ジンギスカン料理を食べてからの里見と志賀

 きょうは小説家里見クさんの旅行記「満支一見」を見つけた経過から話しましょう。私は検索エンジンを自由自在に使いこなす検索の鉄人になろうと、深夜なんか、いろいろ思いついたことを試してみます。
 パソコン雑誌のどれだったか忘れましたが、かなり前、2年ぐらい続けて検索の鉄人コンテストをやっていました。どんな予選だったかも思い出せないのですが、とにかく5人ぐらい東京に集まって舞台で決勝戦をやるのです。検索エンジンを使って技と知恵を競うのです。一つだけ覚えているのは、果物の名前で出てくる件数が多い方が勝ちという問題で、何人かがこれはと思うキーワードの色を検索したのです。それが1位だったかどうかも怪しいのですが、片方がリンゴ、片方がオレンジを選び、オレンジが勝ったのです。それはリンゴ色という表現はないが、果物のオレンジもさることながら、オレンジ色ということでオレンジの件数が多いという読みで勝ったわけです。こういうひらめきは、一朝一夕に出てきません。日々あれこれ試しているから、似たようなケースから類推する、あれは応用できると思いつくのでしょう。
 そこでですよ、皆さんにうそをいってはいけないから、この講義の前に、私の記憶を確かめる意味でも検索してみたんです。それをメモしてきました。私が愛用するgoogleでは、平仮名りんごが22万件、片仮名リンゴが18万件、片仮名オレンジ14万件、平仮名オレンジ7800件、漢字の林檎が14万件となり、リンゴの勝ちで記憶と違います。やばい、ぼけたかとgooでもやってみました。
 そうしましたら、平仮名りんごは26万件、片仮名リンゴは19万件、片仮名オレンジは59万件、平仮名おれんじは5000件、漢字林檎は18万件見つかりました。gooなら私の記憶に当てはまります。そういえば、あのころはgooしかない時代だったかも知れません。
 そんな実験として、片仮名だけでなく平仮名のじんぎすかんをキーワードに入れたんです。そうしたら、500件ほど出てきた中に1件、あったんですね、変わったやつが。こういう検索では、あるときはしらみつぶしに見なきゃならんこともあるのです。
 「かながわ ゆかりの文学 100選」というページが出てきて、それに著者名は久保田万太郎、書名は「じんぎすかん料理」、舞台は鎌倉・由比ヶ浜、発表は昭和6年、著者生没年は1889から1963、文化勲章(1)と出てきたのには、偶然とはいえ驚きました。なんと、ずばり「じんぎすかん料理」なんて小説があったとはね。お釈迦様でもご存知あるめえでも―ですよ、今時の検索エンジンはちゃんと見つけてくれるのです。インターネットの威力ということもありますが、そういう地味なホームページを作っていた文学好きな人たちのお陰でもあるのです。感謝しなくちゃいけません。また、これでジンパ学のレーゾンデートルがぐっと高まりましたよ、ホントに。
 ジンパ学を展開させる大きなヒントを与えてくださったその「かながわ ゆかりの文学100選」のURLをお知らせしようにも、もう消された。代わりみたいに「かながわmagagine」の「かながわの文学100選」に選ばれた作品の1口紹介があります。もちろん久保田の「じんぎすかん料理」はその中のに入っています。
 そうとわかれば国会図書館の検索が親切です。書名と著者を入れれば、中央公論社が昭和50年には出した「久保田万太郎全集」の 第11巻に入っている。その本の中の真ん中あたりの「夏それぞれ、糠雨」の次にあり、すぐ後ろは「秋来る、放送局へ入ってから」という順序まで教えてくれます。こうなれば、あとは北大図書館か市立中央図書館か、開いている方へいけばよいのです。北大は図書館本館と医療短大図書室と2組あります。市立は第11巻は中央図書館など3カ所にあります。私はコピー機が空いていることの多い市立図書館に行きまして、本を見て、またまた驚いたのです。
 その理由は「じんぎすかん料理」の書き出しが、なんとなんと、里見さんの「満支一見」の引用だったからです。これまで、私は、さも初めから里見クの「満支一見」に書いてあることを知っていたかのような言い方をしてきましたが、正直なところ、久保田万太郎にその存在を教えられたのです。ひとまず「じんぎすかん料理」の必要個所をコピーして帰り、里見クの「満支一見」探しに取りかかりました。里見さんは、北大の校歌「永遠の幸」の作詞者でもあるわれらが大先輩有島武郎の弟で「多情佛心」などを書いた白樺派の作家というぐらいは知っていましたが、北京のジンギスカンを書いた旅行記もあるなんてまったく知りませんでした。国文の先生でもどうですかね。
 国会図書館の検索で、改造社が出した日本文学大全集の中の里見ク全集の第4巻に納められておりますし、検索してわかったのですがね、かまくら春秋社が昭和58年に発売した復刻版は消費税別で2800円で、いまも同社が売っています。「満支一見」の初版は昭和6年に東京春陽堂から出しており、昭和58年にそれを復刻したんですね。A4版を横にした形の変形の本で、前にもいいました正宗得三郎さんという画家の絵がたくさん入っていました。
 あとがきに「尚、この本は昭和六年一月、東京春陽堂より出したものを復刻し、少しばかり手を入れたものであることを附記しておく」(2)とありますが、ジンギスカン関係は元のままです。これは、里見さんは昭和31年にもう一度中国旅行に出掛けておりまして、このときの見聞をもとにして、戦前に書いた分のどこかを修正したらしいのです。その意味では少なくとも直接引用する時事新報掲載の2回分は原文と付き合わせてみなければなりませんので、国会図書館で昭和5年6月13日と翌14日分のコピーを入手しました。
 そういうちょっと込み入った事情がありますので、久保田万太郎が引用した里見さんの原文からいきます。これから配る資料、きょうはてんこ盛りで2回に分けるから、抜け出しなさんな。
 資料その1の前半は「成吉思汗料理」という連載66回目の最初の3行を削ったものです。後半は見出しにあるように「野趣」という小見出しで67回目の分です。当時時事新報は朝刊に白井喬二作・中村岳陵画の「祖国は何処へ」と久米正雄作・小寺健吉画の「虹一色」、夕刊には鈴木彦次郎作・苅谷深隍画の「明暗七変化」を連載しており、里見ク作・正宗得三郎画の「満支一見」は主に夕刊1面の下の方に載っていました。引用としては長いかも知れませんが、ジンギスカンの原形とみられる北京・正陽楼の烤羊肉をマスコミ上で初めて、かつ詳しく紹介した文献として、著作権者の方々にはご了解を願いたいのです。

資料その1

  成吉思汗料理
 
 こゝは有名な成吉思汗(ジンギスカン)料理を得意とするうちの由、有名なと云つても、内地の人の耳には、別段馴染が深いわけでもなからうけれど、◇吾々は、今度の旅行中、何人の人から、何遍同じ話を聞かされたか知れないくらゐ、支那でのうまい食ひものゝ話には、きまつてこれが出るので、つい有名な、と云ひたくなるのだ。大連でも食べさせるうちはあると聞いたが、なんと云つても本場は北京で、而もこの正陽楼が家元格らしい。成吉思汗料理、――そんな支那語があらう筈はなく、無論これは、その料理法なり、その場の情景なりから割出して、在留邦人の勝手につけた和名で、原名は烤羊肉(カオヤンロウ)と云ひ、羊の焼肉なのだ。味もなか/\結構だつたが、成吉思汗が引き合ひに出されたり、いま云つたやうに、雷名を四邊に轟かしてゐるといふものは、寧ろその食べ方の珍奇なるによるところが多いのだらう。◇では、どうして食ふかと云ふに、――仕度が出來たとの知らせに吾々が一旦ぬいだ外套を着、帽子も被りたければ被つて、もう一度石甃の中庭に出て行つて見ると、四尺角ほどの卓の上で、鐵火鉢のやうなものから、焔の舌がめら/\とあがつてゐるのではないか。鐵火鉢と云つても、品の粗末さではそれに近いが、形は、一方に口が刳つてある具合など、寧ろ茶の湯で使ふ風爐に似て、もつとずつと大きく、かれこれひと擁へもあつたらうか。燃すものが、またこの料理になくてならない特別の品で、(やなぎ)(にれ)を生焼にしたものゝ由。だから、ちよつと見たところでは、普通の炭と変りはないのだが、これを、いま云う鐵火鉢様のものに積み重ねて火を移すと、ぼう/\と焔をあげ、相応煙もたてる具合、今度はまだ薪と呼びたくなるやうな、つまりその二つのものゝ合の子なのだ。◇上からは、お(そなへ)ほどの丸味に盛りあがつた金網が被せてある。この金網といふ言葉にも多少註釈を要するが、針金のやうな細いもので編んだのではなく、幅六七分の鐵板を、碁盤目に組み合せてあるのだ。――これが道具立で、さてそこへ持ち出されるものはと云ふに、皿へ山盛りに盛つた羊の生肉と、一種の醤油を入れた鉢だ。この醤油には、葱、人蒜なども無論煮込んであらうし、ちよつと舌にピリツとしたところを以つてみれば、胡椒の類も加味されてゐようか。この可なり大きな皿と鉢が、各自(めい/\)に一つづつわたつたところで、太くて長い竹の箸で、肉を適宜に把つて醤油につけ、金網の上に載せるのだ。ジユウ/\いつて焼ける。滴つた脂が、ボロ/\ツと焔の舌をはいて燃えあがる。ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。――と、かういふ順序なのだ。◇
 なほ、もう一つ変つてゐるのは、卓の前に、腰かけにしてはやゝ幅の狭い臺がある。どうせ上で焚火をするくらゐで、眞黒けに汚れたひどい卓だつたから、それに応じて腰かけもこんなものなんだらうと思い、卓との間へ體を入れようとしたところ、それは、片足かけて、いくぶん楽な姿勢をとるくらゐの便に備へてあるのだから、立つたまゝ食へと云はれる。成程、さう聞けば、腰かけるにして卓は高すぎるし、臺は低すぎることにも氣がつく。


  野 趣
 
 前回、外套を着て中庭に出る、といふことを書いて置いたが、それはつまり、煙や脂の臭ひで、とても室内で出來る仕事でないからだが、前に火を控へてゐるので、別にさう寒さの心配はない。その晩は、兼て御贔屓にあづかるK氏の宴會といふので、店主が氣を利かせたつもりなのだらう、軒から軒へ針金を引き渡し、アーク燈を二つもぶらさげて置いてくれたが、無論これは普段の通り、燃えさかる焚火の焔で、お互の顔や、皿小鉢、盃など、朦朧と描き出される方が趣きに違ひなく、折角の親切ながら、夫人役のK氏も苦笑ひで、一つは消させ、残る一つには、布で覆ひをかけさせ、わざ/\薄暗くしたくらゐだ。
 それだけの人数では二卓、二人の御夫人方も入り混つて、自ら羊の生肉を(あぶ)りあぶり立食ひだ。例の足臺に、片足かけて肘を置き、且語り、且食ひ、旦、――酒のことが最後にとり残されたのは、我ながら不思議だが、この料理に限つて、酒は、無色透明の焼酎を用ゐるのが習ひださうで、またやつてみると、醤油の鹹さと、さつぱりしたこの酒との出合が馬鹿にいゝ、――で、且飲む、その興、その趣、誠に尽きないものがある。云ふまでなく、勇壮な、野蛮な感じで、さればこそ、常勝(じやうしよう)を誇る成吉思汗(ジンギスカン)が、陣中、部下の猛將連を呼び集めて催した夜宴は、かくもあつたか、との想像から、遂に彼の名が引き合ひに出されたものだらう。成吉思汗が好んで食つた、など云ふ人もあるが、そんな史實が残つてゐようとは思はれない。<略>

  

参考文献
上記(1)の出典は平成22年までに消去された http://www.d5.dion.ne.jp/ ~ikeyoko/AB-KANAGAWA-B. htm (2)は里見ク著「満支一見」*ページ、「あとがき」、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、資料その1は同108ページ、底本は昭和5年6月13日付時事新報夕刊1面「満支一見」66回と翌14日付同67回

 前半の文中に◇が4つ入っていますが、これ原文にはないもので、私が入れた印です。久保田万太郎は、この紀行文に刺激されて仲間とジンギスカンを食べてみることになるのですけれど、その相談から始まって食べた晩のことを7章に分かれる短編にした。そのとき里見の文を2カ所引用していましてね、第1章の冒頭に引用した部分が初めの◇と◇の間です。
 それからいよいよ食べるぞという第5章で後ろの◇と◇の間を引用しています。引用された箇所を見ますと、烤羊肉のルビがカオヤロウとンが抜けているほか、漢字の使い方や送りがなが少し違っていますが、字句はそのままです。
 奥野信太郎さんのプリントを持ってきていますね。どうです、ずばり正陽楼であり「寒い星空のもと、中庭の炉を囲んで片足を几に載せておのがじし羊を焼いて食べる烤羊肉は豪快な趣そのものといへよう。どうかするとちらちら雪がふりはじめた晩など、外套の襟を立てて渦まき上る烟と真紅な炎に対するとき、長い箸をとつて肉片を焼く」(3)という描写もぴったり合っていますね。片足を台に掛けて長い箸を使う。逆に、奥野さんの文から、里見さんがいったとき、店が気を利かせてアーク灯を2つつけていたので、1つは消させたというのは本当で、いつもなら明かりは炉の炎だけらしいとわかりますね。
 講談社が出した日本現代文学全集の「里見ク・長与善郎集」にある早稲田大学の紅野敏郎さんが編集した里見さんの年表によりますと、報知新聞夕刊にこれを書いたのは昭和5年3月からで、翌6年2月に報知新聞連載文に追補した「満支一見」を春陽堂から出版(4)となっていますが、報知新聞は誤りで時事新報なのです。
 春陽堂版の「跋」には「本書は昭和五年三月十日より、同六月二十七日まで、七十五回、時事新報夕刊に連載、なほ今度の上梓に當り、『貴妃酔酒』以下の七章を追補せるもの、本文冒頭ににも記せる如く、満鐵との約を果さんがために成ると云ふもまた可なり」(5)と書かれています。
 それで私はですよ、春陽堂版の章がいくつあるか数えてみました。ぴったり75プラス7の82章ありまして、正陽楼のシーンは67章と68章に当たります。跋にいう「貴妃酔酒」からの7章は、昭和5年1月24日、北京を発つ日から1月31日に帰宅したところまでを書いているから、新聞の紙面上では75回は1月23日の北京滞在中という尻切れトンボで終わる形になるはずなので、里見さんがどう書いたのか紙面を調べてみました。
 それでわかったのですが、6月29日の75回目は「高速度で」という題で「貴妃酔酒」ではなかった。その前の74回が6月27日で、1月23日の午後、怪しげなご神体を備えている喇嘛廟を見に行った「淫祠」(6)であり、まだ北京の話が続きそうなのに、そばに「里見氏の満支一見はあと一回で完結します。次はかつて『碁の話』でお馴染の三木氏が健筆を揮はれます」と「大鎌倉覆滅の日」と題する小説の予告と20行ばかりの三木の抱負(7)が、がっちり入っていたんですよ。はっはっは。
 どうやら里見さんは掲載は75回という約束を忘れていたと思われるのです。75回のお約束で、それ以上の予算は組んでいませんよと時事新報からいわれたのでしょう。そりゃ参ったと「高速度で」は「新聞社の都合で、七十五回の今日を以つて、この『満支一見』も打ち切ることになつたから、詳しくは単行本にして出す時に譲つて、以下、高速度で片づけて了ふ。(8)」と、小説らしからぬ書き出しで始まり、1月24日からの8日分の行動をそれこそ「高速度で」書いたんですね。
 また時事新報も、そばにもう1回「里見氏の満支一見は完結しました。次はかつて『碁の話』でお馴染の三木氏が健筆を揮はれます。(9)」と予告を載せています。つまり「高速度で」の章は、春陽堂版では7章にもなったエッセンス、極端に言えばキーワード集みたいな中身。1月30日は「九時、京都着。志賀は、そこで別れて、すぐ奈良へ帰り、私は一泊して、翌日帰宅。(終り)(10)」ということで、時事新報の連載はなんとか格好を付けたのでした。
 75回終了に関連してですが「志賀直哉全集」にある昭和5年7月1日付けで里見さんが志賀さんへ送った手紙によると「<略>満支一見もう少しといふところで時事の上半期の予算が尽きた由で断られて了つた 旅行記で堂々たる新聞社を破算(ママ)させてやつたわけだが然し不景気はよそごとに非ず月々の苦しさなか/\大へんだ<略>(11)」というんですが、もう「満支一見」の原稿料はないということで、破産はオーバーでしょう。
 そもそも、この旅行は南満州鉄道株式会社、満鉄の招待で出掛けたものでした。最初の「宿望」という章に「先方の負担は公表する必要はない。こつちの義務は、帰つてから新聞なり雑誌なりで、紀行文を発表すること、それの再録権は満鉄が保有すること、――ただそれだけだ。即ち今この文章を書いていることが、その義務の遂行にほかならないのだ。なんと楽しい義務よ!」(12)と書いているくらいの大名旅行だったんですね。それで里見はぎりぎりまで仕事をして11月22日、門司出航の船に乗りまして大連に着き、満洲を見て北京へ入り、それこそ嫌になるほど聞かされていた、そのジンギスカン料理を食べたわけです。
 当時満鉄では、満洲や満鉄のことを何かに書くというぐらいの約束で、盛んに有名人を満洲に招いたんです。今風にいえば太っ腹なPRですな。昭和4年6月の満洲日報に「来月以降になると芸術家学者が交々來連し主として満鉄の委嘱により満洲紹介の趣旨に基いてそれ/\゛関係方面の視察研究又は満蒙を主題とわせる作品の創作に着手する筈」の人として北原白秋、木村増太郎、岸田劉生、那須皓、富田砕花(13)の5氏を挙げています。
 それどころか、その記事の隣に「志賀直哉氏ヒヨツコリ來連」という記事が載っているから面白いんだなあ。來連というのは、札幌に来たことを來札というのと同じく、ある人が大連に来たという意味ね。前日夕刊を見ると、堂々と小説家志賀直哉を名乗って大連ヤマトホテルに泊まったことがわかります。資料その2はそのインタビュー記事です。

