山田夫妻が果汁入り漬け汁を考案

 皆さん、私が前回の講義でいった通り、以前の資料を持ってきていますね。ではきょうの資料を配ります。早く後ろの人に渡して、どんどん読んで下さい。
 はい、資料のトップは山田喜平という獣医さんが昭和10年に子安農園出版部から出した「緬羊と其飼ひ方」第3版の中にある羊肉料理の部分です。この山田さんはどういう経歴の人かというと、明治26年に、いま北斗市になったが、かつての大野町本郷で生まれ、函館中学卒の道産子でね。盛岡高等農林学校に進み(1)3年勉強して大正3年春、獣医学得業士(2)になりました。
 東大の岩住良治教授が書いたこの本の序によると「獣医学を修めて学窓を出づるや、先づ地方庁畜産奨励の実務に当ること七年(3) 」とあるので、どこかの県庁にでも就職したかと、大正4年の職員録を調べたが、見付からない。よーく見たら喜平さんは2年間母校獣医学科の助手(4)を務めてから、大正5年に巌手県内務部に入り技手(5)になったのです。宮沢賢治は大正4年入学ですから1年生(6)のとき畜舎あたりで山田助手とすれ違ったりしたはずです。
 「大正十二年ノ職員録ハ七月一日現在ヲ以テ調製中震災ノ為ニ全焼シタルニ付已ムヲ得ス高等官同待遇以上竝ニ之ニ準スル者ニ限リ(7)」掲載と変更されたため、山田さんはどこにいるのかわかりませんが、北海道農業研究センターに保存されている月寒種羊場関係資料によると、大正11年7月に岩手県から農商務省出向となり農商務省の技手になっているそうです。
 印刷局編「職員録」の農商務省職員として山田さんの名前が初めて載るのは大正13年7月現在の農商務省の「緬羊ニ関スル事務ニ従事スル臨時職員」の技手(8)ですけど、県庁在勤足かけ7年で岩住さんの序の通りとなります。そのとき岩住さんは大学と畜産局技師を兼任しており、山田さんはかつての上司に序文をお願いしたことになります。
 初版が出たとき山田さんは月寒勤務でしたが、大正12年と昭和2年に欧米視察をしているので、岩住さんは「現に種羊場飼育部主任兼工作部主任の重責に在り、其間欧米に出張被命二回に及んで他に海外緬羊事情の視察を遂げて居られる。本邦屈指の緬羊精通者と称すべきである(9)」と書いたのですね。羊を育てるだけでなく、食べる方もぬかりなく研究していたという立派な方なんですね。
 資料その1には料理法はジンギスカン以外は省きましたが、羊肉の特長と料理上の注意は原文のままです。奥付を見ますと昭和6年11月に初版を出し、同9年6月にあちこち訂正して再版を出して、3版は2版のままとわかります。皆さんに以前の資料を持ってきてもらったのは、小谷さんの田中式羊肉調理法、北の食物誌、茜会の記事となにか共通点がないか読み比べてもらうためです。いまから5分間、大急ぎで読み比べて下さい。

資料その1

四、羊肉の特長

 羊肉は牛肉に比鮫すれば香汁の量少く繊維細く組織粗にして肉質柔軟なるが故に消化よろしく一般健康者は勿諭坐食者、老人、小児、患者の食料として最も適当である、其の化学的成分を他の獣肉と比ぶれば、
    水分    粗蛋白質  粗脂肪   灰分
羊肉 五七、三〇 一四、五〇 二三、八○ 四、四〇
豚肉 五五、三〇 一四、○〇 二八、一〇 二、六〇
牛肉 六〇、八〇 一八、〇〇 一六、〇〇 五、二〇 
馬肉 七三、六二 二四、四九  〇、七二 一、一七

 羊肉は組織粗なる為め之が調理上他の獣肉に比し時間を要せず且つ薪炭の節約となる、又砂糖を多く用ふる必要なく寧ろ取合せの材料を吟味し例へばアマイドを多有する野菜を取合せに用ふれば羊肉の真味を害せず美味にして経済的なり。
 牛肉百匁(三七五瓦)を丸の儘煮る時は約二十五分間を要すれど羊肉は十四、五分にて宜しく部分によりては九分位にて足る。
 又同じ量を焼肉にする場合に要する時間を挙ぐれば次の如し
羊肉 九−一〇分
豚肉 三〇分
鶏肉 一五−二〇分
牛肉 二四−二五分

 総て獣肉には夫々固有の臭氣あるものなるが羊肉には羊肉内特有の臭あり欧米人はこの臭と一種高尚にして淡泊なる風味と而して軟き滋養ある肉を賞美愛好し牛豚以上の高價にして珍重せられ平素の惣菜としては勿論正餐(デンナー)(儀式祝儀等)の場合に於て恰も我国に於ける鯛の如くに用ひられ料理せられて食肉の王 King of Meats と称せられるるものなり、然れども我国に於ては未だ羊肉食用歴史浅く其の使用も一部の人士に限られ一般的ならざる関係上所謂食はず嫌ひの人多く又其の料理法の合理的ならざる為めと親しみ薄き関係上羊肉は美味なれども臭気悪しとの批評をなす者あり、甚しきは食はずして其の臭気を云為する者ある状態にして我國緬羊飼育奨励上最も重要なる影響を有する肉羊の販路開拓上遺憾なる次第なり。
 政府は大正七年当時東京女子高等師範学校講師一戸伊勢子女史に対し羊肉料理法の研究を委託し、また昭和二年陸軍糧秣本廠満田百二氏を委嘱して羊肉料理法の講習等を開催し之が研究をなし全国的に羊肉食の普及をなしつつあるが羊肉の臭氣も料理法によりては簡単に除去することを得るのである。

五、羊肉料理法

甲、料理上の注意
 羊肉は食通に言はしむれば羊肉の持ち味は牛豚其他の獣肉の有せざる柔か味と甘味を有し洋食のラムチヨツプ又はマトンチヨツプ、アイリツシュスチウ、支那料理の鍋羊肉(カウヤンロー)(一名成吉思汗料理)炒羊肉(シヤヤンロー)等は人口に膾炙するところである、其の固有の臭氣も料理法によりて簡単に除去することを得るものにして今其の方法に付き注意すべき諸点を列挙すれば次の如し。
1、成可く外部の皮下筋及皮下脂肪を取り除くこと。即ち羊肉の臭は主として外部の皮下筋及び脂肪に多く料理に際しても羊肉の脂肪にはステアリン(蝋質)の含有量が多く直ちに凝固し易い為めなり。
2、短時間の内に高熱にて調理すること。普通の煮物は摂氏百度にして、油を以ていたむれば百八、九十度の高熱となり蒸焼にして二百二十度、(ぢか)火に(あぶ)るときは三、四百度に上るものとす。羊肉に最も適するは焼物にして次は蒸焼更に油にていたむることとなる。故に假令煮物とする場合にも予め簡単に焙るか油にていためたる後煮るを良しとす。
3、使用する油は羊肉脂肪は固より動物性の「ヘツト」及「ラード」よりも植物性の胡麻油、落花生油等適当なり。
4、取り合せとする野菜固有の香りにて羊肉の臭気を消す方法もあり。例へば牛蒡、独活(うど)、葱等を配合して汁物、煮物、()へ物等を仕上ぐるなり、この外料理によりて同じ目的の為めに、香辛料例へば粉山椒、七色唐辛子、胡椒、月桂樹の葉等を用ふ。
乙、料理の種類

イ、焼物<他7品は省略>

鍋羊肉(カウヤンロー)又は成吉思汗(ジンギスカン)料理(五人分)
材料 羊肉(肩肉又は腿肉)百二十匁、醤油五勺、酒二勺、砂糖十匁、七色唐辛子少量、生姜、葱、胡麻油少量。
方法 羊肉は一分位の厚さに切り醤油、酒、砂糖、七色唐辛子其他を合せて中に約卅分浸しておく、(漬け汁はとつておくべし)焦げつかぬやう金網に胡麻油を塗つて強火の七輪にかけ漬け汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる。
注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。

  

参考文献
上記(1)の出典は平成17年5月22日付北海道新聞朝刊22ページ(函館印刷版)=原本、(2)は盛岡高等農林学校編「盛岡高等農林学校一覧 従大正三年至大正四年」173ページ、大正4年1月、盛岡高等農林学校=近デジ本、(3)と(9)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版2ページ、昭和10年11月、子安農園出版部、(4)は盛岡高等農林学校編「盛岡高等農林学校一覧 従大正三年至大正四年」144ページ、大正4年1月、盛岡高等農林学校=近デジ本と同「従大正四年至大正五年」120ページ、同5年12月、同、(5)は印刷局編「大正五年 職員録(乙)」450ページ、大正5年7月、印刷局=近デジ本、(6)は盛岡高等農林学校編「盛岡高等農林学校一覧 従大正四年至大正五年」126ページ、大正5年12月、盛岡高等農林学校=近デジ本、 (7)印刷局編「職員録」目次ページ、大正12年12月、印刷局=近デジ本、(8)印刷局編「職員録」424ページ、大正13年10月、印刷局=近デジ本、資料その1は同334ページ、同同=原本


