新渡戸さんと小谷さんと緬羊の関係

 前回、皆さんに渡したプリントを出してください。私は国文の先生ではないから、逐語訳はしませんが、まず新渡戸さんの序の方からいきましょう。明治45年に書かれたのですから、新渡戸さんは東京の第一高等学校の校長をされていたことになります。
 はい、1行目からね。カイコから作る絹の布は綺麗だが、高くて汚れやすい。おまけにアレルゲンになります。本当に。私の娘が小児喘息でヒイヒイ、参ったね。それで健康保険のきかない高い名医に診てもらったら、絹がアレルゲンとわかった。ねんねこ、皆さんは知っているかなあ、子供をおんぶしたときに着る綿入れの半纏なんですが、その襟とか、布団の襟なんかのビロードが悪かった。それで全部木綿にしたらだんだんに治った。貧乏人の子は安くすむようにできているってわけ。はっはっは、新渡戸さんはそんなことは書いていませんね。
 とにかく、木綿の布は安くて丈夫だけど、それより毛織りの布は安いうえに、防寒に一番適している。そのころ、つまり明治40年代には、もう羅紗、モスリン、フランネルという毛織りの布はポピュラーになっていたんですね。羅紗はビリヤードの台に張ってある緑色の厚手の布ですね。モスリンはメリンスと呼ばれる方が多いかな、薄い布、フランネルは略してネル、寝間着なんかになっていますね。念のために辞書を引いたら、フラノともいうとあります。私はフラノといえば、かなりばりっとした厚手の生地であって、それがネルと同じものとは知りませんでしたね。
 ただ、新渡戸さんは、その原料である羊毛やこれらの生地を輸入するとお金がかかるのが心配だというんですね。なにしろ、そのころの日本は、いまみたいに自動車とか電器製品なんてものをばんばん輸出して外貨を稼せげる國ではありませんでしたからね。
 だから、国内で羊を飼って羊毛輸入をいくらかでも押さえるようにすることは、国家経済上、ゆるがせにできない問題だよ、急げとおっしゃっています。それなのに、ヨーロッパじゃ羊が減ってるくらいなんだから、羊飼いなんてこれから日本でやるほどのことじゃないと唱えるやつがおったんでしょう。
 このまま輸入羊毛に頼っていていいのか。国際通である新渡戸さんにすれば、そりゃとんでもない了見違いだと怒るんですね。予はしばしば欧州諸国を漫遊し、こりゃ謙遜していったのであって、テレビの水戸黄門とは違いますよ。私はあちらを見て回った経験からいうんだが、ヨーロッパじゃ至る所に羊を放しているし、羊を飼わない農家なんてないよ。羊が減っているなんてとんでもない。それより、我が大日本帝国は羊が少なすぎるのであって、それを思うと、私はがっくりくるねとおっしゃっています。新渡戸さんは札幌農学校を出てから、アメリカに自費で3年、アメリカにいるときに農学校の先生になるよう命じられてドイツに4年間も留学して農政学を勉強されたんですから、たいていの人はかなうわけがありません。
 日本がどうしても羊と相性が悪いというなら仕方がない。いやしくも羊飼いに適している地方があるならば、北海道を新渡戸さんは考えたのでしょうかね、官民が協力して羊を飼うべきだ。土地が狭いといったって荒れ地など放置されている土地はあるし、雨が多いといったって羊が飼えないほどではないことは、飼育実験でわかっていることなんだ。
 もう羊毛の国内生産が有利なのかどうかを調べる段階にきているんだ。その回答を求めることもあるが、羊そのものを国民に広く知ってもらう必要もあるんだと。新渡戸さんが思うに、日本人で羊を見たことのあるやつは何人いるんだというから驚きますよね。諸君の曾お祖父さん、曾お祖母さんたちは、まず羊を見たことがなかった。こういうのを隔世の感というんですね。
 その次です、私が一番新渡戸さんらしいと思うのは。この例がとてもいい。書いた年の去年というから明治43年になります。東京高等工業学校、いまの大岡山の東京工業大ですね、染織科の教室に緬羊の模型を置いた。なにしろ、農事試験場でさえ羊を飼っていない時代ですから、生きた羊を見せたくてもいない。生徒にこんな動物から刈り取った毛で布を織るのだと教えるために備え付けていたのでしょう。
 それから、新渡戸さんは昨年3月と書いていますから、東京工大のホームページを見ると東京高等工業の前身の前身、東京職工学校が東京工業学校と改称したのが明治35年3月24日ですから、多分3月24日に式典と校内公開をしたのでしょうが、この校内開放で染織科の実習で織った布類などを格安販売したからで、えらい人気があった。都新聞なんか毎年でかでかと書いています。いずれ、もっと詳しく紹介する機会があるでしょう。
 新渡戸さんは、後で高等工業の先生のだれかに聞いたのか、それともしばらく模型のそばに立っていたんでしょうか。これはなんという動物ですかと聞く見物客が絶えない。ただ聞くんではなくて、怪しみ問う。あっしは、こんな綿の固まりみてえな4つ足は見たことがござんせん、センセ、これがラシャメンてぇやつですかい―なんて江戸弁でね、世界のどこに住んでいるんですかとか、たまには山羊みたいだが、紙を食うのかとか、まあ、パンダが初めて日本にきたときほどではないにしても、皆が珍しがって説明をせがんだんでしょう。
 前回の資料についてはここまでにして、きょうの資料のプリントを配ります。はい、後ろの人に回して。資料その1は真面目な記録ですよ。いまいった新渡戸さんに対する質問といい、まるで羊なんて見たことも聞いたこともないらしい人の話ですが、オール日本人がそうだったわけじゃない。
 節用集というもっと昔の字引き、辞書を見ると羊、山羊、カモシカは区別して書いてある。講義録の目次には「明治の日本人は緬羊を知らなかった」とやや過激なタイトルをつけたけどね、ガクのある人はラムとマトンの違いより細かい生後何カ月かによる名前の違いも知っていたんですなあ。ほら、魚のボラがイナダとかワラサとか成長によって呼び方が変わるようにね。
 資料その1は明治30年代の東京の話ですよ。ですから明治の初めごろは推して知るべし―でね。鹿児島県は種子島に近い馬毛島に牧羊場を造ろうと計画書を出したら、羊という名前すら知らない役人にいい加減なことをいうなとがっちり叱られたという実話があります。少し長いのですが、味のある文章なので省略せず資料その1としました。薩摩藩は明暦4年に桜島に近い海潟村で緬羊を飼ったのをはじめ牧羊と紡織では進んでいたのですが、それから200年もたっているのに、こういう旧藩士がいたとは信じられないのですが「鹿児島県畜産史」からの引用です。

 資料その1

   各島嶼の緬羊

<略>明治初年西村守人、武田龍蔵牧畜事業の有望なるを覚り、同志西村敬一(不幸早く死す)と語らひて好適の牧野を探求し、遂に眼を孤島馬毛島に注ぎ、私に牛を放ちて 試牧をなすこと一年、成績の佳良を認めて、先づ借地の許可を得んと欲し、是を予て其挙を知りたる當時の博識西村甚五右衛門(守人の叔父)に謀る、甚五衛門は郷閭の先覚にした学問の造詣深く見聞最も廣し、されば守人、龍藏等の計畫を聞くや手を拍ちて之を喜び「先づ郡知所へ借地願を提出する事となり、甚五右衛門即ち自ら筆を採りて其願書を記す、文中牧畜の必要を述べ、馬毛島の曠野を借地して牛を放ち富源を造らんことを記し、且文末に至りて『行々は羊をも可申養候』と將來の豫想を附記せり。時に龍臓等文中羊の何物たるを知らず、怪みて之を甚五右衛門に問ふ、答へて曰く我も唯書籍にて知るのみ、形犬の如く毛を刈り絨服を織るの原料に供せられ、肉は食用として人の命を長からしめ、頗る貴重なる動物なり、彼の陶朱公が、國を富さんと欲せば當に五牸を畜ふベしと謂ひしは、牛馬羊豚驢の蕃殖を勧めしにて、羊は今我國に無しと雖行々は天竺の邉より渡り來ること疑ひなく、此馬毛島にも、其の形を見んこと掌を指すが如しと、龍藏等漸く其意を領し、右の願書を懐にして郡知所に至り之を提出す。時未だ旧藩時代代の餘弊去らず、官尊民卑の風甚しき折なりければ龍藏恐る/\其願意を復演口述す、末節『行々は羊をも』の句に至り、役人果して羊とは如何なるものぞと問ふ、龍藏答ふるに甚五右衛門の教へし處を以てす、然るに件の役人威丈高になり『這は存外なる申條かな、羊などゝ未だ見も聞きもせぬ動物の名を記し、上を欺き荒唐無稽の言を並ぶる儀不届至極なり』とありて願書は其のまゝ却下され、大目玉を戴きければ、龍藏蒼皇驚き帰り之を甚五衛右門に報ず、甚五右衛門頑として聞かず、將來は必す羊をも飼ふの抱負ありてこそ、初めて馬毛島を借地するなれと、押問答の末役所の意を憚り、羊をも以下の文字を削りて漸く其願意を達せりと云ふ。誰か知らん此の滑稽問答を試みしの後、十年を出てざる明治十四年に到り、羊を犬の如しと想像せし学者、毛を刈りて黄金に換へんと夢みし事業家、荒唐無稽と罵りし其役人等、共に馬毛島原頭蠢爾として牧草を漁るの羊群を目前に見るに至らんとは、鳴呼博識甚五右衛門の卓見や服すべく、時世の変遷又驚くに堪へたるものあり。<略>

 平賀源内は緬羊を飼ってね、毛織物を作ってみせたことでも知られていますが「放屁論」の中で、珍しいため見せ物にされている緬羊に「いかに物いはぬ畜類ぢやとて、毛を織りて国家の益にもなる物を、らしやめんなんど、あてじまいな名をつけ、絵具で体を塗りちらし、引ずり廻して恥をさらす、綿羊の手前も気の毒なり。(1)」と同情している。それで日本国語大辞典では「らしゃめん」の最も古い用例として「放屁論後編」の「らしやめん(2)」を挙げとる。早大の暉峻康隆教授は自著「新版すらんぐ」の中で「羅紗緬というコトバそのものは、こぞんじの自然科学の先駆者、平賀源内のときに生まれたものである。(3)」と保証しているから信用しましょう。
 それから130年ほど後の明治になっても、緬羊は依然として日本国内では、なかなかお目にかかれない動物だった。明治の人が緬羊を知らなかった1例が、堀三義という人が書いた「北役日誌」にあります。明治8年のことですが、山形県から堀さんたち44人が札幌の桑園、桑畑の開墾をしにきたのです。そして日誌を付けるわけですが、8月2日のところに初めて見た羊のことが書いてあるのです。
 昭和52年から札幌市教育委が出している歴史研究誌「札幌の歴史」の第8号から10号まで3回に分けて札幌市史編纂委員の中村英重さんが校訂した全文が載っています。北役日誌にあるそのくだりを読みますと、まず牧場といわずに養獣場、養獣園、獣を養う場、獣を養う園と書いています。「養獣園ニ到ルニ数十疋ノ緬羊園中ニ散遊シ青々タル異草ヲ食ス居タリ」(4)。緬羊という名前は知っていたんですね。それがあちこちにいて異草、見なれない青草を食べている。そして「草ノ名ヲ黒ヲバト云フ」(5)と注を付けている。聞いた通りの音を書く明治英語ですから、黒いという字に片仮名のヲバ、ヲは何々をの「を」ですよ。クローバーです。
 じっくり観察したんでしょうね。「其の形チ大小アレド多ク国ノ犬位ニテ甚ダ醜悪ナル状貌也大略図ノ如シ」(6)。子羊もいたのでしょうか、大小あるが、だいたい我が国の犬ぐらいだ。堀さんは山形の人ですから、日本犬としては大きい秋田犬と比べたのではないかと思いますね。堀さんは絵心があったようで、毛刈りされたばかりの2頭が草を食べている絵をつけていた。資料その2がそれです。

