明治の人々に緬羊と山羊の違いを教える

 ジンギスカンという料理の主役は羊の肉です。わが北海道大学はだ、そもそものルーツは札幌農学校であることはいうまでもありません。農学校であるからにして、生徒は当然農学を学んだわけだが、その昔、兵学科という学科があったのは知らないでしょう。あちこちの屯田兵の頭のいいやつを選抜して勉強させるコースがあったんです。琴似や八軒を耕していた者も入学しました。そこでこれから配る資料を見なさい。私は黒板に書くこととは別に印刷した資料を配ります。これはインターネットの講義録を読む学外者向けという狙いもある。
 なにしろ子供のときからジンギスカンを食べていても、何故に羊肉の焼き肉がジンギスカン料理と呼ばれるようになったか知っている道産子は、まず、いない。たまたま私のジンパ学講義録を見付けたら、研究がどこまで進んだのか気楽に読んでね、なぜ私がある形の鍋を捜し続けるのか、それが重要なわけを知ってもらいたいのです。
 ああ、それからオリエンテーションに来なかった人にいっておくが、私の講義では、こちらからプリントというか、資料を皆さんに配りつつ話を進めることにしています。1部取ったら後ろの人に廻しなさい。もし余ったら回収するから前列に戻しなさい。はい、終わりましたね。では資料その1という囲みを見て下さい。

資料その1

○先年札幌農学校設立の時演武の一科をも課業中に加
へ普く生徒をして傍ら練兵を演習せしむることに極り居
りしが何分當時適當の教師もなけれバ巳を得ず其儘に
なり居りし處昨年の十一月より東京陸軍士官学校にて
卒業せし加藤少尉を招き教師となして以来生徒ハ学業
の餘暇にて練兵の稽古をなし追々進歩し昨今ハ射的の
演習あり却説此の科を設けし趣意ハ第一生徒の身体を
して壮健ならしめ其筋力を増加し第二ハ該校生徒たる
者ハ成業の後必ず本使の属籍となるべき者ゆへ今兵学
を修業して置かバ卒業の後平時にハ耒鍬を採て地を耕
し一朝事あるの節に當てハ一身を抛ち国家の為め奮戦
する為めらならんとの由或る人より報知ありぬ

 これは明治12年、1879年春の函館新聞の記事です。なぜ北海道新聞、道新ではないのかわかりますか。当時は万事、函館の方が先進地でね、函館新聞は明治11年から発行されていたのに対して、札幌で長続きする新聞が発行されたのは9年も後の明治20年だ。一度札幌新聞という新聞が発行されたが、1年もたなかった。それでほぼ空白の9年間の札幌の出来事は函館新聞の記事で知るしかないようなものです。
 内村鑑三、新渡戸稲造といった第2期生の卒業は明治14年秋だからたっぷり2年は加藤少尉の練兵において射撃の訓練もやらされたはずです。さらに明治の「二十二年九月農工学科の外に兵学科を新設し、又予科を改めて普通学科を教授し、十月農工学科卒業者は農学士又は工学士と称することを得せしむ、同月兵学別科を置き、屯田兵曹長免官の者を入学せしめ、卒業期を一ヶ年として普通農学及軍事上の学術技芸を教授す」と「明治42年 最近之札幌」に紹介されています。兵学別科の卒業生は42人で終わりましたがね。(1)たとえば、明治25年3月発行の「札幌農学校一覧」に兵学科の時間割や卒業生24人の名簿があります。斯様にわが札幌農学校は明治9年の開校のときから単なる百姓スクール、単なる4年制の農学校ではなくて、卒業生には農学士という学位を出せた唯一の農学校でした。次いで工学士が出るようなったこと、わかりましたね。
 次は資料その2。明治45年に札幌農学校の卒業生で小谷武治<オダニ・タケジ>という先達が「羊と山羊」という本を出しているのです。私はコタニだとばかり思っていたのですが、あるとき札幌農学校の同窓会報告でOの部に入っているを見て、オタニだと気付いた。ところがそれも正解でなかった。後で出てきますが、昔の同級生に電話したときに初めて一族はオダニと名乗っていることを知ったのです。
 繰り返して説明しますが、国会図書館がインターネットで明治と大正の本が読める近代デジタルライブラリーというサービスをしています。「羊と山羊」も読めるのですがね、その著者標目読みではコタニとしていますが、オダニの誤りですからね。
 その「羊と山羊」には、かの新渡戸稲造先生が序を書いています。ポプラ並木の入り口わきの新渡戸さんの胸像があるのは知っていますね。あの胸像は北海道大学創基120周年記念の協賛事業として建てられたものであり「I wish to be a bridge across the Pacific」と刻まれているが、あれは直筆じゃなくて建立当時の丹保憲仁学長の字ですよ。「クラーク先生にはご自身の字があり中央ローンの像に刻まれているが、新渡戸先生のこの言葉の遺筆は無く私が代筆させていただいたことになる。北大に公式に残した小生のただ一つの字でもある。(2)」と書いています。
 東大英文科の面接で希望を聞かれ、新渡戸さんは「私は太平洋の橋になりたいのです」と胸を張って答えたみたいだけど、実際のところはそうでもなかったんですな。その辺のやりとりは「帰雁の蘆」という本のトップにご本人が書いています。この本は「新渡戸稲造全集」の第6巻にも入っているが、北大には初版が図書館本館はじめ6冊もあります。
 こんなことは北大生の常識として覚えておきなさいよ。試験には出しません。ああ、それから私は講義について試験はしません。ジンギスカン鍋あるいはジンギスカン料理について調査レポートを出してもらいます。どういうテーマかは、ときどき講義の中でヒントをいいます。出席も取らないからとなめて欠席すると、それを聞き逃してしまい、いい点数を取れないよと予告しておきます。
 新渡戸先生だが、5000円札の顔になった初めての札幌農学校OBです。樋口一葉の新札に押されて忘れられるのではないかと心配していましたら、トム・クルーズの映画のお陰か、先生が書かれた本の「武士道」が見直されているのは、はるか後輩としてちょっとうれしい傾向です。その新渡戸さんが「羊と山羊」に序文を書いておられます。まずそれを考察しましょう。「太平洋の橋」は、また取り上げるけど、新渡戸さんが胸を張って宣言したわけではないようです。

資料その2
  序

 我邦の特産に精美なる絹布の誇るべきものありと雖も、高價にして汚損し易く、爲に貴人富者の外、之を常用するを得ず。 綿服は堅靱にして其の價も亦廉、以て一般人の常服となすに適すと雖、缺點も亦少しとせず。 最衛生的にして能く寒を防ぐに好適し、且つ可なりに耐久力を有し、其の價比較的廉なるは毛織物を措て他に有らざるべし。 宜なる哉毛織物の需用は上下を通じて漸く普及し嘗て贅澤視されたる羅紗、毛斯綸、フランネル等は今や殆ど日用缺く可らざるものとなれることや。 其の製品及び原料の輸入年額少き時も千萬圓を下らず、多き時は三千餘萬圓に達す、而して將來愈増加すべきは疑を容れざるなり。
 是に於て國内に牧羊を起して以て輸入の幾分を防遏せんことは國家経済上忽にすべからざる問題に属す。 然るに近年欧洲諸國に於ける羊数減少の現象に拠りて、本邦に牧羊業を始むるの不得策を絶叫するものありと雖も予屡欧洲諸國を漫遊し彼地の山野到る處群羊を放牧し、農村戸毎に多少の羊畜を飼はざるなきを視て決して吾人の想像するが如き衰運にあらざるを知ると同時に我邦の此の業に就き極めて微々たる現況に想到して、慨然たらざるを得ざるなり。
 固より國際的分業ありて氣候風土到底牧羊に適せずんば即ち止む。苟も之に適する地方あらば、官民協力一致以て牧羊の振興を講せずして可ならんや。 我邦は地積狭少なりと雖、丘陵荒地等利用すべき處尚ほ乏からず。 空気湿潤降雨頻繁なるは牧羊上多少の妨礙なきに非ずと雖決して絶望すべきに非るは例を海外に取るを須ひす、本邦各地の實験に徴して瞭然たり。 蓋し牧羊の適不適は既に解決せられたる問題にして、目下の問題は経済上果して有利なるや否やにあり。 否、此の問題に答へ併せて羊其の物の解釈を與へ、廣く世人に紹介するにあり。 思ふに邦人の中、緬羊を見たるもの果して幾人かある。 府縣農学校、農事試験場すら殆ど全く羊を試育せざるが故に毫も怪むに足らざれども、昨年三月東京高等工業学校開校記念日に際し校舎を開放して衆人の縦覧を許したる時、同校染織科教室に緬羊の模型を示したるに、「吁是れ如何なる動物の模型ぞや」と怪み問ふもの十中八九なりき。 謂ふ勿れ彼等は都人士なればなりと。 又一外人は其の著日本漫遊記に述べて曰く「一大都の博物場にて緬羊を鐵檻内に飼育するを見たり。 従順此の如き家畜を猛獣扱にするは恐くは日本人のみ」と。 其言矯激に失すと雖邦人の羊を解せざる一斑を徴するに足らんか。 蓋羊其の物を解するもの極めて稀にして何ぞ此業の発達を望み得べけんや。
 小谷農學士夙に此の業に関して書を著すに志あり。 予其志を賛し、其の発刊を待つこと久し。 頃日書肆丸山舎より之を出さんとす。 予其の稿を閲するに緬羊を説くこと詳細を極め、亦殆ど餘蘊なし。 蓋此種の著書中眞に白眉と稱するに足らん。 且つ之に添ふるに山羊を以てす。 山羊乳は之を賞用するもの近時漸く多きを加へ、之を飼養するもの次第に増加せるが故に此れ亦時機に適ふと云ふべし。 要するに本書世に出てなば庶幾くは世を益すること少小ならざらんか。 予乃ち喜で之が序を綴り農界に推薦すと云爾。

 明治四十四年八月三十日
                     新渡戸稻造



  緒言

 羅紗、毛布、フラネル等は往時皆之を海外に仰ぎしが世運の発展に從ひ漸く之を國内に製織し以て其の輸入を防がんとするに至りしは洵に喜ぶ所なりとす。 然れども其原料に至ては尚、依然として之を海外に仰がざるを得ざるは豈、遺憾に非ずや。 又乳汁、煉乳、乳酪等は衛生思想の進歩に從ひ、其の需要日に増加せるに関せず、國内の供給之に伴はず、爲に又之を海外に仰がざるを得ざるのみならず、其の價甚だ不廉にして病弱者すら十分之を得る能はざるは誰か之を遺憾とせざらん。 是に於てか緬羊と山羊との飼育を我が國に振興せしむる必要は識者を俟て後知らざるなり。 前者は以て毛織物の原料を取るべく、後者は以て牛と共に最貴重なる滋養物を給すべければなり。
 夫れ我が邦の地勢は最、山羊を飼育するには勿論緬羊飼養に適する地亦決して少からざるなり。 然り而して近時牧畜振興の聲頓に揚りしと雖、古來因襲の久き尚、欧米は云ふに及ばす、近く支那に比して亦著しく遜色あるを覚ゆ。 邦人若し更に進で牧羊に注意せば毛織物の原料も尚ほ海外に仰がざるに至るべく病弱者も亦容易に滋養物を得るに至らん。 予自ら度らず今此の書を編述したるは斯業の消息を世人に傳へ併せて聊國利を興さんとするの微衷に外ならざるなり。 唯淺學非才、加ふるに文辞に嫻はず、掛漏杜撰を免れざるなり、大方の諸賢是正する所ありて以て微衷の存する所を達せしめば何の幸か之に加へん。
 此の本書の編述に當りて終始熱心なる奨励と懇切なる指導とを與へられたる新渡戸博土に対して満腔の感謝を捧ぐ、又直接間接種々の便宜助力を與へられたる南博士、橋本博士、出田學土、宮内省主馬寮技師辻正章氏、同技手笠原甚太氏、同属大西長太郎氏、田村秀吉氏、村山富雄氏、岩田清氏、其他学友諸君に深く謝意を表す。
 尚ほ本書の刊行に就ては峯友菊助氏並に丸山舎主竹澤章氏の尽力少ざるは予の多謝する所とす。
 終に佐藤孤松氏は校正の際綿密丁寧に語句の誤を正し足らざるを補はれたるは又予の深謝措く能はざる所なり。

 明治四十四年八月二十五日    
                  小谷武治

参考文献
上記資料その1の出典は明治12年4月10日付函館新聞朝刊1面、=マイクロフィルム、(1)は佐々木鉄之助編「明治42年 最近之札幌」復刻版50ページ、昭和50年3月、みやま書房=原本、資料その2は小谷武治著「羊と山羊」ページ番号なし、明治45年4月、丸山舎書籍部=原本、(2)は北大公式ページ http://www.hokudai.ac.jp/ bureau/news/jihou/jihou 0307/592_20.htm

