先入観のない羊肉を売り込め

 はい、講義を始める前に、きょうのテキストを配布します。どんどん後ろの人に送っていって下さい。資料のトップは小谷武治さんの本「羊と山羊」にある総説です。なぜ小谷さんが緬羊、羊を取り上げたのかを考察するには、この総説に要領よくまとめてありますからね。ジンギスカンのジの字もありませんので、ジンパ学から外れているように思われるかも知れませんが、羊を日本人が食べるようにならなければ、今日のジンパはありえなかったわけですからね、ここは非常に大事なんです。さあ、ざっと目を通して下さい。

資料その1
   総説

 緬羊の人生に効益を与ふること今更予の喋々を要せざる所なれども、其肉は脆美にして滋養の効あり、其毛は微細にして最も防寒に適し、其毛皮は外套の裏地等に用ひ、仔羊の毛皮は、煖手套(マッフ)其他の服飾に供し、又柔皮となして諸種の用に充て、若くは一種の貴重なる紙に製し、其膓の如きものすら、之に加工して、ヴァイオリン、竪琴等、樂器の絃線となすを得べし。其他角、骨、蹄血等一として其用途なきはなし、盖だし牛とともに人生最要の家畜たり、特にフラネル、羅紗、毛布毛斯綸等の原料に至りては一に之を緬羊に俟たざるべからず、加ふるに其性柔順、管理至つて易々にして最も愛撫すべき一動物たるは世人の熟知する處なり。
 近時人々の生活程度及び衛生思想進むと共に毛織物の需要は年一年増加レて殆ど底止する處を知らず、肉類の需要も亦、愈増加し、爲に年々蕃殖する牛の頭数は往々其屠殺数に及ばずして肉價騰貴の主因となれり、されば蕃殖極めて速かなる豚を以て此の不足を補はんとするも、如何せむ、邦人は豚肉を厭ふて常に之を口にする者稀なるを。然るに羊肉に至りては未だ味を知らざる者と雖其名を聞きてすら、其嗜好心を促し、之が試食を躊躇する者あらざるべし、故に予は肉類の不足を補ひ、併せて嗜好上変化を与ふるに羊肉を以てするは策の得たる者なるを信ず。
 方今肉類毛織物の需要大なるに拘らず、國内に現存する緬羊の数は真に僅少にして、挙ぐるに足らず、爲に多くは之を海外に仰がざるを得ざるは遺憾とする所なり。
 抑牧羊の事業たるや、海外にありては淵源遠く游牧時代にありと雖も我國にては、夫の達眼卓識なる大久保利通公が明治八年地を下総に相し、牧羊業を起したるに始まれり。と雖、邦人の従来全く知らざりし事業なるを以て、些々たる蹉跌に遭へば、爲に大に疑惧の念を抱き、動もすれば、牧羊業は致底本邦に見込なしと速断するに至れるは一を知て未だその二を知らざる者なり。
 本邦の空氣は海國の常として甚湿気に富み、湿潤なる天候極めて多く固より牧羊上一大障礙たるは頗る遺憾なれども、若し夫れ種類其宜しきを得、管理其當を得れば、牧羊は到底見込なしと速断すべきに非ざるなり。
 見よ、英国の氣候湿潤なるは世に著明なる事実にして、一年三百六十五日の半数は雨天と称して不可なく、加ふるに濃霧に鎖さるゝこと屡にして倫敦市の如き之がため昼間俄に電燈若くはランプに点火せざる可らざるの騒擾を招くこと往々にして之あるは屡々世人を驚かす事實に非ずや。
 而も英國にては綿羊の飼養頗る盛にして現今實に二千九百余萬頭の多きに達し、加之種々の改良は夙に行はれ、其種羊を世界に供給するを以て其名夙に高く其種類の多きこと實に世界に冠たり、吾人がスコッチと呼びて質稍粗なれども強靱を以て称揚する羅紗、毛糸は主として同国の北部蘇格蘭産羊毛なるを知らば、空氣の湿潤爾く悲観するを須ひんや。尚ほ、加奈陀の如き寒國は三百五十萬頭、印度の如き熱國は三千二百萬頭(山羊を含む)希臘(我北海道の約三分の二)の如き小國すら二百九十萬頭の羊を有するを知らば、我國の牧羊業をして永く微々たる現状を維持せしめて可ならむや。
 明治の初年種羊を輸入するや、遠く濠洲將た英米よりしたるを以て、羊畜にとりては氣候風土の激変を感じたると同時に管理其宜しきを得ず、加ふるに未だ牧草其他飼料の栽植十分ならざるを以て、緬羊の健康自ら損はれ、病虫害此機に乗じて勢を逞うしたるがため、多数の斃死を來したるに外ならず。斯くの如きは事業の何たるを問はず苟も新事業の初に当りては概ね免るべからざる所にして豈獨り牧羊業のみに限らむや。佛國が種羊を隣國なる西班牙より輸入して尚ほ幾度か失敗を招ぎたるが如き、若くは現今世界第一の牧羊國濠洲が其初め幾多の蹉跌を免れざりしが如きを知らば、蓋し思ひ半ばに過ぐるものあらん。
 今や下総御料牧場、北海道種畜場を初めとし、岩手県の小岩井牧場、肥前島原の恒産會社等に飼育して良成績を呈し将に各地に起らむとするの徴あるを以て見れば、緬羊は概に本邦の気候風土に適応して前途有望なること疑を容る可からず、然るに明治の初年牧羊事業に一頓挫を来せし事のみを考へ今思に至りても尚ほ羊は我國に飼養し得ざるもののとの僻見を抱き此の緊要なる事業を等閑に附するは羮に懲りて韲を吹くの類にして識者の取らざる所なるべし。聞く我政府は大に牧羊奨励を計画すと是れ吾人の欣喜措く能はざる所とす。
 要するに羊は家畜中最も温順にして管理し易く、而かも其に依て生ずる所の材料重要なるを以て若し一般農家にして一副業として之を飼養するに至らば邦家を益すること真に多大なる者なるべきなり。

  