 資料その2

    

  

参考文献
上記資料その1の出典は中村初枝、 武田豊彦、有馬純若編「鹿児島県畜産史」中巻195ページ、大正2年10月、鹿児島県主催九州聯合第二回馬匹第一回畜産共進会協賛会=国会図書館インターネット本、 (1)は塚本哲三編輯校訂「平賀源内集」27ページ、大正11年7月、有朋堂書店=近デジ本、 (2)は小学館辞典編集部編「日本国語大辞典精選版」3巻*ページ、平成18年2月、小学館=原本、 (3)は暉峻康隆著「新版すらんぐ ―庶民の感性と知恵のコトバ―」76ページ、平成22年2月、勉誠出版=原本、 (4)と(5)と(6)と(7)と資料その2の緬羊の絵は札幌市教育委編「札幌の歴史」8号19ページ、中村英重「堀三義 北役日誌(中)」より、昭和60年8月、札幌市教育委員会=原本、

 「此獣ノ毛ヲ挟ミ取リテ羅紗ヲ織ル由也一昨日頃満身ノ毛ヲ截リ取レリトテ一身ノ毛甚ダ短カシ是レヲ養フニハ幼少中ニ牛乳ヲ飲マシメ成長ノ後園中ニ放チト云フ」(7)。あっそうか、おおとい毛刈りされたばかりだったんですね。毛の刈り方も下手だったんでしょうか。私がジンパ学の講義を始めたときは北大の北方資料データベースの「北役日誌」の写本51ページのURLを教えて後で見なさいと言っていたんだが、それが変わってしまって絵が見られないことがわかったので、中村さんが「札幌の歴史」に引用した堀さんの絵のコピーを、また私がコピーしたのですが、緬羊の大きさを山羊と比べずに犬と比べていのは、酒田藩、山形の方でもまだ山羊も滅多に見かけなかったからじゃないかと考えてます。
 毛を切り取られて間もない情けない姿がよくわかりますね。堀さんは集まって食事をしているところやお祝いの弁当などいろいろ描いているし、仲間に蒸気船の絵を与えたと日記に書いたところを見ると、絵には相当自信があったんでしょう。
 「是レヲ養フニハ」とは養毛、毛を生やす方ではなくて子羊を養うことですね。牛乳で育ててから牧場に放すそうだというのは、生みっぱなしで子を寄せ付けない母羊とか、母羊が産後間もなく死んでしまった場合らしいが、羅紗にする毛はこの見苦しい4つ足から切り取った毛とはねえと、虎刈り羊を眺めたんでしょう。字面を見ればわかるのですが、堀さん、どうもチとツ、シとスを訛ったまま書いたようですよ。
 道内で新聞発行が始まったのは明治11年、その前のことは、いわゆる内地の新聞を調べるしかないのですが、資料その3(1)は東京日日新聞に載っていた堀さんたちの開墾の記事。

 資料その3

(1)
○近ごろ北海道にてハ酒田縣の士族を二百三拾人ばかり
お雇ひに成りたり此うち百五十七人ハ札幌と銭函村の間
を開墾し七十三人は七重村の大野と云ふ所にて拾萬坪ほ
どの地を開墾することに相約したりとぞ此組頭ハ榊原十兵
衛と水野重敬にて元より有名の武人なるよし五月二十九
日函館へ着船し有川村と云ふ所へ上陸して中黒の旗を押
したて簑笠を着て両刀を帯びたる容躰(ありさま)はさながら櫻木(さくらぎ)
皮を削りて天句践(こうせん)とでも書出しそうな面影あり扨各/\
列を正しく大野村へ着き二日の間ハ休暇を賜ハり六月一
日を開墾の初めとして帯刀のまゝ農具を携へ七十三名を
二隊に別ち左右に例の旗を立て置き我さきにと鍬を振ふ
勇ましさを見るもの感ぜざるハなし此勢ひにてハ多ぶん
八月中旬にハ成就すべしと云へり此所并びに七重村の試
験場に桑を植ゑ付け三年の後ハ盛大の蚕業を起すべしと
の目論見なりと云へり本年ハ試験のため五町四方の場所
へ麻の種を蒔き上等の麻を製する職人を三人ほど栃木県
より御雇ひと成りたれバ定めて漁猟に勝りたる利益ある
べし松前福山にて漁船や船に用る苧を内地より輸入する
金高ハ年々壱萬三千両より少なからず福山壱ケ所にてさ
へ斯の如くなれば況て北海道の各所へ積み送る年々の苧
の代金ハ大壯なる事なれば麻の利益ハ何拾萬円にも至る
べしとなり此見込を立し人ハ七等出仕村橋久成と云ふ人
なるよし麻の製法をその土地の農家の婦女へ傳習して両
三年の後ハ北海道一般に及ぼさんと開拓使のお見込なり
と云ヘり

(2)
    

 はい、いいですか。堀さんは札幌隊157人の1人だったのですね。8行目の「天句践とでも書出しそうな面影あり」というところを説明しましょう。句践は勾践とも書く古代中国の越王の名前で、この天は空の天、即ち神で、天句践と3字の名前ではないのです。
 時は鎌倉時代、児島高徳(たかのり)という武将がね、いまの岡山県と兵庫県の境で、幕府が隠岐へ護送中の後醍醐天皇を取り返し、天皇の位に戻そうとした。だが作戦は失敗、やむなく高徳独りが夜中に天皇の宿舎に忍び込み、そこの櫻の幹に「天句践を空しゅうするなかれ、時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず」と書いた。勾践を助けた范蠡みたいな忠臣が日本にいないわけではない、私がいますぞと励ました有名な故事があります。本当は「天莫空勾践 時非無范蠡」と10字で、わかる人にはわかる一種の暗号文でね。忠君愛国の教えとして、昔は簑笠姿の高徳が削った幹に筆で書いている絵が広く知られていた。上陸した酒田士族たちの恰好はまるでその高徳みたいだったらしい。
 その姿を講義で見せようと国会図書館を検索て見付けた絵が資料その2(2)で、ウィキペディアの説明写真と同じでした。これは笠ではなく蓑帽子と呼ばれた物を被っていますが、こんな恰好の若者が230人も並んだら、何事かと驚きますよね。
 案の定、札幌では一悶着あったらしいのです。脱線ですが、武士のプライドはそのままだったことを伝える記事があったので資料その3(1)にしました。コロナで図書館の本調べができないので、松本判官の怪我は確認できないが、煙草盆ぐらい投げつけられたかも知れません。
 また掲載日が少し早いけれど、堀さんたちは真面目に開墾に従事したという記事もあります。やるだけのことはやって、早く酒田に帰ろうとなってからの見聞か知れませんがね、こうしたパイオニアのお陰で今日の札幌があり、わが北大があるのであります。オホン、わかっとるね。

 資料その4

(1)
○酒田県の士族はいづれも昔しの武士風を失なハず今な
お常に双刀に帯せりとかや当夏ごろ開拓使よりの依頼に
て則ち酒田県士族二百人を選み北海道に遣ハすことに成り
しかバ松宮某は県官を辞して其の総長となりしが出立前
に一同へ諭して曰く此度の事件は諸君の勉強を見届けら
れ全く其栄誉に依りてかゝる依頼をうけたるなりとあれ
バ一同大に喜こび銘々勇み進んで出立し扨テ札幌に赴き
たるに何ぞ計らんや酒田県士族若干願ひにより開拓に従
事せしむるとの建札あるにぞ何れも驚ろき総長松宮氏に
逼りて畢竟御依頼によりて艱苦をも憚らず是までハ参り
たれ曾て此方より願ひたる覚えなしと種々に苦情を并ら
べ立てられ松宮氏も持て余まし当惑のあまり松本大判官
ハ元より同郷の知巳なれば是に理解を頼まんと早々相談
に行たりしに却て争論となり松宮は奮怒に堪えず刀を抜
いて追かけ後より投げたれバ判官殿は大傷を受けられし
由を報知で見ましたがドウか確実らしう五座ります全体
彼の県の人を屯田兵に遣るならソンナ建札などハよした
方が好かッたろうと云ふ人があると聞ました


(2)
<略>○大判官は先月中旬頃より富萌と云ふ処へ出張して直に
北見の国根室の国日高の国より遂に胆振の国なる有珠辺
まで巡廻致され去る十九日に帰着あり此人は非常の英哲
にて札幌から勇払辺へハチヨコ/\日返りにする位なれ
ば尤とハ思へども此度の巡廻ハ別して驚き入りたる事に
て到る所の人民が皆其の徳を仰ぐと云へり<略>○東京
の仮学校も此ごろ當所へお移しに成る趣にて広大に普請
も成就したり近日開校の式もあるとの事あり○屯田兵ハ
ニ百軒ばかりあり琴似と云ふ村にて喇叭を合図に進退あ
りて其土地へハ悉く桑を植付けたり○酒田縣より徴募し
たる士族も凡そ百六七十人あり是ハ市中を離るゝ事六七
町の処にて開発をなし彼の屯田兵と張り合ひて奮発する
なり<略>

  

参考文献
上記資料その3(1)は東京日日新聞編「東京日日新聞」復刻版8巻39ページ、平成5年11月、日本図書センター=原本、底本は明治8年7月9日付東京日日新聞3面、 同(2)は菊池容斎著「前賢故実」9巻24丁表、明治元年*月、雲水無尽庵=国会図書館インターネット本、 資料その4(1)は東京日日新聞編「東京日日新聞」復刻版8巻*ページ、平成5年11月、日本図書センター=原本、底本は明治8年9月7日付東京日日新聞2面、 同(2)は同8巻*ページ、同、底本は明治8年8月7日付東京日日新聞2面

