前回、私はジンギスカンの原型と見られる料理の名前が4つもあると指摘しました。中国語ではコウという発音らしい火扁に考と書く烤、その後ろに羊肉がついた名前の料理が里見クの見聞をはじめ最も多い@烤羊肉です。この烤、クなどはJISの第2水準にもない字なので、UNICODE(CSK統合漢字)を使っています。同コードでは明朝体が主らしく、ゴシック体の烤は特に下付きでぎごちない感じがするのですが、やむを得ません。もしかすると、これらの字が出ない機種があるかも知れません。そのときはご勘弁願います。ついでにお断りしておきますが、しゃぶしゃぶの羊肉のは、私がjpgで作字したもので、縦棒、横棒とも1ピクセル単位の線しか引けませんので、もっとまずい字体になっているのを気にしているんですよ。それから月寒種羊場にいたとき山田喜平さんが書いた本「緬羊と其飼ひ方」で知られるA鍋羊肉、同じくその月寒では山田さんの遙か後輩になる釣谷猛さんのB高羊鍋、北大の佐々木酉二先生のC焼羊肉と4通りの名前が、これまでに現れているからです。みんなコウヤンロー、カオヤンローという似た振り仮名を付けているのですが、同じ料理ではないのかどうか。
そこで釣谷さんが書いた「月寒十五年」を検索しますと、北大図書館北分館に1冊あります。借りて調べましたら、釣谷さんは旧制弘前高校で、わが文学部におられた関清秀先生の親友だった方で、昭和18年から15年間月寒種羊場に勤務し、随筆サンケイに入選したこともある、いわゆる書き手なんですね。本は、そうした原稿を集めたもので、実際に書いたのは本より5年早い35年に書かれたものでした。これから配る資料の1枚目が、茜会が抽出した箇所を含む釣谷さんの「成吉思汗鍋」という1章です。では配って下さい。私が見るところ、ちょっと長いのですが、なかなか面白いヒントを含んでいます。
資料その1
その昔、かの英雄成吉思汗が蒙古の大軍を引きつれてヨーロッパを席捲したとき、野戦において盛んにヒツジの炙り焼きをし、遠く故郷を雛れて郷愁に駆られる兵士の土気鼓舞したことから、成吉思汗鍋料理が生れたといわれている。しかし、現在の蒙古人はヒツジを丸ごと長時間塩茹でして食べるのが主で、焼肉はやらないところからみると、どうもこの伝説はちと怪しい。
語源の詮議はさておき、私どもの眼に触れる成吉思汗鍋のアイデアは、北京の飯店料理である高羊鍋からきたものである。高羊鍋というのは、蒙古の奥地から来たヒツジを北京の郊外で三カ月の間黒大豆(ここが秘訣という)を食べさせて肥育し、松の枝と松葉を野外で燃やし、鉄板を乗せ、その上で羊肉を焼き、エビの油にニンニクの入ったタレをつけて食べる頗る野趣に富んだ料理である。松の木に足をかけ煙がもうもうと立ち昇る中で食べるこの料理を、何とか日本の家庭に持ち込めないものかと苦心してきたが、大正十二年頃になってコンロの上にロストル型の鉄板を乗せて焼き、醤油・砂糖・酒・生姜といった日本趣味の味を活かしたタレを作ってみたら、案外いけるとして生まれたのが月寒流成吉思汗鍋なのである。
(この中間の227字省略)
最近各地で成吉思汗鍋が盛んになってきた。結構な流行だが、ただ残念なのは、羊肉を吟味せず、歯切れを支配する肉片の切り方は出鱈目、味覚を決定するタレが醤油にニンニクを入れた程度のひどくお粗末なもので、羊頭狗肉の成吉思汗鍋が横行することである。成吉思汗鍋を美味しく食べるコツは、羊肉の厚さを一分ぐらいにし、必ず筋繊維に対し直角に切ることと、肉片を強火でサッと裏面を焼き、(肉汁がじゅうじゅう出るようでは火が弱い)薬味の入ったタレをたっぷりつけて食べることである。半焼きぐらいが食べ頃というところだが、どうも焼餅焼きの人が多く、長く焼きたがり焦がしてしまう。焦げると不味いから成吉思汗鍋はセルフサービスがエチケットであり、自分で焼いて食べるに限る。折角の成吉思汗鍋も、タレが不味くては話にならんので、月寒流のタレの作り方の秘訣を、家元に代って伝授しよう。
五人前を標準とする場合、羊肉五百匁は、なるべく若い羊(肉の色が薄く脂が少ない)の、しかも肉片の大きいもので屠殺後一週間ぐらい経たものを選ぶこと、肉は予め切っておき、醤油三合に砂糖五〇匁を入れ、ちよっと火にかけ、醤油の生臭い匂を消し、葱五本の絞り汁、林檎三〜四個の絞り汁、日本酒一合を入れ、更に柚子一個の絞り汁と生姜大一個をオロした絞り汁を入れ、化学調味料、唐辛子少量を加え、最後にこれらの味を融和させるためにニンニク一個の絞り汁を入れる。ニンニクを入れないと味覚に画竜点晴を欠くこととなりトロッとしたコクのある味とならない。
出来あがったタレ半量に、切った肉を二〜三時間漬けておき、半量は焼いた肉をつけるタレとする。薬味としては葱とパセリの微塵切りを添えると美味しく戴けることうけあいである。季節によっては、果汁として、ミカン・夏ミカンを加えると一層美味しくなる。鍋がなければ金網で結構である。又玉葱の輪切りや長葱と一緒に焼いて食べるのも雅味を添えることになる。是非お試しあれ。(三五・一・二一)
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参考文献
出典は釣谷猛著「月寒十五年」165ページ、昭和40年7月、釣谷猛文集刊行会=原本
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ジンパ学としては「私どもの眼に触れる成吉思汗鍋のアイデアは」から「案外いけるとして生まれたのが月寒流成吉思汗鍋なのである」というところまでを最も重視します。釣谷さんは2度「高羊鍋」と書いています。2回目の高羊鍋は「これは」と代名詞でも済むのに、わざわざ高羊鍋と書いたわけがあり、この呼び方に自信を持って書いたと思われます。皆さんもそう思いませんか。つまり、根拠として1つ目は黒大豆で肥らせた羊を食べるのだということ、2つ目は野外で松の枝と松葉を燃やし、鉄板で肉を焼くということ、3つ目はエビの油にニンニクの入ったタレをつけるという食べ方、この3つはこれまで出てこなかった情報であり、知っている人は少ないだろうと釣谷さんが判断していたと思われます。この3拍子そろったものが高羊鍋なんだよといっているんですね。
しかし、インターネットで高羊鍋で検索しても、我がジンパ学のホームページ以外に出てきません。広い中国のどこかでそういうメニューを見たというなら、いくつか出てきてよさそうなものですが、ゼロなんです。釣谷さんオリジナルの当て字の可能性大なんですね。高は高粱、コウリャンの高ですからコウと読めそうな気がするんですが、どうもこれは日本語読みであって、あちらではガオリャンというようなのです。羊肉はヤンローと何度も読んでいますから、羊一字ならヤンということははわかりますね。決定的に違うのは鍋なんですね。「暮らしの中国語単語7000」によると、鍋料理は火鍋と書いてフォーグォー、土鍋煮込み料理は沙鍋と書いてシャーグォー(1)とあります。ですから高羊鍋はガオヤングォーということにならざるを得ません。また国立民俗学博物館名誉教授の周達生という方が書いた「世界の食文化 中国」によれば「鍋は、標準語で『鍋』というが、広東では『鑊』という」(2)そうですから、こちらの標準語の発音に従えばガオヤンクゥオですね。高だけカオということにしてもカオヤンクゥオで釣谷さんがつけた「こうやんろう」というルビとは、とても合致しそうにないのです。
この「世界の食文化 中国」は、烤羊肉の烤についても解説しているんです。周さんによるとですね「あぶることを烤とするのは、北方の、しかもわりあい新しいいい方であり、元来のあぶるは『焼』であったのだ。今日、標準語は、あぶるを『烤』にしており、『焼』は、たき木を燃やす場合には、焼くの意味を持つけれども、料理用語としての『焼』は、焼くを意味しない。料理法でいう『焼』は、材料を一度炒めて色が変ったら、スープを入れて味付けし、弱火で軟らかく煮込むことをいう」(3)のだそうです。「わりあい新しいいい方」と周さんは、あっさり書いているけれども、我がジンパ学では、それでは済まされません。「烤」は「烤羊肉」のために作られた字だという説もあるようなので、そのあたりの文献探しをしてから後日講義します。
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参考文献
上記(1)の出典は佐藤正透著「暮らしの中国語単語7000」49ページ、平成14年9月、株式会社語研=原本、(2)(3)はいずれも周達生著「世界の食文化 中国」75ページ、平成16年1月、農山漁村文化協会=原本
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松葉とか松笠を入れて燻すと風味が増すと山田さんも書いていますが、山田さんは北京については何も触れていませんから、里見クの紀行文「満支一見」を読んでいない人には、なぜ松葉で燻し気味にして風味をつけなければならないのかわかりませんし、そういうことを一切知らない人には釣谷さんの講釈は新情報ですよね。さらに「エビの油にニンニクの入ったタレ」は「満支一見」でも触れられていませんから極めて斬新な情報です。
いずれ皆さんにお示ししますが「満支一見」で里見さんは、たれについては醤油ベースで、びりっとする味で胡椒が入っているらしいというぐらいしか書いていません。釣谷さんのいう高羊鍋のタレは、この表現ですとエビの油なるものがベースであり、それにニンニクの微塵切りか絞り汁が入るとなります。しょっぱいのか甘いのか、これだけではよくわからないでしょう。実はエビの油なる液体は、日本のしょっつる鍋のしょっる、ベトナム料理のニョクマムのに当たるエビの魚醤なので、しょっぱいはずなのですがね。とにかく私の講義では初めて出てきた新しい調味料です。