参考文献
上記資料その1の出典は小谷武治「羊と山羊」第5版1ページ、大正9年3月、丸山舎書籍部=原本


 ホームページ上における著作権侵害に対する監視の目が厳しくなってきている当今、私が第2回と今回、小谷さんの「羊と山羊」から結構な行数を引用してホームページに載せて、著作権侵害で訴えられないのかと思う人がいるでしょう。羊を知らない明治の人向けに小谷さんが詳しく書かざるを得なかった事情の資料にしても長いのではないかと。当然です。普通なら確かにその懸念は大ありです。
 ただ、私は第2回でお話ししたように、小谷さんの孫娘に当たる人、農学部OGのAさんとしておきますがね。Aさんと私は北大一般教養部で偶然にも同じクラスにいた。Aさんの父親も農学部OBで、小谷さんの娘さんと結婚して満鉄の公主嶺農業試験場におられた。旧満州の公主嶺にあった試験場は広くて、緬羊の品種改良もやっていたため、わがジンパ学研究では非常に重要な場所なんです。
 空想だけど、おじいさんからAさんまで一家3代で農学部同窓会ができるわけだ。学科の謝恩パーティーでAさんがそういう話をしたら、Aさんが教わった教授から私は予科で小谷さんに英語を教わったといわれて奇縁に驚いたそうです。
 ですからAさんは公主嶺育ちで、公主嶺小学校同窓会が昭和62年に朝日新聞社から出した「満洲公主嶺 過ぎし40年の記録」という公主嶺小学校80周年記念誌の編集にも参画しました。その中に書かれているジンギスカンの思い出なども、改めてお尋ねして資料に残してありますし、こうしたホームページを作っていることも、年賀状などでお知らせしてあります。
 それとは別に、私が国会図書館の電子図書館を利用していて、国会図書館が明治期に刊行された本の著作権者を公開調査していることを知ったのです。ちょっと調べたら「羊と山羊」も著作者捜しの対象になっているので、Aさんに「あなたのお母さんが連絡先になると思いますよ」と連絡して、Aさんから了解したとメールをもらいました。その後どうしたか聞いておりませんが、平成15年度は著作権者の連絡先判明が60人あったと、公開調査のページに書いてありますので、その1人に入っているかも知れません。
 そういう間柄であることと著作権侵害は親告罪でありますので、私は小谷さんに敬意を十分に表しつつ、かつ著書に対する著作権上の節度はきちんと守っておるつもりなので、Aさんに「いくら同級生にしても度が過ぎる」と訴えられることはないはずと信じているのです。
 それより私が問題にしたいのは、マスコミの方です。君たちは平成9年に日本新聞協会編集委員会が公表した「ネットワーク上の著作権に関する協会見解」を知らないでしょう。これは「ネットワーク上の著作権について――新聞・通信社が発信する情報をご利用の皆様に」という副題が付いていて、新聞協会のホームページにあるから読んでください。特にホームページを開いている人は必読だね。これを読むと、彼等はホームページを目の敵にしているとしか思えない。この見解通り著作権を尊重すれば新聞記事の転載はほぼ不可能、部分的な引用すらかなり面倒ですね。
 たとえばホームページに転載したい記事は新聞社に許可を申請しなければなりません。ここまでは我慢しましょう。それからです。運良く無料で転載してもよいとなっても、一定期間ごとに許可を更新しなければならないようです。これらの手続きとか金額は統一していないらしく、とにかく新聞社にお問い合わせ下さいの一点張りです。以上の話は、私の経験と各社のホームページを調べての感想であって、協会見解の直接引用部分はありませんからね―とわざわざ断っておかないと、引用を疑われ、引用の条件を守っていないと指摘される恐れがあると感じるくらい厳しい。なんでこんなに記事という著作物を守りたいのか、意図がわかりません。
 記事の引用にしても、短い死亡記事ほどむずかしい。尽波教授が何月何日死亡したぐらいはいいようですが、もし記事に先生はジンパ学の最高権威であったと書いてあったとします。私の講義を聴いた人は、その死亡記事を読まなくても、それはわかるはずですから、ホームページにそう書いたとすると、記者のなんとかを表現したものとかをなんとかしたことになり、著作権を尊重していないことになる。いまなぜ、わざとあいまいに話したかというと、協会見解の中に具体的な説明があるのですが、その引用に該当しないようにするためです。とにかく皆さんに見解を読んでもらうしかないということです。
 まだまだ記事の著作権には文句をいいたいのですがね、それぐらいにして、引用個所の解釈にいきますよ。これには書き出していませんが、原本では最初に「農学士 小谷武治」とあるんです。北大だけで、平成13年は233人も農学士が出ておりますが、いまと時代がてんで違います。博士でも論文、課程両方で13年度は72人の農学博士が出ていますから、それよりもっとVIPですよ。それだけに勉強してますから、難しい漢字を沢山知っており、小谷さんの文で見られる通り、明治の本はそれを総動員したみたいに難しい。だから、スキャナー撮りしてからの校正が大変です。かなりの文字が第2水準にもありませんから、漢語辞典で区点番号を探して直さなければならない。書いたご本人と同じぐらい時間と手間が掛かっているんですよ。いや、ホントに。
 小谷さんの総説は全体が10の段落に分かれてます。1段目は、羊がどういうふうに役立っているか、具体的に教えています。マッフはいまでいうマフ、筒形に縫ったふかふか毛皮で、両手を差し込んで暖めるあれです。
 それから私が渡すプリントで、昔の新聞記事にルビといって振り仮名が付けてあります。パソコンの文字でルビ表示は結構手間が掛かりますので、原文では全部付いていても、必要なところにしか付けていませんからね。引用の条件である原文を尊重していないことになるが、どうしても付けろと警告されるまで、このスタイルでいってみましょう。それぐらい記事著作物はうるさいんですね。これまでのところ出てきませんが、いずれ<>に挟んだ説明も出てきます。これは筆者は書いてはないけれども必要な記号や文字の説明です。たとえば小説家がよく使う「く」の字を縦長にしたような繰り返しの記号は、横書きできませんから/\<これだよ>というふうに説明するとき、使いますから覚えておいて下さい。丸い括弧でもいいのですが、書いた人がよく使うので、それと混同しないよう<>を使うことにしたのです。
 羊の下に皿と書いた盖は、けだしと読みます。思うに、私の考えではという意味ですね。字義では羊と関係になく、草で覆う、蓋をするという意味なんですが、ちょっと見たところ、盖だし、皿盛りしたジンギスカンのお代わりの肉という字みたいですね。
 2番目の段落こそ、小谷さんの羊についてのコンセプトなんです。文明開化だとか何とか、みんな肉好きになっちゃって、牛鍋なんかで牛をもりもり食べるもんだから、育てる方が追いつかない。だから値段も上がる。間に合わせに繁殖の早い豚も食べてくれればいいのに「如何せむ、邦人は豚肉を厭ふて常に之を口にする者稀なるを」。なんでか豚肉は嫌だという。仕方なしには食べるが、牛同様に食べようとしない。まるでイスラム教の信者の方々のようですね。これは冗談。
 そこで小谷さんは考えたんですね。羊はまだ少なくて食べたことのあるものなんか、いないも同然。そこで未知への挑戦とあおるのはグッドアイデアではないか。新しがり屋どもが牛肉にかぶりついたように、そういう連中に、諸君は食べたことないだろうけど、羊の肉はうまいぜ。欧米諸国では王侯貴族の肉と大事にされているんだ。子羊なんか、本当に柔らかくジューシーで、まったりして、一度食べたら牛なんか、もう食えないねなんてPRすれば、すぐ飛びついてくるはすだと。そうして羊肉を食べるようになれば、自ずと農家の実入りがよくなり、羊毛の生産量も増えるわけで、毛織物の原料の自給自足とは無理としても輸入量を減らすことができ、国策に沿うとはずだとね。
 しかしですよ、明治以前の日本人は仏教の殺生禁断の教えを守り、肉食、四つ足は公然とは食べませんでした。いや、2本足の鶏もろくに食べなかったらしいのです。大阪のある人が明治20年ごろ、尾州知多、愛知県知多半島に海水浴にいった。宿で魚ばかり出るので、鶏肉を食べようとしたら3日も待たされた。わけを尋ねたら仏教を深く信じる土地柄で、鶏を殺して食べるのを嫌って「自然飼ふ者の尠きと又殺すと聞て售(う)らざる者の多きによるなり」とわかった。食用の殺生に何の罪があるのだ、信ずる者も教える方も問題だが、こんなことでは立派な國にはなれない。早く牧畜業を振興させよう(1)と「農業雑誌」で呼びかけているくらいですから、推し知るべし。
 明治どころか戦後でも四つ足敬遠はあったんですよ。実例をお話ししましょう。私は満洲育ちで、戦後引き揚げてきて中学生のときは、青森県の南部といわれる田舎にいました。あの県の南の方は、岩手県北半分と同じく昔は南部藩の領地だったので、いまでも南部と呼ばれています。南部煎餅はその一帯で食べているポピュラーな煎餅なので、その名があります。ニューヨークで焼いても南部煎餅なんだ。かなり以前、アメリカ人の青年が南部煎餅屋になりたいと八戸だったかどこだかの煎餅屋で修業しているという記事を読んだことがあります。
 その南部でですね、親父が分教場、いま風には分校ですね、その先生やってました。山の中のその部落の人たちは皆農家で、姓が2つしかない。だから何々君と姓で呼ぶと子供の半分がハーイと返事をすることになりますから、呼ぶときは太郎だの次郎だのと呼んでましたね。
 ともかく、そこでは先祖代々、家の中では四つ足は煮炊きしないという決まりを守ってきたのですね。山の中でこっそりとか、町の食堂なんかで食べていたかも知れませんがね、少なくとも自宅で馬、鶏は飼っていても、羊や豚はいませんでした。いまは知りませんよ。
 昭和20年代に馬の伝染性貧血という病気がはやり、各地でたくさん馬を屠殺処分したことがあります。そのとき、この部落で、ただ埋めてしまうのはもったいない。ひとつみんなで食べようではないかと誰かが言い出し、話がまとまったんですね。赤信号みんなで渡れば恐くない、あれです。
 でも昔からの掟がありますから、家の中で煮炊きするわけにはいかない。そうだ、分教場ならいいじゃない。先生は部落の掟を守らなくてもいいよそ者だし、分教場のいろりなら構わんだろうと、大鍋で豚汁みたいな馬汁というかサクラ汁を作って、PTAのPが大勢きて、馬肉を食べ密造のどぶろくを飲んだ。もちろん中学生の私は遠慮なく両方ともご相伴に与りましたよ。私は、酒はどぶろく、たばこは煙管で刻み、コンピューターは8つ穴の紙テープで入力するOKITACからと万事基本から勉強して参りました。ジンパ学も明治の小谷本からです。
 そうそう、伝染性貧血ではありませんが、死んだ馬を大勢で食べる話を、坂本直行という農学部OBが昭和33年の「農業北海道」に書いています。十勝の開拓農家として暮らしたときのことだが、牧場の馬が死ぬと結構な人数が集まる。皆申し合わせたようにスコップと莚を持参して、馬主に人間の葬式のようなお悔やみを述べる。スコップで原野に穴を掘り終えると、馬主が「どうか皆さんで食べてやって下さい。成仏できますから」といって去る。すると莚にくるんでいた出刃庖丁や大きなナイフを取り出して解体し、残った頭と骨と内臓を埋めて葬式は終わる(2)―とね。牛が死ぬと坂本さんは皆が食べない牛タンを頂いて舌鼓を打っていたそうです。はっはっは。
 ついでに、ちょっと珍しい傍証記事を示しましょう。資料その2の(1)は短いが、明治5年の新聞からです。「田舎なれども南部の国は 西も東も(かね)の山」と南部牛追い唄にあるくらい岩手県内には鉄などの鉱山が沢山あったから鉱山労働者も大勢いたんですね。昔だから粉塵防止対策なんかなくて大抵、じん肺などの呼吸器疾患で早死にしていたけれど、牛肉を食うようにしたら肺をやられず長生きできるようになったという肉屋の宣伝みたいな話ですなあ。明治5年から40年遡ると天保年間になるが、それぐらい前から肉食をしていたらしい。
 (2)は橋本宗彦という人が明治31年に出した「秋田沿革史大成」に書いてあることです。岩手県と同じように秋田県内の銀山の労働者などは明治以前から牛肉は食べていたことは、これで納得できる。同(3)は、体の小さい牛はそれなりに肉も少ない。大きな体の牛なら多くの肉と乳と大きな皮もとれるから牛は品種改良をして全部大きな牛にした方がいいよ。それから日本の自然環境は羊飼いに適しているからているから羊を増やせば、その毛は衣服なるし、肉も食べられるよ―というアメリカ人の常識が、明治の人々には耳新しかったんですね。私としては「肉は以て最上の食品」という決めぜりふが気に入ったので、牛羊兼用でここに入れたんだ。はっはっは。
 その次の(4)は、いまは湯沢市となった院内銀山町にいた医師の門屋養安の日記に出てくる牛肉食。天保6年から25年間の門屋日記のデータベースを作って研究した茶谷十六さんの本「院内銀山の日々―『門屋養安日記』の世界―」からです。
 金名子はカナコと読み、坑内の掘る場所を請け負い、手下の掘り大工に掘らせる組頭というか親分のことです。当然掘り大工に食べさせる牛肉を確保しているから、医師が2人もきたら大歓迎して、ホタテの貝殻を鍋にして手持ちの牛肉と野菜を煮る貝焼きでも勧めたんでしょう。この続きには養安に頼めば薬としての牛肉が手に入ることも知られていて、近隣の藩士宅からの飛脚が運んだことも記されています。