資料その2

「あんまり大して
 有難くはない旅」
   誰から招かれたかも判らず
   志賀直哉氏ヒヨツコリ來連

明澄、そう云つた気持が対座してゐるとヒシ/\感じる、満鉄の招聘によつて昨夜朝鮮経由で來連ヤマトホテルに旅装をといた本邦文壇の重鎮志賀直哉氏二日早朝ホテルに訪ふと「満鉄の何処が招聘してくれたのかも知らない位ですよ」と冒頭し乍も色々話込む
 奉天  迄は十四五年前來た事はありますが、大連に來たのは今度が初めてです、珍しい所を見ると云ふ事は悪い事じあありませんが、大して有難くないですなあ、まあ一ケ月程は満鉄沿線をずつと廻る事になると思ひますが、どう私に感じますかしら、小日山理事とはお会いする事になつてゐますが四日に内地に行くんだそうですね……
次に『内地の文壇の話……』そう云つた方に話題を進めると氏はそんな事に大しては興味なさそうにコーヒーのさじをもてあそんでゐた尚同氏は
 支那  に対しては幾多の興味とのぞみを持つてゐる由で氏の才能によつてこの満洲の土が如何様に生き返つて提供されるか期待されてゐる

  

参考文献
上記(3)の出典は奥野信太郎著「随筆北京」(東洋文庫522)44ページ、平成2年9月、平凡社=原本、(4)は「日本現代文学全集第50巻 里見ク・長与善郎集」432ページ、紅野敏郎「里見ク年譜」より、昭和38年9月、講談社=原本、(5)は里見ク著「満支一見」137ページ、「跋」、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、 (6)と(7)は昭和5年6月27日付時事新報夕刊1面=マイクロフィルム、 (8)と(9)と(10)は同29日付同、同、 (11)は志賀直哉著「志賀直哉全集」16巻154ページ、昭和49年12月、岩波書店=原本、 (12)は里見ク著「満支一見」2ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、 (13)と資料その2は昭和4年6月3日付満洲日報夕刊2面=マイクロフィルム


 これが本当なら、里見と出かけたのは3回目の満洲ということになるのですが、真っ赤な偽者なんですね。それを見抜いたか競争紙の大連新聞は全く無視しています。本物の志賀は「堅牢な茶の皮の表紙のついた横長の手帖」に日記などいろいろなことを書いているらしいのですが、昭和4年分として公開されているのは12月末の里見との満鉄招待旅行からで、6月に何をしていたかわかりません。
 ただ2月に東京にいた父親が亡くなり、4月には奈良市内ですが、新居が完成したので引っ越したり
(14) しており、6月はたまった注文消化で忙しかったのではないでしょうか。満鉄のどこの招聘かわからずに来るようなやつが明澄だなんて、先入観の怖さですね。小日山が会いたいというから来てやったような口ぶりといい、偽志賀の演技は完璧だったらしい。記事を載せてから満洲日報は一杯喰わされたと知り、恥の上塗りになるとみたか取り消し記事も載せず、その後は何も書いていません。
 満鉄は翌年、菊池寛、直木三十五、横光利一、佐佐木茂策、池谷信三郎の5人を招待してます。それも片道11時間の飛行機でね。「いはゆる文芸春秋派の驍将五氏は十六日大連着の旅客機でいずれも手荷物一つ持たない軽い秋の仕度で來連した<略>(15) 」と新聞に書かれています。汽車と船を乗り継ぐことを考えれば「今日午前東京を立てばその晩に京城に着き翌日午前中大連に着いてゐるのである。」(16)と菊池は、その速さに感心しています。
 メンバーの直木は、直木賞として名が残っている直木ですよ。あれと芥川賞は、「その賞金に依つて、亡友を紀念すると云ふ意味よりも、芥川直木を失つた本誌の賑やかしに亡友の名前を使はうと云ふのである。もつとも、まだ決まつてゐないが。」(17)と、菊池が昭和9年に書いていますが、菊池と芥川と直木は親しかったのです。
 横光は川端康成ととも新感覚派とうたわれた作家で、直木と横光の2人は文春の社員で文春はもちろん、菊池もそうなんですが、よその雑誌にも作品を発表していました。佐佐木は編輯発行人になり、菊池の後を継いで2代目文藝春秋社長を務めました。また池谷は池谷信三郎という、やはり新感覚派といわれた作家で川端とも親しかった。
 それで菊池は昭和5年11月号に「満洲一瞥記」という題で「つひ先月満洲へ行つて來た。満鉄から見に來ないかと云ふ勧誘に依つてゞある。」という書き出しで2ページ、直木と佐佐木は普段1ページの「旅」欄を2ページにして、その1ページを2人の満洲報告で埋めています。いずれもジンギスカンに触れていないので、食べる機会がなかったと思われます。菊池は末尾に「今度の旅行について、いろ/\お世話になつた満鉄の石原八木沼両氏に、お礼を云つて置く。(18)」と、とってつけたように書き、直木は「▽満鉄と、石原氏と、八木沼氏とへ礼を云つてをく手紙を出そうとして、未だ、書かない。」(19)と書き始める横着振りです。こうした文春組に比べると、長々と「満支一見」を書いた里見の律儀さは、實に見上げたものです。
 このころ満鉄は経営が苦しく、こうした外づらのよさとは裏腹に、それこそ死にもの狂いで経費節減を図っていたのです。蒸気機関車が発車ごとにポーと汽笛を鳴らすのをやめてね、西部劇の機関車みたいにカランカラン鐘を鳴らすようにしたら、年間12万円ぐらい浮くんじゃないかと研究したら、汽笛一声は5厘ぐらいで、せいぜい2万円の節約とわかり、汽笛は今まで通り鳴らすことにした(20)そうです。
 また、昔恋しい銀座の柳…という東京行進曲の替え歌で、仙石総裁のそれやこれやを皮肉る新満鉄行進曲が現れた。その2番が「社員へらしてアノまのあたり/理事をふやしたへまもある/文士招待宣伝させて/せめて老後の思ひ出に(21)」というのだから、社内でも文士招待は目の敵だったのですなあ。
 昭和6年9月現在の「満鉄職員録」をみると、総務部庶務課の事務員筆頭に八木沼丈夫がいて、席次でその4つ下に石原秋朗がいます。(22)この2人が文春諸氏の世話をしたのすね。八木沼は元満洲日日新聞記者で、かつて愛唱された「討匪行」という軍歌を作詞した歌人。(23)
 石原は拓殖大OBで、在学中に逍遙歌と紅陵健児の歌を作った(24)ことが「拓殖大学八十年史」に載っています。また巌徹、沙人などの雅号で随想、俳句や川柳を発表したりしていました。ジンギスカン料理の命名者についても一家言をもっておりましてね、いずれ別の講義で石原説を取り上げます。
 はい、里見さんの文章に戻ります。さすが作家だけに里見さんの観察は細かい。表現も巧みだと思いませんか。お供えほどのというサイズは、私たちの年代にはぴんと来ます。二つ重ねになっているお供え餅ぐらいといわれれば、高さ何センチ、直径何センチと数字を出さなくても、少なくとも正月に床の間にでんと飾る、あのクラスはあるんだなと、すぐ想像できますもんね。しかも丸みに盛り上がった、平らじゃなくてこんもりした金網が、大きな風炉みたいな火鉢の上に乗っかっている。
 風爐はフロまたはフウロと読みまして、茶の湯の席でお湯を沸かすのに使う道具です。ワープロソフトの一太郎13では「ふろ」と入れないと出てきません。googleに「風炉 茶道具」と入れれば600件ぐらい出てきますから、画像を見てほしいのですが、広辞苑第2版によれば「土製・木製・鉄製・銅製・銀の炉。形は円く縁の一方を欠いて風を入れるようにしたもの」と教えています。私が学生のとき部活の先輩が結婚したので、後輩どもとして何かお祝いを贈ろうということになりましてね。そんなに高くはないけれども、ありきたりのものではなく、邪魔で長持ちするけれども捨てるに捨てられないものは何だと、ブレーンストーミングしまして、割り勘で鋳物の風炉を贈りましたもんね。奥さんにお茶の心得がなければ、まず使われる可能性はゼロでしょう。七輪代わりに使うなら、七輪の方が熱効率はよいでしょう。日々使うわけでなし邪魔なんだが、さりとて捨てるにはしのびないと躊躇するはずです。多分今でも物置にあるんじゃないでしょうか、はっはっは。
 さて、金網も「多少註釈を要するが」と断っている通り描写が細かい。金網とくれば、その前にお供えという餅が言葉として出ていますから、火鉢なんかに掛けて餅を焼く餅網を連想してしまいます。それでわざわざ針金の網じゃないんだ、金網といえないような特殊なやつなんだと説明しています。6分というのは3.03ミリ掛ける6で18ミリぐらい、同じく7分は21ミリぐらい、だいたい幅2センチぐらいの鉄板を碁盤目に組み合わせた網だというのですね。鉄板の厚みのために、いやでも編み目の隙間が開くでしょう。それだけ聞けば鍛冶屋さんなら、こんなものだろうと作れるのではないでしょうか。
 その分厚い金網の下では炭とも薪ともつかない、煙の出る炭を燃やす。生肉に手に持った小鉢のたれを付けて金網に乗せ、焼けたら食べる。生肉にある程度味がしみているのかも知れませんが、少なくとも焼く直前にも「醤油につけ、金網の上に載せる」焼き方とわかります。山田マサさんのジンギスカン鍋、釣谷さんの高羊鍋は、どちらも焼く前に肉をしばらくたれに漬け込み、味付け肉を焼いて、そのまま食べるという点で違います。これは、また別の機会に検討します。
 それから正宗さんの絵のことですが「支那紀行」の予告で「挿絵の正宗画伯は曾て同地方に遊んだ人、里見氏の才筆と相俟つて興味深い満支風物を紙上に躍如せしめることゝ思ひます。御愛読を願ひます。(25)」とあります。検索しますと、大正14年に「支那服の女」とか「北京北海園」といった作品を数点発表していますので、そのころ満洲とか北京方面を旅行したスケッチを使ったと思われます。
 国会図書館の索引情報をよく見ますと、改造社の里見ク全集は昭和6年から7年にかけて出版され「満支一見」が載っている第4巻は昭和7年に刊行されています。日本文学全集の「里見ク 久保田万太郎集」の年譜は小田切進さんの編集したもので「*里見ク年譜は紅野敏郎、村松定孝氏編の年譜その他の資料を、久保田万太郎年譜は宮内義治氏編の年譜、岩田初子氏編の著作年表その他の資料を編集して編んだ」と記してありますが、それでは昭和6年の項に春陽堂のことに何も触れずに「五月『里見ク全集』(全四巻)を改造社より刊行、翌年十二月完結」(26)とだけあります。ですから2年前の昭和5年に時事新報に連載し、次の年の昭和6年に春陽堂から単行本にして出し、次の年には改造社が里見ク全集に収めて出版していることになります。里見さんががめつく3回売ったのか、出版社の方が先生、ぜひと頼んできたら嫌とはいわないお方だったのか、わかりません。
 皆さんは45歳で全集なんて、早すぎるんじゃないと思うでしょうが、そのころは人生50年といわれていたころです。いまみたいに75歳以上が全人口の20%近くを占めるなんて時代とは違っていましたから、さして不自然ではなかったのでしょう。それにしても出版社の間で版権のトラブルはなかったのか。こっちの方が不思議です。
  

参考文献
上記(14)は志賀直哉著「志賀直哉全集」13巻308ページ、紅野敏郎「後記」より、平成12年2月、岩波書店=原本 (15)は昭和5年9月17日付満洲日報夕刊2面=マイクロフィルム、 (16)と(18)は文藝春秋社編「文藝春秋」8巻11号168ページ、菊池寛「満洲一瞥記」、昭和5年11月、文藝春秋社=原本、 (19)は同249ページ、「旅」、同、 (17)は同12巻4号168ページ、菊池寛「話の屑籠」、昭和9年4月、文藝春秋社=原本、 (20)は昭和5年10月5日付大連新聞朝刊7面=マイクロフィルム、 (21)は昭和5年10月22日付同朝刊3面、同、 (22)は芳賀登ら編集「日本人物情報大系」第16巻544ページ、満鉄職員録、平成11年10月、皓星社=原本、 (23)は天野弘之著「満鉄を知るための十二章」223ページ、平成21年3月、吉川弘文館=原本、 (24)は拓殖大学編「拓殖大学八十年史」223ページ、昭和55年11月、拓殖大学創立八十周年記念事業事務局=原本、 (25)は昭和5年3月9日付時事新報夕刊1面=マイクロフィルム、 (26)は「日本文学全集 26巻 里見ク 久保田万太郎集」436ページ、「里見ク年譜」より、昭和50年2月、集英社=原本、


 ここで皆さん、ちょっとした料理をしてもらいましょう。きょう渡したプリントの前半「成吉思汗料理」が材料です。その先頭の「こゝは有名な」から最初の◇までの字の上に鉛筆で線をを引いて消してみて下さい。それからその次、2つ目の◇まではそのまま残して、その2つ目の後ろからの「では、どうして食ふかと云ふに」からですよ、3つ目の◇まで、いいですか「合の子なのだ」までだよ。そこまで、また線を引いて下さい。それから後ろ、4つ目の◇までは残し、その後、つまりの最後の段落「なほ、もう一つ変つてゐるのは」から全部消して下さい。
 すると、以下の2節が消されずに残りますね。

吾々は、今度の旅行中、何人の人から、何遍同じ話を聞かされたか知れないくらゐ、支那でのうまい食ひものの話には、きまつてこれが出るので、つい有名な、と云ひたくなるのだ。大連でも食べさせるうちはあると聞いたが、なんと云つても本場は北京で、而もこの正陽楼が家元格らしい。成吉思汗料理、――そんな支那語があらう筈はなく、無論これは、その料理法なり、その場の情景なりから割出して、在留邦人の勝手につけた和名で、原名は烤羊肉と云ひ、羊の焼肉なのだ。味もなか/\結構だつたが、成吉思汗が引き合ひに出されたり、いま云つたやうに、雷名を四邊に轟かしてゐるといふものは、寧ろその食べ方の珍奇なるによるところが多いのだ。

上からは、お供ほどの丸味に盛りあがつた金網が被せてある。この金網といふ言葉にも多少註釈を要するが、針金のやうな細いもので編んだのではなく、幅六七分の鐵板を、碁盤目に組み合せてあるのだ。――これが道具立で、さてそこへ持ち出されるものはと云ふに、皿へ山盛りに盛つた羊の生肉と、一種の醤油を入れた鉢だ。この醤油には、葱、人蒜なども無論煮込んであらうし、ちよつと舌にピリツとしたところを以つてみれば、胡椒の類も加味されてゐようか。この可なり大きな皿と鉢が、各自に一つづわたつたところで、太くて長い竹の箸で、肉を適宜に把って醤油につけ、金網の上に載せるのだ。ジユウ/\いつて焼ける。滴つた脂が、ボロ/\ツと焔の舌をはいて燃えあがる。ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。――と、かういふ順序なのだ。

 いいですね。確認して下さい。久保田万太郎の「じんぎすかん料理」が昭和6年8月25日から31日まで報知新聞に連載されました。それが昭和8年4月に春陽堂から出した「吾が俳諧」という本(27)に収められていますので、里見クの「満支一見」のジンギスカン料理の定義、いま残った前半の298字ですね。それと鍋と焼き方、後半の355字はですよ、昭和5年に里見が新聞1回、昭和6年には里見が単行本1回と久保田が新聞で計2回、昭和7年に里見が単行本1回、昭和8年に久保田が本で1回と合計5回。読んだ人数まではわかりかねますがね、とにかく毎年読者に公開されていたようなものだった。YOSAKOIソーランまつりの歌に必ずソーラン、ソーランが入るようなもんです。
 久保田さんは、ちゃんと「里見さんの『満支一見』の中に」と断って使っていますから「今度の旅行中」が満洲と支那であり「何人の人から、何遍同じ話を聞かされたか知れないくらゐ、支那でのうまい食ひものの話には、きまつて」ジンギスカンが出るそうだ。満州と支那に住んでいる日本人の間では有名な料理であり、羊肉は焼いて食べるとうまいらしい。それでわれわれも鎌倉の由比ヶ浜でジンギスカン鍋を試食してみたという小説なのですから、食通を自認する人々の格好の話題になったことでしょう。かの英雄ジンギスカンが将兵たちと食べていたなんて「成吉思汗が引き合ひに出されたり」しているけれども関係はないらしく、北京が本場なのに「成吉思汗料理、――そんな支那語があらう筈はなく」在留邦人のだれかが勝手につけた和名なんだよと、鎌倉文士である里見さんと久保田さんが昭和5年から一般市民に教えてくれたんですね。これが結果からみれば、ご両人が昭和5年から8年までの4年間、ジンギスカンという羊肉料理のキャンペーンに一役も二役も買ったといえますね。
 報知新聞に5回の連載されたと書く以上、挿絵はどうなっていたんだろうと1回目の紙面を見たら、挿絵はあったけれど、それは久保田さんの「じんぎすかん料理」のではなく、連載中のユーモア作家として知られた辰野九紫作「兄弟」の6回目、兄が兵営にいる弟に会って金をせびられている場面でした。描いたのは小野佐世男、戦後豊満な女性をたくさん描いたので私も覚えているが、この絵からはそんな気配は全く感じられませんよね。続けてみていくと、この面では小説の下に数回で終わる短編を添え物のように次々載せていました。その夕刊第2面の「じんぎすかん料理」第1回のコピーをスライドで見せましょう。

