田中式羊肉調理法を探す

 前回予告したように、きょうは小谷さんが「羊と山羊」の第4版から取り入れたとみられる田中宏さんの「羊肉調理法」の探し方から始めます。
 小谷さんは、田中さんが発表した16種の羊肉料理を転載して、その末尾に(畜産第五巻)としか書いていないのでした。そこで私は北大図書館の蔵書を検索しました。第5巻という書き方からみて雑誌でしょうね。「畜産」しかキーワードがありませんから、とにかく入れてみましたら、650件ほど出てきて、雑誌が200件ほどありますから、ここからはしらみつぶしです。
 皆さんはシラミというインセクト、知ってますか。シャツの縫い目の折り返した裏なんかに、血を吸ってころんころんに膨れあがったやつが並んで隠れています。それを順番にプチンプチンと爪でつぶす。金子みすず風に歌えば、しらみつぶしを したあとは シャツのなかでは なん十の しらみの とむらい するだろう。はっはっは。まあ、それはどうでもよろしい。
 中央畜産会が発行した「畜産」という雑誌の製本があり、その大正4年(1915年)分が第1巻となっています。とすると第5巻は大正8年分ということになり、ちょうどそれがありまして、その次の巻はなぜかポーンと飛んで昭和3年からの製本所蔵になっています。ラッキーということですね。
 借り出して調べましたら、あったんです、田中式が。これまたラッキー。単行本では見つからないはずです。獣医学博士、博士ですよ、学士より偉いお方です。田中宏さんはちょうど1月号から「田中式羊肉調理法」の連載を始めていたのです。といいうことで、その田中式の「はしがき」などの資料を配りますから、1部ずつ取って後ろの人へ送っていく。

資料その1

 綿羊肉の食用としての價値の貴重なることは敢て多言を要せず、欧米各國に於ては牛肉豚肉と等しく普ねく賞用せられ居るに拘はらず、我國に於て未だ之を用ふること少なきは、其材料乏しきが為なり、随て羊肉の美味を解する者甚だ稀にして、偶々之を知る者といへども、其特臭を好まざるの傾あり、是全く食用の慣習多からざるが爲にして、魚肉、牛肉各々特有の臭あれども意とせざるが如く、食用に慣れ又適當に調理さるれば更に障りとするに足らず、又其調理法に就ても従來西洋料理としてに多少用ゐられ居れども、日本料理としては殆ど全く用ゐらるゝことなし。
 現今我國に於て綿羊の飼養繁殖が、羊毛獨立上如何に必要であるかは世人の認め居る所にして、政府に於ても熱心其発達を企圖奨励せられつゝあるの今日、其肉の適當なる利用法を知ることも亦大に必要ならざるべからず。
 抑も我國は古來獣肉の食用少く、爲に近年に至る迄獣肉を以て日本料理を拵へることは彼の牛鍋類の外は僅々数種を出でざりし故、余は多年の間國民に肉食を奨め以て身體強健の向上を図ると共に、畜産上に聊か貢献する所あらむことを望み、先以て家畜中に於て供給者には生産容易にして、需要者には滋養、経済共に有益なる豚肉を択み、之を邦人一般の嗜好に適するやうに考案工風して多数の新式料理法を案出したりしが、就中邦人の習慣上最も親み深く嗜好に適へる魚肉(・・)料理と(・・・)同様なる物(・・・・・)の多数を、(・・・・)獣肉を以て(・・・・・)拵へ得たる(・・・・・)ことは自ら(・・・・・)嚆矢とする(・・・・・)所にして當(・・・・・)に日本料理(・・・・・)に一機軸を(・・・・・)創設したる(・・・・・)を確信す(・・・)、故に去る大正元年より同二年に渉り之を報知新聞に連出して世に公にしたる以來、漸次諸方面に普及し、世人は之に據て初めて獣肉を用ゐて日本在來の各種の料理を拵へ得ることを知り、之を実行しつゝあることは争ふ可からざる事実にして、今後長き年月の間に我國に於ける肉食の普及と畜産上に及ぼす効果の大なることは期して待つべきなり、即余は曩に道家農務局長の勧めに依り、拙案の豚肉料理法に基き、羊肉の調理を試みたるに、何等の困難もなく忽ち数十種を拵へ得たり、羊肉は豚肉に比すれぱ淡白なるを以て、調理も至て容易く其臭を去るには矢張り葱は用ゆるも生姜は必ずしも用ゆるに及ばざる位にして、其他は豚肉と同様の方法を以て容易に調理し得るなり、現に東京女子高等師範學校に於ては目下羊肉調理法の実験中にして、余は豚肉調理の爲めに同校とは年來の關係ありて、昨年に同校に於て櫻蔭會主催の拙案豚肉調理法の講習會までも開かれたる位なれば、舊臘喜多見教授の指導に依りて調理されたる、羊肉の日本料理十数種の試食品評會を催ほされたる時、余も之に招かれたるが、果して其料理は誠に結構にて各々其趣向は変化されたれども、何れを食するも淡白、美味にして、必ず邦人一般の嗜好に適合すること更に疑なく、実に歓喜に堪へざる所なり。
 余に畜産の初號より引続き豚肉調理法を連載し來りしが、前號に至て百種に達したるを以て、一先終を告ることゝし、本年は未の年なるに因み余の考案工風になれる羊肉調理法を連掲することゝせり、以て目下綿羊飼養繁殖の発達を期するの際、此羊肉利用法が直接間接に我畜産上に幾分貢献することを得ば本懐の至に堪へざるなり。

 資料、みんなに渡りましたね。傍点部が田中さんが一番自慢したい、強調したかったところです。文明開化で肉が好かれるようにになったといっても、日本人はせいぜい牛鍋ぐらいで、さっぱり緬羊の肉を食べようとしない。田中さんは、豚肉料理に続いて、なんで羊肉料理の連載を始めるのかという理由を、このはしがきで示しています。その考えを伺いましょうか。
 欧米諸国では羊肉を尊重されていることは申すまでもありません。にもかかわらず我が国ではありがたがる人が少ないのは、羊肉が出回っていないからです。だからその味を知らないし、たまたま食べた経験があってもあの匂いがね、なんてことをいう。要するにこうしたことは羊肉を食べる習慣がないからであって、魚肉牛肉それぞれ匂いがあっても気にしないように、ちゃんと料理されれば匂いなんか問題ではないのです。また、羊肉の食べ方だが、西洋料理としてちょっと使われているだけで、日本料理ではほとんど使われることがない。まったく嘆かわしいと田中さんはおっしゃる。
 いま我国では、羊毛の自給自足が絶対必要であり、そのために緬羊を増やそうとして政府も熱心に取り組んでいる。羊は毛ばかりでなく肉も利用できるのだから、羊肉の利用法の研究も必要なのです。
 そもそも日本人は昔から獣の肉を食べず、近年まで4つ足の肉を使う日本料理といえばかの牛鍋などの類のほかは何種類もなかった。それで私はですね、強い体作りと畜産振興のために、育てやすくて栄養豊富な豚肉を食べるようになってほしいと願ってですよ、皆さんの好み合う工夫してたくさん新らしい料理法を考案しました。なかでも日本人が一番好む魚の料理と同じものを獣肉で作りだしたのは私が嚆矢、日本で初めてであり、日本料理の新しいページを開いたと信じております。
 ですから大正元年から2年に掛けて報知新聞にそれらの料理法を連載して公にしました。いまの報知新聞はスポーツ紙、ジャイアンツ新聞になっていますが、明治時代は発行部数の最大をうたったこともある大新聞でした。それで、やっと人々は日本料理に獣肉を取り入れられることに気付いて、そうした新しい和風料理を食べ始めたことはわかるでしょう。これが将来我が国の肉食普及とそのための畜産が盛んになるという効果をもたらすことは間違いありません。
 ところが、この豚肉普及に地域差があり、田中さんのいう通り「今後長き年月の間」かかりました。特に大阪では大正どころか昭和になっても、まだ食べる人が少なかったんです。糧友會という陸軍糧秣本廠の外郭団体が、昭和8年に大阪で「大阪市民へ羊豚肉普及運動」という集中キャンペーンを行いました。糧友會はジンギスカンとも深い関係があります。それは後ほど詳しくやりますが、糧友會の稲葉専務理事は羊豚肉普及演説会で「関西、殊に大阪は豚肉の消費が少ない。之も有事を考ふれば内地に牛肉なく、魚肉と豚肉等によらねばならぬ。美味廉価な豚肉は平常より食べ慣ねばならぬ」(1)と力説しています。
 もっとズバリ発言したのは大阪府産業課の亀井栄一というお役人です。「大阪人は尖端を走るといふ。然るに豚肉を食べない。東京が一人一年当八百十八匁、横濱が五百九匁なるに、大阪は百四匁てある。豚の印象が悪いからであらう」「要するに豚に対する知識欠如からである。栄養経済上からも大阪人士に豚肉を摂る事を奨める」(2)と演説したそうです。この料理講習会には前回、ちょっと出た辻正光さんが糧友會大阪支部嘱託として豚肉料理を実演しています。
  

参考文献
上記の資料その1の出典は中央畜産会編「畜産」第5巻1号47ページ、「田中式羊肉調理法」、大正8年1月、中央畜産会=原本、(1)と(2)は糧友會編「糧友」第8巻8号101ページ、昭和8年8月、糧友會=原本


 田中さんは農商務省の道家農務局長が羊の料理も考えるように奨めてくれたので、豚肉料理法をベースに試みたところ、あっという間に数10種類の羊肉料理ができちゃった―といってますね。
 これは決してホラではないと思います。田中さんは先ず報知新聞に連載した。大正元年から2年間というから、それなりの品数になったでしょう。次いで大正4年から「畜産」で100種発表した。その傍ら大正6年から「家畜」という雑誌にも豚肉料理を発表したのです。「畜産」と「家畜」の料理が重複しているかどうかまでは、調べておりませんが「家畜」では、ちょっと間をおいて「豚の内臓及び屑肉料理」を100種発表した。だから「家畜」だけでも200種も考え出した豚料理の鉄人だったからです。
 「家畜」は創刊号から10巻が東大総合図書館にあるので調べましたら、きっちり100種と思った豚肉料理は102種あったのです。2巻5号に第60法酒煮と第61法五目巻があるのに、次の6号でも第60法五色煮と第61法黄金団子から始まり、第68法まで載せていたのです。田中さんは100種の原稿を出したのに、編集部から先生、もう2法足りませんよと催促され、そうかね、数え違いしたかななんていいながら、追加したんでしょう。現場主義を心がけていくと、こんな変な発見もあるという一例ですよ、はっはっは。
 羊肉は豚肉よりあっさりしているので調理がやさしく、匂い消しに豚肉と同じくネギは使うけれどもショウガはいらないようだというのだから、田中さんにすれば、羊肉料理はの50品ぐらい考案するのは、それこそ朝飯前だったでしょう。
 さらに田中さんはこういう。現に東京女子高等師範学校では羊肉料理を研究しています。私は豚肉料理のことで女高師の調理研究者とつながりがありまして、去年なんか、女高師同窓会主催で田中式豚肉調理法の講習会も開かれたくらい仲良しなんですよ。年末に喜多見教授の指導でこしらえた羊肉の日本料理10数品の試食会にも招かれ、非常においしく頂きました。どれも淡白、美味であり、必ず日本人の口に合うことは間違いなく、まことに喜ばしく思っております。
 私は「畜産」の創刊号から豚肉調理法を連載してきたけれど、この前の号で100種類になったので、ひとまず打ち切り、未年にちなんで私の考え出した羊肉調理法を連載することにした。この羊肉料理で羊肉消費が増え、羊毛生産と合わせて緬羊を飼う農家が増えることになれば嬉しい限りですというのが、あらましですね。
 いくら豚肉料理で日本料理界に新機軸を打ち出し、さらに羊肉もやるにせよ、前口上として長すぎると思うのですが、権威である農科大学教授に対して「畜産」編集部は短くしてとはいえなかったのでしょう、多分。
 田中さんにいわせると、あまた板前はいたけれども、豚肉を使った和風料理を思いついたものは田中さん以外にいなかったということになります。でも先行した本はあったのです。村井弦斎は明治36年に出した「食道楽 春の巻」で豚肉のそぼろや刺身を取り上げているし、明治41年には原田嘉次郎という人が料理談義形式の「最新豚料理」を書き、いまのトンカツそっくりの揚げ物の作り方を紹介していますが、私の知る限りでは、単行本になったのはこの2冊ですね。
 2冊とは、いくら君子厨房に近寄らずの時代でも、少なすぎてちょっと信じにくい。あっ、いま君子厨房に近寄らずといいましたが「男子厨房に近寄るべからず」から「近寄るべし」に変わっていって、それが縮まって男厨、それローマ字書きにしてグルメ雑誌の名前になり、レストランの名前の暖中になっていると私はみていますがね。
 これは請け売りですけど、生き物を殺すところを見たり聞いたりしたら肉は食えないよ、だから君子は厨房を遠くに離して置くのですという孟子の言葉から生まれた。その中の食べる動物に羊が出てくるらしいです。
 私なんかも学生のころ帰省すると、親父がおお帰ってきたか、じゃ、あれをつぶして晩に食べようと雄鳥を指さしたもんです。こういうときは、その鶏とは初対面だからいいですが、自分が育ててよく知っているやつはうまくないですよ。骨をしゃぶりながら、つい、さっきまで走り回っていたのに、なんて思ってしまいます。
 皆さんはそうした経験はないでしょうね。富良野の倉本聡さんの塾じゃ、新入生の歓迎の儀式でそれをやらせるそうですがね。生きている物を殺して食べ、こっちが生きる。生きていられるのは、動植物の命をもらっているからなんだと本当に実感しますよ。
 羊肉料理に戻してと。たとえば鯨料理のレシピに焼き肉はなかったものだろうか。鯨肉代わりを豚肉に焼くということを思いつかなかったのか。どうでしょう。やはり豚より鯨がいいだったんでしょうね。
 また、こうも考えられます。板前さんたちは、包丁一本、さらしに巻いて、きたねえ豚肉なんか切ってられるか、俺の出刃が泣くよとかなんとか格好をつけて、豚肉を敬遠した。それでまったく畑違いの大学の先生が、研究対象である豚をちょん切るのは毎日やっていること。だれもやらんというなら、食べ方も研究してやるかとね。博士様が豚肉料理の開発に乗り出してきても、だれも素人料理じゃないかなんて、いわなかった。いや、4つ足の肉そのものに関心がなかったということでしょうかね。
 私は4つ足の肉に関心がないわけではなかったが、本物を使わずに魚肉で牛肉や豚肉の代用品を作る旧来の料理でよしとしていた。それでぜひ本物の肉を使えという注文もないのに、わざわざ牛豚を料理して客に食わせることもあるまい、これでいいのだと満足していたせいだと考えています。
 明治19年に吉田香雨という人が出した「日本西洋支那礼式食方大全」という本があります。その「支那料理法」には卓子割烹と書いて「しっぽくりょうり」とふりがながある料理と普茶割烹と書いて字の通り「ふちゃかっぽう」という精進料理の2種類の料理法が載っています。その卓子割烹の方を見ますと、なんとなんと、もう羊、牛、豚の料理が載っているのです。もちろん、今いったように、何々もどき、そっくりさんばっかりですがね。
 例えば「焼羊もどき」は鮫の身を炙った後煮付ける。「牛肉もどき」は海老の空揚げと牛蒡の煮物をあえる。「豕和え」は鮑の刻んで炒め、蒟蒻を煮て味付けしたものとあえる。「獅子煮」の原料は大蛸。「豕味噌転ばし写」は豆腐と大蛤、魚のすり身と小豆餡を交ぜて詰めた揚げまんじゅう(3)といった具合です。南部八戸では、魚屋が店先の大きな炉で、魚を竹串に刺し、じゅうじゅう焼いて売っています。その中に鮫の切り身もあるのですが、ジンギスカンの羊肉とは似ても似つかぬものです。鮫の肉は白身で、醤油を掛けておかずにします。だれが羊肉もどきを考え出したものか。強いて共通点を捜せば、鮫もちょっと臭味があるということでしょうかね。もっと細かいことをいえば、豚和えの作り方にある「大鮑の貝のまゝ雑と湯がき腸緑を去りて豕肉の如く角取り刻みて」という説明が、私にはわかりません。豚肉を料理したことのない板前に豚肉みたいに切れという方が無理じゃないでしょうか。
 ともかく、中国料理研究者の田中静一さんは著書「一衣帯水」で、明治時代に出た中国料理の本を吟味して「中国料理がおいしいと書いたものがない。」(4)といっていますが、わかりますね。いまでこそ、中国に行き、本場の料理を味わったことがホームページでもたくさん読めますが、明治時代ではそんなことは夢にも見なかったでしょうし、お客たちは皆、あの国じゃ牛豚をこんなふうにして食べるのかと、もどき料理で納得した。それどころか4つ足抜きで支那料理を味わえたと喜んでいたのではないかという気もします。そうでもなければ、吉田香雨がこうも堂々と支那料理としてしっぽく料理の品々を紹介できなかったのではないか、とね。
 それから「一衣帯水」で田中さんは「明治になって最初に中国料理書が出版されるのは、明治十九年であるから、実質は二七年間に出版されたのは次の八種である。(5)」と8冊の書名を挙げています。それは「本の表題に支那あるいは和洋支、和漢洋など現代の中国を示す言葉のあるもの(5)」と限定しての本だから、本名吉田伊太郎が書いた「西洋日本支那礼式食法大全」は立派に該当するんだが、入っておらん。明治38年11月出版の陽其二著「家庭支那料理法」も数えられていません。
 また、田中さんが明治19年出版で最初の本と吉田正太郎著「料理独案内 日本支那西洋附料理礼式及び食事法」を挙げているが、国会図書館の近代デジタルライブリーで「日本支那西洋料理独案内」で検索してご覧、明治17年出版から21年までの間に同じ著者と同じ題名で6冊出たことがわかります。明治19年には4月に駸々堂、11月に薄井忠吉の2者が発行しており「一衣帯水」に記されているページ数からすると、田中さんのいう本は薄井本ですね。吉田正太郎の本が明治で最初というなら明治17年としてもらわにゃならんのですよ。
 国会図書館サーチで其陽二の本は山口県立図書館にしかないので、夜行バスで山口へ行き、コピーさせてもらいましたよ。折角だから表紙ぐらいスライドで見てもらいましょう。緑色の表紙は調理台には兎と鶏、右上の窓の奥に細面の4つ足獣がぶら下げてある台所の絵(6)だとわかりますね。