ところがですね、釣谷さんはですよ、残念ながら「大正12年ごろ」という証拠を何も示していません。しかし、皆無ではなかったのです。社団法人北農会が出していた雑誌「北農」の昭和33年1月号に載っている年表「農林省北海道農業試験場畜産部」の大正12年の欄に「羊肉利用のためロストル型ジンギスカン鍋を考案」(4)と記載されています。これは北海道農業試験センターのある方から教わったことでして、確かにその通り記載されています。釣谷さんが随想を書く2年前ですから、これが根拠だったかも知れません。十分あり得ることです。
この年表は「北海道における農業試験機関年表」という連載の資料解説で、月寒の農商務省月寒種牛牧場から種畜牧場、種羊場という流れと、開拓使が作った真駒内牧牛場から北海道種畜場の流れの両者を併記した年表で、鍋考案は農商務省滝川種羊場月寒分場の側に入っています。さかのぼって見ますと、月寒で羊を飼い始めて6年後に当たる大正3年の欄に「羊肉利用(味噌漬。粕漬)を試む」(5)とあるのを見て、ピカッときましたね。粕漬けの古い広告です。それを資料その2としました。
資料その2
六花堂着荷志らせ
牛肉粕漬
一牛肉粕漬を御用ひの節ハ函の中より取出しふきん或は紙にて粕をぬくひ又其肉の残りを貯ハへるにはよく/\粕をつけ置本の函に入れて気のぬけさる様御仕舞置なされ候ハゝ腐敗の患ひなくまた味ひの変る事なし仮令牛肉嫌ひの御方にてもその匂ひする事なく一度御食用あれは其味ひ口に溢れ腹に満る程に志てたとゆるに物なし猶御心得のため料理方荒増記し置處になむ
東京尾張町二丁目 本舗 康養軒
一湯水にてあらへは味ひをそこのふゆへ御注意なさるへし
一吸物にてするにハ湯をざつと煑たて肉をよき程に入れ焼塩をおとし薄加減のつゆにして青みを加へ用ゆへし又野菜ものゝ中に肉を入れ煑て用ゆるも至極宜し
一あぶり肉は串或はあみの上に乗せほんのりとあぶりて焼塩か醤油をつけて用ゆへし又ハ付け焼にしてもよろし
一油にて揚るにハ粕をおとし肉をよき程にきりホルト油又ハ胡麻油にてあげ。からしを付けて用ひ又は其儘さしみにして用ひて至極よろし
一粕汁は牛肉を用ひたる残りの粕を味噌にすり交ぜよく煑たて蜆蛤或は豆腐又ハ大根等の類を入れて用ゆへし風味結構にして少しも牛のにほひすることなし
一漬ものをするにハ肉を出したる跡の粕に瓜なすび大根等の類を一塩にして一昼夜程漬て用ゆへし尤とも時候によりて漬かげんハ御見斗ひなさるへし
一鮮魚を漬るに一塩して其魚に塩加減の行廻りたる時を見て用ゆへし又塩志たる魚は程能き塩かげんの處を漬て用ゆへし仮令何品を漬けても決して牛の匂ひする事なし
一肉を極和らかにする時ハ細火にて一時間程煑て用ゆへし
此外用ひ方色/\あり御試みの上にて料理方は猶御工夫の程偏に祈る處になん
新発明
鮭の粕漬
此粕漬召上のせつ粕をよくぬくひ。さしみに用ゐてよし又焼物によし但し残りの粕は何品を漬候共其風味よし
東京 鈴木吉兵衛製
鮭の煮取
鰹の煮取
新発からくり。志かけ
小児よろこぶ菓子
右着荷仕候間不相変御試しの上御評判奉希上候
函館内澗町一番地
大日本内国新発明
食用品調進所 六花堂
明治14年5月8日付函館新聞附録より
明治の文章なので自分で濁点を付けてね、ガクがないとすらすら読めない。実物は組み方に変化を持たせ、振り仮名があるので多少読みやすいのですが、とにかく同じ粕漬けでも牛肉と鮭肉では説明文の長さが大違いという点に注目して下さい。粕の利用を除けば、牛肉の料理説明4項目に対して鮭は1項目しかありません。この違いは、新しい食材である牛肉、しかもその粕漬けが目新しかったからだと考えるのです。文中のホルト油とはオリーブ油のことです。食べ方を教えなければ、家計第一の奥さんどもは裁き慣れた魚を選んでしまう。また何度も宣伝しておけば、突然の酒客に「これは牛肉の粕漬けなんですが、お口に合いますかどうか」なんてね、客側も「新聞広告では知っていましたが、これがそうですか」と感心してみせられるってもんです。
この広告のころから40年後、月寒ではその昔は新食材であった牛肉を、未知の羊肉に置き換えてみていたんですね。味噌、酒粕をぬぐって焙ったりしたんでしょうね。でも年表には出典や年表作成者の名前が記載されていないので、これ以上はわかりませんけど、火のないところに煙は立たぬ。何か根拠があったんでしょう。
年表と釣谷さんの大正12年ごろ完成説を信用するとですよ、北京式の情報が種羊場昇格のころ入ったとすれば、12年までの4年間ぐらい、もう少し後だったとしても2年ぐらいは北京直伝、松の木燻しを室内でやってみた。エビ油が札幌で手に入ったかどうかわかりませんから、少なくともニンニク入り醤油のたれで食べたことが考えられます。
松の木に足をかけて食べるという話は「満支一見」の炉の前に足乗せ台があったという報告と、後で出てきますが、久保田万太郎の小説の松葉燻しが混じってできたのではないかと思われます。煙がもうもうと立ち昇る中で食べるこの料理を、ちゃぶ台を囲む「日本の家庭に持ち込めないものかと苦心してきた」と書いてあるのですから、少なくとも初期は北京式に近い形で取り込もうとしたのでしょう。
というのは、小谷さんが取り入れた田中式羊肉調理法の田中宏博士もですね、豚肉料理は和風というべき作り方に至る前段で、同じように支那料理風からの脱却に苦心したらしいからです。大正4年の雑誌「料理の友」のインタビュー記事を見ると「豚肉料理も近頃余程変って参りました 参考のために御覧ん下さいと示されたのは五年前同邸で催された試食会の献立でありました 之に依ると博士が豚肉料理研究の資料を支那料理に求めた事は勿論で 従って当時の料理は支那臭味を脱せなかつたのであります。然るに最近に至つて淡泊な料理に馴れた日本人のの口にも喜ばるゝやうに工夫せられましたのは一段の進歩と思はれるのであります、左に紹介致しますのは即ち大に日本化した豚肉料理の献立であります」(6)と書いてあることから、そう推察するわけです。
日本人向きに変えるなら、なぜもっと早く「醤油・砂糖・酒・生姜といった日本趣味の味」のたれ作りを思いつかなかったのかという疑問が当然起きますよね。釣谷さんは、それについて何も説明していません。年表作成者は誰かの「ロストルで焼くようになったのは関東大震災があった年だったかなあ」などという思い出話から、大正12年ごろと割り出したのかも知れません。それとも釣谷さんは、鍋本体とたれを分けて考え、北京の鍋を手本としてロストル型は当初から使われており、それプラス和風のたれができた。もしくはたれ先、鍋後という経過をまとめて「ロストル型の鉄板を乗せて焼き」「日本趣味の味を活かしたタレを作ってみた」と書いたことも想像できます。
いまは独立行政法人農業技術研究機構北海道農業研究センターというのが正式なのですが、そのセンターの研究者で、2階建ての書庫を管理し、自由に出入りしている某運動部の後輩は、そうした羊肉食の記録のようなものの存在は知らないといっています。「北農」記載を教えてくれた方も、大正12年説の裏付けとなる一次資料は見当たらないといわれます。すぐには新聞記者の耳に入らなかったと考えて1年後、つまり大正13年の北海タイムスを調べてみましたら、2月に瀧川種羊場の松岡忠一場長が「我国緬羊事業の前途 事業開始茲に七年 官業民業共に良好」という長い題名、これは見出しというべきでしょうが、ともかく報告を8回寄稿しています。その中で羊肉消費にも少し触れるのですが、焼き肉が食べ方として有望なんてことは一言も書いていないのです。さらに新聞を調べますが、当時の月寒分場日誌を見せてもらうことも考えています。保存されているそうですから。
それから北海道緬羊協会が昭和54年に刊行した「北海道緬羊史」が北大と道立図書館にあります。その中に日本緬羊協会主催で昭和29年8月15日、本を出す25年も前、いまの瀧川市がまだ瀧川町だったころの北海道立種羊場で開いた「種羊場の昔を語る座談会」が載っているんです。語る人としては農林省北海道農業試験場から山本吾作、小林清吾、工藤理三郎の3氏、道立種羊場から蓑田光太郎、中村熊吉、山下清松、田代千代房の4氏。聞く人として農林省北海道農試畜産部の釣谷猛、千葉英精両氏、北海道立種羊場の吉田稔、高津定雄、近藤知彦氏、日本緬羊協会の渡会隆蔵氏らが出ているのですが、ジンギスカンは2カ所しか出てきません。
1つは、話し始めてまもなくの毛の刈り方の思い出につながるところです。ここは大事な話を含んでいるので資料に入れました。1枚目の後半がそれです。
資料その3
山本(吾) いやいや今から見れば幼稚なもので、ほんとの初期には体の半分づつ刈ったものです。その後今の様にスピードをかけて丸刈りをやる様になったのです。
千葉 小田さんなんか当時刈られたのは外国式そのまゝだった。だんだん変って来たのは、早く刈るということでいろいろ考え出されて来たものなんで、一つの進歩なんでしょう。
蓑田 大正12年に滝川へ来た頃にはもう大体今の様な方法をやっていました。剪毛の話をすると思い出すのですが、北条へ行った年に、入って来たばかりのシュロップシャーの剪毛をやらされたが、暑いのに、はじめてだからうまく刈れない、実吉場長はやかましく云われるし、その上、見物人は黒山のようにいるので、全く辛かったことを……。
山本(吾) そんな思い出では、或る時笠原さんか誰かが刈った緬羊が刈り終って見たら死んでいたことがあったですナ。
千葉 そう云えば大正9年の5月の剪毛の時は、腸捻転で数頭死んだのを憶えています。緬羊の品種にもよったのかも知れないが、保定も悪かったろうし、時間も随分かゝったからでしょう。
吉田 剪毛前に飼付をしたんですか?