  

 昭和4年末の里見、志賀組の満洲旅行から数えますと、まるで糧秣本廠によるジンギスカン普及戦略でもあったかのように、昭和5年から4年間も宣伝してもらえたことになるという重要な史実を、これまでの通説では見落としています。いや、ジンギスカン料理の権威みたいに発言してきた皆さんが、こうした文献考証なんてことは全くしていなかったという証拠でもあるのです。
 そんなことよりも、里見・久保田コンビの存在は、もっと後の講義で出てくる糧友會という団体の羊肉食普及活動にとっても、ものすごく幸いなことだったのですよ。それから、いずれ証拠を示しますが「文藝春秋」も、日本橋の濱の家の「北京正陽楼 じんぎすかん料理」といった広告を載せてね、ジンギスカンという料理の名前を広める媒体になっていたのですよ。
 里見さんの相棒だった志賀直哉はですよ、帰国後、とうとう満鉄との約束を守らず、見聞記を発表しませんでした。でも日記には正陽楼で食べたことは書いてあったのです。それが資料その3の(1)です。里見は「満支一見」の「宿望」に満鉄からの招待の条件に対して「何事によらず、義務づけられることの大嫌ひな志賀でさへ、――少しは愚図々々云つたらしいが、結局承知した」(28)と書いているくらい、ノルマ嫌いだったにせよ、食い逃げというか、誠にまずいことをしでかしたのですね。
 なぜ志賀さんは書かなかったのか。手っ取り早いところで、阿川弘之さんが平成9年に出した新潮文庫の「志賀直哉」を当たりました。上下2巻でどちらも税込み705円です。阿川さんは志賀さんの弟子であり、エッセイストとしてよくテレビに出る阿川佐和子のお父さんです。その上巻の「プロレタリア文学全盛」の中の478ページから479ページにかけて、書かなかった経緯を考証しています。これはまだ書店に並んでいる本ですから、引用は遠慮して私がまとめた要点を資料その3の(2)の阿川氏の説明です。
 後でその証拠を見せますが、志賀さんが休筆して最初に出かけた旅行が満洲行きというなら、どうして里見さんと合作による読み物「支那紀行」を連載すると時事新報が予告できたのか。おかしいでしょう。志賀さんは休筆どころか、満鉄との約束を果たすためにも何か書くつもりで出発したんですよ。

資料その3

(1)十九日<昭和5年1月>
 田中氏案内にて文華殿、太和殿、中和殿その他武英殿等を見る。李公麟大いによし、武英殿のとう器感心せず、建物のキボ大なるは日本の比に非ず、中山公園にておそいひる食をしてかへる。
 夕方金井夫妻誘ひに来てくれて、正陽楼にジンギスカン料理(烤羊肉 カオヤンロウ)の御馳走になるかへり金井氏の家へ行き麻雀をする、一時近かく宿へかへる、二時半頃ねる、


(2)阿川氏の説明

 〔1〕志賀は昭和4〜8年の休筆中、何度か旅行した。その最初が満洲各地、天津、北京をめぐる40日間の旅行。
 〔2〕どこでも自由に見て後日新聞か雑誌に見聞録を発表することが満鉄の招待条件。それで旅行中、克明な日記をつけていた。
 〔3〕満支旅行の3年前に書いた「矢島柳堂」の続きとして、画家矢島柳堂の満洲見物という形で書く気はあったが、実行しなかった。
 〔4〕満鉄との約束に沿うのは「万暦赤絵」だが、満洲と北京の話は少ししか出てこない。志賀は「続創作余談」で「萬暦赤絵」執筆の動機に触れて、里見が「満支一見」で「余り精しく書いて了つた為め、自分の書くところが無くなつたやうな気がし、それに筆無精もあり、遂に折角の厚遇に報ゆる事なく、愚図々々してゐるうちに満洲の方がすつかり変つて、その約束も時効にかかつて了つたのは甚だ相済まぬ事だと感じている」と詫びている。
 〔5〕「満支一見」と志賀日記と晩年聞いた思い出話で、阿川が旅行のエピソード集を書けなくもないが「先生の書かなかったものを、末弟子が改めて紹介するにも及ぶまい」。

  

参考文献
上記(27)の出典は「久保田万太郎全集」第15巻746ページ、「単行本刊行目録」、昭和51年4月、中央公論社=原本、(28)は里見ク著「満支一見」1ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、資料その3(1)は「志賀直哉全集」11巻22ページ、昭和48年12月、岩波書店=原本、同(2)「阿川氏の説明」は阿川弘之著「志賀直哉」上巻478ページ、平成9年8月、新潮社=原本


 どうです。志賀さんは革手帳の日記を使っていたそうですが、それには正陽楼のジンギスカン鍋についていろいろ書いただろうと思ったら、意外にあっさり、珍しいともうまいとも書いていなかったのです。この阿川さんの下巻には「志賀家御馳走帖」という章があり、白樺系で美味に執着するランキングとして1位は梅原龍三郎、それに次ぐのは里見と志賀だと挙げ、志賀さん本人も男子厨房に入らずとか男は食い物の味のことは黙っているべきだというような昔の教えは馬鹿げていると断言し、美味を求める熱意は梅原に劣らなかった(29)と書いています。
 ちょっと脱線だがね、梅原が昭和14年に北京に行き、53日間滞在したとき書いた日記をみると60回の食事を書き、食べた料理店29軒の名前を記してます。最多が鹿鳴春の10回、次が厚徳福の5回です。当然ジンギスカンも食べており正陽楼と東来順で1回ずつ食べ、正陽楼は何もコメントしてないけど、西来順には「ヂンギスカン鍋を食ふ。下手ものなり。」と付け加えている。厚徳福で5人を招いてクマのてのひらの煮物、紅扒熊掌も出す豪華宴会を開いたりした(30)梅原ですから、ジンギスカンをそうけなすのは無理もないか、はっはっは。
 近松門左衛門は熊の掌は珍味として知っていたようで浄瑠璃「天神記」の唐風のご馳走攻めのセリフに「鶏飯羊粥、豕の焼皮熊の掌、狸の沢渡猿の木取、(31)」とある。また明治25年の北海道毎日新聞に貴族院議員田中芳男が北海道の熊の掌の輸出することを思いつき「上海在留荒尾精氏の許に問合されしに果して田中氏の見込の如く熊蹯即ち熊の掌は彼の燕窩、桂花木耳、豹胎と等しく支那人の最も珍重するものにて北京各省の官人等は贅沢品として之を貴重し其価一対即ち片手片足にて三四圓より五六圓に売買するよし是に於て田中氏は地理課長村上要信氏へ向け本道に於る其産出見込等詳細問合され村上氏は旧開拓使以來の熊猟規則より毎年の捕獲高に至る迄詳細に取調へ回答されたる<略>(32)」という記事が載ってます。
 男爵大倉喜七郎の奥さん久美子は、張作霖から贈られた熊掌(ゆうしよう)を料理して食べてみたら「箸がすうつととほるやうに軟らかになりますけれど、本当を申しますと余りおいしいものではありません。その料理がまた大変なもので大急ぎでやつても食べるまでに一週間位かゝるさうです。五日間もぬるま湯で煮上げた上に毛をひきぬき、またハムや鶏と一緒に二日位蒸しますので、それはそれは手のかゝるものゝやうです。(33)」と語ったそうですが、梅原も「きょうの眼目熊掌(シユンチヤン)を魚脣かと思ふて皆食ふてゐた。食ひ終つた頃それを知る。(34)」と心外そうに書いている。客たちは菜単をよく読まなかったのかも知れん。
 魚脣は魚唇とも書かれるが「魚の唇の皮だか肉だか判らないヌラヌラした物をソップで煮た料理で、是は私が支那へ来てから初めて喰べた料理だった。日本でも鯛の唇の皮などを賞美するが支那のは魚が大きいせゐか唇の皮が非常に厚く大きいのを細かに切ってソップで柔かく湯でゝあるのでちよつと見ると何だかえたいが判らなかつた。(35)」と谷崎潤一郎が書いています。
 これでは説明にならん。もう少し探したら中野江漢夫人つじ子が「支那と満蒙」の「支那料理の話」に「『黄魚』の唇を、乾燥したもの、料理に使用しますと、フヨ/\して実に軟くなります。(36)」と書いていました。また黄魚(ホワンユイ)は黄花魚の略で日本ではイシモチ(37)と呼ぶ魚ただそうです。 まあ、私なんか御馳走してくれるなら鱶鰭で十分、脱線はこれぐらいにして志賀さんへ戻します。
 はい、もっと見方を変えると、志賀さんがいまいったようなグルメだっただけに、正陽楼のジンギスカン宴会は、自分が絶対に書きたかった北京の情景だった。それなのに里見さんに先を越されたばかりか、しかも1夜の食事で連載の2日分も書かれた。おまけに帰ってから新聞と本で3回も読ませる波状攻撃で、おいしい羊肉はすっかり食べられたような恰好になった。加えて久保田さんが、それを引用して新聞と本で2回も里見さんの描写を繰り返して読ませたので、四面楚歌というような気分になった。昭和8年になって、ご両人のジンギスカン攻勢とでもいいますか、出版がようやく一段落したので、気を取り直して執筆を始める気になった。志賀さんの2回目の休筆は北京のジンギスカンが遠因だったというのは珍説に過ぎますかね。
 里見さんは旅行に出掛ける前から志賀さんは満鉄との約束を守る気がない、何も書かないかも知れないと感じていたように思います。なにしろ永年の付き合いというか、じゃれ合ってきた仲ですからね。でもね、志賀さんは記憶力がよいから、書く書かないは別にして、里見さんは志賀さんの旅行の記憶をかなり頼りにしていたことが、資料その4の手紙から察せられます。

資料その4

昭和5年12月4日 東京麹町下六番町一〇より〔封書〕
          奈良市上高畑へ

 其後皆さんお変りないことゝ思ふ 當方皆々無事 長
與からいろ/\噂を聞いた
 満支一見春陽堂から出版することになり目下手入中
いつか君から注意された朝鮮烏の羽色のことまた忘れて
了つたがもう一度教へてくれないか 満鐵の癌は鞍山の
鐵工場か 菓子折をこつちのものと間違へた停車場はど
こだつたか 満洲にある樹木のことも注意されたと思ふ
がそれももう一度ジンギスカン料理の炭は何の木を焼
いたものだつたか 以上五件御面倒ながら至急御返事に
あづかりたい もうすぐ校正が出る筈 正月には売り出
す豫定
 善魔も最近中央公論社から出すことに話がきまつた
所で正月號に原稿の依頼は一つもない いづれまたゆつ
くり
    十二月四日          伊吾
 直哉様

 この伊吾だけど、里見さんの年譜を作った紅野によると「『伊吾』は『エゴ』からきたもので『白樺』前史の回覧雑誌時代から筆名にもしていたが、日常の会話もそれで通っていた(36)」そうです。志賀が5つ年上なので気安くそう呼んだのでしょう。これに対して里見は志賀を君と呼び、志賀の葬儀で里見が読んだ弔辞の「結びの一句は『君に伊吾と呼ばれつけた 里見ク』であった。(37)」と紅野は「文学界」に書いています。
 志賀さんの書簡集を読むまで、私は正陽楼のくだりは、時事新報に連載したときと同じだと思っていたのですがね、この手紙を読んで春陽堂から出すとき里見さんが書き換えた個所があるのではないかと気付いた。比べてみたら、ちゃんと2個所あったんです。その違いをスライドで見せましょう。

(かは)柳と、もう一つはなんだつたかの木を(なま)焼にしたものゝ由。(時事新報)

(やなぎ)(にれ)を生焼にしたものゝ由。(春陽堂本)


ぼう/\と焔をあげ、相応煙もたてる具合、今度はまた薪と呼びたくなるやうな、つまりその二つのものゝ合の子なのだ。(時事新報)

ぼう/\と焔をあげ、相応煙もたてる具合、今度はまだ薪と呼びたくなるやうな、つまりその二つのものゝ合の子なのだ。(春陽堂本)

 この上の炭に焼く木、あそこじゃ楊と楡と聞いたぜとでも志賀さんが教えたのでしょう。2人を招待した金井氏か満鉄のH氏がそう説明したのを志賀さんはちゃんと覚えていたのでしょう。難しいのは濁点の有無が違う下の「また」「まだ」です。
 「まだ」だと、見かけは普通の木炭なのに、炎を上げ煙を立てて燃えるので「まだまだ」薪と言わざるを得ないと受け取れる。「また」だと、いやいやいそうではなくて、頭の中では炭でなくて薪と呼んでおり、思わず「またまた」薪と呼びたくなるような代物だという意味で書いた。
 単行本用に読み直したら、やはり「まだまだ」の方が特製木炭を使っていることを強く印象づけるからと、濁点を付けたと私は解釈したのですがね。そんな推敲の結果なんてものじゃなくて、単なる校正ミスを直しただけだったりしてね。真相は「その二つのものゝ合の子なのだ。」。はっはっは。
 志賀さんから5つの答えを書いた手紙をもらうまで10日ぐらいかかったとすると、12月15日前後になります。里見さんはそこで、もう一つ頼みを書き送ったのですね。それが資料その5です。私は、これは志賀さんが休筆するようになる里見さんからのボディブローになったと見るのです。里見さんにすれば、志賀さんは満支旅行について何も書く気がないことを察していた。長い付き合いですからね。だから自分の「満支一見」を単行本にするに当たり、何か書いてくれと頼んでも書くまい。そこで、わざと気楽に書いてくれよと頼んだと思いますね。本気で序文を頼むなら、どうしてその前の薪などを尋ねた手紙に書かなかったのか。変でしょう。

資料その5

昭和5年12月17日  麹町下六番町より〔封書〕
            奈良市上高畑へ

 先日は早速御回答有難う。
 満支一見に序でも跋でも書いてくれる氣はないか。尤
も二十五日までに刷りあげないと新年の初売りに間に合
はない由。
 原稿を頼まれたと思はずに僕に手紙でもくれる氣での
んきに書けたら大至急一筆お願ひしたい。
 挿画、写眞入りでなか/\いゝ本になりさうだ。
 右大至急願用のみ
   十二月十七日            伊吾
直哉兄

  

参考文献
上記(29)の出典は阿川弘之著「志賀直哉」下巻288ページ、平成9年8月、新潮社=原本、資料その4と同その5は武者小路実篤・里見ク編「志賀直哉全集」別巻(志賀直哉宛書簡)154ページ、昭和49年12月、岩波書店=原本、 (30)は梅原龍三郎著「画集北京 梅原龍三郎第三部」154ページ、昭和48年4月、求龍堂=原本、 (34)は同175ページ、同、同、 (31)は近松門左衛門著、木谷蓬吟編著「大近松全集」2巻8ページ、奥付はなく他巻から大正11年〜15年の発行、大近松全集刊行会=近デジ本、 (32)は明治25年3月16日付北海道毎日新聞朝刊2面=マイクロフィルム、 (33)は東京日日新聞社会部編「味覚極楽」48ページ、大倉久美子談「珍味伊府麺」より、昭和2年12月、光文社=館内限定近デジ本、 (35)は谷崎潤一郎著「谷崎潤一郎全集」22巻80ページ、「支那の料理」より、平成元年4月、中央公論社=原本、 (36)は支那満蒙研究会編「支那と満蒙」2号68ページ、昭和11年3月、支那満蒙研究会=館内限定デジ本、 (37)は同3号86ページ、同11年5月、同、 (38)と(39)は文芸春秋社編「文学界」37巻4号16ページ、紅野敏郎「追悼・里見ク」、昭和58年4月、文芸春秋社=原本、