        

 全311種のうち羊料理は8種あり、そのトップの羊頭(やうとう)の作り方はこう書いてあります。羊頭(ひつじのあたま)は毛を去り、頭を切り開きて骨を去り、口の中の皮を剥ぎ、眼晴(めだま)は切りて黒皮眼珠(めのたま)を去り、老たる母鶏(めすのにはとり)の煮汁にて煮て、香蕈筍丁(しゐたけたけのこ)」次のルビがかすれているが、他の振り仮名から類推して3字で蜜淋酒(みりん)だね。さらに「醤油を入れる、()(からき)を好ば胡椒葱山椒を加へ、如し(すき)を好ば醋一杯を加ふ支那北京にては萬羊千豚とて一日に羊を萬、豚を千屠して売る、支那全国に就て言へば豚を主に食すれども、北京にては羊を多く食す。(7)」。
 私が加わったパソコン通信のネットは25年ほど昔、道内では2番目にできた草の根ネットだったが「一衣帯水」が出たのはそのころなんですね。まだ図書館で図書カードを1枚ずつめくって本を探したていたし、どこの図書館にいけばどんな本があるのか、調べようがなかった。だからね、田中さんは厖大な時間とエネルギーを費やして、やっと8冊見つけたに違いないのですが、私がいまこうやって見落としがあるよといえるのは、インターネットあってのことで、もっともっと検索パワーの生かし方を勉強せにゃならんのです。
 一言付け加えると、陽其二は「メディアの曙 明治開国期の新聞・雑誌物語」に活字鋳造を研究した木本昌造の門弟(8)として出てくるほか「支那貿易説」などというお堅い本などを書いたりした人ですが、プロの料理人ではないようです。
  

参考文献
上記(3)の出典は吉田香雨「日本西洋支那礼式食方大全」45ページ、明治19年12月、東京屋=近デジ原本、(4)は田中静一「一衣帯水 中国料理伝来史」189ページ、柴田書店、昭和62年10月=原本、 (5)は同183ページ、同、  (6)は陽其二著「家庭支那料理法」表紙、明治38年11月、大學館=原本、 (7)は同41ページ、同 (8)は高橋康雄著「メディアの曙 明治開国期の新聞・雑誌物語」215ページ、平成6年10月、日本経済新聞社、同


 羊毛の輸入が杜絶しても国内で自給できるよう緬羊を増やそうと、政府は大正7年4月、農商務省に緬羊課を作りました。「農商務省には新に緬羊課と云ふのが出來て差し當り畜産課長の月田サンが此の方の課長まで兼ねてゐるまだ出來立てのホヤ/\なので技師などはトンと揃はん様であるが北海道瀧川種羊場の場長だけはきまつた、<略>(95)」と朝日新聞にあります。
 大正7年5月1日現在の職員録をみるとね、月田さんこと月田藤三郎技師は緬羊課長心得(106)なんですが、その発令前に羊肉の消費策も勉強したようで、朝日の記者に「<略>今度奨励するシロッブシャとメリーの二種のうち、前者は厭やな臭氣もなく美味いが、後者は一寸羊肉特有の臭がある、然るに羊肉料理が日本で全然研究されてないので東京女子高等師範の割烹科の先生にお願ひして此の研究をやつて貰つてゐる、同校では非常に喜んで羊肉各部の料理法を極く丹念に研究中である、遠からず羊肉が牛肉や豚肉と同じ様に愛用さるゝ時が來るだらうと思ふ(117)」と語ったのですが、臭いとも言わず皆がジンギスカンで羊肉を食べるようになるまで、實に遠かったことはわかりますね。
 ここにおいて東京女高師の羊肉料理の研究が始まり、年末になって羊肉料理50種を考え出した田中宏教授はじめ緬羊関係者を招いて試食会が開かれたことがわかる記事が1枚目の後半の資料その2(1)です。これは12月25日の読売新聞からですが、同じ記事が1日遅い26日付都新聞の5面にも載っているので、通信社が配信した記事と思われます。同(2)は(1)の要約みたいな記事なので、読売か都のどっちかの焼き直しらしいが、数少ない女性研究者の動向を伝えようと掲載したんでしょう。

資料その2

(1)
  日本料理に羊肉の使用
    女高師で研究す  軽い味で旨い

大正八年は未年だと云ふのに農商務省の畜産課で昨今羊肉料理の研究を開始して居られます右に就き緬羊課の一員は次の如く語られました『世界一と称せられた
△濠洲では 八千五百萬頭、亜爾然丁(あるぜんちん)が八千三百萬頭、北米が五千二百萬頭南阿聯邦が三千五百萬頭、支那が二千三百萬頭と云ふ数を示して居ますのに日本は僅に三千六百頭といふ実に哀れな有様で、北海道滝川の七百頭、友部種羊場の二百頭、熊本種羊場の百五十頭位では到底問題になりません今度の戦争で毛織物工業界が
△大恐慌を 来したのも一は此の産業の振はなかつた為です濠洲羊毛の輸出を禁止されても今後間誤つかないやうにするには(どう)しても羊を沢山飼育せねばなりませぬ愈緬羊の飼育を熾に奨励するとすれば奈何にして其の肉を味はうかを研究せねばならぬ来年開催の畜産工芸博覧会には是非此の
△羊肉試験 の実演をやらふと云ふので其の研究方をお茶水の女子高等師範学校へ依頼しました』と、更に羊肉を材料として十五種の日本料理を塩梅し豚肉料理研究者田中博士等を招待して其の試食会を二十三日の午後開会した女高師の教授喜多見佐喜子女史は更に次ぎの如く語られました『大江寿美子さんと一緒に研究して居りますが羊肉を
△日本料理 に塩梅すると云ふことが第一なのです洋食の材料には既に使はれてるのですから別に研究の余地がありません牛や豚の如にひつこく(、、、、)なく極軽味のものです人によつては変な臭があると申しますが決してそんな事はありません何んに致せ数が少いので値が可なり高いです百目で九十銭もするのですから到底常食になりません特に一頭の重量が六貫目ですから
△余程沢山 に飼育しないと食用する訳に参りません赤坂田町六の一〇松井平五郎氏一軒の他に羊肉を売る店はありません茶碗にも出来る胡麻あへも拵へられる、といつた風に何んにでも塩梅されますが元来が小さい体なので一等から佳い肉を沢山とる事は能きません』云々

(2)
羊肉料理の研究  農商務省畜産課では予ねて羊肉研究を始めてゐたが、旧臘はその研究をお茶の水女子高等師範学校に依頼したので、同校では大江寿美子、喜多見佐喜子両女史中心となつて研究を重ね去る十二月廿三日其の試食会を催し十五種目の日本料理を調理して豚肉料理研究者田中博士其の他を招待した。

 このころは、調理することを塩梅するといっていたのですね。本の名前にも「庖丁塩梅 」といったように使われています。ともあれ、私が調べたうちでは目下、この記事が最も古い羊肉料理試食会の記事です。でも、ジンバ学は資料を捜しまくり、日進月歩ですからね、今後もっと古い記事を示せるでしょう。それからこの記事に出てくる大江寿美子さんは東京家政学院大学の創立者、大江スミさんです。在職中に家政研究所を創設、この7年後の大正14年に女高師をやめ、東京家政学院と改名してそちらで家政教育に専念するのですが、大江さんを記念してその名がある同大学の大江文庫は江戸期からの食文化資料収集でも知られています。
 この記事が載った前日、12月24日の同じ「よみうり婦人附録」に暮れの物価の記事があります。肉のことを読むと牛肉は「今のところ一斤につきヒレー一円二十銭、ロース一円十銭、上肉九十銭から八十銭、中は七十銭以下60銭、豚の上肉は六十五銭、中は六十銭、普通肉五十銭が相場であまり安くありません。(128)」とね。1斤は160匁ですから90銭の1.6倍、1円44銭となるから、いやはや羊肉はヒレ肉より高かったんですね。
 ところで、この記事の15種を含むとみられる料理の献立「羊肉調理研究の一班」という資料があるのです。資料その3がそれなのですが、私は月寒史料発掘会の方から初めてこれを見せてもらいました。この発掘会は自分たちの住む月寒の歴史に関する資料を広く集め「史料目録」や「つきさっぷ歴史散歩」という本も出した実績のある組織なのです。
 その資料の中でも月寒に直結せず異色なのが、東京女子高等師範学校が作成したと思われる「羊肉調理研究の一班」のコピーなんです。表紙にはその題名と「大正八年二月二十二日試食」「東京女子高等師範学校」とあり、28種の料理の作り方が書いてある、いや正確には印刷した文書を複写したものです。ほぼA5のパンフレットの10ページをB4の紙8枚にコピーしてあります。原本が日焼けか何か汚れていたようで、あちこち読めない部分があるのです。おまけに出所不明で、表紙のコピーに鉛筆で「道立図書館北方資料室」とクェスチョンマーク付きで書いてあるのです。
 私は月寒史料発掘会にお願いしてこの文書をコピーさせてもらい、道立図書館で調べもらったけれど、原本らしい文書はなかったのです。再度月寒の方に尋ねたところ、会員のある方が、もしかすると私が神田で買ったような気がするということでした。それに残念なことにジンギスカンに近そうな「付け焼」の説明の一部が白く抜けて見えないのです。
 それで今まで話したことがなかったのですが、士別市にあったより鮮明な文書によって読めたので、今回から資料に加えたのです。これも私の研究仲間のお陰でしてね、士別市立図書館の平山文庫に同じ題名の文書があると私に教えてくれたのです。それで図書館に電話してね、全文読めるとわかったので、士別に行きまして、コピーさせてもらいました。
 この平山文庫はね、昭和45年から14年間、道立滝川畜産試験場めん羊科長として緬羊研究に携わり、道立中央農業試験場長で退職した平山秀介氏が寄贈した緬羊関連の約300点からなっています。平山さんは昭和32年に農学部畜産を出た北大OB。70歳になったのを機に、有効活用してと士別サフォーク研究会顧問で縁のある士別市に寄贈してできた文庫なのです。
 私はこの研究会を通じて平山さんに出所を教えて欲しいと連絡してもらったのですがね、やっぱり出所不明、平山さんの記憶になかったのです。平山さんは昭和56年「滝川畜産試験場五十年史」の編集に携わり、諸先輩や遺族からたくさん資料が提供された。発刊後、試験場に必要な資料以外は手許に残したので、その中にあったのではないかということでした。同一原本のコピーが2点、別々に残っていたのですから、やはり原本は東京女高師の正式文書だと見ていいと思います。
 それらを月寒版、平山版と呼ぶことにしますが、平山版は月寒版と幅は同じですが、縦が1センチ短く、ぴったりA5で、割り付けは月寒版と同じです。ただ2ページ目から綴じ直したようで、ページ番号が見開きの内側に打った形になっています。それから「煮」を使ってますが、原文では皆、煮の下が点ではなくて火を書く煑なので、読みにくいとは思いますが、原文に忠実に置き換えました。いっときますが、明治大正の料理書は大抵煑なのに、なぜか常用漢字に入っていないのです。

資料その3

大正八年二月二十二日試食

     羊肉調理研究の一班 

              東京女子高等師範学校

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羊肉調理研究の一班      大正八年二月二十二日試食献立

1 吸物 肉だんご、みつば
摺肉のつくり方
摺鉢に日本葱と生姜の微塵切にしたるものを茶匙一杯づゝ入れてよく摺れたる處に脂肪なき肉を挽肉器にかけたるもの凡一斤を入れてよく摺り之に玉子の白味二個を加へて摺りまぜ塩、砂糖、酒、醤油にて味を付ける
右の摺肉を小さき団子に丸め煑立ちたる湯の中に入れてゆでこれを椀に盛りゆでたるみつばを添へ味よき清し汁を注ぐ

