最初の半年は9人だった満鉄調査部

 江別にある道立図書館のホームページを見ると、リファレンスサービスの1例に「ジンギスカンの命名者は駒井徳三」があります。Q&Aの「ジンギスカン(鍋)は誰が名づけたのですか?」というQに対して「名づけた当時は満鉄(南満州鉄道株式会社)の調査部長で、後に満州国総務長官を務めた『駒井徳三』という人物です。」とあり、毎日新聞北海道報道部が昭和52年に出した「北の食物誌」という本を出典(1)として示しています。
 私がジンバ学の研究を始めて間もない平成15年5月には違う形でありましたから、多くの人がこの例を読み、命名者は駒井徳三という人物だと知ったでしょう。新聞社が出した本だから正しいと信じるのは、鰯の頭も信心から―と同じなんです。私の親友の元新聞記者にいわせると、実はこういう新聞の連載記事をまとめた本の情報が一番怪しいそうです。
 彼らは若いころ、新聞記者は自分でデータを探すな。時間と金がかかるから、だれか権威か物知りを見付けて話を聞き、早く書けと訓練されたそうです。その権威なる人物が自分が信じる通説とか、自分の思いつきをまことしやかに語る。それが新聞に出る。そっくりそののまま出ればまだしも、記者は常に短く書くようしつけられているから、結論だけみたいな記事になり、それが信じられてしまう。「北の食物誌」は「この名の由来については札幌市在住の随筆家・吉田博さんが詳しい。(2)」と書いてありますから、まさにそれなんですね。
 私がだ、満鉄の本を調べてね、満鉄に調査部長というポストはなかったと、いささか過激な講義録を公開したものだから、駒井命名説を信じていた人々は慌てて調査部長はやめてね、満洲国の初代総務長官になったと肩書きを取り替えて書くようになった。いまもそう書いたホームページが沢山あることは、皆さん知ってますよね。
 私はね、その根拠として「北の食物誌」には、吉田博という人が「名付け親は当時、満鉄の調査部長で、のちに満州国総務長官を歴任した故駒井徳三氏。(3)」と語ったとあるが、満鉄調査部は創立した明治40年4月から1年8カ月で調査課と改称された。だから駒井氏が満鉄に在職した明治45年、イコール大正元年から大正9年までの間、調査部という名前のセクションはなかった。よって「当時の調査部長」なんているわけない、いい加減な命名説だと決めつけたのです。
 でも、ある先生からね、尽波さんの講義録を拝見したところ、昭和20年の日本敗戦で満鉄が消滅するまで調査部は存在しなかったという印象を受けるといわれました。そうじゃないんのですな。私は駒井さんが満鉄にいた時代に調査部はなかったと強調したけれど、いろいろな部門で満鉄経営や旧満洲の産業開発に必要な調査という仕事は続けられた。調査部という名前ではないけれども、もっと手を拡げて日中戦争、太平洋戦争で勝つための調査、立案する大組織に変身し、昭和13年から18年まで5年間、また調査部の看板を掛けた歴史があるのです。それでね、今年から調査部という名称が使われた時期をね、より明確になるよう講義することにしました。
 平凡社の「大百科事典」と「世界大百科事典」の満鉄調査部という項目は、どちらも鈴木隆史という人の執筆です。「初代総裁の後藤新平は植民地経営を合理的基礎の上におくための総合的調査機関の必要を認め,東亜経済調査局,地質研究所,中央試験所とともに07年本社に調査部(翌年調査課と改称)を設置した。(4)」と同文だが、これは正確ではない。
 07年は明治40年ね。調査部は同年4月1日設置で翌41年12月15日改称、東亜経済調査局は40年9月設置(5)だから合っているが、地質研究所はまだ鉱業部地質課であったし、中央試験所は42年まで関東都督府所管で満鉄の研究機関ではなかったのです。
 満鉄調査部のことを書いた本はたくさんあるけれど、部が出来たときの部員は14人説と100人前後説と2説あるんですな。えらい開きです。ましてや初代調査部長の名前、人数などを詳しく書いた本はないようなので私が調べてみました。
 ジンパ学研究からすると、これはちょっと脱線だが、なんたって鉄道の話だからね、脱線は避けられない、はっはっは。まず、資料その1で、部員数の開きを示しました。いま資料を配るからね、ちょい待ち。行き渡りましたか。


資料その1

   伊藤武雄の「満鉄に生きて」より

 初代調査課長となった川村鉚次郎氏も、台湾旧慣調査の実務経験者でした。川村さんは明冶四一年末、課長就任以来大正六年までこの職にとどまります。その前の一年ばかりの調査部時代は岡松参太郎理事が直接担当していました。川村さんはのちに満鉄の理事になります。かれのもとで調査にあたったおもな課員をあげておけば、ロシヤ語に堪能な、のちにハルピン陳列館長になった森御蔭、中国語のベテラン森茂、これも中国関係を担当した野村潔己、のちかれは満鉄の外事課長になります。ほかに土地法、官地制度を担当し、その方で権威となった亀淵龍長、天海謙三郎、金融・財政を担当した井阪秀雄、三浦義臣などが初期の調査課のスタッフでした。記録によれば明治四二年の調査課人員は十四名、もっともこのうち六名は翌四三年首切られたとのことですが。


 小林秀夫の「満鉄調査部 『元祖シンクタンク』の誕生と崩壊」より

 創立直後の調査部は、経済調査、旧慣調査、ロシア調査の三班に分かれ、それ以外に監査班と統計班があった。スタッフは全員で一〇〇人前後。その内訳は経済、旧慣、ロシア班を合わせて一五〜一六人、監査班は一〇人前後、残りは統計班といった陣容だった。

  

参考文献
上記(1)と(2)と(3)の出典は毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」115ページ、昭和52年8月、毎日新聞社=原本、 (4)は平凡社編「大百科事典」14巻264ページ、昭和60年6月、平凡社=原本、平凡社編「世界大百科事典」平成17年改訂版27巻264ページ、平成17年、平凡社=原本、 (5)は東亜経済調査局編「東亜経済調査局事業綱要」1ページ、昭和4年8月、財団法人東亜経済調査局=原本、 資料その1の伊藤は伊藤武雄著「満鉄に生きて」22ページ、昭和39年9月、勁草書房=原本、同小林は小林秀夫著「満鉄調査部 『元祖シンクタンク』の誕生と崩壊」30ページ、平成17年9月、平凡社=原本


 どうしてこんなに違うのかというと、調査部の生き残りである伊藤さんは満鉄の「明治四十年度統計年報」の従事員の調査部13人(6)が根拠とみられるのに対して、小林さんは川村調査課長より3月早く部員になったという天海謙三郎さんの話に基づいて書いたからだと思いますね。
 東洋学会が出していた「東洋文化」25号に「中国旧慣調査について ―天海謙三郎さんをめぐる座談会―」という記事があってね、天海さんが調査部の人数は「全体ですと、統計班の人数が多かったのでざっと百人近くはおりましたでしょうね。しかし、純粋の調査部員というのはほんのわずかで、社規の立案やら業務の監査に当る者が十人内外、あとは前に申したように旧慣調査、経済調査、露西亜調査の三班合せて十五、六人位でした。(7)」と語っています。
 調査部らしい仕事をしたのは15人前後というところは共通だが、天海さんの100人近くという証言とは違いすぎます。そもそも天海という人が、本当に調査部にいたのかと私は「日本人物情報大系」の「満鉄社員録」をみたら、明治40年度、41年度の社員録は残っておらず「現在確認されている最初の『社員録』は、明治四二(一九〇九)年三月一日現在のものである。(8)」と書いてありました。
 この社員録は調査課と改称した2カ月半後の名簿だ。それなのに川村課長以下わずか36人、菊地謙三郎はいるが、天海謙三郎はいない。その次の大正2年11月15日現在の社員録では菊地はおらず、天海謙三郎がいる(9)ので、この間に菊地さんは婿さんにでもなって改姓したんでしょう。それはそれとして70人ぐらいの部員はどこへいったのか。
 いわゆる満鉄調査部の功罪はいろいろ書かれているけれども、資料その1のように創立時の人数は曖昧なのです。唯一と思うのだが、初期の部員数の数字を示した本があります。松村高夫・柳沢遊・江田憲治著「満鉄の調査と研究――その『神話』と実像」です。これは北大図書館本館の開架にあります。
 満鉄が毎年出した「統計年報」の従事員の数字を集めた「満鉄調査組織の従事員」でね、調査課の人数として、08年こと明治41年は13人、明治42年34人、明治43年37人となっています。これらの注としてね、数字は3月31日現在、調査課の最初の08年、明治41年は調査部だった(10)と書いてあります。伊藤武雄氏の14人説は、これに近いけれど何の記録かはっきりせず1人多い。
 そこで何事も現場主義で臨む私としてはだ、この際、駒井さんゆかりの満鉄調査部の初期の部員数をはっきりさせてから進むことにした。それでね「南満洲鉄道株式会社社報」、以下社報と略しますが、その社報と満洲日日新聞という満鉄系列の新聞を元にしてですよ、明治42年の社員録に至るまでの変化を調べた。そこから始めましょう。
 満鉄の社報は明治40年3月29日に第1号が発行されており、これは遼寧省档案館という中国の会社が作ったマイクロフィルム80巻で読めます。定価300万円ですが、北大図書館は持っています。満洲日日は明治40年11月3日の創刊ですが、北大はこの創刊からほぼ2年分がなくてね、北大所蔵の原紙で作製した明治42年11月23日以降の紙面のマイクロフィルムを見ることになります。
 明治を略しますが、40年4月25日発行の社報23号に社内は庶務、調査、運輸、鉱業、地方の5部を設け、その下に課を置くと定めた示達1号が載っています。同時に課長の辞令が出ていますが、部長の辞令はなく、課によっては、部長よりえらい理事が課長を兼務しているのです。(11)
 野々村理事が総務部監査課長、久保田勝美理事が総務部土木課長、田中理事が運輸部営業課長と港務課長、国沢理事が運輸部運輸課長、犬塚理事が鉱務部販売課長を兼ねた(12)のです。調査部はその下に1つも課がなく、課長の椅子もなかったためか、調査課長兼務の理事はいませんでした。
 ただ、40年7月11日発行の社報89号に理事任命として「法学博士岡松参太郎ハ本月一日本社理事ヲ任命セラレタリ(13)」と載っています。岡松博士は後藤新平総裁が台湾民政局長だったとき設けた台湾社会の調査機関、臨時旧慣調査会の主力メンバーでした。だから岡松理事が調査部担当理事として任命とみられるのですが「南満州鉄道会社十年史」には何も書いていません。
 岡松さんは京都帝大法科大学の教授、しかも、大正8年まで台湾総督府臨時旧慣調査会の部長を兼ねていました。社報128号(8月27日発行)に「▼理事着任 岡松理事ハ本月二十四日着任シ調査部ノ事務ヲ担任ス(14)」とあるけど、部長に任命されたわけではないんですよ。岡松さんは初めは「多少部務も指図されたようだが、台湾時代のように直接調査には干渉されなかった(15)と天海さんは座談会で語っています。
 創業に際して定めた5つの部は、翌41年12月の分課規程改正まで部長は皆未定のまま運営されたから、当然初代の調査部長はいなかった。それにこのとき、駒井さんはまだ卒業前だから調査部長なんかなりっこないのです。資料その2は「南満州鉄道会社十年史」にある関係記事です。業務開始に久保田(勝美)と書いているのは、もう1人久保田理事がいたからで、勝美は前日銀国庫局長、政周は前栃木県知事(16)でした。


資料その2

(1) 五 業務開始

<略>明治四十年四月一日野戦鐵道提理部其他ノ官憲ヨリ鐵道其他ノ引継ヲ受ケ大連児玉町元民政部跡ニ本社事務所ヲ設置シ業務ヲ開始セリ
本社ニハ総務部(一般ニ亙ル庶務、會計、用度、監査、土木(児玉町一家屋)等ノ事務)運輸部(水陸運輸ノ事務)鑛業部(炭坑等ニ關スル事務)地方部(土地建物管理、取締、教育、衛生等ノ事務)ヲ置キ差向キ総務部ハ久保田(勝美)理事、運輸部ハ國澤理事、鑛業部ハ犬塚理事、地方部ハ久保田(政周)理事担当シ<略>


(2) 七  分課分掌及担任者

會社設立セラレ東京市麻布区狸穴町ニ仮事務所ヲ置クヤ明治三十九年十二月二日本社及大連支杜ノ事務分掌及担任者ヲ左ノ如ク暫定ス
 東京本社<略> 
 大連支社
  総務部            副総裁 中村是公
  <略>
  鉱業部            理事  犬塚信太郎
  鐵道部            同   國澤新兵衛
  <略>
明治四十年三月五日勅令第二十二號ヲ以テ会社ハ本社ヲ大連ニ支社ヲ東京市ニ置クコトニ改正セラレ同年四月業務開始ニ当リ差向キ事務分担ヲ定メタルコト業務開始ノ章ニ於テ既ニ述ヘタル所ノ如シ而シテ同年四月二十三日示達第一號ヲ以テ本社分課規程ヲ左ノ通リトシ同時ニ各頭書ノ通リ任命ス