 明治の人の文語文です。いい文章ですね。皆さん、すらすらとは行かないにしても、なんとか読めるでしょう。よく味わって下さい。
 私が若いころ、あることの雰囲気を出すために文語文で一文をものしたことがあります。私は高校で漢文を選択したことがなかったけれど、なんとなく文語文の口調ぐらいは知っていましたからね。図書館にこもって、こうした文語文をたくさん探し、それらをつなぎ合わせ、作文して、なんとか完璧な文語文をでっち上げたつもりで意気揚々と発表したんです。
 そしたら、樋口桜五さんという農学部の先輩に、尽波君、あの口語文混じりの文語文はよく書けてたねと真顔で褒めらました。樋口さんは、初めから私が口語文混じりで書いたと思って読んだんですね。中学、予科と漢文をやってきている人にはかないません。完全なる文語文のつもりだった私はぎゃふんと参りました。でも、文語文混じりの口語文といわれなかっただけまし、いやそこは、私の文才のしからしむるところでありますな。
 樋口さんは、恵迪寮歌の大正3年の「我が運命(さだめ)こそ」の作詞者です。寮歌集にもちゃんと載っています。明治45年が大正元年であるから、その2年前が「都ぞ弥生」ができた年です。それで作曲した赤木顕次さんが恵迪寮の食堂で、オルガンを弾いて、ことしの寮歌はこれ、明治45年はこれだよと「都ぞ弥生」のメロディーを公表したとき座っていて、すぐ教わった寮生の一人だったのです。樋口さんはその直伝を自慢していました。そのころ恵迪寮は3年いてもよかったのですから、いま数えると樋口さんは予科の1年生だったんですね。私が生まれる20年も前、まるで親みたいな方と気安くお話しできるのは、オリエンテーションでお話ししたように、やはり同窓会のつながりならではのことなんですね。
 樋口さんは浅草育ちで、帰省のときは上野で降りると、人力車で家に帰ったというんですから、お金持ちの息子だったんでしょう。だから札幌でもたまには芸者を上げて飲むなんて、金額は忘れましたが、そういう遊びをしていたとか。あ、そうそう、小麦の遺伝研究で農学部裏に記念碑のある木原均さんとか、佐藤清さんという佐藤昌介総長の甥っこさんたちと野球部の選手だったというのも自慢で、何回か聞かされました。この佐藤さんは、昌介さんそっくりと樋口さんたち明治組が断言していましたので、私はなるほど、こういう具合におつむの輝く方だったのかと、俤を想像させてもらっていましたよ。正門を入って直ぐの大学本部前に佐藤総長の胸像がありますね。農業に高度な勉強はいらないと危うく廃校になりかけた札幌農学校を残すよう猛運動してくれた大先輩です。北大の基礎を築いた方です。たまに拝んでおけば、試験のヤマが当たるとか。はっはっは。
 樋口さん自身、寮歌音痴を自認していました。ですから日比谷公会堂、日本武道館での日本寮歌祭には欠かさず参加し、歌うときは「都ぞ弥生」はテンポ100、あの歌の中の「北極星を」のところは、ホッキョクセーイヲであり、ホーッキョクセイヲじゃないと、うるさくいい、嫌がられるくらい皆に守らせましたね。
 私がいまいった寮歌音痴というのはわかりますかね。カラオケなんかで歌うと音程のずれる本当の音痴ではなくて、いまでいうオタクのこと、寮歌大好き人間ということですよ。その応用で、運動神経の鈍いやつはウンチといっていましたね、昔は。いや失敬。
 樋口さんにいわせれば、私の歌、つまり「我が運命こそ」なんか、太陽の前の星のようなものといっていました。「都ぞ弥生」が3大寮歌ともてはやされて太陽のような存在であり、恵迪寮歌はそれしかかないみたいに思われていて、自作の存在なんか見えなくなってしまったとたとえた。それでいいんだよ、都ぞを広めようよと謙虚な方でした。
 私がお会いした最も卒業年次の古い北大OBは、後にも先にもあの時計台で勉強したことがあるという高松さんという農学部の先生でした。私がかなりのご老体と思っていたこの樋口さんが学生のとき、高松先生は助教授で、教わったというのですから、大変な古さですよね。
 私はですね、北大交流プラザになってしまった昆虫学教室の向かいにあった元農政学教室で受験しました。英語の試験の真っ最中に十勝沖地震が起きて、木造平屋の古教室がガタガタ揺れた。誰かが逃げたら私もとあたりを見回したが、だれも机にしがみついて逃げないんだな。もう我慢比べさ。気の小さい人はあの揺さぶりで点数を落としたらしく、お陰で私は悠々合格というわけです。
 東京に東京エルム27会という昭和27年春の入学者だけ70人の会があるんです。その例会であのとき何の試験だったかと聞いたらね、東京受験組が多くて駄目。札幌受驗者で物理という御仁もいたが、もう覚えていないんだなあ。それで私もぐらついたけど、もう皆さんには関係ないことだから、この際英語説で通しておきます。
 それからクラーク会館の前にあった木造二階建ての中央講堂での入学式と卒業式に出て、いま北大図書刊行会が入っている小さな建物、あの中央図書館で何回か本を読んだ。ですから、皆さんから見れば私も高松先生並みの古さとなりましょうな。
 高松さんにお目に掛かったときは、ステッキをついていたかどうか、とにかくようやく歩いておられたように思います。樋口さんは膝が痛いと、いつも宮川病院、オリエンテーションで話した医学部1期生の宮川さんの医院ですが、その温熱治療を受けていました。といっても勝手に患者が赤外線の機械を操作して使っているというのが正しい表現だが、とにかく宮川病院に通うのを兼ねて同じマンション内の同窓会に顔出していたくらいで、その樋口さんの先生なんですから、そうなるのは避けられませんよね。
 ところで、どうしてこの「羊と山羊」という本を見いだしたか。現場主義のジンパ学は、そこに至るプロセスが大事です。「ジンギスカン」をキーワードにしてgoogleで出てくるホームぺージを片っ端からみていきまして、見当をつけます。その結果は、いうまでもなく、皆さんがジンギスカンについて知っているのと同程度のレベルです。それ以上にはなりません。だいたい、どこかのホームページ、少し投資して常識本を引用しているからです。羊肉通販のホームページの域を出ません。
 そこでいったんパソコンの前を離れて、古本屋に行くんです。図書館にいくにはまだ早い。どんな本を探せばよいか、情報が足りません。私は正門の近く南陽堂にいきましたね。あの店は、私が北大に入る前からあった。昭和21年に半年、北大予科講師を務めた作家の伊藤整が「鳴海仙吉」に「太くて低い石造の門柱でできた広い正門を出、電車通を右に折れて歩いて行った。古本屋の前を通り、医療器具屋の前を通り、(3)」と書いているが、その古本屋が南陽堂ですね。確かめたわけではないけれども、永年の商売のノウハウのひとつに、あそこがそろえる本のコンセプトには「札幌農学校」「北大」が、よそより濃いとみるね。北大生が冷やかしに入って、おお、先輩がこういういいことを書いているのか、クラスメートにこれを吹聴してガクのあるところをみせようなんて、買う確率がよそより高い、からかも知れない。かも知れないですよ。あくまで私の推定です。
 そしてだ、私は「食卓を変えた肉食」というピンク色の本を見つけた。いや、新本のときは、肉色だったのかも知れませんがね。日本経済評論社が「食の昭和史」シリーズの巻4として昭和62年に出した本です。筆者は宮崎昭、書いたときは京大農学部助教授だったんですね。著者略歴で計算すると50歳のときの本ということになる、おっとっと、農学部ではよくあるケースですなあ。それ以上はチャックだ。
 いろいろな肉のことが書いてあり、その中に「メンヨウ、ヤギの飼育」という項がありました。これはきょうの本筋ではないので、ざっと話すと小谷武治という人が明治45年に書いた「羊と山羊」という本に、新渡戸さんが序文を書いている。それだけでピカッときましたね。先輩やるじゃない、北大とジンギスカンの関係はこの辺が始まりかとね。
 そして、新渡戸さんのいわく、いま配ったプリントがそれですね。小谷さんは、緒言では何もいっていませんが、本文の方で、羊毛も大事だが、羊の肉はとてもうまいものなんだよと、羊鍋、すき焼き、付け焼なんか食べ方を紹介している(4)と宮崎さんは書いていました。私はまだ、そのとき小谷さんが北大OBだってことは知らなかったのですが、子羊の肉なんか「その香味佳絶なるを以て外国に於ては非常珍重せらるのみならず洋行帰りのハイカラ先生の如きは、一度マトン(羊肉)或はラム(羔の肉)と聞けば垂涎三尺鼓舌して止まざるべし」(5)とあるというのですから、これはぜひ読もうと決めました。
 スイエンサンジャク、コゼツシテヤマザルベシなんて、字で見ないとわかりにくいだろうが、マトンとかラムとか聞いただけで、よだれがだらだら、1メートルも垂れるくらい、まるでパブロフのワンちゃんですな。名詞を聞いて舌鼓を打つ。いや、まだ聞いただけなんだから、字義通り舌を鳴らしてしゃべる、グルメ番組の姉ちゃんタレントみたいに、食べたーいなんてわめいちゃう、それぐらいおいしい、やみつきになるという。わざわざ洋行帰りのハイカラ先生なんて定義して、なんだか新渡戸さんを指しているようにも思えてきますなあ。それから、風味は最高という香味佳絶のカゼツと、舌が鳴る鼓舌のコゼツと韻を踏んでいるのは、小谷さんのしゃれであり、やはり洋行帰りぐらいの紳士ならわかるはずと書いたのでしょうね。
 いま、よだれという字が出てきたから、ついでに説明しておくけれども、羨むという字は羊の下に次という字に似た、三水と欠を書いていますね。この三水に欠は、そもそも涎という字を略した字であって、羊のようなうまいものを見てよだれを流す、これ即ち、うらやましい―という字になったのですね。ジンパ好きなら理学部の横の森を遠くから見ただけで、煙を嗅がなくてもいいなあ、うまそう、ウラヤマシーと思うでしょ。これでもう羨ましいという字は忘れない。ジンパ学は役に立つ学問なんですなあ。
 帰宅して検索したら、なんと小谷さんは北大予科の教授だったんですね。それも「羊と山羊」を書いた方ですから、当然生物学を教えておられたとばかり思い込んでいたんですが、つい最近ですね、なんと英語を担当されていたことを知りました。これは山元周行という北大で統計学の先生だった方が作られたホームページ「瓔珞便り」を見て、知ったことなのです。その予科教官の名簿では、小谷さんは英語の先生に入っているのです。なぜ英語を教えることになったのか、いずれ講義で話しましょう。
 ところで、私も一般教養部のとき山元先生に教わりましたが、北大応援団としても顧問教官に頂いて、長くお力添えを賜りました。ヤマゲンさんはですね、黒板に数式を書いている音がするから、ノートを見るように下を向いたまま隣のヤツと話しなんかすると「そこ、うるさい」と怒鳴って白墨が飛んでくるんです。いいコントロールでね。ときどき学生の方を向いたまま字を書いているんですね。イチローが背面キャッチなら、ヤマゲンさんは背面書き。先年お会いしたら酒と数学者のお墓参りにヨーロッパに行くのが楽しみとおっしゃっていました。あっ、先生はこの講義録をご存知で、楽しく読んでおるともいわれたっけ。ちょっとオーバーでしたかな。この次お会いするときまでにお忘れ下さい。
 ずっと後で、またお話ししますが、私がその一般教養部にいたときの同級生、女性の同級生ですよ。仮にAさんとしましょう。Aさんのお母さんのお父さん、小谷さんはそのクラスメートのお祖父さんだったんです。お父さんも農学部OB、彼女も農学部を出たから、3代の3人で同窓会が開けるようになったのですね。
 そこまで知っていて、コタニかオタニか知らなかったのはおかしいと思うでしょうが、それはね、この研究を始めてから、メールのやりとりで知ったせいなのです。メールでいちいち、名前の読みなんか書かないでしょう。常にどこかで本来の研究につながらないかと、気をつけながら見聞を広め、情報を集めることが大事なのですね。
 皆さんはまだはたちそこそこだから、まだ不義理なこととか、人の顔をつぶすようなことは、あまりしていないでしょうが、私ぐらいの年になったらいずれ「世の中は狭い。悪いことをしていなくて良かった」と、しみじみ思うことがきっとありますよ。ビー・ジェントルマンとクラークさんがおっしゃった通りなんです。いや、別に私がAさんに顔向けできないようなことをしでかしたわけでも何でもない。一度冬休みで帰省するとき、酔っぱらって汽車の中でお会いしたことがあったというだけですよ。
 それよりもなによりも駒井徳三さんより、もっと先輩でこのように羊の本を書かれた方がおられたのに、巷間のジンギスカン伝説には登場しない。知らないんですね。まあ、一般人民、普通の人ならそれも仕方がないが、北大に学び、ローンでジンパをやって出るからには、小谷さんという名前ぐらい覚えておいて下さい。
 えーと、新渡戸先生の序の後ろの方にも見えている日本漫遊記をね、真面目に探しているのだが、まだ見付かりません。だから筆者の一外人とどこの博物場が鉄檻だったかもわからんのです。北海道では偕楽園、清華亭のところに開拓使仮博物場があった。植物園の中に博物館は仮でない博物場を造り明治17年まで開拓使博物場と呼ばれていたんですが、生きた動物を見せていたかどうか、まだ調べていません。
 でもインターネットの検索で出てくる後々田寿徳氏の論文「大阪の博物場―『楽園』の盛衰―」によるとね「東京博物館より借用の水牛二頭をはじめ、羊、鹿、猪、熊、狸」などを見せていた(6)というから、大阪の博物場は一外人が見たそれである可能性はあるわけですなあ。
 そこでさし当たりは動物園の緬羊を描いた錦絵をスライドで見てもらうことにします。これは国会図書館にある「風俗錦絵雑帖」という本の「見立十二支」の中の1枚で「動物園綿羊」という題です。構図を説明すると、幼女連れの大人の女性二人が前景にあり、その後ろに別の絵をはめ込んだようになってます。前景は楊洲周延と落款入りで、さらに「彫徳刀/明治廿六年/八月廿六日印刷/八月廿八日発行/臨写/印刷兼発行者/浅草区瓦丁二バンチ/森本順三郎」と刷り込まれています。でも後ろの絵は単に延之と署名がある(7)だけです。
 東京で作られた錦絵だから多分上野動物園でしょうが、緬羊は飛び越えにくい程度の囲いの中にいて、見物人が触れていますね。トリムしたためこの絵では見えませんが、左側の柵内の木の幹と右側の羊舎の壁が透かしてみたように描いてあるので、これは仕切り板ではなく柵でしょう。

    

 これは緬羊と子供をクローズアップしたものですが、後ろ向きの角はヤギの角みたいだし、白黒の顔も変な斑で、犬みたいな頭恰好をしている。左側の緬羊なんか、オオアリクイみたいな細い頭ですよね。制服の小学生らしい男の子は手には紙切れのような三角形が見えるから、近寄ってきた緬羊に紙をやろうとしたら、俺たちはヤギとは違うぞ、フンと横を向いたところという風にも見えませんか。ふっふっふ。