2 玉子巻
玉子を解き少量の砂糖、酒、塩にて味を付け玉子焼鍋にて一分位の厚さに焼き上面の十分焼けぬとき乾きたる布巾の上に焼けたる面を下にして置きなほ同様に焼きたるもの半枚を続け其上に生玉子を塗り前記同様の摺肉を二三分の厚さに延べ渦巻に巻き布巾に包みたるまゝ凡十五分間蒸し小口より切る

3 胡麻あへ
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肉の小間切を煑立ちたる湯の中に大切の葱一本と、生姜二切斗りとを一處にして入れこれを湯掻き直に出して少量の醤油に浸し置くこれを黒胡麻をよく摺りつぶし、肉のゆで汁にて適宜にゆるめ少量の砂糖と醤油にて味をつけこの中に醤油に浸し置きたる肉を入れてあへる

4 煎り煑  肉、乱切牛蒡、ちぎりこんにやく、くわゐ
鍋に少量の胡麻油を入れて火にかけ直に微塵切の葱と生姜少々入れ此中に小間切の肉を入れて煎り肉の色の変りたるときゆでたる野菜を入れて共に煎りたる後ち煑出しと(羊のすーぷにてもよし)砂糖、酒、及少々の醤油をいれて煑込み汁の詰りたるとき尚醤油を加へ汁の煑詰るまで煎り煑になす

5 付け焼
肉を平たく大形に切りこれを酒と醤油とを等分に合せたる汁に生姜の絞り汁少々加へて凡二時斗り浸し置き之を金網のせにて両面を焼く

6 白あへ  小間切肉、乱切にんじん、短冊こんにやく
肉は前同様にしてゆで少々の塩を振りかけ置く別に五勺斗りの胡桃の皮をむき摺鉢にて摺りな
---------------------[以上2ページ]----------------------

ほ三個の豆腐を布巾にて水気を絞りて入れ共に摺りまぜ砂糖、塩にて味をつけ鍋に入れて火にかけ適宜の堅さに煑詰めこの中に前の肉と湯煑したる野菜とを入れてあへる

7 味噌汁  小間切肉、乱切八つ頭芋、小口切にんじん
味噌汁をつくり肉と野菜とを入れこの中に大切の葱と生姜を少し入れ野菜の和らかになるまで煑込み葱と生姜を除きて椀に盛る

8 色紙焼  摺肉、王子、車ゑび、椎茸
車ゑびを酒、砂糖、醤油にて煑つけ其汁に浸し置く椎茸も和らかにゆで煑切、砂糖醤油にて味よく煑込み其汁に浸し置く次に摺鉢に凡百匁斗りの摺肉を入れ十分に摺り五六個の玉子を一つづゝ入れて肉とよく摺りまぜたる後、塩、砂糖、酒、醤油及椎茸の煑汁を入れて濃き味を付け車ゑび、椎茸を細かく切りまぜ玉子焼鍋に入れ遠火にて両面を焼き少し冷めたる後に切る

9 軽揚
肉を平たく切り塩少々振りかけ置く別に二個の玉子を器に入れ十分泡の立つまで掻きまぜこれにメリケン粉を中匙に五杯斗り入れてこねぬ様にまぜ酒と塩にて味をつけこれを肉につけ胡麻油にて揚げる付け汁は煑出し二杯煑切一杯醤油一杯合せてつくる

10 ぬた  小間切肉、五分切葱、乱切うど、わかめ、あられせうが
---------------------[以上2ページ]----------------------

小間切肉を前記同様にゆで酢に塩を加へたる汁に浸し置く葱は五分位の長さに切りてゆで独活は小さき乱切になし濃き塩水に浸し、わかめは水に浸し筋を去り小間切になし葱、独活、わかめ、共に塩酢に浸し置く別に灰引の芥子を摺鉢にて摺り其上に味噌を入れて十分にすり砂糖と酢にて味をつけ肉及野菜を絞りて入れ生姜はあられに切り残りたる塩酢にて洗ひたる後入れてまぜる

11 うま煑  肉、八つ頭芋、しのうど、さやえんどう
脂肪なき處の肉をすき焼肉位の大さに薄く切り鍋に少量の酒を入れて煑立ちたるとき微塵切の葱生姜少と肉とを入れて煎り色の変りたるとき砂糖醤油にてざつと味をつけのち肉を出し残りの汁を十分に煑詰め再び肉をいれてまぜる八つ頭はゆでたる後よく水にて洗ひ再び鍋に入れ煑出し酒、砂糖、醤油にて味をつけ芋の崩れぬうち鍋を下し其汁に浸し置く独活は煑出し、酒、砂糖、醤油にて煑汁をつくり肉と同様に中揚げをして煑る、さやえんどうは煑立ちたる湯に塩と共に入れて青くゆでこれを酒、砂糖、塩にて味をつけ皿に出し急に冷す以上を格好良く盛りつける

12 卯の花いり  小間切肉、せんにんじん、せん椎茸
卯の花を布巾にとり絞りて水気を去り摺り鉢にてすりにんじん、椎茸は線に切り煑出し砂糖、酒、醤油にて味を付け置く次に鍋に胡麻油を少々入れ微塵切葱、とせうが少々を入れ直に肉を
---------------------[以上4ページ]----------------------

入れてまぜ色の変りたるとき卯の花を入れてよく煎りこれに煑出し砂糖、酒、醤油を加へて味よく煎りつけ後にんじん、推茸をまぜる

13 木耳蒲鉾
木耳を線に切りゆでゝ味よく煑る別に前記摺肉を摺鉢に入れなほも十分に摺り味を濃くし幅の廣き竹の皮の上に延ばし其真中に木耳を入れて巻き壱銭銅貨位の太さになし皮に包み周囲を紐にてくゝり凡十五分斗り蒸し冷えたる後に切る

14 解し肉白汁  解し肉、玉葱、松茸、にんじん、豌豆
脂肪なき肉の大塊を煑立ちたる湯に一寸入れて直に出し再び煑立ちたるスープ或は湯の中に入れ大切の葱と生姜を入れ塩を加へて余り強からぬ火にかけ汁の少し煑詰りたる後バタと酒とを入れて湯で凡一時間斗りの後鍋を下し其まゝ汁に浸し置く玉葱、にんじん、松茸は塩ゆでになし置く別に鍋にバタを入れ同量のメリケン粉を入れ文火にかけて気なかにまぜ十分粉の煑えたるとき牛乳にて延ばしなほも前の湯で汁を漉して入れ適宜にゆるめこの中にゆでたる肉を適宜の大さに解したるものと塩ゆでの野菜と缶詰のえんどう豆を入れ酒と塩にて味をつける

15 味噌あへ
---------------------[以上5ページ]----------------------

小間切の肉を胡麻あへのときと同様にゆがき置き味噌をすり砂糖及酢にて味をつけ肉をあへる

16 塩焼
肉を平たく大形に切り塩胡椒をふりかり空壜にてたゝきこれを金網にのせて焼くか又は鍋にバタを入れて焼くもよし

17 黄味団子
前記摺肉を摺鉢に入れなほも十分にすり味をよくしゆでたる玉子の白味を小間切にしてまぜ適宜の大さに丸め其周囲に玉子の黄味を裏漉しにかけたるものをつけ蒸籠に乾きたる布巾を敷き其上にならべて蒸し凡十分の後出して再び周囲に黄味をつけ置く

18 味付蒸揚
脂肪なき肉の大塊を微塵切の葱生姜を加へたる醤油に半日斗り浸し置きたるを蒸籠にて三四十分蒸し冷めたるとき片栗粉を醤油にてときどろ/\の汁をつくりこれを肉の周囲につけ少量の胡麻油をやき其中にて肉をころがして周囲を焼き冷えたる後一分位の厚さに切る芥子醤油を付けて食す

19 味噌煑  小間切肉、牛蒡、蒟蒻
---------------------[以上6ページ]----------------------

鍋に少量の酒を入れ煑立ちたるとき微塵切の葱生姜少々入れ直に肉をいれてまぜ色の変りたるときゆでたる野菜を入れてまぜ後煑出し又は羊のスープを入れ煑立ちたるとき裏漉したる味噌を入れて煑込み砂糖を入れて味をつける

20 豆腐いり  小間切中、せんにんじん、せん椎茸
豆腐を細かくつぶしてゆで布巾にとりて水気を絞り置くにんじん椎茸はゆでゝ味を付け置く別に鍋に酒、砂糖、醤油にて味よき汁をつくり煑立ちたるとき微塵切の葱生姜を入れ次に肉を入れてまぜ色の変りたるときゆでたる豆腐を入れてまぜこれに煑出しと砂糖、醤油を加へて味をつけ十分に煎り後にんじん、椎茸の汁を絞りてまぜる

21 球揚  小間切肉
肉の脂肪のまざりたる處を細かく凡一分角と思ふ位に切り少々庖丁の脊にてたゝきこれを鉢に入れ水ときしたる片栗粉と微塵切の葱、生姜を入れよくまぜ醤油と酒にて味をつけ適宜につくねて胡麻油にて揚げる

22 味噌漬焼
肉を平たく大形に切り味噌を醤油にてゆるめたる中に半日斗り浸し金網にて両面を焼く
---------------------以上7ページ]----------------------

23 大切野菜煑  大切肉、大根、牛蒡、葱、油揚
肉を大形に厚く切り野菜も大きく切り鍋に湯又はスープを煑立ゝせ其中に肉と大切の葱、生姜を入れて煑込み次に牛蒡を入れて煑暫くして大根を入れ上部に浮びたる灰を除きながら煑込み野菜の和らかになりたるとき酒、砂糖、醤油を入れて味をつけ其上にゆでたる葱を二寸位の長さに切り油揚も適宜に切りてのせ味のつくまで煑込む

24 白ゆで
解し肉のとき説明したる通りにゆで其汁に浸し置きたる肉を小口より薄く切り三杯酢又は芥子醤油をつけて食す

25 腎臓の塩煎
腎臓を小口より薄く切りフライ鍋にバタを入れ其中に肉を入れ塩胡椒にて味をつけて煎る

26 塩汁  小間切肉、玉菜、玉葱、にんじん
肉に羊の肪肪を入れ微塵切の葱生姜を入れ肉を入れてまぜ色の変りたるとき王菜、玉葱の線切したるものとにんじんのゆでたるものを入れて煎りたる後煑出し又はスープを入れ煑立ちたるとき塩と酒にて味を付ける
---------------------[以上8ページ]----------------------

27 おろしあへ  小間切肉、大根おろし、あられうど
小間切の肉を前記の通り湯がき塩酢に浸し置く獨活は細かに切り濃き塩水に浸し置く別に大根おろしをつくり軽く汁を絞り砂糖、塩、酢にて味をつけ肉とうどを入れてまぜる

28 すき焼
肉のよき處を切り野菜と共にすき焼になす
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参考文献
上記(9)と(11)は大正7年6月16日付朝日新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (10)は大蔵省印刷局編「職員録 大正7年5月1日現在」401ページ、大正7年8月、大蔵省印刷局=近デジ本、 資料その2の出典は大正7年12月25日付読売新聞4面「よみうり婦人附録」=マイクロフィルム、 (12)は同12月24日付読売新聞夕刊4面、同、 資料その3(1)は東京女子高等師範学校編「羊肉調理研究の一班」、大正8年2月、東京女子高等師範学校=平山版による、 同(2)は婦人問題研究会編「婦人問題」3巻2号405ページ、平成年5月、日本図書センター、底本は「婦人問題」大正8年2月号143ページ


 この献立は羊肉何百匁、醤油何合といった分量を書いていないのは、食べる人ばっかり、研究を委託した農商務省畜産課など関係者の試食会だったからでしょう。もし女性対象なら分量の質問が出るから書いたはずだと考えます。また田中博士を招いた試食会は大正7年12月23日に開いており、その2カ月後の試食となれば、この28種には、どれとはいえませんが、同じ料理が入っているでしょう。和風に限定して、まったく別の15品の羊肉料理がを考え出すのは難しいと思うからです。
 ちょっと前に戻りますが、資料その2の読売の記事の畜産課員の談話は、少し違っています。「緬羊の飼育を熾に奨励するとすれば奈何にして其の肉を味はうかを研究せねばならぬ」はいいのですが「来年開催の畜産工芸博覧会には是非此の羊肉試験の実験をやらふと云ふので」田中博士が引き受けており「研究方をお茶の水女子高等師範学校へ依頼」した羊肉料理とは別なのです。
 それからこの「羊肉調理研究の一班」というタイトルなんですが、農商務省は大正10年にこの題名の本を出したんですなあ。その証拠をスライドで見せましょう。ほらね。これは北大にもある大正10年2月15日発行の「農商務時報」第8号95ページの左上のところです。左から2つ目にちゃんとあるでしょう。「農商務時報」は月刊ですから、大正10年の初めごろに発行されたのでしょう。
 それで私は思い付くところを全部検索しましたが、見付かりません。この本は平山版と月寒版よりも後に出たんだから、より洗練されたレシピが載っているはずで、ぜひ見付けてくれようと、ときどき発作的に検索しているんだが、まだ駄目なんだ。
 大正9年3月22日の読売新聞に「緬羊の試食会」という短い記事が載っています。農商務省が「緬羊の食用に就いて何とかうまい妙案がなと東京女子高師の北見教授に調理法の依頼をしてゐた処方法が案出されて廿日同省の会議室でその試食会を催した(13)」とあります。それでほかの新聞はどんな料理だっか書いているかも知れないと、国民新聞だの中外商業新報など5つ6つ読んだけど、見つからなかった。
 だが、農商務省と密接な関係にある中央畜産会はちゃんと機関誌「畜産」4月号に資料その4にした記事とレシピを掲載していました。これだと新聞各社もご馳走になったのに何も書かず恩知らずみたいですが、平日なら朝刊に入らなくても夕刊でという手があるのに翌21日が日曜で夕刊がなく、結局ボツになったのでしょう。

資料その4

 羊肉試食會
   美味なるその献立説明

 農商務省農務局の主催にて三月二十日同省會議室にて催されたる羊肉試食會は女子高等師範学校喜多見教授指導の調理にて、來會者の重なるものは農商務次官同省各局長、課長、及び同省畜産課、緬羊課技師、及び陸軍被服本廠長、千住製絨所長、糧秣本廠長、経理局長、海軍経理局第二課長、都下各新聞記者等にて、皆羊肉の美味なるに舌鼓を打ち、世人の云ふが如く羊肉には何等の臭氣等無きに驚きたり。因に同羊肉は栃木縣松方農場の所産、種類はシユロプシヤー種とメリノ種の雑種にして、東京市赤坂区田町松井肉店より納付したるものなりと云へり。その献立説明左の如し。

一、折詰物
  一、煮こごり
みぢんに切りたる羊肉を塩。胡椒にて味をつけ酒にて煎り置く。
椎茸は煠でて砂糖と醤油にて味よく煮つけ蓮根も煠でて白煮になし三つ葉は煠でて五分位の長さに切り置く。
角天一本を三合の水にて溶き砂糠・醤油及椎茸の煮汁等を入れて味をつけ煮詰りたるとき右の材料を入れ流し箱にて寄せたるものなり。

