いい加減な通説の丸飲みは遺憾、いかん

 大学祭でジンギスカンの模擬店の前を通りましたので、看板を見たら羆亭という店でした。プログラムにはひぐま亭とひらがなで書いてありまして、どっちが正しいのかな。店番の学生に聞いたら、クマ研の店でもう20年も同じ場所でやっているそうです。ジンギスカンは500円、定山渓で取ったギョウジャニンニク入り餃子が200円。餃子は満洲ではよく食べていまして、貧乏人はそば粉の皮のものを食べていましたね。
 きょうは通説について検討します。gooの大辞林でみますと、通説には「世間に広く通用している説」とあります。平成15年は未年でしたが、それにちなんで北海道新聞が1月に連載した記事「探偵団がたどるジンギスカン物語」でも取り上げた代表的な通説を示しましょう。
 いまスライドで写しているのは、その連載の3回目の「ルーツを探る」の一部です。北海道新聞の渡辺創記者が「道立中央農試(空知管内長沼町)にジンギスカン料理の権威がいる。高石啓一研究主査(五九)だ」と訪ねていき、高石さんから教わったルーツとして書いた記事の引用ですよ。

 では、ジンギスカンはだれがいつ考えたのか。「命名者は札幌農学校出身で、満州国建国に深くかかわった駒井徳三氏でしょう。ジンギスカンの文献での初出は昭和六年(一九三一年)にさかのぼれる」と高石さん。
 日本軍の旧満州(現中国東北部)進出にからみ、身近だったコウヤンロウをヒントに日本人の口に合う羊肉料理が考えられる。そして義経伝説に連なるジンギスカンの名前が付けられた―。
 駒井氏が満州にちなんで名付けた娘の満洲野(ますの)さん=故人=も「父がジンギスカン鍋と命名した」と一九六三年発表のエッセーに書いている。
 孫で登山家の今井通子さん(六〇)=東京都世田谷区=は、祖父の豪快な姿をよく覚えている。「撃ったカモを腰にぶら下げて帰り、ごちそうしてくれた。温和さと野性味を併せ持つ人でした」。大陸的なロマン漂う命名をしたのもうなずける。

  

参考文献
出典は平成15年1月9日付北海道新聞朝刊札幌圏版=原本


   いきなりコウヤンロウという料理らしい名前が出てきて、わかりにくいかも知れませんが、この前段に、滝川市のラム料理店「ラ・ペコラ」の河内忠一さんに尋ね、モンゴルではもっぱら塩味で煮たシュウパウロウであり「羊肉を焼いた中華料理『コウヤンロウ』もあるが、ジンギスカンとはほど遠いという」(1)というくだりがあるのです。
 多分「ジンギスカン料理の権威」高石さんが語ることは、通説といって差し支えないと思われます。ですが「ジンギスカンの文献での初出は昭和六年」説の方は、何の本か、これだけではわかりかねますが、このジンパ学講座のトップページで示しているように、作家の里見クが1年早い昭和5年にですよ、志賀直哉と一緒に北京で食べた話を含む旅行記「満支一見」を時事新報で発表しているわけですから、ここではもっとさかのぼれる、違うと指摘するだけにとどめて駒井徳三命名説の根拠とする「満州野さん」が「一九六三年発表」の「エッセー」の方から吟味していきましょう。
 北大図書館、札幌市図書館には、ジンギスカンに関することを書いたいろいろな本があります。その1冊、さっぽろ文庫31「札幌食物誌」に、農学部の佐々木酉二教授が「札幌の食の系譜」を書き、ジンギスカンについて触れています。はい、スライドを見て下さい。ラーメンの話の次にあるので、他方という書き出しになっています。22年というのは昭和22年ですよ。はい、後ろの人、見えてますね。

 他方、二十二年ごろからジンギスカン鍋が流行し出した。元々は中国の焼羊肉(カオヤンロウ)でありジンギスカン鍋の名付親は満州国総務長官駒井徳三との説がある。月寒の種羊場で羊肉食を一般に勧めようとしたのが起こりで、昭和十一年合田正一が開いた狸小路六丁目の横綱がはじめだとも言われている。十一年の北海道大演習の時、八紘学院で財部、寺内、荒木ら陸海軍大将一〇人を集め栗林元二郎院長がジンギスカン宴を開いたのは間違いないので、この方が最初かと思われる。戦後はラーメンと並んでジンギスカン時代と言ってもよいほどである。

  

参考文献
上記(1)の出典は平成15年1月9日付北海道新聞朝刊札幌圏版=原本、札幌市教育委員会編「札幌食物誌」64ページ、佐々木酉二「札幌の食の系譜」、昭和59年12月、札幌市教育委員会=原本


 ここでも駒井徳三さんが出てきますが、その根拠はノータッチです。でも、この本が発行されたのが昭和59年ですから、佐々木先生はその11年前の昭和38年発表の「満洲野さんのエッセー」を読んでいるか、読んでいなくても駒井徳三命名説は耳に入っていたんでしょう。でも確証はないから、学者らしく「との説がある」と書いたと思われます。「との説がある」というのはうまいですね。でも現場主義のジンパ学としてはどうしても、そのエッセーを探さなければなりませんよね。片っぱしから見ていくうちに、いい手がかりがありました。
 それより先に、佐々木さんが自信ありげに書いてる八紘学院の栗林院長が開いたというジンギスカンの宴会について書いた新聞記事を探しました。札幌市中央図書館にある北海タイムスと小樽新聞のマイクロフィルムを調べましたら、北海タイムスには見あたらず小樽新聞にありました。この2つの新聞は激しいシェア争いをしており、小樽新聞の特ダネかと思ったのですが、もうひとつ東京日日新聞にも出ていましたので、北海タイムスは大将どもがジンギスカン食ったなんて下らんとボツにしたのでしょうね。
 最近のことですが、道内の某放送が出したお手軽郷土史本は、この八紘学院訪問を見落としていて、間違ったジンギスカンの歴史を書いているので、後日もう一度取り上げて吟味します。はい、記事の見出しは2段、写真なしのこの記事にはルビがついていますが、スライドには省いてあります。

将星ずらり、と
  八紘学院へ
    緬羊料理に舌つづみ

陸軍特別大演習の戦雲漸く濃く石狩平野を包む二日午前九時統監部御歴々本庄繁、奈良武次、阿部信行、川島義之、菱刈隆、鈴木孝雄の各陸軍大将に財部彪、大角岑生の各海軍大将に光行検事総長、高岡北大総長、岡田拓銀頭取、北大大槻博士外北大助教授等を交へた一行十数名は連れ立つて札幌市外豊平町月寒東北通りの八紘学院視察に出かけ折柄作業中の生徒の実習振を隈なく視察それより八紘学院職員生徒の手料理たる野趣たっぷりなジンギスカン料理緬羊料理に舌鼓を打ち大いに非常時日本を背負う気分を発揮それより生徒の相撲分列式を見て名残惜しげに午後三時半一同統監部に引き上げた

  

参考文献
出典は昭和11年10月3日付小樽新聞朝刊11面=マイクロフィルム


 佐々木先生は寺内、荒木という名前を挙げていますが、ここにはその2人の名がなくて大将は8人です。記事でわかるように、検事総長以下は名字だけなのに大将だけはフルネームで書かれています。それぐらい丁重な扱いをしているのですから、名前を落とすわけがないでしょう。つまり佐々木さんの寺内、荒木両大将と10人という記述は誤りになりますが、これまた八紘学院の記録と照らし合わせると、食い違っていない。どうも人数ははっきりしないところがあるんですね。また、佐々木さんは、栗林院長と書いていますが、院長ではありませんでした。大学の先生が資料に基づいて書いたように思われる事柄でも、頭からは信用できないということです。
 それから、これで見ますと「野趣たっぷりなジンギスカン料理緬羊料理」と、至極あっさりした説明です。これが本道で初めての「ジンギスカン宴」なら、こういう書き方はしないはずです。新聞は初物には弱い。北海道で初めてのことなんだから、もっと詳しく書けと書いた記者はデスクにぶっ飛ばされますよ。たれに漬け込んだ羊の肉を大きな鉄皿の上に乗せて焼いて食べるのだとかなんとか、そのたれはウナギのたれとは違う味だとか、もっと説明させられます。あっさり書きで済ませているということは、なにも初めてのことでもなし、ジンギスカン料理と書けばほとんどの読者はわかるという判断があったからといえます。
 ただ、いま見ると「ジンギスカン料理緬羊料理」という書き方が気になりますが、これはジンギスカンのほかに、羊肉のしゃぷしゃぶといった別の料理も食べたというより、ジンギスカン料理(緬羊料理)と説明したものと受け取るのが素直ではないかと思います。この昼食会は、実際には栗林さんが働きかけて開かれたのかも知れませんが、記事では全く無視されています。まあ、早い話がこの記事では、とても「この方が(道内におけるジンギスカン鍋を公式に食べた)最初かと思われる」ことはないということです。
 もっとあっさり書いた東京日日新聞の記事を見せましょう。本来は1行15字組みなのですが、小樽新聞のスライドと同じようにスライドに合わせてつなぎました。大方の読者が知っているから、わざわざジンギスカンは羊肉の料理だと書かなかったのですね。とても佐々木さんの八紘学院の会食が最初という見方はできません。

陸海軍の元老
 開拓学第一課
   八紘学院を視察

二日午前十時ころ
 荒木、菱刈、鈴木、安倍、奈良、大角、財部等の陸海軍各大将は日本で唯一つ大
 農組織の実際的な
修業学校である札幌郊外月寒の八 紘学院を見学に出かけたこの日は 高く晴れて月寒の平原を秋風は颯 颯と吹渡つてゐるこの雄大な風景 をバツクに八紘学院に着いた一行 はまづ同校で搾つた牛乳に咽喉を 潤し八紘学院長佐藤男爵、高岡北 大総長、栗林同学院教師等の説明 で学生の牧草刈り、トラクターに よる耕作等を視察したが牛や緬羊 の放牧場を見て大角海相は栗林教 師に
 「牛の中にも大将はあるか」と軍人らしい質問栗林氏「大将は必ず格闘するが勝
  つた牛が大将になるのです」の答へに大角大将は「これは面白い」と頗る感心
  の様子
道場見学二時間の後正午から同学 園で料理した成吉斯汗料理を粗朴 な野外会食所で舌鼓を打ちそれか ら同学院生徒の勇壮な相撲を見て 同三時宿舎に引き上げた

  