 はい、なにか見つかりましたか。私はまず、田中式羊肉調理法には、鍋羊肉またはジンギスカン料理という名前も似た作り方もないことを挙げたいですね。次に、この山田さんのジンギスカン料理を引用したはずの茜会の記事が少し修正されているだけでなく「炭火の中に松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい」という注意を切り捨てている違いを指摘したいですね。多分ですよ、茜会の方々は、なんだ、松の枝とか松笠なんか七輪に入れて燻すなんて馬鹿馬鹿しい、無意味だとカットしたのだろうと思いますが、実はこの松の枝で燻すという点が、山田さんがお手本にしたジンギスカンの作り方を示す大事な手かがりなのです。
 なぜ削除したのか。理由は、茜会の本が出たときは、いまのような鉄鍋を使うのが当たり前となっていたためとしか考えられません。山田さんの初版本は、まだジンギスカン鍋が世の中に出回っておらず、金網で焼いていたころ書いたものなのです。だから松葉燻しができたわけですが、茜会のは鍋底を燻しても仕方がない。松葉で燻そうがガスで焼こうが無関係にになっていたからと思われます。
 さらに、山田さんは初版から「漬け汁はとつておくべし」と取り置きさせており、焼くときにその「漬け汁をつけながら」焼くと親切に書いてあるのに、それも書いていない違いがあります。ああ、それから山田さんの本は、鍋が使われるようになった後も、松葉燻しが書いてあります。歌は世に連れ、世は歌に連れなとどいいますが、ジンギスカンの漬け汁も世に連れで変わっていくのですが、山田さんは頑固に松葉で燻す焼き方だけは「緬羊と其飼ひ方」に残したのですが、最後にはマサ夫人の作り方発表という形で松葉燻しをやめたとみられるのです。
 「北の食物誌」も、初版からのこの注意書きがありませんね。毎日さんは吉田さんの示したらしい第2版以降の本を書き写したことが明らかなのに、書いていないのは燻す理由不明と削除したのでしょう。料理からはややそれてしまいますが「緬羊と其飼ひ方」第3版の奥付を見ますと、ちょっとわかりにくい書き方なのです。そのまま読みますと、こうです。昭和6年11月20日印刷、5日後の昭和6年11月25日発行、初版ですね。次がぽんと飛んで昭和9年6月5日訂正印刷、5日後の昭和9年6月10日再版発行、それから昭和10年11月5日に3版発行(10)。これでいくと訂正したのは2版であって、3版は2版と同じ版ということになりますね。
 まあ、それはいいとして、この「緬羊と其飼ひ方」はロングセラー、8版まで出たのです。昭和16年の本というから、せいぜい6版ぐらいかなと3000円で買ってみて、私もびっくりしました。その奥付では2版での訂正の記載がなくなり、昭和9年6月10日再版発行、昭和10年11月5日3版発行、昭和12年4月20日改訂4版発行とあり、以下13年5月28日5版、14年8月18日6版、15年8月25日7版、16年6月15日に8版発行(11)―こうなっています。8版の「第八版自序」に「本小著が改版毎に各所に多数の改訂補正を加ふるを特徴とするのも」(12)と書いてありますので、4版以降はあちこち手直しされているのでしょう。当然「鍋羊肉又は成吉思汗料理」も加筆訂正されているので、後で違いを比べてみせましょう。
 はい、話を昭和10年発行の3版に戻します。私は「緬羊と其飼ひ方」の大きな特長は、緬羊飼育を奨励する立場をですね、よりはっきり打ち出したことだと思います。その目的達成のためにも「甚しきは食はずして其の臭気を云為する者ある状態」をなくして、羊肉が売れるようにしたい。そこで政府は「東京女子師範学校講師一戸伊勢子女史に対し羊肉料理法の研究を委託」したし「陸軍糧秣本廠満田百二氏」に「羊肉料理法の講習等」の開催を頼むなど「全国的に羊肉食の普及をなしつつある」というニュースを盛り込み、この次に書いてある料理法は皆さん向けのそうした食べ方なのだと引き込むところが、大学の先生である小谷さんと羊の飼育奨励のプロである山田さんの違いだと思います。せっかく違いをみせたのに、惜しむらくは初版からずーっと、8版になっても、そのとき既に満田さんは亡くなっていたのに、山田さんは忘れたらしくこの部分を書き換えなかった。些細な揚げ足取りなんですけれど、完全に自序通りではなかった。でも兎に角山田さんはジンギスカンの食べ方を工夫した人だけに、ちゃんとレシピだけはわずかでも書き直しているのは流石、ご立派です。
 料理上の注意では「羊肉は食通に言はしむれば羊肉の持ち味は牛豚其他の獣肉の有せざる柔か味と甘味を有し洋食のラムチヨツプ又はマトンチヨツプ、アイリツシュスチウ、支那料理の鍋羊肉(一名成吉思汗料理)炒羊肉等は人口に膾炙するところである」と書いている点に注目しました。山田さんは炒羊肉と書いてシヤヤンローとルビを付けています。味付けした肉片に小麦粉をまぶして揚げる作り方なので、分類は揚げ物でいいと思いますが、炒という字は炒飯、チャーハンのチャーですからチャヤンローかチャーヤンローと読むのではないかと思うのですが、細かいことですから原文のままいきましょう。
 「人口に膾炙する」ということは、広辞苑第5版によりますとですよ「(なますやあぶり肉がだれにも美味に感ぜられるように)広く人々の口の端にのぼっている、もてはやされている」とあります。ジンギスカンは広い意味で炙り肉ですから、山田さんはその点も考慮してこの成句を選んだとも考えられます。そうしますとね、ここの食通の言葉としての「人口」はだれの口を指すのかが気になります。「ラムチヨツプ又はマトンチヨツプ、アイリシユスチウ」は欧米の「人口」に、「鍋羊肉 炒羊肉等」は支那の「人口」にもてはやされているけれども、まだまだどちらも日本の「人口に膾炙」していないということなのでしょうね。ここに挙げた4つの料理だけでも日本の「人口に膾炙」していれば、つまり炙り肉用にも肉羊がさばけて山田さんがわざわざ臭味を感じさせない料理法を書くほどのことないわけですからね。
 折角の機会ですから山田さんが列記した料理の名前だけ紹介しておきましょう。  焼き物は(1)羊肉の素焼(2)羊肉の田楽(3)羊肉の鍋焼(4)羊肉のすき焼(5)鍋羊肉又は成吉思汗料理(6)羊肉味噌焼(7)ローストマトン(蒸し焼羊肉)(8)羊肉黄金焼(9)羊肉の胡麻焼 以上9種類。  揚げ物は(1)羊肉竜眼揚(2)炒羊肉(3)羊肉葱間揚(4)マツトン、フライ(5)羊肉雪中揚げ(6)羊肉五目飯 以上6種類。  煮物は(1)アイリツシユ、スチウ(2)マトン、アラ、モード(3)羊肉酢の物(4)羊肉のおろし和へ(5)羊肉のみどり和へ(6)芙蓉羊肉(フーヨーヤンロー)(7)包羊肉(パオヤンロー)(肉饅頭)(8)羊肉骨スープ(9)羊肉の孔雀卵(10)羊肉薩摩汁(11)羊肉八幡巻(12)羊肉の佃煮 以上12種類。  内臓料理は(1)羊もつ焼(2)肝臓のカツレツ(3)腎臓のてり焼(4)脳の味噌漬(5)心筋の天ぷら 以上5種類。(13)
 下煮した羊肉片を入れて炊いた五目飯を揚げ物に入れるのは、どうかと思いますが、山田さんの分類のまま数えますと「北の食物誌」の「焼物九種類、揚物六種類、煮物十二種類、内臓料理五種類」と一致しますから、多少の手直しはあったとしても、初版から3版までの間に品数の増減はなかったことがわかります。
 山田さんが「緬羊と其飼ひ方」初版を出した昭和6年、月寒種羊場に勤務していたのですが、その後滝川にできた北海道庁種羊場の場長に栄転し、今度は「副業緬羊と羊毛加工」という本を書きました。題名の示すとおり羊毛の染め方やホームスパンの織り方などプラス飼い方という感じの本ですが「緬羊と其飼ひ方」と対になるよう意識して書いた部分もありますので、そのあたりを資料その2に引用しましたのて当時の羊肉事情を知って下さい。

資料その2

(1) 肉羊収入は仔羊収入同様若くは以上に大きく随つて欧米にては肉羊生産を経営の主眼に置くものが多いのである。殊に仔羊肉即ちラムの生産はクリスマスの季節及びスプリングラムの需要期がある為に此際高価に取引せらるる関係上各種緬羊の配合に就ても種々なる研究が行はれて居る位である。
 我が国に於ては未だ慣習上の需要期なく羊肉食の普及せられないのと、価格も豚肉程度に非らざれば売れ行きが悪い位であるから、肉羊生産を主眼とする者はないのであるが、逐年東京を始めとして地方大小都市に於て羊肉の漸次費消せらるる傾向があるから去勢羊にしても老廃牝羊にしても肉羊として販売せんとする場合は痩身薄肉の儘処理するよりは、之に肥育を施して肉質をよくして肉量を増加して高価に売る方が有利である。

(2) 現在内地の肉羊を取扱ふ店は最も大量には東京市赤坂区田町六ノ一〇、松井商店なれども札幌、小樽、函館、盛岡、仙台、福島、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸、熊本、長崎等の各都市に於て以前の農林省羊肉指定商以外にも買入るる者簇出しつゝあるを以て、農家は指導官庁の斡旋を仰ぎ最も近距離にして確実なる店へ最近の買入価格を照会し発送日時を打合せし上にて送る事を忘れてはならない。肉羊価格は商人により又年により差異あるも普通屠肉の上物は一貫(三・七瓩)に付三円乃至四円、中物二円乃至三円位であり、生体取引に於ては上物が一貫に付一円二十銭以上、中物七十五銭乃至一円二十銭位である。(羊肉料理は「緬羊と其飼ひ方」参照)

  

参考文献
上記(10)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第1版奥付、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、(11)は同第8版奥付、同16年8月、同同、(12)は同同自序、同、同同、(13)は同第3版338ページ、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、資料その1は同334ページ、同同、同、資料その2(1)は山田喜平著「副業緬羊と羊毛加工」訂正4版27ページ、昭和8年9月、明文堂=原本、同(2)も同同30ページ、同同、同


 この(1)と(2)の間に、羊の屠殺法の説明が入っています。我が国では喜んで羊肉を食べるまでには至っていないけれども、まあ、安けりゃ食べるというぐらいでも、東京を中心に都会では羊肉が売れるようになってきたというのが、山田さんの見方ですね。(2)の最後にさりげなくカッコして(羊肉料理は「緬羊と其飼ひ方」参照)がいいなあ。だれの本と記さなくても、とっくにおわかりでしょうが―ですね。
 また同書のおしまいの方に羊関係の諸統計や全国の種羊場と主な緬羊牧場、飼育組合のリストがあり、道内では月寒の農林省種羊場と滝川の北海道庁種羊場を含めて12の牧場、組合の名があります。ああ、それからですね、この「副業緬羊と羊毛加工」は北大図書館の高倉文庫の蔵書なので、閲覧するときは4階のリファレンスサービスに申し出でなければなりません。総合カウンターではありませんから注意してください。
 ところで私は何回か検索エンジンのgoogleを愛用、検索の鉄人たらんと日夜修行していると、あれっ、これはいわなかったかな、まあ、google遣いであると話したことがありますよね。ですから道新連載の「探偵団がたどるジンギスカン物語」で、駒井徳三命名説を教えた高石啓一さんが北海道立中央農業試験場のホームページの中で「ウンチク話のページ」を開いていて「ジンギスカン料理の起源について」と題するですね、それこそ蘊蓄を傾けられた論文を見付けることぐらいは朝飯前です。しかし、高石さんが定年退職されたので、それは読めなくなりました。
 しかしながらですよ、高石さんを検索するとホームページ「北の農業情報広場(hao)」に書かれた「羊肉料理『ジンギスカン』の一考察」が出てきます。細かく比べ読みしたわけではありませんが、これは、ページの組み方は変えたようですが、内容はかつての「ウンチク話のページ」とほぼ同じですね。「この原稿は筆者が在職中に取りまとめ作成した物です。従いまして内容等についてのお答えは出来かねますのでご了承下さい。(14)」という北海道農政部の断り書きも付いていることからも、そういえるでしょう。
 その中に、山田喜平場長の奥さんの山田マサさんが、山田さんとともに松葉燻しを提唱したと書いてあります。高石さんが掲げている参考文献から、そのマサさんが北海道庁種羊場が出していた「緬羊彙報」という機関誌第15号に「羊肉料理」を書いたことがわかりますから、北大図書館で捜して読んでみました。もちろん「ウンチク話のページ」のときのことですよ。
 するとですね、もう昭和14年には金網ではなくてジンギスカン鍋が使われていて、しかも漬け汁にはリンゴや蜜柑の搾り汁を加える(15)など、いまのジンギスカンにとても近い形が記されています。前書きのジンギスカン由来伝説はさておいて、マサさんの料理法は当時のジンギスカンの形を知る恰好の手かがりであり、ジンパ学としては見逃せない資料なので、その3として引用しました。山田マサさんは、ジンギスカンのほかに(1)羊肉の田楽(2)羊肉の佃煮(3)羊肉薩摩汁(4)マトンスチウ(5)羊肉の酢の物(6)五目飯(7)羊肉の玉子巻(8)肺臓入り雑炊(9)肝臓のコロツケー(10)心臓の角煮、の10種類の料理法(16)も一緒に書いてあります。