  二、吉野焼
股肉の脂肪なき大塊をみぢん切の葱・生姜を入れたる醤油に半日許り浸し置きたる後蒸器に入れて二十分蒸し冷えたるとき其周囲に醤油にて溶きたる片栗粉を付け胡麻油にて焼き薄く切る。

  三、玉子巻
玉子を解き少量の酒・砂糖・塩にて味を付け玉子焼鍋にて一分位の厚さに焼きまだ上面の十分焼けざるとき乾きたる布巾の上に焼けたる面を下にして置きなほ同様に焼きたるもの半枚を続け其上に生玉子を塗りつけ味のつきたる摺肉を二三分の厚さに延べ渦巻に巻き布巾に包みたるまゝ凡十五分間蒸す摺肉は摺鉢に葱と生姜のみぢん切にしたるものを茶匙に凡一杯づつ入れてよく摺りたる處に脂肪なき肉を肉挽器にかけたるもの凡一斤を入れてよく摺リ之に玉子の白味二個を加へて摺りまぜ塩・砂糖・酒・醤油にて味を付けたるものなリ。

  四、味噌漬焼 はすの白煮
羊肉を平たく大形に切り漉味噌を醤油にて溶き粉山椒を入れてよくまぜたる中に半日許り漬けたるを金網にのせて両面を焼く。
蓮根は砂糖・塩・酢にて煮たるものなり。

  五、うま煑
肉を薄く平たく切り煮立ちたる湯の中に五分間入れて煠で置く。
鍋に酒・砂糖・醤油の煮汁を作リ煮立ちたる處に肉を入れてざつと煮たる後穴杓子にて肉を掬ひ出しあとの汁を煮詰め十分濃くなりたるとき肉を再び入れてまぜる。
慈姑と麩は煮切・砂糖・醤油にて味よく煮つけ莢豌豆は青く煮つけたるものなり。

  六、黄味あへ
小さく薄く切りたる肉を煮立ちたる湯にて五分間湯掻きたる後バタにて煎り塩・胡椒にて味を付け此中に小間切にしたるハムを入れて一處に煎り置く。
胡羅萄と馬鈴薯とは凡三分位の賽の目に切り塩煠でになし置く。
独活に乱切になし塩と酢に浸し、生姜はみぢんに切り湯にて洗ひ布巾にて絞りこれも塩と酢に浸し置く。玉子は煠で白味の方は小間切にし黄味の方は裏漉しになし置く。
豌豆は缶詰を用ゐ塩酢に浸す。
右の準備出來れる後大なる鉢に粉芥子を入れ生玉子の黄味にてときなほ酢にて緩め塩と砂糖にて味をつけ此中に裏漉しの黄味半分と右の材料を汁を絞りて入れてまぜ盛りたる後黄味をかける。

  七、佃煮
肉の小間切にしたるを熱湯にて五分間湯掻き其汁を去り古生姜の薄切りと共に酒と醤油とにて辛く煮付く。

二、吸物 つくね肉 短冊うど みつば

玉子巻の處にて説明したる摺肉を小さくつくね煮立ちたる湯の中に入れて煠で之を椀に盛りゆでたる三つ葉と短冊切の独活を盛合せ汁をかける。

三、葛煑

肉を胡麻油にて揚げこれを蒸立ちたる湯にて五分間湯掻き其汁を去り再び煮立ちたる湯の中に入れて凡二十分間煠で其汁を別器にとり冷し置くときは脂肪は上部に凝固す後其汁を布にて別鍋に漉し出し前の肉を入れ野菜は硬きものより順々に入れて煮込み酒・砂糖・醤油にて味をつけ十分煮たる後おろし生姜と葛とを入れる。

 資料その3と比べてみると、新しいのは葛煮、佃煮、黄味あえで、吉野焼は味付蒸揚の名前が変わったぐらいの違いですね。て新しい料理がプラスされていて、それらをパンフレットというか本にしたことも考えられます。
 続く大正10年3月15日発行の「農商務時報」9号の「本省編纂新刊書目録」に「緬羊飼育の心得」、同5月15日発行の11号のそれには「緬羊飼育概覧」と「羊肉料理」を挙げており、6月15日発行の12号の目録にも「緬羊飼育ノ奨励ニ就テ」があるので、農商務省はこのころ立て続けに参考書を出し、羊を食べることにも気を配っていたことかうかがえます。

  

 さて、東京女高師の献立の中ではね、切った羊肉を直火で炙るのは5番の付け焼き、16番の塩焼き、22番の味噌漬け焼きの3つです。たれを使うのは付け焼きしかないから、いまのジンギスカンの祖先をこの3つから求めるとすれば、どうしても付け焼きになりますね。
 後の講義で取り上げますが、糧友会という陸軍糧秣本廠の外郭団体が昭和2年から鍋羊肉と書いてカオヤンローと読ませる付け焼きを広めることを始めますが、この試食献立の付け焼きと同じく、予め漬け汁に浸して味を先に付けるところは同じなのです。もっとも肉の厚さ、漬け汁というかたれの味、浸す時間はかなり違いますよ。
 付け焼きは「酒と醤油とを等分に合せたる汁に生姜の絞り汁少々」の漬け汁に浸すとわかりました。これはどういう味になるのか。まだ実験してないので想像ですが、酒がなければ、鰹のたたきかイカ刺しの醤油だね。あれを酒で割ったものになるから、かなり醤油味に近いものになりそうだ。
 鍋羊肉は「醤油、酒、砂糖、七色唐辛子を合せ」るのだが、醤油5に対して酒2だから、より醤油の味が強いけれど、砂糖が加わるから甘味と焦げたカラメル臭も出るでしょう。七色唐辛子は肉に振りかけるわけではないから、ピリ辛になるかどうかわかりませんが、鍋羊肉はいまのジンギスカンのたれの味により近いことは確かでしょう。
 どちらも両面を焼きますが、付け焼きは奥さんが台所でどんどん焼き、皿に盛って食卓へ出すという食べ方に適している。鍋焼肉は、漬け汁を付けながら両面を焼くように指導しているから、奥さん独りでも焼けるけれど、食べる者自身が飲みながら焼いて食べることもできます。ご飯のおかずというより、中国の烤羊肉を手本にした鍋羊肉は、酒の肴として羊肉を消費させる狙いがあったのです。
 どちらにしても肉だけ、野菜は焼かない。羊肉だけを焼いて食べる料理だったことがわわかりますね。昔のお父さんたちは威張っていましたからね、父親が羊肉が大好きとなれば、飲み友達がくれば付け焼きなり鍋羊肉を出すよう奥さんに命じて、酒を飲んで騒いだと思います。私が子供のころそうでしたね。羊肉でなくて豚肉でね、酒がなくなるころ、テーブルにわれわれも座り、余った肉とぶつ切りの葱を焼いてご飯を食べましたよ。もやしなんて記憶にありません。
 ちょっと横道にそれましたが、大正時代の日本人向きと考えた羊肉料理とは、こんな和風だったことを示しました。さて、畜産組合の全国組織である中央畜産會の機関誌「畜産」は大正8年4月号から「畜産と畜産工藝」と改題したのです。大正8年3月18日から上野不忍池のところで75日間に及ぶ日本初の畜産工藝博覧会を開いたことがきっかけで、もっと報道する対象を広げるというのが理由です。
 そういう畜産界の意気込みにこたえるよう各新聞は畜産工芸博覧会の記事を載せましたが、私の見るところ最も詳しく書いたのは都新聞だね。都新聞はこのほかに主婦向けに半ページの博覧会紹介記事も載せていることも評価しました。
 まず1月前の予告記事から綿羊と羊肉料理に注目しています。「東照宮下に面した正門を入ると右側には▲羊牧場の模型が出来農家の副業として手軽に飼へる実況を示し生きた羊を放すやうになつて居る、其の羊は下総の御料牧場から変つた十五六種が出品される」、「売店では珍らしい羊料理が味はれるが其材料は同会から供給され殆ど実費で提供される我国で▲羊の肉を食用にする例は稀であるが其肉は柔かく甘味を持つて居て非常に甘いものだとの事である」(14)と、珍しい物好きの江戸っ子をむずむずさせるよう書き方でした。
 資料その5は開会式の記事です。(1)の都新聞は料理を広く書いているでしょう。田中式羊肉調理法50法に「つくも煮」はないから、畜産博向けに新たに作ったのかも知れん。農商務省の料理10品は、資料その2で「緬羊課の一員」が語った通りの「羊肉試験」で、資料その3の中から選んだと思われます。(2)の中外商業新報は、樺山会長はじめ名士たちが羊肉の串焼きを試したくて精養軒の出店に一番乗りをしたことを面白く書いている。記者も名士団にくっついて羊肉と豚肉とはしごしたんでしょう。そうでなければ、こうは書けませんよ。記事に添えられた写真を引用させてもらいましたが、巻き角の形からランブィエメリノ種のようです。
 資料には引用しなかったけど国民新聞もね、「松方侯、渋谷主馬頭、北里博士、松井愛知県知事、秋山青島民政長官、村井糧秣廠長、中川畜産試験所長、早川千吉郎、馬越恭平、藤山雷太の諸氏及出品人等無慮千五百余名」も来賓が来て、博覧会総裁の閑院宮殿下が「十一時御帰還相成りたり夫より模擬店を開き名物の羊及豚料理を饗応し下谷の紅裾連大に斡旋に努む」(15)」と伝えています。
 資料その5(3)は当時の関東州大連で発行されていた満洲日日新聞が伝えた博覧会の様子です。「羊や豚を見たゝめしのない都人士の眼には」なんて、他人事のように書いてますが、記者自身もそうだったのでしょう。「生きた緬羊が幾匹も」という表現からも珍しさがうかがえます。

資料その5

(1)
不忍池畔に開いた畜産博
 深き興昧を寄せられた総裁宮殿下
 羊料理を賞翫してから各館の巡覧

不忍池畔の畜産工芸博覧會は十八日午前十時別館余興館内で閑院総裁宮殿下の御臨
場を仰ぎ開院式を挙げた、定刻に至り來賓千廿四名、出品人八百六十名列席し殿下
には畜産並に畜産工芸御奨励の令旨を賜り原首相代理及山本農相等の祝辞もあつて
同十一時式を終つた、それより殿下には
▲樺山會長  の御案内で場内を御巡覧、就中東京猟和會、陸軍被服廠、朝鮮館、
満蒙館等に深き御興味を寄せられて一々会長に御質問あらせられ「斯くの如く応用
の範囲廣く各種の工芸品が斯く迄進歩したとは気がつかなかつた三味線も成る程斯
うして見れば畜産工芸品に違ひない材木を組立ててあつても能く見れば膠で作つた
處もある、是非もう二三度來てよく研究しやう、又催しとして
▲動物の仔 を親に配して見せる様にしたこの設備は都会に育つた者には實に珍
らしい新知識を與へるもので教育上にも有益なものである」と御言葉があつた正午
構内各所に羊料理、豚料理、おでん、肉頭饅、ミルク等の試食場開かれ會長初め出
品人も一所になつてこれを賞味した、羊料理は我國では新しい試みで田中獣医学博

▲指導の下  に精養軒が農商務省の依嘱を受けて拵へたもの、日本式の副食物羊
シチウ及びつくも煮等五種ほど出来て居る、羊肉にある一種の臭気が取去られて牛
肉よりは柔かく然も軽い味ひのものである、本館内を一巡して見ると先づ東館をは
いると左側に日本毛織会社の各種の製作品と相対し三越の出品は停車場の
▲待合室に 象り畜産工芸品で揃へた旅行用具一式を見せて居る、安い洗濯石鹸
の即売所も設けてある、北館は重に大阪府のものでまだ出揃はぬ、西館は政府出品
で新製品発明品がいろ/\面白い陳列法によつて示されてある農商務省の出品は羊
肉料理十種すべて日本料理に応用したものである、糧秣廠の牛肉缶詰の作り方に併
せて隣には
▲月夜露営  の實況を現はし軍人と焚火を配置して其缶詰が如何にして用ゐられ
て居るかを教へて居る、又今回の出品中特に異彩あるは同廠の出品にかゝる牛の製
品三百種は斯く迄応用されて居るものかと人を驚かせる、館外には仔馬をつれた見
事なアラビヤ馬が二種及び牛、羊等が放し飼ひにしてある、其他水禽、小鳥など様
々子供の喜ぴさうなものが活々と
▲模型牧場  の中で駆け廻つて居る、午後一時から一般入場者を入れたが茨城小
学生三百名が真先に入場し非常な喜びを以て眺め歩いて居た
【写真説明】◇畜産博に閑院宮殿下の御成


(2)
●牛の聲も長閑に
  畜産工藝博覧會開會
 ◇総裁閑院宮殿下御台臨

辨天の紅梅が満開の嬌笑を見せて上野の朝は心ゆく迄長閑に開け放れた十八日畜産工藝博覧會は開會の式を挙げた、午前九時二十分宮内省の朱塗の自動車が
▲象の鼻を  結びつけた博覧会の正門を疾風の如く過ぎると内館の前に三々伍々歓語して居た樺山伯や道家農務局長等は「御着だツ」と形を整へる。自動車の扉が静かに開いて中から降り立たせたのは陸軍大将の軍服に威風凛然たる総裁閑院宮載仁親王であつた、階上便殿に御少憩あり会長以下
▲役員一同  に謁を賜ひ会長の言上書を納れさせ給ふて十時といふに余興館内に設けられた式場に臨まれ
本日畜産工芸博覧会開会の式を挙行するに方り諸氏に告ぐ、諸氏の尽力に依り茲に豊富なる出品を得たるを欣ぶ而して畜産工芸品の涯しなき利用と其の技巧の著しく進歩の状以て観るべきものあり、惟ふに斯業の改善発達は邦家の要求洵に切なるものあり、諸氏一層奮励し以て此期待に背かざらん事を望む
との令旨を賜ふた、次で原首相代理原司法大臣秘書官
▲山本農相  代理、井上府知事、永井市長代理等の祝辞があつて閉会殿下には場内御一覧の上十一時に御帰還相成つた、此時振鈴を合図に余興及び模擬店開かれ澁俗主馬頭、村井吉兵衛、松方巌、北里博士、秋山青島民政長官、早川千吉郎、藤山雷太、杉原栄三郎氏などの来賓は先づ場内精養軒出張所へ押かけて羊の串焼に舌鼓を打つ 
▲樺山伯は   会長丈にに「どうかな、柔かくてうまかー」などゝ大きな体を彼方此方へ引廻し頻りに能書を並べて居た、それから一同は「サア今度は豚料理ぢや」と許り子安農園出張所へ詰めかける、下谷芸者の手踊がある、赤前垂の美人が場内を斡旋する、牧場の牛がモー/\と畜産気分を煽る、水禽が啼く、午後一時の一般観覧者の入場には府下中川の小学校生徒が魁をした

     
     (上は中外商業新報が掲載した写真)