参考文献
出典は昭和11年10月3日付東京日日新聞12面、北樺版=マイクロフィルム


   さーてと、さきほどいいました、いい手がかりのことですが、それは札幌の茜会という女性グループが昭和59年に北海道教育社から出した「札幌の食 いまむかし」という本です。その中の「ジンギスカン鍋」の章は8ページもありまして、ジンパ学としてはありがたい情報がいくつも入っています。それを抜き出したしたのが、いまから配る資料の1ページ目の前半です。はい、後ろの人へ回して下さい。

資料その1

(1)「吉田博氏の『成吉思汗料理物語』(農家の友昭和五十一年)によると、ジンギスカン鍋の名称は、戦前に満鉄の公主嶺農事試験場で生まれたとあります。
 名付け親は当時、満鉄の調査部長で、後に満州国国務長官になった駒井徳三だといわれています。
 駒井の娘、藤蔭満州野さんは、昭和三十八年、道内の雑誌『月刊さっぽろ』に「父とジンギスカン」と題して次のような回想を寄せています。
 「満鉄に入社した父は、大正の初めに満州から蒙古地方を随分歩いたらしい。蒙古には大きな羊の放牧地帯があることを初めて知った。羊が蒙古人の生活にどんなに重要なものであるか気がついたそうである。羊肉は大正のころから日本人も食べ始めたといわれる。それをジンギスカン鍋と名付けたのが私の父自身であったらしい。父は名前をつけることが好きで(中略)ジンギスカン鍋も蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない」
 つまり、大正時代に入ってから満州に渡った日本人が、蒙古人の羊の丸焼きや水煮に啓蒙されて食べ出したわけです。
 ジンギスカン鍋は中国の「焼羊肉」(カオヤンロー)という炭火の上に渡した鉄板の上で薄切りにした羊肉を焼いて好みのたれと、薬味をつけてたべるものにヒントを得たものだといわれています。
 一方、釣谷猛(元月寒種羊場業務科長)の『月寒十五年』によると、北京の飯店料理である「高羊鍋(コウヤンロー)」を大正末期に持ち込んだといいます。釣谷は次のように書いています。
 「……松の木に足をかけ、煙がもうもうと立昇る中で食べるこの料理を、何とか日本の家庭に持ち込めないものかと苦心してきたが、大正十二年ごろになってコンロの上にロストル型の鉄板をのせて焼き、醤油・砂糖・酒・生姜といった日本趣味の味を活かしたタレを作ってみたら、案外いけるとして生まれたのが、月寒流成吉思汗鍋なのである」

(2)さらに昭和に入ると、種羊場の飼育主任、山田喜平技師は『緬羊と其の飼い方』の昭和六年版の中で焼物九種類・揚物六種類・煮物十二種類・内臓料理五種類……とさまざまなメニューを発表しています。その中でジンギスカン鍋と思われる調理法の解説に―
「羊肉は一分(三ミリ)ぐらいの厚さに切り、しょうゆ・酒・砂糖・七色トウガラシ.ショウガ.ネギ・ゴマ油少量を合わせた中に約三十分浸しておく。焦げつかぬよう金網にゴマ油を塗って、強火の七輪にかけ、つけ汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる」と載っています。

  

参考文献
上記(1)の出典は茜会編「札幌の食 いまむかし」22ページ、昭和59年11月、北海道教育社=原本、(2)も同24ページ


 この(1)は22ページから23ページ、(2)は24ページに載っています。特に(1)は2つも根拠らしい説を並べていますね。1つは吉田博さんの駒井徳三命名説を取り上げ、藤蔭満洲野さんの回想を付け加えて補強する形にしています。もう片方の釣谷猛さんの一文は、ジンギスカンの命名説ではなくて、食べ方についての回想であり、同列に論じるにくいのですが「月寒流成吉思汗鍋なのである」と名乗る以上、検討しなければなりません。
 それから重要なことは、藤蔭さんの引用文では「名付けた」とは明確に書いていないという点です。「なんとなくつけたのかも知れない」であるが、いつの間にか確定的になり、高石さんはそうはいわなかったのかも知れませんが、渡辺記者は「父がジンギスカン鍋と命名した」と受け取り、そう記事にしているのです。スライドで見たように「大陸的なロマン漂う命名をしたのもうなずける」と納得しちゃってましたね。道新は130万部ぐらい売れている道内一の新聞ですから、130万読者の何分の1かの読者はそうか、駒井徳三という人がジンギスカンという名前を付けてくれたのかと覚えてしまいますよね。何はなくとも江戸紫、この藤蔭エッセーは原文で確かめる必要があります。
 ところが北大図書館には、そうしたいわゆるタウン誌はないんですね。札幌市立図書館です。ところが、検索しますと、たった1冊しかないんです。財界さっぽろ社が出した昭和58年1月号しかないと出ます。毎月出していたはずですがと探してもらいましたら、まだ検索のデータに載っていない本があり、その中に昭和38年分があったのです。ただ、この雑誌は昭和38年3月号から「月刊さっぽろ」と改題しており、その前は「札幌百点」というタイトルで、藤蔭エッセーは「札幌百点」2月号に載っていたのです。駒井ところですが「月刊さっぽろ」ではありませんでした。細かいしゃれ、わかりましたか、はっはっは。
 藤蔭さんの「父とジンギスカン鍋」はジンパ学では極めて重大な史料なので、駒井徳三一代記のように長いそれを全文引用したいのですが、無断転載になりますから、必要最小限度より、ほんのわずか多めに引用させてもらいます。資料の1枚目の後半、資料その2ががそれです。それから藤蔭さんの名前の脇にカッコして藤蔭流分派家元・東京在住とあります。念のためにインターネットで検索してみますと、昭和42年に亡くなった花柳徳兵衛さんの追悼抄という作詞者として1件だけ引っかかってきます。藤蔭というのは踊りの芸名、本名は麻田です。

資料その2

(1) 満鉄に入社した父は、大正の始めに満州から、内蒙古、外蒙古と随分と歩いたらしい、満州には緬羊はあまりいないが蒙古には、大きな羊の放牧地帯があることを始めて知つた。
 父はこの羊の毛が割にお粗末で一頭から僅かな羊毛しか取れないので、その牧蓄主の蒙古人に「この羊では羊毛が僅かしか取れないから濠州やカナダから優秀な羊を買入れて、羊毛の改良をはかつたらどうか」と申入れた。するとその蒙古人は、即座に「その外国の羊の肉は、食べられるか」と質問した。
 若い父は緬羊を見れば、羊毛を取ることだけを念頭においていたので、この蒙古人の答えにはギヤフンとしたそうで、そこで始めて、羊が蒙古人の生活にどんなに重要なものであるかが気がついたそうである。こんなことがあつて羊肉は大正の頃から日本人も食べ始めたといわれる。
 それをジンギスカン鍋と名づけたのが、私の父自身であつたらしい。父は物に名前をつけることが好きで、今、静岡県の伊東にある一碧湖も昭和の初期に父が名前をつけた湖水で、その頃は寂しい沼であつたが、今は風光明美な名勝地となつた。また、これは私の一族に及ぶのでおこがましいけど、ミノフアーゲンという注射薬も父が名付親で、昭和十三、四年頃、私の妹の遼子の夫、宇都宮徳馬が製薬を始めた時に父が名前をつけ、これも呼名のリズムが良いせいか人の印象に残るらしい、ジンギスカン鍋も、蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない。


(2) 父のことを話せば、父が半生の情熱と心血をかかげた満州建国のことを書かなければならない。宮崎滔天の「三十三年之夢」より、もろく、満州国は建国十三年で崩懐してしまつた、しかし、北海道を訪ずね美しい月寒で、父が名づけたジンギスカン鍋は、いつまでもいつまでも、その美味は人に忘れられず永遠に残るであろう、娘として、子としてこんな嬉しいことはない。


(3)
    

  

参考文献
上記(1)の出典は「札幌百点」第5巻2号通巻36号16ページ、藤蔭満洲野「父とジンギスカン鍋」より、昭和38年2月、株式会社さっぽろ百点=原本、(2)と(3)も同18ページ、挿絵は右下隅のjinのサインから表紙の絵を担当していた伊藤仁画伯によるとみられる。

 小谷さんの本と違って、まったく存じ上げない藤蔭さんのエッセーについて引用として長めであることは認めますが、そうしないと、藤蔭さんの表現が正確に伝わらないと信じるからなのです。どうです。駒井さんが一碧湖、ミノファーゲンの命名はかなり確からしいとしても、ジンギスカンに関してはあくまで推測の域を出ていないといわざるを得ません。確かに父から聞いた、聞いた覚えがあるとは書いていません。父親の著書とか日記とかに基づいての主張、命名説ではないことがわかりますね。この素直な書き方から藤蔭さんが真正直なお方であったことは信じられるでしょう。
 藤蔭さんのエッセーは、駒井徳三さんが北大を出るまでの思想的遍歴と卒論に満洲大豆を取り上げ、満鐵、正しくは南満洲鉄道株式会社という満洲にあった鉄道会社に就職したところまでが前段にあり、それから(1)につながります。(1)と(2)の間には、子供だった藤蔭さんが駒井さんから蒙古旅行で狼の群れに襲われた話を聞かされた思い出が挟まります。
 (2)の後は、ジンギスカンと直接関係のない思い出です。藤蔭さんが駒井さんの奨めで明治大学の法科を出たこと、日本舞踊の専門家になりたいといったら本を書くよう奨められたので舞踊文化史をまとめたこと、病床で加茂儀一著「榎本武揚」を読みながらの最期であったことが書いてあります。
 藤蔭満洲野さんは舞踊史を書いたほどのしっかりした史観をお持ちの方であったのに「ジンギスカン鍋も、蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない」では、ちよっと身びいきに過ぎると思いませんか。国会図書館を検索しますと、昭和12年に東京の新陽社から出た麻田満洲野著「日本舞踊史」という本がありますから、うそをつく方ではないとは思いますがね。仮に駒井さんが命名好きで命名したといわれるのならば、どうやって広めたのか、そのプロセスの説明、根拠がほしいところですね。紙に書いて神棚に張っておく赤ん坊の命名とはわけが違います。いずれ満洲のことを調べて行けば、そのあたりはわかるのかも知れません。
 藤蔭さんの原文を読めば、茜会の引用が原文通りではなくて、少しですが、要約していることがわかりますね。それにしても、満洲野さんが「あったらしい」「かも知れない」と2度も断定を避けていながら、なぜか3回目に突然「父が名づけたジンギスカン鍋は、いつまでもいつまでも、その美味は人に忘れられず永遠に残るであろう、娘として、子としてこんな嬉しいことはない」と書いている。まったく変でしょう。このようにつじつまの合わないことを書いている点を指摘しておきましょう。書いているうちに、父親が懐かしくなり、感動してつい筆が滑ったのかも知れません。知れません―ですよ。
 駒井さんが「いいかい、これはお父さんがジンギスカン鍋と名付けた料理なんだよ、おいしいだろう」などと語りながら食べさせてくれた覚えがあるから、私の父が命名したのは本当なんだという回顧ではないのです。駒井さん自身が語ったものは一言もない、とても証言といえるものではないのですね。いや、命名したとは聞いていないという証言というべきでしょう。
 それから食べ方について何も触れていない点もおかしいですね。「羊肉は大正の頃から日本人も食べ始めたといわれる」から、いきなり「それをジンギスカン鍋と名付けた」という書き方では、蒙古人と同じように、煮て食べる食べ方でもジンギスカン鍋と名付けたことになりますよね。どういう料理にして食べ始めたのか、一切定義なしに「それをジンギスカン鍋」というのは乱暴でしょう。困りますね。里見さんの「満支一見」の挿絵は、すべて正宗得三郎という画家が描いたものでした。検索しますと、この人は正宗白鳥の弟で、二科会の大物なんですね。その絵は訳ありで今見せませんけれどね、北京の正陽楼という有名店では鍋を囲み、立って食べるしきたりであることがよくわかりますし、事実里見さんも志賀さんも立って焼き、立ち食いしたんですね。そういう本場の食べ方は、どう変えたのでしょうか。吉田さん、教えてよと言いたいなあ。
 駒井さんと満鉄地方部で同僚だった宮部一郎さん(明治45年農学部卒)は、駒井さんが「公主嶺農事試験場の設置を計画したり、世界的商品である大豆の品種改良と取り組んだり」「農地の獲得運動を続けていた」が「満鉄の勤務ぶりも旅行や欠勤の連続で、同僚たちも彼の行動が捕捉できないことがしばしばであった」(2)と書き残しています。いささかでも駒井さんが公主嶺農事試験場の設置に関係したことを取り上げて、駒井命名説を唱えた人もいますが、宮部さんたち一般職員には知られない特命事項で行動し「駒井君だけは重役並みの出勤簿御免であった」(3)そうですから、どの程度設置計画に参画したものか、だれも知らなかったのではないでしょうか。ましてや、皆と何度も鍋を囲んで「これをジンギスカン鍋と呼ぶことにしよう」なんて言い出す暇もなかったのではないでしょうか。
  