資料その3

成吉思汗鍋(じんぎすかんなべ)

 成吉思汗鍋は世界でも味で誇る支那料理中の粋たるもので、鍋羊肉(コオヤンロウ)と謂ひ、羊肉を味はんとするには、先づ成吉思汗からと申し上げる程珍らしくも、亦美味で、併も極めて簡単に出來る料理であります。
 抑々此の成吉思汗鍋は、皇紀千八百年代の中葉に、蒙古の一大英雄成吉思汗(成吉斯汗とも書く)が大軍を率ゐて、満蒙の荒野を馳駆して居りました時、或は中央亜細亜の諸國を席巻し、欧洲の中原を風靡した時に、沙漠や高原の露営にて士氣を鼓舞する爲に、部下の兵と共に、松樹の薪火にあたり、彼の高粱酒を傾けながら、羊の肉を焼いて、之を賞したと云ふのが、其の名の出た所でありまして、現今でも北京城門前の名物料理となつて居ります。
 要するに此の料理法は非常に原始的な風情を有し、野外で十数人が寄つて食するに適して居り、成吉思汗の古事を偲び、今日では炭火の中に青松葉を時々投じ、其の煙で肉を燻して頂くには絶好のものであります。茲に家庭的の料理法を記します。
材料
 羊肉(肩又は股肉)三百匁
 醤油一合、酒三勺、林檎搾り汁三勺、蜜柑搾り汁少々、生姜搾り汁少々、パセリ十本位、長葱、七味唐辛子、味の素、砂糖少々、胡麻油少々。
方法
 羊肉はスキ焼切りより稍厚目に切つておく。生姜、林檎、蜜柑は搾り、醤油一合、酒三勺の汁を作つて混ぜ合せ、味の素少々、砂糖茶匙一杯を入れ、七味唐辛子を少々ふり落して味を調へる。長葱は微塵切りとし、布巾に包んでよく水分を去り、器の汁と合せ、羊肉を此の中へ約二、三十分漬けておく。
 一方七輪へ炭火をおこし、食卓に載せ、火が落ち付いて來たら成吉思汗鍋をかけて、すつかり熱くなつてから、肉が焦げつかぬやうに其の上に胡麻油、又は豚の生油を塗つて肉を漬け汁より取上げて鍋に載せて焼く。
注意
 肉を度々裏返して焼くと肉汁が火の中へ落ちて味が悪くなる。肉は七分通り火が(とほ)つた処で裏返へし、ざつと炙る、此の程度が一番美味しい。

  

参考文献
上記(14)の出典はhttp://www.agri.pref.hok
kaido.jp/nouseibu/zinngisu
kann/2.html (15)と(16)は北海道庁種羊場編「緬羊彙報」第15号18ページ、昭和14年12月、北海道庁種羊場=原本、資料その3は同19ページ、同同

 揚げ足を取ると、パセリはどう使うんだと聞きたくなりますが、まあいいでしょう。喜平さんが書いた以前の焼き方とはかなり違いますね。前は「漬け汁はとつておくべし」と「漬け汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる」ということでしたから、小皿か何かに漬け汁を持ってきて、焼きながら時々漬け汁に肉片を浸して味をしみこませ、よく焼いて食べるように―ということだと思いますよね。
 それからね、この名前の説明は昭和12年末の函館新聞に北海道緬羊組合聯合會談として掲載された「美味しい喰ベ方」という記事にある名前の説明によく似ています。先頭から「名物料理となつて居ります。」までの294字と新聞記事の先頭の「成吉思汗鍋は世界で」から「に至つたとのことである」までの280字を材料として、文章の類似度を測るN−gramを使い、2字ずつ区切る2−gramで計算してみました。
 するとね、類似度は0.8136%とかなりの高率を示す。つまり、マサさんが2年前の函館新聞を大いに参考にしたことは確かでしょう。講義録を読んでいて、函新の記事を見たい人はここをクリックしなさい。またこの計算は、クジラ飛行机著「Pythonによるスクレイピング&機械学習[開発テクニック]」(17)という本にあるプログラムを使いました。
 私は試験の代わりに皆さんから提出されたレポートを評価し、単位を上げているが、目立たないように書いたつもりでも、こうした類似度でコピペがバレてしまうということを覚えておきなさいよ。
 しかし、マサさんは何度もジンギスカンを食べているうちに、生肉の香りの残る漬け汁を何度も付けない方がよい。また漬け汁自体も果汁を加えるよう工夫したために、付け汁を付けても付けなくてもいい感じに変わったこともあり、いっそ使わずにレア状態で食べるのがうまいとわかった。「七分通り火が透つた」「ざつと炙る」という食べ方を会得したということでしょうね。
 旦那の喜平さんは松葉燻しを書いていたのに、マサさんは松葉燻しを無視して「肉を度々裏返して焼く」と、肉がジューシーでなくなるよと教え、七分通り、ざっと炙るという表現で、軽く焼くことを強調しています。これは金網ではなくてジンギスカン鍋を使うこともあると思うのです。長い引用になるので著作権問題を考慮し、資料としては示していませんが、喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」の料理法のうちのすき焼き鍋を使う「羊肉の素焼」、フライパンを使う「羊肉の鍋焼」の焼き方に近いのです。前者は「羊肉を一枚づつ圧しつけるやうに並べ肉の縁が色褪せた時に裏返して両面とも薄く焦げ色のつくのを度として」食べるよう奨めています。後者も、小麦粉をまぶした肉片を「圧しつけるやうに列べ其の上に胡麻油を少しづつ落としておき肉の縁が色褪せて来た時に裏返して他の面も同様に仕上げ」(18)て食べる、どちらも表面の色があせる、白っぽくなったらOKという焼き方です。すぐ焼けるから、北海道弁でいう「食べらさる」のでしょう。肉量も倍以上に増やしています。喜平さん式の漬け汁の砂糖10匁を茶匙1杯に減らし果汁の甘みで補うことで、肉を焼いたとき漬け汁によるカラメル状の泡立ちが少なく、肉の変色が見やすくなったこともあろうかと思います。
 ですから、専用鍋の使用と漬け汁使い捨てが、金網で魚を焼くように焦げ目が付くまで焼かず、ちょっと焼けたらもう食べごろなんだという考え方をもたらしたともいえます。これはマサさんの「羊肉料理」の最大の特色と私はみます。レア指向とでもいいますか、この考え方は、資料その3のすぐ前に書いてあるのですが、同量の肉を煮る場合の羊肉の所要時間でも、喜平さんが書いた「緬羊と其飼ひ方」とはっきり違っていることからも断言できます。
 資料その1では羊肉百匁を丸のまま煮るには「十四、五分にて宜しく部分によりては九分位にて足る」と書いてありますよね。これに対してマサさんの「羊肉料理」では「五分―十分間(19)」と記してあり、少なくとも4分短縮しています。同量の豚肉、鶏肉、牛肉を煮る所要時間は喜平さんの「焼肉にする場合に要する時間」と同じなのにですよ。いまでこそ、生は嫌な方は軽く炙って食べてくださいと羊肉の刺身を出す店があり、多くの客は喜んで刺身で食べているようですが、当時としては7分通り火の通った焼き肉は、まだ血の滴るような感じで食べていたのではないかと思われます。
 マサさんが書いたほかの10種類の料理は、喜平さんが「緬羊と其飼ひ方」3版までに書いた料理法を、その後改良した味や材料に手直ししたものかどうか比べてみますと、6種類の共通の料理の羊肉量をみると、ジンギスカン以外では五目飯の5人前で30匁が50匁と6割増やしている以外は皆同じです。ですから、食べる量を倍以上にしているジンギスカン鍋は羊肉消費を増やすという国策にぴったりの料理といえるわけです。
 これは、マサさんのさっと焙りで食べると、両面しっかり焼きより美味しいため、思わずたくさん食べてしまい「もう肉はないのか、残念だなー」といわれることがあったので、たんだんに用意する肉量が増え、経験的に一応安心とみられる肉量だったかも知れません。
 ちょっと横道にそれますけれど「緬羊彙報」は、全巻そろって北大図書館にあるわけではなくて、第3号、6から9号、それに12号が抜けているのですが、山田マサさんの「羊肉料理」が掲載されている第15号は持っています。創刊号も保存されていたのはラッキーでした。昭和10年4月25日発行の創刊号を見ますと、山田喜平場長が「創刊号に題して」という巻頭文を書いています。それによりますと、山田さんとかつて緬羊課が出ししていた「緬羊彙報」とのつながりがよくわかります。
 山田さんは若いとき農商務省緬羊課にいて外国の雑誌を訳したり、緬羊の統計をこの緬羊彙報に載せたことがあった。謄写版刷り雑誌のお終いの方に、だれそれが研究のため海外出張を命じられたとか、何某は技師に昇格したといった「緬羊奨励華やかなりし景気のいい記事が毎月あったことが思い出される」というのですから、大正13年以降の思い出でしょう。「タイプライター印刷を使用するやうになり、緬羊技術翻訳時代であつたから之が無上に大切なものであつた」(20)というのですから、初期は謄写版の原紙に手書きであり、それが原紙にタイプ打ちして印刷するようになったと推定されます。
 山田さんは、さっき示した「副業緬羊と羊毛加工」の中で書いていることなのですが「緬羊と其飼ひ方」の「はしがき」でも第1次世界大戦の際、英国は豪州羊毛の輸出を禁止した。輸入羊毛に頼ってきた日本の織物業界はもちろん、将来こうした羊毛の輸入杜絶があると大変な事態になると慌てた政府は100万円の予算を計上して緬羊飼育事業の奨励を始めた。それなのに数年後から財政当局は目の敵のように何度も財政整理の名の下に予算を削減し、いまは20数万円しか計上されていない(21)と嘆いています。この「創刊号に題して」では、それに関連して農林省畜産局が生まれたものの緬羊課は廃止になり彙報が消えてしまったと記しています。
 しかし3年後の大正15年に滝川種羊場で「緬羊彙報」が復活、昭和6年末まで飼育技術の指南誌として発行されたが、昭和7年2月「滝川種羊場が北海道庁に移管せられ月寒種羊場の規模が半分に縮小」されるなどして、再び彙報が廃刊になり、それからは技術指導誌といえるものは年1回発刊の北海道緬羊会報ぐらいで、全国の緬羊関係者から彙報のような情報誌発行が要望されていたようです。
 「仍つて本年当場が事業拡張を実施するに当り本邦緬羊事業と最初から因縁深い緬羊彙報の刊行を其の名と共に継承復活することは決して意味ないことではないと愚考し且つは緬羊関係の先輩同僚及後進に対しても夫々謝恩懇親指導の精神奉仕ともならむかと愚念した為自ら謀りて之を敢行した次第である」
(22)と、発刊のいきさつを説明しています。
 保存されている各号を見ていきましたら、昭和13年の第10号に山田生なる人が書いた「肉羊の話」があり、それは東京などにおけるジンギスカンの流行を伝え、さらに北海道新聞の連載「探偵団がたどるジンギスカン物語」でも取り上げていた成吉思荘と思える店のことも書いてあります。資料その4になっているのが、その一部です。この2コマの前に東京の松井という羊肉専門店が昭和12年中に扱った肉羊が1400頭を超え、開店以来の記録となるなど羊肉市場の概況が書いてありまして、その販路は、と続くのです。