 

 まあ、そんな工合で明治の普通の日本人は本当に羊を知らなかったんですよ。ですから畜産関係者にしても牛馬が主流で、羊は眼中になかった。明治17年11月に農商務省が全国から代表者30人を東京に招いて畜産諮詢会という会議を開いています。さらに私費で31人が加わり、11日間我が国の畜産振興策を議論したのです。討論の詳細は「畜産諮詢会紀事」という本で公表されており、北大図書館には農務局が出した原本も保存されています。いいですか、350ページもあるその本にですよ、羊が出てくるのは1ページちょいしかないのです。主催者側である奏任御用掛の垣田弥が「或会員ヨリ欧米諸邦ニ於テ施行スル畜産上ノ制度ヲ聞カンコトヲ望マレ」たとしてフランス、プロシャ、今のドイツですね、アメリカの3國の組織、制度などを説明した中で、プロシャがおよそ100年前に大金を払い、スペインからメリノー種300頭を輸入し、スターンフドルフという土地に模範牧羊場を設けて、増やした種羊を各地に配って品種改良を図った(8)歴史について述べたくだりだけなのです。
 この会の規則を見ますと「本会ノ問題」つまり諮問事項は「第一 牛馬改良及蕃殖ノ目的」「第二 牛馬改良及蕃殖上ニ最モ障害トナルモノ」「第三 牛馬売買ノ慣行及将来ノ意見」だったのですから、無理もないのではありますがね。英米留学で畜産を学んできた農商務大書記官、岩山敬義が会頭つまり議長を務めたのですから、会員の議論が羊毛生産に及んでも困らなかったと思うのですが、とにかく「王政維新百廃咸ク興ル而シテ牛馬ノ需用モ昔日ニ倍蓰スルニ拘ハラス其種類ノ不良ニシテ頭数ノ僅少ナル實ニ一大欠事ト謂ハサルヲ得ス是本会を開ク所以ナリ」(9)と岩山会頭が挨拶した通り、牛馬問題を急ぎ、羊は後回しになりました。
 また、学校の先生も羊がよくわからなかった。その一例ですが「小学理科新書巻之上」を教える先生の虎の巻があります。その「乙種教師用」という明治27年に発行の本を見てみましょう。植物のでサトウキビ、茶、漆はまあまあですが、タバコも取り上げています。皆さん、タバコの葉なんか、見たことないでしょう。ヒマワリの葉よりずっと大きい。おっと、そりゃどうでもよろしい。理科で家畜も勉強します。牛に続いて綿羊を学ぶ。そこでこう教えなさいと書いてあります。それが配ったペーパー1枚目の資料その3の(1)です。
 「綿羊ノ大サハ、犬ニ過ギザレドモ」とありますね。花咲爺さんのここ掘れわんわん、桃太郎のお供の犬がポピュラーだったでしょうが、羊がそうした犬とどっこいどっこいの大きさでは、小さすぎるんじゃないかなあ。この辺、この本を書いた人は子羊を観察したんじゃないでしょうか。また「牧飼セス」なのに「肉ハ味ヨシ」とは、これいかに。外国の本で読んだ知識でしょうね。
 資料その3(2)は「高等小学博物理化問答」という当時の高等科、いまの中学生を対象にした明治30年の本からです。毛皮のいい獣のヒントはラッコ、アザラシ、オットセイだけど、わからん人は勉強しなさいよ。それからね、いずれ話しますが、道立文書館に開拓使の綿羊で筆を作ろうとした記録が残っています。
 同(3)は(1)の「我国ニテ牧飼セズ」という虎の巻が出た4年後の明治31年、文部省は北海道向けの小学校読本を作りました。復刻版で見つけた6年生用読本の「羊」なのです。この文章に角のない3頭の緬羊の絵が付いていますが、どうです、(1)と比べると羊がかなり身近になっていると思いませんか。
 文部省が「近年に至り」北海道は羊を飼うのに適した土地だと認めて、読本にこういう内容を取り込んだと思われます。当時は教科書の選択制なんてありませんでしたから全道で採用されました。全員が声をそろえてこの文章を読み上げる光景を想像してください。羊の毛は服になり、肉は食べられるものだと素直に頭に入りますよね。最後の一行の10字はこの課で覚えるべき漢字でしょうね。このとき6年生だったら、とっくにこの世におられませんから、羊の思い出を聞くことは無理ですね。
 同(4)は日露戦争の最中の静岡民友新聞からです。道産子の小学生は(2)の通り素直に覚えたかも知れませんが、えらい人でもまだ怪しかったと思われる記事なので取り上げました。この丸山視学官は明治38年の職員録によると静岡県庁のナンバー3である「第三部長 事務官 丸山熊男(10)」ですね。下に農務課、山林課などがあるから第三部は産業部に当たると思いますが、奏任官なので高等学校、師範学校、中学校まで指導監督する地方視学官(11)を兼ねた。それよりも、丸山さんは1に乳、2に毛、3に肥料を挙げ、大事な羊肉がない。食用になるなんて思っていなかったんですね。
 (5)は国内で緬羊を飼う農家を増やすために、羊肉の旨さを知り大いに食べるようにしようではないかという農商務省種畜牧場長の長崎発生の呼びかけからです。新渡戸さんが資料その2に書いた緬羊模型で質問攻めに遭ってから5年後なのですが、東京上野で開かれた大正博覧会で緬羊を見せるコーナーを作り、そこで羊肉を売るつもりでいたら、博覧会の主催者がなぜか大反対して羊肉販売ができなかった。また緬羊を知らない見物客は、毛織物が緬羊の毛からできることにほんど関心を示さなかった。
 しかし、国産羊毛を増やす政策を推進するためにも、だまっておられないと、長崎はいろんな本や雑誌を通じて緬羊増殖の必要を説いたのです。これはその1つで、30を超える洋肉料理のレシピまで書いているんです。それはそれで別の講義で取り上げますがね。

資料その3

(1)
[予備]羅紗・ふらねるハ、綿羊ノ毛より織ルコトハ、何人モ知ル所ナラン。
[教授]綿羊ノ大サハ、犬ニ過ギザレドモ、世界ノ毛織物ノ料ハ、此ノ獣ノ出ス所ナレバ、甚ダ有用ノ家畜ナリ。
 二ツノ曲レル角ト、二ツノ蹄アリ。歯ニハ牙ナク、反芻ナルコト牛ニ似タリ。性柔ニシテ弱シ、故ニ犬ニ順フナリ。暖キ地ヲ好ムヲ以テ、牧飼(マキガヒ)スベキ区域ハ、牛ノ如ク広カラズ。<以下は小さな字で2行書き 【注意】馬ハ寒キ地ニモ堪フル故ニ、牧飼ノ区域ハ牛ヨリ広シ、> 牧場ニ養フモノニシテ、柔ナル草ト清キ流水アル地ヲ択ブナリ。長ク柔ナル毛ハ、春刈取ルナリ、刈取リノ後、ヤガテ夏トナルヲ以テ、綿羊ニハ長キ毛ナキモ、害ナキナリ。
[応用]毛ノ柔ナル所ニテ、めりんす・呉呂(ゴロ)・ふらねる・羅紗ヲ織リ、粗ナル所ニテ絨段(ジウタン)・ふらんけつとヲ織ル。毛織物ハ、大抵綿羊ノ毛ヨリ作ルモノナルヲ知ラバ、綿羊ノ人ニ益アルコト、広大ナルヲ知ルベシ。殊ニ毛織物ハ、温熱ヲ導カザルト、水分ヲ導カザルトニヨリ、衣服ノ料トシテ最モヨロシ。 又肉ハ味ヨシ。 皮ハ柔ニシテ、敷物ニヨロシ、其鞣シタルハ、手袋・袋物・書物ノ表紙トモナスベシ。
[附説]綿羊ハ我国ニテ牧飼セズ、あうすたらり・あふりか・あめりか・いすぱにやニテハ、盛ニ飼ヘリ。<以下は小さな字で2行書き 【設問】此等ノ地方ノ気候如何> 故ニ毛織物ハ、概ネ輸入ノ品ヲ仰ゲリ。
毛糸・毛織物ノ輸入、年々六百万円ニ及ブ、豈ニ少シト謂フベケンヤ。
《小学校教師用参考書》


(2)
衣服に供すべき動物は如何
 動物の衣服に供する材料中最も重要なるは蠶と羊なり蠶は絹を生じ羊は軟
 毛を與ふ軟毛は羅紗フラン子ル及び毛布を織る原品なり」(参照)虎海獺
 海豹膃肭獣の毛皮美麗にして服飾の用に供すべし

反芻獣は如何
 軟毛を與ふる動物は羊を第一とす羊は反芻類と称する動物の一類なり反芻
 獣は一たび嚥下せる食物を貯へ置き其食慾の発する時再ひ之を芻み反すの
 性を有せり

羊の形状及功用を問ふ
 羊は稍牛馬より小さく頭上には三角形の角あり前身に柔らかき白色の毛を
 生す之を芟り取り紡ぎて絲と為し羅紗「フラン子ル」等を織る故各国皆之
 を飼養す(参照)筆の製造には多く狐狸栗鼠兎等の毛を用ゐれども時とし
 て羊毛を用ゐることあり

(3)
第十一課 羊。
 (ひつじ)は、牛、(ぶた)の如く、足に(ひづめ)あり、体は肥えて、頭小さく、其性従(じゆん)なり。
 羊の毛は、春毎に刈り取り、能く洗ひつむぎて糸とす。
 我等の用ふる、ふらんねるの襦袢(じゆばん)も、らしやの服も、皆此糸にて織りたるものなり。
 羊の肉は、食料となり、(あぶら)はらうそくに製し、皮は手(ぶくろ)などに用ふ。
 支那(しな)西(せい)洋にては、羊をかふこと、(いにしへ)より盛んなれども、我国にては、此業いまだ盛んならず。されど近年に至り、おひ/\其利益あることをみとめて、此業に従事するものあり。
 羊 豚 蹄 順 襦 袢 脂 袋 支 那

    
《北海道の小学校読本》


(4)
 ●綿羊飼育の奨励   時局の進むに従
つて我國の制海権益々拡張さるべきは疑ふ
べからざる事実にて之れと共に輸入品も追
追増加すべき事なるが去りとて物價の低落
は思も寄らざる次第なり然るに一方には近
來洋服洋食の流行は愈々盛に行はれ其原料
欠乏の為め極端なる勤倹説を為すものある
に至れり此際本県の如き牧畜の経歴に富み
又風土気候の宜しき地方に於ては綿羊の飼
育こそ最も時機に適したる處置なるべし綿
羊は乳を搾りて良好なる飲料を製し搾乳の
望みなきものは其毛を刈りて毛織物の材料
と為し又農家は是によりて肥料を取り得べ
し綿羊の摸範飼育場としては宮内省の所管
にて千葉県三里塚に牧場あり同所に照會す
れば飼育の状況及び説明書等も送附せらる
る由時節柄農家の副業としては最も利益あ
るべし信ずるなり云々(丸山視学官談)
《静岡民友新聞》


(5)
明治の御代から大正の御代となつた。其の第三年目には大正博覧會まで開設するに至つた、開設當時頻りに羊肉販売の事が雑誌やら新聞にて伝へられた。夫れは云ふ迄もなく大正三年正月から羊毛輸入防遏策にして緬羊飼育の聲高まり、既に毎年之が奨励経常費として三萬圓まで計上さるに至り、之が爲めに緬羊趣味普及の一端として羊肉實費販売を博覧會場内にて行はるゝやうに傳へられたのである。之れが實物教育の一端としては場内の反古箱までも緬羊に型つたのてあるが緬羊の實物を知らぬ人々には何等の印象を與へない。又第二會場の染織館には栃木縣の出品者山保セル會社の如きは山保セルと緬羊の群とを陳列して、純毛を原料としたる意匠を示した。されど一般の人々には何等の感を起さしめないやうである。寧ろ此に「白き緬羊の群と山保セル」とでもしたならば其處に味が出て、一は緬羊實物教育ともなつたであらう。考案は面白くてもなんだか力抜けするのが大正博覧會の特徴の様に思はれる。折角開設早々から羊肉の聲のあつたのに、今に何等の反響のないのは残念である。<略>
《東京経済雑誌》

参考文献
上記(3)の出典は「筑摩現代文学大系31 伊藤整集」69ページ、「鳴海仙吉」、昭和55年2月、筑摩書房=原本、(4)は宮崎昭著「食卓を変えた肉食」58ページ、昭和62年3月、日本経済評論社=同、(5)は同59ページ、同、 (6)は東北芸術工科大学編「東北芸術工科大学紀要」16号26ページ、後々田寿徳「大阪の博物場―『楽園』の盛衰」より、平成21年3月、東北芸術工科大学=http://repo.lib.yamagata-
u.ac.jp/bitstream/1234567
89/8039/1/ tuad-16-002600
50.pdf、 (7)は「風俗錦絵雑帖」の「見立十二支 未 動物園綿羊」、明治26年8月、森本順三郎=館内限定近デジ本、 (8)は明治文献資料刊行会編「畜産諮詢会紀事(明治前期産業発達史資料別冊116)」300ページ、昭和47年4月、明治文献資料刊行会=原本、(9)は同10ページ、同、 (10)は印刷局編「明治三十八年 職員録(乙)」203ページ、明治38年8月、印刷局=近デジ本、 (11)は平田宗史著「地方視学官の設置とその意義」、福岡教育大学学術情報リポジトリ=http://libopa.fukuoka-edu.
ac.jp/dspace/bitstream/10780/
754/1/hirata_23_4.pdf 資料その3(1)は学海指針社編「小学理科新書 乙種教師用 巻之上」編訂2版、明27年1月、集英堂=近デジ本、 同(2)は理堂散士編「高等小学博物理化問答」30ページ、明治30年5月、榊原文盛堂、同、 同(3)の記事と写真は佐藤秀夫監修「北海道用尋常小学校読本 地域教育資料1」巻六15ページ、昭和57年6月、文化評論社=原本、 同(4)は明治38年2月26日付静岡民友新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 同(5)は東京経済雑誌社編「東京経済雑誌」1755号24ページ、長崎発生「敢て羊肉を勧む」より、大正3年6月、東京経済雑誌社、同