簑田 それはやりませんでした。
千葉 そういう風に死んだ場合の肉の処理は、当時まだジンギスカン料理というものはなくて、みんなスキ焼にして食べたものです。そして当時の緬羊は1頭でも非常に貴重なもので、今日とは全然感じが違いますネ。
小林 病気にでもなったら大変で、御飯がノドを通らなくなってしまう。(笑声)
千葉 それには吾々にも責任があるんで、斃死したら農林大臣迄報告しなければいけないというようなことがあって……。
いいですか。千葉さんが「当時まだジンギスカン料理というものがなくて、みんなスキ焼にして食べたものです」と証言しています。ジンパ学者として「当時」とはいつごろを指すのか、ぜひ知りたいところであり、四方八方調べておるわけです。
もう1つは、もう少し後ろの「何かと云うと始末書 よく追った名犬パピーとケリー」という一章の中で、ほんの僅かです。
資料その4
渡会 それではこれからは別に話題は設けませんから、何なりと自由にお話をしてもらうことに致します。
吉田 ジンギスカン料理というのは、何時頃からやる様になったもんでしょうか。
蓑田 昭和のはじめ頃からではないでしょうか、はじめは串にさしてやったですナ。
渡会 それはデンガクでしょう。
千葉 一ノ瀬さんという人の指導で大分普及したんですね。
吉田 糸を紡ぐことは何時頃からです。
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参考文献
資料その2の出典は明治14年5月8日付函館新聞附録=マイクロフィルム、同その3は北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」161ページ、昭和54年2月、北海道緬羊協会=原本、資料その4は同169ページ、(4)は北農会編「北農」第25巻1号22ページ、「北海道における農業試験機関年表」、昭和33年1月、社団法人北農会、(5)も同20ページ、同=いずれも原本、(6)は料理の友社編「料理の友」第3巻2号54ページ、大正4年2月、料理の友社=マイクロフィッシュ
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資料その3の前が牧羊犬の思い出話で、道立種羊場長の吉田さんはジンギスカンのことを聞いたとたんに、大急ぎで糸紡ぎの話へと誘導している。一見3人が語ったように見えますが、語るべき側は箕田さんが発言しただけです。渡会さんも千葉さんも聞く人として参加したのであり、話すべき人が語っていないのですから、ジンパ学にとってはかなり価値が低いといわざるを得ません。
千葉さんが発言するなら、いっそ釣谷さんも語る側に入って”月寒流”について語ってほしかったと思いますね。しかも「一ノ瀬さん」とは何者かわかりません。多分羊肉料理の講師として何度も来道している東京女高師の一戸伊勢子講師のことでしょう。発言者が正確に思い出せなかったか速記者が聞き違ったかした可能性があります。
いま私は「北海道緬羊史」にしてはジンギスカンの回顧が少ないことを示しましたが、それは無理もないのです。そもそもこの座談会は、道内には滝川と月寒の古い関係者が健在であると知った岸協会長が「是非それらの方々の昔話を聞き、いろいろの想い出を語つてもらつて記録しておきたい、それらが緬羊が将来一段と発展する踏み台になる(7)」と言い出した。そこで昭和29年8月に旭川で第7回全道種緬羊共進会が開かれて関係者が集まった機会に催して、翌月の日本緬羊協会の会誌「緬羊」に、速報のように載せたものだったのです。
その25年後に「北海道緬羊史」を作るに当たり、あの座談会の発言者は滝川と月寒の古い人ばかり7人で、いろいろ失敗を繰り返した苦心談が主だったから緬羊史にぴったり、ぜひ収めておこうということになったのでしょう。
私がどうして「緬羊」が底本だと知ったか、ちょっと脱線ですが、聞いて下さい。羊肉がなくてはジンギスカン料理は成り立たない。それで私は元月寒種羊場こと農業・食品産業技術総合研究機構の北海道農業研究センターで初めて「緬羊」を見せてもらい、この月刊誌は調べる価値があると認めたのです。なんせ戦前、戦後の増殖、飼育から消費に至る現場に携わった人々がいろいろ書いている。ジンギスカンも出てくるから、出来れば全部目を通したい。webcatで検索すると、大学では島根、山形、日本、東京農工の4大学にあるが、北農研の欠けている号を持っていて、東京から近いのは山形大図書館でした。東京―山形間は夜行バスで往復したから、調査は1日でも実質2泊3日の旅でしたね。
山形大は119号までで、その後がない。北農研保存分プラス山形大でも200号までには、ところどころ欠ける。なんとかならないかと財団法人日本畜産技術協会に問い合わせ、その穴が全部埋められることを知り、東京は湯島にある緬羊会館内の協会事務局に行ってコピーさせてもらいました。この協会は日本緬羊協会の後身なんですが、灯台下暗し、気が付かなかった。私は協会の「シープジャパン」を講読しておるが、問い合わせることもないので、パソコンの「お気に入り」に入れていなかったのです。
そういう経緯があって、思いがけない出典がわかったわけね。お寺さん系の図書館に意外な本があったりしますから、本を探すときは先入観を捨て、できる限り視野を広げて当たるべきなのです。それでもまだ見付からないのは、例えば戦前のゴルフ雑誌。ゴルフ雑誌用と書いてある成吉思莊の広告原稿が残っているので、何誌か見付かれば、そのころゴルフをやっていたハイソサエティーのお客を呼ぼうとしたことが証明できる。
私に限りませんが、調査日数をできるだけ延ばすために、シルバー割引とか無料おにぎりの朝食付きといった安いホテルを使います。東京までは空でも、その後の移動はもっぱら夜の高速バスにする。飛行機、JRより安いし、ホテル代と思えば十分引き合います。これまでで最長距離は博多東京間。成田ホノルル間の飛行機より5時間は長くかかる。すっかり自信をつけましたね。
夜行バスでくたびれて翌日、本が読めないのでは何にもならない。降りたら直ぐバリバリ仕事にかかれる体力がなきゃいかんのです。そのためには平素からあちこち鍛える。パソコンのモニターは目によいというのが私の持論でね、その証拠にまだ新聞を読むのに不自由していませんぞ。
子供のころの歌留多に「自慢高慢馬鹿のうち」というのがありましたから、その程度にしておきますが、座談会の記事には「語る人の略歴(自己紹介による)」が付いていて、蓑田さんと山本吾作さんは、このとき65歳でした。蓑田さんは大正9年から12年まで兵庫県にあった北条種羊場に務め、北条廃止により「滝川に移りその年の五月末に病気をして二ケ月休んで月寒へ行き、昭和七年二月に滝川へ」とあります。山本さんは明治40年から月寒一筋(8)とありますが、大正13年版の「農商務省職員録」、14年版と15年版「農林省職員録」の3冊にともに名前は載っていません。多分掲載ランクより下だったせいでしょう。
聞く側の千葉さんの名前は大正13年版は滝川、14年から月寒側に載っています。滝川の記録から昭和7年に滝川が道庁に移管されたとき、山田喜平さんと一緒に滝川に移り、また月寒に戻った(9)ことがわかります。大正12年版は場長と技師だけで技手は載ってないし、そういう経歴から、千葉さんの「当時」は滝川と月寒のどっちのいつごろを指すのか判断できません。
それにしても、20ページほどの雑誌にですよ、10ページにも及ぶ座談会を詰め込んだところに無理があったのです。閉会にあたり、都合で速記者を呼べず、我々数人が「不完全な記録をとつているだけですから、どなたが何を云われたか、一言半句間違いなしという訳には参りませんけれども、貴重な将来の資料としてもこの記録を残しておきたい(10)」と司会者が語っています。何回かの連載で、たっぷり載せてくれたらもっとよかったのですが、仕方がありません。実に惜しまれます。
面白いのは次の10月号にですよ、この座談会で歴代場長で一番の気難し屋といわれた松岡忠一さんに「種羊場の昔を語る座談会所感」を書かせています。松岡さんは斃死や廃羊が続出した時代を回顧し、その理由は「緬羊事業の大計画」はトップダウンだったことによる。つまり「強い軍閥官僚内閣が、国論殊に農業界も、学者も技術者も挙げて非認するのを、無理に上から下えと押し切つたと云う歴史的な事実が、最も基本的な原因となつていると思う。しかし今から思うと、軍閥官僚も悪い面ばかりではなく、緬羊の今日あるのもこの歴史の賜物であるということができるのである。」といっています。また、計画達成の急ぎ過ぎも指摘(11)しています。でも、お陰でジンギスカンが生まれ、諸君はジンパができるし、私はジンパ学の研究ができる。ともにご苦労なすった先人たちがいたことを忘れちゃいかんのです。