資料その4

△販路は依然として外国大公使館、外人ホテル、外人家庭、一流西洋料理店等を主とし上肉殊に仔羊肉が喜ばれるが、最近大小カフエー、食堂等に於ても流行的に羊肉を用ふるやうになり、之は寧ろ品質如何よりも廉価物の註文が多く又輓近羊肉専門料理成吉思汗鍋の開店せらるゝものがあつて、之が売行日を逐ふて盛んとなり松井店主の談に依れば現に松井肉店直営のもの二ケ所あるが其の繁昌の状況よりすれば未だ数軒を東京市内に開店するとも有望なりと曰へり。
△日本人家庭にても成吉思汗鍋を試みるもの増加しつゝあつて、往年羊肉料理宣伝は各種の料理につき行へるものなれども、今は羊肉と云へば成吉思汗鍋を聯想し、成吉思汗料理がインテリ階級に牛鍋以上の好評を博しつつあることは面白い現象である。昭和三年自分が欧米を一巡して本邦人の趣味嗜好よりすれば羊肉宣伝も御座敷料理ならざれば普及すべからざることを痛感し乍ら、成吉思汗鍋が煙立つ爲に御座敷料理に不適なりと思ひ、何か適当なるものをとサラダオイル煮、味醂煮等を考へたることあれども、成吉思汗鍋の味と其の名称の魅力に到底及ぶべくもなく、今や専門店は座敷の構造を改善してまで漸く世に行はれんとしつつあり。

  

参考文献
上記(17)の出典はクジラ飛行机著「Pythonによるスクレイピング&機械学習[開発テクニック]」296ページ、平成28年12月、ソシム株式会社=原本、 (18)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版338ページ、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、 (21)は同5ページ、(19)は北海道庁種羊場編「緬羊彙報」15号18ページ、昭和14年12月5日、北海道庁種羊場=原本、 (20)と(22)はいずれも同1号1ページ、昭和10年4月25日、北海道庁種羊場=原本、資料その4は同第10号12ページ、山田生「肉羊の話」、昭和13年4月、同


 筆者は山田生としかありませんが「昭和3年」「欧米を一巡」した技術者で、ジンギスカンよりもお座敷に適した料理として「サラダオイル煮、味醂煮」などを考えたりした熱心な人物となれば、滝川には山田喜平場長以外にはいないでしょう。
 いまいった成吉思荘のことは、道新記者の探偵団が日本緬羊協会の国政二郎副会長に案内されて「東京都杉並区の地下鉄丸ノ内線東高円寺駅近くの住宅街」にあり「一九三六年(昭和十一年)、食肉商の故松井初太郎氏が日本で初めて開いたジンギスカン料理専門店『成吉思(じんぎす)荘』の跡地」を見に行ったら「マンションの建設現場」になっていて「芸能人や有力政治家も訪れ」「駐車場には黒塗りの高級車が絶え間なく乗り付けた」ころの面影はもうなかった(23)―と書いています。
 検索エンジンのgoogleで検索することを、ググるという言い方が最近使われているようですが、それこそキーワード「探偵団 ジンギスカン」でググると、この記事全文が出てきますから読んでもらいたいのですが、いささか誤解を招く表現があります。成吉思荘に関しては、後の講義で特許を取った鍋など詳しくやりますが、店のあったところは松井初太郎氏の父親の平五郎氏の別荘だったのです。それに目をつけた陸軍省や農林省の食糧関係者がジンギスカンを食べるための会員制の倶楽部みたいな恰好で数年間使われたのち、昭和11年ごろに公式に開店したそうですが、開店年月はちょっと私の検証が足りないことを認めます。いまは住宅街でも、昔は夜道が恐いような田園地帯だったそうですよ。
 平五郎氏は赤坂で宮内庁御用達もする大きな肉店を営んでいたのですが、それを子供の初太郎氏に譲り、自分は栃木県だったかな、羊の牧場を開き、その羊肉を成吉思荘でも食べさせたのです。論より証拠、ちょっと昭和13年の新聞で見つけた広告を用意していますので、それをスライドで見てもらいましょう。山田さんの「緬羊彙報」10号が出た同じ年であることに注目してください。  

    

 どちらも、いまの毎日新聞の前身である東京日日新聞に掲載されたものです。左側の下の方の字が見にくい上に右から書いてある。読みますと、元祖成吉思荘、高円寺2丁目、青バス山谷下車、電話は中野5724、5864です。青バスとは東京地下鉄道株式会社が走らせていたバスで、車体の色からそう呼ばれたそうです。
 右側の広告は成吉思荘の生みの親である松井牛肉店のもの。これも小さい字がぼやけて読みにくいね。緬羊肉という字の右肩は「マトン愛食時代來る」、左肩は「陸軍省糧秣廠・農林省御奨励」と読めます。マトンを愛して食べる時代なんだぞ、陸軍も農林省も食べるよう勧めているぞというわけです。これは牛肉店となっているが、松井は明治以来食用にする緬羊を扱っており、糧秣廠、農林省の深い関係がこれからも推察されると思うので、皆さんに見てもらいました。このころ松井肉店はもう1種類、緬羊肉という字にマトンと振り仮名を付けた1段の豆広告を東京日日に出しており、緬羊肉はマトンという言い方を広めようとしたことがわかります。
 探偵を案内した国政さんは「『成吉思荘』跡を歩く」という記事からすると、昭和30年代後半に食べにいったようですが、戦前の写真も成吉思荘VIPと私が呼ぶある方のところに保存されており、それを見ると立派な庭園があり、邸内だけでなく、庭でも鍋を掛けてサービスしていたことがわかります。きょうは話しませんが、松井さんの親類で意外な人たちがジンギスカンを食べに来ていたエピソードなんかも、そのVIPから伺いましたよ。
 はい、いいですね、山田さんはその成吉思荘の開店について近ごろ、最近というのに輓近、バンキンという難しい言葉を使っていますね。輓馬競走の輓は、挽回の挽と同じ意味で引っ張る、または晩とも同じで近いという意味です。昭和30年代のベストセラーになった原田康子さんの小説「挽歌」の「挽歌」は、葬式で棺を乗せた車を引きながら歌う弔いの歌のことです。輓歌と書いてもいいので、ワープロの一太郎の辞書にはどちらでも打てるよう用意されていますよ。こりゃ、一太郎の太鼓持ちになっちゃったかな。ただ、私のように明治や大正の文献を引用したりする場合、一太郎は予想外の古い語彙を持っていて、へえーと思うことがしばしばあります。だからあれの辞書がでかくても許せると思うんです。
 山田さんが「緬羊と其飼ひ方」の初版を出したのが昭和6年、この「肉羊の話」を書いたのが昭和13年ですから、わずか7年の間に、なぜかジンギスカン鍋が急速に「人口に膾炙」した、いわゆるジンギスカン・ブームが起こったらしいということがわかりますね。羊肉といえば、世の中の人々がすぐジンギスカンを連想してくれるようになるなんて、いろいろな羊肉料理を作り、味見させて羊肉の普及に当たってきた山田さんにすれば、信じられない変わりようだったでしょう。ジンパ学の研究を始めたころ、満洲で発行されていた昭和10年の満洲日々新聞だったかな、大連の大和ホテルの庭園で観月会が開かれ、100人ぐらい集まって名月を眺めながらジンギスカンで一杯飲んでいたという記事を読んだ覚えがありますから、内地といわれた日本国内でも、そのころは満洲におけるジンギスカンの普及ぶりに近づきつつあったと思われます。
 明治の人々が文明開化のシンボルとして牛鍋に飛びついたのと同じように、昭和10年前後からインテリ層がジンギスカンを好んで食べるようになったのも、予想外の変化だったでしょう。なぜそう変わっていったのかという考察は、これからの講義で話していきますが、成吉思荘に先行してジンギスカン料理を名物にした料理店が東京にあったことが、私の現場主義に基づく調査によって明らかになったのです。
 「成吉思汗鍋の味と其の名称の魅力に到底及ぶべくもなく」と山田さんは、自分が考えた焼き方や味付け法はとても適わない。ましてや、だれが考えたのか知らないけれど、ジンギスカン鍋というネーミングは抜群、うまいなあと素直に感心していますね。つまり、山田さんはそんな遙か彼方の蒙古臭い名前なんて、まったく思い付かなかったということです。山田さんがジンギスカンという名前を初めて緬羊の本に書いた人だとする説がありますが、そうだとしても、山田さんが案出したのではないという重要な証言なんですよ。
 ちょっと脱線しますが、昭和13年はどんなことがあった年か。そう聞かれても即答できないでしょう。大正14年、農商務省畜産局にいた山田さんは「肉羊閑話」という随想のような題名なんですが、羊肉市況の考察を「畜産と工芸」6月号に書いています。それには政府が羊肉食の普及宣伝に努めてきた例として、大正10年の畜産博覧会で宣伝したのをはじめ、同10年は三越呉服店食堂、デパートの三越ですよ、そこで羊肉弁当を安く売らせたこと、12年は九州聯合畜産共進会、13年は日本女子大学展覧会、14年は世界料理展覧会と畜産工芸博覧会とあらゆる機会を利用して宣伝してきた。また初めにもいった東京女高師の一戸伊勢講師に日本人の口に合う羊肉料理を研究してもらっている(24)ことを列記しています。山田さんはこうしたPR活動を続けてもはかばかしく普及しなかった事実を知っていたからこそ、なおジンギスカン人気には、オーバーにいえば隔世の感があったんじゃないでしょうかね。
 それから、ここで注意したい大事なことは、どこにも山田さん自身が羊肉をおいしく食べさせるには焼き肉が適していることを見付けたとか、ジンギスカン鍋という名前を考えたとも書いていないという点です。「緬羊と其飼ひ方」の「鍋羊肉又は成吉思汗料理」は、暗黙のうちにお手本があったことを認めているのです。
  