参考文献
上記(2)と(3)の出典は北海道大学東京同窓会編「クラーク精神と北大東京同窓会三十年の歩み」785ページ、宮部一郎「駒井徳三君の思い出」(蘭交会編「麦秋駒井徳三」より、昭和39年5月)=原本


 このように藤蔭さんの随想は、駒井命名説の決め手にはなりにくい。これだけの思い出話で駒井命名説を唱えるのは飛び過ぎですよ。
 そうなりますと、藤蔭さんのエッセーに頼って駒井命名説を唱える郷土史家吉田博さんはどう書いたのか―です。北大図書館を検索しますと、ありましたね。北海道農業改良普及協会が農家の皆さんが楽しく読める雑誌として発刊した「農家の友」正しくは「北海道農家の友」は、本館書庫の和雑誌と、開架閲覧室と農学部図書室書庫、それから廃棄処理済み図書として教育学部と4カ所にあります。廃棄処理済み分の年度を見ますと、本館書庫の分とだぶっていますので、廃棄されたのでしょう。吉田さんの記事が載っている昭和51年分は開架閲覧室にあることになっていましたが、実際には書庫にありました。
 これもあちこちに引用されるという意味で、藤蔭さんの随筆と並ぶ超重要な史料です。なるべく短く抜き出すのが引用の礼儀ではありますが、大事な記述が散在しているので、ばらばらに抽出すると理解しにくくなる恐れがあり、やむを得ず、またまた長めに引用させてもらいました。それが配った資料の2枚目です。「ダンと緬羊の結びつき」「羊肉利用の萌芽」「民間へ拡がる導火線」「食いつくされた緬羊」という見出しで4節に分かれています。藤蔭さんのエッセーを紹介した「羊肉利用の萌芽」と、ジンギスカン鍋の元祖、いや、私が間違いないと認めたわけではないのですよ。小菅桂子という研究者がまとめた「近代食文化年表」の昭和11年の項に「札幌にレストラン[横綱]が開店。ジンギスカン鍋の元祖」(4)と書いてあり、さっき見せた佐々木先生の書かれた通説ではたいてい登場する狸小路の横綱のお披露目を含む「民間に拡がる導火線」の2カ所を引用させてもらいましょう。

資料その3

 羊肉利用の萌芽

 日本人が羊肉を食べ出したのは、大正時代に入ってからであろう。そのころ満州に進出していた日本人が、蒙古人が羊の丸焼きや水煮にして大いに利用しているのに啓蒙されてのことである。日本人の嗜好に合うよう考え出した調理の方法は、満鉄の公主嶺農事試験場畜産部(緬羊が主体)であろう。現在に伝わる成吉思汗料理もそうである。この名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏。明治四四年の北大農経出身。卒業論文が「満州大豆論」で、札幌で生れた長女に「満州野(ますの)」と命名している。よほど満州に志を燃やしていたのであろう。後で満州国総務長官となって満州建国に活躍した。
 ジンギスカンはテムジンという蒙古の武将、後に元の太祖成吉思汗になった。後世、義経が北海道から大陸に渡って成吉思汗に生れ変ったと幻の伝説がつくられた。
 「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は物に名前をつけることが大好きで、ジンギスカン鍋とつけたのでしよう」と、満州野さんは「父とジンギスカン鍋」という一文を草している。
 農林省では月寒、滝川の試験場に、羊肉普及の目的でジンギスカン料理を取り入れた。月寒では大正六年ころから始めているが普及の効果はほとんどなかった。
 昭和初期のジンギスカン焼というのは、金網に胡麻油を塗って七輪にかけ焼いて食べた。炭火のなかに生松の枝を混ぜて燻し気味に焼くと一層風味がよいことの注意も記されている。
 このころになると、焼き物、揚げ物、煮物、内臓料理にいたるまで三十余種類の料理法が、農林省月寒種羊場の山田喜平技師(後の滝川種羊場長)によって詳細に紹介されている(緬羊と其の飼い方)羊肉料理の貴重なテキストブックであった。
 滝川種羊場では昭和九年以降熱心に普及をはかった。緬羊実習生という主に農家の主婦や娘さんが入所していた。紡毛やホームスパンが主な実習内容であったが、羊肉料理も色々教えた。戦後の農村の食生活改善の芽がここでひそやかに育っていた。

 民間へ拡がる導火線

 大正に入ってから輸入された品種は毛肉兼用のコリデール種だけに限られていた。だから肉の利用は毛と同様の重みがあった。月寒種羊場は道庁畜産課とタイアップして、民間消費の促進を策した。当時道庁の小家畜係長であった中西道彦さんはこう回想する。
 「芝生のある広い庭園のあるところを探し、円山電車終点にあった助川さんの別荘と中島の割烹、西ノ宮支店を候補に挙げて交渉したが応じてくれない。しかたなく繁華街の飲食店ということで狸小路六丁目、博品館デパートの隣りにあった横綱を口説いた。焼き鳥とおでんの店で、主人の合田正一さんははなしがよくわかるんで、なかなかのアイデアマン、係員の進藤久憲君が何回か足を運んで引受けてもらった。そして昭和一一年一一月一三日がジンギスカン鍋の試食会。三日間借り切って種羊場、道庁の関係者、高級官吏<原文は史>や名士を招待しました。肉と鍋は種羊場、タレは滝川から山田場長夫妻が来て指導してくれた。費用は道庁持ち。大好評と言いたいが残念ながら羊肉の臭みや、ニンニクの臭いに閉口した人の方が多ったようですね」
 ここで合田さんは奮起したのであろう。独自のタレの使い方や、鍋の製造にとりくんだ。
 「肉の切り方とタレのつくリ方を自分で納得するまで三年かかりました。鍋は札幌のいかけ屋につくらせましたが六度目でどうにかものになりました。現在のような兜形でなく、ロストルを曲げたような形です。一人前最初は二五銭であったかと思いますが、さっぱり客が集まりません。しかたがないので三友館(映画館)の前へ行って無料招待券をくばったものです。戦争が激烈になるにつれ酒の配給がない、羊肉も手に入らないので店を閉めました。」
 以上は合田さんが四二年に語った記録である。
 これで横綱ジンギスカンは永久に消え去ったかと思われたが、終戦後の二六年に、松竹座向いの屋台店に再生した。合田さんの娘さんが主役である。この頃になると羊肉焼きのファンが増え出した。店も薄野の中心部南五条西四丁目に移転した。合田さんは、昭和四四年に歿した。娘さんの亀田田鶴子さんが横綱ののれんを守っていたが、四年前に閉店した。
 「道産のラムやロースの良い羊肉が手に入りませんのでやめました。輸入冷凍のマトンを使っては父の名を汚します。父からおしえられた秘伝のタレづくりは子供にと期待しましたが、後を継ぐ者はおりませんのが心残りです。戦前父が作った鍋が一個だけ家に残っております。追憶の品ですワ」民営第一号の横綱は、約三〇年間に亘ってジンギスカン鍋の大衆化に努めたといってよかろう。今日北海道の特産料理として定着した陰には、横綱の父娘二代にわたる苦心が埋れていることが全く知られていない。

  

参考文献
上記(4)の出典は小菅桂子著「近代日本食文化年表」166ページ、平成9年8月、雄山閣出版=原本、資料その3は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、北海道農業改良普及員協会=原本