 ところで、その(1)のように、昔の人は動物の大きさを身近な犬とよく比べたようで、ペリー艦隊が函館に来たときの記録にも犬との比較が出てきます。平尾魯仙という人が書いた「箱館夷人談」の中です。本人が観察したものより実際に見た人から話を聞いてまとめたものが多いそうですが「函館市史」の資料編からその部分を抜き出したのが、資料その4の(1)です。

資料その4
(1)又蛮船<以下は小さな字で2行書き アメリカなる由>のうちにラシヤ(緬羊)と云獣を畜へり。大さ和にある(チン)のごとく、形も略之に類すれ共、尾は短く毛は長くして三寸許に及び、色は灰白にして細く柔かに光沢有て甚麗はしく、年中二度毛を替るよしにて、其毛を以て織るものを真の羅沙と云 ラシヤは蛮言なれども地名に未だ見ず。何さま獣の名にして此が毛をりと云は当れる事也。羅沙と書くも当字也 
彼の地にも多からぬかして、上官のもの富豪の者と雖八、九疋よりは畜はず。其次は是に順じて三、四疋一、二疋、下に至ては畜ひがたしとなり。

(2)羊紙を嗜む
当港に或る紙商売の者是迄南京人方へ売込来候処いつしか南京人抱入羅紗羊に能見込南京人の留主を伺ひ交接し或は料理屋にて出会追々度重り終に当主の耳に入県庁へ訴出男女両人共昨今所預に相成初発此媒酌は同居の印度人取計ひたるよし
或云外国人の抱入女を羅紗綿と唱へるは外国にて下賤の者は兎角綿羊と交通する趣よりして此等の婦人は綿羊に齊しき者にして羅紗綿と称せるよし按るに羊は紙を嗜む性質より起る事歟依之見れは紙商売の者は能々注意し商売可致事也

参考文献
資料その4(1)の出典は函館市編「函館市史 史料編」第1巻320ページ、昭和49年3月、函館市=原本、同(2)は北根豊編「日本初期新聞全集」35巻39ページ、明治5年2月6日付横濱毎日新聞、平成4年4月、ぺりかん社=原本

 チンという犬は小型犬ですよ。ラシヤは体恰好も似ていた。こうなると、もしかすると、われわれがいま見ている羊は品種改良で大きくなったものであり、150年ぐらい前の羊はもっと小型だったのではないかという気もしてきますよね。
 しかし、これは本物の羊を知らない人の観察ですからね。財布に応じて飼う頭数の話は面白いけれど、富豪でも10匹も買えないほど羊が高いわけがない。となれば、珍犬でしょう。私は魯仙の伝えるラシヤは羊ではなくてですよ、毛もじゃのマルチーズとかシーズー、本当のワンちゃんだったと考えた方が話が見えます。
 このラシヤの話に続けて、魯仙は犬も大小2匹連れてきたと書いておりますから、魯仙の知識ではラシヤは本当に犬らしかぬ動物だったのでしょう。犬の方は、けものへんに俳句の句を書く狗の字を使っていますが、馬みたいに大きいのと狆ぐらいのとで、どっちも足が長く垂れ耳で鼻高、毛色はそこらの犬より長くて白かったとあります。それで大きい方は白っぽいイングリッシュセッター、小さい方はスピッツではないかなー、と思っているんですが、犬に詳しい人、どうでしょうか。
 資料その4(2)の短い記事は、ラシャメンという単語の由来の一つの説で、明治5年の横濱毎日新聞で見付けたものです。読みにくいかと思いますが、セクシャルな話ですので大きな声で講釈はしません。やはり羊と山羊を混同している一例でもあります。ラシャメンについては「横濱市史稿」にも由来の考察が載っています。それから未年の昭和6年「幕末開港綿羊娘情史」という本が出ています。著者中里機庵は「隠れたる歴史家にして、殊に幕末の研究に没頭し、其道の通人として権威者である」(12)とのことですが、この書名は「めんようむすめ」と読んじゃいかんのです。そこは「らしゃめん」と読む。岩亀楼の遊女喜遊の書置と辞世「露をだに厭ふ大和の女郎花 ふる亜米利加に袖は濡らさじ」と父の位牌の前で自害する絵を添え、書名に振り仮名を付け「日本国民たる者は男も女も小供も読め!!」(13)と勧める大きな広告が当時の新聞に載っています。
 これらは色っぽい方ですが、まっとうな方では辞書「大言海」の編集者だった大槻文彦が「外来語源考」の中でラシャメンは「布ノ羅紗ニ供スル毛ヲ取ル綿羊ノ意ナリ」といっています。漢字で書くと羅紗に綿です。ついでに紹介しますと、大槻は同じ本で綿、ふわふわの綿です。この綿という言葉はオランダ語のWatteからきているというけれど、暗合、偶然の一致ではないかというんです。もっと驚くのは羊そのもの、メエメエと鳴く哺乳類の羊という単語が「朝鮮語ナリトイフ」(14)とその本に書いてあることです。その11年前に出した「言海」には「朝鮮語カトモ思ハルレド詳ナラズ」(15)と書いているので、確信に近い何かがあったのではないでしょうか。この羊の語源については、まだ私は調べ切っていないので、後の講義で改めてお話しします。
 私は犬より羊を調べているのですから、戻しますが、それにしても、日本における羊関係の記録をろくに調べもしないで、井の中の蛙みたいなジンギスカン解説がまかり通るのは、まことに嘆かわしい。ジンパ学者として許せん。そこで新渡戸さん、小谷さんからあらいざらい進み、わかった事実は堂々と公開して、ジンギスカンの証拠なしのでっち上げ的通説を書き換えていくということを基本方針にしているわけですよ。
 ですから、私は著作権法に則り出典をきちんと示しているのであります。この小学理科新書の場合の「近デジ本」、この呼び方は私が出典表示用に勝手に付けたものですから、学界で通用しないかも知れませんが、私のレポートではこれでよろしい。その近デジ本とはなにか説明しておきましょう。
 我が国立国会図書館は国会議事堂のすぐ近くにあります。あそこへ地下鉄で行くのには、永田町駅が一番近いことは間違いない。ただしだ、これが有楽町線の永田町駅、半蔵門線と南北線の永田町駅があってややこしいのですが、とにかく有楽町線永田町駅の2番出口から歩いて5分というのが最短距離ですよ。銀座線と丸ノ内線の赤坂見附駅からもつながっていて、半蔵門線永田町駅のホームを抜けて有楽町線永田町駅との分かれ目にある3番出口に国会図書館に近いよという表示がありますが、一刻も早く地上に出たい人は、そこから出るとよろしい。私は、もうひとつ有楽町線永田町駅の曲がったホームの反対側まで歩き、そこからの2番出口がお薦め。なにしろ目の前に出るんだからね。丸の内線と千代田線の国会議事堂前駅でもいいのですが、こちらだと議事堂裏を衆議院側から参議院側に向かって歩き、その向こうへ渡るため約12分、議事堂ってでかいなあと歩かねばなりません。エスカレーターや階段の上り下りがいやなら、こっちにすればよろしい。
 国会図書館は数年掛けて閲覧手続きの電子化を行い、いまは閲覧申込みは手書きではなくて、パソコンで必要な本を検索して、これを読みたいと入力するだけで済むようになりました。入力でわからないことは若い指導員が親切に教えてくれますけれども、甘えちゃいかんよ。それから昭和初期の痛みの激しい本は電子化して、それ専用の閲覧室でモニターで読むことになりますが、とにかく年々使いやすいように変化しています。
 貸し出しや返却受付なんかの方々が常時立ったまま利用者席の方を見ていて、隣の係が忙しく、次の利用者が待たされていると見るや、すぐカバーして動くところなんか、サッカーの選手みたいで、ヨイショでなく全国図書館職員のお手本ですなあ。それからもう一つ。重要な変更点として、著作権遵守を強く求められるようになりました。戦後の本のコピーは著作者の生死を聞かれることがあります。次第によっては自分で書き写す羽目になりかねませんから、保護期間満了かどうか調べて行くに越したことはありません。
 この国会図書館が平成13年度から明治時代に出た本の電子化を始めました。全部のページを写真に撮り、画像にしてインターネットで読める「近代デジタルライブラリー」として公開しています。いま12万7000冊が読めるんです。早い話が、わが北大図書館の北方資料データベースをもっと大がかりにしたものですなあ。
 これが実にありがたいんですよ。自分のパソコンのお気に入りに入れておけば、クリック一発で呼び出して、すぐ明治の本なら検索して、読めるのですからね。わざわざ東京まで出掛けずにすむし、神田の古書店を探し回る時間と労力が省ける。ただし、オールマイティーではありませんよ。所蔵されていないときは自分で捜すしかない。勿論検索エンジンでね。
 それから印刷したままですから、漢文でちんぷんかんぷん、変体仮名でぐにゃぐゃ、JISでは相手にしていない難しい字がたんまり使われているのはやむを得ない。まあ、それでもですよ、見たい本がいつでも読めますから、手元にあるようなもので書棚はいらない。それやこれやで私は大助かりしています。それで、ここで読んだ原本が出典のときは国会図書館近代デジタルライブラリー、略して「近デジ本」と示すことにしてしました。皆さんがジンパ学のレポートを書くときは、ここの本を使ったらそう書いて下さい。
 さて、小谷さんの話に戻しますが、当然のことながら、北大図書館には「羊と山羊」が3冊あります。初版の1冊は貴重資料室に収められている。もう1冊は書庫の和書ですから、これは拝見しやすい。もう1冊は大正9年の5版で書庫・和書です。これらの内容については次回あたりの講義でお話ししますが、初版には具体的な料理法は書いていないから、宮崎さんは3版以降を見て「食卓を変えた肉食」を書いたと思われます。
 また脱線になりますが、宮崎さんはよせばいいのに蛇足を書いている。「北海道を旅行すると、今でもメンヨウにゆかりのある地名が多く残されている。北海道農業試験場の住所は、羊ケ丘であるし、蝦夷富士と呼ばれる羊蹄山も北海道にメンヨウが盛んに導入された名残りである」(16)とね。確かに、月寒は羊が丘だが、羊蹄山の羊の字は、あの山で緬羊を飼ったからではないんですよ。羊で検索すると、羊蹄山とふもとのニセコ町に羊栄と羊蹄一と羊のつく地名は3つありますが、山の方から頂いた名前であって、特に緬羊とのゆかりはないのではないでしょうかね。3つは2つよりは多いけれど「多く残されている」といってよいのか。悩ましいところです。
 ああ、それから羊蹄という名前ですがね、6世紀前半に書かれた中国最古の農業書とも料理書ともいわれる「斉民要術」に食材の名前として出てきます。日本ではギシギシと呼ばれ、いまでは雑草扱いですが「延喜式」の内膳式をみますと解齋料とか豊楽料といったお供えに「干羊蹄一籠」、「羊蹄四把」という具合に決められていますから、平安時代にはまっとうな食材としていい位置を占めていたのではないでしょうか。「斉民要術」の和訳本では「廬菔(ダイコン)に似るが、茎は赤い。煮てゆでものにすると滑らかになるが、おいしくない。多く食べると、下痢をおこす」(17)とあります。そんな草が、なぜ羊蹄なのか、羊が踏みつけて食べないからなのか、本にはそういう説明は全然ありませんよ。
 
  

参考文献
上記(12)と(13)の出典は昭和6年2月9日付朝日新聞1面=マイクロフィルム、(14)は大槻文彦著「復軒雑纂」429ページ、明治35年10月、慶文堂書店=近デジ本、(15)は大槻文彦著「言海」861ページ、明治24年4月、大槻文彦=同、(16)は宮崎昭著「食卓を変えた肉食」59ページ、昭和62年3月、日本経済評論社=原本、(17)は賈思勰著・田中静一ほか編訳「斉民要術 現存する最古の料理書」309ページ、平成9年10月、雄山閣出版=原本


 それから資料2枚目からは、羊に関係ある小説の紹介です。皆さんは鈴木三重吉という童話作家を知っていますか。夏目漱石の門下で小説家を目指したのですが、童話に転向して雑誌「赤い鳥」を創刊した人です。この鈴木が明治44年に「羊」という小説を発表しています。小谷さんがまだ一生懸命「羊と山羊」を書いているころですね。
 私こと鳥井が牧夫をしている同級生の山田久二に会いに行ったというあっさりした筋書きですが、それ読めば、羊はもちろんそれを統率する牧羊犬、牧羊場と呼ばれた牧場のことなどの知識がある程度わかるように書いてあります。そのころの人の羊の見方を知る手かがりとしてその一部を引用したのが、資料その5です。鈴木はこれを書くために下総の御料牧場を訪れて長崎発生という技師からいろいろ羊の話を聞き、それを「羊」にそっくり取り込んだ。そのせいもあって長崎は大正6年に出した「鶏と羊と山羊」という本の中で鈴木は羊に理解があると褒めています。
 長崎はこう書いているのです。小説に羊を飼う趣味を書いたものは殆どない。「人は馬や牛程に羊を識らないのは全く趣味のないからでもあらうが、之が実物教育にも接しないからでもあらう。畜産文学としての羊を照介されたものは、一人の鈴木三重吉氏ある外に未だ聞かない。それは三重吉氏の小説集『櫛』中に編入されてゐる『羊』の事である。(18)」とね。
 長崎が見るところ「羊」には「三里塚羊舎、根子名の牧など、三里塚の下総御料牧場を背景として、鈴木三重吉氏と私との問答やら、私の放牧ぶりなど、よく羊の情味が描かれてゐて、如何にも羊のゆかしさに接し得るのである。斯うして羊を識り羊をいたはり、羊を飼育するのは、生産的たる事云ふ迄もない。先づ羊を飼はんには羊は羊を飼ひ得るだけの資格がなくてはならぬ。夫れは云ふ迄もなく、愛畜心に富む事である。羊に趣味を持ち、人畜親和と云ふ事が大切である。(19)」。まあ、われわれはジンパ学を通じて羊について理解を深め、かつジンギスカンを食べて人畜親和を図っているのだということで勘弁してもらいましょうかね、はっはっは。

