感心しているくらいで、googleが出る前はgooだったが、いまはgooは使う気がしません。キーワードの見つけやすさではとてもかないません。世の中には頭のいい人がいるものです。正しい意味を確かめるときだけgooの大辞林を使いますね。
 googleの悪いところは、見出しとキーワードの前後の100字を示す短文がシンクロナイズされて切り替わらないことでしょう。外国語の方もそうなのかどうかは知りませんよ。私は横文字のページは作っていないないし、第一、チンギス・ハーンでなくてジンギスカンという英語くさい名詞の正しいスペルがわからん。私のみるところ、短文が差し替えられるのは、半月ぐらい後になりますね。だから、ウェブが更新されて、そのページがなくなっているのにgoogle上では依然古い短文が出ていて、そのページよいずこと探させられたり、私が訂正しても、ウェブの方で直接確かめないで、あの例文だけ見て変わっていないと文句をいわれたりします。あれがよくなり、ロボットの巡回頻度が上がって、新しい書き換えが3日ぐらいで反映されるようになったら、本当にありがたいのですがね。
 でも、検索ロボットはとても真面目にやっていると思いますね。講座を開設して半月ほどしてから「ジンパ学」というキーワードで検索したら、わがジンパ学が堂々トップから2件並んだ。もう1つはポコ庭日記とかいう女性が作っているらしいページで「ソフトボール&ジンパ・学祭の花展」という日記のジンパ・学という箇所を正直に検索してくれたのです。ということはジンパ学という学問は日本初、北大オリジナルな学問分野であり、こりゃ平成15年度か16年度の「21世紀COEプログラム」の人文科学分野ぐらいに申請する価値がありそうだ。アハハじゃないよ。ま、前人未踏だと、そう思って資料調べをすれば張り合いがあるってものです。
 でも、私の講義を聴けば必ずや皆さんも検索エンジンのありがたさがわかるはずであり、情報検索の鉄人になろうという気持ちになると思うのです。いまは大学図書館に限らず、いろいろな図書館が蔵書検索ができるようになっているのです。後の講義で出てきますが、全国の大学図書館などを束にして検索してくれるサービスもあります。北大にはないけれども第2農場隣の武蔵女子短大にあるなんてことが一発でわかる。館外から蔵書検索ができない図書館は無視してもいい時代になりましたね。これを使わない手はない。
 さらに、いちいち触ってほしくない大事な本は画像で公開して、検索だけでなく読めるサービスをしている大学もあります。本当ですよ。例えば、女子栄養大学では創立者の香川綾女史が創刊した「栄養と料理」の創刊号から昭和20年までの分を全ページ、画像で読めるようにしてあるほか、データベースで材料などが検索できるようにしてあります。ですから私は「栄養と料理」では、昭和21年以前に羊の肉料理の記事は掲載してないと断言できるのですよ。そうした便利なサービスの存在を知らない人はびっくりするわけですよ。ちょっと脱線だが、綾女史の息子さんの1人は農学部出身で私と同期です。
 URLを教えて、だって?それがいかん。いまの若者はすぐ他人に聞きたがる。知りたかったらgoogleを使いなさい。誰がために鐘は鳴る―じゃない、誰がために検索エンジンはある―女子栄養大がキーワードです。「今後、準備が整いしだい、戦後の分も順次公開の予定にしております。ご期待ください」と、香川芳子学長はおっしゃっている。そうなれば、いつから「栄養と料理」にジンギスカンが登場したか、はっきりわかることになる。奈良女子大では「伊勢物語の世界」「岡潔文庫」なんて、すごいのがあります。あれを見たら、我が北大も札幌農学校の生徒たちが残したノートなんか画像公開できないかなあと思いますね。昔の人は、なぜか後世、皆に見られることを予知していたかのように、きれいな字を書いているですなあ。啄木なんか、そうですよ。そういうプロジェクトをやろうという文学部OBが現れないものかねえ。
 おっとっと、誇るべきことを忘れるところだった。わが北大には、北大図書館があり、「北方資料データベース」を持っていることを忘れちゃいかんのです。全部ではないが、北海道、北大に関係ある古い写真や地図、本がインターネットで見られるのです。例えば札幌農学校の学生が軍事教練を受けたときの制服の写真があります。クラーク先生は北軍に従軍した軍人だったせいか、南北戦争当時の兵士みたいなデザインなんですよ。
 冗談でなくて本当なんです。いいですか。明治12年4月の函館新聞に、その訓練のことが書かれているのです。資料その2がそれです。読んで下さい。

資料その2

○先年札幌農学校設立の時演武の一科をも課業中に加へ普く生徒をして練兵を演習せしむることに極まり居りしが何分当時適当の教師もなければやむを得ず其儘になり居りし処昨年の十一月より東京陸軍士官学校にて卒業せし加藤少尉を招き教師となして以来生徒は学業の余暇にて練兵の稽古をなし追々進歩し昨今は射的の演習あり却説(さて)此の科を設けし趣意は第一生徒の身体をして壮健ならしめ其筋力を増加し第二は該校生徒たる者は成業の後必ず本使の属籍となるべき者ゆへ今兵学を修業して置かば卒業の後平時には耒鍬(すきくわ)を採て地を耕し一朝事のあるの節に当ては一身を抛ち国家の為め奮戦する為めならんとの由或る人より報知ありぬ

  

参考文献
上記資料その2の出典は明治12年4月10日付け函館新聞1面=マイクロフィルム


 射的といってもコルクを撃って人形を落とす夜店の遊びでなくて、本物の鉄砲を使う射撃です。これは記者が札幌農学校にいって直接聞いたわけでなくて、だれかから聞いたちょっと無責任な話なんですが、これだと体を鍛えるだけてなく、卒業したら必ず屯田兵にするための訓練と誤解されてしまいますよね。
 でも、屯田兵にならないかと声はかけられたらしい。というのは、ジャパンタイムスを創刊した札幌農学校OBの頭本元貞氏が書いた随筆を読みますと、明治17年に卒業したとき屯田兵中尉の任官を勧められた(2)そうです。それから軍装といっているのですが、たとえば
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/photo/l/0B040130000000000.jpg

を見なさい。サーベルを持った指揮官なんか、西部劇の騎兵隊そっくりでしょう。いま私はプリントしてきた紙を張りましたが、長いやつを書き写さなくてもよろしい。e楡文のジンパ学講義録の方にURLを書いておきますから、それをマウスでコピーして見ればよろしい。
 そんな昔でなく、諸君の先輩である北大予科の学生たちが、サクシュコトニ川のほとりで春の到来を喜んでいる写真もあります。こぎれいになり、ときどき開店休業して流れの止まる今の川と比べると、水量が豊富でこれなら明治時代にサケが上ってきたかも知れないと感じるし、彼等の長靴にびっくり。ああ昔の長靴は本当に長かったなあと懐かしくなりますよ、私もあんなのを履いていたからねえ。これです。
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/photo/l/0B048470000000000.jpg