   本社分課規程

第一條 本杜ニ左ノ五部ヲ置ク
 一  総務部
 二  調査部
 三  運輸部
 四  鉱業部
 五  地方部
 <略>
第八條 調査部ニ於テハ左ノ事務ヲ掌理ス
 一  一般経済ノ調査ニ関スル事項
 二  旧慣ノ調査ニ関スル事項給
 三  図書ノ保管ニ関スル事項
 <略>

  

参考文献
上記(6)の出典は南満洲鉄道株式会社編「統計年報 明治40年度」復刻版*ページ、平成3年1月、龍渓舎=原本、 (7)は東洋学会編「東洋文化」25号53ページ、昭和33年3月、東京大学出版会=原本、 (8)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系 第16巻満洲編6」5ページ、平成11年10月、皓星社=原本、(9)は同35ページ、同、 (10)は松村高夫・柳沢遊・江田憲治著「満鉄の調査と研究――その『神話』と実像」30ページ、平成20年7月、青木書店=原本、 (11)と(12)は明治40年4月25日付南満洲鉄道株式会社社報23号=マイクロフィルム、 (13)は明治40年7月11日付同89号、同、 (14)は明治40年8月27日付同128号、同、 (15)は東洋学会編「東洋文化」25号58ページ、昭和33年3月、東京大学出版会=原本、 (16)は朝日新聞社編「東京朝日新聞 縮刷版」復刻版164巻194ページ、平成11年7月、日本図書センター=原本、底本は明治39年11月29日付東京朝日新聞2面、 資料その2の(1)は南満州鉄道会社編「南満州鉄道会社十年史」64ページ、大正8年5月、南満州鉄道会社=原本)、同(2)は同74ページ、同


 私が注目した社報の辞令掲載は10号、日付でいえば明治40年4月10日発行から「任免」という見出しで始まり、27号から「人事」になっている。初掲載の任免は大連病院の医師の辞令でしたね。こうした人事をたどっていけば、ある時点での調査部員の氏名がわかるはずですから、手間でも社報の人事を拾ってみたのです。
 その結果、もし明治42年版以前の満鉄社員録が現存していたら、調査部員はこの顔触れという名簿ができました。資料その3がそれです。番号に続く年月日は3カ月区切りで作った仮想名簿の締め切り日。前職名がないのは皆新採用だからです。現存する42年版の1年前の41年3月1日現在で満鉄社員録を作っていたら(3)の名簿から3月9日発令の井阪秀雄を抜いた12人が調査部員として掲載された筈だが、ともかく(3)は「統計年報」の41年3月末の13人とがっちり一致します。明治41年3月31日か4月1日現在なら井阪がいるから伊藤さんの14人になりますがね。どう、この試みは面白いでしょう。


資料その3

(1)明治40年9月末日現在(9人)
職名 姓名     発令日   掲載社報 発行日   前職名
嘱託 宮内季子   6月10日  78  6月28日
書記 花岡伊之作  6月10日  78  6月28日
書記 野村潔巳   7月11日 105  7月31日
嘱託 関口隆正   8月1日  108  8月3日
書記 田中邦造   8月1日  119  8月16日
書記 大浜滝蔵   8月7日  125  8月23日
書記 臼井甕男   8月7日  128  8月27日
嘱託 森茂     7月26日 130  8月29日
書記 平野正朝   8月1日  146  9月17日

明治40年4月1日から9月末日までの間に花岡伊之作に兼務の発令があった。
8月10日附で運輸事務練習所教員を命じられ(社報117号8月10日発行)、9月10日附で免ぜられた(社報142号9月12日発行)。


(2)明治40年12月末日現在(11人)
職名  姓名     発令日  掲載社報 発行日   前職名
調査役 宮内季子 12月1日  146 12月17日 嘱託
書記  花岡伊之作 6月10日  78  6月28日
書記  野村潔巳  7月11日 105  7月31日
嘱託  関口隆正  8月1日  108  8月3日
書記  田中邦造  8月1日  119  8月16日
書記  大浜滝蔵  8月7日  125  8月23日
書記  臼井甕男  8月7日  128  8月27日
調査役 森茂   12月1日  146 12月17日 嘱託
書記  平野正朝  8月1日  146  9月17日
書記  森御蔭  11月1日  149 11月20日
書記  辻光   12月24日 240 41年1月11日 東京支社雇

書記花岡伊之作が12月16日附で運輸事務練習所教員兼務を命じられた(社報222号12月18日発行)。


(3)明治41年3月末日現在(13人)
職名  姓名     発令日   掲載社報 発行日  前職名
調査役 宮内季子 12月1日  146 12月17日
書記  花岡伊之作 6月10日  78  6月28日
書記  野村潔巳  7月11日 105  7月31日
嘱託  関口隆正  8月1日  108  8月3日
書記  田中邦造  8月1日  119  8月16日
書記  大浜滝蔵  8月7日  125  8月23日
書記  臼井甕男  8月7日  128  8月27日
調査役 森茂   12月1日  146 12月17日
書記  平野正朝  8月1日  146  9月17日
書記  森御蔭  11月1日  149 11月20日
嘱託  沈保儒  12月5日  212 12月6日
書記  辻光   12月24日 240  1月11日
書記  井阪秀雄  3月9日  290  3月12日

嘱託の宮内季子と森茂が調査役に昇格した(社報146号12月17日発行)。斜体の発令日などは明治41年の月日を示す。


(4)明治41年6月末日現在(15人)
職名  姓名    発令日  掲載社報  発行日   前職名
調査役 宮内季子 12月1日  146 12月17日
書記  花岡伊之作 6月10日  78  6月28日
書記  野村潔巳  7月11日 105  7月31日
嘱託  関口隆正  8月1日  108  8月3日
書記  田中邦造  8月1日  119  8月16日
書記  大浜滝蔵  8月7日  125  8月23日
書記  臼井甕男  8月7日  128  8月27日
調査役 森茂   12月1日  146 12月17日
書記  平野正朝  8月1日  146  9月17日
書記  森御蔭  11月1日  149 11月20日
嘱託  沈保儒  12月5日  212 12月6日
書記  辻光   12月24日 240  1月11日
書記  井阪秀雄  3月9日  290  3月12日
書記  菊地謙三郎 5月1日  336  5月8日
雇   小林清蔵  5月9日  339  5月12日


(5)明治41年9月末日現在(15人)
職名  姓名    発令日  掲載社報  発行日   前職名
調査役 宮内季子 12月1日  146 12月17日
書記  花岡伊之作 6月10日  78  6月28日
書記  野村潔巳  7月11日 105  7月31日
嘱託  関口隆正  8月1日  108  8月3日
書記  田中邦造  8月13日 119  8月16日
書記  大浜滝蔵  8月7日  125  8月23日
書記  臼井甕男  8月7日  125  8月23日
調査役 森茂   12月1日  221 12月17日
書記  平野正朝  8月1日  146  9月17日
書記  森御蔭  11月1日  149 11月20日
書記  辻光   12月24日 240  1月11日
書記  井阪秀雄  3月9日  290  3月12日
書記  菊地謙三郎 5月1日  336  5月8日
雇   小林清蔵  5月9日  339  5月12日
調査役 川村鉚次郎 9月19日 464 10月6日

川村鉚次郎は総務部監査課兼務で発令された。 嘱託沈保儒が7月24日附で総務部監査課勤務(奉天在勤)を命じられた(社報403号7月25日発行)。

 初の調査部員は宮内と花岡でした。天海回顧談によると、宮内は岡松の教え子。「この人は岡松先生とは姻戚(夫人が博士の姪)なんです。京都大を出て司法官試補中、台湾旧慣調査に参加したのですが、二年そこそこで同調査の方は切上げ、岡松先生が第二次調査として目論んでいられた華北調査の準備工作員として北京に派遣されていましたのを、岡松先生が満鉄理事就任と同時に満鉄に入社させ、旧慣調査を主宰させるようになったのです。(17)」と天海さんは語っています。
 京都帝国大学編「京都帝国大学一覧」明治34年版をみたら、確かに宮内は明治36年7月卒で1期生です。同37年版「職員録」では京都地方裁判所の司法官試補にいるけど、38年にはいない。また花岡は台湾、北京を通じて宮内の「下僚」、部下だった(18)と語っている。宮内が雇っていたわけではない思うのですが、私は花岡伊之作という名前でに何か覚えがあった。考えたら、花岡は明治40年に出た北京の名所案内「北京概観」の筆者だった。北京にいたら満鉄に呼ばれたのですね。
 この座談会で天海さんは花岡さんとしか呼ばなかったので、後で編集者が括弧して伊之助と入れている。そのせいだと思うのですが、前に挙げた伊藤さん、小林さんとも花岡伊之助にしています。細かいことですが、伊之作が正しい。ふっふっふ。ともかく岡松さんが義理の甥になる宮内と一緒に花岡も満鉄に呼んだのでしょう。5年後ですが、駒井徳三さんも岡松さんに来いと声を掛けられたので満鉄に決めたと本に書いています。
 さて、資料その3は私は正しいと信じても、やはりちゃんとした裏付けがほしい。それでいろいろ探してみたら、うまい資料があったんですなあ。求めよ、さらば与えられんとね。それはアジア歴史資料センターの文書です。私の講義を聞いて満鉄調査部を研究したくなる人もいるだろうから、特に、特にだ、その文書情報を資料その4としましたから、疑う人は検索してみなさい。簡易検索の窓に半角で「B04010959300」と入れて検索すると「南満州鉄道関係雑纂 参考書」が出る。画像105枚のNO.1と90枚のNO.2があるから、NO.2の36枚目から見なさい。

資料その4

件名標題(日本語) 南満州鉄道関係雑纂 参考書
階層 外務省外交史料館>外務省記録>1門 政治>7類 国際企業>3項 交通>南満州鉄道関係雑纂/参考書
レファレンスコード B04010959300
簿冊キー 1-7-3-118
言語 jpn
規模 90
組織歴/履歴 外務省

 初めて見た人には、わかりにくいだろうから、資料その5としてデータを抜粋して示しました。36枚目の各期末現在職員数及給額表(甲第一表ノ一)は 明治40年4月、満鉄職員は2467人、平均月給61円1銭でスタートし、半年後の9月末には2594人、60円26銭になっていたことを示しています。
 資料その5は、37枚目の各部別各期末現在職員数及給額増減表(甲第一表ノ二)です。40年上半期末、40年12月末、41年上半期末、41年6月末、41年上半期末それぞれの人員、給与総額 一人平均月給をまとめた表だ。その40年上半期末、つまり40年9月末の調査部員はたった9人で、運輸部の約2000人は別格としても、総務など3部はいずれも100人を超えており、調査部はとても1つの部とはいえない人数だったが、給料は他の部に比べて高かったことがわかりますね。
 資料その5(2)は、その中の調査部だけの数字を抜き出したものです。奇しくも、なんて冷やかしてはいかん。理屈として社報を調べれば明治41年3月1日現在いた全員の社員録も復元できるはずですよ。

資料その5

(1)各部別各期末現在職員数及給額増減表(甲第一表ノ二)

     人員 給額    一人平均給額
総務部  280  20,426,60  79,95
調査部   9   884,00  98,22
運輸部 1,991 115,558,80  58,04
鉱業部  175  10,612,00  60,64
地方部  107  6,580,00  61,49
<例として明治40年上半期末の数字のみ抽出>


(2)調査部の各期末現在職員数及給額増減表(同)
        人員 給額   一人平均給額
40年9月末   9   884,00  98,22
40年12月末 11  1,104,00 100,36
41年3月末  13  1,214,00  93,38
41年6月末  15  1,348,00  89,87
41年9月末  14  1,228,00  87,71
<調査部だけ抽出、上半期末は9月末と書き換え>

 ここで「日本人物情報大系」にある明治42年3月1日現在の満鉄社員録の調査課員は川村課長を入れて36人だったことを思い出して下さい。調査課に改称して、3カ月ちょっとの間に、41年9月末の調査部14人から一挙に22人増えたことになるが、天海回顧談に従えば100人近くいたはずだから、逆に60人ぐらい減ったことになり、矛盾というのかなあ、わけがわかりませんよね。
 この謎は社報を読んでいったら解けたのです。社報517号(41年12月10日発行)に総庶秘一〇五七号として「職員及傭人ハ本月十五日以降新規程ニ依リ現在勤務地ニ於テ左記ノ通所属換ヲ命セラレタル儀ト心得ヘシ(19)」という示達があり、総務部監査課員と調査部員は否応なしに調査課員にされてしまったのです。
 総務部監査課の管掌事項は「一、業務ノ統計及監査ニ関スル事項」、「二、会計ノ検査ニ関スル事項(20)」で、それをやっていた監査課の人数は、というと「南満州鉄道関係雑纂 参考書」の「各部別各期末現在職員数及給額増減表(甲第一表ノ一)」に明治41年上半期末だけですが、46人(21)と載っています。
 だから天海回顧談の「100人近くいた」時期は、監査課員が倍近く増えていて、明治42年12月15日の所属換えで、同居したかどうかは別として、一斉に調査課員になったときかも知れん。でも、すぐ配置転換や免職で減らされ、3月半の間に社員録にある36人に調整されたことが考えられます。その後は、いまさっきいった「満鉄の調査と研究」の「満鉄調査組織の従事員」によれば大正8年までは増えても50人台(22)でしたからね。
 この42年師走の分課規程改正の理由について「満鉄10年史」は資料その6のように説明しています。部長を置かず張り切り理事たちが課長を兼務して勝手に忙しがったように思えるのですが、調査大好き人間だった後藤新平総裁が、42年7月に逓信大臣として満鉄を去ったことも大きかった。調査部はタニマチを失った力士みたいなもんです。1年8カ月で調査課と改称して会計監査などもやるようになったのです。