 堀さんのころはまだしも、新渡戸さんが「羊と山羊」で嘆いた羊知らずの例は「北役日誌」から35年も後の話なんですから、いかにそのころは生きた羊が縁遠い存在であったか―です。道庁の種畜場長だった村上要信は明治40年に書いた「山羊飼方」という本で「我畜産事業を海外諸国に於る畜産事業に比すれば衣服住に差あるが如く其方法を異にす抑々牧羊のことは我畜産事業中最も幼稚にして未だ緬羊と山羊とを識別するもの多からざる現況なり(8)」と認めているぐらいです。
 百聞は一見にしかずといいますが、本物を見ることがないので、なかなか山羊と緬羊の違いが日本人の一般常識にならなかったらしいのです。大正2年のことですが、農商務省種畜牧場の長崎発生という技師がに読売新聞にこう書いています。「羊と申せば、紙を喰ふ動物だなと考へられてゐる、夫れは山羊の事で、私がお話しするのは山羊ではない紙を喰はない緬羊の事である。(山羊の一種にも緬羊のやうな織物に適する毛の出来るものもある、夫れは僅で粗毛である)之を山羊と区別する所から緬羊とも呼び、又此の羊毛を羅紗や其他毛織物に製造する所から、羅紗綿とも呼ぶ。(9)<略>」とね。
 この言い方からすると、羊は山羊という生き物を指すと思うようだが、山羊とは別の生き物だとわからせるために、緬羊という呼び方が作られたように受け取れます。後日詳しく考察しますが、緬羊という呼び名はたった1例ですが、古い文書にあるんですなあ。でも「むくひつじ」という読み方が主流で、江戸時代の国語辞典にあたる節用集に現れます。頻繁に使われるようになったのは明治以降、特に官庁用語であり、長崎の書いたような啓蒙記事がその普及に一役買ったと私は見ています。
 小谷さんの「羊と山羊」の初版が出てから7年後の大正8年、読売新聞元旦号の5面には「月寒の牧羊場」という見出しで、緬羊の群れの写真が載っています。新聞社は昔から正月中は、その年の干支に因んだ絵や写真、記事を載せるくせがありました。大正8年はヒツジなんです。未年のことし、正月の道新に「探偵団がたどるジンギスカン物語」が連載されたのも、その慣習に従ったいい例ですよ。
 その読売元旦号の記事に、なんて書いてあったと思いますか。こうです。月寒(つきさつぷ)の羊――図は農商務省の直轄で北海道札幌の東二里の曠野にある有名な月寒牧場である、この緬羊が米国から最初輸入されて来た時『羊の群』を知らない、土地の人人は暮方に数百頭が一所に坂をあがつて来たので綿が原中(はらなか)を転ろがつて居るやうに不思議がつた」(10)。取材に行った記者に月寒の農家の人々が、明治41年に月寒に初めて羊がきたころ、10年前のファーストインプレッションをまだ覚えていて、そう話したのでしょうなあ。皆さん風にいうなら、マジでね。
 ついでに読売新聞の記事で、もう1つ。これは比較的新しい記事ですが、中身はうんと古い。日本畜産界の草分けで谷邨一佐という人の思い出話です。慶応2年生まれの谷邨さんが東京の番町小学校を出て中村敬宇という学者が主宰する同人社に入ったら「敬宇先生はクリスチャンで、聖書の詩編二十三章『ダビテの歌』を愛吟していた。そのころろ聖書はまだ和訳がなくて、先生は英文のまゝ歌っていられたが、その歌の中にヒツジのことが出てきた。明治二十一年五月はじめて完成した訳文にはこうある。
 エホバはわが羊飼いなり、われに乏しきことあらじ。
 われを緑野に座させ、憩いの水辺に伴い給う。
 わたしがヒツジなる動物存在を知ったのは、このときがはじめてだが、しかしそれもまだヒツジとヤギの区別がハッキリついているわけじゃあない。その区別がついたのは第一回の洋行のときだ。」と語っています。
 谷邨さんが20歳のとき、明治19年にアリメカへ渡り、ニュージャーシーのCCIという学校に留学しました。その年のクリスマスイブの学生集会で校長が、キリストが善人を緬羊、悪人を山羊にたとえた話をした。「これではじめてヒツジとヤギがまったく似て非なるものであることが日本人はそれを混同して考えていたのだということがわたしにハッキリしてきた。」
(11)と回顧しているのです。記事にそう書いてあります。わがジンパ学では、後の講義で取り上げるのだが、ヒツジとヤギという名前の由来も大きな問題、しかも難問なんです。
 明治21年に出た「新約全書」によれば「馬太伝第二十五章」の「人の子おのれの栄光をもて諸の聖使を率來る時はその栄光の位に坐し万国の民をその前に集め羊を牧者の綿羊と山羊を別が如く彼等を別ち綿羊をその右に山羊をその左に置べし」(12)というところですね。
 この記事で谷邨さんは、まだに羊と山羊を混同している日本人が多いといい、その違いまで語っていますから、せっかく私のジンパ学を学ぼうという諸君のために、そこを読んで聞かせますから、覚えておいて下さい。「第一ヒツジはヤギのように紙などを食べやしない。ヤギはなんでも食う。”ヤギが食わないのはブリキの空カンだけだ”という言葉があるほどだ。それに年がら年中交尾している。ところがヒツジは年に二度しか交尾しない。牧草以外には雑草をたべずどんなにノドがかわいていても清らかな流れの水以外には見向きもしない。これだけでもタネが違うことがわかる。ヒツジとヤギのどっちがいまの日本人に近いか、これは良識の判断にまかせるほかはない。(13)」ですと。耳の痛い話ですなあ。
 ところが、素人ならまだ許せるけれども、最悪、とんでもない例もあったんですよ。「東北で最も緬羊の盛んなさる県の経済部長が視察に来て、石狩平原を一望に見下す例の丘の羊群を一応見て曰く、『いやどうも有難とう。こんどはひつじ(・・・)を見せてくれまいか』。一瞬私は返答に窮したが相手の自尊心を傷けないように『緬羊イコールひつじですよ』と静かに低く答えると、『いや緬羊なら私の県に沢山いるから知つているんだ。ここにはひつじ(・・・)がいるという話なのでそれを見にわざわざ来たのだ』と言う。ここまでくるとなにをかいわんや!である」(14)。これは釣谷猛さんの月寒時代の思い出話なんです。釣谷さんの別の随想を後の講義で取り上げますが、これは北海道農業試験場畜産部業務室長だった昭和27年に書いた月寒種羊場案内の思い出の一部です。こういう方でも畜産行政のトップが務まったらしいから、日本は役人天国といわざるを得ませんよねえ。
  

参考文献
上記(8)の出典は村上要信著「山羊飼方」82ページ、明治40年7月、村上要信=近デジ本、(9)は大正2年5月22日付読売新聞朝刊5面、長崎発生「羊毛と織物」より=マイクロフィルム、(10)は大正8年1月1日付同朝刊5面「月寒の牧羊場」=同、(11)と(13)は昭和30年1月9日付朝刊「日曜特集」=同、(12)は米国聖書会社編「新約全書」76ページ、明治14年、米国聖書会社=近デジ本、(14)は北海道新聞社編「農業北海道」第五巻1号33ページ、釣谷猛「牧場案内落第記」、昭和27年1月、北海道新聞社=原本


 はいっ、新渡戸さんの明治に戻ります。羊に関する質問ぐらいは許せるにしても、ある外国人の日本旅行記に、ある大都市の博物場、いまの動物園にいったら、羊の檻があった。こんなおとなしい動物はいないと思われている羊を猛獣並みに扱うのは日本人しかいないと書いていた。
 明治35年に出た「上野動物園案内」を見ますと、地図では離れ島のようになった第24号室にはダチョウ、ライオンなどがいる。この何号室は棟と解すべき作りらしいのです。その向かいに25号室から27号室があり、ヒグマやツキノワグマなどがいる。28号室にイノシシがいて「夫レカラ第二九号室ハやぎ(山羊)The Goat(Capra hircus L.)デ其内三頭ハ皇太子殿下ノ御下付デアル(15)」とあります。
 後に大正天皇となられた皇太子殿下の下さった御山羊様となれば、無知蒙昧な一般人民を近づけ、紙を食べるんだってなどと差し出すちり紙の飽食で死なせるような事態は決してあってはならない。観覧者とは厳重に隔離・管理せよと飼育係は厳命されていたんでしょうな。はっはっは。学名を記して「其内三頭ハ」ですから山羊は3頭以上いたが、緬羊はいなかったらしい。
 でも明治37年には一時的にせよ、2頭飼われたことは確からしいのてす。その証拠が資料その5です。圧縮してもいいのですが、句読点皆無で長い明治の新聞記事を読む練習として原文の儘使わせもらいます。

資料その5

●日進 紀念の羊
 春日

扨も隙行く午の年は過ぎて干支も辿るひつじの年其止みにも譬ふベき新しき春の日は迎へ得たり有房の卿は如何にか見るらん月日の経つは早きものぞかし斯くて未の年を迎ふるに付けても想ひ出るは明治卅七八年なり時は日露の戦ひに際して我陸海の■<1字不明>虎たち勇みに勇む折柄に豫て我国にて購入せし日進春日の二戦艦我勢力を加ふべく海波を蹴つて回航あり素より戦ひは好まねば早く平和になれかしとて温和の二字を性とせし牝の綿羊二頭を買求め一頭づゝ両艦の上に分ち乗せて遙々回航の途に就きたるに春日艦上の一頭は卅七年二月五日新嘉坡に着せし時安々と黒の牝羊を産みたれば乗員は雀躍して歓び是航海安全の吉瑞なりとて直に其子羊に春日と命名して代る/\之を飼育したり然るに同月十一日我紀元節の日に至り日進艦上の一頭是も白の牝羊を産み而も母子ともに健かなりしかば其乗員等は不思議とするまで喜び勇み是には日進の名を附して同じく愛育を尽したるが春日といひ日進といひ斯く揃も揃ふて吉祥を得たるは國力扶植のさい先よしとて為に三鞭酒を祝したるが帰朝の後此二ツの綿羊を永く両艦の紀念とせんとて海軍大将正三位勲一等男爵井上良馨氏より帝室博物館に献納を申出しに同館にても喜びて聞済あり早速其二頭を同園に移し園長は特に注意して飼育し居りしに其後京都動物園にて其一頭を分ちくれよとの請あり乃ち請に応じて春日を京都に移したるが日進は今尚健かにて上野にあり京都の春日も亦充分に肥太りて此初春の寒き日にも綿毛温かに着て此照代を楽し居るとかや