 私の記憶に誤りがなければ、ここはかつての平屋建ての体育館の裏ですな。いまの百年記念館のもう少し北側ね。南門から入ってちょっと西側に、かつて2階建て木造の本部があり、そのあたりも水がわいていたのか裏手に水たまりがあり、それもサクシュコトニにつながっていたように思うなあ。なんでそんなことを知っているかというと、私が茨戸で釣ってきたフナをそこへ何匹か放したことがあるからですよ。
 それから、まだインターネットでは見られないけれども、あるところへ行けば見られるという本もあるのです。ジンギスカンを普及させる上で大きな役割を担った「糧友」という雑誌があります。それは北大図書館にもかなりあるけれども、創刊からほぼ3年分が欠けている。それから月寒の種羊場、いまは独立行政法人「農業・生物特定産業技術研究機構北海道農業研究センター」なんて長い名前に変わったけれど、あそこにはもう少し古いのが保存されています。いずれ羊肉食の研究普及に欠くべからざる文献だと購入していたに違いありません。
 羊肉食研究で重要な資料なので札幌で読める「糧友」のリストを資料その3にしました。以前はスライドで見せていたのだがね。この一覧表の北中は北大中央図書館、農研がいまいった月寒の種羊場こと北農研、北農は農学部図書館の略称です。昭和2年の末尾に11宣言と書いたのは、11月号に糧友會がですよ、ジンギスカンを含む羊肉食の普及を図るぞという宣言が掲載されている。ジンパ学としては重要な号であることを示したものです。農学部図書館は昭和3、4、5年と3年間だけ購入したことがわかりますね。宣言の翌年の昭和3年がほとんどないのは私としては実に残念。同じく1月号も存在しないけれど、これには陸軍糧秣本廠で開かれた国内初の羊肉料理講習会の記事などが載っているので、初のレシピとつけました。ジンギスカンを指す鍋羊肉などのことはいずれ講義で話しましょう。糧友會が帝国陸軍糧秣廠の外郭団体であり、国策としてジンギスカンなど羊肉を使う料理の普及を図ったのです。私の講義を休まずに聞いておれば、この糧友会がいかに羊肉食、羊の肉を食べる新たな食習慣づくりに大きな役割を果たしたか理解できるはずです。

資料その3

 札幌市内で閲覧できる糧友會発行「糧友」リスト

昭和元年
北中 1巻なし                       2月号から発刊
農研 1巻なし

昭和2年
北中 2巻なし 
農研 2巻  2               10,11    11月宣言

昭和3年
北中 3巻                  10,11  1月初のレシピ
農研 3巻1,2,    5,        10,11,12

昭和4年
北中 4巻1,            8,9,10,11,12
農研 4巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
北農 4巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和5年
北中 5巻            7,8,9,10,11,12
農研 5巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,      12
北農 5巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和6年
北中 6巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 6巻1,2,3,    6,7,8,9,10,11,12

昭和7年
北中 7巻1,2,3,  5,6,7,       11,
農研 7巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和8年
北中 8巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 8巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和9年
北中 9巻1,2,3,4,5,  7,8,9,10,11,12
農研 9巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和10年
北中 10巻1,2,3,4,5,  7,8,9,10,11,12
農研 10巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,

昭和11年
北中 11巻1,2,3,4,5,  7,8,9,10,11,12
農研 11巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和12年
北中 12巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 12巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和13年
北中 13巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 13巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和14年
北中 14巻1,2,3,4,5,6,7,    10,11,12
農研 14巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和15年
北中 15巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 15巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和16年
北中 16巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 16巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和17年
北中 17巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11
農研 17巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