資料その6

<略>以上記述セルカ如ク会社ノ組織ハ本社ヲ五部ニ分チ部ノ下ニ課ヲ置キ理事ハ各部ヲ統轄シ各自其部ニ属スル課務ヲ處理スル所謂部局制度ナルカ故ニ理事ハ日常ノ事務ニ忙殺セラレ深ク大局ヲ考慮スルノ暇ヲ欠クノ憾アリ反之課長ハ理事ニ依頼シテ執務シ其責任ヲ感スルノ度薄キノ嫌ナキニアラサリシヲ以テ明治四十一年十二月十五日之ヲ左ノ通リ改正シ部ヲ廃シ且系統ヲ追フテ事務ヲ綜合シ課ノ廃合ヲ行ヒ以テ事務ノ簡捷ヲ謀リ又課長ヲシテ其課務ヲ主宰セシメ職責ヲ明ニスルト共ニ理事ハ課長ヲ指揮監督スルモノトシ以テ常ニ眼ヲ大局ニ往キ内外ノ形勢ニ鑑ミ社務ニ鞅掌スル所謂合議制度ニ改ム

   分課規程

一 本社

第一條 本社ニ左ノ八課ヲ置ク

一 庶務課
二 調査課
三 会計課
四 用度課
五 工作課
六 運輸課
七 鉱業課
八 地方課

  

参考文献
上記(17)の出典は東洋学会編「東洋文化」25号53ページ、昭和33年3月、東京大学出版会=原本、 (18)は同54ページ、同、 (19)と(21)はJACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B04010959300(第37画像目から)、南満州鉄道関係雑纂/参考書、 (20)は明治40年4月25日付南満洲鉄道株式会社社報23号「分課規程第六条」=マイクロフィルム、 (22)は松村高夫・柳沢遊・江田憲治著「満鉄の調査と研究 ――その『神話』と実像」30ページ、平成20年7月、青木書店=原本、 資料その6は南満州鉄道会社編「南満州鉄道会社十年史」83ページ、大正8年5月、南満州鉄道会社=原本


 そこです。明治42年の暮れ、本当に調査課は100人近くまで膨れあがったかどうかは、調査部の名簿作りと同じように、社報の人事を見て監査課の名簿を作り、調査部のそれと合体させてみれば、その有無は証明できる筈ですよね。ひどい脱線だと列車が転覆する。由利徹ら脱線トリオの次は転覆トリオだと三波伸介らが「てんぷくトリオ」を結成した故事からいえば、もう転覆クラスの深入りだが、やってみました。
 資料その7が明治40年4月の総務部監査課創設から42年版社員録が作られた42年3月1日現在に至る監査課及び監査課系調査課員の出入り表です。単語カードに1人ずつ辞令の発令日、社報番号、職階などを書き込んで整理しました。
 断っておくが、この出入り表は、何度社報を見ても3人の転出が確認できなかったので実人員より3人多い。まず、初代監査課長に発令された野々村金五郎理事ね。課長席に座っていなかったと思うけど、とにかく42年12月15日に調査部調査役の川村鉚次郎が調査課長に発令されたのに、野々村に対する課長免の辞令が見付からないので、そのまま残っている。
 それから新宮亮と福田長一という雇員2人の転出、依願免の辞令が見当たらないんですなあ。満鉄社報を見ていると、悪いことをして首になった場合は何々を免ずと人事に掲載されるけれど、事故で殉職とか病死は雑報の方に載せるので、雑報もみたが、40年9月20日までの死亡者8人にもないのです。
 出入り表でわかるように監査課の在社最短記録は長尾榮太郎で、5月13日付入社で7月6日付でやめています。これは1カ月以上在職したので人事に掲載されたけれども、新宮と福田は採用取り消しか1月未満でやめたので掲載されなかったと考えております。

資料その7

   監査課員の異動経過
              Tは退社・転勤、Kは兼務、KNは兼務免

発令日 異動者  社報番号  異動数 累計
4/23  野々村    23    +1  1
5/1  衛藤外2   30    +3  4
5/3  内田K    30    +1  5
4/1  橋本外4   31附録  +5 10
4/1  新宮外24  31附録 +25 35
5/13  長尾     40    +1 36
5/20  山口     46    +1 37
4/23  佐藤外9   59附録 +10 47
5/22  鎌田     59附録  +1 48
4/23  松下K    64    +1 49
6/12  加藤     66    +1 50
5/13  山内     70    +1 51
7/6  長尾T    87    −1 50
7/8  岡      88    +1 51
8/2   川上T    110    −1 50
8/2  岡外1T   110    −2 48
8/10  可児     115    +1 49
8/24  橋本外1T  127    −2 47
8/26  西田外2T  128    −3 44
8/28  半田外1T  130    −2 42
9/21  瀬尾     151    +1 43
10/3  大河平T   160    −1 42
10/6  川村     164    +1 43
10/8  可児T    164    −1 42
10/21 石井T    175    −1 41
10/22 野口外1   176    +2 43
11/19 朝倉K    199    +1 44
11/21 大浦T    202    −1 43
12/5  大野T    212    −1 42
12/12 谷本     219    +1 43
12/16 花田     222    +1 44
-------------------- 以上 明治40年 1/7  荒木T    238    −1 43
2/1  菅原     270    +1 44
3/26  水野     302    +1 45
4/1  玉置     313    +1 46
4/15  長崎     318    +1 47
4/16  加藤T    318    −1 46
5/1  黒田T    331    −1 45
5/1  米良     332    +1 46
4/29  和田     342    +1 47
6/1  李      361    +1 48
6/21  伴野     375    +1 49
7/24  沈      403    +1 50
8/20  大獄     435    +1 51
9/8  和田T    442    −1 50
9/13  宮ノ原    449    +1 51
9/19  川村K    464    +1 52←41年度上半期末
11/21 宮崎T    502    −1 51
12/9  小柳外1T  517    −2 49
12/11 山口外2T  518    −3 46
12/12 花田T    519    −1 45
12/11 松下TN   号外    −1 44
12/11 岩垂T    号外    −1 43
12/13 塩谷外10T 号外   −11 32
12/15 川村が初代調査課長になる  ←調査課へ移行、調査部と合併
12/15 沈外2T   521    −3 29
12/15 佐竹外1   523    +2 31
12/17 星野     524    +1 32
12/18 衛藤外2T  525    −3 29
12/21 村井KN   527    −1 28
12/28 宮ノ原T   533    −1 27
-------------------- 以上 明治41年 1/22  岡外1K   551    +2 29
2/26  内田KN   580    −1 28
3/1  朝倉KN   586    −1 27

-------------------- 以上 明治42年

 この27人から野々村、新宮、福田の3人、それに川村は調査部員で数えるので、計4人を引くと23人になります。調査課移行直前でも監査課は32人だったから、調査部の15人前後と合わせても50人は超えない。それから大正7年の社報3382号に「総務部調査課勤務 天海謙三郎 依願職員ヲ免ス 右六月十九日附(23)」という辞令があり、天海さんも「満十年二カ月ばかりで退社」して三菱に入社した(24)」と語っています。
 さっきいった「満鉄の調査と研究」の従事員表によれば、大正7年までに調査課の人数が最大になったのは大正6年の58人(25)だ。天海さんがやめるまでに100人近くの調査部、調査課になった時期なんてなかったのです。
 ただし、残念ながらこの出入り表では41年上半期末は52人でアジ歴センター文書の46人が説明できない。野々村、新宮、福田の3人を引いても3人多い。だからといって本業は監査ではないと内田、松下、朝倉、川村の兼務者4人を引くと1人足りない。これさえ合えば大威張りできるのですがね。まあ、その辺は満鉄研究の専門家にお任せしましょう。
 一方、調査部の明治41年9月末以後の異動は10月9日付で荘村秀雄が着任(26)臼井甕男が12月12日付で東京支社へ転勤し、(27)関口隆正と田中邦造が12月28日付で退社(28)して差し引き2人減って13人となります。こうして資料その8に引用した明治42年3月末日現在の社員録にある調査課員の元の所属の色分けができるわけです。マークなしが旧調査部員で13人。旧監査課員23人で▼のついた者が前監査課員、▽は監査課創設以来に在籍していた生え抜きです。おほん、おほん、これはぴったりいきます。


資料その8

調査課
 課長     川村鉚次郎
        岡本芳次郎▼
        山越富三郎▼
        佐竹三吾▼
        宮内季子
        森茂
        溝口力之助▼
 奉天在勤   鎌田弥助▼
        森御蔭
        谷本金次郎▼
 長春在勤   米良貞雄▼
        山内昌一▼
        玉置嘉門▼
    (兼) 吉村小次郎▼
    (兼) 岡虎次郎▼
        野村潔己
        花岡伊之作
        井坂秀雄
        平野正朝
        菅原省三▼
        大浜滝三
        菊地謙三郎
        岡橋宗清▽
        星野清徴▼
        荘村秀雄
        久保田勝平▽
        村山長昇▼
 奉天在勤   大嶽長次郎▼
        加藤清武▼
        辻光
        栗木英太郎▽
 奉天在勤   水野春太郎▼
        瀬尾昭▼
        小林清蔵
 奉天在勤   李雲海▼
        伴野大造▼

 でも「百人近く」の調査部説はまだ否定できないのです。天海さんはもう一度満鉄に入社したからです。「満州事変後ですから、多分昭和八年頃でしょう。満鉄に臨時経済調査局というスタッフが設けられ」たので、そこに入った(29)という。臨時経済調査局と2度も語っているけど、そんな組織はなかったし、昭和9年版の社員録に天海という名前は載っていないんだなあ。
 似た名前では臨時経済調査委員会があるけど、これは昭和2年11月に設置され、同4年6月に終わっとる(30)。経済調査会は昭和7年1月設立で同11年10月「産業部が創設されるにともない、そこに吸収されることで消滅する。(31)」が、組織もご本人が語るように第5部に法制班があり100人を超えていた。要するに天海回顧談は調査部と調査課と経済調査会がごちゃ混ぜになった話としか思えません。しつこく調べると、先人のこういう誤りが見えてきます。
  

参考文献
上記(23)の出典は大正7年6月20日付南満洲鉄道株式会社社報3382号=マイクロフィルム、 (24)は東洋学会編「東洋文化」25号82ページ、昭和33年3月、東京大学出版会=原本、(29)は同99ページ、同、 (25)は松村高夫・柳沢遊・江田憲治著「満鉄の調査と研究 ――その『神話』と実像」30ページ、平成20年7月、青木書店=原本、 (26)は明治41年10月10日付南満洲鉄道株式会社社報468号=マイクロフィルム、(27)は同12月12日付同519号、同、 (28)は同12月29日付同533号、同、 資料その8は芳賀登ほか5人著「日本人物情報大系16 満洲編6」5ページ、平成11年10月、皓星社=原本、 =原本、 (30)は小林英夫著「満鉄調査部の軌跡」343ページ、平成19年1月、藤原書店=原本、 (31)は同119ページ、同


 はい、脱線も脱線、転覆しちゃったから急ぎ復旧して毎日新聞社の「北の食物誌」の吟味に戻します。これはね、毎日新聞社北海道報道部による連載記事をまとめた本で昭和52年に出ています。駒井命名説のくだりは、ちょっと長いので資料その9に歴史の説明だけ抜き出しました。