 帝室博物館に緬羊を献納したとありますが、上野動物園はその博物館に属していた。つまり動物園に寄贈したということなのです。だから、いま引用した「上野動物園案内」の発行所は東京帝室博物館になっています。大正8年発行の「上野動物園案内」では、朝鮮産の山羊はいると書いてあるけど、緬羊はいると書いていない。新渡戸さんの言う日本旅行記を書いた外国人が訪れた動物園が上野か京都なら、戦艦に乗ってきた日進、春日が飼われていたときにでも見に来たのでしょう。
 ちょっとそれましたが、新渡戸さんはいう。書き方がオーバーでけしからんやつなのだが、まあ、日本人は羊をまるで知らないという例としては本当だからしゃあないかなあ。とはいっても、それではいかんのだ。羊を知らない人間ばかりいて、どうして羊の飼育や利用を盛んにしていけるというのか。
 そこで小谷さんを紹介します。小谷農学士、つとにこの業に関して書を著すに志しあり。石を投げると大卒に当たる今とは大違い。農学士、学士も羊並みに少なかったのです。小谷さんの卒論は「北海道牧羊事業」というタイトルです。昭和13年に「緬羊と其の利用」という本を書いた松前卓平という人が、参考文献にそう書いています。学士様ならお嫁にやろうかといわれたくらい希少価値のあった学士様がだよ、わざわざ羊の飼い方の本を書こうと勉強してきた。いいことだ、そりゃ大事なことだよ、小谷君。早く本を出版して日本人の常識にさせ、羊を飼う農家を大いに増やし、羊毛も自給自足できる日本にしようよといって、首を長くして待つこと久し。
 小谷さんも、大先輩に序文を書いて頂くのですから、仕上げた原稿を風呂敷か何かに包んで持っていき、東京の出版社に渡す前に新渡戸さんに見せたんでしょう。新渡戸さんは、よく書けているとべた褒めですね。新渡戸さんは、ドイツで羊を勉強したかどうかはさておき、札幌では一応かじったはずなんです。札幌農学校の校則を見ますと、1年目に動物学実験、2年目に動物病理学、動物生理学、3年目に畜産学、家畜飼養論、家畜生理学および衛生学、4年目に獣医学大意、農用動物学実験と切れずに畜産を教えるようになっています。また、3年目から専攻を決めて農学の乙科を選択すると、畜産関係科目が多くなります。
 このほか農芸伝習科という、小学校高等科卒向けの2年制のコースがあり、こちらの科目に羊毛浄晒法というのがありますから、本当に羊毛処理のいろはから教えようとしていたことがわかります。もっとも、こちらではみそ、しょうゆ、澱粉、パン、藍、木炭と生活に直結したものの作り方の科目がありました。敷地の説明に、27万坪の第1農場で、牛馬羊豚兎、ガチョウ、鶏などの家畜家禽を飼っていたとあります。ですから勉強に材料にする馬や牛、羊なんかは同じ農場のものを使っていたんでしょう。
 この伝統によると思いますが、大正2年の東北帝国大学農科大学畜産学科の時間割を見ますと、2年目1学期の講義に馬学と並んで羊学があります。病理解剖とか手術実習などは別の純粋の座学で、週3回の講義だったようです。さらに昭和10年の北海道帝国大学農学部畜産学科でも同様で、馬学、牛学の6単位に対して3分の1の2単位ですけど、ちゃんと講義があった(16)。北海道にある大学として当然といえば当然ですが、ジンパなんてなかったころから羊肉の勉強ができる環境があったんですよ。わが北大はね。
 羊から新渡戸さんに戻りますが、後に「農業本論」「農業発達史」といった本を書かかれたことから推察すると、先生は農業経済専攻といえると思います。ただ、新渡戸さんのころは何々専攻と分けるほど人数がいなかった。卒業式の英語による演説を卒論とみれば、新渡戸さんは「Principle and Importance of Agricuture」(農業は開明を開く)という演説題で、農業の原則と重要性を話した(17)と蝦名賢造さん、北大予科と教養部の講師をされた方でですが、本にそう書いていますから、農経OBでいいのでしょう。それよりも、新渡戸さんは幼いころから牛肉の味を知っており、札幌農学校の「食事は朝夕西洋料理に御座候得共、何分にも志ゃけに誠に閉口」(18)とこぼしたけれども、鹿肉の方は密かに歓迎していたんじゃないかと私は見ているのです。
 その根拠はですね、子供のころのかかりつけ医が持っていたオランダ製のちょっとした発電装置に触れ、びりっと感電したことで「西洋の科学の優秀なこと」を感じた―といった思い出を、松隈俊子さんの本で見付けたからです。これは昭和9年に丸善から出した英文の本でなんです。北大図書館を「nitobe」で検索しますと雑誌ゼロで、図書は107件も出てきたのには驚きましたね。それに「maruzen」を加えると、1冊に絞られます。その「Reminiscences of childhood in the early days of modern Japan 」にある幼かった新渡戸さんと牛肉の関係を、松隈さんの訳文で紹介しましょう。これは松隈さんが書かれた「新渡戸稲造」からの引用ですよ。はい、スライドを見て下さい。

(1) 或る寒い冬の夜母に呼ばれて、夕飯の席についた。炭火の上でグラグラ煮えている鍋の中に、母がいつもよりは慎重に薄切れの肉を入れて食べた時のおいしさ! これまで牛肉について噂されていたことはみな作り話で、本当は体のために滋養になる、動物は人間のために作られたのだ――と言われた母の凛とした声は、今も私の耳に残っている。

(2) この時代の私に西洋の偉大さを示してくれたものがこのほかに二つあった。一つは極くありふれた鉛筆で、もう一つは牛肉である。(中略)
 鉛筆、オルゴール、マッチを使うのは末っ子の私が真先きであったが、我が家で牛肉を食べるようにしたのは母の手柄であった。我々の郷里は優秀な牛馬の産地として有名であったが、四つ足を食べるのはけがらわしいこととされていた。日本の中部から南部にかけて牛肉を食用にしていると言う噂はぼつぼつ聞えて来ていた。
 鶏や野鳥を食べる習慣はあったし、何か御馳走の折には炉辺で鹿の肉を食べることもしばしばあった。

  

参考文献
上記(15)の出典は石川千代松述「上野動物園案内」25ページ、明治35年5月、東京帝室博物館=近デジ本、 資料その5は中日新聞監修「都新聞復刻版 明治40年1月」14ページ、明治40年1月1日付都新聞14面、平成10年3月、柏書房=原本、 (16)は北海道大学編「北大百年史 部局史」1020ぺージ、昭和55年10月、北海道大学=原本、(17)は蝦名賢造著「新渡戸稲造」34ページ、昭和61年10月、新評論=原本、(18)は松隈俊子著「新渡戸稲造」新装版第2刷48ページ、昭和57年6月、みすず書房=原本、スライド(1)は同5ページ、同(2)は同7ページ


 慶応と明治の境目あたりのころの旧南部領盛岡あたりの肉食の浸透振りがうかがえますね。それにしても新渡戸家では、もう鹿肉を食べていたとはね、やはりお母さんが進んだ方だったからだと思います。新渡戸さんは9歳、明治4年に太田家の養子になって東京へ出ましたから、この思い出は明治4年より前のことでしょう。ともあれ「新渡戸稲造博士は大の健啖家で、スキヤキなどでは飯を八杯もお代りしたそうで、かれが台湾総督府え勤務した時、後藤新平伯が、『新渡戸は大食家だから、飯代に月給をすこし多くやれ』といはれたという。(19)」という逸話を東大にいた小原甚三さんが書いているくらいです。だからね、新渡戸さんは農学校では食べられなかったとしても、欧州留学などで羊肉のうまさを知り、それ、小谷さんじゃないが、ラムと聞けば垂涎三尺鼓舌して止まず。かつては東京でただ一軒の羊肉販売店だった松井のお得意さんになったのは当然と説明できるんだ。ふっふっふ。
 はい、新渡戸さんの序に戻ります。小谷君の本は綿羊を説くこと詳細を極めていると高く評価し、こうした羊飼いの参考書としては白眉、はくび、白いまゆ毛、白いといっても私のように真っ白に近いというのではないんですよ。中国の古い話に5人兄弟で一番さえていた馬良という人の眉にしらがが混じっていたということから、一番優れたものをそういうようになった、小谷君の本が最高だと太鼓判を押し、褒めちぎったんです。私が新渡戸さんと小谷さんの関係を知らなかったので、初期の講義では、ああ麗しきかな、先輩後輩の友情と話していたのですが、飛んでもない。小谷さんは新渡戸さんの信頼厚いお弟子さんだったからでした。その長い関係はいずれ講義で話しましょう。
 農学部の同窓会名簿である「札幌同窓会員名簿1994」によれば、小谷さんは札幌農学校で数えると第15期の卒業生、農学科で数えると第3期生です。新渡戸さんが2期、明治14年卒ですから、13期違うと明治27年卒ということになるはずですよね。ところが「思い出の遠友夜学校」という本の「遠友夜学校校長・代表者歴代氏名」の「札幌農学校等の関係」でも、小谷さんは15期で明治30年卒、北鳴学校卒(20)」となっているんです。この3期のずれは調べてみたら、卒業生のいない年が3回あったせいでした。つまり明治16年と19年と23年は農学科の卒業生がいない。(21)入学させなかったのだろうが、その辺の事情となるとジンパ学の管轄外だから「北海道帝国大学沿革史」でも見て下さい。
 小谷さんの出た北鳴学校とは、新渡戸さんが明治24年9月に堀基という財界人を動かして北9条西2丁目で開校した私立の学校です。翌25年、北海道では初めての中学校になり、堀さんが校長、新渡戸さんは教頭として農学校と二股かけて倫理を教えに行ったのです。しかし、明治28年春から道立の札幌尋常中学校、いまの札幌南高の祖先が隣で開校することになったので、役目を果たしたとわずか3年半、28年春であっさり閉校した(22)のです。
 それで閉校に際して「北鳴学校紀事」という記念誌を出したのですが、明治24年9月の開校式で生徒総代小谷武治が「駑馬モ休マザレバ千里ニ致ス可シ請フ教員諸氏ノ誘掖鞭督ト砕励自奮ノ力トニ頼リ學、行ト脩マリ技、徳ト進ミ以テ本校ノ盛名ヲ発揚スルハ生等ノ本分ナリ(23)」と答詞を読んだとあります。だから新渡戸さんが小谷さんを知ったのは開校と同時だったといえます。ただし、小谷さんがなぜ生徒総代に選ばれたのかという点は説明も何もないのでわかりません。
 小谷さんは、この学校には1年しか通わず翌25年9月に札幌農学校に入ります。それでも、いまいった「北鳴学校紀事」には旧生徒として回想を寄せ「毎週一時間の倫理講話並に親く教員諸君に接して受けたる薫陶により徳性涵養に及ほせる裨益夫れ幾何ぞや余か始めて聖書を手にし若しくは日記を認めて日々の言行を省るの習慣を養ふに至りたるが如きは實に北鳴學校在學の時にありき(24)」と書いています。倫理講話をしたのは新渡戸さんであり、小谷さんはこのように強く感化されたことを認めています。
 それからずっと後の大正9年、小谷さんは遠友夜学校の代表者、実質的な校長を務めました。遠友夜学校は新渡戸さんが建てた私立学校で「教師ハ主トシテ北海道帝国大学学生徒」でした。だから昭和5年に出た「財団法人札幌遠友夜学校一覧」の「創立以来夜学校教師芳名簿」にある335人(25)の中に、当然ことなのですが、小谷さんの名前があります。農学校に入り、出来て間もない遠友夜学校のボランテア先生を務めたのですね。
 代表ごとに区切った沿革説明では、小谷代表時代として「大正九年十一月野中時雄札幌ヲ去リタルニヨリ小谷武治其ノ跡ヲ襲フテ代表者トナル。校舎腐朽甚ダシキタメ洽ク寄附金ヲ募リ、金三千円ヲ得テ同十年三月増築工事ニ着手シ四月竣工ス。教室、十二坪ノモノ三、九坪ノモノ四、六坪ノモノ二、四坪ノモノ一、其他当直室、小使部屋、物置等ヲ併セテ百十六坪五合、収容人員二百五十名、即チ共学單級制トシ、従来ノ予科、本科ヲ廃シテ初等科トシ、尋常小学校程度トシテ高等科ハ漸次廃止シ、更ニ中等科ヲ設ケテ普通科三年、補習科一年トシ、中学女学校ノ初年程度ヲ学習セシメントス。十年四月ヨリ中等科ヲ募集ス。同年六月有隣夜学校分離ス。(26)」とあります。
 小谷さんの次が納豆菌で有名な半沢博士の時代で「大正十年六月小谷武治代表ヲ辞シ、半沢洵之ニ代ハル。(27)」となっています。正味8カ月ですから、本当にワンポイントのリリーフだった。
 北大の予科は明治40年、東北帝大農科大学になったのと同時に発足しました。農学校時代にも5年制の予科があったのですが、学制が変わり廃止されたのです。在職時期から見ると、英語の教官は森本厚吉、高杉栄次郎、有島武郎の3人で始まったけれど、森本が農学部助教授になったので明治43年に木村勇が入り、有島が大正4年にやめたので末光信三が代わっています。大正8年に予科の定員が増え、英語を第一外国語とするもの80人、ドイツ語を第一外国語とするもの120人計200人と変わったのに合わせて教師も5人体制になり、大正9年から小谷さんと和田禎純が加わっています(28)
 ですから小谷さんは大正9年8月に予科の先生として発令を受け、9月から英語の授業を始め、11月に夜学校の代表を引き受けたことになります。満鉄に就職した野中さんの後の代表選出に困って、新渡戸さんが1年でいい、後任が見付かるまでと小谷さんを口説いたのではないでしょうか。
  