 残念ながら吉田さんの「成吉思汗料理物語り」は藤蔭さんの思い出を傍証にしていたんです。藤蔭満洲野さんの名前を「満州野」と間違えています。それどころか「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は物に名前をつけることが大好きで、ジンギスカン鍋とつけたのでしよう」と、まるで満洲野さんがそう書いたところを引用したみたいな書きっぷりです。それは資料その2の「父とジンギスカン鍋」を見れば、まったく違うことがわかりますね。蒙古草原、羊群、義経なんて単語はどこにもありませんよね。当然のことですが、引用しなかった部分にもありません。これは茜会の少し要約とは全く異なるレベルのでっち上げですよね。それがばれるとまずいから、吉田さんは藤蔭さんが何という本に「父とジンギスカン鍋」という「一文を草した」と書いていないのだと受け取られても仕方がないですよね。
 では内容を検討してみましょう。私は吉田さんは信念として歴史を説いた人だと思います。私は何が何でもこうだと信じる。それに合わない証拠なんかいらないという考え方とみますね。それだけに、こういう方の話はすっきりしているので引用しやすい。だから広まりやすいともいえるでしょう。
 「日本人が羊肉を食べ出したのは、大正時代に入ってからであろう」とは、おっしゃいますね。明治の人たちは羊そのものをよく知らなかったくらいだから、羊肉を食べているわけはないというのですね。前回見せた宇野さんの料理法などはご存じないか、ジンギスカンではないからと黙殺しているのですね。大正時代に「満州に進出していた日本人が、蒙古人が羊の丸焼きや水煮にして」食べているのを見て食べ始めたと吉田さんはいう。牛肉が最高で次が鶏肉か豚肉かと育った日本人がですよ、なぜ満洲にいって臭い肉といわれていた、食べつけない羊肉を食べ始めたのか。蒙古人がうまそうに食うから、おれたちも、丸焼きや水煮にして羊肉を食べようということになったという根拠は何でしょうか。
 駒井さんは自書「大満洲国建設録」の中の「満洲産業開発管見」で「広漠たる全満蒙の地を挙げて『家畜の天地』と称するも過言ではなかろう。満蒙に於ける家畜の飼育普及は内地人の想像以上であつて、各農家総て殆ど家畜を有せざるはない。その種類も牛、馬、驢、騾の大家畜より緬羊、山羊、豚、鶏、(あひる)、鵞鳥、蜜蜂等の小家畜、家禽に及び、尚蒙古地方に於ては役畜として小数の駱駝を飼育するものがある」(5)と書いています。家畜は羊しかいない国ではないのです。いろいろ飼われていたのです。満洲に渡った日本人たちが皆貧乏で、とても牛肉も豚肉も買えなかったとか、羊以外に食べられる肉がなかったというなら別ですよ。地場産品でいくらでも牛鍋や鳥鍋ができるのに、どうしてわざわざ羊肉を選んだのでしょうか。
  

参考文献
上記(5)の出典は駒井三郎著「大満洲国建設録」276ページ、「満洲産業開発管見」、昭和8年2月、中央公論社=原本


 私の体験ですが、戦時中、第二次世界大戦のとき、満洲でも主食の米なんかは配給制になりましたが、豚肉は豊富に出回っていて困りませんでした。我が家で豚も鶏も趣味で飼っていましたが、えさのコウリャンやそのフスマは町で買っていました。ですから私は小学4年生のとき以来食べていたジンギスカンは豚肉でしたもんね。昭和18年はアッツ島で全軍玉砕、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、とだんだん旗色が悪くなっていた年ですよ。そこは炭鉱町で、工作係という炭鉱の機械修繕などをしていた人から、父が厚い鉄板をたたき出した手作りの鍋をもらったのです。だから脂落としの刻みや隙間のまったくない中高のつるりとした鍋でした。縁を折り返し、みぞになっていて、そこへ醤油とぶつ切りの葱と酒なんかを流し入れておき、肉が焼けると煮立ったその汁を付けて食べるのでした。本式のジンギスカンは羊の肉だとは昭和30年代、戦後初めて食べたときに教わったくらいです。
 確かに「満鉄の公主嶺農事試験場畜産部」なら、豚肉より淘汰した羊の肉が安く手に入っただろうと、だれでも思いつくことです。だからといって、公主嶺の研究者たちが「日本人の嗜好に合うよう考え出し」た調理法が田中式羊肉料理法にもない羊の焼き肉だとは、吉田さん以外の人は、考えつかないのではありませんか。北京名物カオヤンロー或いは地元の満洲人の焼き肉料理の存在を無視した、もしくは知らずに、公主嶺の家畜研究者がまったく独自にジンギスカンを考え出したという証拠があるなら、ぜひ示してほしかったのですが、無理でしょうね。それが定かでないからこそ、ジンパ学をやっているわけです。名付け親が「当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏」という部長職そのものも問題大ありで、そういうポスト自体なかったことを改めて示しましょう。
 まだ問題があります。吉田さんの「現在に伝わる成吉思汗料理もそうである」とは、ジンギスカン料理のどこを指しているのでしょうか。鍋の形ですか、タレに一定時間漬け込むとか、焼いてからたれを付ける味の付け方でしょうか。はっきりしません。また、この「調理の方法は」「畜産部(緬羊が主体)であろう」という言い方ですと、畜産部では何種類かのジンギスカンもしくは羊肉料理を開発していて、いまのジンギスカンは、そのうちの1種類だというようにも取れます。内地には伝わらなかったジンギスカンもしくは羊肉料理もあったということでしょうか。ジンギスカンもしくは羊肉料理は公主嶺からどういうルートかわかりませんが、幸いにも日本に名前とともに伝わったと主張されるのでしょうか。駒井命名説についても、吉田さんは証拠は何も示していません。私はこう信じる―でしょうね。一つでも証拠があるなら、駒井さんの満洲オタクぶりを力説し、満洲野さんの「かも知れない」随想を変形してまで持ち出さなくてもいいはずです。
 その後ろの「農林省では月寒、滝川の試験場に、羊肉普及の目的でジンギスカン料理を取り入れた。月寒では大正六年ころから始めているが普及の効果はほとんどなかった」というところは、どう受け取ればよいのでしょうか。農商務省が2分されて農林省と商工省と改名したのは大正14年ですから、細かいことをいえば、ジンギスカン料理を取れ入れたのは、大正14年以降ということになりますよ。それは目をつぶって、ここらの助詞の関係をみますと「農林省は、試験場に、料理を、取り入れた」となります。この並べ方では出前でも持ってこさせたようになりますから「農林省は、料理を、試験場に、取り入れた」と並べ替えて、料理普及も試験場のお仕事のうちだと命令したといいたかったのだと意訳というか解釈しましょう。
 もう少し想像力を働かせれば、吉田さんはこういいたかった。つまり農商務省は羊肉消費を増やそうとして、まず月寒、滝川2つの種羊場に対して公主嶺式かどうかわかりませんが、ジンギスカンという料理の普及に努めるようにと要請した。滝川のことは私、吉田さんは知らないけれども、農商務省にいわれるまでもなく、月寒では大正6年ごろからジンギスカンを食べており、広く普及させようとしてきたが、羊を食べようという人は増えなかった―ということになりますか。マットンチャップなんて洋食より、ジンギスカンあるのみという普及活動だったといいたいのですね。吉田さんはね。
 同じ月寒の話なのに、前の資料その1にある釣谷猛さんの「大正十二年ごろになって」「案外いけるとして生まれたのが、月寒流成吉思汗鍋なのである」という記述と5年以上食い違っているのはどう解釈したものでしょうか。吉田説と釣谷説のつじつまを合わせようとすれば、月寒流が生まれる前に、月寒種羊場ではさまざまな形のジンギスカン料理を試行しておった。農商務省からいわれたので、農商務省式ジンギスカンの普及を図りながら、もう5年ほど内部で開発を続けて月寒流が完成したとする見方しかないように思うのですが、どうでしょうか。
 「昭和初期のジンギスカン焼というのは、金網に胡麻油を塗って七輪にかけ焼いて食べた」スタイルこそ月寒流であり「一層風味がよ」くなるよう「炭火のなかに生松の枝を混ぜて燻し気味に焼く」テクニックは月寒オリジナルなのだと吉田さんはいいたかったのでしょうか。どうもそうではなくて、こうした金網で焼く「昭和初期のジンギスカン焼」はもうすたれた。「現在に伝わる成吉思汗料理」は公主嶺スタイルだといおうとしたと思われます。
 なぜなら、このくだりの焼き方は「農林省月寒種羊場の山田喜平技師」によって紹介された料理法だからです。「炭火のなかに生松の枝を混ぜて燻し気味に焼くと一層風味がよいことの注意も記されている」のは、本だともパンフレットだとも吉田さんは書いていませんが、それは山田さんが昭和6年に出した本、正しくは「緬羊と其飼ひ方」なんですが、吉田さんが書いた通りで示せば「緬羊と其の飼い方」に書いてあること、もっと精密に表現すれば、それに先行するお手本があったのですがね。それは一応、置いといてと。その書籍名を吉田さんが示さないので、予備知識のない人は、後で出てくる山田さんの本とは無関係に、昭和初期には皆が知っていた焼き方だと受け取る可能性があります。明快のようでいてあいまい、イライラするような、実に世話の焼ける書き方ですね。それともこちらが深読みしすぎるのかねえ。
 「昭和初期のジンギスカン焼」をまず取り上げておいて、改めて「このころになると、焼き物、揚げ物、煮物、内臓料理にいたるまで三十余種類の料理法」と書かれると、どうしても山田さんの本の「焼き物」に載っていなかった印象を受けます。公主嶺発祥・駒井命名説を信奉する吉田さんは、それを狙ったのではないでしょうか。「大正6年ころ」からみて10年以上たっていますから30いくつもの羊肉料理が考え出されていた。山田さんはそのレシピーを採集して「羊肉料理の貴重なテキストブックであった」「緬羊と其の飼い方」に書いたのだけなのだ―と受け取れなくもありません。それは私の勘ぐりすぎだとしても、山田本にあるジンギスカン焼きは、もう昭和初期、この初期というのも64年間のどこらまでか非常にあいまいなのですが、とにかく広まっていたと吉田さんは信じて書いたように思えるのです。
 要するに吉田さんは、ジンギスカン鍋、ジンギスカン焼きという名前は、駒井徳三が命名したらしいと娘が書いているから、それで一件落着。もう昭和初期にはジンギスカン焼と呼ばれていて、七輪に松の枝をくべて金網で焼いていた。鉄鍋で焼くいまのジンギスカンは公主嶺から伝わってきたんだよとおっしゃる。では公主嶺では鍋はどうしていたのか、つけ汁とかタレはどう作っていたんでしょうか、教えて下さいよとなります。
 私としては、吉田さんが「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感」と書いたことは、要約のようではあるけれども、自説を補強するために藤蔭随想を創作したといわざるを得ません。こういうスタイルを貫く郷土史家だからということで、後半の横綱関係、中西さんの話や合田さんが昭和42年に語ったという話は面白いけれども、ちと怪しいぞとなるわけですよ。後の講義で話しますが、本当につじつまが合わない点があるのです。
 まあ、それはそれとして、資料その1の(2)で見られる「ジンギスカン鍋と思われる調理法」といういい方は、ちょっと変ですよね。正確に書き写したならばだ、山田さんの「緬羊と其の飼い方」には、ずばり「ジンギスカン鍋」という作り方は載っていないと受け取れます。こうなれば山田さんの本で確かめるしかありません。ところがですよ、北大図書館には、山田さんの本がないんですねえ。
 なぜなら本の題名は「緬羊と其飼ひ方」という旧仮名遣いであり、その「の」がない書名が正しいので「緬羊と其の飼い方」では見付からず、ゼロ件になるからです。この点は茜会も間違っています。
 でもね「飼い方」でなくて「飼ひ方」だったら、あるんだなあ、そういう題名の本。つまり「緬羊と其の飼ひ方」という本なら、大麻の道立図書館にはあるんですよ。その奥付を見ると、滝川の道庁種羊場長に栄転した山田さんの本の再版が出るより25日早く初版が出ている。札幌の淳文書院から発行されたのです。時代の要請で両書ともロングセラーとなり、山田さんの8版が出た後の昭和18年にも、北海道農業教育研究会が書いたこちらは6版として2000部を発行したのですね。
 山田さんの6版は堂々たる製本で647ページ、3円80銭なのに対して、淳文書院本は薄っぺらな表紙で102ページ、35銭と格安なので、それなりに売れたのではないでしょうか。道立にあるのは第3版増訂で昭和18年5月の発行です。このころ太平洋戦争は山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アッツ島守備隊の玉砕など旗色が悪くなっていました。魚雷艇長だった後のケネディ大統領が南太平洋で負傷したのもこの18年なんですね。
 国内の衣食住も苦しくなる一方で、6月に「国民衣生活ノ簡素化ヲ徹底シ士気ノ昂揚、体位ノ向上ヲ図リ戦時生活ノ強化刷新ニ資スルト共ニ繊維品ノ現状ニ鑑ミ衣料資材ノ節約ヲ図ルモノトス(6) 」という「戦時衣生活簡素化実施要綱」が閣議で決まったのです。一言でいえば勝つために手持ちの衣服を着て我慢せよ、です。
 紙も節約です。「の」入りの「其の飼ひ方」は「旧版には次項に『我国緬羊飼育の現況』と題し詳細な統計を示したのであるが、数字上の事柄は時局上遠慮すべきであるから、今回より之を割愛し、その代り飼育の方面の紙数を増したので読者の御諒承を請うて置く次第である。(7) 」とスパイ対策みたいに書いていますが、目次は旧版のままなのでページと合わないんだね。脱線序でにちょっと中身を紹介しましょう。資料その4は戦争と羊毛の関係のところです。