昭和18年
北中 18巻1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12
農研 

昭和19年
北中 19巻1,2,3,  5,6,7,    10,11
農研 

 食文化専門の研究者から教えてもらったのですが、東京・品川にある味の素食の文化ライブラリーという図書館にいけば、全巻の画像閲覧ができるとね。1ページずつ読めるということなんですね。味の素がいい社会奉仕をしているんです。札幌では読めない箇所を調べよう思いつつ、あそこへ行くと食文化関係のいい本がたくさんあるので、そっちばっかり読んでしまって「糧友」は昭和3年分ぐらいしか読んでいないのはまずいなあ。
 また、大阪にはケンショクという食品会社の資料室がある。そこには「主婦の友」という雑誌が全巻そろっているのをはじめ、食品関係ばかり15万冊もあるそうです。メセナやってますなんて大きな声も出さず、社長さんがこつこつ集めてきた。奥ゆかしい話ではありませんか。ジンギスカンは軍服を作る羊毛がほしくて開発された料理といえる面があります。残念ながら北大図書館は、そうした女性や主婦対象の雑誌などというヤワな本は全くありません。
 ですから、ジンパ学としてはそうした記事も当たる必要があるわけですが「主婦の友」を創刊した故石川武美氏が設立した財団法人石川文化事業財団が、戦後の昭和22年から女性専用図書館を開いていたのです。珍しいでしょう。お茶の水図書館という名前ですが、そこがに「主婦の友」が創刊号から揃っていることを知りました。読者から得た利益を社会に還元する考えから作られたそうで、ライバル誌「婦人之友」も明治42年からの分があるところがいい。平成15年にリニューアルして男性も利用できるようになったので、私も堂々と入りました。男子トイレもありましたよ、はっはっは。
 親切な司書さんが、こういうのもありますよと次々本を捜してくれたので大助かり、2人で探したようなものでした。その結果、戦前の「主婦の友」の本誌では羊に関する座談会が1回載っただけで、料理はほとんど別冊附録に載せており、編集部の想定する読者層の違いかららしいのですが、所蔵分には載っていないことがわかりました。でも、成吉思荘という国内初のジンギスカン専門店の鍋と推定される写真などの結構な収穫はありました。
 味の素ライブラリーで思い出しましたが、本とはいえないかも知れませんが、栗田奏二さんという立派な方が編集した「日本食肉史基礎資料集成」というものすごい資料が、あるところにあるのです。北大にはないけど、味の素や国会図書館など国内外18カ所に栗田さんが寄贈しているんです。食肉がキーワードと思われますが、古今東西、あっ西は怪しいのですが、森羅万象ありとあらゆる本から畜産、肉食、加工など肉に関する記述を探し出して、コピーした資料集で、最新と思われる資料集のその目次を見ますと、平成13年までに同集成は1000冊を超え、1001冊からは「続日本食肉史基礎資料集成」と呼んでいたんですね。
 便宜的に号で呼ぶと、1号〜394号までは国会、都立図書館など18カ所にあり、395号から760号までは国会だけにあり、761号〜1140号は味の素ライブラリーだけにあり、なおその後も資料収集は続けられているらしい。当然、羊肉も入るから、探せばジンギスカンのことも含まれているはずですが、なんせ分量が多いんだわ。国会図書館の所蔵分を検索しようにも、館外からでは200冊までしか表示しませんから、半分以上は、あるとしかいえない。それで私は1140号までのタイトル一覧を作ってあるので、レポートを書くために見たいという人がいたら、個人的に見せましょう。
 私は、味の素さんと都立中央図書館、都立は広尾の有栖川公園の中にあるのですが、そう、これと思しき40冊ぐらいは斜め読みしましたかな。閲覧時間が長くて休館日が少ない、入館手続きが簡単などの利点から、この基礎資料集成を調べたいときは都立の利用を勧めます。コピー受付が午後8時までなので、その後閉館までの1時間で本をチェックしておき、翌日コピーすると合理的です。広尾には外国人が大勢いて、図書館に行く途中なんか外国の街を通るような気がしますよ。
 私は図書館で本をコピーさせてもらうたびに、本が傷むなあ、コピーせずにすむ方法はないのかと考えます。できるだけ丁寧に扱うのだが、順番待ちの学生君がいると、つい急いで扱いが手荒くなってしまう。それに北大各所にある某社コピー機の出来が悪くてね、ちょっと本や手がボタンに触れたぐらいで同じページが10枚もコピーされたり、紙がとんでもないサイズになったりする。北大生協はあんな位置にボタンのあるコピー機なんかだめだという声が届いていないのか、わからんのかなあ。その対策として2、3アイデアがないわけではないがね。
 ただ、あのマシンは全国大学生協の連合体共通で、コピーカードも共通らしいのですね。東京農業大学の図書館でお借りした本をコピーするためカードを買おうとしたら、新紙幣を受け付けない。どなたかに両替をお願いする前に、北大と同じ機械だし、ダメモトと北大生協で買ったカードを入れてみたら使えた。これはこれはとコピーさせてもらったけれど、後で考えると、なにか詐取したようで、どうも引っかかるものがあります。司書の方にカードが使えたとお話したら、初耳と目を丸くしていました。私は悪事を働いたのでしょうかね。しつこいようですけれど、何々したいと思いますといういい方はやめなさいよ。
 まだ時間があるから、オリエンテーションとはいえ、このまま諸君を解放せずに、少し羊の肉の話をしますか。当然のことだが、北大図書館にはいろんな本がありす。まあ、ジンパ学と直接の関係はないのだけれども、古い緬羊の本の一例を話ましょうか。「牧羊手引草」という明治14年3月に内務省勧農局が出した本が4階の北方資料室にあります。明治14年というと、札幌農学校の第2期生が卒業した年です。かの志賀重昂さんが卒業生代表の内村鑑三さんが行った後輩を励ます挨拶を聞き、ヤソのくせに泣かせると感動して日記を付け始めた年ですよ。おっと、これはちょっと不正確、不穏当な言い方でしたが、まあ、それぐらい遠い昔のことです。
 古い本なので平仮名が変体仮名でね、いまのスキャナーに読ませたら何がなんだかわからない字になると思いますね。ですから初めからコピーはあきらめて筆写させてもらいましたよ。羊の品種説明などは写真でなくて銅版画、ペン画みたいなタッチの絵です。それから用具も絵で説明しているのですが、いまのフォークが糞叉、スコップが糞鏟、金扁に産と書く字で、荷台に囲いの付いた大八車が糞車となっています。北18条の第2農場における家畜飼育の実習でもフンサやフンサンと呼んでいたのでしょうか。まあ、それはさておき、その本の前書きが、配ったプリントの資料その4です。私が読みますから聞いていなさい。

資料その4 牧羊手引艸緒言

牧羊は我國古來未だ曾てあらざりしが、外交盛なるに随ひ、内地の風俗世人の需用も亦往時と變りて、身に絨衣を着け口に肉食を味ふ者、漸く多きに至り、牧羊の業も、自ら人世必須の事となれり、明治八年下總國印幡埴生の両郡に跨る曠原に於て、牧羊場を創立し、米國人「アツプジヨンス」を聘し、生徒五十餘名を徴集し此業を傅へせしめたり、抑、牧羊の業たる、気候飼料の大に關かる所なれば、平常の管理、外國に施すべきも、我國に行はれざることあり、况や、我が牧羊の業、日尚ほ浅ければ、現行の方法も、ゆく/\改變すること無しとせず、此書は、本場まで、大約、五年間經験したる實業諸般の中に就き要を摘み粋を拾ひ、四時の飼養より通常の治療を併せて、単簡易きを旨とし、此業を開設する者の楷梯に供へんとするのみ、完全なる牧羊書の如きは後日を俟ち述る所あらんとす、

    下總種畜場   明治十三年四月

 この「牧羊手引草」は、クラークさんが羊は羊毛と羊肉のために必要だと年報に書かれてから4年後に出た本であり、まだ、羊を飼って5年しか経験のない人が書いたものです。羊を生かして毛を刈るだけで精一杯だったんでしょう。ですから、どういう料理にして羊肉の味見をしたかわかりませんが、一応ですね、書いてあるんです。それが資料その5です。「肉は『サウスダヲン』羊を以て最上とす」と、肉のうまさは、サウスダウンという品種の肉が最高と評価したことを覚えておいてください。

資料その5

羊の大なる需用は毛と肉とにあり毛に亦長短の別あり長毛は粗く短毛は細く「リンコルン」「レスター」羊の如きは長毛にて「メリノウ」「サウスダヲン」羊の如きは短毛なり毛は「メリノウ」肉は「サウスダヲン」羊を以て最上とす総てその皮爪骨角糞尿等に至るまで悉く工業農務に有用の物なり

  

参考文献
上記(2)の出典は文藝春秋社編「文藝春秋」昭和10年8月号23ページ、頭本元貞「英字新聞発行に至るまで」、昭和10年8月、文藝春秋社=原本、資料その4と同5は後藤達三編、高鋭一訂「牧羊手引草」2ページ、明治14年3月、内務省勧農局=原本