参考文献
上記(19)の出典は角笛社編「角笛」2巻7号22ページ、「くいしんぼうの辨」より、昭和22年10月、角笛社=館内限定近デジ本、 (20)は札幌遠友夜学校創立百年記念事業会編「思い出の遠友夜学校」246ページ、平成7年9月、北海道新聞社=原本、 (21)札幌農学校編「札幌農学校一覧 自明治三十二年至三十四年」105ページ、明治34年12月、札幌農学校=近デジ本、 (22)は山崎長吉著「札幌教育史概要」98ページ、平成10年10月、北海道教育社と北海道私学教育史編集委員会編「北海道私学教育史」147ページ、昭和38年7月=いずれも原本、 (23)は北鳴學校紀事編纂発起人編「北鳴學校紀事 北海道尋常中學校之權輿」8ページ、明治28年3月、北鳴學校紀事編纂発起人=原本、 (24)は同52ページ、同、 (25)は札幌遠友夜学校編「財団法人札幌遠友夜学校一覧」28ページ、昭和5年4月、財団法人札幌遠友夜学校=原本、 (26)と(27)は同4ページ、同、 (28)は北海道大学編「北大百年史 部局史」52ページ、昭和55年3月、北海道大学=原本


 縁は異なもの味なもの―といってだね、どこで、どういう人とつながっているか、本当にわからないものなんです。君たちも同窓会は会費を取るからなんて逃げ回るようではいかんよ。研究者になって本を出すようなことがあったとき、長年ご無沙汰しっぱなしの恩師を思い出して、いきなり先生、ご無沙汰していましたが、僕の本の序文、お願いできませんかなんてメールは出せないでしょう。もしかすると、恩師が同窓会の幹事になっているかも知れない。特に文学部は卒業したら音信不通が多い。卒業生名簿の約6000人のうち、4分の1ぐらい住所不明だもんなあ。だから研究室のスタッフも変わるから、すっかり忘れられて、姓はわかるが名のわからない同窓会員名簿の修正のしようがない。おや、思わずぼやきになってしまった。私の単位を取って卒業したら、会費納入はさておいても、同窓会のホームページぐらい見ておいて下さいよ。
 北大文学部・文学研究科では同窓会からの補助金で卒業・修了祝賀会を開くようになって2回やった。1回25万円ぐらいかかるんだが、いかんせん会費納入者が少ないので、同窓会の会計ではそれが、なまらゆるくないんだわ。あっ、こりゃ北海道弁でした。会計としてやりくりが容易でないと。
 だから、私は同窓会の基本給というか基礎額は毎年10万とか15万円と定額制にする。それで前年の新卒、修了生が同窓会に登録して、最初の年の会費の集まった分を上乗せにする仕組みを提案しているんだが、まだ実現しない。こうすると、20代の会費は年1000円だから、前の年が50人なら20万か25万円の飲み物、オードブルになる。100人払ってくれたら10万円はいるから25万円か30万円の豪華版になる、いわば能率給制だよ。年によっては焼酎とピーナツとおにぎりだけになってもしぁない。だいたい180人ぐらい卒業、修了するからフルに入れば倍増、シャンパンにキャビア塗りのカナッペぐらいいけるんじゃないかな。後輩のために同窓会会費を払ってやる、ああ麗しきかな、先輩後輩の友情となるわけです。
 ついでですから、ちょっと脱線しますか。わが文学部同窓会の会長は、独逸文学の教授だった青柳謙二さんという方です。元の文学部長ですが、文学者だからなかなかうまい表現をなさる。今年の卒業・修了祝賀会のあいさつで、こんなことをさらりといっています。
 「同窓会というのは変な組織でして、普通の会ですと、入るか入らないかというのは自分の意思で決めて入るわけですね。ところが同窓会はそうした選択の自由は持っていませんで、極端にいうと皆さんは文学部に入学した途端に、将来は文学部同窓会員になるという運命づけられた存在。後、残されたのは会費を払って名前とか住所を登録して実質的な会員になるか、或いはそれをしないで隠れキリシタンじゃない、隠れ同窓会員になるかのどちらかしかないわけです。ところがその隠れ同窓会員というのはなかなか面倒な存在なんですね。隠れキリシタンなら弾圧を受ける。
 隠れ同窓会員はそうはいうわけにはいかない。隠れているとはいっても、さっきいったように宿命的な同窓会員なんですから、同窓会としては、ですから丁重に扱うのが一番であります」とね。
 文学部同窓会のホームページ「e楡文」の「何でも掲示板」には、発言通り書いてあるので、それをコピーしただけなんですが、同窓会とはそういうものなんです。
 ですから、新渡戸さんも「羊と山羊」の小谷さんも、明治20年に創立された札幌農学校同窓会の同じ会員だった。明治40年に札幌同窓会と名前を変えたんですが、札幌農学校は知名度抜群だったから、それで通ったんですね。いまなら、学校がたくさんありますから、こんな名前ならどこの学校の札幌同窓会なのかわからんといわれますよね。それでも、わかるやつはわかるとばかり頑固に札幌同窓会で押し通してきたんです。そうした農学部OBが東京同窓会に大勢いたから、東京同窓会の運営もですよ、農学部の札幌同窓会の影響を多大に受けてですね、会員名簿の並び順がアルファベット順、それもヘボン式だった。探偵社の社長だった紺野昌俊さん(経済学部OB)が、僕のところなら並べ直すのは朝飯前ということで、それ以来ですよ、あいうえお順の名簿になったのは。私はときどき、いろは順に並んでいる古い人名録とか辞書を見ますが、馴れないからさっとめくっていけませんよね。高校時代からのヘボン式の和英辞典より使い勝手が悪い。
 さて、札幌同窓会ですが、平成12年に改称したんですね。それもまた、思い切って札幌農学振興会としたんです。名は体を表す、同窓の学術研究をどしどし推進振興させよう。同窓会と思えない名前なので、北大のホームページの同窓会リンク集でも、それを見つけられないのか、わからないのか、リンクを張っていないのですから笑えます。100年を超えた一番古い同窓会が最新型の名前に変え、やる気十分なんです。
 北海道庁の傍のビルに事務所がありまして、会員1萬3000人で年予算は9070万円だそうです。ホームページでそうしたことを一切オープンにしています。わが文学部同窓会は青柳さんのいう隠れ会員も含めて約6000人、年予算520万円。これは繰越金いう虎の子込みでして、実際集めて使えるのは200万円ですから、人数比でみれば桁違いであることがわかりますよね。やっている行事も伝統あることばかりで、農学部だけに植物園はおらが庭、あそこで園遊会という行事まであります。その園遊会でジンギスカンが出るかどうかまでは聞いておりませんが、大正時代から定番だったなんてことがあったら、本当に面白いんですがね。
 また脱線しちゃった。真面目な話に戻します。新渡戸さんはいいます。小谷君はおまけに山羊のことまで書いてくれている。結核対策などで山羊の乳を飲む習慣もできつつあるし、いいタイミングだ。この本が世に出たら、大いに役立つと信じているから、予、私は喜んでこうした序文を書かせてもらった。最後にある云爾はイウジではなくてウンジと読む。その前に書いたことを強調していう言葉で、まあ、今的にいえば、ここまで書いたことは本当だよ、嘘じゃないから覚えておきなさい、忘れるなよ―です。
 はい、小谷さんの緒言を見ましょう。毛織物の国産化で輸入を抑えようというのはいいけど、肝心の羊毛はやっぱり輸入じゃどうしようもない―というところまでは新渡戸さんと同じですね。でも、栄養が大事だということが知られて牛乳やバターを取ろうという人が増えても国内生産が伴わず、結局輸入品に頼るしかない。これがまた高くて病人や体の弱い人でもたっぷり飲めないのは、誠に遺憾でございます。そこでだ、毛織物の原料になる羊と、牛と同じように乳肉が取れる山羊の飼育を盛んにする必要があるのだ―という小谷さんの言い方は、羊毛一点張りで論じた新渡戸さんの序とちょっと違いますね。ここに小谷さんが羊だけにせず、山羊も同列に扱った本にした基本方針があったと私は見ます。
 ですから、小谷さんは次のところで、我が国は狭い地勢は最も山羊に適すると先にいったんですね。そして、もちろん羊が飼える土地だったないわけじゃないと付け足しています。近ごろ、こうした牧畜振興が唱えられるようになったものの掛け声ばっかりで、欧米どころか、隣の支那にさえかなわないのが実情だ。日本人がもっと本気で羊と山羊を増やしていけば、羊毛輸入を減らし、病人が山羊の乳を安く飲めるようになるだろう。浅学非才も顧みずこの本を書いたのは、こうした事情を世の人々に伝え、日本を少しでも暮らしやすくていい国にしたいという気持ちからなのだ―といっていますね。
 そうした小谷さんの願いが天に通じたのか「羊と山羊」が売れたんですね。それで第2版を出し、さらに3版も出すことになったので、あちこち筆を入れた。そして4版、5版と版を重ねることになったのですね。その辺の事情がわかるので、追加された小谷さんの緒言も見てください。はい、配ったプリントの資料その6を見なさい。

資料その6

訂正三版緒言

 予の曩に本書を公にせしや、杜撰の譏は固より辭する所に非ざりしも、窃に徒労に帰せんことを恐れ居たり。然るに時勢の進展に伴ひ、羊毛の需給、山羊乳の價値等に注目せらるゝ人士愈多きを加へたるに因るか、本書の再版昨春既に尽きて一書も餘さず而して世の本書を求むること益急なりと聞く。眞に望外の光栄と云ふべし。爾来丸山舎主竹澤氏予に訂正三版を促すこと極めて切なりしも、公務の為め意の如く之が訂正に従事すること能はず、荏苒今日に至れるなり。書中尚ほ心に満たざる所多々ありと雖も、永く世の期待に背くは予の本懐に非ず加之我政府は毎年数拾萬圓を支出して緬羊奨励に充つるの計画を立てられ着々之が實行を見んとするの機運に際し敢て之を三版に附す

大正五年天長節の夜之を認む
                   著者

増訂第四版緒言

世界大戦は宇内の歴史に一紀元を展開して、諸方面に及ぼせる影響眞に著しきものあり。多年微々として不振の極にありたる我牧羊界も、俄然覚醒し来りて近時漸く勃興し、将に空前の盛況を實現せずんば止まざるの趨勢を示せり。於是此乎、今を去る二十五年前、牧羊の如きは農界の識者も一笑に附して顧ざりし往時に當りて、羊毛問題は我邦に於ても、早晩講究せらるべき運命を有すと喝破して、夙に予を指導奨励せられたる新渡戸博士の卓識に感服せざるを得ず。希くは當局の奨励其宜を得、民間の経営其當を得て、健全なる発達を遂げ、確固たる振興を成さんことを。茲に時勢に鑑み、増訂第四版を出す。本書聊かにても、斯界に貢献することを得ば、予の幸之に如かず。終りに道家農務局長、月田畜産課長の厚意によりて写真二葉を本書巻頭に添加し得たるを謝す。

大正八年平和祝典日の朝、煙花の音を聞きつゝ
                   著者

  