資料その4

 三、國防的見地から見た緬羊

 一朝有事に際して、萬一外國との通商貿易が自由にならなくなるとしたら、我が國民はどうして毛製品の需要を満たしたらよいであらうか。之は今の所絶望に近い。それ程同記の如く我が國内の羊毛生産量は少いのである。仮令我々一般国民は我慢するとしても、陸海軍需品としての羊毛製品は絶対に必要である。説く迄もなく軍隊は其の行動が烈しく、時には風雨の中に野営もせねばならず、強行軍もせねばならない。従つて軍隊用の被服は(一)丈夫であること、(二)保温力の強いものであること、(三)雨水を弾く性質のあることの三要素を完全に備へなければならぬ。そして今日各種の織物中、此の要素を完全に備へてゐるものは、毛織物を措いては他に需めることが出來ない。軍隊には是非此の羅紗や毛布が必要なのである。即ち羊毛は兵器弾薬と同様に、軍隊の必需品である。国防上絶対必要量だけは、是非共羊毛を國内で生産する要がある。即ち緬羊飼育は國防上から見て是非必要であるが、之が飼育は諸君農家の手を俟たなくてはどうにもならないことなのである。

 「同記」とあるのは、この前にある「国家経済の上から見た緬羊」で、日本の550万農家が1戸4頭ずつ緬羊を飼って羊毛を刈れば日本の羊毛不足はほとんど解消する(8) と書いていることを指します。山田本と違って、羊肉の出荷方法は書いてありますが、料理のレシピーは皆無です。何でも「欲しがりません勝つまでは」の配給制でしたからね、載せる無駄から省いたのです。
 まだ時間がありますね。では、もう1枚資料を配って、明治時代にお役所が肉食を奨励したことを話をしましょう。はい、どんどん後ろへ回して。いいですか。明治の初め、日本人の多くは、四つ足の肉を食べると穢れると敬遠していました。それで肉は栄養があって体にいいのだ、頭を切り換えて食べるようにしなさいと役所が命令号令を掛けた例として、敦賀県が明治5年に出した肉食奨励の諭達が知られています。
 私は敦賀県のこの諭達が、しばしば食関係の本に取り上げられるのは、石井研堂が「明治事物起原」の中の「牛肉食用の始」で紹介したからだと推察しています。この本は国会図書館の近代デジタルライブラリーでも読めます。そこと「本書の編纂に就て」を見ると明治5年の「新聞雑誌六十四号」からの引用とわかりますが、明治5年の何月かがわかりませんし、新聞読みの経験から読点が多すぎる感じで、記事の原文通りか怪しい。
 それで私は北大にある「新聞雑誌」を借りてみました。和紙を2つ折にして10枚綴じた本みたいな新聞で、10月発刊でした。両者を比べたのが資料その5で(1)が元になった記事、(2)が石井の記事です。半角のレ、1、2は返り点と見て下さい。
 石井本は「敦賀県下ニ於テ牛肉店相開キシニ土風固陋ニシテ種々ノ流言申觸セシニ付県庁ヨリ説諭アリタリ其文ニ」までを削り、県令の諭達という見出しにしたことがわかりますね。原文にはない句点を付けているのは読みやすくするためでしょうが、勝手に付けている。「明治事物起原」は明治45年の本だから許されたとしても、著作権尊重の今これはいけません。ジンパ学のレポートは原文尊重という点では厳しいからね。また「稗補」「汚穢物」が「裨補」「汚穢」になっているのは、誤植らしいけど「養生物」と「汚穢物」という対比が失われましたね。

資料その5

(1)
○敦賀県下ニ於テ牛肉店相開キシニ土風固陋ニシテ種々ノ流言申觸セシニ付県庁ヨリ説諭アリタリ其文ニ牛肉ノ儀ハ人生ノ元気ヲ稗補シ血力ヲ強壮ニスルノ養生物ニ候處兎角舊情ヲ固守シ自巳ノ嗜マザル而巳ナラス汚穢物ニ属シ相喫候ヘハ神前等可レ憚抔無レ謂儀ヲ申觸シ却テ開化ノ妨碍ヲナスノ輩不レ尠哉ノ趣右ハ固陋因習ノ弊而巳ナラス方今ノ御主意ニ戻リ以ノ外ノ事ニ候以来右様心得違ノ輩於レ有レ之ハ其町役人共ノ可レ為越度候條厚ク可レ及2説諭1云々

(2)
敦賀県令の諭達
牛肉の儀は、人生の元気を裨補し、血力を強壮にするの養生物に候處、兎角舊情を固守し、自已の嗜まざる而已ならず、汚穢に属し、相喫候へば神前等可レ憚無レ謂抔儀を申触し、却て開化の妨碍をなすの輩不レ尠哉の趣、右は固陋因習の弊而已ならず、方今の御主意に戻り、以の外の事に候、以来右様心得違の輩於レ有レ之は、其町役人共の可レ為越度候條、厚く可レ及2説諭1云々。五年版〔雑誌六十四號〕


(3)
5 肉食奨励方に付中泉役所諭達(明2・11・7)
           龍山村大嶺 青山大須計氏所蔵
              「御用留」(横帳)

肉喰するもの一軒あれバ是か為ニ一村火をかゆるの習風
有之趣、右ハ神祭ニあつかるもの忌て不喰か、神職之輩
ハさることなれとも、平常あへて是を忌嫌ふハ謂れ無こ
となり、肉喰ハ人体滋養之第一なり、山方米穀乏して粟
黍なと食するもの、肉を交へ食ヘハ血脈を盛んにし、筋
骨健にし、飢寒を凌、大ニ補益す、早く旧習の惑を開
キ、以後肉食を憚なくいたすべし、其上山中ニテハ田畑
を猪鹿の為に喰れ、農民苦しむる上か、古より武将狩を
なし、猪鹿を猟、其苦を救ふ、今も猟師共ニ鉄炮をゆる
し猟しめ給ふ、済民之御恵忘るへからす、然ルニ俗風ニ
テ猪鹿を喰されハ、猟師も猟得て益なき故ニ等閑ニなり
行、猪鹿横行ニ至る、民苦し((ママ))べし、肉食を興せハ猟師
得もの之多きを願ふことニなり行き、随テ猛獣之害去
リ、農民安堵ニ至るべし、是両全といふなり、村役人共
ハ不及言に、一同前書之趣意厚心得、愚なるものハ説得
し、肉食を興し、猟師共猪鹿之憂を免るへし、
右之趣、小前末々迄精々可相諭、此廻状村名下令請印、
早々順達、従留村可相返もの也、
        中泉
          郡政
十一月七日 御役所
 追テ本文之趣、書写之苦を省かん為ニ、御役所ニテ活
 板二相成、壱通銭三十弐文ツゝニテ御下ケ相成候間、
 何通ニテも其員数、村名下へ下ケ札いたし候得ハ、追
 テ相渡へきもの也、