 このサウスダヲンは、いまサウスダウンと呼ばれている種類ですから、そう書こうかと思ったのですが、本の字がどう見てもウでなくヲに見えるので、あえてダヲンとしています。こう書いてあるからには、少なくとも「リンコルン」「レスター」「メリノウ」「サウスダヲン」の4種を食べ比べてみたことになります。でなければ「アツプジヨンス」さんの味談義を受け売りしたか。ともかく、あちらから直輸入した高価な羊でありますから、よぼよぼのやつでも処分し、肉鍋にでもして恐る恐る食べてみたのでしょうね。
 そんなころにですよ、クラークさんは、支那産を引き合いに出してだ、私は「良好ノ綿毛ヲ生スル處ノ『カリフオルニア』種ヲ取ランナリ」と書けたのか―何か根拠があったはずですよね。クラークさんは植物学者であり、マサチューセッツで支那や蒙古産の羊を飼って調べたわけでもない。詳しくは下総御料牧場を取り上げるときに話しますが、クラークさんたち3人は日本に来て、札幌に向かうまでほぼ1月、東京に滞在した。その間に下総に出かけて牧場開場に携わったアップジョンスとレーサムという勧業寮御雇の外国人に会ったとホィーラーさんが母親宛に書いた手紙にありますから、その際、肉はともかく、毛を採るならアメリカ産に限ると聞いたと思われます。
 では、クラークさんたちが訪れたとき、下総ではそういう優劣判定を下せるほど支那種を沢山飼っていたのかと私は疑問に思ったので調べてみました。それで「旧勧業寮年報撮要第一回」には「八年五月官員ヲ清国ニ派遣シ数百頭ノ驢ト羊トヲ購求セシム(3)」とあり、川島一郎という札幌農学校OBが書いた論文「本邦に於ける緬羊業の変遷」に「八年には武田昌治支那羊百二十四頭を清國より購入し又横濱に於て洋種緬羊九頭を購入せり。(4)」とあるとわかりました。ですからクラークさん一行は、下総でそれらを1年飼った経験談を拝聴できたわけですね。
 馬牛豚に比べて緬羊の飼育はうんと後発でね、その公式記録がろくろく残っていないため、ジンパ学では新聞や雑誌の記事を頼りにせにゃならんこともしばしばでね。それで副産物というか、思いがけないことを知ることもあるんですなあ。たとえば津田仙がクラークさんと会い、こりゃ立派な教育者だと、すぐ自分が発行していた「農業雑誌」でベタ褒めしていたことなんか、それですね。津田は津田塾大の創始者津田梅の父親で開拓使に務めたこともあるので、道立文書館に津田仙弥と署名した書類が残っています。
 津田は日本人のメソジスト派信者第1号、自分が発行していた「農業雑誌」に玉蜀黍の種を売る広告を載せたので、通信販売の元祖とされたりユニークな農業者です。資料その6は、クラークさんの活躍を期待した津田の巻頭言。クラークさん、だれかから訳文を聞いて、ますます張り切ったことでありましょう。「農業雑誌」15号は中央図書館の新渡戸稲造文庫にあります。

資料その6

   農業興起ノ徴         津田仙

曩キニ王政ノ更始セシ以來或ハ英ニ擬シ或ハ仏ニ倣ヒ文
武ノ学日ニ興リ百工技芸ノ開クルモ亦月ニ盛ンナリ然リ
ト雖モ農学ノ点ニ至テハ之レヲ講ズルノ士世ニ稀ナルヲ
以テ有志者ノ茲ニ憾アル久シカリシ
然ルニ本年六月ヲ以テ我日本政府ハ公告シテ曰ク農学生
徒一員ツゝ各府県ヨリ入場ヲ差許スニ付キ志願ノ者ハ本
年八月十五日ヲ限リ勧業寮マデ申出ツベシト
吉報ヲ得ル斯クノ如クナルニ巳ニシテ又一ノ欣嘉ス可キ
美事アルニ際ス夙ニ農業試験場ヲ設立セラレタル開拓使
ハ更ニ米国大博士「クラールク」氏ヲ招聘シテ札幌農学校ノ
教師トセラレタリ「クラールク」氏ノ我邦ニ入リクルハ實ニ
本年ノ六月ニ在リテ爾來我輩ハ数回ノ面語ヲ得シニ談ズ
ル所説ク所一トシテ妙味アラザルハナク碩学ノ名声ノ已
ニ欧米ニ籍々タル左ノ小傳ノ如クナルモ果シテ其理由ア
ルヲ知ル同氏ガ脳底ヨリ発スル所ノ功益ハ豈独リ北海全
道ニ限ランヤ応サニ我邦全面ノ農術ヲ進ムルニ至ルベシ
美事ノ並ビ起ル斯クノ如クナルニ感ズルノ余筆ヲ取テ此
文ヲ綴ル
 「クラールク」氏小傳   本年六月米国ボストン府
              刊行農業新聞ヨリ抄訳
マッサッチュセット農学校大統領ウイルリアム、ヱス、クラールク君
ハ一千八百二十六年ヲ以テ米国マッサッチュセット州ノ「アスヘル
ド」ニ生ル同四十八年ニ至リ始テ「アムヘルスト、コルレーヂ」
ニ於テ卒業ノ免許ヲ得タリ同氏ハ兼テ鉱學ニ長シタルヲ
以テ採鉱ノ功ヲ奏セシコト数回ナリ尋テ「イーストサンプトン」
ノ学校ニ教師タルニ閲年欧洲各邦ヲ巡歴シ理化、本草、採鉱
等ノ諸学ヲ研究セルコトモ亦二週歳始テ本国アメリカニ帰
ル復タ「アムヘルストコルレーヂ」ノ化學博士タリ
南戈北戟相接シ砲煙硝霧天ヲ蔽フノ日ニ当リ同氏擢ラレ
テ マッサッチュセット州軍二十一レヂメント隊ノ都督タリ而シテ
一千八百六十四、五、七、ノ年間ニハ三度ビ立法官ニ挙ゲラレ
タリ同六十六年ヲ以テ又カノ農学校ノ本草学博士ヲ兼務
セリ該校ノ昌盛ナル米國ニ最タルノ称ヲ得シモ皆同氏ノ
其職ニ任ヘタルニ依ル日本政府ノ為メニ同氏ガ功傚ヲ奏
スルハ当サニ日ヲ期シテ俟ツベキナリ
「クラールク」氏ハ去テ日本ニ航シタルモ今尚ホ マッサッチュセット
農学校ノ統領タリ同氏ノ本年六月一日ヲ以テ將サニ桑港
ヲ発セントスルヤ該校ノ学生ト同氏ノ交友トハ皆共ニ別
レヲ惜ミ同氏ガ早ク安全ニ帰帆シテ再ビ職椅ニ凭ルアラ
ンヲ冀望セリ該校ニテ卒業セル「ペンハルロー」「ウイーレル」
ノ二氏モ亦共ニ「クラールク」氏ニ伴ヘリ同氏ト共ニ札幌農
学校ニ教師タルガ為メナリトゾ
 右「クラールク」先生ノ試験ニテかぼちやノコトニ付物性学
 上ノ発明アリ頗ル有要ノ説ナレバ之ヲ次号ニ掲グ可シ

 ダラーがドルラルなんて明治の英語はRをルと忠実に書くが、クラルクさんの経歴の勉強にもなったかな。ふっふっふ。私はこの一文を見付けて資料に加えて満足してね、クラルクさんの南瓜論文を探さなかったのだが、北大文書館の井上高聡さんが16号からの「農業雑誌」を調べたけど「該当する記事の掲載はなかった。(5)」そうです。
 さて、羊肉の話ではないのですが、明治12年に尾崎行雄という人が「小学農課書」という本を出しています。オザキユキオ、聞いたような名前だと思う人はいるかな。当然のことですが、怪童と呼ばれた東映フライヤーズの尾崎投手ではない。憲政の神様と呼ばれた尾崎咢堂なんです。若き尾崎が書いたその本の「家畜ノ置キ場所」にある羊の話を抜き出したのが資料その7です。