参考文献
上記資料その6の出典は小谷武治著「羊と山羊」第5版、大正9年3月、丸山舎書籍部=原本

 小谷さんの訂正三版緒言は、意外にも第2版まであっさり売れてしまった。政府が緬羊増殖計画を進めているし、ぜひ3版を出したいという丸山舎をあんまり待たせておくわけにもいかないから―という事情もこれありで、とにかく3版を出すことで義理を果たすよというニュアンスですね。しかし5版は、かなり違いますね。小谷さん、張り切っているのがわかりますね。大正3年8月、第一次世界大戦の勃発、勃発という言葉はですね、皆さんはなじみがないかも知れませんが、われわれ昭和生まれには大戦の開戦というより、どかんと急に始まる感じがするんです。第一次大戦によって羊毛の輸出入でも思いがけない事態が、それこそ勃発したんです。
 ちょっとこの辺の歴史は自信がないのですが、大正3年8月に勃発、4年続いた。日英同盟の関係で日本もドイツと戦うことになり、ドイツ租借地だった青島を占領したりするんですが、大正4年5月、イギリスは同盟国である日本に対する羊毛トップという半製品の輸出を止めたのです。羊毛はもっぱら輸入に頼っていたのに、それが完全にストップとなると、毛織物業界はおまんまの食い上げです。九牛の一毛という言葉を知っていますか。gooの三省堂提供「大辞林 第二版」によれば、九牛の一毛とは「たくさんの牛のうちの一本の毛の意から、たくさんの中のごく小部分。とるにたりないこと」という意味なのですよ。新渡戸さん、小谷さんたちが啓蒙に努めたにも拘わらず、国内の羊毛生産量は増えず、その九牛の一毛にも足りないと酷評されていたのです。
 輸出を止めた理由は、日本が支那に売る毛織物製品が敵国ドイツなどに渡る恐れがあるからだ。支那へは売らないという条件が受け入れられなければ、オーストラリアを含むイギリス全領土からの羊毛輸出を止めるとまでいわれた。日本としては、同じように同盟国として参戦しているアメリカにも同じく輸出を禁止したというならわかるが、それはせずに日本にだけ支那向け輸出の要求するのはおかしいと外交交渉を重ねる(29)一方、南アフリカや南アメリカから買い付けるなどして凌いだのですが、大正5年11月から同8年4月までまでイギリス領から羊毛を買えませんでした。
 それでショックを受けた政府は「大正七年四月種羊場官制を公布して北海道に滝川種羊場、ついで友部、熊本、月寒、北条の各種羊場を開設したのをはじめ、同年四月二十日には種緬羊貸付規則を公布施行し、八年一月四日緬羊飼育奨励規則を公布施行するなど、農家の緬羊飼育を極力奨励」
(30)に乗り出したのです。小谷さんは、ほらみろ、いわんこっちゃないと思ったでしょうね。羊の飼育なんかどうてもいいじゃないと農学者からも相手にしてもらえなかった25年前、我が国が羊毛増産の手を打たないと大変なことになるぞと私を、小谷さんをですよ、指導奨励した下さった新渡戸先生の識見はまったく驚くべきものです。こうなったからには、官民一体となって本気で羊毛増産を目指そうよ。そのために私の本が役立てば嬉しいですと小谷さんはいっています。
 証拠として、そのころの新聞記事を見て下さい。資料その7(1)がそれです。小樽新聞なので、小樽の花園町の一越洋服店の経営者から話を聞いたのですね。この店主の方はなかなか勉強しておりまして、下手な羊毛産業の本より、うんとわかりやすい。このころの記事には句読点がほとんどありません。入れてもいいけど今後こうした古い記事や本を読むとはの練習と思って、自分で区切って読む。いいですね。

資料その7

 (1)
戦争が済んでも却々
  洋服が安くならぬ
  相場は昨年から二割高
   既製品が盛んに出る

本邦では対戦勃発と共に英国より輸入を仰いで居た羅紗地の原料たる羊毛が殆ど輸入不可能と為つた夫れは一に英国の戦時海外輸出禁制品として食料品及び軍需品の一部として羊毛が
 輸出禁止 となった為めで我国では非常な打撃を蒙り洋服類其他一般羅紗類は二倍半と云ふ未聞の高価を示して未だ依然として低<さがとルビ>らず現状を持続して居る右に就き花園町一越洋服店主は語る「元来羊毛の産額は全世界で英国が第一位で全産額の六分は英国植民地から産するので世界市場の支配権はまあ英国に在ると云つても敢て過言ではない而して
 品が不足 かと云ふと決してさうではなく英国戦時政策の一として将た又戦後に處する工業の一策として多大に貯蔵して居るのである吾国輸入の八分は英国からと少量が仏国から来る計りである要するに英国の輸出解禁は時期の問題である英国は今次大戦に参加した軍隊の復員を待つて羊毛を羅紗に精製して
 海外輸出 を企てる政策らしいのである、されば茲一ケ年位は到底低落の見込みはあるまい<略>


 (2)
大藏次官の失言
 太政官布告まで引き合ひに
    喰下る洋服屋さん

小樽洋服商工組合では「洋服の新調當分御法度」といふ大藏次官の談に対し事変突発以来需要減少の折柄一層深刻味を現す外ひいては全国洋服関係業者たる羅紗、裏地商の従業員を合せ六百萬人の生活基本を脅かされるものであると全国業者と連絡をとり地元東京洋服商工同業組合から陳情書を政府に提出させたがこの程次官から自己の見解誤れる所あつたと法度の失言を取消した旨通知があつた、これに対し小樽組合では語る
洋服新調の材料に国産ストツク品を勧め國策に順応してゐる矢先大藏次官の言は遺憾でありましたが失言取消しと聞いて喜んでゐます今後羊毛の輸入が禁止されても各製造会社には羅紗のストツクも略同数にあるので此處三四年は洋服地には困らぬばかりでなく今作つても金は一銭も外國へは出て行かない事になります洋服の新調は洒落や贅澤ではなく明治五年十一月十二日太政官布告第三七三號に定められてより現代人の必需品となつてゐるのですこの点まで一般の人が認識して戴くと結構な事です云々

  

参考文献
上記(29)の出典は大正4年10月2〜3日付時事新報掲載の「毛類輸出抑制」から、神戸大学新聞記事文庫毛糸紡績業=デジタル版新聞記事文庫、(30)は政治経済研究所編「日本羊毛工業史」74ページ、昭和35年、東洋経済新報社=原本、資料その7(1)は大正8年3月21日付小樽新聞4面=マイクロフィルム、同(2)は昭和12年10月28日付同朝刊8面、同


 いいですか(2)も読みましたね。これは(1)から18年後の昭和12年の、やはり小樽新聞の記事ですが、洋服店がよく勉強しているという共通点を認めて加えました。少し説明すると、いまは日中戦争と呼ばれるが、盧溝橋事件が起こって間もなくであり、当時は支那事変と呼んだので、事変勃発という言葉を使っています。この記事の前、10月12日にも、東京の諸官庁に戦争が始まったのだから物資を節約し、洋服新調は一切まかりならんというお達しが出て、その余波が小樽に及び洋服の売り上げが5分の1に激減していると小樽新聞が書いています。
 それは記事にもあるように大蔵次官発言が震源で、これに小樽商工組合が反発し、全国組織と連繋して失言取り消しを要求した。(1)と同じ人ではないと思うのですが、小樽の服屋さんたちが服を着る法的根拠まで調べていたのに感心しました。
 そう持ち上げておいていうのも何ですが、調べたら第373号でなくて第339号の間違いじゃないかとね。近代デジタルライブラリーの「太政官布告 明治五年」によると373号は11月29日の布告で「大礼服通常礼服着用日ヲ定ム」で礼服を着るのは新年宴会、天長節などと決めた。
 339号の方は11月12日布告で「官員一般之礼服ヲ定ム」で「今般勅奏判官員及非役有位第禮服并上下一般通常ノ礼服別冊服章図式ノ通被相定従前ノ衣冠ヲ以テ祭服ト為シ直垂狩衣上下等ハ総テ廃止被 仰出事」とあり、ナポレオンみたいな帽子、フェンシングの選手みたいな上着、それらの刺繍の模様などを図解しています。だから洋服を着るように定めた布告は339号でしょう。苦し紛れにせよ、太政官布告とは考えたものです。
 この記事がきっかけになったと思われるのですが、この半月後の11月12日の小樽新聞に「洋服着用令発布記念に就て」とうたった広告が載っています。それをスライドで見せましょう。いいですか、もう純毛の生地はなくなる、純毛の洋服を作るなら今のうちだよと売り込んだのです。禍転じて福と成すというか小樽商人のど根性がありあり。また、それぐらい羊毛は暮らしに欠かせない物資だったことがわかりますね。


  洋服着用令発布記念に就て

  羊毛輸入の大制限に伴ひ今後の洋服生
  地はステーブル、フアイバー等代用繊
  維を混織補給される事が決定的となり
  ましたので、主要材料たる純毛羅紗生
  地は逐次品不足となり前途必然的に高
  価になる運命に据ゑられて居ります洋
  服を作るなら品質と価格の点は今が絶
  好の機会と存じます
  十一月十二日は洋服着用令発布記念に
  當りましてよりよき品を格安に御提供
  したいと存じます前途御賢察の上此際
  に御用命の程をおすゝめ致します
           小樽洋服親興會
        <以下11洋服店の店名略>

 はい、小樽から札幌に戻ります。小谷さんは大正9年、北大予科の英語の先生になり、ちょうど第5版を出した年ですから、本と就職の懸案が片づいたし、これからは遠友夜学校にも手を貸そうといった心境だったかも知れません。夜学校は昭和9年に新渡戸さんの奥さんの万里子さんことメアリーさんが2代目校長になり、その後、納豆博士といわれた半沢さんでした。この代表というポストは新渡戸さんが札幌を離れたために作られた。宮部金吾さんから始まる実質的な校長なんですね。大正12年8月、夜学校が財団法人として許可されたとき評議員10人の中に小谷さんは入っており、維持会員(31)としても長く支えたことがわかります。
 この維持会員は「本校ノ事業ヲ賛助サルゝ篤志者ニ年額若クハ月額ヲ以テ寄付ヲ仰グ経費ヲ維持会費ト称シ、創立以来本校ノ事業ヲ支ヘ来リシ最モ重要ナル収入ナリ。会費ハ賛助員自ラガ定メラレルモノニシテ、年額二円四十銭ヨリ五十円位、十二円若クハ六円位ヲ最モ普通トス。」と夜学校一覧にありまして、その名簿を数えてみたら、小谷さんを含め106人(32)でした。北大総合博物館にある遠友夜学校のコーナーにね、昭和9年6月発行の学校新聞「遠友」14号が掲示されています。学校の維持会員として小谷さんが半澤さんと同額の6円寄付したことが読めますよ。
 繰り返しになりますが、小谷さんは昭和12年まで17年間、予科の教壇に立ちました。札幌にいたこともあったと思いますが、さらに昭和19年までずーっと支援を続け、政府から「軍事教練をやっていない学校は不要」と、閉校して校舎を通信局の倉庫として貸すよう命じられ、先生になる北大生も学徒動員で足りなくなっていたこともあり、やむなく閉校を決めました。小谷さんはその閉校会議にも出席したのです。新渡戸さんの残した稀な学校を最後まで守り続けたといえます。
 新渡戸さんはアメリカで療養し、71歳で亡くなられたけれども、60代のときは90までは大丈夫と信じていたらしいのです。というのは「北之開拓」という旭川で発行していた雑誌の主幹だった野呂荘次郎、この野呂さんは新渡戸さんに教わった農学校OBでね、昭和6年に小谷さんに会っている。「小谷予科教授を予科講堂に尋ねして、新渡戸博士來札當時、新渡戸さんは九十才までは大丈夫と或る予言者から折り紙を附けられたと自ら語られだつたと語るを聞いた。」(33)と書いています。「語られだった」は「語られおった」かなにかの誤植かと思われますが、新渡戸さんと小谷さんはそんな話をするぐらいの仲だったということです。新渡戸さんは昭和6年に講演旅行で道内を回りましたが、そのとき2人は会ったのでしょうね。
 一方、旭川にいた野呂さんは神居古潭で出迎えて同じ汽車に乗り、13年振りで新渡戸さんに会った。旭川ではぴったりマークして旭川師範学校での講演で新渡戸さんが黒板に金言を書くのを見た。それでお見送りすると新渡戸さんの汽車に乗って上富良野まで行き、車中で色紙にその金言を書いてもらったんですね。「私の失礼を自ら顧みて、今更汗顔の至りでありますが、しかし之れは、過ちの大功名、独り私自身の永遠の宝物たるのみならず、広く青年諸君に示めすべき最も貴重な珍資料たることを信じます。」(34)と「北之開拓」11月号に色紙の写真を掲載してます。それをスライドで紹介しましょう。揮毫にまつわる新渡戸さんのエピソードはたくさんありますよ。北大図書館の普通のコピー機を使ったので、写真としてはきれいではありませんが、わかりますね。