えーと、この「北海道緬羊史」にはですね「北海道緬羊史年代表」が付いています。記事と滝川種羊場、農林省種畜牧場月寒種羊場と3つに区分してあり、1年分ずつ起こったことを書いています。月寒種羊場の分を見ていきますと、大正12年には制度改革で滝川種羊場月寒分場と名前が変わり、長崎渉という人が分場長になっています。そしてですよ、その下に「羊肉利用のためロストル製ジンギスカン鍋考案」(12)とあるんです。さきほどの「北農」の年表と同文ですし、237ページからの「羊肉料理および加工技術の普及」という章にでも、形などをざっとでも説明していれば良かったのですが、それも見当たりません。
ちょっと年代が戻りますが、年代表の大正8年の月寒種羊場の項には「畜産試験場用地内に月寒種羊場併置、面積7415町歩、緬羊の飼育管理、改良繁殖育成指導、生産物の調整加工、飼料耕作を行う。月寒種羊場の管轄は北海道庁管内、滝川種羊場は府県、緬羊技術練習生規定により19名採用、釘本昌二場長となり支場長兼務」(13)とあります。当時道内の緬羊は1000頭足らずでしたが、道庁の尾崎勇次郎内務部長は「緬羊は、其の数九百余頭に過ぎざれども、近時農商務省の奨励に伴ひ、飼育希望者著しく増加し、之に応ずるの頭数不足なるの盛況を呈し居れり。殊に其の蓄殖は勿論、剪毛量に於て頗る佳良なる成績を挙げつゝあるを以て、農家の副業として、一般羨望の的となり居れり」(14)と胸を張って報告しています。
一方「畜産と畜産工芸」の大正13年3月号に「事務室より」というタイトルで農商務省畜産局長の三浦実生さんが緬羊自給策を取り上げ、その中に「大正八年月寒種羊場で二百頭の羊の皮を剥ぎ、其の肉は堆肥の中に突込んだ事がある。即ち肉の需要が見付から無つた為めである。然るに今日に於ては、北海道は羊肉の引張凧をする勢である。東京に於ても割烹の先生が羊肉を売つている店を捜し廻つて、漸く見付け出す始末である」(15)と書いています。大量処分から5年たち、世の中変わったから明るみに出したということなのでしょうか。欧州大戦の影響で羊毛確保で大騒ぎをし、前の年に緬羊100万頭計画を立てたばかりなのに、種類はわかりませんが、道内の5分の1もの羊をただただ無駄に捨てた史実は、年代表に記載する価値が十分にあると私は思うのですが、年表編集者はこうした経緯を知らなかったのか、知っていたけれど無視したのか、疑問が残ります。この一事からも、鍋考案の記載が怪しまれるわけですよ。
と文句をいうだけなら簡単、私は新聞を調べてみましたね。そうしたら、やはり月寒で相当羊が死んだという噂は代議士の耳にも入っていたのです。大正8年2月28日の北海タイムスの「羊毛政策 …疑問の斃死…」という見出しで当時の国会での質疑が載っていたのです。それを読みますと「聞く所に拠ると北海道に於て数十頭本年の寒さで斃れた農商務省は之を秘して居ると云ふ事である夫許でなく二十五カ年一百万頭を殖して行くと云ふ事が実際如何ならうか、又羊に要する牧草を栽培すると土地はドコに求むるのか過去1ケ年間の経過と将来の見込如何」と。代議士の名前はありませんが、委員会で質問が出たのでしょう。それで「議会に起つたこの質疑は道家農務局長が便宜農相に代つて説明を与えた」ということで、農商務省当局の答弁が書いてあるのですが、要するに明治時代の失敗の原因はわかったので、その対策をちゃんと立てて25カ年計画を立てたと説明したうえで「昨年の月寒の飼育の状態などは決して秘する事なし成程、昨年緬羊の斃死したのは大分数は多いが其多いのは大正五年に濠洲から入れた二百頭の羊―二百頭入れるといふ如き余り
◇経験の無い 為時期の択び方を研究し先づ向ふで飼ふたもの或は孕めるものを入るが宜かるべしと即ち種付を向ふでした者を輸送したるに輸送中船の中で余程牡即ち親が弱り大分死産を生ました夫れが恰も昨年分娩する時期になりて一の原因を為し尚又昨年気候の不順なりしために牧草殊に根菜類の出来悪く予期の収穫を得ず又北海道は一昨年以来農産物が好景気を呈し人夫が足らず賃銀は高く手廻り兼たといふような事もある夫是にて昨年は大分に斃死が多かつたのだが」(16)とね。記事の中の「牡即ち親が弱り」は牝の誤植と思いますが、三浦さんの前任者である道家さんが渋々「聞く所」の多数斃死を認めています。死んだか殺したかは別としても200頭死亡は年表に入れるべき事件だと思いませんか、皆さんは。
ちょっと話が満洲へ飛びますが、作家の広津和郎の自伝といわれる「年月のあしおと」の中に「緬羊百頭を撲殺する」という一章があります。広津が手を下した体験談かと思ったら、そうではなくて戦前に満洲の開拓村を訪問したら「満洲政府が穀物を供出させながら、緬羊の飼料を配給してくれないので、三百頭の中百頭を撲殺しなければならなかった話」を村長から官僚批判の一例として聞かされた。それを雑誌の「改造」に書いたら、北海道から農具が届かないとう苦情の部分と一緒にすっかり削除されて文章がめちゃくちゃになり「書くということは凡そ意味のないことになってしまうのである。その文章が太平洋戦争前に私が雑誌に書いた最後の文章になってしまった。」(17)ということでした。行政に対して一切文句をいわせないという言論統制の証言なんです。戦後半世紀を過ぎた今、どうもまたその方向に戻りつつあるような気がします。皆さんも羊みたいに、ただおとなしいだけではいかんのですよ。
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参考文献
上記(7)の出典は日本緬羊協会編「緬羊」80号7ページ、昭和29年9月、日本緬羊協会=原本、(8)は同8ページ、同、(9)は内閣印刷局編「職員録」大正13年451ページ、大正13年10月、内閣印刷局=近デジ本、同大正14年379ページ、大正14年9月、同及び滝川畜産試験場五十年史編集委員会編「滝川畜産試験場五十年史」234ページ、昭和56年7月、北海道立滝川畜産試験場=原本、(10)は日本緬羊協会編「緬羊」80号16ページ、昭和29年9月、日本緬羊協会=原本、(11)は同81号8ページ、昭和29年10月、同、(12)と(13)は北海道緬羊協会編「北海道緬羊史」252ページ、昭和54年2月、北海道緬羊協会=原本、(14)は北海道畜産協会編「畜産雑誌」第18巻1号25ページ、尾崎勇次郎「大正八年の本道畜産業趨勢」、大正9年1月、北海道畜産協会=原本、(15)は中央畜産会編「畜産と畜産工芸」第10巻3号4ぺージ、大正13年3月、中央畜産会=原本、(16)は大正8年2月28日付北海タイムス2面、北海タイムス社=マイクロフィルム、(17)は広津和郎著「年月のあしおと 下」96ページ、平成4年5月、講談社=原本
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そうそう、皆さんの中には本州出身者がいるだろうし、道産子でもストーブで石炭を焚いた経験はないかも知れない。もしかすると、石炭という黒い鉱物を見たことがないかも知れませんな。となれば当然、ロストルとなんぞやでしょうから、たまたま見つけた明治40年代の小学6年生の理科の本を見せましょう。著作権保護期間が終わったいい図解だから使うのでありましてね、皆さんを小学生扱いしているわけではありませんから誤解のないように。はい、スライドの左側の図を見て下さい。
この本では「ストーブは鋳鉄にて造りたる円筒状ののものにて、之を据え附くる臺と、煙を屋外に抜くべき煙突とを具へ、前側には燃料を入るゝ口を有し、其下部には空気の入るべき下口ありて、円筒の内部二口の中間に鉄製のサナあり。而して円筒の上部には通常水を入れたる鉢を備ふ」(18)と説明しています。この図のイが上の口、ロが下の口、その中間のニがサナ、つまりロストルなんです。わかりますね。
このサナという単語は、私は知りませんでしたね。広辞苑を引きましたら「稲や麦の穂を打ち落とすに用いる農具。割竹を横に並べた床几(しょうぎ)に似たもの」とありました。思うに大きな櫛を横に置いたようなものらしいと思いました。もっとわかりやすい説明はないかとほかの国語辞典を調べましたが、載っていない。つまり広辞苑も第4版どまりで第5版では消えた古い用語だったんですね。こうし明治が遠くなっていくんだなと実感しました。
その明治のテキストを続けましょう。「今燃料をサナの上に置き、之に点火するときは、空気は下口より円筒内に流通して盛に燃焼し、よりて生ぜる炭酸瓦斯は上部の煙突を通じて屋外に排出せられ、灰燼はサナの間隙より其下部に落つるを以て、燃焼の作用は充分に行はれ、従つて多くの熱を発生することを得」(19)ると。わかりますね。