資料その2

(1)
○岩手県下巨商村井某ノ談ニ我県内鉱山職業者四十年前迄ハ廿五六ヨリ卅歳ヲ限リ漸々痰気ヲ発シ斃ルコト十ニ八九是也然ニ其原因一毒気ヲ肺臓ニ受ケ之ガ為ニ疲労スト察シ試ニ牛肉ヲ常食セシメシニ是ヨリ此患減シ四十乃至五十歳ノ命ヲ保ツ者アリ衆皆之ヲ良法トシテ用ヒシカバ当分ハ六十有餘歳ニ至ル者アリト


(2)
○牛肉ヲ食スルハ元銀山ノ外ナシ銀山杯ハ鉱夫等鉱窟ニ入其業ヲ営ミ空気ノ流動ヲ呼吸スル最モ少ナクタメニ壮健者ニアラサレハ之ヲ養フノ途ハ此牛肉ニアルヲ以テナリ然ルニ維新後大ニ衛生ニ注意シ遂ニ此牛ヲ一般ニ用ユルノ人身健康ニ適当ナルヲ発明シ各自一般ニ食スルハ勿論兵隊等ニテ兵士ノ供シルニ至レリ従来ハ鹿兎猪肉位ハ之ヲ食スルモ其他ノ獣肉ハ食セス故ニ馬肉等ハ尚食スルモノニアラストシ又牛乳等モ本県ハ明治七年頃ヨリ搾リ取リ滋養ニ服用ス


(3)
○米利堅人ノ説ニ 日本牧牛ハ豢法其術ヲ得ザルユヘ体躯甚小ニシテ肉モ亦下味トセリ邦人近来沓其他革製ノ品物ヲ用ルコト実ニ夥シト雖モ悉クコレヲ外国ニ仰ケリ然ルニ輸入ノ品ハ外国ノ極メテ下等ナルモノニシテ其価殊ニ貴シ今牝牛ノ畜養ニ注意シ外国ノ肥大ナル牡牛ヲ求メコレニ交ハラシメ豢法其術ヲ得ハ遂ニ全国ノ牛種ヲ一変スルニ至ランサスレハ皮モ大且美ニシテ良好ノ品ヲ製シ乳汁肉脂等モ随テ多量ヲ得ヘシ亦畜羊ハ 日本ノ土地気候ニ適セルコト必セリ毛ハ以テ衣服ヲ製シ肉ハ以テ最上ノ食品トナス一匹ノ羊ヨリ二三斤乃至七八斤ノ毛ヲ収納スベシト豈国益ノ大ナルニモアラスヤ


(4)
 明治維新よりもはるか以前に、院内銀山町で牛肉が食べられていたということは、まさに驚天動地の事実である。
 日記の中から、いくつかの事例を挙げてみよう。
 「天保十(一八三九)年十月三十日、湯沢柳先生へ、牛肉一朱代、幸吉、湯沢へ参り候便へ、持たせ遣し候」
 下男の幸吉が湯沢へ行く用事の便に託して、恩師の柳玄碩先生に、牛肉を金一朱分、送り届けさせた。これが、養安の日記に出てくる、牛肉に関する記事の初見である。明治維新より三十年も昔のことだ。
 「弘化二(一八四五)年五月二十七日、周達老、罷り越し、昼、善左衛門方へ、牛肉()べに罷り越し申し候」
 医者の由利周達が訪ねて来たので、連れだって金名子で町頭の村田善左衛門の家に行き、昼食に牛肉を食べた。
 「弘化三年九月十四日、松井藤吉殿へ、牛肉仕送り遣し申し候」
「同日、上条石井伊兵衛様へ、一曲遣し申し候」
 湯沢の商人松井藤吉へ、牛肉を送り届けた。同日、湯沢南家の家臣石井伊兵衛方へも、曲げわっぱに一つ詰めて送った。
 「嘉永三(一八五〇)年三月十六日、酉松より、珍しき牛肉送り給り候」
 金名子の鈴木酉松から、珍しい牛肉を届けてもらった。
 ともかく、養安の日常生活の近辺で、さほど特異なこととしてではなく、ごく普通のこととして牛肉が食べられていたことをうかがうことができよう。養安の日記によれば、牛肉は、生肉をそのまま貝焼きで食べたほか、煮詰めて佃煮とし、また、味噌漬け、塩漬け、乾肉として保存したようだ。


(5)
 明治の初めの日本人は神棚に紙を貼つて牛を食つた。これも日本人らしい。インドや中央アジア辺の、宗教的に牛なり豚なりを喰わぬといふ人種は、いまでに頑として喰はないで押し通してゐるが、日本人はそこへ行くと開けてゐる。神様に形式的に一寸隔離して戴いて禁断の肉を平気でたべさした。喰べて見るとうまいし、国民的カロリーも増すといつた訳で、しまひには神様の目の前で平気でやる。神様もまたインドや中央アジア辺の神様のやうに頑迷でないと見えて、結局それで通過してしまつた。日本が昔から他国に立ち遅れながら、やがて他国を追ひ越すやうになる理由も、この牛肉の例で合点される。

  

参考文献
上記(1)の出典は学農社編「農業雑誌」305号257ページ、早味朝五郎「牧畜業振興すべし」、明治21年6月25日、学農社=原本、(2)は北海道新聞社編「農業北海道」9巻8号35ページ、坂本直行「十勝原野」、昭和33年7月、北海道新聞社=同、資料その2(1)は明治5年4月「新聞輯録」23号5丁表=北根豊・鈴木雄雅編「日本初期新聞全集 補巻1、175ページ、平成9年9月、ぺりかん社、 同(3)は明治4年8月付「新聞雑誌」3号1丁表=同32巻186ページ、平成3年10月、同、   (2)は橋本宗彦著「秋田沿革史大成」第2冊479ページ、明治31年11月、橋本宗一 =近デジ原本、 同(4)は茶谷十六著「院内銀山の日々―『門屋養安日記』の世界―」428ページ、平成13年8月、秋田魁新報社=原本、 同(5)は文藝春秋社編「文藝春秋」第15巻1号218ページ、長谷川如是閑「牛」、昭和12年1月=原本