(3)
   花に先ちて
     畜産博の蓋開く
      満蒙の畜産物出品は
        都人士の眼を驚かす

▼世界に 前例なき試みとして企てられた上野不忍池畔の畜産工芸博覧会は既電の通り明日から彼岸に入ると云ふ其の前の日の十八日に総裁閑院の宮殿下の台臨を辱ふして蓋を開けた上野の動物園で見る外に羊や豚を見たゝめしのない都人士の眼には総ての物皆珍らしく感ぜられ先づ門を入ると其の左の一方に生きた緬羊が幾匹もおとなしく柵の中に遊んでるのが眼に着く又其の両隣には実物と疑はれる程精巧に作りなされた人形と背景とを以て農村牧場の実況が飾られたなどは如何にも伸んびりとした田舎気分を十二分に味はせるに不足はない<以下略>

 中央畜産會の「畜産と畜産工藝」は、主催者ですから当然のこと、詳しく博覧会を紹介しています。それを見ますと、口八丁手八丁の田中さんは本職の方で農商務省農務局に展示に協力して、豚肉料理蝋細工模型を出しています。田中博士考案、小沢キン子女史調理、山越工作所製造というのですから、田中式の豚肉料理のレシピで小沢さんが作り、山越工作所がそれをモデルに食品サンプルを作ったということでしょうね。ここでも大分での豚肉調理講習会に料理の大家として招かれた小澤キン子さんが登場しています。
 さらに、キン子さんは大正8年などの「料理の友」に「田中式豚肉料理」という題名でレシピを何回か書いて田中式を広めてますから、もしかすると田中式の正体は小沢式なのではないかと疑ったが、それは考え過ぎなんだね。田中式の内臓料理には脳だけでなく脊髄の軽揚げ、腎臓、肝臓のほかに脾臓、膵臓の煎味噌煮なんて、キン子さんでも区別して切り出せそうにないモツを使うレシピもあるから、やっぱり田中式なんですなあ。
 それからね、国会図書館の近代デジタルライブラリーの拡張によって、小沢さんのご尊顔が拝することができるようになりました。「田中式豚肉調理法」の大正8年版の方の27コマ目にその写真があります。廣い台所で割烹着姿もりりしい小沢さんが出刃包丁でね、三枚肉を切り分けており「田中式豚肉料理主任小澤きん子」と説明文が付いています。
 雑誌「畜産」に掲載された「田中式豚料理」の中で、博士は自宅などで試食させることを「無限の楽み」とし、正式試食会だけでも「既に七八百名に達しましたことを大に喜んで居ります。又令夫人令嬢方の練習に御見えに成る方も随分有りますから此事は公務と勉学の余暇に私一人にては到底為し能はざることでありますけれども幸に拙宅にはキンと云ふ者が居りまして十数年間家事を助ける傍ら非常なる熱心と精励を以て此事の研究と実行に従事して居ります為め私は専ら彼に依つて此の希望を達することが出来るのであり又試食会開催の折には其都度家族を挙げて従事することに致して居るのであります」(16)と書いております。キンさんは田中さんの料理研究では欠かせない相棒だったのですね。石を投げると大学教授に当たるぐらい大勢になったいまと違って、昔の帝大教授はその地位にふさわしい高給取りでしたから、キンさん独りぐらい置いても困らなかったと思いますよ。
 博覧会場での試食会は読売新聞が「田中博士の豚料理試食会」と取り上げており「調理は銀座の福本が田中宏博士の意を其儘にみせたもので豚肉の臭ひを消して極めて日本人の口に合ふ様に拵へてありました。」として、バラ肉の醤油揚げなどの作り方を説明し「田中式豚料理は未だ幾十種もあります。豚肉も調理の方法では誠に美味しく頂けるもので滋養の点からは優るとも劣りはせず、価は牛肉より廉いのですから家庭内で豚肉使用をより多く勧めたいとは田中博士の希望です。(17)」と書いています。
 田中さんはお得意の豚肉料理と同じように、羊肉料理の蝋細工も作って並べたんですね。同上田中博士の考案にして、献立名称次の如し―とあります。それを読みますと、煎り旨煮、茹で肉味噌吸い物、柚子詰め酢の物、松皮焼き、流れる三本川でなく皮を切らせて肉を切るほうの皮ですよ。それから煮蒲鉾、球の清み吸い物、キュウですかタマですか、ふりがながないのでわかりません。肋骨揚げ煮、湯葉巻き、叩き揚げ、肋骨の大切り野菜汁、茶碗蒸し、煮付け、慈姑揚げ、白和え、豚肉柔らか煮、野菜煎り汁、ごまよごし、椎茸蒲鉾あんかけ、花卵羊飯、羊飯の掛け汁、羊飯の肉と薬味、味噌煮、バタ焼き、黄金団子、豚肉のぬた(18)、以上25品です。煎り旨煮と味噌煮があり、焼き物は松皮焼きとバタ焼きぐらいで、煮物主体という点で大分の豚肉調理講習会のメニューと共通した料理法を私は感じますね。
 そのほかにですよ、子安農園という横浜の農園が、豚肉食用奨励の目的をもって田中式豚料理の売店を設けたほか、田中さんは子安農園出版部から田中式豚肉調理の本の再版を重ねるのですが、その本など出版物を売ったり、特製豚まんじゅう、豚まんの試食もさせたとあります。本筋ではありませんのでコピーしませんでしたが、田中さんは解剖学の権威らしく精巧なる馬の解剖模型も出陳したという記述もありました。
 ちょっと脱線だが「田中式豚肉調理」の本で一番古いのは大正2年に中村木公編、博文館出版の「田中式豚肉調理二百種」で、その次が大正5年に東京出版社が出した田中宏著「田中式豚肉調理法」です。国会図書館を検索すると、3番目が大正8年に玄文社が出した「田中式豚肉料理法」となるが、大正7年10月に創刊された雑誌「婦人家庭」が附録として「田中式豚肉謁理法」を付けたのです。広告によると、どこかの女子大で開いた田中式豚肉調理法講習会で行った田中博士の講演草稿とあります。何ページぐらいの附録か気になるので、検索してみたけど見付からなかった。コラーゲンたっぷりなんて喜ばれる豚足ならぬ蛇足でした。はい。
 また資料その5(1)にもある通り、博覧会では精養軒が羊肉料理を試食させたことも伝えています。それを読みますとですね、羊肉料理普及の目的をもって羊肉チャップ、同シツレツ、同スチウのほか、今回特に考案したる羊肉つくも煮、同吉野煮と唱うる日本式料理をもって客を引けり。なお博覧會みやげとして羊のてりやき、ひつじの金山寺を供せり。羊肉試食を欲する人々にはきわめて簡便なり(19) ―となっています。田中式にのばらせておけないと、玄人の和風羊肉料理が出始めたということでしょうか。
 ところで、わが北大もこの博覧会に出陳したんですね。読み上げますとですね、北海道大学農科大学畜産科、あれ、東北帝国大学農科大学の間違いと思うでしょうが、帝国が抜けているけれども、完全なミスではないのです。
 大正7年に北海道帝国大学が設置され、東北帝国大学農科大学から北海道帝国大学農科大学に変わり、1年間だけそう名乗ったのです。1年後の大正8年2月に農科大学は農学部となって、2つ重ねの大学ではなく、北海道帝国大学と1つだけになった。つまり、その下には農学部しかなかった。そしてその大正8年に医学部ができて、2学部の大学になり、工学部ができて3学部になり、理学部が、と増えていって今日の北大があるのです。いいですか、おおざっぱでも北大の沿革ぐらい覚えていないと恥をかきますよ。遅かれ早かれみんな北大卒になるんですから。
 その畜産学科が牛乳から抽出した乾酪素という物質の応用例を発表します。私が学生だったころ、畜産は、いま中央図書館のあたりにありましたね。百年記念館との間が低くなっていますが、あそこがちょっとしたグラウンドでね、私らはソフトボールやってしましたが、馬術の練習をしているのを見た覚えもあります。いまは木が生えたというか、植えたのかすっかり林になっていますがね。
 はい、この乾酪素なるものを検索しますとですね、カゼインのことだとわかります。カゼイン塗装のテーブルやいす、紙製缶などを展示しており、説明によりますと、同大学、北大畜産の皆さんが苦心研究せるところにして、紙の缶が完全にブリキ缶に代用できれば、この研究は経済上利益すること多かるべし―といっています。紙パックの元祖ですかね。
 たまたま函館商業学校本科3年生65人が、この博覧会見学にいった。5月12日から18日間の修学旅行で、その様子を函館毎日新聞に「函商旅行短信」を寄稿していました。その5回目に書いた一部を読みましょう。こうでした。
 十七日本日の見学場所は畜産工芸博覧会米穀株式両取引所日本銀行等に有之、午前八時上野不忍池畔の畜産工芸博覧会を縦覧仕候。畜産の部には牛馬羊の牧場の模型、牛乳搾取法並に調理法工芸品には東京府では勿論各府県の出品夥しく京都の織物刺繍の濃艶なる北海道産の毛皮類に北海道農科大学の乾酪は殊に吾人の目を引き申候。その他新発明の品数多有之到底一時間位にては見尽され申さず候。(以下略)(20)
 なにゆえに「北海道農科大学の乾酪」に興味を持ったのかまでは書いていませんが、これが中学3年生の旅日記ですよ。皆さん、これぐらい書けますか。いつだったか運動部の部誌に何か書けといったら、単に「頑張ります」としか書かなかった現役が何人かいたからねえ。ふっふっふ。
 さて、田中さんに戻ります。最初に説明したように、田中さんは「畜産」の創刊号から豚肉料理の連載を始めて、去年の12月号で100品になったから、ひとまずピリオドを打って、ことしは未年なのにちなんで羊肉料理を連載することにしたんですね。「畜産」の創刊は大正4年10月ですから前年末、大正7年12月号までの38冊に100品ですから、毎月3品ぐらいのペースで豚肉料理を発表し続けたことになります。
 羊肉料理の方は、実際には2月号から発表を始め、6月号でちょうど50品となり、それで連載を終わっています。その内容を月別に書き出したのが資料その6です。それから、ここでは煮という字で間に合わせていますが、6月号の第47法から49法の3字を除いて、すべて見出しの煮は火との上に者という字を乗せた煑を使っています。それから、田中さんは、調理法という立場からと思われますが、第1法、第2法、第3法という数え方をしています。第何法という字が太字になっているのが小谷さんが「羊と山羊」に転載した料理で、前回の講義で配った資料その3をみれば、ちゃんと対応していることがわかりますよ。

資料その6

第一法 羊鍋  普通牛鍋と同様に肉も脂肪と一緒に薄く切り、醤油、味醂に葱を加へて煮れば誠に結構に食べられます、之に白滝、三葉、焼豆腐、筍等を交合はせても結構です、好みに依ては胡椒を振りかけます、又ソツプや鰹節の煮出汁を加へるもよし。

第二法 すき焼鍋  肉は薄く切り、別にソツプ又は鰹節の煮出汁に醤油、味醂を加へて美味しき煮汁を拵へ置き、鍋を火にかけ、ヘツトかラードを少々入れて其熱した時、肉を少しづつ入れ両面をぢり/\と煎り右の汁を附けながら食べます、又肉を一緒に入れてぢり/\と煎りたる後煮汁を鍋に入れ葱其他を加へて煮てもよろし。

第三法 味噌入鍋  鍋に味醂を沸立て(湯を加へてもよろし)普通に切つた肉を入れ又葱其他の野菜を加ヘ次に摺味噌と砂糖少々を入れて掻混ぜながら煮ます。

第四法 附焼  普通に切つた肉を醤油に浸し直ちに金網で焼き、熱き内に食べます、醤油の中に卸し生姜を絞り加ふれば一層風味好くなります。

第五法 バタ煎  肉を普通に切り塩と胡椒を振かけ、鍋にバタ少々を溶かし右の肉を入れて両面を煎り漸く火の通りたる頃取出して醤油を附けて食べます。

第六法 味噌焼  味噌を摺り砂糖、味醂を加へたものに、普通に切つた肉を二三時間以上漬け置き、金網で焼きます。味噌に微塵切の生姜を混ぜれば好風味を添へます、又丁寧に漬けるには肉と味噌の間に寒冷紗を置けば焼いた時見た目は綺麗であります。

第七法 味附浸焼  醤油と味醂を沸立て、其の冷えたる時普通に切りたる肉を数時間漬け置き、金網にて焼き表面に煎つた罌粟を少々振り掛けます。

第八法  照焼  鰹節の煮出汁かソツプ(又は湯)に醤油、味醂、砂糖を加へて沸立て片栗粉を水で解いて注ぎ入れどろ/\の照汁を拵へ置き、肉は普通に切り醤油に浸し金網で両面を焼き、熱い内に右の照汁を両面に塗ります。<以上2月号>

 第九法 佃煑  普通に切つた肉を数時間醤油に浸し置き、其儘醤油と共に鍋に移し、文火にて煮ます。

 第十法 大切醤油煑  肉を大切の儘、醤油に三四時間漬け置き、御飯蒸に移し、蓋を為し、文火にかけ三四十分間煮て、其儘鍋中にて冷やし、一分程の厚さに切ります。

 第十一法 白煑  何部の肉にても大塊の儘沸湯に荒切の葱又は玉葱及塩を少々加へて一時間程茹で、其儘湯と共に冷やした後、適宜薄く切り醤油を附けて食べます。
 斯様に茹でた肉は数日保存も出来、又色々の料理に用ゐられます。第十二法以下第十四法迄は皆一旦茹でた肉で拵へるものであります、又其煮汁はソツプとして煮物や汁物に使用します。

 第十二法 酢醤油  茹肉を一分位の厚さに切り、酢醤油をかけます。

 第十三法 生姜酢  同様の肉を酢、塩、砂糖及生姜の微塵切か線切又は卸し生姜の絞り汁を加へたるものと混ぜます。

 第十四法 芥子酢  同様の肉に、日本芥子のたてたもの、酢、塩、砂糖を混ぜたものをかけます。

 第十五法 酢味噌  同じ肉を、摺味噌に砂糖及酢を混ぜたもので和へます。

 第十六法 ぬた  同じ肉を、摺味噌に日本芥子のたてたもの、酢、砂糖を摺り混ぜ、分葱の一旦茹でたものを、一寸位の長さに切つたものと、独活の皮を剥ぎ一寸位の長さにて竪に薄く短冊に切り冷水に入れ置きたる後水を切つたもの及若芽を水に浸し能き程に刻んだものを加へて和へます。

 第十七法 山葵醤油  同じ肉に山葵を卸し、醤油に混ぜたものをかけます。

 第十八法 胡麻よごし  同じ肉を、煎り胡麻を擂鉢にてよく擂り潰ぶし、砂糖と醤油で味を附けたもので和へます。

 第十九法 白和へ  同じ肉を、白味噌を擂り、豆腐を茹で、布巾に包み能く絞りたるを入れ、砂糖を加へ山葵の卸したのか又は日本芥子のたてたのを、少々加へて能く擂混ぜて和へます。