     

 はい、theeは古語の汝の目的格です。宮部一郎氏によれば、新渡戸さんが留学中に宮部金吾さんに送った手紙は全部英文で「『君に』と云う英語をto youとせずにto theeと古典的文字を駆使している」そうで、これもその伝なのですね。クエーカーの習慣(35)だと注が付いています。
 同じ号に竹内武夫という人が「好々爺新渡戸さん」という思い出を書き、その中で「爾の眼には何れの人も英傑であり帝王である、どの婦人も清い傑い女である、何処の場所も神聖なお堂の如き場所である。」(36)と訳しています。せっかく野呂さんが「広く青年諸君に示めすべき最も貴重な珍資料」と望んでいるのだから、この際皆さんに見てもらいました。私のジンパ学は北大あっての講義なのですから、こうした北大関連で忘れられたような資料が見つかれば、どしどし活用するのですよ。はい。
 それから、この小谷さんのことを調べていたら、夜学校のボランティア先生たちの中に、前回の講義で私が話した宮川知平さんの名があったのには、びっくりしましたね。聞かなかったから話さなかったということもあったかも知れませんがね。宮川さんは「君、クラーク精神はヒューマニズムだよ」というのが、口ぐせだったことを思い出します。そのころのボランティア先生ですが、初代の農商務省月寒種羊場長になった岩波六郎さんが書いた「米寿を迎えて」によれば、夜学校の先生には札幌農学校の苦学生を起用し、毎日1時間の授業を受け持つと1カ月に3円が支給されるので、岩波さんは本科4年間、夜学校の先生を務めた。「毎月一回手当を貰った時に、教師一同で豚めし会を催し、女生徒に手伝わせて豚めしを作り、鱈腹食べて豊平河畔を中島遊園地まで散歩したことなど楽しい思い出として残っている」(37)と書いてあります。岩波さんは明治34年卒ですから、恐らくそのころはもう鹿肉は出回らず、豚肉が一番安かったのではないでしょうか。
 おや、まだ時間がありますね。じゃ、さっきの獣養園について別の角度から話しますか。明治13年の札幌新聞に「札幌沿革進退見立」という投書が載っています。渡島通り、いまの大通りの北側通りにで、そこに住む田畑美満なる人が投書したとあります。
 これは札幌のさまざまなものの動きを対にして取り上げ、進む(しん)と退く退(たい)に並べた戯れ句集でして、トップは進が「札幌にきて感心するものは豊平橋に豊平館」(3836)とくれば、退は「名高き程てないもの創成橋に創成通り」(3937)となっています。組み合わせの意味はわかりますね。もう1つ、いきますか。進が「勝れて出来たるものは農学校に製煉場と製作場」(4038) 、退が「出来そふて出来ないものは増毛への新道と裁判所と本庁の再建」(4139)。いまの時計台一帯にあったわが農学校が立派とうたわれています。見立は全部で9対ありまして、その最後の進が「早く宅地にしたきものは街道両側の桑園(くわばた)と牧羊場」(4240)、退が「渡島通りを通したくないものは荷馬車と牛車」(4341)となっています。
  

参考文献
上記洋服着用令のスライドの出典は昭和12年11月12日付小樽新聞朝刊8面=マイクロフィルム、 (31)は札幌遠友夜学校編「財団法人札幌遠友夜学校一覧」27ページ、昭和5年4月、財団法人札幌遠友夜学校=原本、 (32)は同35ページ、同、 (33)は北之開拓社編「北之開拓」7巻9号22ページ、北の開拓子「私の漫遊記」より、昭和6年9月、北之開拓社=原本、 (34)とスライドは同5巻11号13ページ、野呂荘次郎「新渡戸先生を迎へて」、同年11月、同、 (36)は同5ページ、竹内武夫「好々爺新渡戸さん」より、同、 (35)は佐藤全弘編著「現代に生きる新渡戸稲造」14ページ、宮部一郎「新渡戸稲造先生の想い出」より、昭和63年8月、教文館=原本、 (37)は岩波六郎著「米寿を迎えて」7ページ、昭和37年、岩波六郎=原本、 (38)〜(43)はいずれも明治13年札幌新聞10号8ぺージ=マイクロフィルム


 桑園は「そうえん」でなくて「くわばた」とわざわざ振り仮名をしていますが、せっかく堀さんたちが山形からきて切り開いた桑畑なのに、5年後にはもういらないという人がいたんですね。この街道というのは、よくわからないのですが、桑畑と牧羊場は堀さんたちが汗水垂らして開墾した場所らしいのです。明治23年に町名を新設したとき(1)元桑園内に北1条から北5条までと西9丁目から西20丁目(2)元綿羊場内に南1条から南2条と西12丁目から西19丁目(3)元桑園と元綿羊場内に大通西9丁目から西20丁目―を作った(44)そうですから、桑園と綿羊場の位置と広さがわかりますよね。
 北大図書館の北方資料室に「札幌昔日譚 下巻」という167ページの本があります。内容は明治31年7月から9月にかけて北海毎日新聞に「札幌昔話」という題名で掲載された古老10人の談話なんです。上巻はないのですが、コピー機のない時代、札幌農学校図書室の史料として、だれかが連載記事を書き写して残してくれたものなんですね。それを読むと、郷土史家といわれた方々が、さも自分の見聞みたいに書いたり話したりした昔話のネタは、これだったということがよくわかります。いまはインターネットで全文読めます。その中に資料その8(1)のような話が載っています。

資料その8

(1)
 次は酒田県の綿羊舎です。是は南七条の十一丁目より十二三丁目の間の処を申したので今の師範学校のある両側を言ったものです。夫れは松本判官の時分に同判官は庄内の人なので同所の士族が松本判官へ奉公の為農具迄持って行って開墾をし開拓使へ献納を致し傍ら綿羊を飼養したのですが後には入札払いは致して了ひ綿羊は真駒内種畜場へ遣って了ったのです。折角献納まで致し松本さんも尽力致したものを無暗に売り飛ばし仕舞ふ等は随分酷な話です。是等は恐らく其由来を知らぬから起る話ですから充分取調べた上で処分しないと折角の功績を没する様な事が出来ます。


(2)
 八月三日開拓使の馬車を借用し昨日伴たる一吏人と共に真駒内牧牛場を見る札幌を去る里余の地なり但牧牛の野は是より七里許を隔て室蘭街道の近傍にありと聞けハ其実況を見るを得さりき聞く處に拠れハ本年六月の査定ハ惣計牛百七十一頭にて内百十八頭を牧牛とす他ハ胤牛或ハ搾乳牛なりと云帰り午食の後更に山鼻の牧羊場に赴く牧羊三百八十頭あり概ね米国種なり羊毛は千住製絨所に送ると聞く<中略>
聞く處に拠れハ北海道ハ大概牧畜に適せさるの地なし(根室地方ハ知らず)果して然らん余の聞見ハ二三地方に過きされども皆繁殖に害なきのみならず総て伝染病等の流行之なしと是れ独り牧畜のみならず一般に北地の気候は内地より宜しけれハ流行病なとハ誠に少し然るか故にや山鼻牧羊場の如きも充分繁殖して総て牧畜を害する如きことなしといふ斯の如き良好なる北地を世多くハ憶説の為めに誤まられ氷雪凛烈として堪ゆる能ハさる如きの妄想をなすものあれど此等ハ婦女子の蝦夷と聞て喫驚するに等しく最も笑ふべき妄想なり<後略>
世人多くハ幕府時代に此地を回遊したる者の紀行又ハ談話を信じ所謂先入主となりて唯た北地を恐怖するものゝ如し殊に知らず此等の紀行中にハまゝ自己の艱難を経歴したる名声を顕揚せんなとゝの私心より五倍も十倍も北地を悪しざまに記せしものも之なきにあらず是れ實に北海道の罪人なり余ハ固より曰く北海道ハ富裕の源なり富を欲する者は北海道へ行けと

  

参考文献
上記(44)の出典は札幌史学会著「札幌沿革史」128ページ、昭和54年9月、北海道出版企画センター=原本、資料その8(1)は「札幌昔日譚 下巻」110ページ、深谷鐵三郎氏談話の項、筆写年月不明=北方データ原本、同(2)は郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞」複製版28巻69ページ、平成2年4月、柏書房=原本、底本は明治40年11月11日付