 つまり、維新前の秋田では食べてはいけない肉のランクの最上位は馬肉などだった。この「馬肉等」の「など」には銀山労働者は食べた牛肉も含まれていたんでしょうね。四つ足で食べてもいいのは鹿肉、兎の肉、猪の肉ぐらい。こうした考えが秋田に近い南部にもあった。南部では農家は同じ屋根の下の厩で飼うのが普通ですから、その心情からも馬は食べる気にはなれず、より長く残ったことが考えられますが、牛だって気安く手放さなかった。安政の箱館開港で箱館奉行所が南部地方で牛を集めようとしたが、外国人に食わせると聞いて、なかなか買上げに応じなかったそうですからね。
 でも、どんどん肉食が普及して牛馬の内臓、モツまで好んで食べるようになるんですね。初めは怖がるけれど、やがて慣れて何とも思わなくなる日本人の癖を、評論家の長谷川如是閑は資料その2の(5)のように書いたのです。うまく言い当てていると思いませんか。
  ついでですが、栃木県にあった足尾銅山では肉とは馬肉を指し「『日本国中で馬を食うのは足尾が一番だんべや』と、足尾の町の人の誇り顔に言ふも無理ならず。」と、新聞記者の松崎天民が本に書いています。明治39年に足尾共同獣肉合資会社は牛15頭、豚25頭に対して馬は、なんと411頭も肉にした。1斤の肉が牛は45銭、豚は25銭なのに、馬なら16銭とベラ安だったからで「多くの坑夫は勘定金の下がるや否、一月中の楽とせる馬肉を求めて、晩酌の一盞に舌鼓打つ。あゝ足尾の馬、活きては銅山のトロを挽き、死しては坑夫の食餌となる。如何なる宿世の縁ならん。(3)」と、馬を哀れんでいますよ。
 ちょっと脱線しますが、この足尾銅山のルポルタージュを見付けたとき、私はこの記事を書いた松崎天民をよく知らなかったのです。ところがジンパ学の文献調査を進めるうちに、松崎はジンギスカン料理とも関係があることを知ったのです。
 というのは、松崎が新聞記者を辞め「食道楽」という、いまでいうグルメの向けの雑誌を始めるのですが、後の講義で取り上げる東京の濱の家と付き合いを深め、当時としては非常に珍しかったジンギスカンを食べる会に招かれたりして、濱の家をせっせと応援するようになるのです。さらに松崎が朝日新聞社にいたとき石川啄木もいて、歌集「一握の砂」を贈られたぐらいの仲だったことも知ったのです。そのせいか松崎も短歌を作るようになるのですね。
 一方、啄木が選者をしていた朝日の「朝日歌壇」に「白面郎」というペンネームで投稿する人物がいた。白面郎(はくめんろう)とは文字通り色白な青年、若い未熟な男という意味で杜甫の「少年行」という詩から出た(4)言葉なんですね。「朝日歌壇」に載るその歌が啄木みたいな感じなので、白面郎は啄木本人と疑う説もあったそうです。でも平成20年の春、平野英雄という人が「啄木と朝日歌壇の周辺」という本を出し、当時の朝日新聞に白面郎の署名入りで「寄席印象記」という連載記事があるのに気付き、7回の記事に含まれる担当記者の生い立ち情報から岡山出身と見当を付け、白面郎は啄木ではなく、岡山生まれの松崎だった(5)という新説を打ち出しました。
 私は、ほぼ10年分の「食道楽」読みで、かなり松崎について知識を得ましたから興味津々、その本を読んでみた。すると、松崎の書いた「記者懺悔人間秘話」という自伝に「寄席印象記」などを書いたとあるし、出身地の「落合町史」にも松崎が朝日時代に「寄席印象記」を書いたとあるから「白面郎は松崎天民と考えては間違いない(6)」ということでした。
 北大図書館でキーワード松崎天民で検索すると、松崎が出した本が6冊出ます。そのうちの「人生探訪」には松崎が書いた連載記事11編を収め、ちゃんと「寄席印象記」が入っているのです。朝日新聞の明治43年11月から12月の縮刷版の記事と、それを突き合わせると、新聞ではなかった句読点が付いているぐらいしか違いはない。町史なんかを論拠にしなくても、これ1冊でよかったのです。つまり平野さんは天民が書いた本の調べ方が足りなかった。いうなれば現場主義でなかったんですなあ。
 もっと脱線すると、松崎がもらった「一握の砂」は吉田孤羊という有名な啄木研究者が借りたまま返さなかったと、松崎の奥さんの弟である橋本徳寿というアララギ派の歌人が暴露し、松崎が「恋と名と金と」という本に載せた短歌7首(7)を「食道楽」で紹介しています。これぐらいやるのが、私の現場主義という調べ方なのです。ふっふっふ。
 啄木の「一握の砂」が出てから100年ということで、平成22年12月10日の北海道新聞にね、啄木が橘智恵子に捧げた1冊が岩見沢の北村牧場に現存しているという記事が載りました。それによると「橘智恵子様へ 著者」と献辞が書いてあり、別により詳しい献辞といえる葉書を送り、それも残っている。また「森先生に捧ぐ 著者」と献辞入りも東大の鴎外文庫にある。(8)
 私の知人の調べによれば、啄木は律儀な面があり、小説の中でいわゆる南部煎餅と塩煎餅をちゃんと書き分けた。青空文庫にある24作品のうちの7作品に13カ所出てくるが、岩手が舞台のときは麦煎餅、啄木がいたころはそう呼んでいた。東京の場合は単に煎餅と区別しておるとのことです。胡麻つきのあの煎餅は八戸が発祥で盛岡じゃない。啄木は「雲は天才である」の中で、ちゃんと「名物の八戸煎餅」と書いているというから、調べたら本当だった。
 とすれば、天民の本にも「白面郎大兄へ 著者」ぐらい書いた可能性ありさ。諸君が「一握の砂」の初版本に触れる機会があったら、目次のあたりをよく見なさいよ。もしあったら面白い、天民からの意外なつながりがわかるはずです。はっはっは。
 はい、松崎天民は改めて取り上げますから、今回はそれぐらいにしましょう。北海道でも、足尾ほどでないにしても、馬を食べていたんですね。なぜそれがわかるのかというと、大正7年に出た「畜産雑誌」、北海道畜産協会が編集したものですが、それに空知や夕張炭鉱地帯では明治30年代から肉食、質より量だぞと主に馬肉を食べた。「今を去る八九年前より秋田県出稼の坑夫にして、牛馬の内臓を食用するものありしが」馬肉の値上がりで牛馬内臓の需要が増大した(9)と報告しています。また幌内炭鉱では明治20年代から肉店があり「秋田方面より来れる坑夫中には、特に馬肉を食すれば坑内に於て湿気を予防するの効あるものとなして、時々之れを食用に供したるものなりとも伝ふ(10)」と、秋田の銀山の食習慣が新しい北海道の石炭掘りに伝わったことを示唆しています。いま歌志内市民が郷土料理といっている「なんこ」という内臓料理が、これの名残なんですね。
  

参考文献
上記(3)の出典は松崎天民著「ペン尖と足跡」168ページ、大正4年10月、泰文社=原本、(4)は尚学図書編「現代漢語例解辞典」810ページ、平成4年1月、小学館=原本、(5)は平野英雄著「啄木と朝日歌壇の周辺」29ページ、平成20年2月、平原社=原本、(6)は同32ページ、同、(7)は食道楽社編「食道楽」8年9号105ページ、橋本徳寿「天民の短歌」、昭和9年9月、食道楽社=原本、(8)は平成22年12月10日付北海道新聞夕刊5面、「啄木献辞本 今も岩見沢に」から=原本、 (9)は北海道畜産協会編「畜産雑誌」第16巻6号15ページ、TK生「空知夕張両郡炭鉱に於る肉類の需要状況」、大正7年6月、北海道畜産協会=原本、(10)は同第16巻9号23ページ、TK生「空知夕張両郡炭鉱に於る肉類の需要状況(続)」、大正7年9月、北海道畜産協会=原本


 ところが肉体労働者の少ない都会では、量より質と牛肉にこだわりたがる。小谷さんは牛肉不足だから豚肉をもっと食べさせようとしても嫌うのだから、いっそ予備知識ゼロ、白紙状態の羊肉を食べさせ、牛肉ばかりが肉じゃないぞとわからせるのが、トータルとして肉不足解消の決め手になると提案しています。ああ、それなのにと、その次の段落では現状を示します。
 これは名案なのだが、国内には緬羊はほんの少ししかいない。肉も毛も輸入せざるを得ないのは、誠に遺憾でございますと。そこでですよ、緬羊を飼育しなくて何事も始まらないと、その必要性を説いています。なにしろ過去の飼育失敗は、羊を知らない人たちが始めたことなんです。ちょっとつまづいたからといって羊は日本に合わないと見限っては困ります。
 日本は島国で天気はあんまりいいとはいえないかも知れないけれど、イギリスをご覧なさい。スモッグがひどくて、昼間から電灯をつけたりしている。それなのに羊飼いは盛んで頭数も多く、品種改良をせっせとやって種羊の供給地として世界中に知られているでしょう。
 このくだりに関連してですが、小谷さんは「羊と山羊」を出すために、この総説を一気に書き下したのではないと思います。それはですね、明治のいくつかの農業雑誌を見ていて、小谷さんが「新農報」という雑誌に緬羊と山羊関係の記事を集めるように書いていることに気付いたんです。そして明治37年の「新農報」に載っている「牧羊談」の一部が、この総説の真ん中あたりにとても似ていることを見つけました。その「牧羊談」を添削した跡をスライドで示しましょう。書き足した部分を下線付き、削った部分をオリーブ色の字に変えてあります。よく見て下さい。

本邦の空氣は國の常として甚湿気に富み湿潤なる天候極めて多きは固より牧羊上一大障たること頗る遺憾なれども、若し夫れ種類其宜しきを得、管理其當を得れば、牧羊は到底見込なしと決して速断すべきに非るべし、なり。見よ、英国の氣候湿潤なるは世に著明なる事実にして我邦に勝るも劣ることなし、一年三百六十五日の半数は雨天と称して不可なく、加るに霧に鎖さるゝこと屡にして倫敦市の如き之がため昼間俄に電燈若はランプに点火せざる可らざるの騒擾を招くこと往々にして之あり、近く我同胞にして英詩を以て其名英米の文壇に嘖々たる野口氏は其日記に書して曰く、一日或人に招かれて倫敦市外に行かんとする時、深霧のため某華族の石壁を手探りして路を歩めりと、以て其一班を窺ふに足らん、るは屡々世人を驚かす事實に非ずや。