 はい、資料その5で、私がいいたいのは、敦賀県より約3年も早く肉食奨励の諭達を出した役所が静岡県にあったという事実です。「静岡県史」に(3)がさりげなく書いてあった、クールですなあ。この中泉郡政役所が置かれたのは、いまの磐田市内、ジュビロ磐田のあそこなんです。
 今の静岡県は明治元年から行政組織が激しく変わりました。中泉だけをいえば、まず元年に民政役所が置かれ、翌2年1月奉行所となり、後に郵便事業の父といわれる前島密が着任します。しかし、9月には郡政役所と改称され、前島は転勤してしまいます。3年2月にまた、郡方役所と改称するのですが、この間のトップは掛川奉行から移ってきた少参事岩田緑堂(9)という人物でした。
 文面によれば、中泉郡では、どこか一軒で獣肉を食べたとわかったら、村中の家がいろりか竈か新に火を焚くようなことをして肉食を誡めていたらしいですね。岩田少参事はそういう習慣はやめて、体にいい肉を食べようではないか。皆が牡丹鍋、紅葉鍋を食べるとなれば、猟師も張り切って捕るから害獣退治になり皆ハッピーだといったのですね。
 岩田は続いて「月経女子別舎の斃習に付中泉役所諭告」を発しています。ナニの間は同じ屋根の下に寝泊まりせず、口もきかず竈も別にするような下らんことはやめなさいといった。お役人離れした大胆な指示です。岩田の業績などは調べておりませんが、とにかく進んだ考えの持ち主だったようです。
 はい、中泉は肉食の勧めだが、山形県では進み過ぎていたらしく、馬まで食っちゃいかんとブレーキを掛けていたとは私は勿論、石井研堂も知らなかった。「河北町の歴史」に「明治六年十二月に関口隆吉が布達した馬肉食禁止令によれば、この頃既に牛羊肉はおろか、一部には馬肉を賞美する人もおったようである。(10)」とあり資料その6の県参事が命令していたのです。
 「馬は全く耕耘・運輸に使役するものであるから、その屠殺・売買・肉食を禁じ、これを破るものは罪科に処せられたが、牛は許可されていたことは明らかである。(11)」と同書は書いていますが、ジンパ学としては「牛羊ノ肉」の羊肉はどういう羊の肉か是非知りたいよね。細川少審議官がメリノ種を連れ帰ったのは明治4年ですから、わずか2年後に山形県で牛と同じぐらい飼われ、食べられていたなんて信じられない。
 私はこの羊は山羊と想定して山形県立図書館にお尋ねしたところ、明治44年の山形大火で全焼したため、明治初年の羊の飼育頭数のデータはないのことでした。それで国会図書館で探しました。
 明治41年に出た「奥羽五県之富源」によると、明治39年の山形県内の牛屠殺数975頭、その肉量20万367斤に対して馬は屠殺数5558頭、肉量40万6132斤(12)とあります。国内有数の馬産地であり、馬肉は牛肉の3分の1程度と安いので、馬肉は全部ではないにせよ、県民が相当食べていたことは確かでしょう。
 一方、羊系の「山羊は特に之を奨励せさりしか」というから飼われていたようですが「緬羊は明治八年より仝十二年頃まては支那羊を奨励せしことありしか良果を得すして遂に之を廃したりしか」(13)だから、明治6年当時、牛と並べるほど、どっちも飼われていたとは思えません。
 だから関口はね、県内に羊はいなくても牛肉と羊肉は同じように食べられることを知っていたので、牛羊と並べて書いたと解釈しました。

資料その6

馬ハ六畜ノ内最モ耕耘ニ力ヲ尽シ、運輸ノ便此ノ獣ニ及フモノナシ。然ルニ近来肉食ヲ尊フノ情ヨリ誤解イタシ、牛羊ノ肉ト同様ニ相心得、馬肉ヲ売買イタシ、随テ好テ食スル者モ有之哉ノ趣相聞エ候。右ハ以テノ外ノ事ニ候条、若シ牝牡ノ馬ヲ屠殺スル者、馬肉ヲ売買スル者、馬肉ヲ食スル者等ハ、屹度吟味ノ上相当ノ科可申聞候間、心得違無之様布達ニ及フモノ也。
 明治六年十二月廿五日    山形県参事  関口隆吉
                      区長 副
                      (御布達綴)

  

参考文献
上記(6)の出典は国会図書館閣議決定等フルテキストデータ「戦時衣生活簡素化実施要綱」、http://www.ndl.go.jp/horei _jp/kakugi/txt/txt00477
.htm、(7)は北海道農業教育研究会編「緬羊と其飼ひ方」14ページ、昭和18年5月、淳文書院=原本、資料その4は同11ページ、同、(8)は同10ページ、同、 資料その5(1)は日新堂編「新聞雑誌」64号5丁表、明治5年10月、日新堂=原本、同(2)は石井研堂著「明治事物起原」408ページ、明治41年1月、橋南堂=近デジ本、同(3)は(静岡県編「静岡県史 資料編16」1099ページ、平成元年3月、静岡県=原本、(9)は磐田市誌編纂執筆委員会編「磐田市誌」下巻656ページ、昭和31年9月、磐田市=原本、 (10)と(11)は河北町誌編纂委員会編「河北町の歴史」中巻244ページ、昭和年月、河北町=館内限定デジ本、 (12)は第六回奥羽六県共進会協賛会編「奥羽五県之富源」32ページ、明治41年4月、第六回奥羽六県共進会協賛会、同、 (13)は山形県内務部編「山形県産業要覧」59ページ、大正5年9月、山形県、同

 ジンパ学としては、もう1つ石井本の間違いを指摘しておきます。やはり彼の「明治事物起原」ですが、初版にはなくて大正15年に出した増訂版から入った「馬羊肉(14)」です。その項を資料その7(1)にしてありますが、勧奨社が羊肉を売り出しのは明治12年ではなく、11年なんです。これが国産羊肉の初の売り出しとは書いていなけど、本が「明治事物起原」なんだから、素直な人は明治12年が初めてと受け取りまよね。
 間違いの証拠に勧奨社が同じころ東京の新聞に出した羊肉売り出しの広告を集めてみました。同(2)は郵便報知新聞、同(3)は東京日日新聞、同(4)は読売新聞です。同(5)が石井が挙げた有喜世新聞の全文です。載ったのは明治11年の12月12日付280号と3日後の12月15日付283号の2回、どちらも3丁裏の広告でした。
 (5)は東京駒場の日本近代文学館所蔵の原本の広告です。左側の新聞附録の下に「明治十一年十二月十五日/第二百八十三號」と見えるでしょう。先に出た12日の広告を使うのが本筋でしょうが、文面が上段左端から始まり中段右側と切れて入っているので、読みやすい15日分にしました。農勧局は勧農局の誤植ね。

資料その7

(1) (一七)馬羊肉
 牛肉の流行に遅れて、馬肉羊肉も上揚し來れり、明治五年
七月〔愛知新聞〕十五號に、同市平の町高木彌兵衛外九人は、
馬肉を牛肉と偽りて売りたる科により、各懲役七十日申渡さ
れたる記事あり、偽牛肉も古き発明なり、又十年十一月二十
七日の〔読売〕に、上野東黒門町野呂義孝の、馬肉を販売せん
ことを出願したる記事あり、十二年十二月十五日の〔有喜世〕
には、三十間堀勧奨杜にて、内務省勧農局牧羊場の払下羊肉
販売を始めたるを掲げ、代価一斤十五銭、一頭及十斤以上は
割引する旨を附記せり。
(石井研堂著「増補改訂明治事物起原 下巻」復刻版1389ページ、平成8年1月、国書刊行会=原本、底本は昭和19年12月、春陽堂発行)


(2)
  内務省勧農局牧羊場払下ケ
   羊肉販売所
 売弘メノ為メ壱斤ニ付十五銭壱頭以上拾斤以
 上共割引ケ致候
   東京三拾間堀壱丁目七番地三原橋通り
 十二月十五日開業  勧奨社  黒埜正二郎
                田中正質
(郵便報知新聞刊行会編「郵便報知新聞 復刻版」16巻338ページ、平成元年12月、ぺりかん社=原本、記事は明治11年12月12日付4面広告)


(3)
十二月十五日開業

   内務省勧農局
    牧羊場払下ケ
     羊肉販売所

   売弘ノ為メ一斤ニ付金十五銭
   一頭以上十斤以上共割引致候
 東京三十間堀一丁目七番地三原橋通
     勧奨社  黒野正次郎
          田中正質
(明治11年12月14日付東京日日新聞4面広告)


(4)
 内務省勧農局
  牧羊場払下ケ
 羊肉販売所
       売弘為壱斤に付金拾五銭
       壱頭及拾斤以上割引致候
方今肉食漸次盛に行ハるといへども羊肉ハ西洋割烹家
にも上等の品ゆゑいまだ普通の食用に充ずこたび
政府の准允を得て開業いたし売弘のため廉価に販売彼
菓子の美味なるを称賛して羊羹と號く羊肉の厚味滋養
物なる事を購求し玉ふて試しめせと述る
      東京三十間堀壱丁目七番地三原橋通り
十二月十五日開業       勧奨社
                  黒野正次郎
                  田中正質
(明治11年12月14日付読売新聞4面広告)


(5)
内務省農勧局牧羊場払下ケ
  羊肉販売所
   

  売弘の為一斤に付金十五銭
  一頭及十斤以上割引仕候
方今肉食漸次盛んに行ハるといへども羊
肉ハ西洋割烹家にも上等の品ゆゑ普通の
食用に充ず此度政府の准允を得て開業し
廉価に売弘む彼菓子の美味なるを称賛し
て羊羮と號けり羊肉の厚味滋養物たること
を購求て試ミ玉へと述る
 東京三拾間堀一丁目七番地三原橋通

         勧奨社
来る十二月    
十五日開業     黒埜正二朗
          田中正質
(明治11年12月12日付有喜世新聞3丁裏の広告)


(6)
   
(明治11年12月15日付有喜世新聞3丁裏の広告)

 石井は十二月十二日、十二月十五日と十何が続いたので、こんがらかり、つい明治十二年とやっちゃったと思いますね。12年12月15日は月曜でね、有喜世新聞は月曜は休刊日で新聞は発行していないことも確かめました。ふっふっふ。
 この広告の続きがあってね、それらを資料その8にしました。評論家の木村毅は「忘れられた明治史 5」で「いろは」の木村莊平を取り上げ「明治十四年も、ごく月におしせまってから、三田の四国町に、羊の肉をうり出したものがあった。わが国で最初の羊肉屋だ。しかし、羊肉をくいなれぬ日本人にはこれだけでは商売にならないので、その店で一しょに牛肉の小売りもかね、牛鍋もはじめた。(15)」なんて書いている。忘れられたのは石井の「明治事物起原」ですよね。ふっふっふ。

資料その8

(1)
   内務省勧農局牧羊場払下ケ
    羊肉販売所

    売弘の為一斤に付金十五銭
    一頭及十斤以上割引仕候

    再告

客年末に内務省勧農局所轄下総牧羊場飼
養の肉羊払下許可を得て新たに羊肉販売
を開業致し候所其當日より意外の愛顧を
得て屠るに連日増加せり吾輩の僥倖不足
之更に茲に謝する處なり原来ハ羊肉ハ開
明諸国に於て珍重する保身滋養の食物に
て英国倫敦医学校大医ドクトル、ユドワ
ルド、スミツ氏の説に羊肉ハ牛肉より軽
く柔かにして血風尠ク組織開疎脂肺居多
消化極めて速く通例時間乃至三時十五分
間なり故に婦女子病者勿論胃弱の者に最
も適応する好食物なりと云ふ因に本場に
於ても飼養方一層注意ありて鮮肉精選せ
り最も貴きものなれど開通の為価極めて
廉なり不相変購求あらんことを請ふと得意
の諸君と併せて我開業を未聞知の諸君に
稟告す 附曰 羊の敷革多分製造有之候
 東京三拾間堀一丁目七番地三原橋通
         勧奨社
          黒野正二朗
          田中正質
(明治12年1月7日付有喜世新聞3丁裏=広告)