 第二十法 木芽和へ  同じ肉を、木芽を擂鉢にて能く擂潰し白味噌又は赤味噌を入れ、砂糖、味醂を加へて擂混ぜたるものと共に鍋に移し文火にかけて練り混ぜます。

 第二十一法 おろし和ヘ  同じ肉と、玉菜を一寸位の長さに線に切り、胡蘿葡も同様線に切り、何れも一旦さつと茹でたものとを混ぜ、酢、砂糖、塩を加へ之に大根を卸し能く絞りたるを掻混ぜます。

 第二十二法 羊肉の煑附  同じ肉を、其茹汁に醤油、味醂、鰹節を加へて文火で煮附けます。<以上3月号>

第二十三法 羊肉の味噌煑  同じ肉を味噌を擂り茹汁にて延ばし、鰹節と味醂を加へたものに入れ、牛蒡を乱切に切りさつと茹でたものと、蒟蒻を塩で揉み能き程の大さに捩つたものを加へ、文火にかけ、鍋底に焦着かぬやう掻混ぜながら煮詰めます。

第二十四法 羊肉の漬し吸物  同じ肉を、鰹節の煮出汁に、酒、塩、及醤油を程能く入れて沸立てたものに入れ、筍、松茸、茗荷の類を一二品普通の吸物に用ゆるやうに切りたるを入れ、茹三葉を添へ、椀に盛り花柚子、へぎ柚子一片を加へます。

第二十五法 羊肉の味噌吸物  茹肉を厚目に切り、味噌を擂り水で延ばし火にかけて、沸立て、鰹節、味醂を加へたものに入れ、文火にて煮ます、味の能く染みこみたる頃、豆腐をやつこに切つたものと、葱を一旦ざつと茹で二寸位の長さに切つたものを加へます。

第二十六法 羊肉の餡掛  鰹節の煮出汁を沸立て、醤油、味醂(好みに依ては砂糖少々)を加へ片栗粉を水解きして注ぎ入れ、どろ/\の餡を拵へ、茹肉は厚目に切り其の茹汁にて熱めて椀に盛り、其上に餡をかけ、卸し山葵か卸し生姜を少々添へ入れます。

第二十七法 羊肉の旨煑  茄肉を、小さく厚く切り、筍、里芋、慈姑、牛蒡、蓮根、隠元などを普通の旨煮のやうに切り、一旦茹でたものや独活の適宜能き程に切りたるものと一緒に鰹節の煮出汁、醤油、味醂、砂糖にて美味く煮附けます。

第二十八法 煑込おでん  茹肉を大きく切り、里竿、蒟蒻、生揚豆腐の大きく切つたものと一緒に、茹汁、鰹節、醤油、酒を加へて文火にかけて煮込みます。

第二十九法 解し白汁  茹肉の鍋に松茸を長さ一寸位に切り之を竪に一分程の厚さに切つたものを入れて、肉の軟かくなる迄煮続け、一方には他の鍋にバタを溶かし其の熱した時一旦鍋を火からおろしてメリケン粉を入れ能く混ぜ、再び火にかけ、絶えず掻混ぜながら少し色附く迄いため、次に熱く沸立てたる茹汁を少しづつ加へて練り合せ、又少々加へては練り、どろ/\となし、次に、沸した牛乳を加へ、次に茹肉を指で能き程の大さに解して、松茸を一緒に入れ、次に青豆を入れ掻混ぜながら煮て、終りに鶏卵一個の黄身丈をかき混ぜ、胡椒を少々振り入れます。

第三十法 羊飯(又七味飯)  茹汁に鰹節の煮出汁を加へて分量を増し、醤油、酒にて美味く味を附け置き、肉は冷えてゐる内に細かく賽の目に切り、又は熱き内に細かく解し、別に薄き玉子焼を作り之を成たけ細く絲に切り、葱を横に薄く刻み、紫蘇も細く刻み、沢庵漬大根及味噌漬大根及生の胡瓜を細かく賽の目に刻み、右の七品を、皿に綺麗に盛り合せ、飯椀に温き飯を盛り其の上に右の肉と薬味を上に少々づつ積み、其上から右の汁をかけて食べます、飯のお代りをする時は其都度同様にするのであります。<以上4月号>

 第三十一法 茹肉の筍煑  茹肉を厚目に切り、茹肉に鰹節、醤油、酒を加へ、一旦茹でた筍を二つ割か四つ割にして四分程の厚さに切つたものと一緒に煮附ます。

 第三十二法 茹肉の大根煑  同様にして、大根を輪切か半輪切に切り、一旦さつと茹でたものと煮ます。

 第三十三法 茹肉の冬瓜根煑  同様にして、冬瓜の大きく切つたものを煮附けます。
 
 第三十四法 茹肉の茄子煑  同様にして、茄子を二つに割り皮面に一分置位に斜めに庖丁目を入れて水に入れ、あくを出したものと煮附けます。

 第三十五法 茹肉の馬鈴薯煑  同様にして、馬鈴薯の四つか六つに切つたものと煮附けます。

 第三十六法 茹肉の松茸煑  同様にして、松茸を一旦塩水につけ、長さ一寸位厚さ二分位に切つたものと煮附けます。

 第三十七法 茹肉の焼豆腐鳥  同様にして、焼豆腐を五分幅程に切つたものと煮附けます。

 第三十八法 茹肉の切野菜汁  茹肉を厚めに切り、大根を一寸五分の長さにて竪四つ割か六つ割にし胡蘿葡と牛蒡を同じく一寸五分の長さにて三つ割か四つ割にして何れもざつと茹で、葱をさつと茹でたるを矢張一寸五分の長さに切り、揚豆腐は横に三つに切り、其各片を斜に二つに切り、茹汁、鰹節の煮出汁、醤油、酒にてたつぷり汁を拵へ右の肉と野菜を煮込みます。

 第三十九法 軟か煑  茹肉を四五分の厚さに切り、茹汁に醤油、酒、鰹節にて味を附け、筍の広く薄く切つたものと、椎茸の二つか四つにいてふに切つたものと共に文火にて猶ほ三四時間煎附ます。

 第四十法 茹肉の軽る揚  茹肉を幅八分位厚さ三分程に切りたるを、メリケン粉を鶏卵で解き水と酒と塩少々を加ヘどろ/\となしたる衣を着け、ラードで少々色附くまで揚げます。

 第四十一法 羊肉の擂り煑  羊肉のすぢとあぶらを除き、細かく切り且つ叩き擂鉢にて擂り肉一斤に対して鶏卵二個の白身ばかりを加へ、極少し塩を加へ、之を鳩の玉子位の玉に丸め、鰹節と昆布の煮出汁に塩、酒と醤油少々を入れ汁を拵へ、右の玉と松茸、生椎茸、初茸、茗荷、筍等の季節物を適宜煮添へ椀に盛り、茹でた三葉、花柚子又はへぎ柚子一片を加へます。

 第四十二法 煮蒲揚  肉を前法と同様に擂り(麺包を水に浸し能く絞りて加ふるもよろし)大きな長金柑位の大きさに丸め、鰹節の煮出汁に醤油、味醂、砂糖少々にて味を附けたもので煮附けます。

 第四十三法 叩き揚  何れの肉にても脂肪のある所で細かく切り且叩き、玉葱の刻みたるものを混ぜ、醤油少々と、片栗粉を濃く水解きしたものを加へて能く掻混ぜ、梅実大の球に丸め、ラードで揚げ、絶へず掻廻はし、褐色となり浮上つた頃取上げて油を切ります。<以上5月号>

 第四十四法 叩き揚の餡掛  茹肉の茹汁か鰹節の煮出汁又は湯に醤油、酒にて味を附け、之に第四十三法にて出来上りたる叩き揚を入れて暫く煮たる後、水解したる片栗粉を注ぎ入れてどろ/\の煮物にします。

 第四十五法 掻揚  肉を細かく切り、胡蘿葡と隠元も細かく切り、メリケン粉を卵で解き、水を加へ、酒と塩の極少量をも加へ、能く混ぜ合はせ杓子で一掬づゝ胡麻の油で揚げます。

 第四十六法 茄子の挟揚  茄子を一分位の厚さに輪切にして水に入れ置き、肉は細かく切り且つ叩き玉葱を刻みて混ぜ、醤油を加へ、鶏卵を掻混ぜ置き、右の茄子は自然に一側が凹形になりますから能く水を切り二片の凹面の間に右の肉をよき程づゝ挟み、メリケン粉を水で解き塩少々を加へたるどろ/\の衣を着けてラードで揚げます。

 第四十七法 煎旨煮  肉を普通に薄く切り、筍、里芋、牛蒡、蓮根、蒟蒻、慈姑等を程よき大さに切り鍋に胡麻の油を沸し肉を入れ、次に野菜を入れて煎り鰹節、醤油、酒、味醂、砂糖にて味を附け、静かに混ぜながら煮附けます。

 第四十八法 腱肉の焼煮  腱肉即すね肉を大きな儘金網にのせほうろくをかぶせ裏表共狐色になるまで焼き、御飯蒸に湯を煮立て鰹節、醤油、味醂を加へ味を附けたものに入れ蓋をして文火にかけ、其汁がやゝ煮詰るまで煮て、其儘、冷やした後、横に一分位の厚さに切ります。

 第四十九法 腱肉の揚煮  腱肉を五分程の幅にて二分位の厚さに切り、片栗粉を醤油と水にてかたく解き之を衣として胡麻の油で揚げます、其揚げる時には油に入れた際には暫く掻廻はさず、少し揚りたる頃から、能く掻混ぜ互に附着して離れざるものは、取上げてから離します、一方にはスフー又は湯を沸立て、醤油と味の素少々にて味を附け右の揚肉を入れて十分間程煮まして、青豆と葱の細く切つたものを加へ、片栗粉を水で解いて注ぎ入れ、胡椒を少し振り入れます。

 第五十法 柏焼  何部の肉でも細かに切り、胡蘿葡、葱、筍、椎茸、生揚豆腐等をも細かく切り鍋に少量のバタ又はラードを熱し、右の肉と野菜を入れて能く煎り置き、一方にはメリケン粉を水でゆるく解き、塩少々を加へフライ鍋に火にかけ、杓子にて之を掬ひて流し、薄く広げ、其やゝ焼けた頃に、右の煎物を能き程置き、焼けたメリケン粉の皮を一方より摘み上げ、煎物の上にかぶせ渕を少し押し附け其儘皿に移します。<以上6月号>

 小谷さんが転載したのは2月号から8品全部、4月号から8品全部となります。読み比べますと、並べた順序もそのまま、原文を忠実に転載したことがわかりますが、そのためにちょっとした疑問が起こるのです。というのは、小谷さんの9番目になっている羊肉の味噌煮の書き出しは「同じ肉を味噌に擂り茹で汁にて延ばし…」ですが、同じ肉ってなんだ、茹で汁ってなんの茹で汁かということです。
 これは、田中さんの連載の3月号にあり、第11法となっいてる肉の塊を葱か玉葱と茹でて塩味をつける白煮とその茹で汁を飛ばしたから生じる疑問なのです。まあ、迷うのは羊肉の味噌煮とその次の羊肉の漬し吸物ぐらいでしょうが、味噌煮はすぐ茹で汁がいるとわかるから女性なら茹で肉と見当が付くでしょうし、吸い物にもし生肉を入れても、薄切りならすぐ煮えて格好がついたと思われるので、このままでも困らなかったじゃないかな。はっはっは。
  

参考文献
上記(13)の出典は大正9年3月22日付読売新聞朝刊7面=ヨミダス歴史館、 資料その4は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」6巻4号48ページ、大正9年4月、中央畜産会=原本、 (14)は大正8年2月4日付都新聞朝刊5面=マイクロフィルム、 (15)は同年3月19日付国民新聞朝刊5面、同、 資料その5(1)は大正8年3月19日付都新聞朝刊5面、同、 同(2)は同日付中外商業新報朝刊5面、同、 同(3)は大正8年3月25日付満洲日日新聞朝刊7面、同、 (16)の出典は中央畜産会編「畜産」1巻1号56ページ、田中宏「田中式豚料理」より、大正4年10月、中央畜産会=原本、 (17)は大正8年3月20日付読売新聞2面=マイクロフィルム、 (18)と(19)は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」5巻4号62ページ、「畜産工芸博覧会」より、大正8年4月、中央畜産会=原本、 (20)は大正8年5月23日付函館毎日新聞朝刊1面=マイクロフィルム、 資料その6は中央畜産会編「畜産」5巻2号49ページ、大正9年2月、同3号52ページ、同年3月、中央畜産会編「畜産と工芸<改題>」5巻4号103ページ、同年4月、同5号65ページ、同年5月、同6号62ページ、同年6月、何れも中央畜産会発行の原本、