 小谷さんは、続く62号に「牧羊談(続)」、63号に「強健なる羊種」、67号に論説「山羊の乳汁」を書き、シュロップシャー種とメリノー種などを紹介しています。「羊と山羊」の初版が出たのは明治45年ですから、小谷さんはその7年ぐらい前から羊と山羊の執筆を始めていた。それで一区切りがついたものを、このように新農報に投稿したりした。そして「羊と山羊」を書くに当たって推敲した。この場合、野口氏の日記はちょっと脱線になるから削って「倫敦市の如き」の一言に込めることにしたと思われます。ほかの雑誌も借り出して小谷さんの論文を探せば、同じような例が見つかるかも知れません。
 本筋に戻ります。この辺、難しい国名が出てきますが、蘇格蘭はスコットランド、加奈陀はカナダ、印度はカレーと読めますか、はっはは。希臘はギリシャ、濠洲はオーストラリア、西班牙はスペイン、いまはサンズイのない豪州と書いています。この講義では満洲が出てます。いまの中国東北地方ですね、これの州もサンズイの付いている洲が正しいということだけいっておきましょう。ああ、スライドの倫敦はロンドンです。
 小谷さん曰く。世界の大勢をみると寒い國でも暑い国でも、島国でも羊飼いは盛んですよ。それなのに日本だけ、羊が珍しい、食べたこともないなんて、いつまでも開発途上国であってよいものかどうか考えたらわかるでしょうと、小谷さんは日本国民に見直しを迫っているのです。
 明治の初めに種羊を輸入した。それはオーストラリア、イギリス、アメリカなどから連れてきた羊だった。オーバーを何枚も重ね着をしたような羊をですよ、狭い船倉に押し込み、暑い赤道直下を通ったら熱射病にかからない方が不思議だ。おまけに、着いた日本は母国とは気候が違ううえに、牧場は草もろくに生えそろっていないし、一つの囲いの草を食べ尽くしたら次の囲いへと移すという基本的なこともわかっていたかどうか。病気でばたばた倒れたのも当然でしょう。ヤマイダレに羊と書いて痒い、かゆい。間寛平じゃないですよ。それぐらい羊はかゆがる動物です。あっ、ちょっとずれましたかね。
 何事も、初めてやるときには失敗はつきもので、牧羊業だけではありませんよと。いまならベンチャーをみなさい。われわれはインキュベーターのような大きな気持ちで育てなきゃいかんのだ。フランスだって、地続きのスペインから羊を輸入するとき何回も失敗したし、オーストラリアだって、初めからうまく羊を飼えたわけではないのですぞとリベンジを呼びかけます。小谷さんの立場は、さしずめ、いうなれば牧羊業コンサルタントですね。
 小谷さんの「羊と山羊」よりずっと後の大正13年1月、農商務省滝川種羊場が「本邦緬羊事業ノ前途」という本を出しています。書いたのは月寒分場長の松岡忠一という人ですが、緬羊は弱くてだめだという印象を与えた一因は「大正七八年緬羊事業創始の頃、世は好景氣の絶頂に達し、新事業が各所に流行し、思惑亦これに随ふと云ふ時代風潮に當り、緬羊熱も一時に向上した。之に乗じで奸商輩が、一頭十数圓に過ぎざる病弱なる蒙古羊を輸入し、これを嘗て緬羊を見しこともなき農家に百金の高価に売り付け、大なる苦痛と失敗を各所に行はしめたるが如き夫れである(11)」と書いています。きっと赤道を越えてきた羊じゃないから大丈夫といって売りつけた悪いヤツがこの後、出て来たのですなあ。
  

参考文献
上記スライドの記事の出典は新農報編「新農報」第61号12ページ、明治40年2月、新農報社=原本、(11)は農商務省滝川種羊場編/松岡忠一「本邦緬羊事業ノ前途」19ページ、大正13年1月、農商務省滝川種羊場=原本


 9番目と10番目の段落では、3番目と同じくもう一度、緬羊増殖を呼びかけています。天皇陛下がお召し上がりになる乳製品などを作る千葉県の御料牧場、三里塚ですかね、あそこでも羊を飼っている。恐れ多くも当然宮中の料理になっているとご推察させて頂きます。月寒の種畜場はじめ各地の牧場で羊飼育の実績を上げ、さらに羊主体の牧場が各地に生まれようとしている気運からみても、羊飼育は有望なことは確かですよ。最初失敗したことを根拠にして、日本と羊とは相性が悪んだと馬鹿の一つ覚えみたいなことをいっている場合か。何もしないのは、羮に懲りて膾を吹くようなものであり、頭のいい人のいうことではありませんよ。政府もまた増殖計画をつくる気でいるようです。うれしいですね。
 それで私はこの「羊と山羊」を書いたんですとは書いていませんが、牧羊業を盛んにしていくことは大事だ、緊急を要すると強調し、北海道の開拓農家を念頭に置いたと思いますが、毛を取るにせよ食っちまうにせよ、農家が手の掛からない羊を飼うことはいいことだ、副業に飼いなさいよと勧めています。
 日本人が豚肉を好まなかった理由として「食卓を変えた肉食」の宮崎昭さんは、その本で肉といえば牛肉、牛が最高ランクにされ人気があった。「それは新時代の食べ物との意識が強かったためである。一方、旧時代に食べられていたイノシシ肉に近縁の豚肉は、文明開化の新感覚にそぐわず、長い間敬遠され、明治四〇年頃からようやく大衆的な食べものになった(12)」と記しています。みんな新しがり屋で食わず嫌いだったんでしょうね。
 宮崎さんは、さらに「第2章 文明開化は肉食から」で、こう述べています。「しかし、豚肉はなお、牛肉にくらべるといくぶん敬遠されていた。ところが牛肉食に慣れ、肉を素材とした料理の種類が増え始めた後に、戦争などで牛肉が不足したとき、豚肉も食べれば結構美味いと知られた。そこで明治末期から大正にかけて、豚肉の消費量が増加した。とくに、大正元年、コレラが流行したとき、生魚は危険といわれ、食肉需要がさらに強くなった。豚肉はまず、牛肉のかわりにカレーに入れられ、ポークカレーとして登場した。(13)」と。
 札幌農学校には米の飯を食べたらいけないが、カレーライスはその限りではないという寮規則があったといわれています。実際は鹿肉入りカレーだったとしても、想定はビーフカレーだったんでしょうね。羊肉を追うジンパ学では、いまはこれ以上は触れません。
 「牛肉にくらべるといくぶん敬遠されていた」と宮崎さんはいいますが、実態はもっとひどかった。豚を嫌う土地がほとんどで「現に其頃迄は比較的に利用の途の開けて居る東京に於てさへ女中が肉店に行き豚肉を買ふに必ず今日は書生さんの惣菜にするのですから豚肉を下さいとか、女中の惣菜用にとか文句を云はなければ肉店に牛肉もあるのに豚を買ふを恥づる有様で丁度今馬肉を買ふと同様に感じて居た位であつた(14)」そうです。これは大正9年の「家畜」という雑誌の記事です。この記事の前に「其頃と云つても今から十数年以前(15)」とありますから、明治40年代の豚肉に対する人々の態度を述べたものですね。
 これは談話を筆記したもので話者は誰あろう、獣医学博士、田中宏でした。田中さんは豚肉を美味しく食べられる料理がないのはまことに遺憾であると、日本人好みの料理をたくさん考案し、田中式豚肉料理法として豚肉料理の普及を図るのです。もう一つ、田中さんによると、豚には寄生虫の旋毛虫がいるから危険と、明治10年代の農商務省は養豚奨励を控えたり、新聞にもそう書かれていますが、ジンパ学では深入りせずこの辺までで留めます。
 その辺の事情を宮崎さんは「豚肉はあくまで牛肉不足を補うピンチヒッターであったので、豚肉を用いた本格的な料理は、なかなか現われなかった。そこで東京帝大農学部のブタの解剖学の権威、田中宏が、大正八年に『田中式豚肉料理法』を著わし、自らも豚肉料理の普及に努めた。あるとき豚肉試食会が三井家で開催され、その折など一同恐る恐る参会したとある。したがって豚肉は、上流家庭ではほとんど受け入れられていなかった。
 しかし、やがて豚肉に対する認識も好転する。豚肉をカツレツにすればとくに美味しいことが一般に知られることになり、大正年間にはビフカツの需要をポークカツが追い越す勢いになった
(16)」とまとめています。
  

参考文献
上記(12)の出典は宮崎昭著「食卓を変えた肉食」58ページ、昭和62年3月、日本経済評論社=原本、(13)と(16)は同上53ページ、同、(14)と(15)は子安農園内家畜研究会編「家畜」4巻6号2ページ、田中宏「豚肉の利用」、大正9年11月、子安農園内家畜研究会=原本


 宮崎さんは三井家での試食会ですが、田中さん本人はもっと上、雲の上のお方、大正天皇が召し上がったと発言しています。田中式の豚肉料理が評判になり「宮内大臣の知らるゝことに成つて、大膳職厨司に御傳授申し上げ、畏多くも大正五年一月二十一日に初めて 供御に上りたるは實に一家無上の光栄のみならず、我畜産界に於ても 深き御思召は恐懼感激に堪へぬ次第である(17)」と大喜びしたのです。いまと違って、天皇関係のことを書くときは、一字スペースを開けて書いて敬意を表している点にも注目してください。闕字といいまして古文書ではよくある書き方で、門構えの中に欠に似た字を書きます。そうか、私が話を読んだからわからないでしょうがね、本の「供御」と「深き御思召」の前に空白があるんです。スライドの方がよかったかな。
 田中さんは自分の考え出した料理を大正天皇で食べていただいたことがきっかけで豚肉食が普及することを期待したのです。それで続けて「故高橋新吉男の談に依れば馬鈴薯の猶廣く普及せざりし頃、仏蘭西のルーイ第十一世の時代に宮中に於て馬鈴薯の蔓を以て食卓を飾り馬鈴薯を料理して用ひられたることあり、之より忽ち馬鈴薯の需要普及されたりと、又英吉利のヱリザベス女帝の時代彼のオートミールは主に牛馬の食用なりしを同じく宮中に於て用ひられ、夫れより忽ち人の食用として普及せりと、豚肉も之と同様にして誠に有難きことである、次で 殿下の御膳に上るの光栄に浴し、猶ほ徳川侯爵を初め華族方、実業大家、其他各階級の家庭、陸軍、海軍、諸学校、諸府県等に随分廣く傳はりつゝあるも、全般に対しては未だ一小部分のことである(18)」と語ったのでした。三井家は実業大家に含まれるのですなあ。日本もこんな時代が本当にあったのです。
 トンカツという名前の古い用例を探したら、大正3年に杉韻居士という人が出した「東京の表裏八百八街」にありました。~田の小川軒は「四劈には鏡を矢鱈に掛け、一通りの洋食屋の体裁をなしてる。料理は斯かる家の慣ひとして、トンカツ(・・・・)が一番多く出たオム、テキ、スチユウ、カキなどゝ云ふあり普れた名前のものは、何処へ行つても相当に売れる。(19)」とね。
 まあ、そのころから~田に出没する学生などはトンカツと呼んでいたらしいが、昭和になってもカツレツとも呼んでいたようで、昭和4年にラジオで初代の柳家権太楼が「カツレツ」を初放送しています。CD−ROMでそれが聞けるようですが、べらんめえの兄さんが仲間と50銭ずつ出し合って自分たちでトンカツを揚げようという話です。
 YouTubeの昭和7年の口演を聞くと、お客がトンカツは豚肉でこしらえる料理だとよく知っているから、わざと「牛肉でトンカツでもこしらえて、ひとつ一杯飲んで騒ごうってんだ」と始まり「トンカツは牛肉に限るんだよ」とか「お前たちはいつも安い方の豚のトンカツばかり食ってるから、たまにはシャモのトンカツかなんか食って見ろ」といって笑わせる。トンカツは昭和6、7年ごろ東京・上野あたりから広まった料理という説がありますが、とっくに知られていたという一つの証拠なんですね。
 まあ、トンカツの普及で豚肉の消費量が伸び始めたというのが通説になっていますが、トンカツだけで自然に食べられるようになったのではないのです。肉なら何でもこいといういまどきの若い人にすれば信じにくいでしょうが、豚を増やす前に豚肉を食べる人を増やそうと唱えた先人もいました。さらに農林省が豚肉普及、牛肉ばかりでなく豚肉も食べましょうというPRに力を入れたことを見落としてはいけません。羊肉食の資料集めの際に見付けた実例を少し紹介しましょうか。本気で捜せば、もっとたくさんあることは間違いありませんよ。
 先人の例ですが、明治37年に飯田平作という人が「通俗養豚書」を書いています。その「第十三章 豚肉の料理」で「豚の肉味の良不良は一つに調理の巧拙に属す一口に言へば従来日本に於て多く行はれて居る鋤焼とか云ふ様な調理法では迚ても豚の眞の風味と云ふものは分からぬ(20)」ので「其何人も容易に之を行ひ得べく又た其何れの土地たるを問はず鍋と薪と塩と醤油とあれば容易に之を行いひ得べき方法を左に紹介するのである(21)」と大見得を切って掲載している料理法が、なんと「農科大学教授獣医学博士田中宏氏の研究せられたるものにて同博士は豚料理のことに就き非常なる熱心を以て今猶其研究を維持しつゝあり(22)」というのですから驚きますね。
  