資料その7

<略>亜米利加ノ農学家嘗テ種類、年齢、掛目共ニ同様ナル三疋ノ羊ヲ撰ンテ一疋ハ庭ニ繋キ一疋ハ通常ノ小舎ニ置キ一疋ハ四面ヲ閉塞シテ暗黒ナル小舎ニ入レ毎日各一磅ノ燕麦ト食ヒ得ル丈ケノ蕪菁トヲ給与シ四個月ノ後チ之ヲ検査セシニ第一ノ羊ハ蕪菁一千九百十二磅ヲ食フテ体量二十三磅半ヲ増シ第二ノ羊ハ蕪菁一千三百九十四磅ヲ食フテ体量二十七磅半ヲ増シ第三ノ羊ハ蕪菁八百九十六磅ヲ食フテ体量二十八磅四分ノ一ヲ増セリ則チ蕪菁一百磅ニ付キ第一羊ハ体量一磅八分ノ一ヲ加ヘ第二羊ハ二磅ヲ加ヘ第三羊ハ三磅十六分ノ一ヲ加ヘタル割合ナリ第一羊ト第三羊トヲ比較スレハ第三羊ノ食ヒシ蕪菁ハ第一羊ノ食ヒシ半ハニ及ハスシテ其体量ノ増加セルコト却テ第一羊ノ上ニ出ツ是レ唯タ之ヲ畜ヒ置ク場所ノ寒暖ト其運動ノ多寡ヨリ生セシ差違ナレトモ之ヲ見ハ誰カ為メニ厩舎ノ等閑ニ付ス可ラサルヲ感セサランヤ能ク外気ノ寒冷ヲ防ク所ノ小舎ニ畜ヒ置ケハ体熱ヲ要スル少ナキカ故食料ヲ減スルコト此ノ如ク多フシテ掛目ヲ増スコト亦少ナカラス去レハ新タニ精良ノ小舎ヲ築造スルモ其費用ハ一方ノ所得ヲ以テ忽チ之ヲ償フヲ得可シ抑モ之ヲ暗所ニ置クハ新奇ノ一法ラシテ動物ヲ肥大ナラシムルノ功能頗ル多キ者ナレハ人ノ食料ト為ス可キ畜類ヲ養フ者ノ如キハ皆此法ヲ以テス可シ然レトモ只管之ヲ暗黒ナラシメントスルトキハ空気ノ流通ヲ妨ケ動物ヲ害スルノ恐レアレハ厩舎ヲ造ルニ方テ能ク是ニ注意セサル可ラス

 早い話が、羊を肥らせるには暗い小屋で動き回らせずに置くに限る。さりとて空気の流れの悪いのもよくないから、その辺はよく考えて小屋を作りなさいよと尾崎は書いたのですね。「緒言」に「米国ノ農学博士ノルトン、ジヨンストン諸氏ノ農業書ニ原キ傍ラ内外古今ノ諸籍ヲ参酌シテ植物動物地質ヨリ其種殖畜養肥培法ニ至ル迄農課ノ要旨ヲ記述シ童蒙初学ノ階梯ト為ス(6)」とありますが、尾崎は緬羊を見たことがあったかどうか怪しいなあ。
 尾崎は明治10年に工学寮を退学して著作活動を始め、父親が書いた野蚕の本を出したのを手始めに、翻訳をしたり演説法の本を書いたりしています。その後、明治12年に新潟新聞主筆になるのですが、この就職が決まるまで生活費稼ぎに何でも手がけたとみますね。
 それから検索例としてですが、成田市のホームページを見ますと、市内にある三里塚御料牧場記念館のことが出ています。牧羊生の教授科目一覧、馬の骨格解剖図、旋毛集などの関係資料を展示しているというので見に行きましたが、よくわかりませんでしたね。宮内庁がかつて園遊会で使われたというジンギスカン鍋がありましたが、これはとても鍋なんていえない大物で、いうなればオール鉄製の四角い座卓でしたね。記念館の隣にアップジョンズさんが住んでいた家が保存されています。アップジョンズさんは後に強盗に襲われて重傷を負い、退職するんですね。明治の東京日日新聞に書いてありました。下総牧羊場の講義のときに取り上げますが、この人の名前をアップとジョンズを・で切り離す書き方は誤りですからね。
 農場で思い出したが、道農産課長だった梁田参という人が「可成拓けた明治二十二年頃、札幌農学校第一農園のバーンの床下の豚が襲はれ逃げ延びた豚が、札幌停車場前のアカシヤ並樹通に算をなして倒れてゐたことでも想像される」(7)と講演した記録があります。農学部の北側あたりからJRタワーの向こうまで、豚が命がけで遁走、息切れして伸びていた。180万市民の札幌で、いまも熊出没に注意なんてテレビがやっていますね。そういう点ではあまり開けていない、いや自然がいっぱいと誇るべきことなんですなあ。おっとっとっ。脱線しないよう気をつけにゃ。
 大正11年に東京で平和記念東京博覧会が開かれ、北海道からいろいろなものが出品されました。緬羊も出品されて空知の北村からの羊が上位に選ばれています。そのとき平和記念東京博覧会北海道出品協会という一時的な窓口組織が作られ、道内の人口、行政、交通などさまざまなことの現況を説明した「最近之北海道」という本を出しました。その緬羊の分を抜き出したのが資料その8です。

資料その8

  緬羊
 本道の風土は緬羊の飼養に好適し農家の副業として前途極めて有望なりとす農商務省に於ては夙に本道に月寒、滝川の二種羊場を設置し年々払下を行ひ牧羊を奨励し來れる結果順次其の数を増加しつゝあり<略>本道牧羊の種類はシユロツプシヤー種最も多く総頭数の三十九割三分を占め之に亜ぐをサウスダウン種の十九割四分とし次は毛質優れたりと称せらるゝランブイーエメリノー種十四割二分支那羊八割一分雑種七分の順位にして雑種最も少なく去勢羊は十一割三分なり<略>

  

参考文献
上記(3)の出典は内務省勧業寮編「旧勧業寮年報撮要  第一回」17ページ、明治10年7月、内務省勧業寮=近デジ本、 (4)は中央畜産会編「畜産」2巻5号16ページ、大正5年5月、中央畜産会=館内限定近デジ本、  資料その6は学農社編「農業雑誌」15号1ページ、明治9年8月、学農社=館内限定近デジ本、 (5)は北海道大学大学文書館年報10号46ページ、井上高聡「札幌農学校教頭W.S.クラーク着任に対する反響」より、平成27年3月、北海道大学大学文書館=原本、 資料その7は尾崎行雄著「小学農課書」42丁左、明治12年8月、慶応義塾出版社=近デジ本、(6)は同2丁左、同、 (7)は北海道庁農産課編「農事彙報」18号1ページ、梁田参「北海道農業七十年の歩み」より、昭和14年4月、北海道庁経済部農産課=原本、資料その8は平和記念東京博覽會北海道出品協會編「最近之北海道」69ページ、大正11年3月、平和記念東京博覽會北海道出品協會=近デジ本