 出典の「北方データ」というのは、北大図書館の北方資料データベースにあって、インターネット上で原文が読める本を示します。「札幌昔日譚」というキーワードで検索すると、ちゃんと下巻が出てきますから、検索の練習に試してみなさい。深谷鉄三郎という人は話し好きだったようで、次々と想像を絶するような札幌の昔話をしていますよ。それから、この深谷さんの話は現代語訳というか、いまの話し言葉と字に書き改めた河野常吉編「さっぽろの昔話(下)」、昭和53年、みやま書房が出した本にも収められています。
 深谷さんは開拓使が緬羊を真駒内へ移してしまったことをよく思っていない。でも見る人が変わると、この山鼻の牧羊場が北海道の豊かな将来性を示すいい例になってしまうのです。資料その8(2)がそれです。
 これは明治14年9月8日から郵便報知新聞に連載された「海内周遊記 第七報」の一部ですが、書いた記者は誰だと思いますか。これを書いてから37年後の大正7年、総理大臣になった原敬<はらたかし>です。9日間札幌に滞在してあちこち見て回りました。
 8月1日に札幌に着いた原は、道幅は廣いし停車場から見える家屋は殆ど洋館だし、たいていの人は外国かと思うだろうと書いています。ヨウカンといっても甘い羊羹じゃなくて西欧風の建物という意味ですよ。京華楼という宿屋に泊まると決めてから「佐藤昌介君を訪ふ在らず去て栃内元吉君を訪ふ佐藤君も亦至り相伴ふて蒼海楼に小酌す遂に栃内君の邸に宿す(45)」。後に初代北大総長になった佐藤は、このころ開拓使御用掛でしたが、原と作人館という南部藩の学校で一緒に学んだ仲でしたから、気を許して宿屋に戻れぬくらい飲んだのかも知れません。
 では、きょうはここまでにしますが、明治の新聞を読んでいた見付けた賢い犬の話を資料その4(2)として、おまけにしましたので、古文の読み方の練習のつもりで目を通してみてください。小谷さんの「羊と山羊」初版では護羊犬と呼び、後の版では牧羊犬と書き換えています。護羊犬は野犬や狼などから羊を護る方にウエートがあり、牧羊犬は群れを誘導する任務を指すようです。
 明治44年に出た「月寒種畜牧場事業報告」には護羊犬という短い項があります。何匹いるなんてことは書いてなくて「羊ノ放牧ニ際シテハ護羊犬ヲ用フ護羊犬ニハゴー(行ケ) バーク(叱レ) バック(帰レ) ラウンド(廻レ) カム(来レ) ストツプ(止レ) ライト(右) レフト(左)等単純ナル数語ヲ限リ教へ濫リニ他人ニセシメズ且ツ命令ニハ如上ノ言語ノ外他言ヲ用ヒザルコトゝス」(46)と使う側の心得が書いてあります。
 これには下線が付いていますが、英単語の片仮名書きした部分という印です。わかりやすくするため私が空白を1字ずつ入れましたが、原文はずらずらっとつながっています。明治の人は、地の文を漢字交じりの片仮名で書いた場合、片仮名書きの英語の部分と区別するために、アンダーラインを引いたり、さらに人名とか船名と断ったりしています。明治の文献を何冊か見ると、読み方が自然に身に付きます。
 たまたまですがね、私が羊というキーワードで国会図書館の本を検索しいていたら、大日本歌學會が出していた雑誌「こころの華」が出てきたのです。明治33年の8月号でね、佐々木信綱が選んだ羊を詠んだ和歌のページがあったからでした。秀逸10首の中に2首が牧羊犬を歌っていたんですよ。「遠出せし牧野に羊帰る哉夫婦ならむ唐犬に追はれて」、「牧童が鞭を手にして犬つれて夕日さす野に羊逐ふ見ゆ」でした。投稿された和歌が179首も並んでいるので、私は牧羊犬の歌がその中にもっとあるだろうとコピーして帰り、調べたのです。
 何首あったと思いますか、ふっふっふ。牧羊犬の歌はその2首だけ、意外にも多かったのは筆の歌で38首、21%もありました。2、3紹介すると「歌をかき畫をかく筆ハ唐国の羊の毛にぞ志く物ハなき」とか「其毛もて物かく筆を作るてふ羊は紙をすくとこそきけ」、「紙好むなれが身なれバ命毛の筆となるべき羊なりけり」
(47)という具合でね。このころの人は筆で字を書いていたから羊と聞けば羊毛の筆、紙を食べる動物と連想したんですなあ。
 あ、それからさっき話した新渡戸さんの緬羊の標本だが、出雲、明治の雑誌ですからね、伯耆とか摂津とか住所はこういう書き方をしています。出雲の武田佐次という人の「学校の標本室に立ながらうごくが如くすはくせいの羊(48)」という1首も入っていました。動かない羊の標本も、初めて見たら驚いてこんな具合に受け止められたのだろうと思う歌です。
 ちょっと月寒の護羊犬が出てくる古い文章を読んでみましょう。資料その9(1)ですが、この摂政宮殿下というのは昭和天皇のこと。お父さんの大正天皇がお隠れになられてから昭和3年ご即位されるまでの間、旧皇室典範に従ってそう呼ばれて公務をなさったのです。
 月寒の護羊犬のことは、昭和天皇が昭和11年に北海道においでになったのを記念して作られた「行幸郷土読本」にもあります。もとになったのは、九條武子の「女子模範作文」にある大正15年夏に來道したときの旅行記「北海道の旅」です。その月寒のところを資料その9(2)に引用しました。私は犬も飼っていたので「一疋の落伍者も見おとすまいと守つてゐる」という犬の描写が気に入りましたね。犬の目付きがそう思わせるのですなあ。
 ただし、だれでも行ける羊ヶ丘展望台から羊をみると、藻岩山はこの文章のようには見えません。いまは北海道農業研究センター、本当は独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構という組織、長い名前だねえ、その北海道農業研究センターになっちゃったが、昔牧舎などのあった低い方からなら藻岩山が背景になり、こんな感じに見えます。80年も昔のことですから、本当に静寂としかいいようがなかったでしょうなあ。
 資料その9(3)は実話かどうか怪しいのですが、こんな犬なら訓練する必要はなかったでしょうね。(4)は明治30年4月1日の北海道毎日新聞に載った記事。これぐらいふざけてくれると、すぐエープリルフールとわかる。多分(3)もそれで、掲載が遅れた英字紙からの記事なのでしょう。それから、さっきの新渡戸さんのことの続きに護羊犬の話がありましたので、もう一度(5)に引用させてもらいました。こんな犬なら(3)くらいのことは本当にできるかも知れないね。はい、次回は小谷さんの「羊と山羊」初版と第5版の違いなどを考察します。

資料その9

(1)
○摂政宮殿下月寒種羊場ニ行啓
 大正十一年七月十三日 摂政宮殿下月寒種羊場ニ行啓遊ハサル當日 殿下ニハ奈良侍従武官長ノ陪乗長満農務局長、宮尾北海道庁長官ノ御先導ニテ関屋宮内次官以下供奉員ヲ随ヘサセラレ午後四時五分畜産試験場北海道支場御成ノ上種羊場ニ御到着場員ノ奉迎ヲ受ケサセラレ直ニ御野立所ニ於テ石崎緬羊課長、巻島種羊場長ニ拝謁仰セ付ケラレ終テ御面前ノ雄大ナル石狩大平野ヲ背景トシタル同場繋養緬羊全群ノ放牧状況、護羊犬ノ動作竝農事ノ器械作業等台覧殊ノ外御満足ニ渉ラセラレ緬羊及犬ニ關シ種々御下問ノ上思召ニ依リ群羊ヲ御前ニ進メタルニ御興深ケニ御覧遊ハサレ還啓豫定時刻ヲ過コサセラルルコト三十余分御機嫌殊ノ外麗ハシク農務局長外一同ノ奉送裡ニ還啓遊ハサレタリ
 因ニ同場ニ於テ當日献上シタル緬羊三頭ハ御沙汰ニ依リ霞ケ關假御所ニ向ケ発送ノ處七月二十七日無事到着セリ


(2)
月寒の種羊場は雄大な平原の丘にあつて、柔かな牧草の緑が丘から丘へと続き、こんもりとした森の向ふにいくつも小山が重なつてゐる。 羊は一里も二里も先まで遊びに出てゐるといふことであつた。
藻岩の山脈がうつとりと、遠い/\國の果を思はせるやうに淡くつづいて見える。 大地の静けさ、この牧場と空との静寂さ、悠々たる石狩の平原に草を食みつゝ遊ぶ羊は、やさしい瞳をあげて人によつてくる。 群れては離れ、離れては寄る廣い野の幾百頭の羊を一群にして、一疋の落伍者も見おとすまいと守つてゐる犬は、まつしろな服をきて、まるで体操の先生のやうなかまへをした牧童の眞横に、かしこさうな顔をして監督してゐる。 この犬についてほんたうに涙ぐましい忠實な話を聞かされた。 夕日がなごりの光を落すと、丘の羊は毎日この犬にまもられて安らかなおのが床に帰るのであらう。

(3)
○犬の羊飼ひ メキシコの人は犬に牛、羊などの飼方を教へて牧夫の役を務めしむるに正直に其役目を勤め且つ其事に巧みなるは人間も及ばぬ程にて例へば毎朝羊又山羊の一群を其宿所より連出して飼場に連れ行き終日其附番を為して有害なる虫獣等の害を防ぎ夜に入れば之を宿所に連れ帰り日々此の如くして曾て二頭の家畜を失ふことなしと云ふ又此に付て珍らしき話は新メキシコの上部に遠く人里離れたる小牧場あり是は或富裕なる牧畜家の持地にて其人は此地にて若干の羊を飼ひ一人の牧夫付け置きて一年に両度づゝ自身に行くが又は手代の者を遣して羊毛を剪り牧夫に食料を与えふるを常とせしが或時例の如く半年振りにて其地に至り見るに牧夫は病の為めにや久しき前に草舎の中に死して居て殆ど顔貌も見分け難き程なりしが羊は最寄の草原にて常の如く草を食ひ其傍に彼の牧夫の使い置きたる一疋の犬が目を四方に配りつゝ羊の番を為し居たり彼人は尚四辺を見廻すに毎夜羊を入るゝ柵囲の後ろに羊の骨の日数を経て既に白くなりたるが十二三程散らけあるを見て余りの不思議さに暫し其身を木陰に陰して様子を伺ふに漸く日没に至れば羊は隊を為して柵囲の方へ帰り来たり犬は其後に付き来りて狭き入口より一頭毎に羊を柵中に追込み斯くて最後の一頭が進んで柵に入らんとする処を犬は執へて直ちに之を殺し柵の後ろに引行きて其肉の一部を晩餐の料に供し残りの肉は貯へて明日の食料となすを見て彼人も其犬の怜悧なるに驚服したる由其犬そ牧夫の死後は常に此仕方にて牧羊を為し尚此後も其死する迄は之を廃することなかるべしといふ(右二件本年四月七日時事新報)

(4)
○羊を牧する鶴 ヱニジコラは羊を牧し又は家畜の番をなす鶴の一種なりこの鶴は牧畜用犬と同一の働らきをなし朝は羊を牧場に導びき暮には小屋に伴ひ帰り其一頭なりともその後に迷はしむる事なしといふ

(5)
 フランスなどにおける犬の調教競技には、つぎのようなことをやるそうである随分と手がこつているではないか。たとえば、ある緬羊群と他の緬羊群とを完全にゴチヤ/\にまぜておいて、このなかから、受持ちの緬羊だけを、一定時間内に選りわけさしたり、貨車に緬羊を搭載する競争をやらしたり、道の交叉点にきて、右なら右えとゆうふうにその羊群を方向転換さしたりする競技である。犬はワンワンワンワンとほえながら、羊の間を、あるいは周囲を、ぐるぐる/\/\つと走りまわつて、自分の緬羊のみを集めたり、貨車にすばやく追いこんで載せてしまつたり、命ぜられた道へ羊群を一定時間に導いたりする。一緬羊群に人一人犬二三匹だとゆう。

 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

参考文献
上記の(45)は郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞」複製版28巻53ページ、平成2年4月、柏書房=原本、底本は明治40年11月9日付、(46)は農商務省月寒種畜牧場編「月寒種畜牧場事業報告」第1回、農商務省月寒種畜牧場=原本、資料その9(1)は農商務省編「農商務時報」26号62ページ、大正11年8月15日、農商務省=原本、 同(2)は北海道中等学校協会編「行幸記念郷土読本」40ページ、昭和11年、日本教育出版社=原本、 同(3)は明治19年4月15日付函館新聞3面=マイクロフィルム、同(4)は明治30年4月1日付北海道毎日新聞4面、同、 (5)は角笛社編「角笛」2巻7号23ページ、小原甚三「くいしんぼうの辨」より、昭和22年10月、角笛社=館内限定近デジ本、 (47)と(48)は大日本歌學會編「こころの華」3巻8号57ページ、明治33年8月、竹柏會出版部、同