 いまと違って東京から奈良まで3日掛かったとしたら、志賀さんが手にしたのは20日になります。何いってやがる、こんな切羽詰まってからでなく、もっと早く言ってこいという気持ちもあったかも知れませんが、志賀さんは「練習不足」と返事だけはしたらしいが、里見さんの頼みは黙殺した。
 それで里見さんはやっぱり思った通りだとにんまりしたでしょう。「上梓に際して、同行志賀直哉の序文を需めしは、操觚者にして而も筆無精なる彼が、満鐵との約を果さん日の太だ近からざらんことを危ぶみ、せめては責の一片ともなれかし、との予が微衷にほかならざりしも、彼『練習不足』の故を以つて遂に肯ぜざりしは、自他ともに遺憾たるを禁ぜざる所なり。切に彼が『練習』を望む者、豈ひとり予のみならんや(40)」と春陽堂本の跋に書いたのです。
 里見さんは、すでに連載を終えて満鉄への義理を果たし、さらに春陽堂から本にするというのに、志賀さんは何もしていない。ボクシングに例えると里見さん断然リード、重ねて「切に彼が『練習』を望む」とパンチを見舞ったので、志賀さんはがっくりダウン寸前、練習としてしか書けなくなっちゃった。でもラウンドはここで終了、志賀さんはコーナーに戻って休んだ。こうして休筆期間が始まったと私は思うのです。
 普通ならここでおしまいとなるところなんですがね、現場主義のジンパ学としては、もう一つ突っ込む。正門近くの南陽堂の玄関わきの100円本の中でに筑摩書房の「志賀直哉集」を見つけましてね、ろくに中身も見ないで年表代わりに買ったんです。そしたら昭和13年に発表した「続創作余談」」が入っていたんです。それで阿川さんが引用した(4)の箇所の直後に、もう一度「実は里見が精しく書いたので、私は私で、これを小説にして、さう沢山は書けないが、鄭家屯その他、特に興味を持つた数ヶ所を柳堂の満洲見物で書いて見よう思ひ、その序文のつもり」(41)で「万暦赤絵」を書いたといっていることがわかりました。一言一言吟味して書く作家がですよ。「里見が余り精しく書いて了つた為め、自分の書くところが無くなつたやうな気がして」「実は里見が精しく書いたので」と、同じことをすぐ繰り返している。志賀さんは、7年後までも、満支旅行の件は里見さんに完璧に書かれてしまったと思い続けていたんですね。
 瀬戸内寂聴さんが日本経済新聞に連載した「奇縁まんだら」の中で、里見さんを取り上げ、志賀さんから絶交状を突き付けられて発憤した話を書きました。それによると里見さんは「君、小説を書くのなら、本当に強い心を持たなければだめだよ。ぼくなんか、志賀から来た絶交状の葉書一枚を、仕事机の前に貼って、九年間、それをずっと毎日にらんでいた。この葉書に対して、自分は絶対いいものを書いてやると思いつづけて、努力した。それくらいの激しい気持ちを持たないと、小説なんて書けないよ」 と語った(42)そうです。
 大正5年7月のことですが、阿川本によると、里見が中央公論に「善心悪心」を書き「一見して志賀直哉と判る主人公の友人『佐々』が、吉原の引手茶屋で無骨な遊び方をする情景」などを書かれたのを怒り「汝けがらはしき者よ」と葉書に大書して投函。帰宅して里見にもらったものを全部捨て「以来、五年に及ぶ絶交状態がつづいていた。(43)」けれども、里見年譜では、大正13年4月に「志賀および中戸川との和解を取りあつかつた『春の水のぬるむが如くに―この小品を中戸川吉二君に贈る―』(随想)を『随筆』に(44)」発表したとあり、本当に9年絶交し、仲直りしたのです。
 紅野敏郎作成のこの年譜は、大正6年の項に「旺盛な創作ぶりを示し、中堅作家としての地位を確立(45)」と書いてあるくらい、里見さんは書きまくったのですね。
 私は、志賀さんが7年間も満鉄の招待旅行は「満支一見」に書き尽されたと思っていたということは、里見さんの絶交状をにらみつつ書いた9年間と対になる状態、裏返しだとみるのです。「暗夜行路」について阿川さんは「一つ一つを手に取って見れば極めてリアリスティックで美しくて堅固な細片を、上下左右のつながりなどお構い無しに嵌め込んだ、モザイクの名品の如き感じがする。(46)」と評しています。そういう手法の志賀さんをそばで見ていたから、あの場面がここに使われている、この話はあれだと、推理小説を楽しむように読めるのでしょう。
 志賀日記の1月25日の後半は「疲れてかへる、二度の支那料理少々閉口 帰ると佐野来てゐる 邦子もゐる 一寸ゴタツク、面白し、荷作をする。(47)」となっています。これに該当する場面は時事の連載ではS氏とK子だけなのですが、春陽堂本では資料その6のように里見、志賀の4人に変わるのです。

資料その6

 十二時近く帰つてみると、S氏とK子とが、私の部屋に差し向かひで、一人はぷん/\憤り、一人はしくしく泣いてゐるといふ騒ぎ。だん/\聞いてみると、明朝私たちが北京を去るといふので、K子が持つて來た勘定書が氣に入らないとて、S氏が慍り出したのださうだ。初めの話では、容易に枕席に侍しない我儘者の代り、さうなつたらまた金のことなどけち/\云はない、といふやうなことだつたし、K子の來たのは、惚話を云ふわけではないが、私から呼んだのではなく、いつも勝手に押しかけ來たのだといふことを知つてゐるS氏としては、一々の勘定書など出さないでも、こつちでちやんとするだけのことをしてやる肚だつたのが、案に相違したので、すつかりお冠を曲げて了つたのだ。これを聞いて、志賀は志賀で、伊吾のやつ、色男氣取りで、いゝ気持に納り返つてゐたら、ざまをみろ、と云つて喜ぶこと限りなし。手もなく三人上戸だ。私は、まアいゝぢアないか、書附通り払つてやらうよ、と至つて鷹揚にいらせられる。

 「これを聞いて、志賀は志賀で、」というところ以下は里見さんが単行本にするとき書き足した箇所です。三人上戸とは、怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸の3人という意味です。これは小説に使えそうな面白い情景と里見さんもみた。それで志賀さんが「リアリスティックで美しくて堅固な細片」として使えないよう封じる遊びとして、細かく書き足したのではないでしょうか。よく調べるとほかにもありそうで、志賀さんが洗いざらい里見さんに書かれてしまったと思うのも無理ないかも知れません。
  

参考文献
上記(40)の出典は里見ク著「満支一見」ページ番号なし、「跋」より、昭和6年2月、春陽堂=館内限定近デジ本、 (41)は「現代文学大系 第21 志賀直哉集」473ページ、昭和38年12月、筑摩書房=原本、 (42)は平成19年8月18日付日本経済新聞朝刊29面=原本、 (43)は阿川弘之著「志賀直哉」上巻335ページ、平成9年8月、新潮社=原本、 (44)は里見ク著「里見ク全集」10巻89ページ、昭和54年4月、筑摩書房=原本、 (45)は同540ページ、同、 (46)は阿川弘之著「志賀直哉」下巻43ページ、平成9年8月、新潮社=原本、 (47)は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻*ページ、昭和49年4月、岩波書店=原本、 資料その6は里見ク著「満支一見」124ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本

 これまで志賀直哉を取り上げた評論とか卒論はたくさんあるでしょう。私は文学部卒なんですが、あんまり評論などは読んだことがなくてね。その方の知識は非常に乏しいのですが、いまいったように志賀さんの昭和4年から8年までの2回目の休筆期間、阿川さんはこの間に志賀さんは「割に頻々と旅行をしている」とし、その皮切りが満鉄招待の初の海外旅行(48)だというのですが、そうではなくて、満洲に出掛けたために休筆せざるを得なくなったという見方をするのは、私だけでしょうかね。
 休筆といっても、まったく何も書かなかったのは昭和5年だけであって、著作年表を見ると、小説ではありませんが、6年には読売新聞に評論「リズム」を書き、週刊誌などに7本書いているし、7年は大阪朝日新聞に「時代裂」展覧会のことを書いています。だから満洲から戻った年の春ごろ、志賀さんがそろそろ満洲物を書くかなという気分になったころに里見さんの「満支一見」が始まり、機先を制せられた感じで、あれこれ気安く書けくなってしまったのではないかという気がします。
 私がこうしたら、志賀はそうやっていたというように一挙手一投足を里見さんに「満支一見」に書かれてしまったので、何か書いても、あの場面を取り上げていると読者に見破られそうだ。さりとて、まったく普通の小説を書けば、うちからお願いした満洲紹介の方はどうなっているんでしょうかと満鉄に必ず催促されることは間違いない。仕方なしに旅行や日々の暮らしの中から「リアリスティックで美しくて堅固な細片」集めをしていたという見方は成り立たないでしょうかねえ。
 なにしろ、里見さんは「もの珍しいのと安いのとで、なんでかんでも片ッ端からほしくなる。この癖、たうとう旅の終りまでぬけず、すっからかんになれば、すぐ満鐵から借りるという風で、始末におへない」「この買物癖こそ実に今度の旅中の『癌』であつた」(49)と認めるくらい2人は買い物をしています。
 その結果、新聞には載らなかった「貴妃酔酒」の章で里見さんは「またしても旅行中の癌がうづきだすのだが、満鐵から借金をした志賀はまだしも、私の如きは、嚢中すでに乏しく」(50)よだれを垂らすだけだったといい、志賀さんがなにがしか借金したこともはっきり書いてあります。志賀日記にあるお土産のメモによると靴を9足、帽子を7個も買っている。(51)きっと安い革靴を見つけたので衝動買いしたのでしょうが、こういう調子じゃいくらお金があっても足りませんよね。
 南陽堂で買った100円本に評論家の臼井吉見が「人と文学」という解説を書いています。里見と志賀が、同じ材料でどう小説を作ったか、それによってどう取り返しをつけたかは「暗夜行路」の前編がすべてを物語っている(52)と。ですから、その伝で満鉄旅行では里見さんが志賀さんを実名で材料にして「満支一見」という旅行記風の小説を作って仕掛けた、または清算していないと思う分の仕返しをしたと取れなくもありません。
 里見さんは最初から旅行記を合作しようと誘い「旅行記帰つてからでは馬鹿々々しくつてとても書けさうもない 旅行中乗物のなかでも食ひものやで待つてゐる間でも『寺の瓦』式に気軽に書いて了ひたいと思つてゐる(53)」と提案しています。この手紙は封筒がなくて、出発前の12月上旬投函と推定されているものです。「寺の瓦」というのは里見さん、志賀さん、それに木下利玄の3人が明治41年に関西まで出掛け、交替で書いた旅行記でね、もう1回あれ式で書こうじゃないかと呼びかけたわけです。
 でも本心は、そうでなかったかも知れないのです。若いときならいざ知らず、志賀さんがリレー執筆のような面倒なことは嫌だというと読んでいた。それで、わざと強引に志賀さんに一緒に書こうと働きかけたのでしょう。もうゲームですね。
 里見さんは「満支一見」の中で「全行程中、志賀は新聞記者とさへ云へば、私一人に押ツつけて置いて、自分は何喰はぬ顔で、うまくその場をはづして了ひ、あとでいゝ加減にして置けばいゝのに、馬鹿なやつだといふ風な口吻で、やつとその重囲を切りぬけて來た私の労を多とするやうな同情すらもたない。(54)」とぼやいていますが、新聞に書くなら同じと志賀は自分に押っつけて、きっと逃げると里見さんは予知していたのではないでしょうか。
 時事新報が2人の旅行記を載せたいと里見さんに申し入れていたので、その手紙で里見さんは「君は朝日と特別の関係があってほかには出せないのなら一緒に大朝の方へ話をしておいてもいゝし君がそんな面倒なことはいやだと云ふのなら(僕一人なら)時事の方へ承諾の返事をしてやらうと思ってゐる(55)」とプッシュしています。
 どうも志賀さんは、旅行記書きについての態度は曖昧だったけれども、北京見物のチャンスとして「満鉄に招ばれてゐながら、北京を振り出しに奉天の方へ廻つて行かうと主張する志賀もむちやだが、(56)」と大連の項に書かれるくらい張り切っていたのですね。
 それで里見さんは志賀も書くと時事新報に伝えたので、昭和4年の暮れ、時事新報は新年からの読み物として資料その6(1)のように予告してます。左の長編読み物に「支那紀行」の作者は里見ク、志賀直哉、新春夕刊より連載と見えますね。出発前に旅行記は書かないと志賀さんがはっきり伝えていたら、こう堂々と2人を並べた予告にはならなかったと思いますよ。
 里見さんは長春に着く朝ですが「蒼白く、暁光やうやく平原に満ちて、今日はもう八日だ。思へば三日の夕刊から載せられるやうに何分よろしくお願ひします、と時事新報のS氏に頼まれ、承知しました、と、はつきり引きうけて來た、その旅行記なるものはおろか、家を出て以来、まだ私は、葉書一枚書いてゐない。(57)」と焦り始めます。
 長春では1泊のはずだったが、北京の滞在日を延ばそうとする志賀さんにせかされ、朝飯を食べただけで、すぐ奉天行きに乗ったのです。その汽車が「久振りに満鉄の一等車で、お世辞ではないが、ちよつと内地に帰つたやうな気安さを覚える。展望車の文机によつて、旅行記をやりかけてみたが、とても駄目。代りに、あやまり入つた電報を書く。(58)」と降参したんですね。
 一方、志賀さんはその前、12月28日に熊嶽城温泉から奥さんに送った手紙に「毎日/\寝込みを誘ひ出され一時二時まで、起きてゐるので手紙書く暇ない、里見は新聞に旅行記を出す筈でそれが正月三日から出る筈だが、一枚も書けず今日電報で断つた」(59)と書いています。
 資料その7(1)は時事新報が昭和5年正月から各種予告です。特に(2)は夕刊の紙面構成をまとめた表です。これと、いま話した電報を考え合わせると、1月8日に初めて電報を打ったというのは里見さんの脚色で、その前に志賀さんのいう電報を打ち、少し遅れると連絡した。それで時事では海軍中将小林躋造の原稿を用意した。8日に届いた「あやまり入つた電報」は、内地に戻ってからにして―だったのではないでしょうか。
 慌てて中国の内政問題を論じた岸田英治の「南か北か」で埋めたが、そのドタバタのせいか(上)がなく、いきなり(中)からです。(中)は(上)の誤植ではなく、中身の小見出しの番号がからして(上)があったはずなんですが、紙面では見当たりません。
 結局、ピンチヒッター原田東風の「名刀物語」でつなぐのですが、原田は刀剣専門家ではなく「各種商店主人店員苦心談」「東京諸種食客奉公人住込実験案内」といった実用本から「霧隱才藏 眞田名臣」「百々地三太夫 美少年の復讐」といった忍術物までの何でも屋のライターで、刀ごとの挿話を2、3回ずつ続けるスタイルで書かれています。
 「満支一見」の開始予告の掲載は明後日からというのは、翌日が月曜で夕刊は休みになるからです。時事のS記者は、これでやっと肩の荷が下りたわけですよね。

資料その7

(1)時事新報の連載予告

   


(2)元日からの紙面構成
1月1日〜4日付夕刊休み
1月 5日付(日)夕刊1面 新式大巡洋艦の重要性(上)小林躋造
1月 6日付(月)     夕刊休み
1月 7日付(火)夕刊1面 新式大巡洋艦の重要性(中)同
1月 8日付(水)夕刊1面 新式大巡洋艦の重要性(下)同
1月 9日付(木)夕刊1面 南か北か(中)岸田英治
1月10日付(金)夕刊1面 小説・連載記事なし
1月11日付(土)夕刊1面 南か北か(下)同
1月12日付(日)夕刊1面 小説・連載記事なし
1月13日付(月)     夕刊休み
1月14日付(火)夕刊1面 小説・連載記事なし
1月15日付(水)夕刊1面 小説・連載記事なし
1月16日付(木)夕刊1面 原田東風「名刀物語」予告

  名刀物語
       原田東風氏作

我々の祖先が愛惜し尊重して措かなかつた日本刀剣に絡まる
挿話を面白く綴つた物語、それには権威ある考證と興味ある
史実が織り込まれて読者諸君の好評を博することゝ信じます
右明夕刊紙上から連載します
   一月十五日         時事新報社(1)

1月17日付(金)夕刊1面 原田東風「名刀物語」(連載1回目)とお断り

お断り 曩に予告しました里見ク、志賀直哉両氏合筆の「支那紀行」は作者の都合により「名刀物語」完結後に掲載することになりました。(2)

1月18日付(土)夕刊1面 原田東風「名刀物語(同2回目)」
     <略>
3月9日付(日)夕刊1面 原田東風「名刀物語(同39回目)」と予告

   満支一見
         里見ク作
         正宗得三郎画

原田東風氏の「名刀物語」は本日を以て完結、明後日の夕刊紙
上より連載するのは約一ケ月に亘つて満支方面を具さに視察
して帰つた里見氏の巡遊記です。挿絵の正宗画伯は曾て同地
方に遊んだ人、里見氏の才筆と相俟つて興味深い満支風物を
紙上に躍如せしめることゝ思ひます。御愛読を願ひます。(3)

  
  

参考文献
上記(48)の出典は阿川弘之著「志賀直哉」上巻478ページ、平成9年8月、新潮社=原本、(49)は里見ク著「満支一見」20ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、(50)は同125ページ、同、 (51)は志賀直哉著「志賀直哉全集」13巻308ページ、紅野敏郎「後記」より、平成12年2月、岩波書店=原本、 (52)は「現代文学大系 第21 志賀直哉集」508ページ、臼井吉見「人と文学」、昭和38年12月、筑摩書房=原本、 (53)は「志賀直哉全集」12巻318ページ、「昭和4年」、昭和49年4月、岩波書店=原本、 (55)は同153ページ、同、 (54)は里見ク著「満支一見」10ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、 (56)は同11ページ、 (57)は同52ページ、 (58)は同53ページ、 (59)は「志賀直哉全集」13巻179ページ、「昭和5(一九三〇)年」、平成12年2月、岩波書店=原本、 資料その7(1)は昭和4年12月30日付時事新報朝刊6面=マイクロフィルム、 同(2)の1は昭和5年1月16日付時事新報夕刊1面=マイクロフィルム、 同2は同17日付同、小説「名刀物語」の末尾、同、 同3は同3月9日付同、同

 資料その8は2人が大連に上陸した際の記事です。志賀さんはインタビューに里見さんを立てて、語らせたんですな。それで志賀さんは「伊吾新聞記者に話す、此旅、伊吾が主になる風あり、自分は大いに楽なり、(60)」と日記に書き、里見さんは後で自分の談話から大連新聞は色気という言葉を取り出したことを考察して「苦笑するよりほかなかつた。」、満洲日報の遊郭探検は「誇大に吹聴されて了つたのだ。(61)」と「満支一見」に書いています。
 特に同(1)の満洲日報は、里見さんが旅行記は時事新報に載せるけど「志賀も一緒に同紙に書くでせう」と、あえて記者たちの前でウンといわせようとしたけど、志賀さんは大連は暖かいなどと話をはぐらかしてますね。
 こうしたやりとりから察するに、里見さんは大連滞在中に志賀さんの説得を諦めた。さりげなく振る舞いながらも、旅行記は自分独りで書く代わり、敵討ちとして志賀さんがネタ探しに困るくらい詳しく書くぞと決心したと私は見るのです。