 千分率ならこう読むのかも知れませんが、百分率でこんな表現でも許されたのか、初めて見ましたよ。そのころは、こう数えていたのでしょうか、わかりません。また、屠畜という項もありまして「本道に於ける肉畜の需要は逐年増進し豚の如きは最近五年間に約三千頭の増を見るに至り肉牛の如きも道内生産のみにては之が需要に応ずる能はざるを以て年々府県より千頭乃至千五百頭づゝを移入するの実況なり馬の漸減は府県移出増加の関係あるも一面嗜好の向上に因るものゝ如し」(8)と、大正5年から9年までの牛馬豚と緬羊山羊の屠殺数を挙げています。つまり80年ほど前、牛が足りないくらい牛肉を食べたのに緬羊は大正7年の44頭を最多として、毎年20頭前後(9)で、とても食肉とは思えない少なさです。真駒内の種畜場長だった村上要信は明治40年に「本邦人民は外人と異なり食用に消費する所の獣肉は彼より頗る少なく之に代わゆるに魚肉を以てす衣服用に消費する所の織布に要する所の材料たる繊緯は獣毛を多く用ひずして棉麻絹絲を以てするも将来を推測すれば年は一年より多く食膳に獣肉を供することゝなり衣服に絨毛を用ゆることゝなるは鏡をかけて見るが如く昭々乎として明なり」(10)と本に書いたが、その推測通り本邦人民は肉大好きになった。赤道の向こうやオーロラの彼方から羊肉を輸入してジンパ、ジンパ学なんですから、ジンギスカンも草葉の陰でびっくり。はっはっは。

  

参考文献
上記(8)と(9)の出典は平和記念東京博覽會北海道出品協會編「最近之北海道」72ページ、大正11年3月、平和記念東京博覽會北海道出品協會=近デジ本、 (10)は村上要信著「山羊飼方」83ページ、明治40年7月、村上要信=近デジ本


 ついでですから、私が皆さんにどのようなレポート提出を望んでいるか。初回から真面目に出席してくれた諸君のために、いまからその実例を示す、もう1枚の資料を配ります。私の講義は毎回、いろいろな文献や新聞記事の引用などをまとめたプリントを配ります。私のジンパ学で優を取ろうと狙っている諸君には非常に参考になるペーパーですぞ。
 この資料は、私が昨年、最高点を付けた男子学生、新聞みたいにA君とでもしておきましょう。そのA君のレポートのさわりです。コピーして配る理由の一つはだね、正直いいますとね、私もこの漢詩を読み下せず、お手上げだったということもあるんですわ。
 A君は、中央図書館の蔵書を手当たり検索したんですね。家にいてもね。牛や羊を飼うのは畜産である。昔は酪農とはあまりいわなかった。満洲に進出した開拓団にしても、単に満洲でなく満蒙だ。満蒙開拓団、満蒙開拓青少年義勇軍、蒙古も含めてそう呼んでいた。その前のある時期は鮮満、朝鮮と満洲を束にしていた。こうした適切なキーワード選びが大事なんですね。
 それで中央畜産会が大正4年から「畜産」という雑誌を発行しているのを見付け、創刊号からどんどん見ていったのですね。私はもちろん「畜産」は調べています。次回に取り上げる北大の初代総長、佐藤昌介先生の檄文なんかを見付けていますよ。当然、A君の見付けた漢詩も中川さんの談話も知っていました。いや、ほんとに。
 この漢詩並びに序に出てくる高柳将軍は、元陸軍中将(11)です。兵卒として日清、日露の両戦役にも参加したのでしょうが「日本陸海軍人名辞典」には第1次世界大戦末期の大正7年、ドイツの植民地だった中国チンタオ、青島と書くのですが、その攻略に加わり、さらにシベリア出兵でウラジオストック派遣軍の参謀長を務めた(12)となっています。大正11年に予備役になっているので、まだ調べていませんが、大連にあった満蒙文化協会という文化団体に天下りしたのでしょう。とにかく従軍中か退役後かジンギスカン鍋を手に入れて、持っていたのですね。
 私はA君のレポートを読んでびっくりしましたね。まさか学生が、そこまで熱心に調べるとは思っていなかったので、文句なしに最高点を付けました。副賞に北大生協のジンギスカンセットでもご馳走したいくらいでしたね。はい、資料をよく見て、どれぐらいレベルか覚えておいて下さい。

    A君のレポートから

 「畜産」という雑誌の大正13年3月号で「成吉斯汗鍋歌竝序」と題した漢文と漢詩の囲み記事を見付けました。僕は漢文が苦手で、本物の中国語らしいこの序文はとても解釈できないのですが、字面から大意を考えてみました。

成吉斯汗鍋歌竝序

癸亥杪冬、高柳将軍以其昔年行軍時所得蒙古食器成吉斯汗鍋饗客於満蒙文化協會館宅後荒原上、高柳將軍者、名保太郎日本之宿将、甲午甲辰二役、均参與其間、豪氣當年、坐消醇酒、樂與文士晉接、於文化協會事業、尤多盡カ、當日之宴、一切皆将軍親為部署、謂饗此鍋者、例當以夜而不以晝、當在郊外不在室中云、不侫亦忝被所邀、因作歌以紀之。(楊彙吾)

朔風歴歴寒雲赤。高柳将軍夜饗客。将軍饗客不在青瑣闥。翠雲窩。又不用銀鑿落。金叵羅。聯帷作帳荒墟。燎火噴餤高空摩。環以釜リ實熾炭。覆以鐵箆隆然駝。大筋尺八所見稀。牛羊■<臠の右に刀>切維其多。腥羶燔炙氣噴鼻。鹽椒醢醤悉相合。食風醇樸逼初古。云是英雄成吉斯汗鍋。威吉斯汗不可作。将軍高柳髀生肉。天似穹盧野垂。何處沙陀覓遺鏃。大球萬口喧和平。槽櫪空教騏驥伏。景慕前賢感慨多。英雄老去髦鬢皤。吁嗟乎。寧使英雄髦鬢皤。無令大球之上飈<風扁に火を3字>馳鐵馬揮金戈。謹謝高柳将軍饗我成吉斯汗鍋。濡毫爰作成吉斯汗鍋之歌。
  