資料その9

 この名の由来については札幌市在住の随筆家・吉田博さんが詳しい。以前、道庁の農政課長などを務め、昭和二十九年ごろ、北海道新生活建設協議会の事務局長として、たんぱく質の不足しがちな農村に身近な羊肉を普及させようといろいろ心をくだいた人だ。その吉田さんによると、ジンギスカンなべの名称は、戦前に満鉄の公主嶺(こうしゅれい)農事試験場で生まれたそうだ。名付け親は当時、満鉄の調査部長で、のちに満州国総務長官を歴任した故駒井徳三氏。駒井氏の娘さんである藤蔭満州野(ますの)さんが昭和三十八年、道内の雑誌『月刊さっぽろ』に寄せた「父とジンギスカン」という一文から―。
 「満鉄に入社した父は、大正の初めに満州から蒙古地方を随分歩いたらしい。蒙古には大きな羊の放牧地帯があることを初めて知った。羊が蒙古人の生活にどんな重要なものであるか気がついたそうである。羊肉は大正のころから日本人も食べ始めたといわれる。それをジンギスカン鍋と名付けたのが私の父自身であったらしい。父は名前をつけることが好きで……ジンギスカン鍋も蒙古の武将の名をなんとなくつけたのかも知れない」。
 この大陸の英雄と北海道を結び付けるものといったら、北海道の風土が単に大陸的ということと、冒頭で記した義経伝説くらい。この名がつかず、ただの”羊の焼肉”だったら、今日のような普及も隆盛もなかっただろう。名称とは恐ろしいものである。
 北海道で一番最初に羊肉の普及、奨励に乗り出したのは、羊による畜産振興をもくろんだお役所であった。農林省月寒(つきさつぷ)種羊場(現在の農林省北海道農業試験場)は大正年代から羊肉料理をいろいろと試作し、来訪者に食べさせたという。さらに昭和に入ると、種羊場の飼育主任、山田喜平技師は昭和六年版の『緬羊と其飼い方』の中で、焼物九種類、揚物六種類、煮物十二種類、内臓料理五種類……と、至れり尽くせりのメニューを発表している。そのひとつ、ジンギスカンなべと思われる調理法の解説―。
「羊肉は一分ぐらいの厚さに切り、しょうゆ、酒、砂糖、七色トウガラシ、ショウガ、ネギ、ゴマ油少量を合わせた中に約三十分浸しておく。焦げつかぬよう金網にゴマ油を塗って、強火の七輪にかけ、つけ汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる」
 そのあとに、生松の枝を炭火にまぜて、いぶすように焼くと一層風味がよい、と(いき)な注意書までついている。民間でも大正時代に、羊肉料理を出したレストランが札幌に一、二店あったが、これは今のジンギスカンなべなどとはほど遠い”高級料理”だったという。
 ジンギスカンなべを民間で初めて客に出したのは札幌・狸小路六丁目にあった『横綱』という店。が、これも道庁畜産課の肝いりで、羊肉、なべ、それに宣伝マッチやリーフレットまで道庁が準備して昭和十一年十一月に店開きした。ここのご主人は羊肉特有のくさみを消すために、秘伝のタレつくりに日夜大奮闘。道庁の後援もあって商売は軌道に乗ったが、戦争で肉も酒も売るものがなくなって昭和十八年に閉店した。

  

参考文献
上記資料その9の出典は毎日新聞北海道報道部編「北の食物誌」115ページ、昭和52年8月、毎日新聞社=原本


 またしても吉田博さんが登場してきました。最初に「この名前の由来」とあるのは、その前にジンギスカン鍋、ジンギスカン焼きという名前はどうしてついたのだろうという疑問を受けた形だからです。今度は郷土史家ではなく随筆家としてです。吉田さんの任意要約の証明と藤蔭さんの談話の「かも知れない」分析は前回やりましたから繰り返しません。満州野の州という字が違うなど細かいことも、いまさら―ですね。
 まず記事の構成をみますと、8つの段落からできています。1番目は、どうしてジンギスカンと呼ばれるのだろうかという問題提起ですね。それを受けているのが2番目で、これが最も重要な段落です。ですから、細かく分析してみましょう。吉田さんが執筆したのではなくて、プロの新聞記者が書いたものだけに、前回の「成吉思汗物語り」と違って、吉田さん独自の公主嶺発祥・駒井命名説が要領よく書いてあります。
 まず名前の由来は吉田さんが詳しいと紹介されます。道農務課で羊肉利用に関係あった人と経歴を示し、権威付けをしています。その吉田さんから聞いたことが続くわけですが、要約すると、ジンギスカンという名前は戦前、満鉄の試験場で付けられた。命名者は満鉄調査部長駒井徳三。その証拠に駒井の娘が書いた文章がある―こうなりますね。
 藤蔭さんの随想は、同じような部分をこれで4回見てもらうことになりますね。私が引用したのは1回だけなんですが、茜会と吉田さんとこの毎日さんと引用個所中に、削除しにくい形で入っている場合、著作権保護の見地からはどうなるのでしょうか。麻雀ではありませんが、ジンパ学講座がこういうページを作るから悪質の程度がリャンハンだとかサンハンになるというのであれば、すぐ不便でもなんでも引用は1回に手直ししますから、前もってご注意を頂戴したいものであります。著作権継承者から著作権侵害で訴えられたくて、こんな講義をやっているわけではありませんからね。
 こうなるのも、元はといえば駒井命名説の証拠として使えそうなのは藤蔭随想しかないからなんです。駒井命名説を唱える方々のせいであって、そんなわけはないと否定するために、また私が引用してしまう。悪循環のようなものなんです。それはさておき「北の食物誌」では中略部分は……を使って、一部を飛ばしたことを示しています。うまい手ですなあ。
 それにしても吉田さんは、公主嶺の農事試験場が名前の発祥地だという証拠は何も示しておらん。試験場の文書に駒井が命名したと書いてあるとか、満洲の新聞に出ていたとかね。この一文では、とても信じられません。たとえば吉田さんの「戦前」とはいつごろを指すのですかね。公主嶺の満鉄農事試験場で羊を飼い始めたのは大正2年、その試験場に畜産科ができたのが大正7年です。後者から数えるとして、戦前というから蘆溝橋事件からの支那事変を指すなら昭和12年ですから18年、太平洋戦争が始まる前の年は昭和15年、この間22年の開きがあります。
 繰り返しますが、吉田さんの唱える駒井さんの役職「当時、満鉄の調査部長」というのが、そもそも間違い。駒井さんは大正元年から9年満鉄にいたが、その間満鉄には調査部という部そのものが存在しなかったのだから「当時の調査部長」はあり得ないのです。
 でも満鉄は昭和13年春に2度目の調査部を設置し、初代調査部長を発令したのです。明治41年末からそれまでの29年間、満鉄にはいろいろな調査組織はあったが、調査部を名乗る部はなかったのです。その事情を説明した新聞記事が資料その10です。駒井さんはとっくに満洲国政府を離れて日本に戻り、兵庫県宝塚市で中国語教育に力を入れる康徳学院を開き、学生を育てていました。

資料その10

満鉄産業部解消
  調査部を新設
    機構、人事発表さる

満鉄では満州国の産業開発に対応し昭和十一年一月産業部を設置、以来全満の産業開発に協力するとゝに重工業部門の発展に鋭意努力し來つたが今回満洲産業開発五ケ年計画の整備と満洲重工業会社の設立を機会に同部をこゝに解消新に調査部を設けて従来の企業産業調査より純然たる調査機関として大陸開拓の使命を完うすることゝなり、かねて当局に認可申請中のところ去る三十日中央より認可あつたので満鉄では三十一日午後三時調査部の機構並に人事を左の如く発表した、新設調査部の機構は社業に関聯する経済、交通その他の基礎調査、研究並に社内調査資料、統計業務の統制に関する事務を掌握するもので職制中庶務、資料の二課に各部門を担当する調査役制度を設け、調査役は合計十五名で内2名を兼務としこれに当ることゝなつた、而して調査部は満鉄将来の機構改革に備へて拡大強化を図る意味から最初予定した社員部長制を廃して理事部長制とし更に次長制度を設けて理事部長を補佐せしめることになつてゐる
即ち新職制左の如し
一、調査部に庶務課及資料課の二課並に調査役を置く
二、大連図書館、満洲資源館、北満経済調査所を調査部の管理箇所とす
三、畜産加工所を鉄道総局の管理箇所とす

  調査部陣容
調査部の新職制によりこれに伴ふ人事を一日附で左の如く発表した
  理事 郡山智
調査部長を命ず<略>

 駒井さんの入社は大正元年9月2日です。社報を見ると「地方課勤務ヲ命ス(32)」となっています。だから「日本人物情報大系」にある満鉄の社員録、職員録の大正2年、4年、7年度版の社報に駒井さんの名前が載っています。この飛び飛びなのは「日本人物情報大系」の満鉄の社員録、職員録が明治42年から昭和15年まで数年置きの名簿だからなのです。
 大正2年版でみると、社内には部はなく、いきなり課です。駒井さんは地方課の茂泉敬孝課長から数えて23番目にいます。地方課には74人おり公主嶺兼務者も入っています。注目されるのは北大の橋本左五郎、後の農学部教授が地方課嘱託になっている(33)ことです。
 この橋本さんは明治17年に夏目漱石と一緒に間借りして自炊した仲でした。漱石が明治42年に朝日新聞に連載した「満韓ところどころ」にも、蒙古から帰ってきたばかりの橋本さんと大連で会ったことを書いています。漱石はこの満洲旅行で知人から何度も食事に招かれるのですが、腹が痛むと断り、スープを飲んで寝たなどと書いています。もし、出かけていたら必ずや大連や満洲のジンギスカン料理を書いたに違いないのですがね。
 それにしても、れっきとした農科大学教授が満鉄嘱託とふたまた掛けてよいものか、ちょっと不思議ですよね。ところが、この明治42年に橋本さんは満鉄の嘱託になり、すぐ念願の蒙古視察に出掛けました。(34)その次は満洲を調べるつもりで、満鉄に籍を残し、大正元年と大正2年と3度満洲の農業調査をしたことが満洲日日新聞の記事からわかります。駒井さんの入社は大正元年だから、その2回目の調査から橋本さんのアシスタントになったのでしょう。というのは駒井さんの本「満州国の建設を顧みて」によれば「橋本先生が満鉄と御関係をもたれましたために、私は先生のお伴して満洲を旅行し、今日の産業開発の基礎を為した現在の公主嶺農事試験場の立案、計画其他に就いて橋本先生の助手となつて働いて居たのであります」(35)と書いてあるからです。
 ああ、それからですね、この「満韓ところどころ」はインターネット上で著作権切れの名作を公開している青空文庫で読めますから、キーワード「青空文庫」で検索して読んで下さい。橋本さんの若いころのエピソードが面白いですよ。
  

参考文献
上記資料その10の出典は昭和13年4月1日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (32)は大正元年9月4日付南満洲鉄道株式会社社報1649号1ページ、平成6年、柏書房=マイクロフィルム、 (33)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」第16巻満洲編6の39ページ、平成11年、皓星社=原本、(34)は「畜産雑誌」第3巻1号「蒙古と畜産」5ページ、北海道畜産協会、明治43年2月=原本、(35)は満蒙研究資料13号8ページ、駒井徳三口述「満洲国の建設を顧みて」、昭和10年、北海道帝国大学満蒙研究会=原本