 小谷さんは、酢の物、和え物、煮物、揚げ物は同工異曲とみたんでしょうね。小谷さんの「羊と山羊」第4版は大正8年8月15日に全部改訂大増補となっていますので、4月号までで見切ったか、6月号まで確かめ、スピード処理したか。いまとなってはわかりません。
 それから、小谷さんの第5版にメリノ種の肉は臭いがやや強いという注が加えられていますが、田中さんの2月号の連載の書き出しに、羊肉はうまいものだ、羊毛専用のメリノー種はやや臭いが強いけど、ほかの羊はそうでもないとありますので、ここで注を付けることを思いついたかも知れませんがね、これも推定の域を出ません。
 それから、調べているうちに、やはり中央畜産会が大正7年に出した「豚加工」という本にぶつかりました。その末尾に日本料理と断って8品の調理法が載っていて、豚の角煮、豚の刺身、附焼と並び、その附焼の最後にカッコして、以下田中式豚肉調理法によると書いてあるんです。となると、附焼は田中式でないともとれますが、少なくともその後ろにある塩焼き、味噌焼き、照り串焼き、軽揚げ、肉まんじゅうの5品は田中式といえます。
 その中で、味噌焼きと軽揚げは連載された羊肉料理にもありますから、読み比べてみますと、毎月1ページに詰め込んだ羊肉料理と違い、とても丁寧に解説しているという点が異なるぐらいで、まあ、田中さんにすれば換骨奪胎というほどのこともなかったかも知れません。
 さてと、これまで和風の羊肉料理の話ばかりしてきました。そのころは和風の料理しか考えられなかったのか。なにか忘れていませんか。西洋料理では羊肉を使わないわけがない。札幌農学校の寮でカレーライスが出たように当然、欧米からも羊肉料理が入っているはずですよね。大正8年に田中さんは、羊肉の調理は「従來西洋料理として多少用ゐられ居れども」といっていますが、その前はどの程度の料理があったか。それから転用できなかったのか、まったりカレーがあるんだから、スープカレーがあってもいいじゃないかというアイデアは出なかったものか。ところが、北大図書館で羊肉料理、羊肉で検索してもゼロ、札幌市立は新しい本が1冊出てくるだけです。仕方がない、古本屋さん回りです。
 探してみましたら、宇野弥太郎著「西洋料理法大全」という本が見つかりました。「羊と山羊」の初版発行とほぼ同じ、明治45年4月発行です。東京の大倉書店が出したそれは本文803ページの分厚い本で、新本で3円25銭だったものが、90年たったら1万3000円です。私はジンパ学のパイオニアとして、1円も値切らず、にっこり笑ってその本を買いましたねえ。武士ばかりでなく、学者も食わねど高楊枝。である以上は、諸君のその一端を拝ませたいと思いまして、スキャナーで取り込み、引用させてもらいました。
 前にもチラッといったように、明治時代の本の活字は、いまの活字と字体がかなり違います。たとえば、ひらがななんか、いまより遙かに毛筆体の度合いが強いといいますが、なんでもなさそう字でもOCRソフトの辞書に当てはまらないのでしょう。かなり誤読するので、世話が焼けます。その苦心作が2枚目の資料その4です。上半分の料理名の後ろに付いている数字は書いてあるページの番号です。こうでもしないと、参考文献の囲みが大きくなりすぎるのですよ。これも著作権を尊重する立場からですから、我慢して見てください。
 本の扉の次に著者宇野さんの写真があります。立派な八の字ひげをはやし、モーニングみたいな服を着て、シェフというより旧制中学校の校長さんみたいです。調べましたら、この宇野さん、有名な外交官小村寿太郎に仕え、駐米公使として渡米したときから死ぬまでの13年間、身のまわりの世話をした。恰幅がよいので、主従で京都の桂離宮の拝観にいったら「皇宮警手は恭しく宇野を迎え、父を閑却したので、父は苦笑し、宇野は赤面する珍劇を演じたことさえある」(21)と小村の二男捷治氏が思い出に書いているくらいです。
 「料理献立法は云ふも更なり、苟も西洋食卓に上るべき飲食品は、菓子、酒の合せ方より麺麭の製造法に至るまで、料理人として心得ざるべからざる必要事項は細大漏さず出来得る丈豊富な研究材料を叙説したり。されば職に西洋料理を営む者は勿論、家庭に在りても必要この上なき庖厨の重宝といふべし」(22)と大見得を切っているだけあって、扱っている範囲は本当に広く、しかも学のない人でも読めるよう漢字は全部ルビつきです。
 捷治氏によると、宇野さんは「相当な家の生れに拘らず少年の時家を飛び出し殆ど世界中を歩き廻った。習い覚えたものは各国の料理だった。幾人かの外交官に仕え、目に一丁字もない男に拘らず漢語は自由自在に駆便し、五、六カ国の外国語をも口にした。百人の宴会も立どころに弁ずるという、まことに面白い人物だったが、これが父の身の廻り万端を十数年にわたって世話したのだ。かれは父の死後は再び主人を取らず、女子高師、その他に料理の講師となり、或はボーイコックの口入れ稼業をやって一生を終った。」(23)。目に一丁字もないとは、字が読めない。となれば、この本は誰かが宇野さんの口述を書き留めたものということになりますか。また「かれは他の奉公人に対して常にキングの如く振舞い、出入商人その他を慄え上らせていた程の我儘者だったが、父だけは畏敬して、一喝に逢うと猫の前の鼠の如くに縮み上るのを常とし『大臣ほどの御主人は何処へ行ってもありません』と常に口にしていた。」(24)そうで、変わった豪傑だったことは確かですよね。
 その中のマトン、この本ではマットンと明治英語ですが、その部分を抜き出しました。第4節がミートとなっていて、ビーフ、ビーフステーキ、マトン、ベール(子牛)、ポーク、チキンの順に並べてあります。マットンはポークより上位というのは、宇野さんのころになると、もう西洋料理のランクを完全に理解していたということなんでなんでしょう。羊肉の章で紹介しているのはここに挙げた14種ですが、これ以外にも、マットンプロス(羊肉の肉湯)、スチュード・キドネース(腎臓のシチュー)、エ・リチョウフ・オフ・コールド・マットンなど羊を使った料理が取り上げています。エ・リチョウフ・オフ・コールド・マットンは訳が書かれていないのですが、作り方を読みますと、羊肉でラーメンのチャーシューのような薄片を作り、それを熱い皿に乗せたトーストの上に乗せて、熱い煮汁を掛けるというのですから、羊肉の煮汁に浮かぶオープンサンドですね。
 はい、資料その7の下の一文は羊肉調理の心得、その次は焼き方説明の例です。みんな尺貫法表示ですから、皆さんにはわかりにくいでしょうね。1貫が3.75キログラム、100匁はその10分の1ですから、120匁は400グラム強になりますか。私ぐらいの年になると、とてもそんなに食べられませんよ。

 資料その7

三 マットン(羊の肉)     172ページ

第一 ロースト、レッグ、オフ、マットン(羊の脚をローストしたもの) 173ページ
第二 ロースト、ロイン、オフ、マットン 174ページ
第三 ロースト、ロイン、オフ、マットン(鞍下の肉のロースしたもの) 174ページ
第四 ロールド、ロイン(クラウン、ロースト) 175ページ
第五 ショルダー、オフ、マットン、スタッフド 175ページ
第六 ボイルド、マットン(羊の肉の湯煮したもの) 177ページ
第七 ケーバー、ソース 177ページ
第八 ラゴート、オフ、マットン、オワァ、ラムス 178ページ
第九 ラゴート、オフ、コールド、ボイルド、マットン 179ページ
第一〇 アリッシ、スチュー 180ページ
第一一 マットン、チョップ 181ページ
第一二 チョップ、イン、ペーパー、ケース 182ページ
第一三 チョップ、アラ、メインテノン 183ページ
第一四 スプリング、ラム 184ページ


三 マットン(羊の肉)

 羊を用ふる前、数日間つるし置くべし。脚は()るとも炙るとも何れにてもよし、鞍下の肉は通常炙き、肋肉(ろくにく)も焼き、()して(くび)はスチューになす、スチューにする外羊を料理するは稀なり、脚か鞍下の肉を焙たものは只儀式ある食事に出し、羊の形を付けるなり、羊の強い味は、脂の中にある、其れが為め外側から脂の部分を取り去り、而して爐の中にて其れを焼く時には鍋の中の架(たな)の上に置く、然らば脂の中にて料理しないで出來るなり。
 如何なる野菜を、如何な肉に付けて出すかは経験に依てよく知ることを得、野菜の中にて蕪菁(かぶら)は羊の附合物としてあるなり。
 蕪菁、胡蘿蔔(にんじん)骰子(さいのめ)に切り、別々に煠で、其れから混ぜ、ホワイトソースにて被ふ。
 (やい)た羊にはクリームの中に漬け、味付けた麺麭粉(ぱんこ)を付け蕪菁を、焼いて付ける。此れは露西亜の料理なり。バナナを貳ツに切り、卵を付け、麺麭粉を付け、而してコロッケの様に揚げて炙た羊に付ける時は非常によし。

第一 ロースト、レッグオフ、マットン

 時間は百二十匁に付(じゅう)分間(半焼(はんやけ))百二十匁に付拾五分間((ゆっ)くりとよく作る)
 骨を短かく切り、熱き爐の中にて二十分間程置き、其れから熱湯をコップに壱杯加へ、絶へず打つ、半焼にするには、百二十匁に拾分間要す。
 出す用意の出來た時には、骨を紙の(ちぢ)らしたものか、又はパセリの葉にて被ふ。

第二 ロースト、ロイン、オフ、マットン

 腰部の關節を全く砕く、而うすると肉を切るに困難はなし。脂と腎臓を取り去る百二十匁に付き九分間要し、前のレッグと同様にして炙る。

第三 ロースト、サッドル、オフ、マットン

 鞍下の肉は動物の()なり。若しも裂いたならば、ロインと云ひ、切つた時にはチョップをなす。炙た肉には、数多くの肉は付けざるなり、其れ故に大きく切ることが必要なり。皮は上の方から取り、又脂と腎臓は下の側から取り去るなり。上の方にある脂は、一寸軽く突きさして切り、飾りを作る爲め、少し(ばか)り上の方に持ち上げる。ピラピラするものは下にまるめ、而して形を、圓形に格好よく縛る。若しも大きなサッドル(鞍下の肉)を用ふるならば、尾は付けて置く。強き爐の中にて料理し、絶えず脂を塗り、而して半焼に料理し、肉百二十匁に付き九分間要するなり。此の肉を切り取るは、サッドルの長きものを薄片に切り、而して脊の骨に揃ふて切る。其れからナイフを下の方に添ふて、骨から別々に肉片を分ける。上側を切り取った後は、サッドルを裏返して成す而して腰部の軟肉の下側にあるものも、同じ方法にて切る。
 乾葡萄のゼリーを、羊のサッドルに付けて出す。

 この説明の半焼けは、ステーキならレアという焼き方でしょうね。カブを焼いたものを付けるなんて、あんまり食べたいと思いませんが、明治の紳士淑女はほほう、これがロシア料理なのかね、とかロシアじゃこうやってカブを頂くのざんすかなどといいながら、ナイフで薄切りにしてガリガリというか、ザクザクというか、噛みしめていたんでしょう。多分、多分ですよ、畜産工藝博覧会に出店した精養軒なんかに行けば、こういう西洋料理で羊が食べられたんでしょう。だって羊肉のチャップ、シツレツ、スチウのほかに、今回特に日本料理を売っていると「畜産」が書いているからです。まだまだ西洋料理は庶民には高嶺の花だったのでしょう。
 それから、この本には、たまたま日本料理研究会の実習料理テキストというB4の紙が挟まっていました。それを見ますと、昭和11年3月に神田明神境内の開華楼という店で開いたものとわかります。師範和泉兼吉さんと山極軍平さんがフルコースの和食献立を指導しています。3月なのに水菓子にいちごが出ているのですから、いまなら1人前2万円は間違いなく取られるレベルでしょう。
 宇野先生はソロソロと料理せよというのが口癖だったのか、あちこちに出てきます。肉をあぶるマットン・チョップでは「強き火の上か下かにて炙く、炙器はソロソロと数を、十数える度毎に裏返す」(25)といった具合です。まあ、親切な書き方でラゴート・オフ・マットン・オワー・ラムスなんかでは、メリケン粉を炒め、羊肉の細切れと刻んだ玉葱、にんじんを加え「総べてのものが褐色になる迄燃やさぬ様に注意して煮る」(26)というのは、笑えますね。
 農商務省種畜場長を勤めた長崎発生は新渡戸さんらと同じく羊毛輸入防遏、増える一方の羊毛輸入を抑えるためには緬羊増殖と羊肉消費を図らなければならんと早くから唱えました。そのために長崎は大正3年の「東京経済雑誌」に「本邦毛織業の趨勢と育羊の奨励」という長い論文と「敢えて羊肉を勧む(27)」を書いてます。資料その8はそのころの日本人に羊肉のうまさを伝えようと長崎が苦心して書いた「敢えて羊肉を勧む」からです。

 資料その8

羊肉の香氣 斯様に牛豚に優る良美の肉にして一種の香氣か
ある、初めて之を食ふものは往々之を悪臭とか、分解腐敗の
臭氣とすれど、一度其味に慣るれば其特殊の香氣に打たれ、
一層の美味を増すのである。欧米及び支那に於て盛に之を賞
味さるが我国にては外人及び外國帰朝者の饗宴の珍味として
稀に食卓に上ほすに過ぎない。

羊肉店 されど果して羊肉店なきか、文化の進歩は更に羊肉
の増加を見るのである。現に横濱に於ては横濱の代官坂の丹
後屋を始め山下町の飯田屋真砂町の倉田屋は主として羊肉販
売に勉めてゐる。東京に於ては赤坂田町の松弁肉店を始めと
し、芝の黄川田、佐久間町の竹内、烏森町の徳増などは均し
く羊肉販売に勉めんとしてゐる。なほ帝國ホテル、精養軒、
東洋軒に行けば何時にても羊肉料理を提洪せしむる事が出來
る。そして神戸、長崎の如き開港場にては羊肉を鬻がざる所
には肉類の売行の悪しき状態である。成程羊肉は英語にては
「マツトン」と云ふてゐる。之は文學語としては売春婦と云ふ
別名とせられてゐる。我國開港地にありては外人多く住居し
頻りに羊肉を賞美するより本邦婦女子にして外妾となるもの
を世人は共に訳して羅紗綿と呼ぶに至りたのであらう。羊と
は山羊の事でなく其毛羅紗綿たる緬羊を指すのである。

羊肉の調理 羊肉の調理も亦他の肉類と異る所はないが、我
國從來の調理は加味濃厚に失して常食に適せない、凡そ肉類
は塩を用ひて淡白とせねば其真味を得ないもので、食膳に上
すにも冷却、加熱、脱臭、変味、悉く自由自在にして、普通西
洋料理法には腿肉は「ロース」として蒸焼とし、肋骨に附した
る背肉は焼肉としては所謂「マツトン、チヤプ」とする。其他の
筋肉は熟煮即「シチユー」となし、舌を煮ては酢漬となし、脳
肝は「フライ」とし其他百種の調理に用ゆるので、之を要する
に口当りを目的としては調理し、消化と滋養に意を用ひねば
ならぬ。凡そ胃膓の健全を保つには食物の規律のある摂取で
ある。夫故に営養完全に行るゝときは常に一定の体重を維持
し精神は爽快を極める訳で、調理法の如何は衛生上至大の關
係を有するのである。

 長崎は宇野の「西洋料理大膳」を熟読した。宇野が牛肉料理22品にソロソロを19回も乱発し、羊肉の料理で2回使ったせいに違いないのですが、そのソロソロが長崎に乗り移ったようで、この3年後に長崎が書いた「鶏と羊と山羊」の「第三章 羊肉の調理」では、なんと7回もソロソロを書いたんですから、ご立派というしかない。
 まず一般論として「斯うして肉料理に注意すべき事は、気長にソロ/\と料理をして、或は肉の繊維を破り、或は非常に柔らかにする事である。また肉を扱ふには、最初少しの間は高熱度を与へ漸次熱度を下げ、ソロ/\と料理を続ける。(28)」と2回ね。
 それから「炙器具はソロソロと数を十数へる度毎に裏返す(298)」と1回、「之れにソロ/\とストツクを加へ(30)」で2回、「之を三十分間程もソロ/\と煮る(31)」で3回、「一時間もソロ/\と煮る(32)」で4回、5回目は「バターを大匙に一杯ソロ/\と加へる(33)」と使ってました。
 この第3章の長さは22ページなんですがね、長崎が紹介したのは全部西洋料理。西洋料理ではないレシピは中央畜産会が第一回総会で展示した羊肉家庭料理20数種の中のね、すき焼きと煮こごり、それに蒙古料理と呼んだ羊肉の水煮、南京料理と称する羊肉入りうどんの4品だけでした。
 これは羊肉は西洋料理に適した食材だという長崎の判断と、和風の料理法はこうだと書いた本がなかったせいでしょう。豚肉料理の勢いを駆って田中宏が、次は羊肉と羊肉料理50種を発表したのは、もう2年後の未年、大正8年でしたからね。小谷さんはそれで再版以降の「羊と山羊」に田中レシピを転載できたのです。
  