資料その5

  羊
             鈴木三重吉

<略> わたしはそんな話よりも、さし向、わたしのまだ見た事のない、彼方に群つた羊の方に目が注がれた。わたしは話が途切れると立ち上つて、半町ばかり向ふにゐる、それ等の、灰色の素直らしい獣が、のそり/\動き廻つてゐるのを黙つて見守つた。
『久さん、わたし一人であの羊の側へ行つて見てもいゝかい。』と言ふと、
『そんなに珍らしいですか。』と久さんも氣を換へて、
『それではこちらへ呼びますからそこにゐなさるといゝ。』
かう言つて、肩からつるしてゐた、豆腐屋の持つてゐるのに似てゐる角笛をプー/\と吹くと、向ふに固まつてゐた羊は、恰もさうして命令を待つてゐでもしたやうに、こちらを向いて佇んでゐた二三匹がこと/\と歩き出して來るのに続いて、長い列になつてぞろ/\とみんなやつて來る。此時までわたしは氣が附かなかつたが、どこかに転んでゞもゐたのか、羊に附き添うてゐる小さい鳶色の犬が一匹ゐて、動いて來る彼等の検閲をでもするやうに、少しはなれた草の中に小さく立つて見張りをしてゐたが、みんなの列に後れた五六匹が、十間ばかり置いてのそりのそりく來るのを見ると、それを叱るためのやうについとその方へ走せ出して行つた。すると後れた羊は小言を食たやうに大急ぎで走せて、みんなの列の後ろに附いた。犬はそれを見ると引き返して、先頭の羊の前を横切つて他の側面へ廻つて走つて、再び後方へ來ると、それで何もいゝといふやうに、あとから草の上を嗅ぎ/\徐かにやつて來る。
『あの犬があゝして羊の世話をするのかい久さん。』
『あいつが牧夫の手足のやうなものです。羊を獨りで羊舎へ帰さうと思ふと犬がちやんとつれて行くんです。一匹で迷うてうろ/\してる奴があると、犬が探してつれて來ます。羊舎から出ると牧夫はたゞ懐ろ手をして見てればいゝのですけの、』何んでもあの犬が獨りで始末をするのださうである。<略>

 旧仮名遣いのままなので、読みにくいでしょうが、明治40年代では啓蒙するところ大であったと思われます。私はこれまで次に示す広津柳浪の「羊飼の娘」が、羊飼いという職業が登場する日本で一番古い小説と考えていましたが、その8年前に鈴木の「羊」があったんですね。やはりよく調べないといかんなと反省しております。でも、まだ古いのがあるかも知れませんから、皆さんも気にかけてくださいよ。
 広津の名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。大正8年の小樽新聞元旦号に載っていますので紹介しましょう。資料2枚目後半はその冒頭部なんです。もっと読み進めばわかるのですが、読者への配慮か、話の部分の冒頭にいちいち名前が書いてあって、なにか講談でも読むような感じを与えます。
 明治文学全集の中の廣津柳浪集にある年譜で調べましたら、59歳のときの作品になります。その年譜を作った伊刈章という人が51歳のところに「土竈」「迷」の2作品のほかに「めぼしい作なし。北海タイムス、札幌毎日新聞等の地方紙に寄稿したものがのこされているが、大体この頃をもって柳浪の文壇活動は終わったものと考えられる」(20)と書いていますし、この小説なんか年譜にも入っていませんので、文学作品と評価されていないのでしょうね。
 でも、その全集の参考文献の中で作家の吉田精一さんは柳浪は現実観察が鋭い(21)と評価したとありますので、初期の羊牧場の成り立ちや飼育者の様子などが推察できると思います。玉の輿を暗示するストーリーなんです。
 それから、蛇足ですが、この明治文学全集は99巻までありまして、100巻目が総索引になっています。その索引で見ますと、ジンギスカンはジンギス汗、成吉汗、成吉思汗、元の太祖と書かれて岩野鳴泡、田口鼎軒、岡倉天心、西周、福地櫻痴、三宅雪嶺、大隈重信、芳賀矢一の作品にあるとわかります。それで、それらを片っ端から見ましたが、いずれも人間の方で、食べるジンギスカンではありませんでした。でも、索引が実に親切で、其れが何巻の何ページの上とか下と書いてあるので、北大図書館2階の開架の日本文学の棚の前で、次々調べられ、たいした時間はかかりませんでした。索引のありがたさがよくわかりますから、ちょっと時間があるときにでも、あそこで何冊か試してみるといいでしょう。もちろん、羊は結構ありますが、羊肉は見つかりませんでした。
 はい、柳浪の「羊飼の娘」に目を通して下さい。

資料その6

 羊飼の娘
                廣津柳浪

(上)

 下総の佐倉町から十町ばかり隔つた所に、村山牧場と言ふ、有名な牧場がある、この牧場は今より四十余年以前、彼の有名な英傑大久保甲東卿が日本を将来毛織物の需要が必ず盛になるから牧羊を盛にしなければならないと濠洲から種羊を購入して始めて茲に牧羊場を開いて村山徳蔵といふ土地の豪農に経営させたのであつた其れが今日迄引続いて経営されて居るばかりで無く恐らく日本に現存してゐる牧羊場の種羊は、此の村山牧羊場で飼育された牡羊である。斯かる古い歴史を持つて居るこの村山牧場を今迄現存せしめて多くの羊を繁殖せしめたのは、村山の力に依ることは無論であるが、茲に特記しなければならない、一人の功労者がある、其れは此の牧場の開設された当時から、引き続いて牧場の監督と、飼養の全権を委ねられて居る、荒川久平とよぶ老人である。この久平老人は、十八の年から茲年六十になる、四十余年間を牧羊に従事して牧羊に対する経験上の智識は、専門家も及ばない迄の経験を有つて居るのと、性質が極めて温厚篤実であるのとで、此の附近久平老人と言へば、村人から牧場主よりも、却つて尊敬されて居るのであつた。この久平老人に、お朝といふ娘があつて色が白く顔立が美しく、性質も羊のやうに従順で年は十九である、このお朝が又村の若者の恋の的となつて、心を寄せて居る者が頗る多かつたけれども、久平老人に悟られて疎外されてはならないと言ふ懸念とお朝に打明けて謝絶されるも恥辱であると、進んで恋を遂げやうといふ大胆者もなく、言ひ合せた様に、恋の鋒鋩を秘めて、暗々裡に保護して居つた。

参考文献
上記の(18)と(19)の出典は長崎発生著「鶏と羊と山羊」21ページ、大正6年2月、国民書院=館内限定近デジ本、資料その4は博文館編「太陽」17巻16号194ページ、明治44年12月、博文館=原本、 (20)は廣津和郎編「廣津柳浪集」450ページ、伊刈章「年譜」、昭和40年5月、筑摩書房=原本、(21)は同428ページ、同同、資料その6の出典は大正8年1月1日付小樽新聞朝刊15面=マイクロフィルム、


 はい、読みましたね。ちょっと長かったかな。お朝がどうしたのか、気になるでしょう。この後で、ワルと青年紳士が登場して―となるのですがね。小説にしてはごく短いのですが、ここでの引用はこれぐらいにしておきます。ああ、それから鈴木の方は、岩波書店の「鈴木三重吉全集」なんかに載っていますよ。
 ところが「羊飼の娘」は同じ日付、つまり大正8年1月1日付函館日日新聞其6部の1面にも出ているのです。こちらは未のヒツジを書く「未飼の娘」という題名、筆者は羊太郎となっているんですね。同文なんですが「居る」と「ゐる」など漢字で書くかどうかなどの違いがあり一番大きな違いは小樽新聞の「荒川久平」に対して函館日日新聞は「荒川六平」であることですね。通信社による配信が考えられるので、ほかの新聞にも載っているかも知れません。どうして広津でなくて、函館日日は羊太郎なのか、まったくわかりません。
 この小説が出て間もなく北海タイムスに「最初の牧羊者」という記事が載っています。大久保公の意見でできた下総御料牧場で創設以来「眠食を羊と共にし、三十余年一日の如く牧羊に腐心」して、遂に「日本牧羊問答なる書籍を著はして熱誠を注いで舎飼法を鼓吹している」(22)辻正景氏を紹介しています。ただ、検索しますと「日本牧羊問答」の著者は辻正章と1字違いますが、正章が正しい。なぜなら私が北大図書館で確かめたし、いまは国会図書館の近代デジタルライブラリーでも読めるようになりましたから、講義録を読んでいる人は検索してご覧。まあお朝の父、荒川久平は四十余年間も勤めているという設定ですから、モデルはこの人だったかも知れません。
 その本を書いたとき辻正章さんは宮内庁主馬寮技手でした。現場主義を唱えるジンパ学なんですから、当然「日本牧羊問答」も読みますね。その第4席、当時の精肉店における羊肉の扱いが推察できる問答のところを引用したのが資料その7です。原文通りだと会話の始まりに改行記号みたいに半角開けがあるだけ。句読点はなし、ときどき濁点もなく延々続くため読みにくい。それで発言者毎に行替えをしてあります。頑というのはある老人の略称で、そのご老体の主導で一同が食堂に入ってからの会話という形を取った部分です。

資料その7

     日本牧羊問答
                辻正章

 あー今日は面白かつた慥に二十年は若くなりました老人もこれから一奮発しましよー時にこの肉はなんだ牛か豚かな
ボーイ これは羊肉です
 羊肉とは時に取て一入面白い日本にも羊肉があると見へるな何処で売るか
ボーイ はい是は横濱御代官坂下の丹州屋で売出しました仲々繁昌します西洋人抔も沢山買に参ります
織田夫人 娘を顧みて曰く 一寸糸子さん「ノート」へ御留めなさい
 はい留めました
織田夫人 それはよいことを聞きましたが一寸「ボーイ」さん東京へも配達しましよーか
ボーイ はい東京横濱間は一斤以上は配達するそーです
織田夫人 帰りましたら是非取て見ましよー皆さんには失礼で御座りますが宿はほんの食道楽でありまして誠に八ヶ間敷ふ御座りましてそれに御客様は大概西洋料理を御好になりますからと云つていつも同しやうな物は差上けられませず材料の少ないのに困ります宅では料理は一切私と此子との引受でありますからとんと毎日料理の心配ばかりして居るのでござんすよ又いくら八ヶ間敷云ひましても肉屋はいやな堅いのを送りましたりどーも思ふ様に参りません「ラム」(子羊肉のことなり)などゝ云ふては丸で肉屋に注文してもないのですから困りますこれから大層都合が宜しゆうござんしよーそれに大勢の御客様がありましても羊肉骨付の儘一頭分もありますれば数々御料理が出来ますからそれは實に弦齋の玉子料理の二百通りどころではありません幾百通り出来るか知れません子ー糸子さん
 ハイそーで御座ります
織田夫人 それから羊肉の御徳用は「マツトンチヤツプ」(肋骨を肉付の儘油揚けにしたるもの)を初めとして何でも捨てる所はないのであります尚失礼なことを申上けますが御料理を研究するのは一寸贅沢の様ですが段々研究して見ますと知らないほど不経済なものはござんせん<略>

参考文献
上記(22)は大正8年2月10日付北海タイムス6面「最初の牧羊者」=マイクロフィルム、資料その7は辻正章著「日本牧羊問答」38ページ、明治37年10月、有隣堂=原本


 文中で織田夫人の発言の中の「宿」は、宿六を略した言葉です。gooの三省堂提供「大辞林 第二版」で引くと「〔「宿のろくでなし」の意〕妻が夫を卑しめたり、親しんだりしていう語」と出てきます。最近のフラウ、あ、忘れていた学生語が出ちゃったが、奥さんは夫を君(きみ)などと結婚前同様に呼んだりしておりますね。明治時代は亭主関白が当たり前でしたから、奥さんたちは人前では旦那をこう呼んだりしながらも、立てていたという好例でしょう。それにしても1斤、600グラムで横濱から東京へ配達したら、運賃の方が遙かに高そうですが、その辺まではまだ調べておりません。それから弦齋というのは、村井弦齋というグルメ作家のことです。後の講義で「食道楽」シリーズの羊肉料理を取り上げるつもりです。
 この大正8年は、北海道帝国大学農科大学が北海道帝国大学と改称、組織替えした年でもあるのです。農学校の1期生・佐藤昌介総長がそのまま新しい帝国大学総長のポストに就きました。
 その佐藤さんが、それより4年前の大正4年、中央畜産會が発刊した機関誌「畜産」の創刊号に「畜産業者の奮起を望む」と題する一文を寄せています。佐藤さんは農業経済学者らしい見地から有畜農業への移行を要望しているんですが、羊毛国産のための緬羊飼育にも触れていますので紹介しておきます。その部分を引用したのが資料2枚目の後半、その8です。

資料その8

畜産業者の奮起を望む

 小動物中緬羊の如きは我国の農家にとりては全く未経験のものに属するが故に、其の飼育業の農家の経済に入る事は困難なる事ある可しと雖も、或は其の飼育に慣るゝに及んでは大動物よりは好んでこれを飼育する事あるにに至るやも知る可らず、我国の製絨業は目下全く海外より輸入する原料を以て其の事業を経営するがために、年々これに対して三千万円余を支払ふの有様にして、将来益々斯業の拡張に伴い原料輸入の増加を見る事は必然の事なる可し