 さてと、満鉄社員名簿ですが、大正4年版では部・課制となり、課員も職員と雇員に分かれています。駒井さんは地方部地方課職員で、村井啓太郎課長から数えて18番目。地方課は兼務も含めて職員が46人、雇員が18人、本社以外の勤務者は職員9人、雇員8人おり、課というには大所帯です。(36)
 大正7年版になると、地方部は地方課、衛生課、中央試験所、農業試験場を抱え、駒井さんは村井課長から数えて12番目に上がっています。課全体では兼務を含め職員59人、雇員19人とさらにふくれあがっています(37)。  「日本人物情報大系満洲編」の職員録は、その次が大正10年8月1日現在なので、大正9年7月28日付で退社した駒井さんは載ってません。いいですか、社報の人事には「依願職員ヲ免ス 地方部勧業課勤務 職員 駒井徳三(38)」とあります。9年10カ月働いて課長にならないうちにやめたんですよ。こういう基礎資料があるということも調べないで、よく満鉄調査部長だったといってくれたもんだ。
 駒井さんは大正7年7月から2年間支那国内の産業調査に出かけています。満鉄では毎年数人の社員を1〜2年間ずつ海外に留学させていました。例えば駒井さんが辞めた大正9年は5月29日付で鈴木秀幹、中本保三、市川健吉の3人に「満二箇年間欧米各国ヘ留学ヲ命ス」、鈴木二郎、高橋仁一の2人に「往復共満一箇年間欧米各国ヘ出張ヲ命ス」という辞令(39)が出ています。中本は駒井さんと同期の農学部OBで大豆の改良研究をした人です。それで私は駒井さんは産業調査と称するが、この留学制度で中国を回ったとみて、この時期の社報を繰り返し超丁寧に見たけれども載っていないんだな。つまり地方部員の出張としては異例に長いものの、仕事のうちだった、てことでしょう。
 満洲日日新聞にね、これに関連して面白い記事が2本あります。1本は大連を中心として有名人、満鉄、官公庁、関東軍などの幹部の動静を伝える「人事」という小さな欄にね、5月なんですが「▼駒井徳三氏(満鉄産業課長) 出張中の處三十日朝帰社(40)」と載っていました。駒井さんはヒラなのに、記者がどう間違えたか産業課長と書いちゃってる。駒井さん、このとき34歳だから、やっぱり課長止まりですよ。ふっふっふ。
 もう1本は同じ年の7月だが「●駒井氏出発 満鉄地方課駒井徳三郎氏は支那産業視察の命を受け内地に於て諸般の準備を整へて渡連せしが七日齊通丸にて出発天津に渡り山東方面より漸次南支那に及ぶべしと(41)」と堂々と載っています。5月30日の「人事」は内地から大連に戻ってきたときのことだとわかりますね。
 これは埋め草に丁度いい長さだったともいえますがね、せいぜい「人事」欄に「満鉄地方課駒井徳三郎氏、七日齊通丸で支那へ」ぐらいで十分なのに、わざわざこう取り上げられたのは、駒井さんの人徳でしょうね。仲良しの記者が餞別代わりに書いたことも考えられますよ。
 「札幌同窓会第39回報告」に満洲支会の動静として「大正七年六月七日 満鉄地方課員駒井君支那四百余州に亘る産業調査の為、本日午後四時出帆先づ天津に赴かる、向ふ二箇年の予定、大に其の健康を祈る、蓋し君が支那に対する将来の抱負と経綸将に刮目して見るべきなり(42)」とあります。「麦秋駒井徳三」年譜では大正8年10月に「支那棉花改良の研究」という本を上海で自費出版している(43)のですが、この長期調査中だったから本が書けたのでしょう。
 大正8年4月、地方課が大連星ケ浦の星の家で3回目の家族会を開きました。新聞記事によれば「村井課長の挨拶に次で運動会開始幼年少年夫人各組にて十数番の競技あり正午模擬店を開きうどん、そば、関東煮、おでん、汁粉団子等に子供を喜ばせ」(44)とあります。
 駒井さんは支那にいて参加できないので、奥さんと子供たちはどうしたかわかりません。模擬店では大人向けに焼き鳥ぐらいあったのかどうか怪しいし、同年5月15日からの大連獣鳥肉商組合の肉類値上げ広告では牛肉、鳥肉、豚肉だけ(45)で羊肉は含まれておらず、このころはまだ日本人社会では羊肉は縁遠い食べ物だったように思われます。
 満鉄にいたとき駒井さんの働き方は平社員離れしていたらしい。満鉄は9時出勤の4時帰りだったのに、駒井さんは10時過ぎでないと出てこない。「会社の仕事については自宅で晩遅くまで調査研究に没頭しているので、翌朝は時間通りには出勤できない。それで悪ければやめさせればよいと嘯いていたが、さすが大満鉄だけに、駒井君だけは重役並みの出勤簿御免であった。」し、土地獲得交渉のための旅行や欠勤の連続だった(46)と、同期生で満鉄でも同僚だった宮部一郎さんは回顧しています。
 駒井さんは「大滿洲國建設録」の中で「大連の本社に永久の別れを告げて支那四百余州に向つて長期放浪の旅に出てしまつた。」と書き、そのすぐ後ろに「私にとつては第二の家郷に等しい満鉄そのものが、政党者流の闖入にあひ、政党屋の喰物に供せられんとするのを見ては、これを黙視するに忍びなかつた。東京支社の一室に於て、当時の副社長中西清一氏と激論の結果、終に自ら満鉄を飛び出して仕舞つたのだ。(47)」と理由を説明しています。
 駒井さんが満鉄をやめた理由は、そのほかにもあったようで、朝日新聞は昭和7年春、満洲国総務長官になると決まったとき、経歴紹介に「持つて生れた豪放雄大な性質は事毎に奇智を生み出し先年某氏が満鉄総裁としてさい配をふるつた際二万円を持たせて欧州視察にやつてやるといふ結構な申出をあつさり断り、その代り自分を支那全土及び満洲の視察に派遣してくれゝば妥当合理的な対満政策のプランを樹立して見せるといふので、当局もその熱に動かされて人間五人をつけ八万円を持たせて調査にやつた、君は得々として実地視察に約半年を費やし、大部の報告書を作りあげたが時あたかも社長の更迭となつて新社長はこの貴重な報告書について一片の質問もなさず打つちやらかしてしまつた、とりわけて気骨のある氏が怒つたのは無理もなくそれでフイと満鐵を飛び出し内地に帰つて約三年間外務省で働いたが、この間も満蒙に対する研究はおこたらなかつた、(48)」と書いています。
 さっきいった宮部さんによれば「駒井君の仕事は、部課長を素通りで、直接に特定の理事に直結しているようであった。特に犬塚信太郎理事の信任が厚かったようであった。(49)」と思い出に書いています。企画に対する駒井さんの自信もさることながら、入社7年目の若手にこんなことをやらせた満鉄の社風にも感心しますね。
 また「大滿洲國建設録」では「私が支那の旅行から帰つたのは、丁度大正九年四月であつたと記憶する。(50)」とあり、年譜では大正9年9月に「産業調査を終え、日本に帰る。(51)」とあるのは日本に帰った時期でしょう。そして大正9年11月に「内田外相から懇望され外務省嘱託となる(52)」でしょう。満鉄社員の儘、外務省の嘱託になったという話もありますが、これは懲罰モノですからやらなかったと思いますが、まだ確かめていません。
  

参考文献
上記(36)の出典は芳賀登ほか編「日本人物情報大系」第16巻満洲編6の81ページ、(37)は同134ページ、 (38)は大正9年7月30日付南満洲鉄道株式会社社報4016号4ページ、平成6年、柏書房=マイクロフィルム、 (39)は大正9年6月1日付同3965号2ページ、同、 (40)は大正7年5月31日付満洲日日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (41)は大正7年6月8日付同3面、同、 (42)は札幌同窓会編「札幌同窓会第39回報告」8ページ、大正7年12月、札幌同窓会=原本、 (44)は満洲日日新聞大正8年4月27日付5面、満洲日日新聞社=マイクロフィルム、(45)は同8年5月15日1面及び5月17日付7面、同、 (46)と(49)は山口哲夫編「クラーク精神と北大東京同窓会三十年の歩み」785ページ、昭和50年5月、北海道大学東京同窓会・東京エルム会=原本、 (43)と(51)と(52)は蘭交会編「麦秋駒井徳三」562ページ、年譜、昭和39年5月、音羽サービス・センター=原本 (47)と(50)は駒井徳三著「大滿洲國建設録」14ページ、昭和8年2月、中央公論社=原本、 (48)は昭和7年4月23日付朝日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、


 駒井さんについては自伝といわれる「大陸への悲願」を読み、ジンギスカンについて何か書いてあるか調べる必要があります。検索しますと農学部図書室にだけ1冊あります。私は表紙の裏を見て、この本が高岡文庫所蔵となっている理由がわかりました。北大第3代総長になった恩師高岡熊雄先生へ駒井さんが捧げたものだったのです。またそのずっと前、明治45年に駒井さんが出した「満洲大豆論」は高岡さんに監修してもらったという深い師弟関係だったことを資料その11にしました。
 駒井さんは北大を卒業し上京する際、高岡さんに紹介状を書いてもらい、新渡戸さんに面会しています。私が忘れなければ、新渡戸さんについて講義するとき、駒井さんからみた新渡戸さんを取り上げますが、駒井さんは昭和9年1月29日、23年振りに北大を訪れ、元満州国総務長官として中央講堂で「満洲国の建設を顧みて」と題する講演をしています。高岡さんは駒井さんの来道予定を聞き、北大生向けの講演会を企画したようで、自ら開会の辞と閉会の辞を述べています。
 「大陸への悲願」は確かに一代記といえるだけの内容が書かれていますが、ジンパ学としては「公主嶺農事試験場の創設」という項を、特に吟味しつつ読みました。駒井さんは後藤新平総裁が30代と若いのに満鉄理事に抜擢した犬塚信太郎に敬服し、いろいろな計画をその犬塚理事に提案しては取り組んだ。公主嶺プロジェクトもそれだったのです。

資料その11

      

 駒井さんは満鉄でも大豆の増産を研究して(1)農事試験場を設けて大豆の品種を改良、含油量の多い大豆を作り出す(2)東部内蒙古を大豆産地として開拓するため同地に鉄道を敷設する―を提案した。公主嶺はロシアも重視していた土地であり、満鉄が引き継いだ建物も土地もあるから大規模な農事試験場を設けるのに最適と犬塚理事に提案「犬塚さんは『よしよし、二つともやろう。先ず公主嶺の試験場は、君が出かけてその地域を選定したまえ』ということであった。私は命令一下、公主嶺に赴いて地域を選定した(53)」と書いてあります。
 国会図書館に犬塚の娘の小川薫氏が書いた「父と娘の満州 満鉄理事犬塚信太郎の生涯」があります。「父はこのような満鉄の仕事以外にも、大豆をはじめとする満洲特産物の品種改良や大規模な収集の計画、その他将来性のある事業を支援していたという。(54)」というところに、犬塚の孫に当たる小川忠彦氏が駒井さんの「大陸への悲願」を引用して犬塚の仕事ぶりを補足しています。
   同時に「公主嶺でもう一つ着眼したのは、東洋に足りない羊毛の増産であった」というのです。駒井さんは羊より大豆を優先して考えていたんですね。蒙古羊の羊毛は安いし量も少ないので、豪州からメリノ種を輸入して蒙古羊と交配して羊毛を改良しようと北大OBの香村岱二さんを入社させ、豪州などに派遣して種羊を購入させた。「このように技術者を留学さす一方、試験場は北大系統の技術者達によって研究が進められ、着々成果が挙がった」(55)と、駒井さんは回顧しています。最後まで読みましたが、残念ながらジンギスカンのジの字も出てきまませんでした。大正2年版名簿で香村さんの入社、同4年版で中本さんの入社が確認できますし、同10年版では中本さんが留学中(56)になっています。
 ちょっと脱線ですが、大豆に関連して駒井さんを満鉄総裁にしてくれたお方もいるんですよ。吉田さんが「成吉思汗料理物語」を書く前に、ちゃんと雑誌「日本及日本人」にそう載っていたんだから、どうせなら部長でなく総裁で広めてほしかったなあ。ふっふっふ。中村吉次郎という農政評論家が書いた「大豆ものがたり」のその箇所をスライドで見せましょう。
 中村さんは大豆は日本や中国に自生するノマメ、ツルマメともいいますが、それが世界に広まっていったといい、アメリカでは黒船のぺリーが日本から持ち帰った種の試作研究から始まり、今日みるように主要作物になったというんですな。そして、はい、こう書いているんですよ。

 しかもアメリカの大豆研究は、「満鉄」の
技術が参考になったという説もある。そうい
えば、「満鉄」は大豆研究に大きな業績があ
り、満鉄総裁であった駒井徳三の「満州大豆
論」や、「満鉄」発行の「大豆の栽培」もあ
る。日本人は大豆に大きな関心をもちなが
ら、ついに大豆を失ってしまった。<略>

  

参考文献
上記の資料その11は明治45年5月19日付北海タイムス2面=マイクロフィルム、 (53)は駒井徳三著「大陸への悲願」91ページ、昭和27年11月、大日本雄弁会講談社=原本、(55)は同*ページ、同、 (54)は小川薫著「父と娘の満州 満鉄理事犬塚信太郎の生涯」42ページ、平成18年9月、新風舎=原本、 (56)は芳賀登ほか編「日本人物情報大系 第16巻満洲編6」38ページ、平成11年、皓星社=原本、スライドは日本及日本人社編「日本及日本人」1502号・1503号合併号158ページ、中村吉次郎「大豆ものがたり」、昭和48年11月、日本及日本人社=原本