参考文献
上記(17)と(18)の出典は子安農園内家畜研究会編「家畜」4巻6号4ページ、田中宏「豚肉の利用」、大正9年11月、子安農園内家畜研究会=原本、(19)は杉韻居士著「東京の表裏八百八街」75ページ、大正3年5月、鈴木書店=近デジ本、(20)は飯田平作著「通俗養豚書」182ページ、明治37年10月、豊岡町種禽場=近デジ本、(21)は同183ページ、同、(22)は同185ページ、同


 この田中博士こそ、宮崎さんのいう東京帝大農学部ののブタの解剖学の権威、田中宏(16)と同一人物なのです。本を書いた飯田さんを紹介しようとしたら、ここでもまた田中さんが出てきて、しかも明治30年代からもう沖縄風も含め15種もの豚肉料理を考案して、世に広めようとしていたことが証明されてしまうんですから、もしかすると、豚の解剖よりも食べる方に超熱心な先生だったじゃないでしょうかね。
 それから宮崎さんは参考文献に大正8年に子安農園出版部から出した「田中式豚肉料理法」しか入れていませんが、最初に出たのは大正2年。「田中式豚肉調理法二百種 附録―沖縄鹿児島地方豚肉食用法数十種」という題名で博文館が出してます。その広告によればですよ、東京農科大学獣医学博士田中宏先生実験、報知新聞記者中村木公君編纂となっており、国会図書館はこの本は「中村木公編」に分類しています。
 しかも「田中博士の豚肉調理法の一たび報知新聞紙上に掲載されるや豚肉の品位声価頓に上り需要激増の結果現に豚肉の市価を高むるに至れり本書は即ち之を増補大成して博士の厳密なる校訂を経たるものなり此調理法たる博士年来の実験になれるものにして其の応用の如何に依り或は食道楽の食味を満足せしむ可し或は低廉なる材料に依て美味にして滋養多き惣菜ともなる可し」というのですから、すごいでしょう。残念なことに私は、この広告文を何から書き写したかをメモしてなかったのです。中村木公の本名は千代松で、後に田中さんは「農商務技師石崎芳吉君から報知新聞記者中村千代松君を紹介され中村君は深き同情と熱心を以て同新聞に数ヶ月間連載せられた(23)」と語っています。この広告を掲載した本か雑誌の探索もレポートのテーマとして認めますから、だれか挑戦してみて下さい。
 道内では大正6年11月、道庁種畜場、月寒ですね、あそこで中央畜産会が豚肉加工法講習会を開き、農家など34人が参加した(24)そうです。道内ではかなり近年まで牛肉より豚肉の方が優勢でした。帯広名物の豚丼、あれがその証拠ですよ。はっはっは、これは半分冗談。道内の田舎では豚肉は売っていても牛肉は置いてないという肉店が珍しくなかった。ですから道産子の年配者で、子供のころ、すき焼きまたは肉鍋は豚肉を使うものだと思っていたという人が結構います。君たちのお祖父さんなんかに聞いてご覧なさい。
 農林省のお声掛かりでは大正8年4月、大分県での調理講習会がありました。雑誌の「畜産」第5巻6月号にその報告が載っています。それによると、県当局から豚肉食用の普及を図るよう奨められ、東京から料理研究家小澤きん子さんを招いて別府町と大分市の二ケ所で開いた。別府は別府宿屋組合が主催、材料の豚肉は別府養豚株式会社の寄付、参加者72人から講習料1円ずつを徴収し、不足分は主催者が負担した。大分市の主催者は県知事夫人で80人が参加して、知事夫人と小澤女史を囲む割烹着姿の記念写真も口絵として掲載しています。こちらも豚肉は大分市内養豚家が寄付、講習料1円に留め不足分は大分市農会が補助した(25)そうです。実質は知事主催なんでしょうが、男子厨房になんとかの時代ですからねえ、男の沽券にかかわるなんてね。それにしても知事の奥さん主催なんて、そのころの知事の権威は大したものだったのですねえ。
 習った料理は「白茹、醤油蒸し煮、慈姑揚、肋骨照煮、球揚、滑り肉吸物、味噌煮、五目巻、味附蒸揚、煎旨煮、昆布巻、錦煮、山吹煮、五目団子揚、野菜塩汁、焼肉筍椎茸煮、春雨汁、甘露煮、おろし和へ、錦和へ、豚肉のぬた、煎り飯(26)」と和風ばかり22品とあります。
 やはり大正9年になるのですが「畜産」1月号に文部省主催の生活改善展覧会の内容紹介が載っています。展示物を見て回り「愛知県第一高等女学校出品の食品好嫌調査表によると、調査人員四百余人中畜産物の嫌ひな人々は牛肉八・三%、牛乳二八・三%、豚肉二三%、馬肉二二%、卵一九%の割合で、嫌いな理由は牛肉には臭の嫌ひなものが多く牛乳には臭と味、豚肉には豚の形と味と臭が多いと云ふことである(27)」と書いています。いまどき、こんな理由で肉が嫌いという人がいたらお目に掛かりたいですなあ。
  

参考文献
上記(23)の出典は子安農園内家畜研究会編「家畜」7巻1号41ページ、一記者「田中宏先生訪問記」、大正12年1月、子安農園内家畜研究会=原本、(24)は中央畜産会編「畜産」第4巻1号69ページ、同7年1月、中央畜産会=原本、(25)(26)は同第5巻6号69ページ、同8年6月、同、(27)は同第6巻1号61ページ、同9年1月、同


 大正11年3月24日から1週間、東京市赤坂区の三会堂で中央畜産会主催の乳肉調理講習会が開く。初日の24日の講師は、いまさっき話したばかりの東京帝国大学教授の田中宏さんで、お得意の田中式豚肉料理を講義する。第5日目には東京女子高等師範学校講師の一戸伊勢さんが羊肉及鶏肉調理法を教えると、雑誌「畜産」の第8巻3月号に予告と参加者募集の記事が載っています。
 極めつけは大正15年4月に発行された辻徳光著「羊豚肉料理」でしょう。当時の山県治郎兵庫県知事が書いた序文によりますと、神戸市で大日本至誠会主催で、羊豚肉食の普及奨励を図る民衆自給大会と称する試食大会を開くことなった。それで「豚肉食を以て国民自給の途を需め而も之が民衆的である処に自分の意見に合致して居り、殊に私の職責上本県の畜産奨励を図る事と相俟てその消費者である、神戸市民に向ひ此機会に於て生活改善を奨むる事が極めて時機に適してゐると信じまして、爰に此の民衆自給大会の会長たる事を快諾した(28)」と書いています。
 料理研究家で、民衆自給大会で調理指導者に任命された辻さんは、来場者数万人に提供した113品の豚肉料理と20品の羊肉料理のレシピーを掲載しています。ただし、羊肉料理にジンギスカンと見てよい焼き肉料理は残念ながら含まれていません。辻さんはもっと豚や羊の肉を広めるためにこの本を書いたといい「豚と云ふと一概に油濃くて食べられないともののやうに考へて豚食を考へて見た事もないと云ふ方が随分あります。今日これ程肉食が盛んになってゐるがそれはたゞ牛肉食にとどまって豚肉食に及ばないのは豚肉料理法が一般に普及されないのが主たる原因であります」(29)と断言しています。辻さんのメニューは、大正年間の羊肉食の考察をするときに、もっと詳しく取り上げるつもりですが、関西ではその後も豚肉の消費は伸びませんでした。昭和5年の雑誌「畜産」に、大阪肉商同業組合が昭和3年統計で牛馬豚の消費比較をしたら、大阪府人口は約305万人で、東京府より140万人ほど少ないのに牛は東京より多く食べた。しかし、東京は馬は大阪の7倍、豚にいたっては10倍消費した(30)という記事が載っています。関西人の牛肉好みは、その後5年では変化しなかったのですね。
 田中博士に話の筋を戻しましょう。いまさっきいったように豚肉だけでなく、羊肉料理も手がけるのです。大正8年1月23日付けの東京朝日新聞にある「学界消息」というコラムの末尾に「▲豚料理で有名な田中宏博士は今後田中式羊料理と云ふのを『畜産』へ連載し始めた」(31)と載っていますから、やっぱり田中さんは注目される学者だったんでしょうね。
  