北大生協のジンパセットは七輪を貸してくれますよね。あの七輪の中に穴の開いた素焼きの円盤が入っているでしょう。火皿とか目皿と呼ばれていますが、あれもロストルの仲間といえます。木炭をよく燃やるためには空気と接触する面積を増やす必要があります。それで火皿のような支持材の上に炭を置き、底の方からあの穴を通して空気と接触できるようにするわけです。ジンパセットには団扇も付いているんでしたっけ。団扇で扇ぐと通気口からより多くの空気を送り込まれて火が強くなりますね。木炭や薪の場合は囲炉裏とかあんかを見ればわかるように、平らなところでも燃やすことが出来ますが、石炭はそうはいきません。格子状のロストルのない石炭ストーブはないといってもいいでしょう。
ストーブで石炭を焚くと、どんどん燃えて灰になりますから、燃え方を見ては石炭をつぎ足たす。結構面倒くさいので普通は貯炭式といって、燃焼室の上に塔のような形の貯炭室があり、そこへ石炭を予め入れておくのです。塔の底にある石炭が燃えて灰になる。塔の中の石炭の重みを支えきれなくなると、底の石炭が燃焼室に落ちて燃え、灰は砕けてロストルの目を通り、灰だめに落ちる。このサイクルを繰り返して、かなりの時間ほったらかしても燃え続けます。でもそのうちに、石炭の灰がロストルの目の間に詰まって火力が落ちたりしますから、そのときはデレッキという鈎型の鉄棒で、火をかき回す棒ですな。デレッキでロストルの目の間をつついて灰を落として、空気の通り道をつけてやるのです。
大抵ロストルの前端に突起があり、そこに穴が開いているので、デレッキをその穴に引っ掛けて、前後に揺するとロストル全体が前後に動いて、目詰まりになっていた灰が落ちます。つれて貯炭部からまだ燃えていない石炭が火の上に落ちて、燃焼を持続させるわけだ。北大ヨット部では平成11年まで石炭ストーブが使われ、みんな正しい焚き方を勉強させられてましたよ。
それからスライドの右側、これは明治5年の京都新聞に載っていた国産カーヘルの汎告なんです。汎告とは、いまの広告、カーヘルとはストーブ。「カーヘルノ義ハ寒ヲ防ギ暖ヲ取ルノ器ニシテ其用火鉢火燵等ニ勝ルコト万々ナルハ世ニ明ナル所ニシテ固ヨリ喋々ノ饒舌ヲ待タズ巳ニ去辛未ノ年鋳造会社ヘ御下問アリ社翌日夜工夫ヲ凝シ種々便宜ヲ考ヘ図面ノ通リ鋳造シ御雇外国人レイマン氏ノ一覧ヲモ経発売勝手ニ被仰付タリ蓋シ其形タルヤ西洋至便ノ器ヲ莫倣シ鋳造ハ啻ニ和風ノ工夫ヲ尽スノミナラズ永用ノ為ノ国産ノ錏ヲ用フルノ故ニ和洋集成ノ器トモ謂ツベシ」(20)。「ストーブ博物館」という本に、明治9年の東京日日新聞に国産ストーブ第1号発売という記事がある(21)と書いていますが、これは少なくともそれよりは4年古い例です。もっとも国産という意味では函館ではもう安政年間に作ってますから、全然勝負になりません。そういう関係で函館にある箱館高田屋嘉兵衛資料館では11月25日をストーブの日、燃える火でない月日の日の方ですよ、ストーブの日と決めて、毎年火入れ式を催しています。脱線ついでにいえば、やはり明治5年に愛知で耐火性のいい土が見つかったので瀬戸物のカーヘルを作るのに「頗ル佳ナリト」(22)という記事もありました。なにしろ京都のカーヘルは29円もしたので、陶器なら安くできると試作したのかな。もしかすると、ロストルも瀬戸物だったかも知れません。
ただ、この汎告の絵はロストルをはっきり示しているのが取り柄です。図の右の下の方にちょっと突き出た突起がありますね。私はあれがそのころのサナ、ロストルにつながる突起部だと見ます。あれをデレッキと呼ぶ鉄製の鈎棒で前後に揺すぶることによって、ロストルの目に詰まった灰を落とす仕掛けになっているはずです。
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参考文献
上記(18)と(19)はいずれもは光風館編「小学理科講義尋常小学第6学年」62ページ、明治41年9月、光風館=近デジ、(20)は北根豊編「日本初期新聞全集」41巻237ページ、明治5年8月付京都新聞38号、平成5年4月、ぺりかん社=原本、(18)は同306ページ、同同、明治5年9月付愛知新聞24号、同同、(21)は新穂栄蔵著「ストーブ博物館」75ページ、昭和61年12月、北海道大学図書刊行会=原本、(22)は****
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大部屋用のストーブなどは大きいので、石炭の燃焼室が大きく、従ってロストルも大きい。また形も必ずしも水平でなくて、凸という字の上半分みたいな恰好だったりしますので、そういうのを使えば同時に肉片をいくつも焼けるでしょう。私はロストルで焼いた経験はないのですが、金網よりは鉄板に近い焼け方になると思いますね。
そうそう、研究仲間の若い人から聞いた話では、加山雄三の若大将なんとかという映画で、部室の近くのマンホールの蓋を使って焼き肉をやるシーンがあるとか。部員たちは見たことがあるような鍋だなといいながら食べちゃうそうだが、あれなら脂を落とす隙間がなくなったいまのジンギスカン鍋と同じ構造だし、厚いからうまく焼けるかも知れませんが、七輪がつぶれないかねえ。試す気にもなりませんなあ、はっはっは。
この北海道緬羊史の年代表の書いてある通りなら、月寒種羊場の人たちは、大正12年に少なくとも羊肉を焼くためにロストルのように隙間の開いた鉄板を作っただけでなく、それをジンギスカン鍋と呼ぶことも考え出したということになります。もし駒井徳三さんが満鉄の退社直前に調査部長になっていて、そのときに高羊肉をジンギスカン鍋と命名したすればですよ、あくまで仮定の話ですよ。命名からわずか3年後に、月寒にはジンギスカン鍋という名前と料理法が伝わっていて、それで「ロストル製ジンギスカン鍋」を「考案」したことになります。もうひとつ、駒井さんが満鉄に入社した途端に、ジンギスカン鍋と命名したとすれば14年後ですから、名前と焼き方は伝わってきそうな気はします。しかし、この場合なら満洲じゃこんな鍋を使っていると鍋も伝わっていてもおかしくないと思うのですがね。
多分この年表のいわんとするところは、鉄鍋そのものでなくて、ロストルで焼く羊肉の食べ方を指して、いまでいうジンギスカン鍋という意味と受け取れば、それならありそうだとは思いますが、どうして月寒種羊場名物といわれるぐらい広まらなかったのでしょうか。私の調べでは大正12年の北海タイムスには羊肉料理の記事は見付かりませんでした。さらに12年前後、それから小樽新聞などに月寒種羊場関係の記事があるかどうか今後調べてみるつもりですが、記事を捜し出してレポートにして見ようという人はいませんかね。当時の新聞はページ数が増えて8ページ建てかな、マイクロフィルムは3月で1巻になっていますから、読み甲斐がありますよ。はっはっは。
釣谷さんの本は、この緬羊史の本より19年も前に出ていますから、緬羊史年代表の「ロストル製ジンギスカン鍋考案」の根拠は、釣谷さんの一言「大正12年頃」説しかないのではないかと疑われても仕方がないのではありませんかね。後の講義で出てきますが、大正12年までには金網で焼く「羊肉の網焼き」という料理法が公になっていました。それなら、金網よりこっちは鋳物で丈夫だし、北海道らしいだろうと、身近な石炭ストーブのロストルで焼き始めたということでしょうかねえ。
繰り返しになりますが、釣谷さんが書いたように、北京の高羊鍋を「日本の家庭に」持ち込もうと「苦心した」のは本当でしょうね。なぜそう考えるかというとですね、北海道大学新聞の縮刷版を調べたからです。ジンパ学の講義を始めるに当たって、東北帝大農科大学、即ち北海道帝国大学は南満洲鉄道株式会社、略して満鉄に多くの卒業生を送り込んでいますから、大学新聞の紙面では教授やそれらOB筋からの発言、原稿でジンギスカンという単語が出てくる可能性があります。それでいつ出てくるかを調べてみたんですよ。
北海道大学新聞は大正15年創刊で、創基50周年を記念して北海道帝国大学新聞という名前で生まれました。4冊1組になったその縮刷版が北大図書館にありますが、私も持っています。いまの北海道大学新聞は、北大の先生方をはじめ文化人とか知識人といわれるような方々に原稿を依頼して書いてももらうことを一切していませんが、その昔の大学新聞はどんどんやっていました。作家なんかにも書かせています。それに帝国大学の先生は、世間のサラリーマンより月給が高かったし、大学生もエリートということで、大学新聞の広告を見ると、普通の新聞とあまり変わりません。眼鏡、書籍、洋服、靴などが出ています。先生はソフト、学生は角帽と学生服、やはり広告を出しています。