 ともあれ駒井さんは大豆が本命で、羊毛ではありませんでした。簡単にその理由を説明しますと、当時の満鉄は満洲南部産の大豆を集荷して大連から輸出する運賃で1500万円の利益を挙げていた。一方ロシアは満洲北部産の大豆を東支鉄道で運びウラジオストックから輸出して稼いでいた。大豆が1割増産できれば満鉄の収入は150万円増える。増産が満鉄の収入増に結びつき農民も豊かになる。だから農事試験場設置に100万や150万円掛けても長い目で見れば元は取れると主張したのです。「私自ら公主嶺へ行つて地割りから始めた。それが現在の満州国中央農事試験場の濫觴で、私の二十七、八歳の時にやつた仕事の一つである」(57)と書き残しています。濫觴、ランショウとは始まりという意味です。
 こうした駒井さんの「満洲産業開発管見」を読むと、初めは蒙古人に日本が手助けして彼らの羊を改良して日本の羊毛資源にすればよいと考えたけれども、いくら口説いても蒙古人は羊肉にこだわり、われわれの奨める品種を受け付けようとしない。彼らは毛より肉を食べるために飼うのであって日本の勧める優良種の緬羊を飼わせることは困難だと諦めています。
 それよりも満州国内に大勢いて、利にさとく牧畜の才能もある漢民族に優良緬羊を奨励すれば、彼らは喜んで飼うだろうし、その成功は疑いないと信じるといっているのです。さらに駒井さんは駱駝毛と偽称して店頭に出回っている満州産山羊の綿毛製品は先見の明があると褒め、山羊の綿毛の研究改良にも努力する必要がある
(58)といってます。とてもとてもジンギスカンどころではないのです。
 これでも、まだ駒井徳三命名説を唱えるのであれば、満州日日新聞などにこんな記事があるぞと示してもらいたかった。証拠になる文書を調べていないか見付からないから、吉田さんは藤蔭随想があると毎日新聞の記者に教えたのでしょう。道立図書館さんは、これでもリファレンスサービスの見本を取り換えませんかねえ。私自身、ちょいちょいお世話になっていて、あまり大きな声ではいえないのですがね。
 ところで「北の食物誌」ですが、3番目の段落は藤蔭随想のコアの紹介になっています。これが楽しい、非常に楽しいなあ。4番目は、記者の個人的感想ですから、ここはなくても記事として成り立ちます。飛ばして読んでみて下さい。随想からすぐ「北海道で一番最初に羊肉の普及、奨励に…」となっていても、別におかしくないでしょう。5番目の段落はジンギスカンとして大事な事実を含んでいます。
 「北海道で一番最初に羊肉の普及、奨励に乗り出したのは、羊による畜産振興をもくろんだお役所であった。」というのは、国策上やらざるをえなかったから当然です。次が月寒では「大正年代から羊肉料理をいろいろと試作し、来訪者に食べさせたという。」とは、吉田さんの話でしょう。大正8年の田中式羊肉調理法の発表、それを引用した小谷さんの「羊と山羊」改訂版など出ており、羊飼育の専門家たちが読んでいないわけがありません。当然、月寒でも田中式を試みたでしょう。吉田さんは、そうした流れを承知の上かどうかわかりませんが、月寒オリジナルの食べ方研究をしていたようにいい、そしてその成果が山田技師の本になったと説明したかったのではないかと思われます。
 ここでジンパ学として興味があるのは、記事が「山田喜平技師は昭和六年版の『緬羊と其飼い方』の中で」と書いている点です。次回あたりでこの山田さんの本を検討しますが、この本は昭和6年に初版が出ていて、北大図書館には昭和10年発行の第3版しかありません。それには、この羊肉料理も出ているのですが、だからといって初版から載っていたといい切れません。毎日新聞の記者に吉田さんが初版を示して、ほら、この通り「至れり尽くせりのメニュー」だろうと見せてくれたから、こういう書き方になったのなら文句はないのですが、もしかすると初版では半分ぐらいで、残りは後で追加されたのではないかという疑問も起こるわけです。
 道内には初版がないので東京都立中央図書館に行き、それと北大にある第3版の「羊肉料理法」とを照合してみたら訂正は鍋羊肉だけ、後はまったく同じでした。つまり「焼物九種類、揚物六種類、煮物十二種類、内臓料理五種類……と、至れり尽くせりのメニュー」は、初版とまったく同じで、変更されたのは材料と混ぜ方のたった2行だったことがわかりました。
 初版では「羊肉(肩肉又は腿肉)百二十匁、醤油五勺、酒二勺、砂糖十匁、七色唐辛子少量、胡麻油少量。」(59)だった材料に、3版までに「羊肉(肩肉又は腿肉)百二十匁、醤油五勺、酒二勺、砂糖十匁、七色唐辛子少量、生姜、葱、胡麻油少量。」と生姜と葱が加えられていたのです。毎日さんが書いたようにショウガ、ネギは片仮名書きではなく漢字でした。
 方法も「羊肉は一分位の厚さに切り醤油、酒、砂糖、七色唐辛子を合せて中に約三十分浸しておく、」(60)が「羊肉は一分位の厚さに切り醤油、酒、砂糖、七色唐辛子其他を合せて中に約卅分浸しておく、」に変わった。「其他」という2字追加になったけれども、それで行数が増えないよう「三十」が「卅」に置換されています。初版では、なぜかこの行だけ1字や2字詰めれば入るくらい緩い組み方でしたので「其他」と2字増えても「浸してお」で折り返す組みそのものは変わらず、全体としてまったく行数の増減はありませんでした。生姜と葱が入ったのは2版以降とわかれば、吉田さんが記者に見せたのか、記者が北大で調べたのかは別として、この「北の食物誌」に取り上げた「調理法の解説」は少なくとも初版の書き方ではなかったということです。
 記載時期の疑問は解消しましたが、メニューの「そのひとつ、ジンギスカンなべと思われる調理法の解説」をすると、こうだという書き方は変だと感じませんか。折角ですよ、駒井さんが命名したジンギスカンなべというありがたい名前があるはずなのに、なんで「ジンギスカンなべと思われる」なのか―とね。
 私の講義を聴いていけばわかることなのですが、その本では「鍋羊肉(カウヤンロー)又は成吉思汗(ジンギスカン)料理」となっていたからなんです。だから毎日さん、弱っちゃった。その通り書いたら、吉田さんの公主嶺発祥・駒井命名説がおかしくなります。なーんだ、満洲じゃ鍋羊肉という食べ方をジンギスカンと言い換えただけなのか―とね。それから金網で焼くのに、なぜ鍋というのかとかね。それで「ジンギスカンなべと思われる調理法」と逃げたのです。わかるかなあ。6番目の松葉で燻す注意書きの考察もいずれたっぷりやります。まあ、7番目以降は、ジンパ学としては重要ではない。
 時間がなくなりそうなので「民間でも大正時代に、羊肉料理を出したレストランが札幌に一、二店あった」という点については、別の講義に回して話を進めます。
  

参考文献
上記(57)の出典は駒井徳三著「大陸小志」29ページ、昭和19年11月、大日本雄辯會講談社=原本、(58)は駒井徳三著「大満州国建設録」277ページ、「満州産業開発管見」、昭和8年2月、中央公論社=原本、(59)と(60)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」初版340ページ、昭和6年11月、子安農園出版部=原本


 さっき、私は「これが非常に楽しい」といいましたね。なんのことかわからないでしょう。実は藤蔭さんご本人が昭和37年、北海道にくるまで父親の駒井さんがその名付け親説を知らなかったという事実があるからです。しつこいようですが、吉田さんは藤蔭さんが随想に書いているのが証拠と、毎日新聞の記者に教えたのでしょうが、26年も前の本ですから、訂正のしようもありませんよね。
 前回いったように藤蔭さんが命名説の決定的な根拠を示せなかったのはなぜか。私は駒井徳三著「大滿洲國建設録」を読んでみました。これは昭和8年に中央公論社から出た本です。その中の「満洲事変の渦中に投じて」には駒井さんが札幌農学校に入る前から支那へ憧れていたことかなどが書かれ「其二」の「四」に家庭生活に恵まれなかったことを率直に書いています。学生時代に結婚した奥さんは、駒井さんの満鉄生活とそれに続く支那放浪生活に愛想を尽かしたのでしょう。趣味趣好が違うからと離別を求め、1男4女の子供を連れて去っていった。この二女が満洲野さん、四女が北海道新聞に連載された「探偵団がたどるジンギスカン物語」で、祖父徳三さんの思い出を語っている登山家今井道子さんの母親、久子さんなのです。
 それで駒井さんは「私は当時の私の資力の許す限りに於いて彼の女の生活を保障すべく最善の方法を講じた積りである」と書き、23ページには「私は子供等に対しては私の出来得る限りの資力を尽して、その教養に遺憾なきよう努めるが、彼等自身としても母を護り父を顧るの必要なき旨を懇懇と云ひ聞かせた」(61)といっています。駒井さんは、その後再婚するのですが、命を捨てる覚悟で満洲に独立国家を建設する上で手足まといになるからとまた離婚し、身辺整理をして再度満洲へ赴いた。今風にいえばバツ2になったんです。
 駒井さんは、できる限りの資力を尽くしたかも知れませんが、実情はどうだったのか。昭和10年3月、五女真佐子さんが満洲國皇帝奉祝の舞踊大会に出演し、姉の満洲野さんの後見で踊ることになったとき「この晴れの大役をつとめるお嬢さんこそ満州国黎明期に総務長官、後に参議として建国の鴻業に一身を捧げた駒井徳三氏の愛嬢」であり「世が世ならば皇帝陛下の御前にも出られる身が駒井氏が昭和八年官を辞して野に下つてからは昔に変る侘びすまい、市子夫人は六人の子供さんを抱へて埼玉の浦和に引つ込んでさゝやかな小間物店を開く傍ら母の市子さんと満洲野さんとは琴と舞踊の師匠を内職にしてるといふ有様(62)」と読売新聞は紹介しています。 要するに藤蔭さんを含む子供たちと団欒するような暮らしは長くなかった、ジンギスカンを一緒に食べたことがあるのかどうか怪しいのです。

  

参考文献
上記(61)の出典は駒井徳三著「大滿洲國建設録」22ページ、昭和8年3月、中央公論社=原本、(62)は昭和10年3月31日付読売新聞朝刊7面=マイクロフィルム


 きょうは「クラーク精神と北大東京同窓会三十年の歩み」が「麦秋駒井徳三」から転載した農学部OB宮部一郎さんの「駒井徳三君の思い出」から2カ所引用しましたが、その元々の出所である「麦秋駒井徳三」という追悼集にヒントがあるのではないか。宮部さんは書かなかったけれども、仲間のだれかが「君があの料理にジンギスカンと名付けたのはぴったりだった」と褒めて、毎日さんではありませんが、あの名前でなければ「今日のような普及も隆盛もなかっただろう」なんて書いているのではないかと、私は考えたのです。
 北大図書館を検索しますと、やはり北方資料室にありました。この本は昭和39年に東京の音羽サービス・センターが出版した非売品なんです。駒井さんが作った康徳学院の卒業生など師事していた人たちのグループである蘭交会が没後3年目に、駒井さんと親交のあった人たちに呼びかけて作ったものでした。
 第1部には宮部さんのほかに、この講義の始まりで紹介した東京エルム会の中興の祖である宮川知平さん、北大OBで満洲太郎といわれアラビア石油を創立した山下太郎さん、北大の杉野目晴貞学長といった方々が思い出などを寄せています。これを斜め読みしてみましたが、ジンギスカンという単語は1つしか見つけられませんでした。老眼もあるので、絶対に1つしかないと自信をもっていえないのですが、この本のここにもあるとレポートを書いてきたら、そうですね、成績評価で優遇すると約束しましょう。
 その1カ所は、第2部「父、叔父の面影」に、本名の麻田満洲野で書いた藤蔭さんの「父と敗将」の中だったのです。それを読んで私は歴史はかく作られるかと驚きましたね。北京のチョウチョのはばたきが、巡り巡ってニューヨークのハリケーンになるんでしたっけ、複雑系の説明のたとえに使われるあれです、そんな感慨にとらわれましたね。全文を読んでもらいたいのだが、6ページもあるので「父とジンギスカン鍋」の記述と関連する部分を中心に抜き出しました。それが資料の2枚目です。目を通して下さい。

資料その12

 私は父に、一度も親孝行らしいことをしなかったが、父が逝去する(昭和三十六年五月)一カ月ほど前、病床にいてすでに口の重くなった父が、とぎれとぎれに、「榎本武揚」の伝記が最近出版されたが、どうしても手に入らぬからぜひ探して欲しいと、私にたのんだ。父は無類の読書好きで、父の最後の病床は永く、気の毒であったが絶えず本を読み、楽しんでいたので、時々見舞いに行く私は必ず新刊書を買って行った。
 この榎本武揚の伝記は中央公論社から出版され、その著者は小樽商大の学長加茂儀一先生であった。私は本屋から二冊求め、一冊を父に渡した。父は嬉しそうに老衰の震える手で一頁一頁をめくり、楽しそうに読んだ。それで私もその「榎本武揚」にサッと目を通してみた。その著書の表書きにも――「明治日本の隠れたる礎石」――とことわり書きがあるとおり、榎本武揚は私自身、五稜郭で戦った最後の幕臣位だとしか認識が無かったが、その人が明治維新から明治末期までに、海軍卿、逓信、農商務、文部、外務の各大臣の要職につき、封建的であった日本を近代国家に創り上げたスーパーマン的な政治家であることを知った。
 父をそのつぎに訪ねた時、吉祥寺の改築された陽のさす二階で、父はいかにも楽しそうに、「榎本武揚」に読み耽っていた。この英雄というより博識な学者的な北海道にゆかりのある政治家の小気味よい活躍ぶりを、父は顔を紅潮させ憑かれたように読みつづけた。そのころ、運悪く私は夫が病気で入院したので、いちばん大事な父の最後の看護をすることができなかった。
 吉祥寺の家から父の危篤の電話がかかり、馳せつけた時、父はもう朦朧としていて話をする力もなく、ただ眠り続け、私が問いかけるとかすかに相づちを打ってくれるだけであった。父の枕辺に「榎本武揚」が一冊置かれてあった。私は父が死の最後の床で大切に読んでいた、父の手垢の付いたこの記念品をよっぽど、貰って帰ろうとも思ったが止めた。父が逝去してから白布を被った枕辺にも、まだこの本はあったが、そのつぎの日はもう見当たらなかった。私が行くえを尋ねたら、勝さんが亡父の棺にその本を入れて下さったことがわかった。私は勝さんが父の看病を実にこまめにしてくださったことに何時も感謝していたが、この本をお棺に入れて下さったことを知って、その志を何とも忝く受けた。
 その翌年の五月、私は北海道に旅した。北大出身の父の第二の故郷ともいうべき北海道で、さすがに、北海道新聞や、札幌百点から、私は亡父についての原稿を依頼され、また逆に、ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った。事のついでにと申し上げては悪いけれど、父が最後の病床で、「榎本武揚」を読み、棺にその一冊を入れたことを「札幌百点」に執筆し、その冊子を著者の加茂儀一先生に送った。先生からは折り返して誠に丁寧なお手紙をいただいた。私は未知な加茂先生のお便りを幾度か繰り返し読んで、父の最後を思い出しては泣いた。