資料その8

(1)支那遊廓を
    探険したい
     我が文壇の重鎭たる
       里見志賀両氏來連

予々來連を伝へられて居た我国文壇の重鎮里見ク、志賀直哉の両氏は満鉄鉄道部の招聘に依りニ十五日入港のうらる丸にて飄然やつて來たが、小柄な里見氏は洋服姿で志賀氏は和服の着流しに深山の湖水の様な落着いた眼光を湛へてスモーキングルームにて交々語る
一個月の予定で帰途は朝鮮を廻り
  満鮮各地を  巡遊するつもりですが、ハルピン辺り迄行きます、一ケ月では短かすぎるでせうか、両人共満洲は初めてですが以前加藤武雄君等一行の満鮮旅行談もあり、行かう/\と思ひ乍ら遅延してゐたのを此機会を利して面倒臭がりの志賀を誘つてやつと來たのですがこちらでの行動は一切人任せで着いて見た上でなければ大連に何日滞在するかも分りません、但し一切講演等しない事は最初からの約束で來たのですから唯ブラりと満鮮を観て廻るだけです
里見氏に本年に於ける文壇の
  著しい傾向  は、と問えば
僕は此頃本を読まないのでよく分りませんが矢張り新興プロレタリヤ文学の発達した事でせう併し各新旧文壇の対立云々と言つても結局是も着物の流行の様なもので、幾分時勢に追従する嫌があるが、着物の模様、柄が幾ら変つても畢竟羅紗地を使ふと迄行かないと同様に、文芸評論の立場から言つても文学の評価立脚点が急に変るものではないと思ふ、まあ旅行の閑々には支那の遊郭なぞも大いに探検してみやうと思ひますが、私は旅行記を時事新報に送るつもりです
  志賀も一緒  に同紙に書くでせう
 志賀氏は話を継いで
大連も仲々暖いですね、内地の儘の和服で來たのだし早速支那服を拵へてお土産旁々旅行服にします
と出迎への人に支那服注文を依頼してゐた(写真はうらる丸上の両氏)


(2)わが文壇の重鎭
    里見、志賀両氏相携へ來連
     文壇の傾向『あれは一種の色氣』と
      早速支那服を注文

我が文壇の重鎮里見淳、志賀直哉の両氏は満鉄の招待で二十五日入港のうらる丸で來連したが大和ホテルに入るや早速支那服を註文大いに満洲気分を発揮してゐるが左のやうに語つた
約一ケ月満鮮を旅して北京へも行きたいと思つてゐる、僕■の仕事だから経済がどうの 政治がどうのといふことは全然関係なくまた漫文でも書かうといふ訳だ、文壇■傾向かねあれは一種の色氣だよ■その時世のネ、いいものは何時でもいいのだ。僕らでも時代遅れのやうに言はれてゐるがビクともせぬよ。それよりも大連はいいネ、道路■感じなんか矢張り満洲へ來た気 がするネ■大体冬といふものは一番その土地■生活をつきつめて表現してゐると思ふ。そんな訳で特に冬やつて來たのだ云々なほ両氏は時事新報に発表する由
注 ■は印刷が悪くて読めない字。

 行きはうまく逃げた志賀さんですが、日本に帰る直前、大連に寄ったとき、遂に大連新聞の記者に捕まり、質問に答えています。カメラマンは2人そろった写真が撮れず、12月に大連にきたときと同じ写真をトリミングして使っています。資料その9(1)がそれで、同(2)は満洲日報の記事ですが、こちらは里見さんが一緒にいて語ったと推察されます。
 (1)を読むと、日本文壇は支那の作家に吸収されるような優れた作品を生み出さねばならないと考えているように受け取れます。私は向こう何年か書かないつもりだから、だれか書いてくれというわけでもなさそうでしょう。鄭家屯の路傍の髑髏のことは奥さんへの手紙にも書いている。阿川さんは別の本で「この旅行は氏の初めての国外への旅行であつたし、かなり丹念な日記も書き残しながら、此の旅での経験は『萬暦赤絵』の中にほんの数行書かれてゐるだけで、作品の形にはまとまらなかつた。(62)」と書いていますが、この談話からすれば、志賀さんは満洲関係として少なくとも鄭家屯の見聞は書こうと思っていた。
 同(2)は両人こもごも語ったとあるけど「時事新報に発表するつもり」というから、あらかた里見さんが語り、志賀さんは傍でにやにや、顎でもなでていたんじゃないかなあ。

資料その9

(1)支那の文壇
    日本から吸収時代
     けふ南支の旅から
      來連した里見、志賀両氏

満洲の旅を終へて半月の北平、天津の旅に出てゐた我が文壇の耆宿里見淳、志賀直哉の両氏は二十六日午前十一時入港の
  天潮丸で  帰來した流石に草疲れた身体をヤマトホテルに投じた里見氏は早速ホテル理髪部に足を運ばせ志賀氏はやつと落着いた気持を見せて弗々と印象の数々を語り続けた
北平はしつとりした感じのする都で快よい印象を與へられました、それでも私は奈良に住んでゐる為めか街の建物などにはしつくり來ない点もありましたが仏さんなども失礼かも知れないが奈良ほど傑れたものは見受けられなかつた、文壇も南支那には新興気分が溢れてゐて我国文壇の新しいところを取入れてはゐるが北平では
  新しい  ものも古いものも一体に取入れて之をこなして行く傾向があり周作文、銭稲氏ら著名の人々とも親しく會ひましたが何といつても支那は日本文壇からの吸収時代だと言へるでせう私は動物に興味を持つてゐるので萬寿山で数百羽の鶴が舞ひ降りたこと黄河で渡航船を囲んで夥しい鷲が群れ飛んでゐたことなど物珍らしく感じましたが満洲ではそれに似た印象はありません鄭家屯で路傍に血醒ぐさい頭蓋骨が投出されてゐるのを住民は見返りもしなかつたことなど奇異な感に打たれ
  吉林は  好いところだつた一体満洲では種々と物珍らしく観もし聴きもしたことは多いが親しめられない土地だといふ印象が深くそれに比して平津方面は割合に親しみを深く感じて來ました
と語つた尚ほ両氏は二十七日出帆のばいかる丸で四十日の長旅から帰京することゝなつた(写真右は里見氏左は志賀氏)


(2)気に入つた北平
     立候補の犬養健君の為一肌
       里見、志賀両氏語る

満鉄鉄道部の招聘で旧臘來満した文壇の雄里見ク、志賀直哉の両氏は予て北平天津視察中であつたが二十六日入港の天潮丸で帰連、刺を通じると両氏は交々語る
すつかり北平が気に入つてしまつて長逗留しましたよ、北平は好いところですね、十日間位扶桑館にとまつて色んな方面をグル/\見て来ました、知人はありませんが沢山紹介状をもつて行つたのと案内して下さつた文化協会の林さんのお蔭で満足しましたよ、何れ時事新報に発表するつもりですが議会解散で忙しい目を見なくてはなりますまい、この前には鶴見さんの立候補に引つぱられ、今度は文壇人犬養健氏の為に一肌ぬがなくてはなるまいと思つてゐますよ、あちらでは宣統帝に会つて来ました
因みに廿七日出帆ばいかる丸で帰ると

  

参考文献
上記(60)の出典は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻5ページ、昭和49年4月、岩波書店=原本、 (61)は里見ク著「満支一見」10ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、 資料その8(1)は昭和4年12月26日付満洲日報夕刊2面=マイクロフィルム、同(2)は同26日付大連新聞夕刊2面、同、 (62)は「日本現代文学全集 49巻 志賀直哉集」485ページ、阿川弘之「解題」、昭和35年12月、講談社=原本、 資料その9(1)は昭和5年1月27日付大連新聞夕刊2面=マイクロフィルム、同(2)は昭和5年1月27日付満洲日報夕刊2面、同、

 志賀さんは、久保田さんの「じんぎすかん料理」が単行本「吾が俳諧」の中に入って出た翌年の昭和8年になって、ようやく小説というより随想みたいな「萬暦赤絵」を発表します。そのお終いの方に、眞山孝次という満鐵嘱託の洋画家が満洲旅行への招待を伝えにきたときの話し合いの様子が書いてあります。この眞山ですが、与謝野晶子は昭和3年春、公主嶺を訪れたとき「満鉄本社にゐられる画家真山孝治さんの画題に度度なつた羊の群を、涯もない牧草の上で見ることは出来なかつたが(63)」と1字違いますが、真山得意のモチーフを書いています。
 ちょっと脱線ですがね、駒澤大の高媛教授の研究によると、この真山さんの名前は与謝野さんの孝治が正しく、志賀さんより1つ若かった(64)。つまり同年代だから次に示す旅行の誘いも話しやすかったと思われます。
 資料その10が阿川さんのいう「『萬暦赤絵』の中にほんの数行書かれてゐる」ところです。そのちょっと前に眞山が今行けば、骨董品が値下がりする支那の歳末にかかるので、お望みの萬暦赤絵も安く買えると思うと請け合ったから、自分は乗り気になった。でも一人だけ招かれるのは嫌だ。里見ク、佐藤春夫君などを一緒によんで貰えると好都合なのだがと条件を付けてみたら、眞山はそれならなお結構(65)とOKした。瓢箪から駒というやつです。それで志賀さんは奥さんに「里見や佐藤君が一緒なら大いに気丈夫だ。萬事よろしく頼んで置いて、俺は萬暦の赤絵といふ事にするかな」(66)といったと書いています。俺は陶器の骨董品を買いに行くのであって、はなから満洲紹介は2人に頼むつもりだったと白状しているわけです。
 萬暦赤絵とはどんな陶器なのか、ちょっと気になるので、たまたま東京のサントリー美術館で開かれた「東洋陶磁の美」という展覧会にいきました。陶器の筆箱などがあったのですが、撮影できないので大阪市立東洋陶磁器美術館所蔵の「五彩牡丹文盤」の絵葉書を買いました。裏に「景徳鎮窯 明時代・万暦(1573−1620)在銘 d:38.5cm」と説明があるので、萬暦の赤絵のうちと思うのですがね。志賀さんはこんな骨董をほしがったらしいとスライドで見せたいのですが、どうも著作権問題がはっきりしない。度胸のいいホームページに同じ絵葉書と思われる大皿の写真があるから、検索して見なさい。
 資料その10に引用したように、志賀さんは旅行そのものには大変満足したのですね。だが、肝心の萬暦赤絵は奉天で1点見たきりで終わり、これは完全に当てが狂った。それで志賀さん、満洲については「親しめられない土地だといふ印象」を持ち「里見を正面に立てて、なるべくその背後で小さくなる算段をして」旅をした続きとして、満洲紹介の義務も里見を立てて、自分は背後に回ろう。里見は新聞の外に「一冊の本にしてゐる」んだから、満鐵さん、あれが2人分として十分でしょうとね。
 もっとも阿川さんによると、志賀さんは昭和27年に欧州を3カ月も回ったのに作品には全く現れておらず「氏は相当に怠け者でもあつたが、新しい見聞がすぐ器用に小説に仕立てられるやうな人ではなかつたやうである。(67)」というのですから、志賀さんを招いたのが、そもそも満鉄のお眼鏡違いともいえます。

資料その10

「萬暦赤絵」

<略> 満洲旅行は新聞小説で佐藤君は行けず、里見と二人だけになつた。大連、旅順、営口、奉天、撫順、鐵嶺、長春、吉林、ハルビン、変つた所では鄭家屯、最後に天津、北平、これだけを四十日間に旅した。此紀行は里見が書いてゐる。私が書く餘地のない程精しく書いて一冊の本にしてゐるが、私は鄭家屯を或時、別に書いて見たいと思つてゐる。
 兎に角大変面白い旅だつた。私には身分不相応の大名旅行で、さういふ事に馴れない私は時に恐縮し、時に當惑することもあつた。内で蛤、外では蜆で、かうなると小男の里見を正面にたてて、なるべくその背後で小さくなる算段をしてゐた。尤も他人がゐない時には「乾隆帝になったやうな氣がするよ」などと、大連で調へた支那服で反りかへることもあつた。

  

参考文献
上記(63)の出典は与謝野寛、与謝野晶子著「鉄幹 晶子全集」26巻137ページ、平成20年12月、勉誠社=原本、 (64)は「Journal of Global Media Studies」17・18合併号171ページ、高媛「一九二〇年代における満鉄の観光宣伝――嘱託画家・眞山孝治の活動を中心に」、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部= https://www.hro.or.jp/
list/industrial/resea rch/iri/jyoho/casebook/ 20/jireisyu2020.pdf
(65)と(66)は資料その10は「日本現代文学全集 49巻 志賀直哉集」432ページ、昭和35年12月、講談社=原本、 (67)は同485ページ、阿川弘之「志賀直哉入門」、同、

 志賀さんの日記を見ると、昭和8年6月21日のところに、大変重要なことが書いてあります。それと昭和10年までの間に、ジンパ学として見逃せない事実が書いてありますので、それらを資料その11としました。

資料その11

(1)昭和8年
   六月二十一日 水
   夜明しにて疲れてゐる、
   午后大連の林久しぶりで来る
   重野も来る、二人泊る、
   満洲紀行とか書かなくていゝ事になる、

(2)昭和9年
   二月二十六日 月
   風邪大分よし、書斎に入る
   午后加納来る、夕方若山 濱田来る 午前中村一寸来る
   里見の満支一見を読む。

(3)昭和10年
   一月二十七日 日
   婦人之友山室、濱田妻君と来る、創元社矢部と和田来る、
   午後子供等若山 不二木 小川と富尾。写真をとる。夜今西宅にてジンギスカン料理、皆酔ふ、先にかへる、

(4)昭和10年
   三月三日 日
   珍らしき快晴なれども胃を悪くしてゐる故か、気分勝れず殆ど半病人にてヒル間を過ごす。午后ヒルネ、頭痛、母 中村純一、中村義夫訪問
   夜漸く人心地する、ジンギスカンのアミ届けて貰ふ、夜調べものとジイド

 林来訪から行きますか。この「大連の林」は、志賀日記の昭和4年12月25日、資料その9(2)にある人物に違いありません。その日の「夜林君の案内にて、町へ出、ミカド食堂といふ地下の食堂に会あり、そこへ行く、(68)」を初めとして27日、1月7日、17日、20日、23日の日記に名前が出てきます。里見さんも「H君は、正陽楼から、用があるとて、先に失禮して了つたのだが、どこへ廻つたのやら、吾々が宿へ帰つたときには、まだ部屋はからつぽだつた。(69)」と、すっぱ抜いていますね。「重野」は重野英夫という志賀家に出入りしていた作家志望の当時22歳の青年でしょう。
 この林は招待の見返りに「満洲を紹介する何か記事を書く(70)」約束は反古にしてよいという満鉄の意向を伝えるメッセンジャーだったのですね。志賀が満鉄との約束に縛られて丸3年も新作を書けずにいるというような文壇ゴシップが満鉄のお偉方の耳に入ったのでしょう。
 満鉄としても、大作家を締め付けているといわれるのは心外の至り。もはや時効とした方が、満鉄の将来のPR戦略にもよいと判断したと思いますね。志賀さんはさぞ嬉しかったのでしょう。林を歓待して自宅に泊め、そして「満洲紀行とか書かなくていゝ事になる、」と、しっかり書き留めておいた。
 林来訪から4日後の25日の夜、志賀さんは「久しぶりで書斎(71)」と日記に書いた。満洲紀行のノルマが取り払われたことにより、やる気がむくむく起きたですね。日記によれば7月4日に「6枚書く(72)」から7回「書く」があり、8月5日には「朝から書斎 夜、清書出来る、呑気なものだがさう悪くないと思ふ、『萬暦赤繪』といふ題にした、」(73)とあります。7月4日から書き始めたとすれば33日で書き上げたのですね。
 私は「萬暦赤絵」という小品は、満鐵向けの長めの詫び状と恩赦のお礼とみますね。それからは「休筆の堰が切れたかの如く、つづいて『日曜日』完成し、『朝昼晩』『菰野』の執筆が始まる」(74)と阿川さんは表現しています。「堰が切れたかの如く」書き始めた事実こそ、満洲に出掛けたばっかりに発表できなくなり、休筆状態に追い込まれたとみる尽波説の正しさを示していると思いませんか。
 でも「萬暦赤絵」を発表したところで、はっきり満鉄に対して詫びた形ではない、まだ借りがあると志賀さんは感じていたようです。だから満支旅行から12年もたってから書いた「続創作余談」で、里見が詳しく書いてしまったのでという弁解の前に、もう一度「十年程前満鉄の宇佐見寛爾氏から招かれ、里見と一緒に満洲見物に出かけ、非常な厚遇を受けた。大金の旅費も受取り、そのお返しに、満洲を紹介する何か記事を書く筈だったが」(75)と、出掛けたいきさつと厚遇を説明したのだと思います。ずーっと心の重荷になっていたんでしょう。
 それと、春陽堂から出た「満支一見」を読む気になるまで、もっと時間がかかったことがわかりますね。一緒に帰ってから時事新報で毎日読み、ああこの程度ならと里見さんの脚色振りは知っていたにせよ、春陽堂本をほぼ3年の放置していたのは、自分は何も書かなかった引け目があるから、とても開けなかった。執筆を再開してから、ようやく読んだらほぼ新聞で読んだ通りなので安堵して、思わず一言加えたのかも知れません。