参考文献
上記スライドの左は昭和13年10月3日付東京日日新聞朝刊7面=マイクロフィルム、右は同9日付同朝刊7面、同、(23)の出典は平成15年1月9日付北海道新聞札幌圏版=原本、(24)は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」第11巻6号、山田喜平「肉羊閑話」33ページ、大正14年6月、中央畜産会=原本


 それから奥さんのマサさんが「羊肉料理」を書いた「緬羊彙報」15号のことですが、この号は特別な彙報だったのです。普通の号のトップにはない「巻頭を藉りて―御挨拶―」という巻頭文が置かれ、月寒の農林省種羊場へ場長として栄転する山田さん、その後任場長になる宮川直衛さん、それに蒙古聯合自治政府平地泉種畜牧場に転勤する山本新太郎さんの3人の挨拶が載っています。その中で山田さんは滝川に昭和7年2月から7年8カ月在勤したことを明らかにしています。念のために「滝川畜産試験場五十年史」を見たら昭和7年2月5日から昭和14年10月7日まで在職となっていました。
 マサさんは月寒にいたときからジンギスカンを含めた喜平さんの料理研究を支えていたでしょうし、滝川に移ってからも続けたはずです。なんせ、料理をするなんて男の沽券に関わると威張っていた封建的な時代のことですから、いくら山田さんがうまい羊肉料理を研究したくても、奥さんの協力なくしては調味料が戸棚のどこに入っているのかさえ、わからなかったのではないでしょうか。漬け汁は肉を20〜30分浸したら、もったいながらずに捨てる。漬け汁で付け焼きしないで、一度漬けた肉は焼いてすぐ食べる方がおいしいということはマサさんの主婦の舌が見出したのかも知れません。郷土史家吉田博さんは狸小路の横綱開業のとき「タレは滝川から山田場長夫妻が来て指導してくれた」(25)と書いてありますから、これを信用すれば、横綱のジンギスカンは、最初は滝川バージョンからスタートして、後に合田さんが工夫して横綱の味を作り出したのでしょう。
 夫唱婦随かその逆か、とにかく山田さん夫婦は仲良くおいしいジンギスカンの作り方を研究した。それで喜平さんは月寒転勤に当たり、これまでより遙かにうまい料理法を決定版として公にしておきたかった。それでマサさんの名前で、より洗練された「成吉思汗鍋」を自分の転勤挨拶とともに掲載して、滝川への置きみやげにしたと私は解釈していたのですが、どっこい、そうではなかったのです。
 いくら喜平さんが道庁種羊場の場長で「緬羊彙報」を創刊していたにせよ、公式機関誌にワイフの羊肉料理の原稿を載せるのはいかがなものか。おっと政治家風な言い方でしたが、公私混同だと思いませんか。ところが、たまたまなんですが、私は古い「北海道職員録」を見ていて、マサさんが無給とはいえ、種羊場のれっきとした職員だったことを見付けたのです。無給ですから粉骨砕身ではなかったにせよ、とにかく嘱託として働いたのですね。
 勤務開始は、喜平さんが瀧川の場長になった昭和7年ではありませんでした。証拠は嘱託でも月給25円の医師門山周造の名前が職員録の末尾にあり、マサはない(26)からです。名簿は年によって記載するランクが違うため人数が違いますが、末席の嘱託まで書いてある年で、マサの名前が現れるのは昭和12年でした。
 12年8月1日現在の職員録は27人と記載人数が前年より一挙に16人も増え、最後尾に月30円の門山と同20円の1人と無給のマサと3人の嘱託(27)の名前が載っています。嘱託以上は喜平以下農林技手というランクまでが16人、雇4人、技術員4人計24人です。だからマサは遅くても昭和12年には種羊場嘱託として在職していたのです。
 13年7月1日現在の職員数は1人増えて28人で、嘱託は月35円の門山と無給のマサの2人(28)となっています。14年8月1日現在では3人増えて31人で、マサの無給嘱託は変わらっておらず、14年10月7日発令で喜平夫妻は転出します。その次の職員録である16年3月15日現在では場長が宮川直衛氏に代わり、18人(29)しか掲載していません。つまりマサさんは少なくとも3年ボランティアで嘱託だったことになります。
 「滝川畜産試験場五十年史」にある在職期間を見るとね、喜平さんが昭和7年2月5日から同12年10月7日までなのに対して、嘱託マサさんは11年3月1日から14年10月12日までで同時退職じゃない。この5日のずれは夫婦の機微か、わかりません。
 この間、マサさんは鍋やら調味料といった材料を公費で買ってもらい、お仕事として羊肉料理を研究し、教えたと思われます。肝心の羊肉はいくら種羊場のお膝元でも町内の肉店で常時売っていなかったでしょうから、偉い人の接待とか種羊場の創立記念日などの際、潰す員数外の緬羊を種羊場の冷蔵庫に保存して使ったのでしょう。
 こうして金網だったからこそ風味付けになった松葉燻しは、ジンギスカン鍋で焼くなら不要、林檎と蜜柑の搾り汁を加えた漬け汁に漬け込んだ味で十分、付け焼きはしない瀧川バージョンを編み出したと思われます。
 無給嘱託とわかってから、見付けたことなのですが、資料その5に引用した15号の「編集後記」を見て下さい。マサさんは種羊場で学ぶ女子実習生の実習や各種講習会で料理を教えていたことがわかります。それらの実習日程が「緬羊彙報」に載ってるが、単に山田とある教官は喜平さんじゃなくてマサさんだったらしいのですな。当然種羊場の職員も何度かご相伴に預かったのですね。だからこそ、喜平さんの転勤を機にやめる嘱託として、その間の研究成果である「羊肉料理」11種を堂々と「緬羊彙報」に掲載できた。ジンギスカンだけではなく、今さっきいった肝臓のコロツケーなど11種類の料理を書いた説明がつきます。くどいようですがね「滝川畜産試験場五十年史」に職員の在職期間一覧があり、マサさんは11年3月1日から14年10月12日まで在職と載っている(30)ことも後で見付けておりますよ。それから「成吉思汗鍋は世界でも味で誇る支那料理中の粋たるもので」うんぬんという前書きについても改めて取り上げ、出典などを考察します。

資料その5

編集後記

○道庁種羊場として開場以来其の経営に當られ、本邦屈指の緬羊大
 牧場に築き上げられた當場初代山田場長転じ、又當場創設以来飼
 育主任であり、且つ指導陣に於て重要な地位に在つた山本技師去
 つて、本誌への執筆陣営稍寂寥を感ずる次第である。本郷劈頭新
 任場長の挨拶と共に御両氏の御挨拶を録し、緬羊関係各位への告
 別の言としたが、吾々は之を以て縁切の辞とならざらんことを望
 むものである。乞ふ! 本誌の生ある限り、御両氏の本誌上に相
 見ゆるの機多からんことを。
   <略>
○寒冷の冬季を迎へ、羊肉の賞味漸く多からんとする折柄、嘗て當
 場山田囑託執筆に成る羊肉料理の一篇を本號に登載して、羊肉の
 各種料理指導に資した。當場実習生又は講習員として在場したこ
 とのある諸姉諸君が、榮養料理に渇れし北羊寮の食堂に於て、此
 の料理の実習指導を受け、其の試食に舌鼓を打った羊肉の美味を
 想起して、之が活用に率先せらるれば幸である。
   <略>
             (一四、一一、一五、皆川記)

  

参考文献
上記(25)の出典は北海道農業改良普及協会編「農家の友」昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、北海道農業改良普及協会=原本、 (26)は北海道庁総務部人事部編「北海道職員録 昭和7年4月1日現在」214ページ、昭和7年5月、北海道庁総務部人事課=原本、 (27)は同「北海道職員録 昭和12年8月1日現在」167ページ、昭和12年9月、同、 (28)は同「北海道職員録 昭和13年7月日1現在」177ページ、昭和13年9月、同、 (29)は同「北海道職員録 昭和14年8月1日現在」128ページ、昭和14年10月、同、資料その5は北海道庁種羊場編「緬羊彙報」15号55ページ、昭和14年12月5日、同、 (30)は滝川畜産試験場50年史編集委員会編「滝川畜産試験場五十年史」234ページ、昭和56年7月、北海道立滝川畜産試験場=原本