  

参考文献
上記資料その12の出典は蘭交会編「麦秋駒井徳三」277ページ、麻田満洲野「父と敗将」、昭和39年5月、音羽サービス・センター=原本


 どうです。びっくりしませんか、皆さんは。この「麦秋駒井徳三」には、さっきいった蘭交会作成の年譜が載っています。それで見ますと満洲野さんは明治43年9月生まれですから1910年、来道したのが昭和37年6月でしたから満51歳だったことになります。その間、離れて暮らしていたこともありましょうが、父といえる人が、ジンギスカンという料理の関係者だなんて、思ってもみなかった。その人が亡くなってから札幌を訪れ「ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った」人の思い出話が、駒井命名説の証言に使えるのでしょうか。外にないから仕方がないでは済まないと思いませんか。
 吉田博さんが「北海道農家の友」に「成吉思汗物語り」を書いたのは、満洲野さんの随想が「札幌百点」に載ってから13年も後、昭和51年なのです。それを見付けた毎日新聞の記者が吉田さんを訪ねて記事にした。その後「北の食物誌」が翌52年に発行された。こういう順序だ。
 もし吉田さんが昭和40年代に「成吉思汗物語り」を書く気で駒井さんのことを調べていたら「父とジンギスカン鍋」と「麦秋駒井徳三」が出てきて、満洲野さんは昭和37年に来道するまで父親の命名説を知らなかったのでは、とても「父とジンギスカン鍋」は根拠に使えないと諦めるのが普通ですよね。13年も後になったのは、吉田さんが随想の存在を知らなかったからで、知った途端、駒井さん関係の本調べもせず、これで決まりと「成吉思汗物語り」を書き上げたと思われます。
 別の講義で詳しく取り上げますが、駒井命名説を初めて唱えたのは日吉良一という人でね、昭和36年の「北海道農家の友」に「成吉思汗料理事始」として発表(63)しています。吉田さんはそれを知っていたから、満洲野随想を知るや日吉さんのことには一言も触れず、さも自分が調べたみたいに「この名付親は当時満鉄の調査部長をしていた駒井徳三氏。」と断定し、さらに娘の「満州野さんは『父とジンギスカン鍋』という一文を草している。(64)」と、同じ「北海道農家の友」に書いたのです。根気よく駒井命名説を調べたとしたら、こういうストーリーになるはずがないのです。
 札幌にきた藤蔭さんは「ジンギスカン鍋と命名したのは、あなたのお父さんだといわれています。それについてどう思いますか」「それが本当なら子供として嬉しいわ」「そこら辺を含めて亡くなったお父さんの思い出を書いて頂けませんか」「そうねえ、いいですよ」てな具合に原稿を書くことになったけれども、もしかすると、藤蔭さんはそれまでジンギスカンを食べたことがなかったかもしれませんなあ。
 ですから満洲野さんがジンギスカン鍋は月寒以外では食べられないと勘違いしたのではないかという気もします。そう仮定すると「父とジンギスカン鍋」の「美しい月寒で、父が名づけたジンギスカン鍋は、いつまでもいつまでも、その美味は人に忘れられず永遠に残るであろう、娘として、子としてこんな嬉しいことはない。」という表現が、そんなに不自然でなくなります。昭和37年5月4日の毎日新聞に「始まったジンギスカンなべ」という見出しの記事があります。「○…一面緑の月寒原野に恒例の野外ジンギスカンが始まった」という書き出しで、ジンギスカンクラブ180人が食べた(65)ことを大きな写真付きで報じています。藤蔭さんも月寒のじんぎすかんクラブで賞味したのではないでしょうか。
 「父と敗将」を読むと「札幌百点」だけでなく、北海道新聞にも亡父の思い出を書いているようにも受け取れますから、市立図書館のマイクロフィルムで読みました。37年5月から8月までの紙面を見ましたが、それらしい寄稿もインタビューも見つかりませんでした。特に北海道新聞の6月分は道立文書館の白黒反転のマイクロフィルムでも念入りに調べましたよ。さらに道新のライバルだった北海タイムスも見ました。当時のタイムスは夕刊に毎日、来道したタレントや経済人などにインタビューして書く囲み記事を連載しておりまして、もしかするとそこかと注意したのですが、この4カ月には見当たりませんでした。さらに朝日、毎日、読売3紙の北海道支社発行の6月1日から10日までの社会面、札幌市内版なども見ましたが、藤蔭または麻田さんの記事はありませんでしたね。
 藤蔭さんが、もし市役所などの記者クラブを訪れたとすれば、道新か北タイかに短くても記事が載りそうなものですが、運悪く参議院選挙の直前で紙面が混み合っており、ボツにされたかも知れません。新聞のマイクロフィルム読みは、どこに載っているかもわからない記事を捜す根気のいる作業ですし、老眼に眠気、見落とさないという自信はありませんね。欠号もあるので絶対に載っていないとは断言できません。でもですよ、新聞にもし「父とジンギスカン鍋」と同じような内容で書いたとすれば、藤蔭さんはそれも加茂さんへ送るか知らせるかしたでしょう。「父と敗将」の末尾にある加茂さんの礼状の写しの日付は38年4月1日であり「『札幌百点』の『父とジンギスカン鍋』の御恵贈を賜わり」(66)とありますから、送られてきたのは「札幌百点」だけだったとみていいようです。
  

参考文献
上記(63)の出典は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和36年12月号53ページ、日吉良一「成吉思汗料理事始」、北海道農業改良普及員協会=原本、 (64)は同昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、同、 (65)は昭和37年5月4日付毎日新聞北海道版夕刊3面=マイクロフイルム、 (66)は蘭交会編「麦秋駒井徳三」282ページ、麻田満洲野「父と敗将」、昭和39年5月、音羽サービス・センター=原本


 私としては、藤蔭さんの随想が命名説の根拠として有力視されるのは「父は物に名前をつけることが好きで」と、一碧湖とミノファーゲンの2例を紹介しているからだと思うのです。静岡県伊東市内の一碧湖について地誌や地名辞典のたぐいでは、昔は吉田の大池と呼ばれていたが、昭和の初めに命名されたという程度の説明しかありません。地元でもこの命名の経緯を記録したものがないようなのです。
 調べたところ一碧湖が公に知られたのは、昭和2年の日本百景投票で湖沼部門の5位に選ばれて以来であることは確かなのですが、駒井さんとの関連は掴みかねています。駒井さんは伊東に近い熱海に住んで大正15年9月から「満州事変勃発まで、専ら読書と銃猟に過ごす。(67)」と年譜にあるので、地名公募みたいなことがあり、駒井さんの考えた「一碧湖」が選ばれたというようなことは考えられます。いずれにせよ、満洲野さんの随想の信頼度を測る大事なヒントなので、調査は諦めてはいません。
 だから元号が令和に代わっても私は一碧湖調べを続けてね、この後わかったたことは、ここをクリックして読んで下さい。金の使い方の勉強にもなるエピソードだよ。
 ミノファーゲンについて「麦秋駒井徳三」を読んで、ああそうかと思ったことがありました。蓑内収という元京大助教授が自分たちが見つけた喰菌作用を強める物質にですよ、駒井さんがミノファーゲンと名付け、それを宇都宮徳馬さんが事業化した(68)と書いていたのです。ベンチャーなんですね。この蓑内さんのミノと、細菌に感染するウイルスのファージをくっつけて命名したのだろうとね。宇都宮さんは駒井さんの3女で歯科医(69)の遼子さんと結婚してましたからね。
 ミノファーゲン製薬のホームページの社長挨拶にも「社名の『ミノファーゲン』は、弊社の主力製品の開発者 故簑内収博士(Minouchi)と、生体の免疫・防御機構における貪食作用(Phagozytose)を組み合わせた言葉に由来しています。(70)」とあるから私の見方は正解だが、発案者や命名者には触れていない。私はミノファーゲン製薬にそれを尋ねたけれども答えてくれず、駒井さんの命名説を怪しんでいた。
 しかしだね、雑誌「世界」に連載された坂本龍彦氏の「風成の人 宇都宮徳馬の歳月」に「薬は最初、インムニンと名付けられていたが、事業化する際、義父・駒井の発意でミノファーゲンと改名された。『凶状持ち(思想犯として監獄生活を送ったこと)に娘をくれるんだから、駒井のおやじも大した度胸だった』と宇都宮さんがよくいう駒井初代満州国総務長官も、娘ムコの新事業には、大いに気を使っていたとみえる。新薬の発見者、蓑内博士のミノが製薬本舗の名称に取り入れられた。(71)」と書いてあるのを見付けたのです。
 坂本氏はこの話をだれから聞いたと書いていませんが、このすぐ前でミノファーゲン製薬の砂口勝吉庶務部長に宇都宮さんの性格の激しさを語らせていますから、文脈から宇都宮さんと一緒に働いてきたこの人(72)でしょう。ただ砂口さんは駒井さんが開いた私塾、康徳学院OBなので、完全な第3者ではないが、これでミノファーゲンの駒井さん命名説はかなり確かになったといえます。
 ちょっと調べたら蓑内さんは大正8年の北大予科の卒業生(73)でした。東大の理学部動物学科に入り渡瀬庄三郎教授からいろいろ教わった。この渡瀬さんがまた札幌農学校の4期生(74)でね「渡瀬庄三郎の教えを受けた蓑内収は,哺乳動物(イヌ,ネコ,タヌキ,ネズミ等)で染色体を研究した。<略>後に哺乳動物からヒトの染色体の研究へと発展させ,西欧の学者達の議論に参画していった。(75)」というから、ミノファーゲンという薬は北大と因縁浅からぬものがあるんですなあ。フッフッフ。
 それから藤蔭さんの思い出とは関係ない話なのですが、駒井さんの神出鬼没ぶりが注目され、ややもすると伝説を作られやすい人だったと思われる例が「大満洲国建設録」に書いてあります。二度目の渡満のとき、ぎりぎりまで小磯国昭陸軍中将、後に首相になりA級戦犯として巣鴨プリズンで病死した軍人ですが、その小磯さんと話し込んだため東京駅では滑り込みセーフだった。1等車の切符を持ち、そっちに見送りの人々が待っていたが、間に合わないので目の前の3等車に飛び乗った。それだけのことなのに「近頃人は屡々私が支那の刺客を避けて一等列車に乗らなかつたやうに傳へてゐるが、支那の刺客の如きはもとより私の眼中になく、皆人々のローマンス好みの想像に過ぎない」(765)と書いています。私も一時駒井命名説も「人々のローマンス好みの想像」ではないかと思ったりしましたね。
 でも駒井さんの活躍を描いた鷲尾浩著「新亜細亜行進曲」という小説もあるのです。この鷲尾浩は「吉野朝太平記」で第2回直木賞をもらった鷲尾雨工の本名ね。中身はまさに子供のころ読んだ手に汗握る冒険小説なんだなあ。
 駒井さんは熱海で夏は釣りとゴルフ、冬になると鉄砲打ちばかりしているのに、本宅の外に真鶴岬に瞰潮莊という別荘を持っている。その隣は腰の曲がった高利貸し、生駒尚文の家と見せかけて二軒は抜け穴でつながっている。(77)爺さんは変装した駒井さんでね、鷲尾はその中で「昭和の今日、熱海あたりで、ぬけ穴を利用して刺客の凶刃ををまぬかれるなんて、ちよいと大衆小説だね」と、旧友の板垣征四郎にいわせているのです。
 だから谷崎精二は書評「『新亜細亜行進曲』を読む」で「刺客に狙はれた駒井氏が変装して熱海の別荘を脱出し、よぼよぼの老人になつて突如奉天の臧式毅の邸へ現れるところなどおそらく作者の空想だと思はれるが、読んでゐてさう不自然を感じないし、生々しい時局問題を取入れた此の種の小説に於て、これ位の詭構は許されるべぎてあろう。(78)」と書いていますよ。
 また谷崎と同じように売れないときの鷲尾を援助した広津和郎も、やはり「『新亜細亜行進曲』を読む」を書き、981字の書評で「面白い」を9回も連発して(79)面白がってます。
 鷲尾の「新亜細亜行進曲」の奥付の前のページに「作者、日く/作者もまた、これからだ。/筆をあらためて、書かう――東亜のためをおもふ人々のために。(80)」とあるが、本当に改めて書いたんですなあ。ある古書店の広告に「満州建国秘史」は新亜細亜行進曲の改題と注が付いていたから、改題して別の出版社から出したんですね。これは読んでいないので前著との違いを云々できんが、3回目の「満州建国の人々」は北大にあるから読んだら、生駒爺さんを抜きにした「新亜細亜行進曲」といってよいほど、似ている。徳三にノリザフ、のりぞうと振り仮名を付けている点も同じです。
 ただ「新亜細亜行進曲」は駒井さんの「大満洲国建設録」より1月遅く出ています。鷲尾が駒井さんのゴーストライターならともかく、いくら作家でも想像だけで張学良の動静まで書けたものか不思議ですが、塩浦林也という人の「鷲尾雨工の生涯」では、こうした満洲建国シリーズには何も触れていません。(81)
 駒井さんが東京をたつとき二度目の奥さんも見送りにきており「『私は何事も知らずに居りましたが先月東京に十日程滞在して居た主人は突然熱海に帰りまして奉天に旅立つことを打ちあけてくれました何事も詳しいことは話してくれませんが御國のためだとばかり思つてをります』と語り死を決した氏が夫人を離別したことについては『そんなことも御座いましたが今は何も申しあげられません』と語つた(82)」という記事が朝日新聞にあります。見送りの人たちから離れた車両に飛び乗ったからには、奥さんにさよならもいえなかったと思いますが、昔の新聞はこんな細かいことまで報道したのですね。鷲尾はこういう記事を集めてストーリーを膨らませたのかも知れません。