(2)
  ┏━━━━━━━━━━━━━┓売弘ノ為
  ┃ 内務省勧農局牧羊場払下 ┃一斤ニ付
  ┃  羊肉販売所      ┃金十五銭
  ┗━━━━━━━━━━━━━┛
    広告

 中外諸君益御機嫌克恐悦至極奉存候然者私
共今般勧農局御所轄下総牧羊場飼養ノ肉羊
御払下ケ相願許可ヲ得テ去冬羊肉販売ヲ開
業候處開店ノ日ヨリ意外ノ御愛顧ヲ蒙リ繁
昌仕候段難有仕合奉存候原來羊肉ハ開明諸
国ニ於テ珍重スル保身滋養ノ食物ニテ英国
倫敦医学校医員ドクトル、ユドワルド、スミ
ツス氏の説ニ羊肉ハ牛肉ヨリハ軽ク柔カニ
シテ血水尠ク組織開疎脂肪居多消化極メテ
速ク通例三時間乃至三時十五分間ナリ故ニ
婦人病者ハ勿論胃弱ノ者ニ最モ適応スル貴
賤ノ好食物ナルト云因ツテ精々鮮肉相撰ミ
差上候間夫々御風聴御購求ノ程偏ニ奉希候
以上 京橋区卅間堀一丁目六番地三原橋通
 明治十二年    勧奨社
         一月         黒野正二郎
               田中正質
(明治12年1月9日付東京日日新聞4面広告)


(3)
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ 内務省勧農局牧羊場払下 ┃
┃  羊肉販売所      ┃
┃     勧奨社分店   ┃
┗━━━━━━━━━━━━━┛
 羊肉鍋一人前金六銭 スキ焼金八銭
 羊肉西洋御好次第  斤売本社同断

今般三十間堀本社ト約定シテ羊肉販売並煮鍋
等ヲ開業仕候原來羊肉ハ開明諸国ニ於テ珍
重スル保身滋養ノ食物ニテ英国倫敦医学校
医員「ドクトルユトワルトスミツス」氏ノ説
ニ羊肉ハ牛肉ヨリ軽ク柔カニシテ血水尠ク
組織開疎脂肪居多消化極メテ速ク通例三時
間乃至三時間十五分間ニテ消化セリ故ニ婦女
子病者ハ勿論胃弱ノ者ニ最モ適応スル好
食物ナリト云フ然ルニ価貴キモノナレド開
通ノ為価極メテ廉ナリ御愛顧被成下御来車
奉願候也 麹町区隼町旧二十四番地
     勧奨社分店
十二年一月
十八日開業 牛肉店  鏑木勝蔵

本文ノ通リ分社開業ニ付テハ諸君便宜ニ任
セ弊社同様購求アラン事ヲ冀フ○附曰羊
之敷革多分製造有之候

京橋区三十間堀一丁目六番地
   勧奨社
        黒野正二郎
        田中正質
(明治12年1月27日付東京日日新聞4面)

 きょうは触れませんでしたが、吉田さんの書いたジンギスカン鍋の試食会の昭和11年11月13日という日付についても疑問があります。次回は、駒井満鉄調査部長の命名説を巡る証拠、藤蔭エッセーを含む疑問についてやりましょう。講義録を読まれる人の中には、この回あたりまでしか読まず、私が命名者はだれそれとズバリ言わずに、ただただ疑問視するから、かえって駒井さんが命名者だと思いたいという、ちょっとひねくれた考えは持たないようにね。慌て召さるな、私が命名者と想定している人物について講義するのは、まだまだ先ですよ。
 まだ、少し時間があるから、オリエンテーションのとき、予告したA君のレポートに出てきた中川兵三郎についての補足説明をしましょう。このところ話そうと毎回持ってきていた資料を配ります。はい、追加分、後ろへ回して。
 よろしいですね、A君が取り上げた中川兵三郎の「民国人の飲食料品」について補足します。中川のこの論文は北京か南京にいて調べたような書きっぷりですが「支那料理の種類」という79種の料理の項は「旅順、泰豊楼で聞いた上海料理の概要(16)」と断っています。どこにいて何をしていた人なのか、その調べ方を説明しましょう。
 北大図書館を検索すると大連で発行されていた雑誌「満蒙」の「総目次索引」があります。それでは中川立三郎と誤植していますが「民国人の飲食料品」のほかに、大正14年2月号に「中国児童と其国民性」を書いている(17)とわかります。それを読むと「著者支那人児童教育に従事することこゝに十余年其間に於いて観察研究せる事項を次の説に区分して述べて見やう。(18)」とあるからには、小学校の先生ですね。
 また「橘樸著作集」を見ていたら「中国民族性と其の対策」に中川の名前が出てきました。橘が中川の「中国児童とその国民性」から長所を引用していた(19)のです。ほかの検索で、中川は大正13年5月に出た奉天高等女学校編「民国事情」という本に「民国の年中行事」を書いているらしいとわかるのですが、東京に行かなきゃ読めない。
 そうなれば「満鉄社員録」です。このころ満洲と関東州にある日本人のための学校の先生は、文部省から満鉄か関東庁への出向者で「満蒙全書」には「会社の小学教員は特にその物質的待遇を豊かにして、内地各県下の優良教師を招することとして居る。(20)」と書いてあるから、おほん、私のオヤジも優良教師だったってわけ。ふっふっふ。
 中川は大正2年の「満鉄社員録」に鉄嶺尋常高等小学校開原分教場の訓導(21)として初めて載ります。実質的に満鉄社員だから「社員録」、大正10年版からの「職員録」に載っているんですね。オヤジも昭和の「職員録」に載ってますが、そりゃどうでもいい。
 中川は大正4年(22)7年は蓋平公学堂の教員兼舎監(23)でした。公学堂は中国人児童の「学生身体の発達を図り、徳育を施し、実学を授け、兼ねて日本語を教ふる(24)」ために満鉄が作った学校です。大正10年、中川は奉天公学堂教員に変わり、休職北京留学中になっている。(25)北京留学、これですね。このとき中国各地を訪ねて食材、調理法を調べたのでしょう。
 その後になりますが、中川は大正11年3月から3年間、南満州教育會教科書編輯部で公会堂唱歌科教科書(26)作りをしました。名簿は「旧主査・委員・調査員」と一括しているため、そのどれだったかまではわかりませんが、12年からは満鉄地方部学務課、遼陽在勤(27)というポストに移っても、編集に携わったんですな。
 南満州教育會教科書編輯部が作った「満洲唱歌集」が「在満日本人用教科書集成」の第7巻にあって「風の吹く日は外に出て、リンクをまはろよ、スケート遊び、まんしゅうそだちのわたしたち(28)」なんてね、小学生のころの懐かしい歌が載っていますが、日本語の歌ばかり。中川が関係した公学堂用の「初等唱歌集」はどんな教科書だったかわかりません。
 ただし南満洲教育会教科書編輯部が中国児童用に作った算術と唱歌教科書の一部は、竹中憲一編・解説「『満州』植民地中国人用教科書集成」の7巻に含まれていて、北大図書館にもあるのですが、読めそうもないので私は見ておりません。
 いまの唱歌のように冬はスケートばかりやっていたせいで、スキーで右回りが不得手でね、急停止は無意識に左回りになっちゃう。序でにいっておくけど、北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「まちぼうけ」「ペチカ」は満洲の小学生唱歌としてつくられた歌(29)なんです。教科書通りの学年にはこだわらないと書いてはあるが「まちぼうけ」は1〜2年生用、「ペチカ」は3年生用の教科書に載っていた。おっと脱線はそこまで。
 これらの情報から、中川の北京留学は1年ぐらいと見られるので、社団法人北京日本居留民会の会員名簿を調べてみたら、大正10年12月15日現在、536人の会員の中に中川兵三郎の名前があったんですなあ。しかも中川のような留学中の満鉄社員の宿舎らしいのですが、霞公府の同学会にいて、同じ東134番という電話を使うものが7人(30)登録されていましたね。その前の年の大正9年12月15日現在でも同じ住所、電話番号で7人(31)いるけど、10年の7人と名前が違う。11年12月7日現在は6人(32)でしたが、これまた全員別人。つまり満鉄は6、7人ずつ1年間、社員を北京に留学させる制度があったのですね。
 大正10年の初冬、北京にいた中川が「北京で有名な烤羊肉(かおやんろふ)は羊肉料理で日本人の嗜好に投じ甚吉斯汗料理と称して居る。(33)」と雑誌「満蒙」に書いたということは、そのころ北京の日本人の間では、カオヤンローはジンギスカン料理で通るようになり、それを知った羊肉料理店のいくつかは、ジンギスカン料理と呼び変えて日本人客を呼び込もうとしていたことを示しています。大正10年まで遡る重要な証言です。

参考文献
上記(14)の出典は石井研堂著「増訂 明治事物起原」708ページ、大正15年10月、春陽堂=館内限定近デジ本、 (15)は木村毅著「忘れられた明治史5」37ページ、昭和51年4月、明治文献=原本、 (16)は満蒙文化協会編「満蒙」51号112ページ、大正13年10月、満蒙文化協会=原本、 (17)は満蒙文化協会編「『満蒙』総目次(第181号より第281号)」111ページ、平成14年8月、不二出版=原本、 (18)は満蒙文化協会編「満蒙」55号46ページ、大正14年2月、満蒙文化協会=原本、 (19)は橘樸著「橘樸著作集」3巻57ページ、平成2年5月、勁草書房=原本、 (20)と(24)は南満州鉄道社長室調査課編「満蒙全書」1巻106ページ、「満洲に於ける日本人経営の教育」、大正11年11月、満蒙文化協会=近デジ本、 (21)は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系16 満洲編6」46ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 (22)は同93ページ、同、 (23)は同143ページ、同、 (25)は同264ページ、同、 (27)は同354ページ、同、 (26)は磯田一雄・槻木瑞生・竹中憲一・金美花編「在満日本人用教科書集成」10巻136ページ、平成12年11月、柏書房=原本、 (29)は同311ページ、磯田一雄「資料解題 第7巻 満洲唱歌集」、同、 (28)は同7巻174ページ、平成12年11月、同、 (30)は国会図書館による合本「北京日本居留民会資料2」のうちの「社団法人北京日本居留民会名簿 附定款其他諸規則」57ページ、大正10年12月、北京日本居留民会=近デジ本、 (32)は同「社団法人北京日本居留民会名簿 附定款其他諸規則」57ページ、大正11年12月、同、 (31)は国会図書館による合本「北京日本居留民会資料1」のうちの「社団法人北京日本居留民会編北京日本居留民会 定款諸規則及会員名簿」61ページ、大正9年12月、同、 (33)は満蒙文化協会編「満蒙」51号106ページ、中川兵三郎「民国人の飲食料品」より、大正13年10月、満蒙文化協会=原本