参考文献
A君レポートの漢詩の出典は畜産中央会編「畜産と畜産工芸」第10巻3号75ページ、大正13年3月、中央畜産会=原本


 先頭の癸亥は大正12年の干支なので、これは前の年の木枯らしが吹くころ。甲午(明治27年の日清戦争)と甲辰(明治37年の日露戦争)両戦役に従軍した高柳保太郎将軍が、戦地で取得したジンギスカン鍋という蒙古食器を使い、満蒙文化協會館の裏手の原っぱでジンギスカン宴会を催し、私(楊彙吾)を招待して下さった。
 豪傑肌の高柳さんは文化協会の事業に力を尽くし、宴会も高柳さんが一切仕切って開かれた。高柳さんによれば、この鍋は昼間より夜の方が合うし、部屋の中より戸外でやるものだと。忝なくもご招待に預かったお礼にこの歌を作った―というのが、序の説明だろうと考えました。続く漢詩を超意訳してみたのが下記です。

 北風が吹き赤い雲がはっきり見える夜、高柳将軍はお客を宴に招いた。炉に炭火を起こし噴火のように空を照らした。そこへ一尺八寸ほどの大鉄鍋を掛け、適当な大きさに切った牛肉と羊肉がたくさん運ばれてきた。羊の肉を炙ると生臭さが鼻につくが、塩、醤油など何味にも合ってうまい。初体験の素朴な食べ方で、ジンギスカンが考え出したものではないらしいが、英雄ジンギスカン鍋というそうだ。天高き砂漠の古戦場よいずこ、皆大鍋を囲んで和やかである。ジンギスカンもこうして肉を焼いた食べたかと、つい思ってしまう。頭が白くなった英雄は老いて消えたか。いや英雄はこれを食べて元気を付け、老いても戦火を交えることを忘れず馬を走らせ戈を振るったに違いない。謹んで高柳将軍のジンギスカン鍋に感謝し、ここにジンギスカン鍋の歌を作り、書き上げた。

 この漢詩から、大正12年に高柳将軍がジンギスカン鍋と称して、直径50センチぐらいの鉄鍋を使い牛肉や羊肉を焼いて食べさせたことはわわかります。その鍋料理は当時、満洲人と呼ばれていた中国人でも初めて聞く料理の名前であり、初めて経験する食べ方だったので、強く印象に残り、作歌に及んだことは確かだと思います。クラスメートにジンギスカン鍋は戦後の食糧難から考え出された食べ方だという者がいますが、そんな歴史の浅いものではないと、この漢詩からも立証できます。
 さらに「畜産と畜産工芸」の大正13年10月号に、中川兵三郎という人が書いた「民国人の飲食料品」という報告が載っていました。その「鳥獣類」の項に以下のように書いています。

 全支那を通じて肉食の盛んなる事我国人の想像外である、殊に北方は寒気が猛烈である丈多くの脂肪食をとる必要がある、夏季に於ても料理の主要材料は魚でなくして獣肉類である、支那人に何が一番美味いかと問えば十中八九は豚肉であると答へる、熱い台湾でさへも肉食の盛んなる驚くの外はない、台湾に産する丈けでは尚不足を告げ年額三千頭の豚を鹿児島から輸入して調節して居る状態である。
(イ)猪肉 これは豚肉の事である。全支那一切の料理は豚に左右されてゐる、食道楽に於ける材料は云ふ迄もなく一般人の正月や結婚葬儀に於ける料理は殆ど豚肉である、一斤の価格は三十余銭である、回々教徒は決して豚肉を食はず牛肉による。
(ロ)牛肉 日本人は牛肉を歓び豚肉を余り好まない、支那に於ては牛肉の需要は豚肉の次位になつて居る、実際豚肉の軟かなる点に於いて脂肪分の豊富なる、牛肉の比すべきでない、從つて価格も豚肉より安い。
(ハ)羊肉 羊の肉は支那では牛肉以上に使用されて居る、羊肉專売の羊肉館がある位である、北京で有名な焼羊肉(かおやんろふ)は羊肉料理で日本人の嗜好に投じ甚吉斯汗料理と称して居る。
  

参考文献
 出典は満蒙文化協会編「満蒙」51号103ページ、中川兵三郎「民国人の飲食料品」、大正13年10月、中央畜産会=原本


 これは中国北京の実情を述べたものであり、北京の羊肉料理店側が、日本人客を引きつける売り方として「甚吉斯汗料理」という名前を考え、日本人の好みそうな英雄伝説も作り出したことを示唆しています。
 陸軍北支方面軍参謀副長などで北京で3度春を迎えたという小樽出身の有末精三は、当時親日派の斉燮元という将軍に招かれ「中秋の一夕」「お庭でパイカル(ウォッカ)を飲みながら成吉思汗焼羊肉を御馳走になった。遠征の後凱旋した昔の将軍が煙を避けるため、野外での野宴だと説明されながら痛飲、」した。「斉将軍は酔う程に六尺の巨体を横えて『葡萄美酒夜光杯 欲飲琶琵馬上催 酔臥沙場君莫笑 古来征戦幾人回』」と吟じたと本(有末精三著「政治と軍事と人事」245ページ、芙蓉書房、昭和57年8月出版)に書いています。
 この詩は王翰の作だとありますが、その詩人も羊肉を焼きながらジンギスカンと武将たちの宴会を連想し、また斉将軍も共感するところがあったから戦勝の宴会だと説明したのであって、あながち料理屋が宣伝用に作り出した料理名ではないと思います。
 大正13年の雑誌「満蒙」を見ると、発行所の満蒙文化協会の住所は大連市紀伊町91番地になっていますから、高柳将軍は大連もしくはその近辺でジンパを催したはずです。それで「大連市史」をみたら同協会は「満蒙の文化開発を図り、併せてその実状を広く内外に宣伝するの必要を認め」大正8年に発足「公平無私の立場に於て日支両国の会員を募集し、日支親善に努め」たとあります。また「雑誌満蒙は月刊にして創設以来継続(1)」とありました。ですからジンギスカン鍋への招待は、やはり親善活動の一つと思います。
 北京はジンギスカン料理、ジンギスカン鍋という呼び方の発祥地の有力候補であり、それが大正10年代には船で往復できる天津経由で大連に住む日本人に伝わり、また羊肉もあったので、焼いて食べるジンギスカン鍋になじみ始めたと考えられます。
 また中川が書いた甚吉斯汗料理という書き方は珍しいようで、たまたま47代総理大臣になった芦田均の日記で見付けました。芦田は昭和32年3月5日に東京の椿山荘で「Bayernの薬会社々長を迎えて郡是が歓迎会を開いたのである。波多野社長、長井亜歴山君など来て甚吉斯汗料理を平げた。(2)」と書いています。
 しかし、もう1個所は違っています。昭和31年4月7日、やはり東京の光輪閣でアメリカのボーイスカウト隊の歓迎会で英語でスピーチして「それからジンギスカン肉をたべて十二時前退去。(3)」と変な書き方をしています。芦田は鍋とでも書いたつもりで肉と書いたと推察されます。
                  以上
  