 国民日常の衣服たる木綿織物の原料はこれを海外の輸入に俟ち、羅紗亦其の原料を海外の輸入に俟つものとなさば、我国に於て産出する衣服中只独り絹布類のみが国産にして其の他は皆これを海外の輸入に俟たざる可らず、これ国民経済に対して不利なるのみならず、一朝若し国際上軍事的行動ある場合に於ては其の事業は全く停止せざるを得ざる事となり、国民は其の経済上の変動に耐えざるものある可きは明かなり、これを思ふ時は平時に於て牧羊業の奨励の如きは決してこれを怠るを得ざるものに続せり

 今や畜産業の振興を要する事切実なる時に当り、中央畜産会興りて農政当局者と相俟つて益々斯業の指導奨励に勉むる事あらんとするは実に国家のため農家のため賀する可き事なりとす、当業諸君は奮つて本会の事業を協賛して以て我国をして無動物的栽培農業より進みて有動物的栽培農業に入り以て農業経済の向上発展を計られん事を切望に耐えざる也

 佐藤論文全体の行数配分を見ますと、我が国の農家は耕地が狭く、冬の農閑期を生かす副業も少なくて経済力が弱い。それは動物飼育で補うのが最良だと1行27字で21行、しかし牛馬も十分に利用していないと9行書いた後に、馬は大事と16行、牛ももっと増やそうと11行書いています。それからですよ、日本の農家にとっては未経験の小動物、羊の話になり、羊毛が国家経済上重要だと2コマ計17行、それに中央畜産会発足を祝い、動物を取り込んだ栽培農業にして行こうという1コマ6行となっています。農家が羊を飼うのは最初難しいかも知れないけれども、慣れれば牛馬より好きになるんじゃないかなあと自信なげです。でも羊毛は絶対必要なんだから普段から緬羊を飼うよう奨励しておくべきだと、肉より羊毛に力が入っていますね。
 佐藤さんは特に戦後、ジンギスカン鍋を有名にした月寒の八紘学院が昭和9年に財団法人として認可されたとき、学院長を務めておりジンギスカンとは縁のある大先輩なのです。佐藤さんの話が出たついでに一言。クラーク先生の別れの言葉の意味についてだが、80歳のとき、雑誌記者の質問に対して、佐藤さんはこう答えています。
 「『ボーイス・ビー・アンビシアス』を訳したわけで、畏縮するな、ちゞまるなと云ふ意味です。明治政府は、旧幕府時代の因襲を打破して、國民各自が、新らしい天地に、自由に伸びることの出来るやうに、道を開いてくれたのであるから縮まらないで、大志を抱いて、進んで行けと云ふ意味なんです。只単に野心を抱けとか、功名心に燃えよと云ふんではないのです。そしてこの言葉は、開校の時にも、既に言はれてあつたんです。(23)」とね。わかりやすいでしょう。
 佐藤さんは明治9年8月、クラーク先生の開校式の演説を速記した人です。「学校ノ旺盛ニ赴クハ教師ノ励精教授スルト生徒ノ勉強ト両ツナカラ相待タスンハアルヘカラス今ヤ本校学生能ク勉励スルハ余ノ深ク信スル所ナリ」と訳した文書が、キーワード「クラーク 開校式」で出てくる「北海道大学沿革資料一覧」の中にあると講義してきたんだが、いつの間にか消えていましてね。いずれ大学当局に聞いて、参考文献にURLに入れておくから 見てほしいのだが、先生だけ張り切っても駄目なんです。私がジンパ学を築き、その精髄を教えても、皆さんが漫然と聞き流してはいかんのです。ジンパ学を身につけ教えを広めつつジンギスカンを食べて、我が「学校ノ旺盛ニ赴ク」ようにしなきゃ、いかんのですよ。いいですね。
 ちょっと時間がありますから、おまけに付けておいた資料その9と10もやりますか。ジンバ学としては、山羊の調査も大事なんです。昔の人は山羊も羊と呼んでいたから、山羊を調べていくと、緬羊のことも出てくるかも知れないのです。川柳の羊は紙を食べたりするけど、そりゃ山羊で、緬羊は紙なんか食べませんよ。頑固な偏食家だ。
 戦前の話でね、北見にあった野田農場の跡を継いだ吉野政雄という人は、野田農場時代に「失敗した除虫菊栽培を継続したが、その経営に独特の方法を採用した。緬羊は絶対除虫菊を食べない習性を利用して除虫菊畑にも緬羊を放し飼いをした。彼は除虫菊畑を含めた広い地積に二○〇頭を越す緬羊を飼育して収入を挙げた。(24)」と北見市史に書いてあります。緬羊と鋏は使いようなんですなあ。
 ちょっとスライドで古い挿絵と漫画を見せましょう。まず絵ですが、後に国語学者になった上田万年が大学院にいた明治22年、グリムの童話「七匹の子山羊」を訳して出した「おほかみ」にあるものです。上田にすればアルバイトだったかも知れません。絵はこのように立派な山羊ですが、訳文は「むかし、一疋の年とッた女羊があッて(25)」というふうに、全部羊にしている。山羊と羊は別物とみていなかったことを示してます。

     

    (グリム原著・上田万年訳「おほかみ」から)

 こういう間違いを正し、いわゆる羊と山羊は似ているけれど違うよと子供に知識を授ける読み物が出てくるのですね。資料その9はそうした1例で、明治28年の雑誌「少年世界」からです。「廿七年の春駒勇ましく」云々は明治27年の干支が午であり、日清戦争で勝利を得たことを指してます。ことしは未年だし、羊みたいにおとなしい年にしたい、またこの号が創刊号だったので、穏やかに部数が伸びて欲しいという編集部の願望も込められているとみます。

資料その9

   羊の話

羊は其温和にして純潔なるを以て愛せられぬ。廿七年
の春駒勇ましく、駆け出して見事、支那四百余州をふ
みにぢり、我日の本の名誉世界にひろごりければ、や
がて今年は干戈ときすてて、世は穏かに四海波をあげ
ず。いといと穏かになり行かんと羊の如けん。
綿羊よ、汝綿羊よ、汝純潔は神の如く、汝の慈仁は天
の如し。やがて春暖の頃、汝が長く和かなる毛はきりと
られ、紡績せられて糸となり、種々の織物に製せらる。
寝床に用ゐるけつと、しやつに製するフラン子ル、洋
服に製する羅紗、袖口に用うる毛襦子は、皆汝が躰よ
りとれる毛なり。汝が肉は上等の食物と称へられ、汝
が皮は手袋に製せられ、汝が角は空にして、花瓶に作
らる。吾曾て汝が時々可愛らしき眼を据えて、物案じ
なる顔色を見て、吾汝が悲しき心あるかを慮ばかれ
り。されど吾は汝が悲むにあちざるを知れり。汝が物
案じ顔なるは汝が食料とせる芻草を荒噛みして呑込
みしを再び口に返して噛直すの時なるを知れり。汝が
脚の旧骨柱は柔かなるが故に、其運行極めて敏捷なり。
汝が耳は頭背にあるが故に、能く後邊より來る所の聲
音を聴くに便なり。眼は頭の両側にありて瞳子の形状
は水平状の斜形なるが故に、地面の視界を見ること他
よりもひろし。羚羊も、山羊も皆汝が朋友なれども、
汝よりあら/\し。

 はい、次ですが、あ、あっ、間違った。こりゃ昭和の写真だ、どうしてここに入ったのか。まあ、いいや。これはね、北10條西3丁目の北側、木造3階建てが私がいた福代館という下宿、いまの瑞宝舎のあたりだ。同じころにここにいたA君という学生が撮った写真でね、最近複写してもらって北大文書館にも納めました。どこにいったか探していたら、ここに入っていたんだ。
 手前の木の左側は大黒病院。昭和30年ごろは車は勿論、人通りも少なかったんですなあ。下宿の玄関前の道路に出っ張って看板を上げた店が酒屋、勉学にいそしむには環境がよくなかったなあ。
 そのころはカメラを持っているだけでブルジョアといわれたのに、A君はカラーフィルムで撮っていたのだから、流石沼津の財閥の息子だよね。3階の一番手前、左角の部屋に「動物のお医者さん」で有名な漆原教授のモデル、獣医の橋本信夫名誉教授が院生時代にいたね。それで私は橋本さんとノーベル賞の鈴木さんとのジンギスカン対談を企んでいるのだが、鈴木さんが忙しそうで、まだ声を掛けられずにいるんですよ。
 橋本先生にいわせるとね、獣医学部では昭和27年の創設以来、円山で学部全員参加の花見ジンギスカンをやるのが伝統だそうだ。いまは学部前でやっているらしいが、橋本さんも肉など一式積んだリヤカーを円山の裏側まで引っ張っていったそうです。鈴木さんもそういう昔のジンパを知っているはずだし、面白い対談になると思いませんか。  



    (昭和30年ごろの札幌市北区北10西3の風景)

 大脱線したが、今度は真面目に次っ。これは明治40年元旦の朝日新聞に載っていた漫画です。女学生が山羊に鼻紙を全部食べさせちゃって困ったところを描いている。この年の干支のヒツジに因んだ漫画から当時は緬羊も山羊もひっくるめて羊と呼んでいたことがわかりますね。
 次も同じく明治40年の「風俗画報」正月号からで山本松谷という画家が描いた「新年の動物園」という口絵です。黒服の小学生が緬羊に食べろよと鼻紙を差し出しているところだね。これは毛がもくもくしていて、山羊でなくて緬羊だとわかりますが、要するに羊はメエーメエーと鳴き、必ず紙を食べると思い込んでいたのですなあ。

   
   (明治40年1月1日付朝日新聞朝刊14面から)

      
(東陽堂編「風俗画報」355号ページ番号なし、明治40年1月、東陽堂=館内限定近デジ本)

 えーと、物音を真似る音声を擬音語といいますが、羊の鳴き声はは皆さん、どういってますか。大抵メー、メエーでしょう。たまたま学のある人は、日本語ならメーだが、英語ではバー、でスペルはbaaだなんて答えるかも知れません。
 では、明治の人々はどう聞いていたのでしょうか。たまたま、近代デジタルライブラリーの本、私のいう近デジ本で見付けた例が資料その10で、英語圏みたいにバーバーと書いていた。それがいつの間にか、メーメー表現が主流になったらしい。らしいですよ。
 これを書いた片山熊太郎さんは、綿羊は長毛羊、短毛羊、山地羊の3つに大別される。短毛羊のメリノーは毛は最高だけれど、肉量は多くない。山地羊のブラックイフエースの肉味は美(26)と書いています。

資料その10

 第六十四夜 羊豚(注=一部を抜き出したもの)
(わたし)は此頃のやうに面白く日を暮すことはありませむ、妾は、先頃かるた取りに熱心でしたが、そんな益のない遊びをするよりも、羊を養ふ方が楽しみです、妾此頃朝早く食事を終へ、裏庭の出口にある小屋の中に、バー/\の声と共に、頭を上下に動かし、早く出し給ひと媚びますから、戸を開きますると、喜ばしげに随ひ来ます、山羊の頭を撫ぜながら、朝日輝やく、庭を散歩しますほど面白きことはありませむ』

参考文献
上記の資料その8の出典は中央畜産会編「畜産」第1巻第1号14ページ、大正4年10月、中央畜産会=原本、(23)は道民社編「道民」11巻6号10ページ、「琢堂夜話」、昭和11年6月、道民社=原本、 (24)は北見市史編さん委員会編「北見市史」上巻51ページ、昭和58年12月。北見市役所=原本、資料その9は博文館編「少年世界」1巻1号50ページ、明治28年1月、博文館=館内限定近デジ本、 資料その10は片山熊太郎著「農談百夜草」下巻64ページ、明治30年2月、東京図書出版=近デジ本、(26)は同63ページ、同、 (25)はグリム原著・上田万年訳「おほかみ」1丁裏、明治22年10月、吉川半七=近デジ本