 「編集後記」の1コマ目は、転勤しても、たまには原稿をお願いしますよということですね。「山田囑託執筆に成る羊肉料理の一篇」が公にされたからには、これより2年後に出た「緬羊と其飼ひ方」第8版は、マサさんと同じように果汁入り、さっと焙りに書き換えられているはずと思ったのですが、そうでなかった。果汁入りではあったけれども、依然松葉燻しの勧めだったのです。
 8版の「○鍋羊肉又は成吉思汗料理」では、林檎汁一個分、蜜柑汁一個分を漬け汁に加える作り方です。でも漬け汁は羊肉漬けに使う分と味付けに使う分と取り分け、味付け用の漬け汁を付けながら両面を焼き、松葉燻しを勧めています。奥付によれば昭和12年に改訂4版を出して以来、版を重ねたものの改訂はしていないことになっている。4版で改訂して以来大きな書き換えはしていないはずであり、つまり喜平さんはマサさんより2年早く果汁入りの漬け汁を公表していたことになるのですね。
 4版でどう変わったのか、4版で確かめる必要があります。ところが「緬羊と其飼ひ方」4版を所蔵している大学はありません。それで私は研究仲間にお願いしてですね、つくば市の農業生物資源研究所にしかない4版のコピーを取り寄せてもらって、比べてみたのです。するとね、もう4版の段階で、漬け汁に林檎汁一個分、蜜柑汁一個分の果汁を加えるよう書いてあったのです。
 もちろんマサさんのアドバイスあっての改良でしょうが、マサさんの果汁入り付け汁は、いきなりポンと出たものではなく、この4版レシピの改良型とみるべきだったのです。葱と生姜を漬け汁に入れた2版がホップなら、果汁を加える4版がステップ、あっさり焼きのマサさんの作り方はジャンプと3段飛びをしたことになるのですね。
 そこで喜平・マサ夫妻によるジンギスカン料理のどこが修正されていったかを版毎の記事をスライドで示しましょう。書き足した部分は朱色の字、削除した字も見えていますが、横線で抹消したと見て下さい。
 まず(1)です。糧友会の記事はいずれ講義で見せますが、喜平さんが初版に書いた「鍋羊肉又は成吉思汗料理」はね、カオヤンロー、ジンギスカンと振り仮名を振った2つの料理名以外は、糧友会の記事の引用と断っていないけれど、記事の「ですます」調を書き換えたぐらいしか違いがない。わかりますね。
 成吉思汗料理という名前と作り方も書いた本は喜平さんのこの初版が初めてらしいと唱えた人がいたようだが、それより3年前の昭和3年に糧友会が発行していた雑誌「糧友」では「鍋羊肉(支那料理の焼肉)」としたレシピとは別に、初めての講習会の報道記事で「これは成吉思汗(ジンギスカン)鍋ともいひ今でも北京の郊外でこの方法をしてゐる」(31)と説明しているのですから、誤りであることは明らかです。北京でジンギスカンを食べたという話なら大正13年のある雑誌に載っているし、里見クが昭和5年、時事新報に連載した「満支一見」では、やはり北京で食べた話を書き、その挿絵の中に「北京正陽楼 ジンギスカン料理」と説明(32)が書いてあるのですからね。
 兎に角、喜平さん夫妻は羊肉の美味しい食べ方を研究したと思いますね。3年後出した2版になると喜平さんは生姜と葱を加えて、糧友会との違いを出し始めた。スライドの(2)がそれです。生姜と葱を入れるよう書き換えたのと、股肉は腿肉と変えたほかは、まったく同じなのは、これまたわかりますね。
 早く緬羊を増やすうえで、もっとたくさん食べて羊肉が売れるようにしてもらわにゃならんと、農林省当局が喜平さんに肉の量を増やして書いてくれと圧力を掛けたかも知れません。スライドの(3)になると、同じ5人前でも使う羊肉の量がバーンと倍増している。いま笑った人がいたが、そうした指示もあり得たと思うのです。
 いいですか、第1次世界大戦の羊毛の輸入杜絶で懲りてますから、わが日本は羊毛確保でできることは何でもやることにした。陸軍は昭和5年だと思うのですが、被服本廠が被服協会という外郭団体を作ってね、普通の人々が着る普通の洋服の布の質とデザインをできるだけ兵隊の軍服に近いものにする運動を始めたのです。それを「軍民被服の近接」といい、被服本廠の白井八百蔵廠長は「理想として一般民は常に戦時にそのまゝ使へるやうな被服を各個人が着てゐると云ふことが絶対に必要です、力ーキ色を着るなぞと云ふと軍国主義だと嗤ふ者もあるがこれは大変な間違ひで、カーキ色系統の如き中間色は被服として一番適してゐると思ひます、」「一概にカーキ系統の色とのみは申されませんが、せめて何色でも成るべく地質の同じやうな丈夫なものを選んで欲しいものです、(33)」と説明してます。
 被服協会は「被服廃品の利用再生法」、「被服常識の栞」、「衛生的な被服の選定」といった本を10冊以上出したり、被服協会推奨服という制服類を展示した(34)りして国民に働きかけた。
 戦前の着物はだいだいモスリンという生地でしたが、日本商工会議所が出した「消費経済合理化運動施設報告」では「モスリンは羊毛から製造されるものでありますから、一朝有事の秋軍服地原料の輸入杜絶した場合には、此のモスリンを再製して軍服地の材料にする事が出来ます。其故平常着用したモスリンの古襤褸を非常時に提供されゝば国家的奉仕になります。即ち羊毛貯蔵の意味からも愛用ありたいものであります。(35)」とずばり書いてあるくらいです。
 ボロ布なんかどうするのかと思うでしょうが、かつての満洲国の例を資料その6にしました。大陸科学院というのは、満洲の国立科学研究所です。
 いまは断捨離だとか捨断離とか、ぽんぽん捨てるようだが「戦時下に廃品なし」できた私なんか、捨てるもの何にもなし。昭和31年の北大創基80周年記念で全在学生がもらったベルトのバックルもそれだ。型崩れ角帽は北大文書館に納めたが、カクボウといっても木の棒じゃないよ、大学生が被っていた角張った帽子。
 序でにその黒ピカのバックルの写真を見せよう。これを頂いたころ、北大病院のところのイチョウ並み木はこんなもんだったという意味で「北大時報」平成24年11月号を下敷きにしました。講義録では縦に長過ぎて見にくいだろうが、我慢スクロールで見てください。
 オホン、この表紙の写真はね、以前の講義で見せちまった下宿で一緒だったA君が80周年のころ撮ったものさ。それが表紙に採用されたことを教えようと、北大當局にも無断で使わせてもらいました。ふっふっふ。いまケータイで撮ったジンパ風景でも長く残しておくと、50年後の「北大時報」が喜んで表紙にするよ。うっふっふ。

資料その6

戦時下に廃品なし<横見出し>
 獣毛・ボロ屑から
  皮革代用品を再生
   完成へ・大陸科學院で研究

戦時下に廃品再生の進軍また一つ―政府當局では、予てより物資統制に節約に戦時体制の経済整備に物資統制委員会を設けるなど大童であるが、その一項目として
 △ 皮革 △代用品作製に着目、数次関係者が会合協議の結果大体の見通しがつくに至つたので、技術的な研究を大陸科学院に依頼したところ、大陸科学院ではこの国策生産には双手を挙げて賛成、直に研究に着手した、この皮革代用品生産は満州国内に飼育される豚、牛、その他動物の毛、ボロ屑等を混合してフエルト式に圧搾、普通我々が使用してゐる皮革と全然変らない品物を造らうと云ふのであるが、目下のところ八分通り完成を見たが、後の
 △ 二分 △が充分でなく、多少毛のまゝで残る所があり、摩滅し易い點があるので目下研究中だが、今年中には完成を見る見込みで、満洲にも満州産の皮革代用品が幅を利して
 △ 市場 △を闊歩する時時代も間近であると見られるゐる、大陸科学院では語る
製造工程は一寸今のところお話出来ません、これは満洲で初め てと云ふ訳でもありません、外国あたりでも目下研究中の筈です、若しこの代用品が実用化するとすれぱ、多分来年度からでせう
  (大新京日報)

    

 ちと脱線しちゃったが、ともかく山田のマサさんがレシピを発表した昭和14年、農林省は「緬羊彙報」を復活させるのですが、そのコラムに「何か緬羊に薬でも飲まして羊毛を二倍も早く生長させる方法はないものですかね」「生かしておけば羊毛が生へるのだから緬羊の屠殺禁止、ジンギスカン料理の休業といったことは考えられませんかね」と云はれる程に軍では羊毛の増産を希望し期待してゐる(36)―と書いてあります。本当の話ですよ。ラムを食べたら刑務所行きだ、はっはっは。
 農林省としては羊肉が農家の収入増になるとわかれば、緬羊を増やすだろう。だから羊肉を食べてもらわにゃ困る。だが、軍隊はよぼよぼでも生かして毛を増やしてくれという。どうすりゃいいの、この私と迷うところなんだが、問答無用、羊毛第一。山形県では羊毛の軍供出用標語を募り「殖やせ緬羊、毛は軍へ」に1等賞を与えた。(37)羊をつぶして食べるなんて、とんでもない。贅沢は敵だというスローガンで国民が締め上げられる時代に入っていくのです。
 平和のありがたさ、おしいさを皆さんに知ってもらおうと、ちょっと脱線しました、はい。(3)では肉が増えたので、漬け汁も倍量以上にしたうえ、果汁を入れる新機軸を出したのです。それから焼き方も変えた。「とつておくべし」だった漬け汁は、どうするのか明確に書いておりませんが、その一部は羊肉を浸す漬け汁に使わず、別にしておいて、焼けた肉に付ける漬け汁にするということだと私は考えますね。
 それからここでは、金網だけでなく特製鍋を使うことを想定しているのが注目されます。喜平さんは昭和2年11月24日開かれた初の糧友会羊肉料理講習会の出席者として「農林省畜産局より局長代理岸技師、山田技手(38)」、12月24日の第2回講習会にも「農林省よりは、山田技手が見えた。(39)」と書かれているくらい、糧友会とは長い付き合いがありました。
 後日詳しく講義しますが、糧友会は昭和10年に10周年を記念して機関誌「糧友」の創刊号からの講読者と会関係者に特製のジンギスカン鍋を無料贈呈した(40)のです。山田技手は立派な関係者ですからね、当然プレゼントされたでしょう。それからさっきいった松井本店にも羊肉の消費量調査などで通い、鍋開発も見聞していた。そうでなきゃ、挽近の業界話は書けませんよね。山田さんはそれやこれやの鍋で焼き方を研究したと思われます。また昭和12年には料理の友社から国産の鍋が通信販売で売り出されたことから、今後は鍋でも焼くことになると見通して作り方を考えたのでしょう。
 ところで去年まで私は林檎などの果汁入りの漬け汁はね、喜平さんが独自に開発したとみて皆さんに話してきましたが、もう半年早く、つまり昭和11年のうちに東京で果汁を加えた漬け汁のジンギスカンのレシピが公表されていたことがわかりました。のんびりした北海道と違って、さすが生き馬の目を抜くお江戸だ。これは平成23年の新発見です。
 でも喜平さんは、そのレシピとは全く別に蜜柑や林檎のジュース入りを思いついたかも知れませんよ。でもそうした本、いや正確にはパンフレットというべきものなのですが現に存在するし、喜平さんは滝川にいたからといって、それを目にする機会は絶無だったとはいい切れない。それは東京の成吉思荘と関係のあることなので、いずれ成吉思荘を取り上げる講義で改めて説明します。
 さて(3)では「漬け汁を付けながら両面を焼く」つまり漬け汁に浸して、肉にいくらか味が付いているのに、さらに漬け汁を付けながら焼く付け焼きそのものみたいな焼き方はやめて、鍋または金網上ではただ焼くだけとし、よさそうに焼けたら漬け汁を付けながら食べる。漬け汁と火の上と肉を往復させない。焼けたら鍋、網から取り上げて、皿などに取り分けた漬け汁で味をつけて食べる。いま我々がやっている焼き方と同じことを勧めています。ここにおいて糧友会とはかなり違うジンギスカンになっていることがわかりますね。

(1)初版(昭和6年)
鍋羊肉(支那料理の焼肉)又は成吉思汗料理 (五人分)

材料 羊肉(肩又は股肉)百二十匁醤油五勺酒二勺砂糖十匁七色唐辛子少量胡麻油少量

準備方法
羊肉は一分位の厚さに切つて醤油、酒、砂糖、七色唐辛子を合せ中に約三十分浸しておきます。く、(漬け汁はとつておきます。)くべし)調理焦げつかぬやう金網に胡麻油を塗つて強火の七輪にかけ漬け汁をつけながら肉の両面を焼きます。いて食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよくなります。よい。
(訂正対象は糧友會編「糧友」昭和3年1月号81ページのレシピ)