  

参考文献
上記資料その11(1)の出典は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻144ページ、昭和48年12月、岩波書店=原本、同(2)は同214ページ、同、(3)は同338ページ、同、同(4)は同337ページ、同、 (68)は同6ページ、同、 (69)は昭和5年6月14日付時事新報夕刊1面=マイクロフィルム、 (70)は「筑摩現代文学大系 20 志賀直哉集」473ページ、「続創作余話」より、昭和38年12月、筑摩書房=原本、 (71)は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻146ページ、昭和48年12月、岩波書店=原本、 (72)は同148ページ、同、 (73)は同157ページ、同、 (74)は阿川弘之著「志賀直哉」下巻481ページ、平成9年8月、新潮社=原本、 (75)は志賀直哉著「志賀直哉全集」8巻24ページ、昭和49年6月、岩波書店=原本


 さて、休筆問題はそれぐらいにして昭和10年の今西宅のジンギスカンに移りましょう。「春鹿 今西」というキーワードで検索すると「春鹿」という日本酒を造っている株式会社今西清兵衛商店という奈良市の古い蔵元のホームページが出てきます。これが資料その11(3)の日記にある今西宅ね。なぜ春鹿を使ったかというと、研究仲間から志賀日記の今西宅は春鹿の社長宅だろうと教えられたからです、はい。研究仲間を大事にして情報交換を心掛けましょう。持ちつ持たれつですよ。
 今西家は室町中期の書院造りの形を残すので国重要文化財に指定されている今西家書院を所有している(76)奈良の名家なのです。キーワードに志賀を加え「春鹿 今西 志賀」にすると、日本名門酒会公式サイトというホームページが出てくる。そこに鈴木忍氏が書いた日本名門酒会文庫の1冊「春鹿」という本の立ち読みページがあるんですなあ。それで志賀さんが今西家の離れに住んでいて、当主今西清悟氏の叔母や姉が遊んでもらったこと(77)などがわかります。
 北京に行ったときもそうでしたが、志賀さんは昭和13年まで奈良に住んでいました。大正14年4月から昭和4年4月、同じ奈良市内高畑に自宅を建てて移るまで、今西家の離れというか持ち家に住んでいた。つまり店子でした。借りたのは「古家を二軒集めて作った大きな建物」で、志賀さんの前の店子の医師は「玄関を長年患者の待合室に使っていた。(78)」と阿川さんは書いています。
 さっきいった100円本に戻しますが、それは筑摩書房の「現代文学大系」第21巻でね、中に武者小路実篤、広津和郎、それに阿川さんの3人の短文を載せた8ページの「月報5」が挟まっていました。武者小路さんの一文の引用を資料その12にしました。前後を省きますが、志賀さんが書かなかった北京での詳しい話を聞いたといっているんですよ。資料の僕というのは武者小路さんですよ。

資料その12

 僕から見ると、志賀は小説をかくのに実に持ってこいの天分を持っているように思う。志賀の話を聞くと、実によくその場面を見、記憶し、描写で話す。北京のある料理家で飯を食った話を聞いた事があるが、先ずその料理家の見かけが立派でない事を、家の外見から、その家に上ってから、階段の様子、室の有さま、そう言う処から話がはじまり、それから料理を食べる雰囲気まで話をしないとおさまらない。観察に志賀独特の観察があり、雰囲気に実に敏感で、僕なんか素通りする所を実によく見ている。話をそのまま筆記したら一つの好短篇が出来るように思って残念に思った事がある。しかしそれは志賀の日常生活でもある。

 何かの機会に志賀さんは同じように北京で食べたジンギスカン料理の話を今西家の主人に聞かせた。今西さんは大いに興味をそそられた。それで志賀さんから聞いた通り寒い1月を選んでジンパをやったのでしょう。東京では濱の家が3年前から始め、春秋園などいくつかの料理店では食べられましたが、一般家庭で食べた例としてはかなり早い。というのは、まだ鍋が国産されておらず、ジンギスカンは家庭で気安く作れない料理と思われていたころだからです。
 金網使用を勧めてきた糧友会にしても、国産初の鍋による焼き方を説明したのは、この年の5月号ですし、料理之友社が鍋を売り出したのは昭和12年ですからね、今西家のジンパは特製の金網だったかも知れません。しかしですよ、蔵元でリッチなお宅ですから、満洲あたりから取り寄せた鍋だった可能性は十分あります。
 ここは私の仮説ですがね、普通の金網なら「ジンギスカンのアミ届けて貰ふ、」と、わざわざ日記に書いたか―です。餅や魚を焼く金網なら「ジンギスカンのアミ」とまでは説明せず「アミ」ぐらいで済ますでしょう。「届く」「届いた」でなくて「届けて貰ふ」とした書き方には依頼と謝意がこもっている。金物屋の小僧がご注文の品ですと配達にきたのではない。志賀さん側が「アミ」拝借を申し入れたら、今西家のだれかがもってきたからだと思うのです。
 志賀さんは、その「アミ」を使い、自分好みのジンギスカン料理を我が家で試みようとしたのではないですかね。阿川さんによると「直哉は、すき焼の割下も自分で拵える。志賀家のすき焼については河盛好蔵がこれを絶賛している。」くらいで、おでんのつゆや洋風ソースをちょっぴり小皿に採り「味見してもらいに持って行くのが、長年康子夫人の慣わしになっていた。(79)」そうですからね。ただ、その後の日記に志賀家ジンパのことが一切ないのが惜しまれます。
 そこで私は日本名門酒会公式サイトに、今西宅のジンギスカンのことなどを尋ねてみたのです。そうしたら名門酒会本部の方が気を利かせて「春鹿」の今西清悟会長から聞いた話も添えた返信を頂戴しました。それによると、今西家で何回か志賀さんがジンギスカンを食べたと聞いている。煙がすごいので書院の中庭で料理したとか。鍋の入手経路はわからないし残っていない。志賀さんが奈良を去る際に持っていかれたのかも知れない(80)そうです。志賀さんは「アミ」が気に入り譲ってと今西さんに頼み、届けてもらったのかも知れません。
  

参考文献
上記(76)の出典はhttp: //www.harushika.
com/、(77)は http://www.meimonshu.jp
/modules/xfsection/arti cle. php?articleid=180、 (78)は阿川弘之著「志賀直哉」下巻417ページ、平成9年8月、新潮社=原本、 (79)は同293ページ、同、資料その8は「現代文学大系」第25巻月報5の1ページ、武者小路実篤「交友六十年」、昭和38年12月、筑摩書房=原本、 (80)は名門酒会本部情報統括室U氏より平成20年12月受信メールによる

 こうしたことから志賀さんはジンギスカンが好きだったと私はみるわけです。その証拠に志賀さんは敗戦後の昭和21年、ジンギスカンのたれを付ける順序に執着する「怪談」という短編を書いているのです。戦後、戦後といってももう60年を超えてしまいましたがね、志賀さんの全集が3回出ていて、皆この「怪談」を入れています。その「怪談」は昭和の21年、奈良に滞在中、池田小菊さんから志賀さんら6人が牛肉のジンギスカンをご馳走になった話から始まります。
 この池田さんは奈良女子師範附属小学校の元先生でした。大正時代奈良に住んでいた志賀家の家庭教師を務める傍ら、志賀さんから文学の指導を受けた、いわば古いお弟子さんで、昭和13年の芥川賞候補にもなった人です。奈良女子大図書館のホームページに池田小菊展を開いたときの記録と年譜があります。(81)志賀さんの「小僧の神様」を意識したと思うのですが、池田さんの遺稿は「小説の神様」という志賀さんと弟子たちをモデルにした作品(82)でした。小菊展のホームページの年譜には載っていませんがね。
 資料その13は、私が「怪談」の核心とみる個所を抜き出したものです。

資料その13

怪談

<略>一座は六人、その一人の茶谷君が焼き方の順序を兎角、逆にするのを私は気にしてみてゐた。薬味を入れた醤油に肉を浸し、それを鉄網へのせるのが順なのを、茶谷君は肉を先に焼き、それから醤油をつけて食つてゐた。その方が好きで、さうするのか、うつかり、それをするのか、分らなかつたが私は「それは君、あべこべだよ。先にタレをつけて焼かなくちやあ」かう云つて注意すると、茶谷君は「あ、さうですか」と、一度鐵網にのせた肉をはがし、醤油をつけるが、少時すると、又しても、前と同じことをしてゐる。私は二度注意したが、それからはだまつてゐた。つまらぬことだが、一寸気になつた。それが好きなのなら、少しも差支へないが、注意するといつも「ああ、さうですか」と改めながら、直ぐ同じことを繰返すので、私は気になるのであつた。<略>

 続きの粗筋を説明すると、こうしてジンギスカンを食べた日の夜、志賀さんは夢を見た。それは通夜で故人を偲んで5、6人がジンギスカンを食べている。その1人が茶谷君と同じように焼いてからたれを付けて食べていた。すると、遺体の置いてある隣の部屋から「君々、それはあべこべだよ。先に醤油をつけなくちゃ」という声がした。ぞっとして皆で遺体を見に行ったら、顔に掛けた白い布がずれているだけでなく、口に含ませた綿の玉が飛び出して耳のそばに転がっていた。冷たく横たわっている遺体が口を利くなんてあり得ない異常現象です、こりゃー怖い。
 志賀さんが東京の自宅に帰って家族にその夢のことを話し、ちょっと怖いだろうといったけど誰も認めない。次男の直吉さんだけがよくできているといったというのです。そしてね、数日たってから直吉さんが志賀さんに原稿を渡した。初めて見る直吉さんの原稿は「怪談」といふ題で、自分の夢の話を取り込んだ小説だった。死人の声は一座に素人手品師がいて腹話術で話したことにしてあった。
 それで志賀さんは布と綿の玉を忘れている。その男が線香を上げにいったときに細工したことにすればいいとアドバイスしたら、直吉さんはそれがいいやと同意したものの、書き直した様子もなく、小説「怪談」はそのままになってしまったようだ、忘れられてしまった―というのです。
 志賀さんに注意された茶谷君の食べ方は、いま後付けともいわれるごく普通の食べ方ですが、今それは置いといて「怪談」が書かれた経緯を考察します。
 この「怪談」を志賀さんの手紙と付き合わせると、池田さん宅でご馳走になったのは昭和21年6月7日と見られるのです。その書簡などを資料その14にしました。(1)の池田さん宅での牛肉ジンパが志賀さんをして正陽楼の食べ方を思い出させたらしい。志賀さんは上司海雲という人の家、どうもお寺さんらしいのですが、泊っていたので、そこでジンパはできん。それで(2)のように、池田さん宅の物干し場を借りてジンパを開いた。やはりジンギスカンが好きでなければ、こうまではしませんよね。

資料その14

(1)
6月9日 志賀康子宛(東京都世田谷区新町二ノ三七〇)〔封書〕
     奈良東大寺観音院上司方より

 奈良は殆ど昔の奈良のやうだ 鹿が少なくなつた事、スベリ坂に闇市が軒を並べてゐる位が多少変つてゐる程度で、のんびしてゐる。食物の話でムキになるといふやうな事がなく気分大分ちがふ、然し物価東京より安いといふわけではなく米も肉も大体同じだが、只肉など幾らでもある。
 上司君のところで大変気持のいいもてなしにあづかつてゐる。御馳走で食過ぎの腹具合になつてゐる。池田さんの所でも一昨晩ヂンギスカン料理で大変な御馳走になつた、着いた晩は玄ちやも上司君呼んでくれて一緒に食事をした、昨日岡田さんを見舞つたが、大分弱つてゐた、人なつこい調子で玄關で話した、あがれと切りにいつてくれた<略>


(2)
6月27日 志賀康子宛(東京都世田谷区新町ニノ三七〇)〔繪はがき〕
      奈良市東大寺観音院より

 思はぬ長い旅になつた、上司君少しも遠慮要らぬとしきりにいつてくれるので、ゆつくりしてゐる、然し私がゐる爲めに來る客も相當あり、却々大変だ、今日もこれから繪かきさん何人か來る筈、三十日は天平會といふのを此所で開き夜は池田さんの物干で好日會を催しジンギスカンの會をする事にした、此方の負たんは私がさして貰ふ事にした、<略>

  

参考文献
上記(81)の出典は http://www.lib.nara-wu.ac. jp/koho/tenji.html
(82)は尾崎一雄著「尾崎一雄全集」14巻40ページ、昭和60年3月、筑摩書房=原本、 資料その13は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻59ページ、昭和30年6月、岩波書店=原本、 資料その14(1)は同13巻124ページ、同、 同(2)は同135ページ、同

 茶谷君は、チャヤかチャタニか迷いますが「志賀直哉全集」の振り仮名通り「ちゃたに」にします。茶谷半次郎という大阪の人で、大正時代から志賀さんと付き合いがあり、戦時中は空襲で自宅や工場が何度も焼かれ、このころ奈良に引っ越して住んでいたことなどが志賀さんの書簡集から読み取れます。
 私が初めて見た「怪談」の解題はね、資料その15(2)でした。パラルビとは一部だけに振り仮名を付けた文ですのことです。昭和21年11月29日の北海道の新聞、いいですか、北海道新聞じゃないらしい。道内のどこかの新聞に「発表か。」ですよ。もしかすると、本州の新聞かも知れんと怪しんでいる。
 志賀さんのことは何でも調べ尽くされたと思ったら、初めて掲載した新聞がわからない作品があったなんてね。こりゃ面白い。何かといえばジンギスカンを食べる我が北海道の新聞で、しかもジンギスカンのたれを付ける順序と来ている。我がジンパ学の名声を高からしめる上からも、ぜひ見付けなくちゃいかんと奮い立ったのです。
 掲載紙がわかれば、なぜか3人の解題執筆者が示さなかった「多くの修訂」個所がわかる。たれの味とか七輪のことなどを削ったも知れないでしょう。資料その11は3回出た全集の註、解題、後記です。見付けようとした研究者がいなかったのか、少なくとも53年間、初出紙不明のままで過ぎたのです。

資料その15

(1)

註二 昭和二十一年十一月二十九日ノ北海道ノ新聞ト推定サルルモ紙名不詳。
(志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻337ページ、昭和31年1月、岩波書店=原本、)

(2)
怪談

昭和二十一年(一九四六)十一月二十九日の北海道で出ている新聞に発表か。志賀家に残されている切抜きの末尾には「此話面白からず単行本には入れぬ方よし」「二十一年十月中旬大仁ホテルにて書く」とある。パラルビ。単行本には収められていない。新書判全集第十一巻にはじめて収録。その際、多くの修訂がなされた。
(志賀直哉著「志賀直哉全集」7巻744ページ、紅野敏郎「解説」、昭和49年1月、岩波書店=原本、)


(3)
怪談(324)

昭和二十一(一九四六)年十一月二十九日付の新聞に掲載された切抜きが残されているが、紙名不詳。その末尾に、「二十一年十月中旬 大仁ホテルにて書く」とペンで書き入れられおり、また「此話面白からず単行本には入れぬ方よし」とも記されている。
 昭和三十一年一月に岩波書店より刊行の新書判『志賀直哉全集』第十一巻「随筆集三」に、多くの修訂をほどこしてはじめて収録。その巻末の「発表年月日表」には、「発表誌不詳」としたうえで、「昭和二十一年十一月二十九日ノ北海道ノ新聞ト推定サルルモ紙名不詳」という注記がある。

(志賀直哉著「志賀直哉全集」7巻441ページ、宗像和重「後記」、平成11年6月、岩波書店=原本、)