参考文献
 1=大連市編「大連市史」756ページ、昭和11年9月、大連市役所=原本(非売品)、2=芦田均著「芦田均日記」6巻297ページ、平成4年2月、岩波書店=原本、3=同115ページ、同

 どうです皆さん。私が高く評価した理由がわかりましたね。その辺のホームページに書いてあるような、単純な「だろう」推理の史観とはまったく違うでしょう。単行本になっている市町村史や事始め物語とはまったく異なる畜産サイド、肉の側に求めるという着想がよろしい。私は、言うなればプロですから同じように畜産関係の文献を調べて当然ですけれども、アマチュアといえる受講生が自分で考え出した。今後A君は何を専攻するか知りませんが、必ずやこういう成功経験が生きてきますよ。わかりますね。皆さんも努力して、このA君に負けないびしっとしたレポートを書き上げて提出するようにね。
 それからA君は甚吉斯汗の甚を珍しいと報告してますが、反対に尻尾の汗のさんずいを取って干す方の干と書いたのは理化学研究所長だった大河内正敏。「日本でなきと謂はれて居る合鴨は、慥かに肉の味で支那や巴里のものよりうまい思ふ、此料理を日本で始めたら、支那料理の所謂成吉斯干料理と並んで喜ばれる事と思ふ。(13)」と書いています。これを初めて掲載したのは昭和8年の「文芸春秋」1月号で、後に少なくとも3冊に再録されていますね。
 ほかに書いた人はいないかと探したら、札幌農学校の大先輩、内村鑑三さんもそうだった。「成吉斯干の都なるカラコームの城市がゴビの砂漠に繁栄を極めたのは今より僅かに千年以内の事であつた。(14)」と使っていました。中国語では汗はハンと発音するけど、干すの方だとガンです。でも日本語だと、どっちもカンだから字は関係ないか。うっふっふ。
 脱線序でにいうが、明治11年に杉山繁という人は「古来史乗ニ載スル所ヲ見ヨ。唯隣境敵国ヲ噛喫并呑シテ其国土ニ合セ、以テ富強ヲ誘クノ一手段アルノミ。」といい、そうしたことをしたたアレキサンダー大王とかシーザーとともにジンギスカンを挙げ、現幾斯罕(15)と書いてます。これはゲンキスカンと読めそうだね。また植木枝盛は「言論自由論」で思ではなく利益の利にした成吉利汗(16)を書いているし、明治22年の「中外法律集誌」の論文の題名に「●源義經ト元祖成吉利汗ト同身ノ説(17)」があるし、明治2年代にあった湖亭会という歴史研究会で小笠原長育という人が「源義経は元祖成吉利汗なるの説(18)」を語ったことが大正11年の雑誌「歴史地理」からわかる。
 それから「亜冨汗斯坦地誌」に「銕木兒ハ成吉汗ノ孫女ノ子ナリ(19)」など成吉汗という3字書きは結構あるけど、仁吉汗は、いずれ取り上げる遅塚麗水の「満鮮趣味の旅」の冒頭の題名のない詩にある「帳外風は烈うして萬馬奔る 憶ひ起こす當年の仁吉汗(20)」しか知らんが、探すと、もう2つ3つあるかも知れん。
 いまA君のレポートを褒めたけれども、中川兵三郎はどこで何をしていた人物なのか、いつごろの北京での見聞を「満蒙」に書いたのか―という点の説明がありませんね。それで私が補足しておきたいのだが、きょうはオリエンテーションであり、もう時間もないから、近いうちに話しましょう。
 何か質問、ありませんか。(チに濁点のヂンギスカンでも漢字のジンギスカンでも、差し当たり大正13年より古い用例を見付ければいいのか―との質問に対し)その場合はそれで結構です。当然、見付けた、あっただけでなく、そうなった必然性の説明といいますか、時代背景を考察することになるでしょうからね。私もそういうレポートに接すれば検証せざるを得ませんし、成果をジンパ学全体に反映させていくことにより、わが北海道大学ならではのアカデミックな水準をさらに押し上げていけますからね。はい、ほかに。
 (鍋の考察でもいいのか―との質問に対して)はい、いい質問ですねえ。古いほど歓迎します。北海道開拓記念館には義経鍋という変形型1枚しかなかったが、私の秘書兼御用人の仲介で、月寒種羊場に務めていたさる方がジンギス印2枚を寄贈したので3枚に増えました。古い鍋は第2次大戦中の金属供出といって、大砲や弾丸にする金属不足を補うため家庭にあった使わない鍋釜などを愛国心の発露としてお役所に差し出させたので、残っていないかも知れませんが、ぜひ捜してレポートに書いてください。
 私は滝川市郷土館、札幌市西区のレトロスペース・坂会館などいくつかの所蔵施設とコレクター数人を知っています。これらを合わせても100枚そこそこ。滝川のは金網も入っていますし、レトロ坂にはいまのアルミ製の使い捨て鍋の祖先といえる鉄板プレスの鍋もあります。私の調べとダブってもいいですから、鍋の在り場所とその経歴、何年ごろ使われたとか特許番号を見つけてください。太平洋戦争前の鍋なら文句なしに最高点ですね。ここの前のページの末尾に実在がつかめない鍋の絵を2枚示しました。これは一例に過ぎませんよ。どこか古いお屋敷の藏の奥にでも残ってないものかねえ。鍋でレポートを書くつもりなら私の研究室にきなさい。私の写真コレクションや資料を見せましょう。
 なければ、これでオリエンテーションを終わりましょう。

  

参考文献
上記(11)と(12)の出典は福川秀樹編著「日本陸海軍人名辞典」286ページ、高柳保太郎の項、平成11年12月、芙蓉書房出版=原本、 (13)は大河内正敏著「味覚」120ページ、昭和22年3月、有情社=原本、 (14)は内村鑑三著「内村鑑三全集」3巻160ページ、昭和7年6月、岩波書店=同 、 (15)は加藤周一ほか編「日本近代思想大系 12 対外観」115ページ、岩波書店、同、 (16)は植木枝盛著「言論自由論」8ページ、明治13年7月、愛国社=近デジ本、 (17)は三学社編「中外法律集誌」1巻1号15ページ、明治22年2月22日、三学社=館内限定近デジ本、 (18)は日本歴史地理学会編「歴史地理」40巻5号395ページ、番町老人「史傳及雜録 明治修史事業の回顧(3)」より、大正11年11月、吉川弘文館、同、 (19)は引田利章編「亜冨汗斯坦地誌」133ページ、明治18年8月、陸軍文庫=国会図書館インターネット本、 (20)は遅塚麗水著「満鮮趣味の旅」ページ番号なし、昭和5年4月、大阪屋号書店=原本


 (平成15年5月の講義速記をベースに随時加筆修正をしております。著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたらご注意下されば助かります)