いつだったか、文学部同窓会主催の卒業祝賀会に1人だけ角帽を被り、学生服を着てきた卒業生がいた。見たらその角帽はとがった角の早稲田型なので、国立大学のはもっと角が丸いんだと教えてあげたが、レンタルではこれしかなかったといってましたね。そりゃまずいってんで、4月の祝津で転覆したときのヨット部の相棒と2人で、古い角帽を北大文書館に寄附しましたよ。だから文書館には2個あって、中央図書館ロビーの展示内容によって、私のより綺麗な彼の角帽を飾られることがあったから、見ておくようにね。
脱線はやめて、帝国大学新聞の古い方から見ていきますと、北大のそばで、それまで支那そばという呼ばれていた麺料理の1つをラーメンと呼ぶようにした元祖といわれる竹家が、昭和2年5月の11号に初めて広告を出しています。巷間いわれるように竹家食堂ではありません。コピーは「世界一のおいしい料理は支那料理です。級會、県人會其の他の御會合には是非支那料理」で切れて「竹家 大学豫科前/電話二七〇七」と同一経営と思われる「芳蘭 南四西四/電話三三〇五」という2行を挿んで「を御利用下さい。日支親善は先ず食物の理解からと信じます」(23)でした。その後竹家はずーっとこのコピーを出し続けるのです。個人的には、私が1年目のとき酒を買いに行かされた正門向かいの沢田商店、いまはセブンイレブンを経て焼き肉店になっている店が、そのころは小間物や文房具を扱っていたのですね。旦那らしい人が変な言葉で釣り銭を数えたので、聞いたらロシヤ語だという。門前の小僧習わぬ経を読むというが、正門前は酒屋も違うと魂消ましたね。
それから特に注目したのは昭和3年1月の20号の郡司肉店の広告です。いうなれば貸し鍋付き鋤焼きセットあります―であり、北大生協が誇るジンパセットの祖先の広告といえるからです。これはね、戦後のことだが、肉屋さんが羊肉を買ったお客にジンギスカン鍋を貸した時代があったから、そういう見地からも前例として重要なので、資料その5にして見てもらうことにしました。いいですか、読みは「貸し台、鍋無料でします」ではなくて「貸し台鍋、無料でします」と読む。台鍋という古い言い方だから、すぐ思い浮かぶ平たくて分厚い鋤焼き鍋ではなくて、浅めの鉄鍋でしょう。この台鍋の定義についてはペンディングにして、いずれ鹿や鮭の台鍋の話が出てくる札幌回顧談の講義で取り上げます。
ザクザクと適当な長さに切った葱のザクはいいとして、左側の山豚という肉がわかりませんなあ。検索すると沖縄でイノブタを指すというページが出てきますが、北海道には猪はいないし、1月だから熊は寝ているしね、家豚ではないとすれば冬眠しない蝦夷鹿でしょうか。
資料その5
昭和3年2月の21号には、薄野の岡田屋本店が支那料理の家庭出張調理開始という大きな広告を出しています。1人前3品から5品、1円から5円で「五人前以上には支那人蒋義濱を出張せしめます」という説明に、ソフトをかぶり、中国服を着た蒋さんの写真(24)を添えています。札幌でもこのころから支那料理のケータリングが始まったのですね。
この号2面に「満韓所々の/橋本左五郎氏/名誉教授となる」というインタビュー記事が載ってます。 「<略>同氏が中村是公氏と共に同一下宿にあつて後年の東京第一高等学校當時の豫備門に在学せる頃の逸話は有名である、夏目漱石氏と相携へて満洲旅行の際の逸話等は漱石氏の満韓所々によつて有名である。一日橋本氏をその自邸に問へは欣然として胸を叩いて左の如く語つた。」と前置きして橋本さんの談話を書いています。「予備門で中村君(是公)が危く及第し私が落第したんで札幌農学校に流れ込んだんですその頃の札幌農学校は丁度過渡期て外人教師も殆んどゐなくなり漸く邦人が教授の職に就き出した頃ですから随分色んな面白い頃もありましたが札幌農学校を出てから間もなく独逸に留学を命ぜられましたがそれが實に面白いんですよ。何しろその頃の留学生は今の様に文部省のいふ事を聞かないで何年でもゐたもんです。東大の古在君なんかもその道では錚々たるもんでしたが僕も三年の留学期限が切れてから二年以上も居たんです金さへあれば居心地がいいんで……(ここで呵々大笑)併し帰つてから佐藤総長に叱られました。その時に佐藤君に約束しましたが未だに果しませんが(独笑)……。も一度留学させて呉れたら今度は命令通りに帰ると言つたもんですが……ハハハ。(25)」とね。「満韓ところ/\゛」を考察するときに詳しくやりますが、2学期が始まっているのにですよ、留学じゃないんだからあの約束は守らなくてもいいんだという理屈で、橋本さんは悠々と漱石との旅行を楽しんだと察せられます。
同年10月の32号に竹家は部屋を広くして料理も一層吟味すると改築落成披露の広告を載せていますが、それにも依然として「支那料理」としか書いていません。(26)このころの食堂の広告をみると、豚鍋20銭、牛鍋30銭が相場だったようです。
さらに見ていきますと、同年11月の34号では南3西3の永楽軒が支那料理部を開設したので「出前迅速に御宴会出張料理仕出しは特に勉強仕候」(27)と広告しています。翌年の昭和4年には大通西5の精養軒という店が「西洋料理と支那料理」(28)という広告を出しています。大正7年夏に札幌で開かれた開道50年記念北海道博覧会の折り「独特の道産羊肉料理」という新聞広告を出した精養亭と名前が似ているので、気になりますよね。でも精養亭は博覧会の会期中には2回北海タイムスに広告を出している(29)というぐらいしか調べてないんだがね。案外吉田博さんと茜会が札幌では横綱の次、2番目のジンギスカン店と挙げている精養軒につながるのかも知れん。昭和22年からジギスカンを売り物にしていた精養軒は富貴堂裏、いまのパルコの裏手にあったと書いています。
この広告では大通西5で場所が違いますが、第2次世界大戦のとき、爆撃されて火災になった場合、延焼を最小限に食い止めるため、札幌でも繁華街では建物の強制疎開、つまり建物を取り壊して間隔を空けることが行われたという話がありますから、そうしたことで移転させられて、戦後にパルコ裏で再開したことが考えられます。が、私はまだそこまでは調べておりませんから、和洋中どれかで大正7年ごろから羊肉料理を提供し続けた可能性を指摘するだけにとどめます。
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参考文献
上記(23)の出典は北海道大学編「北海道大学新聞復刻版1」46ページ、平成元年4月、大空社=原本、原紙は昭和2年5月18日付北海道帝国大学新聞11号4面、
資料その5は同82ページ、同、原紙は昭和2年1月9日付同20号4面、
(24)は同86ページ、同、原紙は同年2月6日付同21号4面、
(25)は同84ページ、同、原紙は同号2面、
(26)は同130ページ、同、原紙は昭和3年10月1日付同32号4面、
(27)は同138ページ、同、原紙は同年11月5日付同34号4面、
(28)は同139ページ、同、原紙は同年11月19日付同35号1面、
(29)は大正7年8月14日付北海タイムス朝刊4面と同15日付同=マイクロフィルム
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ともあれ「ラーメン」が初めて北海道帝国大学新聞の紙面に現れたのは昭和5年9月の77号(30)でした。前の年の6月、43号に狸小路の百留屋が果実食堂にフルーツ・パーラーと振り仮名付きで、6月1日から開設と宣伝しています。(31)その果実食堂に加えて「一般料理発表」とあり、食堂も併設したんですね。その中の支那そばという分類の中に「ラーメン」と「チヤシユメン」と2品の名があります。百留屋の広告は、その後ちょいちょい載るのですが、2回目のラーメンという単語が入ったのは昭和6年4月(32)でした。
昭和5年10月には「北京式支那料理開始」と競馬場通電停前の松島屋喫茶店(33)が登場するのですが、竹家は依然としてラーメンとか支那そばという言葉は使わず、お花見帰りに支那料理をとか、冬だから支那料理をという広告ばかりです。うちはれっきとした支那料理店であり、いろいろある麺類の中の1品がラーメンと呼ぶ料理に過ぎないと、誇り高かったのでしょう。翌6年6月の77号には竹家単独の広告と狸小路に第二芳蘭という支店を開いたと同時に2件の広告を出していました。(34)