参考文献
上記(28)と(29)の出典はいずれも辻徳光著「羊豚肉料理」*ページ、大正15年4月、日本割烹講習会出版部=原本、(30)は中央畜産会編「畜産」16巻11号28ページ、「豚の消費量 大阪は東京の1割」、昭和5年11月、中央畜産会=原本、(31)は大正8年1月23日付東京朝日新聞朝刊7面=マイクロフィルム


 この講座の最初の方で宮崎さんが「食卓を変えた肉食」で、小谷さんの「羊と山羊」を取り上げ、それで羊肉調理法も」紹介しているといいました。ところがですよ、小谷さんの本をよくよく調べますとね、初版には、よだれが出るくらい羊肉はおいしいよとは書いてあるんですが、具体的な食べ方は何にも書いていないんですね。
 ですから料理法は少なくとも2版から後で載ったことは確かなのです。それも北大図書館の原本でよく読みましたら、小谷さんのオリジナルな調理法ではなくて、この田中宏さんの「羊肉調理法」を転載したものだったのです。次回は、そのあたりを考察します。
 ちょっとカツレツで調べたことを話しましょうか。塚田孝雄さんという人が書いた「食悦奇譚」という本に「福澤諭吉の『華英通語』に吉列時コルレツとして載っている。本来はあばら骨のついた羊肉の切り身のことである。中国の原本が綴りを間違え、cutletをculletとしたため、諭吉もコルレツとかなを振ってしまった(32)」と書いてあります。福武書店のプロシード英和辞典で引いてみますと「@(子牛や羊の)肉の切り身A平たいコロッケ」とありますが、羊肉と関係ある単語とは知りませんでしたね。それで国会図書館の近代デジタルライブラリーの「華英通語」といくつかのホームページを見ました。「華英通語」は「福翁自伝」ではちょっと触れていて、幕府使節団の一員として渡米したとき中英辞典を買い、その単語と短い会話例に福澤が片仮名で発音と意味を書き加えて出版した本とわかりました。
 確かに塚田さんが指摘した通り食物類の項に「Fowl Cullets.」があり「フハヲル コルレツ」とルビがついていてますが、中国語の意味の吉列鶏には解釈がついていません。この項には「Mutton.」に「モッツヌ」とルビがあり、その中国語の意味の「羊肉」には「シツジノニク」と解釈がついているのです。英単語、日本語発音、中国語の意味、中国語読みの発音、日本語の意味という並べ方でいいますと「Mutton steak. モッツヌ スチーキ 羊肉耙 モットンの頓が入った中国語発音、ヒツジノヤキニク」となります。「Leg of Mutton.レギ ヲフ モッツヌ 羊 ヒツジノモゝ」と、その前の通商貨類の「Wool.ウル 羊毛 ヒツジノケ」、走獣類では大人のSheepはないのに「Lamb. レム 羊仔 シツジノコ」(33)があるので、合わせて羊関係は5語入っています。シツジはヒツジの江戸訛りと思われます。ヌはおかしいと思うでしょうが、ヌの発音は前書きでヌはンに近いというようなことが漢文で書いてありますので、羊肉はモッツンと諭吉先生は教えていたのでしょう。
 いまいったカツレツですが、炮製類という項には、ちゃんと正しいスペルの「Cutlet」があり「コットレト」とルビがついている(34)のです。ただし中国語の説明である吉列には意味がついていません。中国語の説明に片仮名で意味をつけなかった単語は、どうも諭吉先生がわからない物体、方法だったからと私は見るのです。例えば炮製類では「Mince. ミンス 免治 キリワケル」「Hash. ヘシ 吃食 キリコマサク」と書いてあるのに対して「Cutlet コットレト 吉列」「Curry. コルリ 加(35)と漢字はあっても振り仮名みたいに片仮名での意味が書き込まれていません。
 ライスカレーに関連してですがね「一八六〇年、加兀(コアルリ)としてわが国で最初にこれに言及したのは福沢諭吉である(36)」と塚田さんは紹介しています。1860年は万延元年であり「華英通語」が発刊された年です。同書の全項を見ても、コアルリは食物類の「Curry stuff. コアルリ ストフ  加材料(37)」しかなく、やはり意味は書いていません。塚田さんは英語から察して、この単語の前半分、コアルリと漢字から加を取り出したと思われます。それから近代デジタルライブラリーで見てもらいたいが、字は兀ではなく点が付いてます。このπみたいな字はユニコードにもないので、やむなく私が作ったのだが、上の横棒がちゃんと出ないときは、ブラウザーの更新ボタンをクリックしなさい。昔なら原本に当たるのは容易でなかったので鵜呑みにするしかなかったけれど、いま少なくとも、このライブラリーにある本は心して引用しなきゃね。
 まあ、福澤先生は後年、コットレトやコアルリは十分召し上がられたことは、前坊洋という方の書いた「明治西洋料理起源」という本で察することができますが、この本を書いた万延元年当時は、若かったし洋食グルメでもなかったので、後年改訂するつもりで単語は原書のまま残しはしたものの、無理な説明付けは避けたと私は思うのですがね。トリビアルなことですが、権威のありそうな本に書いてあることでも、もう一度調べてみると、こんな見方もできるという実例です。
 ちょっと時間がありますね。あまり知られていないクラークさんのエピソードを話しましょう。クラークさんから直接習った1期生に伊藤一隆がいます。伊藤が洗礼を受けたときクラ−クさんが証人になったことは知られていますが、伊藤の娘の松本恵子さんが書いた手記「クラーク博士と私の父」によると、クラークさんは我々が想像する以上に活発な人だったようです。
 つまり「「先生が今寄宿舎に見えたと思うと、もう教室に現われ、次ぎには図書室に、食堂に、運動場にという工合に、至るところに姿を見せるので、將門の七変身の故事になぞらえて、学生たちは一人で七人もの働きをしているクラーク先生を、將門と称んだのだそうである。つまリクラーグ博士は、それほど教育に熱心で、一時も生徒から眼を放さなかつたのである。(38)」と松本さんは書いています。
 まあ、札幌農学校のキャンパスは、北1条西2丁目と北2条西2丁目にまたがり、もう少し創成川寄りまでの長方形だったし、校舎にしても2階建てだから、ここと思えばまたあちらと出没できたと思いますが、ともかく1期生たちはクラークさんに平将門のマサカドというあだ名を進呈したんですね。
 私は東京の大手町に将門の首が飛んできて落ちた首塚があるのは知っているが、7変身は知らなかったので「神田明神史考」という本を読み、その本で見た日本画が気に入ったので資料その3として拝借させてもらいました。先頭の侍が平将門、後ろに影みたいに描かれた7人が将門そっくりの影武者なのですね。  「神田明神史考」には「「将門公には七人の影武者がいたが、将門公だけはこめかみが動く癖があった。これを知った将門公の妾桔梗前が貞盛軍に内通して知らせたため、将門公はこめかみを射られて戦死した。(39)」とあります。まあ、クラークさんは影クラークが何人かいるんじゃないかと思うくらい動き回るから、昼間勉強している生徒が見付かる。すると「君の頭にクモが巣を張るよ。君たちには夜四時間の自習時間を與えてあるのだから、日中は戸外へ出て運動したまえ」と運動場に連れ出した(31)そうです。

資料その3

     
(神田明神史考刊行会編「神田明神史考」ページ番号なし、平成7年5月、神田明神史考刊行会=原本、)

 松本さんによると「又、冬など生徒が寒がつてポケットに両手を突込んでいるのを見かけると、博士は雪玉を作つてぶつけるのだが、その雪玉が凄く固くて痛いので、時折ぶつけられた生徒が口惜しがつて跳りかかつていくと、先生は負けていず、忽ち激しい格闘となり、しまいに生徒を組み伏せてしまい、『さあこれで暖かになつたろう』と快げに高笑いするのであつた。クラーク博士はそんな風に学生の軆育を重んじ放課後には機械軆操をさせたり、山野を跋渉させて、植物の探集に興じさせたりしたが、野球のように選手だけが競技するような運動は學生には好ましくないという意見で、全学生が参加できる運動を励したという事である。(40)」。
 クラークさんが明治10年1月、学生を連れて手稲山に登ったとき、木に附着している地衣を見付け、一番背の高かった黒岩四方進に靴を履いたまま自分の背中に乗って採集するよう命じた(41)という話が有名ですが、松本さんの手記から、こういう風に取っ組み合いを通じて、クラークさんは体重の見当がついており、黒岩でも担げるとわかっていたからこその行為と私は納得しました。
 このときクラークさんが幹から剥ぎ取った地衣、苔みたいなものは本当に珍しい品種だったのかどうか知ってますか。たまたま国会図書館で検索していて「植物研究雑誌」という本に、昭和4年、宮部さんが東大の朝比奈泰彦教授に標本を送って鑑定を頼み、その報告が載っていることを知りました。朝比奈さんは手稲山のそれは既知の種類と色が違うので、和名は「クラークごけ」と呼ぼうと書いてあります。
 真面目で長い論文のうち、クラークさん関係の抜粋が資料その4(1)で、同(2)は朝比奈さんが撮影した「クラークごけ」標本の写真を載せたページです。アンダーラインを付けた地衣の説明をするとありますが、ない方が見やすいので付けていません。