参考文献
上記(21)の出典は犬養健ほか著「父の映像」161ページ、小村捷治「小村寿太郎」より、昭和63年3月、筑摩書房=原本、 (23)と(24)は同154ページ、同、 (22)は宇野弥太郎著「西洋料理大全」凡例、明治45年4月、大倉書店=原本、 資料その7は同172ページ、同、 (25)は同152ページ、同、 (26)は同179ページ、同、 (27)と資料その8は東京経済雑誌社編「東京経済雑誌」1755号25ページ、大正3年6月27日発行、東京経済雑誌社=マイクロフィルム、 (28)は長崎発生著「鶏と羊と山羊」299ページ、大正6年2月、国民書院=近デジ本、 (29)は同304ページ、 (2)は同307ページ、 (31)は同309ページ、 (32)は同310ページ、 (33)は同313ページ

 はい、次は資料その9です。これは明治10年に出た文部省百科全書という本の「食物製方」という部分から羊肉料理を抜き出したものです。
 この文部省百科全書の復刻版は、北大図書館の北分館にありますが、国会図書館の近代デジタルライブラリーにも、丸善が抄訳して明治17年から4冊に分けて出版した百科全書がありまして、インターネット上でだれでも読めるようになっています。この近代デジタルライブラリーはジンパ学では大いに活用させてもらっていますから、皆さんも明治の文献が入り用になったときは「近デジ」になかったかなと思い出してください。
 序文に「此ノ書名ヲ『インフォルメーション、フォル、ゼ、ピープル』ト云フ英人ウィルレム、チャンプル及ロベルト、チャンプル氏嘗テ地球上ノ事物ニ就キテ其ノ大旨ヲ人ニ喩サンカ為ニ択セシ所ナリ」(34)とありますが、いうなれば百科事典のはしりですね。
 その第2冊、中巻に小林義直と関藤成緒という人が訳した「食物製方」があります。スコットランド風の料理が中心なのは、原書を書いたチャンプルさんたちがスコットランド出身だったのでしょうかね。肉料理法が載っていまして、当然羊肉の調理も書いてあります。羊肉羮、羊臓調理、綿羊ハリコットなどという煮物もあるのですが、ここでは焼いたり炙ったりするところを抜き出してあります。ちょっと慣れないと難しい漢字と片仮名交じり文は読みにくいけれど、飛ばし飛ばしでも目を通してみてください。

資料その9

焼綿羊肉法(ローストモツトン) 綿羊ノ焼調ニ供スヘキ部ハ脚肩及ヒ腰ナリ其肉片ハ綿羊肉ヲ煮ルヨリ長キヲ要ス炭火ハ鮮明ニシテ活発ナルヘク一脚ヲ焼クニ二時間ヲ費スヘシ此部及ヒ他部ヲ焼クニ費ス時間ハ炭火ノ強弱及ヒ肉ノ軽重ニ由リテ斟酌ナカルヘカラス是レ唯々注意シテ学フヘキ者トス綿羊肉ハ牛肉ニ於ルガ如ク固有ノ滴瀝ヲ以テ塗擦し其肉汁モ亦之ト同法ニテ製スヘシ(418ページ)


焼羊仔肉法(ローストラム) 羊仔モ亦善ク焼調スルヲ要ス通常其全体ヲ四分シテ調理ス其諸部殊ニ脊骨ハ屠者又ハ調理人ニ由リテ善ク関節ヲ脱シ或ハ切断シ且前四半ノ肋骨ハ中央ヨリ横析シテ調理刀ノ切断ヲ便スヘシ之ヲ焼ク時ハ己ニ記載セル如ク屡々其固ク沸湯及ヒ食塩ニ由リテ調製ス蘇格蘭<スコットランド>ニ於テ屡々頗ル美味ナル填質ヲ以テ羊仔ニ填実スルコトアリ其方凝脂葱及ヒ少許ノ早芹菜葉ヲ細剉燕麦粉一握、胡椒少許及ヒ極少許ノ食塩ヲ混和シテ填質ヲ製シ之ヲ其腰肉ノ弛縦皮内ニ孔ヲ穿チテ上ノ如ク填実シテ更ニ其身ヲ結締シ焼クナリ羊仔肉ハ薄荷糝<米篇に参>汁ト共ニ喫スルナリ(419ページ)


羊肉片ヲ炙ルコト 羊肉片ハ後腰ノ中部ヨリ切リ取リ其厚サハ牛肉片ノ如クスベシ<別記で厚さは1インチ〜1インチ4分の3と指示>之ヲ炙燔スルモ亦牛肉片ト同クシテ均シキ注意ヲ要ス但之ヲ調理スルニ些少ノ牛酪ヲ用ヰルベカラズ其肉片自ラ多分ノ脂膏ヲ備フレバナリ只少許ノ塩ヲ糝<米篇に参>布シテ直ニ膳ニ供ス調味トシテケッチヨップヲ用ヰルモ可ナリ(423ページ)


羊肉片ヲ油煎ニスルコト 此羊肉片ハ猶ホ之ヲ炙ルトキト同様ニ切リ凡テ炙牛肉ノ指示方に従ヒテ調製スベシ此肉片ヨリ流出スル脂油ハ此肉ト共ニ用ヰルベカラズ其肉汁ヲ調和スル前ニ都テ之ヲ匕ヒ取ルベシ(424ページ)


仔羊肉ヲ油煎ニスルコト 羊仔肉ハ羊肉ト同ク無味ヲ素煎スベク或ハ犢肉ト同ク鶏卵及ヒ麺包屑ヲ加ヘテ調味スベハ但シ早芹菜ハ用ヰズ其鍋ニ就キ肉汁ヲ製スルハ猶ホ油煎牛肉ノ如クニナスベシ(同)


羊仔ノ頭及ヒ臓腑ヲ調理スルコト 羊仔頭ハ皮ヲ剥ギタルヲ求ベシ頸ノ附着シタル頭ヲ取リ前額ヲ裂キ脳髄ヲ出シ暫ク之ヲ側ニ置キ而シテ能ク注意シテ其頭ヲ洗ヒ鼻ヲ摩シテ其泥ヲ除去シ眼球ヲ取リ出イナリ此ノ如ク洗滌シテ心臓肺臓ト共ニ其頭ヲ煮ルコト凡ソ一時十五分間ニシテ之ヲ出シ綿布ヲ以テ乾燥ス乃チ能ク混砕セル鶏卵ヲ其上ニ塗沫シ麺包屑、胡椒、塩ヲ糝<米篇に参>布シ又少許ノ牛酪ヲ塗リ磁盆ニ納レテ烈火前ニ置キ薄棕色タラシム肺臓、心臓及ヒ肝臓ノ一部ヲ葱、早芹菜、胡椒、塩、些少ノ花粉、一羮匙ノケッチアップト共ニ縷切シ都テ之ヲ混和シ羊仔頭ヲ煑肉汁ヲ作リタル汁ヲ加ヘテ半時間火ノ側ラニ置キ徐ニ沸騰セシム別ニ先キノ脳髄ヲ取リ二箇ノ鶏卵二羮匙ノ花粉、縷切シタル早芹菜ノ鮮芽、少許ノ胡椒、塩及ヒ二三羮匙ノ牛乳トヲ混和シテ搗砕シ捜粉ヲ製シ油煎鍋ニ少許ノ豕汕或ハ滴瀝脂ヲ入レ其捜粉ヲ小団乾餻<食篇に羔>トナシテ之ヲ熬リ反覆シテ其両面ヲ薄棕色トス又肝臓ノ残余ヲ薄片ニ切リ之ニ花粉ヲ糝<米篇に参>布シテ熬リ乃チ前ノ仔羊頭ヲ磁盆上ニ載セ其周辺ニ前ニ製セシ縷切片ヲ置キ肝臓ノ薄片ト脳乾餻ト代々其切片上ニ載スベシ是レ佳美ニシテ甘旨ナル調理ナリ然レトモ厨人タルモノハ此諸品ヲ食膳ニ供スル時ニ諸部ヲ均シク温暖ニ製スルコトヲ注意セザルベカラズ(430ページ)

  

参考文献
上記(34)の出典はウヰルレム・チャンブル,ロベルト・チャンブル編、文部省摘訳「百科全書」上巻「例言」1ページ、明治17年1月、丸善、資料その9は小林義直・関藤成緒訳「食物製方」同中巻で掲載ページ番号は各項末尾=近デジ原本


 最後の羊頭の料理はおまけですよ。早芹菜はいまでいうパセリ、滴瀝はグレービー、羮匙はティースプーンです。豕汕はわかりませんが、ラードではないでしょうか。ところでこれを読んで皆さん、料理のやり方が頭に浮かびますか。
 この食物製法方を訳した小林義直は医学書などをたくさん訳したり書いたりした医師、関藤成緒は秋田県師範学校長などを務めた学者でありまして、小林さんは弘化元年生まれで全書を訳したときは30代、関藤さんはそれより2つ若いという明治の男性たちですから、包丁を持ったこともなく、4つ足といえば牛鍋ぐらいしか食べたことがなくて、訳すのに一苦労したのではないでしょうかね。
 しかし、それは学者の世界のことであって、実際に料理を作るコックの世界では、遙かに進んでいたらしいのです。というのは「舶来事物起源事典」に明治18年の鹿鳴館の夜会のメニューが紹介されています。6月3日のそれに出席した鍋島直大夫妻が残したものだそうですが、スープから始まり、シャーベットで口直しした後「羊股肉野菜合製  Gigot de mouton à la Hongroise.」が出ています(35)。「ラルース・フランス料理小事典」で引くと、マトンの腿肉ハンガリー風となりますか。「ハンガリー風(à la Hongroise)と呼ばれる料理の特徴はパプリカで調味し、クリームを加えること」で、羊肉にジャガ芋とカリフラワーを添える。肉を切り出す大きさで芋の調理法が変わる(36)ようですが、ともあれフランス語添えでメニューが書けるような、できるシェフがいたらしいのです。そうした世界にいたのですから宇野さんの本は煮たり焼いたりする時間などが具体的で、いかにも厨房で羊料理を十分にこなしたベテランぶりが感じられますね。そのほかに百科全書と宇野さんの間におよそ30年の時間差があることを忘れてはなりません。その30年ほどの間に日本人がさまざまな肉料理をマスターし、そのうまさを覚えたという違いが大きいと思いませんか。
 国会図書館の近代デジタルライブラリーでは閲覧時間の制限がありませんから、小林・関藤組の明治17年から巨匠の宇野さんの明治45年までの間に、羊肉料理を書いた本を探してみましたら3冊もありましたね。年次順にそれを紹介したのが、資料その10なんです。

資料その10

◇明治31年 羊肉の煎煑
羊の肉も、犢肉、牛肉等とかはること無し。但し、これに加ふる所の野菜は、茸類、筍などをよしとす。


◇明治36年 羊のロース
お登和嬢は新らしき皿を客の前に出し「大原さん、是れは羊のロースですよ、羊はお珍らしう御座いませう」と大原の悦ぶが何よりの楽み、果して大原珍らしそうに「お登和さん、是れは何うしたのです」お登和嬢「それは羊の腿を二時間半計りロースにして、ジヤガ芋と一緒にロースにして、薄荷のソースをかけたのです、薄荷ソースは酢を十杯に砂糖二杯に薄荷の刻んだのを四杯入れて混ぜた冷いソースです」大原「実に何うも今日の御馳走で三年も生延びる様です、家に居て例の塩から料理計り食べさせられては溜まりませんから子」と思はず出でし愚痴の言葉を門外の人は如何に聴きけむ、


◇明治41年 一〇二 脳味噌のフライ(フライ、ブレーン)
 牛、犢、羊何に限りません、此料理は薬用として用ひ、又馳走料理の一としてあります、先づ、脳味噌をザツト塩湯煮にして薄い膜を剥いて薄く切ります、それへ塩、胡椒をしてメリケン粉を付け、玉子の黄味へくるみ、パン粉を塗ぶしてラードかヘットで揚げます。

一〇三 舌のボイルド(ボイルド、タン)
 舌は犢か羊が上等で豚の舌も牛の様に料理するが其の味は少し劣ります、舌には乾したのがありますから是は前の晩から水に浸け、生のは其儘、塩で能く揉んでヌル/\を除つて洗い、深い鍋へ入れて、胡蘿蔔、蕪、玉葱等の野菜物を入れ強くない火で四時間程煮ます、湯煮上つた所を厚皮を剥いて再び鍋に入れて煮て置き、食事の際は玉子ソースとパセリなどを付合せとして出します。


◇明治42年 羊肉
◎羊の股のロース
肉を能く洗ひて食塩と胡椒とピメントとを擦り付けて二時間置き鍋に半杓の水を入れ汁をかけつゝストーブにて二三時間焼き肉をスライスに切り汁の脂を取りかけて出すなり

◎野獣の肉の如くつくりたる羊の股肉
羊の股肉を能く洗ひて食塩と胡椒とを付け熱き酢を二三度かけ其の酢に三日間漬け食塩と胡椒とを付け豚の脂を刺し大なる玉葱三個を細く切りて鍋に入れパアセリと人参一個と黒パンの皮を少許と前の酢を大匙に二杯入れ汁をかけながら柔に煮汁に饂飩粉を入れソップを注ぎて能く煮篩にて漉して肉と共に出すなり

◎煮たる羊の脊肉
羊の背肉を洗ひて食塩と胡椒とピメントとを付けて二時間置き溶したる豚の脂をかけパン粉を振りかけて鍋に入れ其のまゝに能く煮汁の脂を取りかけて出すなり

◎羊の脊肉
羊の背肉を能き程に切りて食塩を付け鍋にバタを溶して三四個の大なる玉葱を切りて入れ肉を其の中にて柔に煮汁が煮立ちて無なりたる時はソップを少し注ぎて能く煮然る後肉を鍋より出し大匙に二杯の饂飩粉を入れ酢を少しとソップを能き程に注ぎて肉を入れ尚一度煮たる後汁を篩にて漉し肉にかけて出すなり

  

参考文献
上記(35)の出典は富田仁著「舶来事物起源事典」364ページ、昭和62年12月、名著普及会=原本、 (36)は日高達太郎翻訳監修「ラルース・フランス料理小事典」192ページ、昭和51年12月、柴田書店=原本、 資料その10の◇明治31年は下田歌子「料理手引草」265ページ、明治31年6月、博文館、◇明治36年は村井弦斎著「食道楽 秋之巻」58ページ、明治36年12月、博文館、◇明治41年は赤坂女子講習会編「西洋料理法と献立」52ページ、相隣社、明41年6月、◇明治42年は東洋印刷編「西洋料理法」51ページ、明治42年8月、東洋印刷=いずれも近デジ本


 駒井さんは満鉄で働くこと7年、相当回数ジンギスカンを食べていたでしょうが、最初の方で説明したように羊肉の和風料理、西洋料理はあっても、大正8年ごろまでの本や雑誌に今の形のジンギスカンと思われるエスニックな羊肉料理が見あたらないようなのです。でも、どこかに書いてあるかも知れません。支那料理研究家山田政平によってジンギスカンがれっきとした支那料理として彼の名著「素人に出来る支那料理」を通じて広く世に紹介されるに至るには、大正15年まで待たねばなりませんでした。
 次回は大学祭にぶつかりますから休講。私は、その間に新しい資料捜しをします。去年の大学祭では、ジンギスカンの模擬店が経済学部の近くに出ていましたが、ことしもやるんでしょうね。その次ではジンギスカンにまつわる通説を検討しましょう。終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)