 幼稚園なんかで皆さん、メーエ、メーエ、森の小ヤギという歌い出しで始まる童謡を教わったと思いますが、あれは正しくは「めえめえ児山羊(こやぎ)」という歌で、ドイツ文学者で詩人でもあった藤森秀夫という人が作詞したものです。あの可愛らしいメロディーは本居長世という作曲家が付けた。
 検索しますと、藤森さんは長野県出身、大正10年に雑誌に発表したもので、ドイツに留学したころの牧場の風景をうたったらしいといわれています。これを戦前は本居若葉という本居さんの娘さんが歌い、戦後は「めえめえ子山羊」というタイトルで童謡歌手の川田孝子が歌ってヒットしたことから、山羊、羊はの鳴き声の擬音語はメー、メエーが定着したのではないか。「羊飼の娘」に鳴き声の描写はありませんが、この童謡以前は山羊、羊の鳴き声はバーバーと表現する人が少なくなかった。
 福島県内から選ばれて下総牧羊場で緬羊飼育を学んだ木野源六が明治13年に書いた札幌牧羊場の視察報告にバー表現がある。「余ノ該場ニ至リタル頃ハ諸草殆ト凋萎シ只牧草ノ原野ニ緑色ヲ現ハシ綿羊ハ彼此ノ各処ニ群ヲナシ悠々啜草スルアリ悠然飛躍スルアリ闘争ヲ試ムルアリテ活溌健康ヲ徴スルニ足レリ又仰テ吼鳴スルアリ其状恰モ秋草ヲ牧者ニ訴フルモノゝ如シ此鳴声ヲ聞キ嘗テ北総ノ牧場ニ在ルノ日『バー』ノ声ヲ聞キシ旧時ノ情ヲ想ヒ起シ二三日ヲ経ルモ其声猶耳孕ニ残レリ(27)」と書いてます。
 「嘗テ北総ノ牧場ニ在ルノ日」とは、明治9年から3年間、牧羊生徒の1期生として下総にいたときのことです。国内の緬羊はごく僅かで、下総に行くまで木野さんは鳴き声を聞く機会はなかったと思われます。それで素直にバーと聞いたのか、アップジョンスら米人教師がバーと真似るのを聞いて、そう覚えたとすれば、バー表現は緬羊と一緒に輸入されたことになるか。はっはっは。
 似た聞こえ方として奄美や沖縄北部では山羊の鳴き声をビャーとかベーがある(28)んですね。沖縄出身の随筆家の古波蔵保好さんは、沖縄では山羊を「ふぃいじゃあ」と呼び「ベエベエと鳴く――とコドモたちの耳に聞こえるらしく」とベエベエのわらべうを紹介し「農村へいくと、風にそよぐ砂糖キビ畑の向こうに見える茅葺き家の裏手あたりから、姿は見えないけれど、ベエベエという声が聞こえたりする。(29)」と書いたものがあります。
 話を片山さんに戻しますが、初めて読んだとき片山さんのこのくだりは、とても面白いと思って取り上げたのですよ。ところがね、オリジナルではなくてね、調べていったら新聞もしくは雑誌の記事の焼き直しとわかったのです。
 いずれ乳用山羊の講義で話しますが、明治24年11月に出た雑誌「勧農叢誌」創刊号が山羊特集で、そこに山羊を飼う楽しみの一例として「東京日刊新聞の中で最も勢力ある国民新聞は二十四年三月の紙上『家内のため』と題する欄内に於いて左の如く云へり(30)」と断って、記事をそっくり引用していたのです。北大にも当時の国民新聞のマイクロフィルムがあるので捜してみたら、明治24年3月9日の1面の下の方に載っていました。それを資料その11(1)としました。
 とても信じられないのですが、こともあろうに令嬢は自分のことを「余は」といったように書いているでしょう。片山さん、こりゃひどいと思ったのでしょう。資料その10と比べると、焼き直し序でに「妾は」と書き換えたことがわかりますよね。
 また「勧農叢誌」は益農園という家畜や野菜の種などを売る会社が発行した雑誌であり、山羊、兎の広告を載せているけれども、なぜかいずれも値段は伏せています。それで引用したこの記事の一部を削っている。「一日三合位の乳を絞り得るものは一偶五円計り(麻布益農園の云ふ所によれば)にて購ふを得べし牛乳三合の価は九銭にして一ケ月二円七十銭なれば一ケ月と二十余日の牛乳代を投ずれば二頭の元価を償ひ得べく食物は(31)」という個所が消され、ヤギはノヒツジでなくヤマヒツジに書き換えている。それ以外はほぼ原文通りです。益農園自身の広告にも価格は出していないので、記事からも価格を知られたくなかったのですね。
 片山さんの「農談百夜草」は国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めるから、確かめてくれてもいいが、この令嬢談の後に、記事と同じように山羊を4年飼えば100円ぐらいの利益になるなど同じ損得勘定が書いてあります。公表順からみれば新聞記事、雑誌の引用、片山本となりますから、片山本はどちらかの焼き直しであることは間違いないでしょう。
 ついでに呼び方。明治の子供たちはさっきいったように綿羊、羊と教わっていても、ちゃんとそう呼んだかどうか。私は大正7年に東京で開かれた畜産工芸博覧会で子供たちがラシャメンと呼んでいた証拠を見付けました。その記事はこうです。「この従順にして人馴れよき動物は本邦織物界の将来の大任を負ひつゝも、群がる少年団にラシャメン/\と呼ばれながらたゞメーメーと酬い居れり」(32)。あれ、これではメーメー。東京あたりじゃバーバーはやっぱり無理か。
 昭和6年は未年だったので、羊がいろいろ取り上げられた。当時の関東州、満洲の南端部ですが、そこで発行されていた満洲日報の元旦号に山羊の鳴き声をミヤウミヤウとメヤウメヤウと2通りに現した随筆が載りました。それが資料その11(2)です。このころは拗音を小さく書くことはしていなかったので、メヤウですが、今風に書けばメャー。声に出してみると、メ、ヤーと区切らなければミャーになっちゃうが、書いたご本人は、ちゃんと唱えられたかどうかねえ。
 また、その年末にNHK大阪放送局から「羊の年を送るに際し羊さんの為めに送別会」という番組が放送されました。30日午後6時からの「子供の時間」の中で、JOBKコドモサークルの子供たちが「羊の歌」を歌うと読売新聞ラヂオ欄に予告記事が載っています。資料その11(3)がその歌詞です。読売は詳しいラヂオ欄が売り物でしたからね。子供たちが送別会を開いてくれたお礼に羊たちが「お洒落の羊が眼鏡をかけたら 牧師が逆さに見えちやつた ミユーミユーミユー」と歌うと説明してます。ミューミューは羊の擬声語として珍しいでしょう。
 これに似た表現でミーンという例も見付けましたよ。同(4)ですが、月寒の種羊場の春景色の記事の中で使われていました。こういう記事を書くと、大抵デスクが、お前、ミーンはセミと相場が決まっとるだろうがとかなんとかいいながら、赤インキをたっぷり含ませた赤筆で手を入れる筈なのに、よく通ったものだと昔新聞記者だった友人がいうのですから、かなり珍しい表現なんでしょう。
 そのときは、なるほどと納得しとったのですが、本当に「ミーミーと蝉の鳴くような優しい声」と書いた例を見付けたので同(5)として追加しました。これはいずれ「小説に現れたジンギスカン」というような講義でも使うつもりですが、鳴き声の聞こえ方のところだけ紹介しておきます。
 もう一つ、ミイー、ミイーと聴いた人もいます。旧満洲国の公主嶺という町にあった満鉄農事試験場を訪ねた保科紀十二という人が書いたものですが、これは微妙な表現なので文を見てもらわないといかん。それで資料その11(6)としました。<略>になっている箇所は豚の説明でね、それからまた緬羊に戻っているのです。
 いいですか、このイの後ろが音引きといわれる真っ直ぐな棒の長音符でなくて、点線になっていますね。これは字で書くと、ミイ、ィ、イ、ィ、イ、とでもなるかな、イーと聞こえる鳴き声のところが細かなビブラートになっていると聞いた保科さんは、その表現に苦心してこう書いたと私はみますね。
 いつだったか「おとなの基礎英語」という番組を見ていたら、ものまねタレントの福田彩乃という若い人がね、羊の鳴き声は口を開けてメエーと声を出し、山羊の鳴き声は舌を少し前に出してメエーとやるといってました。ちらっと言ったことなので聞き間違いかも知れませんが、やってみると山羊は音程が下がるようで研究してるメエ−、へっへっへ。

資料その11

(1)家内のため

○後園に野羊を畜ふの利益並に快楽 <略>その面白さは数日畜ひ試みし令嬢の言によりて知らるべし令嬢その朋友に語れり『余はこの頃の如く面白く日を過ぐすことは稀なり余は先頃かるた取りに熱心せしに方り負けて不愉快なりしときを回顧すれば実にばか/\しきことに脳を用ひてけりと今日後悔するなり余はこの頃朝早く食事を終へ裏庭の出口にある小舎の中に小さき「バー/\」の声と共に頭を上下に動かし早く出し給へと媚びをる小野羊の戸を開き喜ばしげに随ひ来る野羊の頭を撫しつゝ朝日輝やく畜場に散歩するほど面白きことはなし余は先き程インフルエンザを病み癒へて後も久しく胃を傷みてけるが野羊は一瓶の薬を用ひずして遂に余を全癒せしめたり』と實に然るなり
且つその経済の点より計算せんに一日三合位の乳を絞り得るものは一偶五円計り(麻布広益園の云ふ所によれば)にて購ふを得べし牛乳三合の価は九銭にして一ケ月二円七十銭なれば一ケ月と二十余日の牛乳代を投ずれば二頭の元価を償ひ得べく食物は多く畜へば一頭一日三四厘にて足れりと云へば食物代は僅か一ケ月十銭余にて足るべし此がれば牛乳を用ひるに比して一年二十五六円の利益あり野羊は十八年は生存すると雖も仮りに四年の間畜ふとすればザツト百円の利益あり且つ牛の如く大ならざれば乳は乙女の手にて容易に絞り得べく温柔なれば抵抗するの恐れなし繁殖の目的なれば一偶より一年十頭余を殖すを得べしされど繁殖を望まざれば肉用として美味なり独り東京の辺地のみならず地方の農家にてもその後園に四五頭を放ち畜はゞ始終新鮮なる乳と肉とを得るべきなり、


(2)羊頭狗肉の辨

 次に思ひ出すのは、二、三年前の春の一日、常磐線で湖北まで行き、あれから利根の堤防を伝つて、またずうつと下の霞ケ浦の方に、満々と流れてゆく利根川のマツ青な流れを見乍ら、堤の上を春風にふかれていつたときのことである。木下といふ在所で、或る家に山羊が一匹軒下につながれて、つながれた椿の木の周りをぐるぐる廻り乍ら、ミヤウミヤウと啼いてゐた。その山羊のからだが妙に白かつたことが頭に残つてゐる。<略>
 丸ビルの満鉄支社に勤めてゐた頃は、会社の帰りに、省線電車を御徒士町で下車しては、よく上野の松坂屋へ行つたものだ。くらくなるまでひとり屋上庭園に盆槍としてゐたことである。帝大の時計臺のうしろに日が沈むと、不忍の池の面が先づ暗くなる。目下の廣小路のあかりが俄に、はなやかに明るくなつてきて、屋根々々のつらなりの果ての方には、両国国技館のお椀を伏せたやうな屋根の上にも一面の明りがともる。屋上でぶらんこや滑り臺で遊びにふけつてゐた子供達も静かになつて、今まで忘れられてゐたやうな柵の山羊が、メヤウ・メヤウとなくのであつた。


(3)羊の歌

お洒落の羊が眼鏡をかけたら
牧師が逆さに見えちやつた
ミユーミユーミユー
鳶もからすも足の下
ミユーミユー/\/\
ミユー/\/\
困ったなア弱つたなア
困ったなア弱つたなア
ミユー/\/\


(4)春の高原
     親羊と仔羊

久しぶりに春暖の陽ざしが煌やいで春は正に酣……
サツポロ郊外月寒種羊牧場の緬羊は朝から夕陽の傾くまで新芽の野に春を摘み、静かで長閑な風景に動的の美を浮かせてゐる。親羊が五頭仔羊が七頭、ムク/\とした背を空に向けて丘から丘へ若草を追つて移動する。開放された春だ! 高原の羊はミーン、ミーンと歓びの歌を合唱してゐた


(5)月寒の羊と犬
 <略>腹ふくるれば寝そべツて、ミーミーと蝉の鳴くような優しい声で、天地の清明を礼賛する。迚も不景気/\で、真ツ青になつて居る昭和五年の世界には、ありともおぼえぬ、長閑の光景である。


(6)公主嶺の試験場

 放牧中とかで、羊の数は四分一も居なかつたが、ミイ……ミイ……と人馴つこい顔を向けて、は入つて來た人を迎へる、ほんに可愛い生物ではある。<略>
 それから涼しい木陰に腰を下して、小羊の群を見まもって居ると、羊共は柔和な細い眼を見張りながら、ミイ……ミイ……とさゝやき合ひ、蠢めき合つて香りの好い草の若芽をあさる。牧童の唄が森の陰から響いたと思ふ間も無く、又一群の羊が小舎の方に帰つて行く、何といふ平和な美しい光景であらう。満洲の家畜が従順なのも、斯うした環境が其の天性を守り立てゝ行くからであらう、自然の儘に育てあげられる満蒙の家畜は幸福である。

  

参考文献
上記(27)の出典は明治文献資料刊行会編「明治前期産業発達史資料 補巻84 東洋農会41ページ、昭和47年12月、明治文献資料刊行会=原本、底本は東洋農会編「東洋農会四季報告書」2号41ページ、明治*年*月、東洋農会、 (28)は平山輝男博士米寿記念会編「日本語研究諸領域の視点」上巻146ページ、野原三義「琉球方言の動物語彙」、平成8年10月、明治書院=原本、 (29)は古波蔵保好著「料理沖縄物語」206ページ、「山羊を薬にする話」より、昭和58年6月、作品社=原本、 (30)と(31)は広益園編「勧農叢誌」1号22ページ、明治24年11月、広益園=原本、 (32)は中央畜産会「畜産と畜産工芸」第5巻4号84ページ、大正7年4月、中央畜産会=原本、 資料その11(1)は明治24年3月9日付国民新聞1面=マイクロフィルム、同(2)は昭和6年1月7日付満洲日報朝刊3面、青木実「羊頭狗肉の辨」より、同、 同(3)は同年12月30日付読売新聞朝刊6面、同、同(4)は昭和11年5月10日付北海タイムス朝刊7面、同、 同(5)は中根栄著「戦線の軍犬クラウ」329ページ、昭和5年11月、誠文堂=近デジ本、 同(6)は保科紀十二著「最近の南満州」241ページ、大正14年9月、州政研究会=館内限定近デジ本