岡田哲さんの「ラーメンの誕生」に載っている「ラーメン年表」は「昭和5年頃〜 札幌の喫茶店で、ラーメンが流行する」(35)と書いてありますが、昭和7年末までの帝国大学新聞掲載の竹家の広告にはラーメンいう単語はなく、竹家発祥説が怪しまれるような宣伝振りなんですよ。
昭和7年6月の94号に南1西9のミカミ、狸小路6のミハトという同一経営らしい2軒のレストランの広告は「支那料理は本格的な設備を致しました。宴會及びクラス會に是非御利用下さい」(36)といっています。
ああ、忘れるところでした。私が調べた限りでは、昭和2年にはオリエントという店がウサギ料理(37)の広告を出していますが、羊肉ではない。初めて羊肉が出てきたのは昭和4年10月に出た48号の「ウオトカ、ジャズ哈爾賓!」という題でMS生という人が書いた満洲ハルピンの見聞記の中にありました。ビールを飲みながら「剣に突きさして羊肉を焼くカフガス料理を食べるのもうれしい事だ」(38)とあります。以前にも食べたことがあるような表現なんですね。このカフガスというのはコーカサスのことだと、別の本をみてわかりました。
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参考文献
上記(30)の出典は北海道大学編「北海道大学新聞復刻版1」253ページ、平成元年4月、大空社=原本、原紙は昭和5年9月1日付北海道帝国大学新聞63号3面、
(31)は同173ページ、原紙は同4年6月17日付同43号3面、
(32)は同292ページ、同、原紙は同6年4月6日付同73号2面、
(33)は同262ページ、同、原紙は同5年10月6日付同65号4面、
(34)は同310ページに竹家単独分、311ぺージに両軒分、原紙は同年6月11日付同77号2面と3面、
(35)は岡田哲著「ラーメンの誕生」234ページ、平成14年1月、筑摩書房=原本(36)は同381ページ、同、原紙は同7年6月7日付同94号1面、
(37)は同78ページ、同、原紙は同2年12月*日付北海道帝国大学新聞19号4面、
(38)は同194ページ、同、原紙は同4年10月7日付同48号4面、
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ここで、ちょっと方向を変えてみましょう。4つにもなったジンギスカン料理のルーツについて、北京に住んだことのある人の記録から探ってみることにします。私は北大図書館の開架の本を見ていて、奥野信太郎さんを見つけました。慶応の中国文学の先生だった人で昭和11年から2年半、留学しているんです。奥野さんは昭和15年に「随筆北京」を出し、平成2年に東洋文庫が復刻しています。それの中の「燕京食譜」に、里見クと志賀直哉がジンギスカンを食べにいった正陽楼が出でいるんですね。配った資料その6(1)がそれです。全文ではありません。
細かいことですが、これは東洋文庫の引用なので、店名には振り仮名がありませんが、福武書店から出た「奥野信太郎随想全集」の「燕京食譜」では「しようようろう」とルビが付いています。何か根拠があったのか。そう書かれるとセイヨウロウが正しいと断言してよいのか自信がなくなりますねえ。
奥野さんは昭和19年に「随筆北京」に増補改訂を施した「北京襍記」を出しています。正陽楼は昭和17年に閉店したので「燕京北京」も何か筆が入ったかと調べましたが、引用箇所は全く同じだった。
「序」で「この書の内容を読閲される諸君子は、つねに昭和十一・十二・十三年當時の北支事情を脳裏に描かれつつ一読せられることを望んでやまない。(32)」とあるのは、現状と違うことは承知しているけれど「わたくし個人にとつてはいはば、當時の記念帳(33)」だから外せないというお断りなんですね。
それから「清真回々」というのはイスラム教を信じる回族の料理ということだそうです。また、日大の先生だった後藤朝太郎さんがね、奥野さんと同じように冬の夜、正陽楼でジンギスカンを食べる情景を書いているので資料その6(2)にしました。次あたりの講義で明らかにすることなんだけど、この後に「日本では、和田三造画伯がこの羊肉鍋を提供して、鎌倉由井ケ濱の『濱のや』で催したのがこの成吉斯汗料理の関東に於ける嚆矢となつたのである。(34)」と続くのですよ。ふっふっふ。
それから昭和12年から2年間北京にいた法学者の滝川政次郎さんも「大きな羊肉屋」として書いてますから(3)としました。
資料その6
(1)
北京は古い都である。したがつてうまいものやの数もまた甚だ多い。なかでも冬の楽しみの一つとしては、何はさておき羊の肉を挙げなくてはなるまいが、羊の肉と云へば前門外の正陽楼は余りにも有名である。暗い店に這入ると、まづ多勢の男が慣れた手つきで刻んでゐる羊肉の美しい鮮紅色が眼に沁みる。寒い星空のもと、中庭の炉を囲んで片足を几に載せておのがじし羊を焼いて食べる烤羊肉は豪快な趣そのものといへよう。どうかするとちらちら雪がふりはじめた晩など、外套の襟を立てて渦まき上る烟と真紅な炎に対するとき、長い箸をとつて肉片を焼く我身が古い世の魔術師の如くさへ思はれてくる。烤羊肉に対して野菜鍋のなかに羊肉を入れて煮るのを羊肉と称する。これは煮すぎてはよくない。ほとんど洗ふ程度で引き上げ、数種類の薬味を自分で好みに調合したものをつけて食べる。羊の肉には不思議に紹興酒よりも白乾児の方がよく合ふ。<略>
正陽楼のほか、東安市場の東萊順、西単の西萊順、共に羊肉館としてその名を知られてはゐるが、正陽楼のやうな古めかしい趣には乏しい。西萊順は劇場新々戯院のすぐ傍なので、どうかすると劇中、丑(道化役)が何かのきつかけに、すぐこれから西萊順へ行つて一杯やらうなど云つて観客を笑はせることがある。たしかわたくしがこれを聞いたのは丑として一流の馬富禄であつたやうに記憶する。彼自身回教徒であって、豚を食べないことが此場合の笑談に利いてゐるのである。蓋し凡そ羊肉館に於ては主人はもとより小僧の末々に至るまで悉く所謂「清真回々」以外のものは無いのである。
正陽楼、東萊順、西萊順は羊肉を嫌はない人である限り日本人の間でも先づ知らないものは無い筈である。これが烤羊肉でなくて烤牛肉となるとちよつと知らない人の方が多いかも知れぬ。宣武門内路東の迂濶してゐると行き過ぎてしまひさうな小さな店、だが一度店先へ這入ると順番が来るまでかなり待たなければならないほど多勢の人でいつも満員であって、自分でタレをつけながら牛肉を焼いて焼餅の間に挾んで食べる順序は烤羊肉と同じことである。羊肉に飽きたとき、そして腹一杯に牛肉を食べたいとき、この烤牛肉にまさるものはない。これも冬の間の食べもので、いつも寒い風が吹きはじめ出すとあの暗算の上手な肥つた親爺の顔と共に、鉄炉の上で焦げつく醤油と肉の烟とが眼前に濛々と立ちこめる思ひがする。
また北京情趣の一景である。
《奥野信太郎》
(2)
<略>北平の冬は、前門外の成吉斯汗料理とあつて、例の有名な正陽楼へと出掛ける。雪がちらつく寒風凛烈の夜、野天に焚き火で、羊肉をつけ焼きする趣きは、その左の片脚を上げて箸でつゝく喰べ方と合せて、如何にも北支那の冬の酒席を印象深く刻みつける。
《後藤朝太郎》
(3)
<略>羊肉は変な臭いがするので、嫌いな人が多いが、私はその臭いが気にならないので、羊の肉も北京で大いに食った。羊の肉の味は、その肉片の切り方によって左右される。北京の料亭には、羊の肉を薄く切る特殊技量を持っているだけで、高い給料を受けているコックがいた。北京の牛街には、大きな清慎寺(回教寺院)があって、トルコ系の回教徒が相当多数住んでいるが、それら回教者は労働者といえども、絶対に豚を食わない。故に彼等は「回々」と書いた戸外の屋代店で食事をしていた。そこでは絶対に豚の脂すら使わないからである。私は前門外にある大きな羊肉屋へよく食いに行った。東京でジンギス汗料理といっているものは、■■その家の肉の焼き方を真似したもののように思われてならない。これを要するに、同じく肉食といっても、中国と日本とでは大きな開きがある。その相違については、両国の風土及び歴史的な沿由について深く考えてみなければならないと思う。<略>
《滝川政次郎》
奥野さんは何回も食べにいったらしいのに、このようにエビ油のたれについて何も触れていませんが、山田政平さんが「飲食雑記」の中で蝦油には2通りあると書いています。山田さんは「素人に出来る支那料理」という戦前の中国料理の教科書みたいな本を書いた人です。山田喜平さんと名前が似ているけど、別人ですから間違えないように。
戦後書いた「飲食雑記」はカエルが仰天している絵の表紙でね、その絵や題字を引き受けたのが、日展会員だった書家の山田正平さん。ちょいちょい郵便を間違えて配達されるので知り合った仲だそうですが、私が持っているこの本のね、扉の裏の「装幀・山田正平」の正の1字だけ印刷した字の上に張り付けてる。剥がして確かめてはいませんが、下の字は政に違いないと思っています。