資料その4

(1)
   ○半世紀前札幌附近ニ於テ採集サレタル地衣標本
              蕾軒        朝比奈泰彦

昭和二年七月下旬第三回日本學術協會總會ガ仙臺ニ開催セラレタ時之ニ参加シタ私ハ仙臺停車楊前ノ旅館針久支店デ北海道帝國大學名譽教授宮部金吾先生ト同宿スルノ機會ヲ得始メテ親シク先生ノ温容ニ接シ又先生ノ高説ヲ拝聴スルコトガデキタ、其折先生ハ『自分ガ札幌農學校ノ學生デアッタトキ教授 Clark 先生或ル冬日學生ヲ引率シテ札幌附近ノ手稻山ニ登リ地衣ヲ採集シ之ヲ米國ノ地衣學者 Tuckerman(當時 Massachusetts 州ノ Amherst College ノ教授)ニ送リ鑑定シテ貰フタ事ガアル、其標本ノ内殊ニ顯著ナル大形ノ一地衣ハ新種デアッテ Cetraria Clarkii Tuck. 卜命名サレタガ此名ハ今日デモ人ガ使用シツゝアルカドウカ』ト私ニ問ハレタ
私ハ『 Cetraria Clarkii  ナル名称ハ新舊ノ本邦地衣ニ關スル文献ニハ見當リマセンガ大形ノモノナラ多分他ノ名デ知ラレテ居ルモノデアリマセウ、ドウカ現品ヲ拝見致シ度イモノデス』ト答ヘ先生ノ快諾ヲ得タ、今年七月宮部先生ハ此約ヲ履マレテ此歴史的ノ標本全部ヲ私ノ手許ニ送致サレ其再検ヲ許サレタノデアル、私ハ此際本邦地衣學史上ニ重要ニシテ且興味アル此仕事ニ從事スルノ機會ヲ與ヘラレタル先生ニ対シ深厚ナル感謝ノ意ヲ表明スルモノデアル
又右ノ標本ト同時ニ明治十二年發行札幌農學校第三同年報 Third Annual Reprt of Sapporo Agricultural College, 1870. ヲ私ニ交附サレタ{此年報ハ珍品デ學校當局者ガ開拓使ヘノ色々ノ報告ヲ記載シテアリ又學生名簿ニハ三年生ニ現北總長佐藤昌介男、渡瀬寅次耶氏又二年生ニ南鷹次郎博士、宮部金吾博士、新渡戸(當時太田)稲造博士、内村鑑三氏等ノ名ガアル}、此小冊子ノ第十六頁ニ Lichens common to the vicinity of Sapporo. ト云フ表題ノ下ニ問題ノ地衣四十二種ノ學名ガ列記サレ Tuckerman 氏ノ鑑定ニナル旨ヲ附記シテアル、此表卜標本トヲ比較スルト皆揃テ居ル、今此名称ヲABC順ニ列挙スレバ左ノ通リデアル

Arthonia taediosa.  Biatora cyrtiloides.  Cetraria citrina.
Cetraria Clarkii, Tuck.  Collema leptaleum.
                Cladonia squamossa v. delocata.
Cladoria digitaa.  Cladonia fimbria v. adspersa, TucK.
                Cladonia furcata.
Cladonia gracilis.  Cladonia gracilis v. bybrida.
                ladonia squamosa v. delicata.
Endocarpon miniatum.  Graphis scripta.  Heterothecium luecoxanthum.
Heterothecium megacarpum(?)  Heterothecium sanguinarium.
             Heterothecium tuberculosum.
Lecanora pallescens.  Locanora subfusca.
                Lecanora subfuscs v. allophana.
Lecanora tartarea.  Leptogium myochroum.  Parmelia japonica, Tuck.
Parmelia physodes v. vittata.  Parmelia saxatilis.
                Parmelia tiliacea, Hoffm.
Peltigera canina.  Peltigera canina v. spuria.
             Physcia aquila v. detonsa(?)
Physcia obscura v. endochrysea.  Placodium aurantiacum.
                Ramalia calicaris.
Ramalina calicaris v. fraxinea.  Ramalina calicaris v. fastigiata.
                Ramalina caliculata.
Ramalina pusilla v. geniculata.  Stereocaulon tomentosum.
                Sticta crocata.
Sticta glomerulifera.  Sticta Wrightii, TucK.  Usnea carvenosa.
Usnea longissima.

此等ノ標本ハ何レモ 1876-1877 年ノ採集ニ係ルガ非常ニヨク保存サレ数年前ノ標本ト大差ナイヤウニ見ラルゝ以上ノ内「アンダーライン」ヲシタ地衣ニ就キ私ノ調査シタ事項ヲ左ニ列記シテ見ヤウ
 ○Biatora cyrtilloides.<略>

 ○Cetraria Clarkii Tuck.

コノ標本コソ此研究ニ從事スル動機ヲナシタ問題ノ地衣デアル約半世紀以前ノ採集品二モ不拘最近ノ品トアマリ差違ガナイ位ニヨク保存サレテ居ル、之ヲヨク見ルト外観ハ全ク
Nephromopsis endoxantha Hue.(うちきあはびごけ)
ニ一致シテ居ル元來此地衣ハ一八九九年 Faurie ノ採集セル戸隠、那須、妙高産ノ標本ニヨリ Hue ガ命名シタモノデ本邦産大形地衣中ノ美品デアル、内地産ノモノハ其種名ニ唱テアル如ク髄層ガ皆黄色ニ染マッテ居ルガ此ノ札幌産ノ Clarkii ト呼バレタモノハ純白色デアル、尤モ内地産ノモノデモ髄層ノ色ハ濃淡甚ダ不定デ鮮橙黄色ノモノカラ淡黄色ノモノ迄色々ノ程度ガアリ之ヲ重視シテ種名ニシタコトハアマリ感心デキナイガ純白ノモノハ未タ記載サレテ居ナイ、然ラバ此北海道産ノモノハスベテ白色髄デアルカ或ハ原ハ黄色デアッタガ長日月ノ間ニ色素ガ消失シタカト云フニサウデナイコトハ此標本ニ附随セル宮部先生ノ北見(ノトロ)、釧路((川上)、石狩(オブタシユケ)三ケ處デ五年程後ニ探集サレタ標本ハ明ニ髄層ガ淡黄色ヲ呈シテ居ルカラ白色髄ナルコトハ始メカラ其性質デアッタト認メナケレバナラナイ、不幸ニシテ此記念スベキ且ツ "in honor of the finder" ノ爲ニ付ケラレタ名称ガ nomen nudom ニ終ッタ爲ニ消滅シタノハ誠ニ遺憾デアルガ内地産ノモノニ未ダ見出サレザル白色髄デアルト云フコトヲ楯ニトリテ
Nephromopsis endoxantha Hue forma Clarkii(Tuck)
ト命名シ且其和名ヲ新タニ
   クラークごけ
ト呼ブコトニシヨウ

 ○Cladonis類<以下略>

(2)

     

 英辞郎によると、nomen nudom はラテン語で「学名の形式を備えているが、適切に公表されていないため、有効な学名とは認められない名前。」だそうだ。つまりクラークさんが札幌で一冬過ごして4月に去り、手稲で新しい地衣を見付け、折角タッカー氏が新種と認めて学名はクラーキーと付けてくれたのに、学会に報告しなかったのはまずかったと私は解釈したけど、間違っているかも知れないから、いずれ植物学の先生に正しい解釈を教えてもらい、この講義に取り込みます。
 植物学は長い歴史があるから新種の命名は面倒らしいが、ジンパ学は私が創始者だから機具の命名なんかお手の物。いまは何でも英語風カタカナで呼ぶから、普及しないことは充分承知で私はあえて焼き面とか、脂落としの隙間など漢字混じりで呼ぶことにしてるんですよ。はっはっは。
 時間になりましたね、はい、きょうはこれで終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

参考文献
上記(32)の出典は塚田孝雄著「食悦奇譚」232ページ、平成7年4月、時事通信社=原本、(36)も同231ページ、(33)は福澤諭吉著「福澤全集」巻1の「華英通語」59ページ、明治31年、時事新報社=近デジ本、(34)と(35)は同110ページ、同、(37)は同58ページ、同
(38)と(40)は新文明社編「新文明」6巻12号31ページ、昭和31年12月、新文明社=館内限定デジ本、 (39)は神田明神史考刊行会編「神田明神史考」53ページ、平成7年5月、神田明神史考刊行会=原本、 (41)は北海道大学附属図書館編「楡蔭」93号4ページ、土屋博「もう一冊のクラーク聖書」より、平成7年7月= https://www.lib.hokudai.
ac.jp/koho/yuin/yuin93 /yuin2.html 資料その4(1)は植物研究雑誌編集委員会編「植物研究雑誌」6巻8号234ページ、 昭和5年2月、ツムラ=館内限定デジ本、 同(2)は同237ページ、同