 「満蒙」調べで、もう1つ。大正14年には大連でも「蒙古式成吉思汗鍋」と呼んでいたという事実です。北大図書館には「満蒙」の原本と復刻版があり、原本の欠けた号を復刻版で補うように揃えてあるのです。
 それで、ちょっと面倒な問題があったのですが、ともかく大正14年1月号の目次の前に「本協会最近施設」という行事計画のページかあり、そのトップに「日華交歓会食会 一月三十日大連に於て蒙古式成吉思汗鍋を会食(詳細別項)(34)」と書いてあるのです。
 ところが、原本にはそれが見当たらない。1月号から6月号まで合わせて1冊の合本にした際、除かれた広告ペーシの中に、その別項があったのかと復刻版の「満蒙」を見てわかった。資料その8(1)はね、別項と呼んだはずのお知らせページです。復刻版から引用したものです。このまま90度右回転して縦組みに変え「日華交歓會」だけ大きな字にし、内規を「尚必要に応じ」の行から後ろを分けて2段に組めば、ほぼ原形になります。「最近施設」は日付を1日間違ったんですね。

資料その8
(1)
   △日時   一月三十一日(土曜日)午後五時半
   △料理種類 蒙古風成吉斯汗鍋會食
   △會場   紀伊町満蒙文化協會
   △會費   金一圓五十銭(當日持参のこと)
   △申込   三十日まで満蒙文化協會へ住所氏名御通知のこと

 日華交歓會 (大連第一回)

        日華交歓會内規
  一、日華交歓會々員は満蒙文化協會々員中其有
    志を以て組織す
  一、日華人相互の親睦を圖る爲日華交歓會を企
    て當分の内大連及奉天に於て開催す
  一、日華交歓會は満蒙文化協會に於て斡旋し月
    一回適當の方法に依り之を開催す
    尚必要に応じ臨時會を開催することあるべし
  一、日華交歓會の會費は別に之を定めず開催の
    都度其實費を徴収することとし協會に於て期
    日場所と共に會員に之れを通知す
  一、日華交歓會の爲に満蒙文化協會は日華各二
    名の幹事を委囑す


(2)編集後記

 ◇ついでに一月三十一日夜當協会の成吉斯汗鍋の盛況お知らせします。自分で書くと手前味噌らしいので満洲日日新聞の記事を抜萃しませう「………来会者は日支知名士五十余名高柳将軍の挨拶に始まり都甲氏の華語翻訳あり、六時半鍋に火を焚き寒天のもと互ひに肉を噛み酒を酌んで眞の日支交歓をなし八時頃散会した」

 これから察するに大正14年になると、大連では蒙古風でもなんでも成吉斯汗鍋といえば、改めて説明せずに済む料理になっていた、一般邦人にそれぐらい知られていたらしいのですね。大連第一回とあるから、画期的な催しとして記事に書かないわけがない。ただ1月末だから2月号に間に合うはずがなく、3月号だろうと調べたら、やはり3月号の編集後記にありました。資料その6(2)がそれです。奥ゆかしすぎて残念、どんな鍋を囲んだなど書いてほしかったところです。まあ、詳しく書かなくても「満蒙」の読者ならわかるべー、という程度に料理が知られていたともいえますがね。
 そこで北大図書館にある満洲日日新聞のマイクロフィルムを見たところ、1月22日に予告記事、2月1日に写真付きで記事か載っていましたが、面白いことがわかりました。資料その9を見て下さい。

資料その9
(1)
 篝火の下に
 成吉斯汗鍋
    三十一日午後五時半から
    文化協会の催し

満蒙文化協會では日華人相互の親
睦を計る一方法として今月から日
華交歓會を毎月一回大連に開催す
ることとなつたがその発会を兼ね
た第一回の集会としては三十一日
(土曜日)午後五時半から紀伊町同
協会外庭において蒙古風成吉斯汗
鍋の会食会を催すことになつたこ
れに使用する羊肉は公主嶺農業試
験場の好意で羊数頭の提供を受け
た調味料一切はヤマトホテル横山
支配人の
  肝入り   で大連唯一とい
はれる料理人が腕を振ふといふ其
上外庭には大篝火を点じ朔風の下
に会食談笑するのであるから野
趣掬すべき蒙古情緒がただよふこ
とであらう同協会員なら何人も参
加自由だが鍋数に限りがあるので
希望者は一刻も早く申し込む必要
がある採否は協会から別に通知す
るといふが会費一円五十銭当日持
参だと
(大正14年1月22日付満洲日日新聞)


同(2)

 ━━◆ 日支交歓成吉汗鍋会 ◆━━
    ==昨夜紀伊町満蒙文化協会にて==

満蒙文化協会主催の日支交歓成吉汗鍋会は既報の如く卅一日午
後六時から紀伊町同協会の庭で開催された 来会者は日支知名士
五十余名高柳将軍の挨拶に始まり 都甲氏の華語翻訳あり七時半
鍋に火を焚寒天の下互ひに肉を噛み酒を酌んで眞の日支交歓を
なし八時頃散会した
(大正14年2月1日付満洲日日新聞)

 公主嶺農事試験場、大連ヤマトホテルともに満鉄の組織ですから、満蒙文化協会に全面協力したのですね。では「大連唯一といはれる料理人」は何で唯一だったのか。羊肉を薄切りする腕前なら肉屋でいそうだし、タレなら日本料理の板前だって、一度カオヤンローを食べれば似た味は出せそうです。私は外蒙古に行き、羊の焼き肉を食べた経験者ということぐらいしかないと思うのですがね。判然としません。
 当時の新聞広告を見ると、横山正男というこのヤマトホテル支配人は「洋食の食べ方と洋服の着方」という本を書いており、満洲では有名人だったとみられるので、ここはその横山さんらのサポートを得て、蒙古情緒たっぷり、うまい鍋料理が食べられることを強調したとみておきましょう。
 会費1円50銭は高いか安いか。満洲日日に鉄道省直営という下関の山陽ホテルが出した広告を見ると、昼食2円、朝と夜は1円50銭(35)になっている。實用的模範食堂とうたう大連日本橋通りの日本橋食堂は洋定食7品付き1円、和定食5品付き50銭。(36)1月10日に催す杉野大連市長ら4人の歓送迎会は会費2円(37)という記事があります。書籍広告を見ると博文館の「野球界」は70銭、「春場所相撲号」が80銭(38)だから、この2冊分ね。酒付きなんですから1円50銭はまあ相場といえると思います。
 私が注目するのはその次。「鍋数に限りがあるので」というところです。つまり文化協会の会員から借りるのか、ヤマトホテルの手持ち鍋か、主催者が複数の鍋を用意できるということですね。文化協会が何人までと明示していないのは、ヤマトホテルかカオヤンローを出す支那料理店から借りられる鍋で間に合う人数を超えたら、会員の鍋を借りようと決めていたのではないかと察するのです。ともあれ、文化協会がそう苦労しなくても、10枚やそこらの鍋を用意できる環境が大連にあった。ジンギスカンという命名は北京でも、いまわれわれが知るジン鍋の手本は満洲の鍋という私の仮説を補強する一つの材料でもあるのです。
 2月1日の記事は誠にそっけない。元新聞記者の親友によると、催しの報道ではよくあることだそうです。デカデカと予告記事が載るから、本番はさぞかしと期待すると、拍子抜けするぐらい簡単。催しが土日に集中し、おまけに日曜は出勤する記者が少ないとくるから、じっくり催しを見ておられない。勢いそうならざるを得ないるのだと彼はいってましたね。
 それに22日の記事に倣えば「成吉斯汗鍋」と書くべきなのに、見出しと記事は「斯く」が抜けた「成吉汗鍋」でしょ。記事には「につしかうくわんジンギスカンなべくわい」と振り仮名がありますから、記者が斯く抜きで書いた。見出しはそれに基づいて斯く抜きにしたということですね。
 そっくり引用でも差し支えなかったはずなのに「満蒙」の編集後記が、記事の抜粋に留めたのは、手前味噌とこの斯く抜きを嫌ったからでしょうね。見出しを考えるのは整理と呼ばれる内勤記者だそうですが、常識ある整理記者が成吉汗とし、校閲も通して印刷された事実は、漢字のジンギスカンの書き方が幾通りかあり、斯く抜きでもジンギスカンと読んだと考えられます。
 それで思い出すのが里見クと久米正雄が書いた色紙です。昭和7年の「文芸春秋」に、その色紙と濱の家主人の北京からの手紙を組み合わせた東京の濱の家が広告が載っています。久米が鍋の繪を描き里見が賛を入れ「成吉汗鍋図」と書いています。(39)私は酔っぱらって「斯」を書くのを忘れたとみたのだが。斯く抜きでも通じたからだったのですね。
 それから記事に付いている写真ですが、縦が2段、幅も同じぐらいで、帽子を被りオーバーを着て立っている3人とその頭ぐらいの高さで燃える篝火が写っています。ところがフラッシュの光量不足で、それぞれの輪郭がわかるよう修正したのはいいが、その白線が太くてね、鍋をどう囲んだのかまるでわかりません。人々が篝火の傍にいたとやっとわかる程度です。
 まとめましょう。中川の見聞が大正10年当時とすると、3年後の大正14年には大連でも蒙古風という冠の有無は兎も角、成吉思汗鍋という呼び方が広まっていたと推察されます。皆さんのレポートでここまでは望みませんが、できるだけ広くかつ深く調べて下さい。では終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

参考文献
上記(34)の出典は満蒙文化協会編「満蒙」55号目次前、ページ番号なし、大正14年1月、満蒙文化協会=原本、 資料その8(1)は「復刻版 満蒙」18巻55号ページ番号なし、平成7年5月、不二出版=原本、、底本は「満蒙」55号目次後ろ広告、大正14年1月、満蒙文化協会、 同(2)は満蒙文化協会編「満蒙」57号159ページ、大正14年3月、満蒙文化協会=原本、 資料その9(1)は大正14年1月22日付満洲日日新聞夕刊2面=マイクロフィルム、、同(2)は同2月1日付朝刊7面、同、 (35)は同1月2日付朝刊2面広告、同、 (36)は同3月27日朝刊4面広告、同、 (37)は同1月7日朝刊2面、同、 (38)は同1月3日朝刊1面広告、同、 (39)は文芸春秋社編「文芸春秋」10巻1号319ページ、昭和7年1月、文芸春秋社=原本