料理の方の山田さんによればですよ、1つは醤蝦子もしくは蝦子油というべきで、蝦の卵と醤油を一緒に煮て、それを布で漉したもの。醤油は調味料、卵はおかずにする。もう一つは小蝦を何日か塩水に浸けておくと、蝦が沈殿する。その黄褐色の上澄みが蝦油、沈んだ小蝦を蝦醤(35)というそうです。たれに使うのは上澄み汁で、北大調査によるその製法などについては、いずれ機会をみて話しましょう。
山田さんは、この本で、場所はどこと書いていませんが、やはりジンギスカンに触れているので、それを資料その6で紹介しましょう。日露戦争が終わってから流行りだしたと専門家がいうのですから、私はせっせと明治40年前後の新聞を読んでいるのですが、開店したという記事はまだ見付かっていません。前線で食べて以来羊肉が好きになったという兵士の話はありましたがね。
資料その7
今羊肉の直火焼には、焼羊の外に烤羊肉がある。邦人は之を成吉斯汗料理又は成吉斯汗鍋と謂ひ日露戦争後流行の兆を見せ、漸く人口に膾炙するやうになり、東京にも之を呼物にする店さへ出来た。烤羊肉は季節料理の一つで、晩秋に始まつて晩冬に終るのが通例である。
羊肉は先づ鋤焼肉のやうに薄く切り、之を食者自ら蒜、酒、醤油を合せた汁に浸し、函火鉢の如きものに火を焚き、鉄線上で焼きながら食べる。焼く時に汁や脂肪が火中に落ちて灰が立昇るので屋外の院子でする。然し都会の料理店では鍋を伏せたやうな形の物々しい鉄板に穴や隙間を切込んだ特殊な道具を使つて居る。羊肉も鋤焼同様焼き過ぎては旨くない。片面だけ焼いて食べるのが巧者な食べ方である。酒のいける人は此の料理には必ず焼酒即ち白干児の杯を片手に、且つ飲み且つ食べる。
しつこく、もう一つ、烤羊肉ルーツ説を支持する本を教えましょう。それは青木正児(まさる)という東北大の先生が大正14、15年に北京留学したとき、やはり正陽楼で食べたのですね。満洲人の豚肉好みの話が切り離しにくいので、そのままにしました。青木さんのえらいところは、ただ書物を読んで勉強しただけでなく、北京の画家に頼んで当時の北京などの風俗画を描かせ残したことです。「北京風俗図絵」として東洋文庫シリーズにあるので、その絵の中に烤羊肉の鍋がないかと見たら、絵はなかったのですが、東北大の中国文学の内田道夫さんの解説がありました。資料その8(1)が青木さん、同(2)は内田さんが酒菜館という料理店のことを書いたうちの1部分です。
資料その8
(1)
<略>右の「跳神肉」とは豚肉を湯煮したものである。蓋し巫が神前に跳舞するを「跳神」と謂ひ、此の風は今も満洲に行はれてゐるさうであるが、其の際神前に供へる牲を「跳神肉」と謂ふのであらう。此の風俗に関して清の禮親王の「嘯亭雑録」巻九「満洲跳神儀」の條に詳細が見えて居り、其れに拠ると神を祀る三日前から毎日朝暮牲を二頭づつ献ずると云ふことである。而して「隨園食単」の「白片肉」の條に「満洲ノ跳神肉最モ妙」と有り、跳神肉は白肉即ち豚を丸のまゝ湯煮したものたることが知れる。近人の「梵天廬叢録」巻三十七「喫白肉」の條にも、満洲人は白肉を尚び、前清時代宮中の朝賀などにも必ず此の肉を用ゐた由を記してある。斯くの如く跳神肉は満洲料理であるから満洲通行の高粱酒(焼酒)によく合ふわけであらう。今是と同様の評言を烤羊肉に就いて往々通人から聞かされる。烤羊肉とは邦人間には誰が付けたか成吉思汗料理の名で通つてゐる蒙古料理の一種で、北京では前門外、肉市の正陽楼の名物となつてゐる。其れは柳の薪で焚火して鉄架を掛け、羊の肉に醤油・鰕の油・韭などを混ぜて作つた汁を着けて焼きながら食べるのであるが、是を食べるには焼酒を飲まなければ本当の味が出ないと謂はれてゐる。<略>
《青木正児》
(2)
市場に河蟹の出まわるころは、その年の最もうまい羊肉が手にはいる季節でもある。それを西口大羊と呼ぶのは、西口すなわち張家口から買いけけられた蒙古の羊が、長い道程を群をなして、山間の清流を飲み、やわらかな草を食べながら、北京徳勝門外にある羊市場まで運ばれてくるからである。
羊の肉をあつかうのはもっぱら回教徒である。羊の肉の料理法はいろいろあるが、遊牧民の方法をそのまま伝える烤羊肉は日本でもジンギスカン鍋として親しまれている。この蟹と羊の料理はいずれも北京の季節の特別料理として喜ばれる。
《内田道夫》
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参考文献
資料その6(1)の出典は奥野信太郎著「随筆北京」(東洋文庫522)44ページ、平成2年9月、平凡社=原本、同(2)と(34)は後藤朝太郎著「支那及満洲旅行案内」177ページ、昭和7年5月、春陽堂=原本、(3)は学術文献普及会編「国文学年次別論文集 上代」199ページ、滝川政次郎「猪鹿律令考」、昭和56年1月、朋文出版=原本、
(32)と(33)は奥野信太郎著「北京襍記」序3ページ、昭和19年2月、二見書房=原本、
(35)は山田政平著「飲食雑記」254ページ、昭和28年9月、芥子社=原本、資料その7は同163ページ、同、資料その8(1)は青木正児著「青木正児全集」9巻491ページ、「花彫」より、昭和45年12月、春秋社=原本、
同(2)は青木正児原編/内田道夫編「北京風俗図図譜(2)(東洋文庫30)」76ページ、昭和39年12月、平凡社=原本
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これらの資料からも北京の烤羊肉がジンギスカンという名前の料理の原型であることは、かなり確かだとわかるでしょ。それに対してですね、焼羊肉をカオヤンロー、もしくはコウヤンローと読むのは、ちょっと無理なのではないか。初めの方で周達生さんの読み方を引用しましたが、焼売はシュウマイと呼んでいますよね。日本語的発音ですから、完璧なはずはありませんが「スグ役立つ料理の中国語」によれば焼は広東では焼烤の意味でよく使われるとあり、発音はshao(36)と書かれており、カオとは発音しないと思われます。これは中国からの留学生諸君に教えてもらいたいところですが、焼羊肉はコウヤンローとは発音しない可能性が大です。佐々木酉二先生は烤の活字がないし、字義が近いからと独自の判断で焼の字を書いたのではないでしょうか。
それに烤は、ぱりぱりするように焼くという意味らしく、有名な北京のアヒルの丸焼きは烤鴨と書くんですね。それからインターネットで烤羊肉を調べますと、いまは観光客には余り受けないようで、あまり現れません。観光旅行日記の多くは羊肉のしゃぶしゃぶを食べた話ですね。ただ、広い中国のことでもあり、西域の方では焼羊肉をカオヤンローと呼び、シシカバブ、串焼きだという旅行記もありますので断定はできません。
ところで、中国語の辞書では、ジンギスカンは烤羊肉と明快に定義されているんですよ。里見クが命名したわけではありませんが、仮に昭和5年から使われ出したとしても、もう70年以上にもなるので、ちゃんとした日本語の名詞と中国人が認めておる。「詳解日中辞典」及び「新日漢辞典」という2冊の日中辞典を引いてみますと、どちらもですよ、ジンギスカン鍋は名詞であり、烤羊肉(37)としています。詳解の方は、加えて(也■<説の略字体と見られる字>「ジンギスカン料理」)とあり、どうもジンギスカン料理という場合も同じということらしいのです。
トップページに書いたことも含めて、私がいままで話した中では、一番早くジンギスカン料理という名前を日本の国内で公にしたのは里見さんとなる。私はもっと古い文献はたくさん知ってますがね、ここまでで大連の日華交歓会は除いて―ですよ、少なくとも山田喜平さんの本より1年早い。そこで次回は、満鉄のご招待で満洲を廻り、北京まで行ってきた旅行記、里見クの「満支一見」を吟味しますが、もしかすると、比較に使うかも知れませんので、きょう配った奥野さんの「燕京食譜」のプリントを持ってきて下さい。終わります。
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参考文献
上記(36)の出典は木村春子、藤山和子、呉祥勇共著「スグ役立つ料理の中国語」238ページ、平成5年8月、柴田書店=原本、(37)は北京外国語学校編「詳解日中辞典」1047ページ、昭和61年9月、光生館と大連学国語学院編「新日漢辞典」652ページ、昭和61年3月、東方書店=いずれも原本
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