 いま緬羊の鳴き声なんか、ミューでもミーンでも、いいじゃないかと思った人はいるでしょう。ところが、後の羊という名前の考証で取り上げるが、羊は鳴き声から付いた名前ではないかと考えた学者がいたのですよ。バーかなんて、笑って聞き流せないのです。
 真面目な話だが、漢字で羊の鳴き声を書けると思う人、いるかな? 手が上がりませんね。書けるわけないと思っているらしいが、くちへんに羊と書いてミまたはビと読む漢字があるんだなあ。「刀vです。フォントでは第3水準、シフトJISでFA93だからそのまま使える漢字です。一太郎だとビで検索すると出ます。
 この字について林大監修「現代漢語例解辞典」では「ひつじが鳴く、またはその声の意。」とあり、参考として「万葉仮名では音を借りて『め』」で、これは「上代特殊仮名遣いで甲類の仮名(33)」という注を表す符号が付いています。「白水社中国語辞典」では[日転 miê miêとあり、擬声擬態語の印の後ろに(羊の鳴き声)メエーメエー(34)」とあります。
 農学部OBで北海学園大教授の川端俊一郎著「法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―」によると「日本書紀」は中国の南方の呉の發音、呉音の漢字で書いてあったのだが、川端の言い方によれば、王朝が「筑紫からヤマトへと移った」ことにより北方の唐の發音、漢音が公用語になり、唐音で書き換えられ、呉音では賣と書いてメなのに唐音では唐ノなった(35)と用例を示しています。
 そして「唐人には日本人が『メ』というのが羊の鳴き声のように聞こえたのである。羊の声を聞けば、いまの日本人は『ミ』ではなく『メ』を思い浮かべる。しかし羊が鳴けば同じ声である。むかし日本に羊はいなかった。唐人が羊の鳴きまねをしたとき、ヤマトの人には『ミエー』と聞こえたのであろうか。唐フ韻母の音価は〈iě〉と表記されている。(36)」と書いています。
 ジンパ学の研究を始めて間もないころ、母羊が子供の羊と鳴き交わす声を調べた論文を読んだ覚えがあります。講義で鳴き声を取り上げるなんて全く思ってもいなかったので、なるほどと思っただけで何も記録しなかった。またどこかでその論文に出会ったら紹介すると言い続けてきましたが、つい最近わかったんだなあ。
 東京農大の苗川博史教授が「モンゴル ひつじ・やぎの絵と写真(37)」というモンゴルでの研究結果を優しく書いた本を出されたからで、鳴き声論文は苗川さんの若いときの論文だったのです。
 資料その12(1)がその本の表紙。書名の後ろ、右肩にアイコンみたいな羊と山羊の絵があり、羊には「べえ〜」、山羊には「めえ〜」という吹き出しが見えるでしょう。奥付も横書きの「モンゴル ひつじ・やぎの絵と写真」の下に小さい活字で「ひつじはべえ〜 やぎはめえ〜」と付いている。書籍広告もそのままだったので、もしやと確かめてわかったのです。いろいろ書いてあるが、その1つ、日本で飼われていたサフォークの口の開け方による鳴き声について苗川さんは資料その12のように表現している。それぞれの口の開け方の写真付きです。

資料その12
(1)


(2)

              大人羊    子供羊
口を閉じたまま       んんん    んんん
閉じていた口を開けたとき  んべえ〜   んええ〜
口を閉じてまま続けたとき  んんべえ〜  んんえええ〜

 GPSなどを使った母子間の移動速度、距離による違いなどと併せての考察で、例えば広いモンゴルでは口を閉じたまま鳴くことはめったにないそうで「モンゴルひつじは、べえ〜、やぎはめえ〜と鳴いているように聞こえます。」とあります。オノマトペ、擬音語の研究として注目されていい内容だと思います。
 脱線ついでにスライドで、ジンギスカンをたんまり食べたら腹の中から聞こえたという真面目なジョークも見せましょう。これはダダイストの詩人、高橋新吉の奥さんの高橋喜久子が書いた故人の思い出。ここに出てくる宮方君という人物の本職は大日本印刷の社員。新吉の書いたものをなんでも活字にし残すという望みをかなえようとして、新吉が竹葉書店という本屋を始める資金稼ぎまで手伝ったので、番頭のようであったと書かれたんですなあ。

<略>甘いテナーの五十嵐喜芳が当時全盛で、うまい羊の肉
の話をした。ジンギス汗鍋というものを買ってきて、羊の肉
を山と積み上げて焼い焼いて<原文のまま>堪能した宮方君の火照った赤い
頬が湯気の向うにあった。造本の手ほどきから、経営から教
えたのは彼であった。若くエネルギッシュな彼は大日本に忠
節をつくしているというよりは高橋新吉の番頭のようであっ
た。豪快な笑いが羊の油と共に天井にはねとんだ。
 「ゆうべはよわりましたよ、一晩中腹の中でメエメエと鳴
かれてね」。
 宮方君なくば、この竹葉屋書店などありはしなかった。<略>

 それから歌は歌でも、邦楽の小唄には羊のメエメエどころか、ジンギスカンの肉の焼けるジュッという音まで取り入れたものがあるんですなあ。びっくりしました。邦楽の小唄は「月はおぼろに東山…」の祇園小唄とはかなり違っていて、私は三味線を爪弾きながら歌うものというぐらいしか知らないので、大野恵造という方の作品である小唄の歌詞を資料その13に示すだけに留めます。

資料その13

(1)微苦笑

【踊の家元】<略>
【小唄の家元】<略>
【ピカドン】<略>
【桃栗三年】<略>
【身投げ】<略>
【新版手鞠唄】<略>
【宝籤】<略>
【不動さま】<略>
【花まつり】<略>
【お会式】<略>
【多情仏心】<略>
【河童】<略>
【蟹の呟き】<略>
【鰻】<略>
【ジンギスカン鍋】やくざとは、およそう
らはら、昔から、ジンギ(仁義)スカンの炙
(あぶ)り肉。ジュッ、 ジュッ、 ジュッ。 鉄
火嫌うも無理はない。そこが、羊のいいとこ
さ。サ、遠慮はいらない、おあがり、おあが
り。

(2)十二支抄

【牛は牛連れ】
【竜虎】<略>
【三春駒】<略>
【午年のご祝儀】<略>
【午の日】<略>
【ひつじ年】三千世界に、このわたしほど
マ、おとなしいものがあろかいな。何いわれ
ても、 ハイハイと、主(ぬし)に従う生まれ
つき。ネ、齢(とし)が判るでしょ。エエ、そ
うなのよ、ひつじ年。
【羊】羊は紙を食べまする、羊は紙幣(さ
つ)も食べまする。ポッポ、ポカポカ、上機
嫌、生まれながらの純毛に、その身くるんで
鼻唄うたう気楽さよ、メエ、メエ、メエ。
【悩める羊】恋の文殼、食べたか、羊。綿
々の情(じょう)は、かぼそく声に出る。 牧
師の羊はあご髯をしごき、さっそく、羊皮紙
の、聖書開いて慰めた。「オオ、 悩めるもの
よ、汝の名は羊なり。アーメン」。
【ジンギスカン鍋】(歌詞→「微苦笑」)
【三猿主義】<略>
【猿】<略>

 歌舞伎に羊と称して山羊が出る狂言があります。富士山の富、岡山の岡、ラブの恋、それに山開きと5字を続けて書いた題名で「とみがおかこいのやまびらき」と読む。国立劇場芸能調査室が編集した「国立劇場上演資料集426」にね、大正12年に東京の明治座で見た鈍太郎というペンネームで書かれた「見たまま」という一文が載っています。
 それよると200年以上昔、初めて演じられたころの舞台の形を受け継いでいると思うのですが、見世物小屋の入口に人間と羊が相撲をとる絵看板があり、木戸銭は一人5文とと書いた張り紙がある(38)というのです。私の経験からいえば、山羊はただ立ち上がるだけみたいなものだから、捻ればあっさり転ぶが、そこは見世物だ。八百長で人間が負けたり、やっと勝ったりしていたんでしょう。
 この本の表紙の絵を資料その14(1)、中の「絵本番付翻刻『富岡恋山開』寛政十年桐座初演」という絵を同(2)に拝借したが、これはどう見ても山羊でしょう。山羊が紙を食うこともあるという性質を生かした筋書きなのです。登場人物と役者の名前が草書みたいな読みにくい字になっている原画も載ってますが、活字に置換した翻刻の方を使いました。
 簡単にいうと、金太郎という若者が、自分の干支から七番目の獣を紋に付けると運がよくなると聞いたから、ちょっと羊を貸せと見世物小屋から引き出す。小屋主が困っているところへ若旦那の新兵衛が通り掛かり、お前の紋はちゃんと作ってやるというので、金太郎は羊を返す。それからいろいろあって、大事な証文を持つライバルと新兵衛が口論している隙に、その羊という山羊が小屋から出て来て証文を食べてしまう。証拠書類がなくなったため逆転して新兵衛の優勢勝ちとなる(39)―というのです。
 鈍太郎氏はその辺を「難儀な所へ羊が出たのは、『これも神の助けであろう』と云っている所へ『オット其の急こしらえの羊の工夫は、この金太郎でござります』と産毛の兄貴がヌッと出て、手柄そうな顔をしていた。三人はその思い付きを褒める渡りぜりふがあって、トゞ新兵衛が『神の恵みは、有り難いものじゃなア』 見世物の太鼓へ竹雀(たけす)をかぶせた下座は、賑やかに聞こえて、二番目らしい幕のしまり方……(40)」と描写しています。
 インターネットでこの狂言の写真を検索するとそれと覚しき場面が見つかりますが、これはどう見ても緬羊くさいんですなあ。資料その14の絵と似ていない。「羊」という古い古い原作通りにすると、そうなるということですかねえ。はっはっは。

資料その14

(1)
   
        ↑
     証文を食べている羊という山羊


(2)
     
       ↑         ↑           ↑
      新兵衛       金太郎      緬羊には見えませんね

(どちらも国立劇場調査養成部芸能調査室編・国立劇場上演資料集〈426〉「富岡恋山開・新歌舞伎十八番の内 素襖」より)

 今期から「富岡恋山開」をもう1件増やしました。それは大正8年の未年に因む都新聞の記事。筆者はわかりませんが、こうした芸能関係の記事を得意にしていた新聞ですから、芝居担当の記者が書いたのでしょう。
 平賀源内は綿羊に絵の具で色を付けて見世物していると「放屁論」に書いているが、女と相撲を取る見世物もあったんですね。寛政4年に出た「薩州産物録」に「近年唐土ヨリ来ル白キ羊也総身ニ白毛ヲ出ス長サ二尺餘時々切取テ羅紗及毛織ノ類ニ製成ス後年大ニ繁昌スル時ハ実ニ民間ニ益アルモノナリ(41)」とあるから、寛政10年初演のこの狂言の脚本を書いていたころには、見世物として何頭か綿羊が江戸にも入っていたことがわかる。
 記事によると「其の狂言で羊の出るのは二幕目の芝神明の境内で、桂川屋の桃九郎といふ香具師が羊と女の相撲取りを見世物に出して居る、其の桃九郎の白<せりふ>に『此の間、両国で見せて居りました羊と女の相撲取り、それを、此の神明へ持つて来、今日初日……(42)』という所を見ると、五瓶が此の狂言を書いた当時、両国に羊の見世物が評判だつたので、其れを当込んだのらしい、そうして桃九郎といふ香具師が其の興行主であつたらうと思はれる」というところにジンパ学として取り上げる価値を認めますね。
 想像ですが、女相撲と同じように赤い腰巻き姿で綿羊を捕まえ、横倒しにしてメーメー鳴かせてみせるようなことで人気を集めたのでしょう。記事には絵が付いているので、それは資料その14にしました。「茲に繪に示したは示したは当時木版で其の脚本が売出された時の挿絵で、手に持つた證文を羊に食はれて居るのが中村東蔵の茨屋藤兵衛、其の脇に詰掛けて居るのが助高屋高助の玉屋新兵衛、其の左が荻野伊三郎の生毛の金太、瀬川路三郎の金太の妹と、其の情夫に当る中村伝九郎の八百屋伊三郎で、共に書下し当時の役者の似顔である(43)」と説明してますが、證文をくわえているのは、やはり上記の資料その14と同じく山羊に見えます。

資料その15

  

 はいっ。では、ここまでにします。次回はきょうの資料のうち、新渡戸さんと小谷さんの文章が載っている1枚目を持参して下さい。それからですね、私の講義録を読む人向けだけですが、お知らせがありますので、ちょっと聞いて下さい。
<#kokoda>  インターネット電子図書館である青空文庫には著作権が消滅した作品がたくさんあります。鈴木三重吉も著作権が切れているので8つの作品が収められていますが、今回の講義で示した「羊」は入っていないので、私が青空文庫に見習って、この講義録の一部として全文が読めるページを作りました。読んでみたい人は、講義録の末尾のクリックという所をクリックしなさい。
 そのページの1行の字数ですが、底本の「太陽」は大きな挿絵があり、複雑な組み方をしているので、最も多い2段組みのページの1行36字にしており、底本通りの組み方ではありませんからね。
 どうせ、やるならと、廣津柳浪こと羊太郎の「未飼の娘」も読めるようにこちらをクリックという所にリンクしておきました。こちらも読んでみるとよろしい。
 それから参考文献で「最近の南満州」の種類が館内限定近デジ本になっていますね。これは国会図書館の所蔵本で画像化は済んでも、著作権処理が完了していないためインターネットで提供せず、館内の端末でしか閲覧できない本や雑誌なんです。つまり私が東京永田町の国会図書館まで出掛けて見つけた本ということ。これに対して近デジ本は、そうした処理が済み、インターネットで国会図書館を検索すれば読める本。はい、終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
 上記(33)の出典は尚学図書編「現代漢語例解辞典」229ページ、平成4年1月、小学館=原本、 (34)は伊地智善継編「白水社中国語辞典」943ページ、平成14年5月、白水社=原本、 (35)は川端俊一郎著「法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―」243ページ、平成16年2月、ミネルヴァ書房=原本、) (36)は同245ページ、同、同、 (37)は苗川博史構成・文・写真「モンゴル ひつじ・やぎの絵と写真」、令和2年4月、東京図書出版=原本、 資料その12(1)は同書の表紙、同、同、 同(2)同16ページ、同、同、 スライドは思潮社編「現代詩手帖」33巻5号206ページ、高橋喜久子「雀の大王U」より、平成2年5月、思潮社、同、 資料その13(1)は大野恵造著「大野恵造邦楽邦舞作品控」141ページ、昭和39年5月、みなと書房(非売品)=館内限定近デジ本、同(2)は同144ページ、同、 (38)は(国立劇場調査要請部芸能調査室編「富岡恋山開・新歌舞伎十八番の内 素襖」45ページ、平成12年12月、日本芸術文化振興会=原本、 (39)は同46ページ、同、 (40)は同48ページ、同、 資料その14(1)は国立劇場調査要請部芸能調査室編「富岡恋山開・新歌舞伎十八番の内 素襖」表紙、平成十二年12月、日本芸術文化振興会=原本、 同(2)は同98ページ、同、 (41)は佐藤成裕述「薩州産物録」写本6丁表、寛政4年、国会図書館インターネット本、 (42)と(43)と資料その15は大正8年1月1日付都新聞朝刊13面=マイクロフィルム、