  

参考文献
上記(67)の出典は蘭交会編「麦秋駒井徳三」564ページ、年譜、昭和39年5月、音羽サービス・センター=原本、 (68)は同183ページ、同、 (69)は坂本龍彦著「風成の人 ―宇都宮徳馬間の歳月」68ページ、平成5年3月、岩波書店=原本、 (70)はhttp://www.minophagen.co.
jp/salutation/index.html、 (71)と(72)は岩波書店編「世界」570号372ページ、坂本龍彦「風成の人 宇都宮徳馬の歳月」、昭和57年7月、岩波書店=原本、 (73)は北海道帝国大学編「北海道帝国大学一覧  自大正九年至大正十一年」353ページ、大正11年4月、北海道帝国大学=近デジ本、 (74)は同318ページ、同、 (75)は紫藤貞昭、矢部一郎編「近代日本その科学と技術 原典への招待」226ページ、平成3年2月、弘学出版=原本、 (76)は駒井徳三著「大滿洲國建設録」28ページ、昭和8年3月、中央公論社=原本、 (77)は鷲尾浩著「新亜細亜行進曲」116ページ、昭和8年3月、暁書院=原本、 (80)は同414ページ、同、 (78)は昭和8年4月10日付読売新聞夕刊8面、谷崎精二「『新亜細亜行進曲』を読む」=マイクロフィルム、 (79)は昭和8年4月21日付東京日日新聞朝刊6面、広津和郎「『新亜細亜行進曲』を読む」=マイクロフイルム、 (81)は塩浦林也著「鷲尾雨工の生涯」、平成4年4月、恒文社=原本、 (82)は昭和6年10月19日付朝日新聞朝刊11面=マイクロフイルム


 それはさておき、この「父と敗将」と、その前年に公表された「父とジンギスカン鍋」を読み比べると、いくつか食い違いがあります。ひとつは「父とジンギスカン鍋」には「ジンギスカン鍋と名づけたのが、私の父自身であつたらしい」と名付けたことだけだったのに対して「敗将」では「ジンギスカン鍋は父が日本に紹介した始めての人だということなども知った」と、命名したばかりか、日本初のジンギスカン鍋試食会とかPRの講演会でも開いたかのようにエスカレートしていることです。北海道旅行で初めて知った命名説が2年後に変形しているといわざるを得ません。
 また「榎本武揚 明治日本の隠れたる礎石」を駒井さんが読んでいた期間も違っています。「父とジンギスカン鍋」では「私は発売第一日目に手に入れた」のに、こちらは「父が逝去する(昭和三十六年五月)一カ月ほど前」に買ったとなっています。中央公論社からのこの本の奥付は昭和35年9月20日印刷、9月30日発行となっています。購入日が前者だとすれば、病床で半年以上繰り返し読んでいたことになり、後者が正しければ原文通り1カ月ぐらいしか読めなかったことになります。
 細かいことですが、藤蔭さんの原稿が「札幌百点」に掲載されたのは北海道旅行の翌年、昭和38年の2月号です。37年6月に札幌で頼まれたならば、なぜ半年も後なのか―と思いませんか。道新にも北タイにも足跡らしい記事が見当たらなかったことから「札幌百点」の記者が後で聞き込み、原稿を頼んだなどいろいろ考えたのですが「札幌百点」をさかのぼって調べたら、意外にも前の年の昭和37年9月号に藤蔭さんの「札幌と亡き父母」が載っていたのです。
 つまり「札幌百点」は「新緑の驚くほど美しい六月一日に、私は札幌を訪ねた。」(83)と日付の入った方を先に掲載し、日付のない「父とジンギスカン鍋」は4カ月の間を置いて掲載したとみられるのです。前者は私は札幌で生まれたが、2歳のとき大連に引っ越し、札幌のことは母から聞くだけだった。夫が札幌で開催される学会に出席するので同道した。4日間の滞在で知ったのだが、古い建物が姿を消していくのは実に惜しい。北大を訪れ、杉野目学長から北海道の開拓精神の話を聞き感動した―というのが大筋です。そしてね、末尾に「アカシヤの乳白色の花房に亡母の匂いすここはふるさと」など短歌3首も添えられ(84)、全体に母の思い出にウエートがある感じなのです。ただし、ジンギスカンに一切触れていません。
 それで私が、さきほど37年6月1日から10日までの朝日・毎日・読売の紙面調べを追加したのは、6月1日来札とわかったからなのです。一応10日までにしたのは、そのころの新聞は少し掲載が遅れると日付を削って「このほど」とボカして使い、10日もたったらボツ、原稿を捨てるようにしていたからです。
 後者は、前に述べたように父とジンギスカンの関係が主になっています。月寒で食べてきたことを聞いた編集者がジンギスカンに触れることを期待して藤蔭さんに原稿を頼んだのに「札幌と亡き父母」はノータッチだったので、もう1本、お父さんの思い出をと追加発注したと思いますね。
 平成20年度までは、ここで終わったのですがね、ことしは続きがあるのです。発見があったので変えました。いいですか、いまいった私の見方が正しかったという証拠を見付けたからです。私はもう一度「札幌百点」を見直していて、昭和37年10月に出た通巻32号の「★読者の手紙から」という欄に藤蔭さんの短い手紙が載っているのを見付けたのです。それを資料その3にしますが、もうお仕舞いだから配らずにスライドで見てもらいましょう。短い文だけど、組み違いがあるのでそのページの部分コピーを見て下さい。この前の月、37年9月の「札幌百点」に満洲野さんの「札幌と亡き父母」が載ったばかりです。私は、その原稿に添え書きされていたことを、切り離して「読者の手紙から」に仕立てたとみたいですね。

      

 4行目の「でも生きていま父が」は組み違いで「でも父が生きていま」が正しいでしょう。それより最初の「ジンギスカン鍋と父のこと、そのうちによく調べて書かして載きます。」というところをどう解釈するか、です。よく調べないと書けないらしい、何を書くために調べを必要としたのでしょうか。
 満洲野さんの「父とジンギスカン鍋」は1行20字で78行あります。でも、うち2行は、行替えをするために「〜となつた。」「〜知つた。」の最後の「た。」だけで作った1行ですから実質76行です。段落は11あるので、番号を付けて内容をみると@とAの21行には、父が孫文の中国革命を書いた「三十三年之夢」を愛読し、卒論に満洲大豆を取り上げ、満鉄に入ったまでのことが書いてあります。BからDの16行は蒙古人に毛用種の緬羊を飼えと勧めたら、肉は食べられるかと聞かれて参った。大正時代から日本人も羊肉を食べ始めたといわれるという話です。
 E9行は、まず「それをジンギスカン鍋と名づけたのが、私の父自身であつたらしい。」といい、命名好きで一碧湖とミノファーゲンは父が命名した。前回の講義で配った資料その2(1)は、このBからEまでの引用でした。
 Fの7行は子供のときの思い出で父から蒙古で狼に襲われた話です。Gの6行は資料その2(2)とした段落そのもので、父が手がけた満洲国は崩壊したけれど、ジンギスカン鍋の名前は永遠だろう、子として誇らしく思う。HからJまでの17行は、父の勧めで私は明大法科を出た。舞踊家にになりたいといったら舞踊の本を書くよういわれ1冊出した。父は読書好きで最期まで本を読んだということです。
 満洲野さんが調べなければ書けないところらしいのは、駒井さんが宮崎滔天の「三十三年之夢」を愛読し、革命失敗の原因を考え、卒論「満洲大豆論」を書いたという@とAぐらいでしょう。B以下の後は思い出せば書けると思われることばかりです。
 例えばAの「中国の先覚者の孫文が、自国の革命に三十三年もかかつて努力したが、失敗し最後にイギリスに亡命した時、それを気の毒に思つた日本人の滔天が『三十三年之夢』を書いたわけである。若い父は、この中国の革命の志士の失敗は、科学的の裏付が無いからであると考えたらしい。(85)」という個所なんか、父親の「大陸への悲願」にある「この『孫文が身命を賭けたこの革命運動も、畢竟は一朝の夢に過ぎない』との嘆きを主題としたのが、滔天の『三十三年之夢』である。これは實に重大な意味を暗示している。この人達の失敗は、科学的な調査研究も満足にしないで、たゞ思想的に行動したという根柢の薄弱なところに大きな原因がある。(86)」が出所でしょう。
 「よく調べたのは」父親がジンギスカン鍋の命名者だという話の裏付けだったのではないでしょうか。満洲野さんは、狼の話は聞いたものの、お父さんが羊の焼き肉をジンギスカン鍋とか、ジンギスカン焼きと呼ぶように決めたのだよと聞かされた覚えはなかった。
 日吉良一さんが昭和36年10月号「北海道農家の友」に「成吉斯汗料理の名付け親」を書き、駒井さんが命名者だと紹介してからほぼ1年たっています。母親の市子さんが当時健在だったら真っ先に尋ねたでしょうが、1月前に「アカシヤの乳白色の花房に亡母の匂いすここはふるさと」と書いたばかりです。ジンギスカンなら大連にいたころ、ちょいちょい食べさせたでしょう、お父さんがあんな変な名前を付けたのよと母が認めているとは書けなかった。あっ、未見ですけどね、満洲野さんは歌も詠み昭和33年に芦笛社から「雪舞いぬ」という歌集を出してます。
 結局「名づけたのが、私の父自身であつたらしい。」「なんとなくつけたのかも知れない。」と想像する程度に留まったのですね。正直な人らしく満洲野さんは、父から聞いていたなんて書いていません。400字詰め原稿用紙4枚の約束を守るのに苦心したでしょう。これで満洲野さんの原稿が対になったことと、掲載時期のずれについて私は納得したのです。
 そうなると、一碧湖は父が命名したと満洲野さんが書いたからには、これは嘘ではないということになります。ちょっと予告すると、一碧湖の湖畔にあるホテルや民宿、美術館なんかに、命名者はだれか、いつ改名したのかと電話で尋ねたけれど皆知らない。逆にわかったら教えて下さいといわれるくらいだ。
 伊東出身の木下杢太郎の兄がガクのある人だったから漢籍から引用したらしいと、古老座談会の記録に書いてあることをいう人がいましたが、命名したという証拠はないらしい。郷土史にもズバリ何年に改名したなんて書いていない。
 結局、満洲野証言の真偽を確かめるために、明確な結論に至るかどうかわかりませんが、札幌に住む私が調べるしかない。昭和2年の東京日日新聞を見ると、改称したのはこの年とわかるのに、地名辞典は勿論、静岡県史からも無視されている。観光客向けに伊豆の瞳なんて恰好よく宣伝しているけど、実情はそんなところです。
 私は国会図書館にある昭和2年の静岡民友新聞のね、半年分のマイクロフィルムを読んで、吉田の大池が一碧湖と改名した経緯について書いた記事を探したのですが、見付からなかった。じゃ、吉田の大池と呼び続けたのかと欲張ったばっかりに、帰りのスカイマークに乗り遅れて、えらい高い飛行機代になったこともあったんですがね。とにかく地元紙としては毎日新聞と鉄道省が組んでやっている人気投票だ、意地でも書くものかと無視したことは間違いない。一碧湖に関する一連の調べ方とその結果について、いずれ話すことがあるでしょう。
 次回は、山田喜平さんの本「緬羊と其飼ひ方」の料理法を検討しますから、これまでに配った資料を全部もってきて下さい。一碧湖問題はもっと先ですね。はい、終わります。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)
  

参考文献
上記(83)と(84)の出典は札幌百店編集部編「札幌百点」4巻9号通巻31号24ページ、藤蔭満洲野「札幌と亡き父母」、昭和37年9月、北海道書房=原本、スライドは同4巻140号通巻32号82ページ、同37年10月、札幌百点社=原本、 (85)は同5巻2号通巻36号16ページ、藤蔭満洲野「父とジンギスカン鍋」、昭和38年2月、同、 (86)は駒井徳三著「大陸への悲願」41ページ、昭和27年11月、大日本雄弁会講談社=原本