(2)改訂2版(昭和9年)
鍋羊肉又は成吉思汗料理 (五人分)

材料 羊肉(肩肉又は肉)百二十匁、醤油五勺、酒二勺、砂糖十匁、七色唐辛子少量、生姜、葱、胡麻油少量。

方法 羊肉は一分位の厚さに切り醤油、酒、砂糖、七色唐辛子其他を合せて中に約三十分浸しておく、(漬け汁はとつておくべし)焦げつかぬやう金網に胡麻油を塗つて強火の七輪にかけ漬け汁をつけながら肉の両面を焼いて食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。
(訂正対象は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」初版340ページのレシピ)


(3)4版での改訂(昭和12年) 
○鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)

材料 羊肉(肩肉又は腿肉)百二十匁三百匁、醤油五勺一合、酒二勺五勺、砂糖十匁、林檎汁一個分、蜜柑汁一個分、七色唐辛子少量、生姜、葱、胡麻油少量。

方法 羊肉は一分位の厚さに切つて置き、生姜と生葱は微塵切にし醤油、酒、砂糖、七色唐辛子其他を合せて汁を造り使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を三十分浸しておく、(漬け汁はとつておくべし)一方七輪にかけた特製鍋又は金網に焦げつかぬやう金網に胡麻油を塗つて強火の七輪にかけ肉の両面を焼き薬味の入つた漬け汁をつけなが肉の両面を焼いて食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。
(訂正対象は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」3版340ページのレシピ)

  

参考文献
上記(31)の出典は糧友会編「糧友」3巻1号123ページ、昭和3年1月、糧友会=原本、(32)は昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面=マイクロフィルム、 (33)は昭和7年1月4日付都新聞朝刊7面、同、 (34)は被服協会編「被服廃品の利用再生法」は昭和6年7月、同「被服常識の栞」は同7年6月、同「衛生的な被服の選定」は同9年7月、いずれも被服協会発行、近デジ本、 (35)は日本商工会議所編「消費経済合理化運動施設報告」189ページ、日本羊毛工業会編「モスリン愛用の智識」より、昭和8年6月、日本商工会議所=近デジ本、 資料その6は昭和13年9月14日付大新京日報朝刊7面=マイクロフィルム、 (36)は農林省畜産局編「緬羊彙報」3号55ページ、「角笛」より、昭和14年7月、農林省畜産局=原本、 (37)は同1号22ページ、「本省通信」より、同14年4月、同、 (38)は糧友会編「糧友」3巻1号122ページ、昭和3年1月、糧友会=原本、 (39)は同3巻2号88ページ、同3年2月、同、 (40)は同10巻5号77ページ、昭和10年5月、同


 はい、次のスライドです。(4)は5版に載っている作り方です。4版との違いを確かめるだけのためにね、私は5版を持っている東大農学部の農学生命科学図書館に行きましたね。4版に載せた作り方と比べると、大差ありません。材料の分量は同じで、ただ漬け汁は羊肉を漬けた汁と食べるとき味付けする汁とをはっきり使い分けるようにしている点が変わっています。
 5版を調べたので、6版と7版はどこの大学にもないけれども、私が持っている8版までの間に筆を入れた個所が明らかになりました。スライドの(5)がそれです。6版から8版までの間としているのは、6版と7版が見付からないからです。酒を減らし、味の素とパセリを加えた。それで生姜は搾り、葱とパセリは微塵切りと書き換えたことがわかりますね。酒を減らしたのは、戦時体制になり手に入りにくくなっていたせいかも知れません。
 このように喜平さんは版を改めるたびに、ちびちび手直しをしているのですが、それで思い出したことがあるのです。それはね、私がかつて東大の先生が書いた因子分析の本を読んで計算ミスを見付けた。それで先生の本は計算が間違っていますと葉書で知らせたら、ほかの人からも注意された。2版で訂正したから2版を読んでくれと返事がきたことがありました。本人が訂正したというからには私の指摘は正しい。となれば、いくつかの訂正、書き換え以外は同じ本をだね、もう1冊買って読まなきゃ困るわけでもなし、それっきりになりましたね。
 その経験から思うのです。喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」も8版で10年続くロングセラーになった。一度買ったら改訂した新しい版を出したところで、本のごく一部、4版以降は361ページと版は変わっても同じページにあるジンギスカン料理のレシピ書き換えに気付く読者が何人いるか、とね。太平洋戦争が激しくなり、肉など食料品が配給制になるといった当時の事情もあったでしょう。また特製という言い方をしていますが、4版を出したころから国産の鍋がある程度出回るようになり、金網で焼かなければ松葉燻しは無意味だということも気付いていたと思いますね。
 喜平さんの本では、マサさんのレシピと比べると、せっかく果汁を入れる発見をしたのに、砂糖は10匁と果汁なしのときと同じで、これでは甘すぎないのか。もしかすると、喜平さんは甘い漬け汁が好みだったかも知れませんな。また最後まで松葉燻しにこだわっています。これを削ると1行ずれ、料理法を含む第12章「生産物の処理」の後半40ページを組み替えねばならなくなるので、子安農園出版部の方で、その儘で我慢してほしいと山田さんに頼んだことも考えられます。
 それやこれやで喜平さんは、せめて道庁種羊場の「緬羊彙報」を読んでいる緬羊関係者だけにでも、松葉燻しよ、さようなら、あっさり焙りよ、こんにちはと、コペルニクスじゃない、ジンギスカン的転回をした作り方を知らせたかった。そこでですよ、滝川を去るに当たり、マサさんに「羊肉料理」を書かせ、最新の山田バージョンを知らせた―というのが私の読みです。

(4)5版(昭和13年)での改訂
○鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)

材料 羊肉(肩肉又は腿肉)三百匁、醤油一合、酒五勺、砂糖十匁、林檎汁一個分、蜜柑汁一個分、七色唐辛子少量、生姜、生葱、胡麻油少量。

方法 羊肉は一分位の厚さに切つて置き、生姜と生葱は微塵切にし醤油、酒、砂糖、七色唐辛子と合せて汁を造り使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を二、三十分浸して一方七輪にかけた特製鍋又は金網に焦げつかぬやう胡麻油を塗つて肉の両面を焼き薬味の入つた尚ほ新しい漬け汁をつけ乍ら食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。
(訂正対象は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」4版361ページのレシピ)


(5)6版(昭和14年)から8版(昭和16年)までの間の改訂
○鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)

材料 羊肉(肩肉又は腿肉)三百匁、醤油一合、酒五勺三勺、砂糖十匁、林檎汁一個分、蜜柑汁一個分、七色唐辛子少量、味の素、生姜、生葱、パセリ、胡麻油少量。

方法 羊肉は一分位の厚さに切つて置き、生姜は搾り生葱、パセリは微塵切にし醤油、酒、砂糖、七色唐辛子味の素を合せて汁を造り使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を二、三十分浸して一方七輪にかけた特製鍋又は金網に焦げつかぬやう胡麻油を塗つて肉の両面を焼き尚ほ新しい漬け汁をつけ乍ら食べる。

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい。
(訂正対象は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」5版361ページのレシピ)


(6)マサさん料理法での改訂(昭和14年)
鍋羊肉又は成吉思汗料理(五人分)  <料理全体の説明に「料理は大体一品五人前となつて居ります。」という注記があるため>

材料
羊肉(肩又は腿肉股肉)三百匁、醤油一合、酒三勺、砂糖十匁、林檎搾り一個分三勺、蜜柑搾り一個分少々、七唐辛子少量、味の素、砂糖少々、生姜搾り汁少々葱、パセリ十本位、胡麻油少

方法
羊肉は一分位の厚さスキ焼切りより稍厚目に切つて置き、おく。生姜は搾り生葱、パセリは微塵切にし、林檎、蜜柑は搾り、醤油一合、酒三勺の汁を作つて混ぜ合せ、味の素少々、砂糖茶匙一杯を入れ、七唐辛子味の素を合せて汁を造りを少々ふり落して味を調へる。長葱は微塵切りとし、布巾に包んでよく水分を去り、器の汁と合せ、使用直前に之に果汁をも入れ其の中に羊肉を此の中へ約二、三十分浸して一方七輪にかけた特製へ炭火をおこし、食卓に載せ、火が落ち付いて來たら成吉思汗又は金網をかけて、すつかり熱くなつてから、肉が焦げつかぬやうに其の上に胡麻油、又は豚の生油を塗つて肉の両面焼き尚ほ新しい漬け汁をつけ乍ら食べるより取上げて鍋に載せて焼く

注意 炭火の中に生松の枝(又は松笠)を混ぜ入れて多少燻し気味に焼くと一層風味がよい肉を度々裏返して焼くと肉汁が火の中へ落ちて味が悪くなる。肉は七分通り火が透つた処で裏返へし、ざつと炙る、此の程度が一番美味しい
(訂正対象は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」8版361ページのレシピ)

 このマサさんのレシピですがね、平成21年10月に道開拓記念館が体験講座「70年前のジンギスカン、どんな味?」を開き、再現を試みたので、私も参加しました。鍋ではなくフライパンを使ったほかは、概ねレシピ通りにやりましたが、いまの市販のたれに慣れた私の舌では薄味というべき味付けでしたね。
 それより私が注目したのは、体験講座のA4判のパンフレットの写真です。表紙に割烹着姿の女性17人が調理台を囲み料理実習らしいことをしている大きな写真が印刷されていた。その下に「写真:北海道庁種羊場『昭和十二年 五周年記念アルバム』(1937) (個人所蔵)より」という説明が付いていました。資料その7(1)がその表紙の一部です。
 解説員の説明が始まり、同じ写真がOHPでスクリーンに拡大されて映ったのです。それが(2)ね。それで私は思い出したのです。高石啓一さんが滝川郷土史研究会の「そうらっぷち」に、昭和11年冬の料理実習で成吉思莊の鍋らしい五徳のような足のついた鍋を使っている(41)と書いていたことです。
 帰宅して表紙写真をスキャナーで取り込み、拡大して見たのですが、資料その7(3)のように栓抜き型のハンドルが鍋の左側に立っており、真ん前の白い棒は五徳の足の1本に見えるが全体暗すぎます。そこで現場主義です、何といってアルバムの現物を見てみようとね、思い立ったのです。

資料その7

(1)
     

(2)
    

(3)
      