 なぜ紙名不詳なのか、考えました。新聞紙の上端にある日付を付けて切り取った形か、志賀さんが日付を書いたかの切り抜きがある。それに志賀さんが書き込んだこと以外手掛かりはないらしい。すぐ市立中央図書館で昭和21年11月の道新と新北海両紙のマイクロフィルムを見ました。新北海は21年8月から発行していたのです。10月から12月まで繰り返し見たのですが、どちらにも載っていなかった。11月29日という日付を疑いたくなりましたね。
 昭和21年ごろは紙不足で、道新は1行15字で16段組み、それで2ページ、朝刊だけで夕刊はなしです。読みやすくと1行10字15段組みのいまとは大違いで、紙面が真っ黒に見えるくらい詰め込んでいる。だから連載小説の1回分も短いが、挿絵もときどき載せていない。満員電車みたいな紙面に改行なしでも100行を超える「怪談」を1回で載せられたのか。本当に北海道の新聞かと疑いましたね。
 東京の日本近代文学館の志賀直哉文庫があります。著作権継承者の直吉さんが原稿・草稿、未定稿など2088点を寄贈してできた文庫だから、その切り抜きがあるかも知れないと思って尋ねたら、やはり、入ってなかった。まだ志賀家に残っているのですね。では、ずばり直吉さんに切り抜きの裏は読めないかと尋ねたらどうか。直吉さんの住所は「文芸年鑑」なんかに載っているので、この手の質問がわんさと来ていて、いつ答えがくるかわからん。それより初出紙を探す方が早いと私はみましたね。
 敗戦から1年たった昭和21年です。言論の自由が叫ばれ道内各地で新聞社が出来たでしょう。志賀さんに一筆頼むとしても、里見さんみたいに気安くいえませんよ。しかも顔見知りで電話一本で頼める地元文化人と違って、原稿料がケタ違いに高そうだ。そもそも東京に電話するのが大変だった時代です。市外通話には特急、至急、普通とランクがあり、接続料金が違う。最も早くつながる特急で掛けても何時間も待たされた。だから田舎から急いで記事を送るときは全文片仮名の電報というのが新聞記者の常識だったそうですよ。
 遠い北海道の名前も聞いたこともない新聞社から原稿を書いてほしい、原稿料はこれこれでいかがと手紙が届いたとして、我が儘といわれた志賀さんがあっさり引き受けるとは思えない。やはり強力なツテがほしいところですよね。東京駐在の記者が北海道出身の作家と顔見知りで、その作家を介して志賀さんに原稿を頼むことが考えられますが、戦後出来たての新聞社が東京駐在を置けただろうか。
 昭和17年に道内の11新聞が統合して道新が生まれた。終戦後、17年以前のように複数の新聞社が復活したとして、所在地は札幌、小樽、函館、旭川、釧路、帯広あたりがせいぜいでしょう。そうした新聞のうち何社の新聞が図書館などに保存されているのか。それをどこで調べればよいのか―もしそれらがわかっても、現地でなければ見られないとなると旅費がかかる。オール難問です。
 考えましたね。そして名案を思いついた、道立図書館のプランゲ文庫で調べる手です。プランゲ文庫とは何か。日本が太平洋戦争に負けてから昭和24年までアメリカなどの連合軍の占領下にあった。その間、占領政策に反抗する活動などを探るため図書、雑誌、新聞はもちろんミニコミ雑誌や壁新聞みたいな労働組合ニュースまで提出させて、GHQの民間検閲部隊が検閲したのです。個人の手紙まで調べたから、志賀さんの全集の書簡の中に、検閲のせいで遅れて着いたと書いてあるのが何通かあります。著名人の言動には特に注意していたのでしょう。
 昭和24年秋に民間検閲部隊が廃止になり、大量にたまった検閲用の出版物を処分することになったのですが、GHQにいた海軍士官ゴードン・プランゲがあれは歴史的価値があると運動して、自分の所属するメリーランド大学に移管させ、整理してプランゲ文庫と名付けたのです。このプランゲさん、休職中のメリーランド大学の歴史の教授だった(83)そうですから、目の付け所が違いますね。
 いまの説明は国会図書館のホームページの受け売りです。詳しく知りたい人は、Gordon W. Prange Collection で検索しなさい。国会図書館との共同作業などで文庫の中身がマイクロフィルムになり、その北海道関係分を道立図書館が揃えたので、大麻にいけば私も見られるとわかったのです。つまり昭和24年までの道内出版物はプランゲ文庫に残っていて、読める可能性がある。昭和21年11月29日の何新聞かわからんが、検閲されていたら見付かる可能性があるということですよね。
 そこで道立図書館のプランゲ文庫の新聞を検索したら、602件もあるのです。全部見るのは辛いぞと調べたら、日刊の新聞でないものも入っている。たとえば函館経済思想研究会の「天の浮橋」 11号から20号までで1件、フィルム1巻といったケースです。逆に1つの通信社で何巻にも分かれているのもありです。
 とにかく検索で総当たりして、日刊紙と思われる題名の入ったフィルムを選んだら、ちょうど100件だった。でも1巻のフィルムに何種類も入っているので、何々新聞にたどり着くまで、モニターを見ながらフィルム送りしなきゃならんから手間がかかる。3日は通わねばならんと覚悟しました。
 ところが、案ずるより産むが易し、昔の人はいいこといってますねえ。番号順にフィルムを出してもらい、見ていったら18本目で見付かった。初出紙は函館新聞だったのです。ABC順で函館新聞はHなので早い方にあり、しかも創刊号なのでトップにあった。1日で終わって大助かりしました。そこでだ、資料を追加します。これだけは予め見せたくなかったんですよ。はっはっは。いま配るから、ちょっと待った。

資料その16
           


    

 昭和21年11月29日は明治11年の初代から数えて函館新聞という題字では3代目の函館新聞の創刊号が出た日であり、切り抜きりの日付はこれだったのです。記念すべき第1号だからページ建てを倍の4ページとし、第4面に騎士に学芸の2字をあしらったカットと志賀さんの顔写真も付けて楽々収まったことが資料その12でわかるでしょう。その下は一面トップのコピーです。
 題字の左は函館山から見た市街と港の大きな写真、その下に港という字読めるでしょう。ここに西条八十の「港」があります。「いくたびか/大なる、小さなる/のぞみを送り迎えけん、/見えぬ歴史波ふかく/たたみて黙すこの港。(84)」と始まる詩です。3面には政治学者蝋山政道の論文「観念論争より組織建設へ」が載っています。
 ではどういうツテで志賀さんに発注できたのか。キーワード「函館新聞 昭和21年」で検索したら「函館市史デジタル版」が見付かり、この函館新聞は「地元の有力者の出資と『朝日新聞』から新聞作成に優れた人たちと若干の機械や資材の提供を受けるという協力形態」で生まれ、朝日から「比佐友香編集局長を筆頭に報道部、編集部、写真部、校閲部の部・次長などが派遣されてきて紙面作成を指導することになった。(85)」とわかりました。櫻の花を入れ、字体も朝日新聞に似た題字だったわけです。
 志賀さんの日記に朝日のだれだれ君が転勤なったとか、書簡の中にこの青年はうんぬんと朝日宛の推薦状があるくらいですから、志賀さんはもちろん、西条さん、蝋山さんとも朝日新聞学芸部経由で原稿を発注したと考えられます。原稿料も創刊祝いだと朝日が持ったかも知れませんよ。
 では資料その15(2)の「新書判全集第十一巻にはじめて収録。その際、多くの修訂がなされた。」のはどこか。比べてみるとね、字句を書き換えたの5カ所だけ。たれや焜炉のことなんか書いてなかったのです。スライドで見せましょう。

(1)池田さん宅で食べたとき「ビールなど充分にあり、」を「未だそれ程の暑さではなかつたが、夏の夕暮れ、ビールで御馳走は、」と変えて季節感を強めた。
(2)満鉄招待で北京へ行ったので「北京に遊び」と素直に書いたのを、里見とまるで自費で出掛けたみたいに「北京に行き」とした。
(3)ジンギスカン料理がは広まり、料理店だけでなく、家庭にも「それがはいり」を「それがはひり」と旧仮名づかいに変えた。
(4)直吉の小説を掲載しそうな雑誌は「新青年のオール読物だな」の「の」は誤植なので「新青年かオール読物だな」に直した。
(5)「慄然として」の読みを「りつぜん」から「ぞつ」に変えた。

 このころの新聞は行末の次、16字目に句読点がきたとき省略していたのですが、単行本だと1行が長いので新聞で略されたと思われる句読点が2カ所に入っています。その外にですよ、行換えの変更が2カ所あるのです。新聞では池田宅で食べたときの人数説明で「一座は…」から行換えになっていたのをやめて、その前の「ジンギス汗焼である。」に続けたのと、茶谷が手順違いをうっかりやるのか「分からなかつたが私は」での改行をやめ「私は『それは君、…』」とつないだことです。資料でも見えなくもないが、その前後のスライドを作ってあります。はい、こうです。

新聞

私には何年振りかのジンギス汗焼
である。
 一座は六人、その一人の茶谷君
が焼き方の順序を兎角、逆にする

全集

私には何年振りかのジンギス汗焼である。一座は六人、その一人の茶谷君が焼き方の順序を兎角、逆にするのを私は気にしてみてゐ


新聞

それをするのか、分らなかつたが
私は
「それは君、あべこべだよ。先に
タレをつけて焼かなくちやあ」か

全集

それをするのか、分らなかつたが私は「それは君、あべこべだよ。先にタレをつけて焼かなくちやあ」かう云つて注意すると茶谷君は

   行換えが原稿通りでなかったか、新聞を見て気が変わったかのどちらかでしょうが、文章は全く同じでも合わせて新聞の組み方で25行、21%の行が移動したから「多くの修訂」といえるでしょう。たれの味などは元々書かれておらず、私にいわせれば、ホンの少しだね、池田さんへの謝意がわかるよう筆を入れたぐらいだったことが明らかになりました。
 1つ疑問があります。資料その15を見て下さい。(1)の註は簡単すぎて(2)に書いてある「二十一年十月中旬 大仁ホテルにて書く」「此話面白からず単行本には入れぬ方よし」も記されていたのかどうかわかりません。戦後初のこの全集は、各巻カパー裏に編輯同人として尾崎一雄、谷崎潤一郎、長与善郎、梅原龍三郎、阿川弘之、里見ク、谷川徹三、滝井孝作、武者小路実篤、柳宗悦、網野菊、広津和郎(86)の名前が記されています。
 阿川さんあたりが「此話面白からず単行本には入れぬ方よし」というけれど、全集に入れてもいいかと確かめたはずです。それで志賀さんは全集は単行本ではないからいいと言ったか、とにかく函館新聞に載せたままでなく、推敲して収録することを認め、事実いまスライドで見た通り手直ししたのですね。
 では、なぜ「単行本に入れぬ方よし」と書いたのか。少ししか修正しなかった事実からみて、出来の悪い作品の切り抜きを保存していた弁明とは思えません。そのときなにか事情があって、そう書いた。それは何か。そこで私は家庭の事情という仮説を考えました。想像に基づくものだから、まあ話半分に聞いて下さい。もっと調べてレポートにしてもよろしい。私の「講義録に入れる方よし」にしますよ。
 さてと、昭和22年の項に「十二月七日、次男直吉、佐藤福子と結婚。直吉はこの年春より岩波書店勤務。(87)」とあります。大正14年の項から計算すると直吉さんは22歳でした。つまり「怪談」が函館新聞に出た翌年、何カ月か後になるが、直吉さんが岩波書店に入社し、その年の暮れに結婚した。
 志賀さんの書簡をみると9月13日に娘の寿々子さん宛に「そつちに里見の『満支一見』といふ本が若しいつてゐたら帰りに持つて来て貰ひたい」と頼んでいます。(88)このころジンギスカン絡みで何か書こうと思い立ったと私はみるのです。
 私は「怪談」読んでね、正陽楼のことで志賀さんが一番書きたかったのは、肉にたれをつけて焼くところだったと思いましたね。里見さんが「太くて長い竹の箸で、肉を適宜に把つて醤油につけ、金網の上に載せるのだ。ジユウ/\いつて焼ける。滴つた脂が、ボロ/\ツと焔の舌をはいて燃えあがる。ほどよく焼けたところで、金網の上からいきなり口へ持つて行く。――と、かういふ順序なのだ。(89)」と描写した情景です。
 正陽楼のシーンは里見さんに完璧に書かれてしまったけど、機会があったら食べ方にこだわった自分なりのジンギスカンを書きたいと志賀さんは思っていた。そこへ函館新聞向けに何か100行ぐらい書いてほしいと頼まれた。じゃジンギスカン、そうだ、奈良で見たあの夢だと決めたのでしょう。里見さんの「満支一見」に目を通そうとしたのは、似た表現表を避けるためでしょう。そして里見さんと一緒に伊豆のホテルに泊まって「怪談」を仕上げた。
 奈良の池田さん宅でジンギスカンをご馳走になったことから始まり、茶谷という実在の人物が出て来て、さらに志賀家の食卓で怖い夢の話を家族に聞かせたとまで書いたのだから、直吉さんが「怪談」という小説を初めて書いたという部分は虚構であったとしても、志賀作品に詳しい人々は淡々と書いた実話と受け取りそうですね。
 どこの新聞社でも寄稿者に原稿の掲載紙を必ず送りますが、函館新聞も「怪談」を載せた創刊号を送ったのですね。だから切り抜きが残っているのです。志賀さんは「怪談」を読み返して、はっとした。筆が滑ったことに気付いたと思います。この作品は、気まぐれにせよ直吉さんが作家である父親に初めて自分の小説原稿を見せた記録になると気になりだした。広津柳浪と和郎のように親子二代なったらいいけど、そうならなかったら後々直吉さんは小説家になれなかった息子といわれるとね。
 そこで志賀さんは、そういわれないよう直吉さんをうんと堅い仕事に就かせようと考えた。一方、岩波としては敗戦後の出版事業の立て直しのためにも、平和問題などで発言していた志賀さんと緊密な関係を保ちたかった。志賀さんにすれば直吉さんの岩波入りは小説家にならなかった堂々たる理由になるし、失礼な言い方だが、岩波にすれば志賀さんの人質を頂き、ウィンウィンになるんですな。
 「怪談」を全集に入れた昭和31年は、直吉さんが岩波に務めて8年後。直吉さんはバリバリ仕事をこなしていた。志賀さんとしては、息子の将来を懸念して、切り抜きの余白に「此話面白からず単行本には入れぬ方よし」と書き入れていたけれど、直吉さんが僕は岩波で働いているのだから「怪談」のことは気にいなくていいといった。もしかすると面白いから全集に入れるよう勧めたかも知れません。それで志賀さんは安心して筆を入れ「怪談」は日の目を見たのでしょう。直吉さんが出てくる個所をまったく修訂していないことは「怪談」は、ぜひ全集に入れておきたい作品だった証拠なのだ―とね。
 いま話したことは私の仮説ですが、まんざら見当はずれでもないようなのです。阿川さんの「志賀直哉」の「徳不孤」(トクハコナラズ)という1章に、志賀さんが若かりしころの女性関係を「克明赤裸々に綴った(90)」日記を全集に収めようと、岩波側がいろいろ苦心した話が書いてあります。
 細かいことは省きますが、阿川さんは岩波書店の1室をあてがわれ、直吉さんは「岩波側の志賀全集専従編集者として(91)」共同作業をしたとあります。そして若き日の日記の掲載を巡り、志賀さんが「全集の発行を取り消すかも知れない(92)」と岩波の小林勇さんが覚悟したくらいの大問題になり、直吉さんはむずかしい立場になったが、私情を押さえて編集者の任務を無事果たした。
 それに比べると「怪談」は月とすっぽん、うんとスケールが小さい。無視、何も書いてありません。阿川さんのノートによれば谷川徹三、滝井孝作、尾崎一雄、網野菊さんが出た編集会議で「発表誌不明のものについて協力を乞う(93)」とお願いしたけれど、皆さん売れっ子で忙しい。誰も探さなかったのですなあ。
 この「怪談」は函館新聞のほかにね、中京新聞、九州タイムズ、神奈川新聞と3つの新聞にも掲載されていたのです。「志賀直哉全集」に載ってから半世紀、志賀文学の研究者の方々も探さなかったようで、まさに「怪談」だねえ。はっはっは。
  

参考文献
上記(83)の出典はhttp://www.ndl.go.jp/ jp/data/kensei_shiryo/ senryo/Prange.html (84)は昭和21年11月21日付函館新聞1面=マイクロフィルム、 (85)はhttp://www.city.hakodate. hokkaido.jp/soumu/hensan
/hakodateshishi/tsuuse tsu_04/shishi_06-01/ shishi_06-01-06-02-01.htm 「通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み」、 (86)は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻表紙カバー左端、昭和31年1月、岩波書店=原本、 (87)は同14巻398ページ、昭和49年8月、岩波書店=原本、 (88)は同19巻326ページ、平成12年9月、同、 (89)は里見ク著「満支一見」108ページ、昭和58年2月、かまくら春秋社=原本、 (90)は阿川弘之著「志賀直哉」下巻312ページ、平成9年8月、新潮社=原本、 (91)は同313ページ、 (92)は同322ページ、 (93)は同319ページ、