 滝川市図書館と新得の道立畜産試験場にアルバムの有無を尋ねてみたのですが、どちらも保存されていなかった。そのうちに私が探していることが、アルバムの持ち主の耳に入ったのですね。持ち主は、やっぱり高石さんだったのです。持ち主だったからこそ、じっくりアルバムの現物を観察できたのですなあ。著作権保護期間は過ぎており、アルバムを私物とは思っていないというようなお話で、私の複写は構わないと、アルバムを借りていた道開拓記念館に申し出られたので、記念館からコピーするかと私に打診がありました。
 私としてはご好意は非常にありがたいが、将来どこかの大学か図書館で同じアルバムをコピーできることがあるだろう。今回はパソコンで画像を見せてもらうだけで十分ということで、記念館教育振興課長の山際秀紀さんにスキャナー撮りした原画の拡大画像を見せてもらいました。はっきりいってやせ我慢ですな。
 画像は明るいものでしたが、最初は何やらわかりませんでしたね。しばらく眺めているうちに、足だと思った白い縦棒は、銚子の袴のようにコンロを納める円筒部のハイライト個所。その上の薄明るいところは擂り鉢型のコンロの側面、その上の横白線は鍋の縁を支える五徳の輪のハイライトであり、別に丸棒をぐにゃりと曲げた足が2本あると見えてきたのです。
 私の想像したより、よくわかる写真だったのです。私は内心慌てて画像を記憶しましたね。山際さんはさりげなく1枚プリントして私に差し出したのです。見るだけで十分と断って見せてもらった手前、受け取れないところなのですが、画像説明の参考にさせてもらうといいながら頂いちゃった。情けない話ですが、込み入った画像を正確に思い出して描ける自信がなかったのです。
 それで、かなり正確な図解ができたので、資料その7(4)としました。つまり(3)は、本来こう見えるはずなのです。それから足の点線のところは皿や鉢に隠れて見えない部分です。高石さんは「そうらっぷち」に「これは七輪を用いておりませんので、東京の成吉思莊当主の松井初太郎さんが考案し登録したもののようです。鍋は、五徳(ごとく)のように足がついた火鉢の上に、少し盛り上がった目皿様な隙間が空いているものです。(42)」と書いています。やはりパソコンなどで拡大して見たのでしょうね。
 それから半月ほどたってからですがね、パンフの表紙よりきれいに鍋の形がわかる同じ写真を見付けたのです。それは平成17年7月に催された「ジンギスカン王国滝川」のチラシ。たまたま研究仲間が会場近くを通ったので、もらってきて私にくれたものです。裏面にうんと明るい実習写真が載っていたのです。それを拡大したのが(5)です。図解とよく合っているでしょう。
 こんな風に曲がった足は、成吉思莊の初期の鍋以外にありません。私が持っている五徳だけの写真、資料その7(6)と見比べて下さい。似ているでしょう。よく見えないので、コンロ受けの円筒と足との接合部を同じ長さに描きましたが、実際は重量軽減を図って写真のように短いかも知れません。松井式肉炙器というこの鍋は、昭和12年7月から売り出し広告を始めているけど、成吉思莊は昭和11年に開店していますから、試作段階か店で使っていたのと同型はあり得たわけです。
 道庁種羊場長の喜平さんは本省在勤中は成吉思莊の親である松井本店に羊肉の集出荷状況調べなどで出入りして、初太郎氏とは懇意にしており、月寒か滝川に転勤後のことと思われますが、2代目経営者の統治さんは「オヤジが山田さんにうちの鍋を持って行きなよといっているのを見た」そうですからね。それにしても、いち早く滝川で松井式肉炙器が使われていた証拠が、意外なところに潜んでいたんですなあ。

資料その7

(4)
      


(5)
     

(6)
      

 何の変哲もなさそうな写真でも、見方によっては重要な情報が引き出せるという実例でした。私が描いた図解入りだから、自画自賛といわれても仕方がないかな。はっはっは。はい、話を喜平さんの「緬羊と其飼ひ方」に戻します。
 山田さんは鍋羊肉と書き、一貫してカウヤンローと振り仮名を付けています。前にもいいましたが、里見クさんが志賀直哉さんと一緒に北京で食べた羊肉料理の名前は「烤羊肉」だと書いて、それにカオヤンロウと振り仮名を付けています。鍋ではありません。佐々木酉二さんは「焼羊肉」にカオヤンロウと書き、茜会もそのように書き、カオヤンローとウを音引きにしています。それから釣谷猛さんは「高羊鍋」と書きコウヤンロウとルビを付けています。
 釣谷さんの本は昭和40年に出た本ですから、出現順で並べると昭和5年の烤羊肉、昭和6年の鍋羊肉、それからポーンと戦後へ飛んで昭和40年の高羊鍋、昭和59年の焼羊肉となります。いずれも正しい中国語の料理名だとすると、ジンギスカン鍋或いはジンギスカン焼きのルーツとみられる料理が4種類ぐらいあるので、筆者によって名前まで違ってくるんだということになります。こんな見方は、これまでに聞いたことはないでしょう。そこがジンパ学が学問たる所以です。
 田中式には中華料理の変形らしい名前の料理がありませんから、鍋羊肉は別として炒羊肉、芙蓉羊肉、包羊肉といった中華系らしい料理は山田さんが考案した料理なのか、お手本があったのか。その検討もこれからやっていくわけですがね。ただ、包羊肉は中央畜産会が出した「豚肉加工」にある揚饅頭に似た作り方であるといえます。同書の「日本料理」に転載してある田中式豚肉調理法による肉饅頭には、皮を蒸す肉饅頭と油で揚げる揚饅頭と2通りあって、その揚げる方の作り方に近いのです。はっきり異なるのは皮にベーキングパウダーを入れるか入れないかでありまして、山田さんはふくらし粉を入れない皮で包む作り方にしています。肉を予め炒めておいて餡にすることは同じ(43)なので、これがヒントで豚肉を羊肉に代えて作られたのかも知れません。
 それから資料に載せていませんが、喜平さんのレシピには少し疑問がなくはないのです。例えば五目飯だけ材料の人参を胡蘿蔔と難しい字で書き、しかも五目飯を揚げ物に分類しているのか。煮物に入っている包羊肉と場所を間違えた可能性があります。この包羊肉の作り方は炒めた羊肉の餡を小麦粉の皮で包み、油で揚げるのですから、揚げ物じゃないのかと思うのです。それから、分量の書き方です。前半が律儀に塩少量というふうに全部に少量と書いているのに、後半の包羊肉、孔雀卵、薩摩汁、カツレツの4品だけ、塩だ胡椒だと並べて最後に「少量宛」(44)と書き方が違っています。こうしたことから再版のときに追加された調理法かなと思ったのですが、東京の調査で初版から人参の書き換え以外は全く同じであることを確かめました。これらは山田さんのお手本の方の問題らしいので、さかのぼって調べると、また新しいことが出てくるかも知れません。
 それから女子実習生の料理実習についてですが、吉田博が「北海道農家の友」に書いた「成吉思汗料理物語り」を読み返していて、これにも「昭和12年滝川種羊場女子実習生と共に」という写真説明で写真が付いているのに気付きました。何度も読んでいたのですが、どこかに日吉良一の「成吉思汗料理物語」を読み、その論旨を土台にしたとわかる言い回しが潜んでいないかという読み方をしていたので、写真をよく見ていなかったんですわ。資料その8がその写真とその周辺、七輪で網焼きしてることがわかるでしょう。何、よく見えないってかい、まあ、松井式の焜炉ではないことはわかるでしょ。

資料その8

   

 出典について何も書いていないので、本当に昭和12年の写真かどうかもわかりません。ただ吉田はこの記事でですよ、25年前に日吉良一が取り消した駒井徳三命名説を知ってか知らずかリバイバルさせ、その裏付けに駒井の娘藤蔭満洲野のエッセイを引用して「蒙古草原、羊群、義経のイメージ、それにリズム感、とくに父は物に名前をつけることが大好きで、ジンギスカン鍋とつけたのでしよう(45)」なんて満洲野が書いていないことをシャアシャアと付け足した人物ですからね。まあ、こういう写真も残っているというぐらいに見る程度でよろしい。
 最後の資料その9(1)はですね、昭和12年末の第3回女子実習生の終了式の記事です。きょうの料理実習の写真が昭和12年に写したものならば、39人いなきゃならんのですが、その半分ぐらいですから、鍋が1つなので2班に分かれたのでしょう。その前の昭和10年の第1回は27人、11年の第2回は36人終了(46)とわかりますから、やはり2班に分かれて実習したのでしょう。参考までに付けておきました。
 同(2)は別の記事を探していて見つけた第2回修了式の記事です。昭和11年も確かに緬羊実習をやってましたという程度のことです。では、きょうはここまでにして、次回は月寒種羊場に長く勤務した釣谷猛さんの高羊鍋説などを取り上げます。

資料その9

(1)

   緬羊実習生修
   了證書授与式

 滝川町に於ける北海道庁種羊場の
 第三回女子緬羊実習生の修了證書
 授与式が二十七日午前十一時半よ
 り同場内で挙行一同の着席と共に
 山田場長の諭告と教務報告に次ぎ
 同場長から修了生三浦トク子外三
 十八名に證書を授与し次で遠山道
 庁経済部長の訓示に神部滝川町長
 並に月寒種羊場長の各祝辞と修了
 生総代三浦トク子さんの答辞あり
 て正午過ぎ終了した


(2)

  女子緬羊実習生    北海
  修了証書授与式    道庁
種羊場の第二回女子緬羊実習生修
了証書授与式は廿六日午前十一時
より同場内で挙行され一同の着席
と共に右修了生の業績報告に次ぎ
山田場帳より広瀬艶子他三十六名
に夫々修了証書を授与し続て同場
長の告示に来賓吉岡滝川町長代理
亀谷滝川緬羊組合代表相神本社滝
川支局長の各祝辞と修了生総代廣
瀬艶子の答辞ありて閉式後来賓其
他関係側は別室でお手のものゝ羊
肉料理で祝宴を挙げ午後一時散会

 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記(41)と(42)の出典は滝川郷土史研究会編「そうらっぷち」39号104ページ、高石啓一「札幌じんぎすかん物語」より、平成18年3月、滝川郷土史研究会=原本、 (43)は中央畜産会編「豚肉加工」161ページ、大正7年6月、中央畜産会=原本、 (44)は山田喜平著「緬羊と其飼ひ方」第3版350ページ、昭和10年11月、子安農園出版部=原本、資料その8は昭和12年12月29日付北海タイムス朝刊5面=マイクロフィルム、 資料その8は北海道農業改良普及協会編「北海道農家の友」昭和51年8月号81ページ、吉田博「成吉思汗物語り」、北海道農業改良普及員協会=原本、 (45)は同82ページ、同、 (46)は滝川畜産試験場50年史編集委員会編「滝川畜産試験場五十年史」45ページ、昭和56年7月、北海道立滝川畜産試験場=原本 資料その9(1)は昭和12年12月28日付北海タイムス朝刊*面=マイクロフィルム、 同(2)は同11年12月28日同8面、同、