 少し、その話をしましょう。私は犬棒といっとるんだが、暇さえあればインターネットで思いついたことを検索します。犬も歩けば棒に当たるということわざを知ってますね。古い「角川国語辞典」は先に「出歩いて思わぬ幸運にあう(94)」を挙げているが、私の犬棒はそれだ。Googleで思いついたキーワードを2つか3つ組み合わせて検索すると、1つでは出なかった思わぬページが出てくることがある。
 私はね、この犬棒でね、奈良女子大の弦巻克二教授が「怪談」掲載した昭和21年12月の中京新聞を見つけたことを知ったのです。キーワードやURLは忘れちゃったが、私の函新発見より4年も早い。すぐ函新創刊号の「怪談」が志賀家に残る切り抜きの日付け、昭和21年11月29日と一致するので初出紙だと思うが、中京新聞はどうでしょうかと弦巻先生にメールでお尋ねしました。それでね、日付が合致すれば、函館新聞が初出だといえると思う(95)という手紙を添えてね、弦巻さんが論文を載せた奈良女子大学国語国文学会編「叙説」34号を送って下さった。それで詳しい発見の経緯がわかったのです。
 弦巻さんと吉川仁子氏による論文「池田小菊関連書簡補遺・その他」によると、いまさっきいった池田小菊さんの遺品の中に「怪談」の切り抜きを貼り付けたノートがあった。裏がめくれるので見たら「丹羽文雄の『十字路』の六十九回と七十回が掲載されている。」ことから、昭和21年12月9日と10日発行の中京新聞と特定できたそうです。
 「全集」と比べると、現代仮名づかいになっているほか「改行の相違もあり。形式的には大きく相違するが、内容的には『全集』「後記」がいうように「多くの修訂」があるものではない。「中京新聞」のものが、「昭和二十一年十一月二十九日付」の「北海道ノ新聞」の改訂、再掲載の可能性もあるが、仮に再掲載としても、発表時の近接から考えて、「昭和二十一年十一月二十九日付」が、志賀の手書きだとすれば、それは原稿を送った日付である可能性もあるが、如何なものであろうか。
(96)」と書かれていました。
 再掲載にしても、函館新聞が自分のところの創刊号用に書いてもらった「怪談」を、どうぞ、そちらでもお使い下さいと中京新聞に送るとは考えにくい。それでまた犬棒をやったら、いいヒントが見つかったのです。一橋大学機関リポジトリというサイトにあった「占領期における地方新聞の軌跡 ―『中京新聞』の創刊をめぐって―」という井川充雄氏による研究論文です。ジンパ学に関係することを要約するとね、終戦後「大きな新聞社がシェアを伸ばしたり,夕刊の代わりになるものとして,別会社を新興紙として」設立し、印刷の委嘱、人員の派遣、資金の援助などを行った。朝日新聞は神奈川新聞、夕刊新東海(名古屋)、中京新聞、都新聞(京都)、函館新聞、九州タイムズ(福岡)、香川日日新聞、神港夕刊(神戸)、大阪日日新聞の9紙と協力関係を結んだ(97)というのです。
 つまり「函館市史」のいう通り、朝日あっての函館新聞だったから、まだ発行もしていないのに志賀さん、西条さんといった東京の有名作家などに原稿を発注し、載せることができたのですね。中京新聞も同じく朝日傘下にあったのだから「怪談」を載せることができたはずなのに、完全な同文ではないのはなぜか。
 井川論文には「『中京新聞』の紙面の特徴」によると、紙面の1割前後の面積を文化欄にあて「社内外の作家や文化人・知識人によって書かれた評論やエッセー等が多く掲載された。特に初期には,この傾向が強かった。(98)」とあります。中京に限らず協力関係を結んだ9紙からこうしたリクエストがくるので、函館新聞用だった「怪談」を中京新聞など朝日が後押ししている地方の新聞にも載せたいが、と志賀さんに持ちかけ、なんとか了承を得た。それで11月21日に内閣告示されたばかりの「現代かなづかい」に書き換えた「怪談」に、志賀さんがいささか手を入れて協力関係各社に送ったことが考えられます。
 それから名古屋の中京新聞が奈良市内にも配達されていたかどうか―です。県立、12市立、12町村立図書館、5公私立大学附属図書館のいずれにもないことから、奈良県内では販売されなかったと思われます。ただ井川論文によると、中京新聞の投書欄の投稿者の住所などから判断すると「愛知・岐阜・三重・静岡・滋賀・長野の6県」、即売分として「むのたけじが,『神戸付近まで駅売りに出さねばならなかった』と書いている。この言葉通りだとすれば,『中京新聞』は,京都府,大阪府,兵庫県などても販売されていたことになる。(99)」そうだ。根拠はないけど、池田さんは奈良女高師の付属小学校の先生だったから、名古屋周辺にいた教え子が先生の名前が出ているからと送ってくれたというのはどうかなあ。文化欄を読みたくて池田さんが郵送で購読していたという見方より、ありそうでしょう。ふっふっふ。
 ともあれ函館新聞と中京新聞の「怪談」掲載はわかったけれど、残る7紙はどうなのか。ジンパ学としては放置できない課題なので、国会図書館など東京では調べようがなく、かつ掲載の有無調べだけのために行きにくい図書館が原紙、マイクロフィルムを所蔵している場合は、リファレンス担当の方々にお願いして昭和21年12月と22年1月の紙面に掲載されているかどうか確かめてもらいました。資料その17が全9紙の調査結果です。◎は所蔵図書館の調査、○は私が出掛けたりして調べた分で、神奈川新聞と九州タイムズも載せていたことが判明した。これまで講義のおしまいに「怪談」にはもう1つ課題が残っているといってきたのは、この掲載確認のことだったのです。

資料その17

○神奈川新聞は国会図書館で掲載を確認した。
 掲載日は昭和22年1月8日と9日朝刊2面

◎夕刊新東海は名古屋市鶴舞中央図書館から掲載なしと回答を得た。

◎中京新聞の掲載は弦巻氏が発見、記事全文は名古屋市鶴舞中央図書館にコピーを依頼して入手した。
 掲載日は昭和21年12月9日と10日朝刊1面

◎都新聞は京都府立図書館から掲載なしとの回答を得た。

○九州タイムズは国会図書館で掲載を確認した。
 掲載日は昭和21年12月日朝刊1面(全文)

○香川日日新聞は四国新聞のマイクロフィルムにある香川日日新聞時代の一時期(昭和21年11月20日から22年1月末まで)を国会図書館で閲覧して掲載なしを確認した。

◎神港夕刊は兵庫県立図書館から掲載なしとの回答を得た。

○大阪日日新聞は大阪市立図書館で掲載なしを確認した。

◎函館市中央図書館には函館新聞の原紙でプランゲ文庫フィルムでは不鮮明な字の確認を依頼して回答を得た。
 掲載日は昭和21年11月29日朝刊4面(全文)

  

参考文献
上記(94)の出典は久松潜一・佐藤謙三編「角川国語辞典新版」73ページ、昭和54年1月、角川書店=原本、 (95)は平成22年6月17日付の弦巻克二氏の手紙より、 (96)は奈良女子大学国語国文学会編「叙説」34号92ページ、平成19年3月、奈良女子大学国語国文学会=原本、 (97)はhttp://hermes-ir.
lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstre
am/10086/5907/1/kenkyu017
0200010.pdf
(98)は一橋大学大学院一橋研究編集委員会編「一橋研究」17巻2号6ページ、井川充雄「占領期における地方新聞の軌跡 ―『中京新聞』の創刊をめぐって―」より、平成4年7月、一橋研究編集委員会=原本、 (99)は同15ページ、同

 函館新聞の「怪談」は1行15字で114行あります。中京、九州は同じく1行15字だが、神奈川は1行14字ですし、中京と九州は1字下げという1行14字にしている箇所があるなど組み方が違っています。それで函館の1行15字組みに合わせて添削と現代仮名づかいの違いを調べてみました。神奈川が19字削った箇所が最も違いが大きいので、そのあたりを判定符号付けのサンプルとして資料その18で示しました。
 並べた順は上から函館、中京、神奈川、九州、一番下が「志賀直哉全集」の「怪談」です。使った符号を説明すると、Ωは段落先頭の1字下げ、Qはその削除で1字下げなし、=は句読点削除、〜は句点の読点変換、&は読点挿入、×は1行の途中での改行、*は現代仮名づかい変換、$は漢字変更、¥は漢字の平仮名変換、□は標本の1字削除、それを評価では>で現すのですが、資料その18では14字削除、5字削除と書きました。
 函館では「此の話をして聴かした。そして『どうだ、一寸可恐いだらう』と言つたが、誰も可恐いと言つた者はなかつた。」だけど、神奈川は「此の話をしてきかした。そして、だれもこわいといつた者はなかつた。」と縮めたことがわかりますね。
 それから当時は1行15字なら16字目、14字なら15字目に句読点がきたときは略して改行していたので、それは|で現す。神奈川に1つあるでしょう。ここにはないけど函館が|のとき、他3紙で読点挿入ならA、句点挿入ならZとして違いを記録しました。

資料その18

 東京へ帰つて、私は食卓で、皆 Ω
東京へ帰つて、私は食卓で皆   Q=
東京へ帰つて、私は食卓で|皆  Q|
東京へ帰つて、私は食卓で皆   Q=
 東京へ帰つて、私は食卓で、皆 Ω        +50

に此の話をして聴かした。そして
にこの話をしてきかした、そして  ¥¥〜
にこの話をしてきかした。そして  ¥¥
にこの話をしてきかした。そして、 ¥¥&
に此の話をして聴かした。そして

「どうだ、一寸可恐いだらう」と
「どうだ一寸可恐いだろう」と  =*
□□□□□□□□□□□□□□  14字削除
『どうだ一寸可恐いだろう』と  =*
「どうだ、一寸可恐いだらう」と           +51

言つたが、誰も可恐いと言つた者
云つたが、誰も可恐いといつた者  $¥
□□□□□だれもこわいといつた者 ¥¥¥ 5字削除
いつたが、誰も可恐いといつた者  ¥¥
言つたが、誰も可恐いと言つた者

はなかつた。直吉だけが「うん、
はなかつた。直吉だけが「うん、
はなかつた。直吉だけが『うん、
はなかつた。直吉だけが「うん、
はなかつた。直吉だけが「うん、
                   31     +52
一寸よく出来てゐる」とほめてく
一寸よく出来ている」とほめてく *
一寸よく出来ている』とほめてく *
一寸よく出来ている」とほめてく *
一寸よく出来てゐる」とほめてく    32     +53

れた。×
れた。
れた。×
れた。
れた。                33     +54

 資料その18の範囲外では、もう少し種類がいります。読点の句点変換はH、助詞などの平仮名書き換えは#、「落ちはいいが」を「落ちはいゝが」と変えたらゝ、函館と異なる改行は●、言い換えは1個所に付きW1つ、平仮名1字の挿入は+、漢字挿入も1字ごとに?などと符号を付けて数えました。口で言うのは簡単だが、やって御覧。資料その18でわかるように114行掛ける5、570行を見ているとね、途中で判定基準がこんがらがってくる。3日もかかった分析結果が資料その19です。これは函館の初出文との違いであり、全集との違いではありませんよ。
 函館市立図書館にはマイクロフィルムで読めない字の確認をお願いしました。24行目から27行目にかけての「その一人の茶谷■の焼き方の順■を兎角、逆にするのを■は気にしてみてゐた。」の3字は、君と序と私と察せられますが、念には念を入れて見てもらったのです。
 難題は52行目の「お通夜のところだ。死■の寝かしてある部屋の次の間で、」の死の次の字。印刷が悪くて原紙でも字が見えないとわかりました。「全集」では「死骸」ですが、3紙はそろって「死人」なので、多数決じゃないけど「人」と見ることにしました。志賀家の切り抜きも、この1字は見えないはずで「全集」に収めるとき、志賀さんはぞっとさせようと「死骸」という言葉にしたことが考えられます。面白いのは、函館は肉をのせるのは「鉄網」だったのに、3紙は「鉄鋼網」となっています。中京は「はがねあみ」に「かうあみ」と振り仮名を付けているから誤植じゃない。現代仮名づかいの文章に旧仮名づかいのルビはおかしいが、デスクが思わず入れちゃったんだろう。鋳物ではない鍋という意味でしょうか。
 神奈川新聞が少し削ったり「支那」を「中国」と言い換えたり「饗応」を「もてなし」、「醤油」を「しようゆ」と平仮名書きにするなど、かなり果敢に手を入れたため「怪談」114行のうち3紙が一致するのは62行、54.3%でした。資料その18の下の方に31、32、33とあるのは、3紙の表記が一致した行の番号です。
 中京と九タイの2紙だけならほとんど句読点の有無ですから114行中83行、72.8%と一致率が高まります。30番台の右にある+50から+54が一致した行番号です。中京と九タイの現代仮名づかいへの書き換え字数がどちらも42であり、神奈川も14字削除がなければ「だろう」が生きて42と同数だったことから、同文を送信したと考えられます。
 また函館と「全集」とは4行目の「ビールなど充分にあり」を「未だそれ程の暑さではなかつたが、夏の夕暮れ、ビールで御馳走は」と書き換えた1カ所を除けば、非常に近い。そこを字詰めすると1行増となるので115行とすると、そのうち106行、92.1%が一致します。勿論「全集」は「鉄網」ですよ。

資料その19

  中京 神奈川  九州  合計
* 42  41  42 125 現代仮名づかい変換、
¥ 16  27  21  64 漢字の平仮名変換
> 12  38  12  62 1字削除
= 18  22  19  59 句読点削除
#  9  11  10  30 助詞などの平仮名書き換え
Q 10   6  11  27 段落先頭の1字下げの解消
|  6   2   6  14 行末での句読点省略
ゝ  5   4   5  14 反復する平仮名2字目のゝ変換
&  2   8   3  13 読点挿入
〜  3   2   3   8 句点の読点変換
●  4   4       8 函館と異なる改行
$  4   1   2   7 漢字変更、當→当、円→圓など
W  1   4   2   7 言い換え箇所数
+  2   2   2   6 平仮名の挿入
V      5       5 会話の1字下げ
K  1   2   2   5 平仮名の漢字変換
A  2   1   2   5 函館が|のとき読点挿入
?  1   1   1   3 漢字の1字挿入
Ω  1       1   1 段落先頭の1字下げ
H          1   1 読点の句点変換
Z      1       1 函館が|のとき句点挿入

計139 181 145 465

 はい、志賀さんの「怪談」は、満洲引き揚げ者や中国戦線からの復員軍人たちにジンギスカンの味を思い出させたり、小谷さんの言葉を借りれば、多くの読者を「垂涎三尺鼓舌して止まざる」状態にしたことが想像されます。
 ジンパ学にとってより重要なことは、志賀さんたちも北京で食べたジンギスカン料理が「その後日本にも伝はり、料理屋ばかりでなく家庭にまでも、それがはいり、現に私の家でも肉を焼く、円く中高になつた鉄網を誰かに勧められて買つてある筈だ。(100)」というその志賀家の鍋の行方です。
 私は直吉さんあてに初出紙は函館新聞でしたと紙面のコピーを付け、それから「怪談」にジンギスカン鍋があるはずと書かれているが、いまもお持ちでしょうかと手紙を送ったのです。ややしばらくして、直吉さんの息子さん、志賀さんから見て孫に当たる方から「お尋ねの鍋は残っていない」と電話がありました。
 もしあったら当然ロストル型のはずですから、ジンパ学指定重要文化財第1号として北大総合博物館に陳列してもらうつもりだったのですが、實に残念。「残念だったらまたコンセ」は小樽商大の応援歌ですがね。それでまた、ロストル鍋よいずこ、どっかに残っていないかとひたすら探しておるのです。
 昭和26年6月に志賀さんは札幌まで来ています。月寒では「月寒十五年」を書いた釣谷猛さんの案内で緬羊を見たりしたけれど、ジンギスカンを食べたと日記にありません。北大では中谷さんの案内で低温研究室に入ってみた(101)ことを記しています。ああ、それからいまいった釣谷さんがいたころの月寒の放牧風景などが、独立行政法人農業・食品産業技術総合研究機構北海道農業研究センターのホームページにあります。長い名前ですからね「釣谷猛所蔵」でググるとよろしい。「photo」でセピア色の写真が見られますよ。
 昭和34年、作家の瀧井孝作が芸術院会員に選ばれ、翌年2月、東京の二子園別館の広間で季刊誌「素直」の同人会を兼ねた就任祝いの会が開かれ、長年の親友である志賀さんも出席した。二子園はそのころバーベキューで売り出していて、コックが肉や野菜を次々焼いたんですな。「広間には煙抜きが出来ていたが、間に合わず、もうもうと煙か立ちこめた。志賀さんは、昔、北京の正陽楼で、冬のさ中、その吹きさらしの中庭でジンギスカン料理を食べた時のことを、楽しげに話された。その時も、もうもうとひどい煙だったという。志賀さんは、ビールはひと口、酒も三、四杯しか飲まれなかったが、健啖でよく食べられた。(102)」と作家の浅見淵が東京新聞に書いています。正陽楼で食べてから30年たってます。「怪談」といい、このエピソードといい、志賀さんは本当にジンギスカンが好きだったんですねえ。
 里見さんは取り立ててジンギスカンのことは書いていないようですが、里見家ではちょいちょい食事の場所を変えるそうで、庭にも2カ所、食卓がある。片方は日傘の下の円卓。「もう一つは木蔭に据ゑた直径三尺、高さ一尺二三寸の石卓だ。元は製紙業者が楮などの繊維を擂り潰すのに使つた石臼の片輪とか。心棒を貫いた径一尺あまりの穴があるを幸、そこの中段にロストルを掛けて粗朶を焚くか、鉄火鉢(かなひばち)を載せて炭火にするか、材料次第で、ジンギスカン鍋なり、鉄板なりで獣肉の焙焼や天麩羅が出来るし、また金網で、例へば秋刀魚、鰮の類の、油煙を揚げる魚も焼きながら食へる。これを要するに、決してまづいとは思はぬわが家の料理を、いやが上にもうまく食はうといふ食ひしんばうの現れ、そのための手数と準備なのだ。それほど私は『食ふ場所』に重きを置いてゐるわけ。(103)<略>」と里見さんは自慢しています。2人の面白い違いですよね。
 いま北京にある正陽楼は国営で、名前は同じでも、志賀さん、里見さんはじめ日本人客が訪れた正陽楼とは違います。かつての正陽楼は昭和17年に廃業したと伝えられています。その事情などは別に取り上げますが、あっ、時間が過ぎましたか。
 シメの脱線だが、昭和14年にね、三升家小勝という落語家の通夜の真っ最中に「今夜はほんとうに有難てえ、こんなにみんなに集まつてもらつて、俺はこんなに嬉しいことはないよ…」と棺桶から小勝の声がした。驚いて逃げだそうとしたら、お棺の後ろから物まねの鈴々舎馬風がエッヘッヘと現れた(104)という都新聞のこの記事、ちょっと「怪談」に通じるものがありますね。次は久保田万太郎の「じんぎすかん料理」についてです。
 (文献によるジンギスカン関係の史実考証という研究の性質上、著作権侵害にならないよう引用などの明示を心掛けて全ページを制作しておりますが、お気づきの点がありましたら jinpagaku@gmail.com 尽波満洲男へご一報下さるようお願いします)

  

参考文献
上記(100)の出典は昭和21年11月21日付函館新聞4面=マイクロフィルム、 (101)は志賀直哉著「志賀直哉全集」11巻717ページ、昭和48年12月、岩波書店=原本 (102)は浅見淵著「浅見淵著作集」3巻283ページ、「早春記」より、昭和49年11月、河出書房新社=原本、底本は昭和35年3月「東京新聞」 (103)は(甘辛社編「あまカラ」50号26ページ、里見ク「食ふ場所」より、昭和30年10月、甘辛社=原本、 (104)は昭和14年5月28日付都新聞朝刊7面=マイクロフィルム